W杯 ブラジル戦 昨日のブラジル戦で、2026年W杯北中米大会の日本代表戦は終わってしまった。 残念である。もう少し日本代表戦の戦いを観続けたかったからである。 W杯が開戦する前から、森保監督が公言していた「優勝を目指す!」という言葉を、私は初めから真に受けていなかったから、決勝戦までの試合を観る事ではなかった。 先ずはBEST8に到達する事が、現在の日本代表の”現実的な到達目標 ”だと考えていたので、私が期待していたのは、 出来る事なら今回のブラジル戦に運よく勝てて「BEST32→BEST16→BEST8」まで到達する、というシナリオであり、そのためにまだ”+2試合は観たかった ”のである。 しかし相手が悪かった、現在の日本代表が好いチームである事は確かだった。 しかしだからと言って 「ブラジル」「フランス」「アルゼンチン」「イングランド」「スペイン」「オランダ」に、 W杯のトーナメントリーグで間違いなく勝てる、とは考えてなかったし、現時点でそれは「期待」であり「願望」であり、「妄想」でしかない。 私は夢と現実とを明らかに区別する”現実主義者 ”だからである。 従って「+2試合」を観れなかったことが、残念だったのだ。 もう少し「観戦者」ではない「当事者」として、今回のW杯を愉しみたかったのである。 ![]() さて、今回の「ブラジル戦」である。 最大の敗因は、選手個々人の技術や能力以上に、監督の「戦術プラン」の問題であり「選手起用のプラン」であったようだ。 言うまでもなく今回のブラジルを指揮していたのは、「名将アンティロッティ」である。 ヨーロッパのサッカー界の歴史や現状を良く知っている人には知られた人物で、ヨーロッパのクラブチームやナショナルチームを何回も勝利に導いて来た、百戦錬磨の名監督なのである。 W杯に向けて彼はチーム力を高め、チームとしての結束を強め、事前にPLAN:AやPLAN:B、PLAN:Cを準備し、備えておくことが出来る経験豊富な人物であった。 かつての日本代表を率いて来た監督で言えば、「オシム」や「ザッケローニ」に匹敵する現役監督である。 ![]() そしてそのアンティロッティが動いたのはハーフタイムを挟んだ、後半であった。 前半の日本DFの堅牢で統率の取れたブロック守備を、崩すための戦術を採用したのであった。 一つは中盤のメンバーチェンジであり、より決定的だったのは攻撃の主戦場を「中央」から「両サイド」に変更した事である。 すなわち、サイドチェンジを含め左右の両翼からの攻撃に替えたのであった。 これが見事に功を奏したのである。 これに対し日本のDF陣は前半の守備体制を継続しつつ、よりブロックを固めるためのメンバー交代や、陣形維持に努めたのであった。 これが森保監督の対応戦術であり、彼の限界でもあった。 解説の本田圭佑氏が盛んに叫んでいたように、”しっかり守って、同時に攻めろ!”や”守るだけやなくって、守りつつ攻めなアカン!”との違いであった。 日本は1点リードしていたから、守りを堅くしリードを守る事は、当然の選択肢であったことに疑いはない。 問題はその先に何を見たのか、何をしようとしたのかである。 勝つための手配を怠っていたのである。 森保監督は、そのまま堅守を堅持して1点を守り切るか、たとえ1点を返されたとしても、そのままドローで延長戦に持ち込めばよい、と考えていた様である。 ![]() もちろんこれはあくまでも推測であって、彼の口から語られないと真相は判らない。 その私の推測を裏付けるのは、「交代要員」のメンバーであった。即ち「攻撃陣」の「中村健斗」「堂安」に替えて、「守備要員」の「菅原」「鈴木淳之介」の投入であった。 これは明らかに後半戦の戦いの軸を、「堅守、速攻」から「専守防衛」に移したことを意味し、同時にその監督の意向をフィールド上の日本戦士達へ伝えるメッセージ、でもあった。 と、同時にブラジルの監督や選手達にとっては、「守備への負担」を軽減させて「攻撃に専念しても良い」という、メッセージにもなったのである。 ブラジル陣は「個人技」や「技術」では、日本選手の「技」を越えてる選手が明らかに多く、W杯を始めとしたカップ戦などを通じて「ノックアウト戦」という修羅場を経験している選手や、闘う術を知っている選手の数はもちろん多い。 そのブラジル選手たちに、森保監督は「専守攻撃」という、絶好の舞台を提供してしまったのだ。 それから彼らの猛攻撃が始まり、ほどなく同点に追いつかれてしまい、最終的には後半AT=ロスタイムに、勝ち越されてしまった。 後半戦での監督の采配、即ち「選手交替」と「戦術チェンジ」の差が、日本代表のブラジル戦敗退をもたらしたのであった。 直接的な要因は確かに、田中碧選手のブラジル右ウイングからの攻撃への対応のまずさがあったのであるが、より多くは監督の采配のミスであり、戦術のミスであった。