春丘牛歩の世界
 
本来ならば雪が降るべき時節なのに、雨が降っていた。
雨が止むと、上空を小白鳥やカモなどが群れを成して飛行している。
本州では25度を超える夏日なのだという。
窓の外では虫たちの姿も見るようになった。
 
”雨水””北帰行””啓蟄”いずれも春の先駆けなのである。
春分の日を過ぎ、彼岸が終わると一気に春が進んで来た感がある。
 
そしてサッカー日本代表である。
この21日のバーレーン戦、昨日のサウジアラビア戦の3月の連戦は、勝ち点4を得てバーレーン戦の勝利で来年のW杯への出場を決めた。
喜ばしい事である。
 
バーレーン戦の勝利の立役者は1アシスト1ゴールを決めた久保建英であった。
彼の奮闘が今回のW杯出場を決定づけたのは間違いない。
 
 
        
 
 
さはさりながら、相変わらずの”個人技頼み”で、チーム戦術が乏しく、チームとしての約束事の乏しい森保采配では、限界が見えている。
今回のバーレーン戦やサウジ戦がそれを示していた。
 
今の闘いのままではグループリーグ突破が関の山であろう。個々人の能力が歴代最強レベルであっても、チーム戦術やチームプレーで勝てるように成らないと、Best8の壁は越えられないだろう。
 
個人能力重視の森保監督の限界は、今回の二つの試合でも明らかである。
JFAの会長が田嶋から宮本に替わったのは、希望が持てるが森保氏の交替が実現しない限り、日本代表は次のステージには上がれないだろう。
 
これからの14ケ月W杯本番までに何が起きるのか、期待感を込めて注視していきたい。
 
 
 
 
                 お知らせ
 
*4月1日:本日より『コラム2025』を公開いたしました。「睦月」「衣を着、更に重ね着る、如月」「弥生三月」の3ヶ月分になります。
 
*3月22日:『甲斐源氏の祖、源義光』に新しく
”穴太衆”と”黒川衆”を公開しました。
 
*12月12日「食べるコト、飲むコト」に
               を公開しました。
 
11月28日「コラム2024」に 
              を公開しました。
 
 
 
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【会員制システムの修正】               
                    2025/04/01
 
*昨年6月より始めた「会員制システム」は、あまり普及してない事や維持管理に手間がかかる事、今年から当該HPへの関与時間が少なく成る点などを考慮し、原則として「会員システムを廃止」とし、そちらに向けて順次修正のうえ、full公開とします。                         
                                   
                       春丘牛歩           
 

  南十勝   聴囀楼 住人

                                 
           
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
                                                                
  

 
   
      

  
 
  

 

 

 函館を舞台にした物語で、石川啄木の住居跡や生活の場であった「青柳町」の本格   
 珈琲の喫茶店「あかげら亭」に集まる人々との交流と、啄木に私淑していた大正時代  
 の文学青年砂山影二にまつわる物語です。

 

 

 

                        【 目 次 】
 
 
                     ①プロローグ
                     ②青柳町
                     ③あかげら亭
                     ④老和尚
                     ⑤五稜郭
                     ⑥啄木文庫
                     ⑦あかげら亭、ふたたび     
                     ➇砂山影二の葛藤
                     ⑨介護カフェ
 

 

 

 

 
 

       プロローグ

 
 

土曜の昼、独りでお昼を食べながら、テレビを見ていた。

テレビの報道番組では、介護殺人について報じていた。

中国地方の小さな町で、七十代後半の妻が八十代前半の、痴ほう症の夫を殺害した事件だ。いわゆる老々介護で六・七年近く前から、老婦人が老主人の面倒を独りで見てきたという。

二人は近所でも評判の仲の良い夫婦で、ご主人も痴ほうが始まるまでは地域の世話役などを買って出るような、しっかりした人だったらしい。

老婦人は頑張り屋でおとなしく、愚痴などをこぼすこともなく、周囲の力に頼ることが少ない人だったという。行政のヘルパー制度を活用したりディサービスを利用する、といったこともなかったそうだ。

 

子供達は学業を終えると、職を求めて京阪神に出て行ったという。

都会に家庭を持ってからは、年に数回しか家に戻って来ることはなく、老母の老々介護を日常的に軽減させるようなことは無かったという。

老婦人が自分一人で頑張りすぎたために、かえって独りで重い荷物を背負い込んでしまったようだ。まじめすぎて、自分一人で抱え込んでしまった結果、かえって煮詰まってしまい起きた事件だったのではないか、とコメンテーターが語っていた。

数年前にあった、富士山のふもとの霊園で、母親の介護に疲れた名の通ったタレントが、うつ病で自殺した例も関連付けて、取り上げていた。

その女性タレントもまじめな性格で、自分一人で頑張りすぎて周囲の親類縁者や、行政の力を活用することもあまりなかった、という。

コメンテーターは、自分独りで抱え込まないで周囲の力を借りたり、負担の軽減を図ることの大切さを力説していた。

 

五月の連休に実家に帰った時、軽い痴ほう症の始まった母親について兄貴がこぼしていたことを、私は思い出した。

兄の場合は車で三十分も掛からない所に姉が住んでいることもあり、嫁さんの力を借りながら三人でうまく回しているので、誰か一人が負担を背負い込むような事態にはなっていなかった。

兄は市会議員をしていたこともあって行政の制度にも詳しかったし、それらを積極的に活用するすべも心得ていた。

私は家督を兄が相続したこともあって、父母の面倒は兄がみるべきものだと割り切っていたので、距離を置いて接していた。

妻が毎週週末に実家に行ってやっている、老母の介護サポートも他人事のように感じている、というのが私の正直な気持ちだ。


 

        青 柳 町

  

函館に入ったのは、旅行を始めて一週間ほど経った七月の中旬だった。

東京の暑い夏が嫌いな私は、サラリーマンをしてた時から、夏休みは涼しく過ごせる場所を求めて、行動していた。

独身時代はもちろんのこと、結婚してからも夏休みの家族旅行は涼しい場所を優先した。

子供たちが成人してからは家族旅行も殆どなくなり、退職する前から妻との夏休みが中心になっている。

 

その妻との関係は、息子が社会人になった時食費を家に入れる入れないで揉めた頃から、なんとなく気まずくなっていた。

最近は会話も減り気味になっている。

妻が千葉で教員をしている娘が使っていた部屋に移ったのも、その頃だ。

そんなこともあって、今年の夏東京を脱出することを妻に伝えたのも、プランが決まりホテルの予約を済ませた後だった。

息子は特にクレームを出さなかったが、妻はあまり面白くないようだ。事後承諾だったことや、1カ月近くの北海道旅行を羨ましく思ったのか・・。

何よりも自分が蚊帳の外だったことに、腹を立てていたのかもしれない。

 

私は関越を通って新潟―山形―秋田―青森と日本海側を北上し、フェリーを使って北海道に入った。

各県に二泊ずつしながらの、ゆっくりとした行程であった。

ホテルはビジネスホテル中心で、チェックインを済ませてから街に出て、地元の居酒屋や小料理屋で食事をするのが、私の愉しみだ。

若い頃から出張や旅行をした時の夕食は、全国チェーンの店は避け地魚や地酒などを扱う地元の店を、好んで選んだ。

 

車を使って北海道に入ったのは、十数年前の家族旅行以来だ。

四十代だったあの頃は、練馬の家を早朝に出て東北自動車道を一気に駆け上がり、青森に宿をとり、翌朝の早いフェリーで函館に入った。

今の自分に、当時のような体力も気力も無くなっていることを、とっくに自覚していた私は、無理をせず寄り道を楽しみながら、ゆっくりと函館に入った。

今はもう、時間に追われる身ではなかった。

 

函館では「あほうどり」という名のホテルに泊った。

函館山の下の東海岸に位置するそのホテルは、海から十数mのところにあり、津軽海峡に面していた。

夜は、漁火が部屋の窓から見ることができる、とホテルのHPにあった。

いかにも函館的だな、と思いそのいかにもらしさで、私はホテルを選んだ。

函館駅から車で数分のホテルは、将に海岸沿いに在りその通りも「漁火通り」と言った。

夕暮れ前にホテルに着き、チェックインを済ませた。

 

部屋は七階で海側に面していた。ネットで予約した時に「五階以上の海側」を希望していたのだ。

東日本の震災以来、海近くに泊まる時は五階以上をオーダーするようになっていた。津波の心配はあるが、眼下の海の景色は格別だ。

部屋に入り荷物を解き片付けを終えると、私は窓辺に寄りカーテンを開け、外界を観た。

 

一面青い海で、はるか向こうに島影のような陸地が見えた。

下北半島であろうか。

津軽海峡には何艘かのフェリーや貨物船、漁船がのんびりと航行していた。

船がゆっくりしてた様に見えたのは、或いは私自身がのんびりしていたからかもしれない。フェリーや貨物船もビジネスだから、無駄なことはしていないだろう・・。

しばらく、ぼんやりと眺めていた。

 

耳には単調な波音と、鷗のかまびすしい鳴き声とが入って来た。

私は窓際のテーブルに座り、缶ビールをゆっくりと飲んだ。

眼下には波打ち際から十数メートルほど砂浜が広がり、多くの鷗が高く、低く、鳴き声を上げながら行き交っていた。

海沿いに細長く続く砂浜には、幾組かのカップルや犬を連れた人達が散策をしていた。

彼らの夕暮れの日常なのだろう。

 

今日はもう運転することもないから、とフェリーでは我慢していたビールをグビグビと飲みながら、外の景色を飽きることなく眺めていた。

時折、霧笛がボーボーと、低く鳴った。

東海の小島の磯の白砂に・・」という啄木の歌は、このあたりの情景を詠んだものか、とフト想った。

 

その夜は、ホテルのフロントで教えてもらった「活イカの刺身」を食べさせる居酒屋を訪ねた。JR函館駅の近くにあるという。

ホテルから10分近くは歩いただろうか、まだ明るさの残る夏の夕暮れを、駅に向かって歩いた。

しばらくの間、背後で鷗の鳴き声が聞こえていた。

 

店では、カウンターに案内された。

大鉢に盛った作り置きの惣菜をチョイスし前菜とし、メインディッシュの活イカの刺身の登場を待った。

地方への出張の際は地元の酒と肴を嗜むことを、二十代の後半から覚えていた私はサッポロビールの黒ラベルから飲み始めることにした。

東北の日本海側を北上した時は日本酒がメインだったが、北海道ではビールやウイスキーがメインになると思っている。

私の中では、北海道と日本酒とはあまり結びつくことが無かったのだ。

尤も近年は北海道でも旨い米が採れるようになったと聞くから、美味い日本酒も造られるように成ってるのかもしれない、などと思いながら昨日までの東北の日本酒に思いを巡らせた。

 

今回の急がない旅行の発見の一つは、地酒の味の地理的変化だ。

新潟の酒は淡麗で辛く、飲み易かった。

山形の酒はちょっと曖昧で、アイデンティティを感じることが少なかった。

秋田の酒は甘さが強く感じられ、好みにもよるが、存在感は確かにあった。

山形の酒の曖昧さは、新潟の淡麗辛口と秋田の甘口の個性に挟まれて埋没していたのかもしれない、と思った。

青森の酒には、意志の強さを感じた。分類でいえば辛口なのだろうが、新潟の淡麗辛口とは違った、土着的な辛さを感じた。

途中で寄った三内丸山古墳で見てきた、縄文土器を彷彿させる、ある種の意思のある辛さであった。

それは、ねぶた絵にも相い通ずる。頭の中に棟方志功が浮かんだ。

 

そのようなことを考えながら活イカの刺身を食べ、北海道の新鮮な魚貝類を味わった。

活イカには、学生時代の思い出がある。

大学生の長い夏休みの終盤9月の中頃に、クラスメイト数人と函館の学友の実家を、旅行がてら訪ねた時のことだ。

自営業をしていたその家に泊めてもらった翌朝、朝食にイカそうめんが丼に盛って出てきた。イカが千切りにしてあった。

 

「函館名物のイカそうめん、お食べ!」と母君が言った。

イカ刺しを小皿の醤油に付けた私たちに、函館の友は

「そうでない‼こうやって、食うのさ」と、熱々のご飯にイカを載せ、生姜と醤油を垂らし、一気に食べ始めた。ちょうど納豆ご飯を食べるように。

私たちは、見よう見まねで納豆ご飯を食べるように、千切りのイカを載せて食べた。郷に入っては郷に従えだ。

 

透き通った色をしていたイカは、コリコリとした食感で、甘みがあった。

旨かった。

生まれて初めて食べたイカそうめん、こんなに旨いのか、と感動したものだ。

それまでイカの色は透明で透き通っているのではなく、白く濁っているもの。

味はコリコリと甘いのではなく、ヌルッとまったりしたものと思っていた私達には、カルチャーショックであった。

 

そのポジティブな感動が、活イカの基準になった。

そしてその時の感動が良くも悪くも、イカ刺しを食べる際の基準に成ってしまった。

赤坂のいけす料理で活イカを食べた時も、出張先の富山でイカ刺しを食べた時も、博多でイカ刺しを食べた時も、だ。

いずれも、函館のあの日の感動には及ばなかった。

 

四十年近く経った今、この居酒屋で食べた味はあの時の感動とは程遠かった。期待が多かっただけに、残念な思いが強かった。

或いは、遠い過去の記憶であるが故に、美しい思い出として美化してしまっているのかも知れなかった。

それとも、数時間前まで津軽海峡を回遊していたであろうイカと、数日前にいけすに入れられたイカの、活きの良さの違いであったのだろうか。

店の活イカはコリコリ感や、透き通った見た目は変わらなかったが、甘みが違っていた。

鮮度の良いものは魚でも貝でも野菜でも、みな甘い。そして旨い。この店の活イカに、甘みが足りないのは、活きが良くないからなのだろう。

 

居酒屋を出ると、外はすっかり暗くなっていた。

飲食店のけばけばしい、客寄せの電飾看板が集積する一画を離れ、海に向かって行くと、次第に街のテンションは下がり、閑散としていった。

街の勢いが衰退しつつある地方都市では、よくあることだ。

まして海岸沿いのホテルに向かう道は、歩を進めるごとに寂しくなった。

照明は少しずつ減り、建物の間の距離が広がっていった。

 

街の灯りがまばらになるにつれ、空の暗さが濃くなっていった。

波音が聞こえ始め、松林と思われる黒い影が見え始めたその先に、漁火が水平にぽつぽつと観えた。この距離でも見える漁火は、やはりイカ釣り船であろうか、と私は思った。

ホテルの建物が見えるくらいに近づくと、今度は津軽海峡の上の星が視界に入ってきた。

街を背にし青森に向かう側には、夜空の星が目についた。その数は海岸に近づくとさらに増え、星の光が強くなっているようだった。

こんなに沢山の星と力のある星の光を感じるのは、久しぶりだ。

街中を離れた、高原や山間のキャンプ場でだけ見ることができる星の明かりで、星にある種の生命力を感じる。

 

翌朝ホテルのしっかりとした朝食を食べ、備え付けの新聞を観ながら、珈琲をゆっくり飲んだ。

ダイニングの横長のガラス窓を通して観る津軽海峡は、昨日よりずいぶんと白っぽく思えた。波が荒いのかもしれない。

ホテルの珈琲は旨いとは言えなかったが、目の前には景色というごちそうがあり心は満たされていた。

 

朝食を終えた後、砂浜に降り函館山を背に散策を始めた。

鷗が、波打ち際を行き交いかまびすしく鳴いていた。うるさいぐらいに・・。

十分くらい歩いていると左手に、小さな公園があった。小さなアプローチから公園に上がると、石川啄木の歌碑があった。

「啄木小公園」とあり、啄木を想わせる座像が在り、台座には「ハマナス」を詠った彼の和歌が刻まれていた。

 

                      

 

歌碑を観たあと、公園横の漁火通り沿いを歩き続けると、啄木と新選組の土方歳三とを扱った記念館があった。

ん? 啄木と土方?

