本来ならば雪が降るべき時節なのに、雨が降っていた。 雨が止むと、上空を小白鳥やカモなどが群れを成して飛行している。 本州では25度を超える夏日なのだという。 窓の外では虫たちの姿も見るようになった。 ”雨水””北帰行””啓蟄”いずれも春の先駆けなのである。 春分の日を過ぎ、彼岸が終わると一気に春が進んで来た感がある。 そしてサッカー日本代表である。 この21日のバーレーン戦、昨日のサウジアラビア戦の3月の連戦は、勝ち点4を得てバーレーン戦の勝利で来年のW杯への出場を決めた。 喜ばしい事である。 バーレーン戦の勝利の立役者は1アシスト1ゴールを決めた久保建英であった。 彼の奮闘が今回のW杯出場を決定づけたのは間違いない。 ![]() さはさりながら、相変わらずの”個人技頼み”で、チーム戦術が乏しく、チームとしての約束事の乏しい森保采配では、限界が見えている。 今回のバーレーン戦やサウジ戦がそれを示していた。 今の闘いのままではグループリーグ突破が関の山であろう。個々人の能力が歴代最強レベルであっても、チーム戦術やチームプレーで勝てるように成らないと、Best8の壁は越えられないだろう。 個人能力重視の森保監督の限界は、今回の二つの試合でも明らかである。 JFAの会長が田嶋から宮本に替わったのは、希望が持てるが森保氏の交替が実現しない限り、日本代表は次のステージには上がれないだろう。 これからの14ケ月W杯本番までに何が起きるのか、期待感を込めて注視していきたい。
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当該編は、『京都祇園祭と遠江守安田義定―祇園神社編ー』の続編に成ります。 今回は「京都学・歴彩館」や「京都市歴史資料館」を訪れることで、祇園祭やその山・鉾巡行について、とりわけ「八幡山」に関して安田義定公との関係が明らかに成ります。 その際後白河法皇と義定公との関係や、400年後の豊臣秀吉と八幡山との関係も次第に明らかに成っていきます。 【 目次構成 】 |
市営地下鉄烏丸線の北山駅で降りた私は、進行方向の出口を出て右折し北大路に向かって南下して行った。
10分もしないうちに右手側にガラス面の多い、築年数がまだ新しそうな、いかにも公共施設的と思わせる建物が現れた。低層で大きな建築物だ。目指す「府立京都学・歴彩館」であった。かつてこの近くに在った「京都府立総合資料館」の後継である。
建物の中に入り、二階の一般利用者向けの閲覧室にと向かった。カウンターにいた資料館の学芸員に、祇園神社に関する図書が集積しているコーナーを尋ねた。
その書架の蔵書には、午前中に祇園神社でコピーを貰った『新編 八坂神社記録』も含まれていた。平成二八年三月の刊行ということもあって、真新しいハードカバーの重厚な書物であった。
私はその資料編で『祇園本縁雑実記』の項目を探して、確認してみた。
その上で書架の背表紙を見て、面白そうな書物をピックアップして目次から内容を確認し、ひとまず7・8冊を選んで、窓際の閲覧テーブルに向かった。
当面の目的は、祇園神社でカラーコピーを見せてもらった鎌倉時代の古絵図『元徳の古図』の確認だ。
祇園神社では手に入らなかったが、この中のどちらかの本に紛れていないかと思って、パラパラとめくってみた。その『元徳の古図』は『祇園信仰事典』というB4サイズの大きくて厚い書物の口絵に、カラーで掲載されていた。
祇園神社で見せてもらったのと同じものだ。さっそく付箋を貼った。
その他に祇園神社の謂われや由緒について書かれている本や、祇園祭の山・鉾の巡行に関する資料、付属品の詳細を列挙してる資料などもあった。その中で私の関心対象である「綾傘鉾」「八幡山」「蟷螂山」「四条傘鉾」等に関する部分をセレクトした。
一時間強それらの書物を漁って、私にとって重要と思われる個所に付箋を貼るなどした。この後、改めてコピーをして持って帰るためであった。
私が関連する書籍に目を通し付箋を貼っていると、隣のテーブル席に七十歳前後と思われる痩身の紳士が座った。
彼は着席するに際し、私が山積みしていた「祇園神社関係の書籍」を一瞥し、更に私をチラッと見て目礼した。
それから三十分ほどして、当該書籍を確認し終えた私は早速資料館の学芸員が居る受付カウンターに向かい、コピー申請の手続きを済ませた。
五十代半ばから老眼気味になっていた私は、複写に際しては必ず見易いサイズに拡大コピーすることにしていた。用紙のサイズは常にA3版に統一した。
2・30分ほど黙々と付箋箇所のコピーを続けていると、先ほどの紳士が私の隣にやって来て、コピーを始めた。
暫くしてその紳士が、コピーを始めながら私に語り掛けて来た。
「祇園神社に関心がおありですか?」標準語であった。
「あ、はいそうです」私は短く応えた。
「祇園祭関係のご本が多いようですが・・」老紳士は続けた。
「ハイ、その通りです。平安時代末期から鎌倉時代にかけての祇園祭についてちょっと・・」私がそう応えると彼は、
「ホウ、それはそれは・・」と、相好を崩した。
「そちらは、伏見稲荷について調査・研究されておられるのですか?」私は彼に尋ねた。
「あ~はい、私は後白河法皇について関心がありましてね。法皇と伏見稲荷の関係を今、ちょうど調べてるところです」とサラッと応えた。
後白河法皇と聞いて、私は俄然その老紳士に対して興味が湧いた。
「後白河法皇ですか・・。同時代ですね。私は安田義定公という平安末期の武将に興味がありまして、義定公と祇園祭との関係を調べ始めておりまして、それで京都までやってきました」と、コピーを続けながら私から彼に話掛けた。
私が義定公について語り始めると、老紳士は
「彼は確か、武田信義と共に富士川の合戦で活躍した、甲斐源氏の武将でしたか。後に遠江守に何度か重任されていたかと・・」穏やかな眼でスラスラと言った。
「ホウ、お詳しいですね。義定公について知っている方は、中々いらっしゃらないのですが・・」私は義定公に関して的確な知識を有しているこの紳士に、一層興味を持ち始めた
「後白河法皇の六条に在った院の御所の修復や、後に法皇のご陵墓となる法住寺修復にも朝廷から指名を受けた武将で、法皇の覚えめでたい関東の武将と記憶に残ってます」紳士はコピーを続けながらそう言った。
私は彼が義定公と後白河法皇との関係にも深い知識を有していることが嬉しくなって、饒舌になった。
「後白河法皇は『梁塵秘抄』を創らせたり熊野詣を三十回以上行ったりとか、自身の関心の高いイベントがあったり、噂の高い人物が現れたりすると、身を隠しながら覗きに行ったりと、好奇心旺盛で相当キャラが濃いお方だったようですね・・」私がそう言うと、
「キャラが濃い?ですか・・」紳士はちょっと戸惑ったように呟いた。
「個性が強い、確かにその通りですね。好奇心も旺盛で・・。それも重厚沈着とは反対側の個性が・・」と彼は言った。
