春丘牛歩の世界
 
先週から、「行者ニンニク」が採れる様に成り、我が家の食卓にも乗るようになった。
行者ニンニクが採れる様に成ると、今年の春がやって来た事を実感する。
これまでの私の経験では「行者ニンニク」が生えてきてから、雪が降ったことは無いから、である。
 
 
      
 
 
野生の昆虫や動物たちが作る巣の位置で、颱風の影響を早い時期に推測できることがあるが、自然界の生き物たちは彼らなりのセンサーで、天候や自然現象を察知する能力がある。
そんな事から私は、「行者ニンニク」が我が家の林に生え始めることを、季節の到来のメルクマール(指標)にしているのである。
 
 
      
 
       
         
 
     
 
 
    記事等の更新情報 】
*4月19日 :「コラム2024」に、「青い春」と「チャレンジ虫」を追加しました。
*3月25日:「相撲というスポーツ」に「新星たちの登場、2024年春場所」を公開しました。
*2月8日:「サッカー日本代表森保JAPAN」に「再びの『さらば森保!』今度こそ『アディオス⁉』を追加しました。
*01月01日:本日『無位の真人、或いは北大路魯山人』に「無位の真人」僧良寛、或いは・・を公開しました。
これにて本物語は完結しました。
12月13日:  『生きている言葉』に過ぎたるはなお、及ばざるが如し」を追加しました。
*9月29日:「食べるコト、飲むコト」 に「バター炒め二品 」を追加しました。
*9月27日;「物語その後日譚」に「奥静岡の鶏冠(とさか)山」を、追加しました。
 
 

  南十勝   聴囀楼 住人

          
               
                                                                  

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         2024.05.01
              牛歩
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
   
      
 
 
昨年の秋に久しぶりに京都を訪れて、北大路魯山人と富田渓仙や内貴清兵衛との関係を調べた私は、一定の収穫を得て関東に戻って来た。
その際に得た資料や情報、又松ヶ崎や清水寺の現地視察で感じた事などを年末から年始に掛けて整理し終え、年明けのバタバタが落ち着いた二月の後半に、改めて立花さんと逢う事にした。
自分自身が京都で調べて得た事を立花さんに報告し共有して欲しかったことと、自分の調べて来た事に対する立花さんなりのチェックを期待してのことだった。
そして3月のお彼岸が過ぎた頃私は満を持して、北陸金沢を訪れ魯山人の人生に少なからぬ影響を与えた、「細野燕台」や「太田多吉」の情報を得に向かったのであった。
 
  
                     ―  目  次 ―
          
         1.東京駅丸の内口
         2.人は何のために
         3.金沢城界隈 
         4.数寄者「細野燕台」
         5.卯辰山の太田多吉
         6.「金沢おでん」(2023年10月20日公開)
                            7.「越後出雲崎、良寛和尚」(同年11月27日公開)
         8.「無位の真人」僧良寛、或いは・・(2024 0101)
 
)
 
 
 
 
 
 

   東京駅丸の内口

 
二月下旬のお天気の良い日の昼前、私は立花さんとの昼食を兼ねた情報交換のために、JR東京駅丸の内側交差点前に在る、旧東京中央郵便局跡の複合型商業施設を訪れた。
 
その商業施設のJRに一番近い入り口を入った時には既に、風除室の先のドア近くに立花さんが私を待っていた。
 
簡単な挨拶を済ませた後私達は、立花さんの先導で中層階にあるレストラン街に向かい、立花さんお勧めのイタリアンの店に入った。
 
 
中央にある三角形の吹き抜けを囲むように並んでいたレストラン街の端っこに、その店は在った。
まだお昼前という事もあって比較的空いていた店内の、奥左側のJR線路側の窓ガラスに面した席に、私達は落ち着いた。
 
2・3時間はゆっくりするつもりでいた事もあって、あえてその場所を私達は選んだのであった。
その分メニューもそれなりに頼むことを前提にしていた。長時間の利用になるため売り上げに協力するつもりでいたのだ。
 
 
最初は軽くビールで乾杯し喉を湿らせた後、白ワインのデキャンタを頼み、アラカルトでつまみに成りそうなメニューを、ひとまずオーダーした。
 
乾杯のビールを飲み終わり、一通りの注文を終えた後さっそく私達は話を始めた
口火を切ったのは立花さんであった。
 
「昨秋の京都は如何でしたか?
それなりに成果があった、とか言われてましたが・・」と私の顔をのぞき込むように見て彼は言った。
「えぇまぁそれなりに、でしたかね・・」私はニヤリとしながらそう応えた。
 
 
「冨田渓仙や内貴清兵衛の事を中心に調べてこられたんでしょ・・」
立花さんは穏やかな顔で、テーブルから前がかりに成っていた身体をすこし離して、距離を取るようにしながら、そう言った。
 
私の発言を引き出そうとしているかの様に、立花さんはそんな姿勢になったのかな、と私は感じた。
 
「やっぱり現地に行って良かったですよ。
現地に行かないと判らない事って結構ありますよね、今回もまたつくづくそう感じました・・」
私は、紅葉に彩られた晩秋の清水寺泰産寺や松ヶ崎の事を思い出しながらそう言った。
 
「清水寺山内の塔頭や洛北の高野川辺りの松ヶ崎、でしたっけ?行かれたのは・・」立花さんが聞いてきた。
 
 
「あ、ハイその通りです。
清水寺は泰産寺ですね、東山山麓の緑豊かな処で紅葉がボチボチ目立ち始めた頃あいでして・・。
松ヶ崎は鴨川の上流で、鴨川を構成する主要な支流の一つでもある高野川と、北山通りが交差する辺りでして・・」私がそんな風に説明を始めると、
 
「泰産寺は清水の舞台のある本堂や、音羽の滝からはそれなりに離れている処でしたか・・」立花さんが確認して来た。
「ま、そんな感じです。同じ清水寺の山内で東山連山の山懐に入って行く感じですけどね・・」
 
「という事は、多少は俗世間からは外れることに成るんですかね・・」立花さんがさらに聞いてきた。
「そういう事に成りますかね・・。音羽の滝辺りまでは観光客も多く、何となくザワザワしてますが、そこから数百m山側に上がって行きますと、かなり落ち着いてきます・・」私が解説した。
 
 
「なるほど自然豊かな環境、という事に成るんですね泰産寺辺りは・・。
因みに松ヶ崎はどうでした?」
「ま、自然環境が豊かな場所、という意味では似てはいますかね・・」と私は応えて、さらに続けた。
 
「とはいえ、北山通りという東西に走る幹線道路からは数百mしか離れていませんし、松ヶ崎の東山を越えた山の裏側には、宝ヶ池を中心とした文化施設や教育施設、住宅街がそれなりに控えてますから、泰産寺に比べるとかなり都市化されている場所ではあるんですけどね・・」
 
 
 
            
                京都市街図  赤:松ヶ崎
                       青:泰産寺
 
 
「ん?都市化がそれなりに進んではいるけれど自然環境は豊かなんですか?
なかなか理解しずらいですね・・」立花さんが顔に?を浮かべながら、そう言った。
 
「そうですね・・。何というか京都の北側って、北山通の背中というか背景に、それほどは高くない里山クラスの山が連なってて、市街地をブロックしてますよね。京都盆地の北側のエンドって感じで、とりあえず市街地を遮っているというか・・。
因みに『大文字焼き』の『妙』の字が見える辺りになるんですよ、そこら辺って・・」
 
私は出来るだけ立花さんがイメージし易い様に、話した。
 
「なるほどね、何となくですが、イメージは出来ますかね・・。
その山の後ろっ側に『宝ヶ池』や『深泥池』が在るんでしたかね・・」立花さんも頭の中で京都の地図を思い描くようにして、そう応えた。
 
 
「そう言うことです。山を越えた辺りには、いくつかの大学も在ったりしましてね・・。
その北山通の背後に連なる低い山の東の端に在るのが高野川で、その川と山の間の非常に限られた、狭いエリアに在るのが『松ヶ崎』という場所なんです」私は説明を加えた。
 
「という事はその非常に限られた場所をあえて撰んで山荘を構えたのが、内貴清兵衛だったという事に成るんですかね・・」
「おっしゃる通りです、その通りです。
そこに内貴清兵衛という人物の美的センスというか、美意識や価値観が凝縮しているように、私は想っています」私が応えた。
 
「しかも内貴清兵衛がそこに別荘というか別宅を構えたのは、明治時代の終わりから大正時代の初期の事でして・・。
当時の松ヶ崎は市街地などは全然形成されていなくって、田畑の拡がるホントの田園地帯だったわけです。
とはいえ叡電の『修学院』駅は、徒歩圏に当時から在りましたけどね・・」私は付け加えた。
 
 
「叡電って、京都の街中から比叡山に向かう電車でしたか?」立花さんが確認して来た。
「あ、ハイ。『出町柳』っていう左京区の東大路北部に位置する市街地が始発駅でして、そこから比叡山の中腹まで向かう、まぁ観光客向けの電車の一つですね・・」
 
「という事は、今でも自然環境が豊かな場所だけど、魯山人達が行き来していた大正前後の頃はもっともっと、自然環境は豊かだったと・・」立花さんがそう言った。
 
「そう想って間違いない、と私は想ってます。
当時の京都市は60万人ぐらいの都市で、現在の1/3程度の人口でしたからね。
その頃の松ヶ崎は『松ヶ崎村』という事で、京都市にはまだ編入されてもいなかったですし、市街地近郊の田畑がたっぷりの都市近郊型の農村というか、”田園地帯”だったわけです・・」私がそう解説した。
 
 
「なるほどね・・。いずれにせよ清水寺泰産寺と言い、松ヶ崎と言い自然環境の豊かな場所で魯山人も冨田渓山も、そして内貴清兵衛自身も生活したり暮らしたりしていた、という訳ですね。
で、その時の体験が後の魯山人や冨田渓仙の芸術的な感性を磨いたんじゃないか、ってそんな風に柳沢さんは思われたんですね、ソノ現地を実際に見てきて・・」
立花さんは確認する様にそう言って、私の目をまた覗き込んだ。
 
「ま、そう言うことですね、環境的にはですね・・。
しかしながら、その豊かな自然環境と共に大事だったのは、やはり人との出遭いですよね・・。
魯山人にしても、冨田渓仙にしてもやはり良い指導者というか佳き『伯楽』に恵まれた、という事も確かでしてね・・。
ある意味彼らは運が良かった、というべきか・・」私がそんな風に言うと立花さんは、
 
 
「なるほど、『名伯楽』だったわけですか内貴清兵衛は・・」と呟いた。
「内貴清兵衛はもちろんなんですが、渓仙が弟子入りした師匠の都路華香も、やはり名伯楽だったようですね・・」私がそう言うと、
 
「ホウそれはそれは・・。都路華香ですか、因みに彼はどんな人物だったんですか?」
立花さんは冨田渓仙の師匠について関心を持ったようだ。
 
「福岡博多から京都に画の師匠を求めてやって来た渓仙が、弟子入りした先が都路華香だったわけです。日本画家の・・」私は都路華香について説明を始めた。
「あまり聞かない名前ですね・・。当時の京都画壇の大家竹内栖鳳なんかと比べると、どんな感じなんですか?その立ち位置は・・」立花さんが言った。
 
竹内栖鳳クラスの京都画壇の大家、といった人物ではなかったようですが、中堅どころですけど独自の世界観を持っていた画人であったようですね、作風が・・。
でその作風が、どうやら渓仙の求めていた美意識というか世界と合致した、とか言うことらしいです。
私もあまり詳しくないんですが・・」私は言った。
 
 
「なるほどね・・。確か冨田渓仙は博多の禅僧『仙厓和尚』に傾倒していたんでしたかね・・」
「おっしゃる通りですね、ですから多分ですが都路華香の画風というか作風も、禅画を彷彿させるようなモノだったんではないかと、推測してます」
私は都路華香について推論を交えて、そんな風に解説した。
 
 
 
             
 
                            都路華香「鼠図」
 
 
 
「その都路華香と冨田渓仙の間に、そのぉ『名伯楽』と想わせるようなエピソードとか、何かあったんですかね。少なくとも柳沢さんがそう想う様な・・」立花さんが更に突っ込んで来た。
「アはい、その通りです。将に私が華香の事を『名伯楽』と感じたエピソードがありましてね・・。
実は冨田渓仙が自著のエッセイ集の中で若い頃の、都路華香とのエピソードを語っている一文が、ありましてね・・」
 
私がそんな風に話すと、立花さんは、
「なるほどね・・。で、具体的には・・」と聞いてきた。
「えぇ、その冨田渓仙のエッセイの題目は『手の裏と表』といったタイトルでしたが、そこに書かれていたんですがね・・。
 
そこには要するに
日本画という絵を描く行為そのものは、職人が描く絵と画家を志す者が描く絵と実はあまり違わないけど、その求めるものは雲泥の差があるんだぞ、と。
これから儂の下で、弟子になり芸術の道を志すんなら、それなりの覚悟が必要になる。
君にそういった志や覚悟はあるのか、覚悟は出来ているのか⁉』
 
というようなことを言って、弟子入りして間もない渓仙に『その覚悟の程を聞いてきた』といった様な事が、そのエピソードに書いてありましてね。
 
生活の糧を稼ぐための職人の描く絵と、芸術を究めようとする画家の描く絵との違いと困難さや覚悟の程を、彼は師匠の華香に尋ねられた、という事らしいんです・・」
私はその著書に書いてあった渓仙のエッセイの一文を思い出しながら、そう話した。
 
 
「芸術家の道と、職人の道の違いということか・・」立花さんが呟いた。
「ま、生活の糧には事欠く可能性の高い『生き難い』『芸術の道』に、足を踏み込むことの覚悟というか、志の高さを持ち続ける心構えが必要なんだ、といった事を諭したというか、そんな感じですかね・・」私がフォローした。
 
「なるほどね・・。そういった事を確認した上で師匠の華香は、弟子の渓仙を指導していった、という訳ですかね。
で、それが結果的に渓仙という駿馬を育てることに成ったから、華香は『名伯楽』だったんじゃなかったか、という柳沢さんの想いに繋がるんですかね・・」立花さんが確認する様にそう言った。
 
 
私は大きく頷きながら、
「同様の事が魯山人と内貴清兵衛との間にもあった様でしてね・・」そう言った。
「ホウ・・」と立花さんは言って、目で私に先を促した。
 
「魯山人と内貴清兵衛の場合はやはり『松ヶ崎時代』の事らしいんですが、清兵衛が魯山人の言葉や態度の端々に感じていた、『偉くなりたい』といった類の願望や上昇志向に対して、やはりたしなめる様に何度となく言っていた、らしいんです・・」
「具体的には・・」立花さんは短くそう言って、私の次の言葉を待った。
 
「あ、はい具体的にはですね・・」私はそう言ってから、
「内貴清兵衛は魯山人に対して、
『世間で云う偉くなりたい、っていう願望を持ってたら本物の芸術家には成れへんで・・』という様な事を、たびたび言ってたようですね・・」と続けた。
 
「なるほどね・・。魯山人にとっては図星だったがゆえに、さぞ耳の痛い諫言だったんでしょうね・・」立花さんはニヤリとしながら、そういった。
 
やはり立花さんは、魯山人がずっと抱いていた「上昇志向」に対する内貴清兵衛のたしなめる言葉の、与えたインパクトの大きさが判ってるんだな、と私は感じた。
 
 
「まぁ、その通りだったみたいですね、魯山人も最初はずいぶん反発したり、くやしがっていたようですが、やっぱり多くの芸術家たちと接しよく見ていて、彼らをパトロンとして育て支援して来た、清兵衛の『ホンモノを識っている人の言葉』の重みが、魯山人の急所を突いたんでしょうね。
 
最後は魯山人も内貴清兵衛のその手の考えを受け入れるようになった、という事です。
20年ほど経った時期に魯山人が内貴清兵衛の思い出を語った際に、
『その時の内貴氏の言葉があったから、今の自分がある』といった様な事を自らの出版していた雑誌の、内貴清兵衛の追悼文で述懐してました・・」私が付け加えた。
 
「なるほどね・・」立花さんはそう言って、しばらく何も言わないでワインを口にしていた。その時間立花さんはその言葉のもつ意味を、チョットかみしめている様子だった。
 
 
デキャンタの白ワインがほぼ空いたので、私は立花さんに尋ねた。
「この後どうしますか・・」と空のデキャンタを持って聞いてみた。
 
「そうですね・・。今度はフルボトルの赤ワインにでもしますか?
まだ大丈夫でしょ?柳沢さん・・」立花さんが私にそう言って、赤ワインのフルボトルを提案した。
「今度は赤、なんですね・・」私が確認した。
 
「えぇまぁ・・。実は半年ほど前に、私『飛蚊症』になりましてね・・。
それ以来できるだけ目の養生を心がける様にしてまして・・」
 
立花さんは問わず語りで、赤ワインを飲むように成ったいきさつを語った。
「赤ワインのポリフェノールが、やっぱり効くんですか・・」私が興味を示して聞いた。
「そぉぅ、そおなんですョこれが・・」立花さんは大きく頷きながら、肯定した。
 
「飛蚊症に成って以来、ずっとワインは赤でしてね・・」と続けた。
「効果はあるんですか?」私が聞くと、
「おかげさまで、治ってはいませんが飛蚊症の進行はずっと止まってますね。
心もち数が減ったり影も小さくなっているような・・」立花さんが言った。
「ホウ、そうなんですか。じゃぁ僕も参考にさせていただきます・・」私はそう言ってニヤリとした。
 
幸いなことにまだ私は飛蚊症には成っていないかったが、これから先、年を経るにつれてそうなる可能性はあるかもしれない、と想っていた。
房総半島の太平洋側の街に暮らす姉が、「最近、飛蚊症に成った」と話していたのを聞いていて、私にとっても決して他人ごとではなかったのだ。
 
赤ワインのフルボトルとメインディッシュを追加注文してから、私達は先ほどの続きを話し始めた。
 
 
「ところで今回の京都行で本来の目的であった、魯山人の人間国宝辞退に成ったその要因というか原因について、ある程度摑まえることは出来たんですか?」と立花さんが聴いてきた。
 
「そうですね、先ほどの魯山人と内貴清兵衛のエピソードが示すように、一定の理解は深まりましたですね・・」私は応えた。
「先ほど言われた、上昇志向や偉くなることに拘っていては本物の芸術家にはなれない、といった事ですかね・・」立花さんが確認する様に言った。
 
私は大きく肯きながら、
「それは大きかったと想います。
自分が尊敬している京都の著名人で大旦那の内貴清兵衛から、諄々と言われ続けていたようですしね・・。
それともう一つなんですが、冨田渓仙と泰産寺で過ごした事も影響していたように私には想えます・・」と言うと、
 
「『手の裏と表』のエピソードですか・・」立花さんが呟いた。
「当時日本画家として自己の画風を確立しつつあった渓仙と身近に接し、泰産寺で起居を共にして、彼の創作活動を目の当たりにしていたことが、やっぱり魯山人には刺激になったんじゃないかと・・」私は肯きながらそう言った。
 
「渓仙の情熱が、伝染したんですかね魯山人に・・。
ホンモノの日本画家になるために呻吟していた渓仙という人間が、魯山人にも刺激になったんじゃないかってことですね・・。
結果的に二人は互いに泰産寺で一緒に暮らすことで、刺激し合って切磋琢磨していた、という事なんですかね・・」立花さんが結論付ける様に言った。
 
「だと想います。
当時の魯山人はある程度『書』については究めつつあったし、篆刻や濡れ額の制作で生活の糧はある程度確保できていたんだと想います。それこそ”喰っていけた”と・・。
であるがゆえに、なのかもしれませんがもう一つ飛躍するためにどうしたらよいのか、何が必要だったのかについて彼自身が、模索し苦しんでいたのかもしれません・・」
 
私は冨田渓仙との泰産寺での生活の中で魯山人が探し、得ていたものをそんな風に感じるように成っていたのだった。
「篆刻や濡れ額の職人だけでは満足してなくて、芸術家としてホンモノになりたかった、という想いがあったんですかね魯山人は・・」立花さんが言った。
 
 
「貧しい職人の家の養子として育っていた彼は、そこから這い上がるために!という強い想いや上昇志向が、初めの頃はエネルギー源に成っていたんだと想います。それは確かだと・・。
しかしそれからある程度の社会的な地位も得るように成って、生活も安定しかかってからは彼自身、
”このままでいいんだろうか”
”おれがやりたい事はこれなのか”
”これから先もずっと、今と同じ事をやって行くんだろうか”
 
って自問自答していたんじゃないかっていうか、これから自分が目指す方向について彼は模索してたんだと想うんですよね・・」私がそう推測して言うと、
 
「彼が陶芸や茶器に対して強い関心を抱くように成って、後の芸術家魯山人の看板になる『書』『食』『陶磁器』を探求し出すようになったのも、その泰産寺や松ヶ崎の時代を経験した事から、始まったとお考えなんですかね柳沢さん・・」立花さんが確認する様に、そう言った。
 
「おっしゃる通りです。
その頃からですね、魯山人が越前や加賀の陶工たちの工房や、山中塗や輪島塗や茶器等の制作者や作家の元に逗留したり、足繁く通い始める様に成ったのは・・」私が言った。
 
「そのきっかけは・・」立花さんが言った。
「その点はやっぱり、内貴清兵衛の影響が大きかったんだと想います。
松ヶ崎時代に内貴清兵衛の『おさんどん』をしている際に、魯山人はだいぶ目も耳も舌も鍛えられたみたいですからね・・」私は言った。
 