私は、この組み合わせに、違和感を覚えた。

新選組の副長土方と石川啄木とは、私の中では結びつかないのだ。

幕末の血なまぐさい治安機関の有能なリーダー土方と、たおやめ風の個人主義者の歌人啄木とが、同じ舟で乗り合う場面は私のイマジネーションの範疇にはなかったからだ。

 

館の入り口に、開館は九時からとあった。

まだ1時間くらい先だ。私は踵を返し、ホテルに帰ることにした。

今度は砂浜ではなく、車の行き交う漁火通りを戻った。

 

支度を整えフロントにルームキーを預け、車に乗り土方と啄木の記念館に向かった。この宿には二泊申し込んでいた。

先ほどの小公園と記念館の間の駐車場に車を停めた。

 

開館してから三十分ぐらいしか経ってないこともあってか、記念館の中は空いていた。記念館は、レトロな感じの洋館風二階建てで、広くはなかった。

窮屈といっても良い空間に、一階には土方歳三と新選組及び幕末に関する文物が所狭しと陳列してあった。

階段を上った二階には、啄木と妻の節子や家族に関する文物がギュっと詰まっていた。ビデオシアターも在った。

なぜこのような狭苦しい館に、土方と啄木とがギュウギュウ押し込まれているのか、私は最後まで理解できなかった。

 

発見があったのは、啄木が函館に居たのは半年にも満たない短い期間であった、ということだ。

函館を詠んだ歌の印象が強かったためか、滞在が春から秋にかけての数カ月に過ぎないとは知らず、私は函館にはもっと長く滞在していたのではないか、と勝手に思い込んでいたのだった。

しかし事実は、五月から九月までの数カ月だった。

実際、啄木の詠んだ函館への恋慕とでも言える和歌は、函館在住時よりも函館を出てから創った歌に秀作が多い。

異郷の地で、函館時代に想いを馳せながら詠んだのであろうか。それだけ啄木にとって函館での時間は美しく、思い出深い、心地よい場所であったのではなかったか。

 

記念館には啄木と函館を関連づける資料と共に、観光案内のリーフレットが幾つかあった。その中に、啄木の函館での生活圏を案内したものがあった。

どうやら函館山の東麓が、彼の主たる生活圏であったようだ。

居住地(借家)の在った「青柳町」、啄木一族の墓のある「立待岬入口」、妻節子が質屋通いをしたという「宝来町」。

そして啄木を函館に呼んだ地元の歌人達も、多くがこのエリアに住んでいた。いずれも函館山の東側の山麓であった。

函館に特別の目的地があったわけではない私は、リーフレットに乗っている函館山の東麓エリアを訪れることにした。

 

最初に向かったのは、最も遠い立待岬だ。

車でしか行けない場所からスタートし、本命の青柳町では車を預け、ゆっくり散策するつもりでいた。

目の前の料理を食べるのに、好きなものから食べ始める人と好きなものは後回しにして、後でゆっくりと味わう人とがいるとしたら、私は間違いなく後者のタイプだ。

立待岬は、函館でも最南端に位置していた。函館で最南端ということは、北海道でも最南端ということだ。

立待岬の公園に向かう途中に、啄木一家をまつった墓所があり、立ち寄った。

墓碑(歌碑?)には

東海の小島の磯の白砂に われ泣きぬれて蟹とたはむる」と、刻まれていた。

近くには、啄木の妻節子の義弟にあたる宮崎郁雨一族の墓所も在り、墓参した。啄木一家を支え続けた一人だ。

その傍らの区画に、もう一つ歌碑が在った。

 

砂山影二

わがいのちこの海峡の波の間に 消ゆる日を想ふ ―岬に立ちて

と、自然石に刻まれていた。

聞いたことのない名前であった。

しかしその歌碑に刻まれた和歌には、心が反応した。

三十一文字に、力が感じられたのだ。作者の名は知らなかったが、

わがいのちこの海峡の波の間に 消ゆる日を想ふ ―岬に立ちて

この歌には、詠み人の意思というか、想いが感じられた。

砂山影二とは、いったい誰なんだ。

そんな好奇心が、私の中に沸きあがってきた。

観光案内風の説明書きがあったが、それでは満足できなかった。

その疑問を抱いたまま、私は立待岬に向かった。

 

朝からよく晴れていたこともあって、津軽海峡をはさんだ青森が良く観えた。

立待岬は、風が強かった。

太陽の日差しがキラキラ輝く津軽海峡を、しばらく私は眺めていた。

対岸は下北半島の大間になる、らしい。大間のマグロで有名なエリアだ。

もちろんここからその漁港を見ることはできなかったが、大間に想いを馳すことはできた。

大間のマグロはブランドになってるが、同じ津軽海峡の本マグロが北海道側で陸揚げされたら、どうなるのだろうかと考えた。

味や中身は同じでもブランド力のあるなしによって、評価は変わる。それが世の中の現実だし、それによってビジネスが成り立つ。生活も成り立つ。

が、ブランドに価値を見出すことの少ない私は、個人的にもビジネスの上でも、評判や確立された評価を重んじることはなかった。実際の味や中身のクオリティを、常に評価の基準としてきたからだ。

 

立待岬の公園には、与謝野晶子と鉄幹の歌碑も建っていた。何やら函館のことを詠んだ和歌らしいが、心に響くものではなかった。

立待岬を出て、「函館公園」に向かい、近くの時間貸しの駐車場に車を停めた。     リーフレットを片手に、公園や啄木の居住跡を、訪ね歩いた。

 

公園の見晴らしの良い場所には、啄木の青柳町賛歌とも云える和歌が歌碑となっていた。蝉が喧しく鳴いていた。

函館の青柳町こそかなしけれ 友の恋歌矢ぐるまの花

と、判別しがたき文字で刻まれていた。

雰囲気はあり言葉の美しさは感じたが、心に響かない歌だった。

「わがいのち・・」に比べ軽かった。詠み人の心の動きが、私には感じられなかったのだ。立待岬の与謝野夫婦の短歌とおなじだ。

 

私は時に、和歌を詠むことがある。母親の影響だ。

それは心が反応し感動にぶち当たった時にのみ、湧き上がってきた。

その時の湧き上がってくるどうしようもない心の情動や感動を、鎮めるための手段として和歌を詠むのであった。私にとって和歌は感情や感動の発露であった。

だからたいてい私に和歌が出来上がる頃には、心の感動は鎮まっている。

 

職業歌人がスポンサーや知人らに頼まれて、生活のためや恩義のために作歌する様なものには、感動は感じられないしそれらをありがたがることはなかった。

「青柳町賛歌」とでも云えそうなこの歌に私が感じたのは、彼を支えてくれた周辺の人への、啄木の気遣いでしかなかった。もちろん、言葉の美しさは充分感じられるのではあるが・・。

 

 

 

              あかげら亭

 

青柳町から宝来町界隈を散策した私は、勾配のある坂道を歩いたせいか休息を欲した。喉が渇き汗も出ていたし、尿意もあった。

健康のために持ち歩いていた万歩計を見ると、七千歩を越えていた。午前中だけで、これだけ歩けば十分だ。 

青柳小学校の近くに、妙に存在感のある建物を見つけた。

入り口付近に木製の小さな看板が掛かっていた。それは看板と言うより、絵馬と言ったほうが的確だったかもしれない。

木製の看板には、頭や体は黒く頂きが紅い鳥が、木彫りで描かれていた。キツツキの様でもあった。

店に近づくと、珈琲の香りが漂って来た。頂きが紅い鳥の絵の下に「あかげら亭」と、小さな字で彫ってあった。どうやら、喫茶店のようだ。

どう見ても民家にしか見えない目立たないその店は、落ち着ける場所を求めていた私にとっては、砂漠のオアシスのように思えた。

私は躊躇することなく、ドアを開けた。

 

薄暗い店の中には、珈琲の豆の好い香りが充満していた。

カウンター越しにいた店の主人とおぼしき御仁が私に視線を向け、何やらぼそぼそ言った。60代後半に観えた。

彼がウェルカムといったかどうかは別にして、女性の明るい声が続いた。

「いらっしゃいませ」

店主とそう歳の違わないと思われる、年齢の女性であった。

 

カウンターの前には、テーブル席が三つほどあった。

テーブル席と言っても椅子席ではなくソファの席で、しかもそのソファは個性的で一つとして同じものはなかった。

色もデザインも素材も、掛ける人数もそれぞれ異なっていた。お揃いのセットものではなく、一つ一つ別々にセレクトし組み合わせている、といった感じだ。

しかもそれぞれにアイデンティティが感じられ、テーブルとの組み合わせには程よい調和があった。

センスの良さが感じられた。更にいえば、それらをセレクトし、コーディネイトした人の美意識をも感じた。大げさに言えば価値観や人生観そういったものさえ、なんとなく感じることができた。

 

店の奥には、ぼんやりとしか見えなかったが、大きなテーブルと区画が明確に区分されている客席があるようだ。

大きなテーブルの近くには、暖炉があった。

夏なので火はついてなかったが、冬には部屋も人もきっと暖めてくれるのだろうな、と私は思った。

自宅でペレットストーブを使っている私に、暖炉はうらやましい。

「まぁ、北海道だしな・・」

うらやましい気持ちを慰めるよう、自分に言い聞かせた。

 

人見知りがちの私はカウンター付近は避け、奥に入った。

大テーブル奥の、日差しの注ぐ窓側の席を選んだ。

ガラス越しの中庭とおぼしきところに、大きな白樺の樹が数本見えていた。

白樺は十分な距離感を保ち、立派な枝ぶりで沢山の葉をつけていた。

樹の葉は一つ一つが小さいので繁っていたにもかかわらず、隙間からは陽光がキラキラと降り注いでいた。

夏の青い空の下、白い樹皮がまだら模様に伸びている樹と、緑色の葉のコントラストは、健康的で涼やかな感じを与えていた。

 

「いらっしゃいませ・・」

天然素材と思われるふんわり感の漂う白っぽいシャツに、藍色の七分ほどの綿のパンツをはいた女性がやって来た。先ほどの女性だ。

首には七宝焼きの鮮やかな色のペンダントが下がっていて、ワンポイントになっていた。

全体的に爽やかな印象を受けた。

 

店主の奥方とおぼしきその女性は、氷水の入った透明の容器にコップとお手ふきとを置き、脇に抱えていた木製の表紙のメニューを差し出し、

「決まったら、教えてください」と、穏やかな目で、そういった。

メニューの木の表紙には、看板と同じ頂の紅い鳥が右下隅に彫られていた。

そういえば、看板も木彫りであったことを思い出した。

 

コップはガラス製の細いスタイリッシュなもので、繊細なのは良いが脆そうだな、と余計な心配をしてしまった。

氷水の入ったガラスの容器には、厚めに輪切りにされたレモンが入っていた。

今時珍しい、と思いながら自分で冷水をコップに入れた。

 

木製の表紙のメニューを広げると、ごわごわ感のある和紙の台紙に手描きで書かれていた、メニューリストが貼ってあった。

ふーん何から何までハンドメイドなんだ、と想いながら中を観た。

ドリンク欄には「ブレンド」と「あかげら」の他はすべて、豆の名前が書かれていた。ここは、ストレート珈琲の店なのだ。

さもありなん、だ。

 

目を引いたのは、それぞれに「カップ」と「ポット」と書いてあり、値段が異なっていた。ブレンドでもカップは450円で、ポットは700円という具合だ。

たぶん量の違いだろうと想ったが、注文する時に尋ねてみることにした。

 

11時も半ばを過ぎていたこともあって、食べ物欄も見た。

「サンドイッチ」「パスタ」「カレー」「ピラフ」「フレッシュサラダ」等の定番メニューが、それぞれ二・三種類あった。まぁ喫茶店だから軽食中心なんだろう、と軽く納得した。

目を引いたのは「モーニングセット」「ランチセット」「トワイライトセット」等のメニューに、(時間制限不問)と但し書きがあったことだ。

どうやらここでは、これらのセットメニューは時間で決められているのではなく、中身で決められているのだな、と推測した。

名称は単なる記号なのだろう、と理解した。そのためかそれぞれのメニューには写真入りで、品目についてわりと細やかな説明があった。

朝食をしっかり摂ってきたこともあり、空腹感の少なかった私はモーニングセットを頼むことにした。

手を挙げると、先ほどの女性がやって来て、注文を聞いた。

 

「豆はキリマンでお願いします。ところで、カップとポットの違いって何ですか?」私が尋ねると、

「カップは、コーヒーカップに入ったままですが、ポットは南部鉄の急須瓶に入ってきます。まぁ、三杯分くらいはあるかと思います・・。

ゆっくりされる方や、二・三人で召し上がる方が注文されることが多いですよ」と、彼女は応えた。

「なるほど・・、ではポットでお願いします。それからモーニングセット。

あ、まだ大丈夫なんですよね?モーニング」私は確認しながら、オーダーを済ませた。

 

彼女は「それで?」と、問いかけるような眼で、私を見た。

私も眼で「ん?」と、問い返すと

「あの、卵とかソーセージとかパンとか、どれどれになさいます?」今度は声に出して問いかけてきた。

「あ、そうですね・・」私は改めてメニューを見直した。

「じゃ、生ハムのパニーニと、スクランブルエッグ、ポテトサラダでお願いします」と、注文した。

彼女はメモを読み上げ確認すると、軽く会釈して戻っていった。

 

