春丘牛歩の世界
 
先週から、「行者ニンニク」が採れる様に成り、我が家の食卓にも乗るようになった。
行者ニンニクが採れる様に成ると、今年の春がやって来た事を実感する。
これまでの私の経験では「行者ニンニク」が生えてきてから、雪が降ったことは無いから、である。
 
 
      
 
 
野生の昆虫や動物たちが作る巣の位置で、颱風の影響を早い時期に推測できることがあるが、自然界の生き物たちは彼らなりのセンサーで、天候や自然現象を察知する能力がある。
そんな事から私は、「行者ニンニク」が我が家の林に生え始めることを、季節の到来のメルクマール(指標)にしているのである。
 
 
 
    記事等の更新情報 】
*4月19日 :「コラム2024」に、「青い春」と「チャレンジ虫」を追加しました。
*3月25日:「相撲というスポーツ」に「新星たちの登場、2024年春場所」を公開しました。
*2月8日:「サッカー日本代表森保JAPAN」に「再びの『さらば森保!』今度こそ『アディオス⁉』を追加しました。
*01月01日:本日『無位の真人、或いは北大路魯山人』に「無位の真人」僧良寛、或いは・・を公開しました。
これにて本物語は完結しました。
12月13日:  『生きている言葉』に過ぎたるはなお、及ばざるが如し」を追加しました。
 
 

  南十勝   聴囀楼 住人

          
               
                                                                  

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2024年5月16日から、当該サイトは従来の公開方法を改め、新しい会員制サイトとしてスタートいたします。
 
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「新規」の定義は、公開から6ヶ月以内の作品です。
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          2024.05.01
              牛歩
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
   
      

                       2018年5月半ば~24年4月末まで6年間の総括
 
   2018年5月15日のHP開設以来の累計は160,460人、355,186Pと成っています。
  ざっくり16万人、36万Pの閲覧者がこの約6年間の利用者&閲覧ページ数となりました。
                       ⇓
  この6年間の成果については、スタート時から比べ予想以上で満足しています。
  そしてこの成果を区切りとして、今後は新しいチャレンジを行う事としました。
     1.既存HPの公開範囲縮小
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  これまでの「認知優先」や「読者数の拡大」路線から、より「質を求めて」「中身の濃さ」等を
  求めて行いきたいと想ってます。
  今後は特定の会員たちとの交流や情報交換を密にしていく予定でいます。
  新システムの公開は月内をめどに現在構築中です。
  新システムの構築が済みましたら、改めてお知らせしますのでご興味のある方は、宜しく
  お願いします。
             では、そう言うことで・・。皆さまごきげんよう‼    5月1日
                                
                                   
                                      春丘 牛歩
 
 
 

 
              5月16日以降スタートする本HPのシステム:新システム について     2024/05/06
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昨年の春、久しぶりに魯山人の旧住居「春風萬里荘」を友人の立花さんと訪れた私は、改めて北大路魯山人に対する想いが沸き上がっていた。
立花さんに触発されて私自身魯山人についてもっと深く調べてみようと、そう想ったのであった。
ところがその後世界中をパニックに陥れた「新型コロナウィルス」の影響もあって、しばらく私は身動きが取れないままで、活動が中断された。
 
その間私は立花さんのアドバイスもあって、魯山人の人格形成に大きな影響を与えたと思われる京都の内貴清兵衛について改めて調べてみたることにし、インターネットを使ったり図書館に赴くなどして、資料や情報を集めるように努めた。
 
コロナが落ち着いた時期を見計らい訪れた京都では、内貴清兵衛の勧めで魯山人が日本画家の冨田渓仙と共に逗留することに成った、東山清水寺山内の塔頭「泰産寺」をぜひとも訪れるつもりでいた。
更には洛北松ヶ崎に在った、かつて内貴清兵衛の別邸でもありサロンでもあった「松ヶ崎山荘」の跡地周辺にも行ってみたいと思い、尋ねることにした。
 
 
  
                     ―  目  次 ―
         
              1.  京都駅南口界隈
            2.清水寺山内、泰産寺
            3.左京区、岡崎公園
                                    4.京都駅北口「おばんざい」屋
            5.渓山人と魯山人
            6.高野川西岸「松ヶ崎山荘」
            7.インキュベーター「内貴清兵衛」
 
      
 
 
 
 

  京都駅南口界隈

 
新型コロナウィルスの第五波が収まり、新規感染者の数も日に日に減少することが続き、なんとなく国内に安心感が広がった11月、私は感染者の低下傾向が続くことに気をよくして、これまで控えていた京都を訪れることにした。
 
昨年立花さんと水戸で逢って以来すでに1年以上過ぎていた。その際私が立花さんと話した時の話題が、私にとっては「宿題」だとずっと思っていた。
 
その宿題を少しでもやり遂げたいとそう想いながら、この一年半の間私はコロナ禍の日々をやり過ごしていたのであった。
 
その間図書館やインターネットを通して、魯山人に関する資料や著書を求め目を通していたのであるが、私は出来るだけ早くに京都を訪れ、魯山人の人間形成に大きな影響を与えた内貴清兵衛と彼が過ごした時代の、京都での彼の足跡を訪ねてみたいと、ずっと想い続けていたのであった。
 
 
その私が京都を訪れるのはコロナが発生する前の2018年以来の事で、実に3年ぶりであった。
私が待ち焦がれた京都に着いたのは、17時になるちょい前の事であった。
 
昼前に松戸の自宅を出て、築地のなじみの鮨屋を訪れ腹ごしらえとビールを飲んでから、私は東京駅に向かい、14時過ぎの新幹線に乗ったのであった。
 
私が新幹線駅南の京都駅八条口前のホテルに着いたのは17時過ぎで、鮨屋でのアルコールの効果もあって新幹線の中で熟睡して移動時間を過ごした。
 
熟睡したこともあって頭がすっきりしていた私は、ホテルでチェックインを素早く済ませてから、部屋に入ってキャリーバックに入れた荷物を紐解くと、窓側のテーブルに向かい小さな椅子に腰かけた。
 
 
それからミネラルウォーターを飲みながら、暮れ始めた窓からぼんやりと新幹線の発着する京都駅を眺めていた。
 
黄昏時の京都駅南口では多くの人々が行き交っており、人の流れが活発であった。
駅に向かう人々は足早に歩いていたが、彼らの多くはマスクをしながらも、なんとなく塊で移動しているように見えた。
 
人々のその時の様子は、ソシアルディスタンスへの想いがあまり意識されているようには想われず、彼らもまたコロナに対する警戒感が薄らいでいるのだろうな、と観ていた私は感じた。
 
 
それからしばらくしてシャワーを浴びた私は、熱さましにTVをぼんやり眺めながら今日の夕食の事を考えた。
3年ぶりの関西という事もあって私は、今夜はお好み焼き屋に行くことを考えていた。
 
チェックインを済ませた時に、フロントでホテル近郊の飲食店情報が掲載されたインフォメーションMAPをもらっていたので、そのMAPを基に何ヶ所かのお好み焼き店を廻る予定を立てていたのだった。
いずれもホテルから数分の距離で、遠出をしなくても済む店舗をチェックしておいた。
 
 
19時のニュースで、気に成る情報を確認し終わってから私はホテルを出ることにした。
ドアマンに軽く挨拶を済ませて、線路に並行して走るメイン道路を左折し西側に向かった私は、100mもしないうちに大きなショッピングモールの前に着いた。
 
そのショッピングモールの間を南北に貫通する道路を左折して、南に向かった。
ショッピングモールを貫通し南下する道路を歩きながら、最初のお好み焼き屋をチラリと確認した。MAPに載っていた店である。
ショッピングモールの一画の店という事もあって、その店は小じゃれた外観の店であった。
 
そのまま数百m南下し、もう一軒のお好み焼き屋を確認した。その店はしもた屋風の店で窓越しに鉄板焼き風のカウンターの店であることが分かった。
その鉄板を使ってお好み焼きや魚介類を焼いて食べさせてくれるのだろうと、想われた。
カウンター内部には70代後半と想われる老女が所在無げに、TVを観ていた。
 
私はさらに南下して、MAPを頼りに左折して東側に向かった。
そのままMAPに記載されている3軒ほどのお好み焼きと鉄板焼きの店を巡り、それぞれの店の様子を確認した。
その上で結局私は、一番最初観たショッピングモール内のお好み焼き屋に向かって行くことにした。
 
3年ぶりの京都の初日は、チェーン店でもあるショッピングモール内の小じゃれた感じのお好み焼き屋を選択して、久方ぶりの関西風お好み焼きを食することにしたのであった。
 
 
30年以上前大阪支社に単身赴任していた頃私は、京阪沿線の住宅街にある会社提供のマンションで3年ほど暮らしていたのであったが、その時に沿線沿いのお好み焼き屋を50軒ほど踏破して、大阪の下町のお好み焼き屋を食べ比べていたので、大阪のお好み焼き屋の味に関しては、ある程度の判断は出来るのであった。
 
当時の大阪のお好み焼き屋は今のようなチェーン店の存在は少なく、年寄り夫婦が経営するこじんまりとした店や、会社を辞めてその退職金か何かを基に始めたと思われる40過ぎの女性が経営する店とか、何代にもわたり家族で受け継いできた家業としてのお好み屋といった感じの、個人経営の店が大半であった。
 
その分経営者の個性がメニュー構成に、ダイレクトに反映されている店が多かったように記憶している。
したがって当時の店は、バラエティに富んだ何種類もの「お好み焼き」が売りの店もあれば、焼きそばや焼うどんといった専門メニューが充実している店や、肉や海鮮類の「鉄板焼き」が主体の店も在った。
 
また「明石焼き」と言ってたこ焼きの元祖の様な、出汁じるでタコ焼きを食べさせる店なども在り、経営者の好みやこだわりが色濃く反映されている店が多かった。
 
そんなこともあって「お好み焼き」が好きだった私は、それぞれの特徴や個性をインプットしておいて、その都度目的に合う店をセレクトしそれらの店を使い分けていたのであった。
 
当時の私は無性に出汁じるの「明石焼き」が食べたくなった時であれば、わざわざ電車に乗って行って「明石焼き」の旨い店に食べに行ったりもしたのである。
 
 
総じて関西では、お好み焼きを中心とした「粉モン屋」はとても充実していて、一つの商店街の中に複数のお好み焼き屋などが存在するのは普通の事であった。
場所によってはメインストリートはもちろんの事、わき道を入った枝道毎にお好み焼き屋が在ることも珍しくはなかった。
 
取り分け下町と言われる街には、多かったように記憶している。
それだけお好み焼きを始めとした「粉もん屋」は、大阪を始めとした関西の庶民たちに愛さた存在であったのだと、大阪赴任から関東に戻って改めて感じたものである。
 
 
 
             
 
 
 
翌朝ホテルの朝食を済ませると、腹ごなしにと思いホテルの在る八条口からグルッと大通りを大廻してみることにした。
ついでに好さげな珈琲専門店などあればよいのだが、と思いながら散策を始めたのであった。
 
私は今回の宿には4泊ほどする予定でいたから、ホテルの近くに美味しい珈琲の味わえる店を、ぜひとも見つけておきたいものだと、そう想っていたのである。
 
そんなこともあって、八条から九条に掛けての上下の通りを「堀川通り」から「河原町通り」までの、南北の通りに囲まれる大きなブロックを廻る事にしたのであった。
 
 
結果的にはファサード(外観)を観た限りでは、心惹かれるコーヒー専門店に巡り合う事は出来ず、とても残念であった。
 
飲食店というものは不思議なもので、何となく店の外観にその店の「あじ」が染み出しているもので、残念な事にその界隈では、私のアンテナに引っかかる店は見つからなかったのだ。
 
因みにこのブロックで目に付いたのはホテルの多さであった。さすが観光都市と言ってしまえばそれっきりなのであるが、以前来たときはここまでホテルが林立している印象が無かっただけに、この間の変貌ぶりはちょっとした驚きであった。
 
一時間ちょっとかけてその大ブロックを回遊して、万歩計をスマホで確認すると既に5000歩を越えていた。
今日はこれから清水寺の泰産寺を訪れる予定でいたから、今日一日で軽く1万歩は超えるだろうと思い、ウォーキングシューズを準備しておいて良かった、と思った。
 
 
ホテルに戻って、荷物類を改めて整理した上で10時前にはホテルを出た。
JR構内の線路を跨ぐ自由通路を通って、JR駅北口のバスターミナルに向かい、市内のバス乗り放題の「バス一日券」を購入しておいた。
 
その上で東大路を北上する路線バスにと乗り込んで、泰産寺のある清水寺にと私は向かって行った。
 
 
 
 

 清水寺山内、泰産寺

 
 
市バスが五条坂を左折し東大路通りに入ってすぐ、清水寺に続く参道のバス停に着くと、私は十数人の観光客と共にバスを降りた。
 
東大路を横断してそのまま清水寺に向かう参道に入るとすぐに分岐点が現れ、私は右側の「ちゃわん坂」を行くことにした。観光客はここで1/4程度に減った。
多くの人々は、左側の清水寺の正門に続くメインストリートである「門前町坂」を目指したのであった。
 
その分岐点近くには観光客相手の「人力車」が控えており、手持無沙汰気味に私達を観ていた。10時ちょい過ぎという事もあって観光客はまだそんなに多くはなく、彼らの出番は少なかったのだ。
 
 
その「ちゃわん坂」を、私は真っ直ぐ東山に向かって登るように坂道を行った。
坂道を登りながら、30代の頃この坂の先にある陶芸家「近藤悠三」の小さなギャラリーを訪ねたことを思い出した。私が陶磁器に一番のめり込んでいた頃の事である。
 
近藤悠三は人間国宝にも成った著名な陶芸家で、この清水寺参道に活動拠点を構えていたという。
そのギャラリーを訪れた際私は、白磁に染付のシンプルでかつ大胆な筆づかいの「山」や「ザクロの実」が描かれた小皿を、2枚ほど買い求めていた。
その白磁に染付が鮮やかな小皿を、私は今でも時折引っ張り出して小さな果物などを盛り付け、ティタイムに愉しんでいる。
 
