本来ならば雪が降るべき時節なのに、雨が降っていた。 雨が止むと、上空を小白鳥やカモなどが群れを成して飛行している。 本州では25度を超える夏日なのだという。 窓の外では虫たちの姿も見るようになった。 ”雨水””北帰行””啓蟄”いずれも春の先駆けなのである。 春分の日を過ぎ、彼岸が終わると一気に春が進んで来た感がある。 そしてサッカー日本代表である。 この21日のバーレーン戦、昨日のサウジアラビア戦の3月の連戦は、勝ち点4を得てバーレーン戦の勝利で来年のW杯への出場を決めた。 喜ばしい事である。 バーレーン戦の勝利の立役者は1アシスト1ゴールを決めた久保建英であった。 彼の奮闘が今回のW杯出場を決定づけたのは間違いない。 ![]() さはさりながら、相変わらずの”個人技頼み”で、チーム戦術が乏しく、チームとしての約束事の乏しい森保采配では、限界が見えている。 今回のバーレーン戦やサウジ戦がそれを示していた。 今の闘いのままではグループリーグ突破が関の山であろう。個々人の能力が歴代最強レベルであっても、チーム戦術やチームプレーで勝てるように成らないと、Best8の壁は越えられないだろう。 個人能力重視の森保監督の限界は、今回の二つの試合でも明らかである。 JFAの会長が田嶋から宮本に替わったのは、希望が持てるが森保氏の交替が実現しない限り、日本代表は次のステージには上がれないだろう。 これからの14ケ月W杯本番までに何が起きるのか、期待感を込めて注視していきたい。
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「- 糸魚川の舞楽編 -」 直江津の居酒屋で知り合った上越の郷土史研究家渡会先生の紹介で、知り合いの糸魚川市の郷土史研究家で、「舞楽」に詳しい人を訪れる事に成った私は、糸魚川一ノ宮の天津神社裏手に在るその家を、渡会先生と一緒に訪問することに成った。 図書館などで天津神社の「舞楽」の内容を事前に知った私は、その舞楽が糸魚川でも活躍していた金山衆と浅からぬ繋がりがあったのではなかったか、と思うように成っていた。 と同時にその舞楽が、彼らの領主で非業の死を遂げた安田義資公と、その父親の義定公に対する「鎮魂の神事」という側面を持っていたのではないか、という印象を受け、その事をも糸魚川の舞楽の研究者に尋ねることにした。 【 目 次 構 成 】 2. 氏子と祭神 3. 「鎮魂の神事」? 4. 大久保長安 5. 「重ね紋」の由来 6. プロデューサー「鶏爺い」 7. 浦川原の巨大厩遺跡 |
私たちは数分で、目指す吉田先生の家にたどり着いた。
そこには先日も会ったばかりの、新潟の神社関係研究者の小林さんと一緒に、見知らぬご老体がいた。糸魚川の舞楽に詳しいと聞いていた吉田先生であった。
道すがら吉田先生は渡会先生の元同僚で、先輩にあたる高校の教師で糸魚川天津神社の舞楽に関する著書も出しており、地元では舞楽研究に関する第一人者として一目置かれた存在であることを教えてくれた。
また居酒屋で紹介してもらった小林さんが今日来ている事もその時教えてくれた。小林さんとも旧知の間柄らしい。
小林さんは昨日改めて調べ直した事があり、その情報を私に教えてくれるということで、今日同席してくれることに成ったのだという。
私は、二人に近づくと改めて挨拶をした。吉田先生は白髪オールバックで背の高い、黒縁の眼鏡をかけた大柄で背筋をピンと伸ばした、カクシャクとした印象の八十前後の男性であった。
私たちは、家の奥の先生の書斎と思われる部屋に案内してもらった。一通りの挨拶が済むと、私は持参した手土産を吉田先生に渡した。
渡会先生が、先日の居酒屋であった話を面白おかしく吉田先生に話すと、吉田先生はにこにこと笑顔でその話を聞いていた。
「立花さんは鎌倉時代の越後の初代守護、安田義資について調査研究をされているそうだが、儂(わし)はそんなに中世には詳しくはないんだが・・」と吉田先生が私に言ってきた。