少し落ち着くと、私は冷たいお手拭きで顔をぬぐい、改めて店内を見渡した。

大きなテーブル近く、暖炉の横に木製の重量感のある書架があった。

トイレのついでに、時間つぶしになるかもと思い、その書架を覗いた。

著書の多くは、啄木を扱ったものだった。五・六〇冊はあっただろうか。年代物や、古本と言ってもよいものも幾つかあった。時間掛かっただろうな、これだけ集めるのには。

そんな風に想いながら、函館と啄木について書かれていた本と表紙に陶器の写真が載った本とを取り、カウンター内の先ほどの女性に指し示し

「これ、テーブルまでいいですか?」と尋ねた。

「どうぞどうぞ・・」と、手のひらを持ち上げながら促す様に、彼女はニコニコと応えた。

 

テーブルに戻ってそれらの書物を見ていると、彼女が珈琲を持ってきた。

「啄木に、ご興味あるんですか?」民芸風の運び盆から、珈琲カップと南部鉄の急須瓶を下ろしながら、好奇の目で彼女は私に尋ねた。

「ええ、まぁ・・」私は応えた。

彼女は鉄瓶から、カップに珈琲を注いだ。珈琲の好い香りが、ぽわ~んと広がってきた。

 

「志野ですか?珍しいですね・・」

私は鼠志野に、赤い花びらが幾つか描かれたカップを見て言った。

「あ、はい。お詳しいですね・・」驚いたように、彼女は改めて私を見直した。

カウンターのほうを振り向いて、

「主人の趣味なんですよ・・」と続けた。

「そうですか、僕も嫌いじゃなくって・・」

そう言いながら私はカップを口に運ぶと、器が温かかった。淹れたての珈琲の温かさではなく、器そのものを予め温めていたのだろう、と感じられた。

 

「後で、カウンターにいらっしゃれば、いろんなカップご覧になれますよ」彼女はそういうと、戻っていった。

志野のカップを、改めて鑑賞しながら珈琲を味わった。

小ぶりの鼠志野で、赤い花びらの絵には味わいがあった。カップも受け皿も程よい厚みと、自然なゆがみがあった。

珈琲にもしっかりとした、豆の味が感じられた。程よい酸味と苦みとを、口の中で味わうことができた。

キリマンジェロの味だ。

 

「いらっしゃいませ」

無精ひげのような白いまばら髭の、がっちりした身体の大きな店の主人が、現れた。

運び盆に小さな卓上シチリンを載せていた。

眼が穏やかに笑っていた。

「これ使ってください」

そういって卓上シチリンを置くと、先ほどの鉄瓶を載せた。

 

「珈琲茶碗がお好きなようで・・」

「まぁ珈琲茶碗というか、陶磁器がというか・・」

「なるほど、それで鼠志野と言い当てたんですか」彼の目はさらに穏やかに、優し気になった。

「三十代の頃から、窯元巡りなどをしておりまして・・」

「ほう、それはそれは・・」彼は指で無精ひげをこすった。

彼が、続けて何か言おうとした時に、

 

「ごきげんよう!」

という快活な声が響いた。私達は声のしたほうを振り返えった。

白っぽいヘルメットを被った、細身の老人がカウンターに座った。

「お客さんのようで・・、失礼します。また後ほど・・」

そう言うと、彼は名残り惜しそうにカウンターに戻って行った。

 

卓上シチリンを良く観ると、和紙が素焼きの周りのぐるりを覆っていた。

温泉宿や小料理屋でよく見かける様なタイプだ。

それらは毛筆風の印刷されたひらがな文字が定番だが、こちらのには和歌が毛筆手描きで書いてあるようだ。

どうやら、啄木の歌のようだ。

 

ふるさとの訛り懐かし停車場の 人ごみの中にそを聴きにゆく」と読めた。

毛筆のその字は、上手というより味わいのある筆づかいであった。店主の字かな、と彼の風貌から書き手を想像した。

素焼きのシチリンの底には、細くて小さい備長炭とおぼしき炭が熾きていた。

三杯分の珈琲を冷めさせないための心遣いか・・、と感じた。これで900円か安いな、と私は思った。

 

カウンターのほうから、元気な笑い声が聞こえてきた。

先ほどの客であった。話の内容は聞こえなかったが、細身の体に紺系の作務衣のようなものを着ているようだ。脇の椅子には、先ほどのヘルメットが載っていた。

おなじみさんかな、と想われた。

 

珈琲を味わいながら啄木の本を読んでいると、店主夫人が運び盆に大きめの皿のモーニングセットを載せてきた。

小ぶりのフランスパンのようなパニーニに、生ハムとレタスに夏野菜をはさんであった。

横長の青絵の皿には、パニーニの他にポテトサラダとミニトマト、スクランブルエッグと緑のアスパラが載っていた。配置も、配色も好くできていた。何よりも見た目が涼やかであった。

センスの良さが感じられた。いや、美意識のレベルが深いのだな、と感じた。

と同時に、相当趣味が入っているなこの店は、とも想った。商売優先ではこうはならない。趣味を求めると、労が多くてその割に益は少ないからだ。

四十年近く、ビジネスマンとしてマンション開発などに携わってきた、我が身を振り返ってそう思った。プランや素材へのこだわりは、常にコストや手間を伴う。

通常のビジネスでは、永遠の課題なのだ。

バブルの頃は多少こだわりを通すこともできたが、バブルがはじけてからは一層コスト意識が高まった。ここ二十年ほどはずっと、こだわりとコストとの戦いの連続であった。

 

一杯目は、珈琲だけを味わった。

借りてきた本の目次に眼を通し、それぞれにどんなことが書いてあるのか概況を把握した。

その中の『函館と啄木』という著書に目が留まった。

啄木が函館に来た時から、滞在中のことはもちろん、札幌や小樽・釧路とその後の北海道内を転々と彷徨った様子が、資料をふんだんに使いながらこと細やかに書かれていた。 その中に啄木一族の墓の近くにあった、あの「砂山影二」について書いてあるページがあった。

砂山影二についての項目を読みながら、モーニングセットを食べていると入り口付近が賑やかになった。

人の出入りが始まったようだ。スマホを見るとすでに12時を回っていた。

カウンターやテーブル席はもちろん、大テーブルにも人が張り付き始めていた。

中にはランチタイムなのにモーニングセットを頼む人もいた。やはりこの店のメニューは時間には関係ないのだ、と改めて確信した。

 

同書によると砂山影二という人は、啄木に私淑していた若者で学生時代から同人を募って、和歌の会を作って活動していた文学青年であったという。

そう言われてみれば、砂山影二というペンネームは何となく、啄木の作歌を感じさせる響きを持っている。

啄木には砂山を題材とした歌がいくつか残っている。砂山は、大森海岸辺りの砂浜を指しているという。宿泊しているホテルの近くだ。

 

本名は中野寅雄といった。

彼は家庭環境が複雑であったらしく、そのことで傷付き悩んでいたという。

二十歳の時に私家集を出して間もなく、深夜の青函連絡船から津軽海峡に身を投じた、という。

自殺である。

 

あの石碑に刻まれていた

わがいのち この海峡の浪の間に消ゆる日を想ふ ― 岬に立ちて

という和歌は、その私家集の冒頭に、載っている。と書いてある。

ということは、彼は私家集を出すころには、自殺を意識していたことになる。

啄木に私淑していた彼であれば、幾度となく啄木一家の墓所を訪れることもきっとあっただろう。そしてその延長線上にある立待岬に向かうのは、自然な成り行きだ。

立待岬を彷徨いながら、その時自分の死に場所を考えることだってあったに違いない。家庭環境や家族との関係に悩んでいたのなら、そのほうが自然だ。

そうして彼は、いつしかその死に場所を津軽海峡に想い定めるように成っていたのかもしれない。と私は推察した。

 

― 岬」と伏字にしてるが「立待岬」で、その決心をしたということなのであろうか。

わがいのち・・」の歌は彼の時世の歌であり、私家集『坊ちゃんの歌』は、彼が自らの生きた証を集約した遺作、ということになる。

二十歳過ぎの多感な時期に、家庭内の人間関係に疲れた彼が、その苦悩を抱いたまま啄木の墓を訪ね、啄木に語り自らに問い続けたのであろうか・・。

 

立待岬を彷徨い、津軽海峡を眺め、いつしかその浪の間に自らの身を投ずることを決心した、ということか。

その決心を詠んだ歌があの「わがいのち・・」の歌だったのだということに、私は気がついた。

あの石碑を観たとき感じた、歌の迫力はこういうことだったのか、と私は改めて得心した。砂山影二の心の叫びが、あの三十一文字には込められていたのだ。

石碑は彼の死後数十年してから、彼のかつての同人仲間が建立したものだという。

友人たちは彼の死によって初めて、砂山の、彼の想いを強く感じたのであろう。少なからぬ、後悔の念を伴って・・。

 

「モーニングで、足りますか?」

店主婦人が氷水を入れたガラス瓶を持って、私を見下ろしていた。私の見てる本を眼で追って、

「面白い本見つかりました?」と聞いてきた。

氷水を継ぎ足そうとする彼女を、手で制して、

「あちらの棚には、ずいぶん啄木の本や雑誌が在りますけど、集めてられるんですか?」書架を指さし尋ねると、彼女は破顔して応えた。

「ほほほ、この店は啄木好きの私たちが開いた店ですから・・」と、店主のほうを見ながら言った。

 

「コースターや看板にもありますが、アカゲラってキツツキの一種なんですよ」彼女は続けた。

「キツツキ・・あぁなるほど、啄木ですか・・。なるほどね」私は、心が緩んだ。

「じゃぁ啄木のお店、なんですね、この店。いや失礼、やっと気づきました。今更ながらですが・・。あはは」

そんなふうに言う私に、彼女は微笑みながら、

「そうなんです。でもこの絵はクマゲラなんですよ、アカゲラじゃなくって。音の響きはアカゲラが良くって、絵的にはクマゲラなんですって、ほほほ。

・・では、何かあったら声を掛けてください。あ、それから主人が、良かったらゆっくりしてください、ですって・・。陶磁器がご趣味だそうで・・」口元に笑みを浮かべ、彼女は去っていった。

「えぇ、まぁ・・」私は、誰に言うともなく口ごもった。

 

私は、今日これからのことを考えた。

函館では活イカを食べる事と、五稜郭を訪ねる事ぐらいしか考えていなかった。あとはまぁ、函館に着いてから考えればよいかな、という程度だった。

啄木の記念館から持ってきたリーフレットで、再び観光ポイントを探していると店主が運び盆を持ってやってきた。

 

 

 

              老 和 尚

 

「もう、食事は済みましたか?・・片つけてもよいですか?」彼は言った。

私がうなずくと、お皿を盆に載せニコニコしながら

「好かったら、カウンターに来られませんか?客も引いたことですし・・」と誘ってきた。彼の眼は、顔に似合わず人懐っこかった。

「そうですね・・。じゃぁお言葉に甘えて・・」と私は応え、カップに手を掛け運ぼうとした。

「あぁ、それはこちらでやりますから、体一つでどうぞ・・」と、再び私を促した。

 

カウンターでは、作務衣の老人が入り口に近い場所にいたこともあり、私は反対側の奥まったエンドに腰かけた。

カウンターの内側には、いくつかの小さな電気ヒーターが在り、その上では白いホーローの湯沸かしが湯気をあげていた。

そのうちの一つは珈琲を淹れた後なのか、陶製の漏斗の上の濾紙に茶色い細かな珈琲豆の残滓があった。ドリップで珈琲を淹れているのだった。

 

壁には括りつけの珈琲カップ棚が在り、四・五十セットはあった。

それらに一つとして同じものはなく、手創りであることが窺えた。

織部・備前・赤絵・京焼・伊賀・九谷・染付、それらは遠目にも判別できた。

「気になるもの、何かありますか?」店主が聞いてきた。

「あの、二段目の真ん中らへんの、相馬っぽいのは何です?馬は描かれてないようですが・・」私は尋ねた。

 

「これですか?」店主は、私が言った器を見つけ、確認すると、

「会津で買った、本郷焼ですね。これは」と、応え私に差し出した。

「本郷焼、ですか・・、知らなかったですけど、会津なんですね?」

「えぇ、もっと民芸調なのが伝統的なんですが、最近は作家達もあっちこっち修行に行ったりして、試行錯誤しているんでしょうか・・。伝統に拘らなくなってますね。情報も得られ易くなってますし、インターネットとかで・・。

特に若い人は、自分の世界観を習得するまでいろいろ模索するでしょうし、チャレンジもしますからね。産地や故郷の伝統や因習にこだわらないで・・」彼は器を元に戻しながら、言った。

 

「それがまぁ、若さの特権だゎ」老人がニコニコしながら、話に入ってきた。

「確かに・・」私は肯きながら、眼で彼に挨拶した。

「その特権も、歳を重ね、体力や気力が衰えてくると、だんだんチャレンジは少なくなりますね・・。リスクを避けて」私は、やや自嘲気味に言った。

「お見受けしたところそんなに老けてないようですが・・。五十代ですか?」店主が聞いてきた。

「いやいや、もう六十ですよ。この三月で定年退職しまして・・」

「まだまだ若い若い。六十なんて・・」老人は続けて言った。

「まぁ、七十代後半になってから言うことですな、そんな年寄りじみたことは。ほっほ」

「失礼ですが、お幾つになられるんです?」私は、老人に興味がわいた。

 

「わしですか?」彼は、私を見て「来年、八十ですゎ」と言った。

「ほぅ八十ですか。ずいぶんとお元気で、エネルギーが余っておられるようですが・・」私がそう言うと、

「いやいや、和尚はまだまだお若い。エネルギッシュで、いつも新しいことにチャレンジしてるんですよ」店主はニコニコ顔で、そう言った。

「和尚さん、ですか?」私は改めて、老人をじっくり見た。

作務衣の老人は、白髪交じりの坊主頭ではあったが、髪の毛はまだしっかり残っていた。

 

「寺はせがれに譲って、隠居の身ではあるが未だ坊主であることは、確かかな」

「隠居されてもまだ、新しい事にチャレンジされてるんですか?それは確かにそれはお若いですね・・。来年八十ですか・・。・・因みに、どんな事を・・」一見したところ八十には見えない和尚の、チャレンジの中身が気になって私は尋ねてみた。

「和尚さんは今でも毎日、朝と夕に立待岬を巡回してるんですよ・・」店主夫人が、控えめに口をはさんだ。

「巡回?・・・ですか?」私が聞き直すと、

 

