本来ならば雪が降るべき時節なのに、雨が降っていた。 雨が止むと、上空を小白鳥やカモなどが群れを成して飛行している。 本州では25度を超える夏日なのだという。 窓の外では虫たちの姿も見るようになった。 ”雨水””北帰行””啓蟄”いずれも春の先駆けなのである。 春分の日を過ぎ、彼岸が終わると一気に春が進んで来た感がある。 そしてサッカー日本代表である。 この21日のバーレーン戦、昨日のサウジアラビア戦の3月の連戦は、勝ち点4を得てバーレーン戦の勝利で来年のW杯への出場を決めた。 喜ばしい事である。 バーレーン戦の勝利の立役者は1アシスト1ゴールを決めた久保建英であった。 彼の奮闘が今回のW杯出場を決定づけたのは間違いない。 ![]() さはさりながら、相変わらずの”個人技頼み”で、チーム戦術が乏しく、チームとしての約束事の乏しい森保采配では、限界が見えている。 今回のバーレーン戦やサウジ戦がそれを示していた。 今の闘いのままではグループリーグ突破が関の山であろう。個々人の能力が歴代最強レベルであっても、チーム戦術やチームプレーで勝てるように成らないと、Best8の壁は越えられないだろう。 個人能力重視の森保監督の限界は、今回の二つの試合でも明らかである。 JFAの会長が田嶋から宮本に替わったのは、希望が持てるが森保氏の交替が実現しない限り、日本代表は次のステージには上がれないだろう。 これからの14ケ月W杯本番までに何が起きるのか、期待感を込めて注視していきたい。
|
![]() |
当該編は『大野土佐日記- 蝦夷地編 -』の続編に成ります。 山梨からやってきた安田義定公や甲州金山の専門家達と「北海道砂金・金山史研究会」のメンバーたちとの交流会が、函館で行われたその続きに成ります。 大正時代以降の『北海道史』などで、偽書として扱われた『大野土佐日記』の真贋について、いよいよ解明していくことに成ります。 - 追記:2020年6月22日 - 本稿は2017年夏季に書き上げた物語であるが、この2020年6月に『蝦夷地の砂金/金山事情』なるものを執筆中に、私は明治7年に北海道開拓使の「御雇外国人」であった鉱山技師H・Sモンローが、明治政府に提出した『北海道金田地方報文』に遭遇することが出来た。 同書において鉱山技師モンローは知内川(当時は武佐川と呼ばれていた)中流域を調査し、測量し金含有量などを分析したのであったが、その彼が『大野土佐日記』を事前に読み込んだ上で現地実査を行い、荒木大学一党の痕跡を検証している。 ご興味のある方はご一読いただきたい。 |
それは九条関白の書かれた『玉葉』などの京の公家の書かれた、当時の日記などでも明らかです」ここでもまた、小さな驚きの声が北海道側のメンバーから聞こえた。
「それが証拠にこの富士川の戦いの後、この戦場があった駿河之國をそのまま実効支配し、後に朝廷から駿河守として公認されたのは、武田信義公であります。同様に、安田義定公が遠江守として朝廷から公認されたのです。
更にその後頼朝の鎌倉幕府によって、それぞれの領地の守護や地頭に任命されてますが、いずれも戦勝後の実効支配が先ずあって、遅れて朝廷の追認、さらに遅れて鎌倉幕府の公認といった順で、領主として追認されています」この時の藤木さんは、やや誇らしげであるように私には思えた。
その中の、富士西麓のいはら郡の領地経営を任せていた一人が、荒木大学だと推察することは出来るのです」ここまで藤木さんが話した時、杉野君が尋ねた。
「荒木大学様は義定公の四天王の一人だった、という事ですか?」
「いや、残念ながら大学さんは四天王ではありません。四天王は『橘田』『竹川』『岡』『武藤五郎』のメンバーで、荒木という名前は見当たらないので、該当しません。
「名字は、違ってますが?」再び杉野君が尋ねた。その問いに、藤木さんが応えた。
「名字の違いは、同じ一族の中で通称として使われたりする事は、よくある話なのです。実際武田信義公と安田義定公にも、同じことが起きてます。
二人は同じ源義光の孫であり兄弟でもあるのですが、常陸之國の武田ノ荘から甲斐に移った時に名乗った姓である武田の姓を、嫡子として引き継いだのは兄の信義公です。
この場合でしたら四天王の『竹川家』の嫡子嫡流が竹川の姓を継承し、例えば嫡子では無かったかもしれない次男か三男が荒木の地に移った時、荒木の姓を名乗ったという事も考えられるわけです」藤木さんの説明に、杉野君も納得したようだ。
「ありがとうございました。そうしますと本家筋の黒川金山の開発を奉行したのが『竹川家』で、支店というか新しく開発された富士金山を奉行した大学様は、富士山西麓のいはら郡の荒木ノ荘か何処かに移って富士金山の奉行をやったために、荒木の姓を名乗ったのかもしれない、とまぁそう言ったことに成るんでしょうか・・」大友さんが改めて藤木さんに尋ねた。
