春丘牛歩の世界
 
去年の秋ごろから、私にとっての大問題は”珈琲豆 ”の確保であった。
 
新しい「珈琲豆」の購入先を、如何にして確保するかの問題で、端からすれば大した問題ではないかも知れない。
 
もちろん生き死にに関わるような大問題ではないし、たかが珈琲豆の問題でしかない。
 
とはいえ、毎日の様に珈琲を淹れて飲む習慣の私にとっては、旨い珈琲を飲めるかどうかは、大きな問題なのである。
 
 
発端はここ20年近く贔屓にしていた「キリマンジェロの豆」が、手に入らなくなったことである。
 
珈琲豆が高騰している事はここ数年続いていて、諸物価の高騰や珈琲豆の生産が不作続きで、多少の価格が上がることはある程度覚悟はしていた。
 
しかしだからと言って、供給先である食品スーパーがプライベートブランド(PB)のオリジナル珈琲豆の生産を、止める事態に迄陥るとは考えていなかった。
 
 
それまでは200g当り、5・600円で購入する事が出来たのであるが、高騰しても7・800円くらいで収まるかと、推測をしていたのである。
 
ところがそのPB商品の生産そのものを、止めてしまったのである。
いつもの陳列棚にそのPB商品は無く、何処のスーパーでも売ってる、ナショナルブランド(NB)の珈琲豆しかお目にかかれなくなっているのである。
残念である。
 
 
その珈琲豆の魅力は、何といっても焙煎の仕方が私の好みに合っていた点にあった。
 
珈琲豆が黒光りするほどの深煎りではなく、ライトブラウンとでもいう煎り方で、程よい苦みに酸味が持ち味のキリマンの魅力を引き出しており、私にとって代えがたい味を味わえた。
 
しかもリージョナルチェーン(地域展開)の食品スーパーという事で、価格は抑え気味で、年金生活者の私にとっては旨くて財布に優しい、優等生だったのである。
 
 
 
 
           
 
 
 
しかしまぁ、商品供給が期待出来ない事が確実になってしまった以上、違うルートでの珈琲豆の確保が、当然のことながら次の課題に成るのであった。
 
それが去年の秋ごろの話で、以来新しい供給先の確保のために私は、少なからぬ時間を使う事に成ったのである。
 
二か月近く、他の食品スーパーを探し回ったが、棚に在るのは何処にでもあるナショナルブランドの珈琲豆で、その多くは『キリマンブレンド』ばかりで、私の好みには合わなかった。
 
 
 
次に探したのはネット通販での「珈琲豆焙煎業者」の「キリマンジェロ」探し、だった。
 
昨年の暮れ辺りから始め、現在も探索中なのであるが、なかなか”これだ!”という商品に出遭えないでいる。
 
幾つかの焙煎業者のHPの中から選んでいるのであるが、取扱商品の画面上の「書類審査」だけでは判断できないので、その都度商品を取り寄せている最中である。
 
私の好みに合う商品に遭遇できれば良いのであるが、なかなか都合の良いモノには出遭うことが出来ない。
 
従って、「お試し商品」からの修正が可能かどうかが、重要になって来る。
具体的には、当該豆を2・3回飲んだ後のフィードバック(F/B )に、当該焙煎業者が対応してくれるかどうかで、次のステップに進めるかどうかが決まるのである。
 
しかもこちらは「大量消費者」ではなく「少量消費者」であるので、分が悪い。
 
この「少量消費者」の好みに合う焙煎商品を、供給先の焙煎業者が提供してくれるかどうか、が問題なのである。
 
現在はまだその焙煎業者の特定には、至ってない。
しばらくはこの問題に、私の時間とエネルギーを使い続けることに成るであろう。
 
旨くて納得のいく業者に巡り合えるまでは、この探索が続くことをある程度は覚悟している私、である。
 
 
 
          
 
 
 
 
 
        
 
 
 
 
 
 
 
                 お知らせ
 
*2月6日:『甲斐源氏の祖、源義光』に新しく「近江之國編」を追加し、公開しました。
 
*2月3日:本日『コラム2026』を公開しました。
 
 
 
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  南十勝   聴囀楼 住人

  
          
 
                            
      
          
       
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
                                                                
  

 
   
      

  
 
 
 山梨の石和温泉郷での「安田義定研究会」メンバーとの情報交換会から、半年ほど経った晩秋11月に,、大学時代のクラス会が京都であった。
二年ぶりのクラス会では、クラスの同好会(京都の歴史と史跡を探訪する会)メンバーだった友人が、数年患っていた癌で昨冬亡くなった事を知った。
 
彼の故郷滋賀県草津での墓参を終えて、改めて集まった同好会のメンバーと故人との”想いで話 ”を済ませた後、参集者たちの現在関心ある事などについての情報交換を行った。
 
