春丘牛歩の世界
 
先週から、「行者ニンニク」が採れる様に成り、我が家の食卓にも乗るようになった。
行者ニンニクが採れる様に成ると、今年の春がやって来た事を実感する。
これまでの私の経験では「行者ニンニク」が生えてきてから、雪が降ったことは無いから、である。
 
 
      
 
 
野生の昆虫や動物たちが作る巣の位置で、颱風の影響を早い時期に推測できることがあるが、自然界の生き物たちは彼らなりのセンサーで、天候や自然現象を察知する能力がある。
そんな事から私は、「行者ニンニク」が我が家の林に生え始めることを、季節の到来のメルクマール(指標)にしているのである。
 
 
      
 
       
         
 
     
 
 
    記事等の更新情報 】
*4月19日 :「コラム2024」に、「青い春」と「チャレンジ虫」を追加しました。
*3月25日:「相撲というスポーツ」に「新星たちの登場、2024年春場所」を公開しました。
*2月8日:「サッカー日本代表森保JAPAN」に「再びの『さらば森保!』今度こそ『アディオス⁉』を追加しました。
*01月01日:本日『無位の真人、或いは北大路魯山人』に「無位の真人」僧良寛、或いは・・を公開しました。
これにて本物語は完結しました。
12月13日:  『生きている言葉』に過ぎたるはなお、及ばざるが如し」を追加しました。
*9月29日:「食べるコト、飲むコト」 に「バター炒め二品 」を追加しました。
*9月27日;「物語その後日譚」に「奥静岡の鶏冠(とさか)山」を、追加しました。
 
 

  南十勝   聴囀楼 住人

          
               
                                                                  

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2024年5月15日から、当該サイトは従来の公開方法を改め、新しい会員制サイトとしてスタートいたします。
 
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         2024.05.01
              牛歩
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
   
      
  
当『続、蝦夷地の砂金/金山事情:市町村史中心に』は、そのタイトルが示す通り『蝦夷地の砂金/金山事情:市町村史中心に』及び『H・Sモンローの北海道金田地方報文を基に』の続編であり、姉妹編であります。
今回は、従来取り上げてきた道央や道南・道東等のエリアより、オホーツク方面の道北エリアが中心になります。
下図で言えば緑色の「上川・留萌地方」や薄緑の「網走・北見・紋別地方」を中心とした内容になります。
 
  
       
 
            【 目 次 構 成 】
         1.士別市(道北上川地方)
         2.和寒町(同上)
         3.幌延町(道北宗谷地方、日本海側
          4.当別町/浜益地区(石狩市)
         6.紋別市:その1(同上) 
         7.紋別市:その2「鴻之舞金山」
                      
     今回シリーズの連載はこれにて終了いたします。(2023年6月10日)
 
 
 
 

 1.士別市(道北、上川地方)

 
 
今回取り上げる「士別市」は北海道の道北エリアの内陸部に在る人口2万人に満たない、酪農が盛んな田園地方都市である。
そのまま南下するとこのエリアの中心都市「旭川市:約33万人」が在り、生活圏として旭川の影響を受ける東西に細長い町である。
 
 
 
 
                      
 
 
 
 
この士別地区も明治時代から砂金や白金が自然採取できたエリアで、明治30年代に始まった北方オホーツクに面する、「枝幸地区」でのゴールドラッシュに刺激を受けている。
 
この地域に入植した当時の開拓民達が、手つかずだった近隣の河川を浚(さら)い大古以来の沈金の採取を行って、それなりの成果を得ることが出来たのであった。
 
下記はその当時の様子を記した士別市発刊の『士別市史』(1969年)に記載された、「砂金や金山」にまつわる記事の抜粋である。
 
 

 
「士別市における砂金、砂白金については、きわめて古くから住民によって採取がおこなわれている。すなわち、枝幸砂金が全盛をきわめた明治34~35年頃には、すでに、伊文3線沢において採取が行われていた
明治41年頃には、伊文5線川、温根別南線にも採取がおこなわれている。
 
その後、昭和17年から終戦までの間は、北進鉱業有限会社によって、伊文3線沢の北の沢で、砂白金約11キログラムが採掘された。
最近では、附近の住民によって、温根別南17線から伊文5線にかけての地域、およびその小沢で、わずかに、密採されているにすぎない。
 
記録によると、砂金の最高重量は温根別南8線西の沢産(昭和8年)の約600グラムの金塊である。このものは、砂金の中では本邦最高であるところの枝幸ウンタンナイ川支流のエトルシュオマブ沢(明治33年)のものにならぶものである。
砂白金の最高重量は、伊文3線沢産(昭和7年以前)の10.5グラムの白金塊であって、本邦最高のものである。
 
なお、
伊文3線沢の砂金の最高重量は、約45グラムで大正9年に採取され、
伊文5線沢の砂金の最高重量は、約146グラムで昭和10年に採取された。
また伊文工藤の沢では昭和10年に約180グラムの砂金が採取されている。」
                         (同書1062ページ)
 
 
                        
                           *士別市西部「温根別」「伊文」地区
           黄色:右上JR士別駅、左上「温根別」地区
           緑色:上は南8線、下南9線 
           青色:左上「伊文3線」沢、右下「伊文5線」沢
 
 
 
「・・・明治34~35年には、すでに伊文3線沢において採取が行われ、次いで41年頃には5線川から南線に採取がのびていた。
 
「『砂金掘り物語』という・・物語りのなかに、松前砂金採取団に加わったこの物語りの主人公渡辺良作と、採取団の指導者である菊地定助が、大正4年に数十年ぶりに温根別で再会し、当時南12線にあった由井商店の庭先で一献酌みかわしている写真が見られる。
温根別が、ゴールドラッシュといわれ、一世を風びしたのは大正2年頃とされている。
 
温根別開拓回顧座談会記録にも、
 
―宇都宮芳太郎
「砂金は今の南8線、11線から相当出たものです、大正2年頃には名寄の平光太郎氏の鉱区があり沢山の人夫が入り込みました。このため非常ににぎやかで、料理屋を始め旅館、雑貨店など数軒できて繁盛したものです。」
-田西由太郎
砂金のほかに金塊が相当出たものです」
-宇都宮芳太郎
「昭和6・7年頃金塊はだいぶ掘り出されました。坂口才一郎さんは南8線で160匁の金塊を掘り出しました。
 
と語りこの頃すでに南12線が市街化されており、砂金景気にささえられた歓楽街が形成されていた。
・・・砂金掘りに従事するおよそ200人位の人夫の求めに応じていた。
砂金採取は密採がほとんどで、鉱区権を出願しだしたのは大正3年頃からだという。
 
砂金および砂白金は、蛇紋岩地帯の河川のそう漂砂鉱床から産出され、現場では砂金を『あか』砂白金を『しろ』とよび、古老の語るところでは南8線沢に『あか』、南17線沢に『しろ』が多く産出され、当時の需要の関係から『しろ』の砂白金より『あか』の砂金の方が貴重とされたこともあった。という
  
-羽鳥勇次郎
「昭和9年2月28日、南8線沢通称赤の沢といわれたところで私と以内要次郎そのほかの人達と共同で160匁の金塊を採りました。こぶし大よりちょっと大きかったでしょうか。
40匁の不純物を差し引いて純度120匁の黄金でした。」
 
 
当時の値段は『あか』1匁4円20銭、大阪造幣局の買い上げ価格は5円であったといい・・。
人夫を5人から10人位使っていた親方は、収入の6割を自分が取り、4割を子方に分配した
 
当時普通の出面賃は男子1日50銭から80銭位のところ、砂金掘り人夫は1日3円くらいの日が続くこともあり可成りの高収入であった。
しかし貯蓄心などは全くなく、その日の収入はその日に消費するいわゆる宵越しの金は持たないものが多く、1かく千金を夢みることを唯一の道楽とし、一生を砂金掘りで終わるものも多くいたという。」
 
 
                      (同書1065~67ページ)
 
 

 
上記でも判るように明治時代後半から昭和の戦後に掛けて、士別市西部地区の南西部山側の「河川」や「沢」では、少なからぬ量の砂金や砂白金が自然採取できたようだ。
 
昭和8年にこのエリアで獲れた最高重量の砂金は1匁=約3.75gなので、「600g=160匁」という事で、大阪造幣局が当時800円(5円/ 1匁)程度で購入したことに成る。
 
