春丘牛歩の世界
 
九月九日は”重陽の節句”という事に成るらしい。
あまりなじみのない節句であるが、秋の実りや長寿に関係のある、めでたい行事らしい・・。
 
我が家の畑の一画で”ブラックベリー”が、ようやく食べられるように色づいた。
赤黒いうちはまだまだなのだが、漆黒色に成るとほんのりとした甘みを味わえる様になる。
これもまぁ、初秋の実りの果実の一つである。
 
 
       
 
 
そうやって”ブラックベリー”が色付くと、いよいよ我が家の果実の主役である”ラズベリー”の”秋の実”が採取できるように成る。
”ラズベリー”は初夏と中秋との、二毛作なのである。
         
 
 
 
                 お知らせ
                        2024/09/12
*9月12日「コラム2024」に
              を公開しました。
 
 
 *8月20日:本日新しい物語『甲斐源氏と源義光』に下記を付け加え、公開しました。
安田義定シリーズ第7弾になります。
 
 
 
 
 
 
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【新システム開始以降】               
                    2024/08/01
 
6月1日以降「新HPシステム」での運用に成りました
・その後も、以前と変わらず当HPにアクセスいただく方々が、少なくない事に驚いています。見るべきコンテンツが殆ど無いのにも拘わらず・・。
・順次新しい「コラム」や「物語」を公開していますので、宜しくお願いします。                         
                                   
                       春丘牛歩           
 

  南十勝   聴囀楼 住人

                
                
            
       
              
          
            
                                                                  

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      予告⁉
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【物語類】
『「無位の真人」、或いは北大路魯山人』
 
今後とも引き続きよろしくお願いします。
            
          2024.08.01
             牛歩
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
   
      

 
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2024年は元旦からの「能登半島大地震」によって、いきなり厳しい年がスタートしました。そして翌2日には羽田空港での「飛行機同士の接触⇁炎上」と続き、今年は一体どんな年になるんだろうと、緊張感の漲る年の初めでした。
暫くはその緊張感を緩めることなく、日々を過ごす事に成ろうかと身を引き締めようと想っているところです。
 
それと去年は私が過去にこのコラムのシリーズで指摘して来た話題の、延長線上に繋がる事件や事故が続き、改めて過去のコラムを読み返しており、かつての自分の指摘や問題意識がある程度”的”を得ていた事を、再確認すことが出来ました。
 
 
   ・オリンピック利権というビジネスモデル(2021.6月):その後の広告代理店幹部の逮捕
  ・「晩節を汚す」或いは「老害(2021.2月):オリンピック汚職や自民党裏金問題
   ・余人をもって代え難し(2020.5月):安倍派・二階派への裏金事件への検察捜査開始
   ・北海道とコロナウィルス2(2020.4月):地方自治体首長の能力差が出る天災時の対応
    平常時と緊急時(同年3月):同上
   ・リニア新幹線と大井川(2019年6月):リニア新幹線工事が沿線の地下水に与える影響
  ・芸能事務所とタレント(2019.7月)ジャニーズ事務所と吉本興業松本人志等の不祥事発覚
  ・日大アメフト問題(2018、5月)日大アメフトの問題は、学校法人の組織体質問題だった。
    *上記は2つは「コラム」ではなく「ブログ」の中に記載
 
    
今振り返れば「安倍政権」が検事総長に「黒川」氏をゴリ押しようとした、その原因が「オリンピック汚職」や「自民党裏金疑惑」への、検察の捜査が及ばない様にしたことだと良く理解できる。
また、今回の「能登半島地震」での石川県の馳知事や岸田首相の対応を観ていると、天災等における緊急時に、的確な行動のとれる有能なリーダーの有無が、県民や被災者の生命の存亡に大きな影響を与えることが再確認出来た。
 
その一方プーチンに依って引き起こされた「ウクライナ侵略戦争」と、ネタニヤフイスラエル首相に依るパレスチナ「ガザでの虐殺」が起きている。
いずれも民族主義者に依る、他国侵略や他民族への戦争はまだ続いており、今年も残念な事にまだ続く可能性が高い。
 
 
 
 
               <  目 次 構 成  >
 
                       1.「天災」と「人災」(01.10):フリー閲覧は終了しました。
      2.「クラス会」   (03.11)
        4.「青い春」と「チャレンジ虫(04.19)
        5.「スマホ」という文明の道具 (05.28)
            6.「民主主義」という社会システム(07.09)
        7.”ニ拠点居住”というライフスタイル(08.05)
            8.”SNS”との付き合い方(09.12)
 
 
 
 
  
 

  ”SNS”との付き合い方

 
 
つい先日ブラジルの最高裁判所が、SNS大手の「X=旧ツイッター」のブラジルでの利用を禁止するという判断を下した、という報道が入って来た。
 
虚偽情報やフェイクニュースを流し続ける、悪質なX利用者のアカウントを削除する命令に、X社のCEOイーロン・マスクが拒否し従わない事から出た判決である。
 
 
このニュースが出た数週間前の事であるがイギリスで移民排斥を訴える民族主義者達が、フェイクニュースに扇動されてイギリス国内のイスラム教徒や不法移民たちを攻撃する、という事件が起こった。
 
イギリスの小さな町で起こった英国生まれの未成年者によって、ダンス教室に通う少女3名が殺害されるという事件が起こったのだが、その犯人が”不法移民のイスラム教徒である”というフェイクニュースが流れ、そのニュースを妄信した民族主義者たちがイギリス各地で起こした暴動・事件である。
 
そのフェイクニュースを流した発信元はカナダや北アフリカ在住の人物たちで、具体的な証拠や根拠を示さずに憶測だけで情報を拡散し、SNS経由で得られる広告収入が目当てのフェイクニュース流布、だったのだ。
 
そしてこの事態を知ったイーロンマスクは自らの”X”上で、”イギリス全土で内乱が起きるかもしれない”といった、あたかも暴動を助長し扇動でもするかのような、無責任な発言をしていたのである。
 
 
 
                 
 
 
 
この騒動は民主主義の母国イギリスの、政府と司法に依って「鎮圧」され迅速な「逮捕」や「検挙」がなされ、スピード感あふれる「判決」が出された結果、数日間で収まりイーロンマスクの期待通りには至っていない。
 
そしてその間、司法や治安機関及びマスコミなどの追求に依って、フェイクニュースの発信元やその拡散者たちが特定され、明らかになったのであった。
 
私からすればイーロンマスク本人もこの事件の拡散者や、扇動者として捜査対象に加えるべきだと、想っている。
 
従って冒頭のブラジル最高裁の判決は全くもって的確で、SNSの持っている闇の部分への司法の正当な行為・介入、だと思ってこのニュースを聴いた。
 
 
この様な事態があって私は、8月末に起きたフランス検察当局がロシア生まれで、フランス国籍を持つSNS「テレグラム」の創業者を、逮捕したニュースを思い出した。
 
世界最大のSNSで、9億人近くのユーザーを持つという「テレグラム」が、麻薬取引や児童ポルノ取引といった犯罪の、犯罪者たちの「情報共有サイト=温床」になっている、と検察当局が判断したからである。
 
