春丘牛歩の世界
 
 
三連休の初日は「春分の日」であった。
暦の上では冬に終わりをつげ、これから夏至に向かって日に日に太陽の日照時間が増え、気温もいよいよ上がって行くのである。
 
北海道南十勝、という北国に暮らす身とすれば「春分の日」は
”有り難い””祝福すべき ”日なのである。
 
以前「冬至と”日を奉る ”人々」のコラムでも触れて置いたが、「春分の日」は一年の中で最も大切に祝福すべき、季節の大きな節目の一つなのである。
しかも”解放感 ”を伴う、心地よい日なのだ。
 
 
さてそんな三連休の日に、日本初の女性首相が女大好きなアメリカの大統領を訪問し、日米首脳会談を行った。
 
主たる議題は、イスラエルのネタニヤフ首相とトランプ大統領が始めた「イラン戦争」の後始末に、日本がどう”関与 ”或いは ”寄与”するか、であった。
 
今年の2月に行われた総選挙で、圧勝したこの女性首相の首相としての力量が試される、大きな試金石であった。
少なくとも私は、冷静にそう観ていた。
 
 
「イラン戦争」によって、「ホルムズ海峡閉鎖」の動きが発生し、原油やLNG等の産業及び生活の必需品の流通がストップし、生産拠点も攻撃され被害が拡大するに及び、日本はもちろんの事、全世界の産業や生活に多大な影響が起きる事が予測された。
 
その結果WTI(米国の原油取引所)の原油取引価格は、瞬間的に30%以上跳ね上がり、この戦争が起きる以前は1ガロン(約3.8リットル)60ドル後半で推移していた取引価格は100ドル台を前後し、今日に至っている。
 
 
一部の報道機関の間では「第三次オイルショック」と言われているこの事態に、この危機を引き起こした張本人のアメリが大統領に、日本初の女性首相がどう立ち向かい、どう対応し、どの様な約束をしてくるのか、が注視されたのである。
 
 
訪米する前の国会においてこの女性首相は、
”日本の国益を守る ””したたかに対応する ”と、真顔で公言していた。
 
その女性首相がDトランプアメリカの大統領に行ったパフォーマンスで、象徴的なのは
 
・出迎えに来た米国大統領に、車から降りた女性首相が「ハグ」して、肩を叩きあった。
 
・会談の冒頭で「世界に平和と安定をもたらすのは、ドナルド(大統領のファーストネーム)あなただけだ」といった様なコトを言って、米国大統領の歓心をかった。
 
 
 
          
 
 
これらのパフォーマンスは、見ようによっては”眉唾モノ ”であったが、女好きで自尊心の強いこの大統領に対しては効果があったようだ。
 
少なくとも男性の首相であったら、この様なパフォーマンスはなかなか取れない。とりわけ「ハグ」はそうだろう。
 
 
それに「戦争を始めた張本人」に対し、「平和をもたらすコトが出来るのは、あなただけだ・・」という様な言葉を、にこやかな笑顔で言うことは、真面目に生きてきた人間が口にする事は出来ないだろう。
 
 
       
 
 
 
従ってこの一連のパフォーマンスを観て、私は彼女の国会答弁を思い出した。
すなわち「日本の国益を守る」ために「したたかに対応する」と
真顔で言った場面を、である。
 
と同時に私の頭に浮かんだのは「クレオパトラ」のことである。
ローマ帝国との戦争を回避するために、ローマ皇帝「プトレマイオス」や「アントニウス」と関係し、浮名を挙げたエジプト女王のことである。
 
 
いずれにせよ、このようにして剛腕で攻撃的な米国大統領の出鼻を挫き、日本が「イラン戦争」に加担する事を回避し、戦争に巻き込まれる可能性のある「約束」をしなかった事は評価すべきであると、私は考えている。
 
もちろん今回の日米首脳会談が、「コトなき」に及んだのは、外務省と経産省等が事前に用意していた”お土産 ”が功を奏したから、である。
 
 
すなわち「アラスカでの原油採掘」や「LNG開発」のための、共同開発や資金援助=投資であり、流通に必要不可欠な「パイプライン敷設」や「港湾等整備」といった、インフラ建設への投資や共同事業、というお土産のコトである。
 
ワンマンビジネスマンである、現アメリカ大統領はこのお土産に大いに喜び、「イラク戦争への加担」より優先順位を高くし、受け入れたのである。
 
 
前回のこのコラムでも言った様に、私はホルムズ海峡への原油やLNG依存度を低め、多面的な供給元を確保する事は、日本にとってそして日本人の生活にとっては有益だ、と考えているので、今回の投資と共同事業には肯定的である。
 
少なくともロシアとの樺太開発や共同事業よりは、数倍安全で有益であると考えている。
 
 
「長期的」な視点での「エネルギー政策」や「経済安全保障」的には有益だと考えている。
 
更に加えるならば、「オーストラリア」「インドネシア」「フィリッピン」といった、海洋諸国と同様の共同事業が進めば、もっと安定感が得られるだろうと考えている。
 
「一本足」より「二本足」更には「三本足」の方が、ズット安定感が約束されるから、である。
 
その意味では今回の「ハグ」や「お追従(ついしょう)」は、現在の米国大統領に対しては有効だと、思っている。
 
 
そうやって、将来に繋がる実益を与え、かつ日本の国益に繋がる提案は、「イラン戦争」への軍事的関与を「約束」しなかった点においては、この政権の対応は悪くはなかった、と私は考えている。
 
そしてその立て役者の一人として、急遽日米首脳会談に自らの意思で加わった、「茂木外務大臣」の存在と彼の果たした役割を、過小評価もしないし、私は忘れてはいないのである。
 
 
                     
        
        赤沢経産大臣、茂木外務大臣、高市首相、USA大統領
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
                 お知らせ
 
*2月6日:『甲斐源氏の祖、源義光』に新しく「近江之國編」を追加し、公開しました。
*3月1日:同「近江之國編」に「 近江の「古代牧」と甲賀の郷」を追加しました。
 
*2月3日:本日『コラム2026』を公開しました。
 
 
 
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  南十勝   聴囀楼 住人

 
    
          
 
                            
      
          
       
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
                                                                
  

 
   
      

  
 
 
 山梨の石和温泉郷での「安田義定研究会」メンバーとの情報交換会から、半年ほど経った晩秋11月に,、大学時代のクラス会が京都であった。
二年ぶりのクラス会では、クラスの同好会(京都の歴史と史跡を探訪する会)メンバーだった友人が、数年患っていた癌で昨冬亡くなった事を知った。
 
彼の故郷滋賀県草津での墓参を終えて、改めて集まった同好会のメンバーと故人との”想いで話 ”を済ませた後、参集者たちの現在関心ある事などについての情報交換を行った。
 
その際大津市教育委員会で「大津京遺跡」の史跡発掘等に携わっていたメンバーの話や、彼が退職後始めた「弓道」や「流鏑馬」の事などで話は盛り上がった。
メンバーの中には学生時代から、「忍者」について関心の高かった元中学教師が居て、彼が退職後「甲賀忍者」について、アカデミックに調査・研究している事を楽しそうに話しており、その話題も盛り上がった。 
 
 
          < 全 体 構 成 >
 
              = 『甲斐源氏の祖、源義光』 
        
                 ー 近江之國編 ー
 
                1.  近江之國と錦織氏
         2.近江神宮と神事流鏑馬(上記、2026年2月6日公開)
                 3.  近江の「古代牧」と甲賀の郷  (同年3月1日公開)
 
 
 
 
            =  河内流源氏、家系  =
 
           初代/流祖源頼信
 
              二代:源頼義(長男/嫡子)

 快誉(四男) 源義光(三男)  源義綱(次男) 三代:源義家(長男/嫡子)

(園城寺僧侶) (新羅三郎義光) 加茂次郎義綱)   (八幡太郎義家                      

       *安田義定源義光のひ孫で、  源頼朝義家のひ孫にあたる

 
 
              
 
 
 
 
 

 
                ー 近江之國編 ー
 
 
 

    近江之國と錦織氏

 
 
春に行われた、石和温泉での「安田義定研究会」のメンバーとの情報交換会を終えて、半年ほど経った11月中旬に、大学時代の「クラス会」が京都駅近くのホテルのレストランで行われ、私はその会合に出た。
 
二年ぶりに行われたクラス会であったが、かつてのクラスメートで同時に学生時代の任意の趣味のサークル、『京都の歴史と史跡を探訪する会』のメンバーでもあった友人錦織君が、この間亡くなった事を初めて知った。
 
彼は癌を患っていて5・6年前から入・退院を繰り返しており、2年毎のクラス会にも最近は出席できないでいた。
私も案じてはいたのであるが、その彼が昨年の冬に亡くなったのだという。
 