当時の日当3円程度というのは、現在の労賃から推測すると1円=100銭は現在の2万円前後に相当すると思ってほぼ間違いがないようである。
してみると当時の砂金掘り人夫の日当は、現在の6・7万円相当にあたると思って差し支えない「稼ぎ」であった、と想われる・・。
 
更に大阪造幣局の購入価格約800円の価値は、現在であれば@2万円=1,600万円相当という事に成るから、まさに一攫千金の稼ぎという事に成るようだ。
彼らが「宵越しの金は持たない」と豪語しても、無理なからぬ金額ではある。
 
 
最後にこの『士別市史』は1969年に発刊された市の公文書であるが、標記文書の最後尾(1068ページ)には下記のように書かれて結ばれている。
 
なお現在でも、南8線ほかの各沢小河川にそう鉱床はあるが、企業採算のとれないまま放置されている
 
 
 
            
                士別市の左端が「温根別」「伊文」のあるエリア
 
 
 
 
 

 和寒町(道北上川地方)

 
今回取り上げる「和寒町」は、間に「剣淵町」を挟んで前回の「士別市」のほぼ真下に当たるエリアで、旭川市に一部隣接する上川地方の内陸部に位置する街である。
従って士別市とは、同じ鉱脈が繋がっている事も予測される。
 
 
 
    
 
 
 実際に採取された鉱物は「砂金」や「砂白金」が中心で、やはり「士別市」と同じ鉱物である。
 
下記は『和寒町史』(1975年)等に記載されている和寒町で産出された「砂金」「砂白金」類に関する記述の抜粋である。
 

                          記載ページ同書378~380
 
 
明治41年(1908年)ペオッペかんがい溝築造に来ていた土工夫が浜砂金・砂金を発見し採取を出願して許可に成ったが、価格が安かったので余り採取しなかったようである。
 
明治43年、字三和の渡辺織栄久保金三と共に・・・この年38㌘ほど採取して旭川の藤本本造に売った。
(藤本は)翌44年春には100人ほどの人夫を使って本格的に採取に掛かり・・西三和地区がゴールドラッシュに沸き・・・。     ( )は著者牛歩の挿入
 
また、大正13年ころ再び盛んになったようだが産出量は判らない。
 
 
「和寒方面は水利悪しく夏季流水の枯渇せる場合には操業の継続困難なるため採取専門の者少なく附近居住の納付が農閑期に従事する状況なり。採取場13、採取夫36人」(昭和3年発行『北海道鉱業誌』)
 
と当時の和寒での採集状況を『北海道鉱業誌』を引用して補足している。(牛歩加筆)
 
 
戦前における第3のピークは昭和6年におとずれて、砂白金3キロ㌘、砂金1.8キロ㌘を産出している・・。
 
・・最も隆盛をきわめたのは、太平洋戦争中である。
昭和17年(1942)軍需相次官岸信介の強い要請により船橋要が帝国砂白金開発有限会社を設立した。
飛行機の部品に白金が必要なので年間30キロ㌘採掘してほしいというのが軍需相の要望である。
10㌧の土砂から1㌘とれるかどうかという当時のことだから、これは大変な難題であった。
 
・・・・・・・
産出量は軍の機密事項として扱われたため正確な数字は不明だが、月産130という。
・・・・・・・
(昭和)30年ころにはほとんど居なくなり、(採取人は)現在では西和の加藤静が仙人のような生活をしながら1人コツコツと掘り続けているに過ぎない。                         ( )は牛歩挿入
 
                         和寒町MAP
 
           
                
             赤丸;西和地区 緑丸:ペオッペ(辺乙部)山  
               青丸;JR和寒駅
           和寒町の左上は、士別市西部「温根別」「伊文」地区
 
 
 

 
因みに文中の「軍需相次官岸信介」は、2か月ほど前に旧統一教会の「信者二世」に銃撃暗殺された、安倍晋三元首相の祖父で、彼が尊敬して止まなかったウルトラ保守政治家のことである。
当時は軍需を調達する業務を任されていた有能な官僚であったようだ。
元統一教会を日本国内で育て、援助したのもこの岸信介元首相である。
 
 

 幌延町(道北、宗谷地方)

 
幌延町は北海道の最北端である「宗谷地方」に属し、日本海側に面するエリアである。
近隣には「浜頓別」「中頓別」「枝幸町」等の金の産地が控えている。
従って、「幌延町」の鉱脈は「頓別地区」や「枝幸」エリアと同じ鉱脈の延伸部にあたると言えそうである。
 
 
        
 
「金」の生成はマグマ内に於いて誕生する、という事らしいのでマグマが地上に排出する場所や大古に排出したエリアには、金が埋設している可能性が高いと云われ、樺太から北海道に至る縦の火山帯や、千島列島から東西に広がる火山帯が合流・衝突するこのエリアに金山や金鉱が多くみられるのは、そのような理由によるものらしいのである。
 
下記は「幌延町」が1974年(昭和49年)に刊行した『幌延町史』の抜粋である。
 

 
  【 明治以前の砂金 】
 
幌延で砂金が採れることは江戸時代の早い時期から、松前藩などでは知られていたらしく元禄年間には、藩内では既に有名であったようである。
 
                               『幌延町史』585ページ ー
 
まづ有名な羽幌の砂金について述べてみよう。
『福山秘府』の元禄9年(1696年)の記録に
ー羽保路の浜辺へ寄候金、40年余以前掘申候ー
と見えているので、羽幌で砂金を採取したのは、17世紀半頃が最初であるらしいが、くわしいことは知り得ない。
・・元禄3年(1690年)に羽幌の海岸に砂金が発見され、藩吏及び鉄夫数十名を派遣して採取させた・・
                                牛歩註:『福山秘府』は江戸時代中期安永年間
                                                           (1780年頃)に刊行された松前藩の公文書
 
  【 明治以降 】
                       『幌延町史』588ページー
 
「本町の砂金・砂白金は問寒別の産が全国的に有名であり、問寒別開発の端緒と成ったのも、砂金、砂白金と木材であるといって差し支えない。
  ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
大正8年に北見の敏音知、松音知より木材流送のため問寒別へきた人々によって、8線沢の砂金が発見され、また、道庁や、鉱山監督局の測量が行われた際、テントを張って宿泊したところ、附近の小川で金を見つけた、というようなこともあって、だんだん問寒別の砂金の存在がひろく知られるようになった。
 
なおその頃採取したものは、・・・・・忽ち松音知、敏音知付近の評判になり、又8線、ケナシポロ付近にも噂が立ち、松音知、敏音知からは売りに行った人の跡をつけるというようなことまであって、その後は我も我もと砂金掘りに殺到した。」
 
密採は大正8年より段々活潑化し、大正14,5年頃、問寒別は砂金ラッシュが出現した。
利殖学者として有名な谷孫六の著書「ガンバリズム」には
ー金儲けをするには、天塩国のトイカンベツ川の上流に行けばプラチナがゴロゴロあるー
と書いてあるが、それほど有名になっており、当時の新聞にも最も密採の激しかった時は密採者約500名を出したと報じている。
 実際は300名位で、開発当初のことであり、畑も少なく、又農産物の価格も廉いので、農業にあまり力を入れず、もっぱらこの密採と、木材によって生活し、一時的にでも懐中をあたためていた。」
 
 
               < 幌延町MAP >
         
              赤丸:8線沢川、黄色:JR問寒別駅
              青丸:左上ケナシポロ川、右下信加内川
 
                     
                     ー下記は『同書』589~590ページー
 
「この猛烈な砂金熱も、大正15年頃より鉱区の設定が認められ、既に有望な個所は殆んど採掘されて次第に衰微してきたが、昭和4年、日本白金クローム鉱業株式会社が20線付近に於いて相当大規模に採取に着手し、豊田義明が之に当たっていたが、後北海道炭礦開発株式会社が継続し昭和20年迄兼俊実男が経営していた。
この間砂金、砂白金約6貫匁を採取した。
                       牛歩註:6貫匁は約22.5
                               =@3.75㎏×6貫
        ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
 
