春丘牛歩の世界
 
1週間ほど前から、伊豆半島の神奈川寄りのエリアに来ている。
ソメイヨシノが咲き始め、昨日あたりからほぼ満開と言ってよい状態にある様だ。
 
やはり短足寸胴のソメイヨシノの方が、「桜」感があるなと、いつも長身長脚のエゾヤマザクラを観ている私は、感じたのであった。
 
 
 
 
      
 
       
         
 
     
 
 
    記事等の更新情報 】
*4月19日 :「コラム2024」に、「青い春」と「チャレンジ虫」を追加しました。
*3月25日:「相撲というスポーツ」に「新星たちの登場、2024年春場所」を公開しました。
*2月8日:「サッカー日本代表森保JAPAN」に「再びの『さらば森保!』今度こそ『アディオス⁉』を追加しました。
*01月01日:本日『無位の真人、或いは北大路魯山人』に「無位の真人」僧良寛、或いは・・を公開しました。
これにて本物語は完結しました。
12月13日:  『生きている言葉』に過ぎたるはなお、及ばざるが如し」を追加しました。
*9月29日:「食べるコト、飲むコト」 に「バター炒め二品 」を追加しました。
*9月27日;「物語その後日譚」に「奥静岡の鶏冠(とさか)山」を、追加しました。
*6月10日 :『続、蝦夷地の砂金/金山事情・・』に7.紋別市:その2「鴻之舞金山」を追加しました。
 
 

  南十勝   聴囀楼 住人

          
                 
                                                                   
  
        
 

会員制サイト開設
      のお知らせ
 
2023年4月より「春丘牛歩の世界アーカイブ」を下記に開
設いたします。
このHPの情報量が多くなったための整理と、当該HP閲覧者内の濃密な閲覧者との交流を
目的としています。
有料会員制ですが、ご興味のある方は下記アドレスにコンタクトして頂けると幸いです。
 https://ofuse.me/gyu00ho
(春丘牛歩アーカイブ&フレンズ)
 
 
 
 
   
      
  
今般の「新型コロナパンデミック」騒動によって、北海道の寓居から日本全国に飛び立つ自由を失われてしまい、近著である『無位の真人、或いは北大路魯山人』も次の新編に話が進むことが出来ないでいる。
そこでこの際だからこれまでストックしておいた資料や情報を基にして、新たな報告書のような書をまとめようかと、そう思って始めたのが今回の『蝦夷地の砂金/金山事情―市町村史を中心に―』である。
これは従来のような「歴史検証物語」ではなく、以前収集し現在手元にある北海道の金山や砂金に関する、既存の『北海道内の市町村史の記述書』等を整理して、取りまとめたものに成るだろうと、思っている。
従って従来のような「読み物」の形式をとらず「レポート」や「報告書」のような体裁になるものと思われる。
現在は北海道外はもちろんのこと、道内も「不要不急に出廻らない」ことを要請されている状況なので、現地に赴くことも出来ずにデスクワークが中心の作業、という事に成ることを予め断っておく。
 
             
 
            【 目 次 構 成(予定)
            1.日高「静内町」(4月28日公開しました)
            2.空知「砂川市/新十津川町」( 同 上 )
            3.渡島「長万部町」(5月5日公開しました)
            4.上川「富良野地区」(5月10日公開しました)
            5.宗谷「中頓別町」(5月18日公開しました)
            6.宗谷「枝幸町」(6月5日公開しました)
            7.渡島「福島町」(6月21日公開しました)
            8.渡島「知内町」(8月10日公開しました)
           
『蝦夷地の砂金/金山事情 ―市町村史中心に― 』はとりあえずここで一区切りをつけます。なお同じテーマの続編を考えていますので、決まりましたら改めてこの欄にて告知いたします。
 
10月03日:本日より本編の続編「H.S.モンローの『北海道金田地方報文』を基に」を公開しました。ご興味のある方は覗いてみてください。
 
 
 
 

 1.日高「静内町

 
 「旧静内町」は2006年に「新ひだか町」と成った、日高地方の主要な町である。
その静内町の「砂金や金山」にまつわる記事である。
 
                                 
 
 
当ページに記載されている記事内容は1996年に作成された『静内町史』(97~102ページ)に準拠している。
 

 
当町の「シベチャリ川」や沙流郡「ケノマイ川」から砂金を採集するようになったのは、寛永十年(1633年)で、以後寛文九年(1669年)まで37年間にわたった。
 
当時の採金は 多く夏季に限られ、鉱夫は諸国(本州)から来て一定の運上金(松前藩への税金)を納めて採取していた。その運上金は板倉源次郎の『北海随筆』によると
 
砂金を採る運上、御領主(松前藩主)へ奉ずる所、一か月一人砂金一匁(3.75g程度)づつなり、一匁の運上はいささかなる事なれども、数萬人より納むる所、その取集めの日は、役所に渋紙四、五枚敷きて、砂金を取集めしむる内には、山のごとくに集まりけるとなり。
御領主え納る處の砂金は、三十歩の一にして、此砂金一国の利潤となること、あげて言ふべからず。
                            ( )は著者=春丘牛歩の註
 
往時の盛況は大変なものであった。
寛文九年(1669年)の頃の砂金杭主「文四郎」などは、配下に抗夫300余人を率い実に1か月の採金量九貫匁(約34㎏)余の多量に達したという。
 
その後シベチャリ川の砂金については寛文九年の乱(シャクシャインの乱)以後(徳川幕府より松前藩に対し)禁止になっていたが、それでも若干の採取が行われたもののようで・・。
                          
 
・・・・・・・・・
 
その後明治に入ってからは、
砂金や辰砂(水銀の原料)の量は少なく採掘には至らなかったが、在町古老の談を聞くと、それでも明治初年には、少数の採取者が静内川の上流に入り込んでいたと伝えている。
                           ( )は著者=春丘牛歩の註
 
明治二十一年雨宮敬次郎の「北海道砂金探検団」が入り盛んに採取が行われた。この一団から分かれて同二十六年、渡辺良作ら40余人の一行が、静内川上流に遠征して採取が行われている。
 

 
上記は日高の「静内町史」による記述であるが、現在競走馬の飼育で有名な「新ひだか町」もかつては、太古から蓄積/堆積していた砂金や金片/金塊が、相当量「静内川」やその支流に沈金し、それらが採取されていたことが確認できる。
 
これは日高山脈に金を含む金鉱山が存在することを物語っており、日高山脈の反対側である十勝の大樹町の「暦舟川」では現在もなお少量ではあるが、砂金や金片(ひょっとしたら金塊も・・)が採取されることから、同じ鉱脈の西と東の関係になるのではないかと、私は密かに思っている。
 
更には日高山脈の金鉱山は未だ発見されていないことから、数十年単位のスパンで見れば「静内川」やその「支流」では、新たな蓄積や堆積が進んでいるのではないかと、私は推測している。
 