 
「ちゃわん坂」を登り切ったところで、私は観光客が出入りする主導線である本堂に続く仁王門には向かわず、右に曲がって入って行く小道にと向かった。
目指す「泰産寺」にはこちらが近道であることを事前に調べていたので、迷わずこちらのルートに入ったのであった。
 
そのクネクネとした小道の石畳の坂を上がりきると、正面や左手に幾つかの茶屋が目に入ってきた。
 
このルートは本来であれば、観光客が清水寺の参拝を終えて帰途に就く終着点に当たる場所であった。
従ってこれらの店は少なからぬ観光客が清水寺観光を終えた後の休息に、ひと時の寛ぎに立ち寄る様な茶店ではないだろうか、と勝手に想像した。
 
しかしながらまだ午前中の早めの時間という事もあってか、それらの茶店は閑散としていた。私はそのまま茶店を視界にとどめつつ、泰産寺にと向かった。
 
 
その茶店群から先は緩やかな下り坂に成っていて、茶店からは観光スポットである「音羽の滝」に向かって、ゆっくりと長く下り続けることに成るのであった。
 
その小道の周りは低木の山茶花や桜と想われる樹木に囲まれて、いわゆる「清水の舞台」の下方に当たるエリアであるようだ。
 
今はモミジ等の紅葉が確認できたが、春ともなればこの辺りは桜の樹が人々の目を楽しませてくれるんだろうな、などと想いながら坂を下って行くと、右手にちょっとした立ち寄りポイントが在り、大き目な石碑が建っていた。
 
 
長い坂を「音羽の滝」に向かって下る中間域に在るその場所は、階段でいえば「踊り場」の様な位置づけだったのかもしれない。
 
石碑の背後には緑と紅葉とが混ざり合っている晩秋の東山の樹々が、借景としての効果を発揮していた。
その景色の佳さに惹かれて近づいた時に、石碑に刻まれた文字が目に入って来た。
 
 
『阿弖流為』と『母禮と書いてあった。
どこかで聞いた名前だな、と記憶を辿っていると背後から声が聞こえた。
「これは『アテルイとモレの石碑』やな・・」と。
 
振り返って声の主を確認すると70代後半と思われる老夫婦が、石碑の由来を記した横長の石造りの案内板を観ながら、会話していた。
 
続けて、
「坂ノ上田村麻呂がどうやら関係しているようやで・・」と呟く様に、傍らの夫人と思われる女性に言った。
「そういえば何年か前にそんな大河ドラマがありましたわぃね、お父さん・・」傍らの老女が想い出した様に、そう呟いた。
 
 
二人の会話を聞いて私も「阿弖流為(あてるい)」の事を思い出した。
その大河ドラマは、それまでの多くの大河ドラマとは視点を替えて創られていた作品だった、と私は記憶していた。
 
都人(みやこびと)の代表である征夷大将軍と蝦夷(えみし)と呼ばれる人々の頭領が、敵対しながらもお互いをリスペクトし合って、対等な人間関係を築いていた、といったようなドラマだったように、私は記憶していたのである。
 
 
当時の東北地方は、その頃まだ奈良に拠点が在った朝廷にとっては、はるかかなたの東北の地で、一括りに「陸奥之國」と呼ばれていたのであった。
 
陸奥は朝廷の支配が及ばない地域で、「蝦夷という蛮族が支配するエリア」と認識され、征服されるべき「道の奥=未開地」と位置づけられていた時代であった。
 
 
大陸からの移住者たちの末裔が中心になって造った畿内の大和朝廷からすれば、東日本に住むネイティブな日本人の暮らす「蛮族の未知の国」、といった感じだったのだろう。
 
その蛮族と言われた人々を征伐し、朝廷の配下に置くために派遣されたのが「征夷大将軍」であり、その名前の通り「夷族=蝦夷」を「征服」する任務を負って、朝廷の大軍を率いて陸奥之國に向かった、その「大将軍」が「坂ノ上田村麻呂」だったのである。
 
 
その大河ドラマでは、奈良の都から派遣された「田村麻呂将軍」は蝦夷の頭領であった「阿弖流為」や「母禮」の、人間としての品格や能力を高く評価し、彼らを蛮族の頭領として蔑(さげすむ)のではなく、リスペクトして接していたように私は記憶していた。
老夫婦の会話を通して、私はその時の記憶を呼び覚まされたのである。
 
その事を思い出して私は、老夫婦が目にしている由来を記した「石碑」を読んでみよう、と思って近寄って行った。
 
 
                                  
                   阿弖流為(あてるい)と母禮(もれ)の石碑
 
 
その「石碑」を読むとザッと下記のようなことが書いてあった。
即ち、
 
「西暦801年(平安時代初頭)に、征夷大将軍坂上田村麻呂の攻撃によって降伏した蝦夷の頭領、阿弖流為(あてるい)と母禮(もれ)は、500人ほどの配下と共に捕虜として京の都に連れて来られた。
 
両雄の人間としての力量を見込み評価していた田村麻呂将軍は、二人を陸奥之國に返し朝廷のために働かせることを進言し、彼らの助命嘆願を行ったが、朝廷の権力者である公家たちによって反対され、802年8月13日に彼らは河内之國(大阪府)で処刑された。
 
その時の征夷大将軍坂上田村麻呂の悲嘆を汲んで、平安京建都1200年を機に、田村麻呂開基の縁りの地である清水寺に、この石碑を建立した・・」             
                               -1994年建立-
 
といった内容であった。
 
 
平安遷都は「鳴くよ平安」と学生時代に年号を覚えたように、西暦の794年に長岡京から現在の京都市に遷都して平安京を開闢していたから、坂ノ上田村麻呂が征夷大将軍として活躍したのは、将に平安遷都から10年も経たない、平安京が出来てホヤホヤの時代であったのである。
 
更に私が驚いたのはこの清水寺の開基に、かの武人「坂ノ上田村麻呂」が深く関わっていたという事実であった。実は私はこの事実を今回初めて知ったのだった。
 
と同時に確か坂ノ上氏の拠点は大和之國北部(奈良県北部エリア)であったはずだから、この山城之國京都との接点は一体どこにあったのだろうか、という疑問が湧いてきた。
 
 
私がそのような事を考えていると、先程の老夫婦の会話がまた聞こえてきた。
「お父さん、あそこに在る『田村堂』の真下にこの石碑が在るんは、何か関係あるんやろか・・」と崖上に立つ建物を指さして言う、老夫人の声が聞こえた。
 
私がその言葉につられて指の先を見上げると、
「ま、せやろな・・。・・『田村堂』は田村麻呂はんを祀ったお堂やさかい・・」と老人が肯きながら応えた。
 
 
私は石碑に書いてあった事と、老夫婦の会話を聞いてこの清水寺の創建に坂ノ上田村麻呂が大きく関わっていたことを、改めて知る事となったのである。
 
これまで両者に接点があるとは思ってなかった私は、今回初めて京都を代表する清水寺と武人として名高い坂ノ上田村麻呂とが、不可分の関係にある事を知ったのである。
新鮮な驚きであった。
 
その様な幾つかの新しい発見をした「阿弖流為の石碑」を後にして、私は「音羽の滝」にと坂道を下って行った。
 
 
「音羽の滝」は清水の舞台の在る本堂から下って来る道が底をつく場所、と言ってもよい低い場所に在り、私の来た道と合流する場所でもあった。
 
その「滝」という名の小水が三筋流れ落ちる箇所に、手水(ちょうず)と云う手洗い場兼飲み水場のスペースが在り、多くの善男善女がソシアルディスタンスを意識しながら杓を取って、功徳のあるというありがたい水を汲み、飲んでいた。
 
私は正面に映るその光景を観ながら、T字路を本堂や清水の舞台側とは反対側に向かう右手の小道を歩いて、泰産寺へと続く緩やかな坂道を登って行った。
 
 
左手に在る公衆トイレを観ながら坂道を登って行くと、その筋に沿ってちょっとした公園の様な幅広の、小高い遊歩道が坂道に並列して続いていた。
 
渋谷の宮下公園と明治通りの関係をかなり小さく縮小し、山の中に持ってきたような構図であるが、そのこんもりとした緑に囲まれた遊歩道の様な公園には、幾つかの地蔵や田の神様(田んぼの畦道によく在る老夫婦の石仏)の様な石仏と思われるオブジェが、苔むす緑樹の下に点在していた。
 
 
その小振りな公園風の一画に二つの大きな石碑が在った。
先程の阿弖流為の石碑と同程度で、大きかった。
 
石碑には「乾山記念碑」と書いてあり、その横の由来を記した「石版」には、江戸時代を代表する京焼の作陶家「尾形乾山」の功績を讃えて、大正9年に清水寺の大西良慶管主が主導して建立した。といった様な事が書かれていた。
 
更にその数m先の石段を登った先には、清水焼の祖と称された「野々村仁清」の偉業を讃えた「仁清記念碑」が在った。こちらもまた同じ時期に大西管主の主導によって建立されたことが記されていた。
 
 
野々村仁清は江戸時代初期にこの清水寺周辺で作陶し、現在の京焼と呼ばれる優雅な色使いの陶磁器を完成させ、五条坂を含む清水寺周辺を作陶の郷として定着させた「京焼」の創始者であった。
 
一方の尾形乾山はその仁清を引き継ぎ、更に京焼=清水焼のクオリティを一段と高め、京焼の評価を揺るぎないレベルに定着させた、仁清同様に京都の陶芸界のレジェンドであったのだ。
 
二人とも江戸時代の初期から中期にかけての作陶家で、京焼の礎を築き、社会的な評価を定着させた歴史的な人物であり、その功績を顕彰する記念碑を250年以上経った大正期に建てることに成ったのは、清水寺の名管主と言われた大西良慶管主の発心や問題意識であったようだ。
 
 
私はこの石碑を目にした時、魯山人がこの奥の「泰産寺」に逗留していた際、これらの石碑は既に存在していたのかどうかが気になった。
 
その事実を確かめるために後日あらためて確認すると、魯山人と冨田渓仙の逗留は大正3年から4年にかけての事であり、記念碑が建立される5・6年前だったことが判明し、ちょっと残念な気持ちになったのであった。
 
 
当時の魯山人はまだ陶芸に関しては殆ど門外漢であったようであるから、清水焼の礎を築いた彼らの記念碑との間に、接点は元々無かったものと想われる。
 
従ってもし魯山人が泰産寺に逗留する以前に、これらの石碑が建立されていたならば、京都の市街地と泰産寺とをほぼ毎日往復していたであろう彼は、その度にこれらの石碑を目にする事となったであろう。
 
であるならばその石碑との遭遇が、その後の彼の人生に大きな影響を与えたのかもしれない、などと私は勝手に妄想をたくましくしていたのである。
 
しかしながら現実はそうではなかった。石碑の建立と魯山人の逗留には5・6年の時間差があったからである。
私は泰産寺への参道をゆっくりと登りながら、その様な妄想を盛んに抱いていた。
 
 
東山山麓の小高い丘の上に在る泰産寺への参道を少しずつ進むたびに、視界には周囲の緑の樹々に混じって、赤や黄色の紅葉が目に入ってきた。
 
その視界の色彩の変化を通して、私は自分が少しずつ東山の山懐に入っていることを自覚し、体感していった。
  
私がその山懐に入るにつれて、観光客の数は徐々に減っていった。
「音羽の滝」周辺に比べて、10分の1くらいに減っていた。しかもそこを訪れる観光客は小中学生などの修学旅行生と想われる集団が多かった。
 
 
もうすぐ泰産寺、という辺りに近づくと右手に勾配のややキツい坂道が現れ、「子安塔」への道しるべが見つかった。「子安塔」は泰産寺のシンボルである。
 
その山道を登り「子安塔」という名の三重塔に着いた頃は、すっかり樹木に囲まれた小高い山の中に、私は居た。
 
 
 
 
            
                         晩秋の清水寺本堂
 
 
一息ついてから、今しがた登って来た坂道を振り返ると、ほぼ正面に「清水の舞台」の在る本堂が観えた。
 
もちろん距離はある程度あったから遠望することに成るのであるが、緑色の樹々の中に点在する黄や赤の紅葉の先に観える清水寺本堂は、それなりに見応えがあった。
 
あと10日もすればさらに紅葉が進み、色のコントラストがいっそうクリアに成りさぞやメリハリの利いた、晩秋の風景を愉しむことが出来るんだろうな・・、等と私は想った。
 
そしてこのビューポイントが望める「泰産寺」に逗留することを、魯山人や冨田渓仙に勧めた「内貴清兵衛」の意図がなんとなく理解することが出来たのであった。
 
 
目の前に広がる晩秋の東山の景色も、やがて年が明け冬が深まれば雪に覆われる日々も来るのではないか・・。
 
そして立春を過ぎる頃にはその雪を侵して、紅梅や白梅の花が咲き始めそれらを愉しむことも出来るであろう。
 
さらに春が進めばこの山内の至るところで、山桜の樹々が淡いピンクの花を咲かせ、観る者達にウキウキとした気分をもたらせてくれたのではなかっただろうか・・。
 
また初夏ともなれば、柔らかくみずみずしい色の若葉が山内に溢れ、山全体で生命の躍動感を体感させてくれるのではなかったか。
 
 
そういった自然が織りなす、活き活きとした生命の営みを魯山人も冨田渓仙も体感し、季節の移り変わりを、目の当たりにする事が出来たのではなかっただろうか・・。
 
この泰産寺に逗留してる間、彼らはある種の定点観測が出来るわけで、それが若い芸術家たちの感性を刺激し、美意識を養う事に成ったのではないか、と私は想像した。
 
 
きっと内貴清兵衛にもそのような思惑や企図があって、若い二人にこの寺での逗留を勧めたのではなかったか、と私はそんな風に想ったのであった。
 
内貴清兵衛という人物は、若くて才能ある芸術家の卵たち対して、経済的な支援をしてきた所謂パトロンであったと同時に、彼らの感性を刺激しその感性を育む環境を与えた名伯楽でもあったのだな、と改めて私はそう想った。
 