 
私も70前後になってから、友人や知人更にはお世話に成った人たちの訃報が、相次いで届くようになった。
こちらの年齢が上がっている以上、知り合いたちの何人かが亡くなるのは仕方がない事ではあるが、やはり寂しい。
と、同時に”遠からず自分も・・”などといった考えが、フト頭をよぎる。
 
 
 
「クラス会」でその事を知った私は、当時の『京都の歴史と史跡を探訪する会(略称:京都歴史探)』のメンバーを誘って、錦織君の眠る滋賀県草津の寺に墓参することにした。
 
急な事もあって参加人数は4人ほどで多くはなかったが、とりあえず私は関西での滞在日数を延ばし、クラス会の翌々日には墓参を行う事に成った。
 
 
当日は10時にJR草津駅南口のロータリーで落ち合って、歴史探のメンバーで現在も大津市で暮らしている下川君の車で、錦織君の眠る菩提寺に向かった。
 
途中で献花用の仏花と線香等を買い求めて、駅から車で10分ほど離れた山裾のお寺に向かい、墓参りを済ませた。
 
2年ほど前に亡くなった彼は長男だったが家督は継いでおらず、実家のある滋賀を離れ京都と奈良が隣接する場所に居を構え、「古代史」に関わる考古学や文化財に類する仕事に携わっていた。
 
 
3人の子供と奥さんは健在であったが、未だ彼の名前は実家の墓誌には刻まれておらず、
”彼岸 ”から2か月近く経っていたが、あまり家族が墓参しているとは想えない様子だった。
ひょっとしたら、ご先祖とは違う埋葬をしているのかもしれなかったが、ちょっと残念な気がした。
 
彼の生活の拠点が京阪奈丘陵の一画であって、琵琶湖沿いの実家や一族の墓所の在る菩提寺とは、離れていたことも原因の一つだったのかもしれない。
 
 
墓参を終えた後、私達はJR草津駅近くまで戻り、錦織君を「偲ぶ会」という名の「直会い」を行った。
 
駅前の飲食店が集まったビルで個室居酒屋を探した私達は、「錦織君の思い出話」を2・30分ほどした。
「彼にまつわる学生時代のエピソード」や「春休みに1週間かけて、皆で四国を車で回遊した話」や、彼の好きだった「奈良や京都の神社仏閣」「かつての史跡巡り」といった話題が中心であった。
 
彼との思い出話がひと段落し、昼の酒が身体や頭の中に染み渡った頃、皆の「現在地」に話題が移った。
 
 
初めに奈良市在住の郡山君が口火を切った。
彼は65歳定年前の晩期は、全国展開のショッピングモール(S・M)の、地域本部長を務めていたのであるが、定年後は取引先でもあった三重県のリージョナル型S・Mの経営者に請われて、3年ほどの間モール経営に関わるアドバイスをしていたという
 
そのアドバイザリー業務も、ここ数年体力の限界を感じはじめたこともあり、70歳に成る前の昨年で終えた、という事であった。
 
今はもっぱら実家の父母の住む家と、奥さんが暮らすマンションの中間地点で、父母の病院通いや畑仕事の手伝いをしながら、週に一度程度奥さんの住むマンションを行き来している、との事だった。
 
特にする事がない日は、ひがな大リーグの試合を観たり、大谷選手の活躍をチェックしたり、大相撲の番組を観て過ごしている、との事だった。
彼は昔からスポーツ番組を観たり、スポーツの試合を観戦するのが好きだった。
 
 
現役時代に会社の業務で全国を飛び回っていた彼には、家族とずっと同居をし続けるよりも、月に何度か家族の待つ家に顔を出すことの方が、奥さんにしても本人にとっても、都合が良かったのだという。
 
彼にしたところで自分の居場所が在る様な、無い様な中途半端な家に居るより、実家近くのマンションでの独り暮らしの方が、暮らし易いと、感じていたのだろう。
 
 
二人の子供は既に家を出て独立しており、それぞれ孫がいて本人もすっかり”ジイジ ”していると、嬉しそうに話していた。
 
ではあるが私の眼には、働いていた頃に比べ精気が減退している様に思われた。
身体も一回り小さくなったように感じられた。
退職してからの彼に私は”老い ”を感じるようになっていた。
 
 
 
私と同様関東で暮らし、今回のクラス会にも新幹線でやって来た、中学校の元社会科教師水谷君は、数年前に奥さんを亡くしていたという事であった。
 
一時期看病も重なって、クラス会にも趣味のサークル『歴史探』の定例会にも、出れないでいたのだが、やっと参加する事が出来たという事で、久しぶりに今回は参加していた。
 
 
奥さんが亡くなってからしばらくは、”心の整理がつかないから、参加できなかったのだ・・”と彼は述懐していた。
それだけ彼にとっては奥さんの存在が大きかったのだな、と私は感じた。
 
離婚してから20年近く経って、気ままに独り暮らしをしてきた私には、中々理解できない感情であった。
人生のパートナーへの、愛情の濃淡の違いなのかもしれなかった。
 
 
水谷君は学生時代から”忍者  ”に対して少なからぬ関心・興味を持っていたのだが、二十歳前後の頃は、”子供じみた趣味だ ”と皆にからかわれていたこともあって、”歴史探 ”のサークルでは、その事は封印していた様だった。
 
そんな彼も60歳で定年退職してから、趣味の”忍者  ”について時間を見つけては、少しずつ調べる様に成ったのだという。
還暦を機に、周囲のことは気にせず自分の気持ちに正直に生きることにしたのだ、と彼は言ってた。
 
当初は「伊賀忍者」の事を調べてたのだが、”忍者 の本場  ”はどうやら「甲賀」にあるらしいと気づき、近年はもっぱら「甲賀忍者」の事を中心に調べている、との事だった。
 
 
 
                 
              
 
 
そんなこともあって彼は退職してから、滋賀県の大津市教育委員会に勤めていた下川君の力を借りて、甲賀市を訪れる際には彼の人脈を使って、情報交換や情報収集などを行っていたのだ、という。
 
 
奥さんの看病をする合間を縫っての事だった、というが、それは彼にとって息抜きに成っていたのかもしれない、と私は想った。
 
人はシビアな現実に向き合ってる時は、あえてその現実と距離を置くことも大切だから、である。
そうやってリフレッシュした後で、改めて厳しい現実に向き合う事が出来るのだ。
 
 
水谷君は今回の様に滋賀に来るたびに下川君を引っ張り出して、車の運転を頼みながら甲賀の街案内や、知人の紹介などを頼んでいたのだという。
 
 
 
今日の墓参に車を出してくれた下川君は、大津市の教育委員会で市の文化財関係の専門職員として働く傍ら、高校生の頃部活でやってた”弓道  ”を、子育ての終わった50代頃から復活したのだという。
それ以来毎週、弓道の稽古に通っていると話してた。
 
そんな中で60を過ぎて定年退職してから、弓道を活かした”流鏑馬  ”にも関心が向かい、地元大津の「近江神宮」での、流鏑馬を教える同好会に入門したのだという。
 
 
以来10年近くなった今は、それなりに乗馬や流鏑馬の技術も修得し、近江神宮で行われる神事の一つ、「流鏑馬の行事」にも出場するレベルに達したのだという。
 
現在では毎年6月に行われるその行事に合わせる様に、1年間のスケジュールを組み込んでいる、と愉しそうに話していた。
 
 
また、錦織君に関わる思い出話として、専門の大津京と錦織君のご先祖に関する事について、興味深い話をしてくれた。
 
「実はね、生前というかまだ僕らが卒業して10年も経たない頃、錦織君とサークルの同窓会で逢った時にね、彼に聞いたことがあったんや・・」下川君はそう言って、続けた。
 
「僕が大津京の遺構というか遺跡について、教育委員会で調べる様になって、その遺跡の中心部が大津市錦織地区だったらしい事が判ってね。
 
で、彼とサークルの同窓会で再会した時に、聞いてみたのさ
”君の実家は、大津市の錦織地区と何か関係あるのか  ”ってね・・」
 
「ほう、そしたら錦織はなんて応えたのさ・・」私が聞いた。
「その時彼が言ったのはね、うちのご先祖は大津じゃなくって琵琶湖の東南に当たる野洲の方なんだ、って言ってたよ。
 
彼自身大学生の頃にご先祖様に興味があって、それなりに調べてみたんだそうだ。ちょうど『歴史探』のサークル活動に刺激されてね・・。
その結果判ったのは、我が家の先祖は野洲の出身で大津とは直接は関係ない、と言われたんだそうだ・・」下川君が応えた。
 
 
「話変わるけど、テニスの錦織圭は確か島根の松江出身だったと思うけど、彼のご先祖と大津とは何か関係あるんか?」郡山君が下川君に聞いて来た。
 
「多分関係ない、思うよ。『錦織』って名前は割と西日本エリアで広く分布してる名字でね・・。
元々の錦織氏族は、大阪の河内・泉州辺りの”部(べ)の民 (たみ) ”の拠点、『錦織郡』辺りが本拠地で、そこから西日本各地に展開/派生して行ったみたいなんやな・・」下川君が続けた。
 
