日出づる国の、御旗


2018/7/9

日出づる国の、御旗

 
W杯で日本代表に言及する時、時々目にするのはこの「日出づる国」という形容詞である。 とりわけイタリアやスペインなどの南欧においてその傾向がある様に思う。
あるいはこれは、マルコポーロ以来の「黄金の国ジパング」日本に対する形容なのかもしれない。
ともあれ日本には「日出づる国」という形容がヨーロッパにおいては、わりと付きまとうのである。
 
 
この言葉はかつて、聖徳太子が随の皇帝に対して親書を送った時に用いられた文言として日本でも知られている。
その言葉には大国随に対して、小国日本のプライドが窺えるのである。
 
その「日出づる国」の根拠は、いくつかある様である。
例えば、極東の中でも最東北に位置する国が日本である、という物理的な問題。世界で一番初めにその日の太陽が出るのが極東アジアの日本なのである。
近年はオセアニアの国が認められ、その物理的なポジションは微妙になりつつあるが・・。
しかしまぁ、歴史のあるヨーロッパにおいて日本はやはり、極東の国日出づる国なのである。
 
更にまた、「黄金の国JAPAN」なのである。
太陽のまぶしさはやはり黄金の輝きに通じるのであろう。
この言葉は、金の産出が由来しているように私は想っており、それは江戸時代初期にキリスト教の宣教師が、バチカンに送った蝦夷の国松前藩についての報告書が原因であったように私は思っている。(ご興味ある方は『蝦夷金山と甲州金山衆』を参照ください)
 
 
日本を象徴する国旗もまた太陽であり、日章旗である。
日の丸と君が代に関しては様々な思いや意見があるから、その点についてはここでは敢えて触れない。私自身は神道を尊重するが、民族主義者でないからである。
 
 
話は変わるがこの週末私は山梨県の甲州市を訪ねた。
いつものように安田義定公の痕跡というか、足跡を訪ねたのである。
そして今回は甲州市の市街地を遡り、大菩薩峠に至る途中の古刹「雲峰寺」を訪ねた。
 
寺の周囲は針葉樹に囲まれた山峡の山間地である。8世紀の中葉に行基が開山した歴史ある寺であるという。
私はその寺の創建から3百年近く後にこの地に領主として生きていた、義定公の痕跡が何か残っていないだろうかと、そう思って訪ねたのである。
 
 
その寺の宝物殿に件の「日章旗」が納められていたのである。
 社伝によれば、武田勝頼が徳川・織田軍に追い詰められ自刃する際に当寺に、甲斐源氏伝来の御旗「日章旗=日の丸」を、奉納したという事である。
 
その日章旗は甲斐源氏の始祖である新羅三郎源頼光が、父親の頼義より受け継いだものらしい。と同時に甲斐源氏伝来の宝物「御旗、盾無し」の「御旗」という事に成るらしい。
かつて神功皇后が朝鮮新羅を征伐する際に、大分の宇佐八幡宮に奉納した御旗であると言い伝えられているモノらしいのだ。
 
その「御旗」はとても存在感があった。
御旗の一部しか残っていなかったが、それでも存在感があった。
 
多分絹織物によって製作されたのではなかったか、と思われたのだがとても存在感があり、その「御旗」に精神的な重さを私は感じたのである。
 
現在の国旗日の丸の軽さやチープさとは明らかに違う代物であった。
「神功皇后奉納」を模したモノとされる「御旗=日章旗」は将に、太陽の化身を感じさせたものであったのである。
 
その「御旗」に「日出づる国」の言の葉を感じ、その「言の葉」の化身を私は感じたのである。白と赤のチープな大量生産の日の丸に代わって、絹でできたハンドメイドの橙橙色の日章旗が、若し日本代表のW杯の応援席に棚引いていたら、と思わず私は想像してしまったのである。
 
きっとその「御旗」を見た人々は「日出づる国」を実感し体感するのではないかと、そんな風に妄想したのである。
いつの日かW杯の応援席に白と赤のチープな日の丸に代わって、この神功皇后の御旗を模した、存在感のある日章旗のレプリカが旗めいて欲しいものだと、そんなふうに「雲峰寺」の「御旗」を見て夢想したのであった。
 
そしてその御旗を体感した時、世界も「日出づる国」日本の名前の由来を感じることが出来るかもしれないと・・。
 
 
因みに「雲峰寺」には安田義定公に関係する遺物や史跡は無かったが、寺の境内でかつて埋蔵物として発見された「鎌倉時代の経典」があるらしいのだが、ひょっとしたらそれは義定公が奉納したものだったかもしれない、と根拠もなく夢想してはいる。
いつの日か機会があったら、その点を確認したいものだとそう思っている。
 
 
 
 
 
                      
                     「御旗」:甲州市「雲峰寺ホームページ」より
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 



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