「あはっ、軽佻浮薄的であると・・」私はニヤニヤしながら、そう言った。
「マァ、畏れ多いことですが、どちらかというと・・」彼はやんわりと肯定した。
「好奇心が強く人間臭くって、行動力は抜群ですよね。御簾の向こうに大人しく鎮座されているといった、通常の天皇や上皇のイメージとは真逆の・・」私は言った。
「まさにその通りです。人間味が豊かな・・」紳士も嬉しそうに続いた。
「私は立花と言いますが、失礼ですがお名前は・・」私が尋ねると、
「私ですか?私は山口と言います」と彼は名乗った。
「そうですか、山口さんですか。お言葉からすると関西の方ではないようですが・・」私は引き続きコピーを続けながら、関西弁の訛りのない紳士にそう言った。
「出は佐賀ですが、東京暮らしが永かったですからね・・」彼は応えた。
「そうですか私は八王子出身で、今は国立(くにたち)に住んでます・・。今回は、情報収集か何かでこちらに?」
「いや妻の実家がこちらでして、嵯峨大覚寺の門前に住んでいます」と教えてくれた。
「あぁ、そうでしたかでは定年退職か何かで・・」
「それもありますが、妻の実家の継承者が居ないこともあり家の管理も兼ねて・・。私にとっても、趣味の歴史探索のために好都合ということで・・」
「なるほど、そう言うことでしたか・・」私は納得した。
私はそう言ってから、改めて老紳士を観た。
彼は、折り目のはっきりしたウールギャバ地のグレーのズボンに、ベージュのカシミヤと思われる薄手のセーターを着て、ストライプのボタンダウンのシャツに、赤系統のアスコットタイをしていた。服装の素材もセンスも共によかった。トータルで、知的で品の良さが漂っていた。
痩身で頭髪は少なかったが、古武士を思わせる風貌で目には眼力が感じられた。
「立花さんはその安田義定と祇園祭の関係を調べに、ワザワザ国立から京都に来られたんですか・・」彼が聞いてきた。私は肯いた。
「どうですか、成果は期待できそうですか?」山口さんが更に聞いてきた。
「そうですね、祇園祭の山や鉾に何とか義定公の足跡というか痕跡が見つけられそうです。祇園神社の権禰宜さんにも教えて貰ったんですが、『八幡山』や『綾傘鉾』の辺りに・・」私がそこまで言うと、山口さんは
「ホゥ『八幡山』『綾傘鉾』と安田義定が関係しているんですか・・。確かに『八幡山』は源氏の氏神ですから、甲斐源氏の義定には関連していそうですが『綾傘鉾』も、ですか・・」と言ってきた。
「おっしゃる通りでして、源氏の氏神ですから『八幡山』との関連性は濃厚なんですが、それ以外にも義定公との関連を窺える点が幾つかありまして・・」
「ホゥ、それはそれは・・。因みにどのような・・」山口さんはコピーの手を休め、興味津々といった様に、尋ねて来た。
「あ、ハィ『八幡山』のお社(やしろ)が金箔で造られている点や、ご神体が騎馬に乗った応神天皇である点とかですね。
ご存知かもしれませんが、義定公の領地経営の特徴は金山開発と騎馬武者用の軍馬の育成といった点にありまして・・。
私の推測では金箔のお社は、『八幡山』に義定公が絡んでいたとすれば、当時は純金で造られていたのではないかと・・」
「ホウ、純金ですか・・。それはそれは・・。因みにその当時というのは鎌倉初期ということですか?」山口さんが確認してきた。
「ハイその通りです。鎌倉時代初期の事です。ご存知の通り、義定公は文治年間に後白河法皇の朝廷の命令によって、伏見稲荷神社と共に祇園神社の大規模な造築や改築を行っていますよね。その際に祇園祭と太い縁が出来たのではないかって、私はそう思っています」
「アァあの、遠江守重任を許す際に出されたバーターの役務の事ですね。確かそれに時間が掛かって、遅滞に業を煮やした法皇によって一時期下総守に左遷された事がありましたね、安田義定は・・」山口さんは思い出すように記憶をたどりながら、そう言った。
「いや、よくご存じで・・。おっしゃる通りです」私は嬉しくなって、彼ともっと話しがしたいと思いコピーの手を停めた。
「義定公は甲斐之國の本貫地である『黒川金山』や、波志太山の戦いのあと領地とした富士山西麓での『富士金山』、更には遠江之國の遠州森町三倉辺りで金山開発を積極的に行ってまして、金の産出は相当あったと思います。
ですから義定公にすれば純金製のお社を造る事は、そんなに難しくはなかったはずです」私はそのように、義定公と金山開発についての説明を始めた。
「ホゥそれはそれは・・。安田義定が金山開発をそんなに熱心にしていたとは・・。黒川金山はてっきり武田信玄の時代かと・・」山口さんも金山開発には興味を持ったようで、またコピーの手を休めて聴いてきた。
「そうなんですよ。義定公は自分の領地や支配地が拡大すると、必ずと言って良いように金山開発の可能性を探り、同時に騎馬武者用の軍馬の畜産と育成を始めるんです・・」私がそこまで言うと山口さんは、
「甲斐之國は馬の育成が盛んでしたよね、歴史的にも。確か聖徳太子の物語や、日本書紀の壬申の乱の巻にも・・」山口さんが言った。
「『甲斐の黒駒』や『甲斐の勇者』の事ですね、よくご存じで・・」私は嬉しくて、思わず山口さんの手を握りたくなった。この人とは話の波長が合いそうだと感じ、嬉しくなったのだ。
「甲州の騎馬文化ははるか四世紀頃まで遡るらしいんです。当時の遺跡にも出土している様ですから・・。そんなこともあって平安時代や鎌倉時代はもちろん、甲斐之國では騎馬武者の伝統が四世紀以降、千年以上連綿と続いてるんです。
その騎馬の伝統と文化の延長線上に、信玄公の武田騎馬軍団が花開くんです。金山開発も同じ事なんですよ。
暫く義定公の話を続けていると、新たにコピーを撮りに青年が来た。
コピー機は3台在ったから支障は無かったのだが、私はコピーを再開して改めて尋ねた。
「山口さん、この後ご予定はありますか?」
「いや、特には。マァ家に戻って妻と食事をするくらいでして・・。
あ、今日はサークルに行ってる日か・・」と、山口さんもコピーを再開しながら言った。
どうやら今日は奥さんとの食事は無さそうだ。ちょうど良いかもしれないと私は思って、山口さんを誘うことにした。
「もしよかったら、コピーが済みましたらどこかに場所を替えて、後白河法皇や安田義定公についての情報交換に、付き合っていただけませんか?ビールでも飲みながら・・」私は山口さんを食事に誘った。
「えぇ、かまいませんよ・・」山口さんはニコニコしながら、そう応えてくれた。
「ではコピーが終わりましたら、ご一緒しますか・・」私はそう言って確認した上で、コピーを続けた。
それから私達は連れ立って一階のロッカールームにと向かい、鞄とコート類を取り出して「京都学・歴彩館」を後にした。五時を過ぎてそんなに時間は経ってはいなかったが、師走の街はすっかり暗くなっていた。
「この辺で済ますとしたら、このどちらかということに成りそうですがどうなさいますか?」
「そうですね、ちゃんとお話が出来る環境が良いでしょうから、北大路まで出ませんか?