フランスの司法関係者からの再三の警告にもかかわらず、その状況を放置し続けている点を問題にして、フランスの検察はCEOで創業者のパベル・ドゥーロフを逮捕した、というニュースがあった。
 
世界で最もまともで健全な社会を運営/統治しているといえるEUが、GAFAや巨大SNSを管理下に置こうとしている中での、「テレグラム」経営者の逮捕劇であったわけである。
 
 
 
 
                  
 
 
 
 
不健全で犯罪を助長するような情報交換を、放置しているプラットフォームをコントロール下に置くのは、健全な社会を維持するためには必要なガバナンスの一環である。と思っている私は、「X」「テレグラム」「Facebook」「Instagram」や「Google」といった、利益第一主義のSNSやプラットフォーマーを野放しにするのは危険だと思っている。
 
利用者の多さで広告主を吸収し、そのアルゴリズム(利用確率)分析に基づくNet広告料収入で、利益を得ているこれらのSNSやプラットフォーマー経営企業は、その広告に依って引きおこる犯罪や事件に対して、全く関心を持ってないのである。
 
企業収益が増加し、自分たちの懐が増え桁違いの高額収入が得られれば、”あとは野と成れ山と成れ”なのである。
 
 
”社会的責任”に対する認識が欠如しているこれら利益第一主義の企業は、”放し飼い”にしておくのではなく、厳しいチェックと監視を行わなくてはならない。
 
「言論の自由」と「犯罪を犯す自由」は同列に扱う事は出来ないし、個人情報を平気で売買する事を何とも思わないで、社会の騒乱や混乱を助長するようなインフルエンサーを放置すべきではないと私は考えている。
 
 
”銃社会アメリカ”でいつまでたっても銃乱射事件が終わらないのは、アメリカという国家が”銃規制を行っていない”からである。
 
EU諸国や日本で銃乱射事件が少なくて済んでいるのは、「廃刀令」や「銃刀法」といった「銃規制」が行われており、「銃刀」類を野放しにせず社会の秩序や平安を維持するために、行政執行機関の管理下に置かれているからであろう。
 
SNSやネット上のプラットホームといった、ここ数十年の間に誕生した新しい文明の利器も、一定の規制や管理下に置いて、犯罪やフェイク情報をコントロールしチェックしないと、社会の安寧や秩序の健全化は守れないのである。
 
 
SNSといった文明の利器の誕生は、新しいコミュニケーションのスタイルを社会で構築しつつあるが、それらの新しく誕生したビジネスモデルや社会システムが、「社会の安寧や秩序」を蝕み、不安定でストレスの多い社会を生み出すことが判明したら、素早い対応を行政や司法及び立法府は取る必要があるのだ。
 
即ち、社会システムやガバナンスのUp-date化が必要なのである。
その対応を怠れば、犯罪や事件・騒乱が頻発し住みずらい社会に成ってしまうのは、先のイギリスの暴動が示している通りである。
 
 
それと同時に私たち個人もSNSとの付き合い方を、立ち止まって考えてみる必要がある。
世間に流布しているからとか、今話題になって”はやり”だからといって、安易に同調しないで、このサイトやプラットホームやメディアの情報は果たして”正しく、信用のおけるものなのか”について厳しいチェックを怠ってはいけないのである。
 
SNS利用の広告収入獲得のために、フェイクニュースや無責任な言動の拡散を放置しているサイトなのか、情報の裏付けや検証をしっかり行っているサイトなのかどうか、を確認しながら付き合って行かないと、ただ単なる広告収入目当てのプラットフォーマーや情報発信者のお先棒を担ぎ、踊らされてしまう事に成る。
 
 
SNSのチェックや監視は、国家や社会側のガバナンス上の問題であり、同時に私達情報を受ける側の問題でもあるのだ。
 
私の独断と偏見に依れば、ザッカーバーグが経営するFacebookやInstagram及び巨大プラットフォーム企業Googleやテレグラムは、企業の利益のために個人情報を平気で売却する企業である。
私はそんな風にこれらの企業を捉えているので、私個人はこれら企業の運営サイトに個人情報は出さないようにしており、出来るだけ接点を持たないようにしている。
 
そして遠からずこれらレッドカードSNS企業の仲間に入りそうなのが、イーロンマスクが買収してからの、旧ツイッター=Xだと思っている。
 
 
これらモラルを持たず自らを律しようとしない利益追求至上主義のSNS企業に対しては、自分の個人情報が勝手に売買されたり、ネット広告のアルゴリズムの餌食にされないための”自己防衛”が必要である、と私は想っている。
 
SNSや情報運営企業に利便性や使い勝手が良いからと言って、何の疑いもなく個人情報を登録したりせず、当該SNSに登録した個人情報がどういう使われ方をするのかを、しっかり押さえておく必要があるのだ。
 
要はそのSNSやプラットフォーマー企業の信頼性を、常にチェックし続ける必要があるのである。
さもないと自分の個人情報が勝手に売買され、インターネット環境の中で拡散し、Openマーケットに晒される事態を、放置し黙認することを意味する事に成るのである。
 
 
 
 
                     
 
 
 
 
 
 
 
 

 ”二拠点居住”というライフスタイル

 
 
私がこの言葉を知ることに成ったのは、静岡県の某自治体の中期総合計画書を読んだ時のことであった。
その後この「二拠点居住=二拠点生活」という考え方は、国交省が提唱し始めた言葉で、都市部と郊外の農山漁村といった自然環境が豊かな第一次産業中心とした田舎との、二か所に生活の拠点を確保する生き方である、ということを知った。
 
この事が日本の行政府に依って提唱されるようになった背景は、”都市部への一極集中”
”限界集落”や”自治体消滅”といった言葉が象徴している、現在進行中の日本社会の構造的な課題に関する、危機意識の高まりがその背景にあるものと想われる。
 
 
月曜から週末までを都市部で過ごし、週末や長期休暇を郊外の田園地帯で過ごすといったライフスタイルは、ロンドン辺りではかなり古くから行われていた生活様式で、それ自体は目新しいコトではなかったのであるが、国交省や地方自治体の『総合五ヶ年計画』などに登場して来たので、私もちょっとした新鮮な驚きを感じたのであった。
 
個人のライフスタイルの問題を越えて、あえて行政上の課題として位置づけられているという事は、行政上の達成目標値や補助対象事業といった事にも繋がって行く事を、意味するからである。
 
 
 
           
 
 
今年の春ごろ”自治体消滅”なるセンセーショナルな近未来予測の報告書が、公開されたことに依って、この「二拠点居住」や「二拠点生活」を真剣に考え始める自治体が今後ますます、増える事が予測されるのは間違いないであろう。
 