現在に於いても砂金掘りを農閑期等にやっている人もいるが、水利や表土等の条件のよい所であれば採取して採算がとれるが、殆どこれという箇所はない。
然し砂金は絶対に採りつくせるものでなく、まだ各所に分布がみられるが、機械力を利用して大規模に事業化することも考えられる。
余り微細少量であるために工業化は不可能であり、ただ8尺も10尺もある表土の処置を動力の水の利用化によってある程度能率化できると考えられる。
 
       ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
 
問寒別の分布状態は、問寒別川により東西に区分して東岸は信加内川より上流地帯、西岸は8線沢より上流で殆どが北大演習林地内であり、石炭、砂クローム等も大体同じである。
 
主として沖積鉱床であり、現在の河床の中、或は昔河床であった処から産出し、或は金を含んでいる岩石が崩れてきた土砂の中から発見されるもので、多くは細粒状、細片状であるが大きい塊となっている事もある。
 
本地方より産出する砂白金は、イリドスミン鉱で、成分はイリジウム50%(比重22.42)、オスミウム30%(比重22.47)、其の他であり、この種の白金は全国的に産出は極少量であり、北海道産の砂白金はペン先に使用すると世界一で、30年間使用可能である。
その他度量衡の標準原器外科、内科医術用品等に使用される。
 

上述のように、北海道の砂金採取は
1.「河川や砂浜などで砂金や砂白金を偶然発見」するところから始まり、
2.その後金類が大量に採取出来たり、埋蔵量に当面限界が無いと判った時に「噂が広まり」近郊や遠方から「金に魅せられたロマンチストが集積」し、
3.「ゴールドラッシュが始まる」
 
といった様なプロセスを辿る様である。
明治時代の「道北の枝幸」や「道南今金町の利別=登志別」のゴールドラッシュも同様のプロセスを踏んで来たようであった。
 
そしてその後
4.「鉱区の許認可」という行政の管理・介入が始まり、「有権利者」と「密採者」との区別が誕生するようである。
5.更にその鉱区開発の「有権利者」が、改めてその権利を「中央の鉱山開発業者」や「金・白金の大手仲買人」等に開発権を譲渡/売却し、
6.当該鉱区域に投資の価値があれば、大きな投資が行われ、「近代的」で「産業化」した開発が着々と行われる、といった道のりを辿る様である。
 
1~3などは比較的「個人の手作業」や「家内制手工業」の様なレベルで、ある種のロマンやノドカさを感じるのであるが、4~6の段階になると近代的な企業経営による「鉱山開発業」にと一気に変貌し、「投資&回収&利益の分配」といったシステム化された近代資本主義的な経営にと、質的な転換を遂げるのである。
 
そしてそのような「近代産業」的経営の進行の結果、「投資⇒利益の回収⇒利益の配分」といった資本主義の法則にのっとって、鉱山の大規模開発が拡大再生産され、産出された大量の鉱物の「化学的処理」が必要に成り、同時並行的に「鉱害」や「公害」が発生してくるようである。
 
私などにとっては、1~3の「人力」レベルの採取であれば、多少なりとも感情移入する事も出来るが、4以降の「大型産業機械=重機類」の投入や「大規模精錬」のための「大型科学プラント装置の導入」といったフェーズに入ると、何故だか興味や関心の対象から外れてしまうのである。
 
その理由は不明であるが、やはり手作業レベルの「砂金や白金の採取」であれば、ある種の人間クサさを感じ取ることが出来るのだが、企業経営の一環としてシステマチックに遂行れたりすると、何となくシラケてしまうのである。
きっと私の人間性がその様な判断をしてしまうのではないかと、うっすら感じているところである・・。
 
 
 
 

 
 

 当別町/浜益地区(石狩市)

 
 
今回取り上げる「当別町」は札幌に隣接するベッドタウンの一つでもある、道央石狩地方の衛星市町村で、南側が「札幌市」に接し、日本海側は「石狩市」に隣接する南北に細長い町であるが、日本海には面していない内陸の町である。。
 
その当別町の「砂金や金山」を中心に、一部石狩市(浜益地区)にまつわる記事である。
 
 
          
                                    ベージュ:当別町、左隣:石狩市
 
 
今回取り上げる記事内容は1972年(昭和47年)に作成された『当別町史』(585~586ページ)及び1937年(昭和12年)の『當別村史』に準拠している。
 
 

 
   『当別町史』:昭和47年5月発刊 「第7章 鉱業と工業」(586ページ)他の抜粋
 
 
 
「1900年(明治33年)東幸三郎外一名、二番川地区の当別川筋で砂金採取を許可せられ、またこの年6月支流二番川(チライウンポントウベツ)及び(ヒラウチオマナイ)流域で採取許可を得た菅野弥吉外一名があり・・・
1913年(大正2年)鈴木平太夫、羽田佐吉、黒田仙右衛門、白井虎吉、西村政太郎、西館佐太郎の6名共同で桂の沢において約5万余坪(約16.5ha )、砂金沢において3万余坪(約9.9ha)を出願、許可を得その後3年間採取し、初年200匁(約750g)内外の採取あり
 
その大なるものは18匁9分(約70.8g)の金塊を得て人々の話題になった事もあったが漸次採取量減少して収支償わず、・・・終に廃止するの止むなきに至った。
 
 最盛期には小樽方面よりの出稼ぎもあり従業員50余名、繁盛の名残は今も竜神祭に見ることができる。」
                      = 以上586ページ -
 
 
 
「桂の沢と砂金沢で、砂金採取をはじめたのは菅野弥吉である。
明治36年砂金採取の出願許可をとり、更に、大正2年鈴木平太夫、羽田佐吉、黒田仙右衛門、白井虎吉、西村政太郎、西館佐太郎の6名が共願で鉱区を取得、採取をはじめた。
以後3年継続して採取したが、最初の年200匁(約750g)内外の収獲があった。最大のものは18匁9分(70.8g)もあり、当時凶作のころであったが、米12俵を買いさらに借金払いもしたという話も残っている。」
 
                      - 以上176ページ -
 
 

 
   『當別村史』:昭和12年6月発刊 「第四章」(282~283ページ)抜粋
                              註:「旧文字」標記を「当用文字」に修正して記載
 
【金銀鉱】
「金銀鉱は当別村字二番川当別川流域桂の沢にあり、大正五年安倍儀之助発見、鉱物分析の結果金百分の七、銀十万分の五を含有す、大正七年十一月鉱区六十四万五千九百三十八坪出願許可を受けたるも採掘に至らず、大正九年十月廃止せり、
その後鈴木平太夫、勝正等更に調査を遂げ昭和七年に至り鉱区を出願許可せられ、現にに鉱区を有す。」 
 
 
【砂金鉱】
 「青山砂金鉱は当別村字二番川付近当別川流域にあり、本地方は前時代に於て砂金採取をなしたるものあること既に記載せるが如し、本時代に入るや、大正二年鈴木平太夫、羽田佐吉、黒田仙右エ門、白井虎吉、西村政太郎、西館佐太郎等の六名が共同にて同桂の沢に於て五万余坪、砂金沢に於て三万余坪を出願し、許可を得て着手し
爾後三箇年採取に着手し初年二百匁内外の算出あり、其大なるもの十八匁に達したるも、漸次減少して収支相償はざるに至りたるを以て、後共同経営を中止し鉱区も縮小して、鈴木平太夫己人の経営となし、以て今日に至りたり、然れどもいまだその成績を挙ぐるに至らず。
                        前時代:明治時代以前
 
 
 
                                          当別町北部、青山ダム下
                                   
                        上の青:砂金沢近く
                            下の青:桂の沢
 
 
                【 石狩市旧浜益村 】
 
 
上記の当別町に隣接し、日本海に面している左隣の街が「石狩市」であり、そのタツノオトシゴ状の頭部に位置するのが、同市北部の旧浜益村である。
この旧浜益村の当別町との中間域に「黄金山(こがねやま)」標高739mが在る。
 
 
       
        左図:日本海に面した左上が石狩市、 右図:上部の区画が旧浜益村
 
 
その「黄金山(こがねやま)」の山麓には「黄金沢川」が流れており、その近くに「黄金山神社」が鎮座している。
石狩市と合併する前の『浜益村史』(1980年3月発行)には「黄金山神社」についての簡易な記述があるのみで、「砂金・金山」に繋がる情報は特段書かれていない。
 
