春丘牛歩の世界
 
先週から、「行者ニンニク」が採れる様に成り、我が家の食卓にも乗るようになった。
行者ニンニクが採れる様に成ると、今年の春がやって来た事を実感する。
これまでの私の経験では「行者ニンニク」が生えてきてから、雪が降ったことは無いから、である。
 
 
      
 
 
野生の昆虫や動物たちが作る巣の位置で、颱風の影響を早い時期に推測できることがあるが、自然界の生き物たちは彼らなりのセンサーで、天候や自然現象を察知する能力がある。
そんな事から私は、「行者ニンニク」が我が家の林に生え始めることを、季節の到来のメルクマール(指標)にしているのである。
 
 
      
 
       
         
 
     
 
 
    記事等の更新情報 】
*4月19日 :「コラム2024」に、「青い春」と「チャレンジ虫」を追加しました。
*3月25日:「相撲というスポーツ」に「新星たちの登場、2024年春場所」を公開しました。
*2月8日:「サッカー日本代表森保JAPAN」に「再びの『さらば森保!』今度こそ『アディオス⁉』を追加しました。
*01月01日:本日『無位の真人、或いは北大路魯山人』に「無位の真人」僧良寛、或いは・・を公開しました。
これにて本物語は完結しました。
12月13日:  『生きている言葉』に過ぎたるはなお、及ばざるが如し」を追加しました。
*9月29日:「食べるコト、飲むコト」 に「バター炒め二品 」を追加しました。
*9月27日;「物語その後日譚」に「奥静岡の鶏冠(とさか)山」を、追加しました。
 
 

  南十勝   聴囀楼 住人

          
               
                                                                  

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         2024.05.01
              牛歩
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
   
      
  
当該編は「蝦夷地の砂金/金山事情―市町村史を中心に―」の続編になります。
前編は各地方自治体の公的な「歴史書」である『市町村史』を中心に、構成してきましたが、ここでは明治8年に「お雇い外国人」であるH.S.モンローが当時の雇用主である「北海道開拓使」に提出した報告書である『北海道金田地方報文』に基づいた内容にいたします。
明治初頭の蝦夷地北海道における「砂金/金山開発の潜在力」についてH.S.モンローによって指摘された自治体が、その後の当該市町村でどのような砂金採取や金山開発が行われてきたかを、それぞれの『市町村史』などを通じて確認していきたいと思います。
尚、同報文の内「福島町」及び「知内町」に該当する箇所は、前編の「蝦夷地の砂金/金山事情―市町村史を中心に―」において記述済みなので、ここでは割愛しております。
ご興味のある方はこちらをどうぞ。渡島「福島町」渡島「知内町」
 
 
          
 
            【 目 次 構 成 】
            1.はじめに
            2.「登志別(としべつ)金田-その1-」 
            3.「同上-その2-」
            4.「久遠金田」
            5.「江刺金田(2021年1月6日公開しました)
            6.「十勝金田-その1-
            7.「十勝金田-その2-」
            8.「エピローグに替えて(2021年1月6日公開しました)
               
 
           
明治8年に明治政府の「北海道開拓使」に提出された、H.S.モンローの『北海道金田地方報文』は、北海道の公文書である『新撰北海道史-第六巻-』の507~555ページに全文が収録されている。因みに同書は昭和11年11月に発刊されている。
 
 
 
 
 

 1. はじめに

 
 
 本編は、明治6年(1875年)5月10日に金山探索及び同測量士であった
ヘンリー・S・モンロー氏が雇主である北海道開拓使に提出した『北海道金田地方報文』を中心に構成することを意図している。
 
明治6年といえば明治維新の戊辰戦争の最終舞台である「函館戦争」が終結して、わずか4年後のことで、当時の北海道「蝦夷」はまだまだ徳川幕府の延長といってよい、政治・経済・社会体制が続いていた時代であった。
 
2020年の現在から4年前といえば平成28年の事で、令和に成って2年目の今年から4年前を振り返っても、ホンのつい先日のように思える歴史年次である。
 
この報告書が明治4年~5年にかけて実査された結果を、取り纏めた報告書であることを考えると、実際にモンロー氏一行が蝦夷地北海道を踏査した明治4年は函館戦争からわずか2年後、ということになる。
そしてその踏査したエリアは「渡島」「後志」「十勝」といった北海道でも比較的本州に近い道南及び道東のエリアであった。
 
そのような時代背景や、社会情勢、更には地理的な関係を理解した上で150年近く前の当該レポートを、読み解いて行きたいと思っている。
 
江戸時代の後期からは松前藩の砂金/金山開発も、徳川幕府によって禁じられていたこともあり、当時でもほとんど100年以上は手つかずの蝦夷地北海道の「砂金/金山事情」が、この『報文』には書かれていることになる。
 
 
またこの報告書の著者「ヘンリー.S.モンロー」は当時24歳の若いアメリカ人であるが、年報4,000ドル=現在の4,000万円以上の報酬で「北海道開拓使」に契約された、優秀で有能な「お雇い外国人」であったのである。
 
 
 
 
 
 

 1.登志別(としべつ)金田今金町-その1-

  
 
登志別金田は、H.S.モンローの『北海道金田地方報文』の中でも筆頭に取り上げられており、またそのレポートも最も長く記述されており、モンローにとっても重要な「金田」の一つだったのではないかと、想定することが出来る。
 
「登志別金田」は現在の「後志利別川」の上流に見つかった「金田」で、現在の今金町と長万部町に近い「長万部岳(H=972m)」の中流がその該当エリアに当たるという。
 
 
 
               
 
 

 
『北海道金田地方報文』における「登志別金田に関するレポート」の抜粋記事は、以下のとおりである。出典:『北海道史』(昭和11年発刊)509~527ページ
当該「登志別金田」は現在の「今金町」であるため、『改訂今金町史(1991年)』に記載されている関連記事で確認する事とする。
 
 
「 比金田ハ・・・・登志別川ノ上流に在リ。
金田近傍二於テハ、河流、高丘ノ間ヲ流レ、海面ヲ抜ク一千千尺乃至一千二百尺二シテ、河水ヨリ八百尺乃至九百尺ノ高サナリ。・・・・・・・・
 