その一方「コロナ禍」で日本社会に一定程度定着し、市民権を得た”リモートワーク”といった新しい働き方のスタイルや、”通信環境ネットワークの充実”といった社会環境インフラの充実も、この「二拠点居住」普及の追い風に成るのは、これまた間違いがないだろうと推察される。
 
 
私自身は都市部や都会から仕事を貰ってきて、自然環境が豊かでストレスの少ない田舎で暮らすことは、大いにwelcomeで20年近く前から指向してきた生活スタイルだったから、やっと時代が追い付いて来たか等とほくそ笑んでいるところである。
 
そんなこともあって30代後半以降の、仕事がある程度出来る人たちであればこういったライフスタイルをとることを大いに推奨する、というスタンスをとっている。
 
とはいえ、自分にそれなりの業務遂行上の武器やノウハウ/経験/ネットワークといったものが無いと、たぶん両立は難しいであろうと思われるから、それなりの準備や力の蓄えは必要であろう。
 
 
 
              
 
 
 
それらに加え、”ふるさと納税”が昨年度は累計で1兆円を超えた、といった現象などをも併せて考えると、「二拠点居住地×ふるさと納税」といった仕組みの検討が、今後行われる可能性を私は妄想してしまう。
 
とりわけ”消滅自治体”などと指摘されたエリアの自治体では、それなりに真剣に検討されるのではないか、と想われる。
 
 
例えば、夏の猛暑や冬の激寒時期にそれらを回避出来るエリアとして、第二の居住地を選ぶことが出来て、その受け入れ先を過疎化や人口流出に悩む「地方自治体」が、それらを希求する人々を受け入れる”生活基盤整備の財源”として、「ふるさと納税」をうまく組み合わせることが出来たら、この「二拠点生活」のムーブメントは加速するかもしれない、などと私は妄想する。
 
即ち農山漁村の、古民家再生や改築改修の基金や通信インフラの充実を、「ふるさと納税」を財源として活用し、一定額以上の「ふるさと納税者」に対して優先的に、「期間限定で利用」し「生活する」権利を付与する、という仕組みが創られたとしたならば、その趣旨に賛同する「納税者」達の支持が得られるのではないか、と想われるからである
 
と同時に過疎地や人口流出地に期間限定とはいえ定住者が増加することは、当該エリアでの人的交流がそれなりに進み、新しい文化や文明が農山漁村の日常生活の中に浸透し活力が発生し、消費がそれなりに行われるであろうから、当該自治体は活性化していくのではないか、などと妄想が更に拡大する。
 
 
”消滅自治体候補”とされる”人口流出”や”過疎化の進行”に悩む自治体などは、現在起こっている現象や行政上の施策をうまく活用し、一方で税収を増やしつつ、他方でそれらの歯止め対策や地域の活性化に繋がる環境整備を行う事で、都市部住民と当該自治体とを結びつける”新たな生活モデル”を構築することに成る。
 
それらの施策をネット環境を駆使して情報発信し、アピール/宣伝する事を始めることも大切であろう。
 
その際のキャッチフレーズとして”二拠点居住=生活”や”デュアルライフ(二重生活)”といった言葉が使われるようになるかもしれない。
 
 
 
            
 
 
 
 
 
 
 
 

  民主主義、という社会システム

 
ここ数週間の間に、世界規模で”民主主義”という社会システムについて、考えさせられる事態が発生しており、自分自身の中でこのテーマについて改めて考えてみた。
 
それは「イギリスの総選挙」「フランスの総選挙」「イランの大統領選挙」「東京都の知事選挙&都議補選」が、相次いで行われたことがキッカケであった。
 
これらの内「イランの大統領選挙」を除けば、概ね先進国で行われた議員選挙であり、近代の「民主主義」国家において実施された、国家経営や統治の担い手=政権を選ぶための選挙であった。
 
 
これらの選挙における結果は
「イギリス」においては、14年間続いた保守党(コンサバティブ)政権から、労働党政権への政権交替という結果をもたらした。
ご存知の通り「イギリス社会は王室の主を国家元首として、国民が選挙で選んだ代表者が内閣を率いて、国家の統治・運営を担うという社会システムで、17世紀以降400年以上続いているシステムである。
 
そして「明治維新以降の日本」は、このイギリス型の社会システムを手本としてきた。「天皇を国家元首」として「普通選挙」に依って選ばれた内閣が、国家の統治機能を担うという構図が、イギリスに似ているからであろう。
 
 
実際には明治維新後の「薩長軍閥政治」や「元老政治」等の紆余曲折を経て、第二次世界大戦の敗戦に依る「アメリカ主導の民主主義」導入が、今日の日本の社会システムを創って来たのであった。
 
そして今回イギリスで起こった様な「政権交代」は、「小選挙区制」という選挙システムから起こった事であり、日本でも30年近く前に「小選挙区制」が導入され、今日に至っておりこの点でもシステム上は、参考になる。
 
 
また「フランスの総選挙」はフランス革命以降2百数十年にわたって、何度か繰り返された民衆の革命に依る帝政(皇帝支配)打破、と「帝政の復活」といったプロセスを経て、確立されたのが、現在の「第五共和制」という社会システムである。
 
旧植民地国の独立を機に1950年代後半に確立されたフランスのこのシステムは、大統領が大きな国家統治の権限を有しており、その点がイギリスや日本の仕組みとは異なる。
 
 
 
                 
 
 
 
その大統領の権限の強さが、今回の様な「マクロン大統領の一方的な国民議会解散」をもたらし、そのマクロン大統領のEU主導の国家統治手法への反発が、「マクロン与党の大敗」を引き起こし、「極右勢力の伸長」や「極左を中心とした左翼連合の躍進」という結果を、もたらしたのであった。
 
結果的には1回目投票でルペンの率いる「極右連合」躍進への危機感を抱いた、「左翼連合」と「マクロン与党」の決選投票での「候補者一本化」が功を奏し、「極右連合」を第3党に留まらせることが出来た、というのがつい先日の選挙結果である。
 
フランスの選挙制度では候補者が「50%以上の得票率」を取った場合にのみ、当該選挙区の代表者に成り得る、というシステムに成っているため「1回目の投票」→「決選投票」という仕組みになっている様なのだ。
 
 
 
また中東の雄「イランの大統領選挙」は、あまり民主的な選挙とは言えない仕組みの選挙である点を理解した上で、考えなくてはならないのだが、国民が「直接投票」に依って大統領を選ぶ選挙で、今回は「改革派」の候補が「保守強硬派」の候補に300万票の大差をつけて勝利している。
 
イランの選挙の特殊性は「宗教指導者」の意を受けた「候補者資格審査会」が関与し、事前に候補者を審査しセレクトするという仕組みがあり、そのセレクションを通過した人物だけが大統領選挙に、立候補できるというシステムにある。
 