因みにその記述は1079ページの「その他神社」の項に
 
・・その後各部落にもおのおの鎮守の社ができ、明治27年に実田(みた)黄金山神社また幌に稲荷神社が見られる。
 
と書かれている。
 
ではあるが「黄金山」の麓に「黄金沢」という川が流れ、その近くに「黄金山神社」が祀られているという構図は、本州の糸魚川市能川流域や茨城県北部の常陸太田市西金沙山周辺でも見られたように、砂金や金片等が採取された場所では必ず現れる三点セットである。
 
そう言った点を考え合わせると、かつてこの河川や「黄金山」周辺で砂金や金片が取れた可能性は高く、神社の創建が明治27年であるとすればその数年前には、それなりの量の砂金類が採取できた可能性が推察できるのである。
 
しかしながら昭和に入ってからの『浜益村史』や『石狩市史』にその手の記述は見つからない。
「砂金や金山」に関わる記述が無いのは誠に残念であり、「伝承」や「伝説」すらも残っていないのは、何とも仕様が無いのである。
 
 
 
               
                   赤:黄金山
                   青;左「黄金山神社」、右「黄金沢」河口
 
 
 
唯一浜益村に残っている砂金金山絡みの伝説は、浜益村北部の「千代志別地区」の「むかし話」であり、そこには下記の如き記述があるのみである。
 
 第11話『金山と下駄』
 
「むかしこの村は、『金』がとれたんだと
金山までの道のりは、歩いて五時間もかかったんだと。
 
因みに「千代志別地区」と「実田地区」とは、直線距離で12㎞程度離れおり、黄金山との間には「浜益御殿山」や「浜益岳」等の高い山々が連なっており、「千代志別」から「黄金山」に金堀に行ったと考えるのにはかなり無理がある。
その点を考え併せると、この「昔ばなし」との接点は考え難い。
 
 
 
 
 
 
 

 雄武町(道北、オホーツク地方)

 
次に取り上げる「雄武町」は、明治30年代の北海道にゴールドラッシュをもたらした「枝幸町」に隣接する街で、オホーツク海に面する道北に位置する。
 
「枝幸町」の東南部に位置するという事で、この街でのゴールドラッシュに対する期待は当時からかなり高かった、という事である。
 
実際のところ主力のニシン漁の不漁が続いたこともあって、当時の雄武村の漁師たちの多くが、枝幸町に砂金掘りの出稼ぎに行ったことが『雄武町の歴史』(1962年:昭和37年)などにも書かれている。
 
                                           
 
            
                                                                 赤文字:雄武町の左上が「枝幸町」
 
 
しかしながらそれは明治30年代の頃のことであり、「雄武町地域内」において砂金採取が盛んに行われ、活況を呈するように成るのはそれから数年後の、明治40年代以降の事である。
 
下記は雄武町内での砂金採集の歴史を詳述している『雄武町の歴史』(前述)の抜粋である。
                                           
 

 
 枝幸砂金の波紋は雄武にも拡がり、明治37・8年ころから、新金田探検の砂金掘りたちの姿が渓流という渓流、小沢という小沢に見受けられるようになった
各地で試掘が行われたが、まだ優良鉱区を発見出来ず、無許可密採の小規模な作業がひそかに進められた時代である。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
 
鉱区権を取得した田口源太郎は、密採を取り締まるため紋別警察署に巡査派遣方を請願した。
『紋別警察沿革史』に
― 明治41年10月田口源太郎ノ請願二依リ砂金採取許可地取締トシテ巡査1名配置明治43年3月廃止ス。ー
とあるのがそれである。
 
田口は中の沢を直営とし、上の沢はいわゆる税金掘りで採取者は1ヶ月10円の入区料を支払った
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
 
最盛期にはネコ、揺り板金棒などの採取道具をかついだ砂金掘りたちが、毎日百人ぐらい往き来するという賑わいであった。
大正に入ってから旭川の住の井醸造元塩野谷辰造が中の沢の延長14町16間の鉱区権を取得すると、彎曲している古い河床を探って上と下から同時に掘り進んだ。
人夫12・3人が常時働き、鉱脈をたどってトンネル掘進が続けられ、トンネルの奥の暗がりから眠っていた品位の高い砂金が多量に運び出された。」
 
                     『同書』839~840ページ
 
 
上幌内の発見も同じく明治40年頃である。雄武美深線を14線から町道に入り、さらに砂金沢林道を7㌖ほど上がった処に鱒どまりの滝があり、の滝の上流3㌖と下流1㌖足らずが黄金花咲く砂金地と成った
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
 
明治43・4・5年がその最盛期で鉱区権を取得していた山崎は事務所を作り、採取地を区分して採取料を取り・・。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
 
ちょうどこの最盛期の砂金沢について北見の富源は
― 上幌内には、44年に砂金山が発見せられ採掘人夫は四百人は常に居る。以ってその状況を想像するに足る。将来益々有望と喧伝せらる。 ―
と書き・・・・・。
 
砂金沢の砂金は中雄武のものより品位も高く、八分五厘から九分くらいの純度で匁五円で取引され、1日平均1匁ずつ採取出来たから大変な景気であったわけである。
またこの沢の砂金は粒が細かくてもっとも大きいもので二十匁であったが、量では枝幸に劣らないといわれていた。」
                          ( )は牛歩加筆
 
                          『同書』841~842ページ
 
 

 
既述のように、当時(明治終わりから大正にかけて)の貨幣価値は現在の労賃から推測すると1円=100銭は現在の2万円前後に相当すると思ってほぼ間違いがないようである。
 
従って鉱区の月額10円の「入区料」ほぼ現在の20万円に該当し、一日平均1匁採取出来たという事は5円=約10万円程度の実入りがあった、という事に成る。常時四百人の採取者が群がったのも頷ける現象である。
 
さらにこの場所は「砂金沢」と称されているが、一般に「砂金沢」「砂金山」「小金沢」「金堀場」「金山」といった地名が残っている場所は、かつて砂金や金塊が採取できた場所であることの名残りであると想われるから、砂金採集に今なお興味を抱かれているロマンチストは、これらの名称を参考にすると佳いことがあるかもしれない。
 
またこの明治40年代から始まった雄武の砂金掘りはその後も続き、昭和の35年ごろまで続いたようである。
即ち当該町史『雄武町の歴史』が発刊された昭和37年の時点でもまだ続いていたことに成る。この歴史書が発行された時点では、決して遠い昔の明治の思い出話ではなかった、訳である。
 
・・昭和の砂金掘りは12年ごろまで続いたが、その後も忘れられたわけではなく、35年には畔川平作とその身内の数名はモーターを運び入れて下の滝の滝壺を干し、大掛かりな砂金採取を行っている。・・」 
                             (同書:842ページ)
 
 
以上に関しては、明治後期から始まった「砂金取り」という、手作業の延長の「砂金採取行為」であって、どちらかというとロマンあふれるノドかな風景がイメージできるが、大正から昭和期に入ってその砂金採取に関しても「近代化」や「産業化」の波が、押し寄せて来ることに成る。
 
下記はその様な「近代化」「産業化」した砂金採取が、大正の中期から昭和の初頭にかけて中央の金鉱山開発会社との間での業務契約を経て、この雄武町でも始まった歴史を記述している。
 
 

                ― 雄武町史『雄武町の歴史』よりの抜粋を基に ー
 
 【雄武威(おむい)鉱山
 
『北海道鉱業史』は雄武威鉱山の沿革について
「大正八年(橘光桜らによって)精査を遂げ、同九年試掘出願、十年五月許可を得、同年時に探鉱に着手、同十四年藤田鉱業株式会社を譲り受け、同年八月採掘」と述べているが・・・。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
(大正)九年には・・橘と藤田鉱業との間に売鉱契約と約三ヵ年間の探鉱契約が成立し、雄武威鉱山に関するいっさいの事業が藤田組の手にうつって早期開坑の体制が整い、十一年には正式な売鉱契約がとり交わされた
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
(藤田鉱業は)大正十三年には(金鉱石の精錬技術を持つ秋田の)小坂鉱山との間に売鉱、探鉱契約が成立し、翌十四年には五十馬力のガスエンジンを設備して火力発電を行ない、掘削にも機会掘りを加えて能率を向上した
十五年になると、雄武市街と鉱山の間を鉄索で結んで鉱石の搬出、物資の輸送は一段と便利になり設備内容は年とともに充実していった。
 