「『おさんどん』ですか・・」立花さんが呟いた。
「そうですね。ここから先はたぶん立花さんの領域ではないか、と想いますが・・」私はニヤリとしてそう言った。
 
その時ウェイターがランチメニューの「マルガリータのピッツァ」と「あさりボンゴレのパスタ」をミニサラダと共に運んできた。
 
 
 
 
 

 人は何のために・・

 
 ピッツァとパスタを互いに交換し合いながら食べて、一息ついたところで再び魯山人に話が戻った。
 
「先ほどの『おさんどん』の事ですがね・・」立花さんがグラスの赤ワインを口にしてから、聞いてきた。
「魯山人は内貴清兵衛の松ヶ崎の別宅に出入りするようになってから、『おさんどん』をするようになったんでしたか・・」と私に聴いてきた。
 
「その様です。内貴清兵衛は当時35・6だったと思いますが、京都中心部の家業の呉服問屋を早々と弟に任せて、自身は松ヶ崎に引っ込んで悠々自適で、贅沢三昧の生活を送っていたようでしてね。
そこに魯山人や渓仙を初めとした京都の芸術家の卵たちが訪れて、一種のサロンを形成していたようでして・・」私がそう説明すると、
 
「ホウ内貴清兵衛って、そんなに若かったんですか・・。当時の魯山人は確か・・」立花さんが驚いたようにそう言った。
「魯山人が30歳前後、渓仙も33・4だったようですね。彼らは実は結構若くて、年もそう離れていなかったみたいです」私が解説した。
「へぇ~そうなんですか私はまた、清兵衛はてっきり・・」立花さんが言った。
 
「ですよね、私も内貴氏は5・60代の第一線を退いた、裕福な楽隠居か何かだとすっかり思ってましてね、ある意味彼のその若さに驚きました」私は立花さんの意を汲んで、フォローした。
 
「へぇ、その若さでそんなに年の離れてない芸術家の卵たちを、金銭的にも精神的にも支援していた、ってことなんですね。一種のパトロンとして・・」立花さんは感心した様に、言葉を漏らした。
 
 
「もちろん誰でも、ってことではなくって内貴清兵衛の眼鏡にかなった、才能ある若手たちを、って事なんでしょうけどね」私が言った。
「なるほどね。ってことは魯山人や渓仙のほかにも比較的若くて才能のある芸術家達が、そのサロンには集まってた、って事ですかね・・」立花さんが聴いて来た。
 
「えぇ、その様ですね速水御舟や村上華岳・榊原紫峯といった若手日本画家の面々も、当時の松ヶ崎サロンのメンバーだったようです」私は説明した。
 
 
「魯山人は内貴清兵衛のために『おさんどん』を造ったようですが、サロンに集まる芸術家の卵たちのためにも、造ったみたいですね。
もちろん内貴清兵衛の指示や指導を受けて、だったようですがね・・」私が言った。
 
「京都市中の名の通った仕出し屋や料亭から取り寄せたりはしなかったんですか、清兵衛は・・」立花さんは、腑に落ちないのかそう聞いてきた。
 
「イヤ初めの頃は将にそういった暮らしをしていたようですよ、内貴清兵衛も。
ただ食道楽で口の肥えていた清兵衛は、それらの高級料理を食べ残したり食い散らかしたりで、ワリとぞんざいに扱っていたようでしてね・・。
まぁ飽き飽きしていたんでしょうねキット・・」
 
私は魯山人本に書かれていた、内貴清兵衛と魯山人の出会いの頃のエピソードを思い浮かべながら、そう解説した。
 
「あぁ、そいう言うことね、それなら納得いきますよ」立花さんはそう言って、
「贅沢三昧の清兵衛は料理人の造る味には、きっと飽き飽きしていたんでしょうね・・」と続けた。
 
 
「ま、そう言うことなんでしょうか、ね。
何でも清兵衛は、旧知の友人からそうやって料亭などから高級料理を取り寄せては、ロクすっぽ食べもせずゾンザイに扱っていた行為を批判や叱責されたようで、それをきっかけに自分手ずから料理を作るようになった、という事のようですね・・」
 
私は内貴清兵衛のエピソードを思い出しながら、彼自ら料理を造るようになったいきさつを話した。
 
立花さんは大きく肯きながら、
「あ~そうですか、そうだったんですね。イヤ判りますよ・・。
多分清兵衛は、元々旨い料理を食べることが好きだったんでしょうねキット・・。
 
で、第一線を退いて松ヶ崎の別宅で隠居暮らしを始めるように成って、時間がたっぷりあったんでしょうね。だからそうやって、自分でネ・・。
イヤよ~く判りますよ・・」そう言ってしきりに頷いた。
 
私はその時の立花さんの話ぶりを聞いていて、たぶん自分の事を清兵衛に重ね合わせて、そんな風に納得してるのではないか、と感じた。
 
 
「ところで魯山人が松ヶ崎の清兵衛のサロンに通うようになったのは、清兵衛自身が手料理を造るように成ってから、でしたか?
それとも仕出しや料亭料理を取り寄せていた頃なんですかね・・」立花さんがそうやって確認して来た。
 
「ん~んどうでしたかね、ハッキリとしたことは判りませんが、たぶん自ら作るようになってからではなかったんでしょうか・・。
もちろんサロンに集まる芸術家の卵たちを呼んだ時は、そう言った高級料理を取り寄せたりもしたんでしょうけど、自分自身や近親者のための料理は、自ら作るように成っていたんじゃないですかね・・」と私は推測を交えて、そう言った。
 
「まぁ芸術家の卵たちには、あえて世間で評価されている有名な料亭の料理や仕出しを食べる経験を積ませたのかもしれませんね。
あえて世間の評判と自分の舌を比べさせた、というか・・。なるほどね。
 
で、それとは別に自分自身のためには、自分で好みの料理を手ずから作って自ら愉しんでいたのかもしれませんね。えぇ~判りますよ清兵衛の気持ち・・」立花さんが嬉しそうな顔で、そう言った。
 
「立花さん、やっぱりご自身と内貴清兵衛とを重ねてるんですか?
ずいぶん愉しそうですけど・・」私はニヤニヤしながらそう言って、立花さんのグラスに赤ワインを注いだ。
 
「アハハ、そうかもしれませんね・・」立花さんはまんざらでもない、といった風にしながら嬉しそうにそう応えた。
 
 
                
             
 
 
「最近つくづく思うんですがね、柳沢さん・・」立花さんはそう言って、ひと呼吸あけてから続けた。
「”人は何のために生きてるんだろうか”ってね。
柳沢さん、どうですか?そんなこと時々思ったり考えたりしませんか・・」
 
すっかり赤い顔に成った立花さんはそう言ってテーブルから身を離し、私の反応を待つような姿勢をとった。目は穏やかに笑っていた。
 
「えぇ~⁉いきなり随分大きいテーマを投げかけて来るんですね、また・・」私はニヤリとしながらそう応えた。
「立花さんはどうやら自分なりの答えを既に見つけたみたいなんで、ぜひともご高説を私にお聞かせくださいませんか・・」私はニヤニヤしながら上目遣いにそう言って、立花さんの考えを引き出そうとした。
 
 
「そうですか・・」立花さんは余裕の構えでそう言うと、
「では遠慮なく・・」と断りを入れて、
 
「実はですね、まぁ最近の事なんですがね”人は何のために生きているのか”その答えが私なりに見つかった気がしましてね・・」そう言ってニヤニヤしながら、
「やっぱりねぇ、”人は何のために生きてるか”って言うとですね、
 
”旨いものを食べるために生きているんだ”って事に気が付きましてね、ウフッ・・」と言って、いたずらっぽい目で私を見た。
 
「あ~、そう言うことですか、なるほどね・・。立花さん的には、そう言うことに成るんですね。
ん~、でもまぁ、私的にはちょっと違うかな・・。なかなかネ・・。
私的にはですね、やっぱり人間ってのは”喰っていける様になるために働き、生きてく”んじゃないかって、そう思いますけどね・・」私はニヤニヤしながらそう言った。
 
 
「まぁね・・確かに”喰っていける様になるために働く”そういう面はありますね、否定はしませんよ、私もね・・。
確かにそういった時期は一定期間はあるだろうなと、私も思いますがね・・。
しかしまぁそれはやはり、一時的な事でしかないのでは、と今の私は思ってます。
 
親元を離れて一人立ちした時とか、家庭を持った時とか、子供が出来て教育費とかがかさんだりした時とかね・・」立花さんはそう言って、饒舌にしゃべりだした。
 
「自分の生活をある程度安定させるために働く事や、家族のために働く事はありますがね・・。しかしだからと言って、それは生きる目的でもなく、そのために生きているわけでもないんじゃないか、と私は想ってますよ・・。
 
喰うために働くのはホントに目の前の避けて通れない課題ではありますが、それはやっぱり生きる目的ではないでしょう・・」立花さんはそう力説した。
 
「まぁ、おっしゃる通りだとは思いますがね、しかし『旨いものを食べるために生きている』というのも、ちょっと乱暴なように感じますがね・・」
この件に関しては、私も容易には立花さんの説に同意することは出来なかった。
私もワインで多少酔いが廻ってしまったのかもしれなかった。
少し絡むように強く言った。
 
 
「う~ん、確かにそうなんでしょうがね・・。
そう言った考えはある程度までの年齢や、あるライフステージ迄の事ではなかったか、ってそんな風に想うようになりましてね、最近・・」立花さんがそう言って続けた。
 
「それはご家族がいらっしゃらないから、ですか・・」私は率直に聴いてみた。
立花さんは一瞬ニヤッとしてから、
「ま、それはあるかもですが、それ以上に僕が個人主義者だから、かも知れませんね・・」と言った。
 
”なるほどネ!”と、私は心の中で一瞬叫んでから、立花さんに
「そっか、そう言うことですか。
確かにそういう意味では私の場合は、”個人主義的”っていうより家族優先の”家族主義”なのかもしれませんね・・。
 
いつも何よりも家族が優先だから・・」と言ってから、改めて立花さんと自分の価値観の違いに気が付いた。
 
 
「そう言えば最近お孫さんが生まれたんでしたっけ?」立花さんが聞いてきた。
「えぇ、二人目が生まれましてね、女房はすっかりバァバしてますよ・・」
相模原の娘のところに月に2・3回、松戸から時間をかけて通ってる妻の事を私は思い浮かべながら、そう言った。
 
「お孫さんにすっかり、ですか・・。
子供が大きくなって独り立ちしたりすると、愛情を注ぐ対象が無くなって、新しい愛情の注ぎ先を探すようになるんですかね・・」立花さんが、妻の行動を冷静に分析する様にそう言った。
「確かに・・。そうなのかもしれませんね」私は最近孫のところに頻繁に行くようになった、妻の顔を浮かべながら、そう言った。
 
 
「柳沢さんがおっしゃるように、確かに私は比較的早くに離婚して、娘や元の妻と過ごした時間が少なかったですからね・・。
 
ひとり娘とは大学入るまで、月一で逢ってはいましたが、大学入ってからはどちらかって言うと、お小遣いが欲し時とかに銀行代わりに呼び出された、くらいでしたかね・・。
結婚して自分の家庭持ってからは、すっかり回数も減って・・」立花さんは、やや自嘲気味にそう言った。
 
立花さんには立花さんの事情がある様だった。
それに気づいた私は、それから彼のご家族の事に触れるのはやめた。
 
 
「話を戻しますが、立花さんはなぜそんな風に考える様に成ったんですか?」私は話題を元に戻した。
「”旨いものを食べるために人は生きている”ってことですか?」立花さんが目に笑みを浮かべながら、聴いてきた。
「えぇ・・」私は短く応えて、先を促した。
 
 
「自分自身の日常を改めて振り返った時にね、やっぱりそうかって、まぁ想いが至ったって訳ですよ・・」立花さんがニヤニヤしながらそう言った。
「具体的には、どのように・・」私もニヤニヤしながら尋ねた。
 
「例えば、朝ご飯があるでしょ。
朝おひさまが出る時間に目が覚めて、ザッと体操などして身体を柔らかくしてから、何をするかと言えば、朝ご飯を造り始めるわけですよね。
 
僕の場合は朝食と言えば買い置きのパンに、ベーコンエッグを造って、ポテサラやラズベリージャムを塗って食べて、旨いコーヒを淹れる努力をするわけですよ。
 
そうやって自分の気に入ったメニューで朝食が食べれて、美味しい珈琲が飲めれば一日が快適にスタートするんです・・」立花さんが語り始めた。
 
「ところが、取材とかで自宅以外の場所で、ホテルとかに泊まったりすると、なかなか自分の思い通りにはいかなくなるでしょ。
朝食にしても珈琲にしても・・。
 
そうすると納得のいく朝食が食べれる店を探し廻ったり、旨い珈琲を飲ませてくれる店を探すことに成るわけですよ・・」と立花さんが続けた。
 
「確かに、旨いコーヒーが飲めるかどうかは大きな問題ですよね。
朝ごはんも出来ることなら、自分が満足できるモノであっては欲しいですよね・・」私は立花さんのその考えに賛同した。その考えは私の腑の中にストンと落ちた。
 
 
「で、お昼ご飯にしてもそうでしょ。
家や自宅周辺なら勝手知ったる何とやらで、ある程度情報の蓄積だってあるし、不自由はしなくて済みますよね。知った店に行けばイイんだから・・。
 
でもそれが見ず知らずの街だったりすると、やっぱり旨い店に出遭えるかどうかはけっこう大きな問題でしょ・・」立花さんはニヤリとしてそう言った。
「確かに、外で食べる時はその通りですね・・」私もそう言ってニヤリとした。
 
「最後に夜ご飯にしたところで同じですよね。
僕の場合は自宅で作ることが多いんですけど、その場合はある程度納得いくものを造って食べることは出来ますけど、出張や他人と一緒に知らない店でご飯食べる時はね、やっぱり当たり外れあるでしょ。
 
自分が知ってる店とかであれば、ある程度うまいと思える店をセレクトできるけど、外れの店だと結構フラストレーションたまっちゃいますよね。特に旅行先とかだったりすると・・」立花さんが熱弁をふるった。実体験が影響してるのかもしれなかった。
 
 
「確かに・・」私も同様の経験があるだけに、その立花さんの考えにすんなり同意した。
「そうするとですね、結局自分が納得行けるご飯にありつけるかどうかって、結構重要な問題だ、という事に成りませんか?自分にとって・・。
 
要するに旨い飯にありつけるかどうかで、その日一日が豊かに過ごせるか、残念な気持ちのまま失意で過ごすことに成るのか、かなり影響してくるわけです。
しかもこれが毎日毎日繰り返されると、私の人生にとって大きな問題/課題として蓄積され、降りかかってくるわけですよ・・」立花さんはそう力説した。
 
「だから”人は旨いものを食べるために生きている”ってことに成るわけですか、立花さん的には・・」私は目に笑みを浮かべながらそう言った。
立花さんは肯きながら、
 
「であるからですね、私としては内貴清兵衛の気持ちがある程度理解出来るんです・・」立花さんが話を魯山人と内貴清兵衛に戻した。
 
「料亭や、有名な仕出し屋の料理に満足できなくなって、彼が自分で料理を作るようになったことに、ですね・・」立花さんは続けた。
「ただ彼と僕との違いは、彼ほど贅沢な食材を手に入れることは出来ないから、メニューのレベルには雲泥の差があるでしょうけどね・・」と彼は言って、ニヤリとした。
 
「でも、立花さんは自分の舌に対する拘りがあるから、簡単には妥協はしないでしょ?」私が突っ込んで聞いた。
「それはもう、譲れませんね」立花さんは即答した。
 
「しかも内貴清兵衛に比べれば、安上がりの素材でもおいしく食べる工夫をする事には、苦労とも何とも思わないでしょうし、そもそもそのプロセス自体を厭わないでしょうから。立花さんは・・」私が言った。
「ま、おっしゃる通りですね・・」またニヤニヤしながら、立花さんが言った。
 
 
「その上好きな事に対しては積極的にチャレンジするのがお好きだし、むしろそのプロセスを愉しむ傾向だってあるでしょ・・」私がニヤニヤしながら更にそう言うと、
 
「なぁ~んだ、すっかり見透かされてるんですねアハハ・・」立花さんはそう言って愉快そうに笑った。私も一緒に笑った。
 
「ま、そう言うこともあるもんだから私にとっては、”旨いものを食べるために生きているんだ”っていう結論に導かれるわけです。
生きている目的は何か、というとですね・・」立花さんは目に満面の笑みを浮かべながら、そう言いきってワインを口にした。
 
 
 
「ところで柳沢さんは今回の京都行で、魯山人の国宝辞退の理由が判ったみたいで、ある程度区切りがついた様ですけど、”これにて打ち止め!”ですか?」立花さんが改めてそう聞いてきた。
 
「確かに、一区切りがついたのはその通りなんですけどね。『国宝辞退問題』に関してはですけどね・・。
ただもう少し確認したい点があるんで、もうちょっと調べてみようかな、と想ってます。魯山人の事をもう少し掘り下げてみようかって・・」私が応えた。
 
「なるほどね・・。で、具体的には・・」立花さんが、更に尋ねてきた。
 
「茨城に行った時にも話が出たと思いますが、金沢の大茶人として有名だった太田多吉や細野燕台について、もう少し詳しく調べてみたいなぁ、って思ってます。
 
彼らも内貴清兵衛ほどでは無いかもしれませんが、魯山人が人間的に脱皮するための大きなお産婆役を担っていたみたいなんで・・。
 
そしてやっぱり良寛和尚に関しても、ですね・・。
魯山人は良寛とは生身の人間として接したわけでは無かったけど、彼の本来の専門だった『書』を通して、少なからぬ影響を受けたみたいですからね・・」と私が応えた。
 
 
「あぁなるほどね、そういうことですか・・。
イイじゃないですか・・、ご自分が”もっと知りたい!””興味ある!””判りたい!”って事があるんだったら、どしどし行くべきですよ。
金沢や、ん~ん新潟でしたっけ良寛和尚は・・」
立花さんは私を応援し、けしかける様にそう言った。
 
「ありがとうございます・・」私はそう言って、立花さんの励ましに謝意を示した。
立花さんは満足そうに、何回も頷くと改めて
 
「では、柳沢さんのその熱意と、前途に向かうチャレンジ精神や探求心を祝して、乾杯でもするとしますか・・」
立花さんはそう言って、残っていた赤ワインを私に注ぎ、自らのグラスにも注いだ。
 
そして最後に二人で小さな声で、「乾杯!」と言って、グラスを飲み干した。
 
 
 
 
 
                
 
 
 
 

  金沢城界隈

 
 
3月末のその日私がJR金沢駅に着いたのは黄昏時の時間帯で、あと30分もすれば暗くなってしまうだろうと想われるタイミングであった。
 
春の彼岸が過ぎていたこともあって、北陸とはいえ全体的に日差しにも空気にも温かさを感じるころ合いであった。
 
その金沢にとった宿はJR駅の南口徒歩数分のビジネスホテルで、近江町市場などにも徒歩でアクセスできる場所に在り、私はここに3連泊する予定でいた。
 
私は取材や情報収集を目的とした旅行では、出来るだけ公共図書館などにアクセスし易い立地を選ぶようにしており、同じ宿に滞在してゆったりと過ごせるホテルインフラの整った宿を優先した。
今回の宿もその条件に当てはまるホテルを選ぶようにした。
 
 
金沢では後の魯山人にとって少なからぬ影響を与えた、金沢の数寄者でもあった「細野燕台」と「太田多吉」について、多くの情報を得たいと考えていた。
 
「細野燕台」も「太田多吉」もそんなにメジャーな存在ではなかったため、あまり多くの研究者がいたわけではなかった。彼らに関する伝記や評論などを私の住む関東では殆ど得ることが出来なかった。
そんなこともあって、今回私は彼らの生活拠点でもあった金沢にやって来たのであった。
 
二人とも百年以上前の人物ではあるが、さすが金沢であれば彼らの痕跡や事績が何らかの資料や書物を通じて得られるに違いない、と踏んで私はやって来たのである。
 
 
県立図書館は郊外のニュータウンの文教地区に在る様であったが、金沢市立の中央図書館は比較的駅に近い場所に在ったので、JR駅から市立図書館の間のエリアに立地するその全国チェーンのホテルは、都合が良かったのである。
 
因みに図書館へは10分少々、更にかつて細野燕台の居宅があった金沢城北側の商業地区までは20分とは掛からない立地である事も、その宿を選んだ理由であった。
 
 
ホテルに入って、チェックインや荷解きを終えた頃には辺りはすっかり暗くなっていた。
私はホテルの徒歩圏を、街の探索を兼ねて20分近く徘徊し飲食店をチェックした。
 
今夜の食事を摂る場所探しと、朝のモーニングカフェを愉しめそうな店が在るのかどうかを、確認するためであった。
 
朝食に関しては一応朝食付ホテルを予約しておいたのだが、チェックインの際に確認したところ、ホテルの1階に入居している居酒屋系テナントでの朝食という事だったので、モーニング珈琲にあまり期待できないだろうと私は推測した。
 
そんなこともあってホテル周辺に在る喫茶店を探す事にしたのであった。
出来るだけ本格的珈琲が飲めそうで、居心地の佳さげな店を中心に、である。
しかしながら残念な事にホテル周辺では、それっぽい店を見つけることが出来なかった。
 