藤木さんの説明がひと段落ついたと判断した私は、話を引き継いだ。
「藤木さんの話で、先ほどのご質問に応えられたと思って宜しいでしょうか?大友さん」私は大友さんに確認をした。大友さんは肯いた。
「残念なことにまだ見つかってません・・。現在富士金山で残っておりますのは、『毛無山』周辺に関する記録や鉱山跡などです。『長者ヶ岳』や『金山』といった地域に残っているのは、民話や言い伝えといった伝承レベルのものでしか、ありません。
「そうですか、毛無山以外については後世に期待される、という事ですね・・。何らかの物的な証拠が見つかると良いですね。そしたら立花さんの仮説も実証される様になるんでしょうが・・」菊地さんは、素直にそう言ってマイクを置いた。
「ありがとうございます。ほんとに後世の研究や発見に期待をしています。山梨や静岡の研究者や郷土史研究家の方々の、今後の活躍に期待したいと思っています」私はそういって、北海道のメンバーを見ながら、
「その他に何かご質問、如何でしょうか?」と聞いた。私はもう一度彼らを見廻したが、特に反応はなかったので話を進めることにした。
「では、富士金山の話はとりあえず、ここまでに致したいと思います。続けて安田義定公についてのお話しですが、藤木さんの説明で十分ご理解いただけたかと思いますが、若干の補足説明をさせていただきます。
因みにこちらの久保田さんは、義定公の戦さ上手は公が『孫子の兵法』を習得していて、実践でも活用していたからではなかったかと、考えておられます」私が久保田さんをそう言って紹介すると、久保田さんは軽く前に向かって頭を下げた。
「了解です。では久保田さんに替わりましょう・・」私はそう言ってマイクを久保田さんに渡し、その質問への回答を促した。久保田さんはマイクを取ると、立ち上がって一礼をした後、話し始めた。
「山梨県の山梨市から来ましたW山梨の久保田です。先ほどの自己紹介の時にも申しましたが、俺は『雑学の久保田』と自称してるんですが、自分に興味ある事や関心のある事をいろいろ調べるのが好きな人間です。
久保田さんは参加者の顔をゆっくり見廻してから、自説を開陳し始めた。
この『波志太山の戦い』ってのは、後白河法皇の令旨(りょうじ)を受けて、頼朝が伊豆で北条時政と挙兵して平氏と闘って惨敗した、あの有名な『石橋山の戦い』のすぐ後にあった戦さのこんです。
こん時の様子を『吾妻鑑』には、甲斐に向かった平家の大軍が、安田義定公が率いた甲斐源氏の軍勢と、偶然富士山北麓の『波志太山』の山狭の細い道で遭遇しちゃったから、戦いが始まったって、ほう書いてあるですよ。
だけんがね、こりゃぁ吾妻鑑の編者たちが『孫子の兵法』を知らんかったから、ほんな風に書いてるですよ」久保田さんはやや得意げにそう言った。
ほんだけんがこん時の戦いの場は、富士山北麓でもだだっ広い高原とかじゃなくって、山狭の細い道で、一列縦隊でしか通れねぇような狭い場所で行われた様ですね」久保田さんはここが肝心と言わんばかりに、北海道のメンバーに向かって言った。
具体的言うと、孫子の兵法の『地形篇』に載っかてたですよ。
『多勢に無勢の時は、相手の身動きが取れん狭い場所で待ち伏せして戦うべし』なんてこんがね・・」久保田さんは嬉しそうに、目を細めてそう言った。
「ほれから水鳥の大群の水音を使って大勝した例の富士川の戦いであった、有名な夜襲にしても、孫子の『行軍篇』にヒントが書いてあったですよね。
富士川の戦いのしばらく後になって、平氏が後白河法皇とは別の令旨を朝廷から得て、平宗盛を総大将にした源氏討伐軍が、関東に向かった時のこんですね。
平の宗盛の源氏討伐軍は三河辺りまでは易々と進軍できたけんが、ほれ以上攻めてこれなんだ、っちゅうこんがあったですよね。
皆さんも知ってるとおもいますが、あの時義定公の軍は平家の陣の背後の搦め手から突くっていう、戦法を取ったですよ。ほうゆう戦い方は当時の武士の戦い方としては珍しい戦法だったです。
義定公の戦法は奇襲や奇策を使ったりするこんが多く、大手からの真正面の戦いより裏手からの搦め手の戦いが多かったりしてるですね。
私は彼が、自分の話は区切りがついたことを私に知らせているのだと感じて、話を引き取った。
大友さんの反応を見て話を進めようとした時、北海道側のメンバーで十勝の大樹町から来た佐藤さんが、手を挙げて聞いてきた。
「先ほど来源頼朝はあまり戦さが強くなかった、戦さ下手であるとしゃべってられましたが、源氏の大将として平氏と闘い、鎌倉幕府を創った頼朝はあまり戦さが上手くなかった、っていうのはほんとなんだべか?
