前作『安田義定父子と甲斐之國、越後之國』において、猿田彦命にもつながる「秋葉三尺坊」という高名な修験者の存在を知る事に成った主人公立花は、その修験者「秋葉三尺坊」について調べることにした。 秋葉三尺坊は信州戸隠に生まれ、越後長岡の蔵王権現で修行して、その努力によって背中に羽根を生やし自在に空を飛ぶことが出来たとされる大修験者で、更に遠州春野町の「秋葉神社」にも関わったとされる修験者の世界のレジェンドであったという。 平安時代から鎌倉時代において活躍したと伝えられてるその大修験者は、偶然にも同時代に「遠江之國の国守」を務めた安田義定公と、彼の嫡男で源頼朝の領国の一つである「越後之國の初代守護」を務めた安田義資公の領国とに関係していたのである。 それを知って義定公&義資公と「秋葉神社」又は「秋葉三尺坊」との間に、何らかの繋がりがあるかもしれないと考えた立花は、手始めに遠州地区での新たな調査・研究を始めたのであった。 【 第一部 : 『 遠州秋葉神社 』 】 は、 『 遠州の舞楽編 』と『 秋葉三尺坊編 』とによって構成されている。 そのうち当該編は『遠州の舞楽編』に成り、安田義定公父子と越後之國との関係を探ってきた主人公(立花)が数年ぶりに遠州を訪れ、旧知の森町教育委員会のスタッフと出逢い、旧交を温めるところからこの物語は始まる。 『 遠州の舞楽編 』 — 目次 — |
東京秋葉原は私にはなじみの街である。
中学生のころから何度か通い始め、高校生や社会人に成ってからも何度も通った街であった。したがってこの街とはかれこれ50年近く付き合ってきたことに成る。
しかし近年「アニメ」や「サブカル」「オタク」のメッカと成ってからは、さすがに以前のように足を運ぶ機会は減ってきている。
私は「秋葉原」程変化の激しい街を、経験したことがない。
30年近く前までこの街は「デンキの街」と云われていた。JR秋葉原駅周辺の電器店の多くは専門性が高く、ニッチな商品を扱っていて電機製品や電子部品のメッカというか、ある種のバザールのような雰囲気の街であった。
それからパソコンが日常生活に浸透するようになると、その分野の専門性の高いハードやソフトを扱う店が増え始めた。と同時にいわゆる家電の量販店が撤退し始め、世代交代や新陳代謝が行われたのである。
とはいっても当時はまだ、同じ家電製品の範囲内の事ではあった。それが現在の「アニメ」や「サブカル」「オタク」のソフトを中心とした街に、取って代わるようになったのはここ10年くらいの事でなかったかと思う。
とにかくその変化のスピードがこの街ほど激しい街は、他には見当たらないのである。
今ではJRの駅を降りると派手な電飾看板が訴求しているのは「アニメ」や「サブカル」「オタク」の世界である。そしてインターネットによる通信速度の速さや伝番力の広さから、今や秋葉原は世界の「アキバ」であり「AKIHABARA」なのである。
街を行き交う人々の半分以上が日本語以外の言語を話し、今や街は日本人離れした外見の人々で溢れているのである。
そして彼らのターゲットは、日本のアニメが生んだヒーローや主人公・登場人物に関する関連情報や商品なのである。
そのアキハバラの地名は実は「秋葉神社」に由来しているのだという。
徳川家康が江戸に幕府を開闢(かいびゃく)して以来、人口が増え続けた現在の東京江戸は、江戸時代後期にはすでに人口が100万人を超え、世界でも類を見ない人口集中都市であったという。
そしてその巨大都市江戸はまた、何年に一度かは「大火」に見舞われる災害都市でもあったのである。
明治に成って江戸から東京に替わった時に、その大火を防ぐ防火のために現在の千代田線の在るあたりから、昭和通りにかけてのエリアを敢えて原っぱとし、緩衝地帯を設けたという。類焼を途切れさせるためである。
そしてかつて江戸城にあった防火・火除けの神様「秋葉神社」を勧進して、祀った場所が現在のJR秋葉原駅の辺りであったという。
従って、世界のアキハバラの語源は防火の神社「秋葉神社」から始まっているのである。
尤もその防火の神社「秋葉神社」はJR秋葉原駅の開設に伴い、昭和通りの向こう側に移っており、より上野に近い場所に現在は遷宮してしまっているようである。
数か月前に、安田義定公父子と越後之國の関係について調べてきた私は今、その秋葉神社について関心・興味を抱いている。
それは秋葉神社の本拠地が、遠州浜松の春野町に在るからである。鎌倉時代の初頭かつての安田義定公の領国であった、遠江之國の一角にある神社なのである。
八百年前の甲斐源氏の武将、安田義定公とその嫡子義資公の事績や痕跡を「越後之國」に訪ね求めた時に、両者の間に何らかの関係があるのではないかと、私はそのように思い始めたのである。
そのきっかけと成ったのは、義定公の領国・領地には欠かせない神事「流鏑馬」が、かつての越後之國において唯一今でも尚行われているのが、長岡の「金峰神社」であったからである。
「金峰神社」は明治維新の廃仏毀釈による神仏分離政策が行われるまでは、長岡の「蔵王権現」といい、遠州秋葉神社に深く関わって来たとされる修験者界のレジェンドでもある「秋葉三尺坊」の本拠地でもあったのである。
長岡の蔵王権現は修験者の一大道場であったにも関わらず、その立地する場所は新潟平野の信濃川のほとりに在るのだ。
通常、修験者の道場と云えば「出羽三山」を始めとした深山幽谷である。山や谷を周回し回峰することが修験者の修行だから、である。
更に「権現」は山の神の尊称である。
従って修験者の道場と云えば、山々の連なる人里離れた標高の高い山の上が定番である。にも関わらず長岡の蔵王権現は海に近い平野の河川の脇に在るのだ不思議なことである。
またその修験者の道場である神社において、武士の武芸につながる流鏑馬の神事が執り行われている、というのである。これもまた非常にレアなケースである。
それにその神事は全国で祇園祭が行われる7月中旬に行われるである。しかも地元の伝承では流鏑馬と共にかつては屋台=山車も出たし、傘鉾の巡行もあったとされている。
いずれにしても長岡の蔵王権現は不可思議なことの多い神社であった。
そしてその神社に私は安田義定公の影を感じるのである。嫡子義資公の領国であった越後で唯一行われている、祇園祭と重なる「流鏑馬の神事」だからであり、「秋葉三尺坊」は義定公父子と同時代に活躍したと伝承されているからである。
そのようなことがあって、『安田義定父子と甲斐之國、越後之國』を書き終えてしばらくして落ち着いた今、いよいよこの疑問を明らかにすべく、新しいアクションを始めることにしたのであった。
そしてその答えは遠州に在るに違いないと、私は感じていた。
平成から令和へと替わる長いGWが終わって、世の中も私自身も落ち着き始めたタイミングで、梅雨に入る前の時季に私は久しぶりに遠州を訪れることにしたのであった。
まだ梅雨入りにはしばらく間があった5月の末に、私は東京駅から新幹線の各駅停車である「こだま」に乗って、遠州の玄関口である掛川に向かった。一時間半ほどで着いた。
宿は二年ほど前に来た時に、地元の郷土史を研究している元日本史の高校教師から紹介されて、好印象を抱いていたビジネスホテルにした。
4時過ぎにホテルにチェックインした私は、待ち合わせ迄3時間近くあったのでひと眠りすることにした。新幹線の中でビールを飲んだこともあって、ベッドに横たわったらすぐに眠りにつくことが出来た。
6時半前に目が覚めた私はすっかり酔いが覚めていた。
それからゆっくりと支度をして、待ち合わせの天竜浜名湖鉄道の掛川駅改札口下にと私は向かった。
程なくして待ち人が現れた。森町教育委員会の黒島さんである。
黒島さんは一人の青年を伴っていた、彼の部下である。名前は先山さんと言った。黒島さんの下で働く教育委員会のスタッフで、30代前半だという。
二年前の部下であった鹿藤さんは今は違う部署に異動に成った、と云う事であった。
私達はまだ明るい掛川の街を黒島さんの先導で歩いた。夕ご飯を食べるためであった。
掛川駅から7・8分で着いたその店は住宅街の中に在った。掛川城より西側7・800mの距離といった処であろうか・・。
黒島さんの後をついて行った私たちが入った店は、個人住宅を改造して創ったのではないかと思われる、こじんまりとした居酒屋というか小料理屋であった。
黒島さんの姿を見つけた白髪頭の女将はしわくちゃの顔をほころばせて、私たちを迎え入れてくれた。黒島さんのなじみの店のようであった。
奥まった小上がりに落ち着いた私たちは、ひとまずビールを頼み乾杯をした。
四角い顔に眼鏡をかけた先山さんは、少し緊張しているようであった。ひょっとしたら彼は人見知りをするタイプの人なのかもしれない、と私は感じた。
黒島さんと私はそんな先山さんをほっといて、久しぶりの邂逅を喜んだ。黒島さんは、私に言った。
「いつも新しい著作を送ってもらって、申し訳ねぇだね・・」と相変わらずの遠州弁で私に感謝の言葉を掛けた。
ここ二年ほどの間に私は新しい物語を書き上げるたびに、黒島さんにその物語を送っていたのだった。『駿河、遠江之國の物語』『京都祇園神社の物語』『甲斐之國、越後之國の物語』などであった。
遠州森町の教育委員会で長く郷土の歴史や伝統文化に関わって来た彼は、情報の少ない鎌倉時代の領主安田義定公に対して敏感になっていて、私の送った著書をいつも真剣に読んでいてくれたのである。私としても見識のある黒島さんから、その都度感想をしっかりと聞かせて貰えることは参考にも成ったし、やはり嬉しいのである。
つい数か月前にも『安田義定公父子と甲斐之國、越後之國』を、私は黒島さんに送ったばかりであった。私は早速黒島さんに聞いてみた、
「越後の物語はもう読まれましたか?」と。
「一応ザッと斜め読みをしたとこだで、まだちゃんとは読んじゃインだよ申し訳ねぇ・・」黒島さんは正直に応えた。
「GWはいろいろイベントがあったりして忙しかったでしょうから・・」私はそのこと自体にはあまりこだわっていなかった。黒島さんであれば時間のある時に改めて、じっくり読んでくれるであろうことを、私は知っていたからである。
「だけんが立花さん、今回の物語の後ろのほうに書いてあった『舞楽』ンところは真っ先に読んだだよ。俺の専門領域だで興味があるだよ・・」彼はそう言ってビールを飲んでから、私をじっと見て
「実は根知・山寺の『おててこ舞』のコンだけんがね、俺はあそこには10年ばっか前に見に行ってるだよ『おててこ舞』を観に・・」と言った。
「ホウそうなんですか、それはまた・・」私は、糸魚川の北アルプスのふもと長野県との県境近くの、山狭の集落の事を思い出しながら、そう言った。
「静岡で、全国の伝統芸能に関するイベントがあってね、そん時に森町も会場の一つに成っただよ。そのイベントで全国のその筋の参加者に、森町の伝統舞楽のお披露目もやっただけんが、そん時に招待した舞楽が幾つかあってね。その際新潟の根知・山寺の『おててこ舞』も招待しただよ。で、その下見に行ってきたってわけさ、打ち合わせも兼ねてね・・」黒島さんが言った。
「なんかきっかけがあったんですか?そのぉとても珍しい舞楽だったとか・・」私はなぜ糸魚川のその「おててこ舞」を選んだのか気になったので、聞いてみた。
「いや紹介してくれる人がいただよ。東京の大学の先生で民俗学に詳しい、ちょっとした知り合いの人でね・・。マァその人に相談したら、『おててこ舞』を紹介してくれたってわけさ・・」黒島さんがそう言って教えてくれた。
「ハァそいう事でしたか、特に糸魚川の舞楽に何らかのご縁があったとかいう判じゃないんですね、ちょっと残念ですね・・」と私はそう言ってから、更に続けて
「実は糸魚川は舞楽が盛んでしてね、国の無形文化財に成っている伝統行事が三つもあるんですよ、一つの街の中に・・けっこう珍しいでしょ?