その点をはき違えてはいけない。 更に付け加えるなら、控え要員の塩貝選手のSNSでの、不必要な「ブラジル選手への侮辱」であり、「挑発」であった。 このSNSがサッカー王国ブラジル選手たちのプライドを傷つけ、「国技」を汚されたと感じたセレソン達のハートに「火をつけた」のであった。 サッカーは「技」と「戦術」を駆使したスポーツである、と共にプライドを掛けた「心」や「情熱」を伴う、「ハート」のスポーツである事を、この若者は意識してなかった。 そしてこの若者の人間的な未熟さをたしなめたり、修正させるような「心理学的ケア」をコーチ陣が怠っていた事も、今回の敗因の一つだったと私は感じている。 ![]() 一方森保氏はJリーグでは何回かの優勝経験を持ち、実績を持っている。「通常リーグ」向けの監督なのである。 彼は期間が限られた「国際的なカップ戦」でこれまで一度も頂点に立ったことが無い。 1年間を通して選手を育成し、チームを作ったり「リーグ戦」の戦い方には経験はあっても、3・4週間の間に「王者」を決める「国際マッチ」では、一度も結果を出してない。 せいぜい準優勝どまりだし、東京オリンピックでは「金メダル」を公言していたが、結果は4位で終わっている。 ー 森保JAPANの国際カップ戦での戦績 ー ・2019年アジア杯:準優勝 ・2021年東京オリンピック:4位 ・2022年W杯:BEST16 ・2024年アジア杯:BEST8 ・2026年W杯:BEST32 森保氏には選手育成の定評があり、実際「選手の育成」ではそれなりの結果を出している。その点は彼の指導者としての評価すべき能力であろう。 従ってこれから彼には、日本代表監督を今回限りで勇退してもらって、JFAの幹部として「アカデミー」等で若手を発掘したり、育成に力を注入してもらい、日本サッカー界の次世代を担う人材を育てる事などに、その能力を発揮してもらった方が良いのではなかろうか、と私は想う。 その上で次のW杯では、ぜひともBEST8を狙える監督を招聘してもらいたいものである。 このまま森保JAPANを継投するとしたら、日本の「50年以内W杯優勝」の道筋は、全く見えてこないであろうと私は想ってる。 と同時に、私自身のストレスも解消しない。 もし可能であるならば私は自分の人生が終わる前に、「日本代表のW杯優勝」を観てみたい、と想っている。 これは私のささやかな願望なのである。
|
![]() |
|
その金曜日の午過ぎに私を含む山梨県側のメンバーは、梅雨の無い北海道の函館空港に到着した。
空港では杉野君が到着ロビーで我々を出迎えてくれた。メンバーの簡単な自己紹介を済ませて、私達はそのまま杉野君の運転するワンボックスカーに乗って、彼が手配してくれた昼食会場に向かった。
函館空港から10分程度のそのレストランは湯の川温泉の外れにあり、津軽海峡に面していた。そのレストランは和風で、どうやら蟹料理が売りの店らしい。
1時を過ぎていたこともあってか、店はそんなに混んではいなかった。平日のせいもあったのかも知れない。
彼は学生時代からこういう場面での仕切り役をしていたこともあってか、実に手際よくことを済ませた。その上で乾杯の音頭は、西島さんに依頼した。
彼は空港からの移動の間にも、このメンバーの中で誰がリーダー格であるかを見抜いていて、西島さんに乾杯の音頭を依頼したのだと思う。旅行代理店勤めの経験で、彼の天性の才能は更に磨きをかけられたのかも知れない。
ランチメニューの蟹料理を満喫した山梨側のメンバーは、大いに満足して店を出て、今日の会議会場でもあり宿泊先でもある、函館駅前のホテルにと向かった。
ホテルでのチェックインを済ませた後で、杉野君は今後のスケジュールを私達に説明してくれた。このスケジュールは事前に私との間で調整していたものであり、私からもメンバーにはスケジュール表をすでに渡しておいた。
3時からは小会議室で、杉野君も属する「北海道砂金・金山史研究会」のメンバー達と、情報交換会が予定されていた。
私が杉野君を見つけて近寄ると、彼は砂金サークルのメンバーを紹介してくれた。私がサークルメンバーと個人名刺を交換していると山梨側のメンバーも集まりだした。
改めて彼らと砂金サークルのメンバーを引き合わせた上で、会議テーブルに着いた。
北海道のプロジェクトチームのメンバーは杉野君を含め八人だったのに対し、山梨側は私を含め五人であった。
プロジェクトリーダーの菊地氏が口火を切って、山梨県側のメンバーに謝意を現した。その上で、今日の情報交換会の意義を話した。彼は歓迎の言葉と共に、以下の様な挨拶をした。
「北海道砂金・金山史研究会」についての簡単な説明を終えると、何故会員メンバーが『大野土佐日記』に興味を持ったかについて丁寧に説明した上で、同書の検証を大いに主張した杉野君の熱心さについて話した。
