春丘牛歩の世界
 
昨日は”大暑”で、24節気の中では最も暑い日であった。
そして明日は”土用”で、やはりもっとも暑い日を象徴する日である。
北海道に来てから、本州に居た頃程土用にウナギを食べたいとはおもわなくなったが、気候の違いであろうか・・。
とはいえ、今日十勝には”熱中症警戒アラート”が発令された、と言うからそれなりに暑いのは間違いない。
 
次の節気の”立秋”は8月7日という事なので、それまでの二週間近くがこの夏の暑さのピークという事に成る。
今年は去年に比べ、4・5度は低い様に感じている。
日の出、日の入りもそれぞれ短縮しており日照時間が減ってる。季節は順調に推移しているのだ。
 
 
        
       
 
 
 
 
                 お知らせ
                        2024/07/14
 本日新しい物語『甲斐源氏と源義光』を公開しました。安田義定シリーズ第7弾になります。
 
*7月9日、下記のコラムを
「コラム2024」に掲載しました。  
 
    ♠     ♠     ♠     ♠
 
【新システム開始以降】               
                    2024/07/06
 
6月1日以降「新HPシステム」での運用に成りました
・その後も、以前と変わらず当HPにアクセスいただく方々が、少なくない事に驚いています。見るべきコンテンツが殆ど無いのにも拘わらず・・。
・順次新しい「コラム」や「物語」を公開していますので、宜しくお願いします。                         
                                   
                       春丘牛歩           
 

  南十勝   聴囀楼 住人

          
             
          
            
                                                                  

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「新規」の定義は、公開から6ヶ月以内の作品です。
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      予告⁉
7月いっぱいで閲覧が終了するのは下記コンテンツです。
 
【物語類】
『「無位の真人」、或いは北大路魯山人』
 
今後とも引き続きよろしくお願いします。
            
      2024.07.15
             牛歩
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
   
      
 
・これまでの6年間は、お世話になりました。ご縁がありましたらお会いいたしましょう・・。

 
                                       6月01日以降閲覧可能な作品類 】
 
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2024年は元旦からの「能登半島大地震」によって、いきなり厳しい年がスタートしました。そして翌2日には羽田空港での「飛行機同士の接触⇁炎上」と続き、今年は一体どんな年になるんだろうと、緊張感の漲る年の初めでした。
暫くはその緊張感を緩めることなく、日々を過ごす事に成ろうかと身を引き締めようと想っているところです。
 
それと去年は私が過去にこのコラムのシリーズで指摘して来た話題の、延長線上に繋がる事件や事故が続き、改めて過去のコラムを読み返しており、かつての自分の指摘や問題意識がある程度”的”を得ていた事を、再確認すことが出来ました。
 
 
   ・オリンピック利権というビジネスモデル(2021.6月):その後の広告代理店幹部の逮捕
  ・「晩節を汚す」或いは「老害(2021.2月):オリンピック汚職や自民党裏金問題
   ・余人をもって代え難し(2020.5月):安倍派・二階派への裏金事件への検察捜査開始
   ・北海道とコロナウィルス2(2020.4月):地方自治体首長の能力差が出る天災時の対応
    平常時と緊急時(同年3月):同上
   ・リニア新幹線と大井川(2019年6月):リニア新幹線工事が沿線の地下水に与える影響
  ・芸能事務所とタレント(2019.7月)ジャニーズ事務所と吉本興業松本人志等の不祥事発覚
  ・日大アメフト問題(2018、5月)日大アメフトの問題は、学校法人の組織体質問題だった。
    *上記は2つは「コラム」ではなく「ブログ」の中に記載
 
    
今振り返れば「安倍政権」が検事総長に「黒川」氏をゴリ押しようとした、その原因が「オリンピック汚職」や「自民党裏金疑惑」への、検察の捜査が及ばない様にしたことだと良く理解できる。
また、今回の「能登半島地震」での石川県の馳知事や岸田首相の対応を観ていると、天災等における緊急時に、的確な行動のとれる有能なリーダーの有無が、県民や被災者の生命の存亡に大きな影響を与えることが再確認出来た。
 
その一方プーチンに依って引き起こされた「ウクライナ侵略戦争」と、ネタニヤフイスラエル首相に依るパレスチナ「ガザでの虐殺」が起きている。
いずれも民族主義者に依る、他国侵略や他民族への戦争はまだ続いており、今年も残念な事にまだ続く可能性が高い。
 
 
 
 
               <  目 次 構 成  >
 
                       1.「天災」と「人災」(01.10)
      2.「クラス会」   (03.11)
        4.「青い春」と「チャレンジ虫(04.19)
        5.「スマホ」という文明の道具 (05.28)
            6.「民主主義」という社会システム(07.09)
 
 
  
 

  民主主義、という社会システム

 
ここ数週間の間に、世界規模で”民主主義”という社会システムについて、考えさせられる事態が発生しており、自分自身の中でこのテーマについて改めて考えてみた。
 
それは「イギリスの総選挙」「フランスの総選挙」「イランの大統領選挙」「東京都の知事選挙&都議補選」が、相次いで行われたことがキッカケであった。
 
これらの内「イランの大統領選挙」を除けば、概ね先進国で行われた議員選挙であり、近代の「民主主義」国家において実施された、国家経営や統治の担い手=政権を選ぶための選挙であった。
 
 
これらの選挙における結果は
「イギリス」においては、14年間続いた保守党(コンサバティブ)政権から、労働党政権への政権交替という結果をもたらした。
ご存知の通り「イギリス社会は王室の主を国家元首として、国民が選挙で選んだ代表者が内閣を率いて、国家の統治・運営を担うという社会システムで、17世紀以降400年以上続いているシステムである。
 
そして「明治維新以降の日本」は、このイギリス型の社会システムを手本としてきた。「天皇を国家元首」として「普通選挙」に依って選ばれた内閣が、国家の統治機能を担うという構図が、イギリスに似ているからであろう。
 