「そうでしたか、それは残念ではありますが『御館の乱』でそれまでの古文書や宝物類、貴重な伝承物が殆ど灰塵に帰したと伺ってますから・・」と私は応え、その点は全く気にしていない旨を言った。
「先日渡会先生から糸魚川の三大舞楽のことを教えてもらいまして、先生がその道の権威であると伺いまして、その辺の事を中心にお聞かせいただければと思っています。
中でもそこの天津神社の舞楽に、私が調べている金山開発のスペシャリスト金山(かなやま)衆に関わるかもしれない、稚児舞が含まれているということで・・」私は、先ほど訪ねて来た天津神社のほうを指さしながらそう言った。
「『鶏冠の舞』の事らしいですな・・」吉田先生がそう言ったので私は、ニコリと肯いた。
「はいそうです、その『鶏冠の舞』です。それから、ひょっとしたらこれも関係しているかもしれないと思っているのが、一番初めに舞われる『振鉾(えんぶ)』なんですが、こちらについても教えていただけたら、と思っています」私がそう言うと、渡会先生が反応した。
「『振鉾(えんぶ)』も関係あるんですか?」と私に聞いてきた。
「あハイ、ひょっとしたら、ですが・・。実はあれから私も天津神社の舞楽に関する資料を多少目にしまして・・。あ、吉田先生が書かれたんじゃないかと思いますが『神遊びの郷里』もザッと斜め読みさせてもらいました」私はそう言って、糸魚川図書館でコピーしてきた資料の中からその書物の部分を取り出した。
「もう、3・40年も前のじゃがな・・」吉田先生はそう言って同書が自身が書いた書物であることを認めた。
「渡会先生からお聞き及びかもしれませんが、安田義資公の配下の甲州金山衆は鶏(にわとり)を神として尊崇してまして、甲州山梨の彼らの本拠地『鶏冠(とさか)山』にちなんで、ご神体としているんですよ鶏のことを。神社の御神体としても祀っていますし、彼らの職能神として金の鶏の御神体を、神輿などでも担いだりするんです。
それから京都の祇園祭でも『綾傘鉾』の傘の上に同じ理由で、鶏がご神体として祀られていまして・・」私がそう言うと、渡会先生が、
「立花さんは、その『綾傘鉾』は甲州金山衆が祇園祭に参加することで始まったと、そんな風に仮説を立ててられるんでしたよね、確か・・」といった。
「はい、その通りです。尤も私の中では仮説以上で、ほとんど確信と云っても良いくらいに、膨張していますけどねアハハ・・」私はそう言って笑いながら話を続けた。
「実は先ほどもチラッと触れましたが『振鉾(えんぶ)』もその『綾傘鉾』に関連してるんじゃないかって、そんな風に想ってます」
「ホウ、そうなんですか・・」吉田先生はそう言いながら、私からの詳しい説明を求める様に、黒縁眼鏡の奥から私の目を覗き込んだ。
「具体的にはですね、その『綾傘鉾』が祇園祭で巡行する際に、露払いのような役割をするのが『棒振り子』という、赤熊(しゃぐま)という赤いカツラを被った派手な格好をして、棒を振り回して大げさな所作をする舞手がいるんです。
笛や鉦・鼓の囃子手を伴ったとにかく派手な露払いなんですが、彼らを使って聴衆の耳目を集める役割をさせるんですけどね・・。その『棒振り子』とこちらの『振鉾(えんぶ)』とが関係しているのではないかと・・」私がそこまで言うと、渡会先生がニヤリとしながら
「それは確信ですか?それとも・・」と言って突っ込んできた。
「いや、さすがにまだ仮説ですよ・・」私もニヤリとして、そう言った。続けて、
「その『綾傘鉾』の御神体である『鶏冠』と露払い役の『棒振り子』とが、こちらの舞楽の『鶏冠の舞』と『振鉾(えんぶ)』とに関係しているのではないかと・・」と呟いた。
「ただの偶然、という事はないんですか・・」渡会先生はそう言って、私に両者の関連性に対する検証を暗に求めた。
先日私からより詳しい話を聞いていた渡会先生は、初めて聞くことに成る吉田先生に判ってもらえるように、あえてそう言ってるのかもしれない、と私は感じた。
「そうですね、ただの偶然と思われるかもしれませんね、御尤もです・・。私も京都祇園祭りと、甲州金山衆及びその主君である安田義定・義資父子との関係について知らなかったら、そんな風に結びつけては考えなかったと、自分でもそう思います。