 
その時私の頭の中には、洋画家の中川一政がどこかのエッセィで書いていた「目を養えば、手が育つ」といった言葉がよぎった。
ここでの逗留は、彼らにとってまさにその「目を養う」佳き機会であったに違いない、と私は深く感じ入ったのである。
 
 
 
                    
                                 春の清水寺本堂
 
 
 
          ―「清水寺と坂上田村麻呂」の関係 ―  
                                     「京都清水寺HP」よりの抜粋
 
清水寺の開祖である修行僧「賢心」は・・入山してから2年が経ったある日鹿狩りに音羽山を訪れた武人、坂上田村麻呂が音羽の瀧で賢心と出会います。
賢心は坂上田村麻呂に観音霊地での殺生を戒め、観世音菩薩の功徳を説きました。その教えに深く感銘を受けた坂上田村麻呂は後日、十一面千手観世音菩薩を御本尊として寺院を建立し、音羽の瀧の清らかさにちなんで清水寺と名付けたのです。
 
 
 
 

 左京区、岡崎公園

 
 
魯山人と冨田渓仙はこの地に逗留することで大いに刺激をうけ、芸術家としてのセンスを一層深く育むことが出来たに違いない、と私は深く感じ入った。
 
その想いを胸に、私は清水寺山内の泰産寺を下って行った。
東山山麓の清水寺から、観光客たちと共に来た道を戻り、東大路のバス停にと向かった。
私がバス停に着いた頃は既に12時を回っていて、お昼どきであった。
 
この後私は府立図書館の在る「岡崎公園」に向かう予定でいた。「府立図書館」で魯山人や冨田渓仙・内貴清兵衛について調べるつもりでいたのだ。
 
清水寺参道入口のバス停から、私は東大路を真っ直ぐ北上する市バスに乗り込んで、岡崎公園近くの東山三条にと向かった。
 
途中祇園八坂神社のバス停で多くの観光客が降りると、乗客の数は半分以下に減った。
 
 
東大路三条のバス停で降りると、交差点近くの食堂でお昼ご飯を食べること にした。
昨夜からの食事でお米を食べていないこともあって、私は無性に定食が食べたくなり食堂を選んだのであった。
 
食堂ではおなかを満たすために「生姜焼き定食」を注文し、トッピングで「肉じゃが」と「お漬物の盛り合わせ」とを頼んだ。
幸いなことにその店ではご飯は食べ放題であったので、私もお代わりをした。
 
定食を食べてしっかりお腹を満たした私は、腹ごなしも兼ねて東大路三条をゆっくりと歩いて北上し、目的地の「府立図書館」の在る「岡崎公園」にと向かった。
 
 
東大路を北上し、仁王門通りの交差点を右折してしばらく行くと、岡崎公園をぐるりと囲む「琵琶湖疎水」にと出会った。
 
その疎水は明治維新後に衰退した京都の街の活性化のために、琵琶湖から水を引っ張って来た大掛かりな土木工事の史跡でもあるのだが、100年以上経った今は岡崎公園を始めとした京都の周囲の街並みに、すっかりなじんで見えた。
 
疎水に沿って進み「平安神宮」に続く「神宮通り」を左折し、朱色が鮮やかな鳥居をくぐると、目の前左手に「府立図書館」が現れた。
シックなその外観はレトロな感じの三階建であった。
 
私が図書館に向かって行き、入り口に差し掛かった時、スマホが鳴った。
相手は退職した会社の後輩、川口君であった。
 
 
「もしもし、柳沢さんですか⤴」と関西弁で彼が尋ねてきた。
「やぁご無沙汰。今日は予定通りで大丈夫かい?」と私が挨拶もそこそこに今夜の会食の事を確認すると、
「その件なんやけど・・」と彼が言った。
「ん?・・都合、悪くなったのかい?」と私が尋ねると、
「いやいや問題はないんですぅ、ちょっとお時間をですね・・」と彼は言ってから、
 
「秋の日は釣瓶落としで・・」と続けた。
「ん?という事は、どういう事なのかな?」と私が更に聞いた。
「えぇ、時間を早めること出来しまへんか?思いましてね・・。
実は私今日4時に枚方(ひらかた)に行く用事あるんですけど、4時半頃には終わりそうなんですゎ・・」と川口君は言った。
 
「あぁそういう事ね、こっちは特に問題ないよ。調整可能・・。
そしたら5時半?それとも安全をみて6時にするかい?」私はそう提案した。もともとの約束は6時半だった。
「遅くとも5時半には着くやろ、思いますんで5時半でどないです?」と彼は即答した。
 
「えぇよ、店で5時半ならたとえ遅れたとしても時間潰せるやろから、店で待ってるよ。それでどうかな・・」私も関西弁が混じって来た。
「ありがとございます、店はJR駅の北側に成るんでしたか、京都タワー横の・・」彼はすぐに同意して、聞いてきた。
 
「そうそう、京都タワー横に在る、飲食街の中の小料理屋風の居酒屋ね。名前は覚えてないから店に入ってからメールするけど、確かオデンが旨い店だったよね、喫茶店の向かい側の・・」私が記憶をたどりながらそう言った。
 
「あ、はい。確か関東煮(かんとだき)の旨い居酒屋でしたゎ、京都タワー横の・・」川口君も、かつて京都出張時によく行ったその店を思い出したようだ。
「じゃ、5時半にその店のカウンター辺りで・・。
先に着いたらビールでも飲んで待ってるよ。近くに来て迷ったり、遅れるようならスマホにメールでも入れてちょうだいよ・・」私が確認の意味でそう言うと、彼は
「了解ですぅ・・。ホナそういう事で宜しゅうお頼みします・・」と言って、スマホを切った。
 
 
関西では「おでん」の事を「関東煮(かんとだき)」というのだった。
何故「関東の煮物」と書いて「かんとだき」というのかはよく判らないが、お好み焼きなどと共に関西では身近な食べ物として、庶民に愛されてるメニューであった。
 
よく居酒屋などの入り口には、招き猫の様にこの「関東煮」がデンと構えていて、通り行く人を誘なう役目を果たしているのである。
 
私もよくこの「招き猫」の匂いや、具に誘われて会社帰りに立ち寄ったものだった。
単身赴任で大阪支社にいた私は、仕事帰りに会社支給のマンションに帰る途中よくオデンに釣られて、居酒屋に立ち寄った。
 
川口君は私より5つ下の後輩で和歌山の出身者であった。
彼とは支社の中でもウマが合ったので、週に2・3回は一緒に食事をした。当時独身だった彼もまた「関東煮」や「お好み焼き」が好きな人物で、私と好みや嗜好が合ったこともあり、よく連れ立って飯を食ったのであった。
 
 
 
                  
 
 
 
 「府立図書館」の中は、入ってすぐに受付カウンターが在ったのだが「一般の閲覧室」は地下一階にあった。
その目指す地下には、インフォメーション目の前の「大きなラセン階段」を下って行けばよい、と図書館の案内嬢が教えてくれた。
 
私は教えられた通り、ラセン階段を下って行った。
階段を降りきった正面には10台近くのPCが揃っていて、自ら蔵書を検索することも出来るようであった。
 
その左手には、図書司書と想われる人たちが数人カウンターに並んでいて、PCを操作していたが来客は二人しか居らず余裕がありそうだったので、私はカウンターに向かい直接相談することにした。
 
カウンターに向かって軽く会釈すると、手前の椅子に座るように促されたので、私は彼女の言う通り椅子に腰かけてから、口火を切った。
 
 
「こんにちは。私は北大路魯山人についていろいろ調べているもので、千葉からやって来たんですが、ちょっと宜しいですか・・」と簡単な自己紹介と来館目的を話すと、50代と想われた司書は、
「それはそれは遠いところから・・」と言って、柔らかな目でニコリとした。
 
「そしたら魯山人はんについて、お調べに・・」と彼女は尋ねてきた。
「そうですね魯山人についてもなんですが、それ以上に魯山人に影響を与えた『内貴清兵衛』という人物や、日本画家の『冨田渓仙』について何か判る図書や資料があると助かるんですが・・」と私は自分の来館目的をより具体的に話した。
 
『ナイキセイベイ』はんという方は、どない字を書かはるんですか?」
と彼女は言いながら、閲覧希望者が提出する「閲覧希望申請書」を差し出し、それへの記入を促した。
私はそれを受け取ると、キーワードという欄に「内貴清兵衛」と「冨田渓仙」の名前を書きながら、
 
「こんな感じです。・・二人とも明治時代の後半から昭和に掛けて活躍した人物でして。
因みに内貴清兵衛の父親は明治時代の初代京都市長に選挙で選ばれた、『内貴甚三郎』という人物で、彼はその息子に当たる人物なんですけどね・・」と私は話しながら、「閲覧希望申請書」を渡した。
 
彼女は私の話を聞きながら差し出した申請書に目を通し、メモを取った。
 
「承りました。北大路魯山人はんに内貴清兵衛・冨田渓仙に関する書籍や資料でぇ、宜しいンですね・・」と彼女は言ってから
「10分近くかかるかもしれませんので、その頃またこちらにいらして頂くことは出来はりますか⤴」と上目遣かいに、私に聞いてきた。
「では、安全をみて14時半頃で如何でしょう?」私がそう応えると、彼女は黙ってうなずいた。
 
 
その後私はフロア内の案内図を観て、「京都の歴史」「京都の文化」といった書籍などが集まっていると思われる「郷土」コーナーに向かって行き、しばらく書架に目を通していた。
 
途中、「大正時代の京都」と名打った書籍を見つけたので、私はそれを引っ張り出して改めて中身を見た。
目次を観ていると統計欄があり、そこには大正から昭和にかけての京都市の人口や人口密度が記載されていることが判った。
 
さっそく私はその本を持って近くの閲覧用の机に腰かけて、中を確認した。
 
その資料によると大正9年(1920年)の京都市の人口は「591,323人」、市域は上京区と下京区の2区のみで面積が「62.74㎢」人口密度「9,425人/ ㎢」となっていた。
参考までに2015年(平成27年)の国勢調査で京都市の人口を確認すると、それぞれ「1,468,000人」「827㎢」「1,768人/㎢」となっていた。
  
この間の約100年の間に京都市の人口は2.48倍、人口密度は0.19倍になっていた。
その原因は区域が2区→11区に5.5倍に増えており、面積は13.18倍にと増加していることが影響しているのであった。
 
因みにこの約100年の間に分区も含め増加したのは、
「中京区」「東山区」「左京区」「右京区」「伏見区」「南区」「北区」「西京区」「山科区」の9区であった。
 
という事は魯山人や冨田渓仙/内貴清兵衛が活躍した大正時代初期の京都は「上京区」と「下京区」の2区しかなかったことに成り、当時の京都は非常に限定的な市域しか有しておらず、周辺の町や村は緑豊かな近郊農業などの盛んな「田園都市」であった、という事が推測できた。
 
昭和に入ってから始まった分区は、京都市周辺での工業拠点の誕生とその成長によってもたらされた、人口の集中と市域の拡大に伴って「人口」は2.6倍増加したが「人口密度」は逆に1/8近くに減ったという事に成る。
 
その分周辺の「田園都市」の「宅地開発」や「都市化」が進んだ結果であろう、と私は想像した。
 
不動産開発会社に長く従事していた私は、この辺の事情はよく理解することが出来た。
昭和50年代以降の首都圏の「宅地開発」や「都市化」を、事業会社として推進する立場で、長く体験して来たからである。
 
 
 
 
           
                ・大正時代の京都市域はほぼ右側に抽出されたエリアだけであった
 
 
 
昭和初頭迄の京都は、御所周辺からJR京都駅周辺までの南北のブロック✕東大路と西大路周辺に囲まれたブロック内に、60万人弱の人間がギュッと生息していたことに成る。
そしてそのブロック外の「松ヶ崎」などを含む当時のエリアは、郊外の緑豊かな農村地帯や田園地帯であった、という事に成るのだ。
 
その様な都市構造や社会的空間の中で、魯山人も内貴清兵衛も冨田渓仙も暮らし、生活していたことに成り、内貴清兵衛がその洛北の郊外に構えた別宅が「松ヶ崎荘」、という事になるのであった。
 
 
因みに当時の京都市の60万人という人口規模を現在に当てはめれば、「鹿児島市」「東京都足立区」「船橋市」辺りの人口規模に相当することが判った。
 
この魯山人の時代の都市の実態を知っておくことの重要性については、立花さんから私はアドバイスを受けていた。
 
魯山人たちが生きた当時の京都を理解しておかないと、彼らが生活していた時代の空気感や規模感が判らないままで済ますことに成る。
そうするとどうしても現在の京都市のイメージを重ねてしまう危険性がある・・。
というのが立花さんの考えで、「確かに・・」と私もその説に納得していたのであった。
 
 
そんな風にして大正時代の京都について調べていると、じきに14時半近くに成ってしまった。調べ物をしていると時間が経つのは早いのである。
 
区切りがついたこともあって、私は先ほどのカウンターに向かって戻って行った。
図書司書のPCの横には、すでに何冊かの書籍が積まれて置いて在った。
この間彼女が調べ、用意してくれたものであった。
 
「内貴清兵衛はんに関する書籍や資料は、残念ながら殆ど見当たらなかったんですぅ。申し訳ありませんがこんな程度です・・」彼女はそう言いながら分厚い『京都人名辞典』を差し出して、付箋を貼った箇所を開いて見せた。
 
 
「魯山人はんに関しては、幾つか所蔵図書が在りますけど、既に入手済みの図書や資料があるゆうてはったんで、とりあえずリストをプリントアウトしておきました・・」彼女はそう言いながら、魯山人に関する「蔵書リスト」を私に差し出してくれた。
 
「冨田渓仙はんについては、とりあえずここに用意しておきました」と言って、数冊の図書を渡してくれた。
 
「どうもありがとうございました、助かります・・」私は彼女に感謝しながら幾つかの図書とリストを受け取って、
「しばらくお借りして、見させてもらって宜しいですか?」と確認した。すると彼女はニコリと肯いた。
 