もちょっと、詳しくお話ししてくれるとありがたいだもね・・」佐藤さんは私に向かって、北海道弁を交えてそう言った。
頼朝はその戦いで平家の大軍に大負けして以来、自らが戦いを指揮することが無かったことを見ても、そのことは判るんです。
より具体的な話はこちらの西島さんがご専門なので西島さんにお話ししていただきたいと思います。西島さん、お願いしても宜しいですか?」私はそう言って、西島さんの同意を得た上で、マイクを渡した。
西島さんは立ち上がると、
「では私の方から頼朝の武将としての実力というか実像と言った様なこんを、少し話させていただきたいと思います。宜しくお願いします」軽く挨拶をして、話し始めた。
ほれから十三歳の頃に平治の乱が勃発し、父親の義朝が平清盛の平氏に敗れ都落ちし、母親の郷里でもある尾張之國で、身を寄せた仲間に裏切られて謀殺されたですよね。
親父や異母兄たちはほこで謀殺されたり捕まって、六波羅の清盛の元に送られて処刑されたりしたですね。
源義朝は彼らを配下とし関東に勢力を築いていたこともあって、坂東武者達の方でも義朝の嫡男頼朝に対しては、特別の想いがあったちゅう訳です。
ほういう背景があったもんだから、『石橋山の戦い』で大敗した頼朝が逃げた先が安房之國や上総之國であって、父親以来の配下でもあった南関東の豪族や御家人達を頼った、っちゅう訳です」次第に、西島さんの説明に甲州弁が目立つようになった。
「頼朝はほの頃から相撲や巻狩りなどを好んで、たびたびほういう催しにも参加していたようですね。ほういうこんがあったから後年の富士の巻狩りなんかを催すように成ったのかもしれんですね。
ほの戦さに敗れた頼朝は、わずかな近習を連れて小舟を使って伊豆半島の付け根辺りから相模湾を渡って、房総半島に逃げたっちゅう訳です。ほん時の顛末が吾妻鑑などに伝わってるですね。
頼朝はほん時の戦さで、自分の武将としての力の限界をはっきり自覚したんじゃねぇかと、私は想ってるですよ。ほんだからそれから以降、自らが戦いの前線に赴くっちゅうこんは殆どしなかったんじゃないかってね・・」西島さんはそう言って質問者である佐藤さんを見て、話を続けた。
「数少ないですが有名なのは『富士川の戦い』の時の黄瀬川への出向や、奥州藤原氏征伐の時に出張った、くらいのもんだったですね。
「なるほど、そういう事でしたか。したっけ頼朝は強い武将にコンプレックスを抱いていた、ってことなんだべな・・。いやぁ良(い)く判りました。ありがとございます」佐藤さんは西島さんに感謝の言葉を述べた。納得したようだ。続いて、菊地さんが
「武将としては頼りなかったけど、武将を束ねる能力はそれなりにあったってことですね、頼朝には」と頼朝をフォローするかのように、そう言った。
「まぁ、成長期に朝廷で宮仕えしたこんもあって、公家や天皇・法皇なんかが平氏や源氏に接する様子を観てて、ほういった武士たちを統治する仕方を学んだのかも知れんですね頼朝は・・」西島さんは菊地さんに向かってそのように応えた。
「話は変わりますが興味深いことに頼朝は、自分自身の領地や親衛隊とでもいうべき直轄地や、旗本みたいな直属の武士団というか家来を持っていなかったという事です。ねぇ、西島さん」私は、そう言って西島さんに同意を求めた。西島さんは、私に肯いて話を引き取った。
西島さんの推測は突飛もないように聞こえるが、その根拠や状況証拠を説明されると納得させられてしまうのは何故なんだろうかと、この時私は想った。
二番目の検証レポートのテーマ『荒木大学に関する資料や史実・史跡等が存在するか』についてですが、この件については先ほどの藤木さんのお話しで、殆どご理解いただけたと思います。
先ずこのテーマにつきましては、結論から言うとNOです」私はこう言って、一旦メンバーの顔を見てから、話を続けた。
「ですが敢えて若干の補足させていただきますと、次なような事は言えると思います。先ず、資料や史跡といったものは全く見つかりませんでした。残念です。
しかし荒木大学という固有名は出てきていませんが、彼は安田義定公の家来で金山開発を担当していたと思われる四天王の一人『竹川家』の一族の一人であった、かも知れないと推測することは出来るわけです。先ほどの藤木さんのご説明であった通りです。
「三番目のテーマは『甲斐之國いはら郡八幡の別当大野了徳院は実在したかどうか』についてです。
またその際、大野了徳院が持っていた東日本の修験者のネットワークを活用したことも、大いに考えられます。この事は、金山衆が山で働く職業集団である事を考えますと、山路を渡り歩いて蝦夷地を目指したことも、大いにあり得るわけです。
慣れない海を行って船酔いしながら向かうより、慣れ親しんでいた山道を歩くことの方が山で生活する彼らの抵抗は少なかったでしょうし、その方が無理が無かったんじゃないかと思われます。