その際大津市教育委員会で「大津京遺跡」の史跡発掘等に携わっていたメンバーの話や、彼が退職後始めた「弓道」や「流鏑馬」の事などで話は盛り上がった。
メンバーの中には学生時代から、「忍者」について関心の高かった元中学教師が居て、彼が退職後「甲賀忍者」について、アカデミックに調査・研究している事を楽しそうに話しており、その話題も盛り上がった。 
 
 
          < 全 体 構 成 >
 
              = 『甲斐源氏の祖、源義光』 
        
                 ー 近江之國編 ー
                1.  近江之國と錦織氏
         2.近江神宮と神事流鏑馬(上記、2026年2月6日公開)
                 3.  琵琶湖東南、甲賀の郷
 
 
 
            =  河内流源氏、家系  =
 
           初代/流祖源頼信
 
              二代:源頼義(長男/嫡子)

 快誉(四男) 源義光(三男)  源義綱(次男) 三代:源義家(長男/嫡子)

(園城寺僧侶) (新羅三郎義光) 加茂次郎義綱)   (八幡太郎義家                      

       *安田義定源義光のひ孫で、  源頼朝義家のひ孫にあたる

 
 
 

 
                ー 近江之國編 ー
 
 
 

    近江之國と錦織氏

 
 
春に行われた、石和温泉での「安田義定研究会」のメンバーとの情報交換会を終えて、半年ほど経った11月中旬に、大学時代の「クラス会」が京都駅近くのホテルのレストランで行われ、私はその会合に出た。
 
二年ぶりに行われたクラス会であったが、かつてのクラスメートで同時に学生時代の任意の趣味のサークル、『京都の歴史と史跡を探訪する会』のメンバーでもあった友人錦織君が、この間亡くなった事を初めて知った。
 
彼は癌を患っていて5・6年前から入・退院を繰り返しており、2年毎のクラス会にも最近は出席できないでいた。
私も案じてはいたのであるが、その彼が昨年の冬に亡くなったのだという。
 
 
私も70前後になってから、友人や知人更にはお世話に成った人たちの訃報が、相次いで届くようになった。
こちらの年齢が上がっている以上、知り合いたちの何人かが亡くなるのは仕方がない事ではあるが、やはり寂しい。
と、同時に”遠からず自分も・・”などといった考えが、フト頭をよぎる。
 
 
 
「クラス会」でその事を知った私は、当時の『京都の歴史と史跡を探訪する会(略称:京都歴史探)』のメンバーを誘って、錦織君の眠る滋賀県草津の寺に墓参することにした。
 
急な事もあって参加人数は4人ほどで多くはなかったが、とりあえず私は関西での滞在日数を延ばし、クラス会の翌々日には墓参を行う事に成った。
 
 
当日は10時にJR草津駅南口のロータリーで落ち合って、大津市で暮らしている下川君の車で、錦織君の眠る菩提寺に向かった。
 
途中で献花用の仏花と線香等を買い求めて、駅から車で10分ほど離れた山あいのお寺に向かい、墓参りを済ませた。
 
2年ほど前に亡くなった彼は長男だったが家督は継いでおらず、実家のある滋賀を離れ京都と奈良が隣接する場所に居を構え、「古代史」に関わる考古学や文化財に関係する仕事に携わっていた。
 
 
3人の子供と奥さんは健在であったが、未だ彼の名前は実家の墓誌には刻まれておらず、
”彼岸 ”から2か月近く経っていたが、あまり家族が墓参しているとは想えない様子で、ちょっと残念な気がした。
 
彼の生活の拠点が京阪奈丘陵の一画であって、琵琶湖沿いの実家や墓所の在る菩提寺とは離れていたことも、原因の一つだったのかもしれない。
 
 
墓参を終えた後、私達はJR草津駅近くまで戻り、錦織君を「偲ぶ会」という名の「直会い」を行った。
 
駅前の飲食店が集まったビルで個室居酒屋を探した私達は、「錦織君の思い出話」を2・30分ほどした。
「彼にまつわる学生時代のエピソード」や「春休みに1週間かけて、皆で四国を車で回遊した話」や、彼の好きだった「奈良や京都の神社仏閣」「史跡巡り」といった話題が中心であった。
 
彼との思い出話がひと段落し、昼の酒が身体や頭の中に染み渡った頃、皆の「現在地」に話題が移った。
 
 
初めに奈良市在住の郡山君が口火を切った。
彼は65歳の定年の晩期は全国展開のショッピングモール(S・M)の、地域本部長を務めていたのであるが、定年後は取引先でもあった三重県のリージョナル型S・Mの経営者に請われて3年ほどの間、モール経営に関わるアドバイスをしていたという
 
