W杯 ブラジル戦 昨日のブラジル戦で、2026年W杯北中米大会の日本代表戦は終わってしまった。 残念である。もう少し日本代表戦の戦いを観続けたかったからである。 W杯が開戦する前から、森保監督が公言していた「優勝を目指す!」という言葉を、私は初めから真に受けていなかったから、決勝戦までの試合を観る事ではなかった。 先ずはBEST8に到達する事が、現在の日本代表の”現実的な到達目標 ”だと考えていたので、私が期待していたのは、 出来る事なら今回のブラジル戦に運よく勝てて「BEST32→BEST16→BEST8」まで到達する、というシナリオであり、そのためにまだ”+2試合は観たかった ”のである。 しかし相手が悪かった、現在の日本代表が好いチームである事は確かだった。 しかしだからと言って 「ブラジル」「フランス」「アルゼンチン」「イングランド」「スペイン」「オランダ」に、 W杯のトーナメントリーグで間違いなく勝てる、とは考えてなかったし、現時点でそれは「期待」であり「願望」であり、「妄想」でしかない。 私は夢と現実とを明らかに区別する”現実主義者 ”だからである。 従って「+2試合」を観れなかったことが、残念だったのだ。 もう少し「観戦者」ではない「当事者」として、今回のW杯を愉しみたかったのである。 ![]() さて、今回の「ブラジル戦」である。 最大の敗因は、選手個々人の技術や能力以上に、監督の「戦術プラン」の問題であり「選手起用のプラン」であったようだ。 言うまでもなく今回のブラジルを指揮していたのは、「名将アンティロッティ」である。 ヨーロッパのサッカー界の歴史や現状を良く知っている人には知られた人物で、ヨーロッパのクラブチームやナショナルチームを何回も勝利に導いて来た、百戦錬磨の名監督なのである。 W杯に向けて彼はチーム力を高め、チームとしての結束を強め、事前にPLAN:AやPLAN:B、PLAN:Cを準備し、備えておくことが出来る経験豊富な人物であった。 かつての日本代表を率いて来た監督で言えば、「オシム」や「ザッケローニ」に匹敵する現役監督である。 ![]() そしてそのアンティロッティが動いたのはハーフタイムを挟んだ、後半であった。 前半の日本DFの堅牢で統率の取れたブロック守備を、崩すための戦術を採用したのであった。 一つは中盤のメンバーチェンジであり、より決定的だったのは攻撃の主戦場を「中央」から「両サイド」に変更した事である。 すなわち、サイドチェンジを含め左右の両翼からの攻撃に替えたのであった。 これが見事に功を奏したのである。 これに対し日本のDF陣は前半の守備体制を継続しつつ、よりブロックを固めるためのメンバー交代や、陣形維持に努めたのであった。 これが森保監督の対応戦術であり、彼の限界でもあった。 解説の本田圭佑氏が盛んに叫んでいたように、”しっかり守って、同時に攻めろ!”や”守るだけやなくって、守りつつ攻めなアカン!”との違いであった。 日本は1点リードしていたから、守りを堅くしリードを守る事は、当然の選択肢であったことに疑いはない。 問題はその先に何を見たのか、何をしようとしたのかである。 勝つための手配を怠っていたのである。 森保監督は、そのまま堅守を堅持して1点を守り切るか、たとえ1点を返されたとしても、そのままドローで延長戦に持ち込めばよい、と考えていた様である。 ![]() もちろんこれはあくまでも推測であって、彼の口から語られないと真相は判らない。 その私の推測を裏付けるのは、「交代要員」のメンバーであった。即ち「攻撃陣」の「中村健斗」「堂安」に替えて、「守備要員」の「菅原」「鈴木淳之介」の投入であった。 これは明らかに後半戦の戦いの軸を、「堅守、速攻」から「専守防衛」に移したことを意味し、同時にその監督の意向をフィールド上の日本戦士達へ伝えるメッセージ、でもあった。 と、同時にブラジルの監督や選手達にとっては、「守備への負担」を軽減させて「攻撃に専念しても良い」という、メッセージにもなったのである。 ブラジル陣は「個人技」や「技術」では、日本選手の「技」を越えてる選手が明らかに多く、W杯を始めとしたカップ戦などを通じて「ノックアウト戦」という修羅場を経験している選手や、闘う術を知っている選手の数はもちろん多い。 そのブラジル選手たちに、森保監督は「専守攻撃」という、絶好の舞台を提供してしまったのだ。 それから彼らの猛攻撃が始まり、ほどなく同点に追いつかれてしまい、最終的には後半AT=ロスタイムに、勝ち越されてしまった。 後半戦での監督の采配、即ち「選手交替」と「戦術チェンジ」の差が、日本代表のブラジル戦敗退をもたらしたのであった。 直接的な要因は確かに、田中碧選手のブラジル右ウイングからの攻撃への対応のまずさがあったのであるが、より多くは監督の采配のミスであり、戦術のミスであった。その点をはき違えてはいけない。 更に付け加えるなら、控え要員の塩貝選手のSNSでの、不必要な「ブラジル選手への侮辱」であり、「挑発」であった。 このSNSがサッカー王国ブラジル選手たちのプライドを傷つけ、「国技」を汚されたと感じたセレソン達のハートに「火をつけた」のであった。 サッカーは「技」と「戦術」を駆使したスポーツである、と共にプライドを掛けた「心」や「情熱」を伴う、「ハート」のスポーツである事を、この若者は意識してなかった。 そしてこの若者の人間的な未熟さをたしなめたり、修正させるような「心理学的ケア」をコーチ陣が怠っていた事も、今回の敗因の一つだったと私は感じている。 ![]() 一方森保氏はJリーグでは何回かの優勝経験を持ち、実績を持っている。「通常リーグ」向けの監督なのである。 彼は期間が限られた「国際的なカップ戦」でこれまで一度も頂点に立ったことが無い。 1年間を通して選手を育成し、チームを作ったり「リーグ戦」の戦い方には経験はあっても、3・4週間の間に「王者」を決める「国際マッチ」では、一度も結果を出してない。 せいぜい準優勝どまりだし、東京オリンピックでは「金メダル」を公言していたが、結果は4位で終わっている。 ー 森保JAPANの国際カップ戦での戦績 ー ・2019年アジア杯:準優勝 ・2021年東京オリンピック:4位 ・2022年W杯:BEST16 ・2024年アジア杯:BEST8 ・2026年W杯:BEST32 森保氏には選手育成の定評があり、実際「選手の育成」ではそれなりの結果を出している。その点は彼の指導者としての評価すべき能力であろう。 従ってこれから彼には、日本代表監督を今回限りで勇退してもらって、JFAの幹部として「アカデミー」等で若手を発掘したり、育成に力を注入してもらい、日本サッカー界の次世代を担う人材を育てる事などに、その能力を発揮してもらった方が良いのではなかろうか、と私は想う。 その上で次のW杯では、ぜひともBEST8を狙える監督を招聘してもらいたいものである。 このまま森保JAPANを継投するとしたら、日本の「50年以内W杯優勝」の道筋は、全く見えてこないであろうと私は想ってる。 と同時に、私自身のストレスも解消しない。 もし可能であるならば私は自分の人生が終わる前に、「日本代表のW杯優勝」を観てみたい、と想っている。 これは私のささやかな願望なのである。