(第一、登志別上流
砂礫ハ、測量区域ノ北界二、最モ近キ、河渓ノ当方ナル本河台ヨリ採集セルモノ二シテ、・・・・・。
此砂礫ハ、全ク厚キ砂層ニテ隠蔽セラルルヲ以テ、大二力ヲ労ㇱ、僅ニ試験用ノ見本ヲ得たタリ・・・・・・・・・・・・。
甲ノ場所二於テ、・・1立方「メートル」二付、沙金176二「ミリグラム」8ノ割合ナリ。
乙ノ場所二テハ、・・・1立方「メートル」二付、沙金95「ミリグラム」8ノ割合二当レリ。
前両所ノ見本ヨリ得タル沙金ヲ平均スル二、凡、1「立方メートル」二付、凡136「ミリグラム」二当ル
 
 
(第二、赤渕
赤渕河口ヨリ、直線ニテ、距離凡四町ノ河畔ニテ、上部、河渓ノ西側二在ル本河台ヨリ砂礫ヲ採集シタリㇱニ、此小河渓二ハ、縦横ニ小溝アリテ、且廃棄セル砂礫諸所ニ堆積セリ。昔時盛ニ洗集セシヲ見ルベシ。
 
砂礫3立方「メートル」二シテ、沙金342「ミリグラム」8ヲ得タリ。
即チ、1立方「メートル」二付、114「ミリグラム」3ノ割合ナリ。
余輩ガ、雇人タル洗金者、才右衛門ナル者ハ、凡11ヶ年前、旧幕府ノ為メニ、補助手5・6名ヲ率ヒ、該所ニ於テ洗滌ヲ為セシニ、少些ノ区域内ニ於テ、二ヶ年半ニ、240乃至250匁ノ金ヲ得タリト。
 
 
第三、久寿部
此河台ハ、赤渕ヨリ下流即チ、殆ド旧署ニ対シ、本流ニ注入スル久寿部川ノ北岸ニ在リ。・・・・・・・・。
此川ノ両岸ニハ、往昔洗金者ノ作業セル跡多ク、共近傍ノ河台二ハ、諸所ニ洗滌溝ノ旧跡在リ。
余ガ、測量区域ノ西界二近ク、久寿部ノ上部ヨリ、本流迄、凡二十町余ノ大河台ヲ打越ㇱ、共河流ノ下方ニ在ル第三河台の麓ニ沿テ、大溝渠ヲ穿テルガ如シ。・・・・・。
 
該所ノ砂礫、3立方「メートル」ヨリ、沙金234「ミリグラム」6ヲ得タリ。則チ、1立方「メートル」ニ付、78「ミリグラム」2ノ割合ナリ。
・・・・・・。
 
此河ノ上流ニ溯ルニ従ヒ、金粒ノ大サヲ増スト云フヲ以テ見レバ、此川ノ上部ヨリモ、沙金ノ流出シ来ルコトアルベシ
 
 
この「登志別金田」の章は、『北海道金田地方報文』のトップバッターで登場し、他の金田のレポートの中でも「松前金田」「十勝金田」と並び、多くのページを割いて報告しており、それだけ「北海道金田」調査エリアの中では、重要な場所であったのだろうと思われる。
 
ここでいう「登志別(としべつ)川」は現在の「後志(しりべし)利別川」の事で、明治初頭すなわち江戸時代まではこのような名称で呼ばれていたようだ。
この川は現在の今金町の北東部を流れる河川で、標高972mの「長万部岳」にその水源は求められ、北東部から流れる川がほぼ同町の中央部に達してから、西側の日本海に向かって町を二分する形で東西に流れて行く大河である。
 
 
 
                 
                 長万部岳:右上の尖った部分の右側付け根辺り
 
 
この今金町の『改訂今金町史』(40ページ)によると、
 
知内川の採取に続いてこの利別地区が、その後の産金地として位置付けられたことは確実である。
そればかりかこの利別川では、北海道的な採取法を身に着け日高沿岸、空知川上流へと活躍の場を広げ、更に明治の北見枝幸の大ゴールドラッシュへと発展するのである。・・。
利別川流域の砂金は美利河・珍子辺(花石)を主とした採取地であったが、日本海側のセタナイより噴火湾のクンヌイと地理的実体からも深く関わっていたことから、別にクンヌイ砂金ともいわれているが、このことは承知しておかなければならないことである。
 
 
と書かれており、この地域は渡島知内の砂金採取とともに古くから知られた砂金採取地であり、それが後の北海道全域への「ゴールドラッシュ」に続く引き金になったことが記されている。因みにセタナイは現在の「瀬棚町」を指しクンヌイは長万部町の「国縫」をそれぞれ指す。
 
そして実際これまでも私の物語に何度か登場している「雨宮砂金採取団」も、この利別川には優良な砂金採取の地と定め、入部しているのである。
 
それは明治20年代の事であり、H.S.モンローの『北海道金田地方報文』提出後15・6年近く後の事である。
 
 
 
 
 
 
 
 

 登志別(としべつ)金田(現今金町)-その2-

 
               出典:『北海道史』(昭和11年発刊)519~527ページ
 
(第四、最高河台
此河台ハ、水面ヲ抜ク二百五十尺乃至二百七〇尺二シテ、黄沙ノ厚層ヲ以テ覆ヘリ。故二、砂礫ノ厚サヲ決定シ 、洗浄用ノ見本ヲ、得ントスルモ、全ク寫シ難カリキ。
・・・・・・・・。
初メ鑿チタル穴ヨリ得タル、黄沙ノ見本數種ヲ一、「リットル」ヅツ、試験セシニ、一ハ、砂金ナク、一ハ、僅ニ、ニ小粒ヲ得タリシガ、其量、約十分一「ミリグラム」ヨリ、少ナシ。之ヲ、平均スレバ、一立法「メートル」二、恐ラク、約五十「ミリグラム」或ハ、夫ヨリ内ナルベシ
 
 
 