そのアドバイザリー業務も、ここ数年体力の限界を感じはじめたこともあり、70歳に成る前の昨年で終えた、という事であった。
 
今はもっぱら実家の父母の住む家と、奥さんが暮らすマンションの中間地点で、父母の病院通いや畑仕事の手伝いをしながら、週に一度程度奥さんの住むマンションを行き来している、との事だった。
 
特にする事がない日は、ひがな大リーグの試合を観たり、大谷選手の活躍をチェックしたり、大相撲の番組を観て過ごしている、との事だった。
彼は昔からスポーツ番組を観たり、スポーツの試合を観戦するのが好きだった。
 
 
現役時代に会社の業務で全国を飛び回っていた彼には、ずっと同居をし続けるよりも、月に何度か家族の待つ家に顔を出すことの方が、奥さんにしても本人にとっても、都合が良かったのだという。
 
彼にしたところで自分の居場所が在る様な、無い様な中途半端な家に居るより、実家近くのマンションでの独り暮らしの方が、暮らし易いと、感じていたのだろう。
 
 
二人の子供は既に家を出て独立しており、それぞれ孫がいて本人もすっかり”ジイジ ”していると、嬉しそうに話していた。
 
ではあるが私の眼には、働いていた頃に比べ精気が低下している様に思われた。
身体も一回り小さくなったように感じられた。
退職してからの彼には”老い ”を、私は感じるようになっていた。
 
 
 
私と同様関東で暮らし、今回のクラス会に新幹線を使ってやって来た、中学校の元社会科教師水谷君は、数年前に奥さんを亡くしていたという事であった。
 
そんなこともあって、一時期看病も重なってクラス会にも、趣味の学生時代のサークル『歴史探』の定例会にも、出れないでいたのだが、やっと参加する事が出来たという事で、久しぶりに今回は参加していた。
 
奥さんが亡くなってからしばらくは、”心の整理がつかないから、参加できなかったのだ・・”と述懐していた。
それだけ彼にとっては奥さんの存在が大きかったのだな、と私は感じた。
 
離婚してから20年近く経って、気ままに独り暮らしをしてきた私には、中々理解できない感情であった。
人生のパートナーへの、愛情の濃淡の違いなのかもしれなかった。
 
 
水谷君は学生時代から”忍者  ”に対して少なからぬ関心・興味を持っていたのだが、二十歳前後の頃は、”子供じみた趣味だ ”と皆にからかわれていたこともあって、”歴史探 ”のサークルでは、その事は封印していたのだった。
 
そんな彼も60歳で定年退職してから、趣味の”忍者  ”について時間を見つけては、少しずつ調べる様に成ったのだという。
還暦を機に周囲のことは気にせず、自分の気持ちに正直に生きることにしたのだ、と彼は言ってた。
 
当初は「伊賀忍者」の事を調べてたのだが、”忍者 の本場  ”はどうやら「甲賀」にあるらしいと気づき、近年はもっぱら「甲賀忍者」の事を中心に調べている、との事だった。
 
 
 
                 
              
 
 
そんなこともあって彼は退職してから、滋賀県の大津市教育委員会に勤めていた下川君の力を借りて、甲賀市を訪れる際には下川君の人脈を使って、情報交換や情報収集などを行っていたのだ、という。
 
 
奥さんの看病をする合間を縫っての事だった、というが、それは彼にとって息抜きに成っていたのかもしれない、と私は想った。
 
人はシビアな現実に向き合ってる時は、あえてその現実と距離を置くことも大切だから、である。
そうやってリフレッシュした後で、改めて厳しい現実に向き合う事が出来るのだ。
 
 
水谷君は今回の様に滋賀に来るたびに下川君を引っ張り出して、車の運転を頼みながら甲賀の街案内や、知人の紹介などを頼んでいたのだという。
 
 
 
今日の墓参に車を出してくれた下川君は、大津市の教育委員会で市の文化財関係の専門職員として働く傍ら、高校生の頃部活でやってた”弓道  ”を、子育ての終わった50代頃から復活したのだという。
それ以来毎週、弓道の稽古に通っていると話してた。
 
そんな中で60を過ぎて定年退職してから、弓道を活かした”流鏑馬  ”にも関心が向かい、地元大津の「近江神宮」での、流鏑馬を教える同好会に入門したのだという。
 
 
以来10年近くなった今は、それなりに乗馬や流鏑馬の技術も修得し、近江神宮で行われる神事の一つ、「流鏑馬の行事」にも出場するレベルに達したのだという。
 
現在では毎年6月に行われるその行事に合わせる様に、1年間のスケジュールを組み込んでいる、と愉しそうに話していた。
 
 
また、錦織君に関わる思い出話として、専門の大津京と錦織君のご先祖に関する事について、興味深い話をしてくれた。
 
「実はね、生前というかまだ僕らが卒業して10年も経たない頃、錦織君とサークルの同窓会で逢った時にね、彼に聞いたことがあったんや・・」下川君はそう言って、続けた。
 
「僕が大津京の遺構というか遺跡について、教育委員会で調べる様になって、その遺跡の中心部が大津市錦織地区だったらしい事が判ってね。
 
で、彼とサークルの同窓会で再会した時に、聞いてみたのさ
”君の実家は、大津市の錦織地区と何か関係あるのか  ”ってね・・」
 
「ほう、そしたら錦織はなんて応えたのさ・・」私が聞いた。
「その時彼が言ったのはね、うちのご先祖は大津じゃなくって琵琶湖の対岸に当たる野洲の方なんだ、って言ってたよ。
 