 
 
 

 2.空知「砂川市/新十津川町」

 
 「砂川市」は北海道の北西部に位置し、札幌市と旭川市のほぼ真ん中辺りに在り、「新十津川町」はその西に隣接する町である。
 
 砂川市は北海道の中央部「富良野」辺りから流れて来る「空知川」と、道北の大河である「石狩川」とが合流するエリアに立地することから、交通の要所として開拓の時代から栄えてきた街である。
そして「新十津川町」はその砂川市を石狩川を挟んだ街で、農業を主体とした田園地域で、その山間部で砂金が採れたのである。
 
                          
 
 
 
当該ページは『砂川市史』1971年2月刊行)に書かれている砂川市と隣接する新十津川町に産出された砂金に関わる記述(961~965ページ)に依っている。以下はその抜粋。

 
明治と大正にかけて砂川市街の商況の隆盛に一役買ったものに、当時の砂金採集ブームがある。砂金の採集地は石狩川対岸の新戸津川村(当時:1970年頃)の山地である。
 
徳富川の下流で合流している総富地川を7・8㎞遡った流域が砂金採集地であったところで・・地図には砂金沢と記名してあって、土地の人びとは現在も砂金沢と呼称しているところである。
古い地形図には砂金山と記してあって、この狭い谷間に、明治三十年代の最盛期には二千人の採集者が入地してにぎわったのである。  
 
 
       『 石狩国新十津川砂金地調査報文 』
                                大正元年 農商務技師 小林儀一郎
 
(前略)
本砂金地ニ於イテ初メテ砂金採集ニ著手セシハ明治三十三年ノ頃ニシテ同三十六年ニ至ル三ヶ年間ハ其最盛期トシテ採集人二千名に上リ日産額平均一貫五百匁(約5.6kg)ヲ産シタリト言フ
(中略)
金質良好ニシテ殆ど純金ヨリ成ル、下流ニ産スルモノハ少量ノ銀ヲ交へ稍白色ヲ帯フト言フ
 
 
明治開拓が、全道に及ぶに従い、文字通り一攫千金を夢見た砂金掘りが、個々に全道至るところの山系に入り込むようになった。
現在、道内各地の山間村に砂金沢と呼ばれる谷間があるが、これは、その名残りである。
・・・・・・・
 
鉄道交通も開け、沿線より10㎞の近距離で新十津川砂金地は物資の補給にも便利であり、採集者にとっては好適地であった。
 
砂川には、補給基地として、少なからぬ影響をあたえた。当時石狩川渡船の舟着場附近は木材流送、砂利場でにぎわっていた最盛期で、金使いの荒い舟場街であったから、一攫千金を夢見た砂金屋にふさわしい街でもあった。
 
これら砂金掘りという人びとが砂川市街を潤し、華を添えたもののようで、古老の追憶の中にも、それをうかがうことができる。
 
 
 
 
                      
                          :砂金山     青:JR砂川駅
 
 
 
 
 

 
以上は昭和46年2月に刊行された『砂川市史』の中の「砂金と砂川市街」の記述の抜粋であるが、開拓時代初期の明治30年代半ば即ち今から百数十年ほど前の、蝦夷地北海道の地方都市の実景が判って面白い。
 
たぶん当時の北海道各地の砂金掘りの拠点地域は、このような状況だったのではないかと想像することが出来る。
そしてそれは多分、わが町十勝大樹町も同様だったのではないかと、想像する。
 
それにしても最盛期には2千人の採集人が集中し、一日当たり5.6㎏前後の砂金が採取されたという。そしてこれが3年間程度続いたというのである。
単純計算では5.6㎏×365日×3年=6,132㎏、即ち6t以上の砂金類が産出したということである。莫大な量である。それもこの「新十津川の砂金沢界隈」だけで、である。
 
因みに今日の金取引額は6,500円/gということであるから、その3年間に現在の評価額でおおよそ400億円程度の価値を持つ砂金が、この場所だけで産出していたことになるのである。
 
2千人の人間が1,000日以上群がったのも、なんとなく理解できる。
と同時に、太古以来の砂金の堆積された量の大きさには、改めて驚かされる。
 
 
 
 
 

 3.渡島(おしま)「長万部町」

 
長万部(おしゃまんべ)町は太平洋側に面する「噴火湾」の奥に位置し、毛ガニの産地としても有名な漁業の盛んな町である。
 
この町ではこれまで見てきたような江戸時代や明治中期の「砂金採集」形態とは異なり、近代企業によって昭和の初期になされた、「鉱山開発事業」としての金山開発が行われたのであった。
 
 
 
                   
 
 
 
長万部の金山開発は「住友財閥」の傘下の企業である、「静狩金山(株)」が事業主となって行われた。場所は噴火湾に面する長万部町の東北端の静狩峠付近の山である。
以下は1977年(昭和52年)10月に発行された『長万部町史』の抜粋である。
 

 
 「静狩金山」の開発は昭和8年(1933年)の会社設立に始まり、昭和18年(1943年)に閉山されるまでの10年間に亘って行われていた。
 
最盛期には二つの精錬所を経営し、2,000人程度の職員/杭夫が従事していたという。
金鉱石から金を採集するための二つの精錬所の処理能力は、一日当たり1,000t程度であった、という事である。
 
そしてこれだけの規模の金鉱石の精錬が行われると、必然的に大量の残滓/残砕物が発生しすることになる。
その大量の残滓/残砕物の処理先の確保が問題になり、「鉱毒」の影響を懸念した「漁業協同組合」との間で軋轢が生じた、という事が「村会の記録」に綴られているとの事である。
 
 
 
 
 
 
       
       
 
 
 

 
長万部町の 「静狩金山」は、近代経営の財閥企業の子会社が、近代的な鉱山経営を行った金山開発であったために、私などのような人間にはあまり面白みを感じさせる事が無い。
 
江戸時代や明治/大正の頃に全道で繰り広げられた、「砂金採り」を中心とした砂金や金山での採集に比べ、何となくつまらなく感じられてしまうのである。
 
近代的な企業経営という事になると、「砂金採りのロマン」が感じられなくなってしまうから、なのかもしれない。
私が「砂金や金山」に求めているものは、どうやらその辺りにあるのかもしれない、と「長万部の金山開発」に依って気づかされてしまったところである。
 
 
 
 
 
 
 

4.上川「富良野地区

 
 
「富良野地区」は北海道のほぼ中央に位置し、日高山脈と大雪山系がクロスする場所であり、北海道でも最も標高の高い高地に属するエリアである。
 
名作「北の国から」の舞台はこのエリアの一角であることから、TV番組などで視聴した経験のある方々は、具体的にイメージし易いのではないかと思われる。
 
 
 
 
               
 
 
