春丘牛歩の世界
 
先週から、「行者ニンニク」が採れる様に成り、我が家の食卓にも乗るようになった。
行者ニンニクが採れる様に成ると、今年の春がやって来た事を実感する。
これまでの私の経験では「行者ニンニク」が生えてきてから、雪が降ったことは無いから、である。
 
 
      
 
 
野生の昆虫や動物たちが作る巣の位置で、颱風の影響を早い時期に推測できることがあるが、自然界の生き物たちは彼らなりのセンサーで、天候や自然現象を察知する能力がある。
そんな事から私は、「行者ニンニク」が我が家の林に生え始めることを、季節の到来のメルクマール(指標)にしているのである。
 
 
      
 
       
         
 
     
 
 
    記事等の更新情報 】
*4月19日 :「コラム2024」に、「青い春」と「チャレンジ虫」を追加しました。
*3月25日:「相撲というスポーツ」に「新星たちの登場、2024年春場所」を公開しました。
*2月8日:「サッカー日本代表森保JAPAN」に「再びの『さらば森保!』今度こそ『アディオス⁉』を追加しました。
*01月01日:本日『無位の真人、或いは北大路魯山人』に「無位の真人」僧良寛、或いは・・を公開しました。
これにて本物語は完結しました。
12月13日:  『生きている言葉』に過ぎたるはなお、及ばざるが如し」を追加しました。
*9月29日:「食べるコト、飲むコト」 に「バター炒め二品 」を追加しました。
*9月27日;「物語その後日譚」に「奥静岡の鶏冠(とさか)山」を、追加しました。
 
 

  南十勝   聴囀楼 住人

          
               
                                                                  

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         2024.05.01
              牛歩
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
   
      
 
 
 

歴史検証物語】

 

40年ぶりの大学のクラス会で、札幌在住の友人から、山梨県の甲州金山に関わる調査を依頼された私は、山梨県身延町の『湯之奥砂金・金山博物館』を訪ねた。友人からの依頼は、北海道の道南渡島地方の、知内町の雷公神社に八百年前から伝わる古文書『大野土佐日記』に関わる調査であった。

友人の依頼は鎌倉時代の初期に、荒木大学という甲州金山衆の頭領が千キロ以上離れた蝦夷地に、一族郎党千余人を引き連れて上陸したという記述の、真贋を確かめることであった。

博物館のスタッフとの情報交換では、いったん否定されたのであったが、鎌倉時代の研究をしている郷土史研究家の出現で、事態は思わぬ方向に代わっていった。

 
 
                 【 目 次 】
 
                ①プロローグ
                ②甲州金山博物館
                ③甲斐源氏安田義定
                ④甲斐源氏・信濃源氏謀殺
                ⑤甲冑師の工房
                ⑥修験者の役割
                ⑦どっこいしょ節
                ⑧居酒屋さちこ
                ⑨甲府幕府?
 
 
 
 
 
 
 
 

 プロローグ 

 
私が「荒木大学」の名前を知るようになったのは、学生時代の友人である甲斐毅君から、調査協力の依頼があったからである。
 
去年の秋に四十年ぶりの右京大学のクラス会が、京都のホテルで行われた。
「卒後四十周年」の企画として、地元関西在住の元クラスメートが幹事となって催してくれたイベントだ。その四十年ぶりのクラス会で、久しぶりに甲斐君にあった。
 
甲斐君とは「京都の歴史と史跡を探訪する会(通称:歴史探)」という大学横断的なサークルに、一緒に入っていたこともあり親しくしていた。

そのクラス会の二次会で甲斐君から「荒木大学と甲州金山について何か知っていることは無いか」と私は相談を受けたのであった。

 
甲斐君が私にそのようなことを聞いてきたのには訳がある。甲斐君は私の父が山梨の出身である事を知っており、私が子供の頃夏休みなどにたびたび父の故郷山梨で過ごしてきた事や、祖父母の居た山梨を自身の故郷のように思っている事を知っていたからである。
 
甲斐君はその名が甲斐の国山梨を連想させることから、時々誤解を招くことがあるらしい。かくいう私自身1回生の初対面の時に甲斐君に対し、山梨に縁のある家系なのかと、声を掛けた記憶がある。
しかし彼自身は、北海道札幌の出身で北海道入植者の4代目ということであった。

しかもその北海道に入植した祖先は宮崎県高千穂の出身で、山梨とは殆ど縁がないということであった。

甲斐君の先祖が北海道の十勝に移住してきたのは、明治の阿蘇山の噴火がきっかけとなり、一族の長男を除く次男三男たちが妻子を連れて集団で、北海道十勝に新天地を求め入植してきたことに依るという。

しかし遠い先祖をたどると、甲斐の国に全く縁が無かったわけではない様だ。というのも甲斐一族はもともと熊本の菊池地方の豪族「菊池氏」の系統で、鎌倉時代初期に起きた菊池本家の跡目相続の内紛で、菊池武本が鎌倉幕府に訴訟に来たことが発端で甲斐氏を名乗るように成った、ということが判明した。学生時代に甲斐君と一緒に調べたのだ。 

その跡目相続の訴訟で敗訴した甲斐氏の先祖、菊池武本の子孫は熊本には帰らずそのまま関東に居つき、鎌倉から100㎞ほど離れた甲斐の国の都留(つるごうり)に逃れ、一時期定着したのだという。

それから数十年経って足利尊氏の時代に、尊氏に従った関東の御家人として一族の故郷である九州に戻り、九州での南北朝の戦いに参加したがその戦いに敗れてしまった。という経過をたどった。

その後、その菊池氏の末裔は甲斐には戻らず、そのまま九州の豊後(現在の大分県)や日向(宮崎県の一部)を転々とし、最後は高千穂に定着したという。そしてその九州に戻った時に菊池姓を捨て甲斐氏を名乗るようになった、というわけだ。

 

そんな甲斐君が、いま甲斐の国にまつわる故事にのめりこんでいるらしい。クラス会の二次会で彼が詳細を話してくれた。

「立花クン君は山梨に縁があって、土地勘もあるんだったよな確か」甲斐君が私に聞いてきた。

「うん、まぁね」

「ちょっと聞きたいんだけど、もし知ってたら教えてほしいんだゎ」

「何さ?」

「甲州金山の事は知ってるかい?」甲斐君は私を試すように言った。

「聞いたことはあるよ。でも詳しくはないよ。何で?」私は先を促した。

「うん実は札幌で『北海道砂金・金山史研究会』っていう、まぁ地元のサークルに入ってるんだゎオレ」甲斐君が説明を始めた。

「ほう砂金・金山にね、君がかい?」私は少しニヤニヤしながら尋ねた。

「まぁね」そういいながら甲斐君は、自分がその「北海道砂金・金山史研究会」に入ったいきさつを語り始めた。

 

彼の話を要約すると、次のようなことがあったらしい。

大学卒業後札幌市役所の職員をしていた彼が、40代の後半ごろ職場の先輩で親交のあった人から、今の砂金・金山史の研究会に誘われた。それが全ての始まりだったという。

学生時代から私と同じ「歴史探」というサークルに入っていた彼は、私同様に歴史に対して関心の高い人間であった。もともと歴史好きな彼ではあったが、その頃職場でちょっとしたトラブルを起こし出世コースを外れてしまった、という。

そんなことがあって職場の人間関係に疲れていた彼は、仕事とは直接縁のないその地域サークルに入会することで、ストレスの解消を図ってきたということらしい。
40代後半にそのサークルに入った彼も、今や14・5年選手ですっかり中堅幹部になっているとのことだ。

定年退職した今ではその研究会の活動に、ある種の生きがいすら感じ出しているようであった。

その彼が現在ハマっているのが、北海道の道南渡島(おしま)地方の知内(しりうち)町に伝わる故事・伝承である「荒木大学の金山」に関する、歴史的研究であった。

道南渡島の知内町は函館の近郊で西側に位置し、津軽海峡をはさんだ青森県津軽半島の対岸辺りに在る町で、北島三郎の故郷でもあるという。

甲斐君の説明によると、「荒木大学」は甲斐の国出身の金山開発の頭領で、鎌倉時代の初期元久二年(1205年)に一族郎党や金堀衆千余人を引き連れて、甲斐の国から遠い蝦夷地知内に金山開発のためにやって来た人物、ということらしい。

 

「それでな、立花クンにその荒木大学の事を調べてほしいんだゎ」甲斐君の相談というのはそういう事らしい。

しかし私は甲州金山についての知識や情報は殆ど無く、武田信玄の金山開発が昔あったらしい、という程度の認識でしかなかった。

私が知ってる金山の話は、韮崎の祖父が寝る前にしてくれた夜話に出て来た程度の情報でしかなかったのだ。

「ん~んまいったなぁ。甲州金山の事何にも知らないよ。知識も情報も全くゼロ」と、私はお手上げであることを甲斐君に伝えた。

「せやけど立花クン大学時代のサークルの時はあんなに頑張ってたやないか、君なら何とかしてくれるんと違うか・・」甲斐君は突然関西弁でしゃべりだした。

私もそうだが関西に長くいると、普段は標準語をしゃべっていても関西人と会話する時は関西弁になる、ということが良くある。この時の甲斐君は四十年前の学生時代に戻って、関西弁を喋っているのに違いなかった。

 
「う~ん、弱ったなぁ」私は唸ってしまった。

「もし協力してくれたら、ご褒美をあげるよ」甲斐君はニヤニヤしながら、私にニンジンをぶら下げて来た。

「もし協力してくれたらやね、北海道の珍味をプレゼントするよ。どうだい?」彼は酒呑みの私に、おつまみという餌を撒いてきた。私は思わずニヤッとして、

「珍味って何さ」と彼に聞いた。この時の私はきっとだらしない顔をしてたに違いない。

「鮭のトバとか、エイのひれ・イカの燻製とか、シシャモの丸干し・・。ん~んそんな感じかな・・」甲斐君は、もったいぶって応えた。

「ん?それだけか?結構実費が掛かるぞ」私は珍味に惹かれつつも、条件交渉を始めた。

「ん~ん、そやな・・」甲斐君は少し考えた。

 
「そしたら調査のレポートが客観的で有益な内容であったら、研究会の機関誌に掲載するからその時は原稿料を出すよ。客観的で有益な場合やで、あくまで・・」甲斐君も条件交渉に応じた。

「ふ~ん機関誌に掲載されたらね~。それって掲載される価値が無かったら、原稿料無しってことだよね。ホテル代に交通費・・」私は、さらに粘った。

「う~ん、仕方ないなぁ。じゃぁ内容次第では、研究会に呼んで北海道で講演を頼むようにするよ。その場合の旅費とホテル代と飯代をこちらで、持たせてもらうよ。これでどうよ?」甲斐君今度は標準語になっていた。

 
 3年前に広告代理店を定年退職してから殆ど仕事らしい仕事はせずに、映画や美術館巡りが数少ない楽しみとなっていた私は、時間を持て余していた。心の中では、甲斐君の依頼を受けても良いか、と思い始めていた。

「しゃぁね~なぁ」私はしぶしぶ、といった感じで受け入れることにした。

「だけどさ、それだけだと情報が少なすぎだろう。もっと何か手掛かりになるようなものは無いのかい?」と、甲斐君に情報提供を要求した。

「そうだな、そしたら研究会の機関誌に載ってる荒木大学や知内の金山開発に関する資料や論文・レポートを、後で送るよ」と、甲斐君は言った。

私はそれで、甲斐君の申し出を受諾することにした。

その後の酒を飲みながらの情報交換で、次のような事を甲斐君は私に話してくれた。

 

荒木大学に関する伝承は『大野土佐日記』という、知内町の雷公神社の宮司を務めてきた大野家に伝わる古文書に、詳しく記載されているという。
 
因みに『大野土佐日記』は、江戸時代の初期にそれまで口伝や覚書として、永い間大野家に伝承されていた事を記録した古文書であり、知内の歴史に関わる事や地名の由来等を、四百年後の慶長年間に当時の宮司が取りまとめた書物である、という。

甲斐君に依れば大野家は鎌倉時代初期からの伝承を7・8百年は、継承してきた事に成る。

その『大野土佐日記』に関しては、明治以降の歴史学者達によって記載されている事柄に史実との矛盾が幾つかみられることから、偽書ではないかと烙印を押され明治以降はそのような評価が定着してしまったという。

