春丘牛歩の世界
 
先週から、「行者ニンニク」が採れる様に成り、我が家の食卓にも乗るようになった。
行者ニンニクが採れる様に成ると、今年の春がやって来た事を実感する。
これまでの私の経験では「行者ニンニク」が生えてきてから、雪が降ったことは無いから、である。
 
 
      
 
 
野生の昆虫や動物たちが作る巣の位置で、颱風の影響を早い時期に推測できることがあるが、自然界の生き物たちは彼らなりのセンサーで、天候や自然現象を察知する能力がある。
そんな事から私は、「行者ニンニク」が我が家の林に生え始めることを、季節の到来のメルクマール(指標)にしているのである。
 
 
 
    記事等の更新情報 】
*4月19日 :「コラム2024」に、「青い春」と「チャレンジ虫」を追加しました。
*3月25日:「相撲というスポーツ」に「新星たちの登場、2024年春場所」を公開しました。
*2月8日:「サッカー日本代表森保JAPAN」に「再びの『さらば森保!』今度こそ『アディオス⁉』を追加しました。
*01月01日:本日『無位の真人、或いは北大路魯山人』に「無位の真人」僧良寛、或いは・・を公開しました。
これにて本物語は完結しました。
12月13日:  『生きている言葉』に過ぎたるはなお、及ばざるが如し」を追加しました。
 
 

  南十勝   聴囀楼 住人

          
               
                                                                  

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2024年5月16日から、当該サイトは従来の公開方法を改め、新しい会員制サイトとしてスタートいたします。
 
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          2024.05.01
              牛歩
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
   
      

                       2018年5月半ば~24年4月末まで6年間の総括
 
   2018年5月15日のHP開設以来の累計は160,460人、355,186Pと成っています。
  ざっくり16万人、36万Pの閲覧者がこの約6年間の利用者&閲覧ページ数となりました。
                       ⇓
  この6年間の成果については、スタート時から比べ予想以上で満足しています。
  そしてこの成果を区切りとして、今後は新しいチャレンジを行う事としました。
     1.既存HPの公開範囲縮小
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  新システムの公開は月内をめどに現在構築中です。
  新システムの構築が済みましたら、改めてお知らせしますのでご興味のある方は、宜しく
  お願いします。
             では、そう言うことで・・。皆さまごきげんよう‼    5月1日
                                
                                   
                                      春丘 牛歩
 
 
 

 
              5月16日以降スタートする本HPのシステム:新システム について     2024/05/06
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 奥久慈金沙郷の「金山(かなやま)」である西金沙神社の視察を終えた私達は、今日の宿である袋田温泉にと向かう事にした。途中有名な観光地である「袋田の滝」にも寄る予定だ。
袋田温泉の宿では、高萩さんや小和田さんの仲間である茨城県の郷土史研究家が更に合流する予定であった。
奥久慈の砂金/金山開発に造詣の深いその郷土史研究家は滝本さんといい、現役の金堀り師の友人も一緒だという。。
温泉宿での情報交換を通じ、常陸の國の金山開発と越後の國の金山開発師(山師)との間に接点があり、人的交流があったらしいという事が判明した。白山神社やチタンを含有する鏨(タガネ)がそれに関係してくる、という。
更に奥久慈の金山開発は、古代より砂金採取や金山開発が行われたとされる大子町の八溝山や、隣接する栃木県の旧馬頭町の情報も含まれていた。
 
 
                   【 目  次  】
      
            ①大子町「袋田の滝」
            ②奥久慈の金堀り師と越後金山衆
            ③安田義定と諸国金山衆
            ④越後金山衆と白山神社
            ⑤金山彦命と十一面観音
            ⑥八溝山周辺の金鉱跡
            ⑦旧馬頭町、健武神社
             - エピローグ ー
       
          
           
 
 
 

 大子町「袋田の滝」

 
西金沙神社前の駐車場で、「西金沙神社と佐竹氏の関係」や、頼朝との「金沙合戦」の話を聞いて私達は、この西金沙神社は奥久慈金砂郷において、重要な金山(かなやま)であったことを改めて確認することが出来た。
 
そしてそうであったからこそこの地に対して、「金沙神社」や「金砂郷」の呼称が誕生したのだろうと、そのように理解したのであった。
 
またこの「西金沙神社」と、ここより北北東に鎮座する「東金沙神社」の関係が、佐竹氏と頼朝の鎌倉幕府との関係を識る事によって、両神社の歴史的な位置付けや役割を知ることも出来た。
 
その結果ここから離れた「東金沙神社」は、鎌倉幕府との関係によって誕生した神社であって、奥久慈の砂金や金山開発にとって必ずしも重要な存在ではない事に、気付いてしま
った。
 
 
その様な情報交換を済ませた上で、私達は改めてこの西金沙神社の奥宮である白山神社を訪ねる事にした。
 
奥宮は目の前の社務所の在る山の最も高い場所に位置し、なおかつ奥宮の背後に在る断崖絶壁の、その真下の大池はかつて砂金が採れた場所であり、その大池を源流とする浅川の下流域では、かつて幾つもの砂金が採れた場所でもあった。
即ちここに来るまでに辿って来た「金沙神社街道」が、それである。
 
従って西金沙神社を祀った古代の常陸之國北部の人々にとっては、この奥宮こそが「金沙」の象徴であり、「金の神様そのもの」なのであった。
 
ちょうど甲斐之國の黒川衆にとって、鶏冠(とさか)山の奥宮が神聖な場所であったように、常陸之國の金山衆にとっては、この奥宮が最も神聖な場所であったに違いなかっただろうと、私達は話し合った。
 