(当初は)鉱石の積み出しには大川町の広瀬文治の船を借り秋田の小坂鉱山に送って精錬した。
(が大量の鉱石の産出・搬出が可能になると)小坂鉱山への鉱石輸送には一千トンから二千トンくらいの樺太帰りの空船を回航させ、浮舟で本船に積みとる方法であった。」                     ( )は牛歩の加筆
                   『雄武町の歴史』844~846ページ
 
 
その後昭和3年頃から資源の枯渇や経営会社との契約トラブル等が発生し雄武威鉱山での金鉱山開発は下降の一途を辿り、往年の活況は見られなくなった。
 
 
そして再開された昭和八年の鉱産額は金銀鉱一九トン、金額にして二二一円にとどまり工夫の員数八名にすぎず、これを盛事の月産一,〇〇〇トン、従業員百名とは比ぶべくもない。・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・   
品位の平均は一キロ中三十グラムぐらいで、最高品位三,〇〇〇グラムをかぞえることもあるという高品位の富鉱であった。・・・」  『同書』847ページ
 
 
このようにして「雄武威」の鉱山開発は衰退していくのであったが、それに替わって登場するのが次に取り上げる「北隆鉱山」である。
 
 
 
   
                          青丸●:雄武町役場
                     赤丸:右下「砂金山」雄武威鉱山周辺
                         左上「北隆鉱山」
 
 
 

                ― 雄武町史『雄武町の歴史』よりの抜粋を基に ー
北隆鉱山
 
「大正十一年五月雄武奥地で山火がおこり、三千五百町歩の山林を焼いたが、北隆鉱区一帯も山火になめ尽くされた。・・・・・・・・・・・・
 
白橋長三郎と鈴木慶三郎は・・・・まだ残火が煙を上げ根株が火焔を立てている北隆の山を踏査して火に洗われた焼き石と沢の石片を持ち帰り、それが含金銀鉱石であることを確認できた
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
山火事のお陰で所々に転石が露出し、それで雄武威と北陸の金山が発見されたわけである。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
 
(その間、北隆地区で砂金類の採掘を行っていた瀬川良作は、中央の大手鉱山開発会社の久原鉱業株式会社との間で、大正)十五年(=昭和元年)に正式な探鉱契約が成立した。
さらに探鉱がすすんで翌昭和二年末には売山の契約が締結され、久原鉱業株式会社とその後身日本鉱業株式会社が権利いっさいを引き受けて翌三年から着々事業を拡張し、昭和十六年まで操業を続ける基盤が出来上った。
              『同書』849ページ   ( )は牛歩の加筆
 
 
このようにして久原鉱業という中央の大手鉱山経営会社が事業に参入し、「北隆鉱山」の開発が「近代的」「産業的」に行われるようになったのである。
因みに北隆鉱山から産出される金鉱石の品位は
 
精鉱の平均品位は一㌧中金二十三㌘、銀八十五㌘であるが、含金量千分台の高品位のものも産出された。・・・」『同書』849ページ
 
 
という高品位の金鉱石であった、という。
更にその「近代的」で「産業化された」手法で行われた採掘方法というのは
 
小型さく岩機と手掘りを併用して無充填上向階段法によって採掘し、縦杭には捲上機を設置して鉱石を運搬した。・・・
 
鉱山と元稲府海岸の間は鉱山専用軌道によって結ばれ四〇馬力四㌧ガソリン機関車で牽引する一㌧積みの鉱車十二輌で一列車を編成、一日三往復ないし四往復して鉱石を運搬した。
 
こうして元稲府海岸に搬出された精鉱はさらに海路によって日鉱大分県佐賀関精錬所に送られて精錬された」            『同書』850ページ 
 
 
 
                     
                           イメージ図
 
 
といったシステムで雄武で産出された金鉱石は、北海道オホーツクから九州と四国を結ぶ豊後水道エリアまで、海路で運ばれ精錬したのであった。
後に鉱山の近くに精錬所を設置した久原鉱業は、自前で精錬するようになった。
 
昭和九年に着工した精錬所は十年五月に完成し、それまで送鉱していた鉱石全部を自家精錬する体制がととのえられた。・・・」『同書』850ページ
 
 
ところがこの昭和10年に完成した自前の精錬所は後に公害の原因ともなるのであった。
精錬の過程で使用された「青化曹達溶液」は青酸を含んでいたこともあって、使用済みの溶液を河川等に流すことで音威子府川などが汚染され、自然生態系に少なからぬ害毒をもたらしたのであった。
 
そのため河川の下方域や河口域において漁獲類の生態や狩猟採取に、影響が起こったのであった。
同書851ページにはその時のリアクションとして
 
昭和十三年十一月雄武漁業協同組合と紋別鮭鱒蕃殖組合から陳述された北隆鉱山の鉱毒の問題は、この沈殿液から漏出する鉱さい(滓)が下流の漁業に大きな障害をあたえるということで騒がれたのである・・
 
といった記述がなされており、精錬所設置の三年後には既にその公害の影響が河川の流域に、発生していたのである。
 
この公害は鉱山開発の「近代化」や「産業化」が引き起こした副産物だと、考えることが出来るだろう。因果関係はハッキリしているからだ。
 
そしてこの問題はここ雄武に限る事ではなく、同時代に行われた「長万部の鉱山開発」でも起きている事であったし、もっと時代を遡れば鎌倉時代に「道南知内」でも起きていた事でもあるのだ。
 
 
本州からやって来た荒木大学に率いられた甲州金山衆が、当時の先住者であるアイヌによって襲われ滅ぼされたのも、知内川中流で行われた金鉱石の精錬の過程で発生した鉱毒によって、アイヌの生活の主力資源であった鮭や鱒が獲れなくなってしまった事が、原因であったからである。(詳細は姉妹編の『蝦夷地の砂金/金山事情』や『大野土佐日記と甲州金山衆』を参照頂きたい)
 
やはり、金山開発などの鉱山開発を大規模に進めれば、採掘や精錬の過程で発生する鉱毒をもたらし、自然環境の生態系を損壊してしまうといった結果を伴うのである。
これは表裏一体の関係にあるのだ。
その事実は常に意識しておかなくてはならない。
 
こんな風に考えると「砂金取り」はやはり個人レベルで余暇を楽しみながら、ゆっくりノンビリ愉しんでやった方が良い様な気がする。
決して自分の人生や生活を掛けるようなモノでは無いのではないか、と私などは想ってしまうのである。
 
 
 
 
 

  紋別市:その1(道北、オホーツク地方)

 
 
 
オホーツクの中心都市の一つである「紋別市」は、明治30年代の北海道にゴールドラッシュをもたらした「枝幸町」にほど近い街で、道北に位置する。
 
「紋別市」はシベリアのアムール川の分厚い氷が、2月になると接岸する事でも有名な、「流氷の街」としても著名な観光都市でもある。
 
 
 
      
 
     
 
その紋別市はまた、明治時代中期から昭和の前期に掛けて、砂金や金山開発が活発に行われた「金鉱都市」でもあり、50年以上日本を代表する「産金都市」として世界でも知られた存在であった。
 
今回はその紋別市を取り上げるにあたり、その鉱山開発の中心であった住友財閥の「鴻之舞金山」と「その他の金山」とに分け、二度にわたって取り扱う事とする。
 
その区分として「鴻之舞以外の金山」を「その1」とし、「鴻之舞金山」を「その2」として取り扱う事とした。
先ずは「鴻之舞金山以外」を取り上げ、次回に「鴻之舞金山」を取り上げるものとする。
 
因みに当該文章は、『紋別町史:昭和19年1月』『紋別市史:昭和35年12月』『新紋別市史上巻:昭和54年7月』『同下巻:昭和58年3月』『新修紋別市史:平成19年3月』の5冊を、参考資料として執筆しているが、中でも昭和35年の『紋別市史』を大いに参考にしている。
 
 
 

 
 
