春丘牛歩の世界
 
       ”人生食堂 ”という名の・・
 
 
私は先日までの1週間ほど、首都圏に行っていた。
父親の没後40年になるので、親族が集まって行う法事に出席するためであった。
 
親族と言っても、そんなに大げさなものではなく、父母の間に出来た子供たちと、孫の一部が参集した程度である。
 
 
その法事の後、私だけ4・5日山梨に留まった。
この間相変わらずの「安田義定公関連の資料漁り」に加え今回は、
我が家の「先祖のルーツを探る資料漁り」を、縁のありそうな地域の図書館を巡りながら、していたのだ。
 
 
加えて図書館巡りの他に、友人・知人たちの墓参を行う事も今回の主要なテーマであった。
 
北海道居住ということで、葬儀等に出席できなかった、かつての友人や知人の墓を訪ね、今は地下に眠ってる彼らに、旧交に感謝すると共に、別れの挨拶を行う事も、私には重要であった。
 
彼らとの関係に、区切りを付けたかった、のである。
 
 
更に、夜を中心にであるが高校時代の友人や、大学時代の友人たちとの再会を目的とした飲み会も、重要な目的の一つであった。
 
70歳を過ぎると、次に逢うのがいつになるのか、はたまた今回の飲み会が、永遠の別れになるのか判らない事から、こういった飲み会は貴重な機会でもあるのだ。
 
 
 
              
 
 
 
高校時代の友人との、甲府での食事の場所として選んだのが、
”人生食堂○○〇”という名の、居酒屋の様な、食堂の様な店であった。
 
その店を選んだのは、宿泊先のホテルから数分で行けた事と、何といってもそのネーミングに惹かれたから、であった。
 
 
甲府駅前のメインストリートから2・3本入った、生活道路に面したその店は、思ったよりも混んでいた。
 
金曜日の夕方、といったことも原因の一つだったのかも、知れない。
 
カウンターや小上りの席は予約も含めてほぼ一杯で、私達はカウンター席のレジ横を空けてもらって、なんとか座る事が出来た。
 
 
 
友人とのビールでの乾杯の後、3年振りの再会を祝い、この間どんなことがあったか、お互いの近況を話し始めた。
 
その際彼から、実は昨年12月に”軽い脳梗塞 ”に罹って、10日ほど入院していた、と告げられた。
 
彼は今から7・8年前にも、心臓病の手術をしていた事を後から聞かされて、その時も驚いたのであるが、今回も驚いた。
 
 
とはいえ、こうして目の前で酒を飲んでいる本人と、話しているのだから、リハビリが進んで快方に向かっているというのだ。
 
以前ほどではないが、量を減らして酒を飲むコトは出来ている、との事であった。
 
今でも若干言葉がスムーズに出てこれない、と彼は気にしていたが、会話自体に大きな支障は無く、それなりに安心はしていた。
 
そして何よりも生きている事が大切だ、こうやって逢えるのだから、と彼には言ったのだが、やはり考えることがあった。
 
 
彼自身の問題ばかりではなく、私も含めて70歳を超えるとやはり、一歩間違えば人生が終わってしまいかねない、病気や問題に遭遇する機会が増えるのだな、とつくずく感じ入ってしまった。
 
 
 
          
              
 
 

「人生食堂○○〇」という、一風変わった名前の居酒屋に入って、こんな話をする展開になるとは思ってなかったが、これも何かの縁があったんだのだな、と店を出る頃には思っていた。
 
因みにその店の名前の由来は、店主の強いこだわりの結果名付けた、という事であった。
 
 
更には店内の掲示板に、”次回の「子ども食堂」は第〇土曜日です・・”といった様なメッセージが、書かれていた。
 
そういったモノを見ると、やはりこの店のネーミングには、
”店主の想い ”が強く反映しているのだろうな、と感じてしまった。
 
 
この店主は私達よりは一回りは若い様に見受けられたが、彼自身もいろいろな人生経験があったから、このネーミングに拘ったのに違いない、などと帰り道を歩きながら二人で話した
 
 
「人生食堂」のネーミングには、「子供達」や「孤老達」についての、店の想いが関わっているに違いないのだ・・。
 
ある種の”居場所づくり”とでもいうか・・。
チョットだけ、心が温かくなったような気がした。
 
 
 
          
 
           
 
 
 
 
                 お知らせ
 
 
*5月3日:「近江之國編」に 甲賀衆の「結束力」と「強靭さ」公開しました。
 
 
 
 
    ♠     ♠     ♠     ♠
 
 
 

  南十勝   聴囀楼 住人

              
 
                            
      
          
       
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
                                                                
  

 
   
      

  
 
 
 山梨の石和温泉郷での「安田義定研究会」メンバーとの情報交換会から、半年ほど経った晩秋11月に,、大学時代のクラス会が京都であった。
二年ぶりのクラス会では、クラスの同好会(京都の歴史と史跡を探訪する会)メンバーだった友人が、数年患っていた癌で昨冬亡くなった事を知った。
 
彼の故郷滋賀県草津での墓参を終えて、改めて集まった同好会のメンバーと故人との”想いで話 ”を済ませた後、参集者たちの現在関心ある事などについての情報交換を行った。
 
その際大津市教育委員会で「大津京遺跡」の史跡発掘等に携わっていたメンバーの話や、彼が退職後始めた「弓道」や「流鏑馬」の事などで話は盛り上がった。
メンバーの中には学生時代から、「忍者」について関心の高かった元中学教師が居て、彼が退職後「甲賀忍者」について、アカデミックに調査・研究している事を楽しそうに話していた。
そしてその場には、大津市教育委員会のメンバ―の知人で、甲賀市在住の郷土史研究家が加わり、「古代牧」や「甲賀忍者」に関して詳しい情報を得ることが出来た。 
 
 
          < 全 体 構 成 >
 
              = 『甲斐源氏の祖、源義光』 
        
                 ー 近江之國編 ー
 
                1.  近江之國と錦織氏
         2.近江神宮と神事流鏑馬(上記、2026年2月6日公開)
                 3.  近江の「古代牧」と甲賀の郷  (同年3月1日公開)
                               4.「甲賀牧」と甲賀忍者「望月氏」(同年4月1日公開)
                5.『万川集海』と甲賀・伊賀忍者  (同年4月10日公開)
                              6.   甲賀衆の「結束力」と「強靭さ」(同年5月3日公開)
 
 
 
 
            =  河内流源氏、家系  =
 
           初代/流祖源頼信
 
              二代:源頼義(長男/嫡子)

 快誉(四男) 源義光(三男)  源義綱(次男) 三代:源義家(長男/嫡子)

(園城寺僧侶) (新羅三郎義光) 加茂次郎義綱)   (八幡太郎義家                      

       *安田義定源義光のひ孫で、  源頼朝義家のひ孫にあたる

 
 
              
 
 
 
 
 

 
                ー 近江之國編 ー
 
 
 

    近江之國と錦織氏

 
 
春に行われた、石和温泉での「安田義定研究会」のメンバーとの情報交換会を終えて、半年ほど経った11月中旬に、大学時代の「クラス会」が京都駅近くのホテルのレストランで行われ、私はその会合に出た。
 
二年ぶりに行われたクラス会であったが、かつてのクラスメートで同時に学生時代の任意の趣味のサークル、『京都の歴史と史跡を探訪する会』のメンバーでもあった友人、錦織君がこの間亡くなった事を初めて知った。
 
彼は癌を患っていて5・6年前から入・退院を繰り返しており、2年毎のクラス会にも最近は出席できないでいた。
私も案じてはいたのであるが、その彼が昨年の冬に亡くなったのだという。
 
 
私も70前後になってから、友人や知人更にはお世話に成った人たちの訃報が、相次いで届くようになった。
こちらの年齢が上がっている以上、知り合いたちの何人かが亡くなるのは仕方がない事ではあるが、やはり寂しい。
と、同時に”遠からず自分も・・”などといった考えが、フト頭をよぎる。
 
 
 
「クラス会」でその事を知った私は、当時の『京都の歴史と史跡を探訪する会(略称:京都歴史探)』のメンバーを誘って、錦織君の眠る滋賀県草津の寺に墓参することにした。
 
急な事もあって参加人数は4人ほどで多くはなかったが、とりあえず私は関西での滞在日数を延ばし、クラス会の翌々日には墓参を行う事に成った。
 
 
当日は10時にJR草津駅南口のロータリーで落ち合って、歴史探のメンバーで現在も大津市で暮らしている下川君の車で、錦織君の眠る菩提寺に向かった。
 
途中で献花用の仏花と線香等を買い求めて、駅から車で10分ほど離れた山裾のお寺に向かい、墓参りを済ませた。
 
2年ほど前に亡くなった彼は長男だったが家督は継いでおらず、実家のある滋賀を離れ京都と奈良が隣接する場所に居を構え、「古代史」に関わる考古学や文化財に類する仕事に携わっていた。
 
 
3人の子供と奥さんは健在であったが、未だ彼の名前は実家の墓誌には刻まれておらず、
”彼岸 ”から2か月近く経っていたが、あまり家族が墓参しているとは想えない様子だった。
ひょっとしたら、ご先祖とは違う埋葬をしているのかもしれなかったが、ちょっと残念な気がした。
 
彼の生活の拠点が京阪奈丘陵の一画であって、琵琶湖沿いの実家や一族の墓所の在る菩提寺とは、離れていたことも原因の一つだったのかもしれない。
 
 
墓参を終えた後、私達はJR草津駅近くまで戻り、錦織君を「偲ぶ会」という名の「直会い」を行った。
 
駅前の飲食店が集まったビルで個室居酒屋を探した私達は、「錦織君の思い出話」を2・30分ほどした。
「彼にまつわる学生時代のエピソード」や「春休みに1週間かけて、皆で四国を車で回遊した話」や、彼の好きだった「奈良や京都の神社仏閣」「かつての史跡巡り」といった話題が中心であった。
 
彼との思い出話がひと段落し、昼の酒が身体や頭の中に染み渡った頃、皆の「現在地」に話題が移った。
 
 
初めに奈良市在住の郡山君が口火を切った。
彼は65歳定年前の晩期は、全国展開のショッピングモール(S・M)の、地域本部長を務めていたのであるが、定年後は取引先でもあった三重県のリージョナル型S・Mの経営者に請われて、3年ほどの間モール経営に関わるアドバイスをしていたという
 
そのアドバイザリー業務も、ここ数年体力の限界を感じはじめたこともあり、70歳に成る前の昨年で終えた、という事であった。
 
今はもっぱら実家の父母の住む家と、奥さんが暮らすマンションの中間地点で、父母の病院通いや畑仕事の手伝いをしながら、週に一度程度奥さんの住むマンションを行き来している、との事だった。
 
特にする事がない日は、ひがな大リーグの試合を観たり、大谷選手の活躍をチェックしたり、大相撲の番組を観て過ごしている、との事だった。
彼は昔からスポーツ番組を観たり、スポーツの試合を観戦するのが好きだった。
 
 
現役時代に会社の業務で全国を飛び回っていた彼には、家族とずっと同居をし続けるよりも、月に何度か家族の待つ家に顔を出すことの方が、奥さんにしても本人にとっても、都合が良かったのだという。
 
彼にしたところで自分の居場所が在る様な、無い様な中途半端な家に居るより、実家近くのマンションでの独り暮らしの方が、暮らし易いと、感じていたのだろう。
 
 
二人の子供は既に家を出て独立しており、それぞれ孫がいて本人もすっかり”ジイジ ”していると、嬉しそうに話していた。
 
ではあるが私の眼には、働いていた頃に比べ精気が減退している様に思われた。
身体も一回り小さくなったように感じられた。
退職してからの彼に私は”老い ”を感じるようになっていた。
 
 
 
私と同様関東で暮らし、今回のクラス会にも新幹線でやって来た、中学校の元社会科教師水谷君は、数年前に奥さんを亡くしていたという事であった。
 
一時期看病も重なって、クラス会にも趣味のサークル『歴史探』の定例会にも、出れないでいたのだが、やっと参加する事が出来たという事で、久しぶりに今回は参加していた。
 
 
奥さんが亡くなってからしばらくは、”心の整理がつかないから、参加できなかったのだ・・”と彼は述懐していた。
それだけ彼にとっては奥さんの存在が大きかったのだな、と私は感じた。
 
離婚してから20年近く経って、気ままに独り暮らしをしてきた私には、中々理解できない感情であった。
人生のパートナーへの、愛情の濃淡の違いなのかもしれなかった。
 
 
水谷君は学生時代から”忍者  ”に対して少なからぬ関心・興味を持っていたのだが、二十歳前後の頃は、”子供じみた趣味だ ”と皆にからかわれていたこともあって、”歴史探 ”のサークルでは、その事は封印していた様だった。
 
そんな彼も60歳で定年退職してから、趣味の”忍者  ”について時間を見つけては、少しずつ調べる様に成ったのだという。
還暦を機に、周囲のことは気にせず自分の気持ちに正直に生きることにしたのだ、と彼は言ってた。
 