あの物語にも書いておいたんですが『おててこ舞』の他に『天津神社の舞楽』『能生の白山神社の舞楽』がそうなんですけどね・・」と続けた。
「いや申し訳ねぇ、さっきも言ったように斜め読みしかしてねもんだから、『おててこ舞』の他は・・」黒島さんは頭を掻きながら、申し訳なさそうにそう言った。続けて、
「それはそうと森町にも国の無形文化財に成ってる舞楽があるだよ。こっちもやっぱり三つでね『小國神社の舞楽』『天宮神社の舞楽』『山名祇園神社の舞楽』っていうだ。
尤も山名の『祇園さんの舞楽』は知ってるら?例の京都の祇園祭のコンで・・」と黒島さんは地元の郷土芸能について語った。私は肯いてから、
「そうですね飯田の祇園祭は存じてます。因みに小國神社と天宮神社のってどんな舞楽なんですか?」と改めて黒島さんに尋ねた。
「ん?話が長くなってもイイだか?」黒島さんはわざわざ断りを入れてから話し始めた。
「『小國神社の舞楽』と『天宮神社の舞楽』は、実は一対に成っていてね十二段ある殆ど同じ演目の舞を踊るだけんが、それが『左の舞』と『右の舞』ってコンで踊り方が違ってることと、小國が赤系統の色の衣装・装束を多く付けてるのに対して、天宮のほうは青系統の衣装・装束を多く使ってるって感じでね、両神社の舞は対称的に成ってるだよ・・。要するに一対に成ってるってわけさ・・」
「へぇ、そうなんですか・・。因みに物理的には二つの神社ってどんな感じなんですか?割と近くにあるとか・・」更に私が尋ねると黒島さんは、
「そんなに近いってわけじゃねぇだよ、直線でハァ4・5㎞は離れてるかな・・」黒島さんはそう言って、傍らの先山さんに同意を求めた。先山さんは
「道路でぐるっと回って5・6㎞ってとこですかね・・」と肯きながら応えた。
「そうですか十二段の舞ですか・・。ところで、そんなに離れていて一対に成ってる舞楽って、どんな謂われというか経緯があるんですかね?」私はちょっと興味が湧いて聞いてみた。
「実はね、その小國神社と天宮神社は二等辺三角形の底辺のような関係に成っとってね。その頂点に『本宮山』という山が在るだよ。
『本宮山』は東海道から見上げても必ず道行く人が目にするくらいの山で、遠州を代表する象徴的な山だけんが、それが三角形の頂点に成ってるだよ・・」黒島さんはテーブルの上に二等辺三角形を描きながらそう説明した。
「はぁ・・」私はそう呟きながら、目でその先を促した。
「この二等辺三角形の関係は、熊野の聖地『本宮』『新宮』『那智の滝』をイメージしたもんで、遠州では『本宮山』『小國神社』『天宮神社』がそれぞれに該当してるだね・・。
まぁ密教の曼陀羅界をイメージした関係に在るのさ、その二等辺三角形はね・・」黒島さんはそう説明したが、私には今一つ良くは理解できなかった。
二つの神社がその山の二等辺三角型の底辺の二つの関係に在ることは、何とか理解したのだがその意味するとこはイマイチ理解できなかった・・。
「まぁ平安時代の密教の宗教観が背景にあって、二つの神社が一対に成ってるって事かな、一言でいえば・・」黒島さんが話をまとめるように、そう言った。
「あまり良くは判らないんですが、とにかく二つの神社の舞楽は『陰と陽』とか『阿と吽』『右と左』『赤と青』といった感じで、とりあえず一対に成ってるってことなんですね・・」私が確認の意味で尋ねると、黒島さんは、
「まぁそういうコン、に成るだね・・」と言って大きく肯いた。
「二つで一つの関係だとすると、無形文化財としての認定の対象も別々ではなくって、二つでワンセットのように捉えられているってことなんですかね・・」私がそう言うと、またもや黒島さんは大きく肯いて、
「ん!その通り・・」と力を込めて言った。
「そうすると小國神社と天宮神社は、創立された時代なんかは同じ時期とかに成るんですか?その『本宮山』とセットだとすると・・。現在の場所に二等辺三角形の底辺の関係で鎮座するように成ったのは・・」私が更に尋ねると黒島さんは、
「いや、それが必ずしもそうでは無いようなんだな、実は・・」と歯切れが悪くなった。
「ん?というと、どちらかの方がはるかに古いとか、新しい方が後から遷宮して現在の場所に移って来たとか、計画的にその場所に配置したとかそう云った事ですか?」私が更に突っ込みを入れると、黒島さんは
「遺跡なんかによると、天宮神社のほうがはるかに古くから在って地域の産土神でもあったようだでね。ほれに縄文時代の遺跡も出たりしてるだよ・・。
後から遅れて出雲辺りからやって来たのが小國神社だったようで、古文書や伝承に依るとそんなふうに書いてあるだよ」と教えてくれた。
「あっ、そういえばその話以前聞いたことがあるような・・。確か鹿藤さんが言ってませんでしたか、社伝では六世紀ごろに出雲から刀鍛冶を連れてきたとか・・」私は二年前に黒島さんの部下の鹿藤さんが言ってたことを思い出してそう言った。黒島さんは肯いて同意した。
「因みにそれはいつ頃と云う事に成ってるんですか?小國神社が今の場所に移ったのは・・」私は黒島さんに尋ねた。
「はっきり何時いつとは言えんけんが、平安末期頃らしいとは云われてるだよ」黒島さんも明確には、確認が出来ていないようだった。
「そうなんですか、ところで現在の場所に移る前小國神社がどの辺りに在ったかは、判ってるんですか?」と更に私は聞いてみた。
「ウンそれは判ってるだよ、古文書なんかに書いてあってね。『円田』って云って森町の中心部をちょっと西側に寄った場所で、草ヶ谷の金山神社の西南数百mって感じかな・・。割と稲田に近い場所に成るだよ、その名前の通り・・。
その円田に八雲神社ってのが在ってね、どうやらそこら辺に鎮座していたらしいだ・・」と黒島さんが教えてくれた。
私は二年前に甲州山梨の郷土史研究家達と訪れた、旧金山神社の在った草ヶ谷を頭に描きながらその場所をイメージして、
「それって天竜浜名湖鉄道のほうに成るんですかね、確か円田駅ってのが在ったような・・」私が古い記憶をたどりながらそう言うと、二人は肯いて肯定した。
「その円田駅の真ん前に在るんですよ八雲神社は・・」先山さんが珍しく口を挟んできた。
「先山君の家、円田に在るだでな・・」黒島さんがフォローした。
「なるほど、そうすると太田川の北北西で、敷地川との間に挟まれてる田園地帯って事に成るんでしたか?確かあの辺には鴫や鷺がワリカシ沢山、田んぼにいたような・・」私がまた記憶をたどりながらそう言うと、二人はまた肯いた。
「よくそんな細かいコンまで覚えてるじゃん、二年も前のコンだらに・・」黒島さんが感心するように言った。
「いやいや鷺や鴫を田んぼで見ることなんて、めったにないことですから印象に残ってるんですよ、それに太田川の南は例の山梨地区でしょ?袋井の・・。
僕たちが金山衆の灌漑土木工事で新田の開発をやったんじゃないかって、そう想ってる・・」私がそう言うと、黒島さんは肯いた。
「袋井の山梨地区が、その金山衆の土木工事で開発したっていうんですか?」先山さんが驚いたようにそう言った。黒島さんは肯きながら、
「立花さんや二年前に一緒に来た山梨の郷土史研究家達が立ててる仮説だけんがな、あ山梨って言っても袋井のじゃなくって、甲州の山梨な・・」黒島さんはそう言って、先山さんに説明した。
「しかし八雲神社って名前からして、出雲に関係のありそうな名前ですよね・・」私がそう言うと黒島さんは肯いてから言った。
「そうそンとおりで、その八雲神社の社伝には出雲からやって来たことや、本宮山の麓の今の場所に遷宮したコンが書いてあるだよ、古文書なんかにな・・。
あそれからそん時に立花さんが大好きな八幡神社も、一緒に円田から移ったって言われてるだよ・・」黒島さんが何気なくそう言った。
「えっ‼八幡神社も、ですか?」私はびっくりしてそう言ってから、改めて尋ねた。
「その八幡神社の取り扱いは割と大きいんですか?それとも境内社として小さく祀られているとかですか・・」私が尋ねると、黒島さんは
「結構大きく扱われてるだよ・・。それに小國神社の神紋は三つ巴だでな、例の舞楽の時の幔幕なんかにも三つ巴が使われてるだよ、八幡神社のな・・」黒島さんはサラリとそう言って、続けて
「それにな、明治15年の火災で焼失するまで小國神社の後ろには八幡宮が在った、という記録が残ってるだよ。その頃は神社で祭祀を行う時は『本殿』『並宮王子』『八幡宮』の順に行われたと云うコンだ・・」と八幡神社と小國神社の関係を解説してくれた。
私はそれを聞いて、思わず呻ってしまった。
二年前にこの遠州森町に来た時に、市街地に草ヶ谷の金山神社や飯田の祇園神社が在って、更に三倉の標高の高い場所に大久保の馬主神社が在る森町を、安田義定公の遠州の本拠地の一つだと疑わなかったのだが、その本拠地にどうしてか大きな八幡神社が見つからなくて、ずっと疑問に思っていたからであった。
富士山西麓の「金ノ宮神社」や浅羽の「芝八幡神社」のように、その領地の中心になるような八幡神社がなぜ森町では見つからないのか、ずっと私は不思議に思っていたのだった。
それがもし円田地区に在って小國神社と一緒に遷座したとすれば、草ヶ谷の旧金山神社からそんなに遠くない場所に、森町の拠点と成る八幡神社が在ったことに成り、私の長年の疑問は解決する事に成るからだ。
「そうするとですね、黒島さん。その八幡神社は義定公が創った神社だと考えることは出来ませんか?その円田の八雲神社の近くに在ったと云われ、のちに小國神社と一緒に本宮山の麓に遷座したという八幡神社は・・」私は自分の出来立てホヤホヤの仮説を黒島さんにぶつけてみた。
「ん?どうしてそう思うだい?立花さん・・」黒島さんは私のその説について、その根拠を確かめるように理由を聞いてきた。
「ええ、それはですね・・」私はこの問題についてはちょっと気合を入れて議論することに成るだろうと思い、、ビールをグイッと飲み干して準備した。
*黄色:「上:本宮山」「左:小國神社」「右:天宮神社」
*赤色:「円田:八雲神社」
*青色:「上:草ヶ谷の旧金山神社」「下:飯田祇園神社」
「それはですね、一番の理由は八幡神社が祀られているから、ですね。ご存知のように義定公が遠江守に成るまでは平家の國守が長い間遠州を治めてましたでしょ。
更に義定公亡き後の遠州の國守は、北条時政の一族が続けたわけですよね。北条氏は平氏ですから、源氏の氏神は祀らないわけですよ。
と云う事は平安末期から鎌倉期に掛けて、源氏の氏神八幡神社を祀った可能性があったのは義定公しか居ない事に成りませんか?それが一番大きいですね」私はそう言って二人に確認して、更に話を続けた。
「次に小國神社が現在の場所に移るまで在ったとされる円田地区は、金山神社や飯田の祇園神社の中間的な場所といってよい位置になるんですよね?確か・・。まぁ太田川を挟んで、という事ですけどね。
やはり金山衆の本拠地や祇園神社が近くに在るとすれば、その八幡神社と義定公の関係が当然想起されるわけですよ、平安末期頃の事だとすれば特に、ですね・・。
ご存知なように義定公の領地領国だと、これらの神社はほぼセットで考えられるんです・・」私はそう言ってから、ビールを一口飲み喉を潤した。
「それとですね、実は義定公の嫡男義資(よしすけ)公の領国越後でも、同様の事があった可能性があるんですよ・・」私がそう言うと、黒島さんは私に「で?・・」というような目をした。