多少話が長くなっても構いませんか?」私はそう言って断りを入れて、皆が肯くのを確認してから、話しを始めた。
「この時の後白河法皇の勅命がきっかけで、三回目の遠江之守重任を願った安田義定公との取引が成立したわけですね、比較的すんなりと・・。それがきっかけに成って義定公と両神社の関係が深まったんですが、と同時にお祭り好きの義定公は祇園祭にも、積極的に関わって来たんですね。
実は直江津の祇園祭も義定公のそういった影響の下、嫡子の義資公が執り行ってきたのではないかと、私は推察しています」私はそう続けた。
「なるほどそういうことですかな・・。祇園祭と安田義定の関係は・・」吉田先生はそう言って、ひとまず私の推測を受け入れた。
「因みに安田義定は京都の祇園祭にはどのように関わって来たんでしたか?」渡会先生が更に先を促すかのように、私にそう言った。
「そうですね、具体的には義定公は二種類の山と鉾とに関わりがあったようです。一つは『八幡山』といわれる舁き山で、もう一つは先程の『綾傘鉾』という傘鉾の巡行です。
因みに前者は義定公の家来のうち武家衆が担当し、後者は職能集団である金山衆が担っていたと、私は考えています」私がそう言うと、吉田先生は目で先を促した。私は吉田先生が私の推測の理由を尋ねているように思い、応えた。
「ハイ、その理由はですね、『八幡山』は甲斐源氏の氏神である八幡様を武士の家来達が、甲斐源氏の象徴である騎馬に乗った応神天皇像をご神体にした、神輿の八幡宮を担ぐ形をとったわけです。
それから先ほど言いました『綾傘鉾』は、金山開発を担う職能集団である甲州金山衆が、金で造られた鶏をご神体にした綾傘の鉾を曳いて巡行し、そのお先棒を棒振り子の赤熊(しゃぐま)とお囃子たちが大仰に騒ぎ立てながら、先導するわけです」私がそう言うと、渡会先生が
「せ云えば『振鉾(えんぶ)』というのは鉾を振るって書きますよね。鉾を振るって書いてあえて『えんぶ』と読ませている・・」と思いついたようにそう呟いた。
「うん、確かに。いや実は儂はあの舞楽の一等最初の舞である『振鉾』は、本来は『演舞』と云っていたのが、いつの間にか目に映る所作である鉾を振るに、当て字したのではないかと考えていたんだ・・。
だからこうやって立花さんの推察を聞いていると、長年考えていた儂なりの仮説が、正しかったのかもしれないと、そう想うように成ったよ・・」吉田先生はニヤリとしながらそう言った。続けて、
「ところで立花さんは、その金山衆とこの越後之国とにも大きな接点があったと、そうお考えなんですかな?」吉田先生は、渡会先生をチラリと見ながらそう言った。
「はい、おっしゃる通りです。私は安田義定公父子の領国には、必ず荘園開発と一緒に金山開発と騎馬武者用の軍馬の畜産・育成がセットであったと思っているんです。
ですから義資公が守護を務めていたこの越後にも、必ず馬に関する痕跡や足跡と共に金山開発の痕跡があるに違いないと、そう思って今回新潟にやって来たんです」私は吉田先生の質問にそう応えた。
「立花さんは、上越市では多くの軍馬育成の痕跡や足跡は確認できた、と思ってられるんですよね・・」渡会先生が私に代わって、解説してくれた。
「はい、おっしゃる通りです。奈良時代から国衙や国分寺が在った上越には沢山の官営牧も在りましたし、馬場や厩といった馬にちなんだ地域や地名も沢山確認できましたから、現在の上越市とその周辺には少なからぬ痕跡や遺跡・足跡を確認することが出来たんです」私がそう言って同意すると、渡会先生が
「ところが金山開発に関しては・・」と言いかけたので私は、
「金山開発の痕跡などは殆ど見当たらなかったですし、金山衆が崇拝する金山彦を祀った金山神社は数社しかなかったんです。ほとんど唯一といってもよいのは飯田川沿いに在った杉野袋の『金山神明社』ぐらいのものでしてね。
それもどちらかって言うと、暴れ川の飯田川の氾濫をコントロールするための、灌漑治水用の護岸のための土木工事で、およそ金山開発とは云えない場所の、神社だったんです・・」私は神社に詳しい小林さんに同意を求めるように目で確認しながら、そう言った。小林さんは肯いてくれた。私は続けて、