「立待岬は時々自殺願望の人が、来られることがあるんです」彼女が続けた。

「なぁにボランティアですよ。暇を持て余してる身だで・・」

「でも和尚の場合はちょっと違いますでしょ、普通のボランティアとは」店主が、カウンター内の小さな椅子に腰かけたまま、言った。

「自殺を思いとどまらせるだけでも大変なのに、それだけじゃぁ終わらないんですよ、和尚さん」夫人が続けた。

「ほう。・・と、言いますと?」私はさらに興味を持った。

 

「自殺の原因を突きとめて、それへの対処まで買って出るんです・・」そう言う店主の目は、嬉しそうだった。

「そこまでの人は皆、追い詰められとるでな・・。煮詰まってたりで。

まぁ話を聴いてやるだけで心の負担が軽うなる人もおるが、それだけで済まない人も又おるんだゎ。そういう人には、それなりの事せにゃならんのだよ。

・・ほんとに救うてやるには、な・・」しみじみと、和尚が言った。

私はますます和尚の言うボランティアの中身が気になった。

 

「具体的に、どんなことされてるんです?その対処って・・」

「経済的に困ってる人には働く先を紹介したり、住まいを斡旋したり・・。

いろんなことやられるんですよ、和尚は」店主が解説した。

「学校に行けなくなった不登校の子ども達を、寺子屋みたいに集めたりもね」奥さんが続いた。

「ありやぁ、西野君がやっとるんだゎ」

「その西野君を唆(そそのか)したのは和尚でしょうが・・」店主は楽しそうに言った。

「ほっほ、まぁ西野君も、エネルギー余っとるでな・・」和尚は嬉しそうに、顎をいじりながら応えた。

 

私は和尚たちの会話を聴いていてフト、砂山影二のことが頭に浮かんだ。

「そういえば、立待岬の入り口というか啄木一家の墓の近くに、砂山影二という人の歌碑なのか石碑なのかがあるんですが、ご存知ですか?」私が店主に尋ねると、店主は和尚を見て言った。

「それも和尚の領域ですなぁ・・。和尚」

 

和尚がまた顎をさすり、応えようとした時、携帯の着信音が鳴った。

和尚は、ポーチからガラケーを取り出し、電話の主を確認すると、

「加奈子からじゃ・・」と、誰に言うともなく呟き、店の外に出て行った。

「奥さんからのようですな」と、店主は教えてくれた。

店の外では、和尚が大きな声で会話を続けていた。

 

「砂山影二に、ご興味があるんですか?」店主が私に尋ねた。

「こちらに寄る前に、立待岬と啄木の墓とを訪ねてきたんですよ。

その時に砂山さんの歌碑を見つけまして、まぁ立ち寄ったというか、彼の存在を知ったんです、初めて・・。

聴いたことなかった名前なんですが、歌碑の歌が妙に気になりまして・・。で、先ほど向こうの本棚から借りてきた本の中に砂山影二のことが書いてあり、ますます興味がわいて、聞いてみたんです・・」

 

「なるほど・・」店主が話を続けようとすると、和尚が入ってきて、

「急いで、寺に戻らにゃならんくなった」そう言いうと、私の肩をたたいて、

「またご縁があったら、砂山のことでも話しますかいな」和尚はにっこり笑ってそういうと、慌ただしく出て行った。

「事故らないで、気を付けて帰ってくださいね!」店主夫人が声を掛けた時にはすでに、和尚は店を出ていた。

ん?お会計は?と私は思ったが、店の主たちが何も言わないところを見ると、ツケか何かなんだろうと、思った。それだけ和尚とこの店とは関係が深いのだろう、と推察した。

 

「先ほどの砂山影二のことですが、私達もざっとは知ってますがせっかくですから、和尚に改めてお聞きするのが良いでしょう。・・和尚、今夜もまた来ますし明日も来ますよ」

店主がそういうのを聞いて、どうしたものだろうと思っていると、

「お忙しいんですか?ご旅行か何かのようですが・・」店主が続けた。

「いやまぁ、そんなに忙しいわけではないんですが・・。ええまぁ、旅行です。避暑を兼ねた北海道旅行、というか自分へのご褒美に・・。誰もご褒美くれないし、あはは。   まぁ、労(ねぎら)いのお食事会はありましたがね、ハッハ」私は応えた。

 

「そんなもんでしょ、世の中・・」店主は、目に笑みを浮かべて云った。

「もしお時間がありましたら、またいらしてください。お店十時までやってますから・・。因みに和尚は、夕方なら日が沈む七時頃にまた現れます。朝十一時過ぎにはだいたい・・」店主が教えてくれた。

「判りました。考えてみます・・」私はそう応えてお会計を求めた。

 

「これから、どちらに」店主夫人は釣銭を渡しながら、私に尋ねた。

「ええ、五稜郭辺りにでも、行ってみようかと・・」

「五稜郭ですか?」店主は言った。

「でしたら、ついでに市の中央図書館に行かれたらいい。五稜郭公園の横だし、砂山影二のこと調べられますよ啄木文庫なら・・」

「啄木文庫?・・ですか」私が聞き直すと、彼は

「ええ啄木文庫。函館で一番啄木関連の本がありますよ。いや、日本一かな・・。たしか貸出禁止分も含めると千冊以上はあるって、言われてます・・」

 

「ほう千冊以上ですか、それはそれは・・」私はその啄木文庫に興味を持った。訪ねてみようかと思った。

「啄木文庫なら、砂山影二について書かれている本もきっとありますよ。

それに駐車場がありますから、混んでなければ二・三時間は只で止められますよ、確か」店主は、よく気が利く。

「判りましたどうもいろいろ、ありがとうございました」私がお礼を言って、店を出ようとしたら、

「あ、お名前は?・・差し支えなかったら、ですが」店主が聞いてきた。

「あぁ申し遅れました、名取と言います。宜しくお願いします」私が頭を下げると、

「小山です。こちらこそ宜しくお願いします」

彼も名乗り頭を下げた。夫人もそれに続いた。

 

 
 
 
 

         五 稜 郭

 
 

駐車場に戻り、車内のムッとした熱気を窓全開で追い払った。

北海道と言っても七月の日中の暑さは、首都圏と大きな違いはなかった。

夜中や早朝の気温が16.7度までぐっと下がり、本州のような熱帯夜がない分、過ごしやすいのだ。北海道では日中の暑さの前に、朝夕の清涼が気分や体温を巻き戻してしてくれるのが、心地良いのだ。

 

カーナビで函館市立中央図書館を、目的地に設定した。ナビの地図では、図書館は五稜郭公園のすぐ西の脇にあった。

私は車を図書館の駐車場に止めて、五稜郭公園を散策することに決めた。

青柳町からは山を下るように坂道を降り、北に向かった。

閑静な住宅街を抜けると、建物の密集度が次第に高まり中高層のビルが見え始めた。ひときわ高く存在感のあるビルは、市役所だ。

 

ほどなくして、ちんちん電車のようなかわいい路面電車に遭遇した。広島や熊本の路面電車と同じで、心が和む。

その形といい古いブリキのような作りや色といい、レトロさ満載だ。スピードが遅いのも悪くない。

3分や5分間隔で間断なく現れ、せわしなく人が乗り降りし、また去っていく山手線や地下鉄とは違う。

ビジネスシティのマストラとしてはそれもフィットしてるのだろうが、精神衛生的には数段路面電車が良い。

観光地に路面電車が多いのは、行政の財政事情もあるかもしれないが、観光地のインフラというか、構成要素として重要な役割を果たしているから、なのかもしれない。

 

路面電車の軌道に沿う形で北上すると明らかに繁華街に入った、と思わせるエリアに来た。

標識には「五稜郭入り口」とあった。函館の中心部というかヘソは、どうやらこの辺りらしい。通過したJR函館駅周辺とは、明らかにテンションが違った。

 

地方都市にはよくあることだが、街の中心部とJRの主要駅とは異なることが多い。歴史のタイムラグなのだ。

地方都市の中心街は、お城近くの江戸時代からの繁華街を継承し発展させたものが多い。名称も肴町や呉服町・鍛冶町、○○街といった感じだ。

JRにしても私鉄にしても明治以降に作られたものだから、商店や都市機能が集中してる歴史的市街地に、直接乗り込むことはできない。既存施設への影響が大きすぎるのだ。

そこで影響が少なくて済む、周縁部の野っ原や農地を開発して駅施設を作ってきたのである。函館の街もまた同じだった。

 

カーナビの誘導に任せて行くとすぐに、五稜郭公園に近づいた。

五稜郭タワーは遠くからも確認できたが、近づくと右手に公園の緑が視界に入った。お濠が周囲をかこっていて、濠に沿った左右に幅広い緑地帯が在った。樹々の幹が低く太いのは寒冷地のせいか、それとも樹種のせいか・・。

目的地周辺に到着したことを、カーナビが定型的な口調で知らせた。

公園の左手に、派手さや高さは無いがしっかりとした、落ち着いた雰囲気の建物が在った。どうやら、目指す函館市立中央図書館のようだ。

私は建物の北側に廻り駐車券をとり、車を停めた。2時間まで無料とあった。平日ということもあってか、わりと空いていた。

 

函館は行政人口が25・6万人で大都市ではないが、人口数万人規模の地方都市とは違い、都市機能を充分に持った、中心地性のあるコンパクトな中核的都市だ。

しかも江戸時代末期から外国との交易が許された数少ない商業都市として、百五十年以上前から異文化に接しながら発展してきた、その歴史や伝統があった。

そんな背景を持つ街は、商業都市であると同時に、エキゾチズム漂う文化都市でもあった。そこがまた、函館の街としての魅力でもあるのだろう。

 

百五十年以上前の開港以来の欧米の影響は、街の随所にみることができる。

青柳町裏手の西部地区と言われるエリアは、神戸の山手地区に通ずるエキゾチズムが最も漂う街だ。歴史ある欧露の教会や洋館が散在している。

そんな文化都市函館の、中央図書館である。

二階建てレンガ模様のその建物にも美的センスは感じられたが、何よりも良かったのは建物の造形以上に、五稜郭公園を借景としていることであった。

閲覧スペースにこの借景を堪能できる場所があれば、きっと時間を忘れさせてくれるだろう、と私は思った。

しかし優先順位は公園の散策だ。

 

五稜郭公園が、戊辰戦争以来の明治維新の最後の戦場であることは、日本史でも習ったし、日曜日の大河ドラマ等でも学習はしていた。

何よりも歴史好きの父親の影響で、子供のころから幕末のことは聞かされていたし、基礎的な知識はあった。

家の応接間の書棚には、少なからぬ歴史関係の専門書や専門雑誌があった。

しかしその影響や恩恵を受けたのは主に兄貴や姉で、私ではなかった。私は同じ歴史でも、日本史ではなく世界史に関心があった。

 

何かにつけ優等生気味の兄姉への反発もあったかもしれないが、最大の理由は国の歴史の始まりが、客観性や科学的な視点の乏しい、神話や伝承のようなところからスタートするような日本史に、何やら稚拙さを感じたのだ。

高校生の時に司馬遷の「史記」やカエサルの「ガリア戦記」などの史書に興味を持った私は、そのまま世界史にはまった。

学問としてというか受験勉強の選択科目として世界史を選んだこともあり、体系的な知識としては日本史よりも世界史が、私の頭にはインプットされており染みついていた。

しかし土方歳三や近藤勇・新選組についての基礎知識はあった。司馬遼太郎や子母澤寛のおかげである。

とはいえ、五稜郭に関する知識が十分とは言えなかった。

啄木と土方の記念館に寄った時に多少の知識は付加されてはいたが、しょせん付け焼刃である。その程度の乏しい知識を携えての、史跡としての五稜郭散策である。

 

五稜郭の通常の観光コースから言うと私は、逆のコースを回ったようだ。駐車場のせいだ。図書館の駐車場に近い裏門から入ったからだ。

五角形の星型の城郭を取り囲むようにお濠があり、遊歩道があった。緑も多かった。

濠の内と外その両側に、豊かな緑を見ることができた。樹の葉を見ると桜の木のようだ。

 

皇居同様、朝夕の涼しい時間帯や気候の好い時季には、犬の散歩やらマラソン人やらがきっと利用するのだろうな、と思いながら濠に架かる橋を渡り、史跡に入った。

公園内外の樹木や、お濠の水は気温を下げるのにも役立っているのだろう。

心地よい風が、時折そよいだ。

 

史跡でもある五稜郭公園内には多くの観光客がいた。西洋系や東洋系など人種は色々だ。

日本人観光客より外国人客のほうが多いようだ。東洋系の観光客が増えているのはここ数年の傾向だろう。これも政府の観光立国政策の影響か・・。

 

五稜郭の中央には城郭の中枢を担う奉行所が、復元されていた。

建物の周囲には幹の太い立派な赤松が、景色をなしていた。

中には樹齢百五十年を超えてると思える、赤松もあるようだ。

それらの赤松のうちの何本かは、函館戦争と言われた明治維新最後の戦を、眼下に観てきたのかもしれない。

百五十年ほど前にこの地で沢山の砲弾や銃弾が飛び交い、命を懸けた切り合いが行われていたのだろうが、そのリアリティや感傷は私には無かった。

 

中東やアフリカで、今でも戦争に直面している人達だったらこの古戦場に来ても、私達とは違う受け止め方や、感じ方をしたかもしれない。

戦争や戦闘が他人事や過去の話ではなく、今自分や自分の身の回りで現実に起きている、リアルタイムの出来事だから、だ。

戦争を知らずに育った僕らは平和ボケ世代と言われるが、平和ボケで良かったと想っている。戦いの場はビジネスの世界だけで十分だ。

それでなくてもストレスの多い世の中だ、イデオロギーや民族や宗教で争うことはない。

そんなことを考えながら、史跡を散策した。

 

五稜郭公園を抜け、お濠に架かる橋を渡ると五稜郭タワーの足元に出た。

高いところに昇って当該エリアの全体を俯瞰するのが好きな私は、迷わずタワーに昇ることにした。

足元のガラス張りのアトリウムには、お土産コーナーと共にタワーに関する解説や五稜郭の歴史に関する案内が在った。

土方歳三のブロンズ像や、函館戦争時に使われた大砲類のレプリカまで鎮座してあった。

案内によると高さは98mということだ。ビルやマンションだと25・6階に相当する高さだ。

職業柄、建物の高さを理解するのにフロアに換算する習慣が染みついていた。階あたりはほぼ4m程度なのだ。

 