 
「”部の民 ”ってことは渡来人系になるのかな・・。
”錦を織る ”機織りの技術を持ってた氏族という事は、やっぱりご先祖様は繊維関係の渡来者なんだろうな・・。『服部氏』なんかと同じで」私はそう思って、彼に確認した。
「僕もそう想ってるで・・」下川君は肯いて言った。
 
”部の民 ”って、何やったっ?」水谷君が私達を見廻しながら真顔で聞いた。
「そうだな、OO部というジャンルで朝廷に仕える専門家集団の事を、総称して『部の民』って言ったのさ・・。
因みに錦織氏は、百済系の渡来人だったらしいな」下川君が解説した。
 
 
「だから『錦織』は錦を織るのが専門の、職業集団が纏まって生活していた集落というか、コミュニティを作って活動してた場所だった、って事に成るわけさ・・。
『錦を織る』だからワリと上質の絹製品なんかを作って、朝廷に納めていたんだろうな・・。『租・庸・調』の『調』としてね・・。
 
今でも河内や泉州が繊維産業の街として栄えてるのは、『錦織部』のコミュニティが古代から千年以上培ってきた、歴史や技術の蓄積・人材のネットワークと関係してるって思うよ。たぶんね・・」私が補足した。
 
 
「せやったんか、ワシ大阪生まれやけどその話初めて知ったゎ・・」水谷君が腑に落ちた、という様に感心した。
 
「それと河内も泉州同様、織部氏の拠点だったとすると、河内源氏の頭領源頼義と部の民錦織氏との接点も、そこら辺にあったのかも知れないな、と推測する事もできるかな・」私は閃いて、そう言った。
 
「いや、それには僕も気づいていてね。
園城寺を河内源氏の氏寺にしたのが頼義で、晩年の頼義の生活拠点が大津だった事を考え併せると、河内の錦織氏を大津に頼義が呼び寄せた事も考えられるんやないかな、と想ってるんや・・」下川君が言った。
 
 
 
 
                     水色:河内之國+薄紫:和泉之國
 
                   
 
 
 
 

       近江神宮と神事流鏑馬

 
 
最後に私の「現在地」について話した。
 
「7・8年前の同窓会の時にも、京都で話したと思うけど
僕は還暦を迎えてから縁あって、源平合戦を始めとした鎌倉幕府創設に、多大な力を発揮しながら、頼朝や北条時政の伊豆の御家人グループによって、非業の最期を遂げさせられた、甲斐源氏の勇将『安田義定公』の事を引き続き調べててね・・。
 
とりあえず区切りがつくと、その都度”歴史検証物語  ”として書き残してるんだわ。
 
で、始めてから10年近く経ってるんだけど、なかなか完結できてなくって、未だに義定公に関する調査/研究を続けてる、って感じかな・・」と言った。
「まだやってるんか・・」郡山君が呟いた。
 
「まぁな・・。中々終わりが見えないんだよ、これが・・。
流石におんなじ事を続けてるわけじゃないけど、ひと段落着いたと思ったら、また次の課題や疑問が出てきてね、新しいテーマが続々湧き上がって来るもんだから、ついついね」私は言った。
 
 
「この前の京都の時以降、どんなテーマを追っかけてるんや・・」水谷君が聞いて来た。
「そっか、水谷はここ2・3回欠席してたからな・・」私が言った。
「まぁ、さっきも言ったとおり家庭の事情があってな・・」
 
「あの頃は確か、『京都祇園祭と安田義定公』のことを調べてたんだよな・・。
で、それ以降だと『義定公と嫡男義資公の領国、越後之國との関係』を調べてたり、
義定公の領国遠江之國の古刹『秋葉山本宮』との関係、
 
それから『甲斐源氏と常陸源氏とのつながり』って感じかな・・。
そんな感じで、なかなか終わりが見えてこないのさ・・」私がそんなふぅに言うと、
「立花クンは昔っから”凝り性 ”というか、目的に対してズンズンと突き進むタイプやったからな・・」下川君が言った。
 
「で、最近はそれら関東の甲斐源氏や常陸源氏の共通の祖先である、『源義光』について色々と調べ始めてる、って感じかな・・」私が話した。
 
「んーん、という事はザックリ年に一つ程度のテーマを追っかけてる、って感じやな・」郡山君が言った。
「間にコロナの騒ぎがあったから、コロナ前に比べるとペースが落ちてるけどな・・」私がそう言うと、
 
「歳かて取っとるしな・・」水谷君がまぜっかえす様に言った。
 
 
「ところで源義光って、園城寺の新羅善神堂の氏人(うじびと)で、さっき言った源頼義の三男のコトか?
新羅三郎義光は、甲斐源氏や常陸源氏の共通の祖先になるんか・・」と、下川君が私に確認してきた。
 
「そうだよ、その通り。
源頼義の三男で”新羅三郎義光  ”と言われた彼が、関東の源氏の雄甲斐武田家と常陸源氏佐竹家の、同じ父親なんだゎ。
 
因みに常陸源氏佐竹氏の家祖佐竹義業(よしなり)が義光公の長男で、甲斐源氏の家祖武田義清は三男になるんだな・・」私が説明した。
 
 
「たしか下川の専門は、奈良時代の『天智天皇と大津京』だったよな?
とすると平安後期の義光公の時代からすると、ザッと4・500年前か・・”壬申の乱 ”の前だからな・・。
君の専門領域とはチョット時代が外れるか・・」
 
私は下川君の関心領域が地元の大津京や当時の天皇/天智天皇にあって、大津市の教育委員会に就職した事を思い出して言った。
 
「マ、そうやね。僕の関心領域は明日香・奈良時代から天智天皇の頃が中心かな・・。
せやし平安後期や鎌倉期についてはあまり詳しくはないんや、実際のところね・・。
源義光は園城寺に縁ある武将やから、それなりに知ってるけどね・・。
 
僕はもっぱら文化財課に居て、大津京に関わる遺跡の発掘や遺構を調査するために、穴ばっかり掘ってたしね・・」と彼はニヤリとしながら、率直に認めた。
 
 
 
          
 
 
 
「ところで君は義光公の拠点が、天武天皇に敗れた大津皇子の陵墓の上の、小さな山の中腹に在る事は知ってたかい?
真上に在る『新羅善神堂』を更に登った場所だけど・・
私は山梨の仲間から教えてもらった情報を、下川君に聞いてみた。
 
「天智天皇の皇太子=大津皇子の陵墓上の『新羅善神堂』は知ってるけど、源義光の館跡まではちょっとな・・」と彼は応えた。
「マ、そうだわな。専門領域じゃないし・・」私は納得した。
 
「実は今回京都に来たついでに、というかこちらに宿を取った時から、その義光公の館跡を訪ねる事つもりでいたんだ。それも、今回の目的の一つでね・・。
で、昨日寄って来たんだゎ・・」私が言った。
 
 
「熱心やなぁ、相変わらず・・」水谷君が言った。
「君も埼玉から関西に来る時、次いでに用を足すことあるやろ」私がそう言うと、
「まぁな・・オトーちゃんとオカーちゃんのお墓参り、とかやな・・」水谷君がボソッと認めた。
 
「水谷の場合はお墓参りで、立花クンの場合は趣味の件で立ち寄るって、いうだけの違いやな、要するに・・」郡山君が言った。 
「そう言うことだな・・」私が肯いた。
 
 
「今君が取りかかってるのが『源義光の事』で、同窓会のついでにこの辺りに来てるってわけか・・」下川君が言った。
 
「今年の春ごろから『甲斐源氏の祖、源義光』ってテーマで、山梨県の郷土史研究家達といろいろ情報交換をし始めてね・・。
そんなこともあって義光公絡みで、大津に関連する史跡や情報を探しに来たんだ・・」私は肯きながら、今回の関西旅行について話した。
 
「ん?錦織の墓参りは・・」郡山君が聞いた。
「彼のことは、クラス会で初めて知ったのさ、だから初めは予定に入ってはなかったんだ・・」私が応えた。
 
 
「そうか、確かに急やったよな今回の墓参りは・・」下川君が言った。
「せやから4人やったんやな・・」水谷君が呟いた。
「水谷はサークルの同窓会の他に大阪のご両親の墓参りがあったから、今日合流できたんだろ」私が言った。水谷君は肯いた。
 
 
「ところで話を戻すけど、源頼義が晩年を大津で過ごしたというのは、園城寺と関係あるんだろうなやっぱり・・」私は下川君に確認した。
 
彼は肯きながら、
「頼義は”前九年の役  ”での大活躍で、伊予之國を領地として与えられ『伊予守』に成った頃、出家して『伊予入道』とも呼ばれてたんや。
 
自分が征夷大将軍として陸奥之國で多くの敵:蝦夷を殺し、味方の将兵を死なせたことを悔い弔うために、仏堂や寺院を幾つか建立してて、毎日読経したりして”減罪積善  ”の供養に励んだ、というんやな.。
 