 
「そしたらあそこのテーブル席で観させていただきますので、何かあったら声をかけてください・・。
あ、それから必要箇所をコピーしようと思ってるんですが、その時はまたこちらに来れば良いんですか・・」と私がそう確認すると、彼女は肯きながら、
 
「こちらの用紙にご記入の上、あそこのコピー機でご自身で撮っていただくことに成るンですが、宜しいですやろか・・」と、記入用紙を手渡しながら、コピー機が数台設置しているコーナーを指さして教えてくれた。私は肯いて同意した。
 
 
私は司書が用意してくれた冨田渓仙を中心とした書籍や図書を抱えると、カウンターからそう遠くないテーブルに移り、それらの資料の目次をパラパラと見て、面白そうなページがあるかどうか、チェックした。
 
中でも渓仙が魯山人との泰産寺で過ごした時のエピソードや、内貴清兵衛が絡んでくる箇所を中心に、付箋を貼ったり、メモを取っておいた。
これらの箇所は後でコピーする予定でいたのである。
 
 
そんな中で裏辻憲道氏の書いた『京都画壇の異才 冨田渓仙』という本が、一番面白そうであった。
その本の何ヶ所かには付箋を貼ったりメモ書きをした上で、該当箇所を「コピー申請書」に書いておいた。
 
それらの資料の中に冨田渓仙の展覧会時の図録も数冊あったのであるが、彼が描いた幾つかの作品である日本画に、著者として残しておいた彼のサイン(号)を観ていて、気が付いたことがあった。
 
 
彼の晩年頃と想われる作品の自筆タイトルの下に、「渓仙」とだけサインがしてあった。
そのサインは縦に「渓」と「仙」と書いていて、その「仙」の字は更に「山」と「人」とに分割して書いてあるのであった。
 
即ちそのサインに渓仙は、「渓」「山」「人」と描いていたのであった。
「仙」の名前を分離分割して三文字構成にした上で、「渓 山 人」とサインしていたのである。
 
日本画家や中国辺りのいわゆる「南画」というジャンルには、「描画」と共に「画賛」と称し「漢詩」や「和歌」「コメント」類を書き込むことがある。
「文人画」と言われるものに多いようであるが、この頃の彼の作品には「画賛」の様な趣でタイトルや著名/号が描かれていたのであった。
 
 
「サイン」という、自分の作品であることを記録し証明する行為の中においても、この頃の作品にあって渓仙は、自分の美意識をサインの中にも反映させるように成ったのではないか、と私は想像してみたのである。
 
それと三文字構成にする事で、何となく文字全体が落ち着いて見える様に、私には感じられたのである。
末尾に「人」を配したのも同じ理由であったのだろうかと、そんな風にも想った。
 
そうやって改めて観てみると冨田渓仙は、自身の美意識によって彼の名前である「仙」という文字を分離分割して、「渓 山 人」と描き現すようになったのではないか、と考えることも出来るのであった。
 
 
その様なことを考えてるうちに私は、この「渓仙」のサインと「魯山人」のサインとが似ていることに気が付いた。
即ち「渓 山 人」と「魯山人」の「魯 山 人」とが同じであることに気が付いたのである。
これはいったいどういう事であろうか、両者には果たして何らかの関連性があるのだろうか・・。といったような想いが湧き出て、ガゼン興味が出てきた。
 
冨田渓仙に関わる書物には、彼が江戸時代後期の高名な禅僧「仙厓」に傾倒していた事が書いてあったから、冨田渓仙の名前の由来が「仙厓和尚」から採ったものである事はたぶん間違いないだろう、と思いが至った。
 
 
福岡県博多の出身である彼が、同じ福岡博多の高名な禅僧「仙厓和尚」に傾倒し、私淑していたことは良く理解できた。
従って「渓仙」の名前が「仙厓」に由来するのも、すんなりと理解が出来るのであった。
 
そして彼の作品に「渓仙」とサインする際に、先ほど想像したように彼自身の美意識が発達し、熟成したころ合いに「渓 山 人」と書き記すことに成ったのも、無理無く自然の成り行きだと理解することが出来た。
 
 
ところが「北大路魯山人」がなぜ「魯山人」を名乗るようになったのか、これまで私はその事に全く理解出来ずにいた。
 
しかしこの渓仙のサインを見つけて私は閃いたのである。
「ひょっとして魯山人は冨田渓仙のこのサインから、インスピレーションを得ていたのではなかったか・・」というように妄想し始めたのだ。
 
もちろんこれは単なる閃きで「仮説」に過ぎないのであるが、「この事を改めて確認してみよう!」と私は想い始めたのである。
「これは面白い‼」そう思うと私はワクワクしてきた。
 
 
 
 
                
                      右が冨田渓仙のサイン
 
 
 
 
 
 

  京都駅北口「おばんざい」屋

 
 
私は「魯山人」の名前の由来を「冨田渓仙」に関係しているのではないかという事を確認するために、改めていつごろから「魯山人」という号を彼が用いるようなったかを調べることにした。
 
再度図書館の司書に相談に行き、魯山人の年譜について記載されている著書を幾つか借り出した。
その結果魯山人との交流が深かった「黒田陶苑」の社長黒田草臣氏が、雑誌の特集に書いた『北大路魯山人』の末尾に「魯山人年譜」があることを見つけ、同年譜を詳しく見て確認した。
 
それに依ると魯山人は大正5年の時点では「北大路魯卿」と名乗っていたことが判った。内貴清兵衛の紹介により冨田渓仙と出遭い清水寺の泰産寺に逗留したのが大正2年から3年の頃であった。
従ってこの時期彼は冨田渓仙と知り合ってはいたが、まだ「魯山人」とは名乗っていなかった事に成る。
 
 
そして魯山人が「北大路魯卿」から「北大路魯山人」と号を替え、自ら名乗るようになったのは「大正11年」の頃から、であるようだ。
この年に彼は幼児期に養子に行った時から名乗るようになった戸籍名「福田房次郎」から、北大路家の家督を相続し戸籍も「北大路房次郎」に改めている。
 
従って大正11年の家督相続をきっかけに「北大路魯卿」から「北大路魯山人」にと号を改めた、という事である。
 
確かに直接的なきっかけは彼が北大路家の家督を相続したことにあるようだが、やはり彼が「魯山人」と名乗るようになったのは、冨田渓仙との出遭いがあった後であるのは間違いないようだ。この間7・8年が経過している。
 
この時間的な経過から、魯山人は冨田渓仙が使うようになった「渓 山 人」の号にインスピレーションを得て、いつの日か「魯 山 人」と名乗るように成ったと考えても、どうやら問題は無いようだ。
 
もし冨田渓仙と出遭う以前に魯山人自身が「魯 山 人」と名乗っていたとしたら、その逆も考えられるが、実際にはそうではなく「渓仙との出遭いの後」彼はそのような号を名乗るようになったのである。
 
 
そして先ほども推察した様に、冨田渓仙が「渓仙」を自身の号としたのが、敬愛する同郷の禅僧「仙厓和尚」の影響であった事を考え合わせれば、やはり魯山人が渓仙の影響を受けて「山人」と名乗るようになったと、そう考える方が自然であろう、と私は考えるようになった。
 
この事実に気づいただけでも今日府立図書館に来た甲斐があった、と私は想い秘かにニヤリとした。愉しい発見であった。
 
 
この発見で一区切りついた後、今回の事を識るきっかけに成った参考資料のコピーを撮り終えると、時間は既に17時に迫っていた。
川口君との約束は17時半に京都駅北口であった。
 
今日の収穫にある程度満足していた私は、川口君との時間が迫っている事を考え早々に地下の閲覧室を出て、府立図書館を後にする事にした。
 
11月中旬の京都の夕暮れ時の岡崎公園は、すでに黄昏ていた。
 
府立図書館を出て、来た道を辿るようにして東大路に出ると私は、JR京都駅に向かう市バスにと乗った。
 
バスには少なからぬ学生達や観光客が乗っていて、活気があった。
 
 
 
               
 
 
 
17時半前に京都駅に着いた。私はそのまま京都タワー近くにある飲食店の一画に在る、見覚えのある小料理屋に入った。川口君と約束した店だ。
 
入り口付近に置いて在ったコロナ対策の消毒液で、手や指を丁寧に拭いた。
 
カウンターの奥には既に川口君が座っていて、ビールを飲んでいるところであった。
彼は私を確認すると軽く手を挙げた。
 
 
どうやら川口君は早くから店に到着していたようだ。コップに注がれたビールの残量とおでんの小皿を目にして、私はそう推測した。
 
「やぁ、お待たせしちゃったみたいだね・・」私がそう言って彼の隣に座ると、
「思いのほか枚方(ひらかた)が早う片付いたさかい・・」彼は言い訳するようにそう言って、私が座るためのスペースを空けてくれた。
 
「ありがと・・」私がそう言って彼が差し出したカウンターの椅子に腰かけると、さっそく店の女将がお手拭きとコップを差し出し、
「おこしやす・・」と挨拶した。
 
 
私はコップとお手拭きを受け取ると、そのお手拭きで手をゆっくりと拭ったあとで、
「そうだね、僕もオデンもらおうかな・・」と言いながら、
 
川口君からコップにビールを注いでもらって、グッと一飲みして、
 
「何年振りかな・・」と言いながら久しぶりに逢った彼を、マジマジト見た。
白髪が増えたようだ。
 
「何年振りなんですかネ・・」彼はそう言って遠くを見るような顔をしてから、
「3・4年と違いますか・・」と続けた。
「もうそんなに経つか・・。君、少し太ったん違うか?白髪も、だけど・・」私が関西弁を交えてそう言うと、彼はニヤリとして
「恰幅が良うなった、言うてください・・」と言った。
 
「君も再雇用してから二年か三年になるんやろ・・」私が言うと、
「二年、経ちましたゎ・・」彼が言った。
 
 
「お待ちどうさんです・・」女将はそう言って、小鉢風のやや深めの赤絵の皿に乗ったおでんを私に差し出した。
 
「ヒマ、持て余してるんだろ・・」私がニヤニヤしながらそう言うと彼は、
「ま、ご推察の通りですゎ・・」肩をすぼめながら川口君は応えた。
「今日は何しに枚方に?」私が尋ねると、
「クライアントから、会社の遊休地の処分を頼まれてましてね、マ現地調査に行って来たんですゎ・・」と彼が応えた。
 
「今は住宅事業部だっけ?」確認の意味で私がそう言うと、
「はい、かれこれ10年に成りますゎ、住宅事業・・」
「自分で希望したんだっけ?住宅事業部・・」さらに尋ねると、川口君は
 
「いやいやとんでもない。私はずっとやって来た商業施設の都市生活事業部を希望してたんやけど、当時の事業部長と反りが合わなかったから飛ばされたんですゎ、住宅事業部に・・」と言って苦虫を噛み潰したような顔をした。
 
「そういえばそんなこと言ってたっけな・・」私は彼がかつてそう言って、愚痴っていた事を思い出した。
「人生山あり谷ありですゎ・・。なかなか自分の思った通りには行かしません・・」なんだか悟った風に彼が言った。
 
「確かに、その通りだけどね・・。悟ったのかい?」私がニヤニヤしながらそう言うと、
「マ、あきらめ半分ですがね・・」彼がそう応えた。そんな彼に私はビールを注ごうとしたが、あまり残っていなかったので、
 
「女将、もう1本!」と言いながら私は彼女に向かって、空のビール瓶を見せた。
ちょうどその時、新しい客が入って来た。
 
「おこしやす!あら、お久しぶりで・・」女将はそのお客に向かってそう言うと、私達にビールを差し出し、新しい客におしぼりを用意した。どうやらなじみ客のようだ。
 
 
「ところで今回は何しに、京都来はったんでしたか⤴・・」川口君が聞いてきた。
「ン?何しに、ってかね・・」私はあえて即答はせず、ニヤニヤしながら彼を見て、ゆっくりとおでんを食べ始めた。
 
私は先ず大根を箸で半分ほどに割って、さらに1/4ほどに割いてから、口に入れた。
じっくり煮込んだものと想われる厚切りの「だいこん」は味がしっかり染込んでいて、簡単に箸で割くことが出来たし、柔らかくおいしかった。
 
「旨いな・・」思わず私はそう言った。川口君は目を細めて肯いた。
「ここは”おばんざい”が旨いさかい・・」川口君が言った。
「あ、そうか京都ではこういう手料理中心の小料理屋を、『おばんざい屋』って云うんだったね・・」私がそう呟くと、
 
「マ、そういう事ですゎ。
あの大皿に載ってる『ナンキンの炊き合わせ』や『ひじきと大豆の煮もの』『春菊とドンコの白和え』『鯖寿司』といったあたりが、この時期の代表的おばんざいですかね・・」彼はそう言って、カウンターに載ってる大皿料理の幾つかを指さした。
 
「『ナンキン』『ドンコ』って、何だっけ?」私が尋ねると、
「『かぼちゃ』と『乾燥シイタケ』の事を関西ではそう云うんですゎ・・」川口君が教えてくれた。
「おばちゃん、『牛スジ』と『焼き豆腐』頼むゎ・・」彼はそう言って、カウンターの上に空になったおでん皿を差し出して、追加の注文をした。
 
                        
 
                   
 
 
 
「実はね、魯山人についてまた調べようかと思って、ね。で京都にやって来たのさ・・」私が今回京都に来たわけを話し始めた。
 
「そういえば昔から、焼き物なんかに興味あったんやったですね、柳沢さん。
ボクも信楽や伊賀上野にようよう付き合わされましたっけ・・」川口君は若い頃の事を思い出しながら、私の窯元探訪に付き合わされた数十年前の事を話し始めた。
 