 
実際には明治維新後の「薩長軍閥政治」や「元老政治」等の紆余曲折を経て、第二次世界大戦の敗戦に依る「アメリカ主導の民主主義」導入が、今日の日本の社会システムを創って来たのであった。
 
そして今回イギリスで起こった様な「政権交代」は、「小選挙区制」という選挙システムから起こった事であり、日本でも30年近く前に「小選挙区制」が導入され、今日に至っておりこの点でもシステム上は、参考になる。
 
 
また「フランスの総選挙」はフランス革命以降2百数十年にわたって、何度か繰り返された民衆の革命に依る帝政(皇帝支配)打破、と「帝政の復活」といったプロセスを経て、確立されたのが、現在の「第五共和制」という社会システムである。
 
旧植民地国の独立を機に1950年代後半に確立されたフランスのこのシステムは、大統領が大きな国家統治の権限を有しており、その点がイギリスや日本の仕組みとは異なる。
 
 
 
                 
 
 
 
その大統領の権限の強さが、今回の様な「マクロン大統領の一方的な国民議会解散」をもたらし、そのマクロン大統領のEU主導の国家統治手法への反発が、「マクロン与党の大敗」を引き起こし、「極右勢力の伸長」や「極左を中心とした左翼連合の躍進」という結果を、もたらしたのであった。
 
結果的には1回目投票でルペンの率いる「極右連合」躍進への危機感を抱いた、「左翼連合」と「マクロン与党」の決選投票での「候補者一本化」が功を奏し、「極右連合」を第3党に留まらせることが出来た、というのがつい先日の選挙結果である。
 
フランスの選挙制度では候補者が「50%以上の得票率」を取った場合にのみ、当該選挙区の代表者に成り得る、というシステムに成っているため「1回目の投票」→「決選投票」という仕組みになっている様なのだ。
 
 
 
また中東の雄「イランの大統領選挙」は、あまり民主的な選挙とは言えない仕組みの選挙である点を理解した上で、考えなくてはならないのだが、国民が「直接投票」に依って大統領を選ぶ選挙で、今回は「改革派」の候補が「保守強硬派」の候補に300万票の大差をつけて勝利している。
 
イランの選挙の特殊性は「宗教指導者」の意を受けた「候補者資格審査会」が関与し、事前に候補者を審査しセレクトするという仕組みがあり、そのセレクションを通過した人物だけが大統領選挙に、立候補できるというシステムにある。
 
現在であれば「最高指導者ハメネイ師」の意に沿わない候補者は、事前審査で「弾かれてしまい」立候補すら許されない。
従って我々の知ってる先進国の「民主主義」とは異なり、宗教が国家を支配している国での「民主主義」という特殊性を持つ。
 
 
日本ではなじみが無いが戦国時代の一向一揆の時に、浄土真宗の蓮如が信徒たちをコントロールして、織田信長や上杉謙信と闘ったのと同じような構図だと、私は想っている。
従って近代的国家とは言えない、宗教国家の下での『民主主義』なのである。
 
そのイラン大統領選挙は、結果的には「改革派候補者」が勝利し、欧米との協調路線をとる大統領が誕生したのである。
しかし宗教国家イランでは「宗教指導者」という絶対権力者が居て、保守強硬派の「ハメネイ師の意向が政治をコントロールする」というシステムである以上、新大統領が欧米協調路線を行使するには、少なからぬ制約を受けることが予測される。
 
 
そして同じ日に投・開票が行われた、「東京都知事選」と「都議会の補欠選挙:9選挙区」である。
結果的には都知事選挙には現職の小池氏が当選したが、それ以上に私が注目していたのは「都議補選」の結果であった。
 
都知事選挙の方は、口角泡を飛ばし青筋を立てながら現職を攻撃するだけの、野党の元参議院議員や、人口3万人にも満たない地方都市の市長職を投げうって、SNSを駆使して都知事選に挑んだ候補とが破れ、百戦錬磨のしたたかな現職が勝ったのであるが、これは役者のレベルが違い過ぎたのであり、その結果にはたいして驚いてはいない。
 
むしろ私は「都議補選」の行方に、世論の動向を押し測る上で注視していた。
 
6月の定例国会で、全く実効性を伴わない「政治資金規正法」が可決成立した後の、大きな選挙であったからである。
東京都民の民意がどこら辺にあるのかを確認するのには良い機会であり、バロメーターであった。
 
都議補選の結果は、政府自民党は8選挙区に候補者を立て2勝6敗であった。
その他は都民ファーストの会3勝1敗、立憲民主党1勝2敗、無所属・諸派各1、共産党・維新の会0勝であった。
 
 
 
        
 
 
ここ数日の間に起こったイギリス/フランス/イラン/東京の選挙結果は、上記の通りであったが、私はこれらの国々の選挙制度の違いや、その投票結果をみて民主主義の多様性と国民の出した審判の結果について、改めて考えてみた。
 
その結果言えそうなのは、「イギリス」や「フランス」「日本」といった所謂「先進国」の選挙制度は、概ね国民や有権者の民意が比較的ストレートに選挙結果に反映できる、といった仕組みになっており、近代的「民主主義」の原則が貫かれている社会である、という事であろう。
 
 
「事前に宗教勢力のセレクション」を経てからの国民投票という、「イラン」の様に宗教が国家をコントロールする、中世社会の様な社会システムを採用している国に比べ、「民意が直接国家の統治機構に影響を与える」度合いが強いのが、現在の日本を含む欧米等先進国の民主主義であるという事を、改めて確認することが出来た。
 
それらを前提にして私が生活してみたいと思っている国家は、当然の様に「国民の民意が社会の統治機構の在り方に影響を与える」国家だと、思っている。
 
 
実質的に「民主主義的な選挙制度」のない、北朝鮮やミャンマーなどの「軍事国家」や、選挙結果を諜報機関や治安機関が不正操作する、ロシアやベラルーシの様な「治安機関支配国家」等では、ストレスが溜まってとても暮らすことが出来ない。
 
更には「民意をくみ取る選挙制度」そのものが存在しない、中国の様な全体主義国家は言うに及ばず、なのである。
 
以上がここ数週間の間に起きた、世界の主要国の「総選挙」や「大統領選挙」結果を知って、私が改めて感じた感想である。
 
 
 