その時頼義は三井寺=園城寺の仏門を頼り、晩年は大津に生活拠点を置いた。という事らしい・・」と説明してくれた。
 
 
「なるほどそういう事か・・。
源頼義は征夷大将軍として蝦夷地征伐に向かう際は、『新羅善神堂』で戦勝を祈願した上で戦地に赴き、苦難の末闘って勝利することが出来た。
 
で、終戦後は園城寺の一画に、敵味方の戦死者を供養する仏堂や寺院を建立して弔った、ってことなんだな。
頼義という人物は、”人間が真面目 ”だったんだな・・」私は頼義の人間性の一端を、垣間見た気がした。
 
 
「その上で自分の三男義光を、『新羅善神堂』に氏人(うじびと)として仕えさせ、『園城寺』には四男の快誉を学僧/僧侶として仕えさせたって、わけだな・・。
 
河内源氏の頭領とその一族が、園城寺を河内源氏の氏寺として頼り、尊崇したのも何となく納得がいったょ。
将に園城寺を”頼りに成る神仏 ”として特別に尊崇し、それもあって支援もしてたんだろうな彼らは・・。
イヤ、ありがとう下川・・、勉強に成るゎ・・」私が言った。
 
 
私は源頼義の人物像が少し理解できたことや、河内源氏と園城寺の間に、太い紐帯が結ばれたいきさつを識ることが出来、そのヒントを教えてくれた下川君に感謝した。
 
 
 
            
                       源義家:頼義嫡男、画像
 
 
 
「ところで下川、君は『流鏑馬』を始めた言うてたけど、どんな感じなんや。
あれって結構大変なんやろ、馬に乗りながら矢を放つのって・・」スポーツ好きの郡山君が興味津々、という顔で聞いた。
 
「そりゃそうや静止して弓を放つのんとは、全く次元が違うんやから・・。
活きてる馬を疾駆させた状態で、ブレない様に姿勢を保ちながら矢を放つんやから、たいへんよ・・」下川君が応えた。
 
 
「姿勢を維持するためには、最低限でも体幹の鍛錬が必要なんやろな・・」郡山君が更に尋ねた。
「その通りやな・・」と下川君は肯いた。
 
「弓道やってたんなら、弓使いはそれなりにできただろうけど、流鏑馬を始めた時はやっぱり、乗馬を一から始めたんだろな・・」私が下川君に聞いた。
「必然的にそうなるな・・」彼はさらりと応えた。
 
 
「せやけどそれは、覚悟の上やろ・・」郡山君が呟いた。
「マ、そうやな・・」下川君は当然、という風に応えた。
 
「どのくらい掛かった?馬に乗ったまま矢を放てるようになるまで・・」私が聞いた。
「1年ぐらいだったかな、とりあえず型を決めて、疾駆する馬上で矢を構える事が出来るまでやけどね・・」下川君は応えた。
 
「それって、筋が良い方に成るんか、それとも・・」郡山君が聞いた。
「師範には褒められたよ、スジがいいな、ってね・・」
 
 
「因みにオレがゼロから始めるとしたら、どのくらい掛かりそうや・・」郡山君が、更に尋ねた。
「なんや郡山、流鏑馬やってみたいと考えてるんかいな・・」水谷君が彼に聞いた。
 
「まぁ、最近暇でな・・。親の介護や畑いじりだけじゃぁな・・、身体なまるし。
マ検討してもいいかな・・ってかんじゃけどな・・」郡山君は満更でもない、という風に応えた。
 
「要するに、物足りないんだな、今・・。
ま、何か新しいことにチャレンジするのって、好い事だよな。ボケ防止にも成るだろうし・・」私はそう言って、彼のチャレンジを前向きに評価した。
 
 
「ゼロから始めるとなると、弓道からのスタートって事に成るからな・・。
それと並行して乗馬も始めるわけやろ、御年70歳の君が・・。
運がよくって、上達が早くても2~3年は最低掛かるやろな・・。
弓道で1年、乗馬で1年、その上で体幹を鍛えながら型を修得するのに1年かな・・」下川君が言った。
 
「それやったら3年とちゃうか・・」水谷がまぜっかえした。
「マ、重複して同時に習えば早まるかな・・。
それにマァどれだけ熱心にヤルかやな。早まったり遅く成ったりするんは・・」
そう言う下川君の話を郡山君は、神妙に聴いていた。
 
 
「郡山は、高校まで野球やってたんだっけ?」私が彼のスポーツ歴を思い出して聞いた。
「そうや。運動神経はええ方やと思うけどな・・。
せやからマァ後は、熱意やろうな・・。自分でもそう想ってるよ・・」下川君に聞かせるように、郡山君は言った。
 
「やったらええやんか・・。時間もあるし、金かてあるんやから・・。暇持て余してるんやろ・・」水谷君も彼をけしかけた。
 
 
「まぁな・・。そしたら下川、一から教えてくれるか?」郡山君が真顔で尋ねた。
「ま、本気でヤルっていうんなら、教えたるヮ。但しポイントポイントで、やけどな・・。
 
せやけど奈良からこっち迄、通うことに成るやろ。覚悟はええんか・・。
昔のよしみで教えたるのは、やぶさかやないけどな・・。
 
しかしまぁ、いずれにしても生半可な気持ちじゃ続かんやろな・・」下川君が覚悟のほどを確かめる様に、郡山君に聞いた。
 
「ヤルからには、そやろな・・」郡山君が意を決したように呟いた。
「ま、家に帰ってじっくり考えてから、また連絡くれたらええよ・・。
決心着いたら、そん時はちゃんと対応したるから・・」下川君が大人の対応をした。
 
 
「ところで、君が今打ち込んでる近江神宮の流鏑馬って、歴史は古いんか?
源頼義が始めたとすれば平安中期だろうし、息子の源義光だとしても平安後期だし・・」私がそう言うと、下川君は途中で遮るように、
 
「いや、それが新しいんゃこれが。
平成になってからで、平成2年からなんや始まったんゎ・・」彼が説明した。
「ん?そんなもんか・・。ってことはせいぜいここ3・40年ってとこか・・」
 
 
「そもそも近江神宮の創設自体が、昭和15年と新しいんや・・。
で、流鏑馬の神事が始まったんも平成2年で、神宮創建50年を記念して、この神事が採用されたんやから・・。
 
ってことで、流鏑馬が始まったんが平成になってからって、驚くことないんや・・」下川君が言った。
 
「え!そうなんだ・・。近江神宮の創建が昭和15年で、流鏑馬は平成2年か・・」郡山君は驚いた様に言った。
 
 
 
 
         
 
 
 
「話変わるけど、平安神宮の創建かて明治28年の1895年やったんやで。
しかも創建の理由いうんが、
天皇・公家がこぞって東京に遷都してもうて、京都の街が活気のうなったから、活気づける起爆剤としてやった事業の、一つやったんやで平安神宮・・。知ってたか?」水谷君が思い出したように言った。
 
「何で、そんなに詳しいんや、水谷!」下山君がニヤニヤしながら聞いた。
「京都の主要な神社の事は、一通りな・・」水谷君が、自信ありげに言った。 
 
近江神宮の創建はひょっとして河内源氏の園城寺近郊での定着に関係してるのかも、と私は期待してたのだが、そうではなかったのでちょっと残念だった。
 
 
「ところで下川、近江神宮の流鏑馬って、何流なんだ?
小笠原流か?それとも武田流?」私が尋ねた。
「詳しいな、立花クン。武田流だよ、何でさ・・」下川君が私に聞いてきた。
 
「そしたら、神事の際に馬場に張り巡らされる幔幕は、三階菱じゃなくって、武田菱の家紋、だな」私が確認すると、彼は肯いた。
 
 
「知ってるかもしれんけど、流鏑馬の神事は甲斐源氏の武田家が深く関係してるんだよ・・」私がそう言うと、皆が私を注目した。
 
「神事やイベントとしての流鏑馬自体は平安時代から、宮廷でも散発的に行われてはいるんだけど、現在のような形で世間に知られた、お祭りじみた神事というか、武士のスポーツイベントになったのは、鎌倉時代からでね。
 
そもそもが『流鏑馬』って、武士の”武術を競う競技大会 ”だからね・・。
武士たちが、持ち前の弓術や馬術の腕前を競い合い、自分の武術の力量を見せ合う、鎌倉時代の実践的なスポーツイベントだったのさ。
 