その上で、現在のプロジェクトチームの中では、この古文書についてポジティブな評価が共通認識になっている、と話してくれた。そのような土壌が出来つつあったその時に、私が杉野君に提出したレポートが出て来た。
山梨側での甲州金山に関する調査・検証結果のレポートを読むことで、いよいよ荒木大学及び、『大野土佐日記』の実在に対する確信を得ることが出来、メンバー間では大いに意気が上がっている。と嬉しそうに話し、今日の情報交換会を自分自身も大いに期待している、と話し挨拶をまとめた。
砂金サークル側の挨拶に続き、西島さんが山梨県側を代表してあいさつを始めた。
西島さんは山梨から函館に自分達を招いてくれたことに、先ず感謝の言葉を述べた上で「荒木大学」や『大野土佐日記』について話を始めた。
「私は今回の話を立花さんから聞きまして、非常に大きな興奮を覚えました」と率直に語ったうえで、話を続けた。
「と、言うのも鎌倉時代の甲斐源氏と鎌倉幕府の事を研究していた自分にとって、安田義定公の業績は甚だ大きいものであります。
安田義定公と言っても誰のことか、皆さんには皆目見当がつかないことと思いますが、その解説は改めてたっぷりさせていただくとして、その義定公の領地経営に欠かすことのできない甲州金山の開発が、義定公の死後数年でぱったり途絶えてしまったことを、常々疑問に思っておりました。
第二は、『知内町に残る荒木大学と甲州金山衆の検証と史跡』ということで、不肖この私が基調報告をさせていただき、私にいろいろ教えて頂きました知内町の郷土史研究家で同研究会のメンバーでもある、内山さんと福佐さんにも補足説明等をお願いします。
第三は『山梨県における荒木大学及び甲州金山衆』に関して、お手元の資料を基に私の依頼でこの件について調査をし、検証レポートを書いてもらった立花君にお願いいたします。
それぞれ2・30分ずつ基調報告を行い、その後質疑応答や補完説明をしてもらう予定でして、都合3時間程度のお時間を頂く予定です。尚、途中休憩タイムを挟みますので、おトイレやおタバコの方はその時にお願いします・・」杉野君はそういって皆を見回した上で、笑顔になって
「尚、6時頃には情報交換会を終了しまして、その後は場所を変えて懇親会を予定していますのでそれまでの間はビールを我慢して、できるだけ真剣で中身のある情報交換を行ってもらいたいと思っています」とユーモアを交えて続けた。
杉野君の話が終わった時には皆の顔が緩み笑顔になり拍手が起こった。懇親会が効いたのかもしれない、と私は想った。
杉野君はニコニコ顔で挨拶を終えると、大友さんにマイクを渡した。
大友さんは軽く挨拶を済ませると、手元のレジュメに基づき早速、第一のテーマである『大野土佐日記と荒木大学』に関するレクチャーを始めた。
ここに私は、当時の歴史学者たちのこの古文書に対峙する、基本的な姿勢が窺えるように思われます。
そして、この様なスタンスで導かれ、科学的・客観的な検証が殆ど示されないまま得られた結論だけが、独り歩きしてしまい『歴史学者の間での定説』に成ったまま今日に至っている、というのが実情ではないかと思われます。誠に残念なことです。
「え~それではここからは、私がこちらの知内の郷土史研究家である内山さんや福佐さん達との情報交換を重ねて行なって得た情報をもとに、荒木大学に関する『大野土佐日記』の記述内容を、調べたり現地視察したりしてきたことを中心に、お話しさせていただきたいと思います」
杉野君はそう云いながら、手元のレジュメをめくり解説を始めた。
『荒木大学が鎌倉二代将軍頼家の命を受け、元久二年(1205年)に蝦夷地に向かった』という点がまず挙げられます。
ご存知のように、二代将軍頼家は北条時政を中心とした鎌倉幕府の宿老達の協議によって伊豆に幽閉され、元久元年に北条氏によって暗殺されています。従ってこれは明らかに正しくない記述だと判断してよいと思います。
次に『荒木大学が甲斐の国いはら郡の領主』であったと書かれている点なんですが『庵原郡』は駿河の国の領内の地名であって、甲斐之國には存在しないという事からこれも過ちである、とされていました。
これらについても立花君が検証してますので、ここではそういった点に疑念を抱き、当時の歴史学者たちが『大野土佐日記』は偽書である、との評価を下したのではないかと推測できると、指摘させてもらいたいと思います。
次に、これは私自身が内山さんや福佐さんから得た情報を基にして、この古文書に書かれていることが、ひょっとして正しいのではないかと思うきっかけに成った、知内に残る史跡などについて、スライドを見ながら説明させていただきます」
杉野君はそう言うと手元のノートパソコンを操作し始め、OHPと連動させて正面に準備しておいた白板に、デジカメやスマホで撮っておいたと思われるスライドを映し始めた。その際、白板近くの照明が落とされた。