(第五、御加持澤
此見本ハ、河口ヨリ、凡六町半ノ西岸二在ル、本河臺ヨリ採集セリ。・・・
砂礫、三立方「メートル」ヨリ沙金二百四「ミリグラム」ヲ得タリ。即チ、一立方「メートル」二付キ、六十八「ミリグラム」ノ割合ナリ。
 
(第六、本加持澤
此河流中、御加持澤ニ、近キ所ニ於テ・・。
其成果、甚ダ悪クシテ、一立方「メートル」ノ砂礫ヨリ、極テ小粒ノ差金、僅ニ三十一「ミリグラム」八ヲ出セルノミ。
 
(第七、珍昆部
測量区域ノ南東ヲ流ルル此大河ノ河畔ニ在ル低臺ヨリ、一立方「メートル」ノ砂礫ヲ採集セリ。但、河口ヨリ、凡五町半上流ナリ。・・・・・・ 
此砂礫一立方「メートル」ヲ洗滌シテ、沙金只三「ミリグラム」四ヲ得タリ。
 
(第八、鯡別
此見本ハ、「ピリカベツ」河畔ノ、砂礫ヲ試験ノ為メニ、洗浄シタリ。・・
一立方「メートル」ヨリ
最モ細微ノ沙金五粒ヲ得タリ。其量ハ、十分一「ミリグラム」ヨリ、 少ナシ。
 
 
 
 
 
       
                「後志利別川」上流
 
  

          「登志別河」砂金採集量多い順表、単位:g

平均

鯡別

珍昆部

最高河臺

御加持澤

久寿部

赤渕

登志別上流

調査地点

0.0835

0.0001

0.0034

0.0500

0.0680

0.0782

0.1143

0.1360

1㎥ 当り沙金量

            *「H.S.モンロー作成表」(523ページ)を基に筆者が加工

 
H.S.モンローの「登志別金田」に関するレポートの抜粋は上記のとおりであるが、現在の今金町の公文史書である『改訂今金町史』(1991年1月発行)には下記のような記述がある。
 
天文四年(1739年)徳川吉宗のとき幕命により蝦夷地を調査した板倉源次郎による『北海随筆』の中で
クンヌイ砂金場は七十年以前、松前より砂金取数万七入込』『金堀やしきとしてクンヌイの渓間に、今にあり』と記している。・・・(同書43ページ)
 
要するに、江戸時代中期より遡る江戸時代初期より現在の今金町利別川辺りでは、数万人の金堀たちが入部して砂金採集をしていた、という事のようである。
 
更に『同町史』の中の「利別風土記」の章において明治時代の今金町の、砂金採集の事が期されている即ち、
 
国縫砂金はすべて花石(珍昆部)の砂金であった。花石もまた砂金採取の移住民によって夜明けを告げられたのである。利別川上流の砂金採取は、古い歴史の積み重ねをもち現在でも土砂に埋もれてはいるが数多くの砂金地の後を見る事ができる。(同書220ページ)
 
春の彼岸がくると小川での砂金作業が始まり、四月になると利別川に移った。気温が下がり積雪も多く、川に張った氷を砕いて採取したが凍傷にかからぬよう川岸に雪を掘り石油カンに湯を沸し、ワラジの上にオソフキというワラでつくった、つっかけつまごをはき足が冷えると湯の中に入れて暖めながら採取をつづけた。寒さのために10月いっぱいで仕事は終わった。(221ページ)と書かれている。                 *( )は筆者の註
 
上記は明治時代の砂金採取の様子を「採金の思い出」として書いてある。
                               
 
以上のように『改訂今金町史』には書かれているが、更に興味深い記述が書かれていたのでご紹介する。
 
「利別の砂金年譜」の節の冒頭に
元久年間(1204~1206)、鎌倉幕府ができて間もなく、信州佐久郡の人某が珍古辺産砂金を採取し、将軍源頼家に献いだと伝えられていると、『花石郷土誌』にあるが真偽のほどは不明である。」(同書40ページ)
 
 
この記述は知内町の古文書『大野土佐日記』の冒頭部の記述と似通ったものになっている。私はこの記述の両者の間に何らかの関連性かあるかもしれないと想っているので、改めてこの『花石郷土誌』についても調べてみたい、とそう思っているところである。
 
 
 
 
 
 
 
 

 

 久遠金田(=現せたな町)

 
次の「久遠金田」は、「登志別金田」の在った「利別川」が、今金町の中央部を通って日本海に向かう、その河口域を数㎞ほど南下した場所に在る「旧久遠村」の金田を指している。旧「大成町」、平成の大合併後の現在の「せたな町大成区」のエリアである。
 
 
 
 
           
            
 

 
 
H.S.モンローの『北海道金田地方報文』には下記のように書かれている。
                 出典:『北海道史』(昭和11年発刊)527~531ページ
 
登志別金田ヲ去ルノ際、登志別ヲ下リ、西海岸二出テ、沿岸久遠、及ビ江刺ニ至ルベキノ辞令ヲ得タリ。是比両所ノ、近傍二沙金露出ノ報アルヲ以テナリ。・・・・
久遠村ノ南東、凡一里二大流アリ。茂志別、有珠別ト云フ其相距ル凡三四町ニシテ、共二日本海ニ注入ス。
北方ニ在ル、小流茂志別河畔ノ地ハ、殆ド北南ニ延ビ、狭隘ニシテ、其幅十二町ニ過ギズ。
有珠別ハ、茂志別ヨリ大二シテ、海岸ヨリ初ハ、北東ニ向ヒ、次ニ東西ニ向ヘリ。河畔モ稍広クシテ、一町ヨリ四町半ニ及べリ。
砂金ヲ含有スル砂礫ハ、唯此小渓ノ底地ノミニシテ、上流の高キ河臺ニハ、唯黄色の沖積層、及ビ沙ト粘土アルノミ。此渓野内二ハ、真ニ河臺ト名クべキ者ナシ。唯、水面上五乃至八尺ノ高サナル河原アルノミ。
 
 
 