エレベータに乗って、最上階の展望室から函館の街を俯瞰した。

五稜郭も真上から見ると五角形の姿が美しかった。

緑も豊富だ。地上の感覚より緑が豊かに見える。お濠のスペースが思ってた以上に大きかったのは、発見だった。五稜郭がお城の一つであることを、改めて確認した。

 

市街地が五稜郭を中心に、東西南北にびっしり広がっていたのが良く判った。やはり函館は、五稜郭を中心に形成されている街なのだ。五稜郭というお城を中心に街が形成されているのだ。

先ほどまで居た、青柳町の在る函館山も鑑賞に耐える。

街並みは五稜郭から函館山に向かっても、延びていた。左右を海に挟まれる格好で、拡がっていた。

函館山が沖合の神域で、それに向かう参道沿いに街並みが形成されている、といった感じだ。両側が海なのも好い。

江の島を連想させた。

参道的なゾーンが、中高層の建物でしっかり構成されている点が、橋だけでつながっている江ノ島とは異なってはいたが・・。

 

函館山から先は下北半島なのだから、ここからの視座は本州に対峙することになる。

函館戦争の時官軍は、函館湾や函館山を拠点にして五稜郭に立て籠もる幕府軍の残党に、艦砲射撃などに依って戦闘を仕掛けてきたという。

江戸の徳川幕府を追われて此の北端の函館の地で、薩長中心の官軍と戦っていた幕府軍の残党は、どのような思いで戦っていたのだろうと考えてみた。

あるいは幕府軍の一翼を担っていた新選組の残党は、諸国浪人の寄せ集めだから江戸を追われ当時の最北の地にやって来たという想いは、そう強くはなかったかもしれない。

 

しかし、榎本武揚を始めとした幕臣や旗本達は、数百年の間江戸に住み徳川家に仕えていた、それぞれの家の歴史を抱えていただろうから、江戸への想いは強かったと思う。

江戸は彼らにとって、いわば故郷なのだ・・。

彼らはどんな想いで薩長連合を主体とした官軍に向かって行ったのだろう。

薩長を中心とした官軍は地方出身者によって構成されていたわけだから、当時の都である江戸という大都市を故郷とする住人が、地方出身者に都を追われた構図になる。

その時フト、私は考えた。

何故、土方は函館までやってきたのだろうか、と。

 

上野の山の戦いに敗れ江戸を追われ、千葉の流山辺りで近藤勇と別れたことは知っていた。近藤勇は戦うことを止め、官軍に捕縛される道を選んだ。

あるいは近藤は、戦うことに倦み、戦争に疲れていたのかもしれない。

しかし土方は戦うことをあきらめず、その後も宇都宮から会津へと北上転戦し、幕臣や新選組の残党を引き連れて、官軍と闘い続ける道を選んだ。

北進の途上、近藤勇が板橋の刑場で罪人として斬首されたことを、土方も聞き及んでいただろう。

 

その時彼は、どんなことを想ったのだろうか。

自分の死に場所は刑場ではないと、強く思ったのではないか。

どうせ死ぬなら戦いの中で死んでいきたい、と想ったのかもしれない。

鳥羽伏見の戦いならあるいは自分の死に場所として、相応しかったのかも知れなかったと。

 

武士の末裔ではない土方は、敢えてサムライとして戦いの中で死ぬことに、こだわりがあったのかもしれない。

彼にとってサムライとは身分のことではなく、一人の人間としての生き方の象徴だったのかもしれない。

サムライとして生き、サムライとして死にたかったのかもしれない。

会津の戦いで死ななかったのは、運が良かったこともあろうが会津藩士でもない自分の死に場所はここではない、と強く想ったのかもしれない。

 

大政奉還を済ませ徳川幕府が倒壊し、江戸城を官軍に引き渡した以上、新しい薩長を中心とした政府が権力を握るという、時の勢いに抗うことができないことは、彼自身すでに悟っていただろう。

彼にとって大切なことは、自分の死に場所は何処かであり、サムライとしてどのように死ぬのか、という事であったのではないか。

 

土方歳三は死に場所、死に方の美意識、それらを模索していたのかもしれない。

その結果の蝦夷地であり、函館戦争であったのではないかと私は想った。

同じ函館戦争を戦った榎本武揚や大鳥圭介が、討ち死にを選ばず降伏し、後に明治政府の顕官となって生き延びたことと比べると判る。

土方はやはり死に場所として函館を選び、函館戦争を戦ったのだと想う。

 

函館戦争をもって明治維新は終結し、ひとまず徳川の時代は終わった。

そういう意味では、五稜郭での戦いは時代を画した大きな出来事であった。

函館戦争は、武士の時代という中世・近世からの社会構造に幕を引き、日本が近代化に突き進むための「歴史の句読点」とでもいうべき、転換点でもあったのだろう。

明治維新は、鳥羽伏見の戦いで幕が開き、函館戦争で終わった。

そう思うと、眼下の五稜郭も多少違って見えた。ここは歴史の句読点の舞台なのであったのだと、観ることが出来た。

 

 

           啄 木 文 庫

 

五稜郭タワーから、中央図書館にはお濠端を歩いて向かった。

午後の一番暑い時間帯を、直射日光を避けるように木陰を選んで歩いた。それでも数分で首筋には汗が滴った。

お濠にはファミリーやカップルがボートを浮かべていた。涼しげであった。

緑地帯に面して、白亜の洋館やガラス窓の大きな店が何軒か建っていた。

喫茶店やレストラン・観光客相手の店が、五稜郭公園の景色を売り物に営業しているのであろう。

休息場所には好いかもしれない、と立ち寄ることも考えたが図書館を優先させた。

 

図書館のインフォメーションで「啄木文庫」を尋ねた。図書館司書に簡易な案内図で二階の一画を教えてもらった。

螺旋状の階段を上り、二階に向かった。

幾重にも連なる書架の、手前側にそれは在った。

書架の一本の殆どが啄木の関連本であった。千冊ではないにしても五・六百冊はあるだろうか。これは、腰を据えて掛からなくてはならない、と覚悟した。

まず、トイレに行ってすっきりしてきた。大切なことだ。

戻って、悉皆(しっかい)調査よろしく隅から隅まで観て、面白そうな本を何冊かノミネートした。それだけで二十分近く掛かった。

書架近くのディスク灯付きの閲覧コーナーにそれらを持ち込み、一冊ずつ目次を中心に中身を確認した。

 

砂山影二に関する本が目的だが、直接関係なくても興味をそそりそうな本も選んだ。

その中には明らかに古書と言ってよい書物があった『啄木日記』だ。

明治時代に石川啄木本人が記した日記を、昭和になってまとめたものだ。

ハードカバーで重たげな外装であった。中身は旧かな遣いで書かれていた。色も変色しており、古書特有のかび臭い匂いもした。

これは外せないな、と思った。

その他は、できるだけ函館の人達が書いた本を選んだ。

 

東京や函館以外の遠隔地に住み、啄木の研究家や啄木研究を職業としていそうな著者の本は、意識的に外した。

私が選んだのは、実際に啄木に接したことのある人達が書き残した著書や、函館や近郊在住で郷土史家や啄木の研究家と思われる人達が書いた、書籍などであった。

啄木に生で接し、函館の街を肌で識る人達の著作には、啄木と函館を研究し語るに当たっても、その著述は地に足がついていると思われたからだ。

情報は間接的であるより、直接的で情報源に近いほうが確かだ。

信憑性が期待でき余計なフィルターが掛かってない、オリジナルな情報こそ間違いは少ないし、信用できた。それに依ってより的確な判断ができるのだ。サラリーマン生活で学んできたことだ。

 

啄木文庫から取り出した中に『函館の啄木と節子(金野正孝著)』というハガキ大の著書があった。二・三十年前に書かれた本だ。

1ページに2段組みの構成で、ぎっしりと詰まっていた。上段が本文で下段が資料編という構成だ。その資料編が特に役立った。

函館時代の、と言っても五ヶ月に満たない短い期間であったが、函館で過ごした「啄木と妻節子の、函館での足跡やエピソード」をかなり詳しく調べ、細やかに記載してあった。

函館在住の啄木愛好家のようだ。しかも自宅は啄木の居住地の在った青柳町とあった。啄木の生活圏だ。

 

その中に「砂山影二」に関する記述があった。砂山と啄木とに接点は無かったから、いわば番外編のような取り扱いになる。

啄木の影響を受けた、函館在住の一文学青年についてのエピソードとして、扱われていた。

その本によると、

「砂山影二」は本名を中野寅雄と言い、明治三五年に生まれた。           啄木は明治十九年生まれだから、啄木より十六年後に生まれたことになる。大正十年五月一八日深夜、青函連絡船「伏見丸」より津軽海峡に向け投身自殺した。とある。

年齢は二十歳であった。

 

函館中学校(現、函館中部高校)時代に友人らと和歌の同人会を興し、同人誌でもある歌集『銀の壺』を発行し、中学卒業後の二十歳の大正十年四月に、私家集『坊ちゃんの歌集』を発刊したとある。

彼は函館山の西部地区弁天町の「中野活版所」の養子であった。幼少の頃子供の居なかった中野家に養子として入った、という。

私歌集は、彼が自ら活字を拾い・組み、印刷した、とある。

活版印刷とは鉛の活字を一字ずつ組み合わせ原版を構成し、それを印刷する旧い手法だ。

自死を意識した彼が自分の遺作としてこの私家集を創ったのは、家業手伝いの日常業務が終わり、職人たちが帰った後の時間であったのだろうか。

 

金になる仕事なら業務中に堂々とできようが、自分のための云わば個人的な行いであれば、そうはいかない。気も引けるだろうし、許されもしなかっただろう。

自分の遺作を作り上げるために、家人の目を気にしながら夜遅くまで、自ら活字を一つずつ拾い・組み・印刷した、といったとこだろう。

時に、深夜に及ぶこともあったかもしれない。

 

砂山の死は、青函連絡船が青森に着いた時に判った。

乗船名簿に記載されている砂山の名が、降船時に確認できなかったことにより、発覚したという。

青函連絡船では、乗船客の自殺はままあることだったらしい。

 

甲板には、時計が打ち砕かれてあったという。そして時計の近くには、友人宛の遺書が二通残っていた。

宛先は、行友政一と油川鐘太郎とであった。

発見された時計にはナイフが突き刺さっており、午前零時ちょうどを指していたという。

砂山のその行為はとても劇的な印象を与え、演出的な匂いすら私は感じた。

 

自らを主人公とした筋書きを、彼は描いたのであろうか。

あるいは日常の現実世界の中で彼自身が主人公になることが、少なかったのかもしれない。

まぁしかし、彼の死にはそのような舞台装置や演出が必要だったのだろう。

多感な青春期に、和歌を詠むといった感受性の強い文学青年なのだ。

衝動的な自殺ではなく、考え抜いた末の自殺であるとすれば、それを決行するためには、それなりの演出や舞台を求めたとしても、おかしくはない。

彼の美意識は、自らの最期の場面にも、当然向かったのだろう。

私はその時、頭の中に三島由紀夫を思い浮かべていた。

 

『函館の啄木と節子』の砂山に関する部分をコピーし、『啄木日記』を持って席を移った。

五稜郭公園に向かうガラス面に、自習用のデスクがたくさん在った。

緑の豊かな景色は目の疲れを癒してくれると同時に、心に平安をもたらせてくれるから、私は好きだ。

 

まして眼前に高さを遮る建物が一つもない緑豊かな景色は、希少な存在なのであった。

時間は三時を少し廻っていた。まだ三時間はあるな、と思った。

六時過ぎにはここを出て、再た青柳町のあかげら亭を訪ねようと思っていた。

和尚に、砂山のことをもっと聴いてみたかったのだ。

 

図書館の自販機で冷たいお茶を買い、トイレを済ませデスクに戻った。

デスクは高校生や大学生と思われる学生が多かった。

受験勉強でもしているのであろうか。夏の暑い時間帯に涼しく景色の好いこの場所は、彼らにとって理想的な環境であろう。

ファミレスも涼しいが周りはうるさいし、店のスタッフと神経バトルを繰り返さなければならない。それにここなら、学習に必要な情報は、いつでも得ることもできる。

居心地が好いのだ。

 

『啄木日記』の内、函館が登場する箇所を一通り読んだ。

四十ページ以上あった。

旧かな遣いで、文語調なので多少時間を要した。

なぜか肩が凝った。読みなれない文字を読み続けたためであろうか。

 

日記に函館が登場するのは、明治四十年五月五日に始まり、同年九月十三日までの期間であった。五カ月に満たない。

最初に啄木と函館にやってきたのは、妹の光子だけであった。妻や母は岩手に残してきた。

函館では当初、歌人仲間が紹介してくれた商工会議所の臨時職員に成ったが、収入は日給で安定してなかった。

やがて小学校の代用教員に採用され、職も給与も落ち着くことができた。

これも歌人仲間のあっせんに依った。六月十一日であった。

生活が安定し月給を得るようになって、岩手から妻節子や母カツを呼び寄せた事が喜びの気持ちと共に、書き記してある。

 

八月には地元新聞社の文壇の評論を担当するなど順調にいくかと思われたが、その一週間後の八月二十五日に運命の日がやってきた。

夜十時半ごろ青柳町下方の東川町より発生した火事により、函館の街は大火に襲われ全てを失った、と記録している。

函館の市街はもちろん、勤務先の小学校も新聞社もみな焼けた。とあるが、火元に比較的近い啄木の住む青柳町の家は、幸い無事であったようだ。自宅が風上であった事がその要因であったようだ。

 

狂へる雲、狂へる風、狂へる火、狂へる人、狂へる巡査・・」と書いてあり、

大火の夜の光景は・・・・・、予は遂に何の語を以てこれを期すべきかを知らず・・

焼失戸数一萬五千に上る」とある。

大火に襲われた、函館の惨状を目の当たりにし、無常観に陥った、といったことも記してあり、

途上弱き人々を助け、手をひきて安全の地に移しなどして午前三時家にかえりき」と、大火の惨状の中で人助けをしたことも記してある。

 

鴨長明が『方丈記』で同様のことを書いていたことを思い出した。

天変地異や戦火・大火の前にあっては、人は如何に無力で頼りない存在であるかを痛感し、長明は無常観を自らの人生観として、人生後半を生きた。

しかし啄木はより現実的であった。岩手から家族を呼び寄せていたこともあり、無常観ばかりではいられなかったのかもしれない。

一家の主として家族を食わせ、養う必要があったのだ。

 

大火の二日後、八月二七日の日記には

ここ数年のうちこの地にありては再興の見込なしとあり、この日札幌から函館に戻ってきた歌人仲間と協議し、札幌に行く事を決している。

函館最後の九月十三日の日記には、家族や友人・同人の仲間などに温かく送られ、札幌を目指す夜の汽車に、乗り込んだことが書いてある。

 