多少知っている店も無いわけではありませんので・・」山口さんが言った。
「了解です。お任せいたします。料理はそれなりで結構ですが、やはりしっかり話の出来る環境が良いですよね・・」私はそう言って、山口さんにお任せすることにした。
更に北大路を西側に向かって歩き、斜めに掛かる道路を南西に入った通りに面して、その店は在った。
紺地に白抜きで「しらかわ」と、柔らかな筆文字で屋号が描いてあった。
山口さんに続いて引き戸を入ると、20坪程度の小振りの店内に大きめのカウンター席と、小上がりに座卓が一つあった。
カウンターには七十代と思しき女将と、それを手伝う五十前後の女性が居た。あるいは娘さんなのかもしれない。年季が入っていたのは女将だけではなかった。店の造りにも十分年代が感じられた。
女将は山口さんを見ると、眼に笑みを湛え「おいでやす」と言った。その女将の表情は、山口さんが常連客であることを物語っていた。店はおばんざいの店らしい。カウンターの前に大鉢や大皿に入ったお総菜が、幾つか盛られでいた。
「向こう、良いかい?」と。
「どこなりと・・」女将が笑顔で言った。
若女将は山口さんからトレンチコートとボルサリーノ風の帽子を受け取り、私からもコートとマフラーとを受け取った。私達はそのまま小上がりに行き、座卓に就いた。
座卓に落ち着くと、山口さんが言った。
「ここはね歴彩館の帰りに時々寄る店でしてね、京のおばんさい屋ですからおふくろの味が懐かしくなると、利用させて貰ってるんですよ・・」山口さんはテーブルのお品書きを私に示しながらそう言って、店との関係を話してくれた。
若女将がお手拭きを持ってきて、飲み物の注文を聴いてきた。
「立花さんは、何を呑まれますか?」と、山口さんが聞いてきた。
「そうですね、こういう場ではビールを呑むことが多いですかね・・」私が応えた。
「と、言うことは必ずしも好みの酒というわけではないが、ということですか・・」山口さんはニヤリとしながら、そう言った。
「アハ、おっしゃる通りです。昔ほど強くは無く成ってるもんですから、最近は強い酒は飲まずにビールが中心ですね。
ビールだとそんなに酔わずに、程よい潤滑油となって会話も弾みますしね・・」私がそう言うと、山口さんは、
「ではとりあえずビールで乾杯といきましようか?」と私に確認したうえで、若女将にビールを注文した。それから、
「乾杯が済みましたら、私は日本酒を戴くことにしましょう・・」と呟いた。
ビールが運ばれてきて、乾杯を済ませた後私は早速山口さんに聞いてみた。
「山口さんが後白河法皇について関心を持たれるように成ったのは、どんなきっかけがあったんですか?」と。
「私ですか?そうですね、むかし平清盛や源義経を題材にした大河ドラマがあった時、実に個性的で魅力的な法皇として映りましてね。
それから何となく彼のことを調べるように成りまして、まぁその辺りがきっかけと言えば、言えますかね・・」山口さんが応えた。
「先ほども言いましたが、実に人間臭い天皇であり上皇・法皇でしたよね。今様なんかに熱を入れて、何度か血反吐を吐くまで歌い明かしたとか・・。
それでいて数年で退位してからは上皇や法皇として、30年以上も権力者の地位に在り続けて、朝廷はもちろん平清盛や源頼朝といった武家の大将を、結果的にしっかりコントロールし続けた」私がニヤニヤしながらそう言うと、山口さんも、
「よくご存じですね、おっしゃる通りですよ。キャラクターが後白河法皇ほど際立った人物は歴史上、そうたくさんは居ないでしょう・・」と、ニヤリとしながら言った。
「そう言ったキャラの濃さが魅力でもあったんでしょうか、山口さんにとって・・」と私も合いの手を入れた。山口さんは眼で軽く肯きながら私に聞いてきた。
「ところで、立花さんが安田義定を調べたり研究するようになったのはどんな経緯があったんですか?」
「私ですか?そうですね、私の場合は北海道の知人から甲州金山の事を調べてほしい、と言われまして、それがマァきっかけでしたかね。2年ほど前の事です」私が応えた。
「甲州金山についてお詳しかったとか、ですか?」
「いやいや、そういうわけではありません。
一つは私が歴史好きであることを彼が知っていた事。
二番目に私の父親が山梨出身である事も彼が知っていた。
三番目は、これが一番かも知れませんが、会社を定年退職してから私が暇をもて余していた事を、彼が的確に把握していた点、ですね。アハハ」私はそのように笑いながら、山口さんの質問に応えた。
それを聞いて山口さんはニコニコしながら、私にビールを注いでくれた。
それから山口さんは、お薦めのおばんざいを幾つか注文してくれた。
それを区切りに、私は山口さんに話を切り出した。
「山口さんは後白河法皇にお詳しい様なのでお聞きしたいんですが、法皇と祇園神社・祇園祭との関係についてなんですが、何かエピソードとかご存知ないですか?