「そういえば、君にも付き合ってもらったんだったね。イヤ、その節はお世話になりました・・」私はそう言いながらビールを彼に注いだ。
 
「マ、あの頃はチョンガ―で、ヒマ持て余してましたさかい・・」川口君はそう言いながら、ビールを飲み干すと、
「おばちゃん、熱燗1本頼むヮ!」と言って日本酒を女将に頼んだ。
 
 
その時若い女の子が芹沢銈介風の民芸暖簾をくぐって、奥から顔を出して女将の横に並ぶと早速手伝い始めた。
 
彼女は竹で編まれた笊篭に入った20個近くのぐい吞みを川口君の前に差し出して、
「お好きなのンをどうぞ・・」と言った。
   
川口君が染付のぐい吞みを取ると、彼女はその篭を私に差し出した。
籠の中から私は伊賀焼風ビードロ緑釉が架かったぐい吞みを撰んで、彼女に篭を戻した。
 
「沙枝ちゃん、今日もバイトかぃ・・」先ほど入って来て、カウンターに座った、常連と想われる70代前半の男性客が、その若い娘に声を掛けた。
 
 
「ところでナンでまた、魯山人始めたんです?やっぱ、時間がたっぷりあり余ってるからですか・・」川口君がニヤニヤしながら尋ねてきた。
「まぁね、そんなとこかな・・。それにちょうど一昨年が魯山人没後60年ってことで、いろんな所で回顧展があったりしてね・・」私がそのように応えると、
 
「焼け木杭に火が付いたちゅうわけですかぃな・・」彼が探るような眼で、私を見ながら聞いてきた。
「まぁね・・」私はそう応えると、おでん皿の昆布巻きを口の中に入れそのまま食べた。
 
 
「子供たちも就職や結婚で家を離れて久しいし、仕事もケリが付いたしね・・。
マ、自己回帰に向かったってことかな・・。
そのうち君にも判る時が来るよ。再来年の誕生月までだっけ?」私がそう話を向けると、
 
「はい、そうです。柳沢さんより五コ下ですよって・・」彼は応えた。
「何か今のうちに趣味とか見つけといた方が良いと思うよ・・。リタイア後を見据えてね・・」私がそんな風に先輩風を吹かすと、彼は急に明るい顔に成って、
 
「実は三年ほど前にいったん退職した時に、一大決心しましてねワシ、北海道にセカンドハウスを買うたんですゎ・・」と言うと、驚く私をしり目に
「十勝ナンですがね・・」と付け加えた。
「ホウ、それはそれは・・」私は一気に興味津々となり、彼に幾つか質問を始めた。
 
 
「何でまた北海道の十勝に成ったのさ・・。確か実家は和歌山の方じゃなかったっけ?」私が聞くと、
「ま、最大の理由は夏の暑さ、ですかね。何せ梅雨明けからの2か月間の本州の夏は最悪やさかい・・」彼はそう言って北海道にセカンドハウスを購入した経緯を話し始めた。
 
「それに和歌山の実家は海抜十mナンぼってくらいで、『南海地震』が起きたら一発なんですゎ・・。
気がかりだったオカン(=母親)も5年ほど前に亡くなってますし、元々ワシ自分の故郷にあんまり執着心無いんですゎ・・」彼は酔った時の口癖で、自分の事を「ワシ」と言い始めた。
 
 
女将が差し出したぐい呑みとお揃いの染付風徳利の熱燗を私が受け取り、彼のぐい吞みに注ぎながら、
 
「で、何で十勝に成ったのさ?函館とか札幌とかじゃなくって・・」と更に尋ねると、
「退職してからヨメと一緒に車で北海道を一周したんですゎ、残ってた有給全部使い倒して、ほぼ1ヶ月ほど掛けてですね・・。
そン時に夕張から日高山脈越えて、道東の十勝に入ったんですが、そン時の光景がスンゴク良かったんですゎ。
 
こう、目の前がパーって拡がってですね・・。
目の前が見渡す限り緑でパーって拡がってるんですょ、まだら模様の畑がキレーに、条里がハッキリクッキリしてですね・・。
感動したんですゎヨメもワシも・・」彼はその時の感動を思い出すように、遠くを見るような眼差しに成って、ぐい吞みをクッとあおった。
 
 
「ホレちまったんだね、十勝に・・」私がそう言うと彼は肯きながら、
「そーなんですよね、一目ぼれしちまったんです。ヨメも・・。
それ以来毎年夏の暑い盛りの三週間ほど、夏休みに有給を積み増して休みたっぷり取って、毎年行ってるんですゎ車に乗って・・」そう嬉しそうに言った。
 
「車?飛行機とかじゃなくて、かい?
けっこ長距離ドライブになるだろうに・・」私が驚いて確認すると、
「それもまた楽し、ですゎ。日本海側を3・4日掛けてゆっくりと北上するんですゎ観光兼ねて・・。
 
そんなこともあってついでに車替えたんですゎ、ワンボックスからSUVにですね。
何せ北海道やさかいSUVはいろいろと都合がいいんですゎ。
道なき路に入ったり、オートキャンプに泊まったり・・」彼はやはり嬉しそうに、そう言った。
 
 
 
 
                
                   十勝平野     
 
 
「因みに十勝のどの辺りにしたのさ、セカンドハウス。十勝ってかなり広いだろ・・」私が尋ねると、
「えぇ広いでっせ十勝、何せ『十勝平野』ですさかい・・。
因みにセカンドハウス買うたんわ南十勝の『大樹町、云うんですゎ。日高山脈にかなり接近するんですが、海にも面してましてね・・。
 
元々酪農が盛んな地域ナンですが、最近は宇宙産業の拠点にも成りつつあるようで、新しい産業も育ち始めてるとかで、いろんな顔持ってて・・。
なかなかオモロイ処でもあるんですゎ・・」彼が言った。
 
「確かホリエモンが創った宇宙ロケットの会社が、その辺に無かったかい?
彼の創った会社がロケットの打ち上げに成功したとか、何かのニュースでやってたけど、その辺の町じゃなかったかい?
・・どっかで聞いたことある名前だよね・・」私がかつてニュースで聞いた記憶を辿って話すと、川口君は大きく頷きながら、
 
「ドンピシャですゎ、その町です・・」そう言った。
「なるほどね、広大な農地が広がる酪農が盛んな街であり、なおかつ宇宙産業の拠点でもあるんだね。
で、日高山脈からそう離れてもいないし海にも面していると・・。
いろんな顔を持ってて可能性も秘めてるってわけだその町は・・」
 
私が彼の購入した別荘の在る町をそう評価すると、川口君は身を乗り出して身振り手振りを交えて、熱弁を始めた。 
 
「更におモロイのはですね、柳沢さん・・」彼は私の顔をじっと見てから、
「その町の中心部を流れる川は、かつて砂金が採れた場所でもあるらしいんですゎ『歴舟川』云うんですけどね・・」と嬉しそうに言って、更に話を続けた。
 
「『歴舟川』の源流は日高山脈に成るんですが、その中にどうやら金鉱山があるらしいんです。
その金鉱山から流れて来た太古からの砂金や金片が、その歴舟川にはズッと堆積していたらしいんです。
 
北海道に入植がはじまった明治以降、戦後の昭和30年代頃までの7・80年間は、砂金採りで生活してた人がギョウさんおったみたいで、最盛期の明治から昭和初期にかけては数百人の砂金採りが川沿いに生活してた、いうくらいで・・」彼は弾けんばかりの笑顔で、目を輝かしてそう言った。
 
 
「なるほどロマンあふれる町なんだね、その大樹町ってのは・・」私がちょっとからかい気味に言ったが、川口君はそれには反応しないで熱弁を始めた。
 
「実は私のヨメの実家は三重の松阪なんですけど、ヨメのオトーさんが郷土史に興味がある人で、ライフワークが松阪出身の探検家『松浦武四郎の研究』なんですゎ・・。
 
で、ヨメの実家に遊びに行くたンびに、ワシその武四郎にまつわる話を聞かされてきたんです、ズ~ッと」と奥さんの実家のお舅さんの事を始めた。
 
 
「若い頃はワシ全く関心なくって、ずっと『馬の耳に念仏やったんですが、50過ぎた辺りからワシも何となくヨメのオトーさんの話に耳が傾くように成って、少しづつ身を入れて聞くように成ったんですゎ・・。
 
ちょうど都市生活事業部から住宅事業部に左遷された時期とも重なったことも、少しは影響してたかも知れンのですがネ・・。
 
でその頃ヨメの実家に行ったついでに、オトーさんからちょっとおモロイ本を戴きましてン。それがキッカッケで、北海道の砂金や金山についていろいろ調べる様に成ったんです・・」川口君はそう言って、手酌でぐい吞みに日本酒を注いだ。
 
 
「松浦武四郎って確か、江戸時代末期に幕府の命令で北海道を探検/調査した人物じゃなかったかい?」私が確認するようにそう言うと、彼は頷いて肯定した。
 
「ところで、その奥さんのお父さんから君がもらった本ってのは一体何て本だったのさ・・」私も彼の話につられ、彼の人生を変えたかもしれないというその本の事が気になって尋ねてみた。
 
「それはですね、脇とよさんの『砂金掘り物語』云うンですけどね・・」彼がそう応えたので、私は早速、
「ホウ、その本が北海道の砂金や金山に繋がってくるってわけか・・で、その本の著者はやっぱり北海道の人かい?女性の名前みたいだけど・・」と尋ねた。
 
「いやいやそれがですね、北海道出身のご主人が京都で古本屋やってはって、その古本屋の奥さんやった云うんですよその人・・。
因みにその本、昭和30年代に自費出版されたらしいんですけどね・・」川口君はそう言うと更に続けて、
 
 「その本に依ると、どうやらご主人の叔父さんが北海道で砂金掘り師していて、晩年に成って甥っ子の住んでいた京都に遊びに来るようになったんやそうですゎ。冬の寒い時季に・・。
 
でその折に聞き書きした話を、叔父さんが亡くなった後改めて整理して、まとめて書いたンがその『砂金掘り物語』、いう事らしいですゎ・・」川口君はその本が書かれたいきさつを解説してくれた。
 
 
「なるほどね、という事は昭和30年代までその叔父さんはずっと砂金掘りをしていたってことかな・・。
で、その脇とよさんという著者の叔父さんが、ご主人でもある京都の甥っ子の家に遊びに来た時に、聞いた体験談をまとめたのがその・・」私が著書の名前を思い出そうとしていると、
「『砂金掘り物語』ですゎ・・」と彼が助け舟を出してくれた。
 
「あぁ『砂金掘り物語』ネ・・。
で、それまでずっと現役だったってことなのかい?その叔父さん・・。年齢から推測すると明治時代辺りから、砂金を掘ってた事になるのかな?それとも・・」私が尋ねると、
 
「ずっと現役みたいだったようですよ、その叔父さん・・。
明治時代の中頃に父親と一緒に故郷の山形から、北海道蝦夷地での砂金採集の募集に応じて渡って以来、5・60年の間ずっとそれで働きその収獲で、家族を養っていたという事らしいですから・・。
もっとも晩年になると小遣い稼ぎ程度の砂金採取に収まった、いうんですけどね・・。
 
その叔父さんは、冬の雪がチラつくころに成ると北海道から京都にやって来て、数ヶ月逗留し、また春暖かく成ってくるとソワソワしだして、北海道に向かって行く、ゆうことを何年か繰り返されはったそうです。
その本にそう書いてありました・・」川口君がニヤニヤしながら話してくれた。
 
「なるほどね、それでその南十勝の大樹町だっけ?そこに流れる何とかっていう、砂金の採れる川に大いなる関心を寄せてる、ってことなんだね君は・・」私が確認のためにそう言うと、彼は
 
「マ、そういう事ですゎ・・。ここ数年間夏休みに北海道に行く度ンびに、その『砂金掘り物語』に書かれているエリアに、立ち寄ることにしてるんですゎワシ・・」と応え、北海道行きと砂金採取とがリンクしている事を嬉しそうに語った。
 
 
「松阪のお父さんも喜んでる?」私がそう話を振ると、
「それはもう!ヨメのオトーさんも大いに乗り気で、セカンドハウスに自分専用の隠居部屋をオーダーして、リフォーム代金を援助したぐらいですさかい。
80過ぎてンのにまンだ血気盛んで・・」川口君はそう言って、義父が松浦武四郎の愛した北海道に自分の拠点が出来ることを喜んでいる、と嬉しそうに付け加えた。
 
「それは良かったね~。奥さん喜んでるでしょ」私がそう言うと彼は何回も肯いた。
「という事は、今の君は北海道の砂金や金山に関することに夢中になってる、ってことかな?」私が確認すると彼は肯きながら、
 
「柳沢さんが『北大路魯山人』にリタイア後の愉しみ見つけたんと、同ンなじやと思てます。たぶん・・」そう言って嬉しそうにぐい吞みを飲み干した。
 
「なるほどね、それが君の趣味に成りつつあるわけだ・・。
良かったね趣味や目標が定まって・・。という事は君は、リタイア後は北海道と大阪を行ったり来たりすることに、成るのかな・・」
 
私がそう言うと彼は大きく頷きながら
「ヨメは北海道のセカンドハウスを『夏の宮』言うてますゎ・・」川口君は嬉しそうにそう言って、ぐい吞みをクッと吞んだ。
 
 
 
                  
                     
                     松浦武四郎は蝦夷地を愛し、
                 アイヌの人と文化をリスペクトした
 
 
 
 

  渓山人と魯山人

 
川口君との久々の会食を十分愉しむことが出来たので、九時前には私達は帰ることにした。
 
JR京都駅北口のおばんざい屋からJR経由で南口のホテルに向かうまで、川口君と地下街を歩きコンコースにと向かった。
途中地下街の飲食街で軽くビールを飲んで、ラーメンを食べた。
 
最近は飲んだ後にラーメンやうどんを食べる機会は少なくなったが、40代ぐらいまではこういう飲み方をよくしたものである。
久しぶりに川口君と逢った事もあって、彼の誘いに乗ったのであった。
 