茂志別)
・・・・。砂ハ粗大ニシテ、往々大石アリ。沙金ハ、極テ細粒ニシテ、顕微鏡ヲ用ル二非ザレバ、殆ド之ヲ視ル能ワズ
 
 
(有珠別
砂金ハ細粉ニシテ、其粒茂志別ヨリモ微ナリ。
前年才右衛門ガ、此両所ノ他部二於テ、洗滌セル所ト、其成果最モ能ク符号セリ。
是ニ由レバ、其得ル所ノ黄金ハ少量ナルモ、此両河ノ砂礫中ニ、黄金ヲ含有スルハ明瞭ナリ。然レドモ、其量タルヤ稀少ニシテ、全ク其値アルヲ見ズ。・・・・
 
 
以上がH.S.モンローの『北海道金田地方報文』における「久遠金田」 に関する記述の抜粋である。
 
上述のとおりモンローは利別川近隣での砂金/金山調査を終えた後、「北海道開拓使」からの辞令により利別川の日本海側の河口にほど近い、当時の後志久遠郡久遠村の砂金/金山についての調査を行っている。
 
その調査結果は残念なことに、非常に少ない量しか確認できなかったという事であった。
この久遠地区においては、利別川河畔に比べて砂金類の採取はあまり期待できない、という報告内容に成っている。
 
 
「久遠村」は現在の「せたな町」に含まれているが、平成17年の合併以前は「大成町」であった。その『大成町史』(1984年発行)によれば、この久遠地区の金鉱からは
 
金が沢鉱床=1949年~1950年精鉱中の含有量31.6t、金822g、銀165㎏
の産出があった、という事である。(『大成町史』20ページ)
 
 
明治初頭のH.S.モンローの産出量の評価は、必ずしも高くはなかったのであるが、どうやら久遠地区においても、それなりの金や銀の産出はあった模様である。
 
尚、『北海道金田地方報文』中の「有珠別川」は現在の「臼別川」の事である。
 
 
 
 
          
              せたな町は黄色のエリア。
             「久遠地区」はオレンジ線の右下海寄り辺り
 
 
 
 
 
 

 江刺金田(現「江差町」)

 
 
 
次は同じ桧山の「江差町」である。江差町は江戸時代より北前船の拠点として栄えた、日本海側の港町である。
モンローは「久遠金田」の調査をしている最中に、「北海道開拓使」より連絡を受けて、久遠金田調査に区切りがついた後に、その足で同金田より南側に位置する「江差」に向かったという事らしい。以下がそのいきさつを書いたモンローの『報文』の一部である。
 
 
             左手の緑色の濃いエリアが江差町
 
 
 

 
             江刺金田」 
               H.S.モンロー『北海道地方金田報文』531-535ページ
 
久遠滞在中、江刺近傍ノ渓野中二、沙金露出ノ報ヲ得タリ。依テ同所二赴キ見ル二、該当邑以北、凡四里ノ所ヨリハ諸河渓ノ砂礫、総テ沙石及ビ変形石ヨリ成りて、クオルツノ大量ヲ含メリ。
行次江刺ノ手前、三里ナル乙部川ノ砂礫ヲ、1・2ヶ所二於テ洗滌セシニ、沙金少許ヲ得タリ。不幸ニシテ、其量洗集ノ工費ヲ、償ウ程ニアラザルモ、該野ノ黄金ヲ含有スルヲ明示スル二足レリ。
 
と記述しており、「江刺金田」での砂金採集結果は、事業化するほどの成果は得られなかったが、砂金含有の潜在力は確認できた、となっている。
 
 
江刺到着ノ上、同邑ノ區内二於海二注入スル『ジミキシ』河畔ノ近隣二於テ最モ金二富ル場所ト、創造セラルル旨ヲ聞ケリ。此想像ハ、後果シテ其實ナルヲ證セリ。其試験ノ結果二就テ見ルベシ。
吾輩、江刺ニ滞留セル兩三日、補助手等ハ、此『ジミキシ』ノ渓野ヲ測量シ、洗金者ハ、同河上、其他近傍ノ渓野二於テ、砂礫ヲ洗滌シ、沙金ヲ採集セリ。
 
 「(第一、乙部川)
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
砂金ヲ得ル半ミリグラム、即チ一立法メートル二付キ、凡二ミリグラムの割合ナリ。
 
(第二、ジミキシ川)
河口ヨリ二十町ナル・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
砂金ハ、割合二粗ニシテ扁粒ナリ。一立方メートル二付、二十九ミリグラムヲ出ス
 
(第三、ジミキシ川2)
河口ヨリ二十四町半ナル・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
砂層ノ全厚ヲ洗フニ、八ミリグラム八ノ金ヲ得タリ。即チ、一立方メートルニ付、凡四ミリグラム四ノ割合ナリ。
 
(第四、御勝手川)
河口ヨリ、凡十町ノ所二於テ採集セリ。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
半立方メートルノ砂礫ヨリ、沙金ヲ得ル、唯一細粒其量凡一ミリグラムノ十分一ナリ。、
見ルベシ、此金田ハ従前ノ如ク、菜園ト為スノ優レルヲ。
 
(第五、海獺川)
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
沙金ハ細粒ニシテ、得ル所ノ量一ミリグラムト十分ノ二ナリ。
渓野ハ狭クシテ、凡五百尺、川幅ハ、該所二於テ十五乃至ニ十尺ナリ。
 
(第六、メナ川)
江刺ノ南二里二アル大川ナリ。
上流一里半ノ所二於テ、砂礫ヲ洗滌ス。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
沙金ハ甚ダ細微二シテ、一立方メートルノ砂ヨリ、唯一ミリグラムノ十分ノ八ヲ出セルノミ。」(『北海道金田地方報文』531~533ページ)
 
 
上記の様にH.S.モンローは江刺(現江差町)地域の6河川を調べた結果を個別に詳述している。最も金の含有率が高かったのは「ジミキシ川」の下流であったようで、4・500m上流の「ジミキシ川2」に比べて、7倍程度の差があったと記している。
 
「江刺金田」は総じてあまり有望な金田ではないとして、下記の様に結論付けている。
 
 
「此金田ノ砂礫ハ、沙金ヲ含ムコト甚ダ稀少ニシテ、盤石二達スル能ハザル不便ノ場所ナルノミナラズ、ジミキシ河上ノ如キ便利ノ地ト雖モ、之ヲ洗集スル二足ラザルナリ。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
渓野ヨリ沙金二乏シ。蓋シ、此両所元来金ヲ含ムコト等シカリシモ、水流ノ作用二依テ、渓野二多ク下リ集リシナルベシ。」(同書534~535ページ)
 