その様な共通の認識を持ったうえで私達は、その奥宮=白山神社に向かう事にした。
 
 
駐車場から私達は、山頂に在る「西金沙神社の奥宮」を目指して、けっこう勾配のキツイ参道を登って行った。
 
その参道を上った中腹には「拝殿」が在ったのであるが、その場所より先は大きな岩が坂道に沿ってゴロゴロと在る岩山で、歩くのには難儀をしたのであった。
それでも甲州の鶏冠山の奥宮に至る山道に比べたら、はるかに楽であった。
 
向こうは参道の終盤に至っては巨岩を四つン這いに成って、這い上るように登って行くのであったが、こちらは普通に二本足で登って行けた分まだマシだったのである。
 
私達が坂を登りながらそういった話をすると高萩さん達は、
「茨城でいえば筑波山の様なものかもしれないですね・・」と言って、自分たちなりの方法で鶏冠山の事を理解したようだ。
 
二つの山の登山を経験している久保田さんが、
「確かにほうかもしれん・・」と肯き、一人納得していた。
 
 
 
               
                  西金沙神社奥宮
 
 
岩山の上に在る「奥宮」である白山神社に挨拶を済ませた後、私たちは眼下に広がる関東平野を見下ろした。
そして断崖絶壁の下方の金砂「浅川」の源泉でもある「大池」についても確認を済ませてから、私達は石ころだらけの山頂を下ることにした。
 
中腹の拝殿に戻ってからは、上って来た時とは別のルート、即ち車でも通ることが出来そうな幅広な、簡易舗装がなされている参道を下ることにした。
 
 
途中で、小和田さんが石碑の裏手の奥、灌木の繁る林を指して、
「この奥を入った先に、かつて佐竹氏時代の頃と思われる金鉱跡が、何ヶ所か残っているんですけど、どうされますか・・」と聞いてきた。
 
「どんな感じなんですかその金鉱跡は・・」私が尋ねた。
「そうですね、細長い堀溝が数百mほど在って、そのずっと先にちょっとした穴堀というか、ほぼ垂直に掘られている金鉱跡が在ります。そこがピークですかね・・」小和田さんが応えた。
 
「見といた方がいいですか?」私が更に聞くと、
「どうせなら更に入った先の、奥の金鉱跡群も見た方がいいでしょうから、往復で小一時間は掛かるかと・・」小和田さんはそう言って、見るんだったら本腰を入れて時間をかけた方が良いのではないかと、そう言った。
 
 
「次回にした方が良かねぇかい、立花さん!」久保田さんが、小和田さんのアドバイスを理解した上でそう言った。
「そうですね、小一時間だと袋田の滝に間に合わないかも、ですかね・・」私が言った。
 
「明日の八溝山の視察にも、影響するかもしれんジャンけ・・」久保田さんはそう言った。
「八溝山の麓に、もっと判り易くて見易い金鉱跡が在りますよ・・」高萩さんがそう言った。結局その情報が決定打になって、今回はパスすることにした。
 
私達はそのまま舗装された参道を駐車場に向かって、下って行った。
 
 
駐車場に戻るとこれからの立ち寄り先について、再度高萩さんたちと協議した結果「東金沙神社」はパスして、直接「袋田の滝」に向かうことにした。「東金沙神社」が頼朝の鎌倉幕府の政治的思惑で造られた神社である事を知ったからであった。
 
またすでに16時を回っていたこともあり、17時までに「袋田の滝」に着くことを、私達は選んだのだ。18時で入場出来なくなる事を、危惧したのだった。
 
「袋田の滝」には、ここまでやって来た道を戻って向かう事にした。
 
 
西金沙神社からはつづら折りの道を下り、先ほどの金山彦を祀った祠の在る浅川に掛かる橋を渡って、道なりに来た道をずっと下って行ったのであった。
 
そして温浴施設の在るT字路を右折して、県道29号線を大子町の方面に向かって北上して行った。
 
 
しばらく道なりに県道を行って、久慈川を越えた先で、国道118号線との交差点を久慈川に並行して溯るように、大子町の袋田地区を目指して行った。
 
その国道との交差点は常陸大宮市の山方町と言って、永田茂衛門父子の造った三つ在る堰堤の、最上部のさらに上流に当たる場所であった。
 
そのまま国道118号線を北上して、10分ちょっとで私達は袋田の交差点に着いた。
 
 
その交差点を右折するとすぐに「袋田温泉郷」の案内看板が目に入った。
更に道なりに進むと「袋田の滝」の案内が目につくように成った。
 
その案内板に沿う形で幹線道路を左折する高萩さん達の先導車について行って、私達は「袋田の滝」の在る郷にと入って行った。
 
 
周辺に有料の駐車場の、客を呼ぶ看板がだいぶ目についた。
私達はそのまま前導車について行った。
 
やがて高萩さん達の車がウィンカーを点滅しながら左折して、駐車場に入って行った。
私達もそれに倣い左折し、高萩さんの車近くに停めた。
 
夕方の5時に近いこともあってか、駐車場は半分以下の利用状況だったため、容易に車を停めることが出来た。
 
 
車を降りた私達は高萩さんとこれからの事をザッと打ち合わせしてそのまま、「袋田の滝」にと向かった。
 
「袋田の滝」は観光地としてかなり整備されており、観光インフラが整っていたのである。観光スポットとしての評価がある程度定まっていたから、行政も力を入れているのであろうと、私は感じた。
 
 
コンクリのスロープをそのまま登って行くと入場券の販売所があり、そのまま私達は連れだって中に入って行った。
 
幅が広くライトアップも十分施されていた明るい坂道をゆっくりと上がる事に成る、バリアフリー対策がしっかり出来ていた、歩き易いトンネルの中をしばらく歩いて行くと、滝の流れる音が聞こえてきた。
 
そのまま更に進んで行くと、その音の源であると思われる滝を見るための、ちょっとした脇道があって、観光スポットに成っていた。私達はそこにも立ち寄り、滝の流れを観てその瀑布の様を堪能した。
 