法皇は今様好きの方だし、義定公の重任に当って荒れて破損の目立った祇園神社や伏見稲荷の、大規模な修築や造築を命じているくらいだから、浅からぬ関係があるとは思ってるんですが・・」と私は尋ねてみた。
「そうですね、確かに法皇はニギヤカシやお祭りもお好きな方だったようですからね・・。
ただ私自身は祇園神社や祇園祭りと法皇との関係について、あまり詳しくないというのが率直なところです。残念ですが・・」山口さんが申し訳なさそうに、そう言った。
「そうなんですか、いや残念だなぁ~」私は期待が大きかった分落胆してしまった。
「しかし、参考に成ると思われる有力な資料がありますから、そんなに落ち込まなくてもいいと思いますよ。ご紹介しましょう」落胆する私を気の毒に思ったのか、山口さんはそう言って手元の鞄を開け、中から資料を取り出した。
「これなんですが・・」そう言って山口さんは私に見せてくれた。
「これは私も、ついこの前見つけたばかりなんですが『後白河法皇日録』と言いまして、小松茂美という方が作成された八百ページを越える大著なんですがね・・」
山口さんが渡してくれたのは、その書物の一部をコピーしたモノであった。A3大のコピーをホチキス留めしてあった。
そのページのタイトルは
「文治二年(1186年)六十歳」と書いてあり、日付を追う形で、後白河法皇の動静が書かれていた。日付は小見出し風になっており、その下に〔 〕書きで、当日の天候などが書かれていた。
日付の隣りには、法皇の動静を書き留めた本文が続いていた。
その本文の末尾には、当該文章の出典を示して『玉葉』『百錬抄』『吾妻鏡』『明月記』等の名が書かれていた。
また、登場人物については当該年の年齢も( )書きしてあった。
例えば源頼朝(40)、義経(28)といったように。
「これは凄い!」思わず私は叫んでしまった。後白河法皇の動静が逐一判るのだった。
現在の新聞の政治欄に前日の総理大臣の動静等が記載されているが、あれに近い内容になっている。その日の天候まで書かれていた。パラパラ斜め読みしただけだが、この書物の価値はすぐ判った。
九条兼実の『玉葉』の登場回数がかなり多く、この書物はどうやら『玉葉』を中心に構成されているようだった。
『玉葉』を中心にしたのは仕方ないかもしれない。当時彼は、摂政や関白として法皇の近くに仕えていたからだ。更に筆まめで日記を細かくつけている。天候までもだ。
少なくとも公家の筆頭の立場や後白河法皇=朝廷の視点に立って、平安末期から鎌倉時代初期を知るのには相当役立つだろうと思われた。
古典の確認作業もスムーズに出来て、相当時間が短縮されるだろう。
「こんな本があるなんて凄いですね・・。だいぶ助かります。おっしゃるようにこの本を日ごと・月ごと、年ごとに追って行けば、法皇と祇園神社との関係もきっと判るでしょうし、義定公と法皇の関係を深く知ることも可能ですね、いや凄い・・」私は興奮してしまった。
「この書は、ひょっとしたら非売品かも知れません。それにB4サイズで八百数十ページの大著ですから、それなりの価格ではないかと思います。
私は運よく2ヶ月ほど前東京の家に戻った時に、都立中央図書館で遭遇することが出来まして・・」と、山口さんは教えてくれた。
「広尾の有栖川公園の都立図書館ですか?あそこだと3階あたりのライブラリーとかにありましたか?」
私は、有栖川公園を登った小高い丘の上に在る、都立中央図書館を思い浮かべながらそう言った。
「よくご存じですね、立花さんも良く行かれるんですか?広尾に・・」
「立川の都立図書館にも行くんですけど広尾の方が、蔵書が充実してるんで専門書なんかを探しに、時折行くんですよ・・」私は山口さんにそう応えた。彼は私に、
「ひょっとしたら、京都にもあるかもしれませんよ。何しろ後白河法皇についての書ですからね・・。尤も残念ながら歴彩館にはありませんでしたけど『京都歴史資料館』にだったら、あるかもしれませんよ」
そうやって丁寧に教えてくれる山口さんは親切な人だ、と私はつくづくそう感じた。
「京都御所の東側で、丸太町通寺町の近くです。ホントに御所の隣りなんですよ、東隣り。蛇足ですが、あちらにも祇園神社や祇園祭に関する書物、相当充実していると思います。
以前私が書庫で後白河法皇の関連本を漁ってる時に、目にしましたから確かです・・」
山口さんはそう言いながら、私が取り出した京都市中心部の簡易MAPを指で示しながら、資料館の場所を教えてくれた。
「ところで先ほどの歴彩館の話の続きなんですが、祇園祭の山・鉾と安田義定につながりがあるとか云う・・」山口さんが聞いてきた。私がコピーしてる時に話した件だ。
「あハイ『八幡山』と『綾傘鉾』の件ですね」私が確認すると、山口さんは肯いた。私は話を切り出した。
「『八幡山』に関しては先ほども言いましたが、源氏の氏神である点や金箔造りである点、ご神体が騎馬に乗った応神天皇である点などから、義定公との関連が相当深く推察されるわけです。何せ義定公にとって金山開発や騎馬武者用の騎馬の育成は、領地経営の柱ですから・・」
私はそう言ってビールを飲み、喉を湿らせた。
「更に『八幡山保存会』の伝承によると、三条新町の町衆が『八幡山』を担ぐようになったのは、太閤秀吉が京洛の地の区画整理を始めた時から、らしいんですよね。
それまで六条左女(さめ)牛(がい)に在った『若宮八幡宮』を、東大路五条坂の現在の場所に移した際に、分祠して三条新町に小さな八幡宮を祀るように成った、というんです」私は三条新町と『八幡山』とが関係を持つことに成った、そのいきさつを説明した。
「なるほど、それまで六条若宮から祇園の御霊会に巡行していた『八幡山』が、その分祠と共に六条から三条新町にスライドしたんじゃないかって、そんな風に考えてるんですね立花さんは・・」山口さんは私の推測を、その様に先読みした。
「あはッ、判りました?」私はニヤリとしながら、そう言った。山口さんが私の言いたい事を理解してくれてるのが嬉しくなって、私は更に饒舌に成った。
「そうなんですよ、ご推察通りです。元社は『六条の若宮八幡宮』ですからね、三条新町の八幡宮は・・。ここでも義定公とつながって来る訳なんです。
因みに京洛の町衆(まちしゅう)が祇園祭の山鉾の巡行に深く関わってくるのは、応仁の乱以降ですよね。西暦だと1470年代以降、15世紀の後期ですよね。