その富良野地区の「南富良野町」にはその名も「金山」という地区が在りJRの「金山駅」まで在り、さらに「金山湖」という名称の湖までこのエリアには在る。
そしてこの舞台は脇とよさんの『砂金堀り物語』にも登場する場所であることから、明治半ばの「雨宮砂金収集団」の活躍した痕跡が残る場所でもある。
 
下記は1969年昭和44年に刊行された『富良野地方史』の抜粋であるが、この公的機関が出した書物においても、『砂金掘り物語』が引用され富良野地区における明治時代の砂金事情について、大きく取り上げている。
 
 

「昭和35年、著者夫妻(脇とよ夫妻)(南富良野町)金山に迎え十梨別川下流に案内して懇談の結果、(『砂金掘り物語』の)記事と現地での調査が一致するところから、昭和37年、占冠村史の執筆の際、鵡川上流の現地調査を終わり、鵡川上流と空知川上流に関する限り、この本の記述に間違いないことを確信した。-同書187ページ著者:岸本翠月-
 
「この一行(雨宮砂金探検団)が南富良野町金山の十梨別川に現れたのは明治24年の頃で、同町の古い村勢要覧に、
旧文献等がなく詳細について知る由もないが、明治24年、砂金採集者が日高山脈を越えて字金山に入り茅屋を建て人跡を印した。
と書かれている。-同書189ページ-
 
「雨宮敬次郎北海道砂金団が沙流川上流から鵡川上流に現れたのは、明治20年ごろであった。…このころから21年までの期間十梨別川の砂金の全盛時代と見てよい。- 同 -
 
 
更に『富良野地方史』の著者:岸本氏は、『砂金掘り物語』の一文を抜粋し、
 
ある日のこと、イッカトクというアイヌ人がやってきて、自分の友達が石狩のトナシベツ川で拾ったというひかる玉を持っている-と語ってくれた。
 
と紹介して(同書191ページ)、南富良野町金山の十梨別川に雨宮砂金採集団がやって来たことを書いている。
更に著者は『砂金掘り物語』を引用して
 
砂金の質は上等で粒も大きく、ちょうど爪の種子ほどもある細長く、ふっくらとした福々しい格好をしていて非常に見事なものであった。それが「流し掘り」の最中にゴロゴロと水中の「ねこ」の面にひかって見えてくる・・
 
と、明治20年ごろの南富良野町金山の十梨別川での、砂金掘りの様子を紹介している(同書193ページ)
 
 
 
                                              
                               十梨別川
 
 
また『富良野地方史』の中で、著者は南富良野町の隣り合わせの「占冠村」の砂金掘りに関する記述として、
 
占冠村のエタマンべの沢は、ホロカトマムの最も濃厚な砂金産地と峰を界に背を合わせているが、この上流の無名沢には高さ10尺、見渡すかぎりの長さにわたって美事な石垣が、きずかれており、お城のような壮観さをもって明治40年頃発見されている(同書190ページ)
 
と記している。
 

 
 
私はこの「お城のような、美事な石垣」を築いたのは「金山衆の末裔」ではないかと、この記述を読んでひそかに推測している。
 
もしそうであればいつの時代のことか判らないが、日高山脈のほぼ中央の山奥の「無名沢」に、どこからか蝦夷地の砂金の豊富である話を聞き及んだ「金山衆の末裔」が入り、この「お城のような美事な石垣」を築いたのではないかと、想像し空想を膨らませることが出来るのである。
 
そしてその「見渡すかぎりの長さの石垣」は、上越市の飯田川「金山」の土木工事現場で私がたまたま見ることが出来た、あの「川の流れを変えるための石垣」と同様の効果を期待して、「金山衆の末裔」によって築かれたものかも、しれないのである。
 
上越の場合は「新田開発」のためであったが、蝦夷地占冠村の場合はどのような意図で築かれたものであるか、機会があれば現地を訪れこの目で確かめてみたいものだと、そう思っている。
 
 
 
 
 

 5.宗谷「中頓別町」 

 
 
「中頓別町」は、北海道の左上の先端に位置する「宗谷地区」の、付け根のような場所にある街で、オホーツク側の町のひとつである。
海岸沿いの町「浜頓別」からは頓別川を溯るように17・8㎞程内陸に入る。周囲は山に囲まれた盆地のような環境の町である。
 
 
 
           
 
 
 
1997年、平成9年に作成された『中頓別町史』に記載された、同町に関わる「砂金/金山」に関する記述は下記のとおりである。(同書98~126ページ)
因みに明治30年代が、どうやらその「ゴールドラッシュ」のピークであったようである。
 

 
明治31年(1898年)6月、・・枝幸村の住人堀川泰宗が頓別川の支流、パンケナイ川の山中で豊富な砂金を発見したのである。
7月に入ると頓別川の支流、ウソタンナイ川(浜頓別町)、次いでペーチャン川(中頓別町)でも新たな砂金田がみつかった。…全国から黄金を求める人間が殺到することになった。
 
 
『中頓別町史』では当時の様子を伝える新聞記事(北海道毎日新聞:明治32年8月11日)を下記のように引用している。
 
 
(砂金)採集の為枝幸地方に入込みたるもの無慮一万数千人の多きに及び・・
ペーチャン及びウソタンナイは・・・砂金採取人凡そ、七、八百人、一日一名採取量、場所の善悪に依り一匁乃至四匁とす。
パンケナイ・・採取人凡そ七百名、一人一日採取量一匁五分とす。
                  著者の註;一匁=3.75g、
                              金:6,500円/g 2020年5月現在
 
(ペーチャン川流域)両岸に草小屋の数無慮一千戸以上に及び・・一戸五人乃至七、八人住居し、その数七、八千以上に至り、・・。
 
 
ニセケショマップはペーチャン小川の落合の上流、ポロヌプリ山の懐に近い細流である。ここに戸数千戸、七、八〇〇〇人の集落がすでにできているというのである。
 
 
ゴールド・ラッシュの華やかさを伝えるものに算出された砂金の塊がある。金塊と区別して塊金と名づけられるが、中頓別町郷土資料館には「日本一の塊金」(のレプリカ)が展示されている。重さ七六八グラム、明治三三年九月、ウソタンナイ川支流のナイ川で採取されたものである。
 
 
                                             
 
 
このほか記録に残る100匁(三七五グラム)以上の塊金の算出日時と重さをあげると次の通りである。
 
△三二年八月、七三九グラム   パンケナイ
△三四年八月、五六三グラム   同
△三四年六月、五一〇グラム   同
△三四年八月、四五九グラム   ウソタンナイ、中の川
△三三年六月、四五〇グラム   パンケナイ
△三四年七月、四〇一グラム   ウソタンナイ、中の川
△三四年八月、三七九グラム   同
 