「越後の国分寺の事なんですがね、奈良平安時代の越後国分寺や國衙はどうやら日本海を10㎞以上遡った『三郷の長者ヶ原』という場所に在ったらしいんですけどね、そこでは遺跡が出てましてね・・。
ところがその国分寺や國衙はその数百年の間に損傷がかなり進んだらしいんですよね。これはまぁ越後に限ったことではなく、全国的にそうだった様ですけどね・・。
そんなこともあって鎌倉時代の初めに後白河法皇は頼朝に対して、国分寺などの建て替えを命じているんですよ、主に東海道の国々で、でしたけどね。
それに呼応する形で越後之國でも同様の動きがあったわけです、国分寺や國衙を建て替えたり大規模な造築をしたりとかと云う事が、ですね・・。越後は元々頼朝の領国ですしね。
それをきっかけに守護の義資公が建て替えの場所を、内陸部から10㎞以上離れた日本海側の岩殿山の近く、糸魚川に近い場所に移して建て替えた可能性がありましてね・・」私がそう言うと、
「糸魚川って『おててこ舞』のかい?」と黒島さんが反応した。
「マァそうですね、でもおててこ舞の根知・山寺とはかなり離れてますけどね。むしろ糸魚川でも上越寄りの旧能生町の方に在るんですね岩殿山は・・」私がそう言うと黒島さんは、
「その内陸部の三郷とかいう場所から日本海側に、あえて移った理由は何かあったんかい?」と私に聞いてきた。
「ええちゃんとした理由があるんです、越後之國の金山開発はどうやらその糸魚川辺りで盛んに行なわれてた痕跡がありましてね・・。
私自身糸魚川の幾つかの金山神社にも行って確認もしましたし、それに『金山(かなやま)』という名前の山が三か所もあるんですよ糸魚川には・・」私がそう言うと黒島さんは、
「遠州では三倉や鍛冶島辺りに金山が在ったんじゃねえか、って言ってたっけな立花さん・・」と思い出した様に言った。
「ええそうです、この遠州ではですね・・。マァただ遠州ではそこまで沢山の金の産出は無かったかもしれないですよね。たぶん数十年で枯渇してしまったとか、新しい鉱脈がなかなか見つから無かったとかですね・・。
黒島さんが言ってられたように、遠州は金よりもむしろ砂鉄のほうが盛んだと云う事でしたし、金山開発が継続的に行われた形跡が無いようですからね・・。ところがですね、」私がそう言って二人の目を覗き込むように言うと、二人は集中して私の次の言葉を待った。
「ところが糸魚川ではですね、鎌倉時代から始まって室町・戦国と続き、更には江戸時代や明治の中頃まで金や銀の産出が続いたようなんですよ、いずれも今の糸魚川市を中心に、ですけどね・・」
「その裏付けは?」黒島さんは私に具体的な根拠を述べるように短く言った。
「そうですね具体的には『糸魚川銀』や『謙信小判』『高田小判』といった金や銀が、ずっと上越では造られたりしてましてね、金や銀の産出が継続的に続いていたようなんです。それは間違いないんです古文書などに、残ってますから・・。
それに『看聞日記』っていう、室町時代中期に書かれた親王の日記にも、それを示唆することが書かれてましてね、とにかく金や銀の産出はずっと続いたようなんですよ糸魚川では・・。もちろん明治時代の記録は今でもしっかりと残ってますしね・・」私は自信をもってそう言った。
「それは佐渡とかではなくって、あくまでも糸魚川なんですか・・」先山さんが遠慮がちに聞いてきた。
「佐渡は越後ではないんですよ、新潟県ではありますけどね。佐渡が越後と一緒に成るのは明治以降の事です。江戸時代までは明らかに國が別なんです越後と佐渡は・・。幕藩体制の時代だと藩も全然別でしたしね、佐渡は幕府の直轄地『天領』でしたし・・」私がそう説明すると彼はすんなりと理解したようで、それ以上聞いてこなかった。
「で、その糸魚川で金が沢山取れたから、安田義資は国分寺をその岩殿山の近くに移設して創ったと、立花さんは考えたわけだかね・・」黒島さんが確認するように聞いてきた。
「はい、そうです。やはり安田義定親子の領国の経営においては、騎馬武者用軍馬の畜産育成と金山開発は両輪の柱ですからね、その辺はしっかりフォローしたと思いますよ。
だから領国経営の重心も従来の稲作の生産地である内陸部から、より金山開発の盛んな糸魚川の近くに移ったんだと思うんですよ、上越の中ではですね・・」私は推測を交えながらそう言った。
「その辺のコンはこの前貰った『越後之國』の本にも、書かれてるだかね・・」黒島さんはそう言って、ひとまず納得してくれた。
「その通りです。こんど時間ある時にでもジックリ読んでみてください、あの物語の肝の部分でもありますから・・」私はそう言って、更に続けた。
「でそのような越後の前例もあったんですが、一番肝腎だと思えるのはその国分寺や小國神社を、新しい場所に移設したり造営するのには当然の事ですけど、沢山の資金が必要になりますよね?」私はそう言って黒島さんの眼を見た。黒島さんは肯いてそれを認めた。
「と云う事はですね、当然しっかりとしたスポンサーが必要になりますでしょ。
考えや想いがどんなに沢山あっても、やはり造築や移設を可能にする金銭的な裏付けがないと、しょせん絵に描いた餅で終わってしまいますよね・・。
ですから糸魚川の金山開発を始め軍馬の畜産・育成も順調に行って、新田開発なんかも順調に行ってた義定公や義資公だからこそ、それらの事業が可能だったんではないかと、僕はそう思うんですよ・・」長々と私はそのように説明した。
「確かにハァ予算面での裏付けがなけりゃ、でっけえ公共事業は出来んだでな・・」黒島さんは自分の仕事に置き換えて理解したようで、そんなふうに言って私の説明にひとまずは納得してくれたようだ。続けて
「って事は立花さんは、円田から今の本宮山の麓に小國神社が遷宮する時のスポンサーは安田義定だったんじゃねぇかって、そう考えてるわけだな・・」と言ってから、腕を組んで目をつむってじっくりと考え込んだ。
「マァいろんなことを考え併せるとですね、それだけの大事業を執行出来たのは義定公以外に考え付かない、と言ったほうが的確ですね僕には・・」私はそう言った。
ちょっとした沈黙が続いた。
「話は変わりますが小國神社が出雲からやって来た神社だとすると、祭神はやっぱり大国主命って事に成るんですか?」と私は二人に尋ねた。二人とも肯いて、
「その通りです大巳貴命ですから大国主命に成ります」先山さんがハッキリとそう言った。
「そうですか、まぁこれは僕も直接関係があるとは思ってませんけど、糸魚川の主な神社の主祀神は地元の奴奈川姫と、その夫である大国主命なんですよね。出雲から越乃國までわざわざ求婚しに来たという・・」私が呟くようにポロリとそう言った。しかしこの私の呟きに二人は、特に反応を示さなかった。代わりに黒島さんは、
「いや実は俺も安田義定が何らかの形で、小國神社の遷宮に絡んでるかもしれないって、そう想わないでも無かっただよ。でもまぁなんしろ八百年も前のコンだし、ちゃんとした謂われや伝承・古文書の類いも残ってねぇもんだから、イマイチ確証が無かっただ・・。
ん~んそうは言っても、立花さんの話や状況証拠だけではな・・。やっぱり弱いよな・・」そう言いながら、しばらく考えていた。
私はそれをきっかけに、中座してトイレにと向かった。
私がトイレから戻ると黒島さんが新たな話題を振って来た。
「ところで立花さん、前に森に来た時にも言ってたと思うケンが、武藤五郎についてはあれから何か判ったコンあるだかい?」と、遠江之國の國守義定公の目代と私たちが位置づけている武藤五郎について聞いてきた。
「そうですね幾つかありますよ・・」と黒島さんに言ってから、私は具体的な話を始めた。
「一番大きいのはですね、上越市の関川の中流辺りに成るんですが『板倉町』という大字の集落がありましてね、合併する前の旧板倉町です。
そこの住民には武藤姓が沢山いるんですよ。しかも言い伝えでは元武士の家柄だから武藤には武士の武がついている、ということでしてね・・。
更にはその地区に古くからある産土神で、氏神を祀った神社『塚ノ宮神社』の宮司さんは、武藤さんって云うんですけど、その神社の正式名は『塚ノ宮八幡神社』って云ってやっぱり八幡神社なんですよ。
しかも興味深いことにその集落の近くには『武士(もののふ)』とか『馬屋(まぁ)』『荒牧』といった小字の集落が点在してましてね、その奥の山の上には『菅原ノ牧』という古代の官営牧が在ったんですよ。
要するに武藤一族の住む近くに、騎馬武者用軍馬の畜産・育成が行われたと思われるエリアが幾つか在りましてね、僕は武藤五郎の兄弟かいとこかは判りませんが、彼の縁者が義資公に付いて越後に行って定着したんじゃないかって、想像力を働かせているんですよ・・」私がそう言うと、先山さんが、
「上越では武藤って苗字は割と一般的なんですか?」とポツリと聞いてきた。
「イヤそれがそうでもなくって、その合併する前の『旧板倉町』周辺に限って多い苗字なんだそうです・・」私が応えた。
「先ほど言った移転する前の国分寺や國衙が在った場所との関係はどうなってるだい?」黒島さんが確認するように、聞いてきた。
「あ、そうでした忘れてました、近くですよ。いずれの場所も確か『三郷の国分寺跡』を中心に円を描いたとすれば、半径4・5㎞以内にさっき言った地区は全部収まります。
『菅原ノ牧』がちょっと山の中に入って距離もありますけど、他は全部その円内に入ったと思います、確か・・」私がそう言うと、
「とすると、当時損傷が激しかった国分寺や國衙のあったと思われる場所から4・5㎞くらいの場所にその武藤姓の多い板倉町も入っているって、わけだ・・」黒島さんが確認するようにそう言った。私は大きく肯いて肯定した。
「そうか、越後にも武藤氏がな・・」黒島さんはそう言って又腕を組んで暫く考え込んだ。
「ところで上越というのは、かつての越後高田に成るんですよね『越後高田藩』の・・」と先山さんがそう言った。私は肯いて、
「そうです越後高田藩です。徳川家康の六男の松平忠輝が領主だった・・」と言った。
「ですよね。そうするとやっぱり森町と上越とはよっぽど縁があったんですかね、黒島さん・・」先山さんはそう言って黒島さんを観た。
私は何の話をしているのかさっぱり見当がつかなくて思わず、
「と、いいますと?」と二人の顔を交互に見て尋ねた。
「いやね、先山君が云うのは松平忠輝の母親のコンを言ってるだよ。
忠輝の生母は『茶阿局』って言って、ここ森町に居た山田七郎左衛門っていう有名な鋳物師の娘で、それこそ太田川の上流辺りで採れた上質の砂鉄を使って、戦国時代は大砲や石火矢を造ったり江戸時代には寺の梵鐘なんかを造ってた、『駿・遠総鋳物師』の御朱印を家康から貰っていた鋳造家の頭領の娘だで・・」と言って松平忠輝について教えてくれた。
「へぇ~、そうなんですか・・」私がそう言うと、黒島さんは
「家康のもとで金山奉行をやった大久保長安が、付家老に成ってただよ忠輝公の・・」と続けた。それを聞いた私は驚いて、
「えっ!そうなんですか大久保長安がですか・・、彼が絡んでくるんですかぁ・・」そう言ってから話を続けた。
「いや実はですね、大久保長安も結構絡んでくるんですよ、越後の守護義資公に縁があった神社に・・。それに彼は黒川衆にも関りのある人物ですしね・・」私がそう言うと、二人は私をじっと見て、目でその先を促した。
「もともと大久保長安は、武田信玄の下で金山奉行のような事をしてまして、黒川衆とは仕事上のつながりがあった人物なんですよ、配下と云いますか・・。