 
以上の様に、江刺の沙金は元来少なかったのであるが、採取出来たのは太古より長い年月掛けて下流域に蓄積した沙金ではなかったか、と結論づけている。
 
上述のように、「江刺金田」についてのH.S.モンローの評価は必ずしも高くないようである。明治初頭のアメリカの鉱山技師の見立ては、以上であった。
 
 
ではその後の「江差町」においては沙金や金山開発に関して、どのような推移があったのかを『江差町史』(1982年発刊)で見てみると、下記の様になっている。
 
 
千軒岳の金山は寛永五年(1628年)採金が始まったといわれているが、それは二鉱区に分かれ、一つは千軒岳を源に、南東に流れ津軽海峡にそそぐ知内川と、今一つは北西側に流れて日本海側にそそぐ早川(石崎川)の流域である。・・・・・・・・
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
石崎川(早川)の天蓋股から右澄川を遡ると、三枚瀧・黄金瀧の上流・下流一帯に砂金の遺構である石積みが、水流を替えて山肌を洗った跡が随所に見られ、沿岸の僅かな平地には、風倒木の根方から木炭と共に、人夫小屋の遺構も発見され、往時の砂金採取の盛時を偲ばせている。・・・・(同書:「鉱産物」欄694~695ページ)
 
 
と記述している。ところが「大千軒岳」から北西に流れる「石崎川」は残念なことに江差町ではなく、南に隣接する「上ノ国町」を流れる大河である。
 
また同書においては他に産出される鉱産物に関する記述は殆どなく、記載されているのは江戸時代の松前藩での産金・金山開発の記述にとどまっている。
 
明治時代以降の記述は殆ど見られないことから、H.S.モンローの見立ての様に「江刺金田」からは、業として成立するような砂金類の開発は行われなかった、ようである。
 
 
江差町における沙金/金山開発は以上の通りであるが、私は当該『町史』に於いて書かれている、以下の文章には注目している。即ち、
 
天蓋股から右澄川を遡ると、三枚瀧・黄金瀧の上流・下流一帯に砂金の遺構である石積みが、水流を替えて山肌を洗った跡が随所に見られ、・・
と書かれた箇所がそれである。
 
何故ならば、この河川の流れを替えるという大土木工事をして砂金を採集する、という手法は甲州金山衆の得意とする手法であり、蝦夷地北海道の他の市町村の『史書』にもたびたび目にする採金方法だから、である。
 
 
 
              
          :黄金瀧、青●:上は「天蓋股」下は「大千軒岳」
 
 
 
 

 十勝金田-その1-(現大樹町他)

 
 私の棲む道東十勝に関する砂金/金山の情報は、わが大樹町を流れる十勝の大河「歴舟川」が関係している。
 
歴舟川は北海道を大きく東西に分断する日高山脈の、東側すなわち道東地区の日高山脈に源流がある河川である。
 
その日高山脈の西側に多くの砂金/金山の産地があることはこれまでも『蝦夷地の砂金/金山事情―市町村史を中心に―』などですでに確認してきたとおりである。
従って同じ日高山脈を挟んだ西側と同様に、日高山脈の東側に砂金/金山の産地があることは、ごく自然な事なのである。
 
これはまた「山梨」と「静岡」を跨ぐ金山であった「毛無山」でも、既にみてきたとおりである。「金脈」が山全体に在り繋がっているからこういうことが起こるのである。詳細は『荒木大学と甲州金山』で既に確認している。
 
明治初頭にH.S.モンローが『北海道金田地方報文』で記述しているように、道南渡島の地からはるばる十勝までやって来たのは、古くから十勝で砂金や金片が採れることが蝦夷地で知れ渡っていたからである。
 
 
 
      
            歴舟川水系              十勝、大樹町
 
 
 
 

 
以下はその報告書において「十勝金田」に関して、H.S.モンローが記述しているレポートの抜粋である。
 
                出典:『北海道史』(昭和11年発刊)552~555ページ
 
余輩ハ、猿留村ヨリ、十勝州ノ首邑ナル、廣尾二至レリ。――――― 
廣尾川二於テ、大約一立方メートル位ノ砂礫ヲ洗ヒシガ、矢張、一ノ金粒ヲモ発見セザリキ。―――――
『ベルフチ』ヨリ一里、廣尾ヨリ北、大約六里ナル『アヨボシュマ』ハ、極テ砂金二富ルノ聞エアル所ナルガ、該地砂礫ノ厚サハ、海面上僅ニ二丈五尺乃至三丈二過ギズ。
――――――――――
――――――――――
其三立方メートルノ砂礫中ヨリ、大約二十粒ノ金ヲ得タリ。然レドモ、多クハ微塵ニシテ、視力ノ強キ凸鏡ヲ以テスラ、頗ブル見難キ位ノモノ二シテ、粗粒トテハ更二ナシ
而シテ、其細粒ノ目方ハ、惣計僅ニ、一ミリグラム十分ノ六ニ過ギズ。即チ一立方メートルニ付、一ミリグラム十分ノニノ割合ナリ。
之ヲ分割スレバ、試験シタル砂礫ノ目方ノ、百億萬分ノ一トナルベシ。―――――― 
               註:「猿留村」は現在の襟裳岬近郊、「廣尾」=広尾の旧漢字
 
とあり、「アヨボシュマ」=現在の浜大樹、歴舟川の河口域では噂程多くの砂金類を採取することが出来なかった、と書き記している。
 
 
『アヨボシュマ』ノ先一里ニシテ、廣尾ノ北、大約七里ナル『トウブヰ』河口ノ近傍二、『クレー石』ニシテ堤ヲナセル、盤石ノ露出セルモノアリ。
其盤石ノ表面ヨリ、大約四半立方メートルノ砂礫ヲ採リ、之ヲ洗ヒ試ミシニ、極メテ微細ナル金粒、二ヲ得タリ。然レドモ、極メテ微細ナルガ故、其目方ヲ量ル能ワザリキ。
――――――
斯ル廣大ノ地ヲ蔽フ砂礫層ノ一ヶ所タリトモ洗採ノ労費ヲ償フ二足ルベキ程ノ金ヲ出スコトナキハ勿論、微塵ダモ得ル所ノ真二稀ナルハ明瞭ナリ
 