 
一方ホテルからJR金沢駅に掛けては少なからぬ飲食店が揃って充実していたので、夜の食事は幾つかの店の中から、セレクトすることが出来た。
 
60を過ぎてから和食を好む様に成っていたこともあって、その日の夕食は能登半島の地魚が売りの居酒屋に決めて、魚介類と地酒で1時間ほど過ごしホテルに戻った。
 
 
翌朝食べたホテルのテナントの朝食は、想ったように珈琲には全く期待できなかったため、朝食を素早く済ませると部屋に戻った。
 
昨日の夜散策した際にホテルの近場では、よさげな珈琲店を見つけることは出来なかったので、改めてネットを使って確認してみた。
図書館までの通り道に、「佳さげな喫茶店」でもないかと探したが、残念ながらネット上では「これは!」と期待できそうな店を見つける事はできなかった。
 
目指す図書館は10時からの開館という事だったので、9時過ぎまで部屋で過ごして時間を潰し、図書館の蔵書リストなどを事前にチェックしておいた。
 
ネットで確認出来なかった事もあり、9時を過ぎた頃には美味しい珈琲への期待感の無いままホテルを出て、ゆっくりと図書館に向かった。
 
 
「金沢市の中央図書館」ともいうべき図書館の正式名称は「金沢市立玉川図書館」といい、その名の通りJR駅の南側エリアに当たる「金沢市玉川町」に在った。
 
同じ建物に接続して、「近世史料館」や「参考資料室」が在ることをネット情報で確認できたので、それらを私は利用する事に成るのではないかな、と想定していた。
 
 
案の定図書館に向かう途中に「佳さげな喫茶店」が見当たらなかった事もあって、図書館の開館時間までの持て余した時間を、潰すことになった。
待ち時間の30分近く図書館周辺をブラブラ散策して、時間を消費したのであった。
 
敷地は緑の比較的多い空間で赤レンガ創りの建物ということもあって、配色のコントラストが効いていた。
おかげでその緑豊かな空間をゆったりと散策することで、退屈しない時間を過ごすことができた。
 
 
 
         
 
 
 
開館時間の5分前に図書館入口に向かうと、2・30人の老若男女がマスクをして静かに列をなして並んでいた。
 
彼らが10時の開館と同時に中に吸い込まれていくのを私は距離を取りつつ眺めた後で、ゆっくりと図書館に近づいた。
 
列に並んだ人達が入り切るころ合いになってから、私と同様に入り口に向かった人が何人かいて、私は心の中で思わず「ニヤリ」とした。
彼らもまた私と同類の人種に違いない、と見たからであった。
 
 
図書館に入ると、とりあえず私が目指したのは「近世史料館」であった。
一般向けの「本館」とは物理的に館内で繋がっていたが、渡り廊下で木造建築の別棟に行くことに成った。
 
「史料館」でザッと「閲覧スペース」の蔵書を見渡したが、目指す「細野燕台」や「太田多吉」に繋がりそうな資料や図書類は、見当たらなかった。
 
「近世」即ち江戸時代の加賀前田藩の資料はたくさん陳列してあったが、彼らに繋がる「明治期」「大正期」の「近代」モノは無かった。看板通りで、当たり前といえば当たり前の事なのだが・・。
 
ダメもとで学芸員にも尋ねたが、当然の様に「近代」に関する蔵書は殆ど無いという事で、本館2階の「参考資料室」のレファレンス(相談窓口)に行くことを勧められた。
 
 
それから私は木造建築の建物内を移動して、レンガ造りの本館2階にある「参考資料室」にと向かった。
歩きながら私は、「京都市歴史資料館」の事を思い出した。
空間構成や建物の匂い、レファレンス窓口等の配置などが何となく似ていたからである。
 
京都の「歴史資料館」よりはこちらの方が規模が大きかったが、雰囲気や匂いが同じだったのは不思議であった。
 
 
参考資料室の「レファレンス」カウンターで、さっそく私は「細野燕台」と「太田多吉」の名前を出して相談した。
30代前半と思しき眼鏡をかけた若い司書の女性はしきりにメモを取り、幾つかの事を私に確認した上で、向かい側に在る「蔵書棚」横の閲覧スペースで待つように言い残して、奥に消えた。
 
彼女が資料や蔵書を探しに向かった事を確認した上で、私は時間を有効に使おうと思って閲覧スペース横に何列も連なる、「蔵書棚」を見て廻わることにした。
「細野燕台」や「太田多吉」に関連する情報が何か見つからないだろうかと、悉皆(しっかい)調査をして蔵書を確認し、漁ったのであった。
 
 
10分ほど蔵書棚を見廻り、幾つかの書物を選んだ。
大正期の『金沢市要覧』『古老が語る尾張町』『味噌蔵町小学校記念誌』といった図書等で、たぶんこれらの書物を「参考資料室」の司書が選び出すことは無いだろう、と私は想ってそれらを手にした。
 
そうやって自分の眼で撰んだ図書を持って、傍らの閲覧コーナーに座り「目次」を中心にパラパラと目を通した。
 
 
魯山人が逗留した頃の細野燕台の生活拠点は、金沢城北側の商工業を中心とした城下町の一画に在り、「殿町」と 云ったが区画としてそんなに大きいものではなく、通り毎に「尾張町」「橋場町」「丁子町」といった名称がつけられて、城下町の商工業ゾーンとして塊を成していたのだ。
 
著名な「近江町市場」もその一画の外れ(北西)に在り、金沢百万石の城下町の台所機能を担っていたのである。
 
「近江町市場」と同様に加賀前田藩の商業の中心を担っていたのが「尾張町」界隈で、細野燕台が魯山人を招聘した「殿町」は、その「尾張町」に近接していたのであった。
 
 
私が蔵書棚の中からそれらの図書や資料をピックアップしたのは、将にその様な理由からであって『尾張町関連の書物』や古い『市勢要覧』の中に、明治大正から昭和初期の「古地図」や「資料」「情報」を見つけたからであった。
 
「殿町」自体も江戸時代の加賀前田藩からの名称で、明治大正に入ってからの「区画整理」や「町丁整理、統合」によって名前が替わってしまっており、現在では「大手町」に組み込まれている。
 
したがって当時の「殿町」を確認するには、「古地図」等に頼るしかなかったのである。
また当該エリアが校区として含まれる「味噌蔵町小学校」の『記念誌』を撰んだのも同様の理由からであった。
 
 
                
          
           大正6年金沢市地図 :金沢城本丸辺
                      赤:殿町界隈
                      緑:近江町市場
 
 
因みに「尾張町」というのは、前田利家がこの地域の領主となった時から、かつて自らの本貫地のあった「尾張名古屋」から、多くの商工業者を移住させた場所に付けられた名で「尾張出身者の居住するエリア」ということから、そう呼ばれたのだという。
 
してみると「近江町市場」もまた同様に前田家が「近江商人」を中心に、移住させる事で形成された、「市場」だったのかもしれないな、と私は想像した。
そしてそれは、明智光秀が信長の居城「安土城」を焼き討ちにした事と、関係があるのかもしれない、と私は妄想した。
 
というのも「金沢城」とその城下町は、前田利家の入部によってから作られた城郭都市であったからである。
 
私がその様な事をつらつらと考えていると、先ほどの司書が何冊かの本や資料を抱えて私の座っている、閲覧者用テーブルに置いた。
 
 
「細野燕台の資料はそれなりに見つかりましたが、残念ながら太田多吉に関しては殆ど見つかりませんでした、申し訳ありません・・」彼女が言った。
「あ~ぁそうでしたか、それはどうも・・。いや、ありがとうございました・・」私は頭を下げながらお礼を言った。
 
「それに中には・・」彼女はそう言って幾つかの分厚い書籍に混じって、小学生向きと思える図書を出して私に見せた。
私はそれを受け取って、その図書の中をパラパラと見た。
『かなざわ偉人物語⑧』というタイトルのシリーズものであった。
 
「いやいやこれはこれで・・、ちょっと見させてください。
子供向けとはいえ、何か役に立つことや情報が書いてあるかもしれませんから・・」私はにやりとしながらそう言って、それを受け取った。
 
 
私は、学者や研究者達の著作を中心に読んだりするのはもちろんの事であるが、「昔ばなし」や「伝説」さらには「民謡」や「童べうた」に関しても出来るだけ目を通す様にしていた。
 
これは立花さんのアドバイスに依るのであったが、民衆の間に伝承として伝わり、残っている「説話」や「歌謡」といった中にも、
「結構ヒントになる情報が得られることがあるんだょ」と、以前彼に教えられていたからであった。
 
 
司書は細野燕台の事が書かれている『偉人物語』を渡し終わったあとで、
「ところで、『金沢ふるさと偉人館』には行かれましたか?」と、私に聞いてきた。
 
「イヤ・・」と私が短く応えると、
「でしたらそちらに行かれるのも宜しいかもしれません。
私の記憶が間違ってなければ細野燕台について扱っているコーナーが、確か二階に在ったはずですから・・」と教えてくれた。
 
「ほう、そうですか・・、燕台のコーナーが、ですか。それはそれは・・。
因みにその『偉人館』の場所というのは、どの辺りになるんですか?」と私が聴くと、
 
「香林坊はご存知ですか?」と彼女は私に聞いた。
私が肯くと
「その香林坊の交差点を大和百貨店から左手に上がって行くと間もなく、市役所が右手に見えて来ます。
その金沢市役所の先を更に進むと、同じ並びに『金沢21世紀美術館』が見えて来ます。
 
で、そのブロックの裏手に向かって、ぐるっと廻ると『偉人館』が目の前に・・」といって丁寧にその場所を教えてくれた。
 
 
私はポイントとなる地名をメモ帳に書いた後で、復唱して確認した。
「はい、それで大丈夫です」と彼女は肯いた。
「ありがとうございます。助かります・・」私は彼女に謝意を伝えた。
と同時に図書館での情報収集やコピーが済んだら、金沢滞在中にその「偉人館」にも行ってみようか、と想ったのだった。
 
 
その後私は司書が持ってきてくれた図書類や、私が横の「蔵書棚」から選んだ図書を1冊ずつチェックして、何とか「細野燕台」や「太田多吉」に繋がる情報が無いだろうかとの確認作業を、1時間近く続けた。
 
とりわけ明治末期や大正時代、更には昭和初期に掛けての、当時の金沢の中心部や周辺地区の、様子が判りそうな情報を求めて、目を凝らした。
 
その上で、使えそうな個所を記録し、付箋などを貼った上で、レファレンスカウンターに座っていた、複写受付の女性に「コピー申請書」を提出した上で、コピー作業を始めた。
 
それから1時間以上単調な「コピー作業」を続けコピーを済ませると、受付に居た司書に「申請書」との整合性をチェックしてもらった上で、私は「参考資料室」を後にした。
その時、すでに1時を過ぎていた。
 
 
 
 
 
 

 数寄者「細野燕台」


 
赤レンガ造の図書館を出ると私は、かつて細野燕台の生活拠点が在った「殿町」を目指して歩いて行った。
 
そこは、現在は「大手町」という町名に名称は変わってしまっていたが、金沢城の北側に面する商業ゾーンの一画に当たる場所であった。
 
殿町は「近江町市場」の東側に位置することに成ったから、ひとまずは近江町市場方面に向かって行くことにした。
 
今朝から「旨い珈琲」を渇望していた私は、昼は本格的な珈琲を飲ませてくれる喫茶店で、昼食をとると強く決めていた。
たぶん「近江町市場」の近くであれば、それっぽい店にキット遭遇できるであろうと、期待感を抱きながら足取りも軽やかに、向かって行ったのであった。
 
 
10分近く歩くと幾つかの喫茶店を見つけることは出来たが、おしゃれなアメリカンカジュアルスタイルを訴求するコーヒーショップばかりで、私の求めている「レギュラー豆を扱う珈琲」主体の本格的な珈琲店を見つけることは出来なかった。
 
 
「百万石通り」という名前の大通りを越えて、金沢城方面に向かって一旦進み、更に近江町市場側に左折すると、幾つかの「レストラン」や「海鮮料理店」が目に付くようになった。
 
昨日の夕食で海鮮和食を味わっていたこともあって、それらの業態の店を横目に通り過ぎて、すきっ腹を抱えたままで私はヒタスラ「まともな珈琲店」を探した。
 
「近江町市場」の看板が見え始めた商店街を、右折して「十間町」という標識の道幅の広い通りに入った。
 
その通りは名前からして「十間」、即ち道幅が18mはありそうな道路で、それまで続いた「小路」「路地」といった感じの「歩行者空間的道路」とは明らかに異なり、どちらかと言えば自動車を中心とした道路に相応しい空間であり、周囲には中層階のホテルやマンション・オフィスビルが点在していた。
 
 
これらの空間は、江戸時代の加賀前田藩の頃に造られた、城を囲む城郭の一画である事から、この十間町は当時の「軍用道路」だったのではないか、と私は推察した。
藩の一大事が発生した際に、金沢城に集結する数千騎の藩士たちのために準備された空間ではなかったか、と私は推察した。
 
その「十間町」の通りが自動車向け道路で無かったことは、百m近く進むと道幅が明らかに狭くなってしまった事からも、判断できた。
 
 
「博労町南」という交差点の右手にはNTTの大きなビルが在り、どうやら目的の「旧殿町」辺りに着いたようであった。
そこは先ほどの、道幅が狭くなったエリアでもあった。
 
図書館で入手した昭和10年代の古地図に、この辺りにその様な地名が記載されていたので、「殿町周辺」に到着したものと私は想った。
 
ザッとその数百mの区間を往復して「殿町界隈」の空気感を掴んでから、私はお城の反対側に当たる「尾張町」の在る北側に向かって、小路を入った。
 
 
「尾張町」は江戸時代から金沢の商業地としての中心街であった事から、そちらに向かえばキット、まともでチャンとした喫茶店があるに違いない、と期待したからである。
 
案の定その小路に入って行くとほどなくして、昔ながらの「昭和の喫茶店」や「昭和の洋食店」とでもいうべき空気感の漂う店が、幾つか確認できた。
 
 
歩きながら私は東京駅近くのイタリアンの店で、立花さんが力説していた話を思い出していた。
「人は旨いものを食べるために生きている」といった言葉を、である。
 
今朝から「旨い珈琲」を探し求めて、金沢の城下町をウロウロ彷徨っている自分は、将にその通りだったのである。
「旨そうな本格珈琲の喫茶店を探している」今日の自分の姿は、立花さんが言った通りだという事を、はっきり自覚したのであった。
 
 
既に空腹に限界を感じていた私は、見た目からも「本格珈琲」が期待できそうな、佳さげと想われる外見の喫茶店に、迷わず飛び込んだ。
 
店の扉を開けると、入口からの導線に並行する様に中央にカウンターが続き、カウンターの左側にマスターと思しき70代後半の男性が立ち、カウンターの右側の席に座った同世代と想われる客と談笑していた。
 
マスターは私の入店を確認すると、
「いらっしゃい」と言い、
「どこでも、空いてるお好きな場所にどうぞ・・」と言いながら、カウンター席を背にした奥のコーナーの、区割りスペースを含めたぐるりを手で指し案内した。
 
 
奥の区画は思った以上に広く、ログハウスにでも使われそうな太い丸太で造作された壁で独立していた区画には、それぞれテーブル席が二つずつ在り、各区画には10人近くは入れそうな広さがあった。
店のBGMは、軽やかなジャズが流れていた。
 
 
マスターの背中側には幾つかのコーヒカップが並んで在り、洋食器と想われる白磁に赤や青系統の花柄のカップが重ね置きしてあった。
 
更にマスターの後ろの奥まった区画には、3・4畳ほどの調理場と想われる空間が在り、ガス台や調理スペースの他に洗い場のシンクなども確認できた。
喫茶店に相応しい「軽食類」をその区画で作るのだろう、と私には想われた。
 
 
               
            
 
 
 
私は出入り口に近いカウンター席に座って、「メニュー」をマスターから貰い「キリマンジェロ」を頼んだ。ついでにアサリボンゴレパスタを注文した。
 
マスターはカウンターと厨房を行き来しながら調理をこなし、すこし落ち着くとカウンターでドリップを使って珈琲を入れ始めた。
その際彼が砕いた珈琲豆に、熱湯を一気に注ぐ様子を見てしまい、私は残念な気持ちになってしまった。
 
というのも彼のやり方は、私の淹れる珈琲とは明らかに異なっていたからであった。
私の場合は、珈琲ミルで砕かれた珈琲豆に対してもっと時間を掛けて、ゆっくりと愛しむ様にお湯を注ぐのである。
 
 
ミルで粉砕した豆に熱湯を注ぐという私のやり方であれば、少しずつ熱湯を含んだ豆がゆっくりと膨らんでいき、同時に周りにポワ~ンと香ばしい薫りを漂わせて行くのである。
私はその視覚と嗅覚を刺激し豊かにする、コーヒー淹れのプロセスそのものを愉しむのであった。
 
それと共にそんな風に時間や手間を掛けて、愛しみながら熱湯を注がないと珈琲豆の本来持ってる味が、引き出されない事を私は経験上知っていたのだ。
 
この店のマスターの様に一度に大量の熱湯を注いでしまっては、粉砕された豆粒が「ふっくら」と膨らむことが出来ず、同時に周囲に佳き香りを漂わすことも出来ないのである。
それらを感じ、かつ味わいながら、美味しい珈琲を呑むことは出来ないのだ。
 
私の珈琲の淹れ方は、丁寧であるがゆえに時間は掛かってしまうのであるが、その分豆の味が引き立ち、香りは豊かでキリマンの持つ程よい酸味をしっかり味わうことが出来るのであった。
 
 
残念な気持ちではあったが、
「ま、とりあえずまともな珈琲が飲めるだけでも、好しとしよう!」と私は思い直して、彼が珈琲を淹れる様子からは目をそらし、図書館でゲットした資料を読む事にした。
 
 
暫くして「キリマン」と共に「アサリのボンゴレパスタ」が出て来たので、それらをゆっくり味わいながら、手元の図書館でコピーして来た資料に、目を通した。
 
期待していた「キリマン」はやはり旨い!とは言えなかったが、70点くらい豆の味が感じられたので、それはそれで好しとした。
 
 
私がパスタを食べ終わり、引き続き資料に目を通しながら珈琲を飲んでると、マスターが聞いてきた。
「・・今日は、観光でいらしたんですか⤴」と。
「え?イヤまぁ、観光というよりはチョットした調べ物がありまして・・」私は顔を挙げて、マスターを見て応えた。
 
続けて、 
「実は私、北大路魯山人の事をいろいろと調べてるんですが、彼の人生に大きな影響を与えた金沢の茶人『細野燕台』と『太田多吉』の事を調べに、金沢にやって来たんです・・」と応えた。
 
「お客さんはどちらから、いらしたんですか⤴」とマスターが聞いてきた。
「千葉からです・・」私は短く応えた。
 
私たちがその様な会話をしていると、マスターの向かいのカウンター席に座ってた白髪と白髭に、琥珀まだらの眼鏡を架けた男性客が反応して、私の方に向き直った。
 
  
「ほぅあなたは、細野燕台や太田多吉の事を調べに金沢に来られたが、ですか・・」と彼は北陸弁で言って、興味深そうに私をジッと見た。
 
「アはい、この先の『殿町』に在ったという、かつての細野燕台の住居跡というか、生活拠点をこの目で確認しに・・。
大正時代初期に魯山人が燕台の家にしばらく逗留していた、とかいうんで・・。
その拠点が在った殿町界隈を、この目で見てこようと思いまして・・」私はお城の方を指さして、そう言った。
 
「あぁほういう事でしたが、ですか・・」眼鏡の男性はそう言って頷いた。 
「こちらは、九谷焼などの焼き物を扱ってる陶磁器の店を経営している社長でして・・」マスターがそう言って、客の事を私に紹介してくれた。
 
 
「あぁそれはそれは・・。そうですかこちらは九谷焼を・・」私はそう言って、二人を見廻してから、話を続けた、
「実は私、若い頃焼き物を求めて全国の窯元などを訪ね歩いたりしてまして・・」と嬉しくなって、昔の自分の事を話し始めた。
 
「ほうすると、金沢にも何度か来られたが、ですか⤴」と白髭に眼鏡の客が聞いてきた。
「えぇまぁ、金沢市内や小松の陶磁器団地やその周辺の、窯元やら販売所を訪ねたり山代温泉近くの須田青華の窯なども・・」と私はやや早口で、そんな風に説明した。
その時の私は嬉しくなって、多少興奮してたのかもしれない。
 
「ほぃたら社長の店にも行ったが、かも知れんですね・・」マスターが北陸弁でそう白髭の客に話しかけてから、ニコニコ顔で私を見た。
 
 
「なるほど、そうかもですね・・。
因みにお店はどの辺りに・・」私が白髭の客に向かってそう聞くと
「香林坊を市役所の方に行ったが、辺りです・・」と彼は短く応えた。
 
「あぁそうですか・・。あの辺りですか・・。
確かにあそこら辺でしたら、私が覗いた可能性は大いにあり得ますね・・。
もっとも私が金沢やら小松辺りをウロウロ廻っていたのは、40年近く前の事ですけどね・・」私はそう言ってから、ニヤリとした。
 
 
「ところで燕台の事は何か判りましたか?そのぉ殿町辺りに行かれて・・」マスターが興味津々といった風に聞いてきた。
「えっ、まぁまぁですかね・・」私はそう言ってから、
 