トンネルの脇にはその様な滝観のビューポイントが何ヶ所か在り、トンネルの坂道を上がる途中で幾つかの異なる種類の、滝の流れを観光することも出来た。
 
中でも滝からの流れに掛かる吊り橋へのアプローチは、吊り橋を介して滝の流れを下方から見上げることが出来て、得難い経験が出来かつ中々の景観であった。
 
 
元のトンネルに戻って、更に道なりに上って行くとそこは突き当たりで、かなりの人数でも溜まることが可能なスペースが在った。
 
その場所自体見どころのある滝観ポイントであったのだが、そこは「不動明王」を祀る神聖なスペースであると共に、展望台に続く二基のエレベーターが在り、そのEVを利用する人達のための溜り場にも成っているようだ。
高萩さん達の話ではその「不動明王」はこの滝の奥に在る修験道のお寺のご本尊を模した像であるという事であった。
 
EVの前では係員が誘導して、そのEVに乗る人達と降りてくる人達とを、コントロールしていた。
 
 
私達は高萩さん達の後をついてそのEVに乗り、さらに上部に在る「展望台」に向かって上がって行った。
 
「展望台」は滝の下に向かって、ウッドデッキが突き出た展望台で、真正面に「四段の滝が落ちる様」を見ることが出来た。
 
その四段の滝は、まれにしか見ることのできない得難い景色であった。
 
さすがに日本を代表する見応えのある「名瀑」と言われるだけのことはあった。
高萩さん達が自慢するだけの価値はあったのだ。
 
 
秋の紅葉や冬の水の流れが凍り付いた景色、更には桜に覆われた姿も美しい、と彼らは目の前の夏のこの滝の景色が、四季折々異なった味わいのある景色を愉しめることを、嬉しそうに語っていた。
高萩さんも小和田さんもこの滝に何度も足を運んで、異なる季節の姿を堪能してきたんだろうな、と私はそんな風に想った。
 
確かにこの風景に桜の色や紅葉、氷が連なる様はさぞや絶景となるだろうと、私達も想像力を働かせ、納得することが出来た。
 
 
しばらく「袋田の滝」の絶景を満喫した後で、来た道を戻るために私達はEVで降り、不動明王を祀っていた溜り場からライトアップされたトンネルを下って、駐車場にと戻って行ったのである。
 
そうして駐車場を出て、袋田の郷の入り口周辺に在る、今日の宿である「袋田温泉街」の一画の温泉宿にと向かう事にした。
 
 
 
 
 
                                      
                紅葉に彩られた袋田の滝
 
 
 
 
 
 
 
 
 

 奥久慈の金堀り師と越後金山衆

 
 
 袋田の滝を下り、県道324号を国道118号に向かう「滝川」沿いにその宿は在った。
かなり大きな温泉旅館で、この宿の手配は上野さん経由で高萩さんに取ってもらった。
 
私達は宿に泊まるのだが、茨城のメンバーは食事だけ一緒にすることに成っており、宿泊は予定していなかった。高萩さん達は自宅に帰る予定でいたのだ。
また今日の夕食の場には新たに、小和田さんの知り合いの「滝本」さんとその友人が合流するという事であった。
 
滝本さんは、小和田さんのサークル仲間で北茨城の砂金や金鉱跡について調べている方だという。奥久慈に関しては自分以上に詳しい人である、と小和田さんが言っていた。
 
もう一人の方は、地元大子町の郷土史研究家で八溝山をはじめ大子町周辺の「金山開発」に詳しい方で、現在でも「金堀り」をしている人だという。
因みにこの二人には明日大子町周辺の幾つかの金山開発の跡地を、案内してもらう事に成っていた。
 
 
旅館では私と久保田さんとが相部屋に成り、藤木さんと上野さんとが一緒の部屋に泊まる事に成った。
 
それぞれがチェックインを済ませ、待ち合わせの19時に一旦ロビーで集合してから、食事の会場となっていた「宴会場」を訪れた。
 
 
私達が着席していると、程なくして滝本さんと友人とが現れた。
私達は高萩さんの紹介で、それぞれ自己紹介を始めた。
 
山梨のメンバーがそれぞれの自己紹介を行い、高萩さんと小和田さんが簡単な自己紹介をすますと、滝本さんともう一人の友人が自己紹介を始めた。
 
 
「私は滝本と言いまして、大子町の隣の今は常陸大宮市に成ってますが旧山方町の出身で、長らく高校で地学を教えていました。その時に奥久慈に伝わる金山開発の事を知ることに成りまして、小和田さん達が始めていた金山開発調査のサークルに入れてもらったわけです。
私の研究対象は、主として佐竹時代の金山開発の研究や調査が中心でしたが、水戸徳川家の時代についても充分とは言えませんが、一応調べてはいます。
 
因みに皆さんが今日立ち寄ったという『西金沙山神社』周辺は、地元の旧山方町に接している処という事もあって、私はワリと早くから注目していて、小和田さん達と一緒に何回も足を運んでまして、ある程度詳しいお話は出来るのではないかと、思っています。
 
それと皆さんの故郷である甲斐の國黒川衆の出身であった『永田茂衛門父子』についても、河口堰の実績はもちろんの事水戸藩で行ってきた金山開発の事績に関しても、多少はかじっています。
ですから私自身黒川衆にお詳しいという皆さんとの今日の情報交換会は、ずっと楽しみにしていたんですよ・・。という事で、今日はよろしくお願いします」滝本さんはそう言って、ニコリとしながら私たち全員の顔を見て、頭を下げた。
 
続いて滝本さんの友人が自己紹介、を始めた。
 
 
「私はカイデと言いまして、大子町で理髪店を経営しています。
もっとも今は息子に店を譲ってるんで、店の経営からは遠ざかってご隠居状態ですゎ。
古いなじみのお客さんがいらした時は店に出ますが、殆どの事は息子に任せています。
で今は、もっぱら50代から始めた趣味の、大子町周辺の金山開発についていろいろ現地に行ったり、調べたりしているところです・・」と彼は説明した。
 