 
となっており、歴舟川の北方の「トウブヰ=当縁」河口周辺においても、期待するほどの砂金は採取できなかったとレポートしている。
 
因みに「トウブヰ」川=当縁川は、「大樹町多目的航空公園」の北側を西~東に向かって流れる川で、太平洋にそそぐ。同航空公園は宇宙ロケット「MOMO」が打ち上げられる宇宙基地である。
 
上記の通りH.S.モンローの「十勝金田」に関する現地調査による評価は、かなり低かったことがうかがえる。
 
 
これに対して地元の『大樹町史』(1969年発刊)において、砂金/金山に関する記述は以下の様に書かれている。
 
 
寛永2年(1635)十勝の金山のことが記録にあり、当縁郡アイボシマ付近には寛政の頃まで砂金採掘の跡があったと報じている。
昭和26年(1951)と昭和39年(1964)に尾田地区興農部落の農耕地より、室町前期か鎌倉時代と思われる刀剣及鎧が出土しているが、砂金採集と松前藩武士との関係をつかむ資料として興味ある事である。
また中の川の上流奥深く日高山脈のふところに入り込んだ、大寄せ付近には現在林道が通っているが、河岸の山腹に採金の跡が歴然と残っている。工事の内容より考えて少人数の事業と考えられないところがある
石畳をきずいた川流しの穴に大木が成長して枯朽したものが見えるが、年代は相当経過しているようで、くわしい記録が現存していないことは、極めて残念なことである。(『大樹町史』62ページ)
 
 
更に、
 
大樹町民の中には、最初は砂金採集のために入地し、後農業に転換したり、又砂金採集者相手の商業を営んだり砂金を購入したりした人々もたくさんいた。現在砂金購入秤や、砂金を保存しているが、砂金取引によって経済生活が、うるおった事であろう(同書62ページ)
 
 
とも書かれており、明治以降の大樹町入部者のうちの何人かは、砂金採集が目当てであったことに触れている。歴舟川の中流である「大樹町尾田地区」が採金者たちの拠点であったようで、前述の鎌倉期や室町前期と思われる兜や刀剣が出土したのもその尾田地区であった、という。
 
この鎌倉期前後の兜や刀剣に関しては、大樹町に隣接するかつての忠類村=現幕別町忠類地区の『忠類村史』(2000年発刊)において、知内町の『大野土佐日記』と関連付けて、下記のような記述がある。
 
 
そこで思い出されるのは道南知内町の雷公神社に残されている『大野土佐日記』の記録である
そこには元久二年(1205)7月23日、鎌倉幕府の二代将軍、源頼家の命を受けた甲斐の国領主、荒木大学が一族郎党千余人を引き連れて、蝦夷地に上陸、知内付近で金山採掘に当たった、という神社創建のいわれが記されている。
単なる伝説かもしれないが、昭和28年(1953)知内町海岸の工事現場で、鎌倉時代の銅鏡が二基発見されたほか、当時の生活様式を伝える土器の破片も発掘され、少なくとも鎌倉時代の生活様式を持っていた住民が住んでいたことが明らかになった(『忠類村史』87ページ)
 
 
と記述してあり、『大野土佐日記』を引用して、大樹町尾田地区で発掘/発見された鎌倉/室町初期の「歴史的文化財」との関連付けに言及している。
 
 
また『大樹町史』や『忠類村史』更には大樹町に隣接する『広尾町史』においても、明治中期の砂金採集者「渡辺徹三」の残した記録が記載されている。
 
この中で『広尾町史』(1960年)に記載された渡辺徹三の「歴舟川砂金地状況概要」が、現代語に訳されているので、その抜粋を以下に用いる。(同書591~592ページ)
 
 
私が北海道の砂金鉱を調査して、人を各地に派遣して山河を探検させてからすでに十有余年に成る。
当時砂金の採取が有利な事業であることを知る者は極めて少なく、石狩国夕張川に於ける榎本武揚氏や後志国利別川に於ける雨宮敬次郎氏等の二、三の鉱区があるに過ぎない
 
十勝国歴舟川の砂金鉱区は、この時の探鉱の結果出願許可を得たもので、今十五鉱区其の延長は五十九里余殆ど歴舟川の全部に及んでいる。
―――――――。
近年は約百名の鉱夫を雇入れて採金に従事させ、その採金法は主に『ガラス取り』という方法を用いている。
――――――。
また『タガキ堀り』と称して砂礫を掘り取り水で洗い流して採金する方法もあるが、この『タガキ堀』で採取した砂金は殆んど小糠の如き細粒もあるが、硝子掘で採取したものより粒が稍大で、その最大なるものは、一粒十匁内外に及ぶ大粒のものがあり、採取量目は鉱夫の巧拙や場所の良否により同一ではないが、一日十数匁を得る者もある。――――――。
平均すると一日一人の量は五分乃至一匁である。
                    註:「1匁=37.5g」「五分=1.875g」
 
とあり、かなりの砂金が採取できたと述べている。
 
 
                                                                        
 
 
更に、
 
砂金の存在は河流ばかりではなく附近の山岳に至るまで含有され、昔大いに採取した遺跡がある。
ある所は山腹に川の流れを注ぎ入れあるは谷をせき止めて其の上に川の流れを引くなど甚だ大仕掛けで、一個人の仕事ではなかったことを想像させる。
惜しいかな記録が残ってないので詳細は判明しないが、工事中止後成長した樹木がすでに二た抱え以上にも達しているものがあるので、相当古い時代のものと想像される。
 
また口碑の伝えるところによるとその昔盛んに開掘された金鉱があったが、ある時痘疫が大流行して鉱夫が皆病死したために遂に中絶したものであろうといわれている。
 
とあり、天然痘が原因で金鉱開削者が全滅してしまったために歴舟川中・上流の金鉱開発が中絶しまったとの伝承が残っていた、という事である。
コロナ禍の現在に通じる疫病が原因であったという事である。
更に
 