|
![]() |
この物語は甲斐源氏安田義定及びその臣下である黒川衆と、常陸之國の関係を改めて調べ、再確認するための「歴史検証物語」である。 甲斐源氏が武田氏を名乗る前、常陸之國と深い関わりがあった。それは甲斐源氏の太祖とでもいうべき「新羅三郎源義光」が、かつて常陸之介としてこの地に赴任していた事に起因している。 その源義光の三男源義清及びその嫡子清光が、館を構えた場所が現在のひたちなか市武田地区であり、かつての常陸之國那珂川郡武田郷であったのである。 この「常陸之國、武田郷編」はその武田郷を主人公立花が、安田義定研究の仲間である山梨の郷土史研究家達と共に訪れ、義定公のご先祖達の痕跡や事跡を確認するプロセスを追った物語のである。 ― プロローグ ― |
去年の暮れに、安田義定公と秋葉山神社本宮及び春野町の関係を調べた結果を取り纏めた、『遠江守安田義定と秋葉山神社』を書き上げていた私は、年末年始をノンビリと過ごすことが出来、しっかりと充電をして寒い冬をやり過ごしていた。
若くて元気な頃なら、この季節であれば積極的にスキー場に行き、近場の温泉場に逗留するなどして、のんびり過ごしていたのであるが、子供が成長し40代に成るようになってからは、それも遠のいた。
加えてシングルアゲインに成った事もあって、今ではすっかり出不精になり寒い冬に、あえて遠出をすることもなくなっていた。
それでも一月の中旬ころまでは、友人たちとのコミュニケーションのために、新年会という名の飲み会などをして過ごしていた私も、さすがに一月末頃に成るとこれではイカン、と新しいスタートを始めることにした。
昨年の北遠の遠州春野町をフィールド調査した時に私は、安田義定公と甲州金山衆の足跡や痕跡を随所において確認することが出来たこともあって、甲州金山衆=黒川衆の存在がますます気になり始めていた。
それで何となく、この金山衆について調べて見ようか、といった思いが湧いてきた。
そのような心の動きもあって、今年はその金山衆について少し調べてみることにした。
当初私は、金山衆というのは義定公の領地であった甲州牧之荘の山岳地帯、すなわち甲武信連山の一角である黒川山=鶏冠山を拠点に、砂金や金山の開発をする職能集団が土着的に存在しその基盤の上に新たに牧之荘の領主と成った義定公が、その職能集団を見出し臣下としていったのではなかったかと考えていた。
ところが義定公の事を調べるようになってから、ひょっとして黒川衆というのは土着の砂金・金山開発の職能集団だけで構成されているのではないかもしれない、と考えるようになり始めた。
安田義定公は一介の「郷の主」すなわち郷主からスタートし、その後幾多の源平合戦の戦さを重ねるうちに武将としての経験を積み、運よくその活躍もあって領地や領国を次々と増やしていった。
因みに郷というのは、当時の地方社会の最も基本的な単位である「村」が幾つか集まった行政単位で、今で云えばちょっと大き目な町や、小ぶりの市といったような規模感の集落・社会である。
更にその郷が幾つか纏まった単位が「郡」になり、更にその郡が幾つか纏まって一定の規模になった時に、次に「國」として扱われるように成った。それが古代や中世の日本の社会構造であった。
当時の社会経済単位という事であれば、当然米作の生産拠点である「荘園」が関係しており、郷はほぼその荘園に近い規模感だったのではないかと、私はそう理解している。
そして平安末期から鎌倉時代にかけて活躍する武士である、地頭や御家人といわれる人達の支配エリアは、ほぼこの郷に相当するのではないかと、そうも思っている。
すなわち郷主=地頭と理解しており、それらの地頭が鎌倉幕府の盟主であった、頼朝や北条氏と一対一の関係で盟約を結び、その見返りに領地を安堵されたのが御家人であったと認識している。
そんな中で、安田義定公は個人的な能力が非常に高かったがゆえに、一介の郷主から出発してやがて郡主はもちろん国主にも成って行った。
さらには自身の領国である遠江之國に加え嫡子義資(よしすけ)公の領国であったとはいえ、実質的には彼自身も深く統治に関わった越後之國と、併せて二つの國を十四・五年の間つつがなく統治し続けていたのであった。
しかしながら義定公自身の能力がいかに高かったとはいえ、それらの二つの國をはじめ本拠地の甲斐之國の牧之荘や、富士山西麓の「甲斐の國いはら郡」を同時に統治し続けるのは容易な事ではなかっただろう。
にも拘らずそれらの複数の領地・領国の統治を可能にしたのは、義定公には優秀で有能な臣下群が居たからに違いない、と私は考えるようになった。
彼は甲州・駿河の一部・遠江・越後と、日本海側から太平洋側にまたがる広範囲に点在する、それらの領地・領国の統治を一人で行っていた訳ではなかった。少なからぬ有能な人材を配下に収め、彼らをうまく使うことで統治していたのである。
そしてその人材達が義定公の「四天王」であり、更には「五奉行」と云われる人達であった。
その内の四天王といわれた「岡氏」「橘田氏」「竹川氏」「武藤氏」は、義定公の甲州の本貫地である牧之荘や、その周辺にいた地方豪族たちであったようだ。
したがって彼らは甲斐之國で義定公が、登用しスカウトしてきた人材である。
それに対し五奉行のうちの「武藤五郎」を除いて、「芝藤三郎」「宮道遠式」「榎本重兼」「麻生平太胤國」等は、いずれも甲斐之國の人材ではなかった。
「遠州浅羽之荘」「前(さき)の右馬之允」「前の滝口ノ武者」「常陸大掾氏の一族」といった経歴や名称が示すように、京の朝廷に仕えていた中堅官僚や遠州・常陸といった地方の在地官僚出身者である。
いうなれば全国区の人材なのである。その全国区の有能な人材を広く集めて登用して、義定公は自らの領地・領国を統治してきたのであった。五奉行と言われる人達はこのようなメンバーである。