「因みにカイデさんは今でも、暇を見つけてはご自分やお仲間たちと金山跡や金鉱跡を訪ねて、鉱山跡周辺を掘ったり削ったりしてられるんですよ・・」滝本さんが、ニヤリとしながらそう言って補足した。
 
「カイデさんって、おっしゃるんですか?珍しいお名前ですが、どのような字を書かれるんですか?」と私が気になって聞いてみた。
すると彼は小さな携帯バッグの中から名刺入れを取り出して、私達に名刺を配り始めた。
 
「そぉうなんですよ、確かに珍しい名前で、昔っからよぉく聞かれるもんだから、こうやって個人名刺を造って配ってるんですゎ、私・・」彼はそう言って説明を加えた。
 
 
その名刺には「鶏冠井(かいで)」と大きなひらがなのルビが打ってあった。
その名刺をもらった私達は一瞬、沈黙した。
この珍しい名前の事をどう受け止め、理解してよいのか判らなくて戸惑ってしまったのだ。
とりわけ黒川衆の本拠地である、「鶏冠(とさか)山」の「鶏冠」という文字を使って「かいで」と読ませていることに、少なからぬ好奇心と戸惑いを感じたのであった。
 
 
「この名前でカイデ、とはフツー読めませんよね。なかなか・・」滝本さんはそう言って、目で笑った。
「甲斐出、とでも書いてあるならいざ知らず・・」滝本さんは続けてそう言った。
 
 
「因みに、カイデさんのご出身はずっとこちらの大子町なんですか?」私は好奇の気持ちで鶏冠井さんに尋ねてみた。
 
「いやそぃがですね、うちのばあちゃんが、お嫁で京都の南の方に嫁いで行ったですよ。ばぁちゃん自身はもともと大子町で生まれ育ったんだけんど、縁あって京都にお嫁に行ったわけですね。
で、昭和の戦争末期に大阪や神戸辺りが空襲受けたりで物騒になったきたもんだから、そん頃にばぁちゃんは実家のあるこの大子町に、家族みんなを引き連れて疎開してきたということなんですゎ。
 
その後、ばぁちゃんの連れ合いのじいちゃんが兵隊で戦死したこともあって、京都には戻らずそのままこちらに居ついちまった、ちゅう事なんです。
まぁ、ばぁちゃんにしてみれば生まれ故郷に帰って来ただけって事だけんど、そん時にぁ子供たちを連れて苗字も変わってしまった、ちゅうことですゎ・・」鶏冠井さんが私の質問に、判り易く説明してくれた。
 
「という事は、嫁ぎ先の苗字が鶏冠井(かいで)さんっておっしゃる家だったわけですかね?」私が尋ねた。
 
「んだね。なんでも向日町だか長岡京とか言って、京都でもすぐ大阪っちゅう南の端っこだっちゅうコンだよ。で、そこいらには鶏冠井』っていう字(あざ)っちゅうか、場所が在るらしくて、そこはばぁちゃんの話だと町の中心部でわりと賑やかな場所だった、と言ってましたゎ・・」と鶏冠井さんが言った。
 
 
「その向日町とか長岡京市だとすると、ひょっとして『巨椋(おぐら)池』の在った辺りになりますかね・・」
私は京都の南で「桂川」や「鴨川」、更には「宇治川」や「木津川」といった京都や琵琶湖そして奈良を水源とする河川が集積し、やがて淀川に集約されるエリアに、かつて殆ど湖と言ってもよい、巨大な池というか沼地だった「巨椋池」が在った事を思い出して、そんな風に尋ねてみたのであった。
 
話を聞いていた久保田さんが、さっそく手元のタブレットを操作して、私達に京都南部の向日市周辺のMAPを指し示し、テーブルに乗せて、私達に見せた。
 
 
 
            
 
       
       :京都府向日市「鶏冠井」地区、「巨椋池」の左上部がかつての向日町
 
 
 
 
「どうやらここら辺が向日市の『鶏冠井』って場所に、成るようだね」久保田さんがJRと阪急京都線に挟まれた辺りを指して、言った。
「なるほど『桂川』の西岸域で、『巨椋(おぐら)池』は・・」藤木さんが言った。
「僕の記憶では桂川を含み、『京都南IC』の右側から『京阪電鉄』辺りまで含まれたエリアに、かつて『巨椋池』が在ったんじゃなかったかと・・」私は古い記憶をたどりながらそう言った。
 
久保田さんはまたタブレットを操作して、今度は「巨椋池」の載っている古い画像を画面に映した。その画面を操作して先ほどの地図と交互に映し出した。
 
「やはりこの辺りも治水灌漑を必要とした場所のようですね・・」私がそう呟くと、
藤木さんが
「そのようですね、どうやらこの桂川西岸に黒川衆が住み着いて、巨椋池の治水灌漑の土木工事に駆り出された、って事だったんでしょうかね・・」と、呟く様に言った。
 
 
「ン?それってどういう事なんです?」高萩さんが私達を見廻して、聞いてきた。
「まず名前が『鶏冠』だよな。これは黒川衆の本拠地『鶏冠(とさか)山』を示しているのさ。要するにそれがまず黒川衆であることを物語っているんだな。
で、その呼び名が『かいで』だろ。即ち『甲州甲斐の國の出身者たち、ってことを意味しているのさ。
 
という事は此処に住み着いて、桂川が巨椋池に入り込むエリアの治水灌漑工事を行なって来た職能集団の出身地が、甲斐の國の出だから『かいで』と呼ばれ、黒川衆だったから『鶏冠』の字を当てた、と推測することが出来るわけさ」上野さんがタメグチで、高萩さんにそう言って、私達の考えている事を説明した。
 