「ところが上越埋蔵文化センターの学芸員の方から、こちらの糸魚川にはその名も『金山』という名称の山が三か所もある、と教えてもらったんです。
更にこちらの渡会先生や小林さんから、糸魚川には幾つかの金山開発につながる神社が在るらしいと教えていただいて、実は昨日から糸魚川市内の幾つかの金山神社を、実地見聞して来たところです」と話しをつなげた。
私が金山神社の話をしている時に、吉田先生の奥さんがお茶を運んできた。喉に渇きを覚えた私は、早速温かいお茶をいただいて喉を潤した。
「因みに糸魚川ではどちらの神社に行って来られました?」小林さんが私に聞いてきた。
「アはい、能生川を入ったとこの『槙の金山神社』や羽生の奥の『川久保の金山神社』とかですね・・」私がそう言うと小林さんは、
「どうでしたか、期待通りの成果は得られましたか・・」と更に私に尋ねてきた。
「おかげさまで成果がありました。とりわけ『槙の金山神社』はバッチリでした」私はニコリとしてそう応えた。皆が具体的な説明を期待するような目で、私を見た。
「あぁそうですね、具体的な説明が必要ですね。判りました・・。まずは『槙の金山神社』の祭神は金山彦でした。それに神殿の土台の石組みがかなり精緻な造りで実に見事で、美しいものでして、間違いなく金山衆の手によるものだと確認出来ました。
更に屋根瓦は想ったように三つ巴紋でした。この時点で私はこの神社が義資公と甲州金山衆が建てた神社に違いないと、そう確信したんです」私が嬉しそうにそう言うと渡会先生がニヤリとして
「そしたら神様の指紋が確認出来たんですね・・」と言った。私も同じくニヤリとして、「えぇ、おっしゃる通りです確認できました『神様の指紋』・・」と応えた。
それを聞いてた小林さんも同様にニヤリとしたが、吉田先生は怪訝そうな顔をしていた。無理もなかった。それを感知した渡会先生が、早速フォローした。
「いえね、『神様の指紋』というのは立花さんがおっしゃるんですが、神社にはその気になって探せば、神様が残してくれた指紋が沢山見つかる、って言うんですよ・・」とニヤニヤしながら言った。そしてその続きを話すように、私を目で促した。
「判りました、ではそれについて私からお話しましょう」そう言って私は話を引き継いだ。
「神様の指紋というのは何かといいますと、具体的には言うまでもなく神社に祀られている神様である『祭神』がありますよね。
加えて神社の紋である『神紋』『屋根瓦や幔幕・狛犬などの小道具や大道具』、更には『神事やお祭り』といった目に見えるモノや、伝統芸能なんかを指して、私が勝手に名付けたモノやコトの事でして・・」と解説した。それを聞いていた吉田先生はニヤリとしながら言った。
「面白い表現だね『神様の指紋』ね、確かにおっしゃる通りかもしれませんな。儂なんかも舞楽や神紋・伝承などを通じて、その神様が本来祀られて来た神社のルーツに辿り着く、なんてことがあったりしますよ。
そうですか『神様の指紋』ね・・」吉田先生は感心したように顎を触りながらそう言って、私の表現を理解してくれた。
左図:京都祇園祭り「綾傘鉾の棒振り子」 右図:糸魚川稚児舞の「振鉾(えんぶ)の舞」
「『槙の金山神社』の事で言えば、神社近くに住まわれてかつては宮司をしていた家の方は、通称『金山(かなやま)さん』と云われていたそうです。名字が金山というのではなく、あくまでも通称だそうです。通りがかったご老人が教えてくれました。
「能生川の流域で、かつて砂金とかが採れたってことですか?」
「はい、そうです。というのも能生川を溯って妙高連山の方に行くと、標高2千m級の例の『金山』『裏金山』という糸魚川の三か所の金山のうちの二つが在るんです。
ですから鎌倉時代の頃、金山衆が能生川が蛇行するその辺りで、太古からの手つかずの砂金などが沈金している『金堀場』を、見つけることが出来たんだと思います。