甲斐君自身も、当初はその様な定説に何ら疑いを持っていなかったのであるが、函館在住の研究会の会員で、『大野土佐日記』偽書説に疑いを抱いているメンバーから、この偽書説を検証する必要があるのではないかと、研究会に提案があったのだという。
 
 
その問題提起により2年ほど前から研究会内部で同書の真贋を巡って論争が起き、ついに去年の春『大野土佐日記』を検証するためのプロジェクトチームが結成された、ということである。

そしてそのプロジェクトリーダーに指名されたのが、甲斐君であった。プロジェクトチームは『大野土佐日記』に記載されていることの真贋を確かめるために、知内町に赴きフィールドワークを行った、ということである。去年の秋のことであった。

甲斐君自身はその時のフィールドワークを通じて、『大野土佐日記』に記載されている事柄とそれに符合する場所や地域を訪問・視察したことで、同書に書かれている事に一致することが多く、歴史学者たちの偽書説に疑いを抱くようになったようだ。

そしてそれを検証するためには、「荒木大学」と彼が関わって来た「甲州金山」についての調査が必要であると思い始めた、ということだ。

知内町の検証という北海道側でのアプローチは甲斐君が引き続きやることとし、甲斐の国山梨の側からのアプローチを、私に依頼したということである。

 

そのようないきさつから、甲斐君は私に甲斐の国の金山開発の頭領であった荒木大学に関する調査を依頼してきたのであった。

東京からなら交通・移動にも便が良いだろうということ、私の父が山梨出身で縁があり山梨に土地勘があるということ、それに学生時代のサークルでの私がやって来た活動を評価しての、依頼らしい。

しかし最大の要因は退職後の私が暇を持て余してることを知り、歴史好きの私なら引き受けるに違いないと、彼が踏んだのではないかと想う。

 
 
甲斐君から北海道の珍味一式と、「荒木大学」や『大野土佐日記』に関する資料が送られてきたのは、その歳も押し詰まった十二月の下旬のことであった。

おかげで私は年末年始は酒のつまみに不自由することなく、過ごすことが出来た。

また甲斐君から貰った資料の読み込みを行うことで、暫くは暇を持て余すこともなくなり、補完的な情報を集めるための図書館通いなども始めるようになった。

 

 

 
 
 

 甲州金山博物館 

 
 
5月の連休を利用して私は、山梨に行くことにした。

新宿駅を九時発の特急あずさで甲府にと向かった。甲府駅には1時間半ほどで着いた。甲府駅の南口でレンタカーを借り、静岡県寄りの県の南部に位置する身延町の「湯之奥金山・砂金博物館」を一路目指した。

同博物館は甲府駅から車で一時間半程度の時間距離で、下部(しもべ)温泉郷の一画に在り同温泉郷の集客施設の一つでもあった。

下部温泉は信玄の隠し湯があった処と言われた、山狭(やまあい)の温泉郷である。

 

下部までの道は甲府を背にして静岡に向かって南下していく形をとる。富士川がその中心部を流れており、川の両側は山に囲まれていた。川に侵食されたエリアが田畑や街並みを形成していた。

富士川は甲斐の山狭を下って行って、やがて静岡の富士市の田子の浦辺りで駿河湾に注ぎ、海に出て行くのであった。

富士川は県の北西部から南に向かって流れる釜無川と、北部から南西部に流れる笛吹川とが、落語で有名な鰍沢で合流し富士川になる一級河川で、流れの速い急流として知られている。

この関係は京都の桂川と鴨川が伏見で合流し、更に宇治川や木津川とも合流しやがて淀川になるのに似ている。私はその富士川沿いを下部にと向かったのである。

この時季、富士川沿いの山々は柔らかい黄緑色の景色で満ちており、私のドライブには目の保養となった。俳句でいう山笑う景色が広がっていたのである。

目指す下部温泉郷には十二時半頃には着くことができた。温泉街の一画に在る食堂で、軽く昼ご飯を食べた。

 

お昼を済ませた後で、私は博物館に向かう前に事前に湯之奥の集落に寄ってくることとした。湯之奥は金山開発に関わった金山開発の職能集団である、「金山(かなやま)衆の里」だと云われている。

湯之奥には下部川沿いの道路を山道に沿って10km程、山狭の道を車で坂登った。対向車が来ると道を譲らなければならない、狭い道であった。

 

湯之奥では集落の入り口付近に車を停めた。湯之奥の集落は下部川沿いの急峻な斜面に、十数戸の家がギュッと固まってへばりついているといった印象であった。

集落の家々をつなぐコンクリの滑り止めのある坂道は急峻で、私は登るのにも息を切らさずにはいられなかった。

集落の真ん中らへんに在る湯之奥村の旧名主の家であった「門西家跡」を覗き、そのまま集落の最上地に鎮座している「湯之奥神社」に参詣した。

祭神は不明であったが、金山衆の集落の神社なら「金山彦」に違いないと思ったが、具体的な標記は無く判らなかった。

神社から見下ろす形で湯之奥の集落を見渡して、一息ついた。

1時間ほど湯之奥の集落を視察して過ごし、JR下部温泉駅付近の「湯之奥金山・砂金博物館」に向かった。

 

博物館では展示場の誘導順路に沿って、ジオラマやVTR・金山開発で使用した器具類の展示物を一通り見てから、事務室に学芸員を訪ねた。昨日事前に訪問のアポイントを取っておいたのだ。

事務室の受付で私は女性事務員に案内を乞うた。

「失礼します、東京から来ました立花と言いますが学芸員の望月さんはいらっしゃいますでしょうか」

私の問いかけに、机の奥の方に座って居た四十代前半と思われる男性が反応した。彼は立ち上がり、私に向かって軽く頭を下げ、

「望月です。立花さんですか、お待ちしてました。どうぞ入ってください」と言い私を奥の応接コーナーに案内した。

応接セットの脇には頑丈な机があり、六十代後半と思われる白髪の学者風の人物が座っていたが、私を受け入れると望月氏と共にソファに腰掛けた。

 

「館長の秋山です」と短く自己紹介をした。

私は手土産の東京の洋菓子セットを渡して二人に簡単な挨拶を済ませると、さっそく本題に入った。

「お電話でもお話しましたが、実は甲州金山に関して幾つかお尋ねしたい事がありまして、お時間をとっていただきました。お忙しいところありがとうございます」私は二人に向かって頭を下げた。

「実は私の札幌に住んでる友人から、甲州金山に関わることで調べてほしい事がある、という依頼がありまして・・。

彼は『北海道砂金・金山史研究会』という地元のサークルの中堅幹部をやってまして、その彼から荒木大学という、鎌倉時代初期に甲州金山の開発に携わった人物について、山梨に行って調べてきてほしいと頼まれまして・・」私はここに来たいきさつを話した。

「因みに荒木大学って名前に、聞き覚えとかございますでしょうか?」早速、私は二人に尋ねた。

「いや、残念ながら・・」望月氏は館長の顔を見ながら応えた。

「そうですか・・ご存じないですか・・。う~ん残念です」私は落胆したが、さらに聞いてみた。

「そうしましたら『大野土佐日記』という古文書については、何か聞かれたこととかありますでしょうか?」

「いや、申し訳ないですが・・」今度は館長が応えた。

私はカバンからファイルを取り出し、甲斐君から送られてきた『大野土佐日記』の現代語訳版を取り出し、二人に渡した。

館長はその資料を2部コピーさせた。

二人は、暫く資料を読んでいた。

 

私は館長が資料をテーブルに置いたのを待って、若干の補足説明をした。

「この『大野土佐日記』は、北海道道南渡島(おしま)の知内(しりうち)町に在る雷公神社の宮司を八百年近く務めて来た、大野家に伝わる古文書だそうです。因みに知内というのは函館近郊の町でして、津軽海峡を挟んで青森から一番近い街です。

その大野家の先祖は、鎌倉時代に荒木大学に従って甲斐の国から一緒にやって来た、山岳修験者だったということです。名を大野了徳院(きの)重一(しげかず)と言うそうです」私は手帳のメモを見ながら説明した。

「コピーにもあったと思いますが、鎌倉時代の初期の元久二年西暦の1205年ですが、その年に甲斐の国いはら郡の領主であった荒木大学が、一族郎党や金山(かなやま)衆合わせて千余人を引き連れて蝦夷地にやってきた、というんです。

二代将軍源頼家の命を受けて。金山(きんざん)探索のために・・」私は二人の顔を見て続けた。

「ところがこの『大野土佐日記』には、いくつか史実とは異なる記述があり、そのために明治以降の歴史学者によって、偽書の烙印を押されてしまい、今でも歴史書としては信憑性がない、伝承の単なる記録に過ぎないと扱われているんだそうです」

 
事務の女性がお茶を運んで来た。お茶は香りの強い椎茸茶で、お茶請けには博物館のお土産コーナーにもあった焼き物の和菓子が添えられていた。
 
 
「具体的にはどういった点が、史実と違ってるんですか?」望月氏が私に尋ねて来た。

「そうですね例えば元久二年西暦1205年、この年に荒木大学が頼家の命令で蝦夷地にやって来た、とこの古文書には記載されているんですが、頼家自身は1204年に北条氏によって修善寺で暗殺されているんです、既に・・」ここまでの私の説明にじっと聞き入っていた館長が、口を開いた。

「甲斐の国に庵原(いはら)郡ちゅうのは無かったと思うが、どうだい望月君」

「そうですね、庵原郡は駿河の国で富士川流域の富士宮市とか富士市・由比町とかのエリアだったと思いますよ、確か」望月氏が応えた。

「やっぱりそうですか、それも史実とは違ってますか・・。いや実は私もネットで、少し調べたんですが、甲斐の国にあったのは『山梨郡』『都留郡』『八代郡』『巨摩郡』の4つだけだったと、書いてありまして『いはら郡』は無かったんですよね。やっぱりそうですか・・。史実と違いますか・・残念です」私は、力を落とした。

 

「そうなんですがね、ちょっと気になる点もあるですよ」館長が言った。

「ここは『湯ノ奥金山』の麓になるんですが、湯ノ奥金山の史跡は『毛無山』という2000m級の山の中腹になるですよ、実は。

で、その毛無山はちょうど静岡県との県境になってましてね、要するにこの山の反対側が、将にその『いはら郡』に当たるっちゅうわけです。

更にですね、その『いはら郡』には『富士金山』という金山がかつてありましてね、やっぱりそれがちょうど毛無山の反対側になるんですよ。金山衆にしてみれば同じ山のこっちと向こうでは大差はないわけですよ、鉱脈が同じ山なんだから・・」館長は私を見て云った。

「あとですね、も一つ気になることがあるですよ。この資料にも出てましたけんが荒木大学が蝦夷地の知内ですか、そこに初めて構えた館が『毛無嶽』であった、という点なんですよね。

ここの山も毛無山で、蝦夷地の館も毛無嶽これが果たして偶然の一致なのか、それとも意図的な事なのか気になるですよね、私・・」館長が続けた。

「はぁ、そうなんですか・・。ただ、友人の話では知内の荒木大学の最初の館があった毛無嶽は、山というより丘に近い場所だそうです。2000m級の山とは比べ物にならないと思います、たぶん。でもその毛無嶽の周辺では、砂金や金塊が沢山採れた場所ではあったらしいです。で、そこに荒木大学が館を構えたと、そういうことらしいです・・」

 

私の話を聞いているうちに館長は、望月氏に命じて地元の郷土史研究家に連絡を取らせ、ここに呼び寄せることにした。

館長の話では、その人は西島さんと言って中世の甲斐の国についての造詣が深い人であるから、彼の意見を聞いてみたいと呼ぶ手配をしたのだという。

西島さんは町の教育委員会の元スタッフで、退職してからは甲冑師(かっちゅうし)をしている人だそうだ。

 

 

 
 
 

 甲斐源氏 安田義定

 
 
十数分して、西島氏がやって来た。

西島氏は七十代半ばといった感じで白髪交じりの頭髪をオールバックにしており、黒縁の眼鏡をした恰幅の良い、押し出しの強そうな人であった。

館長はこれまでの話の概略を西島氏に説明して、私が持ってきた資料を見せた。

西島氏は数分資料を読んだ後、私たちに興味深い話をし始めた。

 