当初は「伊賀忍者」の事を調べてたのだが、”忍者 の本場  ”はどうやら「甲賀」にあるらしいと気づき、近年はもっぱら「甲賀忍者」の事を中心に調べている、との事だった。
 
 
 
                 
              
 
 
そんなこともあって彼は退職してから、滋賀県の大津市教育委員会に勤めていた下川君の力を借りて、甲賀市を訪れる際には彼の人脈を使って、情報交換や情報収集などを行っていたのだ、という。
 
 
奥さんの看病をする合間を縫っての事だった、というが、それは彼にとって息抜きに成っていたのかもしれない、と私は想った。
 
人はシビアな現実に向き合ってる時は、あえてその現実と距離を置くことも大切だから、である。
そうやってリフレッシュした後で、改めて厳しい現実に向き合う事が出来るのだ。
 
 
水谷君は今回の様に滋賀に来るたびに下川君を引っ張り出して、車の運転を頼みながら甲賀の街案内や、知人の紹介などを頼んでいたのだという。
 
 
 
今日の墓参に車を出してくれた下川君は、大津市の教育委員会で市の文化財関係の専門職員として働く傍ら、高校生の頃部活でやってた”弓道  ”を、子育ての終わった50代頃から復活したのだという。
それ以来毎週、弓道の稽古に通っていると話してた。
 
そんな中で60を過ぎて定年退職してから、弓道を活かした”流鏑馬  ”にも関心が向かい、地元大津の「近江神宮」での、流鏑馬を教える同好会に入門したのだという。
 
 
以来10年近くなった今は、それなりに乗馬や流鏑馬の技術も修得し、近江神宮で行われる神事の一つ、「流鏑馬の行事」にも出場するレベルに達したのだという。
 
現在では毎年6月に行われるその行事に合わせる様に、1年間のスケジュールを組み込んでいる、と愉しそうに話していた。
 
 
また、錦織君に関わる思い出話として、専門の大津京と錦織君のご先祖に関する事について、興味深い話をしてくれた。
 
「実はね、生前というかまだ僕らが卒業して10年も経たない頃、錦織君とサークルの同窓会で逢った時にね、彼に聞いたことがあったんや・・」下川君はそう言って、続けた。
 
「僕が大津京の遺構というか遺跡について、教育委員会で調べる様になって、その遺跡の中心部が大津市錦織地区だったらしい事が判ってね。
 
で、彼とサークルの同窓会で再会した時に、聞いてみたのさ
”君の実家は、大津市の錦織地区と何か関係あるのか  ”ってね・・」
 
「ほう、そしたら錦織はなんて応えたのさ・・」私が聞いた。
「その時彼が言ったのはね、うちのご先祖は大津じゃなくって琵琶湖の東南に当たる野洲の方なんだ、って言ってたよ。
 
彼自身大学生の頃にご先祖様に興味があって、それなりに調べてみたんだそうだ。ちょうど『歴史探』のサークル活動に刺激されてね・・。
その結果判ったのは、我が家の先祖は野洲の出身で大津とは直接は関係ない、と言われたんだそうだ・・」下川君が応えた。
 
 
「話変わるけど、テニスの錦織圭は確か島根の松江出身だったと思うけど、彼のご先祖と大津とは何か関係あるんか?」郡山君が下川君に聞いて来た。
 
「多分関係ない、思うよ。『錦織』って名前は割と西日本エリアで広く分布してる名字でね・・。
元々の錦織氏族は、大阪の河内・泉州辺りの”部(べ)の民 (たみ) ”の拠点、『錦織郡』辺りが本拠地で、そこから西日本各地に展開/派生して行ったみたいなんやな・・」下川君が続けた。
 
 
「”部の民 ”ってことは渡来人系になるのかな・・。
”錦を織る ”機織りの技術を持ってた氏族という事は、やっぱりご先祖様は繊維関係の渡来者なんだろうな・・。『服部氏』なんかと同じで」私はそう思って、彼に確認した。
「僕もそう想ってるで・・」下川君は肯いて言った。
 
”部の民 ”って、何やったっ?」水谷君が私達を見廻しながら真顔で聞いた。
「そうだな、OO部というジャンルで朝廷に仕える専門家集団の事を、総称して『部の民』って言ったのさ・・。
因みに錦織氏は、百済系の渡来人だったらしいな」下川君が解説した。
 
 
「だから『錦織』は錦を織るのが専門の、職業集団が纏まって生活していた集落というか、コミュニティを作って活動してた場所だった、って事に成るわけさ・・。
『錦を織る』だからワリと上質の絹製品なんかを作って、朝廷に納めていたんだろうな・・。『租・庸・調』の『調』としてね・・。
 
今でも河内や泉州が繊維産業の街として栄えてるのは、『錦織部』のコミュニティが古代から千年以上培ってきた、歴史や技術の蓄積・人材のネットワークと関係してるって思うよ。たぶんね・・」私が補足した。
 
 
「せやったんか、ワシ大阪生まれやけどその話初めて知ったゎ・・」水谷君が腑に落ちた、という様に感心した。
 
「それと河内も泉州同様、織部氏の拠点だったとすると、河内源氏の頭領源頼義と部の民錦織氏との接点も、そこら辺にあったのかも知れないな、と推測する事もできるかな・」私は閃いて、そう言った。
 
「いや、それには僕も気づいていてね。
園城寺を河内源氏の氏寺にしたのが頼義で、晩年の頼義の生活拠点が大津だった事を考え併せると、河内の錦織氏を大津に頼義が呼び寄せた事も考えられるんやないかな、と想ってるんや・・」下川君が言った。
 
 
 
 
                     水色:河内之國&薄紫:和泉之國
 
                   
 
 
 
 

       近江神宮と神事流鏑馬

 
 
最後に私の「現在地」について話した。
 
「7・8年前の同窓会の時にも、京都で話したと思うけど
僕は還暦を迎えてから縁あって、源平合戦を始めとした鎌倉幕府創設に、多大な力を発揮しながら、頼朝や北条時政の伊豆の御家人グループによって、非業の最期を遂げさせられた、甲斐源氏の勇将『安田義定公』の事を引き続き調べててね・・。
 
とりあえず区切りがつくと、その都度”歴史検証物語  ”として書き残してるんだわ。
 
で、始めてから10年近く経ってるんだけど、なかなか完結できてなくって、未だに義定公に関する調査/研究を続けてる、って感じかな・・」と言った。
「まだやってるんか・・」郡山君が呟いた。
 
「まぁな・・。中々終わりが見えないんだよ、これが・・。
流石におんなじ事を続けてるわけじゃないけど、ひと段落着いたと思ったら、また次の課題や疑問が出てきてね、新しいテーマが続々湧き上がって来るもんだから、ついついね」私は言った。
 
 
「この前の京都の時以降、どんなテーマを追っかけてるんや・・」水谷君が聞いて来た。
「そっか、水谷はここ2・3回欠席してたからな・・」私が言った。
「まぁ、さっきも言ったとおり家庭の事情があってな・・」
 
「あの頃は確か、『京都祇園祭と安田義定公』のことを調べてたんだよな・・。
で、それ以降だと『義定公と嫡男義資公の領国、越後之國との関係』を調べてたり、
義定公の領国遠江之國の古刹『秋葉山本宮』との関係、
 
それから『甲斐源氏と常陸源氏とのつながり』って感じかな・・。
そんな感じで、なかなか終わりが見えてこないのさ・・」私がそんなふぅに言うと、
 
「立花クンは昔っから”凝り性 ”というか、目的に対してズンズンと突き進むタイプやったからな・・」下川君が言った。
 
「で、最近はそれら関東の甲斐源氏や常陸源氏の共通の祖先である、『源義光』について色々と調べ始めてる、って感じかな・・」私が話した。
 
「んーん、という事はザックリ年に一つ程度のテーマを追っかけてる、って感じやな・」郡山君が言った。
「間にコロナの騒ぎがあったから、コロナ前に比べるとペースが落ちてるけどな・・」私がそう言うと、
 
「歳かて取っとるしな・・」水谷君がまぜっかえす様に言った。
 
 
「ところで源義光って、園城寺の新羅善神堂の氏人(うじびと)で、さっき言った源頼義の三男のコトか?
新羅三郎義光は、甲斐源氏や常陸源氏の共通の祖先になるんか・・」と、下川君が私に確認してきた。
 
「そうだよ、その通り。
源頼義の三男で”新羅三郎義光  ”と言われた彼が、関東の源氏の雄甲斐武田家と常陸源氏佐竹家の、同じ父親なんだゎ。
 
因みに常陸源氏佐竹氏の家祖佐竹義業(よしなり)が義光公の長男で、甲斐源氏の家祖武田義清は三男になるんだな・・」私が説明した。
 
 
「たしか下川の専門は、奈良時代の『天智天皇と大津京』だったよな?
とすると平安後期の義光公の時代からすると、ザッと4・500年前か・・”壬申の乱 ”の前だからな・・。
君の専門領域とはチョット時代が外れるか・・」
 
私は下川君の関心領域が地元の大津京や当時の天皇/天智天皇にあって、大津市の教育委員会に就職した事を思い出して言った。
 
 
「マ、そうやね。僕の関心領域は明日香・奈良時代から天智天皇の頃が中心かな・・。
せやし平安後期や鎌倉期についてはあまり詳しくはないんや、実際のところね・・。
源義光は園城寺に縁ある武将やから、それなりに知ってはいるけどね・・。
 
僕はもっぱら文化財課に居て、大津京に関わる遺跡の発掘や遺構を調査するために、穴ばっかり掘ってたしね・・」と彼はニヤリとしながら、率直に認めた。
 
 
 
          
 
 
 
「ところで君は義光公の拠点が、天武天皇に敗れた大津皇子の陵墓の上の、小さな山の中腹に在る事は知ってたかい?
真上に在る『新羅善神堂』を更に登った場所だけど・・
私は山梨の仲間から教えてもらった情報を、下川君に聞いてみた。
 
「天智天皇の皇太子=大津皇子の陵墓上の『新羅善神堂』は知ってるけど、源義光の館跡まではちょっとな・・」と彼は応えた。
「マ、そうだわな。専門領域じゃないし・・」私は納得した。
 
 
「実は今回京都に来たついでに、というかこちらに宿を取った時から、その義光公の館跡を訪ねる事つもりでいたんだ。それも、今回の目的の一つでね・・。
で、昨日寄って来たんだゎ・・」私が言った。
 
「熱心やなぁ、相変わらず・・」水谷君が言った。
「君も埼玉から関西に来る時、次いでに用を足すことあるやろ」私がそう言うと、
「まぁな・・オトーちゃんとオカーちゃんのお墓参り、とかやな・・」水谷君がボソッと認めた。
 
「水谷の場合はお墓参りで、立花クンの場合は趣味の件で立ち寄るって、いうだけの違いやな、要するに・・」郡山君が言った。 
「そう言うことだな・・」私が肯いた。
 
 
「今君が取りかかってるのが『源義光の事』で、同窓会のついでにこの辺りに来てるってわけか・・」下川君が言った。
 
「今年の春ごろから『甲斐源氏の祖、源義光』ってテーマで、山梨県の郷土史研究家達といろいろ情報交換をし始めてね・・。
そんなこともあって義光公絡みで、大津に関連する史跡や情報を探しに来たんだ・・」
私は肯きながら、今回の関西旅行について話した。
 
「ん?錦織の墓参りは・・」郡山君が聞いた。
「彼のことは、クラス会で初めて知ったのさ、だから初めは予定に入ってはなかったんだ・・」私が応えた。
 
 
「そうか、確かに急やったよな今回の墓参りは・・」下川君が言った。
「せやから4人やったんやな・・」水谷君が呟いた。
「水谷はサークルの同窓会の他に大阪のご両親の墓参りがあったから、今日合流できたんだろ」私が言った。水谷君は肯いた。
 
 
「ところで話を戻すけど、源頼義が晩年を大津で過ごしたというのは、園城寺と関係あるんだろうなやっぱり・・」私は下川君に確認した。
 
彼は肯きながら、
「頼義は”前九年の役  ”での大活躍で、伊予之國を領地として与えられ『伊予守』に成った頃、出家して『伊予入道』とも呼ばれてたんや。
 
自分が征夷大将軍として陸奥之國で多くの敵:蝦夷を殺し、味方の将兵を死なせたことを悔い、弔うために仏堂や寺院を幾つか建立してて、毎日読経したりして”減罪積善  ”の供養に励んだ、というんやな.。
 
その時頼義は三井寺=園城寺の仏門を頼り、晩年は大津に生活拠点を置いた。という事らしい・・」と説明してくれた。
 
 
「なるほどそういう事か・・。
源頼義は征夷大将軍として蝦夷地征伐に向かう際は、『新羅善神堂』で戦勝を祈願した上で戦地に赴き、苦難の末闘って勝利することが出来た。
 
で、終戦後は園城寺の一画に、敵味方の戦死者を供養する仏堂や寺院を建立して弔った、ってことなんだな。
頼義という人物は、”人間が真面目 ”だったんだなキット・・」私は頼義の人間性の一端を、垣間見た気がした。
 