その一方で例の水炊き後の荒木外記を水先案内として、船舶での移動も行われていたと思います。すべての金山衆が山路を行った、というわけではなくって、ですね・・。
しかしそちらのルートは金山衆の幹部たちを中心にして、山路では運搬が困難な金山開発に必要な道具類や工具・機械類といったものを運んだのかもしれません。
或いは新天地である蝦夷地で生活するための、少なからぬ生活用品などを運んだことも考えられます。何しろ千人規模の人間が、新天地の蝦夷地で何もないところから生活を始めていくわけですから、そのための準備は相当なものだったと、思われます。
陸路は身軽な金堀衆を中心にし、海路は幹部たちが金山開発の道具類や生活用品と一緒に船で蝦夷地を目指したと、考えることも出来るのではないでしょうか・・。
そして両者は、あらかじめ決めておいた津軽半島や陸奥湾の何処かの港で合流した上で、蝦夷に向かったと考えるほうが、現実的ではないかと思われます。
敵対する鎌倉幕府の眼を逸らすためにも、千人規模の人間がひと固まりになって行動するよりも、分散することで怪しまれることもなく、効果的であったと思われます」私はここまで一気に話して、珈琲を飲んで一息入れた。
「また、鎌倉時代の初期といった時代であることを考えた場合、当時の船舶建造の技術水準では、千人規模を一気に搬送する船を建造することが出来たとは、なかなか考えられません。無理があるのではないかと思われます。
この様に考えてみますと、甲州金山衆の蝦夷地への大移動を考えた場合、修験者大野了徳院の存在は、必要不可欠な存在でありむしろキーマンであったとさえ、言うことが出来るのではないかと思われます。
黒川金山や富士金山の金山衆を、蝦夷地に移住させるという大事業を成功させるためには、修験者の先導が必要だったと考えられるのです」
このくだりに成ると、知内のメンバーは嬉しそうに何度も肯いていた。
「最後に、先程も話に出ました『金の鶏』に関わる事をお話しします。『大野土佐日記』にも書かれているように、『金山祭りを行うために修験者の大野了徳院を連れて来た』という点です。
藤木さんがお話しされた様に、金の鶏をご神体とした金山祭りは黒川衆にとってはとても重要で、大切な神事でありイベントであったと思います。
その金山衆にとって大切な神事である金山祭りを行うために、大野了徳院を連れて来たんだ、という事も忘れてはならないと思います」私はここまで話して、北海道側のメンバーに向かって結論を述べた。
「黒川金山の『金山祭り』といったものは一体どんなものだったのでしょうか?若し判っているようでしたら、是非とも教えて頂きたいんですが・・」
私は藤木さんや西島さんと短く話した上で、応えた。
「この件は藤木さんがお詳しいようなので、藤木さんにお応えいただきたいと思います」私はマイクを藤木さんに渡して着席した。
「『金山祭り』についてですが鎌倉時代の事はもちろん判らないのですが、現在といいますかつい数十年前までのことでしたらお話しすることが出来ます」藤木さんはまずそのように断りを入れてから、話を始めた。
尚、ご神体の黄金の鶏は何で出来ていたのかをお尋ねしたところ、当時は金属製のご神体に金のメッキを施した物だったということでした。因みに言い伝えでは、古(いにしえ)の時代のご神体は本物の金で造られた『黄金の鶏』であった、ということだそうです。
区長さん曰く、ですが・・。まぁ黒川金山の金山衆の『金山祭り』のご神体ですから、当然といえば当然のことなんですがね・・。
そのご神体と同じものを先ほどの荒木大学が蝦夷地に持って行った、と考えられるわけです『金山祭り』のためにですね・・」藤木さんはそう言って、内山さんに目礼し着席した。
「内山さん『金山祭り』に関しては、藤木さんのご説明で宜しかったですか?」私はそう言って内山さんに確認した。内山さんが大きく頷いたので、私はそのまま話を進めようとした。その時、福佐さんが遠慮がちに手を挙げた。
私は福佐さんに向かって、
「何でしょうか?福佐さん」そう言って福佐さんにマイクを渡した。
「そうですね・・、黒川の場合は鶏冠山の象徴である黄金の金の鶏をご神体にした神輿を、若い金山衆が担いでた訳ですよね。
黒川衆の集落があったとされる高橋地区の『里宮鶏冠権現神社』から、2kmほどの山道を練り歩いて登り、鶏冠山の頂き近くの『奥宮鶏冠権現』に向かったと云ったような事ですから・・」藤木さんがここまで先程と同様の話をした時、西島さんが話を継いだ。
「黒川の場合は、里宮と奥宮の間を黄金の鶏をご神体にした神輿で練り歩いた、ってこんだからね、ほりょう参考にして知内に当てはめて考げえるとすると、金山衆が初めて上陸した『イノコ泊』はまず外せんじゃんね。何せ初上陸の記念すべき場所だから・・。