「ひょっとしたら、ここに書いてあるこん(事)は事実(ほんとう)かも知れんよ、館長」

「ん?どうしてそう思うだい?」館長は西島さんに、タメ口をきいた。

「『甲斐の国いはら郡』って書いてあるら、ほこんとこがポイントなんだ」

「もったいぶらずに教えてくれよ西島さん」館長は先を促した。

「おまんとう(あなた方)は、庵原(いはら)郡は甲斐の国じゃなくって駿河の国の在所だと思っちゃいんけ?」西島氏は私達を観廻してそう言った。私達は皆、肯いた。

「ところがね、短い間だったけんど庵原郡が甲斐の国であった時期があるだ」

「ほう。で、そりゃいつ頃の話で?」館長がさらに突っ込んで聞いた。

「富士川の戦いって知ってるら、平氏と源氏が戦った源平の一番初めの戦いさ・・」西島氏は私達に確かめた。皆、肯いた。富士川の戦いについては私も知っていた。

 

「ありゃ、治承四年で西暦だと確か1180年だったと思うけんが、ほの戦いに甲斐源氏が出張(でば)って大活躍しただよ。

武田家の家祖の武田信義と四つ下の弟の安田義定が中心になってさ。

源氏が平家に夜襲を掛けたら、富士川の水鳥がびっくりして大量に羽ばたいちゃって、ほれを聞いた平家の軍勢が戦う前に敗走しちゃった、っていう有名な話聞いたことあるら?」西島氏の話は皆、知っており肯いた。

「それで、どうしとうで?」館長がじれったそうに言った。

「ほの夜襲を掛けたのが甲斐源氏の武田信義兄弟だったってこんさ」

「って!ほんとうけ?」館長が反応した。

「ほん時の戦功によって、信義と義定が駿河と遠江(とおとうみ)とを領地として朝廷から貰っとうだよ。まぁ、実効支配の追認だったけんがね・・。

だから一時期だけんど、庵原郡も甲斐の国になってた時期があったっちゅうこんさ。14・5年の短い間だったけんがね」

「そうですか、庵原郡がね・・」私は思わず口走った。

 

「なるほど。だけんどそれだけで、この『大野土佐日記』がそれで正しいってことに成るずらか?」館長が疑問を呈した。

「あはは館長考げえてみろしね、駿河の国の庵原郡が甲斐の国の領地だったなんて、おまんとう(あなた達)だって、今初めて知ったずら?世間じゃ殆ど知られていんこん(事)だよ。信玄の時代に駿河が一時期領地に成ったこんは知っててもね・・。

後世の歴史学者でも、よほど鎌倉時代の初期の甲斐源氏について詳しい研究してる人でもねぇ限り、知らんようなこんをどうして北海道の人が知ってるだい?

ましてほの頃だったら蝦夷地ずら?ほこの片田舎の神社の宮司さんがさ・・。おかしいと思わんかい?」確かに西島氏の言う通りであった。

 

「確かに・・。インターネットや百科事典も、歴史の教科書だってない時代のことですからね、蝦夷地の片田舎の宮司さんが知ってる方がおかしいですよね。確かにおっしゃる通りです・・」私も西島さんの考えに同意した。

「ほうゆうこんさ。普通には殆ど知られていんこんが、この『大野土佐日記』に書かれてるってこんが、逆にこの古文書の信憑性を高めてるってこんにならんかい?」西島氏の口調に熱がこもって来た。

「明治時代の学者だかがこの古文書を偽書って言ったっちゅう話だけんが、ほの学者たちに聞いてみてえもんだよ。
どうやったら甲斐や駿河から千キロ(m)の上は離れてる、蝦夷地の片田舎の宮司が江戸時代の頃に『甲斐の国いはら郡』の事を知ってたのか、証明してみてくれんかってね。まったく・・」

確かに西島さんの推論には説得力があった。専門家や研究者でしか知り得ないような事実を、どうやって四百年後の慶長年間にまとめられたという『大野土佐日記』に書くことが出来たのか、その偽書説の根拠を問いただしてみたいと、私も思った。

仮に『吾妻鑑』のような歴史書を、その宮司が観たかも知れないと想うことも出来なくもないが、当時数十冊に及ぶ『吾妻鑑』を入手出来たのは、徳川家康や黒田官兵衛らの有力大名であって、蝦夷地の田舎に棲む宮司の手に入るようなことは、殆どあり得無かった。

当時の人々にとって『吾妻鏡』の存在自体を知る人は、ほんとに限られた一握りの人だったのだ。

鎌倉時代の初期から四百年経った江戸時代に、千キロ(m)以上離れた蝦夷地の宮司が仮に偽造した書物だとして、どこからその情報を得たのかどうやってこんなニッチな事実を知り得たのか、その方がよっぽどミステリアスだと私は思った。

 

「ところで西島さん、その偽書説の根拠になってることで、史実との整合性が取れない点があるのですが・・」私は西島さんに尋ねた

「ん?どんなこんで?」と。西島さんは返した。

「その荒木大学が二代将軍源頼家に命じられて、蝦夷地に金山の探索に旅立ったのが元久二年1205年と書かれてるんですが、頼家はその1年前に北条氏に暗殺されてまして・・」私がそういうと西島氏は

「うん、ほのこんか。確かにほの点は疑問が残るじゃんね」西島氏もその点については、おかしいと思ったようである。

 
「まぁ『大野土佐日記』に書かれているこんの全部が全部、正しいとは想えんけんが、ほうかと言って全部間違ってるとも想えんじゃんね。当事者にしか知り得ないようなこんが、こうやって書いてあるだから・・」西島氏は私に言った。
 
「まぁ頼家のこんは確かに矛盾してるから、それへの検証は必要だけんがとりあえず今は、現時点で検証出来て納得出来る事を受け入れてみたら、どうずらか?」西島さんはそう言って、さらに続けた。

「実はね、駿河の庵原郡が甲斐の国の領地であったのがと14・5年で終わっちまったのには訳があるさ」西島さんは皆を、見廻して言った。

「ほう、どんなこんで?」館長が尋ねた。

 「富士川の戦いの勝利で駿河と遠江が甲斐の国になってから、駿河は武田信義が遠江は弟の安田義定がそれぞれ領地にしただ。

ただし駿河の内、富士川の東岸である東北(ひがしきた)は安田義定の領地だったさ。まぁ甲州寄りの富士山西麓だよな。今の富士宮市とか富士市の一部さね。朝霧高原や毛無山もそん中に入ってるだよ」

 

「なんでまた、そんな飛び地みとうに成ったで?」館長が聞いた。

「ほりゃな、富士川の戦いの前哨戦が二カ月ばっか前に富士山の北麓であっただよ。平家方の俣野景久や橘遠茂と甲斐源氏の安田義定・工藤景光とが、ほこで戦っただよ。

ほの前哨戦に甲斐源氏が大勝して、安田義定がほのまま駿河に侵攻して居座って、領地にしちまっただよ。例の富士川の合戦の二カ月くらい前にね・・。ほうゆうこんがあって、結果的に飛び地に成ったさ。

因みにこの時の戦に兄貴の武田信義は、関わっていんだよ。信濃で信濃平氏と別の戦をしてとうだから」西島さんは言った。

 

「で、14・5年で終わった理由はどんな事だったんでしたっけ?」私は話を引き戻した。

「あ、ほうだったね忘れちまったじゃん、困ったもんだアハハ。

ほの安田義定が結局頼朝に粛清されちまっただよ、建久五年西暦だと1194年にね」西島さんは黒い小さな手帳を見ながら応えた。手帳には「歴史手帳」と金字で刻印してあった。

「それはまた、どうしてですか?」私は彼に尋ねた。

「ほりゃぁね、頼朝が甲斐源氏の力がでかくなってきたから、それを恐れて潰しに掛かったってこんさ。

頼朝は自分達の鎌倉幕府の権威を確立するために、関東の他の源氏を軒並み抑え込みに入ったっちゅう訳だよね。

実際のところ、頼朝が後白河法皇の息子の以仁(もちひと)親王の平家追討の令旨(れいじ)を受けて、平家討伐のために挙兵した頃は、関東の源氏には頼朝の他に『信濃源氏の木曽義仲』『甲斐源氏の武田氏』『常陸源氏の佐竹氏』も有力で、この四者はほぼ同列だっただよ。当時は上下の関係じゃなくって、横並びの関係だっただよ」西島さんが解説した。続けて、

「因みに以仁親王の令旨は、木曽義仲や武田信義にも来てただよ。朝廷からしても三者は同列だった、ちゅうこんだね。
ほんだけんがほの令旨を受けた木曽義仲は、京に攻め上がって平氏を追っ払ってからの、京での狼藉が原因で朝廷の不興を買い、頼朝の弟の義経や安田義定軍との宇治川の戦いで敗れ、結局滅ぼされてしまっただよな・・。

で、残った甲斐源氏が富士川の戦いや平氏追討の戦いで活躍して、領地も増やしちまって勢力が強大に成ったもんだから、それを怖れて潰しに掛かったってこんさ。判り易く言えばね・・」西島氏は私達を見ていった。

 

 

 

              

 

 

 
 

 甲斐源氏・信濃源氏謀殺

 
「ほの第一弾は武田信義の嫡男の一条忠頼を、鎌倉で1184年に暗殺しただよ。だまし討ちみとうにしてね。それ以来信義は大人しくなっちゃって、二年後におっ(ち)んじゃっただよ。で、ほれから弟の安田義定に狙いを定めとうってこんさ。
 
先ずは義定の嫡男義資(よしすけ)が1193年に陰謀みたいなこんで、鎌倉で殺されちまって、義定自身も一年後の1194年に頼朝の軍勢に牧之荘の小田野山城を攻められ、自害させられちまっただよ。

ほれで『いはら郡』が甲斐源氏から召し上げられ、北条時政の縁者に与えられて甲斐の国から駿河の国に戻った、ってこんさ」西島さんはお茶を飲んで、ちょっと落ち着くと話をつづけた。

 

「で、大事なこんはね安田義定のこんだよ。義定の甲斐の国の本拠地はさっき言った牧之荘で、今の山梨市の牧丘とか三富の辺りだっただ。安田義定はほこで甲斐駒って言って軍馬を沢山育成してとうだよ。

畜産はもちろんのこと大規模な馬場なんかも造って、軍馬としての調教や訓練なんかも、積極的にやってただ。

ほれと同時に、金山の開発にも力を入れてただ。有名な黒川金山がその金山開発の代表さね。黒川山は知っての通り甲州市の塩山の奥の方の山で、大菩薩峠の近くだよね。おまんとうは知ってると思うけんが立花さん、ほこも義定の領地だっだ。 

安田義定は軍馬の育成と金山の開発で豊かになり、騎馬武者軍団で武将として力をつけて、軍資金もたっぷり蓄えていたってこんだよね。
ほの義定が源平の戦いで新しく領地にした庵原郡の飛び地でも、牧之荘でやって成功したのと同じこんを、始めたっちゅう訳さ。

富士山西麓の朝霧高原で軍馬を育成し、騎馬武者軍団としての力を付けたり、富士金山の開発を始めたりしてね。

ほういったこんを見て頼朝や北条氏は、甲斐源氏の力が今後ますます強大に成っていくんじゃねえかって怖れただよ。ほれで安田義定一族を潰しに掛かったってこんさ。

武田信義一族が粛清されずにすんで、安田義定の一族が粛清されちまった原因は、この軍馬育成の大規模な牧き場と軍資金の金山開発の力を、頼朝が恐れたのが一番の原因だったんじゃねぇかって、言われてるだよ」

 