「細野燕台に関しては、実は市の中央図書館でそれなりに情報を得ることが出来てはいたんです・・」私はそう言って、手元の袋に入ったままの資料の束を持ち上げて見せた。
 
「そうでしたか、それはそれは・・」マスターがニコニコ顔で言った。
「殿町の事、何か判ったが、ですか⤴百年近く前の事ですやろが・・」白髭の客が私に、聞いてきた。
 
 
「イヤとくには・・。殿町の辺りを往復しましたが、教育委員会辺りが作りそうな標識や居住跡を知らせる看板とかも、特に見当たらなかったですし・・。
・・『魯山人本』に依ると、燕台の店は結構大きかった様でしたけどね・・。
でもまぁ街並みの空気感は何となく・・」私は率直にそう言った。
 
「ほうだったみたいやね・・。燕台の店は趣味の中国や清朝の骨董屋と並んで、本業のセメント店の販売や代理店も、同じ建物でやってたがみたいやでね・・」白髭の客が説明を加えた。
 
「かなり間口も広かったとか・・」マスターが話題に入って来た。
「なにせセメント扱ってた言うことやから、商品の陳列や在庫スペースもそれなりに在ったがや、なかろうか・・」客が補足した。
 
「とすると、間口も五間や六間じゃ済まなかったんでしょうかね・・」私は二人の話から、当時の細野燕台の殿町の店の大きさを、頭の中でイメージしてみた。
「多分そうやったが、でしょうな・・」白髭の客はそう言って、肯いた。
 
 
「燕台は大正時代の初め頃には、既に殿町で商売始めたり、趣味の骨董店も開いたり結婚して家庭も築いてたりで、生活はかなり安定していたようですね・・」私がそんな風に言うと、
「その様でしたがやろね・・。
魯山人が転がり込んで所謂『食客』として逗留してた頃は、まさにそう言った頃合いだった様やね・・」彼はそう言った。
 
 
「彼はその頃は既に、金沢では著名な茶人だったんですかね、そのぉ魯山人が逗留してた大正初期の事ですが・・」私が確認する様にそう言うと。
 
「ほやろな・・。燕台は明治初頭の生まれやったはずやから、その頃やと40代の半ばやったがや、なかろうかィね・・。
ほれに『金沢美術俱楽部』なんかの創設に関わったりしておってで、明治大正期の金沢の茶人やら大旦那を集めもって、『茶会』やら『売り立て』なんかも自ら先頭に立ってやってたみたいやからね・・。
 
金沢はもちろん、加賀や能登・越中・越前まで北陸中の、その道の人で知らん人はおらんがやった、でしょうな・・」白髭の客が教えてくれた。
 
 
 
            
 
 
 
「なるほど、そうすると明治末から大正初期の金沢の茶道界や古美術界を引っ張ったリーダーの一人だった、という訳ですかね彼は・・。
そう言う立ち位置にいたんですね、当時の燕台は・・」私が感心してそう言うと、
 
「確か魯山人と燕台が初めて逢ったがも、山代温泉の茶人たちの集まりがあった時や、思いますで・・。
その温泉宿の主で、茶人として名の通った大旦那の営む温泉旅館に、魯山人が逗留してた時、北陸の茶人達が集まって会合だかをやってた場で引き合わされたが、いうことやなかったかいな・・」彼が続けた。
 
「そういった金沢の文化や伝統というのは、やはり江戸時代からの、加賀前田百万石以来の伝統が残ってたから、なんですかね・・」私がそう言うと、
 
「ま、ほういったが事やろね。なんせ四百年近く続いた伝統/文化やったが、さかい」と白髭の客はそう言って、更に
 
「江戸時代の武家の社会が安定していた最初の三百年はもちろん、明治維新から百年経ってからも廃れずに続いて、敗戦から7・80年経った今でもなお、連綿と続いておるんやさかい・・」と続けた。
私は「なるほど」、と思い大きく肯いた。
 
 
「ところで先ほどの『売り立て』って言うのは、茶道具類の販売会、のようなもんでしたっけ?」と私が確認の意味で尋ねると、彼は小刻みに何度か肯きながら、
 
「さっきも言ったが通り、当時の金沢を始め北陸じゃぁ、その道の旦那衆や茶人が沢山居ったがやから、ほうした人達を相手に茶道具を売ったり買ったりの『市場』が、十分成り立っておったがですよ・・。
 
ほれに当時の北陸の商売人や名家の中には、武家体制の崩壊をはじめ商売の流行り廃りや家庭の事情があったりで、家宝だった茶道具類を手放す家も少なくなかったさかい・・」と、説明した。
 
「需要があって、供給もあったと・・」私が呟いた。
 
「ほうでしたな・・。中には代替りがキッカケで、いうのもありましたがですね・・」
マスターが感慨深くそう言った。彼には何か思い当たるエピソードでも、あったのかもしれない。彼のその言葉に、私はある種の含みを感じた。
 
 
「商売の栄枯盛衰ですかね・・」私が呟くと、
「武家の時代が終わった明治維新がもちろん大きかったがやろうし、維新後の文明開化の蒸気船の影響なんかもあって、北前船も廃れたりしはってな・・」白髭の客が遠くを見る様な目で、そう言った。
 
彼の周囲にもそんな風にして没落して行った商家が、あったのかもしれないな、と私は妄想を働かせた。
 
 
「そう言えば京都には『財産の三分配』といった様な文化があったみたいですけど、北陸の商売人にも同様の考えというか、文化がやっぱりあったりしたんですかね・・」
私がフト思いついてそう言った。その時私の頭には内貴清兵衛の顔が浮かんでいた。
 
「『財産の三分配』って、何ですか?」マスターが聴いてきた。 
「えっ、まぁ一種の財産の活用方法というか、保険を掛けるというか・・。
 
京都の裕福な商家なんかだと、ゆとりの出来た財産を『現金』『先行投資』『書画骨董などの趣味』といった分野に三分割して、財産の維持や有効活用を行ってたという、伝統というか文化があったようでしてね・・」私はそう言って、マスターに説明した。
 
 
「まぁ、似た様な事はここ北陸にもあったが、ですよ・・。
北陸やと『現金』の他に『茶道具』が入ったり、投資先に『北前船』なんかが入ったり、文明開化後の新商売が入ったがやと、想いますな・・」白髭の客が言った。
 
「細野燕台の場合だと『セメントの販売』が、その場合の『先行投資』に成ったんでしょうかね・・」私が思いついた事をそう呟くと、彼は肯きながら
「細野家の場合はそうやったが、かも知れんですな・・。
何せ細野家は元々は加賀前田藩を相手に『油屋』やってたが、という話やで・・」そう言った。
 
一呼吸おいてから、彼は
「ところで燕台の事はそれなりに、という事やった様やが、太田多吉の方はどないがでしたか?図書館で、情報や資料はうまいコト見つかりましたがか?」彼はそう私に聞いてきた。
 
「イヤぁ、それがですね・・。なかなか太田多吉に関する資料は無くって、ですね・・。
燕台と違って、市立図書館にも中々見当たらなくって・・。
今まさにどうしたもんかと思ってるところです・・」私が率直に言った。
 
「あぁ、なるほどね。市立図書館がやったなら、まぁそんなもんやろね・・。
因みに県立図書館には行く予定はあるが、ですか?」彼は私にそう確認した。
「あ、ハイ明日行ってこようかと・・」私が応えた。
 
「そやったら、良かったがです。県立図書館やったら太田多吉に関する資料も多少はあるがやろ、想いますで・・。
茶道関係の書物や資料は玉川の図書館がより、県立の方が充実しとるさかい・・」彼はそう言って、私に県立図書館に行くことを暗に勧めた。私はそれに肯いた。
 
 
 
 
           
           友人だった伊藤深水の描いた晩年の「細野燕台」画像
 
 
 
その後私は二人に個人名刺などを渡して、簡単な自己紹介を済ませた。
 
その際白髭の彼から、明日の晩近江町市場近くの「おでん屋」に来ることを誘われた。
 
彼(=甲田さんと言った)が明日の夜そのおでん屋で、金沢の茶界に精通している友人と食事を予定してるという事であった。
 
もし燕台や多吉の事を詳しく知りたかったら、その友人と話をしたらよいから、「来てみなっせ」と誘われたのだ。
私は二つ返事で
「ぜひとも⁉」と応え、明日の19時に近江町市場近くのその「金沢おでんの店」を、訪ねる約束をした。
 
 
そうやって明日の約束をして、私が「レトロな喫茶店」を出た時には、すでに午後の3時を過ぎていた。
 
それから私はもう一度「殿町」に戻り、今度は近江町市場とは反対側の「味噌蔵町」を目指して、ぶらぶらと歩いて行った。
 
大通りの「味噌蔵町」の在る辺りに突き当たると、そのT字路を右折して大通りに沿う形で、裁判所から兼六園に向かって歩き廻り、兼六園の中をゆっくりと散策した。
 
その上で、市立図書館の司書が教えてくれた「21世紀美術館」の裏手に在った、「金沢ふるさと偉人館」を訪れた。
 
入り口近くの二階に続く階段を上がってすぐの、「細野燕台のコーナー」をザッと見学してきた。残念ながら資料や関連図書などは殆ど無かった。
 
あまり多くの収穫を得られることの無かったその「偉人館」を出て、私はホテルの在る金沢駅に向かうバスに乗って、帰ることにした。
 
朝からの歩きどおしで私は疲れてしまっていて、ホテルまで歩いて帰る元気も気力もなかった。
    
 
 
 
 

 卯辰山の太田多吉

 
  
翌朝私はホテルでの朝食を済ませると、さっそくJR金沢駅東口のバスセンターに向かって行った。
今日の目的地は「県立図書館」と「太田多吉経営のかつての”料亭山の尾”」の二か所であった。
 
アーチスト魯山人の生みの親の一人と言ってもよい、「太田多吉」に関する現地視察と情報収集することが、今日の目的だったのである。
 
金沢の数寄者「細野燕台」に関する資料類は、昨日の「市立図書館」である程度収集できたのだが、昨日の時点では「太田多吉」に関しては殆んどサッパリだったので、今日の県立図書館への期待値は高かった。
 
更には彼の生活の拠点であった「卯辰山」の料亭「山の尾」周辺への訪問は、やはり料亭のオーナー創業者であった「太田多吉」を知るためには、ぜひとも訪れる必要があったのだ。
彼が経営していた「料亭山の尾」を実際に訪れ、その立地や空間を体感し、自分の眼で見ることは彼を知る上で、大切なプロセスであったから、である。
 
 
「県立図書館」は市街地を外れた郊外の文教エリアに在った事から、順番としては「卯辰山の”山の尾”」→「県立図書館」というルートを選んだ。
 
「卯辰山の”山の尾”」は浅野川を越えた観光地、「東茶屋街」先の小高い丘というか山の中腹に在った事から、先ずは「東茶屋街」を通るバスに乗った。
 
 
今日は何ヶ所かをバスで移動する予定だったので、「一日乗車券」を購入しておいた。
京都の時もそうであったが、私は市内を何回もバスや地下鉄で回遊する事が多い日は、出来るだけ「一日乗車券」を購入する事にしている。
 
移動する度に何回も乗車券の購入を行う手間がいらない事と経済的にコスパが良い事から、私は出来るだけ「一日乗車券」を利用している。
 
 
9時過ぎには多くの観光客と一緒にバスターミナルから、「東茶屋街」を経由するバスに乗って行った。
10分程度で浅野川を越えてすぐの、「東茶屋街入口」に到着する事が出来た。
 
金沢には二つの大きな花街が在る。
「東茶屋街」と「西茶屋街」である。
 
前者は金沢城から「浅野川」を越えた東北東の「卯辰山」の麓に在り、後者は「犀川」を越えた城外の南部に在った。
そこは香林坊から更に道なりに南下し、犀川に架かる大橋を越えた対岸のエリアである。
 
 
 
          
            ・中央右上:東茶屋街、左下:西茶屋街
 
 
 
「東茶屋街」と「西茶屋街」は共に、安土桃山時代に天下人となった羽柴秀吉の五大老前田利家の、加賀金沢への入部以降形成された「歓楽街」で、主として武士や裕福な町人たちが利用する「花街」であり、「社交場」でもあったのである。
 
ポジション的には京都の八坂「祇園」や西陣の「北野上七軒」が、イメージ的には近いようだ。
これらの花街は旧幕藩体制下の城下町とりわけ、数十万石以上の大藩であれば規模の大小はあったとしても必ず見受けられる、都市機能の一つである。
 
そんな中で加賀百万石は、仙台伊達藩や薩摩島津藩と同様に大藩としてその陣容が大きく、「京文化の影響」もまた強く受けていた様だ。
 
 
金沢は「小京都」というより「中京都」や「准京都」ぐらいの規模で、京文化の影響が大きく、「東茶屋街」の街並には江戸時代の京都の伝統の残影がそこかしこに確認出来、その文化的インパクトが色濃く残っているように感じられた。
 
そういった基盤の上に、前田利家入部より400年間の間に培われた独自の「北陸文化」が上積みされ、加算されて今日の「金沢」の社会や、文化が形成されているといったところか・・。
その様な土台の上に形成された「花街」が、「東茶屋街」であり「西茶屋街」なのであろう。
 
この履歴があるから金沢の花街がいまでもなお「江戸時代の花街」を疑似体験できる、数少ない貴重な観光スポットとなっているのではないか。
ある種の生きた「江戸時代テーマパーク」の様な位置づけで、日本人は基より海外からのインバウンド観光客が多く訪れる、観光スポット「街」と成っているのだろう。
 
 
 
          
 
 
 
「卯辰山の料亭”山の尾”」は、その「東茶屋街」の先、というか突き当りの小高い丘の中腹に位置する。
金沢でも格式が高く、料理の質や「懐石料理の什器類」や「茶道具」といった調度品のクオリティも高く、庭園や眺望といった環境も充実していたこともあって、明治以降昭和初頭まで「山の尾」は金沢を代表する有力な料亭と成っていたのである。
 
その「山の尾」は「東茶屋街」をしばらく石畳の路を道なりに歩いて行くと、ほぼ正面の小高い丘に見ることが出来、周囲を緑豊かな樹木に囲まれた、風格ある楼閣であった。
 
 
太田多吉はその「山の尾」を自ら創業し、手を加え続け、継続して創造し続けたオーナー経営者であり、かつ総合プロデューサーでもあった。
 
従って「山の尾」は彼にとっては自己の美意識や価値観を反映させ、「加賀懐石料理」というスタイルを通して、この料亭を「利用」し「時間消費」してもらう為の、「しつらえ空間」であり「舞台」であったのである。
そして何よりも「太田多吉の世界」そのものであったに違いない、と私は想っている。
 
彼の名声は金沢はもちろん北陸三県でその道の人達で知らない人のいない、本格料亭の経営者であり同時に、「数寄者」でもあった。
彼は当時の金沢を代表する「大茶人」なのである。
 
 
「東茶屋街」そのものは石畳の左右に茶屋街独特の歴史や、ある種の華やかさを感じさせる2階建て中心の低層日本家屋が連なる街区で、石畳やポイントとなる緑の柳が板塀や紅柄格子などに映える、黒色や茶色の建物が多く立ち並んでいた街区である。
 
いわゆる「歴史的建造物」で構成された、「江戸情緒」豊かな「歴史的空間」であり「街区」で、今ではある種の「エキゾチックさを醸し出す街」となっている。
 
京都の「祇園街」に比べると、空間的にはよりコンパクトで、限られたスペースであるが、その分まとまりが良くギュッと凝縮されており、商業化の著しい「祇園」等に比べ、よりピュァに「江戸時代の花街」を感じさせるクオリティを今でも有している。
観光客が歓びそうなヒューマンスケールな空間である。
 
 
 
 
        
           東茶屋街と正面上の「料亭山の尾」
 
            
 
 
「東茶屋街」を石畳の 街路に沿ってそのまま更に進んで行くと、道は鍵の手に曲り始め、次第に道幅が細くなっていった。
卯辰山に向かって更に進んで行くと、ほぼ正面左手に小ぶりな神社が現れた。
「宇多須神社」である。
 
花街のつき当り、卯辰山の麓という事もあってこのサイズに成ったのかもしれない、と私は想った。京都の祇園八坂神社とは規模感は全く違った。
 
 
神社入り口の「由来記」を読むと、かつてこの山の浅野川近くから古い鏡が出土し、その古鏡の裏面に「卯」と「辰」の文様があった事から、此の小高い丘の事を「卯辰山」と名付けたのだという。
 
神社の創建は養老二年(718年)という事で、奈良時代後期という事に成るが、創建時の鎮座場所はここではなかったという。
 
後で知った事だが、「鎌倉時代末期」に全国で起こった後醍醐天皇の「鎌倉幕府討幕」の兵乱に巻き込まれてしまい、当初在った「社」が炎上し、それまで鎮座していた場所(卯辰村一本松)から、600年近く経った14世紀初期に現在地に遷座したという経過を辿ったという。
それもあってこの神社の規模が小さいのかもしれない、と私は想い直した。
 
加賀前田藩の二代藩主前田利長が藩祖前田利家をこの社に祀り、「卯辰八幡神社」と称して尊崇した事から、以来4百年間近くこの神社の繁栄や名声が藩内に広まってきた、という事の様だ。
 
 
その宇多須神社横の道幅の狭い坂道=「子来坂」を上ると、数分で右手に料亭「山の尾」が現れた。
坂を上った丘の中腹という事もあって、「山の尾」入口の「車溜まり」から振り返って眼下を観ると、先ほど歩いてきた「東茶屋街」が良く見えた。
 
更には東茶屋街に並行する様に「浅野川」が確認出来、その先には「金沢城址」や兼六園と思しきエリアを確認することが出来た。
 
即ち現在45・6万人の居住する金沢の市街地中心部を、この場所からは180度近くのパノラマとして、見渡すことが出来るのである。
「山の尾」は金沢の市街を見下ろす、眺望の好い場所に建つ料亭であったわけだ。
 
 
この場所に太田多吉が「山の尾」を創建したのは明治24年(1891年)、彼が38歳の時であるという。(北陸中日新聞:平成5年12月26日号)
 
因みに太田多吉は幕末の1853年(嘉永六年)に生まれ、明治16年生まれの北大路魯山人とは29歳の年の差があった、という。殆ど親子の年の差である。
 
その「山の尾」の全盛期は、「明治20年代から30年代にかけてであった」(参考:山田和著『知られざる魯山人』232ページ)というから、「山の尾」の全盛期は多吉の40~50代に当り、料亭経営の経験も十分積み、彼自身が将に気力・体力・資力共に充実していた「脂の乗った時」だったのであろう。
 
 
その太田多吉は会社(?)の給仕として働いていた若い頃(明治維新直後か?)、その会社に出入りしていた懐石料理の「茶屋」の主人によって、見出されたのだという。
彼の「働きぶり」や「筋の良さ」を認めた茶屋の主人にスカウトされ、自らの茶屋料理の後継者として育てるために、手元に置いて徹底的に教育し修業させたのだという。(前掲書232ページ)
 
彼の茶屋料理=加賀懐石の基本や茶屋経営のノウハウは、この主人の下で叩き込まれ、修得してきたのであろう。
 
私はこのエピソードを知って、「織田信長と木下藤吉郎の逸話」やその「藤吉郎(羽柴秀吉)と寺の小僧佐吉(石田三成)の逸話」を思い出した。
そしてやはり「名伯楽」と言う人達は、何処にいても「駿馬」を発見し、見出し、育てるものなのだなぁ、と感じ入った次第である。
 
 
更にその主人は多吉を当時金沢で著名だった大茶人の元に通わせ(前掲書232ページ)、茶道の基本」や「懐石料理の基本」を教え育み、太田多吉の美意識の醸成を図り、茶道具の本物に触れる機会を通して、茶道具への鑑識眼や美意識を鍛え、修得・自得させたという。
 
そうやって懐石料理の「決まり事」や「技」を修得した多吉であったが、彼自身は「ウナギ」や「ドジョウ」を裂く技に秀でていた料理人であったという。
 
その彼が創った「山の尾の調理場」には、彼が撰び抜いた板前で「スッポン料理」の名人と「加賀懐石料理」の名人を抱え、彼らの腕に依り「山の尾」の料理の質を更に高め、料亭としての評価を揺ぎ無いものにしていたようである。(参考:前掲書241ページ)
 
 
そうやって自らの料亭で「本格的な懐石料理」を提供すると同時に、山下の「東茶屋街」に遊興に来る金沢の通人たちに、「茶屋料理」としての懐石料理などをデリバリーして供する事で、「山の尾」の経営を安定させ、「名声を博し」料亭経営を盤石なものにしていったのであろう。
「山の尾」の経営が最も充実していたのが、前述したように明治20年代や30年代の頃であったという。
 
 
 
               
                   太田多吉
 
 
 
その様にして順風満帆の時に得た蓄財を彼は何に使ったか、というと多吉は当時の多くの経済人の様に「現金」「投資」「趣味」という財産の「三分配」ではなく、利益のあらかたを「趣味」の茶道具の収集に費やしたという。
 
この点は京都の「実業家」内貴清兵衛等とは異なり、彼は根っからの「趣味人」だったのではないか、と私は感じ想像した。
 
その様な資産の費やし方もあって、全盛期を過ぎた明治末期から大正期にかけては、以前の様な羽振りが無くなって、何回かの経営危機を迎えたらしく、そのたびに趣味で採集しておいた秘蔵の著名な茶道具類を、「売り立て」に出さざるを得なかった様である。
 
更には結局、自らが40年近く手塩にかけて育て創った「料亭山の尾」を、昭和初期には他者に手放さざるを得なくなったようである。(北陸中日新聞:平成5年12月26日号)
 
 
 
さて魯山人が、太田多吉の料亭を細野燕台を介して訪れたのは、大正五年(1916年)1月の事であったという。(前掲書234ページ)
 