 
幕府開闢期の頼朝以来、将軍の眼前でそれぞれの御家人たちが、自慢の武術を競い合い、技を披露しあう競技大会だったのさ・・。
 
鎌倉将軍家の前での武術大会がキッカケで、全国の御家人や武士たちの間に普及し、発展したってわけさ」私は説明した。
 
 
「ってことはやな、別に甲斐源氏に関係なく全国で”流鏑馬 ”が行われてた、って事なんとちがうか・・」水谷君が聞いてきた。
 
「実技としての流鏑馬は、その通りさ。
けどそれを洗練された儀式として確立させ、武家の流儀としてまで高めたのが甲斐源氏の嫡流武田家と、その支流の小笠原家だったて、わけさ・・」私が応えた。
 
 
「ふーん、そうなんや・・。
ところで”武田流 ”と”小笠原流”の違いは一体何なんや?」郡山君が聴いてきた。 
「オレも知りたいな・・」下川君も続いた。 
「いいよ、ザックリで良ければね・・」私がそう言うと、二人は肯いた。
 
「両者の違いは内容的には殆ど無いんだが、最も大きいのは『茶道』が入ってる点、かな・・。
武田流は弓馬の技術だけじゃなくって、戦場での布陣の仕方とか、軍法の知識、更には軍議の進め方とか、武将として身に着けなければならない兵法や戦闘技法をベースに、礼儀作法といった儀式全般に及ぶ”武士のたしなみ ”となってるのさ」私がそう言うと、
 
「『免許皆伝』やな・・。家元制なんか?」郡山が確認する様に、言った。
「のようなもんだろうな・・」私が言った。続けて
 
 
 
                
 
 
 
「因みに今言った、『武田流』と『小笠原流』は殆ど同じなんだけど、その修得項目の中に、武田流では茶道は入ってなくて、茶道が必須項目に入ってるのは、小笠原流からなんだ・・」私が両者の違いを話した。
 
「大学の履修科目みたいなもんやな・・、でも何でそうなったんや?」水谷君が口を挟んだ。
 
 
「そうだな、まぁ一言で言うと時代の違いかな、鎌倉時代と室町時代のね・・。
甲斐源氏がお家芸を集大成し、完成させたたのはそもそも『武田流』だったんだけど、本家の『甲斐武田流』が勢いあったのは鎌倉時代までなのさ・・。
 
でも鎌倉幕府が倒幕された後、南北朝から室町時代に入ってからは、幾つか内部闘争があったり、分裂したりで甲斐武田家自体が弱まり『武田流』も衰退しちゃったのさ・・。
戦国時代に武田信虎や子の信玄が甲斐之國を統一するまではね・・」私が言った。
 
「甲斐武田家も衰退したんやな・・」水谷君が言った。
 
「で、鎌倉時代に分家して別の領国の大名に成ってた、武田家支流の広島『安芸武田家』や徳島『小笠原家』に残っていた、分家の『お家芸』が残存してたって、わけさ」私が言った。
 
 
「その分家のことをもう少し、教えてくれ・・」郡山君が聴いてきた。
 
「『安芸武田家』は鎌倉時代中期の『承久の変』に活躍した、武田信光の甲斐武田家嫡流が、『変』の戦後新しく獲得した領国広島の分家、『安芸之國の武田家』に引き継がれた武芸だったのに対して、同じ分家・一門でも阿波徳島等の『小笠原家』の”お家芸 ”とは違うのさ。流儀がね・・。
 
というのも『阿波小笠原家』は甲斐武田家の分家で支流ではあるけど、鎌倉時代に衰退した本家とは別に南北朝以降も生き残り、鎌倉以来の名門として足利家の室町幕府に仕えた有力大名だったのよ。
 
その分家で独自の進化と発展を遂げた『小笠原流武道』は、更に室町時代に至って新たに武将のたしなみとなった、”茶道 ”を取り入れ、組み込むことで一段とupdateしてるわけよ・・」私が少し詳しく話した。
 
 
「なるほど時代に合わせて更新し、updateしてるわけやな・・」郡山君が言った。
 
「言うなれば広島の分家『安芸武田流』は鎌倉期以来の”古式:甲斐武田流武道 ”を守り継承し、踏襲して来たのに対し、 
徳島の分家『小笠原流』は、”茶道 ”を取り込むことで室町好みの”流行 ”を付加した、最新の『室町武田流武道』  に、脱皮してるってわけさ・・」私が解説した。
 
 
「そうかその鎌倉から室町までの移行期2・3百年の間に、”室町風 ”にupdateしたのが『小笠原流』で、
”鎌倉風 ”をそのまま維持し続けて来たのが、『安芸武田流』なんやな・・」郡山君は腑に落ちたとばかり、肯いた。
 
「そう言えば近江神宮の流鏑馬は、『武田流』でも『鎌倉派武田流』と言ってたな、師範・・」下川君が思い出したように言った。
 
「updateする前の鎌倉期に成立していた『古式武田流流鏑馬』を、『鎌倉派武田流流鏑馬』って名乗ってるのかもしれんな・・」私が推測を交えて、そう言った。
 
 
「なるほどな、そう言うことなんやな・・。
茶道を取り入れて、室町風にupdateしてる”家元 ”か否か、が両者の大きな違い、という訳やな・・」郡山君が確認する様に言うと、
 
「茶道の家元にあったな、『小笠原流』。
確か”武家茶道 ”のはずだったわ・・」下川君が思い出したように言った。
 
「で、君はどっちを習ってみたいんだ?郡山」下川君が、真顔で聞いた。
「そうやな、少し考えさせてもらおうかな・・」と郡山君は言った。
 
「”茶道 ”を含めて、全くゼロからスタートするのか、下川に教わりながら”古式武田流 ”を教えてもらうのか、の選択だな・・」私はニヤニヤしながらそう言って二人を観た。
 
 
 
 
 
 
              
 
 
 
 
 

         近江の「古代牧」と甲賀の郷

 
 
 
 
草津駅前の居酒屋での”墓参の直会”を済ませた後、郡山君は奈良の家に戻った。
大津のホテルに宿を取った水谷君と私はJRで大津駅周辺の宿に向かった。
 
大津在住の下川君は、家族の運転する車で自宅にと向かった。彼は酒を飲んでいたため、ご家族に迎えを頼んだのだった。
 
 
一旦それぞれの宿に戻って休息した上で、夕方の5時にJR大津駅の北口で待ち合わせをし、改めて下川君ヒイキの小料理屋で夕食を摂ることにした。
 
その際、下川君の知人で水谷君とも顔なじみの、甲賀市の元教育委員だった人が、合流する事に成っていた。
 
 
下川君や水谷君の知人との合流は、水谷君の強い希望だった。
甲賀市に行った時に、彼には「甲賀忍者」の件で、大いにお世話に成ったから久しぶりに逢いたい、と水谷君が要望したのだ。
 
 
甲賀市には源義光の所領であった荘園が平安時代後期にあった事から、私もその友人との合流は楽しみにしていた。
彼には、河内源氏と甲賀市の荘園「柏木荘」について教えてもらう予定でいたのだ。
 
 
17時前に、JR駅前の待ち合わせの場所に着くと下川君ともう一人の男性が待っていた。
私達よりは若く60代前半と、お見受けした。
 
私は彼が下川君の知り合いの甲賀市の方だと想い、さっそく挨拶をした。
 
そこにすこし遅れて来た水谷君が合流し、4人で下川君の案内する店にと向かった。
 
 
数分後に着いたのは、こざっぱりした小料理屋であった。
店の奥の畳敷きの小上がりに、私達は席を取った。下川君の案内であった。
 
大きめの座卓に座り、ビールと食べ物を注文した。何を選ぶかは下川君に任せた。
みなで軽く乾杯した後で、改めて自己紹介を行った。
 
 
座を仕切ったのは下川君で、彼自身のことは参加者全員が知ってたので飛ばして、今回初めて参加した甲賀市の元教育委員会の彼と私が、自己紹介することに成った。
 
水谷君も彼とは面識があったので、初対面の私と彼とが自己紹介をすれば事足りるのだ。
彼は六角さん、といった。
 
 
下川君が六角さんの紹介を始めた。
 
「彼はね、一見ヌーボーとしとって、いつもニコニコしてるから取っ付き易いんやが、結構頑固モノでね、自説に対するコダワリは、相当なんだゎ・・。
加えて専門性が高いモンだから、なかなか手ごわいんだな、これが・・」と笑みを浮かべながら下川君が話した。
 