「何でェ!富士金山は安田義定が始めとうけ・・」館長が呻った。

「まぁ、ほういうこんだよ。で、こっからが肝心なこんだよ、よく聞けし」

「なんで!まだ何かあるだけ!」館長は、興味津々の様で次の言葉を待っていた。

「荒木大学は安田義定の金山開発担当の幹部で、黒川金山や富士金山で中心メンバーとして働いてた人物じゃねえかと、オレはにらんだのさ。この資料を読んでみてね。

ほう考えるといろいろと辻褄が合ってくるだよ・・」西島さんが云った。

「具体的にはどういう事ですか、その辻褄って・・」私が聞いた。

「ほうさな、先ずはさっきも言った『甲斐の国いはら郡』のこんずら、庵原郡が甲斐の国だったって、この『大野土佐日記』に明確に書かれている点ね。

世間じゃ殆ど知られてねぇようなこんがここに書かれてるら。ほれにこの水炊きが筑前の船に乗ってたってこんだって、ほうさ。この水炊きが山国の甲斐の国の人間だったら、ちょっと考えづらいけんが、駿河の国の人間だったらあり得るじゃんね。海の人間なんだからさ」

 

「あっ」と私は想わず叫んでしまった。実は、この点については『大野土佐日記』を目にしてた時から、私も引っかかっていたことだったのだ。

船や海に縁がない甲斐の国の人が、どうして筑前の船に乗って飯炊きとして働いていたんだろう、って疑問に感じていたのだった

「さっきも言ったように、荒木大学が黒川金山の腕を買われて、庵原郡の富士金山の開発を任された頭領だとしたら、蝦夷で金塊を偶然発見した水炊きが、荒木大学に持参して報告したってこんも、合点がいくじゃんね・・。まぁ、ほういったこんさ・・」西島さんは私を見てそういった。

 

「もし庵原郡がおめえのゆ(言)うように甲斐源氏の支配下になったのが、鎌倉時代の初めの頃だったとすると、この『大野土佐日記』に書いてあるこんも満更嘘じゃねえってこんかな・・。まぁ多少矛盾があったとしても、だけんがさ」館長は続けた。

「っていうか館長、もしそうだとしたら、湯之奥金山の開発時期の見直しが必要にならんですか?」望月氏が口をはさんだ。            

「うん・・まぁ、そういう事になるかな・・」館長は口ごもった。     

「どういう事ですか?」私が尋ねた。                    

「いやこの湯之奥金山が開発されたのは、鎌倉時代の初めッ頃よりずっと後で、室町時代の15世紀の初め頃って言われてるですよ・・。それは考古学的な遺物なんかでも立証されていることなんですよ」望月氏が云った。

 

「鎌倉時代初めだと時代が2百年ばっか早まっちゃうだよ、定説より。困ったこんだが・・」館長が補足説明をした。                   

「ん?どうしてですか?富士金山の開発であって、湯之奥金山の開発じゃないでしょ、荒木大学がやったのは」私は館長の話がちょっと判らなかった。     

「いやほういうこんじゃねぇさ、毛無山の同じ鉱脈のことだから、富士金山の開発が始まってっから2百年も開きがあるってのは、よっぽどの理由がないとちょっと説明がつかんだよ、困ったことに・・。数十年程度の時間差ならまだしも・・」館長が説明してくれた。

「面白れぇこんになって来たな、秋山館長さんよ」西島さんが嬉しそうに言った。  

「バカいっちょし」館長が言った。                    

「なんで2百年も経ってからしか、湯之奥金山の開発が始まらなかったか説明がつくように、検証しなくっちゃ成らんぞ・・」西島氏はニヤニヤしながら館長に言った。

「まぁ‥そうだな」館長は、渋い顔でそういった。

 

「ところで、おまんら荒木大学って聞いたこんあるだか?」西島さんが聞いた。  

「ねぇな。さっきも立花さんに言っただよ。・・望月君も聞いた事ねぇって言うさ・・」館長が応えた。                         

「ほうかい、じゃあ調べがいがありそうだな。うふふ・・」西島さんが嬉しそうに云った。

「ところで館長、そろそろイベントの支度を・・」望月氏が事務所の時計を指さしながら、申し訳なさそうに言った。           

「おっ、へぇそんな時間か・・。立花さん申し訳ねぇけんが3時からイベントがあって・・」館長が申し訳なさそうに私に云った。

「ほうか、ゴールデンウイークだから忙しいだなおまんら(あなた達)も」西島さんはそう言って、ちょっと考えてから続けた。                 

「立花さん良かったら、おらが(わが家)に来んけ?家にも多少鎌倉時代に関する専門書や甲州金山・甲斐源氏に関する資料があるだよ。ちょっと見てみるかい?」

「あ、はい・・」私は西島氏の突然の提案に戸惑った。  

          

「オレも、荒木大学や大野土佐日記の話をもっと聞きてえし・・」        

「いやあまり詳しくはないんですが、私・・」              

「はっは、ほれでもオレよりは詳しいらに・・。おめぇさんの知ってる範囲で、もちろん構わんさ。これ、おもしれえジャンね」西島さんはコピーの資料を持って、そう言った。

「西島さんよ、オレにも後で話の続きを聞かせてくりょうし。オレも続きを聞いてみてぇな・・」館長は私たちの顔を交互に見て言った。          

「あぁ判っただよ。ほしたら、晩飯一緒に食うけ?仕事終わったら・・」西島さんの提案に館長は                               

「ほうだね、そうするかい・・。ほれで、どこで飯食う?どけぇ行ったらいいずら?」と尋ねた。                                 

「波木井の『さちこ』でどうだい?」西島氏が提案した。          

「あぁいいよ・・」館長が応えた。         

「・・おまん(あなた)何時頃にゃぁ来れそうだい?」西島氏の問いに館長が応えた。

「ほうだな、6時ッ頃には行けるかな」                  

「判った、ほしたら6時に『さちこ』で待ってるじゃんね。あ、立花さんも一緒に飯食うかい?」                              

「あ、はい。そうですね、ご一緒しましょうか・・」             

「別にいいら、館長。立花さんがいても」                   

「あたりめぇじゃん。オレもまだ聞きてぇこんいっぺぇあるだよ」

「じゃぁ決まりだな、『さちこ』に6時でな・・。じゃぁほういうこんで・・・」西島さんは館長にそう言って私と博物館を出た。

 

「立花さん、これからおめぇどうするで?」               

「えっ、ひとまず身延駅のホテルにチェックインしようかと・・」        

「まぁホテルにチェックインしてからでいいけんが・・。おらがには何時頃くるだけ?」

「ん~ん、4時半頃でもよいですか?」                   

「ほしたら、4時半ッ頃に、ホテルに迎えに行くじゃんね、ほれでいいかい?」

「はぁ・・、宜しくお願いします」                      

「オレもあんたにいろいろ聞いておきてぇこんがあるだゎ、館長が来る前に。ほれに、よかったらオレが造った甲冑も見てみんけ、自慢してる訳じゃねぇよ。あはは・・」西島さんはそういって、快活に笑った。

「あ、そうですね・・。西島さんが造られた甲冑ですか、観てみたい気はします。・・でもご迷惑じゃないですか?」私は西島さんにそう言いつつも、彼の話をもっと聞いてみたいという気持ちも強くあった。                 

「大丈夫さ、まぁオレの作業場に案内するよ遠慮なんていらんさ。あそこはオレのお城みてぃなもんだからな、あはは」西島さんは何でもないようにそう言った。

その後西島さんと携帯の番号を教え合ってから、私は身延の駅前のビジネスホテルにと向かった。

 

 

 

 

     【 源頼朝が強殺した主たる甲斐源氏・信濃源氏 】

 

  1. 元歴元年(1184年)四月二十四日

        木曽義仲嫡子、木曽義高(頼朝の長女大姫の夫)

        武蔵の国入間にて謀殺。

  2. 同年        六月十六日

        武田信義嫡子、一条忠頼

        酒席にて、頼朝の眼前で、背後より斬殺。

  3.建久四年(1193年)十一月二十七日

        安田義定嫡子、安田義資

        艶書(ラブレター)事件で、詮議無きまま鎌倉名腰にて斬首。

  4. 建久五年(1194年)八月十九日

        安田義定の居城である「小田野城」を梶原景時らに攻めさせ義定を

        自刃させる。

 

頼朝はかつて同列であった甲斐源氏・信濃源氏の嫡流を、些細な事をあげつらい、意志をもって誅殺し、自らの権力基盤を確立した。

同様のことは自身の異母弟である源義経や源範頼に対しても行い、頼朝自身の正当性を確立させたのである。 

 

 

                  

 

 
 
 

 甲冑師の工房 

 

身延駅前のビジネスホテルでチェックインをすませた後、私は体を休めることにした。西島さんとの約束の時間までに一時間半以上、休憩時間をとることが出来た。

それでもまだ時間に余裕があったが、西島さんと秋山館長のために、甲斐君から送ってもらった別の『大野土佐日記』の資料を、コピーするつもりでいた。

博物館で渡したのは現代語版の要約で『知内町史』からの抜粋であったが、こちらはより原本に近い書物で、知内町の郷土史研究家が漢文で書かれた原本を読み下した本で、行間から原本の臭いがなんとなく伝わってくる感じがして、独特の魅力があった。

吉田霊源という人が昭和38年に刊行した本で『吉田霊源版』と言われているものだ。

 

4時半にホテルのロビーに行くと、既に西島さんが待っていてくれた。私は国分寺の洋菓子店で買ってきた焼菓子を手土産として西島さんに渡した。

西島さんの家には車で、10分ほどで着いた。

西島さんの家は幹線道路から1本入った生活道路沿いにあり、周囲には畑や小さな田んぼが在り、近隣の家との距離は十分あった。

私の住んでいる国分寺辺りとは随分趣が異なる。

川幅が50cmぐらいの石垣で作られた小さな川が、ちょろちょろと流れていた。山からの水なのか、生活雑水に汚されていないせいなのか川の水はきれいで水藻が揺れていた。

庭には花壇があり、菖蒲の花や躑躅の花が咲いていた。こんもりとした若若しい緑の葉が繁っているのは、柑橘系の木の様だ。

太い幹の桜と共に、なぜか白樺の樹が数本植わっていた。桜やミカンの樹は珍しくはないが、白樺の樹は街中ではあまり見ることがないので、目についた。

 

平屋の母屋と向かいの作業小屋の間には藤棚が在り、コンクリートが打ってあってテラスの様になっており、木製のイスとテーブルとが在った。

西島さんは母屋に声を掛け到着を知らせると共に、私の手土産を居間と思われる部屋に置くと、私を作業小屋に案内した。

入り口には「工房にしじま」と大きな横板に木彫りで書いてあった。

工房の中は8畳ほどの板敷きのスペースと、12・3畳ほどのコンクリの作業場の二間で、ガラス窓の引き戸で区切られていた。

板敷の部屋には小さなキッチンコーナーのほかに、事務用机と応接セットが在り頑丈そうな書架が在った。

書架にはハードカバー系の書物がざっと、百冊以上は在った。背表紙を見るとやはり歴史関係のタイトルの書物が中心であった。

 

冷蔵庫と小さなキッチンセットと共に、年代物で風格のある和風の茶箪笥とアンティーク風のガラスの食器棚とが在った。

いずれも存在感が強く感じられ、落ち着きのある家具であった。

ガラス棚には個性的で品の良い珈琲カップが15・6客あった。西島さんの長年のコレクション、といった感じだった。

「珈琲にするかい?ほれとも緑茶が好いけ?」作業場で作りかけの甲冑を覗いていた私に、西島さんが聞いてきた。

「あ、珈琲あるんですか?じゃぁ、珈琲で・・」私は応えた。

 

作業場には畳二枚分くらいの大きな作業台が中央に在り、その後ろには甲冑製作用と思われる材料が、横長の備え付けの木製の棚に区分けされて整然と納められていた。

作業台の向かい側には等身大の木枠があり、造りかけの鎧兜が掛かっていた。

作業台と事務室の間には見慣れない、箱型の洗濯機のようなものがあった。煙突が付いていたところを見ると、暖房関係の機械なのかもしれないと思った。

脇には透明のビニール袋が3・4袋積まれてあり、小さなコルクのような木片がギッシリと詰まっており、木の香りがした。

 

「ほれ、なんだか知ってるけ?」西島さんが声を掛けて来た。

「いや、観たことないですね・・」私は応えた。

「まぁ都会じゃぁ縁がねえずら・・。ペレットストーブっちゅうだよ。聞いたこんねぇけ?」

「あぁ、これがペレットストーブですか・・。初めて見ました。これって、どうなんですか?暖かいですか?効き目って、あります?」私は石油ストーブの臭いが好きではなく、以前から暖炉や炭に関心があった。