で、義定公が祇園祭に関わってたと思われるのは1180年代の鎌倉幕府創設期。両者には三百年ほどのタイムラグがあるわけです」私はそう言って山口さんの目を見た。
「そういうことに成りますね」彼は短く肯いた。
「当初『八幡山』の舁(か)き山の巡行は、六条左女(さめ)牛(がい)の『若宮八幡神社』からスタートしていたのではないかと。その場所は現在の西本願寺の東側に当たるらしいんですけど・・。
「なるほどなるほど。でもそうだとすると、何故武家の祭から町衆の祭に移行したのか、その説明が必要に成りませんか?秀吉の区画整理事業が直接のきっかけであったとしても、ですね。
八幡宮の巡行ですから、武家衆や神人達が関わることは自然なことですが、何故というか、どうして町衆に移ったのか、それが問題に成って来ませんか・・」と言った。
「そうですね、確かにおっしゃる通りだと思います。その点については、私はこう考えてます。
まずは、応仁の乱から戦国時代にかけての時代は、京都の治安が非常に不安定になる中で、武家同士はお互いに争闘関係にあって、消耗し合った。
とてもお祭りをしている状況ではなかった。その結果、応仁の乱をきっかけに祇園祭が中断さえしてしまった。
しかもその間の十年以上の争闘で、武家は相当疲弊しきっていた経済的にも、です」私はそう言って喉を濡らすためにビールをぐっと飲んだ。山口さんがコップにビールを注いでくれた。
「それに呼応するように祭の主力を町衆が担うようになったのではなかったか、と。疲弊しきった武家に代わって、荒廃した都の復興を担った都の商業や手工業の担い手である町衆は、逆に力を蓄えていった。
荒廃した都を復興するためには当然新たな投資が発生しますからね、それだけ商工業の担い手の町衆は潤うことに成る。何しろ都市全体をスクラップ&ビルドするわけですから・・。
そういう環境の中で応仁の乱が終わり、京洛に平安というか平和が訪れた。丁度第二次大戦の時に東京が空襲で焼け野原に成った後、何十年も掛かって復興したように、ですね・・。
そしてそのタイミングで、祇園祭の担い手が武家の手を離れ町衆に移行していったのではなかったかと・・」私は一気に話してからまた、話を続けた。
「なるほどね。確かに京洛中を廃虚にしたと言われている戦いのさ中に、お祭りでもないでしょうからね・・。そういう意味では、祭りが遂行出来るためには京の都は平安でなければなりませんよね・・」山口さんがしみじみそう言った。
「おっしゃる通りです。実際応仁の乱にとどまらず、幕末の騒乱期や第二次大戦の期間などの大きな騒乱や動乱・戦争があると、祇園祭は何度も中断してますからね。
ある意味祭が行われているという事は、社会が平和で安定している証拠ですよね・・」私も続けてそう言った。
「そういう事です。実際祇園祭では応仁の乱以前は60数基の山や鉾があったのに、乱が収まってから復活したのは40数基だということですよね。
応仁の乱を挟んで20数基は消滅してるわけです。私はこの山や鉾の三割近い減少や消滅は、主として武家を中心とした遂行されていた山や鉾の衰退や消滅を物語っているのではないかと、そう考えています」
私は先ほど歴彩館で仕入れたばかりの知識や情報を加えて、山口さんに考えを述べた。
「確かに・・。それはまた京都人の気質としてよく言われる、進取の精神そのものでもありますね。伝統を維持しつつ、積極的に新しいことを取り入れたり、受け入れるという・・」山口さんは、祇園山・鉾の新陳代謝に、京都人の気質の一端を感じたようだ。
「『休み山』ってのは聞いたことがありますが『焼山』ってのは初耳です」と言った。
「あぁ、確かに・・。そういう事ですか、いやおっしゃる通りかもしれませんね。なるほど・・」
私はこの時の山口さんの何気ない一言に、『八幡山』や『綾傘鉾』の運命を感じた。実際のところ二つの山と鉾は何度か中断した歴史を持っていたのだった。
「『八幡山』や『綾傘鉾』もどうやらそういった運命を辿ったのかも知れませんね・・。実際『綾傘鉾』は幕末の禁門の変の時には大火の影響で中断したみたいで、現在の形が復活したのは、今から40年近く前の昭和54年の事だそうですから・・」
私は先ほどコピーしてきた資料を斜め読みしながら、そう言った。
「なるほどね。という事は『綾傘鉾』巡行の場合は、ここ百年近くは執行されずにいたってことですね・・」山口さんが、頷きながらそう言った。
「あ、はいそうです。その通りです。どうやらここ百年近くは『休み山』だったらしいですね・・」そう言って私は、該当箇所の記録が載っている資料を山口さんに渡した。
三条新町の町衆が中心に成って、保存されてたご神体や宝物を引き受け、祇園祭の巡行を執行することに成ったと、そう考えることは出来ませんか?どれだけオリジナルなものが残っていたかは、別にして・・。
近隣の町内で活発に行われていた山や鉾の巡行を、羨望のまなざしで見ていた三条新町の人々が、自分たちの町内でもやってみたいと、対抗意識から勧進したのかもしれません・・」私は少なからぬ推測を交えて言った。
「なるほどね、まぁ、考えられなくもないですかね・・。仮にそういう事だとすると、三条新町の町衆は太閤秀吉が天下を統一したその頃、それなりの力を蓄えていた。町内の商業力が充実していた、って事に成るんでしょうね・・」山口さんはそう言って私を見据えて、更に話を続けた。
「おっしゃるように立花さんの仮説が正しいとすると、やはり応仁の乱以前、出来たら鎌倉時代辺りの『八幡山』や『綾傘鉾』の巡行の担い手が、誰であったのかを解明することが鍵に成ってきそうですね。その町衆が台頭してくる以前の・・。
それと、八幡宮の分祠を三条新町に遷宮したのは何故か?偶然の事なのかどうか、その点を明らかにする必要もありそうですね・・」
「あははそうですね、僕もそれを期待したいと思います」そう言って、私は運を天に任すしかなかった。
私はどうやって義定公と『八幡山』とが繋がって来るのか、またどのような経緯で三条新町に八幡宮が分祠されたのか、その関係やきっかけといったものが運よく見つかれば良いのだが、と期待と若干の不安を抱きながらそう言った。
「そうですね・・。『八幡山』に義定公の郎党や六条八幡宮の神人たちが関わってたとしたら、こちらの方は彼らよりも金山(かなやま)衆の方が関係してるんじゃないか、って想っています・・」私は言った。
「それはまたどうしてですか?」山口さんが更に突っ込んできた。