「え~えっ!それじゃまるでオタクやないですか~、難儀やな~」六角さんがニヤニヤしながら言って、ビールの残りをグイッと飲み干した。
 
「因みに六角さんの専門は何なんですか?」私はビールを彼に注ぎながら尋ねた。
下川君は、六角さんに自分で話す様にジェスチャーで促した。
 
 
「私は甲賀市の職員を長らく勤めてまして3年ほど前に退職し、再雇用も済ませ、今では自分の時間を中心に、好きな事に打ち込み始めてるところです。
 
専門というか、教育委員会に居った頃から興味あって、いろいろ調査したり研究してきたんは『古代牧』に関する研究ですゎ。
 
甲賀を含む鈴鹿山系から甲賀伊賀山地は、飛鳥奈良時代から馬や牛を中心とした牧畜を育成する”牧き場 ”が在って、『甲賀牧』と呼ばれた『官営牧』があったんですゎ・・。
 
今では『近江牛』を生産してる牧場が、その長い歴史の名残りとして知られてるくらいですがね・・。
 
マ、その『甲賀牧』について色々調べたり、研究してるうちに口の悪い人達からは、いつの間にか”牧き場オタク”と呼ばれる様に成ってもうたわけです・・」六角さんは、チラリと下川君を見ながら、そう言って笑った。
 
 
「”甲賀忍者 ”にも詳しいやんか、六角さん・・」水谷君がそう言うと、
「『忍者』の件は、教育委員会の前に観光商業課に居った時に、かじった程度ですゎ・・まぁ本業というかなんというかは、やっぱ『古代牧』なんです・・」六角さんが応えた。
 
「でもまぁ、その観光課に居った時の情報でも、十分助かりましたでオレは・・」水谷君はそう言って、『甲賀忍者』に関する情報源でもある六角さんに、感謝した。
 
 
「六角さんのご先祖はひょっとして、佐々木源氏末裔の京極氏と並び称される六角氏の末裔ナンですか?」私は彼に聞いてみた。
 
「ま、ドンピシャの末裔ではないようですが、遠からず。といったところですかね・・」「という事は、嫡流ではないけど分家とか支流といったかんじで?」私が更に尋ねると、
「なんでも明治維新の頃に、別れた分家というか・・。みたいですよ、祖父曰くですが・・」六角さんが応えた。
 
「とすると、宇多天皇の流れをくむ近江源氏に成るんですね。清和天皇の河内源氏とは別系統の・・」私がそう確認すると、彼は肯いた。
 
 
 
            
                      清和源氏VS宇多源氏系図
 
 
 
 
「いずれにしても、名門の末裔ナンですね・・」
「せやから、分家の支流ですがな・・」六角さんは嫡流ではない点をサラリと言った。
 
「とはいえ、六角さんの『古代牧』への関心の高さは、そう言った家系も意識してたんじゃないですか・・」
「若い頃は多少はね・・でもまぁ150年以上前のことやし、今ではさっぱりですゎ・・」六角さん今ではほとんど気に掛けてない、と強調した。
 
 
「こちらの立花クンは、僕と同じ右京大学の統合社会学部のクラスメイトでね、そのクラスで作ったサークル、『京都の歴史と史跡を探求する会』の設立者の一人で、リーダーだった”行動派 ”の東京人なんや・・。
 
で確か、学校出てから広告代理店でマーケティングの仕事をズットやってたんやな・・」下川君はそう言って、私のことを六角さんに紹介した。
 
私が肯くと、下川君は続けて
「で、退職してからここ10年ほどは、平安末期の甲斐源氏の何たらいう、武将の研究をしてるんやったかな・・」と言ってまた私を見た。
 
 
「ザックリした履歴は、今下川君が言った通りです。
僕は父親が山梨出身者だったこともあって、甲斐源氏の武将安田義定公の事をたまたま知って、還暦過ぎてから力を入れて調べ始めてます。
今では『安田義定公の研究』がライフワークに成るのかな、とさえ想ってるところです・・。
 
今回は、先ほど言った大学のサークルの同窓会があったついでに、河内源氏の源義光公の痕跡を求めて、円城寺の館跡や事績を調べにやって来てるんです。
ご存知かもしれませんが義光公は、甲斐源氏や常陸源氏佐竹氏の共通の祖先なんです。
彼は河内源氏義光流の流祖に成るんで・・」私がざっと自己紹介をした。
 
 
「で今日は、甲賀市在住で郷土史に詳しい六角さんとお会いできると聞いて、楽しみにしてたんですよ・・。
というのも甲賀市は、その源義光公の荘園『柏木荘』が在った場所でしたから、その辺りをじっくり聞かせて頂こうかと思いまして・・」私は六角さんにビールを注ぎながら、そう話した。
 
 
六角さんは肯きながら”了解しました ”とでもいう様な優し気な目で、私の注いだビールを口にした。
 
「ご存知だと思いますが、その源義光公の領地というか管理地『柏木荘』は、現在の甲賀市の水口エリアに当たる様ですね・・」私は彼に尋ねた。
 
「ええ、柏木荘は水口です・・。
昔の水口町で、東海道の沿道に在る交通の要所でしてネ、今の市役所本庁舎が在るエリアですわ・・」六角さんはそう言って、教えてくれた。
 

「その柏木荘は清和源氏の源義光公の荘園で、義光公とその父頼義公の意向もあって、園城寺『新羅善神堂』に寄進したんですよね。
 
で、自らは善神堂の近くに館を構え、氏人として『善神堂』を支えながら、荘園管理は一族郎党に下司(げす)職として任せていたらしいんですけど、その辺の事情を何かご存知ですか?・・」私がそう尋ねると、
 
 
「そうなんですか・・、清和源氏の拠点が柏木荘にあったんは知ってましたが、園城寺の『善神堂』に寄進してはったんですか、初耳ですわ・・。
そうだとすると、当時は水口あたりにも柏木荘を管理するための彼らの活動拠点というか、館なんぞも在ったんでしょうな、それなりの規模で・・」六角さんが言った。
 
「それは間違いない、でしょうね・・。
しかも東海道の要所で、近江と伊勢の境の『鈴鹿峠』の、近江側の入り口ですからね柏木荘は・・。
 
あと、信楽方面に続く信楽街道との分岐点というか、結節点でもありますでしょ・・。
『柏木荘』は地政学上の重要なエリアだったでしょうから、平安後期であってもそれなりの規模の、館だったに違いないですよ。多分・・」私は推測を交えてそう言った。
 
 
 
                                             甲賀市水口町周辺MAP
                  
          水口町  勅旨牧  信楽町  源義光館跡 
             水口町上部の東西黄色線:東海道  
    
 
 
「因みに六角さんの生活拠点は、どちらになるんですか?
「ウチですか?うちは甲南町ですゎ、甲賀市の・・。
水口町の西隣に成るんです、信楽寄りというか。将に水口から信楽街道に向かう途中の・・」と六角さんが応えた。
 
「そうでしたか・・。ところで六角さんご専門の『古代牧』なんですがね、確か甲賀にも朝廷の『勅旨(ちょくし)牧』があったんじゃなかったですか・・」私は六角さんに、聴いてみた。
 
「えぇ、その通りです。よくご存じで・・。将に『勅旨牧』で、近江を代表する『近都牧(きんとまき)』の一つですゎ。
 
因みに私の住んでる甲南町から、信楽に向かう途中に『勅旨駅』いう信楽高原鉄道の駅が在るんですが、そこいら一帯はかつて『勅旨牧』が在ったエリアや、いう話ですゎ」六角さんが説明してくれた。
 
 
「『勅旨牧』やら『近都牧』って、何なんや・・」水谷君が、話に入って来た。
「『近都牧』は僕も知りたいですね、是非教えて欲しいですね・・」
私も水谷君に同意した。傍らで下川君も頷いていた。
 
「『勅旨牧』は『御牧(みまき)』とも云われるんやが、朝廷の軍事や催事・行事なんかで使われる馬を、育てたり、調教したり、維持管理するため一定数の馬をプールしておく、牧き場いうか・・ですな。
で、行事や天皇の熊野詣で等の『御幸』なんかがある時は、その『牧』から引っ張り出して、都やらに連れてくんですゎ・・。
 
奈良時代や平安時代やったら、朝廷の兵部省や兵馬寮の傘下に組み込まれておって、諸国から集めて来た牛馬を、集めとく朝廷直轄の『牧き場』ですゎ。
 
因みに都からそう遠くない場所やったさかい『近都牧』いうんです。
比較的標高の高いとこが多かったですな・・」六角さんは続けた。
 
 
「何で、標高の高い処なんや?」水谷君が呟いた。
 
「あんな水谷、牛馬いうんは暑さに弱い生き物やから、標高が高うて気温の低いとこがええんや・・」流鏑馬で馬に詳しくなった下川君がフォローした。
 
「元々馬とか牛や羊とかもだけど、中央アジアの標高が高い処の生き物だからね。2千mとか3千mとかの高原地帯のね・・」私も若干補足した。
 
 
「因みに『近都牧』云うんはその名の通り、都から近い官営の牧場を言うんですが、その朝廷の『近都牧』に馬を献納するんは『諸国牧』ゆうて、都から離れた地方の國々の『御牧』、いう事になるんですな。
 