「良いよ~もうおらがじゃぁ、これが手放せないじゃんね。ここもだけんが母屋にもペレット入れてるだよ」西島家ではペレットが大人気らしい。

「へぇ~そうですかぁ、そんなに好いですか・・。因みに、費用とかはどうなんですか?」私は気になって聞いてみた。

「機械の値段がちょっと高いけんが、ほこの袋に入ってるペレットが10k(g)で5百円くらいだね。で、ほりょう11月から3月くらいの間5ヶ月ばっか使うかね。

ほうだな、一冬で7・80袋くらい使ってるかな」西島さんが解説してくれた。

「ってことは一冬で4万円ぐらい燃料費が掛かるってことですか、月8千円ぐらいですか・・」ちょっと掛かるかな、と私は想った。

「まぁ、ほんくらいかな。でも母屋の分も合わせてだからね・・」

「あ2台分ですか・・。因みに初期費用はどのくらい掛かりました?」

「ほうさなぁ1台3・40万円くらいだったかな・・」

「石油ストーブと比べてはいけないんでしょうが、石油ファンヒーターの10倍近くはしますね・・。結構かかるんだ」

 

「確かに石油ヒーターやエアコンと比べると高いけんが、暖かさがまったく違ごうさ。石油ヒーターなんかだったら、この工場(こうば)だけでも2台は要るらね。

だけんがペレットなら1台で十分だよ、遠赤外線だから暖かいだよ。

この部屋は作業場だから窓なんかも気密性が高くねぇけんが、母屋は二重窓にしたこともあって、廊下を開けとけば家じゅうがあったまるさ。

ほれに石油だと直線的な温かさだけんが、ペレットだとこうホンワカしてて何かこう、優しい暖かさじゃんね。ほれがまた何とも言えんだよ、気持ち佳くって。

ほれに環境にも優しいし・・」西島さんはペレットの効用を力説していた。

 

暫くして珈琲豆を挽く音がした。西島さんが手動のコーヒーミルで豆を挽いてたのだった。

「西島さん、それ僕がやりましょうか?」私は西島さんに代わって珈琲豆を挽くことを申し出た。

「え、悪いじゃん・・」

「いえいえ、私もそれぐらいお手伝いしますよ」そう言って、私は西島さんに代わって珈琲豆を挽いた。

「あ、キリマンですか?」私は傍らにあった口の空いた、緑色のキリマンジェロの珈琲豆が入った袋を見付け、言った。

「オレゃあ、この豆の苦みと程よい酸味が好きでね・・、もう50年以上こればっかだよ。立花さんは珈琲飲むだけ?」

「ええ私もキリマン派でして、やっぱり苦みと酸味が好きですよ・・」

突然ピー、と甲高い音がした。どうやらお湯が沸いたようだ。笛付きケトルが鳴ったのだった。私は珈琲豆を挽く手を、忙しく動かした。

 

「立花さん、どのカップにするで?」西島さんが、ガラス棚を開けて私を見て言った。

「そうですね・・。えっと、二段目の真ん中らへんの織部のカップ、頼んでもいいですか?」私は応えた。

「ほう、こういうのが好みだけ立花さんは・・」西島さんはそう云いながら、縦じま模様の、緑色の織部の珈琲カップを取り出してくれた。

西島さんは沸騰したケトルから二人のカップに熱湯を注ぎ、カップを暖めた。

それから白いホーロー製の湯沸かしに少しお湯を入れ、ガスコンロに掛けたまま白い陶製の漏斗(じょうご)にフィルターを載せ、挽いた豆を入れた。

湯沸かしが温まったころ合いを見て火を消し、ケトルの熱湯をゆっくりと、かつ注意深く少しだけフィルター上の珈琲豆に注いだ。

ドリップで珈琲を淹れるのだ。

 

細やかに砕かれた珈琲豆の粒子がふっくらと膨らむのが見えた。と、同時に珈琲の好い香りがぽわーんと漂った。幸せな匂いだ。

二度目からは熱湯の量も増えた。最初の注ぎで細かく砕かれた珈琲豆に、熱湯で水分を含ませ芯を残して膨張させた上で、二回目以降はそのふっくらと膨張した豆を熱湯で削いでいくのだ。そうすると珈琲豆の味がしっかりと出て、美味しいコーヒーを味わうことが出来る。

私も自分で珈琲を淹れるからその手順は心得ていた。きっとおいしい珈琲が味わえるだろう、と私は期待した。

そして、西島さんも珈琲が大好きなんだろうなと、私はそう感じた。

 

 

 

 
 

  修験者の役割

 
 

私達がソファさんで珈琲を味わっていると、奥さんが入って来た。

70代前半と思われる、白髪の目立つ髪をショートカットにした小太りの人で、全体にふっくらした印象を受けた。

「おらがの女房です。

こちらは立花さん。甲州金山の調査で湯之奥の博物館に東京から来た方・・」

「こんにちは、よくいらっしゃいました・・」奥さんは挨拶を済ますと、

「お父ちゃんは甲州弁丸出しですから、判らん言葉もあるかもしれませんが、そん時はちゃんと聞き直した方がいいですよ」と私にアドバイスしてくれた。

「いや、全然大丈夫ですよ。私の父親は韮崎の出身で、韮崎の祖父母の家にも子供の頃から毎年遊びに行ってましたから、甲州弁は通訳なしで理解できます、はい」私が笑いながらそう言うと、西島さんは

「安心しただよ。これで心おきなく、甲州弁が話せるだよ。あはは」と嬉しそうにそういった。

 

奥さんは柏餅と草餅の入った菓子鉢をテーブルに置くと、

「田舎の手作りのお菓子です、お口に合うと好いんですが・・」そう言った。

「ありがとごいす」私が甲州弁でそう答えると、西島さんは手を叩いて、

「上手いもんじゃんね・・」と言って喜んだ。奥さんも、笑いながら

「ほしたらゆっくりしてってください」とニコニコしながら、そう言うと部屋を出て行った。

 

草餅を食べ、珈琲を飲んで一息入れた後、私はコンビニでコピーしてきた吉田霊源版の『大野土佐日記』を、西島さんに渡した。

「これ、昼の『大野土佐日記』の原本を読み下した本のコピーです。荒木大学に関わる箇所しかありませんが、読んでみてください。

吉田霊源さんっていう知内町の郷土史研究家の方が、昭和三十八年に発刊した本です」私は西島さんに、持参したコピーの説明をした。
 

10分近く西島さんは、そのコピーを食い入るように読んでいた。私も合わせるようにもう一度、手元のコピーを読み直した。

読み終わると西島さんは書架から、本を取り出して来てページをめくり始めた。紺色の厚めの本のタイトルは金字で『甲州金山』と書いてあった。

「立花さんやっぱり原書に近い方が面白れえじゃんね。オレは高校生の時っから古文や漢文が好きでね、『徒然草』や『方丈記』なんかをよく読んだもんさ。・・こうやって、吉田霊源さんだっけ?」西島さんの振りに私が頷くと、

「その吉田さんが読み下し文で書いた『大野土佐日記』を読んでると、なんだかおらんとうが鎌倉時代にタイムスリップでもしてるように思えるから、不思議じゃんね」

「そうですね、現代語訳されたものよりとても身近に感じられて、何だかリアリティがありますよね不思議と・・」私も同意した。

 

「ところでこの本のここんところに、蝦夷地に渡った千人の中に荒木大学の家来や堀子の他に修験者を連れてった、って書いてあるら」西島氏はコピーの2枚目の上段部分を指して言った。そこには

「金山祭りのため、元いはら郡八幡の別当で修験者であった大野了徳院を一緒に連れて行った」といったことが書いてあった。因みにこの大野了徳院は『大野土佐日記』を書き記した雷公神社の宮司の祖先である。

「ええ・・」私が短く同意すると、

「この『金山祭りのために、修験者を連れて行った』ってとこが気になるじゃんね」西島氏が云った。

「ん?僕にも判るように教えてもらえますか?」私には何が問題なのか、良く理解できなかった。
 
「うんお祭りのためだけだったら、修験者より神主さんを連れてけばいいずら?」西島さんは小学生にでも話すかのように丁寧に私に云った。
「はぁ・・」

「だけんが実際に連れてったのは、修験者だっただよね。ほしたらなんで修験者だったか、っちゅうこんが、ミソじゃんね」西島さんは再た私を見て続けた。

「金山を掘ってる金山衆はいつも山ん中で暮らしてるだから、里の神主さんより山で修行してる山岳信仰の修験者のほうが、身近な存在だっちゅうこんは判るかい?」西島さんは私に同意を求めた。

「ほれに黒川金山の在った大菩薩峠の辺りは、修験者たちの修行の場所だっただよね」西島さんはテーブルの上の『甲州金山』の本を開いて、黒川金山周辺の地図が載ってる挿絵を示した。

「ほうゆうこんで、黒川金山の金山衆と修験者とは昔っからかなり行き来があって、お互いに知り合いが居たりで、太いパイプを持ってたんじゃねぇかと思えるさ。

ほう考(かん)げえると、荒木大学が蝦夷に行く時いはら郡の神主じゃなくって、別当の修験者に頼んだのも、判るじゃんね」

「なるほど・・、確かにその方が自然ですね・・」私も同意した。確かにそういう事なら、理解はできる。

 

「ほれにさ、まだあるだよ。修験者を選んだ理由がね・・。

金山衆千余人を引き連れて蝦夷に行ったと、この本に書いてる通りだとしてもさ、皆がみんな船で行ったとはちょっと考えられんじゃんね、オレには。

あの時代に千人を載せられるでっかい船があったとはあんまり、思えんだ。今の時代だって千人乗りの船なんて、滅多に無(ねぇ)らに。

鎌倉時代に百人乗りの船だってあったかどうか判らんずら」西島さんは腕を組みながら言った。
 

「そうすると・・」私がそういうと、西島さんは

「ほうすると海路だけじゃなくって、陸の上を行っとう人らもいたと思えるじゃんね。ほん時に日本中の山を修行のために行き来していた修験者がいたら、心強かったと思うよ、きっと。行先は蝦夷って決まってるだから、何(なん)しろ北へ北へと向かってけば、後は合流する場所だけ決めとけばいいだから。
 
ほれに修験者なら東北の方の情報だってたくさん持ってただろうし、修験者仲間のネットワークだって活用できただろうし、ね」
 
「海路は海路で例の水炊き、後の荒木外記を水先案内にして蝦夷地に向かったとしてそれとは違うルート、山側のルートで蝦夷地を目指した。そういうことですかね、西島さんのお考えは・・」私は自分の頭を整理するつもりで、そのように言った。
 

「だいたい、鎌倉幕府にナイショで蝦夷地を目指しただろうから、どちらかっていうと人目に付かん道を行ったんだと思うさ。それこそ山道とかをね。

もともと金山の堀子たちは山での生活に慣れてるだから、山道を修験者に案内されて蝦夷地を目指したとしても、ほんなに苦じゃ無かったと思うさ。
逆に船に乗ったほうがよっぽど船酔いなんかで苦労すると思うよ、おらんとうと同じ山里の人間なんだからさ、あはは」西島さんは言った。
確かにそうかもしれない、私は西島さんの解説に納得した。
 

「ほれに、甲州がなんぼ金山開発の盛んな国だって言っても、甲州の堀子だけで七・八百人もいたとは、なかなか思えんだよね」西島さんは柏餅を食べながら言った。

「と、言うと・・」私は西島さんに先を促した。

「頭領や家来衆、中核に成ったのが甲州金山の金山(かなやま)衆だとしても、蝦夷を目指して北上しながら、東北や北陸辺りの金山衆にも声を掛けてリクルートしながら行ったんじゃねかって、考えられんけ?ちょうど雪だるまが、転がりながらだんだんでかくなるみてぇにさ」西島さんの仮説は説得力があり、判り易かった。

 
「ほれにさ。頼朝が奥州藤原氏を討伐する時に、甲斐源氏も一緒に行ってるだよ。まぁ、関東武者はみんな行っただけんがね。ほん時に安田義定も家来を引き連れて行って、結構活躍してるさ。
 