ラーメンを食べた後コンコースに向かい、JR奈良線で帰宅する川口君を改札口で見送って、私はその足でホテルに戻った。
今日は清水寺の泰産寺を訪ねたり、岡崎公園の府立図書館に行ったりとたくさん歩いた事もあって疲れていた。万歩計は15,000歩を越えていた。
 
更にアルコールも身体を周りお腹も膨れていたこともあって、部屋に入るとそのまま歯ブラシを済ませ、すぐに眠りに就いた。
おかげでぐっすりと眠ることが出来た。
 
 
翌朝目覚めてから、ゆっくりと湯舟に浸かって半身浴を済ませると、頭もすっきりした。
7時のニュースを観て、区切りのついた7時半過ぎに階下に下って行き、ホテルの朝食を済ませた。
 
部屋に戻ると私は時計を確認してから立花さんに連絡することにした。
9時前であったので彼も既に朝食を済ませているだろうと思い、念のためメールを入れてみた。
 
私は昨日の府立図書館で見つけた、北大路魯山人の「魯 山 人」の名前の謂れについての発見が嬉しくて、立花さんに話してみたくなったのだ。
もちろんその時の私は彼に自慢したくて、心が急いていた。
 
立花さんからは折り返しのメールが入り「9時半以降ならいつでも可能」とあったので、私は9時半過ぎに改めてスマホをかけることにした。
 
 
「ご無沙汰しています、柳沢です」と私が言うと、
「ご無沙汰です。水戸以来ですかね・・」と彼は応じた。
「ですね。もう1年半経ちますかね・・。その節はお付き合い頂きありがとうございました」私がそう続けると彼は、
「いやいや私も水戸に行って幾つか調べ物がありまして、ついでで良かったですよ・・」と応えた。
 
「確かあの後『甲斐源氏と常陸之國』という物語を書かれていたかと・・。
HPで観ましたがあの時の水戸行きがその成果に繋がったんですかね・・」私がそう言うと、立花さんは
「おっしゃる通りです。あの後何回かコロナ騒ぎの合間を縫うように、北茨城を中心に現地調査や資料漁りを繰り返して、先月やっと書き上げてHPに載せ公開する事が出来ました」と嬉しそうに説明してくれた。
 
 
「ところで今日はどうしました・・」と彼が改めて聞いてきた。
「アはい、実は私今京都に来てるんですよ。
水戸で立花さんにお話ししたと思いますが、魯山人について改めて確認したい事や調べたい事があって、ですね・・」私はそう言って今回の京都訪問の事を話した。
 
「そういえば『焼け木杭に火が付いた』とか言ってましたっけね、あはは・・」スマホの向こうで、立花さんが笑っている姿が私には想像できた。
「まぁ、おっしゃる通りです。実は今日でこっちに来て三日目に成るんですが、昨日は清水寺の泰産寺に行って来たり、府立図書館なんかにも行ってきたんです・・」私がそう言うと、柳沢さんが、
 
「泰産寺というと・・」と呟いた。
「アはい、魯山人が内貴清兵衛に勧められて、若き日本画家の冨田渓仙と一緒にしばらく逗留してた東山山麓のお寺ですよ、清水寺山内の・・」と解説した。
 
「あぁ、そういえばそんな話、してましたっけね・・」立花さんも思い出したようだ。
「えぇ笠間の春風万里荘』に行った時に、話したかと思いますが・・」私がその時の様子を話すと、
 
「あぁ、思い出しましたよ。冨田渓仙と一緒に魯山人がね・・」立花さんはようやく一年半前に私と話した事を、ちゃんと思い出したようだった。
「で、いかがでしたか?何か発見とか収獲ありましたか?」彼は聞いてきた。
 
 
「マ、それなりに収獲ありましたよ・・」私はあえて、ちょっと控えめに言った。
「具体的には・・」立花さんが更に突っ込んできた。
 
「そうですね・・。例えばあの泰産寺であれば、四季の移ろいとかをかなり体感する事が出来たんじゃないか、とかですね。それもまぁ五感全体で、ですね・・。
 
泰産寺は清水寺山内の塔頭ですけど、本堂からはそれなりに離れていて、観光客なんかもそんなに多く行かない場所でして・・。
しかも賑やかな門前町からは離れ、一段と東山山系の山懐に入って行くといった感じで、俗世間とは距離を置けるというか・・。
 
で、盆地の底の京都の市中に比べると標高も高く、寒暖の差が激しい山中という事もあって、四季がはっきりくっきりと感じられる好い場所じゃないかと・・。
 
今でしたら丁度モミジが色付き始めてますし、たぶん春先には桜の花や梅も・・、といったようにですね・・」私は饒舌に泰産寺の事を語りだした。
 
 
「なるほどね、京都の市中よりは一層季節感が味わい易い場所だった、という事ですかね。その泰産寺は・・。
で、そういった環境であれば魯山人や渓仙の感性や美意識を育むのには、さぞや有意義な場所だったのではないかと、そのように感じたわけですね柳沢さん・・」立花さんが言った。
 
「私の様な者でもそう感じたくらいですから、彼らの様なアーチストであれば、さぞや得るものも多かったのではないかと・・」私は昨日の泰産寺の情景を思い出しながら、そう語った。
 
「それは良かったですね・・。清水寺の奥まで行った甲斐があったわけですね・・」立花さんはそう言って、喜んでくれた。
「そうなんですよ、それに魯山人が後に北鎌倉に棲むようになったのは、やはりこの時の泰産寺での経験が大きかったのではないかと・・。そう改めて確信しました」私は続けてそう言った。
 
「そうですか・・、確信しましたか。いやぁそれは良かったですね・・」立花さんは心から喜んでくれる様に、そう言った。
 
 
 
                   
             
 
 
私は気を良くしていよいよ本題に入ることにした。
「清水寺でそれなりに収獲があったものですから、その後岡崎公園の『府立図書館』にも行ったんですよ、その足で・・」私がそう言うと、
 
「『府立図書館』ですか、なるほどなるほど・・。で、何を調べに行かれました?」立花さんが肯きながら聞いてきた。
「そうですね、内貴清兵衛と冨田渓仙が中心ですねぇ、ついでに魯山人も・・」と私が応えた。
「なんだか、声が弾んでますけど良いコトあったんですか?柳沢さん・・」立花さんがそう言った。私は内心「え⁉」と思ったが口には出さずに話を続けた。
 
 
「どうして判りましたぁ~」とチョットおどける様に言った。
「声がねぇ弾んでますよ・・。何か好いことあったんですか?」立花さんはそう言った。たぶん彼はニヤニヤしながら今スマホしてるに違いない、と私は想いながら話を続けた。
 
「ぇへ、わかりますか。実はですねチョットした発見がありましてね・・。それが嬉しくてつい・・」私もニヤニヤしながら応えた。
「そうですか、それは良かったですね・・。
で、具体的にはどんなことです?内貴清兵衛に関して、とかですか?」と彼がカマを掛けてきた。
 
「いやいや内貴清兵衛に関しては全くナッシングなんですョ・・。
残念な事に彼に関する資料や著書は全く見当たらず、ようやく見つけたのが『京都人名辞典』ぐらいのものでして・・」と私が言うと、
「という事は必然的に冨田渓仙か魯山人、という事に成りそうですね・・」さらに的を絞って立花さんは聞いてきた。
 
「マ、そういう事に成りますけどね、実は両者に関係する事なんです。
具体的にはですね、魯山人の名前に由来する事でしてね、その魯 山人の『山人』の秘密が解けたような気がしましてね・・」私は嬉しくて益々心が弾んで行くのを自覚していたので、出来るだけ気持ちを抑えて控えめになるように努めた。
 
「ほう、それはそれは・・。なんだか面白そうな事ですね。・・で、何を発見したんですか柳沢さん。何故魯山人が『魯 山人』と名乗るようになったのか・・」立花さんが興味津々というように聴いてきたのが、スマホ越しに私にも伝わって来た。
 
 
「そうなんですよ・・。実は私以前から何で魯山人は『魯 山人』と自らの号を名乗るようになったのかズッと判らずに疑問に思ってたんですよ、長い間・・」私が言うと、
「確か彼は、北大路魯卿』とか名乗ってた時期、ありませんでしたか・・」立花さんが思い出したようにそう言った。
 
「はいおっしゃる通りです。明治の終わりごろ彼が30歳になる前に、魯山人が母親を連れて朝鮮総督府の印刷局に雇われて、渡鮮したあたりの事ですかね・・。
魯山人はその渡鮮の流れで、当時の清国=中国にまで足を延ばし、書や篆刻の大家などを歴訪してるんです。
 
で、その中国から日本に帰って来た頃『北大路魯卿』と名乗ったようです。
大正5年頃の事ですね・・」私はそう言いながら、昨日コピーしてきた白崎秀雄氏が作成した『魯山人関係年譜』の資料を引っ張り出して、話を続けた。
 
「そうでしたか・・。ところで『魯卿』を名乗るまでの彼は、因みに何と名乗ってたんでしたっけ?」立花さんが聞いてきた。
 
「それまでは『福田鴨亭』と名乗り、中国から帰国してから『福田大観』と一時期名乗っていて、ほどなく『北大路魯卿』を名乗るようになった、という事ですね。
・・白崎英雄さんの年譜にそう書いてあります・・」私は『魯山人関係年譜』で確認しながら応えた。
 
 
「で、その後魯山人の兄が亡くなり、母親も亡くなって自分が北大路家の家督を相続したころに、北大路魯卿から『北大路魯山人』と号を改めた、という事ですね。大正11年頃の事のようです」私はコピーしてきた魯山人本の年譜を目で追いながら、そう応えた。
 
「因みに出典は、やはり白崎秀雄さんの年譜でしたか?」立花さんが更に確認してきた。
「はい、おっしゃる通りです」私がコピーの年譜を確認して応えた。
 
「ホウそうなんですか・・。ところで魯山人と渓仙が知り合ったのはいつ頃だったんでしたっけ?」立花さんは相槌を打ちながらも更に、私に確認してきた。
 
「そうですね・・。内貴清兵衛の紹介で彼らが知り合って泰産寺に逗留するようになったのは・・。大正3年1914年と書いてありますね・・」私は正確を期すために『魯山人関係年譜』で確認しながら、そう応えた。
 
「という事は当時の魯山人は・・」立花さんがそう言ったので、
北大路魯卿』と名のったのが大正5年なので、その前の大正3年だと『福田大観』と名乗っていたことに成りますね・・」私は応えた。
 
 
「話を戻しますと、それまで『福田大観』を名乗っていた魯山人が、大正11年に『北大路魯山人』を名乗るようになったのは、大正3年に冨田渓仙と知り合い共に泰産寺に逗留したことがキッカケだったんじゃないか、と閃いたのが先ほど言いましたが私の発見した事だったわけです。渓仙の『仙』の字をヒントにしてですね・・」私は続けた。
 
「フムフム・・。その時の出会いがあって、渓仙の『仙』の字を貰ったという事ですか?魯山人は・・」立花さんが確認するようにそう言った。
「そういう事です」私は応えた。
「因みに、冨田渓仙が『渓仙』を名乗るようになったのは・・」立花さんが更に確認してきたので、
 
 
        
             若き冨田渓仙と桜に鳥図「桜花小禽」
 
 
 
「そうですね・・、ちょっとお待ちください・・」私は一先ずそう応えてから、昨日コピーしてきた『冨田渓仙の伝記本』を確認した。
 
「彼が雅号として『渓仙』と名乗るようになったのは、京都四条派の日本画家『都路華香』の内弟子に成った明治30年、19歳の頃だという事です・・」と私は応えた。
 
「なるほど・・。という事は明治は45年までだから、彼が『渓仙』を名乗ってから20年近くは経過していたわけですね、魯山人と知り合うまで・・」立花さんはそう言って、自分の頭の中で計算して、言った。
 
「そういう事に成りますね・・」私が応えると、立花さんは
「という事は既に20年近く『冨田渓仙』を名のっていた、渓仙の『仙』の字にインスピレーションを受けて、魯山人は『山人』と名乗るように、成った、という事ですかね?柳沢さんの仮説は・・」と更に確認してきた。
「はい、そうではないかと私は考えています・・」私が得意げに応えた。
 
「『仙』を『山人』と・・、ですか?ちょっと飛躍してませんか?もちろんイマジネーションは大切なんですが・・」立花さんが疑問を呈してきた。
私は待ってましたとばかり、
 
「そう想われるのは無理ありませんね、私の想像力で思いついた事ですから飛躍しすぎかもしれません・・。
ところがですね『渓仙』は雅号に『渓山人』という名称を用いてもいるんですよ、実は・・」と更に自信をもって応えた。
 
「ホウそれはそれは・・」と立花さんはそう言ってから、ちょっと間をおいて、
 
「因みに渓仙が『渓山人』の雅号を用いるようになったのはいつ頃でしたか・・」と更に確認してきた。
 
 
「渓仙が『渓山人』の雅号を名乗るようになった時期ですか?」私はそう応えたが、明確な時期についてはまだ確認していなかったので、ちょっと慌てた。
 
「ちょっとお待ちください、今確認しますので・・」と応えてから、昨日の冨田渓仙の伝記本京都画壇の異才 冨田渓仙』のコピーしてきた箇所をもう一度確認した。が、すぐには判らなかった。
 
「すみません・・。手元の資料では・・」と私が自信無げにそう言うと、立花さんは
「そこが『キモ』に成りそうですね・・」と呟いた。
「確かに・・そうですね・・」私もそう想い同意した。
 
「冨田渓仙が『渓山人』』と名乗った時期が、魯山人が『山人』を名乗る前で、しかもそれを魯山人が知っていたとすれば、柳沢さんがおっしゃるように魯山人がインスピレーションを得たという仮説も、証明されるかもしれませんね・・」
 
立花さんはそう言って、私にその辺りの確認というか検証が重要だと示唆した。
そしてそれが確認出来て初めて、私の『発見』を受容し同意することが出来ると、暗にそう言ったのであった。
 
 
チョットした沈黙があってから私は口火を切った。
「了解しました。その点をもう一度確認してからまた、立花さんにご連絡します。ありがとうございました、勉強になります・・」
私はそう言って、もう一度調査し直してから再度報告すると、そう約束した。
 