「その理由ですか?それはやっぱり、ご神体でしょうかね・・。『綾傘鉾』のご神体と、金山衆の金山祭りのご神体とが同じ金の鶏である、っていう点ですね。この共通点が一番ですかね・・。
「確かに、それが判り易いと言えばいえるのかもしれませんが、もうちょっとエビデンスが欲しいですね。何か有力な証拠に成りそうなものは無いんですか・・。
何故金山衆は義定公の武家衆とは別行動をとったのか、についてのですね・・」山口さんはまだ得心がいって無いようだった。
この関係は、戦いの神様である『八幡宮』が源氏の武士達によって崇められたのに対し、金山開発の職能紳である『金山彦』が金山衆によって崇められている、という構図になるんです。職業の神様として、祀られているわけですね。
それと同じ事が山や鉾の巡行にも反映しているのではないか、と考えてみたんです・・」私はここで一区切りつけるためにビールを飲んだ。
「祇園神社に祀られている『八幡宮』に向かって、六条八幡宮から義定公の家来を中心とした源氏の武家衆が、馬に乗った騎馬像の応神天皇をご神体とした『八幡山』を担いで巡行する。
鉦や太鼓で囃したり、赤熊(しゃぐま)の棒振り子を採り入れたりと言った、派手目のパフォーマンスを付け加えて、殊更にぎやかさを演出した。その上で傘の天辺に、彼らの祭のご神体である金の鶏を付け加えた、といった様にですね。
地味目の四条傘鉾を参考にして、派手目な自分たちのオリジナルを考え出した。それが綾傘鉾だったんじゃないかって、ですね・・。そんな風に妄想してみたんですよね、僕は。山口さんどう思われます?」と私は言った。
既に体の隅々までアルコールが充分浸透していた私は、一気に妄想を膨らませていた。
「う~ん、なるほどね。そういう事ですか・・。祇園神社には、金山彦を祀った神社が在るんですね・・」山口さんは腕を組みながらそう言って、唸った。
「そうなんです。金山彦命は本殿の西横の四条口側にですね、春日大社や熊野神社なんかと一緒に十社として纏められて合祀され、鎮座しています・・。祭神はもちろん金山彦で、神社名は金峰神社となってます。
因みに八幡宮は、本殿裏手の境内の北側をいったん出た場所に、こちらは風神・水神などと一緒に合祀され、五社に纏められて鎮座しています」
私は祇園神社の資料から社殿の配置図を取り出して、それぞれの神が鎮座している場所を指し示しながら、説明した。
「そうでしたか、金山(かなやま)衆の神様が祇園神社にね・・。金山開発の職業集団である彼らの職業神が、そうやって祇園神社に祀られている訳ですね、今も尚・・。う~ん、なるほどね・・」
山口さんは、今度の私の説明にはある程度納得してくれたようで、何度か小さく肯きながら私の推察を反芻していた。
「八幡山」と「綾傘鉾」の事で私達の話が盛り上がっていると、先ほど注文した湯豆腐の鍋セットが運ばれて来た。
湯豆腐鍋といっても、野菜や肉類・魚介類なども充実していて、大きな鍋に具材が盛り沢山であった。若女将がテーブルに鍋のセットを置き、かいがいしく動き回った。
私はそのタイミングで、トイレに行くことにして席を立った。
三条新町下るの舁き山「八幡山」
翌朝私は京都駅前のホテルで朝食を済ませると、京都御所の東隣にあるという「京都歴史資料館」を訪ねることにした。
京都駅前のバスターミナルから、河原町通を北上するバスに乗り河原町丸太町で降りた。そのまましばらく丸太町通を西進し、御所の東南角に当る寺町通の交差点を右折し北上した。
天下人と成った秀吉は、平安京の創設以来七・八百年間続いた古代・中世の京都の都市改造を断行したのだった。
後に近世と言われる時代にふさわしい、新しい都市機能を備えた都市創りを標榜したのであろう。その中心になったのが、御所の西方に造ったとされる聚楽第であった。
その新しい都市創りには、京洛にあまたある神社仏閣の整理統合が不可欠だったに違いないのだ。限られた空間を活かすためには、スクラップ&ビルドが必要だからだ。
これも秀吉の影響だ。税金を徴収する基準が間口の広さであったからこのような区画が多いのだ。今でいう都市計画税に該当する税金だろう。
入ってすぐ左手には、図書館でよく見受けられる照明付きの小規模な閲覧コーナーが在り、シニアやシルバー世代の年配者達男女数人が、何やら分厚い書物を見ながらメモを取っていた。
その閲覧コーナーの先の奥には、学芸員たちのための細長いスタッフスペースが在った。そしてその前のカウンターが、来館者の相談窓口に成っていた。
資料館という事もあってか、来館者からの専門的な質問に答えられ得る知識や能力が学芸員には求められ、その様なカウンターがまた必要なのであろう。
私は早速そのカウンターで、「祇園神社」や「祇園祭」に関する資料の所在と、昨日山口さんに教えてもらった『後白河法皇日録』の蔵書とを尋ねた。
『後白河法皇日録』に関しては、残念ながらこの資料館には無いことが判明した。学芸員はそのことを告げてすぐ、私を祇園神社に関する資料や書籍が集積しているコーナーにと案内してくれた。
当該コーナーの書架には、数段に亘り祇園神社や祇園祭に関係する書物や資料が、数十冊在った。百冊とまではいかないが昨日の「京都学・歴彩館」よりは細かく、専門的な書物や資料が何冊か確認できた。
その中には昨日歴彩館でゲットした書物の中にも頻繁に引用されていた、『祇園會(ぎおんえ)山鉾大鑑』『祇園祭細見』『近世祇園祭山鉾巡行史』等も在った。
私は目次等で中身をざっとチェックした上で、十冊程度を取り出し、閲覧用のテーブルにと持っていった。それらの内容を確認した上で、昨日と同様に付箋を貼りコピーすべき範囲を決めた。
全ての著書をチェックし終えた私は、資料室の入り口近くに在るコピー機に移動して、早速コピーを始めた。
そこで私は、ひたすら機械的にコピーを続けた。
私は彼の風貌や雰囲気から、どこかのお寺の後継者ではないかと推測した。自らの所属する寺院に関わる古文書や研究書等の資料を、探しに来たのかも知れなかった。
彼が平安時代末期の比叡山のお坊さんだったら、ひょっとしたら後白河法皇の院の御所に強訴するメンバーに成っていたかも知れないな、と想像力を働かせ思わずニヤリとした。
当時の祇園神社は、比叡山の庇護を受けていたこともあって、六条東山の山王日吉(ひえ)神社と共に比叡山の京の出張所の様な位置づけであった。