「この通り、知内町と言いますのは北海道の最南端である渡島(おしま)地域でも、最も青森に近いエリアでして、東側の下北半島の先端である大間と函館の関係と同様に、西側の津軽半島の竜飛岬から、最も近いエリアになります。
因みに北海道新幹線の通る青函トンネルの北海道側の出口は、将にこの知内町であります。更に奇遇というべきか、荒木大学が最後に居城を構えたと言われている、その名も『大学地区』に出口があります。
荒木大学も八百年後に自分の居城の下を、新幹線が通る事など夢にも思わなかったと想います」杉野君の解説に出席者から小さな笑いが起こった。
「ですから本州側から蝦夷地を目指した場合、知内の浜に船が漂着すると言った『大野土佐日記』の記述は、非常に合理的で理に叶った事だったわけです。
とりわけ九州筑前の国の船が漂着するとした場合、日本海側からのアプローチになるわけですから、知内である事がとても自然で合理的なんです」杉野君はそういってスライドを動かした。
「次の写真は、荒木大学が最初に上陸したとされる『イノコ泊』と『涌元神社』になります。『イノコ泊』は荒木大学が知内に上陸した時にアイヌのイノコという名の美しい娘と遭ったとされる『泊まり』、要するに自然の港ですね。
ここは非常に見晴らしの良い場所で、天気の良い日には津軽海峡を眼下に見渡すことが出来ます。またこの涌元神社の近くには、明治時代にマグロ漁で財を成したという網元の『マグロ御殿』が在ったところで、津軽海峡に出て漁をするのに適した場所でもあります。
この辺りは明日、皆さんにも行っていただく予定でいます」そう言って彼はさらにスライドを動かした。次のスライドには古銭が移っていた。
杉野君はその後、かつて毛無嶽と言われ現在では知内公園となっているエリアの写真を映し出して、続けた。
「ここが荒木大学が知内に来て、最初に居城を構えたとされる毛無嶽の写真です。ご覧の様に、現在では鬱蒼とした林の小高い丘になっています。
しかしこれらの黒松や杉の木立はここ数百年の間にできた林でして、これらの林を取り除くと、涌元の神社と同じように遠くに津軽海峡を見渡す事は出来たのです」杉野君は皆の顔を見たうえで続けた。
「荒木大学を始めとした甲州金山衆がここに拠点を移した時は先ず、この地の太古から手つかずの立派な木立を伐採し、住居や作業場・城郭の材料にしたのではないかと思われますので、当時の視界は当然良かったと想像出来ます。
もちろん津軽海峡からは数キロ離れていますから、涌元神社程ハッキリ見えたわけではありませんでしょうが・・」杉野君はそういって、話を続けた。
「この毛無嶽に関しては江戸時代初期の松前藩の逸話が残っていますが、ここでは荒木大学にフォーカスを絞って話します。ここに非常に興味を引く祠が残っています。その祠は『荒神堂』と言います。荒神(こうじん)様の荒神と書きまして『あらがみどう』と言い伝えられています。
地元の人々は『こうじんどう』とは決して言わず『あらがみさま』と呼んでいます。私はそれはいったい何故なのか、と考えてみました」ここでも彼はまた皆の顔を見た。
「そして『あらがみさま』というのは、ひょっとして『あらきだいがくさまを神として祀った御どう』という意味ではないかと、考えました。その様に考えてみたら、とてもすんなりこの祠の呼び名を理解することが出来ました。
果たしてこれは私の単なる邪推に過ぎないのか、それとも私の推測が正しいのか、内山さんたち知内の郷土史研究家の皆さんにも、問いかけているところです」と言って、知内の出席者の方を見た。
この小高い丘の名称にしても、荒木大学や甲州金山に関連した名前ではなかったのか、と私は思いを強くしました」このくだりになって山梨側のメンバーから、ちょっとしたざわめきが起きた。
その後杉野君はかつて荒木大学の居城があったとされるエリアであり、新幹線の出口付近でもある『大学地区』を北海道新幹線が疾駆している写真を映した上で、知内温泉の小さな温泉神社の写真を映した。
今でも知内温泉では温泉裏手のこの小さな神社を守り続けており、8百年近くずっと守り続けたお堂としての誇りをもって、大事にしているとの事でした」と、解説を加えてスライドを動かした。
「この写真は『上雷神社』という現在の『雷公神社』の元社で、明治35年に現在の場所の元町に遷宮するまで、7百年近くこちらで祀られていた神社です。京都の賀茂神社の別け雷(いかずちの)神を祭神として祭っている神社だそうです。
尚、この知内の元町地区の雷公神社で、例の『大野土佐日記』の原本を代々保管しております。また荒木大学と一緒に金山祭りを執り行うために蝦夷地にやって来た、あの大野了徳院の子孫が宮司を務めている由緒ある神社です。
ここは知内の中心部に在る小さな鎮守の森、というか林に囲まれた神社です。参道の脇右手に在る平らな場所は以前、相撲の土俵などが在った場所だということです」