彼自身大学生の頃にご先祖様に興味があって、それなりに調べてみたんだそうだ。ちょうど『歴史探』のサークル活動に刺激されてね・・。
で、野洲の出身で大津とは直接は関係ない、と言われたのさ・・」下川君が応えた。
 
 
「話変わるけど、テニスの錦織圭は確か島根の松江出身だったと思うけど、彼のご先祖と大津とは何か関係あるんか?」郡山君が聞いて来た。
 
「多分関係ないと思うよ。
『錦織』って名前は割と西日本では広く分布してる名字でね・・。
元々の錦織氏族は、大阪の河内・泉州辺りの”部(べ)の民 (たみ) ”の拠点、『錦織郡』辺りが本拠地で、そこから西日本各地に展開/派生して行ったみたいなんだな・・」下川君が続けた。
 
 
「”部の民 ”ってことは渡来人系になるのかな・・。
”錦を織る ”機織りの技術を持ってた氏族という事は、やっぱりご先祖様は繊維関係の渡来者なんだろうな・・。『服部氏』なんかと同じで」私はそう言って,、彼に確認した。
「僕もそう想ってるよ・・」下川君は肯いて言った。
 
”部の民 ”って、何やったっ?」水谷君が私達を見廻しながら真顔で聞いた。
「そうだな、OO部というジャンルで朝廷に仕える専門家集団の事を、総称して『部の民』って言ったのさ・・。
因みに錦織氏は、百済系の渡来人だったらしいよ」下川君が解説した。
 
 
「だから『錦織』は錦を織るのが専門の、職業集団が纏まって生活していた集落というか、コミュニティを作って活動してた場所だった、って事に成るわけさ・・。
『錦を織る』だからワリと上質の絹製品なんかを作って、朝廷に納めていたんだろうな・・。『租・庸・調』の『調』としてね・・。
 
今でも河内や泉州が繊維産業の街として栄えてるのは、『錦織部』のコミュニティが古代から千年以上培ってきた、歴史や技術の蓄積・人材のネットワークと関係してるって思うよ。たぶんね・・」私が補足した。
 
 
「せやったんか、ワシ大阪生まれやけどその話初めて知ったゎ・・」水谷君が腑に落ちた、という様に感心した。
 
「それと河内も泉州同様、織部氏の拠点だったとすると、河内源氏の頭領源頼義と部の民錦織氏との接点も、そこら辺だったのかも知れないな、と推測できるかな・・」私が呟いた。
 
「いや、それには僕も気づいていてね、園城寺を河内源氏の氏寺にしたのが頼義で、晩年の頼義の生活拠点が、大津だった事を考え併せると、河内の錦織氏を大津に頼義が呼び寄せた事も考えられるかな、と想ってるんだ・・」下川君が言った。
 
 
              
 
 
 
 

       近江神宮と神事流鏑馬

 
 
最後に私の「現在地」について話した。
 
「7・8年前の同窓会の時にも、京都で話したと思うけど
僕は還暦を迎えてから縁あって、源平合戦を始めとした鎌倉幕府創設に、多大な力を発揮しながら、頼朝や北条時政の伊豆の御家人グループによって、非業の最期を遂げさせられた、甲斐源氏の勇将『安田義定公』の事を引き続き調べててね・・。
 
とりあえず区切りがつくと、その都度”歴史検証物語  ”として書き残してるんだわ。
 
で、始めてから10年近く経ってるんだけど、なかなか完結できてなくって、未だに義定公に関する調査/研究を続けてる、って感じかな・・」と言った。
「まだやってるんか・・」郡山君が呟いた。
 
「まぁな・・。中々終わりが見えないんだよ、これが・・。
流石におんなじ事を続けてるわけじゃないけど、ひと段落着いたと思ったら、また次の課題や疑問が出てきてね、新しいテーマが続々湧き上がって来るもんだから、ついついね」私は言った。
 
 
「この前の京都の時以降、どんなテーマを追っかけてるんや・・」水谷君が聞いて来た。
「そっか、水谷はここ2・3回欠席してたからな・・」私が言った。
「まぁ、さっきも言ったとおり家庭の事情があってな・・」
 