             
                    スターマー新英国首相
 
 
 
 
 
 
 

 「スマホ」という文明の道具

 
 
先週観たTV番組の中に、私にとって興味深いテーマの放映があり、改めて「スマホ」について考えさせられた。
 
その番組は、NHKBSで深夜時間帯に放映されていた「スパイウェア”ペガサス”」に関する「調査報道」の記録、であった。
 
この番組は「BSドキュメンタリー」という骨太のジャーナリズム番組であり、私が時々チェックするまともなジャーナリズム番組で、なかでも数少ない「信を置いている番組」の一つである。
 
当該番組はNHK自らの制作というより、海外の提携先の番組などから選び抜いた作品を放映している、地球規模の課題や問題を放映している番組である。
 
今回の番組は、フランスとアメリカの報道機関が合同で制作した「フォービドン、ストーリーズFilm」の作品であるとの事。
 
 
深夜の時間帯で二日間合計100分近く、前・後編に分かれて放映されたその番組が取り上げていたのは、仏の「ル・モンド」を初めとした、「ガーディアン(イギリス)」「ワシントン・ポスト(USA)」等、世界のまともなジャーナリスト系の報道機関17社が集まった連合体で、「調査報道」を主体とした世界的な報道機関ネットワークが行った、「スマホのハッキング」に関するドキュメンタリー番組である。
 
 
具体的には「スマホ」の中に潜ませた「スパイアプリ」を使った、「個人情報の乗っ取り」の結果発生したと想われる、「事件」や「事象」の検証プロセスを記録し、編集した番組であった。
 
サウジアラビアの反体制派ジャーナリスト、「ジャマル・カシュギ氏暗殺」、ギャングと結託したメキシコの州政府によって引き起こされた「汚職摘発ジャーナリストの暗殺」、アゼルバイジャンの「反体制ジャーナリストネットワークの摘発」、UAEアラブ首長国連邦の「王族王女の監禁事件」、モロッコによる「マクロン仏大統領周辺の監視及び情報取得」といった事件と、それを可能にした「スパイアプリの関係」の解明である。
 
 
 
 
             
                    左:ジャマル・カシュギ氏
                右:ムハンマド皇太子
 
 
 
フランスとアメリカの番組制作会社が作成したこのドキュメンタリー番組は、私にとってはここ数年間に断片的に報道されて知っていた、国際的な事件やスキャンダルの発生に、「スマホ」がどのように関わって来ていたかを知る、好い機会であった。
 
番組の内容は詳述しないが、ざっくり言うとこれらの諸事件や・諸事象が起こる際に活躍したのが、イスラエルのIT企業「NSO」が開発し運用した「スパイアプリ:ペガサス」という「個人情報乗っ取りシステム」なのであった。
 
 
イスラエルの情報機関「モサド」のIT専門部隊出身者と、イスラエルの最先端IT企業が結合して誕生した民間企業「NSO」は、ネタニヤフ首相もBackÙpし関与した「スパイウェア」を開発し、40ヶ国以上の政府機関を主要顧客とした、年商数千億円規模の最先端IT企業である。
 
そこで「盗まれ」る「個人情報」の対象は、スマホの中にアプリとして活用され、貯蔵されたすべての過去の蓄積情報、なのである。
 
即ち「通話先:電話番号」「会話内容」「写真/動画情報」「SNSの利用履歴:閲覧や投稿内容を含む」「位置情報」「ダウンロードした音楽」等々の膨大な蓄積DATAである。
また遠隔操作で、「カメラやマイク」のコントロールも出来るアプリだという。
 
 
自分のスマホがこの「スパイウェア”ペガサス ”」に感染し、個人情報が「乗っ取られた」事を知った、ジャーナリストや反体制派の活動家・弁護士たちが、その事実を知らされた時に呟いたのが、
「まるで、私の隣に常に居て、私を常に監視している様だ・・」といった類の思いや感想を述べていた。
実際にそうであったのだろう。
 
 
文明の利器である「スマホ」は、持ち歩く「小型コンピューター」であり、個人情報満載の精密な情報機器なのであるから、蓄積された「スマホ内情報」を乗っ取られる事は、自分の「個人的な情報」が常に、「アプリ購入者=政府機関」の「NSO」への依頼によって、「見ら」れ「監視され」「分析され」ている事を意味する。
 
因みにこのソフトは、「政府機関」にのみ販売や運用され「業務契約」を締結した上で販売し運用している、という事である。
従って個人への販売や依頼は受け付けない、という事であるが、それはこのドキュメンタリーが作成された時点での事である。
 
この調査報道は「2020年から取材や検証作業が行われ」一年後の「2021年7月」に。加盟する17の報道機関が世界中で、同時刻に報道・公開する事で世界中に知られることに成った。今からほぼ2年ほど前の事である。
 
そして当該Filmの完成は、編集等を経た2023年の事であった、という。
 
 
 
             
 
 
因みに「イスラエルとサウジアラビアの急接近」がここ数年進展したのは、このスパイアプリをネタニヤフ首相がムハンマド皇太子に提供した事にも関連があるのではないか、というのがこの番組の推測であった。
 
要するにイスラエルの先端IT企業の製品=スパイアプリの提供に依って、サウジアラビア王室のスキャンダルや汚職等を摘発して来た「ジャーナリスト暗殺」が、成功した事への見返りという面も含めて、両国の「国交正常化」に役立っていたのではないか、というのが番組の分析結果であった。
 
 
またこの番組では「アゼルバイジャン政府」が、長期独裁政権の構造的な汚職問題を摘発し、報道し続けた女性ジャーナリストの「支援ネットワークの摘発」も扱っていた、との事であった。
 