そう言って杉野君がスライドを動かし、社殿を映した時また山梨のメンバーの辺りからちょっとしたざわめきが起こった。
社殿に掛かっていた幕に、武田菱の神紋が在ったからだ。
この雷公神社の元社ですから、この祠にお参りしそちらに向かって柏手(かしわで)を打ち頭を下げることは、元社に向かって参拝することに成ります。それはすんなりと納得いきます。
ところがですね更に上雷神社の先を辿って行くと、かつての荒木大学の居城があったとされる『大学地区』に、当たるんです。私はこれにはちょっと驚きました」ここで彼は改めてみんなの顔を見廻して、話を続けた。
私が『荒木大学様を祀ったお堂』と、想っている『荒神堂』なんです」杉野君がそこまで話した時、部屋には再びどよめきが起こった。一部では拍手も起こった。
「ここに至って私は8百年近くの間、雷公神社の宮司である大野了徳院の子孫達が、如何に荒木大学を尊崇してきたのかを、垣間見る気がしました。
彼らは8百年の長きに亘って連綿と荒木大学を尊敬し、慕い、敬い続けその事績を著わした『大野土佐日記』を書き残し、大事にして守り続けて来たのではなかったと、そう確信するに至ったわけです。
いわば『大野土佐日記』は、知内の人々にとって『古事記』のような存在なのではなかったかと、私は思っています」杉野君はここまで一気に話した。
「最期にこの『雷公神社』の二十四代目の宮司さんである大野七五三氏が詠んだ和歌、を披露して私の報告を終わらせていただきます」そういって、杉野君は和歌を詠んだ。
「神様をまもり続けて七百年 世にも人にも 捨てられもせず」
最後のくだりでは、杉野君も少なからぬ感情が入っているように私は感じた。そしてその想いは他の参加者にも通じたのであろうか、大きな拍手が起こった。
こうしてスライド上映は終了し、再び部屋の明かりが灯された。
「以上が、私が知内の荒木大学につながる史跡を尋ね、調べた結果『大野土佐日記』の古文書としての信憑性を高めるに至った、私なりの検証結果であります。
これまで皆さん、ご清聴いただきありがとうございました」杉野君はそういって、皆に向かって深々と頭を下げた。
同席者の間、とりわけ山梨の出席者の間から大きな拍手が沸き起こった。

杉野君からマイクを受け取った菊地さんは
二人は自己紹介と挨拶を短く済ませ、話を始めた。マイクは内山さんが握った。
内山さんの合図で、福佐さんがA4サイズのカラー刷りの『しりうち文化財散策マップ』と、A5サイズの黄色っぽい表紙の小冊子『知内歴史散歩』とを、皆に配った。
内山さんは先ず『しりうち文化財散策マップ』を見開くように言い、解説を始めた。
同マップはA4判6ページの、大き目なリーフレットのような構成になっていた。見開きの内側は知内町の地図で、町の文化遺産にそれぞれ番号と簡単な解説が記載されており、一目で町の文化遺産とその所在地が判るようになっていた。
内山さんはその見開きの地図を基に、先ほど杉野君が説明したポイントを先ず地図をなぞりながら説明した上で、話しを続けた。
「明日皆さまをご案内する予定になってますのはこれらの内『イノコ泊』『涌元神社』『毛無嶽』『上雷神社』『大学様居城地区』『真藤寺跡』『知内温泉』『雷公神社』『知内郷土資料館』等でして、いずれも大学様や『大野土佐日記』に関連する史跡が中心です。
もちろんその他皆様からのご要望があれば、追加させていただきます」内山さんはここまで言って、山梨側のメンバーに向かって目を向けてから、続けた。
「因みに知内温泉では、先ほど話に出ました江戸時代後期に最上徳内が実検した、応永十一年西暦1404年に大学様建立、の棟札のあった薬師堂跡の知内温泉神社も、観ていただく予定でいます。
尚知内温泉からほど近い湯の里地区には、大学様が菩提寺として創られた『真藤寺』の跡地と言われている場所がありまして、そちらにも寄ってみたいと思ってます」
またこの寺には後にアイヌによって金山衆が襲撃を受けた際に、大学様家宝の金製の『黄金の鶏の像』が投げ込まれた井戸が在った、という伝承があります」内山さんがここまで話した時、山梨側の出席者からざわめきが聞こえて来た。
「この黄金の鶏の伝説は昭和の時代でも有名であったらしく、その鶏の像を求めて真藤寺があったとされる、湯の里地区の『チリチリ川』界隈を探索したという、ロマンチストが居たと年寄りが話(しゃべっ)ておりました」
内山さんから『黄金の鶏の像』の話が出た時のざわめきは、何か山梨の人達を刺激する様な内容でもあったのだろうか、とその時私は感じた。
この時西島さんが「やっぱりな」と、言うような声を発した。
ここでも話が『千軒岳』に及んだ時、小さなざわめきが山梨側で起こった。
「最後に『知内郷土資料館』では知内の民俗資料が沢山展示というか、放置に近いんですがしてありまして、その中に先ほど杉野さんの言われた、涌元神社近くの道路工事で見つかった『中国の古銭』も展示されています。