『諸国牧』は牛馬の出産や育成に適した、自然環境の充実した國々で管理してたんですな・・。
そこには、牛馬の飼育に従事する専門家いうか職人が居ったり、馬具なんぞの什器・備品を、継続的に生産するネットワークやコミュニティが形成されてる國々、いう事になるんですな。
 
代表的なんは、立花さんに縁のある甲斐之國を筆頭に、関東の信濃之國/上野(こうずけ)之國といった國々に在った、『御牧』とも言われた『諸国牧』ですな。
ご存知なように、今でいうたら山梨/長野/群馬ですゎ。
 
 
マ、標高が高うて放牧地なんぞが確保しやすい、高原なんぞの多い場所で、それぞれの國では国司や国造(くにのみやつこ)の責任で繁殖・飼育させたんですな。
 
それを毎年秋になると、それぞれの国々の牧から選ばれた四歳くらいの馬が、都近くの『近都牧』に移送され、献上されたわけですな・・。
 
因みに「馬」は東国の国々が多く、「牛」は西日本や四国・九州の自然環境が適した国々が多かったようですな・・」六角さんが詳しく、判り易く話してくれた。
 
「なるほどな、そういう事なんやナ・・。よう判ったゎ、ありがとさん・・」水谷君はそう言って納得した。
私も傍らで聴いてて、大いに参考になった。メモを取る事を忘れなかった。
 
 
 
 
                      主要「近都牧」分布図
             
           京都:朝廷  甲賀牧  都周辺の近都牧
 
 
 
「六角さんありがとございます。
僕もおかげで良く判りました。で、『甲賀牧』は、その『近都牧』の一つだったわけですね・・。
京都にも奈良にも近かったし、東海道や東山道の沿道でもあったし、関東の国々で畜産・育成された優良馬が、その街道を通ってやって来たわけですね・・」私は六角さんに感謝しつつ確認した。
 
「そういうことです。甲斐や信濃・上野(こうずけ)といった国々から、東海道からやって来たんは、『甲賀牧』を始めとした『日野牧』『蒲生牧』といった湖東側の『近都牧』やったようですな。
 
ただ同じ近江之國でも、東山道や北陸道からやって来る牛馬やったら、『甲賀牧』やのうて湖西側の『高島の比良牧』や『大津牧』辺りの『近都牧』やったようですな・・」六角さんが付け加えた。
 
「なるほど・・。理にかなってますね、それは・・」私は納得した。
 
 
私はその六角さんの「古代牧」の話を聞きながら、かつて安田義定公の領地だった富士宮「淀師エリア」の、騎馬武者用軍馬の畜産・育成・管理を行った「朝霧高原」「馬見塚」「鍛冶屋の里」の事を、思い出していた。
 
鎌倉時代初頭に、作られたと思われるその軍馬育成システムは、きっと平安時代にほぼ完成してた「古代牧」のシステムを踏襲し、敷衍(ふえん)・発展させたものだろうかと考えた。
そしてそのシステムを完成させ、実務や実行役を担ったのが、義定公五奉行の一人”宮道遠式”だったのではなかったか、と妄想した。
 
というのも彼は『吾妻鏡では、「前右馬充(さきのうまのじょう)」という、朝廷の局長級の官職が前書きされており、朝廷の『御牧』管理に詳しい役職に就いていた人物だった、からである。
 
そしてそのシステムは義定公の嫡子安田義資公の領国で観て来た、上越の浦河原地区に在った『境原遺跡』の、「馬屋遺跡」の事が頭をよぎった。
確かその馬屋には、七二房の「厩」があったかと記憶していた。かなりの房数である。
 
 
 
              
              上越市浦川原地区の『境原:馬屋遺跡』の模式図
 
 
 
「おかげさまで『古代牧』の事はよく判りましたが、時代的には飛鳥・奈良朝時代から始まっていつごろまで続いたんですかね・・。
平安の初期頃ですか?それとも武士が台頭する平安中期頃までとかです?」
 
私は武士の時代の到来と馬産・馬育との関係が気になって、六角さんに尋ねた。
安田義定公のことが頭にあったから、である。
 
 
「そうですな、朝廷の支配者が天皇家であった時代は、実質的には平安前期やったから、その頃まででしょうな『古代牧』が機能してたんは・・。
 
それから藤原北家が摂政関白となって、外戚支配の時代がしばらく続いてますやろ、その藤原氏の摂関支配が崩れて、武士が実権を握るのは保元・平治の乱の頃やさかい、それまでの期間は朝廷の『勅旨牧』に替わって、貴族や大寺院・大神社の所有する『貴族牧』とでも云う、『私牧』が増えて流行するんですゎ。
 
せやから、平安前期の終わりごろから平安末期までの数百年は、『貴族牧』が多くなるんです・・。
 
で、平安末期から鎌倉以降は”武士の時代 ”やさかい、立花さんの言わはる様に、地頭や郷主・御家人が支配・所有する、『武家牧』とでも云う『私牧』に、替わって行くんですな・・」六角さんが古代から近世に向けての「牧の変遷」について説明してくれた。
 
 
「あ、それから思い出しましたが、立花さんが気にしてはる源義光の『柏木荘』では、彼が関白藤原忠実に荘園内の『柏木の牧』を寄進した、いう記録が残ってましたよって、将に『貴族牧』から『武家牧』への移行期のことやった、んやと想いますで・・」六角さんが言った。
「え、え~‼そんな記録が残ってるんですか⁉」私は驚いて、大きな声を出した。
 
「幸いなことに、運よくあったんですゎ・・。
奈良の大学教授の論文に、そう書いてあったのを今、思い出しました・・」六角さんは、ちょっと自慢気にそう言った。
 
 
「流石、専門家ですね・・。イヤありがとうございます、勉強になります。
ところでこの場合は、源義光公の『武家牧』になるんですか?それとも、関白藤原忠実の『貴族牧』になるんですか?」私はメモを取りながら、更に聞いてみた。
 
「河内源氏の源義光が関白忠実に寄進したという事は、所有者から言えば『貴族牧』になるんやろうが、実態としては武将の義光が所有し、自身の郎党を使って『牧』を管理運営していたわけやから、『武家牧』になるんやと、想いますな・・。
 
せやから義光の頃やとすると、『貴族牧』から『武家牧』に移行する、その途中過程やった、と想った方がええんと違いますか・・」六角さんはそう言って、その移行期真っただ中の事例だろう、と説明した。
 
 
「あぁ、そう言うことですか、なるほどですね・・。
という事は義光公が『柏木の牧』を、権力者の関白に寄進したという事例が、それから数十年後に起きる『武家牧』への移行プロセスを象徴している、という事に成るんですね・・。
イヤぁ、勉強になります・・。ありがとうございます」
私は六角さんにお礼を言いながら、ビールを注いだうえで、メモに書き足すことを忘れなかった。
 
 
私はビールを注ぎながら、ひょっとして六角さんの関西弁が当初より増えたのは、こうやって私が六角さんの酒量を増やしているからなのか、それとも自分の専門分野の話だからなのか、どちらなんだろうか・・とフト考えてしまった。
 
 
「あぁ、なるほどですね、そういうことですか。
『勅旨牧』という『朝廷の牧』⇒『貴族の牧』⇒『武家の牧』という形で、『牧』の管理主体や所有者が変遷していくわけですね、了解です。勉強になります。
イヤありがとうございます・・
私はそう言って六角さんに感謝の意をたっぷり込めて、再度ビールを注いだ。
 
「そうか、そうやっていよいよ『騎馬武者』の時代が、やって来るんですね・・」私は誰に言うとでもなくそう呟いて、自分自身で納得する事が出来た。
 
 
 
 
              
 
                
 
 
 
 

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

   「甲賀牧」と甲賀忍者「望月氏」

 
 
 
「ところで立花クン、そろそろ話題を変えてもええか?」水谷君が聞いてきた。
「ん?あ、いいよ。とりあえず僕が聞きたかった事、しっかり聞けたし・・」私がそう応えると、
 
「六角はん、この前お願いしといた件やけど、あれから何か判らはりましたか・・」水谷君が聞いた。
「えぇ、とりあえず判る範囲で良ければですけどな・・。 
甲賀忍者の代表的な頭領家のことでしたな、確か・・。
 
甲賀忍者の事を研究してる知り合いから、紹介してもらったんは『望月家』云うんです・・。
生粋の甲賀忍者の頭領家で歴史もあるし、甲賀二十一家の中でも一目置かれる代表的な頭領家になるんやそうですゎ、望月家・・」
六角さんは水谷君の方を見てそう言ってから、私の顔を見て、
 
「しかもその望月家は、偶然にも先ほどの『甲賀牧』とも縁のある家でしてな、古代牧にまつわるエピソードも、残ってはるんですゎ・・」と、続けた。
 
 
「ホウ、そうなんですか。古代牧とも繋がるんですね・・。
ひょっとしてアレですか、信濃とか甲斐之國に縁のある一族ですか望月家は・・」私は閃くものがあって、そう六角さんに言った。
 