・・・・・
 
こうして(明治)三二年には頓別流域の山野を埋め尽くした採取人は三三年には密採者を含めて二〇〇〇人前後に減少、三四年にはさらに半数近くに減っている。
なかでも・・ペーチャン小川は浮き沈みが激しく三四年にはほとんど収量が皆無、わずかに上流のニセケショマップで採取が続くという状態だったという(『枝幸砂金論』)。こうしてゴールド・ラッシュは早くも終末を迎えた。
 
ゴールド・ラッシュ時に枝差地方(中頓別を含む)で産出された砂金の産出量はどれぐらいだったのだろうか。
・・・・・
『枝幸砂金論』によると
明治三二年、 二七〇貫(一〇一二.キログラム)
明治三三年、 一四〇貫( 五二五.キログラム)
明治三四年、  七〇貫( 二六二.キログラム)
 
として合計四百八十貫(一八〇〇キログラム)と推定している。これに発見当初の未集計の産額を加算してゴールド・ラッシュ時の産出量を約五〇〇貫(一八七五キログラム)金額にして約二〇〇万円(当時)と推量している。
 
 

 ということで、「新十津川町/砂川市」で見てきた6,132㎏には及ばないものの、中頓別町を含む枝幸地方で同時期の明治33年前後に、1,875㎏と3割程度の砂金が採れたということである。
 
因みに現在中頓別町の「ペーチャン川の中流」には「砂金堀体験場」が設けられているようである。その場所もまた砂金類が溜まることの多い「川の流れが大きく蛇行」する場所のようである。
 
 
 
 
 

 6.宗谷「枝幸(えさし)

 
北海道には二つの「えさし町」が存在する。
一つは日本海側の「桧山、江差町」で江戸時代は北前船の港として栄えた街であり、もう一つがオホーツク側の「宗谷、枝幸町」で今回の街である。
 
こちらの枝幸町は前章の「中頓別町」や「浜頓別町」に隣接する町で、漁業の盛んな町である。したがって「中頓別町」の砂金/金山開発に関する事績と重複する点が多く、1967年=昭和42年に発行された『枝幸町史』に書かれている記述においても、『中頓別町史』の記述と多くが重なっている。
 
 
                
 
 
しかしながら「枝幸町」の砂金/金山に関する知名度は「中頓別町」のそれよりも明らかに高く、とりわけ本州では有名であり、戦前の「中等教育」や「高等小学校」の地理の教科書にまで取り上げられているのであった。
そしてその以前に、当時の全国の新聞等のマスコミにおいても「枝幸町の砂金/金山情報」は、幾つかの話題もあって多くのメディアに取り上げられており、全国の「夢多き善男善女」たちの間に広く、かつ深く砂金の取れる街として知れ渡っていたのである。
 
下記はその『枝幸町史』に書かれている200ページ近くに及ぶ膨大な「砂金/金山」に関わる記述のうち、『中頓別町史』に重ならない部分を中心に、かつリアリティをより彷彿させる記述をピックアップしたものである。
 

 
枝幸砂金の発見
 
「枝幸地方の砂金採集は、北見国枝幸郡フーレプ及びオシュベツの海浜に於いて、最上の人菅原某が行ひたるを以て嚆失となす。これ明治二十六年の頃なりしといふ。・・・・・
明治三十年は枝幸地方の漁業事に大不漁なりしかば、人々自ら漁業以外に心を用いんとするの傾向を生ぜり。是の時図らずも、フーレプ附近のオッチシュッペ川に於いて砂金の稍多量に産出することを発見せし故、人々オッチシュッペ、フーレプ、トイナイ付近に砂金採取に赴くもの多く、盛んなりし時は三百人を以て数へたりという。・・・」(明治三十三年七月理学士福地信世氏の「東京地学協会」での講演
 
「七月十二日勅令第百号出願手数料ノ改正と日清事件(戦争)ノ関係トニヨリ、出願件数著シク減少ヲ示セリ。蓋シ出願手数料改正ノ結果ハ、却テ真正ノ鉱業者ヲ出スノ上ニ於テ効果アルベキカ(明治二十七年『第九回北海道庁勧業年報』) 
と引用して、
明治27年には枝幸郡礼文村小字ペシトコマナイで金の試掘認可がなされた」としている。
 
またこのような手数料を払うことなく所謂「密猟者」が多く実在し、彼らは
砂金採取は山中ひそかに行われ、また良好な砂金場を見つけてもひた隠しにかくすものであるから、いつどこで誰が最初に砂金を発見したか容易に判明するものではない(町史846ページ)
としている。
 
明治27年ころから密猟者を中心に砂金採取が行われていたのであるが、冒頭の福地信世氏の講演でもあったように、明治30年頃から「オッチシュッペ川」近辺での採取がひと段落落ち着いたころに、新たな金田を求めて
 
「明治三十一年六月、堀川泰宗が枝幸の幌別川をさかのぼり、ついにパンケナイに優秀な金田を発見。・・・これによって枝幸砂金はいよいよ伝説の時代を過ぎて、ゴールドラッシュの口火が切られた。・・(同書848ページ)
 
と記述している。「堀川泰宗」の金田発見により枝幸の砂金採取が本格化した、というのである。この堀川泰宗氏は『中頓別町史』にも登場している人物で、ここから先は前章の『中頓別町史』の冒頭部に繋がって行くのである。
 
以下はほぼ同文なので、この章では取り上げない。
いずれにしてもこの時以降、枝幸地方(中頓別を含む広域エリア)は本州を含む新聞等のメディアで喧伝されるようになって、全国に拡く知れ渡り、日本全国の「夢見る善男善女」たちが憧れ、目指す黄金郷と成ったのである。
 
その時の様子を『枝幸町史』では以下のように書き綴っている。
採取人の出身地は枝幸附近も少なくないが、大部分は東京・長野・秋田・山形・新潟・奈良・広島・九州などからの渡航者で、ことに東京出身のものは『免職官吏、放蕩書生、無頼職人体のもの』が十中八・九を占めていたといわれる。・・(同書879ページ)
 
となっていて、「夢見る善男善女」の実態を述べている。
 
 
砂金掘り夜話草(同書965~1010ページ)
 
『枝幸町史-砂金関係-』の終章に、45ページにわたって「砂金掘師」の著作物や、彼らに聞き書きした章がありリアルな話が収録されている。以下はその抜粋である。
 
-砂金掘りの定義-
 
・・一言にしていえば、砂金の魅力に惹かれて山から山を渡り歩く毛色の変わった人種である。彼らには権利も算盤も用はない。
只一途に砂金を求めて蝸牛の如く、常に『衣食住』を背に負うて、次から次へと深山幽谷を跋渉する。他人鉱区だろうが、無願地だろうが、彼らは一向頓着しないで天下御免の密採をやる。・・多くの場合無断密採だ。偶々大当たりした時の快感を何年たっても忘れられずに、『夢よもう一度』と之を追うて飛び歩く。・・(今掘喜三郎著『焼けを探ねて五十年(抄)』より)
 