といったことから義定公は自らの個人的な能力はさることながら、「人を見る目」が高かった名伯楽だったのではなかったか、と私は考えるように成った。
義定公が急激に拡大した領地・領国をつつがなく統治することが出来たのは、経験豊かで有能な人材の必要性を痛感していた彼が、母体である甲州を越えた範囲に目を広げ、積極的に能力の高い人材を見出し、抜擢しスカウトして来たからではなかったか。と私は考えるようになったのだ。
そしてこれらの優秀な人材を積極的に登用し、活用出来たからこそ義定公は、太平洋から日本海までフォッサマグナ沿いに広がる、複数の領地や領国の統治が可能だったのではなかったか、と私は考えが至ったのである。
と同時に、もしそのような名伯楽としての人間的な資質を義定公が持っていたとしたら、その能力は彼の領国経営の二本柱である、
「騎馬武者用軍馬の畜産・育成」と「砂金・金山開発」についても、当然発揮されたのではなかったかと、考えるように成った。
「軍馬の畜産や育成」に関しては、「前の右馬之允、宮道遠式」が中心になったことが考えられた。
彼はかつての「朝廷が抱えている数多くの馬の管理」や「朝廷守護の騎馬隊」を率いた「右馬之允」という高級官僚であったからである。「允」は「尉」で、現在の局長級の地位だという。
そして「砂金・金山開発」である。
実際のところ「砂金・金山開発」を中心的に担ってきたのは、やはり地元牧之荘の山岳地帯で砂金採取や金山開発を行っていた、「黒川山=鶏冠(とさか)山」の黒川衆であったであろう。
そしてそのベースの上に、新たな知識やノウハウ・経験を持つ専門性の高い職能集団を義定公は甲斐之國を越えた全国区から登用しスカウトをしてきたのではなかったか、とそんな風に私は考えるように成った。
即ち後に「甲州金山衆」と云われた、義定公配下の砂金・金山開発の専門的な職能集団についても、彼が全国から発掘し、採用し、登用して創り上げてきた専門家集団の事ではなかっただろうか、と考えるように成ったのである。
義定公は本拠地甲斐之國の「黒川金山」を始めとして、富士山西麓の「富士金山」や遠江之國の「北遠金山」、さらには越後之國の「糸魚川金山」等いずれの領地領国においても、運よく砂金・金山を発見し見出すことが出来た。結果的に見事に砂金採集や金山の開発を成功させているのである。
しかしこれだけ多方面にわたり、さらに十四・五年という短期間で、砂金・金山の開発が出来たことを考えると、甲州黒川金山の土着の人材だけではとても数量的にも間に合わなかっただろうと、そんな風にも考えるようになった。
五奉行がそうであった様に、金山衆に関しても甲州以外の諸國から人材を採用・登用し、スカウトしてきたのではなかったかと、私は考えるように成ったわけである。
今年の二月終り頃に、そのような仮説を建てて私は、甲州山梨県の郷土史研究家で安田義定公研究の仲間である、「西島」さんや「藤木」さん「久保田」さんに手紙やメールを出して、その私の仮説を書いて送っておいたのであった。
『 吾妻鏡 第十四巻 』建久五年(1194年)八月二十日の条
『全訳吾妻鏡2』307ページ(新人物往来社)
いはゆる
前瀧口 榎本重兼
前右馬允 宮道遠式
麻生平太胤國
柴藤三郎
武藤五郎
等なり。和田左衛門尉義盛このことを奉行すと云々。
甲州市塩山の安田義定研究家である藤木さんは、義定公の祖先が活躍した常陸之國がひょっとして関係しているかもしれない、とアドバイスしてきた。
藤木さんは甲斐源氏の祖である新羅三郎源義光(1045~1127年)が、刑部少輔を経て常陸之介として赴任した「常陸之國」が、奈良時代から砂金や金の産出地であったことにも、関係しているかもしれないと私に示唆してくれたのであった。
また義定公の生母が常陸源氏である佐竹氏の出身であった事や、「五奉行」の一人麻生平太胤國が常陸之國の古豪大掾(だいじょう)氏の一族であった事なども関係しているかもしれない、とそのように推察していたのであった。
もう一人の私の知恵袋である鎌倉時代の甲斐源氏の研究家である身延町の西島さんからは、ひとまずは奥州藤原氏からの人材登用があったのではなかったか?との指摘があった。これは一番最初西島さんと甲州金山博物館で出遭った時にも、出た話ではあったのだ。
即ち頼朝が鎌倉幕府の御家人達を総動員して、奥州藤原氏を攻めに行った時に、義定公は甲斐源氏の氏の長者として甲斐源氏の総大将のような位置づけで、奥州藤原氏に攻め入っていたのであった。
その際に滅ぼされた藤原氏配下の「陸奥之國金山衆」の中の、優秀で有能な人材をスカウトし、甲斐に連れて帰ったのではなかっただろうか、というのである。この話は今から三・四年前に初めて西島さんと出遭った時にも出た話題であった。
それに加えて、常陸之國でのかつての甲斐源氏の祖先の拠点であった「ひたちなか市の勝田地区」が関係しているかもしれない、とも教えてくれたのだ。藤木さんと同じであった。
義定公のご先祖である新羅三郎義光は、刑部少輔を経た後、常陸之介として常陸之國に赴任して、その後甲斐守として甲斐の國に赴任していたのであったが、嫡男源義業(よしなり)は、そのま常陸の久慈郡佐竹郷に留まり、常陸之國に定着していたのである。
それが佐竹氏と武田氏の先祖であったのである。即ち源義光の嫡子であり、佐竹氏の家祖でもある「源義業(よしなり)」と、弟の三男である武田家の家祖「源義清」である。
現在の常陸太田市の佐竹郷に定着したのが「常陸源氏佐竹氏」の先祖「源義業」であり、那珂川沿いの現在の「ひたちなか市武田郷」に定着したのが「甲斐源氏武田氏」の先祖「源義清」であった。
その「武田郷」に拠点を構えた新羅三郎の三男源義清とその一族は地元の古豪とのトラブルを経て、後に甲斐之國に流れて来てから「武田氏」を名乗ったのだ、と西島さんは教えてくれたのである。
現在も尚「ひたちなか市」の中心部であり、かつて平成の合併があるまでは「勝田市」と名乗ったその地域は、この「武田郷」と隣接する「勝倉郷」とで構成されていた事も、西島さんは教えてくれた。
更に興味深いことに武田郷には「金砂神社」という名の神社が在り、土地の産土(うぶすな)神とでも呼ばれる存在だったというのである。
またJR勝田駅から「ひたちなか海浜鉄道」で二つ目の駅の那珂川沿いの街は、「金上(かねあげ)」という名称だという。武田郷からほど近いこの金上地区もまた、「金砂神社」同様に砂金や金山開発に縁があるのかもしれない、と西島さんは私に示唆してくれたのであった。