 
「その上で自分の三男義光を、『新羅善神堂』に氏人(うじびと)として仕えさせ、『園城寺』には四男の快誉を学僧/僧侶として仕えさせたって、わけだな・・。
 
河内源氏の頭領とその一族が、園城寺を河内源氏の氏寺として頼り、尊崇したのも何となく納得がいったょ。
将に園城寺を”頼りに成る神仏 ”として特別に尊崇し、それもあって支援もしてたんだろうな彼らは・・。
イヤ、ありがとう下川・・、勉強に成ったゎ・・」私が言った。
 
 
私は源頼義の人物像が少し理解できたことや、河内源氏と園城寺の間に、太い紐帯が結ばれたいきさつを識ることが出来、そのヒントを教えてくれた下川君に感謝した。
 
 
 
 
            
                       源義家:頼義嫡男、画像
 
 
 
「ところで下川、君は『流鏑馬』を始めた言うてたけど、どんな感じなんや。
あれって結構大変なんやろ、馬に乗りながら矢を放つのって・・」スポーツ好きの郡山君が興味津々、という顔で聞いた。
 
「そりゃそうや静止して弓を放つのんとは、全く次元が違うんやから・・。
活きてる馬を疾駆させた状態で、ブレない様に姿勢を保ちながら矢を放つんやから、たいへんよ・・」下川君が応えた。
 
 
「姿勢を維持するためには、最低限でも体幹の鍛錬が必要なんやろな・・」郡山君が更に尋ねた。
「その通りやな・・」と下川君は肯いた。
 
「弓道やってたんなら、弓使いはそれなりにできただろうけど、流鏑馬を始めた時はやっぱり、乗馬を一から始めたんだろな・・」私が下川君に聞いた。
「必然的に、そうなるな・・」彼はさらりと応えた。
 
 
「せやけどそれは、覚悟の上やろ・・」郡山君が呟いた。
「マ、そうやな・・」下川君は当然、という風に応えた。
 
「どのくらい掛かった?馬に乗ったまま矢を放てるようになるまで・・」私が聞いた。
「1年ぐらいだったかな、とりあえず型を決めて、疾駆する馬上で矢を構える事が出来るまでやけどね・・」下川君は応えた。
 
「それって、筋が良い方に成るんか、それとも・・」郡山君が聞いた。
「師範には褒められたよ、スジがいいな、ってね・・」
 
 
「因みにオレがゼロから始めるとしたら、どのくらい掛かりそうや・・」郡山君が、更に尋ねた。
「なんや郡山、流鏑馬やってみたいと考えてるんかいな・・」水谷君が彼に聞いた。
 
「まぁ、最近暇でな・・。親の介護や畑いじりだけじゃぁな・・、身体なまるし。
マ検討してもいいかな・・ってかんじゃけどな・・」郡山君は満更でもない、という風に応えた。
 
「要するに、物足りないんだな、今・・。
ま、何か新しいことにチャレンジするのって、好い事だよな。
ボケ防止にも成るだろうし・・」私はそう言って、彼のチャレンジを前向きに評価した。
 
 
「ゼロから始めるとなると、弓道からのスタートって事に成るからな・・。
それと並行して乗馬も始めるわけやろ、御年70歳の君が・・。
運がよくって、上達が早くても2~3年は最低掛かるやろな・・。
弓道で1年、乗馬で1年、その上で体幹を鍛えながら型を修得するのに1年かな・・」下川君が言った。
 
「それやったら3年とちゃうか・・」水谷がまぜっかえした。
「マ、重複して同時に習えば早まるかもな・・。
それにマァどれだけ熱心にヤルかやな。早まったり遅く成ったりするんは・・」
そう言う下川君の話を郡山君は、神妙に聴いていた。
 
 
「郡山は、高校まで野球やってたんだっけ?」私が彼のスポーツ歴を思い出して聞いた。
「そうや。運動神経はええ方やと思うけどな・・。
せやからマァ後は、熱意やろうな・・。自分でもそう想ってるよ・・」下川君に聞かせるように、郡山君は言った。
 
「やったらええやんか・・。時間もあるし、金かてあるんやから・・。暇持て余してるんやろ・・」水谷君も彼をけしかけた。
 
 
「まぁな・・。そしたら下川、一から教えてくれるか?」郡山君が真顔で尋ねた。
「ま、本気でヤルっていうんなら、教えたるヮ。但しポイントポイントで、やけどな・・。
 
せやけど奈良からこっち迄、通うことに成るやろ。覚悟はええんか・・。
昔のよしみで教えたるのは、やぶさかやないけどな・・。
 
しかしまぁ、いずれにしても生半可な気持ちじゃ続かんやろな・・」下川君が覚悟のほどを確かめる様に、郡山君に聞いた。
 
「ヤルからには、そやろな・・」郡山君が意を決したように呟いた。
「ま、家に帰ってじっくり考えてから、また連絡くれたらええよ・・。
決心着いたら、そん時はちゃんと対応したるから・・」下川君が大人の対応をした。
 
 
「ところで、君が今打ち込んでる近江神宮の流鏑馬って、歴史は古いんか?
源頼義が始めたとすれば平安中期だろうし、息子の源義光だとしても平安後期だし・・」私がそう言うと、下川君は途中で遮るように、
 
「いや、それが新しいんゃこれが。
平成になってからで、平成2年からなんや、始まったんゎ・・」彼が説明した。
「ん?そんなもんか・・。ってことはせいぜいここ3・40年ってとこか・・」
 
 
「そもそも近江神宮の創設自体が、昭和15年と新しいんや・・。
で、流鏑馬の神事が始まったんも平成2年で、神宮創建50年を記念して、この神事が採用されたんやから・・。
 
ってことやから、流鏑馬が始まったんが平成になってからってゆうても、驚くことないんや・・」下川君が言った。
 
「え!そうなんだ・・。近江神宮の創建が昭和15年で、流鏑馬は平成2年か・・」郡山君は驚いた様に言った。
 
 
 
 
         
 
 
 
「話変わるけど、平安神宮の創建かて明治28年の1895年やったんやで。
しかも創建の理由いうんが、
 
天皇・公家がこぞって東京に遷都してもうて、京都の街が活気のうなったさかい、活気づける起爆剤としてやった事業の、一つやったんやで平安神宮・・。知ってたか?」水谷君が思い出したように言った。
 
「何で、そんなに詳しいんや、水谷!」下川君がニヤニヤしながら聞いた。
「京都の主要な神社の事は、一通りな・・」水谷君が、自慢げに言った。 
 
近江神宮の創建はひょっとして河内源氏の園城寺近郊での定着に関係してるのかも、と私は期待してたのだが、そうではなかったのでちょっと残念だった。
 
 
「ところで下川、近江神宮の流鏑馬って、何流なんだ?
小笠原流か?それとも武田流?」私が尋ねた。
「詳しいな、立花クン。武田流だよ、何でさ・・」下川君が私に聞いてきた。
 
「そしたら、神事の際に馬場に張り巡らされる幔幕は、三階菱じゃなくって、武田菱の家紋、だな」私が確認すると、彼は肯いた。
 
 
「知ってるかもしれんけど、流鏑馬の神事は甲斐源氏の武田家が深く関係してるんだよ・・」私がそう言うと、皆が私を注目した。
 
「神事やイベントとしての流鏑馬自体は平安時代から、宮廷でも散発的に行われてはいるんだけど、現在のような形で世間に知られた、お祭りじみた神事というか、武士のスポーツイベントになったのは、鎌倉時代からでね。
 
そもそもが『流鏑馬』って、武士の”武術を競う競技大会 ”だからね・・。
武士たちが、持ち前の弓術や馬術の腕前を競い合い、自分の武術の力量を見せ合う、鎌倉時代の実践的なスポーツイベントだったのさ。
 
 
幕府開闢期の頼朝以来、将軍の眼前でそれぞれの御家人たちが、自慢の武術を競い合い、技を披露しあう競技大会だったのさ・・。
 
鎌倉将軍家の前での武術大会がキッカケで、全国の御家人や武士たちの間に普及し、発展したってわけさ」私は説明した。
 
 
「ってことはやな、別に甲斐源氏に関係なく全国で”流鏑馬 ”が行われてた、って事なんとちがうか・・」水谷君が聞いてきた。
 
「実技としての流鏑馬は、その通りさ。
けどそれを洗練された儀式として確立させ、武家の流儀としてまで高めたのが甲斐源氏の嫡流武田家と、その支流の小笠原家だったて、わけさ・・」私が応えた。
 
 
「ふーん、そうなんや・・。
ところで”武田流 ”と”小笠原流”の違いは一体何なんや?」郡山君が聴いてきた。 
「オレも知りたいな・・」下川君も続いた。 
「いいよ、ザックリで良ければね・・」私がそう言うと、二人は肯いた。
 
「両者の違いは内容的には殆ど無いんだが、最も大きいのは『茶道』が入ってる点、かな・・。
武田流は弓馬の技術だけじゃなくって、戦場での布陣の仕方とか、軍法の知識、更には軍議の進め方とか、武将として身に着けなければならない兵法や戦闘技法をベースに、礼儀作法といった儀式全般に及ぶ”武士のたしなみ ”となってるのさ」私がそう言うと、
 
「『免許皆伝』やな・・。家元制なんか?」郡山が確認する様に、言った。
「のようなもんだろうな・・」私が言った。続けて
 
 
 
                
 
 
 
「因みに今言った、『武田流』と『小笠原流』は殆ど同じなんだけど、その修得項目の中に、武田流では茶道は入ってなくて、茶道が必須項目に入ってるのは、小笠原流からなんだ・・」私が両者の違いを話した。
 
「大学の履修科目みたいなもんやな・・、でも何でそうなったんや?」水谷君が口を挟んだ。
 
 
「そうだな、まぁ一言で言うと時代の違いかな、鎌倉時代と室町時代のね・・。
甲斐源氏がお家芸を集大成し、完成させたたのはそもそも『武田流』だったんだけど、本家の『甲斐武田流』が勢いあったのは鎌倉時代までなのさ・・。
 
でも鎌倉幕府が倒幕された後、南北朝から室町時代に入ってからは、幾つか内部闘争があったり、分裂したりで甲斐武田家自体が弱まり『武田流』も衰退しちゃったのさ・・。
戦国時代に武田信虎や子の信玄が甲斐之國を統一するまではね・・」私が言った。
 
「甲斐武田家も衰退したんやな・・」水谷君が言った。
 
「で、鎌倉時代に分家して別の領国の大名に成ってた、武田家支流の広島『安芸武田家』や徳島『小笠原家』に残っていた、分家の『お家芸』が残存してたって、わけさ」私が説明した。
 
 
「その分家のことをもう少し、教えてくれ・・」郡山君が聴いてきた。
 
「『安芸武田家』は鎌倉時代中期の『承久の変』に活躍した、武田信光の甲斐武田家嫡流が、『変』の戦後新しく獲得した領国広島の分家、『安芸之國の武田家』に引き継がれた武芸だったのに対して、同じ分家・一門でも阿波徳島等の『小笠原家』の”お家芸 ”とは違うのさ。流儀がね・・。
 
というのも『阿波小笠原家』は甲斐武田家の分家で支流ではあるけど、鎌倉時代に衰退した本家とは別に南北朝以降も生き残り、鎌倉以来の名門として足利家の室町幕府に仕えた有力大名だったのよ。
 
その分家で独自の進化と発展を遂げた『小笠原流武道』は、更に室町時代に至って新たに武将のたしなみとなった、”茶道 ”を取り入れ、組み込むことで、一段とupdateしてるわけよ。
新しい要素を組み込むことで、本家との差別化や付加価値つける事にも成るしな・・」私がが少し詳しく話した。
 
 
「なるほど時代に合わせて更新し、updateしてるわけやな・・」郡山君が言った。
 
「言うなれば広島の分家『安芸武田流』は鎌倉期以来の”古式:甲斐武田流武道 ”を守り継承し、踏襲して来たのに対し、 
徳島の分家『小笠原流』は、”茶道 ”を取り込むことで、室町好みの”流行 ”を付加した、最新の『室町武田流武道』  に、脱皮してるってわけさ・・」私が解説した。
 
 
「そうかその鎌倉開闢から室町までの移行期2・3百年の間に、”室町風 ”にupdateしたのが『小笠原流』で、
”鎌倉風 ”をそのまま維持し続けて来たのが、『安芸武田流』なんやな・・」郡山君は腑に落ちたとばかり、肯いた。
 
「そう言えば近江神宮の流鏑馬は、『武田流』でも『鎌倉派武田流』と言ってたな、師範・・」下川君が思い出したように言った。
 
「updateする前の鎌倉期に成立していた『古式武田流流鏑馬』を、『鎌倉派武田流流鏑馬』って名乗ってるのかもしれんな・・」私が推測を交えて、そう言った。
 
 
「なるほどな、そう言うことなんやな・・。
茶道を取り入れて、室町風にupdateしてる”家元 ”か否か、が両者の大きな違い、という訳やな・・」郡山君が確認する様に言うと、
 