著者の今堀喜三郎氏は明治20年から昭和34年の72年間の人生の大半を、砂金掘りに費やした人物で「道内くまなく足跡を印し、その手にかからぬ道内の鉱山はないと言われたほどの探鉱の生き字引きであった。」とされ、北海道内でも有名な鉱山探索者で、自らの人生を絵物語に狂歌を交え『一代記』としてまとめ、記録している。もちろん自らも砂金掘師でもあったので、冒頭の思いは彼自身の想いでもあったわけである。
 
 
-山形県西村山郡からの渡航者-
 
・・なァに(砂金がたくさん)取れるもんだから、取っては使い取っては使いサ。だからどこさも帰れないんだ。おもしろくってナ。遊郭通いなどばっかりだ、しょっちゅう。・・・・
あんときは一番いいとこに当たって掘ったんだから、なんぼ三百匁(=1,125g)くらい持っていたかナ。・・(当時の取引額は)匁四円ということに決まってた。
(その後旅館や料理屋もやったが)我等みたいな頭のない人間はだめだ、やっぱりもとの砂金掘りになるべと思ってネ、そこで料理屋も止めてしまった。やっぱり一人かせぎの砂金掘りの方がうんといいんだもんネ。・・」(聞き語り『長岡長五郎の話』より)
 
明治30年代の1円は現在のほぼ1万円程度の価値を持っていた。当時の枝幸街の「土地の労働者一日の労務賃金は八十銭から最高1円くらいであった。」というから、やはり当時の1円は1万円前後の貨幣価値であったであろう。
2020年5月時点での金の取引額6,500円/gと比べても、当時の1,200円(300匁×4円)の価値が推測できる。
 
長岡氏は明治21年生まれで昭和38年の取材時は75歳であり、15歳の時に砂金堀師の兄を山形の実家に連れ戻すために北海道枝幸にやって来た。
以来60年間、自らが砂金堀師に成り道内の多くの砂金採取可能な地域を、転々としたようである。彼もまた砂金採取の魅力に取りつかれ「ミイラ取りがミイラ」になったのである。
 
 
-「川底採掘」の方法-
 
明治33年に枝幸のウソタンナイ川支流のナイ川で、二〇五匁(約770g)の金塊が産出されたのであるが、その金塊を採集した新沼鶴松氏の採用した大掛かりな採取法が、下記の方法であったという。
 
従来の箱樋を数十間延長し、左右二本建として堀鑿の岩板、砂利を樋の急流に投じたのである。その箱樋を東、西と名づけ、採集夫らを東西に二分して、懸賞づきで堀鑿に気勢をあげた。
たまたま小金塊が樋に溜まったのを見れば万歳を叫ぶ。東組が叫べば西組も負けじと万歳で応ずる。
これを幾度か繰返した末、ついに西組の樋に止まったのが話題の二〇五匁大金塊で、東西合流しての大歓声はしばし止まなかった・・(新沼鶴松氏談) 
といった仕掛けの方法で、約770gの金塊が採取されたのであった。
 
 
-安達由太郎の話-
 
最後に山形県最上川/寒河江川で砂金採集をしていた小泉衆の末裔で、雨宮砂金採集団のメンバーであった安達長四郎の息子の由太郎氏の談話を紹介する。
 
北海道に渡る前の話であるが、寒河江川や最上川辺りをまだ盛んに掘っていたころ、父が砂金掘りの帰みちうす汚れた八幡さんの像みたいなものを拾ってうちに持ち帰った。
よく見たら、それが馬に跨った八幡さんの像だったので、これは縁起がいいということになって、お祝いに馬肉を買って来て喰べたところ、母親の口がひきつるように曲がってしまった。
 
これは大変だ、八幡さまの罰が当たったんだろうと思い、『これからは決して馬肉を喰べません』と願を建てて、そこの(近くの)八幡様に寄附してまつったところ、それまで曲がっていた母親の口が元通りに直ったので、霊験あらたかなものだと驚いたり、感心したりしたものだ。
それ以来、儂らの家では一切馬の肉は口にしないしきたりになっている。
 
後日談になるが、寄附した八幡様の像を神主が丁寧に汚れを取って拭いたところ、ぴかぴか光りだしたので『おや、これは』と言うので磨き上げてみたら、それが金無垢の八幡さんだったそうだ。
 
 
お気づきな様にこのエピソードを取り上げたのは、枝幸の砂金/金山事情とは全く関係がない。が私がこれまで取り上げてきた「安田義定公や黒川衆」には、関連してくるエピソードなのである。
 
というのも、黒川衆は江戸時代になって地元甲州の鶏冠山周辺で、金山開発が行われなくなってから、全国に新たな金の産地を求めて散逸しているのであるが、その先の一つに出羽之國が入っているのである。
 
更に『遠江之守安田義定と京都祇園祭』の「八幡山」について調べた時に、その「八幡山」の舁き山のご神体が「騎馬に乗った応神天皇像」であった事を思い出したからである。
 
あの物語でも書いておいたが現存する「伝運慶作の『木像の騎馬に乗った応神天皇』」は、石田三成の重臣島左近の末裔が江戸時代後期に寄贈したものと伝承されているのであるが、それ以前の「ご神体」はきっと黒川衆が義定公の領国で産出した金を基に、義定公によって創らされた「純金製の騎馬に乗った応神天皇像」だったに違いない、と推測していたからである。
 
その推測を裏付けるかもしれない「純金製の騎馬に乗った応神天皇像」が、黒川衆に縁のある出羽之國の最上川/寒河江川から出土した、とこの逸話で確認できたからである。
 
もちろんこの像そのものが「八幡山」のご神体であったかどうかは不明であるが、それに類するモノ又はレプリカとして、黒川衆が造り持ち続けていた可能性があるかもしれないのである。
 
時代背景なども含めて、改めて今後検証調査をしてみたいと思っているが、その可能性が出てきたことに私は注目しているし、期待もしているのである。
「瓢箪から駒」であったが、私はこの貴重な情報に巡り合えたことを、大いに喜んでいる。
 
「コロナ禍」という望まざる事態から始めたこの『蝦夷地の砂金/金山事情・・』であったが、思わぬ形で「砂金/金山の神様」からご褒美をいただいたようなものである。
現物の金銀には全く縁のない私を憐れんで、神様がもたらしてくれた情報なのであろうか・・。
などと想いながら、眼下の黄緑色が鮮やかな「かえる手=楓」やオレンジ色の躑躅を眺めて悦んでいる私である。
 
 
                             
 
 
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「騎馬に載った応神天皇像」について書いた『京都祇園祭と遠江守安田義定』の、京都祇園祭山鉾「八幡山のご神体」に辿り着くことが出来ます。
 