ほれからほの近くに在ったっちゅう神社、例の古銭が沢山出土したっちゅう・・」西島さんが言い淀んでいると、
「涌本神社だべか」と、福佐さんがフォローした。
「おう、ほの『涌本神社』だよ。ほこにも立ち寄ってから、さっきから話に出てる毛無嶽に在るっちゅう『あらがみどう』までの間を練り歩いたのかも知れんじゃんね・・。
もちろん黄金の鶏をご神体にした神輿を担いで、だよ。まぁ、あくまでもオレの推測だけんがね・・」西島さんは推測であることを、強調してそう言った。
「その程度の高さでしたら、修験者である必然性はなかったかも知れませんね・・」私も誰に言うともなく、言った。
「確かに・・。 千間岳は渡島(おしま)で一番高い山でしたっけ1000m級の・・」私は西島さんの言わんとすることを理解して、話を続けた。
「いずれにしても、黒川の金山祭りを参考に知内の金山祭りを推察するならば、『イノコ泊』を出発し、『涌本神社』に立ち寄り更に『毛無嶽』の丘の『あらがみどう』まで練り歩いたのではないかと。
「確かに、初めん頃は立花さんが言うようなこんだったかも知れんですね。けんど、何十年かして毛無嶽周辺で金が枯渇して、千間岳のほうに採掘の中心が移ってからは、変わったかもしれんですよ。
西島さんや私の推測に、福佐さんも内山さんもそれ以上は尋ねてこなかった。私達の推論にそれなりに納得したのだろうと、私は想った。
「そうしましたらこのテーマについては、このへんで終わりにさせていただきたいと思います。如何でしょうか?」私はそう言って知内のメンバーに目で確認した上で、プロジェクトチームのリーダー菊地さんのほうを見た。
菊地さんは、肯きながら私に話を進めてもよい、といった仕草をした。
「ではこれから四番目のテーマに移りたいと思います」私はそういって、話を進めた。
「四番目のテーマは『二代将軍源頼家との関係』についてです。この点につきましては、現実的ではないと思われます。最大の理由は、言うまでもなく年の矛盾ですね。
荒木大学らが蝦夷地に渡ったのが1205年(元久二年)と成ってますが、頼家がその前年に北条氏によって暗殺された歴史的事実は、如何ともしがたい。
『吾妻鑑』をはじめすべての歴史書にそのように明記されています。したがって、この個所は間違っていると言わざるを得ません。
あるいは面従腹反ということもあったかもしれませんが、鎌倉幕府や頼朝の嫡子頼家に対しては、怨念や恨みこそあれ、といった関係ではなかったかと思われます。
腹の底ではですね・・。従って、このテーマに関しては史実とは異なる、と言わざるを得ません。如何でしょうか?」私はそう言って北海道のメンバーに確認を取ったが、この点に関しては特に異論は出なかった。
「では、そういう事で次のテーマに進ませていただきます」私はそう言って、五番目のテーマに移った。
「五番目のテーマは『甲州金山衆と大野土佐日記を関連づける点が他にも何かあるのか』ということです。
この点についてはこれまで検討してきた通りですし、先ほどの藤木さんの話や秋山館長のお話の中で出てきた通りだと思います。
次にアイヌの襲撃を受けた時に、荒木大学が真藤寺の井戸に投げ込んだと言われている『金の鶏』の存在です。
荒木大学が大事にして保管していたのが『金の鶏』であり、黒川金山で黒川衆が尊崇した『鶏冠山権現』のご神体も同じ『金の鶏』であった、という共通点ですね。先ほど藤木さんがご指摘、ご説明された通りです。
更に先ほど西島さんも言われましたが、知内の金山でもある『千軒岳』と同じ名前の山が甲斐之國の黒川金山の周辺にも在る、といった点ですね。
この千軒岳といった名称も、そのように考えても良いのではないかと思っています。
要するにアイヌの名称ではなく黒川衆にとって、意味のある金山開発に連なる名称を付けたんではなかったのか、と言う事ですね」私はここでいったん区切って、改めて参加者の顔を見廻したうえで、話を続けた。
「またこれは、今後の確認作業が必要な事だと思いますが、中国から渡って来た知内と黒川の渡来銭の分析結果を、比較検証することがポイントになってくるんじゃないかって私は思います。
例の『涌本神社』近くの道路工事の時に発見された古銭と、黒川金山の遺跡で発見されたという古銭との、類似性と相違性を比較検証することですね。
知内で発見された古銭と黒川遺跡から出土した古銭とを考古学的に比較検証することが、何よりも重要になってくるんじゃないかと、私は想っています。その結果両者の類似性と相違点とが、明確になって来るのではないかと思うんですよね。