「その他マグロ御殿に在った、桁外れに大きな床の間も展示されています。明治時代のマグロ漁で財を成したマグロ大尽の屋敷に在ったものです。
こちらはまぁ大学様には関係ないのですが、ついでに話のタネにでもご覧いただけたら、と思います。以上で私どもの話は終わらせていただきます。
因みにお手元の『知内歴史散歩』に、私の話(しゃべっ)た詳細が載っかってますので、後でお読みいただけたらと思います。尚この小冊子は私達『知内歴史研究会』が、今から20数年前に刊行した記念誌です」
内山さんはここまで話すと、横に居た福佐さんにマイクを向けたが、福佐さんは手を振ってマイクを受け取らなかった。
「以上です、ご清聴ありがとうございました」内山さんがそう言って、二人は頭を下げた。部屋の聴衆からは拍手が起こった。
皆さんおトイレやおタバコなどこの間に済ませてください。戻られましたら珈琲を飲みながら、これまでの報告に関する質疑応答を改めて行いたいと思います。
菊地さんの休憩宣言を受けて、出席者は各々席を離れたり歓談を始めた。
「立花さんよ面白れぇじゃんね。オレは話を聞きながらワクワクしちまったよ。
この後の質疑応答で色々こっちの衆から質問が出ると思うけんが、荒木大学って人と甲州の金山衆には、結構ダブルこんがあるだよ」西島さんは、嬉しそうに話した。
傍らの杉野君が、にこにこしながら、
「それは良かったですね、質疑応答楽しみにしてますよ」と、西島さんに言った。
「それでは、皆さんお待ちかねの質疑応答に入らせていただきます」そういって、彼は山梨側のメンバーに向かって、発言を促した。
西島さんが先ず手を挙げて、マイクを握った。
「先ほどの資料の3ページをちょっと見ていただきたいのですが、『三十余年』という小さな見出しが書いてあるとこですが、ここに
「その事が原因で大学様が、堀子を始めとした金山開発の従事者達の人心を落ち着かせるために、天変地異を鎮める神様である京都の上下の賀茂神社の祭神別け雷の神を分祠した、という訳です。
その使者として大野了徳院を京に派遣したと、『大野土佐日記』に書かれてます。とりあえずこんな感じで宜しいでしょうか?」内山さんの問いかけに西島氏が頷いた。
「続きまして、大学様を始め金山衆がアイヌの人達に襲われた件についてですが、これには知内川が関係しています。この知内川は金山開発が行われた川でもありまして、それが原因に成ってるんです。
「逆、逆、鶏冠山が正式な名前だよっ」といった訂正の声が上がった。
「あれっ間違えちまっただけ・・、って!困っちもうじゃん・・」と、西島さんが甲州弁で慌てて漏らした。それを聞いた北海道側の出席者からどっと笑いが起きた。
「いや、失礼しました訂正するです。鶏冠山が正式な名で通称が黒川山でした・・」西島さんは悪びれる風もなく、むしろ今の笑いで緊張感がほぐれたのか、にこにこ顔になって話しを続けた。
「因みに黒川衆というのは、甲州で最も歴史があり権威がある甲州金山(かなやま)衆のこんで、その後山梨で続く全ての金山衆のルーツでもある、鉱山開発の専門家・技術者集団です。
だもんだから荒木大学が『黄金の鶏の像』を家宝にして、身近な場所に置いておいたってこんは、荒木大学が甲州金山衆の出身、中でも最も権威ある黒川衆の流れを汲む、金山衆の幹部だった可能性を示唆するこんになるわけです」西島さんは甲州弁で『黄金の鶏の像』と黒川衆の関係について、語りだした。
「ほれでさっきの内山さんの『黄金の鶏の像』の話の時に、みんなビックリしちまった訳です・・」西島さんは杉野君や内山さんに向かってそう話し、北海道側のメンバーの顔を見て続けた。
「ほれからご存知かもしれませんが、富士山を祭っている富士宮市の富士宮神社の正式名称は『富士山本宮浅間(せんげん)大社』って言うですよね。浅間岳と浅間大社と同じ字ですね。
因みに黒川衆にも関わりがあると推察できる富士金山の場所は、この富士山の浅間大社からそう遠くない場所に在る金山なんです。これはまぁ、ただの偶然の一致かも知れんですが・・」西島さんはそう言って、一呼吸置いた。
「私の方からの話は以上ですが、甲州金山博物館の秋山館長から幾つかお尋ねしたいこんがあるようなので、代わります」西島さんはそう言って、マイクを秋山館長に渡した。
『 大野土佐日記 』による真藤寺の記述(吉田霊源版16ページ)
大学どのには、出石丸山に城郭をお構い成され候らいてより、即ち此処に菩提寺をご建立成され、右菩提寺において、庭はいおしつらい諸木万草を植え置き、四季の眺め暇あらずと也。
とりわけ方数十間にて藤棚を架かせられ、真藤一面にしてその華咲けるころおいは、誠にもって紫の雲の如くにして、寺中この華のために目を驚かせしとや。
現在、鶏冠権現は鶏冠山山頂の奥宮と高橋集落の里宮とに分かれて存在するが、里宮は江戸時代に奥宮から勧請されたものと伝えられている。