「あの頃は確か、『京都祇園祭と安田義定公』のことを調べてたんだよな・・。
で、それ以降だと『義定公と嫡男義資公の領国、越後之國との関係』を調べてたり、
義定公の領国遠江之國の古刹『秋葉山本宮』との関係、
 
それから『甲斐源氏と常陸源氏とのつながり』って感じかな・・。
そんな感じで、なかなか終わりが見えてこないのさ・・」私がそんなふぅに言うと、
「立花クンは昔っから”凝り性 ”というか、目的に対してズンズンと突き進むタイプだったからな・・」下川君が言った。
 
「で、最近はそれら関東の甲斐源氏や常陸源氏の共通の祖先である、『源義光』について色々と調べ始めてるところ、って感じかな・・」私が話した。
 
「んーん、という事はザックリ年に一つ程度のテーマを追っかけてる、って感じやな・」郡山君が言った。
「間にコロナの騒ぎがあったから、コロナ前に比べるとペースが落ちてるけどな・・」私がそう言うと、下川君が、
 
 
「ところで源義光って、園城寺の新羅善神堂の氏人(うじびと)で、さっき言った源頼義の三男のコトか?
その新羅三郎義光は、甲斐源氏や常陸源氏の共通の祖先になるんか・・」と、私に確認してきた。
 
「そうだよ、その通り。
源頼義の三男で”新羅三郎義光  ”と言われた彼が、関東の源氏の雄甲斐武田家と常陸源氏佐竹家の、共通の父親なんだゎ。
 
因みに常陸源氏佐竹氏の家祖佐竹義業(よしなり)が義光公の長男で、甲斐源氏の家祖武田義清は三男になるんだな・・」私が説明した。
 
 
「たしか下川の専門は、奈良時代の『天智天皇と大津京』だったよな?
とすると平安後期の義光公の時代からすると、ザッと4・500年前か・・”壬申の乱 ”の前だからな・・。
君の専門領域とはチョット時代が外れるか・・」
 
私は下川君の関心領域が地元の大津京や当時の天皇/天智天皇にあって、大津市の教育委員会に就職した事を思い出して言った。
 
「マ、そうやね。僕の関心領域は明日香・奈良時代から天智天皇の頃が中心かな・・。
せやし平安後期や鎌倉期についてはあまり詳しくはないんだゎ、実際のところね・・。
源義光は園城寺に縁ある武将だから、それなりに知ってはいるけどね・・。
 
僕はもっぱら文化財課に居て、大津京に関わる遺跡の発掘や遺構を調査するために、穴ばっかり掘ってたしね・・」と彼はニヤリとしながら、率直に認めた。
 
 
 
          
 
 
 
「ところで君は義光公の拠点が、天武天皇に敗れた大津皇子の陵墓の上の、小さな山の中腹に在る事は知ってたかい?
真上に在る『新羅善神堂』を更に登った場所だけど・・
私は山梨の仲間から教えてもらった情報を、下川君に聞いてみた。
 
「天智天皇の皇太子=大津皇子の陵墓上の『新羅善神堂』は知ってるけど、源義光の館跡まではちょっとな・・」と彼は応えた。
「マ、そうだわな。専門領域じゃないし・・」私は納得した。
 
「実は今回京都に来たついでに、というかこちらに宿を取った時から、その義光公の館跡を訪ねる事つもりでいたんだ。それも、今回の目的の一つでね・・。
で、昨日寄って来たんだゎ・・」私が言った。
 
 
「熱心やなぁ、相変わらず・・」水谷君が言った。
「君も埼玉から関西に来る時、次いでに用を足すことあるやろ」私がそう言うと、
「まぁな・・オトーちゃんとオカーちゃんのお墓参り、とかやな・・」水谷君がボソッと認めた。
 
「水谷の場合はお墓参りで、立花クンの場合は趣味の件で立ち寄るって、いうだけの違いやな、要するに・・」郡山君が言った。 
「そう言うことだな・・」私が肯いた。
 
 
「今君が取りかかってるのが『源義光の事』で、同窓会のついでにこの辺りに来てるってわけか・・」下川君が言った。
 
「今年の春ごろから『甲斐源氏の祖、源義光』ってテーマで、山梨県の郷土史研究家達といろいろ情報交換をし始めてね・・。
そんなこともあって義光公絡みで、大津に関連する史跡や情報を探しに来たんだ・・」私は肯きながら、今回の関西旅行について話した。
 
「ん?錦織の墓参りは・・」郡山君が聞いた。
「彼のことは、クラス会で初めて知ったのさ、だから初めは予定に入ってはなかったんだ・・」私が応えた。
 
 
「そうか、確かに急だったよな今回の墓参りは・・」下川君が言った。
「せやから4人やったんやな・・」水谷君が呟いた。
「水谷はサークルの同窓会の他に大阪のご両親の墓参りがあったから、今日合流できたんだろ」私が言った。水谷君は肯いた。
 