 
その時の私は当初の意気込みがすっかり消えてしまっていた。
「発見」や「アイデア」を他者に公表する前には、その仮説を検証することの大切さに改めて私は気付かされた。立花さんの的確なアドバイスであった。
 
私は立花さんに事前に相談しておいて良かった、と思うと同時にもう一度冨田渓仙が「渓山人」を名乗るようになった時期を確認するために、図書館に行ってみようと想った。
 
「今日もう一度『府立図書館』に行ってみます・・。その上でまた連絡させて頂きます」私がそう言うと、立花さんは
 
「そうですね、それが良いだろうと思います。
柳沢さんの『発見』を検証する事も大切だと思います。自分自身の考えや閃きをチョット距離を置いて、第三者の視点で見つめ直すという事もね・・。
 
それとついでですが京都には、『府立図書館』の他にもしっかりした図書館や資料館が幾つか在りますがご存知ですか?」と更にアドバイスしてくれた。
 
 
「いや、あんまり・・。あとでネットで調べてみます・・」私が言った。
「そうですね、それが良いでしょう・・」立花さんはそう言って、更に
 
「参考までに私が京都でよく利用する図書館は、府立図書館の他には府立歴彩館』『市立中央図書館』『京都歴史資料館と言った感じです、良かったら参考にしてください・・」と立花さんがアドバイスしてくれた。
 
「アはい・・。因みに『レキサイカン』ってどんな字を書くんですか」と私は尋ねた。
「歴史の『歴』に、イロどるの『彩』ですね、それに函館の『館』です」と彼は丁寧に教えてくれた。
「ありがとうございます・・」と私はお礼しながら、名前をメモに書き残した。
 
 
私は一旦そこでスマホを切ることにした。
「今日はいろいろとお話を聞いていただいてありがとうございました。大変参考になりました・・。
先ほどの件が判りましたらまた連絡させていただきます。
・・たぶん図書館に行ってからになると思いますが・・
いろいろと有り難うございました、勉強になります・・」最後に私は立花さんに感謝の思いを込めて、お礼した。
 
私はそう言うのがやっとだった。自分の気持ちがしぼんでいるのが判った。
スマホを置いたら思わずため息が出た。
 
 
  
 
 

  高野川西岸「松ヶ崎山荘」

 
 その日の午後、私は改めて「府立図書館」を訪ねることにした。
「府立図書館」では、館内に入ると私はそのまま真っ直ぐ地階に在る「カウンセリングコーナー」にと向かった。
 
そこで運良く昨日の女性スタッフをカウンター内に見つけたので、彼女の座ってる場所の向かい側に着席した。
 
「こんにちは。昨日はお世話になりました」私が座りながらそう挨拶すると、彼女も私の事を思い出したようにニコリとして、
「今日はどない資料をお探しですか?」と言った。
 
「あ、はい。今日も昨日と同じというか、続きに成るんですが『北大路魯山人』と『冨田渓仙』に関する著書や資料でして・・。
今日は特に彼らの年表が記載している資料や図書があると、嬉しいんですが・・」私はそう言って彼女の問に応えた。
 
「あ、そうですか年表類ですね・・。そしたら10分ほどお時間戴けますか?ご用意させて頂きますよって・・」彼女はそう即答してから確認する様に私を見た。
「了解です、ではその頃にでも・・」私は壁に掛かった時計をチラリと見てから、そう言って頭を下げ、席を立った。
 
館内の「郷土史コーナー」で時間をつぶしてカウンターに戻ると、既に何冊かの資料がテーブルに用意されていた。
 
 
資料や図書を受け取ると、初めに私は冨田渓仙から着手する事にした。
冨田渓仙に関する資料や図書の「年譜」に関する箇所を中心に精査した私は、どうやら冨田渓仙が「渓山人」の落款を使い始めたのが大正11年の1922年であることを確認できた。(この時42歳)
 
この年の秋行われた日本美術院の「院展」に出品した作品「岬」「漁火」あたりから、この落款が用いられ始めたという。
但し彼が自らを「渓山人」と号すようになったのは、それから更に3年後の大正14年の1925年であるという。
 
 
他方魯山人についても同様に調べ直したところ、彼がそれまでの「北大路魯卿」という号を捨て、「魯山人」を名乗るようになったのは39歳の大正11年(1922年)の事であるという。魯山人が北大路家の家督を相続した時であった。
それは将に、冨田渓仙が「渓山人」の落款を使い始めた年と同じ年であった。
 
従って二人はほぼ同時期に「魯山人」「渓山人」と名乗るようになったことに成る。
二人が知り合い清水寺泰産寺に逗留し始めたのが大正3年1914年の事であるから、この間8年間が経過している。
 
 
という事は昨日私が「発見」した、「魯山人」が冨田渓仙の号「渓 山 人」からインスピレーションを受けて、「魯 山 人」を名乗るようになったのではないか?という仮説は、もろくも崩れてしまった事に成る。
 
私の「発見」はたった一日の命しかなかったようだ。誠に残念な事である。
私は一気に気力が失せ、力が抜けていくのを自覚した。
 
「あ~ぁ」なのである。
 
そして今朝立花さんに大発見をしたかのように喜び勇んで連絡した自分が恥ずかしくなった。
と同時に私の「大発見」のウラを取るようにアドバイスしてくれた立花さんの指摘を、ありがたく思った。
 
周囲に得意になって吹聴する前に、彼に事前に相談しといて良かったと思った。大恥をかかなくて済んだからだ。
 
そして私は今回の事を肝に銘じておくことにした。
いつの日かもう一度遭遇するかもしれない「大発見」をした時は、今回の経験を生かして出来るだけ慎重にウラを取って、確認・検証しなければならない、と強く思ったのだ。
 
 
この様に反省し殊勝に成った私は、その後閲覧した幾つかの「冨田渓仙本」の中から、運よく冨田渓仙が自ら書いた『無用の用』というエッセイ集(昭和10年発刊)に出遭うことが出来た。
そしてその中に記載されていた、渓仙の記した一文に目が留まったのである。
 
日本画の師匠である都路華香から、修行中のある時期に受けたエピソードを書き綴った一文で、「手の裏と表」(同書28ページ)という表題のエッセイであった。
その抜粋は下記の通り。
 
「・・(か)かるがゆえに志の賤しきもの、藝道の道に入るべからず。潔く日用の有益品を製造するにしかず。
(その方が)却って世上にも益し、それ職工にも益あり、米あり、酒あり、野菜あり、おしめあり。
然りと雖も志の高きを踏むものゝ己米、野菜、おしめの境を脱すること能わず。即ち倶に人間なるが故なり。
・・(それは将に)あたかも手の裏と表の如し。よく似たもので、その名は表も裏も一概に是を言えば只手なり。・・」   註( )は著者牛歩の加筆
 
 
その意味するところは、芸術の道を歩むものは志を高く維持し続けないと、生活の糧を求めるために自分の有する技術や技を使うようになり「職工=職人」に陥ってしまうぞ、と師匠の都路華香は弟子の冨田渓山に諭しているのである。
 
これから彼が踏み入れる事になる、「日本画家として生きる道」の困難さやその道に入る事の覚悟を、師の華香は弟子に問うているのだ、と私はこの一文から感じ取った。
 
都路華香は弟子入りして間がない渓仙に、芸術の世界に生きることの生き難さ、生活の苦労を伴う事を教え諭し、若き渓仙にその覚悟を問うているのである。
 
 
私はこの一文に出遭って、これは魯山人が「人間国宝を辞退し続けた事」に通じる何かがあるように感じたのだ。
「志の高きを踏む者」の「覚悟」や「矜持」について述べているから、である。
そんな風に想えたからこそ、この一文が私の目に留まったのかもしれない・・。
 
今回の雅号の検証は私にとって残念な結果しか得られなかったが、この一文に出遭えた事を私は率直に喜んだ。
 
この一文との偶然の出遭いは、私の落ち込んだ気持ちを取り戻すために冨田渓仙が、ひょっとしてご褒美としてプレゼントしてくれたのかもしれない、と自分に都合よく解釈し妄想した。
 
そしてそんな風に自分に都合よく解釈することで、私は気持ちを取り戻し、落ち着くことが出来た。
そうやって首尾よくマインドチェンジを得た私は、スムーズに次の目的地「歴彩館」に向かうことが出来た。
 
 
 
                 
                      『無用の用』の表紙。右下に「渓山人」
 
 
「府立図書館」を出て市バスと地下鉄を乗り継いで向かった「歴彩館」は、地下鉄烏丸線「北山駅」から、徒歩10分近くの閑静な住宅街の一画に在り、なかなかモダンな建物であった。
 
ここでは、既に「府立図書館」や「東京都中央図書館」で入手していた書籍や図書との重複を避け、出来るだけここにしかない資料を探すことにした。
 
とりわけ内貴清兵衛や魯山人/渓仙が最もホットな時間を過ごしたであろう、大正期の「松ヶ崎」に関する資料や情報をゲットすることに努めた。
 
 
歴彩館閲覧室のカウンターに居たスタッフに私がそう尋ねると、彼女は早速当時の地図が収納されているコーナーに、私を連れて行ってくれた。
 
その中から「松ヶ崎」の在る洛北に当たる「北山」や「叡電修学院駅」を目印に、該当する「京都市北東部」エリアの記載された「1/5万の地図」を入手することが出来た。
 
該当する大正時代に最も近い昭和4年と同11年に発行された二種類の地図をセレクトし、念のため両方ともコピーすることにした。
 
首尾よく古地図をゲットした私は、改めて「魯山人本」の中から「松ヶ崎山荘時代」について述べられてい部分を抽出し、館内の閲覧スペースで「内貴清兵衛との関係」が濃く書かれている箇所を確認した。
その上で、重複覚悟の上でもう一度コピーした。
それらは、結果的には白崎秀雄氏と田中和氏の著書に成ったのであった・・。
 
 
その様にして1時間ほど「府立歴彩館」で過ごした私は、歴彩館を出ることにした。
その上でここからそう遠くはない「松ヶ崎」に歩いて向かう事にした。
 
「松ヶ崎」と「北山」とは市営地下鉄烏丸線で一駅の距離であったから、リフレッシュを兼ねた散策にはちょうど良い距離であった。
 
「北山通り」自体は交通量の多い幹線道路であったが、沿線には女子大が在ったり個性的な生活雑貨の店が点在しており、飽きることなくその散策を楽しむことが出来た。
因みに目的地近くに工芸大学などが在ったのであるが、それもそれら個性的店舗の存在に影響していたのかもしれないと私は想った。
 
 
「松ヶ崎山荘」は魯山人や冨田渓仙が多感な時期に足繁く通い、内貴清兵衛のサロンに集まる文人墨客や骨董商人達に接することによって、魯山人たちが少なからぬ知識や情報を仕入れた交流の場所でもあった。
 
更にそのサロンに出入りしていた同世代の新進気鋭のアーチスト達も少なからず居たことから、二人は多くの刺激を受け感性を磨く機会を得た様であった。
 
或いは彼らにとって内貴清兵衛のサロンは、ある種の鍛錬を行う切磋琢磨する「道場」という側面を持っていたのかもしれない。
 
魯山人や冨田渓仙の伝記本にはその「松ヶ崎山荘」で彼らは多くの事を学んだ、と書いてあったので私はぜひ訪れてみたいと思っていた。
清水寺泰産寺と同様に今回の京都取材旅行の主要な目的地であった。
 
 
先ほどの「歴彩館」でゲットした昭和初期の「松ヶ崎地区」の古地図を参考に、私は訪問する場所を予め絞り、定めていた。
 
当時の内貴清兵衛の別宅であった「松ヶ崎山荘」の所在地は、「松ヶ崎河原田5番地」という事で、鴨川の支流である「高野川」に沿った西岸に位置し、京都の市街地と宝ヶ池や深泥池とを区分する事に成る、北山連山の東端でもある「松ヶ崎東山」の山裾辺りに在ったという。
 
現在ではすっかり宅地開発が進んでいる「松ヶ崎河原田地区」も、昭和4年に作られた京都市作成の地図を見ると、当時はその名の通り高野川河原に沿った、「稲田」に囲まれた「田園農業地区」であったようだ。
 
当該地はその高野川を越えた東側に在る、観光地比叡山に向かう叡電「修学院」駅にも徒歩10分程度と近く、京都の市街地へのアクセスビリティはそれなりに良かったようだ。
 
その「松ヶ崎河原田5番地」と想われるエリアは、「北山通り」から外車販売店の角を北上し右手に在る低層のマンション沿いに「高野川」を臨み、正面左手には「松ヶ崎、東山」の鬱蒼とした樹林が迫っていた、自然環境の豊かな場所であった。
 
 
散策中は川のせせらぎの流れる音が絶えず聞こえ、眼前に迫る針葉樹の緑と共に聞こえる鳥たちのサエズリが心地よいこのエリアは、当時はさぞや「山荘」の名にふさわしい自然豊かな場所だっただろう、と想像することが出来た。
 
京都市街の繁華街に在った内貴清兵衛のビジネス拠点「銭清」からすれば、別天地として心の癒しやリフレッシュにも適した「別宅」であっただろう、と私は推察した。
 
実際のところ地下鉄烏丸線沿いの「北山通り」から、数分北上して歩いただけでも、私の気持ちはずいぶんと落ち着いたものに成った
そしてそれはこの環境のなせる業か・・、と思い納得したのである。
 
 
            
           
                「松ヶ崎河原田町」は中央下の「東山」の高野川左岸
 
 
 
今から百年近く前の大正時代や昭和初期の彼らが生息した時代であれば、さらに鄙びた環境であっただろうし、眼前に迫る「松ヶ崎東山」の緑や「高野川」の瀬音が聞こえ、稲田に囲まれ竹林・樹木が豊かで、かつのどかでさぞ住みやすい場所あったに違いなかっただろう、と想われた。
 