「へぇ~⁉、そげぇなコンまで、判るもんなんだかい、大したもんだね・・」鶏冠井さんが、感心しながら、そう言った。
「そうすると鶏冠井の『井』は・・」滝本さんが呟いた。
「多分、桂川の水流を替えるなどして造った条理のキレイな水田や畑、即ち井田を開拓したといった事を指したのかもしれませんね。その地名の名残りというか・・。詳しいことは判りませんが、多分そんなところでしょう・・」私が推測を交えて、そう言った。
 
 
「永田茂衛門父子の久慈川の堰堤開発と同じですか・・」小和田さんが、永田茂衛門父子の事績と重ね合わせて、そう自分なりに理解した。
「ま、そんなとこでしょう。黒川衆は遠江之國でも越後之国でも、同様のことをやってましてね、大雨などで氾濫することの多い暴れ河川の下流域では、この手の灌漑工事をたくさん手掛けてますからね。不思議ではないんです・・」私がそう言った。
 
「ふ~んそういうもんなんだ・・。黒川衆の専門家に掛かるとそういった謎解きが出来るわけだ・・」高萩さんが感心しながら、言った。
 
「暴れ河川の下流で、湖や沼大きな貯水機能を持った遊水池が絡んでくるとね・・。
それに何といっても『かいで』と『鶏冠』だからな。黒川衆と結びつけるキーワードがこれだけ揃ってくるとね・・」上野さんは高萩さんにそう言って説明した。
 
「しかし京の都のほとんど湖と言ってもよい『巨椋池』の灌漑治水に、黒川衆が関わっていたなんて、私達も思いもよらなかったですよ。こうやって鶏冠井(かいで)さんにお遭いするまでは・・」私はそう言って、この話題をまとめた。
 
 
続けて、
「ところで鶏冠井さんは、今でもお仲間たちと金鉱の探索をされてるんですって?」と私は好奇の目で鶏冠井さんに尋ねた。
 
「ま、仲間たちとつるんで年に数回だけんどね・・」鶏冠井さんはニヤリとして言った。
「やっぱり大子町中心ですか?」
「最近はね・・。ま、ほれでも時々西金沙山にも出かけてるかな・・。滝本さんの地元だけんどな・・」鶏冠井さんは滝本さんをチラリと見てそう言った。
 
「そういえば今日西金沙神社の奥宮まで行かれたようですが、裏手の金鉱跡群には行かれましたか・・」滝本さんが私達に聞いてきた。
「いやぁ、時間がなくて・・」私がそう応えると、
「まぁ、あそこに行くにはそれなりの準備もいりますし、金鉱跡の数も多いから時間かかりますよね・・」滝本さんがそう言った。
「ま、半日仕事だっぺな・・」鶏冠井さんが隣で呟くように言った。
 
 
「私たちは西金沙山は、その名前が示すように奥久慈の、というかかつての常陸の国を代表する『金山(かなやま)』だったんじゃないかって想ってますが、やはり神社の後ろには金鉱跡が沢山あるんですか?」私が鶏冠井さん達に尋ねた。
 
「金山であるコンは間違いなかっぺな・・」鶏冠井さんは滝本さんを見ながら、そう言って同意を求めた。
「そうでしょうね、その点は間違いないと思います」滝本さんも肯きながら、言った。
 
「時代的には、やはり戦国末期ですか?そのぉ秀吉の朝鮮出兵に駆り出された佐竹氏が、軍資金調達で進めた、とかいう・・」私は高萩さんをチラリと見ながら、そういった。
「文献資料や古文書からほぼ間違いないと、その点は言えるでしょうね・・」滝本さんが応えた。
 
 
「そうなんでしょうけど、金沙神社が浅川沿いに『金沙山神社』『金沙本宮神社』『西金沙神社』と、山麓から本命の『西金沙神社』まで幾つも連なって存在してますよね、それって古くから地元でも砂金や金片が採れる街道だと認識されていた事を示してませんかね・・。秀吉の朝鮮出兵のはるか昔から・・。
それとも安土桃山まで、金山開発や金鉱堀りはズッと行われてなかったんですかね・・。
 
ご存知なように佐竹源氏が頼朝軍と闘った治承四年の『金沙合戦』についての『吾妻鏡』の記述を考えますと、その名称や地名が示すように遅くとも平安時代末期には、西金沙山は既に『金山(かなやま)』として、世間では認知されていた事を示してはいませんかね・・」私が疑問を呈した。
 
 
「確かにその点は私達も否定はしません。しかし如何せん古文書や金山開発での物証というかエビデンスを示すものがほとんど出てなくってですね・・」滝本さんが応えた。
 
「でも滝本さん、あれだよね・・。そもそも佐竹氏のご先祖新羅三郎義光が常陸の國に固執したのは、金鉱山の存在が確認されたからだ、って説もありましたよね・・。で源義光は平安時代後期の人物だし・・」高萩さんがこの話題に加わった。
 
「そうですね、確かにおっしゃる通りです・・」滝本さんが苦しそうな顔でそう応えた。
「しかしまぁ、如何せん・・」続けて彼はそう言ったが、言葉を途中で飲み込んだ。
 
 
「それに奈良時代からすでに、奥久慈では金鉱が発見されてもいたわけですよね・・。
してみれば8世紀から安土桃山の17世紀末近くまでの900年間殆ど、金山開発が手を付けられてなかった、って考える事に無理はありませんか?」私がそう言うと、滝本さんは押し黙っってしまった。
その事には彼自身ウスウス気づいていた事だったのかもしれない・・。
 
「そうはいっても、『金沙神社』や『金砂郷』の名称が残っていたからとはいえ、佐竹氏や地元の豪族たちの間で金山開発が行われた事を証明する、何らかの遺跡や古文書といったもんが出てこない以上は、やはり軽々なことは言えないでしょう・・」滝本さんが強く反論するように言った。彼はエビデンスに拘った、まじめな人柄なのであろう。
 