そのような山梨の先輩たちの助言や情報を得た私は、常陸之國である茨城県のかつての甲斐源氏の拠点が在った「ひたちなか市」の事を、もう少ししっかりと調べてみたいと思い立ったのである。
そしてその際の切り口として
かつての常陸之介源義光の子孫であった「甲斐源氏の祖先の、常陸之國での事跡や痕跡」「常陸之國と金山衆との接点」
の二つを中心に、調べてみることにしたのであった。
そのような方向性と調査の切り口を得た私はいつものように広尾の都立中央図書館に行って、関連する図書を借りたり必要箇所のコピーを撮るなどのアクションを始めたのである。
その頃ちょうど世間では「新型コロナウィルス」の危険性が叫ばれ始め、全国の学校の一斉休校が始まり、北海道などでの都道府県を跨ぐ移動自粛が始まりだしたのであった。
更にはこの「新型コロナウィルス」は世界中でも日を追うごとに猛威を振るい始め、パンデミックとなり地球上の人類を巻き込んでいったのである。
そのようなこともあって、四月に入って政府は日本全国に緊急事態宣言を発する事態になり、不要不急の外出自粛を全国民に要請するまで発展した。
この全国民を巻き込んだ自粛騒動は、GWが終了して落ち着く五月一杯まで続いた。
この間私は図書館で得た書籍を中心とした情報を読み込み、不足分はインターネットなどで収集し補うことで、「甲斐源氏の祖先と常陸之國の関係」や「常陸之國における砂金・金山開発に関する情報」の概要を把握することが出来たのであった。
因みにそれらを整理すると以下の通りであった。
1.「甲斐源氏の祖先と常陸之國の関係」に関して
甲斐源氏の祖である「源義清」は、「新羅三郎義光」の三男で常陸源氏=佐竹氏の祖である「源義業(よしなり)」の弟にあたる。因みに次男の源実光は若くして亡くなっている、という事であった。
常陸源氏佐竹氏の家祖である「源義業」は、古くから北茨城の拠点地域であり、現在の「常陸太田市」の一角である「佐竹郷」に拠点を構え、常陸之國の北部及び北西部の「常陸奥七郡」と称されるエリアを主たる領地とした。
一方「源義業」の弟である「源義清」はそれより南方の「那珂川」の北岸、すなわち茨城中部の現在の「ひたちなか市」武田郷に拠点を構えた。
那珂川は茨城県北西部の山間地帯=奥久慈から東部太平洋に、左上から右下に向かって流れる大河で、常陸之國の北部と中部とを分断してきた河川であり、現在もなお分断している。
その那珂川の南岸は今では水戸市となっており、近世に至って水戸徳川家がここに拠点を構えた。
そのエリアは平安時代においては那珂郡といわれ、常陸之國の地方豪族の有力者「大掾(だいじょう)氏」の拠点であった。
従って武田氏の家祖「源義清」一族と、常陸之國の古豪「大掾氏」とは那珂川を挟んで、北と南とに拠点を構えていたことになる。すなわち那珂川を挟んで
北側の武田郷には、新興勢力である「源義光」の子孫たちが拠点を築き、
南側には古豪「大掾氏」が先祖伝来の土地に拠点を構えており、両者は対峙していたという構図が成立していたわけである。
何故このような構図が出来上がり、新羅三郎義光の嫡男「佐竹義業」が奥州藤原氏の領国である、当時の「陸奥之國」に近い場所に拠点を構え、三男の「武田義清」が常陸之國の古豪大掾氏の勢力圏の最前線に拠点を構えたのかは不明である。
そんな中で私の興味を引いた資料がある。『佐竹家譜』という佐竹氏の系図を作成している著書に書いてあった「新羅三郎義光」に関する以下の文言である。
「義光天性弓馬に達し、武略に長ず。
常に曰く、
将の要とする所ははかりごとを専らとす。はかりてをごらず、人これにをとしいるを上将と云うべし。
十たび戦て八九たび勝する将は中将なり。
山をきり、堀をふかふし、兵に気を増し、能まもるは下将なり。
此三将の外用ゆことなかれと。」
『佐竹家譜(上):30ページ』著者:原武男
と書かれている。
この文は「源義光」が常日頃口にしていた言葉である、という。『和論語』にそのことが書かれている、と著者は述べている。
もし新羅三郎源義光がここに書かれている通りの人物であったならば、単なる「弓馬」の達人であっただけでなく、そうとうの知略家であったようである。
その知略家の義光が嫡男の「義業」を北茨城や 奥久慈といったエリアへの結節点ともいうべき常陸太田の佐竹郷に配置したのは、地政学的にも理解することができる。
佐竹郷周辺が当時の常陸之國の那珂川以北を領地とするのに、「要」となるエリアであったからである。
そしてその知略家である「義光」は、三男の「義清」を常陸之國の中部や南部、すなわち那珂川以南を抑えていた古豪大掾氏の拠点がある「吉田郡」の最前線に配し、拠点を作らせたのである。
これはある意味、大壌氏に対してクサビを打つことに成ったであろう、と私には考えられた。
この時点ではここまでしか判らなかった。机上の資料や書物から得られた情報はここまでが限度であった。
ここから先はやはり常陸之國茨城に行って現地を見たり、地元の郷土史研究家に会って情報を得たり、当地の図書館などに赴いて関連する図書や資料を求めるしかないであろう、と私は考えた。
コロナ騒動で県を跨ぐ移動の自粛を求められていた時期には、ここまでが限界であった。
赤丸;武田氏館、青丸上:佐竹氏館、同下:大壌氏館
左上から右下の青線:那珂川
2.「常陸之國における砂金・金山開発に関する情報」に関して
次の課題である「砂金や金山に関する常陸之國の情報」であるが、金山衆の事を考えた場合このテーマが一番私には気になっていた。
因みに治承四年(1180年)の源平の合戦が始まり、「富士川の戦い」に於いて甲斐源氏が平維盛の軍を蹴散らした後、黄瀬川に本陣を構えていた頼朝の軍は、そのまま平家の軍勢を追って京都に攻め上がる、という選択肢を採用していない。
京都に攻め上がり平氏と雌雄を決しようとはやる総大将頼朝を、上総広常や千葉常胤らの宿老が説得し、鎌倉に戻り関東の足場を固めることを頼朝に促したからである。
その関東の足場を固めるに際し、宿老たちが頼朝に進言したのが北関東常陸之國の雄「常陸源氏佐竹氏」との合戦であった。
とりわけ利根川を挟んで隣接する下総や上総の豪族たちにとっては、死活問題でもあったのである。上総広常や千葉常胤らの進言の意図が理解できるのである。
その南関東の鎌倉に本拠を置いた頼朝を総大将にした源氏軍が、北関東の常陸源氏佐竹氏を攻め、合戦を行った山城の名が「金砂城」といったのであった。
私はこの「金砂城」という珍しい名前が印象に残っていたので、砂金や金山に繋がりそうな名前のこの場所について調べてみた。
具体的には