 
「ところで話を戻すけど、源頼義が晩年を大津で過ごしたというのは、園城寺と関係あるんだろうなやっぱり・・」私は下川君に確認した。
 
下川君は肯きながら、
「頼義は”前九年の役  ”での大活躍で、伊予之國を領地として与えられ『伊予守』に成った頃、出家して『伊予入道』とも呼ばれてたんだ。
 
自分が征夷大将軍として陸奥之國で多くの敵:蝦夷を殺し、味方の将兵を死なせたことを悔い弔うために、仏堂や寺院を幾つか建立してて、毎日読経したりして”減罪積善  ”の供養に励んだ、というんだな.。
 
その時頼義は三井寺=園城寺の仏門を頼り、晩年は大津に生活拠点を置いた。という事らしい・・」と説明してくれた。
 
 
「なるほどそういう事か・・。
源頼義は征夷大将軍として蝦夷地征伐に向かう際は、『新羅善神堂』で戦勝を祈願した上で戦地に赴き、苦難の末闘って勝利することが出来た。
 
で、終戦後は園城寺の一画に、敵味方の戦死者を供養する仏堂や寺院を建立して弔った、ってことなんだな。
頼義という人物は、”人間が真面目 ”だったんだな・・」私は頼義の人間性の一端を、垣間見た気がした。
 
 
「その上で自分の三男義光を、『新羅善神堂』に氏人(うじびと)として仕えさせ、『園城寺』には四男の快誉を学僧/僧侶として仕えさせたって、わけだな・・。
 
河内源氏の頭領とその一族が、園城寺を河内源氏の氏寺として頼り、尊崇したのも何となく納得がいったょ。
将に園城寺を”頼りに成る神仏 ”として特別に尊崇し、それもあって支援もしてたんだろうな彼らは・・。
イヤ、ありがとう下川・・、勉強に成るゎ・・」私が言った。
 
 
私は源頼義の人物像が少し理解できたことや、河内源氏と園城寺の間に、太い紐帯が結ばれたいきさつを識ることが出来、そのヒントを教えてくれた下川君に感謝した。
 
 
 
            
                       源義家:頼義嫡男、画像
 
 
 
「ところで下川、君は『流鏑馬』を始めた言うてたけど、どんな感じなんや。
あれって結構大変なんやろ、馬に乗りながら矢を放つのって・・」スポーツ好きの郡山君が興味津々、という顔で聞いた。
 
「そりゃそうだよ静止して弓を放つのとは、全く次元が違うんだから・・。
活きてる馬を疾駆させた状態で、ブレない様に姿勢を保ちながら矢を放つんだから、たいへんだよ・・」下川君が応えた。
 
 
「姿勢を維持するためには、最低限でも体幹の鍛錬が必要なんやろな・・」郡山君が更に尋ねた。
「その通り!」と下川君は大きく肯いた。
 
「弓道は高校生の頃からやってたから、それなりに対応できただろうけど、流鏑馬を始めた時は、乗馬を一から始めたわけだ・・」私が下川君に聞いた。
「必然的にそうなるな・・」彼は肯きながら応えた。
 
 
「せやけどそれは覚悟の上やろ・・」郡山君が呟いた。
「マ、そうだわな・・」下川君は当然、という風に応えた。
 
「どのくらい掛かった?馬に乗ったまま矢を放てるようになるまで・・」私が聞いた。
「1年ぐらいだったかな、とりあえず型を決めて、疾駆する馬上で矢を構える事が出来たのがね・・」
 
「それって、筋が良い方に成るのか、それとも・・」郡山君が聞いた。
「師範には褒められたよ、一応な・・」
 
 
「因みにオレがゼロから始めるとしたら、どのくらい掛かりそうや・・」郡山君が、更に尋ねた。
「郡山、君も流鏑馬やってみたいと考えてるんか?」水谷君が彼に聞いた。
 
「まぁ、最近暇でな・・。親の介護や畑いじりだけじゃ中々な・・、身体なまるし。
マ検討してもいいかな・・ってレベルやな今は・・」郡山君は満更でもない、という風に応えた。
 
「要するに、物足りないんだな・・。
ま、何か新しいことにチャレンジするのって、好い事だよな。ボケ防止にも成るし・・」私はそう言って、彼のチャレンジを好意的に評価した。
 
 
「ゼロから始めるとなると、弓道からのスタートって事に成るからな・・。
それと並行して乗馬も始めるわけやろ、御年70歳の君が・・。
運がよくって、上達が早くても2~3年は最低掛かるやろな・・。
弓道で1年、乗馬で1年、その上で体幹を鍛えながら型を修得するのに1年かな・・」下川君が言った。
 