   = 紋別市その1:「鴻之舞金山以外」の砂金・金山事情 =
 
 
紋別での産金の歴史は明治三十八年、八十士(ヤッシュシナイ)金山の発見で始まる。・・・・・・
枝幸砂金の産出が衰退し、枝幸から紋別に流れて来た山師の一人である)菅原栄之進は師走を目の前にした十二月二十日・・せめて米代だけでも稼ぎたいものと・・・米三升ばかりをもって八十士川(ヤッシュシナイ川)河口の浜砂金探しに出掛けた。
 
しかし期待の浜砂金は見つからなかった。
・・・・・菅原はかつて枝幸砂金の経験から、八十士川流域のバラスが枝幸砂金地帯のそれと酷似していることに気づき、八十士川を上流にさかのぼって探すことを思いたった。
 
・・・・海岸からおよそ二里ほどの地点で左方から本流にそそぐ小沢(のちの砂金沢が目に入った。
・・・・この沢は奥行き延長千間(1,800m)ほどあるが、その中間からやや上手寄りとおぼしき所に高さ四尺(120cm)ほどの小さな滝があった。
ひと休みもかねて菅原は滝そばの岩に腰を下ろすとその滝底を洗ってみた。
 
なんの気もなくすくいあげたバケツの中で菅原の目に映じたものは何十匁(匁@3.75g)もあろうかと思われる山吹色の大量の砂金であった。
・・・・・何百年或いは何千年前から大自然の営みにまかせて流出し、堆積した大砂金が、いまこそ人手によってこの世に山吹色の姿を現した劇的な一光景なのである。」  『紋別市史823~824ページ』
                        ( )は著者:春丘牛歩が挿入
 
 
上記は昭和35年に刊行された『紋別市史』の中の砂金発見時のエピソードであるが、私はこのエピソードを読んで、かつて道南知内町の古文書『大野土佐日記』を読んだ時の記憶が甦った。
 
下記は私が思い出した『大野土佐日記』の一文の箇所である。
 
元久二年(1205年)筑前の舟漂流に及び・・・漂ひ候処、遥か北に当て一つの嶋見えたり。

舟中大いに悦び・・・水主二人炊(かしき=飯炊き)一人陸地へ上がり候処は(蝦夷地)知り内浜辺の由・・・。

炊の者唯一人水の手を尋ね候。・・・彼の滝の下に光し物これあり候ゆえ取り上げ見候処、石に似て石に非ず・・・丸かせ(金塊)というものならんか・・・と水桶の中へ隠し…密にして其身を離さず持ちゐけり。

 

『大野土佐日記』は江戸時代の初期に、北海道道南の現在の知内町に在る「雷公神社」の宮司大野土佐守が書き始めた、『知内の古事記』と言っても良い地元の由緒を書いた書物である。

その著書が世に出てから2・3百年後の明治時代後期に、同じ北海道の道北オホーツクに面した「紋別市」において、同様の「事象」が起こっている点に私は興味を抱いた。

そして太古から連綿と堆積されていた砂金が、人間によって初めてその存在を知られた場面というのは、昔も今もきっとこんな感じなのだろうな・・。

などと想いながらこの『紋別市史』の一文を読んだのであった。

と同時に、長らく「偽書」との烙印を押されていた『大野土佐日記』の信憑性を、改めて確信した次第である。(この一文に興味関心を抱いたお方は拙書『大野土佐日記と甲州金山衆』を、ご覧頂きたい)

 

                  *紋別八十士(ヤッシュシナイ)

             

           上部:オホーツク海、上青:紋別空港、下赤:八十士川上流

 

いずれにせよ、このようにして発見された紋別の砂金及び金山はその後、当時既に枯渇して久しい「枝幸」から拡散していた多くの山師達の間に伝番し、またたく間に砂糖に群がる蟻の群れの様にこの河に彼らは参集し、彼らは紋別の川筋や山奥に入り込み、我も我もと砂金のありかを探し始めたのであった。
 
因みに八十士(ヤッシュシナイ)流域で採取された砂金類の量は、その最盛期である明治41・2年においては
 
入山稼働者三百名余をかぞえ、金の品質も枝幸ベーチャン産におとらぬとあってわきかえる人気を呼んだものである。・・」と記録されており、
 
・・・とにかく見直後のころは、川筋のどこを掘ってもバケツ1杯量から二匁(@3.75g×2=7.5g)内外の砂金を得られたし、発見者の菅原一人だけでも密採中に得た砂金は五貫(18.75㎏)を下らないだろうといわれている。(同書:828P=ページ)
 
この当時の・・・、政府の金購入価格は1匁五円、八十士(ヤッシュシナイ)産のものは1匁三円二十銭から最高四円くらいで日本銀行小樽出張所と取引されていた。」という(同書:828~829P)、( )内は著者牛歩の挿入
 
当時の一人前の大工の日当が80銭程度であったというから、大工の日当の4・5日分/匁とした場合、2匁前後の砂金を収穫したとすれば、1日で一人前の大工のほぼ半月分の労働収入に相当する収獲が、砂金採り達にはもたらされた事に成る。
最初の発見者である「菅原栄之進」にとっても、大きな財産をもたらしたわけである。
 
 
こうして明治38年に、枝幸から流れて来た山師菅原栄之進によって発見された砂金及び金山発見の情報が、オホーツクはもちろん北海道中の山師たちに知られた結果多くの山師たちが紋別の山野に参集する事に成った。
その結果の流れとして当該砂金鉱区の開発には、行政の「お墨付」きを得る必要が生じたのである。
 
因みに「お墨付き」が無い2・3年の間は密採者たちの間で、何度も場所の分捕り合戦が起き、騒乱が発生し刃傷沙汰が頻発し、警察署から巡査が派遣され、「調整」や「取り締まり」を行っていたのだという。(参照:同書827~828P )
 
公的機関である「北海道開拓使庁」への鉱区認定の出願行為が、山師たちのグループから競って出され、混雑をきわめたのだという。
 
その結果乱立された出願を調整しようとする動きが出始めたのはまた、自然な流れであった。その結果誕生したのが「八十士共同砂金組合」であった。
その「八十士共同砂金組合」に対して、明治41年になって「鉱区認定の許可」が出された、ということである。
 
 
因みに許認可が下りて以降の産出額は、明治41年から42年の二年間が砂金採取量が最も多かったという事で、記録に残っている産出額は
 
「明治42年90,000円」    *1匁4円で日本銀行に売却したと仮定すると
「同 43年63,000円」    42年:9万円÷4円=22,500匁=22,500×3.75
「同 44年58,000円」       =84,375g≒84㎏強の産出量が推測できる。
 
という事である。かなりの量である。
しかしながら産出額は、上記の様に年々逓減して行ったようである。
 
次第に産出額が減り赤字経営を余儀なくされ、「八十士共同砂金組合」ではついに身売りが検討されたのであった。
 
そしてその身売りの先となったのが大阪の鉱山会社大手「住友総本社=住友本店」であり、大正8年に同組合はその採掘権である「砂鉱権」を住友に譲渡した、という事である。(同書:829P)
 
 
 
 
 
                 紋別市上志文「沼の上鉱山」
 
 
同じ紋別市内では上述の「八十士川鉱山」の他に、幾つかの金鉱山が発見されている。
そのきっかけとなったのが、上記の明治38年に発見された「八十士川金山」であったのは言うまでもない。
 
オホーツクや北海道内はもちろん、内地(=本州)からも多くの一獲千金を夢見たロマンチスト達が、文字通りの「一獲千金」を期待して、紋別界隈のオホーツクの山や川を跋扈(ばっこ)した様である。
 
 
そんな中で幸運にもその夢が実現した人たちが何人かいた。
即ち「シブノツナイ川(志文川)」沿川に住む農民7人が、その幸運な人達であっのである。
大正五年三月の事であった、という。
 
「製軸用原木」伐採のために入った山の、沢に転がる「転石」の中に運よく「金鉱石」を発見し、それを持ち帰って鑑定してもらった結果、それらの転石が「ホンモノの金鉱石」である事が「鑑定家」によって確認され、実証されたのだった。
 
その時得た「鑑定結果」を基に、発見した沢の周辺を「鉱区」として監督官庁に「出願」し、めでたく「採鉱権」を得た彼らは6年後の大正11年に、函館の金鉱山開発業者に転売した。それが後の「沼の上鉱山」である。
 