立花さんも知ってると思うけんが、奥州藤原氏は金ぴかの仏像だのお寺だの造ったりで、金には深い関わりがあって、東北で金山開発なんかもしてとうだよね。
ほんだから黒川金山をやってた安田義定なんかは、戦さにもちろん行っただけんが、単に戦いに行くのとは別の動機もあったかも知れんじゃんね」

「なるほど、金山開発に関わる情報とか人集めとかですか・・。ってか甲斐源氏、奥州藤原氏攻めにも行ってたんですか・・」

「ほりゃぁ、間違いねぇだよ。ほれでほん時に、安田義定が金山衆を連れて行った可能性だってあるさ。立花さんが云うように、金山開発の情報を得るためだったり技術や経験持った優秀な金山開発の人材を、リクルートしたりね。

もちろん戦での利用もあったと思うよ。戦国時代に信玄が城攻めに金山衆を連れて行ったみてえにね」西島さんはそこで食べかけの柏餅を食べ、珈琲を飲み一息入れた。

 
 
 
 
 
                
 
 
 
 
 
 
 

 どっこいしょ節 

 
 

「まぁほうゆうこんだから、荒木大学やその家来たちには、奥州までの道に土地勘はあったと考えて、まず間違いねぇらね。奥州藤原氏の本拠地は平泉だから、岩手県の南部辺りまでは土地勘があった、ってこんだね」西島さんはそう言ってから、私が理解してるか目で確かめた。

「おっしゃるように、藤原氏に仕えていた優秀な向こうの金山衆を何人か、甲斐の国まで連れて来たってこともあったかもしれませんね。彼らも主君の奥州藤原氏が滅ぼされたら失業しちゃった、わけでしょうから・・。
 
丁度秀吉の朝鮮戦役の時に、薩摩の島津や佐賀の鍋島が朝鮮の陶工たちを沢山連れ帰って来て、今の有田焼や薩摩焼の基礎を築いてきたようにですね・・」そう話す私の話を聞いて、それなりに理解してることを西島さんも確認できたようだ。
 

「ほう考えると神主さんじゃなくって、山に詳しい修験者を連れて行ったこんや、千人余の人間が蝦夷地に向かった、ってのも無理がないように思えるじゃんね。どうずらか立花さん」

「そうですね・・。確かに筋は通ってますね、合理的だし論理的でもありますよ・・」私は西島さんの説明に納得した。

「ほうずら。だから修験者を一緒に蝦夷まで連れて行ったってこんに、深い意味があったんじゃねかって思ったさ、偶然とかじゃなくってね」

「確かに、そうですね・・。海路は荒木外記を水先案内人にして、陸路の山道は大野了徳院を先達にして、ってことですね」私は、そう言いながら西島さんのカップに珈琲を注ぎ、自分のカップにも注いだ。

 

「ところでですね、西島さん。ちょっとお尋ねしたいことがあるんですが」

「ん?どんなこんで?」西島さんは私の眼を優しく見た。

「いやね、昼間館長さんたちと話してた時に話題になってた、安田義定のことなんですが・・」

「うん、何で?」

「安田義定が、軍馬の育成や金山開発で力をつけたことが原因で源頼朝に滅ぼされた、っていうのはあの時のご説明で納得いったんですが、それって確か1194年でしたよね」私は手帳のメモで確認しながら言った。西島さんはうなずいた。
 

「安田義定一族が滅ぼされた後、黒川衆というか荒木大学達は一体どうしてたんでしょうか、その後・・。」

荒木大学の主君であった安田義定が源頼朝に滅ぼされたのは1194年で、『大野土佐日記』には、荒木大学が蝦夷地の知内にやって来たのが1205年となっている。この間約十年の歳月が流れている。
 
私はこの10年ばかりの間に、荒木大学達はいったいどこで何をしていたのか、気になっていたのだった。
 「安田義定一族が治めていた領地は、義定攻めに貢献した御家人たちに恩賞として与えたり鎌倉幕府直轄地にしたり、したんでしょうけど・・」
 
「うん、ほのこんけ・・。まぁ、正直なところまだ判らんじゃんね。
オレももちっと勉強してみんとならんかな。宿題だねオレの。あはは・・」西島さんは嬉しそうに笑ってそう言った。
 

「私はですね、荒木大学を始めとした金山衆は、敬愛する主君を殺した源頼朝の家来や後に来た新しい領主に仕えることを、あまり潔(いさぎよ)しとしなかったのではないか、って想うんですよね。

安田義定は山稜の牧き場で積極的に騎馬武者用の軍馬を育成したり、黒川や富士の金山開発を推進したり、結構やり手の領主で戦にも強かった。

ちょうど後世の武田信玄が甲斐の国の人達に敬愛されたように、彼も地元の領民なんかに尊敬されてたり、慕われていたんじゃないかってそう想えるんですよね・・」

「うん、ほうさね。実際ほれを裏付ける資料があるだよ。」西島さんはそう云いながら、書架に行って新たな書物を取り出してきた。

 

「ここにね『どっこいしょ節』っちゅう民謡が載ってるさ、観てみろしね」西島さんはページを見開いて、私に見せながら説明してくれた。

「この歌はね、牧之荘の領民が義定一族を慕って作った民謡で、盆踊りなんかの時に歌ったり口ずさんだりして、旧恩のある安田義定一族を偲んだり慕い続けたって言われてるだよね。
一説によると牧之荘の盆踊りで昔っから唄われてて、安田義定がずいぶん気に入ってた歌だった、ちゅう説もあるさ」

「なるほどですね、そうなんですか・・。ところでここに書いてある、この『お祖覚さん』というのが、安田義定になるんですか?」私は『どっこいしょ節』の一文に書いてあった、聞きなれない名を発見して西島さんに尋ねた。

「てっ!良く判っとうじゃん!立花さん、感が好いだねおまん(あなた)は」西島さんは私を褒めてくれた。

 

「義定公の名前を直接出すことは、後から来た領主への懸念があってこういう法名を使った、っちゅうこんさね」西島さんは解説した。

「あはは、お褒めの言葉ありがとうございます。この『どっこいしょ節』にみられるように、牧之荘の領民が義定一族を慕って盆踊りなんかの時に、歌ったり口ずさんで旧恩のある安田義定一族を偲んだり、慕い続けた。
そのくらい敬愛されていたとするとですね、荒木大学を始めとした金山衆が二君に仕えずっ、て思ったって考えることは出来ませんか?
彼らが領民達以上に、安田義定一族を慕っていたとしたら・・」

「うん。ほれで?」西島さんは、先を促した。

「もちろん生活のために、いきなり新しい領主に反旗を翻すようなことはしなかったでしょうが、気持ちの奥底ではそういった感情がずっと燻(くすぶ)っていたのではないかと・・」私の説明に西島さんは肯き、目で更に先を促した。

「そんな状況下で源頼朝が五年後の1199年に亡くなり、更にその五年後の1204年には二代将軍頼家が北条氏に暗殺される、といったことが続けて起きた」私は一息入れるために珈琲を飲んだ。

「源頼朝が創った鎌倉幕府も盤石とは言えず、この先どう変わるかわからない。

平家の政権が短期間で滅びたように鎌倉幕府も短期間で終わり、また不安定な闘いの日々がやってくるかもしれない。そんなふうに不安に思ってたのかもしれませんよね・・」
「なるほど、なるほど・・」西島さんは理解してくれた様で、しきりに肯いた。
 
 
「そんな時に例の水炊きが蝦夷地に漂流し『丸かせ』まぁ金塊ですよね、それを荒木大学に届け出て、蝦夷地の金山の話をした。それが燻っていた金山衆の感情に火をつけて、一気に燃え上がらせた。そんなふうに考えることは出来ませんか・・」私は館長たちと別れた後、ずっと考えていた仮説を西島さんに話してみた。
 
「うんなるほどな・・。荒木大学んとう(達)は、その水炊きが持ってきた丸かせと砂金の情報に飛びついて、蝦夷地に自分らのニューフロンティアを求めた、っちゅうこんけ・・」そう云うと西島さんは腕を組んで暫く考えていた。
 
 
「安田義定一族が滅ぼされて十余年のあいだが、その不安定な期間だったと。で、そこに降ってわいたように蝦夷地の話がもたらされた。
自分達金山衆の、将来の方向性や進むべき道が見えない不安な中で、二君に仕えずとの感情が燻っていた彼らに、進むべき道というか方向性やビジョンが、蝦夷地の金山によってハッキリともたらされた。そんなふうに考えることは、出来ませんかね・・」私は西島さんを見据えて言った。
 

「なんだか、新大陸アメリカを目指したイギリスの清教徒達みたいじゃんね・・。面白れぇな、こりゃぁ」西島さんは満面に笑みを湛えて悦んだ。

「そういえば、甲州金山の開発は安田義定一族が滅ぼされてから、あまり話題に上がってはきませんでしたよね、少なくとも歴史の上では・・」私は言った。

「ほうだね、三百年ぐらいは歴史に登場してこんじゃんね。忘れ去られちまったように・・。戦国時代の武田信虎・信玄の頃んなって、穴山梅雪の穴山氏が金山開発に力を入れて湯之奥金山を開発するまでは、あんまり出てこんじゃんね」

「三百年っていうと江戸時代より長いですね」

「ほうさ、信玄は安田義定の兄の武田信義から15代目だからね。
徳川も足利も十五代目に幕府が潰れちまったけんが、まぁ中世から近世に時代が代わる時だったじゃんね、ほの三百年の間は・・」

「それはやっぱり、荒木大学を始めとした甲州の金山(かなやま)衆の主力が、ごっそり蝦夷に行っちゃったから、とは考えられませんかね・・」

「う~ん確かにほうかもしれんね、・・ほんな風に考えることも出来るかもしれんね・・」西島さんはそう言いながらも、暫く考えていた。

 

私はすでに、鎌倉中期から室町期の甲州金山の衰退は安田義定一族の抹殺に伴う金山衆の離反、即ち蝦夷地への大移動それが原因ではなかったかと、思い始めていた。

「ほういうこんだったら、さっき館長たちが悩んでたこんにも説明がつくじゃんね、うまい具合に。あはは」西島さんは嬉しそうにそう言ってから、ハッと気づいて

「あれ、へぇ六時に成っちもうじゃん」と言って、立ち上がってテーブルの上の書物を片付け始めた。

部屋の時計は六時十分前を指していた。

私も慌てて、珈琲カップをシンクに持って行って洗おうとした。

西島さんが、洗うのは後で自分でやるから水に浸けていてくれれば良いから、と言って私に部屋を出ることを急がせた。

私達は、バタバタと跡かたづけ済ませると、西島さんの奥さんの運転する車で、館長たちと待ち合わせている小料理屋にと、向かった。

 

 

 

          甲斐の国「牧之庄」に伝わる民謡「どっこいしょ節

 

  一、どっこいどっこい節ゃ  どこからはやる

    西保・中牧・諏訪・三富 ドッコイショ

    *ソウダマッタクダヨ ウソジャナイ

                ドッコイショ

  二、盆が来たそで  お寺さんの庭に

    切り子灯籠へ 灯がついた ドッコイショ

    *繰り返し

  三、盆にゃおいでよ 他国にいても

    死んだ仏も 盆にゃ来る ドッコイショ

    *繰り返し

  四,今夜よく来た お祖覚さんの庭に

    まるく輪になる 人の輪が ドッコイショ

    *繰り返し 

                    註:「お祖覚さん」は安田義定の改法名    

                             出典:『牧丘町史』

 
 
この民謡は、源頼朝に滅ぼされた安田義定一族を偲んで、牧之荘の領民が、盆踊りなどで歌い継いできた、と言われている民謡である。
「お祖覚さん」としたのは、名を憚(はばか)ったためである、という。

 


 
 
 
 
 

 居酒屋さちこ 

 

車の中で、私は西島さんに甲冑について気になってることを聞いてみた。

「西島さん、甲冑ってどのくらい掛かるもんなんですか?」

「作る期間かい?ほれとも値段のこんけ?」助手席で西島さんが聞いてきた。

「あ・・ん~ん、両方です」

「ほうだね~ぇ。値段と期間はリンクすることが多いだよね。

まぁ、特に拘らんで何でも良ければ3・4カ月っくらい掛かって、百五十万くらいで出来るかな・・。
オーダーメードで好みの飾りを乗っけた兜とか、鎧に家紋や色とか素材・デザインを指定されたりすると、半年は掛かるじゃんね。
まぁ値段は材料費や特注の手間にもよるけんが、2・300万ってとこかな・・。