がその報道内容を観ていて私が想起したのは、「アゼルバイジャンvsアルメニアの領土紛争」の際の軍事利用であった。
 
2・3年前の「報道1930」で、番組のアドバイザー堤伸輔氏が語っていた事を私は思い出したのである。その時堤氏は
 
「『アルメニア軍』の兵士達は、『アゼルバイジャン軍』のトルコ製ドローン攻撃に依って、潜伏先をことごとく突き止められ攻撃され、多数の死者を出し多大の被害を被った」
 
といった様な事をニュースの解説で、指摘していたのであった。
 
 
私はこの番組を観ながら「アルメニア軍兵士」の潜伏先を突き止めたのは、スマホのスパイアプリ「ペガサス」の「スマホ内の位置情報検索」情報に依って行われたに違いない、と妄想した。
 
「反体制ジャーナリスト支援ネットワーク摘発」で、既にイスラエルのIT企業「NSO」と「業務契約」を締結していた、「アゼルバイジャン政府」がアルメニア軍兵士のスマホ情報を取得し、位置情報を特定した上で、トルコ製のドローンを使った攻撃をしたに違いない、と頭の中のシナプスが繋がった、のである。
 
そう考えると、この軍事衝突の顛末が理解できる。
 
因みに、アルメニアはこの軍事衝突の敗戦により、領土問題で敗れそれまでの領土の一部をアゼルバイジャンに割譲した、のである。
従ってこのスパイアプリの活用は、アゼルバイジャンの領土拡大という政治的・軍事的な課題に、大いに役立ったことに成る。
 
 
 
           
                 斜線のエリアが両国の紛争地「ナゴルノカラバフ」
 
 
と、言うことはこのスパイアプリを導入し活用すれば、当該国政府や情報機関が抱える軍事的・政治的・治安的課題は解決する可能性が高い、という事を意味する。
 
現在直面している「イスラエルvs ハマス」の軍事行動という名の、「パレスチナ人虐殺行為」にも当然使われて来たであろうし、「ロシアのウクライナ侵攻」に際しても利用された可能性は高い、と私の妄想はさらに膨らんだ。
 
取り分けイスラエルの国策で作られたIT企業「NSO」は、「ハマス対策」としては早い段階で、同様のアプリを開発し運用していたであろう、と考える事は自然である。
 
 
「ロシアのウクライナ侵攻」という名の「侵略戦争」に際して、当該スパイアプリの導入をプーチンが欲しがったとしても不思議ではない。
 
ネタニヤフとプーチンの関係の太さを考えれば、それも大いにあり得るしその効果の大きさは、かつてのソ連の一部であったアゼルバイジャンの政府機関から知らされていた可能性はかなり高いだろうと、私は更に妄想している。
 
 
しかしながら当該スキャンダルが世界中に拡散したのが2021年7月であった事を考え、「ウクライナ侵略戦争」が2022年2月であったことを考え併せると、ウクライナのゼレンスキー大統領達はこのスパイウェアの餌食には成らなかったのかもしれない。
 
ウクライナの政府機関はこの「スパイアプリ:ペガサス」の存在を知ってからは、すぐに対策を講じていただろうと、想われるからである。
 
ウクライナはIT先進国であることから、この様な「スパイアプリ」への対抗措置を素早く取ったであろう。
相手がスパイ大国ロシアである事を考え併せれば、当然の事である。
 
 
いずれにしても今回の「スパイアプリ:ペガサス」の問題は、大きな教訓を私に与えてくれた。
 
即ち、「スマホ」という名の「文明の利器」は、非常に便利で使い勝手の良い「道具」であるが、それが何らかの方法によって「乗っ取られた」場合は、実に「脆く」「危うい」存在である、という事を知っておくべきである、という事である。
 
 
「スマホ」は便利だからと言って、すべての個人情報をその中に埋め込んでおくのは危険である、という事になる。
常に「乗っ取られる可能性がある」という事を自覚しておく必要があり、自己防衛策として、機密事項は出来るだけ「スマホ」以外の方法で確保しておく必要がある、という事であろう。
 
今回のスパイアプリ”ペガサス ”を開発したイスラエルのIT企業「NSO」は、この報道を受けて破滅の道を辿った、という事であるが、この手の「スパイアプリ」の入手を望む国家や政府が存在する限り、第二第三の「NSO」生まれてくる事は容易に想像することが出来る。
 
 
需要がある限り、必ず供給は行われる、からである。
また、ロシアや中国・北朝鮮といった独裁的な非民主主義国家や政府機関が、自ら同様のアプリを開発したとしても、私は驚かない。
 
民主主義を恐れる独裁国家にとってこれらの「道具」は、国民を監視し管理するためには最も有効な「道具」と成り得るから、である。
 
そのリアリティを理解した上で、私達も便利で使い勝手の良い「文明の利器」と付き合っていかなければならないのである。
何よりも自分自身と大切な人達を守るためにも・・。
 
 
 
                   
 
 
 

  青い春」と「チャレンジ虫」

 
 
今年の春は例年より早く、ここ北海道十勝にも訪れているようである。
例年だとGW頃までは残っている根雪は既にすっかり溶けており、家の前の牧草地などでも白い雪は消え失せ、青い草が一面を覆い尽くしている。
 
我が家の庭では春の先駆けである「福寿草」は既に咲き終え、濃紺の「クロッカス」や白や黄色の「水仙」が庭を彩っており、春の到来を実感しているところである。
 
 
更には敷地の一画に生える野草である「行者ニンニク」も、かなり目立ち始めておりボチボチ初摘みをしようかと、考えている。
 
その「行者ニンニク」が採れ始めると、追いかけるように「フキノトウ」や「コゴミ」「ゼンマイ」といった野草たちも、あちこちに芽を出す様に成る。
 
そして未だビニール掛けをしていない、ビニールハウスの土壌からは「アスパラガス」や「ニラ」がにょきにょきと、生えてくるのである。
 
この様にして我が家の春は始まり、一面に緑色が茶色い土を覆い尽くす様に成るのだ。
文字通り「青い春」がやって来る。
 
 
                    
                       初摘みの行者ニンニク
 
 
漢文化の影響を受けている我が国において、「春」は「青色」で語られ、方位としては「東」を意味し、ライフステージにおいては「10代半ば~30手前」を指し、「青春」と称される。象徴は「青龍」である。
 