車中は満員にて窮屈この上なし、

函館の燈火漸やく見えずなる時、いひしらぬ涙を催しぬとあり、函館に関する記述は終わっている。

私はこの中の「いひしらぬ涙を催しぬ」の箇所に注目した。

 

四カ月余の短い函館滞在であったが「古里を石持て追われ」た啄木を、

函館に呼び寄せ、住まいを斡旋し、職を得るために奔走し、しばらく止めていた和歌の創作活動の場を与えてくれた、函館の歌人仲間たちの厚情。

大森浜を始めとした函館の自然や景色、青柳町から見た函館の街の夜景。

函館の燈火漸やく見えずなる時」に、それらの想い出や景色の場面が走馬灯のように、夜汽車に揺れる啄木の脳裏をよぎり、思わず落涙に至ったのかもしれない。

 

岩手内陸部の寒村渋民村とは別世界の、海に面しハイカラで異国情緒漂う先進的な街、函館が醸し出す心地よい想い出の数々が、走馬灯のように甦ったのであろうか・・。

そして友人達の厚い情もまた、啄木の心に少なからぬ感情を生みだし、同時にそれらは沈殿していったのであろうか。

 

積み重ねられ沈殿した函館への想いや感情が、

いひしらぬ涙」となって出てきたのではないか。

しかしその積み重ねられ、沈殿した少なからぬ感情を、整え・発酵させ・練り上げられた和歌として昇華させるのには、時間が必要であった。

『一握の砂』となって、数年の後に結実するのには、やはり時間が必要だったのだ。

 

函館を立った後、札幌・小樽・釧路と道内を彷徨った後、東京に居を構えてからも啄木は函館への想いを強く持ち続け、佳き想い出の地として記憶していた。

不遇をかこっていた東京において、対照的な函館での佳き思い出の数々は、キラキラと輝いて啄木の心に甦っていたのかもしれない。

歌集『一握の砂』はまさにその函館時代への想いを結実させた、感情の発露の具象であったのではないか、と私は想う。

 

啄木は、自分の死に場所を函館と定めていた。

函館の歌人仲間であり、よき理解者・支援者でありまた、妻節子の妹を娶った友、宮崎郁雨に充てた手紙で、そう書いていたのである。

私は『啄木日記』の内、函館についての記述のあった四十数ページを図書館でコピーして、持ち帰ることにした。

 

「宮崎郁雨に宛てた、啄木の手紙」(明治四十三年十二月二十一日)

 

 「・・俺は死ぬときは函館へ行って死ぬ。

 何処で死ぬかは元より解った事ではないが、僕はやはり死ぬ時は、函館で死にたいやうに思ふ・・。

君、僕はどうしても僕の思想が時代より一歩進んでゐるといふ自惚れを此頃捨てる事が出来ない

                      『函館の砂(宮崎郁雨著)』

 

 

 

       あかげら亭、ふたたび

 
 

「いらっしゃい、あっ名取さん・・」マスターいや小山さんが、親しみのある顔で私を迎えてくれた。

私は再び、青柳町のあかげら亭にやって来た。六時半を過ぎていたが、夏の日はまだ高く明るかった。マスターがカウンターに誘ってくれたので、そのまま座ることにした。

カウンターには先客がいた。

 

やや太り気味の、ごま塩頭の六十代後半とおぼしき男性と、髪は黒っぽかったが隙間が目立つ、同年代の中肉の男性であった。マスターの年齢に近い人達であった。

かくいう私も若い世代の人たちから見れば、同じ世代にしか見られないのだろうが・・。

 

「こちら、名取さん。観光で来られた方で、砂山影二に関心を持たれていらっしゃる・・」マスターが私を二人に紹介してくれた。

「で、こちらは小林さんと内山さん」マスターは私に二人を紹介した。

「小林さんは元高校の数学の先生。昼間話しました寺子屋で不登校の子供たちに、理科と数学を教えてられるんです、ボランティアで」中肉の人の説明をしてくれた。

「内山さんはここから4・50㎞程離れた知内町の郷土史研究家で、地元の知内の金鉱や金山開発について研究している、まぁロマンチストですね。はっは」マスターは笑いながら、小太りの人を紹介した。

 

知内?と私が一瞬、記憶の回路を辿っていると、

「北海道新幹線の北海道側の出口があるとこですよ、まぁ函館と松前の中間ぐらいの・・。あ、それから北島三郎の故郷ね」内山さんはニコニコと人懐っこそうに、知内について説明してくれた。

「あ~ぁ何となく判ります。新幹線の木古内駅の向こう側ですかね、確か。明日松前に行くんですよ、私。

あ、それから私はこの三月に会社を退職しまして、今は暇を持て余してる定年退職一年生の名取と言います。

暑い東京を避けて北海道をぐるっと、一カ月ほどかけて旅行し始めたところです。まだ、始めたばかりですが・・。で、小山さんが言われた砂山影二のことは今日知ったばかりでして、ハイ」

 

「何か飲まれます?名取さん。この時間だと、アルコールもオッケイですよ」マスターは、すでにビールを飲んでいる二人を眼で追いながら、私に勧めた。

「じゃぁ僕もビールお願いします、よく冷えたの。喉、乾いてまして・・」

「運転、大丈夫ですか?」小山夫人が言った。

「大丈夫です。タクシーで来ましたので・・。」

「あは、飲むつもりでかい?」内山さんが、目を細めて言った。

「あはは、まぁそんなとこです。・・ところで金鉱、探してられるんですか?内山さん」私は尋ねた。

「なーんも探してるんでない、研究してるんだゎ。別に金鉱当てて一儲けしようって、わけでないのさ、あはは」返事に北海道弁が混じってきた。

「それゃ残念だ。ゴールドハンターでしたら・・」

「あら名取さん、ご興味あるんですか?」コップとビール瓶をテーブルに置きながら、夫人が親し気に言った。

 

「いやいやいや話の流れで言ったまでです。はい。ところで、知内には金鉱とか金山とかがあるんですか?今でも・・」私は更に聞いた。

「いやまぁ、正確には砂金採りなんだぁ。知内の町開拓したのも、砂金の採集が始まりでさ。今から810年ほど前の元久二年、西暦だと1205年に成るんだったかな確か・・。     その年の7月に、甲斐の國いはら郡の領主荒木大学さまが、家来や掘り子千人余りを引き連れて知内に来たのが、我が知内の始まりなんだわ」内山さんはすらすらと、暗唱しているように話した。

「えっ甲斐の國⁉ 僕、山梨の出身なんですよ。へぇ―甲斐の國ですか」私は改めて内山さんを見て、言った。

「でも『いはら郡』ってどこだろう?聞いたこと無いなぁ」

「庵原郡は、『大野土佐日記』って言う古文書に書かれててね。これ、確かなんだゎ。したっけオレが調べたとこでは、甲斐に庵原郡ってのは無くって駿河の國になるんだわ、庵原郡。字もいの字が伊豆の伊でなくって、庵の庵でね」

「ってことは甲斐の國ではなく駿河の國ってことですか、その荒木大学って人は・・」私は、内山さんに尋ねた。

 

「ところがね、荒木大学一党はやっぱり甲斐の國の出身らしいんだわ、これが」内山さんは、グイッとビールを飲んで話を続けた。

「まぁ、名取さんなら知ってるっしょ。甲斐の國って、昔から金山とか金掘りって有名だったんでないかい?」

「ええまぁ甲州金山とか在りましたし『金山(かなやま)衆』って金掘りの職業集団が居たって、よく聞きましたよ。因みに、おふくろの実家の近くに通称『金山(かなやま)』さんって呼ばれてる家がありましてね。親父の推測では金山衆の末裔ではないかと・・」

「そういった技術やノウハウをもった集団が、甲斐の国には昔から居て鎌倉幕府の初めの頃にも当然居た、と」内山さんの言葉に力強さが加わった。

「1205年と言うと、鎌倉幕府ができてまだ20年くらいしか経ってない頃ですか?『1192造ろう、鎌倉幕府』って習いましたよね、昔」マスターも興味を持ったのか、話に入ってきた。

「『大野土佐日記』って古文書には、鎌倉幕府の二代将軍源頼家の命を受けて、荒木大学さまが蝦夷地に金山の探索に来たと、書いてあるのさ」内山さんが解説した。

 

「頼家って、あの北条政子に幽閉されて殺されたっていう悲劇の将軍?実の子なのに」小山夫人も、興味を持ち始めたようだ。

「んだ、その頼家。頼朝嫡男の」内山さんが応えた。

「ところで、駿河の國ではなく甲斐の國と内山氏が確信するにいたったのは、どんな根拠があってなのさ?」小林さんが、理系の人間らしく問いただすように聞いてきた。

「甲斐の國の有名な金山に『湯之奥金山』ってのがあったのさ、今の身延町に。平成の大合併の前は下部町と云ってた町」内山さんが解説した。

 

「下部ですか?あの下部温泉で有名な。あそこって金山もあったんですか?信玄の隠し湯だったって話は、僕でも知ってますがね・・」私が補足した。

「そうなんだゎ、その下部温泉。三年ほど前にオレも家のと行って来たのさ、下部温泉。『湯之奥金山』探訪を兼ねてね。したら、ね」内山さんは皆を見まわして、続けた。

「湯ノ奥金山の近くに『毛無山』って山が在ったのさ。っていうか毛無山の中腹に金山の跡があったんだゎ」

「毛無山?ん~ん、聞き覚えがありますね、毛無山。たしか静岡との県境の方の山でしょ二千m級の、結構高い・・」私が山梨を代表して応えた。

 

「したっけ、知内にも毛無山在るんだゎ。荒木大学さまが蝦夷地に来て、一番最初に砂金採りや金山開発の拠点として築った館が在ったのが『毛なし獄』なのさ。       知内のその小高い丘に、故郷の甲斐の山の名前をこっちの館のある場所に付けたんでないかって、思ったのさ」内山さんの解説に熱が入ってきた。 

「ほう、確かに偶然の一致じゃないかも、ですね・・」マスターは続けた、

「と言うことは、その下部温泉近くの金山『湯之奥金山』でしたか、そこを治めていた荒木大学が、頼家の命令を受けて甲斐や鎌倉から遠い遠い蝦夷の地までやって来た、ということですか?千人を上回る家臣やら掘り子やらを連れて、そういうことになりますかね。だとすりゃ、おおごとですな・・」と。

私もそう思った。それが事実なら確かに大変なことに違いない。

「したから駿河ではなく、甲斐の出身だと確信したんだ。オレ」内山さんは、小林さんに向かって言った。

 

さっきから、話を聞きながらスマホをいじってた小林さんが、

「なるほどね。ところでこれで検索したら、頼家は1204年に幽閉先の修善寺で北条氏に暗殺された、となってるね。荒木大学が来たのは、確か1205年だったよね、死んでるんでないかいこの時頼家・・」小林さんはもう一度、疑問を投げかけた。

「それは・・まぁ、どうなんだろうかね・・。ちょっと・・オレにも判りませんゎ・・」内山さん、元気がなくなった。

「それに毛無山って、渡島にはたくさんあるっしょ。函館にも・北斗にも、森にも」小林さんが、追い打ちをかけるように続けた。

私は、スマホで毛無山を検索した。確かに北海道には毛無山が沢山あり、道南の渡島地方にも幾つかあった。

 

「『ケナシ』って、木がたくさん生えてるとこって意味みたいですね、アイヌの言葉で・・。ん~ん小林さんがおっしゃるように、函館・北斗市・森町にもありますね。  ・・でも標高、低いですね・・。600とか700mとか、ん~ん里山級ですねこれじゃあ・・。山梨のとはレベルが違う。向こうは確か2000m級だと思いますよ・・。   仰ぎ見るって感じじゃないですね、この程度だと・・。因みに知内の毛無し嶽って、どのくらいなんです?標高」私は内山さんに尋ねた。

「いやぁ、山でない毛無し嶽は丘みたいなもんだ。したけど千軒岳って高い山のすそ野のほうにあるのさ。千軒岳は千mの上はあるべさ確か・・」内山さんが応えた。

「渡島で千m級っていうとかなり高いんですか?その、仰ぎ見るレベルっていうか・・」

「そうだべ、この辺じゃ一番の山だろさ」私の問いに内山さんが応え、続けた。

「したから千軒岳って名前も、金堀が活発になって金堀衆の家が千軒以上あったから、そう云われるようになったって云い伝え、あるのさ」

 

「ちょっとしたゴールドラッシュですね・・。因みに千軒岳1072mありますね。北海道西南部の最高峰だそうです」私がスマホで確認した。

「甲斐の國から蝦夷地に、千人規模で来るって相当大変ですよね。準備だけでも時間とかかかるでしょう。まして頼家が幽閉されてるとなれば、鎌倉幕府の眼を盗んでということでしょうから、相当慎重になりますよね、内山さん。

ところでさっきから出てる『大野土佐日記』って、いったい何なんです?」私は気になってた『大野土佐日記』について尋ねた。

「あぁ、それかい。それは荒木大学さまが甲斐の國から一緒に連れて来た修験者で、大野了徳院紀重一という人がおってね、その人の子孫が書き残した旧事記(くじき)まぁ古文書なんだゎ、今でいう。

ずっと口伝やら覚書として残ってたのを、慶長年間に十六代大野松元が本にして十九代目の大野土佐がその修正本を作成したことから『大野土佐日記』と成ったんだゎ」内山氏が再び、暗唱しているのかすらすらと応えた。

「慶長ってことは徳川家康の頃でないかい。十六世紀終わりから十七世紀初めの頃でしょ。したら400年近く経って初めて文章にしたってことだべさ。信憑性あるのかい?それ」小林さんが再び疑問を呈した。

 

「アイヌにユーカラってあるっしょ。口伝でアイヌの歴史を残したって。口伝、あり得んかい?正式に文書として整理したのがその頃で、まとまってなくっても覚書のようなもの残ってたかも知れんしょ。小林さんだってそういうことないかい?いきなり清書する前にさ、覚書とかで書き留ておくってこと・・」内山さんが反論した。          私達は、内山さんの話に肯いた。

「ひょっとしたら、北条政子に幽閉されるのを察知して、頼家が密命を出したのかもしれませんね、荒木大学に」マスターが思いついたように言った。

「幕府創設の功労者で権力者でもある北条一族。さらに母親でもある政子に反旗を翻すために、軍資金を調達する必要があった。それも少なからぬ量の・・。         その白羽の矢を甲州金山を宰領してた荒木大学に立てた、と考えることは出来るかもしれませんね、頼家が・・」マスターが続けた。