 
更にその函館の業者は当該鉱区の近隣エリアを再調査し、「松鉱」「梅鉱」と称する「高品位な鉱床」を発見するに至り、取得から6年後の昭和 3年10月に、東京の大手金鉱開発企業である「三菱鉱業」にその「採鉱権」を転売したのであった。
 
 
 
                    
                    :沼の上金山、青:八十士金山、緑:鴻之舞金山
 
 
その「沼ノ上鉱山」は31年間操業していたが採金量がやはり漸減し、ついに昭和34年10月に全山閉山し「廃坑」の止むなきに至った、という。
 
昭和32年までは月間380万円ないし450万円の黒字鉱であったが、閉山時には月額330万円で月間150万円ないし170万円の赤字鉱であった。
全山230名の従業員と家族全員は同系の下川鉱業所に職場転換のために集団移転した。」(同書:870P)
 
という事で、赤字経営に転落してから2年後には閉山に至り、廃鉱になってしまったのである。
即ち企業経営上の「費用対効果」が悪化し、事業経営上の赤字状態が続いたため「沼ノ上金鉱」は閉山が決まり、廃鉱となってしまったのである。
 
がしかし、だからと言って同鉱山から金鉱石が全く採れなくなったわけではない。
企業経営としての事業を継続する目的である「採算」が取れなくなっただけ(?)の事であって、企業経営の観点を外れれば問題は無いのだ。
即ち個人の「趣味」や「小遣い稼ぎ」であれば採取は可能である、という事である。
 
という事から類推すれば廃鉱から40年以上経った今現在、紋別市の「シブノツナイ川(志文川)」の河川敷に、「金鉱石」が転がっている可能性があるのかもしれない・・。
 
令和の現在、この金鉱山周辺の河川敷に「金鉱石」を採取する夢や希望を抱くロマンチストがもし居たら、「ヒグマ対策」を厳重にすることを前提にした上で、「一獲千金」を得る可能性無きにしも非ず、なのである。
 
尤もこの事はこの金鉱山周辺に限らず、すべての「廃鉱」になったかつての金山周辺に、同様の事は言えるに違いない、と私は思ってはいるのであるが・・。
 
 

 
 
                紋別市上藻別「三王鉱山」
 
 
最後に取り上げるのが「三王鉱山」である。
紋別市の「藻別川」上流の「上藻別六線沢」入口近辺で、大正3年6月に発見された鉱床であったが、
 
その露頭品位は問題にならぬ低品位であったため、数年後共同(出願)者間はバラバラに解散してしまった。」(同書:876P)、( )内は牛歩の挿入
 
チームは解散したのであるが、その後も「共同出願者」のリーダーでもあった池沢亨はただ一人、引き続きロマンを追い求め自らの直感を信じ、あきらめずに鉱区内の探索を続けたのであった。
その甲斐あって
 
昭和七年五月、全鉱区内に露頭十数か所をかぞえ、・・・
・・・北向き中腹の松林地内に発祥坑黄金坑万歳坑の優秀な鉱脈三条を発見・・」したのである。(同書:876P)
 
その間の執念や苦労が、18年の歳月を経てやっと結実したわけである。
 
池沢らのその喜びの深さが、各杭に付けた「発祥」「黄金」「万歳」という命名に、将に現れ知ることが出来るのである。
 
 
その様にして得た金鉱山鉱区の「採掘権」を、池沢らは翌8年12月に近隣(8㎞上流)で既に鉱山開発を行っていた、「住友総本社」の「鴻之舞鉱山」開発事業所に売却し、キャピタルゲインを獲得したのである。
 
因みにその後売却した鉱区から採れた金鉱石の産出量は、日産100t以上が昭和11年から15年まで続いた、豊かな鉱山であった、という。
 
 
                    
                              金鉱石
 
 
 
 

  紋別市:その2(鴻之舞鉱山)

 
 
            = 鴻之舞金山の砂金・金山事情 =
 
 
今回取り上げる「鴻之舞金山」が、後に「東洋のクロンダイル」と呼ばれ、世界中の金鉱山開発者の間で知れ渡るようになる金山が「発見」されたのは、大正4年(1914年)の事であった。
明治38年(1905年)に前述の「八十士(ヤッシュシナイ)金山」が発見されてから、ほぼ10年後の事である。(『紋別市史:昭和35年12月発刊』835ページ)
 
発見者は「八十士金山の発見」に誘発されてから、紋別の山野に新たな金鉱山を発見する事を夢み続けていたロマンチスト達である。
即ち紋別の漁師「沖野永蔵」と印判業者「羽柴義鎌」と、彼らのスポンサーとなった医師「池沢亨」であった。
 
その後大正5年3月に「鉱区出願許可」が札幌の監督官庁から彼らに降りたのであるが、その話を聞いた他のロマンチストたちが当該鉱区周辺を取り囲むように、相次いで「鉱区開発」の出願をし、それぞれが許可されるといったプロセスを経て、先の「八十士共同砂金組合」の前例に倣って、各人が集まり「鴻之舞金山開発組合」を結成したのがほぼ半年後の、大正5年6月の事であった。
 
 
この様な経過を辿って設立された同組合は、その後「金鉱石採掘」をスタートするのであるが、開発事業に莫大な費用が掛かった事から事業収支は悪く、持ち出しばかりで経営そのものは常に火の車であった、という。
 
彼ら自身が個人の集合体であったという事情もあり、必ずしも事業資金が潤沢ではなかったことから、しばらくして運転資金が枯渇する様になった。
そしてその結果当然の様に「売山」の話が進展したのであった。
組合設立からほぼ1年近い後の、大正6年2月の事である。
 
その後中央の大手の鉱山開発企業数社に対して「売山話し」を持ち掛け、買い手を探したのであるが、その結果運よく大正6年2月18日「住友本社」に、「鉱山採掘権」を売却譲渡する事に成り、契約書を締結する事に至った。
 
因みにその際の譲渡金額は「90万円」であったという。
当時の1円がザックリ現在の」2万円程度だと想定すると、「90万円」は180億円相当の金額ということに成る。
 
 
その後の50年以上にわたる莫大な金銀の累計産出額からすると、住友はかなり上手な買い物をした事に成るのであるが、それはあくまでも結果論に過ぎない。
 
当時未だ大きな成果が出ていない将に、「海のモノとも山のモノとも」判らない「金山の売買」に、巨額の資金を投入するのが博打に近い「危険」と同義語であったのは、今も昔も変わらない事である。
 
その様な「博打」に近い賭けに懸念を抱いていた、当時の「金山買収」を担当した住友側の経理課長川田順の逸話が、『紋別市史』の中にに記載されているので、その様子を下記に転載する。
 
 

                「金山買収」 (川田順『住友回想記』)
 
「昔からヤマという程で、鉱山ほど危ないものはない。
・・・・・・・・・・・
私も経理課長を六ヶ年務めた間に、買ってくれぬかと申し込まれたヤマが二百件、その中で、書面審査だけでことわったのが百七十件、問題にして技師に実地調査してもらったのが三十件。
 
さて、その三十件の中で、買収したのが六件。
その六件の鉱山の中で、稼行して利益を挙げたのが、たった二件
住友なればこそ、これでも立って行く。
たいていの金持ちが鉱山で潰れるのは御尤もな次第だと、悲しまざるを得なかった。・・」(『紋別市史』:849ページ)
 
 
当時の経理課長であった「川田順氏」の抱いていた、成功確率の低い「金山購入」に対する考えは、上記のようなモノだったのである。
 
住友本社はその後の「鉱山技師」による現地視察等を経て、「専門家の報告書」等を基に、最終的に「理事会」という住友本社の最高意思決定機関の承認を得て、「鴻之舞金山を90万円」で購入する事を決めたのであった。
 
 
因みに、そのようにして「住友本社」が「90万円」で「鴻之舞金山の採掘権」を購入したことが世間に知れた時、世の中の反応は下記の通りであったという。
 
鴻之舞の売山成立がひと度公表されるや満天下が沸いた。
九十万円という額は当時のわが国では最高額の記録あった。
しかも鉱業界仲間でも全く未知数の山を、石橋をたたいて渡る堅実さで知られた住友が買ったということも業界には大きな刺激となった。・・同書857ページ)
 
 
 
                      
                      当時の住友家当主「男爵:住友友純」氏
 
 
 