「茶道の家元にあったな、『小笠原流』。
確か”武家茶道 ”のはずだったゎ・・」下川君が思い出したように言った。
 
「で、君はどっちを習ってみたいんだ?郡山」下川君が、真顔で聞いた。
「そうやな、少し考えさせてもらおうかな・・」と郡山君は言った。
 
「”茶道 ”を含めて全くゼロからスタートするのか、下川に教わりながら”古式武田流 ”を教えてもらうのか、の選択だな・・」私はニヤニヤしながらそう言って二人を観た。
 
 
 
 
 
 
              
 
 
 
 
 

         近江の「古代牧」と甲賀の郷

 
 
草津駅前の居酒屋での”墓参の直会”を済ませた後、郡山君は奈良の家に戻った。
大津のホテルに宿を取った水谷君と私はJRで大津駅周辺の宿に向かった。
 
大津在住の下川君は、家族の運転する車で自宅にと向かった。彼は酒を飲んでいたため、ご家族に迎えを頼んだのだった。
 
 
一旦それぞれの宿に戻って休息した上で、夕方の5時にJR大津駅の北口で待ち合わせをし、改めて下川君ヒイキの小料理屋で夕食を摂ることにした。
 
その際、下川君の知人で水谷君とも顔なじみの、甲賀市の元教育委員だった人が、合流する事に成っていた。
 
 
下川君や水谷君の知人との合流は、水谷君の強い希望だった。
甲賀市に行った時に、彼には「甲賀忍者」の件で、大いにお世話に成ったから久しぶりに逢いたい、と水谷君が要望したのだ。
 
 
甲賀市には源義光の所領であった荘園が平安時代後期にあった事から、私もその友人との合流は楽しみにしていた。
彼には、河内源氏と甲賀市の荘園「柏木荘」について教えてもらう予定でいたのだ。
 
 
17時前に、JR駅前の待ち合わせの場所に着くと下川君ともう一人の男性が待っていた。
私達よりは若く60代前半と、お見受けした。
 
私は彼が下川君の知り合いの甲賀市の方だと想い、さっそく挨拶をした。
 
そこにすこし遅れて来た水谷君が合流し、4人で下川君の案内する店にと向かった。
 
 
数分後に着いたのは、こざっぱりした小料理屋であった。
店の奥の畳敷きの小上がりに、私達は席を取った。下川君の案内であった。
 
大きめの座卓に座り、ビールと食べ物を注文した。何を選ぶかは下川君に任せた。
みなで軽く乾杯した後で、改めて自己紹介を行った。
 
 
座を仕切ったのは下川君で、彼自身のことは参加者全員が知ってたので飛ばして、今回初めて参加した甲賀市の元教育委員会の彼と私が、自己紹介することに成った。
 
水谷君も彼とは面識があったので、初対面の私と彼とが自己紹介をすれば事足りるのだ。
彼は六角さん、といった。
 
 
下川君が六角さんの紹介を始めた。
 
「彼はね、一見ヌーボーとしとって、いつもニコニコしてるから取っ付き易いんやが、結構頑固モノでね、自説に対するコダワリは、相当なんだゎ・・。
 
加えて専門性が高いモンだから、なかなか手ごわいんだな、これが・・」と笑みを浮かべながら下川君が話した。
 
「え~えっ!それじゃまるでオタクやないですか~、難儀やな~」六角さんがニヤニヤしながら言って、ビールの残りをグイッと飲み干した。
 
「因みに六角さんの専門は何なんですか?」私はビールを彼に注ぎながら尋ねた。
下川君は、六角さんに自分で話す様にジェスチャーで促した。
 
 
「私は甲賀市の職員を長らく勤めてまして3年ほど前に退職し、再雇用も済ませ、今では自分の時間を中心に、好きな事に打ち込み始めてるところです。
 
専門というか、教育委員会に居った頃から興味あって、いろいろ調査したり研究してきたんは『古代牧』に関する研究ですゎ。
 
甲賀を含む鈴鹿山系から甲賀伊賀の山地は、飛鳥奈良時代から馬や牛を中心とした牧畜を育成する”牧き場 ”が在って、『甲賀牧』と呼ばれた『官営牧』が在ったんですな・・。
 
今では『近江牛』を生産してる牧場が、その長い歴史の名残りとして知られてるくらいですがね・・。
 
マ、その『甲賀牧』について色々調べたり、研究してるうちに口の悪い人達からは、いつの間にか”牧き場オタク”と呼ばれる様に成ってもうたわけです・・」六角さんは、チラリと下川君を見ながら、そう言って笑った。
 
 
「”甲賀忍者 ”にも詳しいやんか、六角はん・・」水谷君がそう言うと、
「『忍者』の件は、教育委員会の前に観光商業課に居った時に、かじった程度ですゎ・・まぁ本業というかなんというかは、やっぱ『古代牧』なんです・・」六角さんが応えた。
 
「でもまぁ、その観光課に居った時の情報でも、十分助かりましたでオレは・・」水谷君はそう言って、『甲賀忍者』に関する情報源でもある六角さんに、感謝した。
 
 
「六角さんのご先祖はひょっとして、佐々木源氏末裔の京極氏と並び称される六角氏の末裔ナンですか?」私は彼に聞いてみた。
 
「ま、ドンピシャの末裔ではないようですが、遠からず。といったところですかね・・」「という事は、嫡流ではないけど分家とか支流といったかんじで?」私が更に尋ねると、
「なんでも明治維新の頃に、別れた分家というか・・。みたいですよ、祖父曰くですがな・・」六角さんが応えた。
 
「とすると、宇多天皇の流れをくむ近江源氏に成るんですね。清和天皇の河内源氏とは別系統の・・」私がそう確認すると、彼は肯いた。
 
 
 
            
                      清和源氏VS宇多源氏系図
 
 
 
 
「いずれにしても、名門の末裔ナンですね・・」
「せやから、分家の支流ですがな・・」六角さんは嫡流ではない点を拘って言った。
 
「とはいえ、六角さんの『古代牧』への関心の高さは、そう言った家系も意識してたんじゃないですか・・」
「若い頃は多少はね・・でもまぁ150年以上前のことやし、今ではさっぱりですゎ・・」六角さん今ではほとんど気に掛けてない、と強調した。
 
 
「こちらの立花クンは、僕と同じ右京大学の統合社会学部のクラスメイトでね、そのクラスで作ったサークル、『京都の歴史と史跡を探求する会』の設立者の一人で、リーダーだった”行動派 ”の東京人なんや・・。
 
で確か、学校出てから広告代理店でマーケティングの仕事をズットやってたんやな・・」下川君はそう言って、私のことを六角さんに紹介した。
 
私が肯くと、下川君は続けて
「で、退職してからここ10年ほどは、平安末期の甲斐源氏の何たらいう、武将の研究をしてるんやったかな・・」と言ってまた私を見た。
 
 
「ザックリした履歴は、今下川君が言った通りです。
僕は父親が山梨出身者だったこともあって、甲斐源氏の武将安田義定公の事をたまたま知って、還暦過ぎてから力を入れて調べ始めてます。
今では『安田義定公の研究』がライフワークに成るのかな、とさえ想ってるところです・・。
 
今回は、先ほど言った大学のサークルの同窓会があったついでに、河内源氏の源義光公の痕跡を求めて、園城寺の館跡や事績を調べにやって来てるんです。
 
ご存知かもしれませんが義光公は、甲斐源氏や常陸源氏佐竹氏の共通の祖先なんです。
彼は河内源氏義光流の流祖に成るんで・・」私がざっと自己紹介をした。
 
 
「で今日は、甲賀市在住で郷土史に詳しい六角さんとお会いできると聞いて、楽しみにしてたんですよ・・。
というのも甲賀市は、その源義光公の荘園『柏木荘』が在った場所でしたから、その辺りをじっくり聞かせて頂こうかと思いまして・・」私は六角さんにビールを注ぎながら、そう話した。
 
 
六角さんは肯きながら”了解しました ”とでもいう様な優し気な目で、私の注いだビールを口にした。
 
「ご存知だと思いますが、その源義光公の領地というか管理地『柏木荘』は、現在の甲賀市の水口エリアに当たる様ですね・・」私は彼に尋ねた。
 
「ええ、柏木荘は水口です・・。
昔の水口町で、東海道の沿道に在る交通の要所でしてな、今の市役所本庁舎が在るエリアですわ・・」六角さんはそう言って、教えてくれた。
 

「その柏木荘は清和源氏の源義光公の荘園で、義光公とその父頼義公の意向もあって、園城寺『新羅善神堂』に寄進したんですよね。
 
で、自らは善神堂の近くに館を構え、氏人として『善神堂』を支えながら、荘園管理は一族郎党に下司(げす)職として任せていたらしいんですけど、その辺の事情を何かご存知ですか?・・」私がそう尋ねると、
 
 
「そうなんですか・・、清和源氏の拠点が柏木荘にあったんは知ってましたが、園城寺の『善神堂』に寄進してはったんですか、初耳ですわ・・。
そうだとすると、当時は水口あたりにも柏木荘を管理するための彼らの活動拠点というか、館なんぞも在ったんでしょうな、それなりの規模で・・」六角さんが言った。
 
「それは間違いない、でしょうね・・。
しかも東海道の要所で、近江と伊勢の境の『鈴鹿峠』の、近江側の入り口ですからね柏木荘は・・。
 
あと、信楽方面に続く信楽街道との分岐点というか、結節点でもありますでしょ・・。
『柏木荘』は地政学上の重要なエリアだったでしょうから、平安後期であってもそれなりの規模の、館だったに違いないですよ。多分・・」私は推測を交えてそう言った。
 
 
 
                                             甲賀市水口町周辺MAP
                  
          水口町  勅旨牧  信楽町  源義光館跡 
             水口町上部の東西黄色線:東海道  
    
 
 
「因みに六角さんの生活拠点は、どちらになるんですか?
「ウチですか?うちは甲南町ですゎ、甲賀市の・・。
水口町の西隣に成るんです、信楽寄りというか。将に水口から信楽街道に向かう途中の・・」と六角さんが応えた。
 
「そうでしたか・・。ところで六角さんご専門の『古代牧』なんですがね、確か甲賀にも朝廷の『勅旨(ちょくし)牧』があったんじゃなかったですか・・」私は六角さんに、聴いてみた。
 
「えぇ、その通りです。よくご存じで・・。将に『勅旨牧』で、近江を代表する『近都牧(きんとまき)』の一つですな。
 
因みに私の住んでる甲南町から、信楽に向かう途中に『勅旨駅』いう信楽高原鉄道の駅が在るんですが、そこいら一帯はかつて『勅旨牧』が在ったエリアや、いう話ですゎ」六角さんが説明してくれた。
 
 
「『勅旨牧』やら『近都牧』って、何なんや・・」水谷君が、話に入って来た。
「『近都牧』は僕も知りたいですね、是非教えて欲しいですね・・」
私も水谷君に同意した。傍らで下川君も頷いていた。
 
「『勅旨牧』は『御牧(みまき)』とも云われるんやが、朝廷の軍事や催事・行事なんかで使われる馬を、育てたり、調教したり、維持管理するため一定数の馬をプールしておく、牧き場いうか『牧場』ですな・・。
 
で、宮中の行事や天皇の熊野詣で等の『御幸』なんかがある時は、その『牧』から馬を引っ張り出して、都やらに連れてくんですゎ・・。
 
奈良時代や平安時代やったら、朝廷の兵部省や兵馬寮の傘下に組み込まれておって、諸国から集めて来た牛馬を、集めとく朝廷直轄の『牧き場』ですゎ。
 
因みに都からそう遠くない場所やったさかい『近都(きんと)牧』いうんです。
比較的標高の高いとこが多かったですな・・」六角さんは続けた。
 
 
「何で、標高の高い処なんや?」水谷君が呟いた。
 
「あんな水谷、牛馬いうんは暑さに弱い生き物やさかい、標高が高うて気温の低いとこがええんや・・」流鏑馬で馬に詳しくなった下川君がフォローした。
 
「元々馬とか牛や羊とかもだけど、中央アジアの標高が高い処の生き物だからね。2千mとか3千mとかの高原地帯のね・・」私も若干補足した。
 
 
「因みに『近都牧』云うんはその名の通り、都から近い官営の牧場を言うんですが、その朝廷の『近都牧』に馬を献納するんは『諸国牧』ゆうて、都から離れた地方に官営の牧場が在る國々の『御牧』、いう事になるんですな。
 
『諸国牧』は牛馬の出産や育成に適した、自然環境やバックアップ体制の充実した國々で管理してたんですゎ・・。
 
牛馬の飼育に従事する専門家いうか牧司や馬医が居ったり、職人が居って馬具なんぞの、馬具や備品を生産するネットワークや、ピラミッド云うかコミュニティが形成されてる國々、いう事になるんですな。
 
代表的なんは、立花さんに縁のある甲斐之國を筆頭に、関東の信濃之國/上野(こうずけ)之國といった國々に在った、『御牧』とも言われた『諸国牧』ですな。
ご存知なように、今でいうたら山梨/長野/群馬ですゎ。
 