で勝頼が家康に滅ぼされてから彼は、家康の下でやはり金山奉行をやっていたんです。
因みに彼は金山奉行をやるその前には、検地奉行として家康の命を受けて全国の石高を調査してたみたいですから、きっと有能な官僚だったんだと思いますけどね・・。最後は大老にまで上り詰めてますし・・」私がそう言うと、
「いや、それで安田義資とは・・」黒島さんはそう言って、義資公と大久保長安との関係を尋ねてきた。
「ァはい失礼しました。義資公との関係でしたよね・・」そう言って謝ってから、私は大久保長安とのことを話し始めた。
「大久保長安は16世紀末の時代の人ですから、当然4百年も前の義資公と直接の接点はないんですが、義資公や義定公が当時バックアップしたと思われる上越の『府中八幡神社』や『能生の白山神社』に扶持を寄進してるんですよ、それぞれ百石と五十石とをですね・・。
当時落ちぶれていた二つの神社はその寄進を受けたおかげで息を吹き返した、という事らしいんですよ。古文書にそんなことが書かれてましてね・・。
僕は甲州の金山衆に縁のある大久保長安と、かつての守護安田義定公父子が援助したと思われる両神社との間に、縁しを感じたもんですから・・」私は言った。
「因みに、義定公父子とそれらの神社との間にはどんなコンが推察出来ただかい?立花さん・・」黒島さんがより詳しい説明を求めてきた。
「そうですね、多少長くなってもいいですか?」私はそう断りを入れてから、両者の関係について話す事にした。
遠州小國神社祭礼
『 吾妻鏡 第六巻 』 文治二年(1187年)五月二九日
『全訳吾妻鏡1』298ページ(新人物往来社)
「神社仏寺興行の事、二品(源頼朝)日来思し召し立つの由、かつは京都(朝廷)に申さるるところなり。かつは東海道においては、守護人等に仰せて、その國の惣社ならびに国分寺の破壊、および同じく霊寺傾倒の事等を注さる。 これ重ねて奏聞を経られ、事の體(てい)に随ひて修造を加へられんがためなり。三好善信・藤原俊兼・藤原邦通・二階堂行政・平盛時等を奉行として、今日面々に御書を下さると云々。」
註:( )は著者記入
『吾妻鏡』にも明らかなように、平安時代や鎌倉時代初期においては、奈良時代に建てられた神社仏閣や国分寺は、創建以来四・五百年は経過しており地震や台風などの自然災害や風雪、更には戦乱などによって少なからぬ物理的な損傷があった事が窺われ、それを認識していた後白河法皇の朝廷の命令によって、平氏に代わって政権を握った新たな武家の頭領頼朝に対して、このような賦役が課されたのであった。
「糸魚川の神社の内現在でも舞楽を継承しているのは、黒島さんご存知の『根知・山寺の日枝神社』の他に、『糸魚川の天津神社』と『能生町の白山神社』とがあるんですがね、この三つの神社にいずれも金山衆の痕跡がありましてね・・」私がそう言って二人を見回すと、黒島さんは目で先を促した。
「この内『天津神社』は糸魚川のほぼ中心部に在って、糸魚川でも最も歴史のある神社のようなんですが、こちらの春の大祭の舞楽はどうやら安田義定公父子ないしは黒川衆の援助を受けたと思われる形跡があるんですよ。
具体的にはですね、祭りの舞楽で使われる衣装・装束や神輿・舞台装置に使われるものには、殆ど三つ巴の神紋が使われてましてね、源氏の氏紋の八幡紋をいたるところで確認することが出来るんですよ。
更に一番驚いたのはですね『振鉾(えんぶ)』と云われる十二段あるうちの一番初めの演目の衣装の家紋は、何と花菱紋なんですよ。
ご存知だと思いますが安田義定公の家紋なんですよね、花菱紋は・・」私はそう言って、先山さんにも判るように説明した。
「それから三番目の演目は『鶏冠』といって、鶏(にわとり)の烏帽子のような冠を子供たちが被って踊るんですが、これは将に黒川衆の崇拝する神様のご神体である『鶏』そのものなんですよ・・」そう言って、私は先山さんを観た。
黒島さんには前から話していたので基本的な知識はすでに共有していたが、一年ほど前に黒島さんの部下に成った先山さんには、まだそれは期待してなかったからである。
「民族芸能や舞楽に詳しい黒島さんであれば、この十二段の舞楽を見ていただければ僕とは違った視点で、天津神社の舞楽を理解してもらえるかもしれませんけどね・・」私はそう言ってからまた話を続けた。
「デですね、僕が一番金山衆との関りを感じるのはですね、この春の大祭を取り仕切る、今でいえばプロデューサーのような役回りの者がいるんですが、その役を担うのが『鶏爺い』という役なんですね。
緑色の装束を着て赤黒い顔の年寄りのお面をつけてるんですがね、その役が『鶏爺い』ですよ鶏爺い。どうですか、これなんか黒川衆そのものじゃないですか・・」私はそう言って黒島さんを観た。黒島さんはまた目を閉じてジッと考え込んだ。
「すみません、ちょっと教えてほしいんですがその黒川衆とニワトリとにはいったいどんな関係があるんですか・・」先山さんが遠慮がちに聞いてきた。
私は彼が両者の関係をまだ理解していない事に気付いて、説明することにした。
「そうですね、先山さんにはまだお話ししてませんでしたね、では両者の関係をお話ししましょうか・・」私はそう言ってビールを口にしてから、話し始めた。
「まず黒川衆というのはですね、安田義定公の甲斐之國の本貫地牧之荘に在る金山の黒川山、別名鶏冠(とさか)山とも云うんですが、そこで伝統的に金山開発をやっている職能集団でしてね。彼らが義定公の領地・領国における金山開発を担う中核のメンバーなんですよ・・」私はそう言って先山さん見てから、再び話を続けた。
「それでですね、その金山衆は毎年『金山まつり』というのをやってましてね、自分たちが信仰する金山開発の神様に対して、鉱山開発で落盤などの事故が起こらないように祈願したり、数十年単位で枯渇することの多い金の採集が今年もまた継続できますようにって、祈願するんですよね。その彼らの信仰する神様が鶏なんですよ」私がそう言って一息入れると、先山さんは
「そうなんですか・・。因みにニワトリが神様であることは、金山開発に従事する人達って皆そうなんですか?それとも、その黒川衆だけなんですか?」と更に聞いてきた。
「そうですね一般的には『金山彦』や『金山姫』が多いですね、金山開発を行う人達の神様というのは・・。あ、それから本地垂迹の関係では『十一面観音』が信仰の対象に成りますね。で鶏を神様として信奉するのは黒川衆だけなんです・・」私がそう説明すると再び遠慮がちに、
「因みに・・」と先山さんは言って、その先は言葉を濁した。
「何故黒川衆が鶏を崇めるか、ですか?」私が先山さんの尋ねたい事を予測して確認すると、彼は小刻みに何度か肯いた。
「それは、ですね。彼らの活動拠点である黒川山別名鶏冠(とさか)山の天辺、山頂がギザギザの形をしてましてね麓から見ても判るんですが、『鶏のトサカ』要するに鶏冠にそっくりなんですよ。ですから彼らは黒川山の山頂に『鶏冠神社の奥宮』を設置して祀ってるんです。
そして山の麓の里宮で行われる『金山まつり』の時は2・3㎞はある、その奥宮に向かって神輿を担いで山道を登って行くんです黒川衆は・・。そしてその神輿に入っているのは純金で造られた鶏のご神体だった、と云われています。
ですから黒川衆にとって鶏や鶏冠は、ご神体であり尊崇の対象なんです常に・・」私はそう言って、目で先山さんに「お判りですか?」といった。彼は何度か肯いた。
「立花さんはその鶏のご神体が、京都祇園祭の『綾傘鉾』のご神体であることにも注目してただよな、確か・・」黒島さんがそう言って確認してきた。私は肯いて、
「おっしゃる通りです、でそれがまたこちらのお盆の伝統行事『かさんぼこ』のルーツではないかと、そう思うようになったキッカケでもありましてね・・」
私は二年前に、目の前の黒島さんと知り合うきっかけに成った「カサンボコ祭り」の事を思い出しながら、そう言った。
「先山さん、そう云う事で糸魚川の舞楽において『鶏冠の舞』が行われていたり、『鶏爺い』が祭りの采配を採っていると云う事が、僕には黒川衆の関与を大きく窺わせる事になるんです・・」私はそう言って、先山さんに黒川衆と鶏の関係を説明した。そのうえで改めて話を糸魚川の舞楽にと戻した。
「それに一番肝心なことなんですが、僕はこの『天津神社の舞楽』そのものが、実は安田義定公父子を鎮魂するための舞楽ではないか、とそう想っているんですよ。まぁ、これは直感的にですけどね・・」私はちょっと自分が熱くなってるなと感じつつも、一気にその事を口にした。
「安田義定や嫡男の義資の不運を鎮魂するための舞楽だ、ってわけだかい?」黒島さんが聞いてきた。私は大きく肯いて、
「はい、その通りです。とりわけクライマックスの『陵王の舞』は、理不尽にも頼朝によって誅殺された嫡男義資公の事を悼む、義定公の心情を現わしているのではないかって、そんな風に感じるんですよ、あの舞を見ていると・・。
例の『五噫(ごい)を歌う・・』と『吾妻鏡』に書かれていた場面をですね、彷彿させるわけですよ僕には・・」私がそう言うと黒島さんは、
「安田義定一族が滅亡させらるキッカケに成ったとかいう場面だったかい?」と言って『吾妻鏡』のその箇所について話した。私は大きく肯いてから、話を続けた。
「その通りです、しきりに『五噫を歌』っているのが反逆の証だと、まぁそんな風に書かれている場面ですね・・。
で僕はあの舞楽自体が義定公父子への鎮魂の舞楽じゃないかってですね、そう想ってるわけです。黒川衆の想いがたっぷり籠った、ですね・・。
それに『陵王の舞』の前に行われる『破魔弓の舞』や『太平楽の舞』などで弓矢を放ったり、剣を交えたりする場面が登場するのは、義定公や義資公の源平の闘いを象徴しているように、見ることも出来ますしね・・。
またですね『陵王の舞』というのは『陵王』ですよね陵王、要するに『陵王』というのは国の王すなわち『國守』でもあるわけですよね。ですから『陵王の舞』とは『國守安田義定公の舞』という意味もあるんではないかと・・」私はそう言って、二人が理解してるかどうか確認した上で、さらに続けた。
「それと天津神社の舞楽は、大阪四天王寺の舞楽を参考にしたという伝承が残ってるんですが、それはひょっとしたら四天王寺の舞楽が、聖徳太子一族の『鎮魂のための舞楽』であることと関係してるのかもしれないと、私は推測しています。
両方とも『鎮魂の舞楽』という点では共通していますからね・・。そのいきさつを知ったうえで参考にしたのかもしれないなと、まぁそんな風にも想ってるわけです」私はそう言って四天王寺との関係を述べた後で、
「それに拝殿や宝物殿なんかにも三つ巴の紋がやっぱり使われてましてね・・。至る処に源氏の氏紋がみられるわけです天津神社では。
尤もそれは能生町の『白山神社』や根知・山寺の『日枝神社』にも同じことは言えるんですけどね・・。
因みに『白山神社』には、立派な石灯篭が階段を昇った鳥居近くの、狛犬のすぐ後ろに在るんですが、それにもまた三つ巴紋が透かし彫りにしてあるんですよ・・。
更にもちろん白山神社の幔幕や屋根瓦にも、三つ巴紋がありますしね・・」私がそう言うと、黒島さんは
「で舞楽のほうはどうなんだい?」と私に聞いてきた。
「白山神社の、ですか?」私は確認した。黒島さんは肯いた。
「そうですね『白山神社の舞楽』は『天津神社の舞楽』と演目はほとんど同じで、十二段構成に成ってましてやはり同様の傾向が窺えます。