現在であれば「最高指導者ハメネイ師」の意に沿わない候補者は、事前審査で「弾かれてしまい」立候補すら許されない。
従って我々の知ってる先進国の「民主主義」とは異なり、宗教が国家を支配している国での「民主主義」という特殊性を持つ。
 
 
日本ではなじみが無いが戦国時代の一向一揆の時に、浄土真宗の蓮如が信徒たちをコントロールして、織田信長や上杉謙信と闘ったのと同じような構図だと、私は想っている。
従って近代的国家とは言えない、宗教国家の下での『民主主義』なのである。
 
そのイラン大統領選挙は、結果的には「改革派候補者」が勝利し、欧米との協調路線をとる大統領が誕生したのである。
しかし宗教国家イランでは「宗教指導者」という絶対権力者が居て、保守強硬派の「ハメネイ師の意向が政治をコントロールする」というシステムである以上、新大統領が欧米協調路線を行使するには、少なからぬ制約を受けることが予測される。
 
 
そして同じ日に投・開票が行われた、「東京都知事選」と「都議会の補欠選挙:9選挙区」である。
結果的には都知事選挙には現職の小池氏が当選したが、それ以上に私が注目していたのは「都議補選」の結果であった。
 
都知事選挙の方は、口角泡を飛ばし青筋を立てながら現職を攻撃するだけの、野党の元参議院議員や、人口3万人にも満たない地方都市の市長職を投げうって、SNSを駆使して都知事選に挑んだ候補とが破れ、百戦錬磨のしたたかな現職が勝ったのであるが、これは役者のレベルが違い過ぎたのであり、その結果にはたいして驚いてはいない。
 
むしろ私は「都議補選」の行方に、世論の動向を押し測る上で注視していた。
 
6月の定例国会で、全く実効性を伴わない「政治資金規正法」が可決成立した後の、大きな選挙であったからである。
東京都民の民意がどこら辺にあるのかを確認するのには良い機会であり、バロメーターであった。
 
都議補選の結果は、政府自民党は8選挙区に候補者を立て2勝6敗であった。
その他は都民ファーストの会3勝1敗、立憲民主党1勝2敗、無所属・諸派各1、共産党・維新の会0勝であった。
 
 
 
        
 
 
ここ数日の間に起こったイギリス/フランス/イラン/東京の選挙結果は、上記の通りであったが、私はこれらの国々の選挙制度の違いや、その投票結果をみて民主主義の多様性と国民の出した審判の結果について、改めて考えてみた。
 
その結果言えそうなのは、「イギリス」や「フランス」「日本」といった所謂「先進国」の選挙制度は、概ね国民や有権者の民意が比較的ストレートに選挙結果に反映できる、といった仕組みになっており、近代的「民主主義」の原則が貫かれている社会である、という事であろう。
 
 
「事前に宗教勢力のセレクション」を経てからの国民投票という、「イラン」の様に宗教が国家をコントロールする、中世社会の様な社会システムを採用している国に比べ、「民意が直接国家の統治機構に影響を与える」度合いが強いのが、現在の日本を含む欧米等先進国の民主主義であるという事を、改めて確認することが出来た。
 
それらを前提にして私が生活してみたいと思っている国家は、当然の様に「国民の民意が社会の統治機構の在り方に影響を与える」国家だと、思っている。
 
 
実質的に「民主主義的な選挙制度」のない、北朝鮮やミャンマーなどの「軍事国家」や、選挙結果を諜報機関や治安機関が不正操作する、ロシアやベラルーシの様な「治安機関支配国家」等では、ストレスが溜まってとても暮らすことが出来ない。
 
更には「民意をくみ取る選挙制度」そのものが存在しない、中国の様な全体主義国家は言うに及ばず、なのである。
 
以上がここ数週間の間に起きた、世界の主要国の「総選挙」や「大統領選挙」結果を知って、私が改めて感じた感想である。
 
 
 
             
                    スターマー新英国首相
 
 
 
 
 
 
 

 「スマホ」という文明の道具

 
 
先週観たTV番組の中に、私にとって興味深いテーマの放映があり、改めて「スマホ」について考えさせられた。
 
その番組は、NHKBSで深夜時間帯に放映されていた「スパイウェア”ペガサス”」に関する「調査報道」の記録、であった。
 
この番組は「BSドキュメンタリー」という骨太のジャーナリズム番組であり、私が時々チェックするまともなジャーナリズム番組で、なかでも数少ない「信を置いている番組」の一つである。
 
当該番組はNHK自らの制作というより、海外の提携先の番組などから選び抜いた作品を放映している、地球規模の課題や問題を放映している番組である。
 
今回の番組は、フランスとアメリカの報道機関が合同で制作した「フォービドン、ストーリーズFilm」の作品であるとの事。
 
 
深夜の時間帯で二日間合計100分近く、前・後編に分かれて放映されたその番組が取り上げていたのは、仏の「ル・モンド」を初めとした、「ガーディアン(イギリス)」「ワシントン・ポスト(USA)」等、世界のまともなジャーナリスト系の報道機関17社が集まった連合体で、「調査報道」を主体とした世界的な報道機関ネットワークが行った、「スマホのハッキング」に関するドキュメンタリー番組である。
 
 
具体的には「スマホ」の中に潜ませた「スパイアプリ」を使った、「個人情報の乗っ取り」の結果発生したと想われる、「事件」や「事象」の検証プロセスを記録し、編集した番組であった。
 
サウジアラビアの反体制派ジャーナリスト、「ジャマル・カシュギ氏暗殺」、ギャングと結託したメキシコの州政府によって引き起こされた「汚職摘発ジャーナリストの暗殺」、アゼルバイジャンの「反体制ジャーナリストネットワークの摘発」、UAEアラブ首長国連邦の「王族王女の監禁事件」、モロッコによる「マクロン仏大統領周辺の監視及び情報取得」といった事件と、それを可能にした「スパイアプリの関係」の解明である。
 
 
 
 
             
                    左:ジャマル・カシュギ氏
                右:ムハンマド皇太子
 
 
 
フランスとアメリカの番組制作会社が作成したこのドキュメンタリー番組は、私にとってはここ数年間に断片的に報道されて知っていた、国際的な事件やスキャンダルの発生に、「スマホ」がどのように関わって来ていたかを知る、好い機会であった。
 
番組の内容は詳述しないが、ざっくり言うとこれらの諸事件や・諸事象が起こる際に活躍したのが、イスラエルのIT企業「NSO」が開発し運用した「スパイアプリ:ペガサス」という「個人情報乗っ取りシステム」なのであった。
 
 
イスラエルの情報機関「モサド」のIT専門部隊出身者と、イスラエルの最先端IT企業が結合して誕生した民間企業「NSO」は、ネタニヤフ首相もBackÙpし関与した「スパイウェア」を開発し、40ヶ国以上の政府機関を主要顧客とした、年商数千億円規模の最先端IT企業である。
 