「それやったら3年とちゃうか・・」水谷がまぜっかえした。
「マ、重複して同時に習えば早まるかな・・。それにマァどれだけ熱心にヤルかだな。早まったり遅く成ったりするのは・・」
そう言う下川君の話を郡山君は、神妙に聴いていた。
 
 
「郡山は、高校まで野球やってたんだっけ?」私が彼のスポーツ歴を思い出して聞いた。
「そうや。運動神経はええ方やと思うけどな・・。
せやからマァ後は、熱意やろうな・・。自分でもそう想ってるよ・・」下川君を観ながら、郡山君は言った。
 
「やったらええやんか・・。時間もあるし、金かてあるんやから・・。暇持て余してるんやろ・・」水谷君も彼をけしかけた。
 
 
「そしたら下川、一から教えてくれるか?」郡山君が真顔で尋ねた。
「ま、本気でヤルっていうならな・・、教えたるヮ。但しポイントポイントで、やけどな・・。
せやけど奈良からこっち迄、通うことに成るけど、覚悟はええんか・・。
昔のよしみで教えるのは、やぶさかやないけどな・・。
 
しかしまぁいずれにしても、生半可な気持ちじゃ続かんやろな・・」下川君が覚悟のほどを確かめる様に、郡山君に聞いた。
 
「ヤルからには、せやろうな・・」郡山君が意を決したように呟いた。
「ま、家に帰ってじっくり考えてから、また連絡をくれたらええよ・・。決心着いたら、そん時はちゃんと対応してたるから・・」下川君が大人の対応をした。
 
 
 
                
 
 
 
「ところで、君が今打ち込んでる近江神宮の流鏑馬って、歴史は古いんか?
源頼義が始めたとすれば平安中期だろうし、息子の源義光だとしても平安後期だし・・」私がそう言うと、下川君は途中で遮るように、
 
「いや、それが新しいんだゎこれが。
平成になってからで、平成2年からなんや始まったんわ・・」彼が説明した。
「ん?そんなもんか・・。ってことはせいぜいここ3・40年ってとこか・・」
 
 
「そもそも近江神宮の創設自体が、昭和15年と新しいんだ・・。
で、流鏑馬の神事が始まったのも平成2年で、神宮創建50年の節目を記念して、この神事が採用されたんだから・・。
 
ってことで、流鏑馬が始まったのが平成になってからと言って、驚くことはないんや・」下川君が言った。
 
「え!そうなんだ・・。近江神宮の創建が昭和15年で、流鏑馬は平成2年か・・」郡山君が驚いた様に言った。
 
 
「そう言えば平安神宮の創建は明治28年の1895年やったんやで。
しかも創建の理由いうんが、
天皇・公家がこぞって東京に遷都してもうて、京都の街が活気のうなったから、活気づける起爆剤としてやった事業の、一つやったんやで。知ってたか?」水谷君が思い出したように言った。
 
「何で、そんなに詳しいんや、水谷!」下山君がニヤニヤしながら聞いた。
「京都の主要な神社の事は、一通りな・・」水谷君が、自信ありげに言った。 
 
私は近江神宮の創建は、ひょっとして河内源氏の園城寺近郊での定着に関係してるのか、と期待してたのだが、そうではなかったので、ちょっと残念だった。
 
 
「ところで下川、近江神宮の流鏑馬って、何流なんだ?
小笠原流か?それとも武田流?」私が尋ねた。
「詳しいな、立花クン。武田流だよ、何でさ・・」下川君が私に聞いてきた。
 
「そしたら、神事の際に馬場に張り巡らされる幔幕は、三階菱じゃなくって、武田菱の家紋、だな」私が確認すると、彼は肯いた。
 
 
「知ってるかもしれんけど、流鏑馬の神事は甲斐源氏の武田家が深く関係してるんだよ・・」私がそう言うと、皆が私を見た。
 
 
「神事やイベントとしての流鏑馬自体は平安時代から、宮廷でも散発的に行われてはいるんだけど、現在のような形で世間に知られた、お祭りじみた神事というか、武士のスポーツイベントになったのは、鎌倉時代からでね。
 
そもそもが『流鏑馬』って、武士の”武術を競う競技大会 ”だからね・・。
『流鏑馬』ってのは武士たちが、持ち前の弓術や馬術の腕前を競い合い、自分の武術の力量を披見し合う、鎌倉時代の実践的なスポーツイベントだったのさ。
 