このステージは発展途上であるが故に「無限の可能性」を感じさせ、「前途有望な将来に対する期待」や少なからぬ「夢想」や「妄想」を、私達に抱かせる。
 
もちろん現実にはその後の「多くのチャレンジ」や「試行錯誤」の結果、少なからぬ「失敗」や「壁の存在」を経験し、「学習」を積み重ね「挫折」をも体験する事で、自分という人間の「限界」や「身の丈」のリアリティを識ることに成る。
 
そうして次第に人間的には「丸く」成って行き、「とんがり」は消え「ムダな事」はしなくなる。
 
 
この様なプロセスを経て「現実を受け入れ」て、「想定内の日常」の中を毎日生きてゆくことに成り、やがて家庭を築き、家族を養うようになり一家を形成するようになる。
 
このステージを漢文化圏では「朱い夏」と言い、「朱い=赤・紅」色で表現され「熱い季節」を指す。
方位としては「南」を示し、ライフステージでは「30代~50手前」を指し、「朱夏」と称す。「朱雀」がその象徴である。
 
それから先は「白い秋」「黒い(=玄い)冬」に向かい、いよいよ「西」や「北」を指す様に成るのである。「白虎」「玄武」がその象徴である。
 
 
             
 
こんな風にして私達は年齢を積み重ねていくのであるが、ときおり無性に新しいことにチャレンジしたくなる事があり、少なからぬ回数において「想定内の日常」を打ち破るアクションを、行いたくなる。「変化を求める」のである。
 
もちろん個人差があるのであるが、私などがその手の「チャレンジ」を行いたくなるのは、これまでのところ「人生の節目」を迎えた時期であり、「50歳前後」「還暦を迎えた頃(60前後)」「身体的な老いを感じた頃(70前後)」といった感じであった。
 
私の場合ほぼ10年周期で、この手の「変化を求める」ため「問題意識の発生」や「チャレンジ精神」が湧き起こって来たようだ。
 
 
「身体が元気」で「心も健全」で「時間がたくさん残って」っていて、「多少財布にゆとりが残って」いれば、単純な私はすぐさま「行動力」に任せて「チャレンジしまく」って来たのである。
が、「残された時間が多いとは言えず」「身体的にもあちこちで欠損が生じ」たりすると、簡単に「チャレンジ」することは出来ず、おのずと慎重にならざるを得ない。
 
将に「自分の身の丈」に合った範囲での「チャレンジ」、という事に成り「実現可能」な事柄にフォーカスを絞った「アクション」、という様に限定的に成ってくるのである。
 
その上、「アリさん」タイプの人間ではない「キリギリス」タイプの私は、「限られた原資」を使っての「チャレンジ」という事で、更なる絞り込みが必要に成る。
 
 
今年70歳の古稀を迎え「白秋前期」から「白秋後期」に差し掛かる身としては、「青春」や「朱夏」の世代の様に無茶をする事は難しくなってきている。
 
しかしながら、私は腹の中に天然の「チャレンジ虫」を抱えているため、キット死ぬまで「チャレンジは止めない」だろうという事が、自分でも判っている。
 
困ったものだが、その腹の中の「チャレンジ虫」と「どうやって折り合いをつけ」ていくか、を考えながら今でも毎日闘っているところだ。
 
 
そして、実年齢よりも「若く元気だねぇ」と周囲からよく言われるのは、この腹の中の「チャレンジ虫」のお陰かも知れない、などと時折想ったりするのである。
 
身体的には明らかに峠を越えた私は「チャレンジ虫」の突き上げを食らいながら、今年の「朱夏」や「白秋」「玄冬」をどう過ごそうか、考え始めているところである。
 
 
 
 
 
 

 「社会派サスペンスドラマ」或いは「相棒」

 
 
私は比較的「ミステリーもの」といったジャンルの、TVやDVDを見る傾向がある。
 
ではあるが「ミステリーもの」であれば何でもよいか、と言うと必ずしもそうではない。
やはり見ごたえのある番組や作品、それなりの内容でないと、納得しないし継続的に視聴し続けることは殆ど無い。
 
そんな中で比較的よく観る「ミステリー」として挙げることが出来るのは、「英国製のサスペンスドラマや番組」である。
やはりかの国のこの分野の作品はレベルが高く、クオリティーが維持できているものが多いようである。
 
「ポアロ」「ホームズ」「ミスマープル」といったおなじみの作品はもちろん、「刑事フォイル」「主任警部モース」「ニュートリックス」といった番組も比較的よく観る。
 
そしてこの「英国製ミステリー」の基盤を創ったのは、何と言っても「コナンドイル」だと私は想っている。
「シャーロックホームズ」がその象徴であるが、日本で言えば明治時代初期に当たる時代に彼に依って書かれた、本格的「ミステリー」の存在が、その後のイギリスの「推理小説」の基準と成り、それ以降メインストリームとして「推理小説」の方向性を決定づけた、と私は想っている。
 
 
                      
 
 
その後創られた「アガサクリスティー」や「アンソニーホロビッツ」の作品群を観ても、彼らの作品が「コナンドイルの作品」をかなり意識している点を、私は感じることが少なくない。
 
そしてそのコナンドイルの作品の特徴でありかつ魅力となっているのは、やはり「社会的な背景を背負ったミステリー作品」である点が、大きいようである。少なくても私にとってはそうである。
 
「市井の殺人事件」や「社会的事件」といった現象の背景に、「社会的な要因」が在って当該する「事件」や「トラブル」が起こっている、という因果関係をしっかり押さえた構成になっている点が、彼の創作する「ミステリー作品」や「物語」に、深みや面白みを感じさせてくれている様に、私には想われる。
 
 
日本では「松本清張の作品」に同様の傾向があるが、彼の場合は「マニアックなトリック」に走る傾向があり、その点が私には鼻につく。
その代表例が『砂の器』で、野村芳太郎監督の「映画」の作品と松本清張の「原作=小説」とを比較してみればよく判る。
 