当時料亭の経営はピークを過ぎていたとはいえ、太田多吉の名声は北陸はもちろんのこと東京や大阪などでも揺ぎ無いものであった。
三井物産の創業経営者「鈍翁益田孝」や明治政府の元老「井上馨」等も、金沢に来た時は彼の料亭を訪れるなどしており、大茶人としての「山の尾太田多吉」の実績や名声は、広く国内に知れ渡っていたのであった。
 
 
その魯山人と太田多吉初対面の時に起きたエピソードが、有名な「本阿弥光悦の赤楽茶碗」の無償譲渡であった、という。
その「赤楽茶碗」は「国宝級の逸品」で、その価値は現在の市場価格で言えば数千万円は下らないとする代物であった、という。
 
その逸品をまるで犬の子を渡すかの様に魯山人にプレゼントした太田多吉は、「短気」で「気難しい」人物と世評されていたが、「傲岸不遜」で「本音をズケズケとモノ申す」魯山人とは、なぜか馬が合ったというのである。
二人の間には気脈相通ずるモノが何かキットあったに違いない、と私は感じた。
 
 
またこの時63歳であった多吉はこの時の短いやり取りの中で30歳近く年下の魯山人に、自らの茶道における「後継者」たる可能性や資質を、見だしていたのかもしれない。
 
太田多吉に子供がいなかったことも、その一因だったのだろうか・・。
はたまた、かつての自分自身の過去の姿と重なったのかもしれない。
 
 
かつて自分が10代の若かりし頃会社(?)の給仕を務めていた彼を見出し、後継者として育ててくれた「茶屋」の主人や、太田多吉にこの「赤楽茶碗」を託したという金沢の茶人「眞野宗古」との実体験も、或いは影響していたのかもしれない。
 
私はこの逸話を知って、かつてどこかの本で読んだエピソードを思い出した。
「願わくば、同好の士のもとに蔵されんことを・・」と言って、家産が傾いた時に愛蔵していた「茶器類」を手放し、「売り立て」に出したという、大阪だったかの趣味人が言った言葉を、である。
 
自分自身が撰び、時間を掛けて収集し、愛蔵していた「茶器」や「古美術」を、「投機」や「商売」の対象として買い求める、価値の判らない「投資家」や「資産家」に落札される事よりも、彼自身の「美意識」や「鑑識眼」を頼りに買い集めた逸品の価値を認め、何よりも「愛(め)で」てくれる「同好の士」の手元に収まってくれる事を、太田多吉自身も望んでいたのかもしれない、と・・。
 
そんな風に想うと、この時の「無償譲渡」という彼の行動を、私も理解する事が出来るのである。
 
 
因みにこの「赤楽茶碗」を目の前にした魯山人は、飽きもせず自らの掌ろの中に留め続け、ずっと手から離さず「愛(いとお)し」み、しきりに魅入って時を忘れていた、というのである。(前掲書234ページ及び『魯山人陶説199~202ページ』)
 
太田多吉のこの時の心中をおもんばかると、将に先の「大阪だかの趣味人」と同様の思いだったかもしれない、と私の中のシナプスが繋がったのである。
 
 
いずれにせよ初対面の魯山人のこの時の反応、即ち太田多吉が時間を掛け、多額の資産を投じて収集した「茶道具」や「什器備品」類に対する、魯山人の評価及び鑑識眼や「加賀懐石料理」への、彼の「遠慮ない批評や評価」を太田多吉は好ましく思ったようである。
 
この時の出遭いがきっかけと成り、魯山人は「赤楽茶碗」の無償譲渡を始め、「加賀懐石料理」の手ほどきを、太田多吉から受けることに成ったのだ、という。
 
 
山田和氏の『知られざる魯山人』に依れば、この時山の尾の主人太田多吉は魯山人を自ら調理場に案内し、
「これからは客でのうて、好きなときに来て料理を覚えられ」と金沢弁で言われ(同書241ページ)、以後「山の尾」調理場への出入り自由、という事に成った様である。
 
以来魯山人は、調理場の「加賀懐石料理」の名人たちを師と仰ぎ、学び教わりながら本格的な「加賀懐石料理」の修業を積むことが出来たのであった。
 
 
元々料理が好きで、料理を通じて人を喜ばすことが何よりも大きな喜びであった魯山人は京都の内貴清兵衛の下で鍛えられ、金沢「山の尾」の調理場で名人と言われたその道の達人たちから学ぶことで、「加賀懐石料理」のクオリティの高い技や手法・知識を身につけることが出来たわけである。
 
そしてこの時の経験が、後の「星ヶ岡茶寮」の料理に敷衍(ふえん)し繋がって行く事に成るのであった。
 
 
 
 
         
                 料亭「山の尾」
 
 
 
因みに魯山人が太田多吉から学んだことは、「金沢の懐石料理」だけではなかった。
「茶人」としての素養や経験も豊かだった多吉から魯山人が学んだのは、「器」や「掛け軸」「花活け」といった、「茶道」の空間で用いられる「什器」「備品」「飾り物」といった、様々な道具類の価値を知り「鑑識眼」を磨き、それらを活用する術(すべ)もまた教わり修得したのであった。
 
それも加賀・能登・越中という加賀百万石の領国や北陸で4百年近く育まれ、受け継がれて来た、伝統ある幅広い茶道に関わる「調度品」類に対する知識であり、「鑑識眼」であり「美意識」であった。
 
 
それに加え、卯辰山の自然環境をたくみに取り込み、活用する「樹木のしつらい」や「作庭術」といったものも含まれていたに違いない、と「山の尾周辺」を観て私は想像した。
 
「大茶人」太田多吉が、東茶屋街近くの小高い丘の中腹に自ら創造して、創り上げた料亭は、太田多吉の「美意識」や「茶の世界」に対する考え方がギュッと詰まっている「太田多吉の世界」そのものだっただろう、と私は想っている。
 
この卯辰山の中腹という場所を撰んだことそれ自体が、緑豊かな自然環境を借景として取り込み、時に眼下に広がる眺望すらも借景とした、彼のセンスや美意識が強く反映している、と私には思えるからである。
 
 
真の茶人とは、「茶室の中の世界」だけではなく「茶室に至る空間」や「茶室を取り囲む環境」をも取り込み、演出するものだと私はそう理解している。
 
日本の茶道の奥が深いのは、単に茶室の中だけで繰り広げられる「茶事」に留まらず、それを取り囲む限定的な「空間」そのものを取り込んで、主催者である茶の亭主の「美意識」を表現し「世界観を演出」している点にある、と私は考えている。
 
従って「卯辰山」の中腹をあえて撰び、そこに「茶懐石」の料亭「山の尾」を開設開業し、自ら三十年以上の時間を掛けてじっくり創り上げて来た、プロデューサー太田多吉の「美意識」や「茶の道の世界観」が凝縮され、具体的に表現されていたのが「卯辰山の”料亭山の尾”」という空間であっただろう、と私は想っているのである。
 
 
更に加えて、魯山人が太田多吉から学び修得したものとして忘れてならないのは、多吉自らが収集し既に社会的な評価の定まっていた、本阿弥光悦や藤原定家・尾形乾山・千利休・狩野探幽作といった名品の「掛け軸」や「茶道具」類に加え、自らの美意識に依る「オリジナル」の什器や茶道具を、彼の眼鏡にかなった茶道具作家や撰び抜いた職人たちに作らせて来た、「創造する力」である。
 
太田多吉は出入りの輪島塗の職人や大樋焼・九谷焼などの陶芸作家達に、彼自身が発案しデザインし、制作アドバイスを行った椀物や陶磁器類を、「山の尾のオリジナルブランド」として創らせ、自らの料亭でも使っていたのであった。
 
 
魯山人は「山の尾」に出入りする過程で、太田多吉のこの「加賀懐石料理」「道具類」「自然環境」を通じて、「茶の世界」を創り上げる総合プロデューサーであり、かつ「茶道具類」や什器備品のデザイナーでもあった、彼の所業を傍らで観ていて、大いに学び感ずる所があったのだと想う。
 
後に彼自身が北鎌倉の居住地内に、自然環境を借景とし計算し尽くした「世界」を創り、「窯場」を築き「星岡窯」として多くの陶磁器類を、自らデザインし主宰して創るようになったきっかけは、この時の「山の尾」に於て太田多吉から学び修得し、影響を受けたからだろうと、私には想われるからだ。
 
 
太田多吉にとってそんな風にして成長して行った魯山人は、将に「出藍の誉れ」とでもいうべき存在だったのではないか・・。 
その意味において北大路魯山人は、将に山の尾太田多吉の「愛弟子」であり「後継者」と成っていたのかもしれない。
 
或いは太田多吉は北大路魯山人が北陸金沢を遠く離れた、東京や鎌倉の地に「星岡茶寮」を創り、「星岡窯」を創るようになったことを知り、愛弟子の成長を誇らしくも想い、内心大いに喜んでいたのかもしれない。
 
 
30歳近い歳の差の「息子」とも言うべき年齢の魯山人の、成長ぶりや成功ぶりを知った太田多吉は、子供がいなかったこともあり魯山人を愛弟子であると思ったと共に、我が子の様にその成長を悦んだのではなかったか・・。
 
一方父親を知らず、父親の愛をも知らないまま育った魯山人にとっても、太田多吉は師匠であると共に、父親とでもいうべき存在だったのかもしれない。
 
太田多吉は名伯楽として、魯山人が書家や篆刻家という「職人」から、「芸術家」にと成長し脱皮するプロセスを導き、彼の人生の後半生に大きな影響を与えてくれた、将に”有り難き”存在だったのである。
 
 
出会いから16年後の、昭和7年9月に79歳の生涯を閉じた太田多吉の訃報を知った49歳の魯山人は、彼の発行していた雑誌『星岡23号』に下記の様な追悼文を載せている。
 
私は太田翁により今日まで得ました益徳は尋常一様のものではありません。実に山よりも高き恩、海よりも深き恵を得たのであります。
私は今日實に親を失ひました思ひが致しまして、朝来自づと涙のにじみ出づるを留め禁じません次第であります(同書28ページ「茶道を語る」)
 
という心の叫びを伴った「追悼文」で、恩師太田多吉に対する彼の強い想いや心情を吐露している。
「傲岸不遜」で「他者を敬う事の少ない」人物と評されていた北大路魯山人が、である。
 
北大路魯山人にとって、太田多吉という存在はこのように大きな存在だったのであった。
 
 
 
 
              
                本阿弥光悦「赤楽茶碗」
 
 
 
 
 
 

 金沢おでん

 
 
卯辰山のかつて太田多吉の経営していた「料亭山の尾」跡から坂を下り、東茶屋街を通り抜け「浅野川」を渡り、対岸の「橋場町」に辿り着いた私は、次の目的地である「石川県立図書館」に向かってバスに乗った。
 
バスに乗り10分ほどで着いた県立図書館の在る「小立野エリア」は、金沢城の南南東に位置し中心部を離れた郊外で、高校や大学などが点在する「文教地区」の一画に在った。
「金沢大学」や「金沢美術工芸大学」等のメインキャンパスもこのエリアに在る。
 
 
「県立図書館」もそうであるが、石川県立の公共施設は総じて所謂「箱型」のものが少なく、「個性的」なデザインや確固たる設計思想に基ずく施設が多い。
 
「JR金沢駅東口」の、巨大な木材質のキャノピー風天蓋もそうであるが「県立21世紀美術館」や、この「県立図書館」もそうである。
 
県立図書館の場合は外観よりも内部構造に個性や特徴が強く感じられる。
木材をふんだんに使った「擂り鉢型」の構造は、中央低層部を大きくアリーナ状に確保し、その擂り鉢の底を見下ろす様に、雛壇型の書架コーナーが配置されており、それらがバウムクーヘン状に構成されていて、なかなかユニークである。
 
 
 
 
         
 
 
 
 
その一画に在るガラス面の多い昇降機を使って、私は3階に在る「レファレンス(相談)カウンター」を目指した。
「明治・大正・昭和初期」の「太田多吉」や「細野燕台」に関わる資料や「北大路魯山人と金沢」に繋がる、何らかの資料や情報が得られないだろうかと、そう期待してのレファレンス利用である。
 
取り分け「太田多吉」に対しての期待は大きかった。
「細野燕台」に関しては昨日の金沢市立図書館で、ある程度の資料類は確保できたが太田多吉に関する資料類は、市立図書館では殆ど得られなったからである。
 
 
「レファレンス」は昼に入っていたこともあって幸い利用者が殆ど居なく、スムーズに相談する事が出来た。ラッキーだった。
50代と想われるベテランの担当者は、私の相談の意図を詳しく聴きとり、「太田多吉」や「料亭山の尾」「彼と魯山人との関わり」等に関する資料類を探すために、多少時間が欲しいと言ってくれた。
 
そのやり取りを通じてキットこの人はじっくり調べ、時間を掛けて探してくれようとしているのだな、という好い心証を得た私は、一時間後をめどに改めてこのコーナーに来ることを約束して、昼食をとることにした。時刻は13時を既に廻っていた。
 
 
昼食はこの図書館入口の一画に在った「カフェ」で摂ることとした。
図書館の周辺は、区画整理地の様な場所で、周辺にはまだ市街地は形成されておらず、大きな公共施設の建設や基盤整備を行っている段階で、飲食店の在りそうな市街地にはバス通りまで戻らなくてはならなかった。
往復で15・6分は掛かるだろうと予測できたので、それはやめた。
 
 
「カフェ」はこじゃれた感じのオープンスペースの富んだ場所で、店外にテラス席もしっかり確保され、それがガラス越しに確認出来た。
図書館の内装全体がそうであったように、このカフェもまた木材質がふんだんに使われていた、木のぬくもり感が感じられる食事兼休憩のスペースであった。
 
小さな子供連れのファミリー客が多く、店のターゲットとフィットしていたように私には想われた。
店内には子供たちが自由に使えそうなスペースもしっかり確保されており、実際多くの子供たちが利用していた。
 
メニューも将に子連れファミリー向けが充実していて、「ハンバーグ類」や「カレー類」「パンケーキ」等が中心で、「スムージー類」「ソフトドリンク類」といったデザートもそれなりに充実していた。
ターゲットに向けた絞り込みが良くできていたし、実際の来店客も将にその通りだった。
 
 
私の好みとは異なるが、この図書館全体が期待するターゲット層に対しては、的確な休息兼飲食のスペースであり、空間構成や内装を含めた「図書館ポリシー」にはフィットしていて、ターゲット層には歓迎されそうな的確なメニュー構成であり空間であると想われた。全体的には好い「県立図書館の飲食コーナー」だと、好感が持てた。
 
 
私は早速レジに並び、野菜たっぷりでベーコンとチーズを挟んだパンズに、ドリンクやミニサラダが付いていた「セット」を注文した。
 
室内は子供たちの賑やかな声が響いていたので、屋外のテラス席に移って食事した。
珈琲は言うまでもなく、旨い!と言えるものではなかったが、ここではそれは期待していなかったし、メインのパンズがそれなりに、だったので納得感はあった。
 
天気も良く雰囲気もマァマァだったので、私はテラス席で食事をし時間を潰した。
そうやってユッタリとした時間を過ごし昼食を終え、時間を確認しながら珈琲を飲み終え、約束の時間には3階のレファレンスコーナーに戻った。
 
 
私が戻ると、レファレンスカウンターには何冊かの図書類が積まれていた。
先ほどの担当者とは違う相談員が居り、彼女に来意を告げると「話は聞いている」という事で、スムーズに対応してくれた。
 
先ほどの相談員は「昼食で交代した」と教えてくれたが、説明を受けた資料や図書は私の依頼に沿うもので、問題は無かった。
 
 
用意してあった雑誌や資料は、金沢を初めとした加賀や能登/越中/越前まで含めた北陸三県の、「茶道」や「茶人」「茶室」に関するものが多く、その中には「太田多吉」や「細野燕台」に関する記事が幾つか載っている事が、確認出来た。
 
昨日喫茶店で遭った「白髭の甲田」さんが言っていたように、金沢を初めとした北陸三県の「茶の世界」に関する資料や情報は、県立図書館が充実していた。まさに彼のアドバイス通りであった。
 
 
中でも私の目を引いたのは『山の尾翁遺愛品入札目録』と、魯山人が自ら発行した北鎌倉星岡窯の機関誌とでもいうべき数十冊の『星岡』、及び『山の尾売却に関する新聞記事』のマイクロフィルムコピーであった。
 
『山の尾翁遺愛品入札目録』は、昭和8年11月に「金澤美術俱樂部」が行った、太田多吉の遺品の「売り立て」の際に出された『遺品目録』で、昭和7年に亡くなった太田多吉の愛蔵品を、翌年愛好家に「売り立て」る催しに使用されたものであった。
 
その数は目録に記載された主たるモノだけでも200点以上あり、「其他數百點省略之」と書かれた、銘や名前が記載されていないモノを含めると、4・5百点はその時の「売り立て」に出品されたのではないか、と推察することが出来た。
改めて太田多吉の「銘品」収集量の多さに、驚かされる。
 
 
その中には「(狩野)探幽瀧見観音」「(松平)不昧公一行」「利休茶杓」といった、一見して貴重な銘品/逸品と判る茶道具類が多く含まれていた。
 
『星岡』に関しては、魯山人本などに度々登場する魯山人発行の定期刊行誌であったが、その現物を目にする機会がこれまで無かったので、この数十冊の雑誌との遭遇に私はとても喜んだ。
 
又「料亭山の尾売却のいきさつ」を新聞記事として伝えたのは、平成5年12月26日に発行された『北陸中日新聞』であったが、この情報も私にとっては希少価値であった。
 
 
太田多吉が亡くなって90年以上経った今日、昭和初期のこの料亭の運命を記載したこの記事を、「マイクロフィルム」のアーカイブ記事から見い出してくれた、レファレンス職員の労力に、私は感動し感謝した。
 
こうやって私の目の前に揃えられた、稀少で得難い資料や図書を膨大な貯蔵書や資料の中から、相談員たちが探し出し、見い出してくれた事に私は感謝し、嬉しくて彼女に何度も何度もお礼を言った。
 
 
その上でこれらの資料や雑誌に改めて目を通した。
それら資料類の中で、私にとって役に立ちそうな個所をpickupして、いつもの様にコピーする事にした。
 
 
一連の作業を終えて、この「石川県立図書館」において「太田多吉」や「料亭山の尾」、更には「北大路魯山人」に関する貴重な資料が得られた事に、私は満足していた。
 
足取りも軽く私は「県立図書館」を出て、バス通りに戻ってから「金沢駅行き」のバスに乗り、駅前のホテルにと向かって行った。
 
 
 
 
             
          金沢駅東口の巨大な木製キャノピー様モニュメント
 
 
 
ホテルで休息をとって遅い昼寝などを済ませてから、ザッと県立図書館でゲットしたコピー類に目を通し、18時半ごろにはホテルを出た。
その足で散策を兼ねて昨日「白髭の甲田」さんと約束した、近江町市場近くの「金沢おでん」の待ち合わせ場所にと向かった。
 
待ち合わせの場所は「近江町市場」を更に進んだ、「尾張町」に入ってすぐの「尾張町老舗交流館」で、交通量の多い「百万石通り」の一画に在る「公共施設」であった。
その名前の通り、かつてこの辺りに多く在ったであろう「尾張町の老舗跡」を修復した施設は、外観からは昭和初期にでも建てられたと想われる、古い商店を再利用した施設と想われだ。
 
 
その尾張町界隈は4車線道路の両側に商業施設が張り付いている商業ゾーンであったが、駅周辺や近江町周辺に比べると繁華性が劣り、派手さや賑やかさが少なくなっていた寂し気なエリアであった。
 
この道は午前中に金沢駅前から「東茶屋街」に向かうバスの通り路でもあって、日中の明るい時刻にバスの中から見た時はあまり感じてなかったが、こうやって暗くなって街灯だけで改めて観ると、街区には街としての勢いを感じることが殆ど無かった。
 
 
約束の5分ほど前に「尾張町老舗交流館」前に着いた私は、既に営業を終えていた建物前で、しばらく夜の「尾張町」界隈をぼんやりと眺めて、時間を潰した。
 
19時を少し過ぎると「白髭の甲田さん」がやって来た。
軽く挨拶をすると私達は歩道を渡り、反対側の商業ゾーンの一画を左折し、浅野川に向かって歩き出した。
 
道すがら甲田さんが私に聞いてきた。
「県立図書館での成果は、どないやったがです?」
「ええ、ありがとうございます。おかげさまで良い資料に巡り合えました・・。レファレンスの相談員さんが、頑張って頂けたお陰で・・」私がそう言うと、
 
「レファレンスって、何でしたやろ・・」と彼が聞いてきた。
「あ、まぁ早い話が資料や蔵書なんかを探す時に相談に乗ってくれる、図書館のベテラン案内人というか、詳しい人たちですね・・」私が応えた。
「最近はカタカナ言葉が多なりまして、難儀しますゎ・・」と甲田さんが歩きながら、ボソッと呟いた。
 
「まぁ、確かに・・。でもこれだけ世の中が海外との接点が増えてくると、仕方ないですかね・・」私が呟いた。
「それにしてもね・・、県民や市民相手の公共施設やったらね・・」甲田さんは、横文字の多い世間の風潮に、ある種の戸惑いと共に憤りも感じているのかもしれなかった。
 
 
 