 
マ、標高が高うて放牧地なんぞが確保しやすい、高原なんぞの多い場所で、それぞれの國では国司や国造(くにのみやつこ)の責任で繁殖・飼育させたんですな。
 
それを毎年秋になると、それぞれの国々の牧から選ばれた四歳くらいの馬が、都近くの『近都牧』に移送され、献上されたわけですな・・。
 
因みに「馬」は東国の国々が多く、「牛」は西日本や四国・九州の自然環境が適した国々が多かったようですな・・」六角さんが詳しく、判り易く話してくれた。
 
「なるほどな、そういう事なんやナ・・。よう判ったゎ、ありがとさん・・」水谷君はそう言って納得した。
私も傍らで聴いてて、大いに参考になった。メモする事を忘れなかった。
 
 
 
 
                      主要「近都牧」分布図
             
           京都:朝廷  甲賀牧  都周辺の近都牧
 
 
 
「六角さんありがとございます。
僕もおかげで良く判りました。勉強になりました、ありがとうございます。
 
で、『甲賀牧』は、その『近都牧』の一つだったわけですね・・。
京都にも奈良にも近かったし、東海道や東山道の沿道でもあったし、関東の『諸国牧』で畜産・育成された優良馬が、その街道を通ってやって来たわけですね・・」私は六角さんに感謝しつつ確認した。
 
 
「そういうことです。因みに甲斐や信濃・上野(こうずけ)といった国々から、東海道からやって来た献上馬は、一旦『甲賀牧』を始めとした『日野牧』『蒲生牧』といった湖東側の『近都牧』に収めたようですな。
 
ただ同じ近江之國でも、東山道や北陸道からやって来る牛馬やったら、『甲賀牧』やのうて湖西側の『高島の比良牧』や『大津牧』辺りの『近都牧』やったようですな・・」六角さんが付け加えた。
 
「なるほど・・。理にかなってますね、それは・・」私は納得した。
 
 
私はその六角さんの「古代牧」の話を聞きながら、かつて安田義定公の領地だった富士宮「淀師エリア」の、騎馬武者用軍馬の畜産・育成・管理を行った「朝霧高原」「馬見塚」「鍛冶屋の里」の事を、思い出していた。
 
鎌倉時代初頭に、作られたと思われるその軍馬育成システムは、きっと平安時代にほぼ完成してた「古代牧」のシステムを、踏襲し敷衍(ふえん)し、発展させたものに違いないと考えたのだ。
 
そしてそのシステムを完成させ、実務や実行役を担ったのが義定公五奉行の一人”宮道遠式”だったのではなかったか、と妄想した。
 
 
というのも彼は『吾妻鏡では、「前右馬充(さきのうまのじょう)」という、朝廷の局長級の官職が前書きされており、朝廷の『御牧』管理に詳しい役職に就いていた人物だった、と紹介されていたからである。
 
そしてその完成度の高いシステムの一つとして、義定公の嫡子安田義資公の領国で観て来た、上越市浦河原地区に在った『境原遺跡』の、「馬屋遺跡」の事が頭をよぎった。
 
確かその「馬屋遺跡」には、七二房の「厩」があったかと記憶していた。かなりの房数である。
 
 
 
              
              上越市浦川原地区の『境原:馬屋遺跡』の模式図
 
 
 
「おかげさまで『古代牧』の事はよく判りましたが、時代的には飛鳥・奈良朝時代から始まって、いつごろまで続いたんですかね・・。
平安の初期頃ですか?それとも武士が台頭する平安中期頃までとかです?」
 
私は武士の時代の到来と馬産・馬育との関係が気になって、六角さんに尋ねた。
安田義定公のことが頭にあったから、である。
 
 
「そうですな、朝廷の支配者が天皇家であった時代は、実質的には平安前期やったから、その頃まででしょうな『古代牧』が機能してたんは・・。
 
それから藤原道長の北家が摂政関白となって、外戚支配の時代がしばらく続いてますやろ、その藤原氏の摂関支配が上皇・法皇の復権によって崩れて、その流れから武士が実権を握るのは、保元・平治の乱の頃やさかい・・。
 
それまでの期間は朝廷の『勅旨牧』に替わって、貴族や大寺院・大神社の所有する『貴族牧』とでも云う、『私牧』が増えて流行るんですゎ。
 
せやから、平安前期の終わりごろの11世紀初頭から平安末期までの数百年は、『勅旨牧』に替わって『貴族牧』が多くなるんです・・。
 
で、平安末期から鎌倉以降は”武士の時代 ”やさかい、立花さんの言わはる様に、地頭や郷主・御家人が支配・所有する、『武家牧』とでも云う『私牧』に、替わって行くんですな・・」六角さんが古代から近世に向けての「牧の変遷」について説明してくれた。
 
 
「あ、それから思い出しましたが、立花さんが気にしてはる源義光の『柏木荘』では、彼が関白藤原忠実に荘園内の『柏木の牧』を寄進した、いう記録が残ってましたよって、将に『貴族牧』から『武家牧』への移行期のことやった、んやと想いますで・・」六角さんが言った。
「え、え~‼そんな記録が残ってるんですか⁉」私は驚いて、大きな声を出した。
 
「幸いなことに、運よくあったんですゎ・・。
奈良の大学教授の論文に、そう書いてあったのを今、思い出しました・・」六角さんは、ちょっと自慢気にそう言った。
 
 
「流石、専門家ですね・・。イヤありがとうございます、勉強になります。
ところでこの場合は、源義光公の『武家牧』になるんですか?それとも、関白藤原忠実の『貴族牧』になるんですか?」私はメモしながら、更に聞いてみた。
 
「河内源氏の源義光が関白忠実に寄進したという事は、所有者から言えば『貴族牧』になるんやろうが、実態としては武将の義光が所有し、自身の郎党を使って『牧』を管理運営していたわけやから、『武家牧』になるんやと、想いますな・・。
 
せやから義光の頃やとすると、『貴族牧』から『武家牧』に移行する、その途中過程やった、と想った方がええんと違いますか・・」六角さんはそう言って、その移行期真っただ中の事例だろう、と解説した。
 
 
「あぁ、そう言うことですか、なるほどですね・・。
という事は義光公が『柏木の牧』を、権力者の関白に寄進したという12世紀前期の事例が、それから数十年後の12世紀中盤に起きる『武家牧』への移行プロセスを象徴している、という事に成るんですね・・。
 
イヤぁ、勉強になります・・。ありがとうございます」
私は六角さんにお礼を言いながら、彼にビールを注いだうえで、メモに書き足すことを忘れなかった。
 
 
私はビールを注ぎながら、ひょっとして六角さんの関西弁が当初より増えたのは、こうやって私が六角さんの酒量を増やしているからなのか、それとも自分の専門分野の話だからなのか、どちらなんだろうか・・とフト考えてしまった。
 
 
「あぁ、なるほどですね、そういうことですか。
『勅旨牧』という『朝廷の牧』⇒『貴族の牧』⇒『武家の牧』という形で、『牧』の管理主体や所有者が”変遷  ”していくわけですね、了解です。勉強になります。
イヤありがとうございます・・私は何度もそう言って感謝した。
 
その上で六角さんには感謝の意をたっぷり込めて、再度ビールを注いだ。
 
「そうか、そうやっていよいよ『騎馬武者』の時代が、やって来るんですね・・」私は誰に言うとでもなくそう呟いて、自分自身で納得する事が出来た。
 
 
 
 
              
 
                
 
 
 
 
 

   「甲賀牧」と甲賀忍者「望月氏」

 
 
「ところで立花クン、そろそろ話題を変えてもええか?」水谷君が聞いてきた。
「ん?あ、いいよ。とりあえず僕が聞きたかった事、しっかり聞けたし・・」私がそう応えると、
 
「六角はん、この前お願いしといた件やけど、あれから何か判らはりましたか・・」水谷君が聞いた。
「えぇ、とりあえず判る範囲で良ければ、ですけどな・・。 
甲賀忍者の代表的な頭領家のことでしたな、確か・・。
 
甲賀忍者に詳しい知り合いから、紹介してもらった頭領家は『望月家』云うんです・・。
生粋の甲賀忍者の頭領家で、歴史もあるし、甲賀二十一家の中でも一目置かれる代表的な頭領家になるんやそうですゎ、望月家・・」
六角さんは水谷君の方を見てそう言ってから、私の顔を見て、
 
「しかもその望月家は、偶然にも先ほどの『甲賀牧』とも縁のある家でしてな、古代牧にまつわるエピソードも、残ってはるんですゎ・・」と、続けた。
 
 
「ホウ、そうなんですか。古代牧とも繋がるんですね・・。
ひょっとしてアレですか、信濃とか甲斐之國に縁のある一族ですか望月家は・・」私は閃くものがあって、そう六角さんに言った。
 
「え!どうしてそんなことが判るんですか・・」六角さんは驚きながら、そう言って私の顔をマジマジと見た。
 
 
「いや、まぁ当てずっぽうなんですけどね・・。山梨や長野県には『望月』って名前が結構多いんですよ・・。
たまたま私の周囲にも、望月さんという人が居たりして・・。
・・韮崎の祖父の近所の家なんですがね、仲良く行き来してたんです・・。
 
年の近い女の子が居て、夏休みなんかに祖父の家に長逗留してた時、好く行き来してたもんですから・・」私が言った。
 
「ナンや、立花クンの初恋の相手かいな・・」水谷君がからかうように言った。
「ま、小学生から中学生に掛けての頃だったけどね・・。
で、まぁ夏休みに祖父の家に行く楽しみの一つではあったかな、アハハ・・」私はそう言いながら5・60年前の子供の頃のことを思い出した。
 
 
「その望月家というのは歴史を遡れば、信州の官営牧に携わっていた一族に辿り着く、いう伝承が残っておましてな・・」六角さんは、水谷君と私の顔を交互に観ながら、話を続けた。
 
 
「そういえば確か、『古今和歌集』に大津の『逢坂の関』を読んだ和歌があって、そん中に『望月の駒』を詠った和歌があったな・・。
た~しか紀貫之やったかな、詠み人は・・」大津在住の下川君が言った。
 
「さすがに地元は詳しいね・・」私は感心して、思わずそう呟いた。
「タマタマやで・・。地元やし、高校の時古文の先生が教えてくれはったんや・・」下川君がサラリと言った。
 
 
「さすが、歴史のある街は違うな・・」と、私が呟いた。
「そんなもんと違うか・・。
立花クンかて、新選組の近藤勇とか土方歳三とかに詳しかったやろ、やけに・・」水谷君が口を挟んだ。
 
「マ、一応彼らの地元だったからね僕の通ってた高校は・・。、三多摩の・・」私は水谷君の指摘に、一応納得した。
 
 
「それで、その望月氏が甲賀忍者の頭領家の一つやったわけなんやね・・」水谷君が六角さんに確認した。
 
「そう、それもかなり有力な頭領家でしたな・・」六角さんは肯きながら、そう言った。
 
 
「『古代牧』は、平安時代の初めの頃でしたよね・・。しかも紀貫之の『古今和歌集』にも載ってたという・・。
という事は下川、平安朝四百年の中だと、いつ頃になるんだ?」私は下川君にその和歌が詠まれた時代を、確認した。
 
「まぁ、ザッと百年頃かな。『古今和歌集』が編纂されたんは、醍醐天皇の時代やから10世紀の頭やったさかい・・」
 
 
                  
              
 
 
 
「という事は、西暦900年頃って言うことなんやな。
桓武天皇が平安京を開いたのが『794(泣くよ)平安』で、8世紀の末やったやろ・・、確か・・」水谷君が具体的な年を言った。
 
「そうか、そういうことか・・。
ひょっとして『平安京遷都100年』記念事業の一環として、編纂されたんか?『古今和歌集』は・・」私はその時シナプス(神経回路)が繋がって、閃いた事を口にした。
 
「そやな、その可能性はあるかも、かな・・」下川君は否定しなかった。
 
 
「いずれにしても、信濃か甲斐之國のどちらか判らないけど、『諸国牧』で繁殖し育てた献上馬を引き連れた望月氏一党が、滋賀から京の都に向かう『逢坂の関』を越える様子を、紀貫之が詠んでたとすると、望月氏と『古代牧』との関係は相当古くからあった、という事なんだろうね・・」私がそう言うと、
 
「いったん業務として、朝廷の兵部省だか兵馬寮だかに献上馬を納めた後で、『牧司』としての役目を終えた望月氏のご先祖が、官営牧でもある『近都牧』の一つ『甲賀牧』や『日野牧』で、牧司として朝廷の馬を管理したり、調教する役目をしてたのかもしれませんな。
 
長野辺りから献上馬を連れてやって来た、望月氏が甲賀の地に定着・土着する中で、勢力を維持し発展させたと考えるんは、自然な事ではありますな・・」
 
 
六角さんはそう言って下川君のもたらした情報が、望月氏と甲賀の地とのつながりがある可能性を、関連付けた・・。
 
「要するに信濃の牧司だった望月氏は、カーボーイの親玉として毎年の様に献上馬と共に部下やスタッフを引き連れて、東山道や東海道から琵琶湖を通って大津から『逢坂の関』を越えて、平安京の朝廷に上納してたってわけやな・・」水谷君は自分に言い聞かせるように、そう語って納得してた。
 