尤も白山神社の場合は舞楽の構成もそうなんですが、神社の在る能生町を流れる大きな河川である能生川を溯った場所に、上越の金山衆の本拠地があったんじゃないかと、僕は想ってましてね・・。
そのように推測することに成った根拠と成った神社が、固まって在るんですよ。その辺りに集中してるというか・・」私がそう言うと黒島さんは、
「具体的には?」と短く聞いてきた。
「ァはい具体的にはですね、その能生川の中流に『藤後の八坂八幡神社』『槙の金山神社』『下倉の駒形神社』という三つの神社が、半径1㎞に満たない範囲に集中して鎮座してましてね・・。八幡様と祇園神社・金山衆の神社・馬絡みの神社がそろい踏みしてるんですよ。これだけ揃ってますと私にはこのエリアが越後之国の守護義資公にとっても、重要な拠点だったんじゃないかって、そう想えて来るんです。
で、その能生川の川下で日本海に近い場所に、例の『白山神社』が在るわけです・・」私がそう言うと、黒島さんは、
「確かに、安田義定に関係しそうな神社が集中してるのは判るけんが、何か物的証拠とかは挙がってるだかい?」と聞いてきた。
「そうですね、幾つかありますよ。例えばですね『八坂八幡神社』には、三つ巴紋と共に神社の天辺の辺りに花菱紋が在りましてね、義定公の家紋ですよね。
それから『槙金山神社』の宮司の家は『金山さん』という屋号なんですが、現在は仕事の関係で神職を廃業したらしいんですが、以前はその神社の宮司を代々長年に亘って務めてきたと云う事です。ですからその家は金山衆の末裔だと思われるんですよ・・。
更にですね、その神社から能生川に下った辺りに『金堀場』と呼ばれる場所があって、大昔そこでかなり良質の沈金が採れた、といった伝承が残ってるんですよ今でも・・」私がそう言うと先山さんが、
「沈金ですか?」 と聞いてきた。
「あ、ハイそうですよ沈金。ご存知のように金はとても重量のある重い物質ですから、河川の曲がりくねった場所に沈金してることが多いんです。
『續日本紀』にも書かれてますが、かつて8世紀の頃に富士市の田子ノ浦でも同様のものが採れた、とあるようにですね。
上流に金が在ると川下で沈金が採れるんですよ。太古から堆積された砂金が手つかずであった場所ではですね・・」私は何でもない、というようにそう言った。
「ん!『續日本紀』にそんなコンが書かれてただかい?」と黒島さんが聞いてきた。
「ええそうです。このことは二年前にこちらに来た時にいらっしゃった、横須賀さんが教えてくれたことですけどね・・。
因みに田子ノ浦の場合は、富士金山の長者ヶ岳の金が潤井川によって運ばれた、太古からの金が沈金していたって事でしてね。
で能生川の場合は、先ほど言った糸魚川に在る三つの『金山(かなやま)』の内の『裏金山』が川を溯って行くと在りましてね、そこから流れ着いた沈金だと想ってます僕は・・」私は一気にそう言って、能生川中流の槙「金山神社」周辺の事について二人に説明した。
「なるほどなそんなコンがあっただかい・・。で立花さんはその『白山神社の舞楽』はその金山神社周辺に本拠地を置いた、越後之国の守護安田義資の金山衆の影響があるんじゃなかったか、ってそう思ってるわけだ・・」黒島さんが言った。私は肯いて、
「おっしゃる通りです、要するに彼らが『白山神社の舞楽』のスポンサーに成っていたんじゃないかと、まぁそんな風に思ってるわけです僕は・・。
あ、それから先ほどの国分寺や國衙の岩殿山周辺への移設は、こういった糸魚川の金山開発や糸魚川に在った、官営牧の『羽生ノ牧』なんかの影響もあって、上越でも糸魚川というか能生町により近い、岩殿山近くに移ったんじゃないかって、そんな風に考えているわけです・・」私はそう言った。
「う~ん、なるほどなほう云う事か・・。確かに伝統的な芸能やお祭りが変容する時は、有力なバックアップというかスポンサーが居ないと、なかなか盛んに成らんちゅうコンが多くあるだよ。ほりゃ確かにそうだゎ・・」黒島さんが言った。
「そうですよね、京都の祇園祭なんかも同じことがありましたよね。
応仁の乱でそれまでの権力者の武士たちが疲弊した後に、京の街の復興で潤った町衆が新しいスポンサーに成って、新しいバージョンの祇園祭を創って来ましたからね・・」
私は黒島さんの云う事を京都祇園祭に当てはめた時に、すんなりと理解することが出来た。と同時に私の立てた「白山神社の舞楽」や「天津神社の舞楽」さらには「根知・山寺の舞楽」を盛んにしてきたのは、糸魚川の金山開発で潤った金山衆だったのではないかという思いが、一層強く成って行った。
「ところでさっき立花さんが言ってた『天津神社の舞楽』と『白山神社の舞楽』との間には関連性のようなものがあるかもしれんと言ってたけんど、その点はどうなんだい?」と黒島さんが聞いてきた。
「そうですね僕は『天津神社』と『白山神社』の二つの神社の舞楽が、共に十二段の構成であるといった点や、金山衆や守護の義資公がバックアップしてそのお祭りを盛んにした点などを考えて、両者に共通性があるんじゃないかってそう考えてるんです。
で、その糸魚川の舞楽はひょっとしたら、ここ遠州の舞楽を参考にして始まったのかもしれないんじゃないか、とちょっと考えてましてね・・」私はそう言って糸魚川の舞楽と遠州の舞楽の関係について、自分の考えている仮説を話した。
「ん?と云う事は・・」黒島さんが言った。
「あハイ、義資公や金山衆は遠州の『小國神社の舞楽』や『天宮神社の舞楽』それにひょっとしたら、『山名祇園神社の舞楽』も含めてそれらを参考にして、新しい領国に成った越後之國糸魚川に持って行ったんじゃないか、ってちょっと考えてるんですよ。多分に直感的ではありますがね・・」と私は言った。
「因みに安田義資が越後の守護に成ったのはいつだったっけな、立花さん・・」黒島さんはそう言って私に聞いてきた。
「文治元年の1185年の事ですね、義資公が頼朝の領国越後の守護職に成ったのは・・。ですから義定公が遠江守に成って5年後、と云う事に成りますね・・」私が応えた。
「そん時義資は何歳くらいだったで・・」更に黒島さんが確認してきた。
「確か27歳だったかと思います。で、義定公は51歳だったかと・・」私はとりあえずそう応えておいて、ウエストポーチからメモを取り出し確認した。合っていた。
「フーンそうか、27歳と51歳か・・。27歳じゃぁ若すぎるな・・。安田義定は51歳か、ちょうど脂がのってる頃だな・・」黒島さんは呟くようにそう言った。自分なりに考えを整理しているようだった。
「人生50年と云われるような時代とは言え、さすがに27歳で越後之國一国を統治するのは中々難しいでしょうね・・。僕もそう思いますよ。
まして当時越後の下越地方には平氏の残党といってよい豪族の城氏が、出羽山形近くの山城に拠点を構えてましたからね、しっかり父親の義定公のバックアップが無いと義資公だけでは、とうてい頼朝も守護に任命はしてなかったでしょうね、27歳では・・」私はそう言って黒島さんの懸念をフォローした。
私の話に先山さんは大きく肯いていた。彼は30代前半と云う事もあって、自分の年齢と照らし合わせ思うところがあったのかもしれない、と私は想った。
「ところで義定公には五奉行といってよい重臣が居たことが、山梨の藤木さんからの情報でありましてね、そのことも『甲斐之國、越後之國』には書いておいたんですが、その箇所はご覧になりましたか黒島さん・・」私が確認すると、黒島さんはニヤリとして肯いて、
「ウンあの『義定公五奉行』の箇所は読ませてもらったよ、例の義定公一族が討滅された時に鎌倉に居た五人衆のコンだら?和田義盛に首を斬られた・・」そう言った。
続けて、
「藤木さんって云ったっけ?甲州市の真面目そうな人な・・。結構よく調べてあるじゃんな、もちろん推測なんだろうけんどな、いや良く調べてるよ・・」黒島さんはしきりに感心しながらそう言った。
「ボクも技監から聞かされて『義定公五奉行』の事は知ってますよ、技監は武藤五郎の事に成ると一所懸命になりますからね・・」先山さんは隣りの黒島さんを観ながらそう言った。どうやら黒島さんはあれからワンランク上がって係長から技監に成っていたようだ。
「そうそう立花さん、その武藤五郎の縁者と思われる森町の武藤家は、代々小國神社をバックアップしていた遠州周智郡の豪族で、長い間小國神社を支えていただよ・・」と思い出したように黒島さんはそう言って、新たな情報を私に教えてくれた。
「ん?そうなんですか・・。そうすると武藤家は武藤五郎が鎌倉で頼朝に誅殺された後でも、遠州では有力な豪族として生き延びていた、ってことですか・・。
でも義定公の遠江之國の目代だった武藤五郎の縁者がそうやって、地元の有力者として小國神社を支えていたとすると、やっぱり小國神社を円田から本宮山の麓の現在の場所に移したのは、義定公だったかもしれませんね。義定公と武藤五郎の関係を考えますと・・。
それに先ほど言われた八幡宮が明治15年だかの大火で焼失するまで、小國神社の有力な境内社だった・・とすると・・」私は黒島さんにそう言った。
私は武藤五郎の縁者の一族が、彼が処刑された後も尚小國神社の後見役のような役割をし続けたと聞いて、小國神社の遷宮に深く関わったのは義定公に違いない、という想いを一層強くしたのであった。
糸魚川天津神社の春の大祭を仕切る「鶏爺い」
『吾妻鏡 第十四巻』 ―安田義定梟首―
『全訳吾妻鏡1』307ページ(新人物往来社)
(建久四年八月十九日)安田遠州(義定)梟首。去年子息義資を誅せられ、所領を収公するの後、しきりに五噫(ごい)を歌ふ。また日来好(よしみ)あるの輩類に相談、反逆を企てんと欲す。
縡(こと)すでに発覚すと云々。 ( )は筆者の註
「五噫を歌う」とは世間に認められないことを嘆く事だという。安田義定公は艶書(ラブレター)事件などという言い掛りのようなことで、自らの後継者として育てて来た嫡男の義資公が斬首されたことがよっぽど悔しく、納得もいってなかったのであろうか。
その想いの強さが近親者に対して「しきりに五噫を歌う」という行為に成ったのではなかろうか、と私には思われるのである。
【 舞楽の演目比較 】
| 遠州森町の舞楽 | 糸魚川の舞楽 | 四天王寺の舞楽 |
段順 | 小國神社&天宮神社 | 飯田祇園神社 | 能生白山神社 | 天津神社 | 根知山寺 |
一段 | 連(えん)舞(ぶ) | 八初兒(やっぱち) | 獅子舞 | 振(えん)鉾(ぶ) | くるいの舞 | 振(えん)鉾(ぶ) |
二 | 色香(しきこう)舞(まい) | 神子(みこ)舞(まい) | 振(えん)鉾(ぶ) | 安摩(あま) | おててこ舞 ①露の踊②若衆の踊③扇車④四節踊り⑤三国踊り⑥百六 | 蘇利古 |
三 | 蝶舞 | 鶴 | 候礼 | 鶏冠 | 胡蝶 |
四 | 鳥の舞 | 獅子 | 童羅利 | 抜頭 | 甘州 |
五 | 太平楽舞 | 加陵(かりょう)鬢(びん) | 地久 | 破魔弓 | 鏡の舞 | 加陵鬢 |
六 | | 竜(りょう) | 能抜頭 | 児納蘇利 | 花の舞 | |
七 | 安摩舞 | 蟷螂(とうろう) | 泰平楽 | 能抜頭 | 弓の舞 | |
八 | 二の舞 | 優填(うてん)獅子(しし) | 納蘇利 | 華籠 | 鉾の舞 | 散華 |
九 | 抜頭舞 | | 弓法楽 | 大納蘇利 | 万才 | 万歳楽 |
十 | 陵王舞 | | 児抜頭 | 太平楽 | 種まき | 太平楽 |