まぁ、この点については秋山館長にお願いするしかないんですが・・」私はそう言って秋山館長の方を見た。館長は判っている、といったように肯いた。
これらの多くは、私が山梨で調べてきたこと以上に、今日ここで行われました情報交換や交流の場で、新たに明らかになった点が少なからずあったと思います。私はもちろん、こちらの山梨から来ていただいた面々も、きっと同じ様にそう思ってられる事でしょう。
また知内をはじめとした北海道側のご出席者の方々も、その点は同じように感じられたのではないかと、思います」私はそう言って、もう一度出席者の顔を見廻した。参加者は山梨のメンバーも北海道のメンバーも皆、肯いていた。
「その意味では、我々はとてもラッキーだったのかもしれません。いくつかの新しい発見がなされた場に居合わせ、異なる地域の出席者がこうやってお遭いすることで起きた化学反応が発生したその場面に、偶然とはいえ居合わすことが出来たわけですから・・」私はそう言って、このテーマに区切りをつけた。
「最後に、六番目のテーマであります『大野土佐日記』に対する山梨側視点での総合評価、について、言及させていただきたいと思います」
「まぁこの点に関しましても、先ほど来の山梨のご出席者の方々の反応を見ていただければお判りなように、全体的には『大野土佐日記』を大筋では認めていらっしゃる、と思います」私の話に山梨のメンバーは皆、相槌を打った。
「取り分け冒頭部に書かれている部分、即ち鎌倉時代の初期に甲州金山衆が蝦夷地の知内にやってきたという伝承に関しましては、大筋では信用してよいのではないかとそのように思ってられるのではないか、と思います。一部を除いてですがね・・。
その一部とは言うまでもないことですが、先ほど来申し上げている二代将軍源頼家と荒木大学の関係を除いて、ですね。それで宜しいですか?」私は山梨側のメンバーに確認しながら、話を続けた。
更に言えば地元で長らく伝承されて来たように、黒川金山の開発時期が鎌倉時代初期の義定公の頃にまで、遡ることが出来るのではないかと思われるわけです。
そういったことを裏付ける有力な資料として、この『大野土佐日記』を位置づけることが出来るのではないか、と思います」私のこの発言に、西島さんを始めとした山梨側のメンバーは皆大きく肯いた。
「鎌倉時代初期の、黒川金山の開発を裏付ける遺品や遺跡といったものが乏しいために、これまで歴史家の間では定説に成り得なかった点が、『大野土佐日記』を始めとした知内の金山開発の伝承や考古学的な証拠の出現に依って、近い将来確信と成って評価される日が来るのではないかと、期待されるわけです。
そういう意味では先ほど頂いた知内の渡来古銭の分析データと、黒川の遺跡から発掘された古銭のデータの突合せが、改めて重要な意味を持ってくるのではないかと私は想っています。しつこいようですが、秋山館長の今後に期待するところが大きいわけです。
決してプレッシャーではありませんので、その点ご理解のほど、宜しくお願いします」
私は出来るだけ穏やかに、そう言って館長に念を押した。館長は大丈夫だという様に、ここでも大きく頷いた。
「なお、秋山館長から古銭の比較分析結果が出ましたら、知内の皆さんを初め『北海道砂金・金山研究会』のプロジェクトチームにも送らせていただきたいと、思っています。
西島さん、それで宜しいですよね」私は山梨側のリーダーでもある西島さんに確認を取った上で、私の報告を締めるために言った。
「では以上をもちまして、私からの『検証レポート』に基づくご報告は終わらせていただきます。長時間に亘ってのご清聴、ありがとうございました」私はそういって深々と頭を下げた。出席者からは拍手が起こった。
私からマイクを引き取った菊地さんが、私に向かって言った。
「いやぁ~、立花さんご苦労様ですそしてありがとうございました。面白かったです。今回皆さんに山梨からわざわざ北海道まで来ていただいて、ほんとに佳(い)かったです。
あ、いかったってのは北海道弁でして、佳(よ)かったという意味です。決して怒ってるって意味ではございません。その点誤解なきようお願いします」
菊地さんのユーモアを交えた感謝の弁に山梨側のメンバーから笑いが起きた。会場に何となく緊張が緩んだ空気が流れた。
「もちろん現時点では民俗学的な検証や歴史学的な検証が中心ですが、古銭の存在によりどうやら考古学的な検証も可能になりそうです。私達もその分析結果を心待ちにしてます。
北海道だけ、山梨だけでそれぞれ個別にバラバラにやっていただけでしたら、決して得られなかった成果が得られたものと確信しています。先程立花さんが言われたように、私は化学反応が起きたのだと思っています。