ところが、享保十八年(1733)に一之瀬高橋の氏子が鶏冠権現の神主を兼ねていた上於曽菅田天神社の神主、河内守に宛てた書状によると、当時黒川山中には、下から順に
「魔王」「天神」「鶏冠権現」「東照権現様」「鶏冠山」という五つの神社ないし祠が存在し、そのうち「鶏冠権現」と「東照権現様」の二社を高橋に勧請したと書かれている。

「と申しますのは私共山梨県では、1986年昭和61年に黒川金山の総合学術調査を実施して以来、平成元年から3年間に亘って私が現在勤めております湯之奥の金山跡についても、総合学術調査が行われたんです。
これはまぁ例の『ふるさと創生事業』の一環として、あの時の自治体への特別交付金を使ってやったわけです・・」秋山館長はやや自嘲気味に、そう言った。
「いずれにしましても、山梨では史書や伝承などの文献学的な検証や民俗学的な検証と共に、遺跡発掘などの考古学的な検証を行ってきたわけです。その時の一連の調査によって、甲州金山全般についての学術的観点からの検証が行われました。
その時の調査結果がベースになって、それから様々なプロセスを重ねて今の博物館を造ることが出来、現在に至っているのです。
ですから知内においても、私達の時と同じような総合学術的な調査といいますか、とりわけ考古学的な検証とか、そう言ったプロセスがなされて来たのか気になってお尋ねしたわけです」秋山館長は、再び知内のメンバーを見ながら話した。
古銭について何か細かい事とか、判るんでしょうか?古銭の種類とか、その種類の構成とか・・。大いに、気になるところです」館長はここで知内のメンバーを見て、また続けた。
「実は黒川金山の開発は武田信玄公の戦国時代後半が一番活発に行われてまして、その頃の遺跡は相当数発掘されてるんですが、鎌倉時代の遺跡は殆ど出土してないんです。
そのためこちらの荒木大学でしたか、その方との関係を結びつけるような遺跡や出土品といった様な、物的証拠といいますか考古学的な証拠や根拠が、殆ど無いというのが実情なんです。残念なことに・・」秋山館長はここで一息入れ、話しを続けた。
「荒木大学さんに関連することが推測できる、甲斐源氏の武将安田義定公の金山開発に関わる伝承につきましても、伝承は幾つかあるのですが具体的にそれを検証する歴史的遺物が、殆ど見つかって無いというのが実情なんです。
ですからこちらで発掘されたという中国の古銭の中に、黒川金山の発掘調査時に出土した古銭と重なる点があれば、グッと黒川金山と荒木大学との関係が近づいて来るんです。
残念なことに当時一緒に発掘された12世紀の渥美焼の甕や、13・4世紀の常滑の甕に比べ重要視はされてこなかったんですね」秋山館長はしきりに古銭の評価が低い事を残念がっていた。
「しかしもし知内で発見された古銭との共通点や類似性があるとすると、がぜん注目度が上がり、今まで判らなかった黒川での鎌倉期の金山開発を裏付けることが出来る。その可能性が高まって来るんです。
私としましては、知内の古銭の種類を教えてもらって山梨に戻って、黒川金山で発掘された銅銭の記録とぜひ突き合わせてみたい、比較検証してみたいと思っています。
ですから、ぜひとも宜しくお願いしたいんです」秋山館長は明らかに興奮気味で、彼が古銭に対して相当期待している様子が私達にも伝わって来た。
秋山館長の質問を受けて、知内のメンバーと杉野君が協議をした上で、内山さんがマイクを取って話し出した。
ただ二番目のご質問へのお答えになるかも知れませんが、涌元で発見された古銭については、函館高専の学生が細かく分析しており、公表されています。
因みにその高専の学生たちは、涌元から出土した古銭千枚近くを調べて報告しています。現在でも古銭の整理分析は続いてまして、その都度の報告がなされてます。
詳細資料がありますので、後でコピーしてお渡ししたいと思います。参考にしてください」内山さんの説明に、秋山館長の表情がパッと明るく成った。
「その40年間の通貨は2枚です。たったの2枚ですね」と応えた。
秋山館長はやはりせっかちな性分のようだ。頭の回転も速いのだろうが、自分が頭の中で描いたことをすぐ口にした。
「具体的には1205年を境にして、発見された銅銭の種類のシェアや枚数の分布状況に注視して比較してみたいと思うんです。
「結局どういうこんで?」
先ほどのやり取りで秋山館長が総合学術調査について、あえて突っ込まなかったのは、内山さん達に対するある種の思いやりなのかもしれないな、と私は感じた。
「いやぁ、こちらこそありがとうございます。さすが金山開発の専門家でいらっしゃる、そのような明確な仕分けや分析の仕方はオレ達これまで思ってもいなかったです。勉強になります。それから、山梨の黒川遺跡の古銭との比較分析の結果が出ましたら、ぜひとも私共にも教えてください。
秋山館長の質疑に区切りを感じたのか、菊地さんが山梨のメンバーに向かって、