そして佐竹氏と頼朝軍の攻防が行われた「金砂城」は、現存する「西金砂神社」にかつて在った山城であることも判明した。
私はこの関係を知って、新羅三郎源義光の三男「武田義清」が、この砂金のにおいがプンプンする「ひたちなか市武田郷」に拠点を構えたのは、決して偶然の出来事ではない様に思えてきたのであった。
そのようなことを考えるようになっていた時期に、4月上旬に出されていたコロナ禍による全国一斉の活動自粛が、6月下旬にはついに解禁されることに成り、「県を跨ぐ移動自粛」が、はばかれなくなったのであった。私はこのタイミングで茨城県北部に行ってみることにした。
早速私は山梨のメンバーにも声を掛けた。
その結果今回は糖尿病の基礎疾患を患っていた西島さんは、コロナ禍を心配して参加を見送ることになり、藤木さんと久保田さんが参加することに成った。
参加を見送った西島さんが、新たに同じ山梨郷土史研究会のメンバーである上野さんを紹介してくれた。
上野さんは山梨の郷土史全般に詳しく『新鮮界の国風土記』なる書物を自費出版していた、というキャリアを持っていた。

6月の下旬、県を跨ぐ移動の自粛が解禁されてから、暫く都内の感染者の数が2・30人程度に落ち着き感染者数が安定的に推移していたころ合いを見計らって私達は、茨城県を訪れた。
山梨のメンバーとの待ち合わせ場所は、JR勝田駅東口のロータリーであった。
待ち合わせの時間は18時であったのだが、ちょうど夏至の頃という事もあって周囲はまだ十分明るかった。
日没までまだ優に1時間以上はあったであろう。
山梨のメンバーは久保田さんの運転するSUV車でやって来ていた。首都圏央道が開通していたこともあって、以前よりは時間が二時間は短縮されて来ることが出来たと、彼らは喜んでいた。
私が彼らに簡単に挨拶を済ませた後、私達はホテルに向かい、チェックインを済ませた。
19時にホテルのロビーで待ち合わせ合流した後、私達は勝田の街に繰り出して夕食をとることにした。
時節柄コロナ対策が十分とられている店を優先して選び、かつ客があまり密集していない店で、幅広いテーブルが用意されている店であることを確認してから店に入った。
居酒屋の奥まった一角の大きめのテーブル席に十分の間隔を確保してから着座して、幾つかの飲み物や食べ物を注文してから、皆で再会を祝し、ビールで乾杯をした。
一息ついたところで藤木さんが私に上野さんを改めて紹介してくれた。
「上野クンはね、昔の私の同僚で同じ高校の教師だったですよ」藤木さんが言った。
「私はご存じなように数学の教師だったですが、上野クンは日本史の先生でしてね当時から山梨の地方に残る、いわゆる郷土の歴史や文化、伝統芸能といった事を調べていたですよ。ね、上野クン・・」と藤木さんは続けた。
傍らで聞いてた上野さんはニコニコと肯いた。
「そうでしたか、因みにどちらでご一緒されたんですかお二人は・・」私がそう尋ねると藤木さんが応える前に、
「南巨摩の身延の高校でしたかね・・」と上野さんは横目で藤木さんを見ながら応えた。
「そうだったかね、あの頃私は30過ぎでおまん(あなた)は・・」と藤木さんが言い、
「20代の後半でしたね」と上野さんが応えた。
「確か早川入りの奈良田のこんをいろいろ調べてたジャンな・・」ニコニコしながら藤木さんが当時を思い出すように言った。
「そうでしたね、あの頃は毎週週末になると奈良田に、下宿のあった身延からバイクに乗って通ってたですよ」と上野さんが続いた。
「奈良田、というと確か平家の落人の集落だったとかいう・・」私がそういうと、二人は肯いた。
「それから、奈良田の他には芦安や一之瀬高橋なんかも行ったりしましたよ・・」上野さんがそう言うと、私は
「一之瀬高橋というと、黒川金山の在るあの一之瀬高橋ですか?確か黒川衆の本拠地というか集落でしたよね、あそこらへんは・・」と尋ねた。
私は久保田さんを見て
「懐かしいですね久保田さん。鶏冠(とさか)山の入口の落合ですか・・。確か鶏冠神社の里宮がありましたよね。あそこを更に入って行くんでしたか、一之瀬高橋は・・」
私は二年前に目の前の藤木さんや久保田さんに、今日は来ていない西島さんを加えた四人で黒川金山を尋ねた時のことを思い出した。
「その一之瀬高橋にはですね『春駒踊り』って云って、1月15日の小正月に行われる祭りがありましてね、私はそれを観に行ったりしたもんですよ・・」上野さんはそう言って、遠い昔を思い出すように言った。
「ご興味ありますか?」
「アはい、とっても。というのもですね、僕は越後之國糸魚川や遠江之國森町に伝わる、伝統的な祭りの神事である『糸魚川の舞楽』や『遠州森町の舞楽』が、安田義定公や家来の金山衆と繋がりのある神事で、義定公の鎮魂の舞楽ではなかったか、とそんな風に想ってましてね・・。
で、まぁ黒川衆の本拠地である一之瀬高橋ですし、『春駒踊り』ですからね・・。やはり気になるんですよ・・」と私は応えた。
「と言いますと・・」上野さんは呟くようにそう聞いて来た。
「ええ、春駒という事は、馬が絡んでくる祭なわけですよね。で、義定公ですから騎馬武者の軍馬との関連が想起されるんです。
それに黒川は義定公の本貫地牧之荘の一部ですしね。その黒川衆の拠点である一之瀬高橋で、『春駒踊り』と云って馬にまつわるお祭りをしてるわけですよね、しかも金山衆の末裔たちが・・。そのあたりがやっぱり引っかかるわけです・・」私は応えた。
「それは馬が絡んできている祭りだから、ですかね・・」上野さんは私の思いを確かめるように見てから、そう言った。
「まぁそんな感じですかね・・。私の記憶では一之瀬高橋は山の中の集落でしたよね。ですから馬の畜産はあったかもしれませんが、馬を育成したり調練するようなスペースは殆ど無かったんではないかと、まぁそんな風に思ってるんですよね。
そういう山間の集落に何故春駒踊りといった芸能が生まれ育って、伝統芸能として継承されてきたのか、やっぱり気になるわけです・・」私がそう言うと上野さんは、
「確かに立花さんが言われるように、一之瀬高橋での馬の放牧などは難しかったのかもしれませんね・・。平たんな場所というのは殆ど期待できませんからね。
しかしながらですね先ほど立花さんが言われたような、越後の糸魚川や遠州森町の舞楽が持っていたという、義定公の鎮魂に繋がるといったような暗い祭りではないですよ。
一之瀬高橋の『春駒踊り』は鎮魂の祭といった『暗めの祭』というよりも、むしろ春の訪れを期待するというか待ち望む、『初春を寿(ことほ)ぐ』といった感じの、明るくて賑やかな祭りなんですよ・・」上野さんはそう言って私を見た。