そこで「盗まれ」る「個人情報」の対象は、スマホの中にアプリとして活用され、貯蔵されたすべての過去の蓄積情報、なのである。
 
即ち「通話先:電話番号」「会話内容」「写真/動画情報」「SNSの利用履歴:閲覧や投稿内容を含む」「位置情報」「ダウンロードした音楽」等々の膨大な蓄積DATAである。
また遠隔操作で、「カメラやマイク」のコントロールも出来るアプリだという。
 
 
自分のスマホがこの「スパイウェア”ペガサス ”」に感染し、個人情報が「乗っ取られた」事を知った、ジャーナリストや反体制派の活動家・弁護士たちが、その事実を知らされた時に呟いたのが、
「まるで、私の隣に常に居て、私を常に監視している様だ・・」といった類の思いや感想を述べていた。
実際にそうであったのだろう。
 
 
文明の利器である「スマホ」は、持ち歩く「小型コンピューター」であり、個人情報満載の精密な情報機器なのであるから、蓄積された「スマホ内情報」を乗っ取られる事は、自分の「個人的な情報」が常に、「アプリ購入者=政府機関」の「NSO」への依頼によって、「見ら」れ「監視され」「分析され」ている事を意味する。
 
因みにこのソフトは、「政府機関」にのみ販売や運用され「業務契約」を締結した上で販売し運用している、という事である。
従って個人への販売や依頼は受け付けない、という事であるが、それはこのドキュメンタリーが作成された時点での事である。
 
この調査報道は「2020年から取材や検証作業が行われ」一年後の「2021年7月」に。加盟する17の報道機関が世界中で、同時刻に報道・公開する事で世界中に知られることに成った。今からほぼ2年ほど前の事である。
 
そして当該Filmの完成は、編集等を経た2023年の事であった、という。
 
 
 
             
 
 
因みに「イスラエルとサウジアラビアの急接近」がここ数年進展したのは、このスパイアプリをネタニヤフ首相がムハンマド皇太子に提供した事にも関連があるのではないか、というのがこの番組の推測であった。
 
要するにイスラエルの先端IT企業の製品=スパイアプリの提供に依って、サウジアラビア王室のスキャンダルや汚職等を摘発して来た「ジャーナリスト暗殺」が、成功した事への見返りという面も含めて、両国の「国交正常化」に役立っていたのではないか、というのが番組の分析結果であった。
 
 
またこの番組では「アゼルバイジャン政府」が、長期独裁政権の構造的な汚職問題を摘発し、報道し続けた女性ジャーナリストの「支援ネットワークの摘発」も扱っていた、との事であった。
 
がその報道内容を観ていて私が想起したのは、「アゼルバイジャンvsアルメニアの領土紛争」の際の軍事利用であった。
 
2・3年前の「報道1930」で、番組のアドバイザー堤伸輔氏が語っていた事を私は思い出したのである。その時堤氏は
 
「『アルメニア軍』の兵士達は、『アゼルバイジャン軍』のトルコ製ドローン攻撃に依って、潜伏先をことごとく突き止められ攻撃され、多数の死者を出し多大の被害を被った」
 
といった様な事をニュースの解説で、指摘していたのであった。
 
 
私はこの番組を観ながら「アルメニア軍兵士」の潜伏先を突き止めたのは、スマホのスパイアプリ「ペガサス」の「スマホ内の位置情報検索」情報に依って行われたに違いない、と妄想した。
 
「反体制ジャーナリスト支援ネットワーク摘発」で、既にイスラエルのIT企業「NSO」と「業務契約」を締結していた、「アゼルバイジャン政府」がアルメニア軍兵士のスマホ情報を取得し、位置情報を特定した上で、トルコ製のドローンを使った攻撃をしたに違いない、と頭の中のシナプスが繋がった、のである。
 
そう考えると、この軍事衝突の顛末が理解できる。
 
因みに、アルメニアはこの軍事衝突の敗戦により、領土問題で敗れそれまでの領土の一部をアゼルバイジャンに割譲した、のである。
従ってこのスパイアプリの活用は、アゼルバイジャンの領土拡大という政治的・軍事的な課題に、大いに役立ったことに成る。
 
 
 
           
                 斜線のエリアが両国の紛争地「ナゴルノカラバフ」
 
 
と、言うことはこのスパイアプリを導入し活用すれば、当該国政府や情報機関が抱える軍事的・政治的・治安的課題は解決する可能性が高い、という事を意味する。
 
現在直面している「イスラエルvs ハマス」の軍事行動という名の、「パレスチナ人虐殺行為」にも当然使われて来たであろうし、「ロシアのウクライナ侵攻」に際しても利用された可能性は高い、と私の妄想はさらに膨らんだ。
 
取り分けイスラエルの国策で作られたIT企業「NSO」は、「ハマス対策」としては早い段階で、同様のアプリを開発し運用していたであろう、と考える事は自然である。
 
 
「ロシアのウクライナ侵攻」という名の「侵略戦争」に際して、当該スパイアプリの導入をプーチンが欲しがったとしても不思議ではない。
 
ネタニヤフとプーチンの関係の太さを考えれば、それも大いにあり得るしその効果の大きさは、かつてのソ連の一部であったアゼルバイジャンの政府機関から知らされていた可能性はかなり高いだろうと、私は更に妄想している。
 
 
しかしながら当該スキャンダルが世界中に拡散したのが2021年7月であった事を考え、「ウクライナ侵略戦争」が2022年2月であったことを考え併せると、ウクライナのゼレンスキー大統領達はこのスパイウェアの餌食には成らなかったのかもしれない。
 
ウクライナの政府機関はこの「スパイアプリ:ペガサス」の存在を知ってからは、すぐに対策を講じていただろうと、想われるからである。
 
ウクライナはIT先進国であることから、この様な「スパイアプリ」への対抗措置を素早く取ったであろう。
相手がスパイ大国ロシアである事を考え併せれば、当然の事である。
 
 
いずれにしても今回の「スパイアプリ:ペガサス」の問題は、大きな教訓を私に与えてくれた。
 
即ち、「スマホ」という名の「文明の利器」は、非常に便利で使い勝手の良い「道具」であるが、それが何らかの方法によって「乗っ取られた」場合は、実に「脆く」「危うい」存在である、という事を知っておくべきである、という事である。
 
 
「スマホ」は便利だからと言って、すべての個人情報をその中に埋め込んでおくのは危険である、という事になる。
常に「乗っ取られる可能性がある」という事を自覚しておく必要があり、自己防衛策として、機密事項は出来るだけ「スマホ」以外の方法で確保しておく必要がある、という事であろう。
 
今回のスパイアプリ”ペガサス ”を開発したイスラエルのIT企業「NSO」は、この報道を受けて破滅の道を辿った、という事であるが、この手の「スパイアプリ」の入手を望む国家や政府が存在する限り、第二第三の「NSO」生まれてくる事は容易に想像することが出来る。
 
 
需要がある限り、必ず供給は行われる、からである。
また、ロシアや中国・北朝鮮といった独裁的な非民主主義国家や政府機関が、自ら同様のアプリを開発したとしても、私は驚かない。
 