 
「そうやって上納された献上馬を収納し、管理していた朝廷の数ある『近都牧』の内望月氏のご先祖様は、甲賀エリアの『甲賀牧』や『日野牧』辺りの牧司として、任されるようになって、定着していったっていう訳ですかね・・。
 
しかもそれは平安時代初め頃からずっと、続いていたわけですよね。
少なくとも紀貫之の時代には・・。
 
だとすると甲賀の望月家は、地元でも朝廷に仕える旧家で、名家として一目置かれる家柄たんでしょうね、キット・・」
私も自分の頭を整理する様にそう言って、この新しい情報を自分なりに整理し、インプットした。
 
 
「まぁ、そう云うことですな・・。
しかもその『朝廷の牧』に関わった旧家という事が、実は忍者の頭領家になる上で、大きな意味を持ってくるんですゎ、後々にですな・・」六角さんが言った。
 
「具体的にはどんなふうに、やったん・・。六角はん勿体ぶらんと教えて~な」水谷君が聞いた。
 
 
「ご存知やと思いますが、忍者の使う道具類の事を『忍具』や『忍器』といいますやろ、それらの多くは自家製の鍛冶類や加工品が多いんですゎ、それが一つですな。
 
ほれから甲賀忍者が地侍として頭角を現すんは、室町時代以降のことで、鎌倉時代以前ではなかったようなんですゎ・・、これが二つ目ですな」六角さんが言った。
 
「あ、そうか『鍛冶屋』ですね。
馬具類や蹄鉄を造ったり、調教に必要な調度品を造ったり補修するのに、鍛冶屋は不可欠でしょうし、身近に居たら重宝しますね・・」私は、その時閃いた事を口にした。
私は、富士宮市北山の鍛冶家集団の里のことを、頭に浮かべていたのだ。
 
 
 「で、室町時代以降やと、何で頭領家に繋がるんや?
まぁ何となく判らなくもないけどな・・」水谷君が言った。
 
「南北朝から室町幕府に移り変わって、鎌倉幕府から替わった新しい政治体制が、京都に戻って来たんが、大きかったんでしょうな・・」六角さんが言った。
 
 
「それって『武家の政治』から『朝廷の政治』に先祖返りしたから、ですか?
南北朝を経て・・」私がそう呟くと六角さんは、
 
「もちろんそれもあるんでしょうが、それ以上に鎌倉から京都に権力の中心地が移った事が多きかったと、僕は想ってるんですゎ・・」と私を見て言った。
 
 
「やっぱ甲賀の郷を中心に考えたら、物理的な距離の問題が大きかった、考えてるんやろか?六角はん・・」水谷君が言った。
 
「ですな・・。
やっぱ、甲賀の地侍で鎌倉幕府の御家人やった望月氏にしたところで、その本貫地は鎌倉より、物理的によっぽど近い京都の方があらゆる面で都合が良かった、思てますで・・。
 
まして『牧司』の末裔望月氏やったら、先ほどの鍛冶屋集団も含め、牧場経営に不可欠な人的ネットワークや、それを支えるコミュニティの存在が確立してる以上、都に近い方が何かと都合が良かった、思いますな・・」六角さんが言った。
 
「たしかにそやな・・。
まして牧場経営の『牧司』は、何よりも自然環境に左右される生業(なりわい)の一族やったろうから、土地への執着は人一倍強かったやろうしな・・」下川君も六角さんの説に同意した。
 
 
「更に決定的やったんは、望月氏をはじめとした鵜飼家や関家、美濃部家・多羅尾家といった甲賀の郷の有力者達は、近江源氏の佐々木道誉を支えた、有力な甲賀の地頭達やったですからな・・」六角さんは言った。
 
「なるほど、佐々木道誉は室町幕府を支えた有力な守護でしたよね、京都近郊が地盤の・・。
佐々木道誉の末裔でもある六角さんが言うと、やはり説得力ありますね・・。
なんか言い伝えとかあったりするんですか?望月氏と六角家の間には・・」私は、六角さんを見ながら言った。
 
 
 
                
 
 
 
「イヤ、特段という訳やないけど鎌倉幕府以前からの古い家柄、といった様なコトは言ってはりましたな、爺さんは・・。
で、やはり室町に幕府が出来た頃から関係が深くなったようなことも、言ってはりましたな・・」六角さんはそう言った。
 
 
「因みに望月氏の拠点はどの辺にあったんですか?
多分『勅旨牧』の在った、『甲賀牧周辺だったとは想像できますけどね・・」私は改めて六角さんに確認した。
 
「そうですな・・、望月氏の拠点は甲賀周辺を含めて『望月八ヶ城』ゆうて、『塩野』『杉谷』『竜法師』『新宮上野』『野田』辺りに拠点が在ったようですが、本拠地はやはり『塩野』『杉谷』やった云う事ですから、将に『甲賀牧』の近接エリア、いう事に成りますな・・」六角さんが教えてくれた。
 
 
「『塩野』ですか・・、信州には『塩尻』という地名がありますが、何か関係あるんでしょうか・・」私がボソッと呟いた。
 
「さすがにそれは、関係ないんと違うか・・」水谷君が呟いた。
「イヤ、それがそうとも言い切れないんですゎ、水谷はん・・・・」六角さんは言った。
 
「と、言いますと・・」私はその先を促した。
「実際のところ、『甲賀牧』周辺には望月氏が、信州諏訪から勧進した『諏訪神社』もあるし、神社のために『御神田』を寄進してるんですな、望月氏は・・。
 
それに自らを、一族の歴代の長たちは『信濃入道』『信濃守』等とも名乗ってますし、信州との関係を相当意識してましたからな、望月氏一族は・・。
 
更には望月氏の故郷信州とのつながりを、意識したり大切にしてたことを窺わせる文化財が、神社や仏閣にも残ってましてな、一概に無視する事も出来ませんのですゎ、『塩尻』に関しても・・。
 
これから何かそういった事を裏付ける様な、文化財でも出てくればはっきりするんでしょうが・・」
六角さんはそう言って、私の思い付きを否定しなかった。
 
 
「ところで六角さん、もう一つお聞きしたいんですが、宜しいですか?」私はそう言って、六角さんにビールを勧めながら尋ねた。
六角さんは「どうぞ」という様に肯いた。
 
 
「望月家を始めとした『甲賀牧』に関係する人々が、『馬具』の生産から『忍具』や『忍器』への転用をした事や、甲賀の郷に定着して地侍に成ったり、室町幕府と繋がって地頭に成って行ったのは、よく判りました。ありがとうございました。
 
話は替わりますが、甲賀の郷には『修験道』の『道場』や、『修験者』『山伏』といった人々と接する環境というか、土壌はありませんでしたか・・」と私は尋ねた。
 
 
「えっ!どうしてそんな事、言わはるんですか?」六角さんが驚いたように、私に聞いてきた。
 
「いや、実は私忍者の仕事と、修験道の間には少なからぬ共通点があると、前から想ってましてね・・。
ですから甲賀忍者の誕生にもそういった関係が、何かあるかもしれないと想って、聞いてみたんです」私が言った。
 
「そうですか・・。
好い着眼点持ってはりますな立花はん・・。
 
ええありますよ、『修験者の道場』甲賀にも。水口町飯道山の飯道山神社周辺に・・」
六角さんはそう言って、私にビールを注いでくれた。
 
 
「やっぱりそうなんですか・・。その神社は神仏習合の神宮寺とかを抱えてるんですか?
ひょっとして”天台系の台密  ”とか、ですかね近江之國滋賀だと・・」私が若干の推測を交えて、彼に確認すると
 
「それがちょっと複雑でしてな、『飯道寺』はおっしゃるように比叡山の”台密  ”なんやけど、同じ飯道山には真言密教の寺『梅本院』と『岩本院』とが在るんですゎ。
 
それらはいずれも修験者たちの”道場  ”に成ってます・・」六角さんが甲賀の修験道について説明してくれた。
 
 
「へ~ぇそんなこともあるんですね・・。一つの山に天台宗の密教寺院と真言宗の密教寺院があるなんて・・」私はそう言った。
 
「それに飯道山は一つの山やのうて、標高500~6・700m級の山々が連なってる山地で、修験者はもちろんのコト、甲賀忍者の修行の場にもなっていた場所でもあるんですゎ・・」六角さんが言った。
 
 
「そうなんですか・・。
実は私、甲斐源氏のことをいろいろ調べたり研究してるんですがね、その中に『甲州ラッパ』や『甲州スッパ』と言って、忍者の祖先に繋がる集団が、甲斐の國に居た事が判ってましてね・・。
 
しかもそれに甲斐源氏の祖である新羅三郎義光が絡んでいたじゃないかと、最近想ってるんですよ・・。
まぁそれもあって、ちょっと聞いてみたんです・・」私が言った。
 
「甲州スッパやら、甲州ラッパって何や?
おもろそうな名前やけど・・」水谷君が、さっそく反応して来た。
「そやな、どんな意味なんや?」下川君も、ニヤニヤしながら聞いてきた。
 
 
「そうだね、漢字を充てるとすればスッパは『素破』で、ラッパは『乱破』になるかな・・」私がそう言うと、
 
「で、その意味するところは何やねん!」水谷君が畳みかける様に聞いてきた。
 
水谷君は大阪生まれの大阪育ちという事もあって、学生時代から漫才の相方みたいなところがあり、さっそくツッコミを入れて来た。
 
 
「『素破』は素を破る、要するにモトを破るだから、『情報源を探る』という様な意味なのさ。マスコミ用語に『すっぱ抜く』ってのがあるよな、その『素破抜く』が語源だったって言われてるのさ・・」私がそう言うと、皆は改めて驚いたような顔をした。
 
「で、『乱破』は『乱して破る』だから、相手を攪乱して破る、って意味があるみたいだね。判り易く言えばCIAやKGBみたいなもので、敵や相手を撹乱して破る。といった様な意味らしい・・」私がそう説明すると、六角さんが
 
「それは、忍者そのものですな・・」と、呟いた。
「でしょ!」私は思わず、即答した。
「007やな、それは・・」水谷君が言った。
 
 
「で、それらの『甲州スッパ』や『甲州ラッパ』の誕生に関係してくるのが、先ほども言った『修験者』達なんですよ・・。
甲斐の國だと、甲武信連山の『大菩薩峠辺り』がその『修験者の道場』に成るんですがね・・。
 
それとその山岳道場近くの黒川金山『鶏冠(とさか)山』で、金山開発に従事していた、『甲州金山(かなやま)衆』といった鉱山開発従事者達が、『甲州スッパ』や『甲州ラッパ』の担い手だったようでしてね・・。
 
彼らは穴掘りの技術や石組みを造ったり逆に壊したり、水の防水・治水といった技術を持ってるんですよ。
いずれも鉱山開発には欠かせない技術ですからね、それらを諜報活動や城攻めに活用してたという事です・・」私がそんな風に言うと、
 
「いや、それは面白い!」六角さんは興味深そうに、そう言った。
 
 
「因みに源義光は、どう絡んでくるんや?立花クン新羅三郎義光の・・」下川君が聞いてきた。
やはり大津在住の下川君にすれば、そこが気に成るのだな、と私は感じた。
 
 
 
                               
           
 
 
 
           逢坂の 関の清水に 影見えて
 
             今やひくらむ 望月の駒
 
                          紀 貫之
 
 
 
 
 
 

  

   『万川集海』と甲賀・伊賀忍者

 

 「新羅三郎源義光と、『甲州スッパ』や『甲州ラッパ』との関係かい?」私は下川君を観て言った。
 
「直接的な関係はないけどね、義光公はそうとうな策士で、若い頃から武将のたしなみとして『弓馬』はもちろん、『孫子』等の兵法書も学んでいた様なんだよ・・。
 
多分父親頼義の影響、というか清和源氏系統の教育方針だった、のかもしれないけどね・・。何せ名門武家の御曹司だから彼は」私は続けた。
 
「でもそれやったら、源義光に限らず他の清和源氏の家々や、河内源氏の一党にも同じことが言えるんやないか?」下川君が疑問を呈した。
 
 
「たしかにその通りだと僕も想うけどね、義光公は取り分け『孫子』や軍略に熱心で、興味や関心が深かったようでね、幾つかのエピソードが残ってるし、さっきも言った様に子供たちを交通の要所に配置したりとかね。
 
甲賀柏木荘への配置も含めて、ホントに地政学や孫子を深いところで理解していた、と想えるフシが沢山あるのさ。
 
それにさっき言った修験者たちの活用や、かれらとの接点も含めてね、義光公が園城寺の新羅善神堂の氏人であった事も、天台宗の密教『台密』との関わりを考えると、無縁ではなかったと僕は考えてるのさ・・」私は下川君に話した。
 
 
「『孫子』といえば、以前六角はんに教えてもらった『万川集海』にも、『孫子』を活用してる、書いてありましたで・・」水谷君が六角さんに向かってそう言って、会話に入って来た。
 