皆、マスターの大胆な仮説を考えていた。

 

「はじめ口伝で残し文書化しなかったのも鎌倉幕府をおもんばかって、というか発覚を恐れたから、かもしれませんよね。へたに文書で残してバレたら累が及ぶと考えて、わざと口伝にしたってことも考えられなくはないですよね。当初は・・」私が言った。

内山さんはウエストポーチから手帳を出して、しきりに何かを書き始めた。

 

「マスターそんな好い考えあるんなら、もっと早くに言ってくれれば良(い)かったのに」内山さんがからかうように言うと。

「いやぁ内山さんとこんなに込み入った話してなかったでしょ、今まで。ほっほっほっ」マスターが、満更でもないように応えた。

「でも、面白い仮説ですね。ちょっと刺激的ですね知的好奇心くすぐられますよ。なんだか梅原猛の本読んでるみたいで・・。                       確かにマスターが言われるように、頼家の密命を帯びた荒木大学が敢えて一族郎党引き連れて、蝦夷地に大挙してやってきたのも、北条氏や鎌倉幕府の報復を恐れたからというのはあり得ますよね・・。一族の存亡を掛けて・・。

時の権力者に反旗を翻すための軍資金を確保するために、遠い蝦夷地までやって来たんだとすれば・・。荒木大学も相当な覚悟を決めて、頼家のために働くために来たのかも、ですね。発覚すれば一族が抹殺されるリスクがあった中で。そう考えると納得できますね。一族郎党や千人規模ってのも・・」私は想像力をたっぷり膨らませて、そう言った。

 

私の話に内山さんは肯きながら、

「だべさ。普通一族郎党を引き連れて千人規模では中々来ないっしょ、蝦夷までは。甲斐の國って遠いんだわ、ほんと。この前だって大変だったんだから、母ちゃんと行ってくるのに・・。まぁ先遣隊とかを派遣でもしないと・・」と言った。

「実際のところ先遣隊はたぶん来ただろうと思いますよ、一族郎党引き連れて来るには相当準備も必要ですからね。計画だって練りに練った上ででしょうし・・。何せ、一族の存亡に関わることを引き受けるんだから」私はそう言ってからビールを飲んで喉を湿らせて、話を続けた、

 

「当時謀反の疑いをかけられたら、一族は抹殺ですよね確か・・。結構血生臭かったんでしょ、あの時代。たしか北条氏に嫌疑を掛けられ抹殺された一族があったでしょ、三浦一族だったかな・・。

それに蝦夷地ってのが、やっぱり引っ掛かるんですよね私。鎌倉幕府は奥州藤原氏を滅ぼしてたから、岩手県南部あたりまでは勢力が及んでたでしょう。           でも北東北や蝦夷地までは、さすがに目が届いてなかった。

だからわざわざ、幕府の影響力の及ばない蝦夷地にやって来たんじゃないか、って考えると納得行きますよね。鎌倉幕府の眼を避けるために・・。山梨から北海道に千人規模で来るって、今でも大変なのに鎌倉時代初期の頃だったら、ものすごい労力や時間が掛かったと思いますよ。                                 エネルギーもお金も相当使ったでしょう。運送手段確保するだけでも、大変だったでしょうし・・」私は一気に話した。

 

内山さんは話を聴きながら、ちょっと考えてメモを続けた。

「内山さん面白くなってきましたね。今日は、だいぶ収穫あったでしょ名取さんにビールおごりますか?ほっほっほっ」マスターが茶化した。

「内山さん、そしたら『吾妻鏡』や『愚管抄』なんかの歴史書、研究されたら良いですよ。頼家のとこ中心に・・」私も、内山さんを焚き付けた。

「いやぁーおっしゃる通り。『吾妻鏡』『愚管抄』ね、勉強になりますゎホント・・」内山さんは、嬉しそうにメモしながら応えた。

「『修善寺物語』も、岡本綺堂の」マスターが付け加えた。

話が盛り上がってるとこに、新たな来客があった。

 

       

         砂山影二の葛藤 

 

「いらっしゃい。あ、寒村和尚!」マスターが言った。

皆が振り返った。

昼の和尚が手を小さく上げて入ってきて、

「おばんです。・・皆さんお揃いですな」ニコニコと言った。

「おや、あなたも。・・確か砂山影二の・・」私を認めて、そういった。

「名取さんですよ、こちら」マスターが和尚に紹介してくれた。

 

「どうも、名取です。昼の続きを伺いたくて・・」私は和尚に頭を下げた。

「それはそれは・・ご熱心ですな。まぁワシが知ってる範囲で良ければ・・。あ~8時から会合がありますんで、それまでの時間であれば・・」

時間はまだ、四十分くらいは大丈夫だった。

「和尚、何か飲まれますか?ヘルメット持参でないということは、奥方のお送りですか?」マスターが尋ねた。

「まぁそんなとこじゃ。最近、夜目が効かんくなってさ。おっかなくって・・」

「じゃぁ、ビールいかがですか?お礼に。あっと無いや。マスター、もう一本お願いします」私はそう言って瓶の底に少しだけ残っていたのを、自分のコップに注いだ。

 

「で、夕方の巡回、どうでした?」内山さんが尋ねた。内山さんも和尚さんとは知り合いのようだった。

「なぁーんもだ」

「そりゃ、良(い)かった。和尚が暇ってことは、自殺予備軍居なかったってことだべさ。いやぁ~、めでたいめでたい」内山さんが明るくそう言った。

「マスター、今日は夕飯食いそびれた。なんか食わしてくれんかの」和尚が言った。

「ドライカレー、どうですか?」マスターの問いに和尚は肯いた。

私は、ランチでドライカレーを頼んでる人がいたことを思い出した。あの時の香りは食欲をそそる匂いだった。

「あ、私の分も頼めますか?」私も追加した。マスターは黙って頷くと、芹沢銈介作と思われる民芸風のれんの奥に消えた。

 

「ところで、どんなこと、聞きたいんですかの?」私がビールをつぎ終えると、和尚が聞いてきた。

「あはい。あの後私、五稜郭の中央図書館に行ってきまして、砂山影二のこと多少調べました。彼の私歌集のことや自殺のこと、友人達のこととか・・。まぁざっとですが。その際、家庭の事情とかで砂山がだいぶ傷ついていたとか、友人の・・」私は携帯用のノートに書き留めた名前を確認して、

「行友、行友正一氏が言ってたんですが、一体どんなことがあったのかなぁと思いまして・・。ご存知でしたら、ですが・・」

「う~ん、行友さんか・・。」和尚は、遠くを見るような目になって言った。

「まぁワシも、行友さんに、同じこと聞いたのさ」和尚はビールをぐっと飲んで、一息入れてから、言った。

 

「中野寅雄。ご存知だと思うが、砂山影二のことじゃが、中野寅雄は実は養子でな。本名は確か諸岡、諸岡寅雄とかいったそうだが、小さい頃中野活版所の中野嘉八郎夫妻に貰われて、育てられたいうことじゃ。

親戚でも何でもなかった中野さんが、まぁ子が無かったこともあって、知り合いの子を養子に迎えたらしいんだな、寅雄を。因みに寅雄は、利発そうで可愛かったという話じゃ。女の子みたいにな・・。これは、行友さんも、そう云っとった。二十歳前後の死ぬ間際の頃でも、乙女のような風貌だったとな。

まぁそんなことで血のつながりのない中野夫婦が、養子にしたんだそうだ。中学に入るころまでは、寅雄も幸せであったんだと。それがまぁ、一変するようなことが起きたんだな。

寅雄にとって育ての親であり、ことのほか寅雄を可愛がってくれてた中野さんの奥さんが亡くなってしまったんだわ。まぁそれからなんだと。寅雄が不幸せになったんゎ・・。 中野さん、何年もしないで後妻をもらったのさ」和尚は一気に中野寅雄の事を話した。

 

マスターがドライカレーを持ってきて、カウンターに置いた。カレーの好い香りが漂った。

「その後妻は大柄の美人で気の強い人だったらしく、趣味人で温厚な人柄の中野さんに代わって、ほどなく活版所を仕切るようになったんだそうだ。そうでなくとも継母は先妻の子に厳しい云うが、まして血のつながりの無い養子なら尚更だったんでないか・・」

その時和尚の目が潤んだように、私には思えた。

「中学を卒業する頃には、跡取りの息子も生まれたんだと。それから、一層邪険に扱われるようになったんだそうだ・・」和尚は、話を区切るようにビールを飲んだ。

 

「ある時、寅雄が行友さんのとこに来て、酒を飲んで絡んできたことがあったんだそうだ。普段は余り酒を飲まん寅雄が、その日はずいぶん呑むんで行友氏が聴いてみたのさ、なしてそんなに飲むんかい?ってな」和尚の声が、少し湿っぽくなった気がした。

「今朝、いつものように朝ごはん食べようとしたら、継母から今日から寅雄さんは、板の間で食事してくれろ、って云われたんだと。                    一段下の板の間でな。・・職人たちと一緒にな。因みにそれまでは、家族と一段上の畳の間で食べてたんだそうだ・・。

要するに家族の一員であったのを、これからは職人の一員として扱うよって宣言されたわけだ・・。それが悔しくて悔しくて、どうにも呑まずにいられんって、寅雄が泣いてたと言っておったよ」

「中野さんは何~んも、言わんかったんですか?」内山氏が聞いた。

「中野さんは朝顔の会とかで、その場に居合わさなかったそうじゃ。あるいは人の好い中野さんは妻にそう聞かされて、同席できなかったのかもしれん・・。さすがに居づらかったのかもな、その場にはな・・

それからこれは余談だが、寅雄は家の手伝いをするようになってからも、ずっと中学の時の制服を着てたと、言ってたな。金ボタンを墨かなにかで黒く塗ってたらしいな。とても窮屈そうに見えたそうじゃ・・」和尚がしみじみと言った。

「まともな小遣いやら雇い賃も、貰って無かったんだべなぁ・・、そんな継母じゃぁ」内山さんが低く言った。

「なるほど・・。そういうことだったんですか・・家庭の事情って・・」私は、ビールを和尚と内山さんとに注いだ。

 

「しかしなして家、飛び出さなかったんかな彼は。二十歳過ぎてたんでしょ、その頃。 立派な大人じゃないですか・・。私ならそうしますがね」小林さんが怒気を込めて言った。寅雄を責めるように・・。

「確かに」と私もうなずいた。

「そうそう。ワシも行友さんに同じこと聞いたのさ。したら行友さん、中野君は風貌もだが気持ちも乙女のようなとこがあって、自分の意志や意見をハッキリ言うような人でなかった、って言うのさ」和尚が応えた。

「そのやり場のないマイナスのエネルギー、どこに持ってったんですかね?寅雄さん・・」夫人が尋ねた。

「和歌、ですか・・」私は思わず、そういった。

「ん。・・そのよう、だな・・」和尚が応えた。

 

「それにしても、死ななくっても良(い)かったでしょうに」小林さんが吐き捨てるように言った。彼の怒りは、同情の裏返しだったのかもしれない。その言葉には愛情が潜んでいる様に私には感じられた。

「ワシも、そう思った。・・行定さんが言うには、当時藤村操が華厳の滝から投身自殺した事が、新聞で大きく取り上げられていた頃で、まぁ若者の間でちょっとした自殺ブームというか、自殺願望といった事が、流行ってたそうなんだな・・」和尚が続けた。

私は話を聞きながら、砂山が自殺を自ら演出しているのではないか、と図書館で感じたことを口に出した。

 

「砂山の自殺の仕方は少し芝居がかってるように、私は感じたんですが」

「あるいは・・そうかもしれませんな。しかし自殺を試みる人の中にはそのような人も居りますな、何人かは・・」和尚が応えた。

「生活苦や人間関係に追い詰められて死ぬ人も多いんでしょうが、中にゃ自分の人生を美しく終わらせようとする人も、おるんでしょうな。まぁ寅雄はそういうタイプの人間だった、ってことですか・・」小林さんが、ため息交じりに言った。

「和尚さんは、行友さんとは、お知り合いだったんですか?」私が尋ねた。

「うんまぁ知り合いってほどじゃないがの。その例の砂山の歌碑を建立する時に、ワシから訪ねたんだゎ。新聞記事さ読んで・・」和尚が言った。

「除幕式か何かの時に、ですか?」私の問いに、

 

「まぁの」と和尚が短く答えた。

「だいぶ前のことでしょ。いつ頃ですかそれって」私は、更に尋ねた。

「五十年くらい前、かな。・・ワシも若かった」

「確か、室蘭から来られたんでしたか・・」マスターが和尚に聞いた。

「だったな、ワシも三十前後でエネルギー余っとった。はっはっ」

「わざわざ室蘭から函館に出てきたわけですか、なるほど。因みに当時だと、どのくらい掛かったんですか?室蘭からだと・・」私は誰とはなく尋ねた。

「まぁ3・4時間ですかな、急行か特急だと」小林さんが教えてくれた。

 

「和尚さん、何か砂山影二に関心とかあったんですか?当時」私が尋ねた。

「いやまぁ何となくな。新聞記事の『津軽海峡に投身自殺した青年』ってとこが目に留まってな。で、啄木を慕っていた文学青年の四十何年振りかの供養の歌碑とかいうこともあってな。それにまぁ啄木の墓にも行ってみたいと、前から思っとったんだヮ物見遊山で、ついでだわな除幕式は。はっはっ」和尚が快活に応えた。

 

「和尚確か、横浜から婿入りして間のない時でしたか、その頃」

「おっ、ワシそんなことまでしゃべっとったか」和尚はやや慌ててマスターに言った。

マスターはニヤニヤして、

「酔ってたから、ですかね和尚。確か都落ちとか言ってましたよ、あはは」

「いやいやいや住めば都だて、はっはっ」

「内地から来て五十年くらいに成るっけ?和尚」内山さんが言った。

「まぁ、そんなもんかの」

「ともあれそれで行友さんと知り合ったんですね。なるほど・・。いやぁおかげで貴重な生の話、聞くことができました。ありがとうございました」私は和尚に謝意を伝え、ビールを注いだ。

 

しばらくカウンターで話を続けていると、新しい客が入ってきた。

四・五十代と思われる女性が三人ほど、五十代と思われる男性が二人。いずれも互いを知っているようで挨拶をして入ってくると、迷わず奥の大テーブルにと向かった。

彼らに続いて和尚と小林さんが向かった。時間は8時に成ろうとしていた。

 

最後に、円筒の図面入れを抱えて二人の男性が入ってきた。

彼らは設計者か何かだろうと思われた。前に来た人達とは違う職業的な匂いがした。

和尚が言っていた8時からの用事ってこの事だったんだ、と私は理解した。

 