 
 
 
 
 

  7.渡島(おしま)「福島町」

 
 
渡島とは、青森県から津軽海峡を挟んだ対岸の地域を指す、北海道の最南端のエリアである。函館がその中心都市であり、『大野土佐日記と甲州金山衆』の舞台となった知内町の西隣の町が今回の「福島町」で、江戸時代に蝦夷地北海道を治めていた松前藩の拠点である「松前町」の東隣の町である。
 
当初私は「松前町」について取り上げる予定でいたのだが、現在の松前町には松前藩のお城などの拠点は在ったのであるが、砂金採取や金山開発における江戸時代の実際の拠点は、現在の「福島町」で行われたいことが判明したので、「福島町」の『福島町史』に記載されている砂金/金山開発に基づいて紹介することにした。
 
 
                      
 
 
 
因みに「福島町」は「横綱の町」という観光キャッチフレーズが示す通り、大相撲の偉大な横綱を二人輩出している町でもある。具体的には「千代の山」と「千代の富士」とがこの町の出身力士なのである。
 
『福島町史』は1997年に刊行された福島町の歴史書であるが、その中の『通史、上巻』『同下巻』『史料編』から「砂金採取/金山開発の歴史」に該当しそうな箇所を抜粋したものが下記である。
 

 
『福島町史』での「砂金採取/金山開発」に関しては大きく分類すると
1.江戸時代初期の松前藩による事業
2.明治時代の「お雇い外国人」による調査
とに分けて記述されているので、ここでもその分類に基づいて紹介していくこととする。
 
 
【近世:江戸時代初期】
 
千軒岳の名称は、近世の資料等によれば『淺間岳』と記されているものが多く・・。その後砂金の採取によって『欝金岳(金の埋まる山)』、砂金掘りの家が千軒もあったので千軒岳と呼ばれるようになったという。
 
この千軒金山は慶長九年(1604)に発見された。『福山秘府・年歴部 巻之四』によれば、この金山は松前氏が幕府から下賜されている。・・・
松前氏所領下の砂金金山は遠隔の地であり、鉱山・鉱区が特定出来ないので松前氏に下賜されたものである。
 
この千軒岳の砂金は、大千軒岳(1,072m)とその山稜から流下する諸河川から産出される。この砂金掘は、川床に堆積する粒金を拾うという極めて原始的なものであった。
 
大千軒岳直下に発する知内川源流を中心に、福島町、知内町、松前町の各河川が総て金山に属していたが、そのうち福島町の知内川流域上流地帯がその中核を為していたと考えられる
 
『福山秘府・年歴部 巻之四』によれば、元和三年(1617)には
「是歳東部曾津己(そつこ)及大澤出砂金-按あんずるに)曾津己即東部礼比計地方也とあって、現在の字松浦、松浦川から古峠(吉岡古峠)にかけても砂金が採取され、金山の範囲もさらに拡大している。・・・
 
この寛永年間、蝦夷地は空前のゴールドラッシュで、千軒金山のほか泊村(現江差町)方面の西部砂金をはじめ、寛永八年(1631)には島小巻、同十年には計乃麻恵(けのまい)、同十二年には宇武辺知(うんべつ)十加知(とかち)等で砂金金山が発見され、砂金掘達が蝦夷地内に多く流入するようになった。    
                      -『通史、上巻』268~269ページ
 
 
と記載されており、江戸時代初期に大千軒岳から流れる知内川の上流域に、多くの砂金/金山で砂金堀が行われいたことを記している。
 
因みに末尾に書かれている「寛永年間のゴールドラッシュ」は第1章の「日高;静内町」においても記述した事と重なる。
 
また「十加知=十勝:歴舟川」「計乃麻恵=日高静内:ケノマイ川」であるものと思われ、これらの地でも江戸時代初期の寛永年間には、砂金/金山開発が活発に行われていたことが窺えるのである。
 
 
    
 左図の上部右から1/3に在るのが「大千軒岳」で、その直下に見える十字架の在るのが「金山番所跡」
である。この番所は江戸時代の松前藩の金山管理の「出張所」跡であった。
 
 
 
 
江戸時代初期においては本州を追われた「切支丹」達が、この砂金採取や金山開発に参入して来ていた。イエズス会の神父たちは信徒への告解や洗礼を行うために本州より同地を訪れており、切支丹の存在が発覚した際に106名の信徒たちが処刑された、という歴史を持っている。
 
そのイエズス会の神父たちがローマ法王庁に送った書簡が幾つかあり、この大千軒岳の砂金/金山情報もその中に記されている。
下記はその抜粋である。(『福島町史』第1巻、史料編221~222ページ
 
 
・・水路を彼方に変え、それから川岸の下にある堅岩に達するまで砂底を掘る、それらの岩の裂け目の砂の中に、海辺の小石のような順良な金が見いだされる・・。
時には、小石のあいだで300タイル以上にも値する大きな金塊が見つかることがある。・・」    -「カルワーリュ神父の1620年10月21日の書簡」より-
 
 
 
【近代:明治初期】
 
明治維新後の新政府の蝦夷地開拓に先立って、新政府は専門知識を有する「お雇い外国人」を採用して、蝦夷地の持つ地下鉱物資源のための調査を行っている。
 
その際彼らが行った明治政府への報告書などを引用して、『福島町史 通史下巻』に砂金/金山に関する記述がある(同書515~516ページ)。下記はその抜粋である。
 
 
明治二年開拓使が設置されて、北海道の本格的な開拓がされると、開拓使は明治六年から七年にかけて御雇外人教師に命じて、道内の有用地下資源調査をさせ、・・道内の実施調査を行った。
(その一人、H・S)モンローは明治六年か七年か明確ではないが、(当時の)福島村に来て知内川上流の千軒金田と称される地域一帯の調査を行っている。
 
その調査報告書はモンロー著の『北海道金田地方報文』中の『渡島国武佐金田』として詳記していて・・。
 
千軒および武佐(=知内川本流)では砂金粒も小さく、殆どの地区は砂金採取の跡地で、砂金の含有が極めて少なく、企業としては開発は無理であると述べていて、僅かに知内町界付近の湯の尻付近のみが若干含有量が多かったと述べており、・・
 
と同書には記載されており、明治初期に行われたこの外国人専門鉱山技師達による調査は不発に終わった、と解説している。
 
要するに江戸時代初期の砂金採取が盛んな頃にあらかた取り尽くされて、明治初期には殆ど残っていなかった、と『福島町史』では述べられている。
 
 
またこれは後日談に相当するのであろうが、大正期になって松前藩主の末裔が千軒岳の埋蔵金を探しに来た、という記録が『同書上巻』には書かれている。
 
大正八年の十一月の寒い日であった。松前のお殿様の直系の子孫である松前勝広(よしひろ)子爵が碁盤坂村に来て、これから千軒岳の山に埋蔵金を掘り出しに行くから手伝いの屈強な若い者を四、五人世話をせよというのである。・・・
一行は勝広殿様についてきた行者(修験者)が鈴を鳴らして祈祷しながら徒歩で千軒岳に向かい、杣道を越え、知内川本流を出戸二股、中二股、奥二股などの枝川を越え、その日はようやく広い川原(金山番所跡周辺)に着き、・・
(『福島町史 通史上巻』615~616ページ
 