「そして杉野さん、ありがとうございました。あなたからの熱い想いや問題提起があったからこそ、今回の交流会が実現しこうして『大野土佐日記』に対する、従来の評価・定説を覆すことに成るかもしれない事実や推論がいくつも明らかになり、誕生もしてきました。ホントにご苦労様でした」菊地さんはそう言って杉野君をねぎらった。
そして、ガラリと口調を変えて言った。
「さて、皆さん時間も6時近くになりました。この会議室の予約時間が間もなく終了します。タイムアップです。そこで、これから二次会と申しましょうか、懇親会に移りたいと思っています。如何でしょうか?」
菊地さんがそう言って皆を見廻した時、会場からは大きな拍手が起こった。皆、この時間を楽しみに待っていたようだ。
懇親会の会場となるその店は地元函館を中心とした道南渡島の食材を使った、魚介類の料理が自慢の地産地消型の小料理屋であることを、杉野君は強調した。
海のない山梨からのメンバーにとって、それは喜ばしいことであるに違いないと私は杉野君の選択を喜んだ。
杉野君の懇親会の案内が終わった後、菊地さんが締めの挨拶をした。北海道のメンバーからも山梨からのメンバーからも共に大きな拍手が出た。今日の情報交換会に多くのメンバーが、満足していた証だと私は感じた。
その後自然解散になり、私達はそれぞれの所用を終えた後で改めてエスカレーター前に集合した。それから杉野君の案内で、函館の街に向かった。
七月の北海道は日が長く、6時半を過ぎてもまだ充分明るかった。
その考えは杉野君と私とで話し合い、菊地さんと西島さんにも事前了承をとっておいた。目的意識や問題意識の高いメンバー同士ということもあって、懇親会は大いに盛り上がった。誰一人として、孤立する人はいなかった。
四つあったテーブルにはそれぞれ人が集い、また席を移動する人もあり、議論や会話が随所で盛んにおこなわれ、時に大きな笑い声が起きることもあった。
メンバー間で交流がスムーズ、かつ活発に行われていた。
ほとんどのメンバーはホテルに戻ることもなく杉野君の案内で、三次会に向かうことになった。もちろん私もその中の一人であった。
三次会の店に向かう途中、上弦の月を津軽海峡側の空に見ることが出来た。
その時私はフト学生時代にあった、嵐山渡月橋でのあの歌会のことを思い出した。あの時の月は京都で観た中秋の満月であったが、今日は北海道に来てこうして杉野君と共に二人で上弦の月を眺めて歩いている。
「北海道知内町涌元の道路工事で昭和26年に発見された渡来古銭の内訳」
古銭名 | 初鋳年 | 枚数 | 古銭名 | 初鋳年 | 枚数 | 古銭名 | 初鋳年 | 枚数 |
開元通宝 | 621 | 53 | 至和元宝 | 1054 | 4 | 紹熈元宝 | 1190 | 0 |
乾元重宝 | 758 | 0 | 至和通宝 | 1054 | 4 | 慶元通宝 | 1195 | 0 |
光天元宝 | 918 | 0 | 嘉祐元宝 | 1056 | 7 | 嘉泰通宝 | 1201 | 0 |
乾徳元宝 | 919 | 1 | 嘉祐通宝 | 1056 | 17 | 開禧通宝 | 1205 | 0 |
周通元宝 | 955 | 1 | 治平元宝 | 1064 | 11 | 嘉定通宝 | 1208 | 3 |
唐国通宝 | 959 | 0 | 治平通宝 | 1064 | 7 | 紹定通宝 | 1228 | 0 |
宋通元宝 | 960 | 0 | 熈寧元宝 | 1068 | 87 | 端平通宝 | 1234 | 0 |
太平通宝 | 976 | 2 | 元豊通宝 | 1078 | 109 | 嘉熈通宝 | 1237 | 0 |
天福鎮宝 | 984 | 1 | 元祐通宝 | 1086 | 74 | 淳祐元宝 | 1241 | 1 |
淳化元宝 | 990 | 6 | 紹聖元宝 | 1094 | 21 | 皇宋元宝 | 1253 | 1 |
至道元宝 | 995 | 10 | 元符通宝 | 1098 | 8 | 開慶通宝 | 1259 | 0 |
咸平元宝 | 998 | 7 | 聖宋元宝 | 1101 | 24 | 景定元宝 | 1260 | 0 |
景徳元宝 | 1004 | 20 | 大観通宝 | 1107 | 5 | 咸淳元宝 | 1265 | 3 |
祥符元宝 | 1008 | 29 | 政和通宝 | 1111 | 23 | 至大通宝 | 1310 | 0 |
祥符通宝 | 1008 | 12 | 宣和通宝 | 1119 | 0 | 開泰元宝 | 1324 | 1 |
天禧通宝 | 1017 | 15 | 紹興元宝 | 1131 | 0 | 大中通宝 | 1361 | 0 |
天聖元宝 | 1023 | 50 | 紹興通宝 | 1131 | 0 | 洪武通宝 | 1368 | 20 |