「ちょっと待ってろし・・」久保田さんがそう言ってタブレット端末をバッグから取り出し操作し始めた。
上野さんはそんな久保田さんを横目で見ながら、
「衣装なんかも、赤やピンク、オレンジといった暖色系の色合いですし、牡丹や芍薬だったと思いますが明るい色の大きな花柄が衣装には織り込まれてましてね・・」と言った。
「なるほどそうなんですか・・。因みにその衣装に家紋は付いてましたか?」私が尋ねると上野さんは一瞬考え込んだ。思い出している様だった。
「コレね5・6年前に撮られたYoutubeだけんが、コレ見て見るかい?2分足らずの動画だよ・・」久保田さんはそう言って、テーブルの端にタブレットを私達に見えるように置いた。
私達はしばらくその動画を目で追った。

確かにその動画では、賑やかな笛や鉦・太鼓といったお囃子や歌声につられて5・60代と思われる中高年の男達が、派手で明るめな衣装を身に着けて踊っていた。
棒を振り回した踊り手のリズムに合わせて、玩具の様な馬を体に付けて派手な衣装や花笠で身を固めた男達が、まるで掛け合い万才でもするかのように、お互いが鈴のリズムに合わせて踊っているのであった。
彼らが身に着けている衣装は、上野さんが言うように暖色系の派手な金襴緞子の衣装であり、糸魚川や遠州森町の荘厳な鎮魂を思わせる舞楽とは、明らかに異なる系統の踊りであった。
そしてその衣装では、糸魚川では確認できた花菱紋といった義定公に繋がりそうな、家紋らしきものを見つけることは出来なかった。
家紋の代わりに、牡丹や芍薬の様な大きな花柄が沢山織られており、いかにも賑やかな祭りに相応しい衣装であった。
そしてその衣装は、春の到来を待ち望む山里の人々の想いが反映されていると、そう思うに相応しいものであった。確かに上野さんの言う通りであった。
「でもあれじゃんね、このお囃子や棒振り子の踊る様(さま)は何となくだけんが、祇園祭の例の『綾傘鉾の巡行』を想い起させるじゃんね。同じ金山衆の祭だし・・」と久保田さんがニコニコしながら、そう言った。
「まぁ京都の祇園祭みてぇに、洗練されてはインけんがね・・」久保田さんは言い訳するようにそう付け加えた。
確かにそう言われてみれば、京都の祇園祭の「綾傘鉾巡行」を想起させる踊りではあった。ドンピシャというわけではもちろんないのだが、笛や鉦・太鼓で賑やかに囃子たてながら、そのリズムに乗って棒振り子が「春駒踊り」を主導する様は、「綾傘鉾」を彷彿させた。
両者の間には「都(みや)美な味わい」と「鄙(ひな)美た味わい」との違いが、歴然とあったのではあるが、賑やかなお囃子をバックに踊る棒振り子の振る舞いが、そう連想させたのかもしれない。
「そうですね、久保田さんが言われる通りかもしれませんね・・。この関係を改めて僕もじっくりと考えてみたいと思います・・」私はそう言って、一之瀬高橋の「春駒踊り」と京都祇園祭の「綾傘鉾巡行」との関係について考えてみたいと思った。
それに何よりも両者は同じ金山衆に繋がる祭でもあったのである。
私がそのようなことを考えていると、居酒屋のスタッフがマスク姿で大皿に魚介類を乗せて運んできた。
ひたちなか市はこの勝田駅から10㎞足らず下った処に「那珂湊」という漁港を有しており、太平洋の海の幸が容易に手に入る地域であった。
その大皿料理を前にして山梨のメンバーは嬉しそうに相好を崩した。
店のスタッフの助言に従って、大皿の魚介類を手早く各人は小皿に移し取った。これもコロナ禍の影響である。
メインディッシュの海鮮料理をほうばって一息ついたところで、上野さんが口を開いた。
「立花さんは黒川衆にご興味をお持ちなんですって?」
「はいそうですおっしゃる通りです。最近ますますその想いが強くなってきました。
実は私、去年安田義定公と遠州の秋葉山本宮神社の事をいろいろ調べに、遠州春野町に行ってきたんですがね。その時にいろいろあって、改めてそのことを自覚した次第でして・・。
因みに春野町は例の森町のもう一つ山奥の、南アルプス側の山狭の里なんですがね、あそこに行った時に金山衆の存在の大きさを改めて痛感しましてね・・」私は久保田さんや藤木さんをチラリと見ながらそう言って、話を続けた。
「その遠州春野町は、今は浜松市の天竜区に組み込まれてますが、それまでは森町と同じ周智郡で森町とは間に春埜山を挟んでるんですが繋がりが強く、コインの表と裏の様な関係だったエリアなんですよ。
因みに春野町は武田信玄の時代には、浜松の家康に敵対し信玄公に与(くみ)した天野氏の拠点が在った場所でもあったんですよ。春野町、当時は犬居郷と言ってたらしいんですがね」私がそう話し始めると三人は箸を休めて私の話に耳を傾けた。
「その犬居郷には幾つもの牧き場とともに、金山神社や南宮神社があちこちに点在してましてね、幾つかの場所で金山衆の活躍した痕跡を確認する事が出来たんですよ。どうやら春野町では砂金が多く採れたようですね。
それに見事で美しい石垣や石組みも幾つか確認できましてね、私は森町以上に春野町は金山衆の遠州の活動拠点だったのではなかったかと、今ではそう思うようになってます」私がそう言うと、藤木さんが、
「この前送ってもらった資料にもありましたね、確か立花さんが言ってた『春野町の牧き場街道』の民家の、見事な船の舳先(へさき)を思わせる、お城の櫓の様な石垣・・」と思い出したようにそう言った。
私は大きく肯いて、
「春野町大時の民家の石垣ですね。それに秋葉山本宮上社本殿の石垣もそうですし、犬居郷の背後の山を越えて奥に入った『勝坂井出野』の見事な石組みも、そうですね。
「確かあのレポートには『井出野』の地名が富士山西麓の井出氏に絡んでいるのではないか、とも書かれてましたね・・」藤木さんが続けた。
「そうなんですよ、その通りです。と申しますのも『井出野』という地名なんですが、あそこは気田川の急流によって山が削られて出来たような処で、とても『野』と呼ばれるような場所ではないんですよ、狭すぎて・・」私は山狭の、昼なお暗い勝坂「井出野」の事を思い出しながら、そう言った。
「立花さんはほういった石垣や石組みを見て、金山衆のにおいを嗅ぎつけた、ってわけだね・・」久保田さんがニヤニヤしながら私にそう言った。私もニヤニヤしながら
「おっしゃる通りです。僕にはプンプン匂ってきましたよ。アハハ・・」と応えた。
「ところでね立花さん、上野クンは金山衆についてちょっと面白い考えを持ってるようでね、今日も車の中でも話してただけんが・・」藤木さんがそう言ってチラリと上野さんを見てから、私を見た。