「小和田さん、小和田さんのサークルでこれまで調べてこられた中には、平安時代や鎌倉時代を含む900年の間に、何らかの金山開発が行われた事を示すような情報って何にも見つからなかったんですかね・・」
私は900年間何も無かったとはどうしても思えず、更に食い下がってそう尋ねた。
 
「そうですね・・。まぁ私達のサークルは佐竹氏の金山開発といった事で現地調査なんかを繰り返してきてるんですがね、やはり戦国末期から安土桃山時代の金山開発が中心だったようですね。
 
伝承では『久慈山地では1,200、多賀山地では800』の金山跡があったといわれてはいるんですが、その殆どは戦国末期の佐竹氏によるものではないかと、そんな風に私達の仲間内では認識されてまして・・」小和田さんはそう言って、私の質問に応えた。
 
「それと確か、越後の上杉謙信との関わりも言われてましたでしょ、小和田さん」滝本さんが言った。
「えっ、上杉謙信ですか?」私は謙信の名前や越後の國の名前が出て、興味をそそられ思わず二人の顔を交互に見た。
 
 
「そうですね私達のサークルのメンバーの一人が主張してるんですがね。
彼が言うには戦国末期の佐竹氏は近隣の『伊達氏』や『岩城氏』と連携して、『いわき四ツ倉』地区で金山開発を共同して行った、というんですよ。
 
その後戦国時代末期の当主佐竹義重公が、越後の上杉謙信と金山開発の技術を提供することのバーターとして、越後の山師や金堀大工の人材を派遣するという、一種の約定を交わしたというんですね。
 
で、その約定に基づき佐竹氏の提供した最新の金山開発技術を取得した謙信は、配下の山師たちを佐竹氏の常陸に派遣した、という事なんです。
 
その証拠が奥久慈に残る白山神社だと、言うんです彼は・・。
ご存知なように白山神社は西金沙神社の奥宮を初め、奥久慈に14・5ヶ所あるんだというんです。まぁ境内社が殆どですけどね。
 
白山神社がその証拠だと彼は言ってまして・・」小和田さんはそう言って、サークル内に広まってる、越後の上杉謙信と佐竹氏の金山開発の関係について説明した。
 
 
私はこの問題については、しっかり考えてみる必要がある、と感じた。
それは「越後の金山衆」が絡んでいることが大きかったが、同時に「白山神社」が絡んでいたからであった。
 
北陸の修験者の霊山である「白山」の神社が、何故北関東奥久慈の金山(かなやま)と言える西金沙神社の奥宮として鎮座しているのか、その理由を知りたいと思っていたからでもあった。
 
 
「奥久慈には14・5か所も在るんですか、白山神社・・」私は確認の意味でそう言った。すると小和田さんは、
「いや常陸太田市全域で、です」と言って、訂正した。
 
「そいえば、その話はオレも聞いたこと、あるど」鶏冠井さんが会話に加わって来た。
「ほう、そうですか・・」私はそう言って、その先を目で促した。
「いんや、西金沙神社の宮司さんが言ってただよ『越後の金堀師たちが白山神社を背負って、この山にやって来たんだぁ・・』って、話してったんだゎ」と鶏冠井さんは言った。
 
 
「そぃでょその白山宮を、越後の山師たちが西金沙神社のてっぺんに据えて祀った、って言ってたっけょ。そぃがまぁそのまんま奥宮の白山神社に成ったんだ、って言ってたっけなぁ、たぁしか・・」鶏冠井さんは続けた。
 
「その上杉謙信との関係があったから、戦国時代末期の金山開発が定説に成っているわけですね、ここ奥久慈では・・」
私はそう言って、彼らが戦国末期の佐竹氏の金山開発を主張する根拠の一つが上杉謙信と白山神社との関係にある事を、ひとまず理解した。
 
そしてなぜ西金沙神社の奥宮に「白山神社」が祀られているのか、そのいきさつを理解することも出来た。
 
 
「ところで、佐竹氏が越後の上杉謙信に提供した金山開発の技術ってのは、一体どんなものだったんでしょうかね?
その越後の山師や金堀大工でしたっけ、その専門家集団を派遣してもらう事に成ったという、そもそものきっかけは・・」上野さんが小和田さん達を見て、尋ねた。
 
「はい、それはですねどうやらこの常陸から岩城に掛けて産出された、チタンを含む砂鉄で造られた鏨(タガネ)通称『常磐物タガネ』と言われた、金鉱山を採掘する道具の事だといわれてます」小和田さんが応えた。
 
 
「『常磐物タガネ』ですか・・」上野さんが呟いた。
「アはい、『常磐タガネ』はチタンを含む砂鉄から造られてることもあって、金鉱山開発のネックになっていた硬質の金鉱床を掘り進んだり、穿(うが)つのにそうとう効力を発揮した、という事です」
 
「ホゥそうするとそのタガネを使えば、今まで技術的に諦めたり開発困難で見捨てられていた、硬い岩盤の金鉱山を掘ったり穿ったりすることが出来た、ってことですか。その『常磐タガネ』を使いさえすれば・・」私は小和田さんの説明を聞いて、そんな風に自分なりに理解した。
 
 
「それは時代背景的にはどういう事に成るんですか?
確か太閤秀吉の朝鮮出兵がきっかけで、佐竹氏の金山開発は盛んになった、という事でしたよね。その時期と上杉謙信の時代では数十年のズレがありそうですが・・」私はその年次のズレを疑問に思って聞いてみた。
 
「佐竹氏と上杉謙信との同盟関係は、実は佐竹義重の父親の佐竹義昭の時代から始まってましてね、1560年代頃から続いてるんですよ。
で、義重は秀吉の安土桃山はもちろん、徳川家康の時代にも生きてますから、当然朝鮮出兵の時代も現役でバリバリだった、わけです」高萩さんがそう言って佐竹義重について、話してくれた。
 