十一 | 納蘇利 | | 輪歌 | 久宝楽 | 注連の舞 | 貴徳 |
十二 | 獅子舞 | | 陵王 | 陵王舞 | 獅子の舞 | 獅子 |
番外 | 花の舞 | | | | | |
*青色は、共通する演目
「糸魚川の舞楽」と「遠州森町の舞楽」 には共通する演目がかなり多く、類似性を感じるのであるが、その中でも「陵王の舞」に私は注目している。
一つは「陵王の舞」が、伝承では参考にされたという「四天王寺の舞」には含まれて無いという点である。
更には、「森町」においては後半の十段目の演目であるのが「糸魚川」においては十二段目の最後の演目として演じられている、という点である。
最終楽の演目として「陵王の舞」を配しており、エンディングを飾るのである。しかもその舞は「鎮魂の舞」といった、ある種の無念さや哀愁を感じさせる舞楽でもあるのだ。私はこれらの点に、糸魚川の舞楽をプロデュースした人達(金山衆?)の演出意図を感じるのである。
天津神社陵王の舞 
小國神社の舞楽
「それでですね黒島さん、その『五奉行』の中には当然武藤五郎や芝藤三郎といった遠州ゆかりの重臣が含まれてますが、その他に宮道遠式という人物や麻生平太とかもいるんですがね。
彼らはそれぞれ『前右馬允』や『大掾』と言って、朝廷の馬を管理していた高級官僚であったり、常陸之國で目代の下で郡奉行を管理していた人物と思われるんですが、彼らの痕跡が越後にも残ってましてね、とりわけ宮道遠式の大きな痕跡だと思われる遺跡が在りましてね・・」と私は言って、話を義定公の「五奉行」にと戻した。
「ほう、で?」と黒島さんは短く聞いてきた。
「現在の上越市の日本海側に比較的近い場所で、越後平野の代表的な山である米山の麓といってもよい場所に『浦川原地区』ってのがあるんですよ。そこで平安時代末期から鎌倉時代の頃と思われる遺跡が発掘されたんですよ『浦川原の境原遺跡』って言うんですけど・・」私がそういうと黒島さんは、「で?」 というような目で私にその先を促した。
「その遺跡は『巨大な厩の遺跡』とでもいうべきものでしてね、常時100頭近くの馬をそこで飼ってたらしいんですよ・・」私がそういうと、黒島さんもさすがに驚いて
「ほう、それはそれは・・」と言って、身を乗り出してきた。先山さんは傍らで目を見開いて、私を注視していた。
「平安時代にですね、それだけの規模の厩が在ったのは、都に近い畿内の京都や奈良だけなんですよ、少なくても地方ではまだ見つかって無いんです・・。
地元の教育委員会などは越後の当時の有力な豪族が作ったものかもしれない、とか言ってるんですがね、私はその巨大な厩を作ったのは越後の初代守護の安田義資公の下で馬奉行をしていた宮道遠式じゃないか、と思ってましてね・・」私がそう言うと、黒島さんが
「フム・・、でその根拠は?」と短く聞いてきた。
「ァはい、その根拠はですね・・。まずは100頭もの馬を平安末期や鎌倉時代に京の都から直線距離でも4・500㎞以上離れた越後で、朝廷の飼育/管理する仕組みに似た巨大な厩を造ることが出来た人物が、地方の豪族ではありえないという点ですね・・」私がそう言うと黒島さんは、
「確かにそうかもしれンが、その上越のでっかい厩はそんなに京都や奈良辺りで朝廷が管理してた厩に似てるだかい?」と確かめるように言った。
「ええ常時100頭もの馬を飼育/管理する厩は、そもそも朝廷でしかあり得なかったようで、構造の類似性については教育委員会も認めてはいるんですが、何故それと同様の厩が上越の片田舎にあるのか説明がつかないからそんな風に解釈している、といった事の様です・・」私がそこまで言うと、先山さんが
「立花さんは、何故安田義資の家来のその宮道何とかだと、思われるんですか?」と聞いてきた。
「そうですね・・。ア因みに宮道遠式は正確には義定公の家来ですね騎馬担当の馬奉行という役割のですね、その彼の出自や履歴が大きく関係してくるんです」私はそう言って、先山さんをじっと見ながら話を続けた。
「宮道という氏はですね、奈良時代の物部氏の末裔らしくて、古くから朝廷で馬の管理や調教、さらには朝廷を守護する騎馬隊といった役務で仕えていた家柄なんですよ・・。
更にですね、彼の役職は『前右馬允』って言うんですがその『右馬允』っていうのは、現在で言えば局長級の役職なんだそうです。
朝廷の馬の管理をする部署でも最高幹部に当たるわけですね、実務においては・・」私がそこまで言うと黒島さんが、
「当時の騎馬というのは、今でいえば戦車とか装甲車と同じだでね。割と重要なポジションだっただよ・・」と補足した。私は大きく頷いて、同意してから、
「そうですよね、おっしゃる通りでしたね。朝廷の騎馬隊を指揮したり官営牧から上がる撰び抜かれた朝廷の馬や、地方の國守からの献上馬を管理したり育てたり、調教をする役所というのは当時では、朝廷の『武』に関する役割としては相当重要なポジションだったわけですよ。
宮道遠式はその部署の元局長クラスの人物だったわけです・・」私はそう言ってから、ビールをグイっと飲んで、のどを湿した。
「ですから宮道遠式はその分野の専門職として、当時の最新の馬の飼育や管理方法も知っていたわけだし、騎馬隊のノウハウも持っていたわけですよ。それから少なからぬその分野の部下達も、当然何人かは従えていたと思えるわけです。
そういった人物が馬奉行として義定公や義資公の領地・領国の、騎馬武者用の軍馬の畜産や飼育の管理、更には騎馬武者軍団の育成なんかを担っていた可能性が高いわけです・・。
と同時にそのような実力や手腕・実績があったからこそ彼は、義定公一族が頼朝によって討滅させられた日に、鎌倉で武藤五郎などと一緒に首を刎ねられたんだと思うんですよね。要するにそれだけ重要な人物だった、という事です。義定公の領地・領国の経営において、ですね・・」私は一気にそこまで話した。
「やっぱり、甲斐源氏は騎馬武者軍団に繋がって行くだかね・・」黒島さんが呟くようにそう言った。
「あ、はいそうですね。以前にも言いましたが甲斐の馬は4世紀頃からずっと続いてますからね。それに聖徳太子の『甲斐の黒駒』や壬申の乱の時の『甲斐の勇者』ですし・・。
伝統もあるしノウハウや人材も延々と蓄積されているわけです。
12世紀末の鎌倉時代初頭であっても、その時点で800年以上は経ってるわけです・・」私は黒島さんの呟きをフォローするようにそう言って、甲斐之國と騎馬の関係を説明した。先山さんにも出来るだけ判るように心がけて・・。
「という事はあれですか、武田信玄の騎馬武者軍団というのは鎌倉時代からの伝統だったってことですか・・」先山さんが確認するように言った。
「そうですね、信玄公の頃のように洗練していたかどうかは判りませんが、その400年位前にすでに甲斐之國には騎馬武者軍団の伝統はあったと思いますよ。
その役割を担ったのが『前右馬允』宮道遠式で、たぶん朝廷を守護する騎馬隊を訓練する時のノウハウなんかも少なからず反映していたんじゃないか、って私は想像しています。義定公の騎馬軍団においては、ですね・・」私がそう言うと、再び黒島さんが、
「その伝統と例の『流鏑馬』とが結びついてくるわけだかね・・」としみじみと言った。私はそれに大きく頷いた。
と同時にその発言で、昨年私の送った『駿河之國、遠江之國』を読んだ後の感想として、黒島さんが遠州地方にかつて多く残っていた「流鏑馬」の神事について感想を述べていたことを、思い出した。
「そういえば黒島さんこの前、今は廃れてしまった遠州の神社で行われていた『流鏑馬の神事』の事を言ってましたね・・」と私が言うと、黒島さんは何度も小刻みに頷きながら
「ほうだよ、ほん通りだよ・・」と言って続けて、
「第二次大戦を境にして、日本の伝統行事なんかもだいぶ廃れたり、やらンくなったりでね・・。まぁ浅羽三社の流鏑馬がいい例だケンがね・・」と言った。
「技監、掛川の垂木ではまだ流鏑馬が続いてますよね・・。確か五年毎の流鏑馬が今年は行われるとか・・」先山さんがそう言って、森町に隣接する掛川市の流鏑馬についての情報を教えてくれた。
「掛川市の垂木ですか?因みにどの辺に成るんですかそこは・・」と私がそう言うと、黒島さんが、
「国道1号線バイパスの北の方になるだよ・・。雨桜神社っちゅうスサノウの命を祭神にしてる祇園神社の神事だで・・」黒島さんがそう言って教えてくれた。
「ァ雨桜神社ですか僕も行ったことありますよ、結構山裾の懐深い場所というか・・」私は想いだしながらそう言った。
「うんほうだよ、だけんど流鏑馬の神事はずっと里側に降りて来た垂木川沿いの集落、下垂木で行われるだよ・・」黒島さんがそう言うと、先山さんが
「垂木川を挟んだ西の山側にある『六所神社』から、川に架かった橋を越えて東側にある馬場で行われるんです『流鏑馬』の神事は・・」と教えてくれた。
「『六所神社』ですか・・」私がそう呟くと、黒島さんが、
「垂木の村に六つ在った神社をそこに集約して『六所神社』として祀ったっていうコンに成ってるだよ・・確かそん中には立花さんがいつもチェックしている『金山神社』も合祀されてたはずだよ、六ケ所の神社っちゅうコンでね・・」と、気になる情報を教えてくれた。私は想わず嬉しくなってニヤリとした。祇園神社に加えて金山神社の存在が確認できたから、である。
「因みにその垂木川という河川は、結構おっきい川なんですか?そのぉ集中豪雨なんかになると氾濫を繰り返すような川というか・・」私はスサノウの命が祀られた祇園雨桜神社の存在理由を河川の氾濫に求めて、そのように聞いてみた。
「大きさはそんなでもないと思いますが、氾濫はたびたびあったようですよ。それが重なって最近河川の改修/改良工事が行われたみたいです、確か・・。
因みにその工事で垂木川は、流れの変更が出来たみたいです・・。
実はうちの親戚が垂木川沿いに在って、屋号が『川原』って言われてるんですがその土木工事で流れが替わって、数百mですが川筋から離れてもう『川原』じゃ無くなったって伯父さんが笑いながら言ってました・・」と先山さんが教えてくれた。
「なるほど、という事は改修されるまではそれなりの水量を誇る河川ではあった、ってことですか。僕の記憶では周囲は穏やかな里山がぐるりを囲んでいたような場所で、そんなに大きな山や川は無かったような、のどかな里といったような処だったと・・」私は数年前に行った雨桜神社周辺の景色を思い浮かべながら、そう言った。
「確かに今の垂木川を見ても、水田のための農業用水って感じでどちらかというとハァ穏やかな流れだでな・・」と黒島さんもそう認めた。
「ところでその流鏑馬が祇園祭の神事として行われている垂木地区には、祇園神社や金山神社が在ったという事ですが、八幡神社は無かったんですかね?その六所神社や馬場の近くには・・。
と云いますのも浅羽町の浅羽三社では流鏑馬が行われた馬場は殆ど、八幡神社に隣接して在るんですよ・・」私は数年前に山梨の郷土史研究家たちと訪れた「芝八幡神社」「梅山八幡神社」「浅岡八幡神社」を思い出しながら、心に浮かんだ疑問をぶつけた。
「いや、そこまでは・・。先山君何ンか知ってるだか?」黒島さんはそう言って、先山さんに確認した。先山さんは首を横に振って、知らないと応えた。
「そうですか、ご存じないですか八幡神社。‥いや残念です」私は呟くように言った。