私が目で話の先を促すと、藤木さんは上野さんが自分で話すことを求め、手のひらを挙げて上野さんが自ら話すように促すゼスチャーをした。
「アはい、では私の口から申し上げます」上野さんはそう断りを入れてから、私を見て話し始めた。
「という事は甲府盆地は、長野の諏訪湖と同じように四囲を山に囲まれた湖だった、という事ですか・・」と私が言うと、
「まぁ、そう云う事ですね。甲斐湖というか山梨湖というか判りませんが、そんな感じだったと思います。遥か古代は、ですね・・」上野さんが続けた。

釈迦堂遺跡出土品
「立花さん、それは殆ど間違いない事でしてね。甲府盆地を囲む小高い丘からは、たくさんの貝塚が発見されてるんですよ。それから中央高速道の勝沼ICと一之宮御坂ICの間に『釈迦堂遺跡博物館』が在るんですが、立花さん行ったことありましたか?」藤木さん私に聞いて来た。
「えぇ行きましたよ、勝沼ICのちょっと先でしたよね。確か縄文時代の立派な土器や土偶が沢山展示して在ったような・・」私がそう応えると、藤木さんは
「そうですその博物館です。覚えてられるか判りませんがあの博物館には、かつての甲府盆地の事や貝塚がたくさん見つかっている事などが、詳しく展示されていたと思いますよ・・」と私の記憶を呼び覚ますように、教えてくれた。
「その土木技術を継承し受け継いできた技術者・技能者の集団の末裔が、金山開発に向かった時、黒川衆や甲州金山衆に成っていったんじゃないかと、私はそういう仮説を立てているところです」上野さんは嬉しそうにそう言って、ビールを飲んだ。
「確かにあれじゃんね、ほう云った湖の頃の歴史があったから甲州は、『甲斐之國』って言われたずらかね。山国であるのにも関わらず貝が沢山採れたことが珍しくて、貝之國=甲斐之國っていうように・・」久保田さんが誰に言うとでもなく、自らのインスピレーションを確かめるようにそう呟いた。
「そっかぁ、そういう事だったんだぁ・・。黒川衆や金山衆のルーツってそのあたりにまで遡るんですかぁ・・」久保田さんのインスピレーションもあって、私は上野さんの仮説が甲州金山衆の由来にまで繋がっていくことを、無理なく思えるようになった。
「まだ仮説のレベルですけどね・・」上野さんはその点を強調して言ったが、私たちから異議を唱えられる事もなく受け入れられたことに、満更でもないといった風であった。
私は大きく肯いて、
「先日のレポートというかメールでも書いた通りでして、藤木さんや西島さんから頂いたアドバイスを基に、僕なりに考えてみたんですよ、これでも・・。
五奉行の一人麻生平太胤國が常陸之國行方(なめかた)郡の出身だったらしい事や、義定公の生母が佐竹氏から出ている事とか、藤木さんに教えていただいた事が私の考えにとても参考になりましてね。
改めてここでお礼を申し上げます、今回もまたお世話になりました。ありがとうございます・・」私はそう言って藤木さんに頭を下げ、ビールを注いだ。
「そうでしたか、それは良かった。義定公の生母は常陸源氏佐竹氏の家祖である源義業=佐竹義業(よしなり)の娘でしたからね・・」
「佐竹義業の娘という事は義定公の父清光とはどういう関係になるんですか?」私が尋ねると藤木さんは、
「清光の父が義清で、義業とは兄弟だったから従兄妹同士ということに成りますね・・」とすらすらと応えた。
「ほうなると結構濃い関係じゃんね、従兄妹同士だとすると・・」久保田さんがそう言った。私もそう感じて、
「当時ではそんなに濃い関係で婚姻関係を結んでも大丈夫だったんですかね・・。そのぉ血が濃すぎると遺伝子上のトラブルが・・」と懸念を示したが、藤木さんは
「どうなんでしょうかね・・。その辺は何とも言えませんが、私が入手した義定公の末裔に伝わる家伝書などには、そうハッキリと書かれてましたよ」と自説の根拠を示し、そう説明した。
「いずれにせよ義定公はご生母の口からなのか、随伴してきた佐竹氏の女御や家来衆からなのかは判りませんが、常陸之國で行われていた砂金や金山開発についての話や情報は、幼少の頃から聴かされていただろうと想定できますし、そちらのルートを辿って人材を確保したことも、十分考えられますよね・・」
私は義定公生母のルートが、常陸之國の金山衆との関係であろうと推測して、そう言った。
「あのメールにも書かれてましたが、やはり五奉行のメンバーが甲斐之國にとどまらず、全国から登用された事が立花さんのインスピレーションを刺激したって、わけですかね・・」藤木さんは私を見て、確認するようにそう言った。
「はい、その通りです。やはり義定公のように十五・六年という短期間に一介の郷主からスタートして、遠江之國や越後之國、更には富士山西麓の『甲斐之國いはら郡』まで、領地や領国が拡大してくると、それらをつつがなく統治し続けるためには、広範囲に拡がる国々の統治を可能にし得る、有能で優秀な人材が不可欠だったと、私はそう思ってます」私は自信を以ってそう言い切った。
「で、それが五奉行であったと・・」藤木さんが確認するように、呟いた。
「おっしゃる通りです」私は即答した。
「で、それと同様の事が砂金や金山開発でもあったんじゃないかと、そう考えたわけですね・・」藤木さんは私の心の中を確かめるような目で見て、そう言った。
「はい、その通りです。本貫地である甲州の黒川金山は基より、富士金山・遠州春野の金山・糸魚川金山といったように広範囲にわたって、義定公は金山開発や砂金の採集を行ってますでしょ。
しかも義定公は遠州でも越後でもそうでしたが、金山の開発だけじゃなく、新田開発や大規模な灌漑土木工事までやっているんですからね・・。それだって金山衆が持つ技術やノウハウが当然反映されてると思ってます」
私はこれまで見てきた「越後之國上越地区」や「遠江之國山梨地区」のことを思い出しながらそう言った。
「まぁ、そういう事です。だから金山衆に繋がる金山開発や灌漑土木、石垣や石組みといった分野のスペシャリストを、甲州に限らず諸国にまで幅広く求めてきたんじゃなかったかと、そう考えるようになったんです。
「五奉行の事が頭にあって、ですかね?」藤木さんが言った。
「おっしゃる通りです。五奉行の時と同様に、と言ってもよいかもしれません。人材を広く天下に求めた、と。極端に言えば全国に広げたと言っても良いかもしれません」私が更に続いた。
「ほの中にここ常陸之國も入ってた、っちゅうわけだね・・」久保田さんが言った。
「義定公の生母が佐竹氏であった事や、五奉行でもある麻生平太が常陸之國の出身者ですからね、まぁ常陸之國も当然あるかなと、狙いを定めたわけです」私はそう説明した。