「『まんせんしゅうかい』?何やそれ・・」下川君が水谷君に聞いた。
「”よろずの川が集まって、海に成る ”といった様な意味らしいで・・」水谷君が言った。
 
「あ~それは一言でゆうたら、一種の『忍術指南書』ですな・・。
書かれたんは江戸時代中期のことですが、それまで忍者の主だった頭領家に伝承されてた口伝や家伝の類を、当時の幕府の寺社奉行に提出するために取り纏めた書物ですゎ・・」六角さんが教えてくれた。
 
「おモロイねんで『万川集海』。
体系的に忍者のことも書いてあるし、『忍具』や『忍器』の説明や、具体的な使い方かて書いてあるんやから・・。
甲賀忍者の事を知るのに、ようけ役だったゎ・・」水谷君が嬉しそうに、話した。
 
 
「甲賀・伊賀の忍術を扱う家々が49家、49流ありましてな、それまではそれぞれの家で口伝や、一子相伝という形で伝承してた秘伝ゆうか家伝を、一冊にまとめた『忍術指南書』ですな・・」六角さんが付け加えた。
 
「なるほどそう云うことなんや・・。
だから『万川集海』なんやね、忍術を扱う49家の諸流を取り纏めて一冊に集約した書物なんやと・・」下川君が言った。
 
 
「因みに甲賀と伊賀を合わせて49流という訳ですね、甲賀忍者と伊賀忍者はそれぞれが敵対関係ではないと・・」私が疑問を口にすると、
 
「実態としては甲賀と伊賀は、敵対関係にあったわけやなくて、むしろ情報交換やら連携プレイもようやってたし、婚姻関係などもそれなりにあった、言うことですな。
 
近江之國と伊勢之國に分かれてはおっても、同じ鈴鹿山系の北側と南側に棲む同業者の関係やった、いうコトですな。実際のところは・・」六角さんが両者の関係を判り易く解説した。 
 
「ホンマにな、漫画やTVの影響受けすぎなんやなワシら・・」水谷君がニヤニヤしながら言った。
 
「そっか、確かに物語としては主人公が居って、そこにライバルや敵対する人物や勢力が居った方が、オモロイもんな・・」下川君も同調した。
 
 
「いや僕も、子供の頃にin putしたままなんだね・・。
一旦刷り込まれた古い情報を捨てて、up dateしなくてはダメなんでしょうね・・。・・勉強になります」私が言った。
 
「マ、そういう事でしょうな・・」六角さんも肯いていた。
 
 
 
             
 
 
 
「ところで、長い間数百年も甲賀や伊賀の忍者の家で、それぞれ家伝や秘伝として伝承してた、門外不出の技や忍具・忍器といったものを、そうやって一冊の書物として集約したり、纏めたりしたのは、何かあったんでしょうか?
 
あったとすれば、どんなキッカケや経緯があったんですかね?・・」私はフト疑問に思って六角さんに聴いてみた。
 
「やはり、そう来ますか立花はん・・」六角さんは待ってましたとばかりそう言って、私を見ながら話し始めた。
 
「まぁ一言でゆうたら、徳川幕府の誕生によって戦国時代が終わってもうて、忍者が必要なくなったゆうことですかな・・」六角さんが言った。
 
 
「太平の世に成って、忍者が失業してしまったいう事やね。平たくゆうと・・」水谷君が言った。
 
「やっぱりそういう事に成るんですか・・。戦国時代の産物なんですかね、忍者という職業は・・」私がそう言うと、
 
「マ、そういう事でっしゃろうな・・。
そもそも忍者の存在が世に知られ渡ったのも、”応仁の乱”以降の室町幕府の衰退が原因とゆうか、キッカケでしたさかいな・・」六角さんが言った。
 
 
「ってことは忍者がクローズアップされるんは、1470年代後半以降言う事になるんですか、六角はん」水谷君が六角さんに確認した。
 
「正確に言うたら1480年代後半になってから、ですかな。
応仁の乱から10年ほどしてから、やさかい・・」六角さんはそう言って、話を続けた。
 
 
「実はそれには我が六角氏の遠い先祖も、一枚噛んでたみたいでしてな。
当時琵琶湖の東岸を守護として治めてたご先祖様が、応仁の乱後に領内の貴族や神社仏閣の荘園やらを侵食して、”押領 ”し始めた様でしてな、それを彼らから室町幕府に訴えられはったんですゎ・・」六角さんが言った、
 
「なるほど、奈良・平安時代以降の古代の秩序や、室町幕府が維持してた支配構造を、佐々木源氏の六角氏が率先して、打ち壊そうとしたわけですね・・。
 
やっぱり『応仁の乱』で、それまでの朝廷・貴族や神社仏閣の権威や秩序が、大きく損なわれたコトが大きかったんですかね・・。
 
・・でも似たような事は近江だけではなく、日本全国で起きていたんじゃないですか?たぶんですが・・。
鎌倉幕府以来の武士の時代が、応仁の乱によってもう一度シャッフルされたというか、そこから戦国時代に向かって行くというか・・」私は自分の頭を整理する事も兼ねて、そう言った。
 
 
「今から振り返ればそうかもしれんけど、当時の当事者にすれば、そんな簡単には受け入れられなかったんと違うか?」水谷君が言った。
 
「とりわけ既得権益を持ってた階層の人達からすれば、そうやったろうな・・」下川君も水谷君に同意した。
 
 
「まぁ、そんなこともあって、当時の室町幕府の9代将軍足利義尚が、管領細川正元や若狭の武田国信以下の守護大名を始めとした軍勢や、一部の公家たちを引き連れて、ご先祖の六角高頼の居城「観音寺城」を攻めて来たんですな・・」六角さんが努めて冷静に言った。
 
「因みに観音寺城は、どちらに・・」私が尋ねると、
「今の近江八幡市になりますな・・」六角さんが応えた。
「で、どないなったん?結局のところ・・」水谷君が気になるのか先を促した。
 
 
「足利幕府軍が攻めてくるのを知った、ご先祖様や一族郎党は城に籠っては戦わんと、さっさと城を抜け出して、甲賀の郷に向かったゆうことでしたゎ・・」六角さんは苦笑いを含んでそう言った。
 
「近江八幡やったら琵琶湖の近くやし、平地やから守るには難しいと判断したんやろうな、六角はんのご先祖様は・・」下川君が言った。
 
「甲賀の郷は、『甲賀牧』があるくらいの標高の高さだし、『修験者の道場』が在る様な山岳地帯でしょうから、隠れたり潜伏するには都合が良かったんですかね・・」私がそう口にすると、
 
 
「マ、そういう事だったんでしょうな・・」六角さんは肯き、認めた。
「という事は、六角氏は幕府軍と事を構える場合に備えて、イザという時には平地の城はさっさと捨てて、甲賀の山城に身を隠すプランを、前から検討してたってコトですかね・・」私は言った。
 
「お爺はんは常々、”備えあれば、憂いなしやでぇ・・”ゆうてはりましたな・・」
六角さんは遠くを観るような眼で、そう言った。
 
 
「で、最終的にはどうならはったんです?六角はんのご先祖様は・・」下川君が尋ねた。
「まぁこうやって、目の前にその末裔が生きておる、ゆう事ですな結論としては・・」
六角さんはニヤニヤしながらそう言って、下川君にビールを注いだ。
 
「なるほどそう言うことなんですね・・。
そしたら甲賀衆は六角氏一族にとっては、命の恩人だったわけですね・・。
当時の琵琶湖東岸の守護一族を救ったという事は、当然ながらたくさんのご褒美を貰ったんでしょうね、甲賀衆は・・」私がそう言うと、
 
「ですな・・。六角家からは活躍してくれた主だったメンバーの甲賀衆二十一家に対して感謝状を、お墨付きで渡したそうです。
そのお墨付きの中には各家の領地の安堵はもちろんの事、自治権の保証や租税の免除なんかも、かなり認められたようですな・・。
 
それがまた、その後『甲賀衆』云うか甲賀忍者の発展にも、繋がって行ったみたいでしたな・・。
因みに先ほど話題に成った望月家にもたいそうお世話になったみたいで、二十一家の中に二家も含まれてたそうですゎ望月氏一族は・・」六角さんが具体的に話してくれた。
 
 
「持ちつ持たれつ、の関係やな・・」水谷君が言った。
 
「ま、そういう事でしょうな・・。緩やかな同盟関係云うか・・。
 
因みにこの緩やかな同盟関係は、戦国末期に六角家が信長に敗れるまで長く続いた様でしてな、六角一族は強力な外敵から逃れる時は、たびたび甲賀の郷を頼りにして、隠れかくまって貰ってたようですな・・」六角さんが言った。
 
 
「ところで、その六角家と甲賀衆との緩やかな同盟関係は、何年ぐらい続いたんやろか・・」水谷君が呟いた。
 
「ザックリ100年近く、といったところですかな・・」六角さんが応えた。
「それはそれは・・。
そしたらザッと4代以上にわたって続いたってことですか・・。
 
だとすると両者の関係はそれなりに太かったんでしょうね・・」私は頭の中で1代=25年と計算して、そう言った。
 
「多分そうやった、想いますな・・」六角さんは肯いた。
 
 
 
          
           :六角氏観音寺城跡  緑大:甲賀の郷
               青左:室町幕府  青右:幕府軍”鈎の陣”跡
 
 
 
「ところで、有名な『鈎(まがり)の陣の戦い』は、室町幕府軍が草津近くの『鈎地区』に陣を構えた際の、攻防の話やったよね、六角はん・・。
室町幕府軍vs六角氏とそれを支えた甲賀衆との、攻防の話しやったさかい・・」水谷君が言った。
 
 
「『鈎の陣』って何や?初耳やで・・」下川君が彼に聞いた。
「大津に居っても知らんか・・」水谷君は、ちょっと残念そうに言った。
 
「甲賀忍者が大活躍して、一躍その存在や名前が全国に知れ渡って、甲賀忍者が全国区に成った有名な闘いやで・・。
忍者愛好家の世界では、よう知られた話しやけどな・・」と、水谷君は説明した。
 
「ほう、忍者愛好家の間では有名なんだ・・。
残念ながら忍者愛好家でない僕は、知らんかった・・。
 
でもそれが後の室町幕府衰退の遠因に成ったり、群雄割拠に繋がる動乱の一つだとすると、僕も聞いてみたいかな・・」私も聞いてみたいと、そう思った。
 
 
「そしたらワシが概要を話したるゎ・・。
で、足りない分があったら、六角はんフォローしてやってください。宜しゅう頼んますゎ・・」水谷君は私達にそう言った後、六角さんに補足説明をする事をお願いした。
 
 
 
 
 
 
 
 

             甲賀衆の「結束力」と「強靭さ」

 
 「室町幕府の9代将軍足利義尚が大軍を率いて、近江守護の六角高頼の観音寺城を攻めたんは、さっき六角はんが話してくれた通りや。
で、草津近くの今の栗東市の”鈎 (まがり)”の地に、幕府軍が陣を構えたんも、六角はんが言った通りやな・・。
 
幕府軍は鈎の陣所を拠点にして、そこを司令部にして六角一族が隠れ潜んだ、飯道山を中心とした”甲賀の郷 ”を攻めたわけやな・・」水谷君が説明を始めた。
 
 
「”マガリ ”ってどんな字を書くんだ、水谷」私が聞いた。
「”金偏 ”に”匂い ”、みたいな字やな。中は”ヒ ”やのうて”ム ”やけどな・・」彼が応えた。
「ふ~ん、珍しい字だな・・。何か謂れとかありそうだな・・」私はそう言って、チラリと六角さんを見た。
 
「せやろ、その地名にはワシかて珍しい名前やし、調べてみたんや。
そしたらな、奈良時代の古代の遺跡から出土した木簡に『鈎連(むらじ)渚』いう固有名詞が出て来よって、その『鈎』姓の人達の居住エリアやったんやないか、って言われてるんや」水谷君が、その謂れについて解説した。
 
 
「栗東市の”十里遺跡 ”ですな、それは・・。
下川はん、聞いたことおますやろ『十里遺跡』・・栗東市の」
六角さんはそう言って下川君を観た。
 
「『十里遺跡』の事は知ってるけど、『鈎の陣屋』に繋がる木簡が出てきた事まではな・・。聞いてたかもしれへんけど、覚えておらんゎ・・」あっさりと、知らないと下川君は認めた。
 
「そうなんだ、イヤありがとう・・」私は水谷君と六角さんにお礼を言った。
 
 
「ところでその陣所の規模は、どの程度の大きさだったんか知ってるかい?水谷・・」私は水谷君に改めて聞いた。
 
「『鈎の陣所』の規模かい、まぁそれなりに広かったみたいやで。
ワシの記憶が間違ってなければ、1万3・4千坪は在ったみたいやから。
しかも陣所の周囲にはH=1m程の土塁や、お堀まで造られたいう話やで、結構本格的やろ・・。
 
何せ時の将軍家が直々に出張って、細川管領を初めとした近隣の守護大名数千騎とも数万騎ともいう規模で、3年近く滞留してた、云う話やさかいな・・」水谷君が言った。
 
 
「その間、一部の公家達も、陣屋には逗留させてたみたいでしたな・・。
ま、一部では”仮の幕府御所 ”やった、言う人もおるみたいやさかい・・」六角さんも続いた。
 
「ホウ、3年間も・・。で、1万3・4千坪の陣屋・・。”仮の御所 ”ですか・・。
それは相当本腰を入れた、討伐軍ですね・・。
という事は”後三年の役 ”レベルか・・」私が感心してそう言った。
 