「え!どうしてそんなことが判るんですか・・」六角さんは驚きながら、そう言って私の顔をマジマジと見た。
 
 
「いや、まぁ当てずっぽうなんですけどね・・。山梨や長野県には『望月』って名前が結構多いんですよ・・。
たまたま私の周囲にも、望月さんという人が居たりして・・。
韮崎の祖父の近所の家なんですがね、仲良く行き来してまして・・。
 
年の近い女の子が居て、夏休みなんかに祖父の家に長逗留してた時、好く行き来してたもんですから・・」私が言った。
 
「ナンや、立花クンの初恋の相手かいな・・」水谷君がからかうように言った。
「ま、小学生から中学生に掛けての頃だったけどね・・。
で、まぁ夏休みに祖父の家に行く楽しみの一つではあったかな、アハハ・・」私はそう言いながら5・60年前の子供の頃のことを思い出した。
 
 
「その望月家というのは歴史を遡れば、信州の官営牧に携わっていた一族に辿り着く、いう伝承が残ってはりましてな・・」六角さんは、水谷君と私の顔を交互に観ながら、話を続けた。
 
「そういえば確か、『古今和歌集』に大津の『逢坂の関』を読んだ和歌があって、そん中に『望月の駒』を詠った和歌があったな・・。
た~しか紀貫之やったかな、詠み人は・・」大津在住の下川君が言った。
 
「さすが地元は詳しいね・・」私は感心して、思わずそう呟いた。
「タマタマやで・・。地元やし、高校の時古文の先生が教えてくれはったんや・・」下川君がサラリと言った。
 
 
「さすが、歴史のある街は違うな・・」私が呟いた。
「そんなもんと違うか・・。
立花クンかて、新選組の近藤勇とか土方歳三とかに詳しかったやろ、やけに・・」水谷君が口を挟んだ。
 
「マ、一応彼らの地元だったからね僕の通ってた高校は・・。、三多摩のあの辺は・・」私は水谷君の指摘に、一応納得した。
 
 
「それで、その望月氏が甲賀忍者の頭領家の一つやったわけやね・・」水谷君が六角さんに確認した。
 
「そう、それもかなり有力な頭領家でしたな・・」六角さんは肯きながら、そう言った。
 
 
「『古代牧』は、平安時代の初めの頃でしたよね・・。しかも紀貫之の『古今和歌集』にも載ってたという・・。
という事は下川よ、平安朝四百年の中だと、いつ頃になるんだ?」私は下川君にその和歌が詠まれた時代を、確認した。
 
「まぁ、ザッと百年頃になるかな。『古今和歌集』が編纂されたんは、醍醐天皇の時代やから10世紀の頭やったさかい・・」
 
 
「という事は、西暦900年頃って言うことなんやな。
桓武天皇が平安京を開いたのが『794(泣くよ)平安』で、8世紀の末やったやろ・・、確か・・」水谷君が具体的な年を言った。
 
「そうか、そういうことか・・。
ひょっとして『平安京遷都100年』事業の一環として、編纂されたんか?『古今和歌集』は・・」私はその時シナプスが繋がって、口にした。
 
「そやな、その可能性はあるかも、やな・・」下川君が言った。
 
 
「いずれにしても、信濃か甲斐之國のどちらか判らないけど、『諸国牧』で繁殖し育てた献上馬を引き連れた望月氏が、滋賀から京の都に向かう『逢坂の関』を越える様子を、紀貫之が詠んでたとすると、望月氏と『古代牧』との関係は相当古くからあった、という事なんだろうね・・」私がそう言うと、
 
「いったん業務として、朝廷の兵部省だか兵馬寮だかに献上馬を納めた後で、『牧司』としての役目を終えた望月氏の先祖が、官営牧でもある『近都牧』の一つ『甲賀牧』や『日野牧』で、牧司として朝廷の馬を管理し調教する役目をしてたのかもしれませんな。
そやって甲賀の地に定着・土着する中で、勢力を維持し発展させたと考えるんは、自然な事ではありますな・・」
 
六角さんはそう言って下川君のもたらした情報が、望月氏と甲賀の地とのつながりがある可能性を、関連付けた・・。
 
「要するに信濃の牧司だった望月氏は、カーボーイの親玉として毎年の様に献上馬と共に部下を引き連れて、東山道や東海道から琵琶湖を通って大津から逢坂の関を越えて、平安京の朝廷に上納してたってわけやな・・」水谷君は自分に言い聞かせるように、そう語って納得してた。
 
 
「そうやって上納された献上馬を収納し、管理していた朝廷の数ある『近都牧』の内望月氏のご先祖様は、甲賀エリアの『甲賀牧』や『日野牧』辺りを任されるようになって、定着していったっていう訳ですかね・・。
しかもそれは平安時代初め頃からずっと、続いていたわけですよね。
少なくとも紀貫之の時代には・・。
 
だとすると甲賀の望月家は、地元でも朝廷に仕える旧家で、名家として一目置かれる家柄たんでしょうね、キット・・」
私も自分の頭を整理する様にそう言って、この新しい情報を自分なりにインプットした。
 
 
「まぁ、そう云うことですな・・。
しかもその『朝廷の牧』に関わった旧家という事が、実は忍者の頭領家になる上で、大きな意味を持ってくるんですよ、後々にですな・・」六角さんが言った。
 
「具体的にはどげなふうに、やったんです・・。六角はん勿体ぶらんと教えて~な」水谷君が聞いた。
 
 
「ご存知やと思いますが、忍者の使う道具類の事を『忍具』ともいいますやろ、それらの多くは自家製の鍛冶類が多いんですゎ、それが一つですな。
 
ほれから甲賀忍者が地侍として頭角を現すんは、室町時代以降のことで鎌倉時代以前ではなかったようなんですゎ・・、これが二つ目ですな」六角さんが言った。
 
「あ、そうか『鍛冶屋』ですね。
馬具や蹄鉄を造ったり、調教に必要な調度品を造るのに鍛冶屋は不可欠でしょうし、身近に居たら重宝しますからね・・」私は、閃いた事を口にした。
その時私は、富士宮市北山の鍛冶家集団の里のことを、頭に浮かべていた。
 
 
 「で、室町時代以降やと、何で頭領家に繋がるんや、まぁ何となく判らなくもないけどな・・」水谷君が言った。
 
「南北朝から室町幕府に移り変わって、鎌倉幕府から替わった新しい政治体制が、京都に戻って来た事が、大きかったんでしょうな・・」六角さんが言った。
 
 
「それって『武家の政治』から『朝廷の政治』に先祖返りしたから、ですか?南北朝を経て・・」私がそう呟くと六角さんは、
 
「もちろんそれもあるんでしょうが、それ以上に鎌倉から京都に権力の中心地が移った事が多きかったと、僕は想ってるんですゎ・・」と私を見て言った。
 
 
「やっぱ甲賀の郷を中心に考えたら、物理的な距離の影響が大きかった考えてるんやろか?六角はんゎ・・」水谷君が言った。
 
「ですな・・。
やっぱ、甲賀の地侍で鎌倉幕府の御家人やった望月氏にしたところで、その本貫地は鎌倉より、物理的によっぽど近い京都の方が、あらゆる面で都合が良かった、思てますでは・・。
 
まして『牧司』の末裔望月氏やったら、先ほどの鍛冶屋集団も含め、牧場経営に不可欠な人的ネットワークや、コミュニティの存在が確立してる以上、都に近い方が何かと都合が良かった、思いますな・・」六角さんが言った。
 
「たしかにそやな・・。
まして牧場経営の『牧司』は何よりも自然環境に左右されるなりわいの一族やったろうから、土地への執着は強かったやろうしな・・」下川君も六角説に同意した。
 
 
「更に決定的やったんは、望月氏をはじめとした鵜飼家や関家といった甲賀の郷の有力者達は、近江源氏の佐々木道誉を支えた、有力な甲賀の地頭達やったですからな・・」六角さんは言った。
 
「なるほど、佐々木道誉は室町幕府を支えた有力な守護でしたよね、京都近郊が地盤の・・。
佐々木道誉の末裔でもある六角さんが言うと、説得力ありますね・・。
なんか言い伝えとかあったりするんですか?望月氏と六角家の・・」私は、六角さんを見ながら言った。
 
 
 
                
 
 
 
 
 
 
 
 
 
「ところで水谷よ、『甲賀忍者』が世の中に知られる様に成ったのはいつ頃になるんだ?
まさか平安時代の初めの頃じゃないだろ、『古今和歌集』の編纂された頃とか・・」私が水谷君に、確認の意味で聞いた。
 
 
「たしか室町時代の頃やったと思うで、たぶん。ね、六角さん・・」彼はそう言って、六角さんに助け舟を求めた。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 



〒089-2100
北海道十勝 , 大樹町


 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
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