民主主義を恐れる独裁国家にとってこれらの「道具」は、国民を監視し管理するためには最も有効な「道具」と成り得るから、である。
 
そのリアリティを理解した上で、私達も便利で使い勝手の良い「文明の利器」と付き合っていかなければならないのである。
何よりも自分自身と大切な人達を守るためにも・・。
 
 
 
                   
 
 
 

  青い春」と「チャレンジ虫」

 
 
今年の春は例年より早く、ここ北海道十勝にも訪れているようである。
例年だとGW頃までは残っている根雪は既にすっかり溶けており、家の前の牧草地などでも白い雪は消え失せ、青い草が一面を覆い尽くしている。
 
我が家の庭では春の先駆けである「福寿草」は既に咲き終え、濃紺の「クロッカス」や白や黄色の「水仙」が庭を彩っており、春の到来を実感しているところである。
 
 
更には敷地の一画に生える野草である「行者ニンニク」も、かなり目立ち始めておりボチボチ初摘みをしようかと、考えている。
 
その「行者ニンニク」が採れ始めると、追いかけるように「フキノトウ」や「コゴミ」「ゼンマイ」といった野草たちも、あちこちに芽を出す様に成る。
 
そして未だビニール掛けをしていない、ビニールハウスの土壌からは「アスパラガス」や「ニラ」がにょきにょきと、生えてくるのである。
 
この様にして我が家の春は始まり、一面に緑色が茶色い土を覆い尽くす様に成るのだ。
文字通り「青い春」がやって来る。
 
 
                    
                       初摘みの行者ニンニク
 
 
漢文化の影響を受けている我が国において、「春」は「青色」で語られ、方位としては「東」を意味し、ライフステージにおいては「10代半ば~30手前」を指し、「青春」と称される。象徴は「青龍」である。
 
このステージは発展途上であるが故に「無限の可能性」を感じさせ、「前途有望な将来に対する期待」や少なからぬ「夢想」や「妄想」を、私達に抱かせる。
 
もちろん現実にはその後の「多くのチャレンジ」や「試行錯誤」の結果、少なからぬ「失敗」や「壁の存在」を経験し、「学習」を積み重ね「挫折」をも体験する事で、自分という人間の「限界」や「身の丈」のリアリティを識ることに成る。
 
そうして次第に人間的には「丸く」成って行き、「とんがり」は消え「ムダな事」はしなくなる。
 
 
この様なプロセスを経て「現実を受け入れ」て、「想定内の日常」の中を毎日生きてゆくことに成り、やがて家庭を築き、家族を養うようになり一家を形成するようになる。
 
このステージを漢文化圏では「朱い夏」と言い、「朱い=赤・紅」色で表現され「熱い季節」を指す。
方位としては「南」を示し、ライフステージでは「30代~50手前」を指し、「朱夏」と称す。「朱雀」がその象徴である。
 
それから先は「白い秋」「黒い(=玄い)冬」に向かい、いよいよ「西」や「北」を指す様に成るのである。「白虎」「玄武」がその象徴である。
 
 
             
 
こんな風にして私達は年齢を積み重ねていくのであるが、ときおり無性に新しいことにチャレンジしたくなる事があり、少なからぬ回数において「想定内の日常」を打ち破るアクションを、行いたくなる。「変化を求める」のである。
 
もちろん個人差があるのであるが、私などがその手の「チャレンジ」を行いたくなるのは、これまでのところ「人生の節目」を迎えた時期であり、「50歳前後」「還暦を迎えた頃(60前後)」「身体的な老いを感じた頃(70前後)」といった感じであった。
 
私の場合ほぼ10年周期で、この手の「変化を求める」ため「問題意識の発生」や「チャレンジ精神」が湧き起こって来たようだ。
 
 
「身体が元気」で「心も健全」で「時間がたくさん残って」っていて、「多少財布にゆとりが残って」いれば、単純な私はすぐさま「行動力」に任せて「チャレンジしまく」って来たのである。
が、「残された時間が多いとは言えず」「身体的にもあちこちで欠損が生じ」たりすると、簡単に「チャレンジ」することは出来ず、おのずと慎重にならざるを得ない。
 
将に「自分の身の丈」に合った範囲での「チャレンジ」、という事に成り「実現可能」な事柄にフォーカスを絞った「アクション」、という様に限定的に成ってくるのである。
 
その上、「アリさん」タイプの人間ではない「キリギリス」タイプの私は、「限られた原資」を使っての「チャレンジ」という事で、更なる絞り込みが必要に成る。
 
 
今年70歳の古稀を迎え「白秋前期」から「白秋後期」に差し掛かる身としては、「青春」や「朱夏」の世代の様に無茶をする事は難しくなってきている。
 
しかしながら、私は腹の中に天然の「チャレンジ虫」を抱えているため、キット死ぬまで「チャレンジは止めない」だろうという事が、自分でも判っている。
 
困ったものだが、その腹の中の「チャレンジ虫」と「どうやって折り合いをつけ」ていくか、を考えながら今でも毎日闘っているところだ。
 
 
そして、実年齢よりも「若く元気だねぇ」と周囲からよく言われるのは、この腹の中の「チャレンジ虫」のお陰かも知れない、などと時折想ったりするのである。
 
身体的には明らかに峠を越えた私は「チャレンジ虫」の突き上げを食らいながら、今年の「朱夏」や「白秋」「玄冬」をどう過ごそうか、考え始めているところである。
 
 
 
 
 
 

 「社会派サスペンスドラマ」或いは「相棒」

 
 
私は比較的「ミステリーもの」といったジャンルの、TVやDVDを見る傾向がある。
 
ではあるが「ミステリーもの」であれば何でもよいか、と言うと必ずしもそうではない。
やはり見ごたえのある番組や作品、それなりの内容でないと、納得しないし継続的に視聴し続けることは殆ど無い。
 
そんな中で比較的よく観る「ミステリー」として挙げることが出来るのは、「英国製のサスペンスドラマや番組」である。
やはりかの国のこの分野の作品はレベルが高く、クオリティーが維持できているものが多いようである。
 
「ポアロ」「ホームズ」「ミスマープル」といったおなじみの作品はもちろん、「刑事フォイル」「主任警部モース」「ニュートリックス」といった番組も比較的よく観る。
 
そしてこの「英国製ミステリー」の基盤を創ったのは、何と言っても「コナンドイル」だと私は想っている。
「シャーロックホームズ」がその象徴であるが、日本で言えば明治時代初期に当たる時代に彼に依って書かれた、本格的「ミステリー」の存在が、その後のイギリスの「推理小説」の基準と成り、それ以降メインストリームとして「推理小説」の方向性を決定づけた、と私は想っている。
 
 
                      
 
 
その後創られた「アガサクリスティー」や「アンソニーホロビッツ」の作品群を観ても、彼らの作品が「コナンドイルの作品」をかなり意識している点を、私は感じることが少なくない。
 