道なりに更に進むと、左手に神社の鳥居が見えた。
更に歩いて行くと路地の先に、店の名を冠した「照明行灯(あんどん)」が見えた。
その行灯に屋号はあったが、「おでん」の文字は書いてなかった。
しかしここが目指す「金沢おでん」の店の様で、甲田さんは迷わず店の赤暖簾に向かってすたすた歩いた。
 
私が甲田さんに続いて年季の入った赤暖簾を潜ると、カウンター越しにすぐに大きな「おでん鍋」が現れ、店は70代前後と想われる女性二人が切り盛りしていた。
 
「まいどぉ、アラいらっしゃい!」の掛け声とともに、甲田さんに向かって
「待っておいでるよ・・」とカウンター席の奥を目で追って、言った。
 
そこには和服に黒縁の眼鏡を架けた、頭の毛がまばら気味な上品で恰幅の良い70代後半と思しき男性が居り、手酌でおでんをつついていた。
 
店はコンパクトで、カウンター席で6・7人、小ぢんまりした二人掛けテーブルが二つ在るだけで、10人も入れば店は満席か、と思える程度の大きさであった。
 
 
甲田さんは、私のことを
「こちらが昨日言うたが、柳沢さんです。
魯山人の研究家で細野燕台や太田多吉の事を調べに、千葉からおいでた・・」と紹介してくれた。
私がぺこりと挨拶をすると、
「こちらが昨日言うた、金沢の茶事に詳しい竹生(たけふ)さんです」と私に、丸顔で恰幅の良い男性を紹介してくれた。
 
「昨日は市立図書館で燕台翁の事を調べに行かれ、今日は県立図書館に山の尾の多吉翁の事を調べてきなさった、言うことです・・」甲田さんは続けた。
 
軽くビールで乾杯し、おでんを3・4品頼んだ後、竹生(たけふ)さんが早速、
「魯山人の研究の一環として、燕台翁や多吉翁のことを調べられてるが、ですか?」と、ややだみ声ぎみの個性的な声で聞いてきた。
 
 
「あ、はいその通りです。北大路魯山人について色々調べておりまして、京都の内貴清兵衛や日本画家の冨田渓仙までは辿り着く事が出来たんですが、そこから先の、細野燕台や魯山人が父と慕ったという、山の尾の太田多吉に関しては情報も少なく、詳しくは知らなかったものですから・・。こうやって金沢までやって来たところです・・」私がかいつまんで応えた。
 
「それはそれは・・。でもまぁ内貴清兵衛については調べておられたが、ですな・・」竹生さんは続けた。
「はい、おかげさまで・・」私が応えた。
「金沢までおいでて、成果はあったがですか?」竹生さんが言った。
「まぁ、それなりに、ですかね・・」
「県立図書館では、どないやったがですか?」甲田さんが私に聞いてきた。
 
「先ほども申しましたが、幾つか良い資料をゲット出来ました」
「具体的にはどんなが・・」甲田さんが短く聞いてきた。
「そうですね、太田多吉が亡くなった翌年売り立てに出された数百点の『遺愛品の目録』とか、魯山人が発行していた機関誌とでもいう数十冊の『星岡』とかですかね・・」私はそう応えてビールをグッと飲んだ。
 
「多吉翁については如何でしたか?」竹生さんが標準語で聞いてきた。
「東京では得られなかった資料が、それなりに得られたと想っています。
昨日の細野燕台に関してもですが・・」私は応えた。
 
「柳沢さんは、いつごろから魯山人に興味を持つようになったがですか?
陶磁器類にも興味があったが、らしい様ですが・・」竹生さんは、チラリと甲田さんを見ながら聞いてきた。
 
 
 
            
 
 
 
 
「私は30歳前後から、北大路魯山人という人物に興味を抱いてまして、陶磁器についてもその頃から何となく、でしたかね。
魯山人から入って岡倉天心や利休を経て桑田忠親という、茶道の研究家の本を読んでから、ますます茶道にも関心を持つように成りまして・・」私がそう応えると、竹生さんは驚いた様な目で私を見て、
 
「桑田忠親先生を、ご存知なんですか?」と、また標準語で聞いてきた。
「まぁ、多少ですが・・。利休や古田織部に関する茶道の本を彼が書いてまして、それがキッカケで・・」私が言った。
 
 
「イヤ実は私が茶道に関心を持つようになったのは、将に桑田先生の著書に出遭ったがキッカケでして・・。
女房と付き合い始めた頃、彼女を理解するために茶道の事をいろいろとね・・」竹生さんが饒舌になった。今度は標準語であった。
 
私は竹生さんが金沢弁と標準語を使い分けてることに気が付いた。
私自身もそうだが大阪支店に長く居た事もあって、標準語と関西弁を話す相手によって使い別けることがあった。
これは自然に出てしまうのであるが、話す相手によって私の中で「言語の自動変換」が行われているのだと、自分では理解している。
 
そして竹生さんが標準語と金沢弁を使い分けるのを聞いて、彼もまた何年か東京近辺で生活していたのかもしれない、と推察した。
 
 
「それは、初耳でしたな・・」甲田さんがニヤニヤしながら呟いた。
「儂も滅多に言わんが・・」竹生さんもニヤリとして言った。
「確か奥さんとは高校の先生してはった時に知り合ったが、言ってませんやったですか・・」甲田さんが更に聞いてきた。
 
「そんな事までしゃべっとったかいな・・」竹生さんは、ばつが悪そうにそう言った。
「確か教諭仲間の後輩だったとか・・」甲田さんが続けた。
「なかなか聞き捨てならない話ですねぇ、先生・・」女将がニヤニヤしながらそう言って、おでんを盛った大皿を差し出した。
 
 
赤絵の大皿には、大きな丸いお麩や大き目の巾着が在り、練りモノ、糸コン、バイ貝といった品がそれぞれ複数個あり、牛スジと思われる肉の塊も一角を占めていた。
 
中でも私の頼んだ大根は実に大きな厚切りで、存在感が強かった。
この厚さの大根に味を染み渡らせるのには、一体どうやってやるんだろう・・。などと私はその厚切り大根を見ながら想いを巡らせた。
 
 
「甲田さんもご存知なように、うちのとは高校の教諭時代に知り合っての。
彼女の実家が茶道具を扱う老舗やったさかい、話を合わすためにな、まぁ儂も努力したってわけや・・」竹生さんが言った。
「将を射んとすれば馬を射よ、ですかな・・」と甲田さんがニヤリと言った。
「という事は先生がホの字だったわけゃ・・」女将もニヤニヤしながら、相の手を入れた。
 
「エヘン、そろそろ話を戻してもよいか?」竹生さんはそう照れたように言い、話題を戻して、続けた。
「儂が茶道にのめり込む様に成ったがは、女房の実家を意識して桑田先生の茶道に関する著書を何冊か読んだがきっかけやったで、それは間違いない・・」とすんなり認めた。
 
「桑田先生は日本茶道の歴史研究の第一人者やったでな、多くの利休や古田織部に関する著書を書かれておったがや・・」と続けた。
「確か学習院大で、教鞭をとってられたんでしたか・・」私が桑田忠親についての記憶を手繰り寄せ、確認した。
「そのよう、でしたな。で、後に東大の『史料編纂所』の教授にもなったはずです・・」竹生(たけふ)さんが続けた。
 
 
「私は桑田忠親の著書を何冊か読んで、日本茶道の本質が多少は理解できた気がしました・・」私がそんな風に言うと、竹生さんは眼鏡の奥から私をジッと見て、目で続きを促した。
「アはい、その本質というのはですね、相手に対する”気遣い”や”おもてなしの心”ではないかと・・」私は言った。
 
「ん?どっかで聞いたような・・」甲田さんはそう言ってニヤリとした。
「オリンピック招致の決め台詞ですか・・?
確かに文言は同じですがその意味合いは、ちょっと違うと思いますょ」私もニヤリとしながら言った。
 
「たしか桑田忠親の古田織部に関する本に書かれていたか、と記憶してますが、
利休亡き後、その後継者として一目置かれる立場にいた織部が、その道の第一人者として扱われ、同じ日に何回目かの茶会に招待された時に、その最後の方の茶会で起きた時のエピソードなんですがね・・」私は甲田さんを見て、話を続けた。
 
 
「その茶会の亭主は織部を接待するにあたり、何日も前から準備しておいた”ご馳走”類を敢えて出さないで、軽くサラッと食べられる料理に変更して供した、といった様な逸話が書かれてましてね・・」私は甲田さんにそう言って、竹生さんを見てから
「その亭主の気遣いに、古田織部はたいそう歓び、亭主の機転の利いた対応に満足した、という事でした。
 
帰りに不審に思った従者が尋ねたら、織部は言ったそうです
『儂が珍味や懐石といったご馳走攻めにあって辟易しているのを、彼は察してくれてそれまで何日もかけて準備していた馳走を敢えて控え、胃もたれのしない料理を出してくれたわけじゃ。
どんな珍味や馳走よりもその気遣いが何よりも儂には嬉しかったのじゃ・・』と言ったというのです」私はもう一度甲田さんをじっくり見てから、
 
「この招かれた客の立場に立っての臨機応変の『気遣い』こそが、茶の心の神髄であり、接待の本質であると、私はそんな風に受け取ったんです。
 
『馳走』という言葉が示す様に、お客をもてなすために亭主が走り回るのが茶会の本来あるべき姿、なんでしょうがその”馳走”が逆にお客にとってウンザリするのなら、敢えてその馳走を捨てる、と言った臨機応変さや
客の立場に立ってその人にとって”佳い事”をする、という気遣いこそ、真の”おもてなしの心”だと私は想うようになったんです・・」と私はそう言った。
 
傍らでジッと聞いていた竹生さんは、何度か頷いていた。
私が話し終えると、彼が手酌していた酒を私に注ごうとしたので、カウンターの籠に積まれていた「ぐい吞み」を、私はサッと取り竹生さんの酒を受けた。
竹生さんの眼は柔らかく笑っていた。
 
 
 
          
 
 
 
 
「ところで柳沢さん、燕台翁や多吉翁について何か私にお尋ねしたいことがある様でしたら、遠慮なく聞いてください。知ってる事でしたらお話ししますよ・・」竹生さんが柔らかな表情でそう言った。
 
「ありがとうございます。では遠慮なく・・」私はお礼を言ってから、
「竹生さんの眼から見て、細野燕台や太田多吉という人物は、どんなふうに映っているんですか?そのぉ、金沢の茶人としてですが・・」と続けた。
 
「金沢の茶界への影響、とかという事でしょうか・・」竹生さんが私に確認した。
「ま、そいうことでも結構です」私がそう言うと、彼は肯いてからぐい吞みを飲み干すとゆっくり話し始めた。私は彼のぐい吞みに酒を注いだ。
 
 
「そうですね、多吉翁と燕台翁では茶人としての力量や評判に、そんなに大きな違いはなかったがやろ、想ってます。
二人とも明治末期から大正・昭和初期に掛けて金沢の茶界を代表する茶人やったし・・。
 
ただ二人のとった行動や加賀の茶の世界に携わる人たちへの影響力、という点では大きく異なっていた、と儂は考えています.
たぶんその点に関しては多くの金沢で茶事に関わる人も同じ様に考えているのではないか、と儂は想ってます」竹生さんは確信をもってそう言った。
 
 
「ひょっとして多吉翁は個人的な趣味の世界に走って、燕台翁はより金沢の茶界に大きく影響を与えた、って事ですか?」私がそんなふうに感じていた事を言うと、彼は肯いて、
「その通りですね・・。今日行かれた県立図書館で調べられたがいう、『山の尾翁遺愛』の目録でも明らかな様に、多吉翁の茶器類の収集力は相当なものでした」竹生さんは感心する様にそう言った。
 
「実際のところ彼に関する逸話は女房の実家の古美術店でも、長い間語り草になっていたようでしたから・・」そう付け加えた。
「やはり彼は何よりも、自分の美意識や自分の世界を大事にして来たんですね・・」私は今日卯辰山の「山の尾跡地」を訪ねた時に感じた印象を思い出して、そう言った。
 
 
「そうだと儂は想ってます。
それに対して燕台翁は人間性ももちろんあるんやろ思いますが、自分が蒐集に走るというより、人と人をつなげる役割や、世の中というか世間に接点を求め、世間と関わり続けて来た人物やったと、儂は想っとるがです・・」竹生さんが言った。
 
「それは燕台が茶器や古美術の商売をやってたがからや、なかったですか・・」甲田さんがボソッと呟いた。
 
 
「たしかにそうなんやろうけどな、そればっかりでもないように儂は想っとる。
実際のところ当時金沢には、100軒近くの茶事専門の古美術店が在ったらしいが、あの当時『金澤美術俱楽部』を立ち上げたり、
後に三越の美術部なんぞとタイアップして『加賀の十職』いうて、加賀前田藩に伝わる茶道具に関わる十職のブランド名を、世に広めるために奔走する様な人物は、そうは居らんかったがや・・」
竹生さんは甲田さんに当時のことを思い起こさせる様に、そう言った、
 
「やはり彼の人徳や人間性だったと・・。そう考えてられるんですね竹生さんは・・」私がそう言うと、彼は肯きながら、
「そうやと思います。
そしてそれには彼が陽明学を学んでいたことも、少なからず影響してるんやなかろうかと、儂は想うとるんです・・」竹生さんはそう言って、自ら徳利に手を伸ばし、ぐい吞みに手酌で酒を注いだ。
 
「陽明学、ですか・・。昔、学校で習った様な・・」私は記憶の糸を辿りながらそう呟いた。
「中世中国の王陽明という思想家が唱えた考えで、『実践のための学問というか、『世の中の役に立つための学問でないと意味がない、という様な考えを唱えた行動派の学者ですな・・」竹生さんはそう言って、私達に説明してくれた。
 
「江戸時代晩年期に起きた『大塩平八郎の乱』は、覚えてられますか?」竹生さんはそう言って私の眼を見た。
「あ、思い出しました!」私はやっと、大塩平八郎と陽明学の事を思い出した。
 
 
彼の起こした「乱」というか武装蜂起は、江戸時代晩年の天保の大飢饉がキッカケで大阪で起きた事件であった。
豪商たちのコメ買い占めなどによって引き起こされた、物価高騰に庶民が苦しんでいる時、殆ど無策でそのまま放置していた大阪城代や町奉行所に抗議して、『元与力、大塩平八郎』が彼の私塾の門弟達と一緒に、米の買い占めを引き起こした豪商などを襲い、焼き討ちした「武装蜂起」の事だった。
 
その中心勢力と成った彼の私塾が、「陽明学」を学ぶ学問所だったのだ。
大塩平八郎の行動の根幹にあったのがその「陽明学」で、やはり座学に留まるのではなく「物価高騰で困窮している庶民のため」に、無為無策な幕府の為政者に対し「世の中や困窮者のため」に行動を起こすべきだと説き、彼らが身をもって実践したその行動原理となったのが「陽明学」であったのだ。
 
 
「さすが日本史の先生だっちゃ」甲田さんが呟いた。
「なるほど・・。細野燕台の行動原理には『陽明学』が根底に流れていたとおっしゃるんですね・・。
だから自分の為はもちろんでしょうが、金沢の茶界にとって有益となると彼が思った事に時間を割き、エネルギーを費やしたと・・」私はそう言いながら、ようやく細野燕台の人と成りが理解できた気がした。
 
「そういう想いや行動原理があったから、燕台翁は『金澤美術俱楽部』の創設や『加賀十職』の百貨店催事に身を投じ、奔走したがやと、儂は考えてるんや」竹生さんはそう言って、私を見、甲田さんを見た。
「なるほどな」、と私は思った。竹生さんの説明には説得力があった。
 
 
「因みに『加賀の十職』というのはやっぱり、『千家十職』を意識したものですか?」と私が尋ねると、竹生さんは肯きながら、
 
「ま、そう言うことでしょうな・・。具体的には
『九谷焼』『大樋焼』『輪島塗』『加賀友禅』『金箔細工』と言った工芸品を初めとした、加賀前田藩以降400年近く伝わる茶道具類や伝統工芸を、三越などでそんな風に称してアピールする事で、ブランド化したんでしょうな・・」と説明してくれた。
 
「なるほどですね・・、そういうことでしたか」私は竹生さんのその説明が、ストンと腑に落ちて、理解することができた。
 
「そういったブランド化が成功したから、今でも沢山の伝統工芸に携わる職人達や、甲田君の様な商売人が生活する事が出来てるわけやな・・。
せやさかい君らはもっと燕台翁に、感謝せなあかんがやぞ・・」竹生さんは真顔でそう言って、甲田さんに諭した。
 
 
 
       
 
 
 
私は竹生さんの話を聞いていて、「太田多吉」と「細野燕台」との違いを良く理解する事が出来た。
そして二人の金沢の大茶人の違いの根底にあるものが、「茶道具の蒐集家」と加賀前田藩の時代から連綿と続く、「加賀の伝統工芸への愛着」や「想い」の違いがあることに気づいた。
 
その差が、同じ茶道具を目の前にして「個人の趣味嗜好」と「加賀伝統工芸界のブランド化」に向かった、二人の茶人の違いだったのだ、と理解する事ができた
そしてその違いの源に在るのが竹生さんが言うように、細野燕台が「陽明学」を学び実践したことが、遠因だったのではないかという事も判った。
 
と同時に、北大路魯山人にとっての二人の位置づけの違いにも納得がいくことが出来た。
 
魯山人とって「太田多吉」は、やはり父親のような存在であり、個人としての「料亭の主人」であり「銘品茶器類の蒐集家」として、自分の美意識や世界観を持っている完成された茶人で、尊敬する人物であった。
 
或る意味太田多吉という人物は一人の人間として自分の先を行く、自分の目指す道の延長線上に位置付けられる、魯山人にとっては「先達」の様な存在ではなかっただろうか、と想った。
 
 
それに対し「細野燕台」の場合は自分とは違うタイプの人物で、「加賀の伝統工芸全体の事を考える」人間で、ある意味「利他的な人物」であった。
自分自身がかつて燕台にしてもらったように、若くて才能のある人物を身近に置き、育てる事に奔走し援助するタイプの人間であり、庇護者でもあった。内貴清兵衛に似ていた。
 
そしてその様な人物であった燕台は、魯山人が持って無いものを有している人物で、自分には出来ない事が出来る人物でもあった。
従って燕台は、これからの魯山人自身の人間的な成長や芸術面での成長に関しても、有益な人物であったと想われたし、「燕台とは離れ難い」と魯山人は感じていたのではなかったか、と私は妄想した。
 
 
であるからこそ細野燕台に金沢を出て北鎌倉に来ることを促し、いつまでも自分の傍に置いておきたいと思ったのではなかったか。
少なくとも魯山人にとって、細野燕台とはそういった人物だったのではなかったか、と私は想いが至った。
竹生さんから聞いた二人の違いを自分なりに解釈すると、そんな風に理解する事ができた。
 
そしてなぜ魯山人は「細野燕台」を北鎌倉に呼び寄せ、「太田多吉」はそうしなかったのかについても、私なりに理解する事が出来た。
 
 
「いやぁ、どうもありがとうございました。勉強になります・・。
おかげさまで細野燕台と太田多吉の事を、私なりによぉく理解する事が出来ました。誠にありがとうございます・・」
私は大いなる感謝の気持ちを込めて、竹生さんにお礼を言って握手を求めた。
 
そして竹生さんの吞んでいる銘柄の地酒を追加注文した。
私は嬉しかったのである。
竹生さんに感謝の気持ちを伝え、その気持ちをどうにかして現わしたかったのだ。
 
その日の私は、大いに満足であった。
金沢に来てよかった!と心の底から喜んだのであった。
 
 
 
  
 

  越後出雲崎、良寛和尚

 
 
五月中旬のGWが明けて世の中が落ち着き始めた頃、季節が変り始める梅雨までの気候の良い時節を選んで、私は良寛和尚に関する情報を求めて長岡の街にやって来た。
 
新幹線駅には昼過ぎに着き、駅近くのビジネスホテルにチェックインを済ませた。
それからホテル近くの和食の店で軽く昼食を済ませると、その足で「市立中央図書館」に向かった。
距離的には駅東側から1.5㎞近く東南東に目指す図書館は在り、20分近く歩く事に成ったのだが、食後の「腹ごなし」と「街並拝見」という事で、私はあえて徒歩で向かったのであった。
 
 
長岡近郊は日本海とは直線で20㎞くらいしか離れていない事もあって、冬季は多くの雪に見舞われる豪雪地帯である。
例年1月から2月に掛けての降雪シーズンには、道路や鉄道が大雪に依る雪害で広域道路網が遮断されたり、列車の運行が止められる事もしばしばあることを、私は報道番組等で知っていた。
 
そのような事を頭に浮かべながら、私は「市立中央図書館」に向かう街中を歩いていた。そして冬場に長岡を初めとした新潟を訪れるのは、「かなり大変だろうな」などと考えていた。
 
 
目指す図書館は「学校町」という文教地区の一画に在り、周辺にはいくつかの高等教育向けの学校が在って、「市立中央図書館」は「市民文化公園」の中に「市民体育館」と共に併存していた。
 
図書館では、いつもの様に「郷土資料」コーナーを探し、「良寛和尚」に関する資料や図書を悉皆調査で探し廻った。『良寛書』はもちろん何冊かあったのだが、私が期待していたレベルの図書は少なかった。
がその中でも参考に成りそうな何冊かをpickupし、目次にざっと目を通し有用と思える個所をメモし、それらのページをいつもの様にコピーした。
 