その金鉱が何処であったかは誰も知る者はないが、昨年歴舟川砂金鉱区内に於て偶然その遺跡の一斑と思われるものを発見した。
それは鉱坑で、河流より高いこと約二間程の個所に於て南方の山へ向かって堀入っている。この辺一帯は石英質の岩石で、坑口の幅は六尺、高さ九尺、堀延四間で坑道が塞がっているので点火して見ると、周囲をタガネで開掘した跡が歴然としていた。(同書592~593ページ)
 
 
この記録は明治35年9月11日に聞き書きしたものであるので、渡辺徹三配下の鉱夫がこの金鉱跡を偶然発見したのは、明治34年という事に成る。
 
またその坑口の大きさが
高さ:2.7m(9尺)✕幅:1.8m(6尺)という事であるから、ほぼ畳3枚分の大きさで、
その奥行き(堀延)7.2m(4間)という事に成り、かなり大きな金鉱跡地であったようである。
 
 
 
                   
                   GOLD(自然金:砂金)北海道歴舟川blapiz-0964-16 :blapiz-0964-16 ...
                    歴舟川の砂金塊
 
 
 
 

 十勝金田-その2-」(広尾町/旧忠類村)

 
 
十勝での砂金/金山と言えば「歴舟川沿い」がメインであるが、同じ日高山脈を水源とする河川はほかにもあり、それらについてモンロー自身も調査しているが、前述の通り「廣尾」~大樹の歴舟川に関しては、あまり詳しい調査はしていないようである。
 
しかしながら広尾町や忠類村(現幕別町忠類地区)などの『当該市町村史』に於て、それについて触れている箇所があるので、当節ではそれらを取り上げる事とする。
 
 
1960年に発刊された『広尾町史』には、かつて砂金採集に携わった人たちへの聞き書きとして、以下の様な記述がなされている。(594~595ページ)
 
 
広尾に明治33年頃来町、その頃は主に砂金を採取した。
当時は日方川と豊似川が主産地で豊似川は現在の釜石与三作辺より半里ほど上流の地点であった。一人当り年百匁位採取したものです。
 
この砂金場から鍛冶屋の残り滓とガッチャが掘出され、また附近の畠からは甲冑も出ました。
排水のふちに石垣を積んだ跡が長い処では30間乃至40間もあり、地下の丸太の上には土が一尺も堆積し、その上に更に大木が倒れているという状態ですから、大規模に砂金採取事業がなされたものと思いました。(尾田重太郎氏談)             註:日方河=歴舟川、百匁=375g、半里=約2km、30間=約54m
 
 
という事で、広尾町の大河である「豊似川」の中流に於ても、多くの砂金や金片が採取出来たというのである。
 
当時の砂金買取価格は、日銀の一匁五円(当時約5万円)に準じて仲買人は四円五十銭(4万5千円程度)であったというから、年収4・500万円程度の稼ぎにはなったという事であろう。
 
そしてここでもまた「甲冑の出土」があり、「5・60mの長い石垣が積まれていた」、という事である。
私は前節の歴舟川中流で出土した鎌倉時代や室町前期とされる甲冑と共に、これらを確認して鎌倉時代初頭に、知内に上陸したとされる「荒木大学や甲州金山衆」の痕跡の匂いを感じるのである。
 
 
『広尾町史』には更に別の砂金採集人である高橋秀雄氏の談話も記載されている。以下がそれである。
 
父、高橋金惣は福島県より----明治三十七年渡道し、イチキサイ沢に居を構え、海岸の砂金採取に従った。
大正六、七年頃は、野塚川-豊似川-歴舟川間の海岸に鉱区十三万坪も持つに至った。----。
八月下旬から10月初旬にかけて決まったように大時化があるのですが、その後は浜の砂が洗い流されて下に岩盤が出るのです。
その時上に積もった砂金や砂鉄類をかき集めて、樋で流す方法です。――――――。
大正十三年の秋は大変調子が良く、一度に五、六匁位一日に二十八匁という日が一週間も続いた事がありました。――――――。
父が採取した物では、豊似川上流ハコの奥で明治末年頃七匁八分というのが一番の大物であったそうです。(昭和三十四年三月談)   註:七匁八分=約29.25
 
 
というように、広尾町から大樹町に掛かる「野塚川」「豊似川」「歴舟川」の海岸沿いの砂浜で多くの砂金や金の塊が、明治大正期にかけては採れたという事である。
いずれも川の源流は日高山脈に行き着く、大河である。
 
 
H.S.モンローが明治初頭には確認できなかった日高山脈東側の大河の中流や海岸沿いには、少なからぬ量の砂金や金片/金塊といったものが採取できたことのようである。
 
鉱山技師のH.S.モンローは、「久遠金田」において砂金埋蔵の可能性を低く評価しているが、ここ十勝においても同様の見解であったようだ。残念なことである。
 
 
明治の中期以降に広尾や大樹町に移殖してきた「砂金採集者」の、生命力や逞しさの方が具体的な結果を出しているようである。
 
因みに前節でも紹介した広尾町の砂金採集事業家「渡辺徹三氏」は、先ほどの述懐の中で下記のような思い出話をしている。
 
また明治三十九年九月アメリカのトランスパーバルトン金鉱会社の技師長ヒューゴーデツスシヨングが来村し、歴舟川砂金地を視察して、
 
本道の地質層を研究してエリモ岬附近には必ず良好な金鉱があるものと認定して当地に参り砂金地を視察したところ、果たしてその通りであって甚だ愉快である。―――。』と述べている。(『広尾町史』592ページ)
 
 
というように、このアメリカの民間金鉱採掘会社の幹部は、日高山脈河口域の持つ金産出の可能性を述べ、高く評価していたようである。
 
 
 
 
            
                               手前が襟裳岬、中央の山が日高山脈
              右手の海岸沿いが十勝、左手が日高
 
 
 