『砂の器』が高く評価されるのは、原作の「小説」以上に「映画」の作品が醸しだす「映像」や、その背景にある橋本忍らの「脚本」の力が高く評価されているからだ、と私は確信している。
 
映画『砂の器』を観た後、原作の「小説」を読めば私の言っている事を理解してくれる人も多いのではないか、と私は想っている。
かの『砂の器』は日本の映画史上に残る、優れた「映像作品」だと私はそう位置づけ評価している。
 
 
                      
 
 
 
そんな私が、日本のTV番組の中で殆ど唯一と言ってよくチェックしているのが、テレ朝の「相棒」である。
 
この番組の魅力は、先ほど述べたような「社会的な背景を持ったサスペンス番組」であり「社会派刑事ドラマ」と言ってよい内容を持っているから、である。
毎週のように欠かさずチェックしているのは、この番組がやはり私の好みにハマっているからでであろう。要は私の価値観がそのまま反映しているのである。
 
取り分け、シーズンの初めや終わり、そして元旦に放映される二時間のスペシャル番組は見応えがある作品が多かった。
 
そんな中で今回シリーズの「最終回」スペシャルが、先週の6日と先日の13日に放送され今回も私は観た。
下記はその視聴感想である。(=放映後の翌日このHPの扉に書いたブログの転載)
 
 
*3月6日の番組を観終わった感想
 
今回の「相棒」は実に興味深い展開であった。
久々の政治ものであり実に多くの伏線が貼ってあり、来週の後編が大いに期待できる内容であった。
 「地元のイチゴを贈って来た官房長官の犯罪」
 「過激な発言の大学教授が暴漢に襲われた」
 「政治家に依る司法への介入」
 「政権を批判したTV局の人事異動」
 「TV制作プロデユーサーの死」
 「杉下右京のネットでの告知と拡散」等など。
 
現在及びここ数年間「政治」や「社会」「TV局」の中で起きていた事が、随所に散りばめられ、撒かれているのである。
・そして最も気に成るのは、今回の「最終話」が一体何を意味しているのか、である。
・この番組を観たテレ朝の経営トップの対応によっては、「相棒」の番組自体が終わり得る可能性があるから、である。
そこに私は「相棒」の名物脚本家輿水泰弘や監督橋本一、プロデューサーらのある種の覚悟を感じた、のだ。
 
来週がどの様な展開になり、「相棒」の制作者たちへの影響が今後いかに行われ、TV朝日という会社がこれからどうなっていくのか、興味津々なのである。
 
 
以上の様に、3月6日の「最終話”前編”」の内容は充実していて、沢山の伏線が貼ってあり、この時点で私はおおいに「後編」に期待したのであった。
 
というのもこの「前編」に描かれていた内容から私が独断と偏見で読み取ったのは
 
地元のイチゴを贈って来た官房長官の犯罪」は、かつて安倍内閣で6・7年間官房長官を務め、最も安定していた官房長官と一部の人達に評された「菅義偉」氏の実家は、秋田の裕福な「イチゴ農家」であり、このエピソードはその事を連想させた。
 
・「過激な発言の大学教授が暴漢に襲われた」のは、2・30年前に新進気鋭の社会学者と持てはやされ、2年ほど前に暴漢に襲われた都立大学教授「宮台真司」氏の事を彷彿させた。
宮台教授は以前ほどの輝きを失っているが、かつては「過激な発言」がウリの社会学者であった。
 
政治家に依る司法への介入」は、その菅官房長官が推し進め、自身が安倍元首相の後釜に収まった時に実現を図った、「黒川検事総長就任」ゴリ押しのエピソードを私には連想させた。
 
・「政権を批判したTV局の人事異動」は、「安倍晋三首相」「菅官房長官」「二階幹事長」の時代に、NHKで行われた「ニュースウォッチ9」「クローズアップ現代」のキャスター達の相次ぐ降番や、人事異動の事実が重なった。
 
 
これら伏線を経た上で番組の中で発生した事件TV制作プロデューサーの死」は、NHKで起こって来たこれまでの事や数年前に発生した、テレ朝の看板番組の一つ「報道ステーション」のTV制作会社(オフィス2・1)の交替や、局の制作プロデューサーが「報道番組経験者」から、「バラエティー番組経験者」へと交替させられた事実を、私は思い起こしかつ連想し、その関連性を妄想してしまったのであった。
 
これらの番組にとって「看板は前と同じ」であっても、制作会社の変更や担当プロデューサーの交替は、当事者にとっては「死」を意味するからである。
 
従って、この「TV制作プロデューサーの死」という展開は、テレ朝首脳陣、より具体的には安倍晋三元首相のメシ友だった、「早河洋」現会長への「相棒」制作陣の「メッセージ」や「覚悟」を含んだ番組なのかもしれない、と更なる妄想をたくましくしたのであった。
 
私が次週の「後編」の展開に大いに期待したのも、この様な連想や妄想が活発に働き好奇心が大いに蠢(うごめ)いたから、であった。
 
 
                       
                           テレ朝の早河会長
 
 
その様な妄想や期待があったから今回の「最終話」が引き起こすかもしれない、「テレ朝経営陣への影響」、そしてその反動としての経営陣から制作陣へのアクションがどうなるかを、私は大いに期待もし妄想を豊かにしたのであった。
 
即ちひょっとして、今回の「相棒最終話」制作陣の「メッセージ」や「反乱」が、テレ朝経営陣の怒りに触れ「番組がこのシリーズで完結してしまうかもしれない」
 
更にかつてテレ朝局内で行われて来た様に「看板だけ」残して、実質的な制作者である「番組制作会社」や「看板脚本家」「局の制作プロデューサー」の交替が、今回も行われるかもしれない等と邪推し、いろいろと妄想が広がって行ったのだった。
 
 
今回の「最終話」はそういった番組存続に繋がりかねない、今後への「影響」や「リアクション=反動」を覚悟しての「最終話」だったのかもしれない、等と制作陣の「想い」や「覚悟」を、勝手に妄想したのであった。
 