という事があったようだ。因みにこの松前藩の末裔の子爵の挑戦は、残念ながら成果を得ることは出来なかったようである。
 
 
 

 
以上が大千軒岳麓の砂金収取や金山開発について、『福島町史』に記載されている記録なのであるが、番外編として私にとって非常に重要で、気になる資料があるので、その抜粋についてここに記述しておく。
 
 
前述のH・Sモンロー著の『北海道金田地方報文』の中の「松前金田 渡島國」に書かれている、『大野土佐日記』の荒木大学に関する事柄がその対象である。
 
明治6・7年ごろに北海道内の地下鉱物資源の調査を行ったモンローは当時24歳で「鉱山の専門技師の補助役」として年俸4,000ドルで「北海道開拓使」に雇用されていたという。
 
当時の4,000ドルは現在の価値で言えば4,000万円以上の年俸で、その契約で彼は雇われた専門職なのである。当時としてもかなりの高額年俸であった。もちろんそれなりの価値のある専門家と、明治新政府に評価されていたのであろう。
 
 
そのモンローが明治8年7月10日の退職直前の同年5月10日に、執筆して提出したのがこの『北海道金田地方報文』であった。
その報告書の中に下記のような記述がある。いずれも抜粋である。
(同書。史料編907~920ページ
 
「 『松前金田 渡島國』 という章の中に
 
昨年、出張の節松前に赴き、其の近傍砂金の有無を検査し、且、有益なる金石の現出せる旨、日本官員の示すことあらば、これをも巡視すべきを命じられたり。・・・
函館よりの道路は沿海知内に通じ、夫より武佐川の渓野を上がり・・松前に達す。
 
余輩、武佐川を過ぎるの際、河中及び両岸の高台に在る、砂礫の模様を一見し、大いに感ずる所ありき。故に、前年松前の洗金者等がここに来て、洗滌せしを聞くも、敢て驚かざりしなり。
 
 
これは「松前金田」の章の冒頭部であるが、モンローは知内に入って「武佐川=知内川本流」沿いを検視した際に、河川の中や両岸に積み重なる砂礫の痕跡を見て、かつてこの地で大いなる砂金採取が行われたことを、感じ取っていたのであった。
 
鉱山開発の専門技師の彼の目から見れば、これらの砂礫の夥しい堆積は「武佐川」でかつて砂金採取が行われていた事の痕跡として、この時に目で確認し深く脳裏に刻んでおいた事であろう。
同じ文章の中に
 
六七百年前、南方より来る者共の、許多の砂金をここに得たりといふ
 
と書いてあり『大野土佐日記』に書かれていた情報を、彼が事前に知っていた事もこの現地視察の時の感想に繋がっているのであろう。
 
そしてその後鉱山技師モンローは、『大野土佐日記』に書かれていた事を検証するような調査をしていた様子が、窺える記述になっている。
 
まずモンローは同報告書において『大野土佐日記』の冒頭部を数ページ分書き綴っており、その上で
 
 
余輩、一の渡に到着の後、予め河流を測量し、砂礫を洗滌する等に両三日を費したり。蓋し、便宜の地は、荒木氏ことごとく之を洗滌せるを以て、砂礫を試験すべき、好所を発見するに艱みたり。・・」 
 
と当該地の河川の中で砂金採集が可能ではないか、と当たりを付けた場所が既に6・700年前の荒木大学によって、「ことごとく砂礫をさらわれてしまったがために、試掘の成果が得られなかった」といったようなことを記述しているのである。
 
 
更に同報告書の「松前金田の章」の末尾において、『大野土佐日記』に記述された事柄を自分なりに検証した結果を、記述している。
 
往昔洗浄の地は、渓野の上部にして、砂礫最も金に富めるを證せり。
筑前より来れる洗金者は、往昔比金田より、幾何かの黄金を得たるや。・・・
 
荒木氏の得たる全額は貮萬壹千㌦の値なるべし。而してその量は凡九貫五百匁なり。・・
 
と当該金田地の「砂層の厚さ」を測量にて計測した上で、測定済みの「金の含有量率」を掛け合わせて、6・700年前に成された荒木大学一党の金の産出量を、9貫5百匁=35.625kgと推定し、当時のドルと円との相場を勘案して、その価値は2万1千㌦相当であるとまで、推測しているのである。
 
 
以上のように、この明治初期の時点においてアメリカの鉱山技師モンローは、『大野土佐日記』に書かれている荒木大学の砂金採取の痕跡を、「武佐川=知内川本流」で自分の目で確かめた。
その上で、荒木大学一党の砂金採取が実際に行われいた事を、武佐川=知内川本流の河川敷や両岸の高台に堆積された、砂礫の厚さ等の痕跡から確信した上で、明治初年より6・700年前の事を推測しているのである。
 
 
この北海道金田地方報文』という報告書は『大野土佐日記』の記述の信憑性を、肯定的にとらえている。
そしてその鉱山技師モンローの知識見識は、一介の札幌辺りの歴史学者や現地視察を行なった事も無い机上の学者達の、根拠を示さない推論よりも、客観性や実証性を持っているように、私には思われる。
 
それは鉱山技師という鉱山開発に従事していた専門家が、現地を実際に訪れ観察し、なおかつ測量し金の含有量を検査した結果、導き出した結論だからである。
 
 
鉱山技師モンローの現地調査に基づく知見は、安田義定公につながる荒木大学を初めとした甲州金山衆が、鎌倉時代初期に蝦夷地知内を訪れたに相違ない、と頑なに信じている私の独断と偏見に合致したのである。
 
私はこのモンローの報告書に『福島町史』を通じて出遭えた事を、砂金/金山の神様に感謝している。
何故なら私が『大野土佐日記と甲州金山衆』において建ててきた推論を、鉱山開発の専門家の立場で、鉱山技師のモンロー氏が証明してくれた、と思ったからである。
 
この記述に出逢えた私が祝杯を挙げたのは、言うまでもないことである。  
「乾杯!H・Sモンロー」なのである。
 
 
 
 
 
 
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「荒木大学と大野土佐日記」の関係について書いた、『大野土佐日記と甲州金山衆』の「真贋解明編」に辿り着くことが出来ます。併せてご覧ください。
 
                            
 
 
 
 
 
 
 
 