「そして多分ですが、奥州藤原氏を頼朝軍の一翼として攻め滅ぼした時には、義定公は奥州の金山衆も連れて帰ったんじゃなかったか、とですね。そうも考えています。
これは西島さんとも話し合った事ですけどね・・」私はニヤリとして、そう付け加えた。
それから私は持参してきた資料をバッグから取り出して、
「これはですね、西島さんからもらったヒントを基に私が調べた、常陸之國の金山衆に関連しそうな神社の所在なんですがね・・」そう話しながら、私は皆に配った。
私は北茨城の地図の上に赤丸や青丸を配した、A3のカラーコピーの自家製地図の説明を始めた。
で、下方の那珂川の北岸に在る青丸が、かつて武田氏のご先祖源義清一族の拠点が在った『武田郷』です。

しばらくの沈黙の後、上野さんが口火を切った。
「常陸之國の金山や砂金に関する神社はこれで全て、ということに成るんでしょうか?」と私に聞いて来た。
「あれは、奥州平泉の方じゃなかっただけぇ・・」と呟くように疑問を呈した。
「あ、そっちは八溝山の砂金より100年近く前の事で、百済王敬福が献上した奈良の大仏を塗金する時に用いた砂金の方ですね。
例の『田子の浦の砂金』と同年代のですよね。あっちは宮城県北部ですね。確かに割と平泉に近いと云えなくもないですね・・」と私は言って久保田さんの疑問に応えた。
それから私は手元の手帳を取り出して、
「大子町の八溝山は地図を見てもお判りなように、この辺りでは最も高い山でして、北側は福島県の白河市に接してますし、西側は栃木県の那須地方に接している、国境というか県境となっている山ですね。
ここでは砂金がその後も暫く採れ続けたようで、八溝山周辺で採れた砂金が遣唐使を派遣する際の資金に成った、という謂われを持ってますね。
『續日本後紀』の承和三年正月二十五日の条に、沢山の砂金の朝廷への献上により褒賞が与えられたと、書かれてるようです」と私はメモ読みながら説明した。
「承和三年というと・・」藤木さんがそう呟いたので、私がメモを見ようとしたら久保田さんが、
「西暦だと836年だね・・」と素早く教えてくれた。タブレット端末を操作して確認したようだ。
「という事は平安京に都が移ったのが確か794年ですから、平安遷都からざっと40年後の事ですね、その八溝山の砂金の話は・・」上野さんはそう言って、自分の頭の中の日本史年表をUp-to-dateしたようだった。
「という事は義定公が活躍した時代を遡る事およそ350年前、ということに成りそうですね・・」藤木さんも自分の頭の中の年表を、いま更新したようだった。
私は各人が各様に自分の頭の中に作っている年表が在ることに気が付いて、一人ニヤリとしてビールを飲んだ。
上野さんが私に向かって、
それともう一つの神社ってのは何と云うんですか?先ほど二つの神社と言われてましたが・・」と聞いて来た。その質問に私は我に返って、
「あ、そうでしたね、言うの忘れましたスミマセン。八溝山の山頂にある神社らしいんですが、『八溝嶺神社』という名の神社だそうです。それともう一つの神社でしたね・・。
「そうすると義定公が甲斐之國を初め遠江や越後で、金山開発を積極的に始めるまでの350年の間も、常陸之國の八溝山周辺では細々とでも砂金採取や金山開発が行われていた、ということに成るわけですね・・」藤木さんが確認するようにそう言った。
「ほんなに長い間砂金が採れ続けたずらか、350年って言えばえらい長いじゃんね。江戸時代より100年近くも長いコンになるずら・・」久保田さんがそう言った。
「そうですね、でもまぁたぶんその場所は一ケ所ではなかったと思いますよ。ご存知なように砂金は同じ場所でそんなに長く採れ続けるほど堆積してることは、あり得ませんから。同じ場所だと長くてもせいぜい10年単位でしょう。
「いずれにしても常陸之國では、九世紀から連綿と金山の開発や砂金を採取する金山衆が活躍し続けていた、その可能性はあるわけだね。
で立花さんは、その常陸の金山衆が持っていたノウハウや経験・知識そして何よりも人材を義定公は活用したんじゃないかって、そう考えているってこんですね・・」藤木さんがこれまでの議論を整理しまとめるように、そう言った。
私は藤木さんに向かって肯いて、
「明日っからの奥久慈行きは、ほの金砂神社や八溝山周辺の神社とか、砂金の採取が行われたと思われる処が中心ってコンだね・・」久保田さんがニコニコと嬉しそうにそう言った。私は頷きながら、
「こんなにいっぺぇ廻れるずらか?」久保田さんがちょっと心配そうに言った。
勝田の夜の飲食街は、コロナ禍の影響もあってかそんなに多くの人たちが繰り出ていたわけではなかったが、店々の中からは人々の声が漏れ聞こえていた。
空はどんよりとした雲に覆われていて月を見ることはできなかった。
7月上旬はまだ梅雨のさなかであった。
『 續日本後紀 巻第五 』 承和三年(836年)正月二十五日の条
『新訂増補 續日本後紀』48ページ(吉川弘文館)
詔奉宛陸奥の國白河郡従五位下勲十等八溝黄金神封戸二烟。
以應國司之禱。令探得砂金。其數倍常能助遣唐之資也。
註:「宛」の字は「ウ冠」ではなく「ナベ蓋」が正しい。
上記のように、「八溝山」での献上砂金として従来の数倍の量が朝廷に献上された事に依って、遣唐使の資金が調達できた事の功労として、八溝山は「八溝黄金神」として位階を授けられ、神社に仕える家を二軒分授けられている。



「義光天性弓馬に達し、武略に長ず。
常に曰く、
将の要とする所ははかりごとを専らとす。はかりてをごらず、人これにをとしいるを上将と云うべし。
十たび戦て八九たび勝する将は中将なり。
山をきり、堀をふかふし、兵に気を増し、能まもるは下将なり。
此三将の外用ゆことなかれと。」
『佐竹家譜(上):30ページ』著者:原武男


| 源義光 | 源義業(よしなり) | 源義清 | 源清光 |
源義光との関係 | 太祖、本人 | 義光嫡男、佐竹氏家祖 | 義光三男、武田家家祖 | 義光孫、武田家祖先 |
生年 | 1045年 | 1067年 | 1075年 | 1110年 |
没年:享年 | 1127年:82歳 | 1133年:67歳 | 1149年:75歳 | 1168年:59歳 |
武田郷追放時:1031年の年齢 | 死後4年後 | 65歳 嫡子昌義:50歳 | 56歳 | 21歳 |

![]() 〒089-2100 北海道十勝 , 大樹町 ![]() ] ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() |