「因みにその垂木の流鏑馬は、どんな感じの神事なんですか?富士浅間大社の様な『大人流鏑馬』というか、それとも浅羽みたいに『稚児流鏑馬』というか・・」私は二人の顔をかわるがわる見ながら聞いてみた。
「小学生ぐらいの子供の流鏑馬が中心ですが、最近はパフォーマンスで大人のプロの流鏑馬も始めたようですよ・・。なんでもその方が観客受けがするとかで・・」先山さんが応えた。
「ホウそうすると稚児流鏑馬が伝統行事で、最近大人の流鏑馬も取り入れられ始めた、という事ですか・・。という事はやっぱり浅羽三社と同じ『稚児流鏑馬』という事ですね・・」私は同じ遠州のしかも安田義定公が國守を務めた遠州掛川垂木の祇園祭の流鏑馬の神事に、義定公の遠州における本貫地である浅羽之荘との関連性を感じた。
「あ、そういえば垂木は確か國衙領だっただよ立花さん・・」と黒島さんが思い出したようにそう言った。
「えっ、國衙領だったんですか・・という事は・・」私がそういうと黒島さんは、
「そうだよ國衙領だから当然國守安田義定の直接支配地だった、ってコンになるだよ・・」と私の疑問に応えてくれた。
「なるほどそういう事でしたか・・。そしたら垂木の流鏑馬はますます浅羽の稚児流鏑馬との関連性が窺えるわけですね、それに義定公とも・・」私がそう言うと、黒島さんもニヤリとして大きく肯いた。
私はこのことを聞いて、浅羽三社の稚児流鏑馬と垂木の稚児流鏑馬との間が浅からぬ関係にあることを、改めて知った。
と同時に私は掛川市垂木の「六所神社」や「雨桜神社」の流鏑馬の神事が祇園祭の神事として行われているとすると、長岡の「金峰神社の流鏑馬神事」とも何らかの関係があるのかもしれない、との思いが高まった。
「長岡の流鏑馬」は、修験者にとって重要な神社で現在は「金峰神社」と呼ばれているが、明治維新後の廃仏毀釈が行われるまでは「蔵王権現」と呼ばれていた神社の神事であった。
全国で祇園祭の行なわれるこの時期に流鏑馬を行っている珍しい、修験者の神社である。
更に蔵王権現ではかつて、この神事と共に屋台と呼ばれる「山車」や傘鉾の巡行が行われていたという伝承を持つ事から、祇園祭との関連性が大いに考えられる流鏑馬の神事なのである。
私は長岡と掛川の関係に何らかの繋がりがあるのかもしれないと、考えたのである。そしてその場合はやはり、義定公父子の存在がその謎を解くカギに成ってくるのではないかと、そう想っている。
私は両者の神事を、改めて調べてみる必要性を感じた。
そしてまた「長岡の流鏑馬VS垂木の流鏑馬」「垂木の流鏑馬VS浅羽三社の流鏑馬」の関係、それらに繋がってくる安田義定公父子の存在についても改めて調べてみたいと、強く感じたのであった。
「ところで流鏑馬の神事が行われなくなったのは、どうしてなんですかね・・」先山さんがポツリと言った。
「ほりゃぁな、やっぱり第二次大戦の時の馬の供出がデカかっただよ・・」と黒島さんが先山さんに応えた。
「それに農業の機械化や、モータリゼーションの普及も、ですかね・・」私はそう言って黒島さんの意を汲んで流鏑馬衰退の原因についての考えを述べた。
黒島さんは私の話に頷きながら、空になった「芋焼酎」の瓶を女将に示して、
「これと同じのをもう一本、頼むじゃん!」と言った。
私はそれを機にトイレにと向かって、席を立った。
掛川垂木の稚児流鏑馬
私がトイレから戻ってきて、席に着こうとするや否や黒島さんは、
「ところで立花さん、その『五奉行』の事なんだがね・・」と言ってから、
「その中の『前の滝口榎本何とか』の、コンだけんがね」と言って私を見た。
「榎本重兼の事ですか?」と私が聞くと彼は頷いて、
「そうその榎本。彼は確か熊野の豪族の出身だっただかい?」と確認してきた。
「あハイそうです。榎本という氏(うじ)名は熊野の豪族の名前らしいです。それに後白河法皇は、熊野には30数回も行ってますでしょ。
で、その時に近習として仕えたのが縁で『滝口の武者』に成ったんではないかと・・。これも山梨の藤木さんの受け売りなんですがね・・」私はニヤリとして、そう言った。
「『滝口の武者』って、何ですか?教えていただけませんか・・」先山さんが遠慮がちにそう言った。
「『滝口の武者』だか?ほりゃぁな天皇の親衛隊で、御所の清涼殿を守る警護の武士だよ」黒島さんは隣の先山さんに教え諭すように、そう言った。黒島さんはどうやらこの口下手な先山さんのことを、何となく快く思っているように私には感じられた。
「その榎本重兼がどうかしましたか?」私は黒島さんに聞いた。
「いやさ、この遠州は熊野神社とも結構縁があってね・・。尤もこの熊野神社は紀州和歌山のだそうだケンが、出雲の熊野神社にも縁があるだよ遠州は・・」と彼は応えた。
「ほう、そうなんですか?出雲にも熊野神社って在るんですか・・」私は呟いた。
「うん、あるだよ。出雲の一之宮だで奥出雲の熊野神社は・・」黒島さんが言った。
「えっ!てことは出雲には、一の宮神社が出雲大社と二つ在る、ってことですか・・」私は思わず大きな声でそう言った。黒島さんは肯きながら、
「ほうだよ、そん通り」とハッキリ肯定した。
「そういえば先ほど言ってた『八雲神社』でしたっけ、確か出雲から遠州にやってきたという伝承のある神社でしたよね、それに刀鍛冶も確か出雲から連れて来たとか・・」私がそう呟くと二人は大きく肯いた。
「で、その熊野神社との繋がりが?」と私が黒島さんに尋ねると、
「遠州の熊野神社と、榎本重兼とに何らかの繋がりがなかったかと思ってね・・」黒島さんが言った。
「ン?何かあるんですか、黒島さん・・」私は黒島さんが何か考えてる事があるのではないかと思い、聞いてみた。
「うん、二つほどナあるだよ・・」思わせぶりに黒島さんは言ってから話し始めた。
「一つはな、さっき立花さんが言った八幡宮絡みで小國神社が円田から、今の本宮山の麓に遷宮したコンがな、ひょっとしたらほの榎本重兼の影響で、和歌山の熊野三山を参考にしたんじゃねかって、な。まぁホンナ風にちょっと思い始めただよ、立花さんに刺激されて・・」
「義定公がスポンサーに成って、現在の場所に遷宮したかもしれない、って僕が言ったからですか・・。なるほどね・・」私は黒島さんが言うことを少し考えてみた。
確かに國守である義定公の重臣である、榎本重兼が熊野の豪族の出身であるとすれば、そういうこともあるかもしれない、と考えることは出来た。
「なるほどそういう可能性もあるかもしれませんね。一応私や山梨の藤木さん達との間では、榎本重兼は前職が『滝口の武者』であったことから朝廷、とりわけ後白河法皇との太いパイプから、義定公と法皇を繋ぐ役割『京都外交奉行』だったのではないかと、推測していたんですがね・・。なるほど、そういう見方も出てきますか・・」私はそう言いながら、黒島さんの仮説をじっくり考えてみた。
「榎本重兼」が熊野の豪族の出身で、かつて朝廷で「滝口の武者」を務めていて天皇の清涼殿の親衛隊の役務に就いていたとして、その際朝廷の「大内守護」を奉行していた安田義定公と縁が出来、自領の急拡大による人材不足を痛感していた義定公が彼をスカウトして、重臣として登用したのかもしれないと云う事は、あったかもしれない。
その彼に京都の朝廷とのパイプ役=京都外交奉行を主たる任務として任せたとして、それ以外の役割があったとしても、それは不思議ではない。
その役割の一つに、榎本重兼自身の出自である「熊野神社」に関わる役割を任せたとしても、それはあり得る話だろうと、私は考えた。
「確かに黒島さんがおっしゃるように、彼の出自が熊野の豪族である点を考慮して遠州の熊野神社に関わる役務を、義定公が榎本重兼に期待したといった事はあったかもしれませんね・・。ただ・・」私がそこまで言うとそれを遮るように黒島さんは、
「実はね立花さん、二つ目のテーマでもあるだけんが、遠州の地はかなり熊野本宮との関わりがあっただよ・・」と言って私をじっと見た。
「と、言いますと・・」私はその先を黒島さんに促した。
「平治元年の1159年に遠江之國は、熊野新宮大社の『造営料所』に成ってるだよ・・」と話してくれた。
「技監、『造営料所』って何でしたか・・」先山さんが呟くように尋ねた。私も初めての言葉だったので、先山さんと一緒に肯いて、説明を求めた。
「『造営料所』だかい?『造営料所』はな、伊勢神宮だと20年に一度の遷宮があるら、ほして熊野新宮だと33年に一度神社を建て替えるこんが決まってるだよ、昔っからな。ほん時の造営料を負担する領国のコンを云うだよ」と、黒島さんが教えてくれた。
「平治元年って言うと、そのことを決めたのは後白河法皇だったってことですか?」私はとっさにそう閃いて聞いてみた。黒島さんは肯きながら、
「そん通りだよ、もっとも当時は法皇じゃなくってまだ天皇を退位して2年目ぐれぇで、上皇だったはずだよ、確か・・」そう言って黒島さんは、遠江之國が熊野新宮大社の『造営料所』に成ったことを決めたのが、後白河法皇であることを認めた。
「なるほどそう云う事でしたか、後白河法皇と熊野大社や遠江之國ってそういう関係だったんですか・・。
ん~んそうだとすると、当時の義定公は確か1133年の生まれだったから、26歳ぐらいか・・。八ヶ岳の麓から牧之荘に移るかどうかの時期、になるのか・・」私はそのように言いながら、当時の義定公の置かれている状況を、具体的にイメージしてみた。
「マァそんな経緯や関係があって、遠州にはワリといっぺぇ熊野神社の荘園や所領があちこちに出来ただよ・・」黒島さんが呟くように言った。
「あぁそういう事ですか、それで例の『吾妻鏡』の向笠(むかさ)であった、我田引水を巡る義定公と熊野神社の争いがあったりしたわけですか・・」私はそう言って、遠州向笠であったという「水争い」の件を思い出しながら、遠州と熊野大社との関りの深さを理解した。
「ただな、そん件は敷地川西岸の『向笠の熊野神社』っていうのが定説になってるだケンが、俺は向笠の熊野神社じゃ無ぇんじゃねぇかって、ホウ想ってるだよ立花さん・・」と黒島さんは言ってお湯割りの焼酎を口にした。少し間があいた。
私は彼の口が開くのを待った。
「森町飯田の祇園神社の少し北側の小高いところにも、熊野神社が在るだよ」黒島さんはそう切り出して話を始めた。私は具体的に理解するためにタブレット端末を取り出して、森町飯田地区の3D地図を、テーブルで示した。
黒島さんはその3D地図を見て、太田川の右岸のゴルフ場の近くを指さして、
「ここらに熊野神社が在るだよ・・」と私たちにその場所を教えてくれた。
「ん?飯田小学校の近くですよね、この辺り。ってことは飯田の祇園神社が、こっちに成るんですかね・・」私はそう言って太田川沿いに指を南下させて、祇園神社との位置関係を確認した。
「飯田の天王さん」祇園神社は太田川がそれまでの南北の縦の流れから、クッと左折し西方の敷地川に向かう分岐点に成る場所に位置しており、私や甲州山梨の郷土史研究家の西島さんたちが、金山衆が土木工事によって河川の流れを替え、新たな新田開発を行なったのではないかと推察している、袋井市山梨地区の入り口にもあたるのであった。
従って黒島さんが指し示した「熊野神社」はその太田川の流れが左折する箇所に近く、祇園神社からみて、やや北東の小高い山の中腹に位置する事に成るのであった。
それに対し「向笠の熊野神社」は、南南西にずっと下って東名高速にかなり接近し、太田川と敷地川が合流するエリアで、「見附台地」の足元に当たる場所に位置していた。