比叡山の荒法師達が自分たちの主張を院の御所や天皇の御所に強訴する際に、日吉神社の神輿を担いで日吉神社や祇園神社の神人や門徒衆たちを動員したのであった。
彼の坊主頭といかつい体格を見て、私はそんな想像力を働かせたのだった。単調なコピー作業が、私の想像力を一層掻き立てたのかもしれない。
とりあえずピックアップした資料や書籍のコピーを取り終えた。十冊程度で百5・60枚はコピーしたようだった。
更にその喫茶店には、西側の御所に向かって大きなガラス窓が在ったのを思い出した。
早速私はコピーした資料を手提げ袋に詰めて、その喫茶店にと向かった。
1時近かったこともあって、店内は比較的すいていた。
運よく窓際のテーブル席で、御所に向かって大きなガラス窓のある席が空いていた。
テーブルには前の客の残した食器やカップが残ったままだったが、私は気にしないでそのままそのテーブルに向かい、御所を正面に見据える席に座った。
20歳前後と思われるウェイトレスが慌ててテーブルの食器類を片付け、改めて水の入ったコップとメニュー・おしぼりとを持って来た。
私はざっとメニューを見て、パスタセットを注文した。
注文を終えると私は早速、先ほどの資料を読み始めた。
中でも一番気に成っていた『祇園會山鉾大鑑』という書物のコピーを、まず見る事にした。この書物は民間の研究者によって八坂神社に献納された、一種のレポートのような資料を、昭和25年に祇園神社が取り纏めたものだという。
第二次世界大戦の期間を挟んだことも影響してか、未完の書であるのだが若原史明というその民間の祇園祭研究家が、40年近くにわたり調査し作成した記録やノートを基に、取り纏め編集し、それらを順次献納したものであるという。
史明の号は幼少の頃より歴史好きであった彼を知る、氏が通った小学校の校長であり、かつ俳句の師匠でもあった岩井藍水氏が命名したという。
史明氏は俳句の腕も高く、五十代半ばに失踪した時に旅先から送られて来た葉書には
霜と消ゆる 命を旅の 草枕
と書かれていたという。
『祇園會山鉾大鑑』の冒頭に、史明氏の甥にあたる人物が「思い出」として、書いている。同書には私の関心のある山・鉾で言えば「八幡山」しか、収録されていないのが残念であったが、その中身は、相当濃いものであった。
「以上の文書は共に町制古文書として貴重なる資料であるが、一束の反古同様に町土蔵の隅に誰省る者もなく永年見捨てられてゐたのを大正十年著者史明が調査発見したものである。」 (『祇園會山鉾大鑑』1,505ページ)
と記しているように、会所の片隅に永年放置されていた古文書類にも光を当て、丁寧に解明しており、古文書が確認できる江戸時代以降については相当深く、考察がなされてた。
そんな彼が調査し研究した「八幡山創建」に関しても、応仁の乱(15世紀)を遡ることは出来なかったようだ。
もちろん、京洛中が廃墟に帰した応仁の乱の11年間に、それまでの古文書が殆ど焼失してしまったことが、大きな原因なのであった。
再び、若原史明氏の言を借りれば、
「八幡山の創建されし年代に就いては他の山鉾と同様、明確に知ることを得ないがすでに応仁の以前に実在した古い歴史を持ってゐる。
足利六代将軍義教は嘉吉元年にしばらく退転してゐた祇園會復興をはかり之が再興の命を下して祭式を整へ併せて山鉾風流をも信仰せしめた。」
(同書1,462・3ページ)
となっている。
嘉吉元年は1441年のことであり、応仁の乱が勃発する20年以上前にその当時一時期途絶えていたと思われる祇園祭が、再興され行われていたことを記している。
また同書には祇園祭で行われている「前の祭(旧暦六月十四日)」と「後の祭(同六月二一日)」との鉾や山の違いが、応仁の乱の前後を示している、と書かれている。
即ち
前の祭り=応仁の乱以前からの山や鉾、
同書で若原史明氏が述べている通りであるならば、八幡山は前の祭に分類されなければならないからだ。
若原氏のいう「八幡山」が応仁の乱以前に行われていたとする論拠は、応仁の乱が終わり、そう遠くない時期に書かれたという『祇園社記』の記述を基にしているのであった。
同書の「第十五祇園山ほこの事」の条に
「応仁亂前分十四日(前の祭)の山に
一、八幡山 三條と六角閒
と記載されているのであった。
しかし応仁の乱以降一時復活した「八幡山」が、その後再び途絶えてしまい、もう一度復活したのは、やはり太閤秀吉の時代なのである。
八幡山は「焼山」として永らく途絶えていたが、祇園祭の関係者の間では伝承によって或いは何らかの書物等の記録に依って、長い間継承され語り継がれて来たのではなかっただろうか。
「八幡山」はそれだけインパクトがあり、存在感のあった舁き山だったのかもしれない。何せ純金で造られた祠を有した、派手で豪華絢爛たる舁き山である。
私がちょうどそんな風に考えていると、注文していたボンゴレパスタがミニサラダと共に運ばれて来た。私はコピー類を隣の椅子に移し、しばらく窓の向こうの京都御所を見ながら食事を始めた。
師走という事もあって、それらの木々はすっかり茶や赤・黄色の枯れ葉で覆われていた。所々に隙間があり、その隙間から冬の鈍(にび)色の空を垣間見えることが出来た。
金箔に覆われた「八幡山」の「八幡宮」 綾傘鉾の囃子手
パスタを食べ終わると、若いウェイトレスが食器類を片付け始め、代わりに珈琲カップをテーブルに置いた。
私は、再び先ほどの資料の続きを読み、考え始めた。といっても何故三条新町で「八幡山」が復活したかについて、良い考えがあったわけではなかった。そこでもう一度、歴史資料館でコピーしてきた他の資料にも、ザッと目を通すことにした。
そして私はそのコピーの束の中から、太閤秀吉の時代の三条新町について注目すべき記述がある事に気づいた。
『祇園祭細見 -山鉾篇-』という資料の「八幡山」の項目に記載してあった。その内容は以下の通りであった。
豊臣秀吉は信長在世中から京へ来れば必ず当町の伊藤道光の屋敷に泊まっていた。太閤様御借日日記張(帳?)という控などが町内に残っている。
道光邸址は今は不明であるが、租税収納を掌っていたので昔は当町を伊藤町といった。明治に入って三条町と改められたのである。」
(同書144ページ)
ここでも太閤秀吉が登場してくる。
秀吉は京洛の区画整理事業で「六条(若宮)八幡宮」を、六条左女(さめ)牛(がい)から現在の東大路五条付近に移動させた張本人である。