「という事は佐竹義重の時代に常陸の國の金山開発がかなり活発に行われたのは、越後の金山衆が謙信との関係で沢山送り込まれたことと少なからぬ関係があった、という事ですか・・」私が確認する意味でそう言った。
 
「ま、そういう事でしょうね。常陸の國の特産物『常磐タガネ』といういわば工具を手にした越後の山師たちが、潜在的に存在した久慈川沿いや山田川沿いに広がる金鉱脈を見出して、金山開発を推進した、といった構図になるわけです」高萩さんが続けた。
 
「そこに朝鮮出兵という秀吉からの賦役によって、北関東から九州北部まで数千人の軍兵を派遣させなければならなかった佐竹氏は、軍資金の確保といった鞭が加わって、常陸国内で金山開発をかなり活発に行なった、といった事のようです・・」小和田さんがそう言って話をまとめた。
 
 
「なるほどですね、そういう事でしたか・・。イヤー、よく判りました。なるほどね・・」私は二人の説明を聞いて、戦国時代末期に常陸の國で金山開発が活発になったことを理解し、その開発の推進力になったのが越後の金山衆であることに納得した
 
と同時に、「越後の金山衆」の存在が常陸の國の金山開発に大きく関わっている事についても、驚いた。
 
「ちゅうコンは、ここでも黒川衆の子孫ちゅうか末裔が関わってくるコンに成るだね・・」久保田さんがニコニコとしながら、私達の顔を見廻してそう言った。
「どうやら、永田茂衛門父子だけではなかった、ようですね・・」私もニコリとしながら久保田さんや藤木さんを見てそう言った。
 
その時の様子を見て高萩さん達茨城のメンバーは、??といった顔をして私達を見て、その言葉の説明を求めた。
 
 
「それはですね、越後の金山衆というのはどうやら安田義定公の嫡男義資(よしすけ)が甲斐之國から連れて行った金山衆の末裔だと想われるから、なんです。
というのは安田義資公は頼朝の領国の一つ越後之國の初代守護を7・8年務めた武将なんですが、その間越後之國とりわけ現在の糸魚川市で盛んに金山開発を行っていたんです。
 
もちろんその担い手は、自分の本貫地である甲斐之國から連れて行った黒川衆であった、わけです」私がそう説明した。
 
「という事は鎌倉時代の初頭、という事ですか?」高萩さんが私を見てそう呟いた。
 
「ま、そういう事ですね。糸魚川市の中でも北部に当たる旧能生町という所があって、そこでは白山神社が地元の産土神として大きな役割を担ってましてね・・。
白山神社では本地垂迹の影響もあった十一面観音を、境内の神宮寺でご本尊として祀っていたりして、金山衆の信仰対象でもあったんですよ。
 
ですから先ほど来の上杉謙信の派遣した山師や金堀大工というのは、このエリアの金山衆だった可能性があるな、と私はお話を聞きながら想ってたんですよ・・」私はさらに説明を加えた。
 
「鎌倉時代初頭から、上杉謙信・佐竹義重公の時代だとするとザッと3百4・50年は下りますかね・・」高萩さんがそう言ってこの間の時の経過を自分なりに理解した。
 
「それって、ホントなんだべか・・」鶏冠井さんが呟いた。京都のご自身の祖先と越後之國糸魚川とが同じ黒川衆の子孫/末裔として関わってくる事を、半信半疑に思ったのかもしれなかった。
 
「話が長くなってもよければ、その事をもっとお話ししましょうか?」私が茨城のメンバーに向かって確認するようにそう言うと、彼らは肯いた。
 
 
 
                       
                       :甲斐の國黒川  緑:常陸の國奥久慈
                           青左:京都巨椋池、同中央上部:越後糸魚川
 
 
 
 
 
 
 

 安田義定と諸国金山衆

 
 
「それでは『越後の金山衆』についてお話しする前に、安田義定公と黒川衆の関係についてまずお話ししますね」私は茨城のメンバーにそう言ってから、話の口火を切った。
 
「まず安田義定公というのは、甲斐源氏の雄で兄の武田信義公と共に甲斐源氏を率いて、源平の戦いで平維盛の軍を退散させた『富士川の戦い』でも、活躍した武将です。
 
あの富士川の戦いで源頼朝の関東軍を討伐に来た維盛軍が甲斐源氏の夜襲に驚いた数万羽の水鳥たちが羽ばたく音に、甲斐源氏の襲来を感じ戦わずに退散した、というあの有名なエピソードの事ですね・・」私はそう言って茨城のメンバーの顔を見た。
 
「確か『吾妻鏡』によると、あの平家軍の退散の後、黄瀬川にいた頼朝の源氏軍内部では退散した平家軍を後追いして京都まで攻め込むか、それとも平清盛と関係が深かった常陸源氏の佐竹を打つか、という軍議がなされたと。
 
で、平家追討を主張した頼朝をいさめた千葉常胤や上総広常が説得して、北関東の佐竹撃ちが決まったと言う事でしたね。
その軍議を受けて、南関東の頼朝軍が北関東の佐竹源氏を追い詰め『金砂合戦』に向かった、という事でしたよね・・」高萩さんが確認するようにそう言った。
 
「おっしゃるとおりですね。京都に向かった隙に北関東の佐竹軍に背後を突かれる事を懸念した、下総や上総の豪族や宿老たちが、頼朝を諫めたわけですよね。
彼らは利根川を挟んで佐竹氏と接していたから、京都に向かっている間に背後を突かれる事は、死活問題だったんですよ。
 