なんでぇ立花さん、オレに甲冑を頼んでくれるだけ?あはは」西島さんはそう言いながら、バックミラーで私を見た。その目は笑っていた。

「えっ、いやぁ参考までに、と思いまして・・」私も笑いながら応えた。

そうこうしているうちに、車は小料理屋に着いた。

 

小料理屋は国道沿いに在ったが、店の横に駐車場があり車が停まっていた。

車は駐車場には入らず、店の入口に近い場所に停り私達を降ろした。

西島さんは降り際に奥さんから、帰りには早めに電話入れるようにと念を押された。

私は運転席の奥さんに向かって、頭を下げお礼を言った。

 
店はこじんまりとした造りで、小さなカウンター席に四つほどのテーブル席と、奥に小上がりがありテーブルが三つほどあった。全体で30坪あるかないかの大きさだった。
客は小上がりに秋山館長と望月さんが居ただけだった。
 

西島さんは70代前半と思(おぼ)しき女主人と、その息子と想える40前後の若主人とに軽く手を挙げて挨拶をして、小上がりに向かって行った。私もその後に続いた。

「望月君も、一緒け・・」と西島さんはニコニコ顔でそう言いながら座り、私は西島さんの横に座った。館長たちとは向かい合う形になった。

 

店の若主人がお手拭きを持ってきて簡単な挨拶を済ませると、注文を聞くか、と思いきやいきなり西島さんに向かって

「おっちゃん、今日のお題は

『世の中に 上流下流 有田川』これだよ、いいけ?」と、謎を掛けて来た。

それに対して西島さんは、

「今日は人数が多いから、瓶ビール2本だぞ、いいか?ヒロシ」と応えた。

「う~ん、・・まぁいいか、4人じゃぁ仕方ねえか・・。じゃぁ、ビール持って来たらそん時には答えるだよ、いいけ?」若主人がそういうと、西島さんは、

「『世の中に 上流下流 有田川』だな」と確かめた。

私がきょとんとしていると、館長が解説してくれた。

 

「立花さんこの二人はね狂歌をやってるだよ。ヒロシ君が上(かみ)の句をお題で出して、西島さんが下(しも)の句で答える、ってわけさ。ビールを賭けてやってるさ。面白れぇじゃんね。ほして行司は、この店の女主(あるじ)の幸っちゃんがやるだよ」館長はそう言って、厨房の女将の方を指さした。

それにしても、このお題の上の句どこかで聞いたことのある句であった。

 

程なくして、若主人が瓶ビールを二本運んで来た。

西島さんは彼を見ておもむろに、

「世の中に 上流下流有田川 いつの間にやら 消えし中流」と詠んで、

「ヒロシ、判ったか?」と若主人に確認した。

西島さんは再度、

「世の中に 上流下流有田川 いつの間にやら 消えし中流」と繰返した。すると、厨房から

「その心は?」と、間髪を入れず女将が言った。

「その心は」と西島さんは女将に向かって、

「いつの間にか世の中が格差社会になっちまって、昭和の頃にはたくさん居た中流が今じゃあ居なくなっちまって、上流だの下流だのって寂しい世の中になっちまったなぁ、ってこんさ」西島さんの解説に、女将は手を打って、

「ほんとじゃんねぇ~、ホントに中流は少なくなっちまったじゃんね~。一体どけぇ行っちまったずらか・・。ヒロシ、こりやぁ今日もおまんの負けだわ」女将は笑いながら言った。

 

「ハッハッハ」西島さんは、勝ち誇った笑いをして、

「ヒロシ、今度はオレの番な」と言うと、若主人に向かって

「有田川 流れる水の 早かれば」といって、再度

「『有田川 流れる水の 早かれば』だぞ。
返しはお会計まで待ってやるから、ほれまで考(かん)げえろし・・」そういって、にやにやした。
 

「アッ、思い出した!」私は、先ほどの若主人の出したお題を思い出した。

「『真夜中食堂』でオダギリジョージが言ってた、川柳だ!」私がそう言うと、若主人は、

「えっ、何で知ってるですか?」と驚いた。

「『真夜中食堂』のファンでして・・。良く観てたんですよCS放送で・・」

私が応えると若主人も納得したようで、軽く私に挨拶をすると
「有田川 流れる水の 早かれば」と、口ずさみながらカウンターの中に戻って行った。
 
 

皆で、そろって乾杯をした後で西島さんは、壁に貼ってあったお品書きを指さしながら、私に食べたいものがあったら遠慮なく頼んだらいいよ、といって勧めてくれた。

どうせ割り勘だから割り勘負けしないようにな、と笑いながら付け加えた。

私は桜肉の刺身と山菜の煮物を、頼んだ。桜肉は馬刺しのことで、韮崎の祖父が晩酌に好んで食べたので知っていた。柔らかくて癖がなくおいしい肉だ。

「立花さん、煮貝は知ってるけ?」西島さんが聞いてきた。

「もちろんですよ。親父が好きでしてね。よく山梨に行った帰りにはお土産で、信玄餅と必ず一緒に買って帰ってきましたから、よく知ってますよ」

「じゃぁ、有ったら食うけ?」

「ええ、ぜひ」私は即答した。私も親父同様に煮貝が好物なのだ。

「幸っちゃん、煮貝あるけ?」

「運が良いじゃんね、昨日甲府で仕入れてきたとこだよ」女将はにこにこしながら応えた。

「二人前ぐらいはあるかい?」西島さんが尋ねると女将はうなずいた。

「じゃぁ、頼むじゃん」西島さんはそう言ってから、私達に向かって言った。
 
 

「オレはね、煮貝を甲州で食うように成ったのも、安田義定が庵原郡を治めるように成ってからのこんじゃねえかって、想ってるさ」

「ほんな前っから、あっとうかい?」館長が疑問を呈した。

「いつ頃からあっとうかは、ハッキリしちゃぁいんだよ。だから、定説は無えさ。

ただ文献に出てる一番古いのは江戸時代の初期のこんだけんが、それよりずっと前からあったと言われてるさ」西島さんが応えた。

「いや私もずっと疑問に思ってたんですよ。何で海のない甲斐の国でアワビの醤油漬けが、名物になってるんだろうって・・」私が言った。

「ほこさ、昼間も言ったけんが14・5年の短い期間だけんど、遠江(とおとうみ)や駿河の庵原郡が甲斐の国の領地になってたら?ほん時に生まれたんじゃねえかって、想っとうさ。安田義定が領主になってた時期にね・・」西島さんは続けた。
 

「駿河や遠江に居ればアワビを始めとした魚貝類は、なんぼでも手に入っとうだから。その魚介類を海なしの甲斐に住んでる親類縁者や世話になってる人達に、何とかして食わせてぇ、って考えた時に生み出されたんじゃねえかって、想うだ。商売として、ってこんじゃなくってね。

干物にしたり、燻製にしたりいろいろ試した中に、醤油漬けにして馬の背にして運んだちゅうのも、出て来とうじゃねかって推測してみただよ。駿河から長い距離を運んで甲府辺りに着く頃に、佳い具合に味がしみ込んで、旨いもんに成ったんじゃねえかって、ね」

 

西島さんが自説を開陳している間に、女将は皿に持った煮貝の切り身を持ってきて言った。

「西島さんは、利口もんじゃんね。今度新聞にでも投稿してみろしね、ほの煮貝のこんを・・」

「バカいっちょ、確かな根拠があるわけじゃぁねえだから公になんか出来んだよ。

この衆には鎌倉時代の知識がちゃんとあるから話せるけんが、世間じゃそんな知識持ってねぇ人間のほうが圧倒的に多いだから・・」そういって西島さんは否定した。

「でも、西島さんの仮説案外当たってるかもしれないですよ。安田義定が庵原郡や遠江の領主の頃だったら、無くはないかもですよ・・」私の西島説賛同に、西島さんはまんざらでもないといった顔をした。
 
 
暫く、煮貝談義で話が盛り上がった後で、私は紙袋から吉田霊源版の『大野土佐日記』のコピーしてきた資料を館長に渡した。

「これ、昼の現代語訳とは違って原文を読み下し文で書かれた資料のコピーです。西島さんにも渡したんですが、館長も時間のある時にでも読んでみてください」

「悪いじゃんね」館長はそう言いながらさっそく、その資料を読み始めた。望月氏も身を乗り出して一緒に見た。

私と西島さんは二人がコピーを見ている間に、煮貝を始めとした山梨の地物料理を食べながら、二人の様子を観ていた。

 

一通り読み終わった後、館長は望月さんにコピーを渡していった。

「やっぱりあれだね、原文に近い形で読んだ方がリアルじゃんね・・」そういって、さっそく煮貝を食べ始めた。館長もさっきから煮貝が食べたかったのだろう。

「ところでな、館長。さっきおらが(家)で立花さんと話してただけんが」西島さんは館長の顔を見据えて言った。

「荒木大学は黒川金山の金山(かなやま)衆の頭領か、それに準ずる若手の幹部で、安田義定にだいぶ信頼されてた人物だったんじゃねぇかってね。
ほんだから義定が庵原郡の新しい領主に成った時に、駿河まで連れていって富士金山の開発を任せたんじゃねぇかって、話したさ。
 
やっぱり新しい土地で新しいこんをやるにゃぁ、若くて情熱があって実力のある人じゃなけりゃ、務まらんら」西島さんは、館長たちの顔を確かめるように見て更に続けた。
 
「庵原郡に行った荒木大学は、運よく毛無山の駿河側に金山の鉱脈を発見するこんが出来て、ますます義定の信頼を得るこんが出来たじゃぁねかってな」と。
 
「そうやって、富士金山の開発が順調に行って一生懸命やってるうちに、源頼朝によって安田義定一族が滅ぼされてしまったと」私がサポートした。

「ほん時は、荒木大学や金山衆は相当困ったと思うし無念だったと思うじゃんね。自分達を抜擢してくれて、金山開発を奨励し庇護してくれた最大の後ろ盾が、殺されちまっただから。

金山衆にしてみれば親も同然の存在だったと想うよ、安田義定は・・」西島さんは喉が渇いたのか、ビールをぐっと飲みほした。

 

「ほの後、鎌倉幕府から新しく任命された領主にも仕えたとは思うけんが、腹の中じゃぁ金山開発にも詳しくって、自分たちの仕事にも理解があった安田義定を慕っていたんじゃねぇかと想うだ。

ほうこうしているうちに5年後の1199年に頼朝が死に、更に5年後には二代目の頼家も北条氏に殺されちまって、自分たちを囲む環境がますます混沌としてきちまった。鎌倉幕府も安定しねぇし、新しい領主も安定しねぇ」と西島さんは言った。

「その時に荒木大学は、鎌倉幕府も平清盛の平家とおんなじように短命の政権で終わるかもしれないって、考えたかもしれませんね」私は先ほど西島さんと話したことを口に出した。

「ほういう時期が10年ばっか続いて、将来の見遠しもハッキリしんで不安に思ってるって時に、ほれに書いてある自分とこの領民の水炊きが蝦夷の金山の話を持って来たんじゃねえかって、さっき立花さんと話してとうだよ」西島さんは私の顔を見ながら言った。
 
「ほうゆうこんが色々あって、渡りに船と荒木大学を始めとした金山衆がごっそりと連れ立って、富士金山や黒川金山を見捨てて蝦夷地に向かったんじゃねかって、考げえただよ。

ほれがまぁ、オラんとうの出した結論かな・・今んところ。なぁ立花さん」西島さんは、また私を見て言った。

 

「ちょうど、イギリスの清教徒達がニューフロンティアを求めてアメリカに渡ったみたいにですね、蝦夷地を目指したんじゃないかって考えたんです・・」私は西島さんのフォローをして、続けた

「そしてその時に、海路では例の水炊きを水先案内にして船で蝦夷地を目指し、陸路というか山道を先導したのが、そこに書いてある修験者の大野了徳院だったんじゃないかって・・。二人の考えが一致したんですよ」と説明した。