そしてだからこそ、その近くに金山神社を祀ったんだと、ですね。そんな風に想定することが出来るわけです」私は昨日見てきた能生川沿いの金山神社の事を説明した。
渡会先生も今の話で金山と能生川との関係を理解してくれたようだ。大きく肯いていた。
「実はこの構図は、羽生の『海川』の支流に当たる川の、川沿いに在る『川久保の金山神社』にも同じことが言えましてね、名前はちょっと判らないんですが、あの川久保地区の金山神社も、溯って行けば『金山』や『裏金山』に行きつくんですよね」私がもう一つの金山神社の在る川久保地区について、そのように説明した。
「詳しいことは存じませんが、海川の上流で『観音堂』の方に向かう支流でした」と私が応えると、吉田先生が、
「うん、観音堂なら『水俣川』のようだな・・」と詳しく教えてくれた。続けて
「その槙のある辺りは、糸魚川でも古くから開けていた里でしてね。糸魚川では歴史ある集落なんじゃよ」と吉田先生が解説してくれた。
「そうでしたか・・、金山衆にちなんだ集落であれば鎌倉時代の頃からの集落だと思いますから、確かに8百年以上の歴史はあるでしょうからね・・。あ、それから私はあの辺りは金山衆にとってだけではなく、守護の安田義資公にとっても重要な拠点だったと、そう考えています」私がそう言うと、渡会先生が聞いてきた。
「その根拠というか、どうしてそんな風に立花さんは想うようになったんですか?」と。「それはですねあの『槙地区の金山神社』の周辺には『藤後の八坂八幡神社』や『下倉の駒形神社』と、1㎞にも満たない範囲の中に、三つの安田義定公父子に関係する神社が集中しているんです」私はそう言って渡会先生を初め、吉田先生や小林さんを見廻した。
小林さんは大きく首を振って肯いた。続けて、
「実は僕は今日そのことを立花さんにお話しするつもりで、こちらに来ていたんですよ」といって、バッグの中から資料を取り出した。
小林さんはA3版のカラーコピーした資料を私の目の前に広げながら言った。
「これは糸魚川市の主な神社に関する民俗学的な資料なんですがね・・」と言って、資料について説明してくれた。更にその資料を3・4枚ずつ区分けして私に示して、話を続けた。
「こちらが『槙の金山神社』の分で、こっちが『藤後の八坂八幡神社』『下倉の駒形神社』となっています。いずれも先ほど立花さんが言われた神社で、先日直江津の居酒屋で立花さんから伺っていた『八幡神社』や『馬に関する神社』『金山彦の神社』を探していて、発見した神社の資料だったんです。
で、場所を確認したら立花さんが言われるように、三つの神社がほぼ隣接している場所に在ったもんですから・・」と言って、これらの資料に辿り着いたいきさつを話してくれた。
「そうでしたか、いやありがとうございます。この資料は初めて見ます・・」私はそうお礼を言って、その中から「藤後の八坂八幡神社」の資料を取り出し、パラパラと捲って内容を確認した。ちょっと気づいたことがあったので、それを口にした。
「僕が昨日寄って来たのは、真新しい神殿で檜の香りが強く残っていたのですが、この画像だともっと歴史のある社ですし、確かこんなに小高い場所ではなかった様でしたが・・」とそう呟くと、吉田先生が、
「母さんちょっと・・」と言って奥さんに声を掛けて、書斎に呼んだ。
奥さんが入ってくると先生は、
「母さん『藤後の八幡さん』が新しくなって遷宮したのは去年の事だっけ?」と言って、私からその資料を受け取り、奥さんに見せて確認した。奥さんは吉田先生と一緒に「藤後の八坂八幡神社」のカラーコピーを見ながら言った。
「因みに『八坂八幡神社』は八幡神社と八坂祇園神社が重なっていますが、今の名称に成ったのは明治40年に両神社が合併して、そう成ったようですね・・」と、小林さんが解説してくれた。その情報は、私も糸魚川の図書館で得た資料で確認していたので、肯いて聞いていた。
「それはね庶民ってもんは、実はそんなに祭神に拘らないことがあるんだな。特に田舎に行けば行くほど、そういう傾向があるようでね。
面白いことに宗教にも流行り廃りがあってな、下倉でも軍馬や農耕馬を飼育していた時はそれなりに馬の神様が大切にされてたんだろうけど、馬を飼わなくなってからは馬の神様も廃れたのかもしれないね。