しかしながら実際に放映された「後編」は、「前編」の路線を敷衍(ふえん)するのではなく、いつもの60分番組に近いレベルの「フツーの相棒」内容であり、大いに肩透かしを食ってしまったのであった。
 
私の幾つもの「想像」や「予測」「推測」「妄想」「期待」はあえなくも飛び散り、雲散霧消してしまったのであった。
 
 
「前編」で大見えを切った割には、あっけない「官房長官の死」やその犯人の「リアリティの無い動機」、「未成熟で軽い人物像」「荒唐無稽な殺害方法」は、全くの残念な「小品」でしかなかったのである。
 
登場人物たちの設定上の役柄である、内閣の要である「官房長官」の登場も「前法務大臣」や「前特捜(検事)部長」の配役やその言動も実に軽く、リアリティさが全く感じられなかった。
残念ながら今回の「最終話」は「前編」が匂わせたような、「社会的な背景を背負った、重厚なミステリー作品」等ではなかったのである。
 
最近の「相棒」に「社会的な背景が無くなって、つまらない作品が多い」と、愚痴り嘆くことが増えた愚息の指摘を、今回の「最終話」で私は納得してしまったのである。
誠に残念で「尻すぼみ」な作品であった。
 
 
「相棒」もここらでもう一度原点に返って、「社会を意識」した「とんがった作品を」と期待するのは、無理難題な事なのであろうか・・。
それとも現在のテレ朝の首脳陣の意向を忖度して、「反骨心」や「牙」を無くしてしまった「中途半端な作品」を、今後も作り続けるのであろうか・・。
この番組の制作陣に、このままこれから先も期待出来なくなっていくのであろうか・・。
などと考えてしまったのである。
 
 
かつての「報道ステーション」が持っていた、「ジャーナリズム」としての魅力が無くなってから、地上波のテレ朝の報道番組を観なくなり、BSTBSの「報道1930」にチャンネルを替えた様に、
「相棒」から遠ざかり「Amazonプライム」や「Unext」「Netflix」等で、「英国製社会派サスペンス番組」を見ることに成ってしまうのであろうか・・。
 
そうだとしたら、誠に残念な事である。
 
ますます日本の地上波がつまらなくなり、これから私は地上波そのものを見なくなるのであろうか?
それとも地上波を離れる事で、結果的に選択肢が増えることに成った、と喜ぶ様に成るのであろうか・・。
 
 
 
 
 
 

 クラス会 (03.11)

 
 
先月下旬に郷里山梨で、ほぼ十年ぶりの高校のクラス会があった。
前回は還暦後のクラス会だったが、いよいよ今年古希を迎える年となった事から開催されたようであった。
多くの元クラスメートが現役を退き、先祖伝来の田畑を相手に農業に勤しんでいる事もあり、果樹などの忙しくなる春先を避けたこの時期が農閑期として、選ばれたのだった。
 
いつも桃やスモモ、サクランボ、ブドウといった果物類を送って頂く身としては、彼らの農繁期は避け、彼らの意思を出来るだけ尊重して合わせるのである。
 
 
私は北海道在住なので、なかなか参加出来ないのだがほぼ10年振りであった事と、次はもう会う事もないかもしれない、との思いもあって今回は参加したのだった。
 
久々の友人たちは、男性陣はすっかり髪は薄くなり顔には皺やシミ等が出ていて、年相応の風貌に成っており、女性陣も同様ですっかり「おばさん」に成っていた。
 
そして50年近く前には青雲の志を抱き、東京や神奈川の大学などに進学していた彼ら彼女達も、故郷に帰り地元の自治体や団体職員などでそれなりの役職に就いていたのであったが、退職して10年近く経つと皆、高校生の時代と同様に素に返り、すっかりフツ―のおじさんやおばさんに戻っていたのであった。
 
40年近くの社会人を経て、その間身にまとっていた様々な役職や位階の衣を脱ぎ捨てると、今では家作の果樹作りや田んぼの米作りにすっかり、勤しんでいるのである。
 
 
彼らと一晩寝食を共にして温泉などに入って、改めて「還暦」とはよく言ったものだと、感じ入った次第であった。
 
次回は5年後に、等と話し合ったのであったが私自身を含めて、果たしてこの中の何人が次回に参集できるのだろうか、と笑いながら言って石和温泉を後にした。
 
 
そんな高校のクラス会を終えて10日ほど経って、大学時代のクラスメートの訃報が舞い込んで来た。
 
昨年の11月下旬に、京都でのクラス会に一緒に参加していた友人の訃報であった。
 
彼は4年ほど前に「膀胱癌」を患っていて、入院手術してすっかり治ったと聞いていたが、最近「他の内臓に癌が転移した」と言っていたから、気にはしていたのだが、どうやらそれが悪化した様であった。
 
ほんの4・5か月前まで元気な姿を見せていた彼の訃報に、私は哀しむと共に驚いてしまった。
 
 
70歳近くなると、親しい友人たちの訃報がそれなりに入ってくるようになり、決して「他人事」ではなく「自分事」として、「死」を身近なテーマとして自覚するようになるのは、自然な成り行きである。
 
私自身は還暦を過ぎた頃、思いたってこのHPを立ち上げたり、それまで全く関心が無かった、『歴史検証物語』なるものを書くようになったのであったが、そこにはそれなりの「動機」が実はあった。
 
それまで商業施設開発に関わるマーケティングの仕事を40年近くやって来た私は、この間膨大な数の市場調査を行い報告書を作成し、クライアントに提出する事を生業としてきたのであったが、還暦を機に自らの来し方行く末を、立ち止まって考えた時に「オレはこのままで良いのか?」等と考えてしまったのであった。
 
そしてその様な自問自答を経た結果、何とか「自分の生きた証」を残して置きたいものだ!と思い立って今日に至った。
 
 
その頃タマタマ訪れた「函館」の「立待ち岬」で、知ることに成った「砂山影二」のことを、持ち前の好奇心から掘り下げて追い求め、書き始めたのがキッカケとなって『函館、青柳町、アカゲラ亭』を書きあげたのであった。
 