 
                    
               鈎の陣所 ”平面図:120間☓114間=13,680坪
 
 
「マ、その『後三年の役』クラスの戦いを、六角氏側で実質的に担ったンが、甲賀忍者たちやった、てなわけや・・。スゴイやろ!」水谷君は鼻息荒く言った。
 
「たしかに、それはすごい事やな・・。認識改めるゎ・・」下川君が肯いて言った。
「で、どんな展開があったかは水谷、何か知ってるんだろ?」私は水谷君に尋ねた。
 
 
「初めの頃はな、何でも幕府軍が甲賀の郷に潜んだ六角高頼軍を追って、攻め立てたいうことや。
かつての”甲賀牧 ”の在った辺りの、甲賀衆の山城を中心にな・・」
水谷君は私達にそう言って、確認するかの様に六角さんを見た。
六角さんは水谷君に、そのまま先を続けるようなジェスチャーをした。
 
「甲賀衆の山城なんだな・・。
さきほど、戦後六角高頼が甲賀衆二十一人に感謝状を出した、と言ってましたよね?六角さん。
それから望月氏には八つの拠点というか城があった、とも・・」私が六角さんを見ながらそう言うと、
 
「望月八ヶ城ですな・・」六角さんがボソッと呟いた。
 
 
「それだけの数の山城があって、しかも彼ら頭領家クラスだと自分の勢力圏に、複数の拠点いうか山城を有してたと・・。結構な数やったやろな・・」下川君が言った。
 
「修験者たちの道場の在った、甲賀の郷の地形を考えると、飯道山をピークとした山々の間を流れる、中小の河川沿いに開かれたエリアに散在する山城、という事に成るんでしょうかね・・」
私はかつて訪れた安田義定公の領地である、山梨の塩山エリアの事を思い出しながら、そう言って六角さんを見た。
 
「ワシも『信楽高原鉄道』に乗って、甲賀の郷を訪ねたことあんねんけど、将にその通りやったな、あの辺りは・・」水谷君が言った。
 
「それが二十一の頭領家の差配の下で動く、甲賀の地侍達の鍛錬された甲賀衆と六角氏の連合軍に、幕府軍は挑み、戦闘を繰り広げたわけやな・・」下川君が言った。
 
 
「実際には二十一の頭領家以外かてあって、彼らほどの目立った活躍や功績は無かったけど、戦力となったグループもあったやろうから、4・50のグループにも成ってたんちゃうか・・」
水谷君は同意を求める様に、六角さんの顔を観て言った。
 
「49家、49流ゆう事ですから、・・まぁそう想っておいてええ、想ってますな。
また甲賀衆の場合は、統率された組織で動くというより、個々がそれぞれ自分たちの得意な技や手法を駆使して、それぞれの戦いを繰り広げた、と理解したほうが宜しい、想いますな・・」六角さんが言った。
 
 
「ゲリラ戦法やな・・」水谷君が言った。
「ベトナム戦争の米軍vsべトコンの戦いや、アフガニスタンの米軍vsタリバンとの闘い、と同じやな・・」下川君がフと思いついた様に、そう言った。
 
「そうか、そういう事か・・。
将に『万川集海』なんですね、甲賀衆たちの戦い方は」
私は今の話を聞いて、甲賀忍者たちの『忍術指南書』といわれた書物の事を思い出した。
 
 
 
 
           
                       赤:甲賀市飯道山
 
 
 
「ところでそうだとすると、テンデンバラバラでチームとしての統率や、甲賀衆全体でのバランスとか、塊としての威力の発揮とかは、どうやってたんですかね・・。
でないと、ヘタすれば烏合の衆で終わっちゃいませんか?」私は疑問に思って、六角さんに尋ねた。
 
「良い処に気づきましたな、立花さん・・」
六角さんはニヤリとしながら私を観て、話を続けた。
 
 
「将にその通りでしてな、その甲賀衆として戦う、塊として威力を発揮するための社会システムがあったからこそ、甲賀衆が『甲賀忍者』と呼ばれるように成ったんですな・・」六角さんが言った。
 
「ほう、それはそれは・・。ぜひとも詳しく聴かせてほしいですね・・」私は興味津々となって、彼にビールを注いだ。
 
 
「その社会システムとでも云うのは『惣(そう)』というんですがね・・」六角さんが説明を始めた。 
「因みにその文字は何と?」私が反応した。
 
「『物』の下に『心』という字の『惣』ですな。
で、甲賀の郷では『惣村』『惣郷』などと云って、村民や郷民が集まって村や郷での”ルール ”や ”約束事”を決める んですゎ・・。
 
今でゆうたらまぁ『意思決定機関』なんでっしゃろうな・・」六角さんがその意味するところを、語った。
 
「ゆうたら『忍者社会の掟(おきて)』を決めるシステム、みたいなもんやな・・」水谷君がそう言うと、六角さんは大きく肯いた。
 
 
「なるほど、地方自治体の議会みたいなものですか・・。
やっぱり選挙や推薦で選ばれた代議員制なんですか、それとも中世の事だから地頭や村の有力者たちが相談して決める、トップダウン方式とかですか?」私は疑問に思ってそう尋ねた。
 
「イヤ、甲賀ではそうではないんです。『直接民主制』なんですな、これが・・。
村人全員が集まって協議し、相談して決めるんですゎ、甲賀の郷や村では・・」六角さんが言った。
 
「え⁉」私は思わず、小さく叫んだ。想定外の答えだったからだ。
「ん?全員なんか?有力者だけやのうて・・」下川君も驚いた。
 
 
「村人全員、いうても各家の戸主=代表者だけで、女子供や年寄りは除外してます・・。
あくまでも一家の代表者が集まる、”寄りあい ”ですな」六角さんが応えた。
 
「村には、頭領家を始めとした有力者や、地侍や郷士と呼ばれる武士階級の他に、町人や百姓だっていたわけですよね、いろんな階層や身分の人達が・・。
 
それに各家々の代表だとすれば、それなりの数になるでしょうねキット・・」私がそう言うと、
 
「な、おモロイやろ・・。忍者の世界が『直接民主制』で運営されてたなんて・・」水谷君が、ニヤリとして言った。
 
 
「いやいやいや・・、ビックリ‼ですよ・・。
お話の通りだとすると、幾つか新たに疑問が湧いてくるんですが、判ってる範囲で結構なんで、教えてもらえますか?」私は六角さんに尋ねた。
 
「判ってる範囲で良ければ、ですが・・」六角さんは、”どうぞ ”という様に、身体を後ろに引いて構えた。
 
 
「そうですね、先ずは参加人数はどのくらいの規模になるんですか?
『惣村』に集まる人々の規模感ですが・・、もちろんザックリで結構です・・」私がそう尋ねると、六角さんは
 
「『鈎の陣の戦い』から百年ほど経った頃に、書かれた『古文書』というのが、甲賀の郷の頭領家に運よく残ってましてな。
その古文書に依ると300人以上の『同名中惣』の人々が、著名した『起請文』があったんですゎ・・」と言った。
 
 
「室町時代の末期に『惣村』の決まり事とか約束事を、”神様 ”の前で誓って『起請文』を作り、著名した村民が300人以上居た、という事なんですね・・。
 
『起請文』だとすると、郷村の氏神様を祀る神社とかで書いたことに成るわけですかね、神様に誓うとすると・・」私が更に尋ねた。
 
「その300人超の村人たちの構成いうか、身分とかは判ってるんやろか・・。
さすがにそこまでは、無理やろか・・」水谷君が、ダメもとで六角さんに聴いてみた。
 
 
「まず、立花はんの疑問ですが、そのとおりやったそうですな。
氏神を祀った神社に村人たちが集まって、協議し、多数決で決めて、その賛同者の多い意見を村人たちの総意として、惣中で確認しあって、集約し『掟』としたと・・。
 
で、全員が著名する事で同意を示し、神様に対して『起請文』を書き、村や郷の約束事として『掟書』を作り、共有した上で、有力者の頭領家で保管しておった、言うことですな・・。
 
次に水谷はんの質問ですが、その意思決定に参加した村人の構成ですが、判りますで。
因みにその古文書に残ってた著名者の身分は、
 
確か武士階級の地侍や郷士達が1割程度で30人くらい、
その家来筋を含めた地侍達の一族郎党が100人前後、
その他に百姓・町人・商人達が200人程度やった、
と学者先生の論文に書いてあった、思います・・」
 
六角さんは、具体的な階層別の構成を挙げながら教えてくれた。
 
 
「ほうそうですか・・、イヤありがとうございます。
よくそこまで判りましたね、期待以上です。ありがとうございます」
私は感謝を込めて、六角さんにビールを注いだ。
 
「なぁ~に運よく『古文書』が残ってたから、ですゎ・・」六角さんは謙遜した。
 
 
「という事は、当時の村の規模は戸主が300人以上やから300戸、一戸当たりの家族数が老若男女を交えて5・6人以上は居ったやろうから、ザックリと1,500人~2,000人規模の集落やった、とい事やな。最低でも・・」下川君が言った。
 
「何でそんなことが判るんや?」水谷君が感心して言った。
 
 
「古代遺跡を調べるとな、いつもそう言った事を考えるんや、家族構成とか集落の規模をな。だから習慣的に判るんやな・・当時は核家族やなかったさかいな。
マ、一種の職業病かなこれも・・」下川君は何でもないという様に、そう言った。
 
「なるほどな・・。という事はそういった村や集落を代表者して、『感謝状』を六角氏から貰った家が21家あったとすると、ザックリ3・4万人は居たという規模感になるんだね、総人口だけど・・」私は自分の頭を整理するために、そう言った。
 
 
「ところで、総勢3・4万人の住民のパワーの結集力というのは、どうだったんですかね・・。
何しろ『起請文』まで書いた『掟書』を、惣郷として作ってる、当時の甲賀の事ですから、何となく想像はつきますけどね・・」私は更に六角さんに尋ねた。
 
 
「それは結束力は高かったようですな。
その『古文書』にも書いてあるんですが、著名した者が遵守せないかん『掟書』は、三十二ヶ条からなってましてな。
その中には掟を破った場合の罰則規定まで、定められておった様ですな・・」六角さんが説明した。
 
「やっぱりそうですか、罰則規定まである、いわば『法律』ですね・・。
何しろ、直接民主制で合議した事を『掟書』としてまとめ、『起請文』として、署名までしてるんですからね。
村民たちの参加意識や当事者意識は、それなりに強かったでしょうね・・」私が言った。
 
「それも氏神様の神社で作成した、いうことですからな・・」六角さんが補足した。
 
 
「な、凄いやろ!
それが甲賀や伊賀の忍者コミュニティの結束力強化や、外敵に立ち向かう防御力や攻撃力の高さに、繋がっていくわけや・・。」忍者びいきの水谷君が誇らしげにそう言った。
 
「なるほどな、その防御力や攻撃力が室町幕府という外敵に向かって行ったわけや・・。
幕府軍も大変やな・・、苦戦するわけや。
3年経っても勝てなかったんは、そういったことも影響したんやろな・・」下川君も感心した様に言った。
 
 
「その通りや、思います。
そういった社会システムが、甲賀や伊賀の郷には在ったからこそ、よその郷村とは違うて、甲賀や伊賀の郷の独自性が培われたんやろうし、強靭さが備わっていったわけですな・・」
六角さんはそう言って、甲賀や伊賀のオリジナル性を結論付けた。
 
「そしてそういう統治システムを領内に作り、維持し許容して来たのが守護大名の六角氏であった、という事ですね・・」私が言った。
 
 
「せやから六角氏が信長に滅ぼされるまで、このシステムが続いて、忍者の郷が独自性を発揮しつつ、存続できたわけやな・・」
水谷君もそう言って、六角氏の統治システムが甲賀の郷の直接民主主義を育み、郷村としての強靭さや特殊性を、深めていった事を理解していた。
 
「水谷の言うとおり、”持ちつ、持たれつ”の関係やったわけだ・・」下川君も納得した様に言った。
 
「そういう背景が在ったから、甲賀忍者や伊賀忍者が存続し、育っていったたんだろうね・・」私も、そんな風に思った。
 
 
 
 
 
                 
                    甲賀の郷の代表的な氏神の一つ「矢川神社」
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

       「鈎の陣」の攻防

 
 
 「ところでだけどさ、その『鈎の陣』での室町幕府軍と甲賀忍者&六角軍の攻防って、どんなふうに行われたんだろうかね・・。
チョット教えてくれませんか?六角さん・・」私が尋ねた。
 
「そうですな、ひとまず水谷はんが知ってる範囲でお話ししてもらえますか?
過不足があれば僕がフォローしますよって・・」六角さんは私にそう言って、水谷君をチラリと見た。
 
 
 
 
 
 
 
 
 

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 



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北海道十勝 , 大樹町


 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
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