昨日は8月15日で、終戦記念日であり同時にまた敗戦記念日であった。
第二次大戦が終わって73年目に成る、という事だ。
先の大戦では、日本人だけでも3百4・50万人が犠牲に成ったという。その中には戦地に赴き日本の当時の権益を確保するための犠牲に成った兵士はもちろんの事、国内に居て空襲や原爆で犠牲に成った多くの国民も含まれている。
戦没者慰霊式などを見ていると、この先の大戦の犠牲者たちに一番敬意を払っているのは天皇皇后の皇室のメンバーであるように思われる。
一方で政治家たちの発言は軽く、口先だけで気持ちが伴わないと感じられる。
戦争という行為は、戦地に向かった日本人はもちろん戦地で日本兵と戦った相手との戦闘行為である以上、相手の国の兵士や民間人にも犠牲が出る。当然のことだ。
自分たちは主人公かもしれないが当然敵役も存在するのだ。そしてその敵役にはその地においての歴史や伝統・文化があり、共同体があり家族もまたいる。
日本の権益を確保する、追及するという事は同時にそれまでの権益を持っていた人達からそれらを奪う事を意味するから、衝突することに成る。当たり前のことである。
その過程において当然犠牲者が出るのであるが、それは攻撃する側はもちろん攻撃される側にもである。それを侵略行為という。
これは日本だけが行って来た行為ではなく有史以来、世界中で続けられてきたことである。
しかしだからといって、日本が行って来た事を単純に正当化することはできないのも確かだろう。
その当然のことに対して日本のいわゆる保守勢力という人々は、なかなか認めようとしない傾向があるようだ。
これは第二次大戦が終結して以来ずっと続いているように思われる。
自分たちに都合の悪い事や、認めたくないことを真摯に受け止めようとしない姿勢である。
私はそういうスタンスを受け入れない。事実を事実として受け入れようとしない人間を一人の人間として、高く評価する事がない。そのような人達にインテリジェンスを感じないし、洞察力も足りないと思う。同時に厚顔無恥な人種と感じる。
第二次世界大戦で3百4・50万人が犠牲に成ったことは、とても痛ましい事だと思うし同じ過ちは繰り返してはいけないと、心からそう思う。
それは日本人にとってももちろんであるが、その日本人の行為によって犠牲に成った国々の人々のためにも、である。何十万人か何百万人かは判らないが、同様に犠牲に成っている人々は侵略先には存在するのである。
私はこの愚かな行為が明治維新以来の富国強兵策のとどのつまりだったと思っている。
そして明治維新以来7・80年間続いた軍国主義体制・天皇制体制が崩壊した事はほんとに好かったと、思っている。
それはイデオロギーの問題というより、軍事優先の全体主義国家や個人崇拝の国家体制が崩壊したからである。
現在でもなお社会主義や共産主義を標榜する一部の国々にみられる様に、個人の権利や福祉より、個人崇拝や自分たちが所属する政治体制の維持を優先するような社会が存在する。
私はそのような国家には暮らしたく無いと思っているし、私のような個人主義者・民主主義者はきっと暮らしていけないだろうと思うからである。
これは政治イデオロギーの問題であるとともに宗教イデオロギー、すなわち宗教過激派が支配する国においても同様である。
終戦記念日はまた同時に、明治維新以降の軍事優先体制の崩壊及び天皇制の個人崇拝を終わらせた敗戦記念日でもある。
隣国の北朝鮮や中国を横目で見ていて、そのことを喜んでいる私である。