そしてこのタイミングで三条新町に、「その六条八幡宮」の分祠が祀られように成ったというのだ。これは果たして、偶然の一致なのだろうか・・。
私は、秀吉が神社仏閣の移動と整理統合を断行した時に、何らかのルートによって六条八幡でかつて行われていた、祇園祭の純金製の八幡宮「八幡山」
巡行の情報を得て、それが当時は「焼山」となっていた事実を知ったのではなかったか、と考えてみた。
後に黄金の茶室を千利休に造らせたり、聚楽第の屋根瓦を金箔で覆わせたという、派手好きで黄金好きの秀吉である。
その彼がかつての「八幡山」の伝説に反応したのかもしれない。その秀吉の心の中に起きた化学反応が復活の原因なのかもしれない、と想像力を働かせた。
そういった経緯を知ったうえで、東大路五条に移転させた若宮八幡をこの地に敢えて分祠させて祀り、聚楽第の屋根瓦でやったように、新しく復活させた「八幡山」にも金箔を施したのではなかっただろうかと、私は考えた。
そんな風に想像力を膨らませていくと、何故十六世紀末に三条新町(伊藤町)で「八幡山」が復活してきたのかを、すんなりと理解することが出来た。
何故安土桃山時代に三条新町で永らく「焼山」であった「八幡山」が復活したのか、その答えが私なりに見つかったからであった。
それは太閤秀吉と伊藤道光の存在によってである。この考えを私は山口さんに話してみたい、と思った。
と、その時私のスマホが鳴った。山口さんであった。以心伝心か、と思いながら私はスマホを取り、会話するために喫茶店の外に出た。
山口さんの電話は、私に合わせたい人がいるけど今日の夜は空いているかどうか、という内容の連絡であった。
その人は右京大学文学部の准教授で、中世の京都の歴史を中心に研究している人だという。後白河法皇にも詳しいという。山口さんは後白河法皇について調べている際に、その准教授と知り合いに成ったという。
東京の民間の研究者で、安田義定と祇園神社や祇園祭の関係を調べているちょっとユニークな発想をする人が、京都に来ているという話をしたという。
私は明日には東京に戻る予定でいたので、最後の京都の夜であったが特段予定が入っていたわけでは無かったので、私は山口さんにセッティングをお願いした。
一旦スマホを閉じて、改めて山口さんからの連絡を待つことにした。
喫茶店に戻ってランチの珈琲を飲みながら、引き続き若原史明氏の『祇園會山鉾大鑑』に目を通した。その中に「八幡山」の祭神についての記述があった。
同書によると「八幡山」の祭神は
「・・八幡山の祭神は無論八幡天神であるがそのご神體は白幣である。」
と書かれており、若原史明氏が確認した大正から昭和の初期の頃には、白い神幣であったようだ。
また八幡山保存会のHPなどに書かれていた「馬上八幡像」についても、その由来が記載されていた。
「八幡社殿内には別の八幡大神の神像がある。元若宮八幡宮に傳来したる神像にして高さ三寸馬上八幡の神像極彩色の優作で黒漆金装の御厨子に納められてゐる。
と成っている。この記述は私にとっては残念な事実であった。
なぜならば、騎馬武者を組織し騎馬用の軍馬を育成していた安田義定公が、ご神体としてこの「応神天皇の騎馬像」を「八幡山」に奉納していたのではないかと、期待していたからである。
しかし事実は江戸時代の末期に、島左近の末裔が奉納したものであるという事であった。
但し、同書をもう一度良く読み直してみると
「元若宮八幡宮に傳来したる神像にして高さ三寸馬上八幡の神像極彩色の優作で黒漆金装の御厨子に納められてゐる。」と書かれている。
これは「元若宮八幡宮に傳来したる神像」ということで、かつてより伝承されていた八幡宮のご神体は「応神天皇騎馬像」であったのだが、応仁の乱などによって「焼山」に成った際に喪失し伝聞だけが残っていた、と読むことは出来ないだろうか。
その結果、従来のご神体「応神天皇騎馬像」に替えて白幣(源氏の白旗の象徴と同様)をもって、ご神体としたのだ。いわば中継ぎとして「白幣」をご神体としたという事では無かったか?
その後その話を伝え聞いた嶋左近の末裔が、嶋家に伝来する運慶作とされる騎馬像を安政四年に「八幡山町内」に寄進したのではないか、という事は考えられないだろうか。
そうする事で永年伝来でしかなかった、本来のご神体「応神天皇騎馬像」に近いものに成った、それ故に「八幡山」には二種類のご神体が存在しているのではないかと、私はそんな風に考えひとまずは得心した。
安田義定びいきの私の牽強付会かもしれないが、そんな風に考えられなくもないだろう・・。
右京大学の准教授を交えた情報交換の食事会は、18時半に四条烏丸の地下鉄の改札口を出た阪急電車改札口寄りのコンコースで、落ち合うことに成った。
私は了解した旨を手短に伝え、スマホを切った。
右京大学は私の母校であったが、文学部の出身ではなかった私には直接関係は無かった。私が学生時代の頃文学部は京都御所の東側に在り、広小路キャンパスと云っていた。
因みに私の居た学際社会学部は衣笠キャンパスに在ったので、文学部とは特に交流があったわけではなかった。
午後の三時過ぎには必要と思える資料や古書のコピーを済ませた私は、いったん京都駅前のホテルに戻ることにした。
『祇園會山鉾大鑑』 「八幡山 前記」
此の山と鉾とは兩々相俟って藤原鎌倉兩時代の閒に相當なる進展變化を
見たと思われるが結果に於いてその頃世上に流行せし種々の華奢
風流・田樂・曲舞・等々が是に合流し、
山鉾相互に形態を通じ、卽ち山は飾り人形を主體とし祭り矛と囃子物を
同書において、祇園祭の巡行も当初はどちらかというと地味目の祭や巡行が行われていたようだが、時代を経るにしたがって次第にその時々の流行を取り入れ、付加することで絢爛豪華に成って来たのではないかと、著者の若原史明氏は解説を加えている。
「不易流行」ということわざがあるが、不易一辺倒に固執するのではなくその都度流行を取り入れ続けることに依って、自らを脱皮し続け成長して来た祇園祭の真骨頂を、若原氏は看破しているようである。
と同時に若原氏は、京都人の代表的な精神(スピリッツ)でもある「進取の気質」が、祇園祭の山や鉾の変貌や成長の中にも見出すことが出来ると、言っているようでもある。
「八幡山」ご神體:応神天皇騎馬像
![]() 〒089-2100 北海道十勝 , 大樹町 ![]() ] ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() |