 
それでも時間があったので、良寛和尚の出生地である『出雲崎町史』や『新潟県史』をも同様に、チェックした。
目次類にザッと通し「これはッ!」と想われる記事があるかを確認したが、大きな成果は得られなかった。
とはいえ役立ちそうな個所は、一通りコピーを済ませた。
 
市立中央図書館は、こと良寛和尚に関しては図書や資料類については大きな収穫は無かったのだった。
「残念だ・・」と想いながら明日行く予定の、和尚の出生地である出雲崎の「町立図書館」や「良寛記念館」に期待する事にした。
その出雲崎の中心部は、長岡駅周辺からは20㎞程西北西に在り、日本海に面した小さな町でその日本海を挟んだ向かい側には、佐渡ヶ島が在った。
 
 
そうこうしているうちに夕暮れ時に成った事もあり、私は「市立中央図書館」を後にする事にした。
五月下旬という事もあって、外はまだ十分明るかった。
 
街がまだ明るかったこともあって徒歩で帰る事も考えたが、帰りはバスを使って戻ることにした。
 
宿泊ホテルに近い市役所裏手の街区で降り、今日の夕ご飯を食べる事に成る店や明日の夜合流する予定の、立花さんとの会食場所に成りそうな店を物色する目的もあって、夕暮れの繁華街を散策して駅前のホテルに向かったのだった。
ついでにいつもの様に、本格珈琲を出してくれそうな可能性のある喫茶店をもチェックしておいた。
 
 
 
          
 
 
 
ホテルの部屋に戻って軽く一眠りしてから、すでに暗くなった街に出た。
目指したのは、バスで戻った時にチェックしておいた寿司屋にした。
 
やはり日本海という事で、魚を中心としたメニューの店を私は選んだのだ。
店は10人ほどが座れそうなカウンター席と、6つほどのテーブル席と二階には宴会席が別途ある様で、寿司屋としては比較的大きな店であった。
 
市役所からそう離れていない場所である事や、駅周辺に見られたオフィスビルの存在がこの店の構成に影響しているのかもしれない、と私は想った。
 
店では、軽くビールを注文し喉を湿してから日本海の魚を中心に何品か頼んだ。定番の刺身類や貝類のほかに、この辺りの代表的な魚であるノドグロやこの時期に日本海で獲れる生のホタルイカも注文した。
日本酒は県内に200以上はあるという蔵元の地酒を、3銘柄ほど選ぶことの出来る「飲み比べセット」を頼んだ。
 
やはり新潟は「米どころ」でもあり「酒どころ」でもあるから、日本酒が中心に成った。
それをこうやって地酒の「飲み比べ」が出来るのは、私の様な県外からの旅行者にとっては嬉しいのである。
 
店には1時間近くを過ごし、日本海産の魚介類の握りを中心に、「飲み比べセット」を2回ほど注文して、6種類の地酒を愉しむことが出来た。それぞれぐい吞みに注がれていて半合程度の量だったこともあって、深酔いする心配はなかった。
70歳手前の私には適量であった。
 
ほろ酔い気分でホテルに戻った私は、ほどなくして寝入ってしまった。
若い頃の様に酒量が多くなくても、数十分間の散策の効果もあってか酒が身体中を廻ったのだろう、と想われグッスリ眠ることが出来た。
 
 
翌朝5時前には目が覚めて、朝風呂に入ってから昨日コピーして来た良寛和尚に関する資料類に目を通した。
 
良寛和尚は江戸時代の後期に生きた人物で、家業は対岸の佐渡島との交易を生業とする老舗の貿易商業者で、名主でもあり地元の神社の神職をも兼ねた家の嫡男として、本来は家業を継ぐべき立場であった、という。
 
地元に代々続く名士の家であった立場を彼は継ぐことをせず、想うところがあって出家して一僧侶として生きる道を撰んだのだという。
 
 
出雲崎という場所はその名が示す様に、越後新潟と島根の出雲との接点のある場所で、伝承では越後の盟主であった糸魚川の奴奈川姫に、婚姻関係を求めた出雲の大国主に率いられた出雲族が、越後に辿り着き、最初に拠点を築いたのがこの場所だった、ということらしい。
 
更には良寛の実家はその時に出雲からやって来た一族の末裔で、父親の「以南」や良寛に替わって、父の跡を継いだ弟はその出雲族としての出自に、大いなる誇りを持っていたのだという。
良寛はその様な名門意識を、何故かすんなりと受け入れることが出来なかったこともあって、父親の跡を継がずに出家したのだともいわれている。
 
出家してから、現在の岡山県倉敷の「圓通寺」の名僧「国仙禅師」の下で修業を積んだ良寛が、故郷越後に戻った際に起居の場として落ち着いた「五合庵」が、この出雲崎から20㎞近く北方の「国上山」の中腹であったのは、良寛と出生地である出雲崎の心理的距離を反映している様に想えて、私には面白かった。
 
 
ホテルの朝食を終え一息ついてから、私は長岡駅近くのカーシェアリングのレンタカーを借り、「良寛和尚」の生誕地であり彼が出家するまでの20数年間を過ごした「出雲崎」を目指して、日本海側に向かって西進して行った。
 
長岡駅周辺から出雲崎に向かう道は田園地帯を暫く走り、ちょっとした里山かと想われる坂道を上ったり下ったりはしたのであるが、それほど高低差があったわけではなかったこともあり、30分もしないで日本海側に辿り着くことが出来た。
 
 
私は右手に日本海と佐渡島を見ながら、そのまま南下して「町立図書館」を目指したのであるが、そこは少子化や過疎化のために廃校に成ったのではないかと思われる、小ぶりの小学校の建物を、地域のために有効活用している施設である様に、私には想えた。
 
過疎化が進む集落ではよくみられる風景で、小中学校の統廃合の結果、廃校になった場所を地域の交流や文化の拠点として、「公民館」として再利用しているのであった。
 
その「出雲崎町立図書館」はやはり小さな図書館であったが、その限られたスペースのなかに「良寛コーナー」と言っても好い区画が在り、良寛和尚に関連する書物や図書類がそれなりに集積されていた。
 
 
私はそれらの資料類のうち気になる書物をpickupし、改めて目次類に目を通し、いつもの様に関心を引いたページをコピーしておいた。
 
その後「町立図書館」を出て、同じ道路を南下してその先に在る、良寛和尚の生家跡地に建つ「良寛堂」で車を降りた。
私は、現在公園に成っているその場所から日本海越しに佐渡島を観て、良寛和尚と同じ空気を吸い、良寛和尚が幼少期に毎日観ていたであろう景色を眺め見て、300年ほど前にここで生活していた彼の事に想いを馳せた。
 
 
 
 
            
             高台に在る良寛堂(生家跡)から
              見下ろす日本海と、対岸の佐渡島
 
 
 
そんな風にして時間を過ごしてから私は、更に小高い山裾に在る「良寛記念館」を目指して、背後にある県道の山道を車で登って行った。
 
 
「記念館」の駐車場に入り、私が車を降りると防災無線と想われる放送が、お昼の時間を告げていた。
 
お昼時でも入館できるのかを確認してから、私は展示室に向かった。
右手に庭園を観ながら「展示室」に向かう、屋根付きのやや長い渡り廊下を歩いた。
 
昭和40年に良寛和尚の生誕200年を記念して造られたという、「良寛記念館」の展示室内には多くの良寛和尚の「書」が展示されていた。
「和歌」「漢詩」「書簡」「手習い」といったものが中心であり、中には有名な「いろは文字」や「天上大風」も在った。
 
    
 
           
 
 
 
良寛和尚の「文字」等を見ていつも感じるのだが、彼の書にはある種の「品のよさ」や「心のゆとり」といったものを感じる。
やはり良寛という人物の「人間性」や「心象風景」といったものが、文字を通じて感じられるのであろうか・・。
 
「書」というものは不思議なもので、書き手の「人間性」や「心のありよう」がすんなり現れるものだ、とよく言われるのだが、実際その通りだと私もそう思っている。
とりわけ「良寛の書」には、そういった想いを感じることが多い。
 
 
そう想うのは私だけではないのかもしれないが、世の中には昔から「良寛の書」を求める人たちが多く、同時に彼の書風をまねる人や、模写する人も多いようだ。
 
それが自らの「手習い」のために行われているのはまだ良いのだが、中には「書家」たらんとして「良寛の書」をまねる人もいるのだが、彼らの書から伝わってくる「匠気」といった種類の「書」は、その匂いがプンプンして私は好きになれない。
 
形や上部をどれだけ「良寛風」に似せても、本人の「人間性」や「心のありよう」が未熟なままだと、彼や彼女の未熟な匂いが模写に滲み出て来てしまい、とても見るに堪えないのである。
 
 
「文字」や「書」というものは、本当にその人の「人間性」や「人となり」がそのまま投影されるので、それが面白くもあり同時に怖くもあるのだ。
などとそんなことを考えながら、しばらくの間私は、記念館の良寛の「書」や「文字」を鑑賞し、良寛自身に対峙していたのであった。
 
 
その時私は先ほど寄って来た「良寛堂」から眼下に観えた、日本海や佐渡島の景色を思い出していた。
良寛の書が持つ「心のゆとり」やある種の「品の良さ」は、幼少の頃から良寛があの風景を毎日毎日見ていたことから、生まれて来たのかもしれない、とそんな風に私は想像をふくらませた。
 
と共に、北大路魯山人が何故あんなにも良寛和尚の「書」や「文字」をほめそやし、殆ど宗教家の信徒の様に彼の書を崇め奉るのか、について少し考えてみた。
 
 
魯山人自身は、自らが決心し撰び抜き、覚悟を以って進んだ道が「書の世界」であり、自身の求めた立身出世の先もまた、その世界であった。
 
魯山人は「書の道」から入って、やがて篆刻をも自得し濡れ額を描き掘るように成って、それを生活の糧としてきた人物であった。10代から30代頃に掛けては、将にその道の真っただ中に生きていたようだ。
 
それから次第に「内貴清兵衛」や「太田多吉」等との交流を経て、料理の世界に目覚め、更には彼自身が「料理の着物」と称するようになった、「陶磁器」や「什器・調度品」といった、料理に付随するものを自ら創作するように成って、美食家として世に知られ自らの「美の世界」を構築していった人物である。
 
その彼がいつごろからか「良寛の書」や「文字」に出遭い、その良寛の書の持つ「高み」に心酔し、めったに人をほめそやす事の無い傲岸不遜と言われた彼が、「良寛様」と最大限の尊称を以って向き合って来たのである。
 
 
しかし彼が書について書いた、エッセイを取り纏めた書物でもある『魯山人書論』に依ると、彼が良寛和尚に心酔するようになったのは、どうやら彼が50代後半から60代になってからの事の様だ。
それはやはり、彼自身の「美意識」がある程度経験を積み、蓄積され醸成されて、美に関する「自らの見識」を彼自身が持つようになってからの事、なのかもしれないと私は考えるようになった。
 
私は「良寛の書」を前に良寛と魯山人の関係をそんな風に想像していたのだが、その時にフト思い出したことがあった。
 
数年前の夏、奥多摩にある河合玉堂の美術館を、避暑を兼ねて立花さんと訪ねた時の事をである。
 
玉堂美術館で、河合玉堂の代表的な作品を幾つか見ている時に、立花さんが言った言葉を思い出したのだった。
詳しいことは覚えていないのであるが、その時立花さんは、
 
 
「玉堂の作品は、もちろん若い頃から絵は上手で、絵の対象に成った鳥獣や草木も実に精密にかつ詳細に書かれていて、それはそれで大したものだと感心するんですが、やっぱり彼の描く絵に魅力を感じるのは、若い頃の作品じゃなくって60を過ぎた辺りからの方が多いようですね・・」といった様な事を、言っていた。
 
実際立花さんの指摘する通りで、玉堂の作品の中の”点描”された人物に生命を感じたり、或いは風景画の中に静謐感の漂う空気を感じられる様な絵が、見られるようになるのは60歳を過ぎてからの作品だった。
 
 
「そうすると河合玉堂にしたところで、60歳くらいになるまでの長い間はずっと修業中だった、ということに成るんでしょうかね・・」と私が呟くと、立花さんは肯きながら、
「ま、そう言うことなのかもしれませんね・・」と言って、目の前の作品をジッと見ていながら
 
「今35・6度もある真夏の真っ只中に居るにも関わらず、この冬景色の作品を観ていると、何だか身体に寒さが伝わってくるように感じるんですよね、僕には・・。
 
それは多分この絵が、写実的であることを止めデフォルメされた筆使いではあるけれど、
その1本1本の筆使いや、線の引き方に依って、真冬の奥多摩の民家が雪の重みにジッと耐えている、その風景の中に潜んでいる”緊張感”や”静謐さ”といった空気感が、こちらに迫って来るからなのかもしれませんね・・」
といった様な事を、彼は語り掛けてきたのだった。
 
 
実際のところその作品は、将にその様な雰囲気を私にも伝えてきていた。
奥多摩の清流の傍らにある玉堂美術館ではあったが、真夏の真っ最中にあって白と黒のシンプルな墨の濃淡で描かれた日本画の世界の中に、私はある種の寒気を含んだゾクゾク感を感じていたのであった。
その作品は将に写実を越えて、迫るものがあった。
 
 
 
             
                 河合玉堂、画
 
 
 
私はその時の事を思い出し、後に日本画界を代表するような河合玉堂にしたところで、絵の中に「空気感」を漂わせる様に成るのには時間が掛かる、即ちそれなりの修行の期間が必要であったであろう、ということを思い出した。
 
そしてその事は良寛和尚の「書」や「文字」においても、相当な時間の経過が必要だったかもしれないな、と想えた。
と同時に、その良寛和尚の「書」や「文字」の中に、魯山人自身が強い魅力を感じるような感性を持つように成るのにも、それなりの時間が必要だったのではなかったか、と想像した。
 
彼自身にとっての「美意識の醸成」においても、それなりの時間が必要だったのではなかったか、と想いが至ったのである。
 
 
「創り手の感性」と「受け手の感性」が合致した時にしか、両者の間に「共感」や「理解」は誕生しないし、そのためには「創り手の成熟」と共に「受け手の成熟」もまた、やはり不可欠だろう、と私には想えたからである。
 
そんなことを考えて私はホテルに戻ったらこれまでの資料を読み返して、両者の年齢の経過を改めて確認してみようか、と思い立ったのであった。
 
 
 
              「良寛の書」
 
                      『魯山人書論』144ページ
 
 
「良寛の書には、不肖ながら私も心の底から惚れ込んで、一通り見られるだけのものは、百点位見たつもりである。
その経験でいうと、良寛様とて未熟時代があって、若かりし頃の書(屏風に書かれている書の時代まで)は、別段のこともないが、後年六十歳頃にもなられてからは、俄然妙境に入り、殊に尺牘(せきとく:書簡)の如きは、まことにたまらないまでのものである。
唐または唐以前の書に着目して学んだ跡の歴々としたものがあり、彼の書道における眼の利き方、見識の高さを示して余りあるものがある。・・・」
 
 
魯山人はこのように、良寛和尚の事をほめそやしており「良寛様」と、尊称して呼んでさえいる。この頃の「良寛和尚」は彼にとって、もはや一介の能書をかく一僧侶という存在ではなくなって、「書の道」に於て至極のレベルに到達し得た「尊ぶべき人物」として映っていた、のかもしれない。
 
 
 
 
 

  「無位の真人」僧良寛、或いは・・

 
  
その日の夕方7時に、私は立花さんとJR長岡駅の中央改札口前のコンコースに在る良寛像付近で、待ち合わせをしていた。
 
立花さんは、自分の関心領域である鎌倉時代の甲斐源氏の武将「安田義定」に関連する、新潟に残る事績や痕跡の現地視察や資料集めのために、今新潟に来ていたのであった。
 
実は私がこのタイミングで長岡に来て良寛和尚の事を調べに来たのは、彼の新潟での取材時期を聞いていて、私の方からそれに合わせてやって来たのであった。
 
 
予定通りJR駅の改札口付近で立花さんと合流して、私達は長岡の繁華街に向かった。
 
JR長岡駅の駅ビル上からバスターミナルに掛かる場所には、市役所に直結する3階くらいの高さの箱型の回廊が囲んでいた。
雪国という事もあってその回廊は、当然の様に雪や風を防ぐような構造に成っていて幅の広い通路は、スッポリ天蓋や窓で包まれていた。
 
これもまた雪国の知恵なんだろうな、と私達は語り合いながらその回廊を廻り、途中のエレベーターを使って1階の地上に降りた。
 
私は昨日から目星をつけていた個室付きの飲食店に先導して、彼を案内した。
立花さんとは付き合いが長かったこともあって、彼の食事の好みやどの様な飲食空間を彼が喜ぶかを熟知していたので、私に迷いはなかった。
 
 
という事で私が彼を案内したのは、個室仕様で静かに二人で話が出来る空間で、日本海の海鮮料理が中心でなおかつ、新潟の地酒が充実している居酒屋、という事に成った。
 
店に入って、個室をオーダーしてから私達は店のスタッフに先導されて、個室に区切られた空間に入って行った。個室と言っても基本は居酒屋なのでスペースは畳2畳分、即ち1坪程度の空間であったが、二人で利用するのにはそれで充分であった。
 
個室への入り口が縄のれんであった事を除けば、他の区画とは間仕切りがしっかりしてあって、会話が隣接する区画に筒抜けする心配は無い構造の空間であった。
 
 
私達はおしぼりを持ってきた店のスタッフに、日本海側の港町である寺泊漁港で取れたという魚介類の盛り合わせと、地産の野菜料理やちょっとした煮物類を何品か注文し、乾杯のための瓶ビールを頼んた。
 
ほどなくして運ばれてきたビールで乾杯をし、久々の久闊を叙した。
それからお互いが今現在取り掛かっている事について、話すことになった。
 
 
「立花さん、2・3日前から新潟に来られていたようでしたが、今回はどんな事を調べに来られたんですか?」と私が口火を切った。
 
「ま、いつもの通りですよ。安田義定公絡みでしてね・・。
前回上越地方を中心に、義定公と嫡子の義資(よしすけ)公の痕跡というか事績を、色々調べて作った物語の、フォローというか補足のための、再調査というか再確認で・・」立花さんが言った。
 
「『義定公父子と越後の国』とか云うやつでしたっけ・・」私が記憶を辿りつつそう確認すると、
「そうですね、正確には『安田義定父子と、甲斐之國・越後之國』というんですがね、5・6年前に書いた・・」立花さんが詳しくフォローした。
 
 
「もうそんな前に成るんでしたか・・。まだ私が会社の再雇用で働いていた頃でしたかね。確かそれ以来『浜松の秋葉山神社』や『茨城の物語』を書かれたんでしたよね・・」私が確認の意味でそう言うと、彼は肯いて
 
「ま、そういう事に成りますね。
その間にコロナでパンデミックに成って、取材旅行などが制約を受けた事もあって、中断しながら『甲斐源氏と常陸之國』を、去年の年末にやっと仕上げたんですけどね」立花さんはそう言って、ビールを飲み干すと、
 
「僕はこの後日本酒にしますよ、せっかく新潟に来てるんだし・・」そう言って私を見た。私も肯きながら、
「だと思いました・・、私もそうします。実は昨日チョット気に入った地酒を見つけたモンですから、私もそれがあれば頼むとします」私はそう言って、卓上のスタッフを呼ぶボタンを押した。
 
 
すぐに若い女の子がやって来たので私は、日本酒のメニューリストを持ってくるように頼んだ。立花さんは、
 
「『〆張鶴』は置いてますか?」と、リストを待たずに彼女に聞いた。
「ハイ、ございます・・」と彼女が即答したので、つられて私が
「じゃぁ、『上善如水(じょうぜん水のごとし)』は?」と確認すると、
「はい、大丈夫です!」とやはり即答した。
 
続けて立花さんが
「〆張りをお冷か、常温で1つ・・」と頼んだので、私も同調して肯きながら人指し指を立てて、注文した。
彼女はそれを再確認して、厨房に戻って行った。
 
 
「日本酒はやっぱり『冷や』か『常温』を頼むんですね?」私がニヤリとして立花さんに聞いた。彼は肯いて、
「日本酒の味そのものを愉しむというか、味わうのには熱燗ではネ・・」と言ってほほ笑んだ。
 
「冬や秋の寒い頃もやっぱり、『冷や』や『常温』でしたっけね・・」私が更にそう確認すると、立花さんは、
「まぁね・・。よっぽど身体を温める必要が無い時以外はね・・」そう言って頷いた。
 
 
間もなく店の男性スタッフがやって来て、檜の香りがする枡をやや深めの受け皿に載せて、私達の前に置くと彼は一升瓶を抱えたまま、
「〆張りはどなたですか?」と言って私達の顔を交互に見た。
 
立花さんが小さく手を挙げると、彼は肯いて〆張り鶴の一升瓶を枡に溢れるまで注いで、敢えて受け皿にこぼれるまで注いだ。
次いで、私には「上善如水」の瓶を同様に持って、私の枡にもたっぷり注いだ。
 
「お兄さん、それは店の方針かい?それとも君のアイデアかい?」と立花さんがニコニコしながら彼に聞くと、
「ハイ、大将の・・」と厨房の方を見ながらそう応えた。
「そうかい・・。じゃぁ向こうに戻ったら、客が喜んでいたよ、って大将に言っといてくれ」と言った。
 
「大将は酒飲みの事がよく判っているよ・・」と、立花さんはニコニコして厨房に戻る彼の後ろ姿に向かって、やや大きめの声で言った。
 
 
「ところでこちらでは、ずっと長岡にいらっしゃったんですか?」と私が聞くと、
「いや、一昨日は糸魚川で、昨日は新潟市の先の阿賀野で、今日が柏崎と長岡です」と立花さんが言った。
「という事は上越から入って、下越に向かい今日は中間地点の中越に戻った、という事ですか結構忙しくされたんですね・・」私は彼の行動範囲の広さに同情して、そう言った。
 