秋山館長は、腕を組みじっと考えていた。静寂が一時その場を覆った。

 

「ほう考えると、いろんなことが合点がいくだよ」西島さんが沈黙を破った。

「具体的はどういうこんですか?」望月氏が身を乗り出して聞いてきた。

「甲州の金山開発が、安田義定一族が頼朝に滅ぼされしちまってからいつの間にか途絶えちまったこんとかさ。

昼も話した湯之奥金山の開発が15世紀のこんで、荒木大学んとうが黒川金山や富士金山を開発してた頃よか、ずっと時代が下ったこととかだよ。富士金山なんか、同じ毛無山の鉱脈なのにな・・。

おまんとうがさっき説明がつかなくなるって言ってたこんが、これで説明がつくら。どうだい?」西島さんが自信ありげに言った。

「そういう意味ではこの『大野土佐日記』は、甲州金山が衰退したいきさつを補完する古文書だと、考えることも出来るかも知れませんね・・」私は西島さんを補足して続けた。

 

じっと私たちの説明を聞いていた館長が、漸く口を開いた。

「なるほどな。そういう考えもあり得るか・・。まぁ金山衆も全員が全員、蝦夷に新天地を求めたわけじゃねぇだろうから、何らかの事情があって、甲斐に残った金山衆も少なからず居ただろうしな。

ほれで庵原郡や甲斐に残ってた金山衆が、毛無山の向こうとこっちで細々と金山開発を続けてた、ってわけか・・。

駿河の庵原郡の富士金山に残って続けた人もいれば、故郷の甲斐に帰って金山開発をやり始めた人達も居たって、こんだね。

おんなじ毛無山だから、こっちの甲斐の国でも金が取れるかも知れんって考えて・・」館長はそう言って、一瞬考えを整理してから、また続けた。

「駿河と甲斐とに分かれたけんが鉱脈が繋がってる甲斐の湯之奥で、細々と金山開発をやり始めた金山衆が、居たかも知れんだね。

ほの衆が時間を掛けて何代にも亘って実績を積み重ね、やっと二百年ぐらい経って、金がそれなりに採れるように成ったってこんずらかね・・」

「ちゃんとした金山開発ができるようになって15世紀頃んなって、世間でも認められるようになってから、大々的に湯之奥金山が開発されるようになったんですかね・・」望月氏が続いた。
 

「ほれを庇護し育てて来たのが穴山氏だった、ってこんだね・・。かつて、安田義定がやってきたみとうに」西島さんが言った。

「それが湯之奥金山の始まりっちゅうこんか・・。確かにそう考えれば昼間の話の矛盾は、解決するかな・・」館長は腕を組みながら、そう言った。

「穴山氏って、名前からして金山開発に縁がありそうですよね」私は軽くチャチャを入れた。

「穴山氏が館を身延の下山に構えたのも、湯之奥金山や早川入りの金山なんかを管理しやすい場所だったから、かも知れんじゃんね」西島さんは私のチャチャには触れず、続けた。

 

                  
                  甲州の煮貝:あわびの醤油漬け
 
 
 
 
 
 

 甲府幕府?

 
 

「これまでの話を整理するとこういうこんですか」望月氏が改めて言った。

「黒川金山の開発を推進していた安田義定が、駿河の庵原郡を新しい領地にした時に、黒川金山の若くて有能な金山衆の幹部の荒木大学を、新たな棟梁として庵原郡に連れてって金山探索をさせた。その荒木大学は運よく毛無山で富士金山を発見することが出来て、金山開発を推し進めてきた。

その荒木大学は領主の安田義定一族が頼朝に滅ぼされたことをきっかけに、富士金山や黒川金山を捨てて、金山衆の大多数を引き連れてニューフロンティアを求めて蝦夷地にと向かった、と。

その結果金山開発の担い手の主力が甲州には居なくなって、鎌倉時代の初期に隆盛を極めていた甲州金山が、やがて衰退してしまった。

その後残された金山衆の残党が、甲斐の国に戻って同じ鉱脈を持つ毛無山で金山開発をした。それが今の湯之奥金山の始まりだと。

それから二百年以上経った足利時代の終わりの頃に成って、河内(かわうち)の領主穴山氏の庇護や援助を受けて、ようやく有力な甲州金山に成長した。

そういうこんですかね・・」望月氏のまとめに、西島さんも私も頷いた。

 

「面白れぇじゃんね、この『大野土佐日記』に書いてあるこんを、こうやって読み解いていくと、甲州金山の衰退の理由まで判っちもうだから・・」西島さんはやや興奮している様であった。

「まだまだ検証してみんと成らんこんもいっぺえあるけんが、大筋じゃぁそう考(かんげ)えることも出来そうだな・・」

館長はこれからやらなくてはいけないことが沢山あるのか、西島さんほど無邪気に喜んではいなかった。

「秋山さんよおまんも当分ボケちゃぁ居られんどな。あはは」西島さんは館長をからかって、喜んだ。

「まぁオレの代で済むか、望月君の代まで掛かるかどうかは判らんけんが、これから検証しなくちゃならんこんがいっぺぇあるだよ・・」館長は望月さんの肩を叩きながら言った。

「望月君も燃えてきたずら」西島さん、今度は望月さんをからかった。

「ええ、まぁ・・」望月さんも満更ではないようで、嬉しそうであった。

私はこれで甲斐君から頼まれていた調査結果を、論理的かつ合理的に報告することが出来ると喜んだ。山梨に来た目的が達せられたと思った。

 

「それにしても頼朝は何で安田義定一族を滅ぼしちまっとうずらかね、西島さん」望月氏が突然西島さんに尋ねた。

「ほりゃぁおまん昼も言ったけんが、安田義定一族や甲斐源氏の力が強大に成るのを怖れたからさ。望月君考えてもみろしね、もし安田義定一族を壊滅させず甲斐源氏の力を削がずにいたら、鎌倉幕府がどうなったか・・」

「西島さんが云われるように『信濃源氏』と『甲斐源氏』が『頼朝と北条氏連合』と同レベルの存在であり続けたとして、木曽義仲の上洛がきっかけで信濃源氏が勢力を失い甲斐源氏が力をつけたままだったら、信濃はたぶん甲斐源氏の勢力下におかれたでしょうね。地理的に言っても・・」私が言った。

「そうか、信玄公の時代と同じか・・」望月氏がつぶやいた。

「信玄公より三百四・五十年前に、甲斐・駿河・遠江(とおとうみ)・信濃を甲斐源氏が支配し続けていたら、ほしたら・・」西島さんがそういうと、
「そしたら鎌倉幕府や室町幕府が出来る前に戦国時代に突入して、群雄割拠が始まった、ちゅうこんも考えられるね・・」館長が続いた。

「日本の歴史が大きく変わっていたでしょうね、きっと。秀吉の天下統一より2・300年早く天下統一が済んでたかもしれませんし、甲府幕府が出来てたかもしれませんね。妄想ですが・・」私が大いなる仮説を開陳した。

 
「ハッハッハ。まぁ歴史にifは禁物だっていうけんが、夢を見るのは勝手ずら・・。楽しいじゃんね」西島さんは愉快そうにそう言った。
暫く、安田義定一族がもし存続していたらと言ったifの話で私達は盛り上がった。
 

もうボチボチ終わりにするか、と締めの話が出た時に、私は「ほうとう」をリクエストした。量はたくさんは要らないが、せっかく山梨に来たのだから最後は「ほうとう」を食べたいと、希望したのだ。

西島さんが女将に尋ねたところ大丈夫ということで、作って貰うことにした。

「ほうとう」を待っている間に、私はみんなに今回のお礼を言った。

「今回はいろいろお世話になりました。これで私も札幌の友人に実りのある、調査報告が出来そうです。ありがとうございました」

私の話を最後まで聞く前に西島さんが言った。
 

「いやいやこちらこそだよ、立花さん。おめえさんが『大野土佐日記』なんちゅう面白れぇ資料を持って来なんだら、おらんとうだって判らなかったじゃんね。

荒木大学なんて人が居たこんだって知らんし、その人が甲州の金山衆をごっそり引き連れて、考えも及ばん蝦夷地に行ってたなんてね・・」

「その結果甲州金山の開発は2・300年停滞してしまいましたけどね・・」私は言った。

「まぁほうだけんが、おかげで甲州金山が中断してた理由(わけ)だって判ったし、湯之奥金山のこんで、判ったこんだってあるじゃんな・・。なぁ、館長!」西島さんの突然の振りに、秋山館長も肯いた。

そして館長は『大野土佐日記』のコピーをもって、意外なことを言ってきた。

 

「立花さん、おらんとうもここに行ってみてぇじゃんね。北海道の知内町の雷公神社や荒木大学の遺跡が在るっちゅう処にさ。ほうは思わんかい?おまんとう」館長は興奮気味に西島さんや望月さんの顔を見て、言った。

「あはは、好く言った秋山館長!」西島さんは手を叩いて喜んだ。望月さんも同じように考えているのか、嬉しそうに眼が笑ってた。

「立花さん、いっぺん骨を折ってくれんけおらんとうのために・・」館長が言った。

「そうですね、面白そうですね。確かに知内に行ってみれば、何か新たな発見もあるかも知れませんね。

館長や西島さんが行ったら、何か思いもよらない化学反応が起きるかも知れませんしね・・。了解です。札幌の友人に連絡とってみますよ」私も喜んで快諾した。

「悪いじゃんね・・」館長が嬉しそうに言った。望月さんもニコニコしてた。

「おもしれえなぁ、長生きはするもんだなアハハ・・」西島さんはご満悦であった。

 

それから私達は締めの「ほうとう」を食べて、心も体も満たされて店を出ることにした。

会計に若主人が来た時、西島さんが尋ねた。

「ヒロシ、さっきの宿題は出来とうか?」先ほどの狂歌の、下の句を求めた。 

「う~ん、なかなか難しいじゃんね」若主人はそう云いつつもメモを見ながら

「有田川 流れる水の 早かれば 掉さす身には 心休まず」

「うん。・・でその心は?」西島さんが間をおかず尋ねた。

「う~ん、そのまんまじゃダメけ・・。流れが速いから、船頭の気が休まらんちゅうのじゃぁ・・」若主人は西島さんに請い願った。

 

「だめだな修行が足りん。ヒネリが無ぇ」けんもほろろに西島さんは応えた。

「ヒロシ、おまんの給料からビール代二本分引いとくからな」女将は笑いながらそういうと、会計を続けた。私達は、会計を済ませて店を出た。

西島さんには、奥さんのお迎えが来ていた。

私は、呼んでおいたタクシーで身延駅のホテルまで帰った。

 

ホテルに戻ってから、札幌の甲斐君に今日の山梨の訪問に少なからぬ収穫があったことを、私はメールで知らせた。

東京に戻ったら、改めて調査結果をまとめてレポートすることを記しておいた。

期待しても良いぞ。と一言添えて・・。

 

 

 

 

        『大野土佐日記』冒頭部の抜粋(吉田霊源編)

 

元久二年(1205年)筑前の舟漂流に及び・・漂ひ候処、遥か北に当て一つの嶋見えたり。

舟中大いに悦び・・・水主二人炊(かしき=飯炊き)一人陸地へ上がり候処は(蝦夷地)知り内浜辺の由・・・。

炊の者唯一人水の手を尋ね候。・・・彼の滝の下に光し物これあり候ゆえ取り上げ見候処、石に似て石に非ず・・・丸かせ(金塊)というものならんか・・・と水桶の中へ隠し…密にして其身を離さず持ちゐけり。

右の炊程なく暇を相願ひ生国甲斐へ立ち帰り、即ち当主甲斐国いはら郡荒木大学へ差し上げる

大学殿にも右の丸かせ一覧なされ殊の外ご喜悦に思召さる・・。

                                    ( )は、筆者の註 

            

吉田霊源氏の『大野土佐日記』は、昭和三八年に当時の知内村の後援と雷公神社二四代宮司大野七五三(なごみ)氏の協力を得て、郷土史家の吉田霊源氏が原文を読み下し文に構成し直し、刊行した書物である。                     
 

 

 

 

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 



〒089-2100
北海道十勝 , 大樹町


 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
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