 

            

              介護カフェ

 

「何かの会合ですか?」私はマスターに尋ねた。

「介護カフェの、プロジェクト会議ですよ」夫人が応えてくれた。

夫人は冷水とお手拭きをもって、大テーブルに向かった。

「介護カフェ、ですか?」

「んだ、介護カフェ。和尚が発起人ってか、言い出しっぺでさ・・」私の問いに、内山さんが応えてくれた。

「和尚はアイデアマンというか、問題提起ようするんだゎ周りに。いっつも立待岬から帰ってきた後にだけどね。はっはっ」内山さんが続けた。

 

「確かにきっかけは立待岬の巡回ですけど、自殺するほど追い詰められてる人を前にしたら『何とかせにゃぁ』と思われるんでしょうな、和尚。人の心の痛みが判る人ですから・・」マスターが優しい目をして言った。

「人が好いしな、和尚」内山さんが混ぜっかえした。

「それに介護って、結構家族に負担かかってきますからね実際。特にまじめな人ほど・・」マスターが云った。

 

「んだな。オレも家のに苦労掛けたんだゎ。ばあさんのことでは・・」内山さんの話に私も大きく肯いて、言った。

「いやぁうちの女房も毎週実家に帰ってんですよ、介護で。お母さんの老々介護をヘルプするんだ、ってね」

「今や他人事じゃなくなってますよ。・・我々の年代になると、親も年取ってますしね・・」マスターも続いた。

「その介護カフェの、会合ですか・・」私は改めて大テーブルのほうを見た。

「えぇいよいよ改築工事に入るとかで、煮詰まってるとこです」

「この秋だったかい?オープン」内山さんがマスターに尋ねると、マスターは肯いた。

 

「あなたブレンドとアイスコーヒー、それぞれ三つとアイスティー二つ。それに生ビール二つお願い」夫人が戻って、オーダーを告げた。

「奥さん、介護カフェ仕切るんだってか?」内山さんが夫人に聞いた。

「えぇまぁ・・。仕切るわけじゃないですけど。経験者私だけだから・・」夫人は応えた。

「どんなことするんですか、介護カフェって?」私は夫人に尋ねた。

「何~んも特別なことしませんよ。ただ、介護で苦労してる人達が息抜きできる場っていうか、情報交換し合ったり愚痴こぼしあったり、慰め合ったりする場所ですよ。お茶、飲みながら・・。

まぁ、介護に疲れた人たちの止まり木に成るようにっていう・・。ガス抜きが必要なんですよ、皆・・。介護で苦労してるの自分だけじゃないって、判ってもらえる場所っていうか・・」夫人は、しみじみとそう言った。

 

「旭町のほうだったかい?お店」内山さんが聞いた。

「ええ、郵便局の近く」

「閉まってる古い飲食店、改装するってかい?結構かかるっしょ、これ」内山さんが、指を丸くして聞いた。

「まぁ贅沢しないんで費用は抑えられるんですよ。お金ないし、ほっほ。それに、みんなで持ち寄れるものは持ち寄ろうってね。・・手造りですよ」

「大変ですね、ボランティァですか?」私が尋ねると、

「いえいえみんな他人事じゃないんですよ、介護抱えてるから。・・自分の事なんです」

「奥さんも、かい?」内山さんが尋ねた。

「そう私も。町田に要介護の母を残してましてね・・。こっちにいるもんだから姉に任せっきり。罪滅ぼしにってね」夫人が頷きながら応えた。

マスターがドリンク類を夫人に手渡すと、彼女はそのまま大テーブルに向かい、会議に入っていった。

 

「大変ですね、いろいろと・・」私が云うとマスターは

「いやいや、一番大変なのは和尚ですよ」

「だな。和尚はエネルギー余ってんだなぁ」内山さんがしみじみと言った。

「いやいや和尚にしたって、前の奥さんの事あるから他人事じゃないんですよやっぱり」マスターが言った。

「室蘭に居た時のことかい?」内山さんが尋ねた。

「十年以上も前のことらしいですけど、奥さんボケて徘徊したりで大変だったらしいです。尤も本人は宗派のことで忙しくて息子夫婦に任せっきりで、特に嫁さんに苦労掛けたって、ずっと思ってたみたいですよ」マスターが応えた。

 

「きっかけは、立待岬の巡回だって言われましたよね」私が尋ねた。

「えぇ去年の十一月頃、だったかな確か・・。和尚が巡回してる時に五十代くらいの娘さんが、高齢のお父さん連れて車いすを押していたらしいんですよ。・・なんだか、思い詰めた感じでね・・。

和尚何人もそういう人見てるから、ピンときたんですって・・危なそうだな、って。それで和尚が声かけたんですよ。得意の・・」マスターの説明を遮って、内山さんがニヤニヤしながら云った、

「得意のオナラで、かい?アハハ」

 

オナラ?私には何のことか判らなかった。

「はっはっはそうですよオナラ。和尚、得意なんですよ。オナラでその場を和ませるの」マスターが笑いながら、教えてくれた。

「張り詰めた緊張の糸緩ませるのには、オナラが一番だっていうんだゎ。和尚」内山さんも笑いながら補足した。

確かにそうかもしれない、と私は納得した。変に理屈をこねるより効果がありそうに思えた。

 

マスターは続けた。

「そのあと例によって、二人をここに連れてきましてね・・。奥のほうで、二時間ほど話し込んでましたよ。尤も和尚はもっぱら聞き役でしたがね。

それからしばらくして、ですね。和尚が私達や知り合いのケアマネージャーやら短大の先生達巻き込んで『どうすべぇ~』とか言い出したの」

「短大の?」私が尋ねると、

「社会福祉で介護教えてる、あのストライプのシャツ着たメガネの先生ですよ。斉藤先生」

「和尚、顔広いからな。人脈広いんだわ」内山さんが言った。

 

「打ち合わせ何度も重ねて、今年になってからですかね、介護カフェに落ち着いたのは。

で、家のも駆り出される羽目になったんです。カフェ経験者ってことで・・。

さっき彼女が言ってたように、罪滅ぼしだそうです町田の」

「情けは人のためならず、ってことですかね」私が云った。

「ん?情け掛けるの良(い)くないってかい?」内山さんが疑問を呈した。

「え、いや。情けは他人のためにやるんじゃなくって、巡りめぐって自分の身に掛かってくるって、そういう意味ですよ。だから他人に情け掛けるのは、人の為じゃなくって結局自分のためだって」私は言った。

 

「函館でやってることが巡りめぐって、実家の町田の母親の介護につながっていくってね。そう言ってるんですよ、名取さん。だから結局は自分のためなんだ、ってね。他人への情けも・・」マスターが判り易く解説してくれた。

内山さんは肯きながら、

「ふーん、そうかい。オレずっと勘違いしてたかな、情け掛けると人間ダメになるって。こりゃ勉強になるなぁ今日は。あはは」

 

「和尚さん、すごい人なんですね。宗教家っていうより、なんだか社会活動家みたいですね」私は云った。

「本人も、そう思ってるみたいですよ。坊主は仮の姿だって。仏の道に仕えるのは困ってる人を救うことであって、お経上げて済むことでない、ってね」マスターが教えてくれた。

「悟ってるんですかね」私が云った。

「悟りとは、気付きなんだそうです。和尚曰く・・」マスターが言った。

「それで、室蘭の寺飛び出したのかい?」内山さんが聞いた。

 

「宗派のこと一生懸命やってても、あまり人助けにゃならん。と気づいたらしいですよ。階級、上がってもね。息子さんが一人前になったことや、奥さんが亡くなったこともきっかけになったんでしょうけど、根っこは仏の道への仕え方、なんだそうです」マスターが言った。

「なるほどね。それが和尚のエネルギーの源泉なんですか・・」

私は、少し和尚のことが理解できたような気がした。

和尚の周りに人が集まってくるのも、なんとなく判ってきた気がする。

 

大テーブルは介護カフェの事で盛り上がっている様だ。笑い声がした。

「そういえば小林さんもメンバーなんですか?」私が尋ねると、マスターが教えてくれた。

「ええ小林さん、お母さんが要介護3で他人事じゃないって、参加してるんですよ。まだそんなに大変ではないらしいですけどね・・。                   このプロジェクトに関わってる人って、身内に要介護者とかがいる人達ばかリなんです。あの工務店の人にしても・・。だからみんな真剣だし情熱持ってるんですよ」マスターが続けて教えてくれた。

 

私も、同じだな。フト山梨の母親のことを考えた。

兄貴や嫁さんに任せっきりだもんな、おれ。

今度田舎に帰ったら、介護カフェの話をしてみようかと思った。

少しでも兄貴たちの心の負担、軽くできるかもしれない。

「介護カフェ」すこし勉強してみるか、女房と一緒に・・。

 

時刻は9時を回っていた。私はホテルに帰ることにした。

和尚の分と合わせて会計を頼むとマスターは、和尚からはお金は貰ってませんよと言って私の分だけ精算して、タクシーを呼んでくれた。

内山さんも一緒に帰ることになった。私の泊まっているホテルは、娘さんのアパ―トの途中だからと言って一緒にタクシーに乗った。

 

タクシーの中で、また荒木大学の話が出た。

「ところで、内山さんが金山研究に熱心なのは、何かあったんですか?きっかけというか・・」私が尋ねた。

「うん・・。五十年くらいになるかな・・高校二年の夏休みにアルバイトしたのさ。知内川の補修工事の。

その時にさ、ちょうどお昼休みで弁当食い終わってブラブラしてた時に、こう川の流れが蛇行する場所で見つけたのさ。キラキラ光るものをね」内山さんは声を潜めて言った。

「なんだべなって拾ったら、これっくらいの大きさの金の塊だったのさ」彼は小指の先を示して言った。

 

「そん時は、あんまり良(い)く判んなくってさ。休憩終わって、すぐ仕事始めたこともあって、投げてそのまんまさ。

後で大人になってから思い出して探しに行ってみたっけ、見つかんなかったゎ。当たり前だけどね、あはは。まぁそんな経験あって、荒木大学さまの話もまんざら夢物語じゃないのさ。オレにはね」内山さんは、遠くを見るような眼で、そう言った。

 

翌朝私はホテルの朝食をしっかり食べてから、函館を出る支度をした。

今日は、この後もう一度中央図書館を訪ねる予定でいた。図書館では、荒木大学や北海道の金山や砂金の採掘に関する資料を、探してこようと思っている。

内山さんの話では、知内以外にも北海道にはまだまだ金山や砂金採掘で有名な場所が、沢山在るらしいのだ。中でも知内が一番古いことを、最期まで強調してはいたが・・。

 

やはり彼は金山の話が好きなんだろう。

金山や荒木大学の話をしている時、一番嬉しそうな顔をしている。五十過ぎてから、親戚のおじさんの手引きもあって郷土史の研究に興味が湧いてきて、それ以来らしい。

午後には、知内の内山さん宅を訪れることになっていた。内山さんがこれまで集めた資料を、見せてもらうことになっているのだ。

 

私の北海道旅行にも、どうやら目的らしいものが出てきた。

最初は避暑が目的でしかなかったが、ついでに北海道の金の採掘跡を廻るのもアリかな、と思い始めている。

それと、啄木の北海道での足跡も訪ねたいと思ってる。札幌・小樽・釧路の三か所だ。

介護カフェにも、興味が湧いた。

 

何だかんだ言いながら、目的が出てくるとちょっとしたエネルギーも湧いて来る。それは悪いことではない・・。

何となく気持ちもシャキッとしてきた気もする。和尚のことも影響してるのかもしれない、とも想っている。

会社を退職してから、目的を喪失して日がなTVなどを見て、だらだら過ごしていた私とはそろそろ別れる時かもしれない。

何にもしないでいたモラトリアムは、どうやら半年ほどで終わりそうだ。

 

人生のある時季において人は、自分が生きる意味、あるいは人生の目的や人生の目標について模索し、考え迷うことがある。

子育てが終わり、定年退職が将来のいつかではなくほんの数年後に迫ってきた頃から、真剣にこれからのことを考えたりする。

これからの人生、どう生きて行ったら良いのか・・。

これから自分は何のために生きるのか・・。仕事や家族といった縛りが緩くなった時に・・。

答えの見つかる人もいれば、そうでない人もいる。

趣味を見つけて、それに向かって生きて行く人もいる。

生きる意味を見出せなくて自らの人生の終わらせ方に、意味を見出そうとする人もいる。

また、他者のために生きることに意味を見出そうとしている人もいる。

人生にはいろんな選択肢があり、いろんな生き方がある。

 

私はこの函館の街で、砂山影二を知り内山さんと出会い、寒村和尚の生き方を目の当たりにした。

人生のターニングポイントのこのタイミングで、彼らを知ったのは好かったのかもしれない。そう想い始めていた。

 

車は、中央図書館にと向かった。車のCDから、陽水の『人生が二度あれば』が流れてきた。

二十年ほど前60代半ばで急死した、父親のことがフト想い出された。

 

北海道を一周したら帰りにもう一度函館に寄り、あかげら亭をまた訪ねてみたい、と私は想った。

函館の街は私にとって特別の街に成る、そんな予感がした。

 

 

 

 

 

 

     『油川鐘太郎に宛てた、砂山影二の遺書(大正10年5月18日)

   

「何も言わなかった事をゆるして呉れ 何かしら兄に告げることが出来得なかったのだ。

では僕はゆく さようなら」

 

     『坊ちゃんの歌集』抜粋(大正10年5月1日発行、砂山影二著)

 

   わがいのち この海峡の浪の間に

               消ゆる日を想ふ ―岬に立ちて

 

   立待岬にしょんぼり立てる 啄木の

               墓標に夕べの 雨はそぼ降る

 

   砂山に寂しく立てる 木標の

               ごとき孤独を 今日もおぼゆる

 

   かの秋の校舎の裏の 堤かなし

               友らをさけて 物思ひせし

            

 

 

    『坊ちゃんの歌集友人たちの詠める歌  序歌として)

 

 

   とりとめもなき数々の 恋をせし

                 影二は愛(かな)し 死をば語れる   

                                 (行友政一)

   さびしさのかぎりなりけり あをじろき

                 月よ真砂よ 踊る影二よ      

                                 (保坂哀鳥)

   子としてくらきおもひで。 酒に、うたに

                 影二はまたも 踊りいでたり    

                                 (伊東酔果)

 

 

             

                立待ち岬:砂山影二 歌碑

 

 

 

 

 

 

 
 
 
 



〒089-2100
北海道十勝 , 大樹町


 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
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