そしてそのコナンドイルの作品の特徴でありかつ魅力となっているのは、やはり「社会的な背景を背負ったミステリー作品」である点が、大きいようである。少なくても私にとってはそうである。
 
「市井の殺人事件」や「社会的事件」といった現象の背景に、「社会的な要因」が在って当該する「事件」や「トラブル」が起こっている、という因果関係をしっかり押さえた構成になっている点が、彼の創作する「ミステリー作品」や「物語」に、深みや面白みを感じさせてくれている様に、私には想われる。
 
 
日本では「松本清張の作品」に同様の傾向があるが、彼の場合は「マニアックなトリック」に走る傾向があり、その点が私には鼻につく。
その代表例が『砂の器』で、野村芳太郎監督の「映画」の作品と松本清張の「原作=小説」とを比較してみればよく判る。
 
『砂の器』が高く評価されるのは、原作の「小説」以上に「映画」の作品が醸しだす「映像」や、その背景にある橋本忍らの「脚本」の力が高く評価されているからだ、と私は確信している。
 
映画『砂の器』を観た後、原作の「小説」を読めば私の言っている事を理解してくれる人も多いのではないか、と私は想っている。
かの『砂の器』は日本の映画史上に残る、優れた「映像作品」だと私はそう位置づけ評価している。
 
 
                      
 
 
 
そんな私が、日本のTV番組の中で殆ど唯一と言ってよくチェックしているのが、テレ朝の「相棒」である。
 
この番組の魅力は、先ほど述べたような「社会的な背景を持ったサスペンス番組」であり「社会派刑事ドラマ」と言ってよい内容を持っているから、である。
毎週のように欠かさずチェックしているのは、この番組がやはり私の好みにハマっているからでであろう。要は私の価値観がそのまま反映しているのである。
 
取り分け、シーズンの初めや終わり、そして元旦に放映される二時間のスペシャル番組は見応えがある作品が多かった。
 
そんな中で今回シリーズの「最終回」スペシャルが、先週の6日と先日の13日に放送され今回も私は観た。
下記はその視聴感想である。(=放映後の翌日このHPの扉に書いたブログの転載)
 
 
*3月6日の番組を観終わった感想
 
今回の「相棒」は実に興味深い展開であった。
久々の政治ものであり実に多くの伏線が貼ってあり、来週の後編が大いに期待できる内容であった。
 「地元のイチゴを贈って来た官房長官の犯罪」
 「過激な発言の大学教授が暴漢に襲われた」
 「政治家に依る司法への介入」
 「政権を批判したTV局の人事異動」
 「TV制作プロデユーサーの死」
 「杉下右京のネットでの告知と拡散」等など。
 
現在及びここ数年間「政治」や「社会」「TV局」の中で起きていた事が、随所に散りばめられ、撒かれているのである。
・そして最も気に成るのは、今回の「最終話」が一体何を意味しているのか、である。
・この番組を観たテレ朝の経営トップの対応によっては、「相棒」の番組自体が終わり得る可能性があるから、である。
そこに私は「相棒」の名物脚本家輿水泰弘や監督橋本一、プロデューサーらのある種の覚悟を感じた、のだ。
 
来週がどの様な展開になり、「相棒」の制作者たちへの影響が今後いかに行われ、TV朝日という会社がこれからどうなっていくのか、興味津々なのである。
 
 
以上の様に、3月6日の「最終話”前編”」の内容は充実していて、沢山の伏線が貼ってあり、この時点で私はおおいに「後編」に期待したのであった。
 
というのもこの「前編」に描かれていた内容から私が独断と偏見で読み取ったのは
 
地元のイチゴを贈って来た官房長官の犯罪」は、かつて安倍内閣で6・7年間官房長官を務め、最も安定していた官房長官と一部の人達に評された「菅義偉」氏の実家は、秋田の裕福な「イチゴ農家」であり、このエピソードはその事を連想させた。
 
・「過激な発言の大学教授が暴漢に襲われた」のは、2・30年前に新進気鋭の社会学者と持てはやされ、2年ほど前に暴漢に襲われた都立大学教授「宮台真司」氏の事を彷彿させた。
宮台教授は以前ほどの輝きを失っているが、かつては「過激な発言」がウリの社会学者であった。
 
政治家に依る司法への介入」は、その菅官房長官が推し進め、自身が安倍元首相の後釜に収まった時に実現を図った、「黒川検事総長就任」ゴリ押しのエピソードを私には連想させた。
 
・「政権を批判したTV局の人事異動」は、「安倍晋三首相」「菅官房長官」「二階幹事長」の時代に、NHKで行われた「ニュースウォッチ9」「クローズアップ現代」のキャスター達の相次ぐ降番や、人事異動の事実が重なった。
 
 
これら伏線を経た上で番組の中で発生した事件TV制作プロデューサーの死」は、NHKで起こって来たこれまでの事や数年前に発生した、テレ朝の看板番組の一つ「報道ステーション」のTV制作会社(オフィス2・1)の交替や、局の制作プロデューサーが「報道番組経験者」から、「バラエティー番組経験者」へと交替させられた事実を、私は思い起こしかつ連想し、その関連性を妄想してしまったのであった。
 
これらの番組にとって「看板は前と同じ」であっても、制作会社の変更や担当プロデューサーの交替は、当事者にとっては「死」を意味するからである。
 
従って、この「TV制作プロデューサーの死」という展開は、テレ朝首脳陣、より具体的には安倍晋三元首相のメシ友だった、「早河洋」現会長への「相棒」制作陣の「メッセージ」や「覚悟」を含んだ番組なのかもしれない、と更なる妄想をたくましくしたのであった。
 
私が次週の「後編」の展開に大いに期待したのも、この様な連想や妄想が活発に働き好奇心が大いに蠢(うごめ)いたから、であった。
 
 
                       
                           テレ朝の早河会長
 
 
その様な妄想や期待があったから今回の「最終話」が引き起こすかもしれない、「テレ朝経営陣への影響」、そしてその反動としての経営陣から制作陣へのアクションがどうなるかを、私は大いに期待もし妄想を豊かにしたのであった。
 
即ちひょっとして、今回の「相棒最終話」制作陣の「メッセージ」や「反乱」が、テレ朝経営陣の怒りに触れ「番組がこのシリーズで完結してしまうかもしれない」
 
更にかつてテレ朝局内で行われて来た様に「看板だけ」残して、実質的な制作者である「番組制作会社」や「看板脚本家」「局の制作プロデューサー」の交替が、今回も行われるかもしれない等と邪推し、いろいろと妄想が広がって行ったのだった。
 
 
今回の「最終話」はそういった番組存続に繋がりかねない、今後への「影響」や「リアクション=反動」を覚悟しての「最終話」だったのかもしれない、等と制作陣の「想い」や「覚悟」を、勝手に妄想したのであった。
 