「ま、結果的にそういう事に成りましたけど、JRのシニア向け特典付チケットを使っての移動でしたから、列車の運行次第で何とでもなるんですよ・・」立花さんはサラリと、そう言って桝酒をこぼさない様に口にした。
 
 
「やっぱり神社とか図書館廻りが、中心でしたか?」私が聞くと、
「まぁそんなとこです・・」立花さんは応えて、続けた。
「前回の時に情報だけは得ていたんですが、実際には行ってなかった神社を中心にですね・・。ついでにその近くの図書館にもね・・」
 
「収穫はありましたか?」更に私が尋ねると、立花さんは
「まぁ、それなりにですね・・。
新潟県内の二つの安田神社と、今でも流鏑馬の神事を行ってる神社と、糸魚川青海地区の金山開発に繋がりそうな情報を求めて、神社や図書館を廻ってたわけです」と具体的に話してくれた。
 
「今回もやっぱり安田義定絡みの神社や金山開発、流鏑馬の神事という事に成るんですね・・」私が更に誘い水を向けると、
 
「ま、そういうことです。下越の安田神社は合併前の安田町の総鎮守だったんですが、名前が同じだけど、直接安田義定につながるとは考えてなかったんですけどね・・僕は。
その後よく調べてみると、やっぱり関係していたみたいでしてね。
で、改めてその裏を取りに神社や図書館巡りをして来たわけです」立花さんはそう解説した。
 
「そうでしたか・・。で、もう一つの安田神社は・・」私が尋ねると、
「これは意外だったんですが、その阿賀野安田町の神社の関係者から教えてもらったんですが、中越の柏崎にも同名の安田神社が在ることを教えてもらいましてね。で、急遽今日の午前中に行って来たんですよ」立花さんが応えた。
 
「柏崎、というと原発のある?」と私が聞くと、
「まぁそうですが、地理的には長岡駅と柏崎駅の中間に在る、JRの鈍行しか止まらない安田駅の近くの神社です」と言って、立花さんは枡酒がこぼれない様に注意しながら酒をすすった。
 
「そうでしたか、ご苦労様でした。
因みにどんな収穫があったんですか?その柏崎の安田神社には・・」私はそう言って、自分の枡酒の表面張力で盛り上がっている部分を、口先をすぼめてすすった。
 
 
「神社に明確な『神様の指紋』は確認出来なかったんですが、屋根瓦には八幡神社の三つ巴紋と思しきものを、遠目ながら確認する事が出来ました。
しかしそれ以上に私が注目したのが、安田神社近くを流れるくねくねと曲がりくねった大き目の河川と、北隣の集落の名前が『北条(きたじょう)』と云うんですが、そこの北北東に在る「金倉神社」という社の存在でしてね・・」立花さんは、嬉しそうにそう言った。
 
私はその時の彼を見ていて、立花さんはどうやら探し物を見つける事が出来たに違いないと想い、
「お宝に辿り着けたんですか?」と、ニヤリとしながら聞いてみた。
「柏崎の図書館で得た情報を、よぉく読んでみなくては何とも言えませんが、『曲がりくねった河川』の上に在る『金倉神社』に、鎌倉執権家を連想させる『北条』と『安田神社』ですからね・・」立花さんはそう言って、私を見て肯いた。
 
 
「たしか以前、金山開発跡地の三点セットとか言ってませんでしたか?
『曲がりくねった河川』と『その近くの金山系神社』と『金山(かなやま)絡みの名前の山』のことを・・」私がそう言って確認すると、彼は
「よく覚えてましたね・・」と言って、肯いた。
 
「という事は安田神社のある地区は、安田義定やその嫡男の金山開発に因んだ神社ではないか、と考えてるんですね立花さん・・」と、私は立花さんの眼をジッと見て行った。
「まぁ、その可能性が高いかな、と妄想しているところです。今のところ・・」と嬉しそうな顔で言って、彼は枡酒を持ち上げて、口に含んだ。
 
 
私達がその様な話をしていると、店のスタッフが「大き目の皿に刺身の盛り合わせ」を載せて持ってきた。次いで女の子が「野菜豆腐サラダ」と「魚介類と根菜の炊き合わせ」とを一緒に持ってきた。
注文した酒の肴が揃ったので、それらをそれぞれの銘々皿に取って落ち着いたところで、立花さんが私に聞いてきた。
 
 
            
 
 
 
 
「ところで柳沢さんは、長岡に来られてからどんな事してたんですか?」と。
「そうですね、今回は良寛和尚絡みで出雲崎の『ゆかりの地』や『良寛記念館』『図書館』といったところを中心に、ほっつき廻ってました」と私が応えた。
 
「金沢の魯山人の続きですか?」立花さんが言った。
「そうです、その通りです・・。いよいよ最後の詰めに入ったところです、魯山人と良寛和尚の関係を中心に、ですね」私は肯きながらそう言った。
 
「この前戴いた長いメールで、金沢に行って魯山人と『細野燕台』や『太田多吉』との関係が良く理解できた、と書かれてましたね・・」立花さんは上目使いに私を見て、そう言って刺身をつまんだ。
 
 
「そうですねぇ、彼らと魯山人の関係をかいつまんでいうならば、
魯山人と燕台の関係は、魯山人の才能や可能性を発見し見出した燕台は、金沢を初めとした北陸三県の茶人や粋人たちに彼を紹介し、彼らとの関係を創った世話人の様な感じでしたね、燕台のやった事や立ち位置としては・・」私がそう言うと、
 
「たしかそれは燕台が陽明学を学んでいたことが大きかったんじゃないか、って指摘されてましたネ・・」立花さんはそう言って、私のリアクションを待つように構えた。
 
「そうかもしれませんね、たぶん細野燕台という人間の行動原理には『世話焼き』という事や、才能ある人や伝統工芸品といった価値ある人間や文化を、『育てたい』とか『手助けしたい』といった様な、『世の中に役に立つ事をする』といった考え方や価値観が、彼のエネルギー源になっていた様に、私には想えるんですよね・・」私はそう言った。
 
 
「それが陽明学にも繋がっているんだ、と思ってられるんですね、柳沢さんは・・。なるほどね」立花さんは腕を組みながら、そう言って噛みしめる様に考え込んだ。
 
「そう言った魯山人と細野燕台の関係に比べ、太田多吉の場合はもっと直接的であった、という様な事を言われてましたかね・・」と彼は続けて、私に誘い水を向けて来た。
 
「たしかにそうですね、太田多吉は魯山人と知り合って、彼に対して父親の様な父性愛を感じたらしく、魯山人自身も彼を慕ったし、多吉自身も子供が無かったせいもあってか、親子ほどの年周りの差がある魯山人の才能を認め、我が子の様に愛くしみ処して来たようですね・・」私がそんな風に解説すると、
 
「その関係が底流にあって、金沢料理のワザを学ばせたり、茶道具の銘品を勉強させたり譲ったりしてその上に、北陸三県の伝統工芸品の作り手達を紹介したり、といった直接的な指導や教育を、魯山人に対して施したわけですかね多吉は・・」立花さんは言った。
 
「父親が才能ある息子に手取り足取り教える様に、ですかね。
たぶん自分の後継者を育成する様な感覚で、魯山人に接していたんじゃないですかね、料亭山乃尾の主人多吉は・・」私が追加説明した。
 
 
「そうすると京都の実業家、内貴清兵衛に芸術家としての生き方を叩き込まれた魯山人は、金沢の細野燕台によって彼の交友関係のある人達や、その道の達人たちを紹介してもらって、知的刺激を与え見聞を広めさせてもらった、と。
 
で、太田多吉に依って金沢料理の技術的なノウハウや、茶道具や調度品に対する美意識や鑑識眼といった、目を養う事を教えてもらい、加賀前田家以来400年培かわれて来た金沢の伝統工芸品との接点を作ってもらった、という訳ですかネ・・」立花さんが確認する様にそう言った。
 
「ま、そう言って間違いないと、私は想っています。
そしてそれらの京都や金沢での経験や人脈が、総て混ざり合った上で集大成したのが、魯山人が赤坂で始めた『星岡茶寮』であり、北鎌倉の『星岡窯』であった、と私は想ってます」私はそう言って魯山人と彼らの関係をまとめる様に言った。
 
 
「だとすると、北陸金沢に留まって料亭を続けてていた太田多吉にとって、東京で成功した北大路魯山人という後継者は、言うなれば『出藍の誉れ』とでもいう様な存在だったんでしょうかね・・」立花さんは呟くようにそう言って、私を見た。
 
「たぶんそうだと思います。それも慈愛に満ちた父親の眼差しで、自分の後継者たる魯山人の成長や活躍を喜んでたと、私はそう想っています」そう言って、私は立花さんの考えに同意した。
 
「なるほどね・・」立花さんはそう言うと暫く黙って、少し考えている様だった。
私が説明したことを今、自分なりに咀嚼し噛みしめているのかもしれない、と私はその時感じた。
 
 
私は、自分の枡酒や立花さんの枡酒が既に飲み干されてしまってることに気付き、
「お酒、追加しますか?」と確認すると、既に赤らみ始めた顔の立花さんがクッと肯いたので、私は再び店のスタッフを呼ぶスイッチを押した。
 
店員が来る前に私は、
「同じのでいいですか?」と確認すると、彼は大きく肯いた。
 
 
やがてやって来た店員に、同じ地酒を注文した。
彼が先ほどと同様に私達の枡にそれぞれ、ナミナミと酒を注ぎ終え戻ったのを待って、再び話し始めた。
 
「という事は、柳沢さんとしては春先の金沢への取材旅行は無駄ではなかった、と。イヤ大いに収穫があったと・・」立花さんがニコやかな表情で私を覗き見る様にして、聞いてきた。
 
「ま、そうだったかな、と想ってます・・」私はそう言って、表面張力でこぼれそうな枡酒に口をすぼめて、地酒をすすった。
 
「良かったですね・・。
で、昨日からの長岡はどうでしたか?」立花さんはそう言って、私を上目使いに観た。
 
 
「そうですね今回は、ここ長岡と共に良寛和尚の生まれ故郷、出雲崎にも行ってきました。日本海に面した彼の『生家跡』や『記念館』を訪ねてきたところです」私が応えた。
「で、如何でしたか?」立花さんはそう言って、前かがみだった身体を少し起こして、後ろに上体を引いた。
 
その様子を見て私は、立花さんが相手の話を引き出そうとする時は、いつもこんな風に身体を引いて、相手が話すのを待つのだろうか、と想った。
 
「町の小さな図書館や、生家跡・良寛記念館と行って来ましたが、私的には『生家跡』が一番印象的でしたね・・」
私はそう言いながら、今日観て来た良寛和尚の生家跡から見た、目の前の日本海とその先に浮かぶ佐渡島の景色を思い出していた。
 
 
「それはまた、どの様な・・」と立花さんは言って、私に話の続きを促した。
「実にのどかな場所でしてね・・。
まぁ初夏の日和が良かったこともあるんでしょうが、あの緩やかな、のんびりした風景を見ていると、不思議とこちらの心の中まで伸びやか~な気持ちに成るんですよね・・」私が言った。
 
「なるほどね・・。でもまぁ初夏はキットそうなんでしょうが、冬の日本海だとそれとはまったく別の厳しい表情を・・」立花さんはそう言って、私に新潟の厳しい冬の日本海を思い起こさせた。
 
「いや、おっしゃる通りだと、私も想っています。
・・ですがホントに今日の日本海は穏やかで、丘の上から見下ろす佐渡島の島影は好い景色で、ホントに気持ちが洗われましたよ・・。
 
 
でその後『記念館』に行って良寛和尚の手習いというか墨書を見て、あ~いう環境で育った良寛和尚だから、あんなふうにノドやかというか、ふくよかな味のある文字が書けるんだろうなぁ、と妙に納得しまして・・」と私は続けた。
 
私はあの自然環境の生家で生まれ育ったからこそ、良寛和尚の豊かで気品あふれる文字が生まれたに違いない、と想った気持をそのまま立花さんに伝えた。
 
 
「その良寛が家を出て出家したのは、二十歳前後だったかと・・」立花さんが呟くように言った。
「18歳頃だった様です・・」私はここ数日の資料を読んで、ポイントをメモに書いていたので、そのメモを見ながら応えた。
 
「それから、岡山だかの禅寺での修行を終え、諸国を乞食行脚(こつじきあんぎゃ)しながら放浪してたんですよね彼は・・」立花さんはそう言って、
「十数年間の放浪を終えてから、僧良寛が弥彦山近くの山の中腹『五合庵』に庵を結んだのは・・」と私に立て続けに聞いてきた。
 
 
 
       
           乞食行脚の僧         良寛自筆の自画像
 
 
 
「良寛和尚は、32・3歳の頃に岡山の寺で印可を受け、曽洞宗の禅僧として認められた様ですね・・。で、『五合庵』にやって来て定住したのは50手前の47・8歳の頃です。
因みにその「五合庵」は弥彦山の手前の国上(くがみ)山の中腹で、そこで庵を結んで落ち着いたようです」私はメモで確認しながらそう応えた。
 
「その間は何処かは不明ですが”乞食行脚”して諸国を放浪していたようです」と私は付け加えた。
 
「良寛さんは、自分の寺は持たずにその庵に籠って座禅に明け暮れ、必要に応じて里に下りて行って乞食行脚(こつじきあんぎゃ)を続けたように記憶してますが・・。
たしか寺持ちの僧侶は、葬式仏教に堕落しているとかいう事で、彼自身は“仏の道”を追い求め続けたのではなかった、でしたかね・・」と立花さんが言った。
 
 
「その様ですね。彼にとっては”座禅”と”乞食行脚”三昧が”仏の道”を求める者の理想であったみたいで・・。
 
そんな良寛和尚も60歳前後には、山の中腹の『五合庵』への昇り降りがツラくなったようで、里に下りてきて親交のあった神社の一画に草庵を結んで、そこに住むようになったようです・・」私が説明した。
 
「更には70歳前後には、和尚を慕っていた支援者の家に厄介になっていたようです。
73歳の生涯を終えるまで・・」と付け加えると立花さんは、
 
「なるほどそうすると良寛さんは、ほぼ10年毎に活動拠点を移しているわけですね、それにはたぶん”老い”という様な身体的な事情も加わって・・」と、良寛和尚の晩年を整理してそう言った。
 
「たしかにその様ですね・・」私は立花さんに言われて初めて、和尚の10年毎の転居のことに気が付いた。そして「良寛記念館」で感じた事を、思い出した。
 
 
「立花さん覚えてますかねぇ、2・3年前に奥多摩の河合玉堂の美術館を訪ねた時の事を・・」と私が言うと、立花さんはキョトンとして、
「奥多摩に避暑で柳沢さんと一緒に行った事でしょ、もちろん覚えてますよ。
それが何か・・」と言って私を見詰めた。
 
「玉堂の幾つかの日本画を見終わった時に、立花さんが言ったんですがね・・」私がそう言うと、立花さんは
「あぁ、あの時の事ですか・・」と言って、私に「で?」、という様な顔をして、先を促した。
 
「アはい、あの時たしか立花さんは
『玉堂の絵も、それまでの巧い絵を描く絵師であるレベルを脱して、活き活きとした人物や空気感が漂う風景が描けるようになったのは、やっぱり60を過ぎてからナンですね・・』という様な事をおっしゃってたでしょ。
その事を私は出雲崎の『良寛記念館』で、彼の墨書を観ていて思い出しましてね・・」と私が言うと、
 
「あぁ、思い出しましたょ。玉堂美術館でそんな風なことを言った様な気がします・・」と彼は言った。
 
 
「で、私は『記念館』で良寛の書を観ていて、良寛もやっぱり60歳を過ぎた頃から味のある、佳い文字や墨書を書くようになったんだなぁ、と感じましてね。
奥多摩の玉堂美術館の事を、思い出したんです。
 
と同時に、そしたら魯山人が良寛和尚の書と出遭ったのは、彼がいったいいつの頃だったんだろう、と興味が湧きましてね。調べることにしたんです」私はそう立花さんに言った。続けて
 
「それでホテルに戻ってから、今回集めた資料を読み返してみたらですね、魯山人が良寛和尚を知るようになったのは、新潟の実業家を訪ねた時に収集してあった良寛の書や墨蹟を何点か見せてもらって、それがキッカケだったようです。時に魯山人50歳でした。
 
それから徐々に魯山人は良寛和尚に惹かれて行って、”良寛狂い”とでもいう程傾倒する様に成ったのが、5年後の魯山人55歳の頃の様です」私は手元のメモを見ながら、詳しく立花さんに話した。
 
 
「ついでに良寛和尚についていえば、和尚が本格的に書に打ち込むようになったのは、五合庵に移ってからという事なので50歳前後、という事に成る様です。
で、それからの修練を重ねて自分なりの書風や書体といったものを確立するのに、やはり10年近くの歳月を要したみたいです・・」と私は付け加えた。
 
「あぁ、なるほどね・・。そうすると魯山人が「良寛さま」と呼ぶようになったのは、彼が55歳に成って以降、という事に成るわけですね・・」と立花さんは呟くように言って、しきりに頷いた。
 
「良寛は寺を持たずに五合庵に籠って、山中で座禅を組みながら自らの希求する『仏の道』を追い求め、その合間に和歌を詠んだり漢詩を創ったりして『書の道』に心血を注いだ、という事ですね、10年近く・・。
その10年の歳月を彼は、山腹の五合庵で「仏の道」と「書の道」とを追求する事で、費やしたのだと・・。
 
その修練の結果、それぞれの道に於てある程度のレベルに到達したと・・。
で、自分でも得るものがあった、と自覚していたのかもしれない。
所謂”悟り”ですかね・・。
 
加えて身体的な衰えもあって、彼は山から里に降ったのかもしれない、という訳ですね。なるほど・・」立花さんはそんな風に自分に言い聞かせる様に言ってから、枡酒を手に持ってクッと飲み干した。
 
そのあとちょっとした沈黙があって、立花さんは遠くを見るような眼差しで、
「良寛という人は、将に『無位の真人』だったんだな・・」と、呟くように言った。
 
 
「『むいのしんにん』ですか?」私は、その言葉の意味が判らなかったが、その言葉に何となく高貴な言葉の響きを感じた。
「どの様な意味があるんですか・・?
因みにどんな字を書くんです・・」私は立花さんに聴いてみた。
 
「『無位の真人』ですか?そうですねその言葉の意味するところは、
要するに
なんの官位や役職にも付かず、世評も気にせず自らの大切にする”価値観”や『道』を求め続けて、”自己研鑽”をし続けたホンモノの人間、
 
とでもいった様な意味だと私は想ってます。
たぶん禅宗の言葉だったかと・・。
それと文字は、『位の無い真の人』と書きます」立花さんはそう言って、私の眼を観た。
 
「はぁ、なるほど・・。
生涯寺も持たず、諸国を放浪したり山中の粗末な草庵に棲み、ときおり”乞食行脚”しながら、日がな『座禅』と『手習い』に時間と情熱を注ぎとおし、その努力もあっていずれの『道』をも究めた良寛和尚には、確かにふさわしい言葉なのかもしれませんね・・」
私は立花さんが漏らしたその言葉に、大いに感じるところがあった。
 
 
そして北大路魯山人の事を想った。
 
「ひょっとして魯山人が、人間国宝を拒み続けたのは、そのような僧良寛の”生き方”に対する共感があったから、かもしれませんね・・。』と私は言った。続けて
「内貴清兵衛に依って、
”芸術家として生きるのか職人として生きるのか”の選択を迫られ、
 
乞食(こつじき)僧良寛に出遭って”無位の真人”として生きるのか”世評の高い勲章をもらって生きるのか”の選択を自らに問い続けたのかもしれない・・。
その自問自答の結果、彼自身が選んだのが・・」
 
私はその時の魯山人の苦悩や葛藤を想い、胸に迫るものがあった。
気が付くと不覚にも涙が滴り落ちていた。
 
 
「たしかに、そうだったのかもしれません・・。
晩年の魯山人の場合は”作陶の道”と”書の道”が、その情熱と時間を注ぐ対象であったと・・」立花さんが、ポツリと言った。
私も頷いて同意し、立花さんに共感した。
 
「因みに魯山人が人間国宝を辞退したのは、いつ頃の話でしたっけ?」立花さんが私に、聴いてきた。
「それは魯山人が72歳の頃だった、と記憶しています」私は即答した。
 
「という事はやはり、彼が僧良寛に傾倒してからの事ですね・・。
いや、納得です」立花さんはそう言って、しきりに頷いた。
「やはり人間は60を過ぎてから、なんですかね・・」私が呟いた。
 
立花さんは
「そうかもしれませんね・・」と言って肯いた。
 
 
 ちょっとした沈黙の跡、
「では、「無位の真人」乞食(こつじき)僧良寛と、北大路魯山人の”生き様”に敬意を表して献杯、でもしますか・・」立花さんが私にそう誘った。
「と同時に60歳を過ぎた私達の、残りの人生に対しても・・」私はそう言った。
 
私達は、枡酒の載っていた皿に残った地酒を枡の中に注ぎ足してから、枡を持ち上げて二人の「無位の真人」のために、軽く献杯を行なった。
 
 
 
 
             
 
 
 



〒089-2100
北海道十勝 , 大樹町


 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
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