鎌倉幕府開闢期の頼朝以来、将軍の眼前でそれぞれの御家人たちが、自慢の武術を競い合い、技を披歴する競技大会だったのさ、武士のね・・。
 
鎌倉の将軍家の前での武術大会がキッカケと成って、全国の御家人や武士たちの間に普及し、発展して行ったってわけさ」私は少し詳しく説明した。
 
「ってことは、別に甲斐源氏に関係なく全国で”流鏑馬 ”が行われてた、って事なんとちがうか・・」水谷君が聞いてきた。
 
「実技としての流鏑馬は、その通りさ。
けどそれを洗練された儀式として確立させ、武家の流儀としてまで高めたのが甲斐源氏の嫡流武田家と、その支流の小笠原家だったて、わけさ・・」私が応えた。
 
 
「ところで”武田流 ”と”小笠原流”の違いは一体何なんや?」郡山君が聴いてきた。
流鏑馬に興味を持った彼としては、両者の違いが知りたかったのかもしれない。
「オレも知りたいな・・」下川君も続いた。 
「ザックリで良ければね・・」私がそう言うと、二人は肯いた。
 
「両者の違いは内容的には殆ど無いんだが、最も大いのは『茶道』が入ってる点かな・・。
武田流は弓馬の技術だけじゃなくって、戦場での布陣の仕方とか、軍法の知識、更には軍議の進め方とか、武将として身に着けなければならない、技や戦闘技法の他に礼儀作法といった儀式全般に及んだ”武士のたしなみ ”となってるのさ」私がそう言うと、
 
「『免許皆伝』やな・・。家元制なんか?」郡山が確認する様に、言った。
「のようなもんだろうな・・」私が言った。続けて
 
 
「因みに今いった、『武田流』と『小笠原流』は殆ど同じなんだけど、その修得項目の中に、武田流では茶道は入ってなくて、茶道が必須項目に入ってるのは、小笠原流からなんだ・・」私が違いを話した。
 
「大学の履修科目みたいなもんやな・・、でも何でそうなったんや?」水谷君が口を挟んだ。
 
 
「そうだな、まぁ一言で言うと時代の違いかな・・。
甲斐源氏がお家芸を集大成し、完成させたたのが『武田流』だったんだけど、本家の『甲斐武田流』は鎌倉時代までは勢いがあったけど、室町時代からは幾つかの内部闘争があって分裂したりで、衰退しちゃったのさ・・。
戦国時代に武田信虎や信玄親子が甲斐の國を統一するまでにはね・・」私が言った。
 
「で、その頃すでに分家して別の領国で、異なった道を歩んでいた、武田家支流の『安芸武田家』や徳島『小笠原家』なんかに残っていた『お家芸』が残存してたって、わけ」私が言った。
 
「で、両者の違いは?」
 
「『安芸武田家』は鎌倉時代中期の『承久の変』に活躍した、武田信光の甲斐武田家嫡流が、新しく獲得した領国広島の『安芸之國の武田家』に引き継がれた武芸で、分家で阿波徳島等の『小笠原家』の”お家芸 ”とは違うのさ。
 
というのも『阿波小笠原家』は、武田家の分家で支流ではあるが、南北朝以降は室町幕府に仕えた有力大名家だったから、室町時代に新たに武将のたしなみとなった”茶道 ”を組み込んで、updateしてるわけよ・・。
 
だから『安芸武田流』は、いうなれば鎌倉期以来の”古式お家芸 ”を継承し、踏襲して来たのに対し、
『小笠原流』は、”茶道 ”を取り込み当時の流行を付加した、『室町武田流』お家芸  に変貌してる、ってわけさ・・」私が解説した。
 
 
「そうかその2・300年の間に”室町風 ”にupdateしたのが『小笠原流』で、”鎌倉風 ”をそのまま維持し続けて来たのが、『安芸武田流』なんやな・・」郡山君は腑に落ちたとばかり、肯いた。
 
「そう言えば近江神宮の流鏑馬は、『武田流』でも『鎌倉派武田流』と言ってたな、師範・・」下川君が思い出したようにそう言った。
 
「updateする前の鎌倉期に成立していた『古式武田流』を、『鎌倉派武田流』って名乗ってるのかもしれんな・・」私が推測を交えて、そう言った。
 
 
「なるほどな、そう言うことなんやな。茶道を取り入れて、updateしてる”家元 ”か否か、が両者の大きな違い、という訳やな・・」郡山君が納得したように言った。
 
「茶道の家元にあったな、『小笠原流』。
確か”武家茶道 ”のはずだったわ・・」下川君が思い出したように言った。
 
「で、君はどっちを習ってみたいんだ?郡山」下川君が、真顔で聞いた。
「そうやな、少し考えさせてもらおうかな・・」郡山君が言った。
 
「”茶道 ”を含めて、全くゼロからスタートするのか、下川に教わりながら”古式武田流 ”を教えてもらうのか、だな・・」私はニヤニヤしながらそう言って二人を観た。
 
 
 
 
 

        琵琶湖東南甲賀の郷

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 



〒089-2100
北海道十勝 , 大樹町


 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
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