そんなことを想像するとこの地に「別宅」を求めた内貴清兵衛の価値観や美意識が、多少なりとも理解できた気がした。
 
 
つらつらとそんな風に想いながら、1時間近く周囲を歩き回り、ほぼ一周するように高野川を越えた東岸の辺りまで、ぐるりと見て廻った。
 
因みに叡電に並行した街道である滋賀や福井に続く国道367号沿いには、かつて内貴清兵衛も利用したと伝わる料亭「平八茶屋」が、ほぼ「松ヶ崎山荘」の対岸と言える高野川の川端で、今もなお営業していた。
 
 
その内貴清兵衛は当初京都市中の名の通った料亭や仕出し屋から、この北山の松ヶ崎山荘まで料理を運ばせていたようだが、高級な京料理に飽きていた彼は、それらをどちらかというとぞんざいに扱っていたようで、食べ残しなども多かったという。
 
その所業を親しかった友人に叱責されてから、清兵衛は自ら腕を振るって料理を作るようになったのだという。
もともと料理が好きで美食家でもあった彼はそれ以降、喜んで自ら料理を作るようになったということだ。多くの「魯山人本」にそんな風に書かれている。
 
 
 
 
 

   インキュベーター「内貴清兵衛」

 
 
魯山人が出遭った頃の内貴清兵衛は既に自分で料理を作り始めた頃であった、という。
傍らでそれを観ていた料理好きの魯山人は、ほどなくして内貴清兵衛に替わって自らがその役割を買って出たようだ。
 
それ以降魯山人は自らも工夫を凝らし、あるいは清兵衛の指示を受けたり批評を受けながら、松ヶ崎では「おさんどん」に精を出すようになったのだという。
 
内貴清兵衛という美食家が求めた料理の素材は、いうまでもなく「高級で」「質が高く」「目利き」を納得させるクォリティのものであったことから、料理好きの魯山人にとって松ヶ崎の調理場でのおさんどんは、かなり恵まれた環境であったに違いなかった・・。
 
 
魯山人自身は幼少の頃何度目かの養子に入った養家「福田家」の、養父母を喜ばせ満足させるために、進んで料理を作ってきたという経験もあって、新しい先導者でもありパトロンでもあった内貴清兵衛のために料理を作ることは、決して義務や苦痛ではなかったと想われる。
 
自分を理解し育て可愛がってくれた大店の大旦那でもあり、当時の京都の実業界ではよく知られた名士、内貴清兵衛の指導/指示や叱責を受けながら、魯山人が喜んで日々精進し研鑽を積んだろう事は想像に難くない。
 
そしてこの時の経験がやがて東京銀座での「美食倶楽部」や「星岡茶寮」に結実し昇華し、魯山人の社会的評価や社会的基盤を創って行くことに成るのだった。
 
いうなれば魯山人はこの松ヶ崎での「おさんどん」時代に、内貴清兵衛という師匠に鍛えられながら美食を創る料理人としての、基本的な修行を積んでいたことになるのである。
 
 
             
                  
             
                         高野川とその西岸
 
 
 
このように魯山人の人間形成に大きな影響を与えた、内貴清兵衛という人物について当初私は、京都を代表する呉服問屋という大店の楽隠居か何かと想っていた。
 
店の経営は次世代の後継者に任せ、悠々自適に暮らし、若く気の利いた女性などを側女として侍らせ、家事を任せ趣味や嗜好におぼれ、道楽三昧の余生を過ごす老齢の趣味人かと、かってに想像していたのであった。
 
ところが実際は魯山人や冨田渓仙とさして年齢の違わない、同世代の人間であることを知り、驚いた。
実際のところ当時の魯山人は30歳前後であり、冨田渓仙は33・4歳、内貴清兵衛は35・6歳で彼らの歳の差はせいぜい6・7歳という事であった。
 
 
若くして大店の経営を弟に譲って任せ、自分自身は早々と第一線を退いた内貴清兵衛は、若い頃から投資家として悠々自適な生活を送っていたのであった。
 
後の「島津製作所」や「日本製薬」「京都織物」といった、京都の将来性のある新興企業が起業して間もない頃から、投資し大株主として経営に参画し、経営陣の一人としてそれらの企業を育成しながら配当を受ける、という豊かな生活を過ごす裕福な実業家でもあったのである。
 
その一方で「趣味人」で「数寄者」でもあった彼は、冨田渓仙を初め「速水御舟」「村上華岳」「榊原紫峯」といった、京都画壇でも将来が期待されていた当時の若き才能たちに対する支援や援助も、パトロネージの一人として積極的に行っていたのである。
 
また当時開学したばかりの私学「立命館」にも財団の協議員として、学園経営の一端を担いバックアップもしていたのであった。
 
 
内貴清兵衛という人物は「企業」「芸術家」「学問」といった多くの分野で、新しい人材や才能を発見しそれらに投資し育てる、といった役割を担った「インキュベーター=孵化器」の色合いの濃い「実業家」であり、「文化人」でもあったようだ。
 
昨今の投資家の様に「経済的利益」や「私的利益」だけを追求する人種と比べると、はるかに懐が広く心にゆとりがあり、気高い志を有していた人物の様である。
 
 
「儲ける喜び」以上に人間や企業を「育てる歓び」に、価値を見出していた人物であるように、私には感じられた。
 
であるからこそ彼は「北大路魯山人」という人物の才能や可能性をも見出し、親鳥が卵を温めながらヒヨコの誕生を待つような、孵化機器(インキュベーション)であり続けたのではないかと、そう想うようになった。
 
 
私は内貴清兵衛という人物は「名伯楽」だったのではないかと、今ではそう想っている。
魯山人や冨田渓仙という駿馬を見出し、支援し刺激を与えつつ或るいは叱責しながらも、一流の人物/芸術家にと育てていったのではなかっただろうか。
 
そしてそれらの駿馬が見事に育ち、その才能が開花する様子を直接あるいは間接的に、目を細めながら暖かな眼差しでジッと見守っていたのではなかったか、とその様に私は想像するようになった。
 
魯山人も渓仙も内貴清兵衛という善い「親鳥」や「伯楽」に出遭えて、いや見出してもらって運が良かったというべきか・・。
 
 
そしてその内貴清兵衛は、かつて魯山人に対して「芸術家としての価値」の本質について語ったことがあったという。
以下は『知られざる魯山人』(山田和著)の抜粋である。
 
 
魯山人を知ったのは二十年も前やった。書がうまかった。
世間で云う所のえらくなるって希望を捨てなくては、芸術家には、なれんて言ってやったもんや。
もともとえらい人ってそんなものありやせんがな。めいめいがちゃんとめいめいらしくやってけあいゝやないか。
(私がそう言うと彼は)くやしがってね。魯山人(最後はそれでもおれの言うことなっとくして内心はほっとしたらしかったがね(昭和8年1月『星岡』26号)
                           : ( )内は著者牛歩の加筆
  
内貴清兵衛は魯山人の主宰したこの雑誌でかつて「松ヶ崎山荘」での出来事を述懐して、そう述べている。
 
 
 
           
                      
                         内貴清兵衛氏  
    
 
 
また魯山人自身も内貴清兵衛との「鍛錬の日々」の思い出を懐かしみ
 
豪そうなこと言うではないが、金もどうでもよい。勲章は要らないとなると、これほどの自由はない。
私は三十歳にして京都の内貴清兵衛という卓越した当時の有名人から段々と説教されて今日を得たが、小さな金と小さな名誉に捕らわれている人々を見ると、いつも内貴氏の名言名説頭を下げるのである。
その言葉で救われたからである。強い生活が出来得たからである。
金と名誉を捨てかかる覚悟程強いことはない(昭和28年『独歩 魯山人芸術論集』)と述懐している。
 
 
上記は二つとも山田和氏の既出著書の抜粋(188ページ)であるが、やはりこの時期に内貴清兵衛から叩き込まれた「芸術家を目指す者の心得」が、後の魯山人の「人間国宝辞退」にと繋がって行ったように、私には想えたのであった。
 
 
魯山人は30歳前後の「松ヶ崎山荘」時代に、名伯楽内貴清兵衛によって「美食の本質」や「芸術家の本質」について、諭され鍛えられ続けたのではなかったか、とそんな風に私には想えてくるのだ。
 
そしてその時の厳しくも愛情に満ちた「鍛錬の日々」があったからこそ、後々の北大路魯山人や冨田渓仙が誕生したのではなかったか、と次第に私は想うようになった。
 
 
初めは「悔しがって」いた様だった魯山人ではあっても、尊敬する内貴清兵衛の説く芸術家として生きる事の「本質」に納得して、自らの腑に落ちたからこそ、最後は彼も受け入れることに成ったのではなかっただろうか・・。
 
そして何よりも自分の目指すべき方向が、内貴清兵衛の叱咤激励によって見えてきたからではなかったか。
 
即ち魯山人は「芸術家とは何か」その本質を清兵衛に教えられて、職人/職工として生きるのではなく「芸術家」として生きて行こうと、志を持つことが出来たのではなかっただろうか・・。
 
 
更にはその「名言名説」が魯山人の心の奥底に染み入って血肉に成ったからこそ、その後の彼の心の大きな支えにもなって行ったのではなかったか。20年後に彼自身が述懐しているように・・。
 
と同時に、その内貴清兵衛から叩き込まれた「名言名説」は、魯山人の芸術家としての心棒に成って、迷う事ない生きる指針に成って行ったのではなかっただろうか。
 
 
時に傲岸不遜と言われる面を持ちつつも、二度にわたる「人間国宝」という「名誉」や「勲章」に彼が飛びつかなかったのは、この様な心棒や揺ぎ無い指針があったからではなかったか、とそんな風に考えると私は魯山人の採ったこの行為を納得し、私自身の腑に落とすことが出来た。
 
かつてあれだけ上昇志向が強く、自らの名をあげることに熱心だった福田房次郎=若き魯山人が、「悔しがりつつ」もがき苦しみながら、内貴清兵衛という親鳥に温められ、自らの殻を破り「北大路魯山人」という新しい次元の人物に脱皮し、成長することが出来たのではなかったかと、その様に想いが至ったのであった。
 
 
禅の世界に「啐啄同時」という修行の言葉があるらしいが、将にこの時の魯山人と内貴清兵衛との関係を言うのかもしれない、と私は想った。
 
と同時に、一年半ほど前に笠間の「春風万里荘」から水戸に向かう車の中で、立花さんが言っていた「魯山人のメタモルフォーゼ(脱皮・変態)」が行われたのは、この「松ヶ崎山荘」での修業の期間があったからこそ、だったのではないかと想うようにもなった。
 
 
木枯らし吹きすさぶ厳しい冬のサナギの期間を経て、殻の中でゆっくりじっくりと成長していた魯山人という青虫は、内貴清兵衛という孵化器で更に鍛えられ、温められ熟成していった。
 
やがて温かい春に成って自らの殻を割って成虫となった魯山人は、サナギから蝶々に成り大きく羽根を広げて、青空の下を自由気ままに羽ばたいて行った。
福田房次郎は「北大路魯山人」という芸術家に向かって、人間としての生態を変容(メタモルフォーゼ)させたのだろう、と私は理解した。
 
そしてそれを促した媒介者が他でもない内貴清兵衛であり、彼と出遭った魯山人は「松ヶ崎山荘」での修業期間があったからこそ、新しい芸術家「北大路魯山人」が誕生したのだと、理解することが出来た。
 
と同時に、かつて渓仙に対して都路華香が諭した「手の表と裏」のエピソードが思い出された。冨田渓仙もまた佳き先導者に巡り合えていたのであった・・。
 
 
私はかつて魯山人や冨田渓仙が足繁く通った内貴清兵衛の暮らした「松ヶ崎山荘」周辺を訪れ、現地を見聞きして、これまで得てきた幾つかの魯山人や渓仙に関する資料や図書を読み直すことで、彼らの人間形成に大きな影響を与えた人物がいたことを知り、理解することが出来た。
 
北大路魯山人や冨田渓仙が何故一介の印判や濡額の職人や絵描きから、日本を代表する一流の芸術家に成ることが出来たのか、そのメタモルフォーゼのプロセスを知ることが出来たような気がしたのであった。
 
私はこの考えを整理して、改めて立花さんに報告してみようと想った。
そしてそれはスマホやメールで簡単に済ますのではなく、直接逢って一緒に酒などを酌み交わしながら時間をかけて、じっくり話あってみたいと思い、ニンマリとした。
 
 
そして今回この京の地に来て「清水寺泰産寺」や「松ヶ崎山荘の跡地」を自分の脚で歩き、周辺環境をこの目で観て幾つかのインスピレーションを感じ、五感で吸収することが出来たことを素直に悦んだ。
 
今から百年近く前の事で、社会的な環境や自然環境も大きく変貌していることは間違いなかったが、山や川/樹林などはたとえその密度や規模は変わったとしても、その自然環境が醸し出す雰囲気を感じることは、それなりに出来たのであった。
そんなことを考えながら私は「松ヶ崎」界隈を歩き廻っていた。
 
日暮れの松ヶ崎地区でのフィールドワークを終え、それなりに収獲を得た私は、ホテルへの帰りは叡電を使うことにした。
 
かつて魯山人や渓仙が内貴清兵衛に逢うために使っていたと思われる叡電に乗って、市街地に帰ることにしたのだ。
私は高野川を渡って、叡電の「修学院駅」にと向かって行った。
 
川を渡り駅に着くころは、辺りはすでに薄暗くなっていた。
やはり「秋の陽は釣瓶落とし」なのだな、とつくずく私は感じた。
 
 
 
 
 
 
                 
 
 
 
 
 

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
冨田渓仙は福岡博多の「黒田藩御用達の素麵屋」が明治維新後の廃藩置県で没落した明治の初期に生まれたこともあって、プライドが高かったようです。
 
実は私の母親が将にそんな感じで落ちぶれた貧乏人の子だくさんの家で育ったんですが、武士の末裔だったという事でプライドが高いひとだったんでその辺りの事が良く理解できた。
 
  
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 



〒089-2100
北海道十勝 , 大樹町


 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
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