「その他、どなたか質問される方や、お話しなさりたい方はいらっしゃいませんか?」と、尋ねた。

質問ではなく、先ほどの『黄金の鶏の像』に関して若干の補足説明をさせていただきます」藤木さんは軽く会釈をした上で、本題に入った。
「黒川金山の黒川衆にとって、金の鶏が金山開発のシンボルであったと西島さんが言われたのはその通りです。が、実際にはシンボル以上の存在として扱われていたと言っても良いと、私は想ってます。
と言いますのは、黒川衆は『黄金の鶏の像』を『鶏冠権現』神社の、ご神体として鶏冠山の山頂で祀っていたと考えられるからです」藤木さんの金の鶏の説明に、知内のメンバーからどよめきが起こった。
藤木さんは話を続けた。
そうであったから先ほどのお話の、アイヌの人達の襲撃に遭った時、大切なご神体を真藤寺の井戸に隠したんではないかと思います。そう理解すると、この伝説はとても辻褄が合います」ここで藤木さんはもう一度北海道のメンバー、とりわけ知内のメンバーの反応を確認しながら、話しを続けた。
「ですから先ほどの真藤寺の伝説ですか?その伝説をお聞きして、荒木大学さん達が、黒川衆の流れを汲む金山衆に間違いないと、私は思いました。そして彼自身は、その頭領であったと申し上げて差し支えないんじゃないかと、私自身は推察しています。
この後立花さんから荒木大学と甲州金山衆について、より具体的なご報告があると思いますが、この黄金の鶏の話はそれに加えて、更なる検証の証になるのではないかと私は想っています」
藤木さんが、静かな口調ではあるがきっぱりとそう言い切ったのを聞いて北海道のメンバーから、嬉しそうな声が湧き起こった。
そして何よりも、興奮しておられるのではないかと想います。かくいう私も興奮してます・・」菊地さんはそう言って、二人を見た。二人は大きく肯いて、菊地さんに同意を示した。
「盛り上がってきましたのでこの好い流れのまま、続いて立花さんから当研究会に出された『検証レポート』に基づいた報告を、お願いしたいと思います。
「皆さん、東京の国立市からやってきました立花です。冒頭の自己紹介でも申した通り、縁あって今回のレポートを書かせていただきました。
私自身は杉野君から話があるまでは、甲州金山のことも知内の『大野土佐日記』の事も全く存じ上げない、一介の市井(しせい)の輩(やから)にすぎませんでした。
中には、若干ですが私自身が静岡に行って調べて来た情報等もございますが、大部分はこちらのメンバーの方々から教えて頂いた情報や資料が殆どです。
ですから、先ず山梨のメンバーの方々のご尽力により、私の拙いレポートが作成されていることを皆様にご報告すると共に、感謝を申し上げたいと思います」私は今度は山梨のメンバーに向かって、頭を下げて言った。
「なお中身によっては、お話しいただいたことと異なる点があるかも知れませんが、その点は改めてご指摘いただけたらと思います」私はそう言って、報告を始めた。

この頼朝と義定公の確執は実に興味深い話なんですが、今回の主題とは外れてしまいますので、敢えてここでは触れないでおきます。機会があったら、お話ししたいのですが・・。今回は見送らせて頂きます」私はそう言って話を続けた。
言うまでもなく、当時の北海道は蝦夷と言われた辺境の地でありましたし、その辺境の地の更に片田舎といって良い渡島(おしま)知内の雷公神社の宮司さんが、どうやってこの事実を知っていたのか、という事が重要なんです。
江戸時代初期と云えば、現在の様に出版物や歴史書が沢山出回っていたわけではありません。歴史の授業もなければ百科事典もありません。インターネットでサクサク調べることも出来ませんでした。
更に言うまでもなく『吾妻鑑』は、『曽我物語』のような大衆向けの読み本でもありませんから、普通の人の目につくことはありません。
では、歴史の専門家でもなく当時の権力者でもない彼らは、どうしてそのことを知ったのか?が問題になります。
それに比べ富士山西麓は標高が700m級の高原地帯で、土地は広いのですがその気候では稲作や畑作には適してはいません。
ですから、当時の農業技術や生産力から言ったら耕作の対象にならない瘦せた土地、といった評価しか得られなかったような地域なんです。
いずれにしましても、義定公の新領地である『甲斐之國いはら郡』には、富士金山が在ったと言っても良いのではないかと思います。従って、地味は痩せていて稲作や畑作には適してはいませんが、義定公にとって「いはら郡」は非常に魅力的な領地であったわけです。
「ここまでで、何かご質問はありますでしょうか?」私の問いかけに、大友さんがさっそく反応した。

![]() 〒089-2100 北海道十勝 , 大樹町 ![]() ] ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() |