それに諏訪神社の『建御名方の命』は山の神様だから、山仕事をするように成ってから祀るように成ったのかもしれんし、伊勢神宮の『天照皇大神』は幕末の『ええじゃないか』の時に入ってきたのかもしれんな・・」吉田先生はしみじみとそう言ってお茶を飲んで、更に話を続けた。
「たとえ祭神であっても融通無碍(ゆうずうむげ)、これが日本という多様な神様が併存し続ける、日本の神道の特色・特徴なんだとそう思うよ、儂は。
庶民にとっては、名称がどうであれ自分の生活の場である『山の神』や『産土(うぶすな)神』としての信仰を続けていければ良いわけで、祭神の名称などあまり気にしないのさ。そういうもんだと思うよ・・」と言って、私たちに氏子と祭神の関係について話してくれた。
私はそれを聞いて大いに得るものがあった。全くその通りだと、納得したのだった。
「日本は欧米のキリスト教や中東などのイスラム教と違って多神教の八百万(やおよろず)の神様、ですからね。その辺りは将に融通無碍なんですね・・」私がそう呟くと、吉田先生を初め三人は私の呟きを認めるように、肯いた。
神社の研究をしている小林さんは何度も大きく肯いていた。
「ところで、立花さんは天津神社の舞楽については大体そんな感じでよかったんですか?せっかくだから吉田先生にお聞きしたいことがあったら・・。それとももう何もありませんか?」渡会先生がそう私に聞いてきた。私は渡会先生の心遣いに感謝しつつ、吉田先生に尋ねる事にした。
「そうですね、ではせっかくですから申し上げます。実は僕、天津神社で行われている『舞楽』はひょっとしたら金山衆や守護の義資公の家来たちが深く関わってきた神事ではないかと、そう想ってるんですよ。
と言いますのは、先ほど京都の祇園祭との類似性を指摘させてもらったんですが、それは導入部の『振鉾(えんぶ)』や三番目に行われる『鶏冠の舞』についてだったんですけど、十二ある演目のうちの二つ、と云う事ではなくって舞楽の全体を通して関係しているのではないかと、そう想ってるんです・・」私がそう言うと、三人はその先を促すような目で私を見た。
「あの舞楽全体が、安田義定公と義資公父子の不運に依る死を、鎮魂するための『鎮魂の神事』ではないかと、そう感じているんです。
頼朝の甲斐源氏潰しによってほとんど言いがかりのようにして、義資公は首を刎(は)ねられ、義定公は息子への監督不行き届きを咎められて遠江之国の國守の職を取り上げられてしまった。
そして最後は頼朝によって派遣された梶原景時や加藤景廉によって、本貫地の甲斐之国牧ノ荘で誅殺された、義定公に対する鎮魂の神事ではなかったかと、そう想っているんです」私がそう説明すると、吉田先生が、
「初代守護の安田義定は、何が原因で首を刎ねられたんでしたかな・・」と誰に言うともなく呟いた。渡会先生が私をチラッと見たので、私は手のひらを上げて先生に発言を促した。
「越後の守護を八年ほど勤めた安田義資は、艶書事件という今で云うラブレターを行事に来ていた女御に、渡したことを頼朝に咎められて、その翌日に首を刎ねられたという事です・・」と渡会先生が吉田先生に説明した。
「何⁉ラブレターを渡した罪で、越後の守護職がその翌日に首を刎ねられたってか?」さすがに吉田先生もビックリして、大きなリアクションをした。
「きっかけは何でもよかったんだと思いますよ、頼朝は・・。頼朝にとって自分や一族が関東で権勢を保つのに、甲斐源氏はずっと目の上のたん瘤だったんですよ・・。
それで当時の甲斐源氏の氏の長者であり、遠江之守であった安田義定公と嫡男で越後の守護を務めた義資公とを、潰すきっかけがずっと欲しかったんですよ、頼朝は・・」私がやや感情的にそう言うと、吉田先生は目をギロリとさせて、
「ホウ、そうですか・・」と言って、腕を組んだ。私は続けて、
「頼朝は平家追討が済み、越後の平家城氏が降伏し、奥州藤原氏を滅亡させて東日本の騒乱が収まった時から、このタイミングをずっと待っていたんです。