上記の様に「石橋をたたいて渡る堅実」な経営で有名だった「住友本店」が、業界では「未知の可能性」でしかなかった「鴻之舞金山」を、購入するようになったきっかけは何であったのかを、『紋別市史』は分析してこう述べている。
 
「(住友)本店支配人小倉正恒の透徹した経済観もまた見逃すことができない。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
しかし小倉支配人は、(第一次大戦後の好景気が終わった)将来訪れるであろう反動と不況の時期を予想し、金鉱業こそもっとも安定性を有するものであり、住友財閥の中枢たる本店は少なくともこの様な安全弁を強化しなければならないと考えていたのである。・・・」 ( )は著者牛歩の加筆
 
と述べ、下記の様な「小倉支配人の述懐」をとりまとめた著書、『小倉正恒伝』を引用して『紋別市史』に記載している。即ち
 
だいたい金というものは価値の変動の無いものである。
銅でも鉄でもその価値は大きく変動するが金の価値は変動しない
しかも不況の際には金が光って来る。・・・・・
銅山も結構だが、どうしても金山を持つ必要がある。・・」(同書:860ページ)
と小倉支配人の「金鉱山開発」に対する経営哲学を、引用している。
 
 
いずれにせよそのようなプロセスを経て住友財閥が「鴻之舞金山の採掘権」を取得したのは、上述の様に大正6年(1916年)2月の事であった。
 
それ以降昭和48年(1973年)2月までの56年強にわたって、「鴻之舞金山」及びその周辺の金山開発は成され、操業され続けたのであった。
 
 
この間実に64,768tの金及び966,698tの銀が産出/精錬され、最盛時の昭和34年には1,060人の従業員が従事していたのだという。
(『新紋別市史:下巻』昭和58年3月発刊499~503ページ)
 
この様な長期にわたる産金事業の実績が、「東洋のクロンダイル」の名を世界の金鉱山開発者の間に普及させることになり、「鴻之舞金山」の名が世界に冠たる金山開発の拠点/場所とし、て広く知れ渡って行ったのであった。
 
明治後半から大正期初頭に多くの「金を追うロマンチスト」達の夢を描き続けた紋別市の金山開発ではあったのだが、以来7・80年間続いた上で、今から50年近く前の昭和48年には、金鉱石の産出量の逓減によって遂に閉山の止むなきに至るのであった。
 
 
その間この鉱山開発の事業所が、かつて漁業や農業が基幹産業であった明治からの入植開拓地「紋別」の市勢を活性化させ、多くの従業員を雇い家族の生活を養って、紋別市の社会や産業を支え牽引してきたのは、間違いない事実である。
それを具体的に示す統計データが下記である。
 

 
 
昭和58年に刊行された『新紋別市史下巻』が『住友金属鉱山20年史』等を基に作成した統計データによると、実際に採掘がスタートした大正7年から、閉山した昭和48年までの56年間で
 
金の産出量: 64,768t  平均@ 1,156.6t/年
銀の産出量:966,698t    @17,262.5t/年  (参照同書:499ページ)  
 
の金&銀を産出している。
 
更にこの間の「鴻之舞鉱業所」の従業者数を確認すると、下記の通りである。
 
『新紋別市史:下巻』501ページ記載の統計データ(昭和20年から同42年までの2年毎の累計12年度分)を基に、私が計算・算出すると
 
「係社員以上=ホワイトカラー層」累計1,653人 @137.75人/年
「現務社員=ブルーカラー層」  同 8,102人 @675.17人/年
 
となり、単年度で平均@813人ほどの従業者を雇用していたことが判る。
 
 
因みに昭和34年度の「鴻之舞地区の地域人口」が1,340戸、6,742人である(同書503ページ)事から人口を推測すると、1世帯当たり人口が5.03人/戸である事から、
 
@812.92人の従業者×5.03人/戸=4,088.99人≒約4,100人
 
と成り、住友の「鴻之舞金山鉱業所」での事業活動は、年間4,100人程の生活を養ってきたことに成る。
当時の北海道の人口規模からいえば、この4,100人という人口数は一つの「町村人口」に匹敵する数であったであろうと思われる。
 
「鴻之舞金山鉱業所」はそれほど「紋別市」にとっても影響の大きな「事業所」であり、市民生活や社会的に大きな影響を与えた事業主だったのである。
 
 
 
                   
                        住友本社「鴻之舞金鉱山」跡周辺
 
 
その様な意義深い事業であった住友の「鴻之舞金山鉱業所」ではあったが、大規模で近代的な「工業」「産業」である鉱山開発事業の宿命として、同時に少なからぬ「負の遺産」を生じさせて来たのもまた事実であった。
 
即ち「鉱毒」に依る「鉱害」の発生であり、「公害」が並行して発生したのである。
その点はしっかり確認し、認識しておく必要がある。
 
それらの点についても『紋別市史(昭和35年)』は取り上げているので、下記に転載しておく事とする。
 
 
昭和九年十月、紋別地方を襲った豪雨のために同鉱業所(=鴻之舞金山鉱業所)の廃液沈殿池ダムが決壊し、流失した廃液は付近を流れるモベツ川にそそいだ。
時を同じくして、モベツ川河口から産卵のために上流にさかのぼっていたサケが何十尾となく川の随所で死に、白い腹を見せて浮きあがったという事実が表面化し、その原因は鉱毒の流出によるものであるということで沿岸漁民を激昂させた」(同書879ページ)
 
のであった。
 
この事件の顛末は「紋別漁業協同組合」から「鴻之舞金山鉱業所」への強い抗議と申し入れにより
「(廃液沈殿池)ダム設備を完全にすること」と「漁民の要求する適当な補償」をして「事件の円満解決を図る」事となった。
 
その時に交わされた契約書(昭和10年10月11日締結)では漁民への補償として
結局会社側はモベツ川河口に近いところにあるマス、ニシン、チカ(=シシャモに似た小魚)の漁業権全部を買収し、総額八万円の金を組合に寄付する・・」(同書880ページ)様にしたのであった。( )は牛歩の加筆。
 
この「廃液沈殿ダム」は採掘された鉄鉱石を製錬するプロセスに必要な施設で、「金山」から採掘された「金鉱石」を、青化曹達液(≒青酸)に二日ほど漬け、攪拌の上溶解させることで「金」「銀」を製錬分離し、抽出するという機能/役割を担う設備である。
 
そのダム内に蓄えられていた青酸などの廃液が、豪雨により河川に流出してしまった、という訳である。
 
 
因みにこの「青酸等の化合物」を使う精錬方法は、はるか古代から「金抽出の精錬方法」として用いられてきた手法であって、金鉱石から「金」「銀」を抽出する際には必ず発生する問題でもあった。
 
従って大規模な金鉱山の開発には決して避けて通れない課題や問題であり、これまで見て来たとおり「長万部」や前述の「雄武町:北隆鉱山」でも同様の問題は発生している。
 
さらには鎌倉時代に道南知内で「荒木大学一党」が、サケ漁で生計を立てていた先住者のアイヌの人々に襲われ滅亡するきっかけに成ったのも、これが原因であったのである。
 
 
この様に大規模な金鉱山開発を行なう場合には、必ず河川流域や河口沿岸の生活者や漁業者にとっての、「生活権」に関わる大きな問題を誘発する「鉱毒」「鉱害」を伴う事に成るのである。
であるが故にそれらの課題への「事前の備え」や「対策の検討」を行う事は、鉱山開発事業者にとっては避けて通ることの出来ない事業課題なのである。
 
従って大規模な金鉱山開発を行う場合には、「鉱毒対策」や「鉱害対策」を事前に準備しておくという事を前提にして、事業活動を行なわなければならない。
さもなくば事業地周囲に暮らす人々や近隣社会の理解は得られないであろう。
 
開発規模や事業規模が大きくなればなる程、近隣社会や周辺環境への影響は大きくなってくるのである。
事業を経営する者は「起業や事業の規模の大きさに比例して、社会的な責任が多くかつ重くなる」という現実を、決して忘れてはならない。
 
社会の中で生きて行く事や事業活動を行う、という事はそう言うコトを意味するのだからである。
 
 
 
 
 
                 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 



〒089-2100
北海道十勝 , 大樹町


 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
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