明道元宝 | 1032 | 2 | 正隆元宝 | 1157 | 1 | 永楽通宝 | 1408 | 205 |
景祐元宝 | 1034 | 22 | 淳熈元宝 | 1174 | 0 | 宣徳通宝 | 1433 | 3 |
皇宋通宝 | 1038 | 121 | 大定通宝 | 1178 | 0 | 朝鮮通宝 | 1423 | 0 |
|
|
|
|
|
| その他/不明 |
| 5 |
|
|
|
|
|
| 合 計 |
| 996 |
出典:『知内涌元古銭の調査研究』函館工業高等専門学校埋蔵文化財研究会
註:上表は、函館高専の発表結果を筆者が加工作成したものである。
「開禧通宝」(1205年)の鋳造年は、荒木大学が知内に来た年とされている。
従って中国からの渡来銭が日本に入った年次のタイムラグを考えると、10~20年は遡ったそれ以前に鋳造された渡来銭が、荒木大学一党が持ち込んだ可能性のある銭種であると考える事が出来る。
函館での交流会を終えて十日ほど経った日に、「甲州金山博物館」の秋山館長から連絡が入った。
知内で発掘された「涌元古銭」を函館高専の学生サークルのメンバーが分析したデータと、黒川金山遺跡の発掘調査の際に出土した「黒川古銭」の分析データを比較した調査結果が、判明したのだった。
秋山館長の話の概略は以下のようなものであった。
二つの古銭群を製造年別に分類した結果、多くの類似性がみられたと云うことであった。函館での情報交換会の際にも言っていたが、荒木大学達が知内に上陸したとされる1205年(元久二年)を境に、
上陸以後の古銭は「知内涌元古銭」が237枚で23.8%、「黒川古銭」が10枚で11.6%であった。
② 銅銭の種類を同様の区分で分類したところ上陸以前の銅銭は「知内涌元古銭75.7%、「黒川古銭」76%であった。
上陸後はそれぞれ24.3%、24.1%であった。
その上で「甲州の標高1,700m級の山の中にある黒川金山の鉱山地区で流通していた古銭と、混ざり具合が殆ど一緒の古銭が1,000km以上離れた蝦夷地の、津軽海峡近くの海岸の集落でも流通していた、ということに成る」と。そして、
その際秋山館長は館長の勤めている「湯之奥金山」の発掘現場から採集された古銭と、黒川金山の在る同じ甲州市内でも、黒川金山とは全く隔たった別の場所、即ち甲州市塩山千野地区でも大量の古銭が発見されてることから、それらのデータと比較検討してみたいと言っていた。
「残念なのは、館長の地元の「湯之奥金山」で発掘発見された古銭は8枚しかないから、比較検討するのにはデータ不足感があるのは否めない・・」と言ってはいたが。
因みに、秋山館長が言っていた塩山千野地区の古銭群と云うのは、現在の甲州市の母体でもある旧塩山市が、平成の大合併前に作成した公文書『塩山市史―文化財編―』に記載されている、旧塩山市千野地区で発見された古銭9,370枚のことであった。
塩山市千野地区は黒川金山から直線で12kmほど南下した、標高差1,000m以上さがったJR中央本線にそう遠くない里である。
標高1,700m級の黒川山中の金山採掘現場で流通していた古銭群と、甲府盆地の市街地の一画である塩山の里で発見された古銭群との比較が、より一層知内との関連性を明確にしてくれるのではないかと館長は期待しているのであった。
私はこの秋山館長からの連絡を聞き、館長同様に興奮を覚えた。いよいよ荒木大学を始めとした黒川衆を核にした甲州金山衆が、知内に大移動したことがこの古銭の比較分析によって、証明されるのではないかと思ったからである。
このことを知れば、知内のメンバーを始め「北海道砂金・金山史研究会」のメンバーもきっと喜ぶだろうと、想った。
そして何よりも、八百年近く『大野土佐日記』を守り続けてきた、雷公神社の宮司である大野家の人々を始めとした、知内の人達も同様であろうと・・。
杉野君には秋山館長からの古銭の分析結果が入手出来たら、早々にデータを転送することを約束しておいた。北海道でのそこから先のことは、彼に任せておけばよいだろうと、私は想った。
その夜私は独りで祝杯を挙げ、喜びを噛みしめた。真夏の暑い夜であったがマンション八階のベランダに出て、ロッキングチェアに揺れながら三多摩の夜景を眼下に見下ろし、ワインを呑んで独り祝った。
そして肴は、函館で買い求めてきた「鮭のトバ」であった。
市街地とは逆の山梨に向かう山側に、満月が掛かっていた。
満月の後背とでもいうべき夜空は、黒に近い深い紫であったか・・。山の容(かたち)が濃い緑のシルエットに観えた。
![]() 〒089-2100 北海道十勝 , 大樹町 ![]() ] ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() |