以来10年近くかけて甲斐源氏「安田義定」や「砂金・金山開発」に関わる事などを調べ書き綴って今日に至っている。
キッカケは「自分の生きた証を残したい」といった、単純な漠然とした動機であった。
 
おかげさまで「チリも積もれば山となる」ではないが、HPの開設に伴う公開で年間3・4万人の閲覧者を得ることが出来、自己満足しているところであり、今ではすっかり初期の目的は達せられたかも知れない、と想っているところである。
 
 
そんなことを考えていると、藤沢周平がどこかの物語だかエッセイだかで書いていた
「ふるさとを廻る六部(りくぶ)の気の弱り」
という言葉が頭をよぎった。
 
親しかった友人の訃報をキッカッケに、私も気が弱くなった、のであろうか・・。
 
 
                     
 
 
 
 

  「天災」と「人災」

 
2024年は、年明け早々の「能登半島大地震」と「羽田空港の旅客機衝突」とに依って、早々に正月気分が吹き飛んだ。
 
尤もそう想っているのは、「岸田首相」と「馳石川県知事」を除く多くの国民にとってであったようだ。
その証拠に岸田首相は地震発生後の当日にTV番組で、お定まりの地震被災地への心の伴わない「お悔やみ」や「迅速な対応」と述べただけで、今年行われる自身の自民党総裁選への抱負を能動的に語っていた、という。
 
そして何よりもその日に行われた新年会に3か所もハシゴしていた、というのだ。
私はそれらの報道を聞き、彼には震度7の激震が起こった事への想像力の欠如という事実や、地震災害の情報収集や、積極的な対応といったものへの熱意といったものが無い人間なのだ、としか思えなかった。
 
彼にとって「能登半島沖地震」は、自国民の生命や財産の危機といった問題としてではなく、キット遠い外国の問題だとでも思っていたのではないか、と妄想してしまった。
 
と同時にかつてハワイ沖で遭難した「えひめ丸」の事故が起きた時に、当時の森喜朗という総理大臣が、その報告を聞いてもそのまま「ゴルフを続けていた」、という出来事を思い出した。
 
森喜朗元首相にとっては「海洋練習船」とアメリカ海軍潜水艦の「衝突事故」よりも、「ゴルフ」の方が大事なコトであったように、岸田首相にとっても元旦の「新年会」の方が優先順位が高かった、のであったのだろうと理解した。
 
 
 
          
 
 
 
また、石川県の馳知事は出張先だったのか実家への帰省先だったのかは不明だが、巨大地震の一報を聞き官邸に赴き、急遽自衛隊のヘリコプターに同乗して、金沢に戻ったのだという。
この対応は、数年前に千葉県で起きた台風直撃災害時に行方をくらました、森田健作知事の対応よりはマシではあった。
 
ではあるが、馳知事がその際に自衛隊に要請した派遣人数は1,000人という規模であり、しかも当日ではなく翌日からの出動で良い、という依頼だったという。
一方当時の自衛隊は、8,500人体制で出動態勢を取っていたのに、である。
 
 
馳知事は県の危機管理スタッフや、被災地の市町村長たちから一体どんな情報を得ていたのか甚だ疑問で、彼らからの情報が緩いものではなかったことは想像に難くない事から、知事の判断能力が”緩かったのではないか”と、大いに問われるのである。
 
更にその時の馳知事のアクションを聞いて私は、彼が一昨年の集中豪雨で石川県内に多くの被害が発生した時にも、白山に登っていて迅速な対応が出来ず、県庁職員がリーダー不在のママ対応せざるを得なかった、という事実をも思い出した。
 
 
また震度7の激甚災害から5日経った1月6日に成って、やっと「県内での非常事態宣言」が出されたことにも、彼の今回の災害についての認識の低さや、対応能力の欠如を再確認することに成った。
 
巨大地震が起きた時にビルや家屋の倒壊で、それら建物の下で一刻も早い救出を待っていた被災者に対する想いが足りなく、「72時間=3日」後に被災者の生存率が急激に低下するという事実も、彼の頭の片隅にはなかったのだろうか、と妄想してしまった。
 
 
 
           
 
 
しかし、県の危機管理スタッフや消防&警察の幹部達から、当然それらの情報は伝わっているはずだから、単に知事本人の判断力や危機意識の欠如だったに違いない、と推察する事はできる。
 
彼の下した判断は、地震発生から「72時間」の生存期間の限界を2日過ぎた、更に48時間後に「非常事態宣言」を発令した、という訳である。
 
 
千葉県の森田健作元知事も、石川県の馳知事も共に著名な「タレント」や「プロレスラー」であり、それらの知名度が彼らを知事職や国会議員に、長く留めさせていたのだろうが、知名度が高いことで選挙には勝てても、今回の様な天災や重大な人災に遭遇した時に、必要かつ的確なリーダーシップを発揮する事には必ずしもつながらない。
 
森喜朗という安倍派の重鎮(元会長)で、今回の自民党の裏金問題でもその制度設計にも大きな影響力を持っていた政治家は、「橋本聖子」「堀井学」といったスケート選手や、「馳浩」といった著名なスポーツ界の人物をスカウトし、多く国会議員に選出するきっかけを造り、その仲介役を担ってきたのであるが、その結果がこうやって今振り戻って来ているのである。
 
これら議員の多くが「裏金問題の阿部派」に所属している事実は、決して偶然のことではないのだ。
 
 
千葉県の森田元知事が、大きな災害をもたらした颱風後の、知事選に4選目の立候補を取りやめたのは、千葉県民が森田健作というタレント知事の「人間的な能力」を見切った結果の事である。
 
果たして石川県民が今回の「能登半島地震」に対する、馳知事の対応をどの様に観ていて、どの様な判断を下すのか私は注視していくつもりである。
 
何故なら民主主義とは、最後は県民や選挙区の人間が「投票」という行為に依ってしか、「民意」を為政者に反映させることは出来ないから、である。
 
 
 
 

 

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 



〒089-2100
北海道十勝 , 大樹町


 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
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