そしてついに、後白河法皇が崩御した翌年に成って、いよいよ甲斐源氏の有力者であり遠江と越後の二か国の國守や守護を務めた義定公父子を潰しにかかった、というわけです」私が今度は多少感情を抑えてそう言うと、小林さんが、
「後白河法皇の崩御を待ったのはまた、何故なんです・・」と私に聞いてきた。
「それはですね、義定公と法皇との関係が良好だったからです。法皇が元気なうちは頼朝も手が出せなかったんです。
後白河法皇と義定公は例の八坂祇園神社や伏見稲荷大社の建て替えを初め、ご自身の六条の院の御所や法住寺の修復や修繕にも義定公を指名して、奉行させているんです。二人はお互いに信頼関係を持っていたようですね。
それにしたたかな法皇は武将としての義定公一族を高く評価していたようで、朝廷や院の御所の守護を務める『大内守護』にも義定公を指名しているんです。
これは頼朝に対する対抗勢力として、法皇自身が甲斐源氏の氏の長者でもあった義定公を考えていたんではないかと、そのように私は推察しています。
平家が滅亡した後、関東武士団の源氏の中の有力な武将であった義定公に、いざという時の期待というか保険を掛けていたんではないかと、僕はそんな風に推測しているんです・・」と私は推測を強調しつつも、断定するようにそう言い切った。
「なるほど、そうすると後白河法皇の崩御の時期がだいぶ遅れていたら、その間頼朝は義定公父子に手を出せなかったと、立花さんはそう想ってるんですね・・」小林さんは肯きながらそう言った。
「はい、その通りです」私は大きく肯いて、その仮説に同意した。
ちょっとした沈黙があって、渡会先生が、 「なるほどな、そういう安田義定公一族の不幸なことがあって、その鎮魂の神事として『天津神社の舞楽』が誕生したんじゃないかって、そう考えてるんですね立花さんは・・」と私を見ていった。私は再び大きく肯いて肯定した。
第五段「破魔弓の舞」 第二段「安摩の舞」
「いや、さすがに全部だとは想っていません。何と言っても義定公父子が誅殺されてから八百年も経ってますからね・・。それに舞楽でしょ、この八百年の間には、当然付け加えられたものや逆に除かれたものもあっただろうと思います。
ちょうど京都の祇園祭や直江津の祇園祭がそうであったように、祭りもまた生きていますし、先ほど吉田先生が言われたように流行り廃りもあったでしょうから・・。
それに義定公や義資公が守護として入部してくる以前から、糸魚川にはずっと以前から舞楽というか神楽(かぐら)というか、天津神社の神事として始まっていた可能性だってあり得ると思うんです。
そのベースの上に『義定公父子の鎮魂の舞楽』が加わった可能性だってあるんじゃないかって、そう思っています」私がそう言うと、吉田先生は何回か肯いた。
「ただそうは言っても、中心にある部分や絶対外せないものはあっただろうし、それはしっかりと受け継がれてきたのではないか、と私は想っています。根幹の部分ですがね・・」私は三人の顔を見ながら、説明した。
『吾妻鏡 第十四巻』 ―安田義定梟首―
(建久四年八月十九日)安田遠州(義定)梟首。去年子息義資を誅せられ、所領を収公するの後、しきりに五噫を歌ふ。また日来好(よしみ)あるの輩類に相談、反逆を企てんと欲す。縡(こと)すでに発覚すと。
( )は筆者の註
「五噫を歌う」とは世間に認められないことを嘆く事、だという。安田義定公は、艶書事件などと言う言い掛りのようなことで、自らの後継者として育てて来た嫡男の義資公が斬首されたことがよっぽど悔しく、納得もいってなかったのであろうか。
ましてその時61歳という彼は、当時で云えば老齢の域に達しており、頼朝の鎌倉幕府と一戦を交える気力も体力もなかったとすれば、なおさらであろう。
自ら子供を成人させた経験を持ち、当時の義定公の年齢を過ぎた我が身を振り返り、彼の「五噫を歌う」気持ちは、よく理解することが出来る。
![]() 〒089-2100 北海道十勝 , 大樹町 ![]() ] ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() |