確かに地図を見た感じでは「向笠の熊野神社」よりも「飯田の熊野神社」のほうが、河川の流れの変更によって受ける影響は大きいようであった。
周辺の台地や山の配置を見ていると、太田川がグッと左折する辺りの川の流れは不自然で、自然環境に従えば本来はその場所から西に曲がるのではなく、そのまま南下してJRの東海道線辺りで「原野谷川」と合流するほうが、自然な流れに成るのであった。
それに対して「向笠の熊野神社」周辺は、北から南に向かって南下して来る敷地川と北北東から南南西に流れる太田川が合流するのであるが、合流した後は大きな川の流れに変化は見られないのであった。
そして「向笠の熊野神社」はその変化の殆ど見られない場所に位置しているのだった。
もしこの川で問題になるとすれば、南北の流れのどの位置で河川の水を新田に引き込むか、または逆に排水するのかといった事であろうか・・。
影響の大きさで云えば、流れを大きく替えさせられた「飯田の熊野神社」の方だろう、とそう想った。
何しろ熊野神社の住人と國守の義定公の家来たちとの間に刃傷沙汰が起きた、と云う事であるから、よっぽどの事だったと思われる。でなければそこまでの反発は起き無かったのではないか・・。
「しかしあれですよね、源平の時代の武士の國守に刃向かうというのは、なかなかの事ですね・・」私がそのように言うと黒島さんは、
「戦国時代ならいざ知らず、当時はまだまだ武家の支配がそこまで強くなくって、平安時代に朝廷が決めたルールがまだまだ幅を利かせていただよ・・」と言って当時の実情を話してくれた。
「と、言いますと・・」私がそう呟くと黒島さんは、
「平安末期の院政の時代では、神社仏閣への國守の介入を認めない『不輸不入権』というのがあっただよ。だで、熊野神社のような大きな神社が國守と対等に渡り合うといったコンがよくあっただ・・」と更に解説してくれた。
「なるほど当時の國守と有力な神社仏閣とは、上下の関係じゃなくって横の関係だったって事ですか・・」私は自分で確認するようにそう言った。黒島さんは肯いてから続けて、
「まぁ、ほういうこんだで・・」と認めた。
「そういった関係があって、遠州の目代だった武藤五郎と熊野神社の間にある種の緊張関係があったとすると、その時榎本重兼はどんな役回りで、いったい何をしていたんでしょうかね・・」と私はその時の榎本重兼の役割について、黒島さんに尋ねた。
「さぁな、なんしろ『吾妻鏡』に書かれてるこん以上の情報はさっぱりだで、何があったかなんて想像の域を出ねぇだよ・・」黒島さんも具体的に思い当たる点は無いようだった。
私は改めて3D地図を見て確認した。
太田川の川の流れは自然状態のままであれば、そのまま南下して行くのであるが、祇園神社の左下辺りから西側にあえて蛇行させることで、現在の「上山梨」「下山梨」「沖山梨」の稲作地帯への水の給水はたやすくなり、新田開発にとって大きなメリットがあった。
当時「八坂祇園神社」や「伏見稲荷大社」の建て替えを課せられた遠江守安田義定公にとっては、新田開発等によって領国内の石高を上げることは大きな課題でもあったであろう。
従ってこの新田開発につながる河川の土木工事は簡単には譲れない課題であったに違いない。そのような状況の中で起きた熊野神社との衝突が、この刃傷沙汰である。
しかも当時は遠州国内にしっかりと根を張り、幾つもの荘園や領地を持っていた熊野神社である。義定公や目代の武藤五郎にとっても頭の痛い問題であった、だろう。
「ひょっとしたらですがね、大内守護を奉行していた義定公が当時滝口の武者として内裏で勤めていた榎本重兼に、その調整役を頼んだってことはなかったでしょうかね・・。
彼が熊野の豪族の出身であると云う事を知って・・」私はその時閃いたことを、そのまま口に出してみた。
「ん?ってコンはこん時の熊野神社との騒動がきっかけで、榎本と安田義定や武藤五郎との間に縁が出来たってコンかい・・」黒島さんはそう言って、少し考え始めた。
「マァそういうことも考えられるかも、ってチョッと思ったまでです。確証があるわけではありません・・。
その時のトラブルがきっかけで義定公と榎本重兼との間に関係が出来て、そこから榎本は義定公の重臣に登用され、朝廷との太いパイプから義定公と朝廷のつなぎ役のような役割を担うようになったのかもしれないと・・。
と同時に遠州国内の熊野神社との調整役も担当したんじゃないかって、そんな風には考えられませんか?でひょっとしたら、順番も逆だったかもしれない・・。
そしてその延長線上に先ほど黒島さんが言われたような『本宮山』の件や、『小國神社の遷宮』が行われるように成ったんじゃないかと・・」私はそう言って、一気にイメージを膨らませて、榎本重兼と義定公との関係、更には遠州一の宮小國神社の円田から現在の場所への遷宮を、関連付けて考えてみた。
「そういえば確か小國神社には、熊野神社の祭神速玉男之命を祀った社がありませんでしたか?」私がそのように言うと、黒島さんは肯きながら、
「並宮王子のこんかい?」と速玉男之命を祀っている神社の事を言った。
「技監並宮は、小國神社でも重要な神様でしたよね確か・・」先山さんが言った。黒島さんは肯いて、
「ほうだよ、主祭神の大国主命に次ぐ位置に成ってるだよ、小國じゃぁ・・。だで、神様にお祈りする時の順番は大国主命に次いで、並宮の速玉男之命に成ってるだ。で三番目が八幡宮だでね・・」と言った。
「と云う事は遠江之國の一之宮に、熊野神社の神様を主祭神に次ぐポジションで受け入れて、本宮山の麓に持ってくることで、後白河法皇の信奉の熱い熊野神社を取り込んだ、と云う事ですかね・・」私はそう言いながら、富士宮市の「金之宮神社」でも同様のことがあったことを思い出した。
尤も「金之宮神社」の場合は金山彦を主祭神にしていた神社に、義定公一族が誅殺された後、富士浅間大社の木花咲夜姫を祭神として招聘(しょうへい)する事で、傘下に入り庇護を受ける事に成ったようなのであったが・・。
「まぁ、そこまでの関係があったかどうかはまだまだ判らんケンがね・・」黒島さんはそう言いながらも、私の唐突な仮説を少し考えている様子だった。
「いずれにしても熊野神社と遠州の関係はそれなりに深くて、それには後白河法皇が絡んでいた、ってことなんですね・・」私はそう言って、榎本重兼から始まった熊野神社との関係の話が、後白河法皇との関係や更には小國神社の遷宮にもひょっとしたら絡んでくるかもしれないと云う事に思いが至ったのであった。
「後白河法皇に関して言えばもっとあるだよ遠州とのコンで言えば・・」黒島さんはそう言って、更に後白河法皇の事を話し始めた。
「と、言いますと?」私は短く尋ねた。
「後白河法皇とその先代の鳥羽上皇、更にはその前の白河法皇も絡んでくるだけんが『三代御起請地』ってのがあるだが、ほの御起請地に飯田之荘が含まれてるだよ」黒島さんはそう言って、後白河法皇と森町との関わりについて話し始めた。
「すみません、その『三代御起請地』って、何なんですか?」私は初めて聞く名称に見当がつかず聞いてみた。傍らで先山さんも肯いていた。きっと彼も私と同じ思いなんだろう、と私は感じた。
「『三代御起請地』だかい、ほれはな今も言ったように平安末期の天皇だった『白河法皇』『鳥羽上皇』『後白河法皇』の三代の上皇や法皇がそれぞれ承認した、神社仏閣のための荘園や領地のこんだよ」と黒島さんは言った。続いて
「マァ当時の三代の法皇や上皇のお墨付きをもらった、権威ある荘園として『飯田之荘』や『相良之荘』が遠州では含まれてた、ってこんだよ」と言った。
「具体的にはどちらの神社仏閣の荘園というか領地だったんですか?その飯田之荘と相良の荘園は・・」私は黒島さんに尋ねた。
「蓮華王院の三十三間堂だで・・」と黒島さんは即答した。
「なるほどそう云う事でしたか、三十三間堂って確か後白河法皇の拠点で法皇の御所だった法住寺の向かい側に成るんでしたよね・・」私がそう言うと黒島さんは肯いた。
「そうでしたかそれで先ほどの飯田小学校の北東に、熊野神社が在ったってわけですか・・」私はそう言いながらタブレット端末の3D地図をまた操作した。
そして改めて遠州と後白河法皇の繋がり、更には安田義定公との縁しのようなものを感じたのであった。
「そういえば後白河法皇絡みで云えば、春野町も『長講堂』の荘園だったと聞いたことありますが、あれもやっぱり『三代御起請地』に成るんでしたか?技監・・」と先山さんが黒島さんに聞いてきた。
「よく気が付いたじゃん、ほうだよ・・」黒島さんは嬉しそうに先山さんを観ながらそう言った。
「えっ『長講堂』の荘園も遠州に在ったんですか・・」私は驚いて思わず声を上げた。
焼失した長講堂の建て替えは、確か後白河法皇の依頼によって義定公がプロデューサーに指名されたという、謂われを持つ六条の院の御所に在った仏教関係の建物であったからである。遠州春野町は現在は浜松市に吸収合併されているが、以前は森町と同じ周智郡に含まれた町で、秋葉山神社本宮の在る町なのであった。
朝廷のある京の都の話だと思っていた長講堂の再建に、遠江之國やその國守であった義定公とその施主であった後白河法皇との関係が、いろんな場面で絡んでくることに私は驚いた。そして私は改めて、後白河法皇と遠州との関係を見直すことに成ったのである。
更に義定公と後白河法皇との間には、想っていた以上に複雑で深い関りがあったことを確認する事に成ったのであった。
その日は後白河法皇と遠江之國との関わりにまで話が及んだところで、お開きとすることに成った。天竜浜名湖鉄道で森町に帰る二人は夜の10時が限界だったのだ。
私は二人を掛川駅まで送って行って、改札口で別れることにした。
明日はいよいよ旧春野町の秋葉山神社本宮に行く予定をしていた。現地に赴き神社を拝覧して、その後旧春野町の図書館を訪れる予定でいたのだった。
『吾妻鏡 第八巻』 文治四年(1188年)三月十九日
『全訳吾妻鏡2』41ページ(新人物往来社)
遠江の守(安田)義定の使者参着す。当国の所領において、下人らをして用水を引かしむるのところ、近隣熊野山稜の住民等相支ふるの間、闘乱を起こし、相互に刃傷に及ぶ。よってかれこれこれを搦め進ずと云々。しかるに熊野山定めて子細を申さんか。その程召し置かるべしと称して、これを返し遣わさると云々。
この年の半年前の文治三年八月に、安田義定公は遠江之守の重任を朝廷に願い出た。その際、「伏見稲荷大社」と「八坂祇園神社」の建て替えを、認可の条件として認められている。義定公はその課役に応じるために、上記のごとく積極的な新田開発などを行っていることがうかがえる。則ち、領地内に新たな新田を起こし荘園を増やし、領国内の石高を挙げようとしているのであった。
義定公にとっては単なる水利権の争い、という事にとどまるのではなく、朝廷による賦役・課役を達成するための、収入源の拡大という側面を持っていたのではなかっただろうか・・。
また、上記の「用水を引かしむる」事業は、義定公家来と熊野神社関係者が敵対関係にあったのではなく「相支ふるの間」に、乱闘が起きていることから共同事業の遂行時に起きた出来事と、理解した方が良さそうである。
そしてこの領内のトラブルを鎌倉幕府に敢えて注進しているのは、熊野神社が後白河法皇との関係が強い神社であったことや、平安時代末期から「不輸不入権」を持っていた有力な神社であったためだと、考えることも出来るのであった。