 
次に『忠類村史』(2000年発刊)に書かれていた記述で、私にとってとても興味深い記事があったので、ここに紹介する。それは幕末に徳川幕府の幕命を受けて蝦夷地を探検した「松浦武四郎」の『東蝦夷日記』を引用した文章である。
 
相保島=アユボシマ(小川、小休所)・・・・・
 同じく平地、ツキセベシ、ホンチャンコチ(土塁跡)、セキ(小川)、往時、金堀し後有しが故に号(なず)と・・
 
これをみると相保島にも砂金を掘ったセキの跡などがあったことがわかる。
当縁川、相保島川海岸の浜砂金が有名になったのは明治6年(1873年)である。(『同書』93~94ページ)
 
 
と、このように記述されているのであるが、私が着目しているのは「セキ=小川」の名称である。
当初私はこれも他の地名と同様にアイヌ語の地名や名称か、と思っていたのであるが、どうやらそうではないらしい。
 
何故ならばアイヌ語で小川のことは「ペッポ」と言うらしいからである。
「ペッポ」が和訳されたときは「ベチ」や「ベツ」と訳され、今もなお「紋別」「当別」「愛別」「幕別」等の地名として残っている。
 
 
そこで私が想い出したのは「せぎ」という言葉である。
私の故郷山梨県では河川から人工的に農地や集落に水を引き込む、「小ぶりの石垣等で出来た水路」の事を「せぎ」と言うのである。
 
この言葉と関係しているのではないかと、そう閃いたのである。
 
そしてその「せぎ」を甲斐の国で造ったのは、主として金山衆や金山開発に関わった人たちであったのだ。
(ご興味ある方は、別掲の『甲斐源氏安田義定と駿河、遠江之國-するがぢ編-鍛冶屋の里』をご参照いただきたい)
 
 
更に先述の「尾田重太郎氏」の談話にも出てきた
 
この砂金場から鍛冶屋の残り滓とガッチャが掘出され、また附近の畠からは甲冑も出ました。
排水のふちに石垣を積んだ跡が長い処では30間乃至40間もあり、地下の丸太の上には土が一尺も堆積し、その上に更に大木が倒れているという状態ですから、大規模に砂金採取事業がなされたものと思いました。
 
も同様に金山衆の手による「せぎ」だったのではないかと、そう想うようになった。
 
ここに及んで私は、「鎌倉時代から室町初期にかけての兜や刀剣」が出土したエリアに残る「せぎ」を造ったのは、やはり「荒木大学」の流れをくむ金山衆の子孫や末裔だったのではなかったのか、という想いが更に膨らんできたのである。
 
そんな想いもあって、私はもう少しこの「鎌倉時代から室町時代初期」と言われる、大樹町尾田地区(歴舟川中流の砂金採集地)から出土した「兜や刀剣」について、改めて調べてみたいと思い、それを実行する事にした。
 
 
 
                  
 
 
              
              山梨の「せぎ」=用水路/人造の小さな水の路
 
 
 
 
 

 エピローグに代えて鎌倉時代から、室町初期の出土品」

 
 
 
これまでH.S.モンローの『北海道金田地方報文』に沿う形で、レポートを書いてきたのであるが、そこに記載された個々の事例を見て行くうちに私は、「鎌倉時代から、室町時代初期の甲冑や刀剣」が蝦夷地の金山開発に関わる幾つかのエリアから出土している、という興味深い事実に遭遇した。
 
即ち「大樹町」「広尾町」等がそうであり、更に今回は取り上げていないが十勝の山間部「陸別町」においても、同時代の甲冑の出土品である「筋兜」が見つかっているのである。
 
 
 
            
               
             大樹町尾田地区から出土した「筋兜」(帯広百年記念館所蔵)
 
 
 
更にまた興味深いのは、幾つかの砂金採取や金山の開発が行われた場所に於いて、非常に大掛かりな土木工事を伴う砂金採集が行われた事績が残っている、という『各市町村史』の記述である。
 
この事は前シリーズの『蝦夷地における砂金/金山事情』においても述べていたのであるが、このH.S.モンローの『北海道金田地方報文』に登場するエリアにおいても、『市町村史』の中でこういった記述に幾たびか遭遇している。
 
 
そしてその大掛かりな土木工事を伴う砂金採集システムを構築し、運用していたのはどうやら甲州金山衆の末裔や子孫だったのではなかったのか、という想いを私は抱いており、またその様に期待もしているのである。
 
前述の「筋兜」をはじめとした「鎌倉時代から室町初期」と想定できる出土品の数々の存在は、「砂金取り」とは違う身分の金山開発者の存在を窺わせるのである。即ち「士分」であった金山衆の関りを想像させるのである。
 
更にまた砂金採集や金山開発が行われた場所に存在する、「せぎ」という名称の小川の存在が、そのような想いが湧き出る要因となっている。
 
それらの事実は、イエズス会のキリスト教伝道師がもたらした金山開発手法を踏襲している、江戸時代初期の松前藩に関わる金山開発とは、その手法も時代をも異にし3・4百年は遡る事に成るから、である。
 
 
これらの課題に関しては、私は改めて調べてみたいと思っている。
それはたぶん各市町村発行の『史書』に基づき、改めて現地調査をして行く事によってしか、得られないのではないだろうかと、そう想っている。
 
いつの日に成るのかを確約することは出来ないが、今後の課題としていきたい。とそう想っているところである・・。
 
 
 
H.S.モンローが明治初頭に、当時の北海道開拓使に提出した『北海道金田地方報文』を基にした、蝦夷地の砂金や金山開発を巡る検証の旅は、ひとまずこれにて終了することとしたい。
 
因みにその『北海道金田地方報文』においては「松前金田」として書かれている箇所があるのだが、冒頭でも述べてるようにそれに関する記述は『蝦夷地における砂金/金山事情・・』で既になされている事から、重複を避けてここでは割愛している。
 
従って、「松前金田:福島町&知内町」についてのH.S.モンローの『報文』に、ご興味関心のある方は、そちらをお読みいただけたらと想っている。
 
 
以上。
 
          未だコロナウィルスの猛威が収まらない
                             2021年1月6日
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

      

 
 
 
 
                 
                  
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 



〒089-2100
北海道十勝 , 大樹町


 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
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