しかしながら実際に放映された「後編」は、「前編」の路線を敷衍(ふえん)するのではなく、いつもの60分番組に近いレベルの「フツーの相棒」内容であり、大いに肩透かしを食ってしまったのであった。
 
私の幾つもの「想像」や「予測」「推測」「妄想」「期待」はあえなくも飛び散り、雲散霧消してしまったのであった。
 
 
「前編」で大見えを切った割には、あっけない「官房長官の死」やその犯人の「リアリティの無い動機」、「未成熟で軽い人物像」「荒唐無稽な殺害方法」は、全くの残念な「小品」でしかなかったのである。
 
登場人物たちの設定上の役柄である、内閣の要である「官房長官」の登場も「前法務大臣」や「前特捜(検事)部長」の配役やその言動も実に軽く、リアリティさが全く感じられなかった。
残念ながら今回の「最終話」は「前編」が匂わせたような、「社会的な背景を背負った、重厚なミステリー作品」等ではなかったのである。
 
最近の「相棒」に「社会的な背景が無くなって、つまらない作品が多い」と、愚痴り嘆くことが増えた愚息の指摘を、今回の「最終話」で私は納得してしまったのである。
誠に残念で「尻すぼみ」な作品であった。
 
 
「相棒」もここらでもう一度原点に返って、「社会を意識」した「とんがった作品を」と期待するのは、無理難題な事なのであろうか・・。
それとも現在のテレ朝の首脳陣の意向を忖度して、「反骨心」や「牙」を無くしてしまった「中途半端な作品」を、今後も作り続けるのであろうか・・。
この番組の制作陣に、このままこれから先も期待出来なくなっていくのであろうか・・。
などと考えてしまったのである。
 
 
かつての「報道ステーション」が持っていた、「ジャーナリズム」としての魅力が無くなってから、地上波のテレ朝の報道番組を観なくなり、BSTBSの「報道1930」にチャンネルを替えた様に、
「相棒」から遠ざかり「Amazonプライム」や「Unext」「Netflix」等で、「英国製社会派サスペンス番組」を見ることに成ってしまうのであろうか・・。
 
そうだとしたら、誠に残念な事である。
 
ますます日本の地上波がつまらなくなり、これから私は地上波そのものを見なくなるのであろうか?
それとも地上波を離れる事で、結果的に選択肢が増えることに成った、と喜ぶ様に成るのであろうか・・。
 
 
 
 
 
 

 クラス会 (03.11)

 
 
先月下旬に郷里山梨で、ほぼ十年ぶりの高校のクラス会があった。
前回は還暦後のクラス会だったが、いよいよ今年古希を迎える年となった事から開催されたようであった。
多くの元クラスメートが現役を退き、先祖伝来の田畑を相手に農業に勤しんでいる事もあり、果樹などの忙しくなる春先を避けたこの時期が農閑期として、選ばれたのだった。
 
いつも桃やスモモ、サクランボ、ブドウといった果物類を送って頂く身としては、彼らの農繁期は避け、彼らの意思を出来るだけ尊重して合わせるのである。
 
 
私は北海道在住なので、なかなか参加出来ないのだがほぼ10年振りであった事と、次はもう会う事もないかもしれない、との思いもあって今回は参加したのだった。
 
久々の友人たちは、男性陣はすっかり髪は薄くなり顔には皺やシミ等が出ていて、年相応の風貌に成っており、女性陣も同様ですっかり「おばさん」に成っていた。
 
そして50年近く前には青雲の志を抱き、東京や神奈川の大学などに進学していた彼ら彼女達も、故郷に帰り地元の自治体や団体職員などでそれなりの役職に就いていたのであったが、退職して10年近く経つと皆、高校生の時代と同様に素に返り、すっかりフツ―のおじさんやおばさんに戻っていたのであった。
 
40年近くの社会人を経て、その間身にまとっていた様々な役職や位階の衣を脱ぎ捨てると、今では家作の果樹作りや田んぼの米作りにすっかり、勤しんでいるのである。
 
 
彼らと一晩寝食を共にして温泉などに入って、改めて「還暦」とはよく言ったものだと、感じ入った次第であった。
 
次回は5年後に、等と話し合ったのであったが私自身を含めて、果たしてこの中の何人が次回に参集できるのだろうか、と笑いながら言って石和温泉を後にした。
 
 
そんな高校のクラス会を終えて10日ほど経って、大学時代のクラスメートの訃報が舞い込んで来た。
 
昨年の11月下旬に、京都でのクラス会に一緒に参加していた友人の訃報であった。
 
彼は4年ほど前に「膀胱癌」を患っていて、入院手術してすっかり治ったと聞いていたが、最近「他の内臓に癌が転移した」と言っていたから、気にはしていたのだが、どうやらそれが悪化した様であった。
 
ほんの4・5か月前まで元気な姿を見せていた彼の訃報に、私は哀しむと共に驚いてしまった。
 
 
70歳近くなると、親しい友人たちの訃報がそれなりに入ってくるようになり、決して「他人事」ではなく「自分事」として、「死」を身近なテーマとして自覚するようになるのは、自然な成り行きである。
 
私自身は還暦を過ぎた頃、思いたってこのHPを立ち上げたり、それまで全く関心が無かった、『歴史検証物語』なるものを書くようになったのであったが、そこにはそれなりの「動機」が実はあった。
 
それまで商業施設開発に関わるマーケティングの仕事を40年近くやって来た私は、この間膨大な数の市場調査を行い報告書を作成し、クライアントに提出する事を生業としてきたのであったが、還暦を機に自らの来し方行く末を、立ち止まって考えた時に「オレはこのままで良いのか?」等と考えてしまったのであった。
 
そしてその様な自問自答を経た結果、何とか「自分の生きた証」を残して置きたいものだ!と思い立って今日に至った。
 
 
その頃タマタマ訪れた「函館」の「立待ち岬」で、知ることに成った「砂山影二」のことを、持ち前の好奇心から掘り下げて追い求め、書き始めたのがキッカケとなって『函館、青柳町、アカゲラ亭』を書きあげたのであった。
 
以来10年近くかけて甲斐源氏「安田義定」や「砂金・金山開発」に関わる事などを調べ書き綴って今日に至っている。
キッカケは「自分の生きた証を残したい」といった、単純な漠然とした動機であった。
 
おかげさまで「チリも積もれば山となる」ではないが、HPの開設に伴う公開で年間3・4万人の閲覧者を得ることが出来、自己満足しているところであり、今ではすっかり初期の目的は達せられたかも知れない、と想っているところである。
 
 
そんなことを考えていると、藤沢周平がどこかの物語だかエッセイだかで書いていた
「ふるさとを廻る六部(りくぶ)の気の弱り」
という言葉が頭をよぎった。
 
親しかった友人の訃報をキッカッケに、私も気が弱くなった、のであろうか・・。
 
 
                     
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 



〒089-2100
北海道十勝 , 大樹町


 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
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