 8.渡島(おしま)知内町

 
 これまで私の物語を読まれた方であればご存じの場所であると思う、とりわけ『大野土佐日記と甲州金山衆』の物語を読まれた方には、お馴染みの場所であろうかと思われる。この物語の舞台となった町である。
 
即ち安田義定公の配下の金山衆の若い頭領が、頼朝によって滅ぼされた主君義定公亡き後に、一族郎党を引き連れてやって来た郷がこの「知内の浜」だったのである。
 
地理的には青森県の最北端「津軽半島」に最も距離的に近い蝦夷地にあたり、前節で取り上げた「7.渡島 福島町」に接する東隣の町であり、北海道新幹線が「津軽海峡トンネル」から出て、一番初めに目にする風景は、知内の山河なのである。
 
 
 
        
 
 

 
その知内町の公文書で1986年(昭和61年)6月に刊行された『知内町史』に書かれている「砂金/金山に関わる」文章は下記の通りとなっている。
 
まずは大野土佐日記の現代語訳版を4ページにわたって記述(P178~181)した後で
 
——— 
 
この『大野土佐日記』の記述内容について歴史学的に検討したらどうなるか。
まず大野家初祖の了徳院は甲斐の国茨郡八幡の出身となっているが、現在これに比定できる町村が見当たらないし、了徳院が123歳までも生存したとも考えられない。
さらに荒木大学に砂金掘りを命じた将軍頼朝は、この元久二(1205)年にはすでに殺されているのである。・・・・・・・・
多くの矛盾が多いことから、この日記は大野家十七代の為将が創作したのだろうと考えられる
 
この元久二年より二百年後の応永十一(1404)年には湯の里温泉薬師堂が建立されていたことが次の本に出て来る。すなわち最上徳内が天明五(1785)年に著した『東蝦夷地道中記』で
「施主荒木大学、湯主徳三、応永十一年」という棟札を発見したとある。
 
また市立函館図書館所蔵の『松前落穂集』には正長元(1428)年5月蝦夷の蜂起に敗れた荒木大学が討ち死にしたことを記している。
 
これらの資料から荒木大学は元久二年の鎌倉時代に知内に来たのではなく、それより約二百年後の室町時代中期の、いわゆる和人渡島初期に蝦夷地に入った武将の一人であるとみるのが正しいであろう。
                        
                      (『知内町史』181ページ) ———
 
 
上記のように『知内町史』の中世欄を担当した執筆者は、『大野土佐日記』の記述に幾つかの誤りがあるから、この書物は雷公神社の第十七代宮司の大野為将が創作した書物であり、史実を書き記した歴史書として扱うのは不適切であるとしている。
 
そして『松前旧事記』や『福山秘府』などの松前藩の公文書には依らず、『松前落穂集』という個人が伝承や伝説を採集して、創作したと思われる書物に記載されている記事を採用して、「歴史学的に検討」して結論を出しているのである。
 
この論理構成の結果当該執筆者は荒木大学の知内入部年を、元久二年(1205年)ではなくその200年後の応永十一年(1404年)と結論付けているのである。
 
 
私はこの1986年に刊行された『知内町史』や大正7年に刊行された『北海道史』に疑問を抱き、自ら検証を試みた物語が前述の『大野土佐日記と甲州金山衆』なのである。
 
従ってご興味がある方はこの物語をぜひ読んでいただき、この『知内町史』や『北海道史』の著者たちの「歴史学的な」考察と比べていただきたいと、そう思っている。
その上で『大野土佐日記』の取り扱いについては、読者ご自身の判断に委ねたいと思っているのである。
 
 
尚、上記執筆者が書いているように、源頼家の死亡時期や105歳(大野土佐日記には105歳と書かれている)まで大野了徳院が存命したなど、明らかに史実と異なる点や、疑問に思う箇所があるのは事実であるが、だからと言ってすべてを否定するのはどうかと思う。
 
その上で、この執筆者が言うように荒木大学の領地や大野了徳院の帰属した「甲斐の国茨郡は現存しない」というのは、全くその通りなのである。
 
なぜならば現存した可能性があるのは「甲斐之國いはら郡」であり、その場所が「駿河の國庵原郡」に隣接する、富士川の北岸地帯であるからである。
いくら「甲斐之國」の中で「茨郡」を探してみても、現れてはこない、のである。
 
 
『大野土佐日記』は知内の歴史を語るうえで、非常に重要な古文書であると私は想っているのであるが、『知内町史』の中世担当の執筆者がこのような「歴史学的見識」の所有者では、私は心もとないのである。
 
さらに、「湯の里温泉、薬師堂の棟札」で確認できた「応永十一年」を以て、荒木大学の知内入部年を推測し結論付けているが、昭和26年知内町の涌元地区の道路工事で発見された、中国などの渡来古銭である「知内涌元古銭」との比較検証も必要であろう。
 
即ち函館高専の「同古銭分析結果」に依ると、出土した枚数996枚の内訳として
「元久二年以前の古銭    =783枚」
「元久三年~応永十一年の2百年間の古銭= 28枚」
 
となっているのである。この28倍近くの枚数のアンバランスについてはどのように考えるのであろうか、「歴史学的知見」とともに「考古学的知見」についても検討が必要なのではないか、と私は想っている。
 
この渡来古銭の銭種のアンバランスは、果たして荒木大学の知内入部を
「元久二年:1205年」ではなく「応永十一年:1404年」とする根拠になりうるのであろうか・・。
知内の涌元から出土した古銭の内、この200年の間に鋳造された渡来古銭は、10年間当たりたったの1.4枚の比率でしか、知内には入っていないのである。
 
この『大野土佐日記』の記述内容の真贋についてご興味の在る方は、拙著『大野土佐日記と甲州金山衆』も併せてご覧いただければ幸いである。
 
 
 
 
 
 

 

         『大野土佐日記』冒頭部の抜粋 (吉田霊源編)

 

元久二年(1205年)筑前の舟漂流に及び・・・漂ひ候処、遥か北に当て一つの嶋見えたり。

舟中大いに悦び・・・水主二人炊(かしき=飯炊き)一人陸地へ上がり候処は(蝦夷地)知り内浜辺の由・・・。

炊の者唯一人水の手を尋ね候。

・・・彼の滝の下に光し物これあり候ゆえ取り上げ見候処、石に似て石に非ず・・・丸かせ(金塊)というものならんか・・・と水桶の中へ隠し…密にして其身を離さず持ちゐけり。

右の炊程なく暇を相願ひ生国甲斐へ立ち帰り、即ち当主甲斐国いはら郡荒木大学へ差し上げる<此のかしきの者大学殿百姓なるゆへなり>

大学殿にも右の丸かせ一覧なされ殊の外ご喜悦に思召さる・・。

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文応元年三月二十四日了徳院行年百五才にて相終わる。

                              ( )は、筆者の註

 
                                          
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
   
 
 
 
 
 
 
 
 
 



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