だから清盛に近い佐竹源氏を討って足場を固めておきたい、という想いの方が強かったわけです」私がそう言って補足した。
 
 
「へぇ~そうだったんだぁ。同ンなじ源氏同士といっても佐竹と頼朝はまぁだ一枚岩じゃなかった、ってことなンだべな・・」鶏冠井(かいで)さんが感心した様にそう言った。
 
「そういう事ですね、因みに南関東の頼朝を支えた源氏軍の多くはもともとは平氏の出身ですからね。もっと言えば平家追討に立ち上がった北条時政を中心とした伊豆の御家人達の多くも、その出自は平氏でしたから・・」私が続けて補足した。
 
「ちゅうこンは『源平の戦い』って言っても、総大将が源氏か平氏かってコンだけなんだぁな・・。それを支えた武士は源氏や平氏が、結構入り混ざってたってわけだンね・・」鶏冠井さんがそう言って納得すると、高萩さんが、
 
「ま、そういう事ですね。結局は出自や家系の問題よりも、自分たちが苦労して開発して、守って来た領地や郷村を死守することが一番大事だったんですよ、当時の開発領主といわれた地頭や御家人たちは・・」と判り易く解説をした。
 
 
「そんなことがあって北関東の佐竹氏討伐に向かった南関東の頼朝軍に対して、甲斐源氏の武田信義公や安田義定公は、富士川の合戦の後も駿河之國安部川の長田『手越』に陣を構えた平家軍を追撃し、そのまま駿河之國や遠江之國を実効支配して行ったわけです。
駿河は兄の武田信義公が、そして遠江(とおとみ)は弟の安田義定公がですね・・」私はそう言って、話を義定公にと戻した。
 
「その後信義公も義定公も後白河法皇の朝廷や、頼朝の鎌倉幕府からそれぞれが駿河守や遠江守として認められたんですね。追認ですね・・。
義定公はそういった経歴の持ち主なんですが、元々の彼の本貫地は甲斐之國の東北側に在る牧之荘安田郷でして、現在の甲州市や山梨市がそのエリアにあたります。
 
で、その牧之荘の北側の山間部即ち甲武信連山の一画に、黒川衆の本拠である鶏冠(とさか)山=黒川山が在るわけです。
 
牧之荘というのはその名前が示唆するようにやせた土地でしてね、山間部の占める割合が多く稲作には適さなかったけど、馬の畜産や放牧には適してた場所だったようですね。
と同時に標高1,700m級の山である鶏冠山周辺には、金山開発を担っていた黒川衆が居たわけです。
 
そんなこともあって、平安時代末期の水田稲作が経済の中心だった時代、牧之荘は当時から必ずしも恵まれた領地ではなかったんですね。要するに『やせた土地』だったんです。
そんな中で義定公は逆にその領地の持つ特徴を生かす、領地経営を進めたようです。
 
それが『騎馬武者用軍馬の畜産/育成』と『金山開発』といった、畜産業と鉱山業の育成や奨励であったようです。ここまでは宜しいですか?」私は話が長くなったこともあって、いったん話を区切って茨城のメンバーに聞いてみた。
 
 
「当時のいわゆる『開発領主』と云われた、地頭や郷主でもあった武将たちとは、ちょっと毛色が違った領主だったわけですか安田義定は・・」高萩さんが聞いてきた。
 
「結果的にそうだったという事でしょうか。先ほども言いましたが彼の本貫地牧之荘は稲作に適した水田を確保するには平坦な領地が少なすぎたし、標高が高い山間部が多かった事が、最大の原因だったと私は理解してますが、藤木さんどうですか?」私はそう言って藤木さんに確認した。
 
「そうですね牧之荘は、立花さんが言われたように甲武信連山の山麓で、笛吹川や重川沿いに河川の侵食によって集落が出来たような場所でした。
従って下流域の甲府盆地の様に扇状地として田畑や荘園が発達した地域と比べて、明らかにやせた土地だったですね・・」藤木さんはそう言って私の話を補足した。
 
「奥久慈も似たようなもンだっぺなぁ・・」鶏冠井(かいで)さんが呟いた。
 
「確かにそうかもしれませんね、茨城県の北部は関東平野からすれば北北東の山峡の地でしたし、『勿来(なこそ)の関』や『白河の関』によって長い間、蝦夷地=陸奥之國との境界域にもなってましたよね。
牧之荘の場合は甲斐と武蔵之國・信濃之国の国境いの境界域で、それだけ自然環境の厳しいエリアだという事ですね」私は鶏冠井さんの言葉に反応して、両地域の共通性について解説した。
 
 
「そういうやせた土地の開発領主として、安田義定が目をつけたのが『騎馬武者用軍馬の畜産事業』であり、『金鉱山開発』だった、というわけですね」高萩さんが言った。
 
「その通りです。義定公が生まれた場所は若神子という場所なんですがそこは、八ヶ岳山麓といっても良い場所で、『甲斐の御牧』といわれる官営牧が在ったエリアに近く、元々馬の畜産が盛んな場所でもあったんですよ。
 
更に新羅三郎義光の子孫である甲斐源氏は、『武をもって朝廷に仕えた』武家の名門ですから、騎馬武者にとって不可欠な軍馬の畜産や養成にも熱心だった、わけです。
そんなこともあって彼は本貫地の牧之荘の『乙女高原』辺りでも、畜産事業を推進したようですね・・。ま、一種の家業だったんでしょうね軍馬の育成は。
 
更に『金山開発』なんですが、元々鶏冠(とさか)山周辺で砂金掘りや金鉱開発をやっていた黒川衆に、義定公が目をつけ、積極的にバックアップしたと私は想っています。
そしてそれには義定公のお母さんの影響があるんじゃないかって、そう想ってましてね。
実はそれが今回こちらを訪ねるきっかけにもなったんですよ・・」私がそう言うと、高萩さんがニヤリとして、チラリと上野さんを見ながら言った。
 
「上野から聞いてますよ。安田義定の母親が佐竹氏の出、だという事らしいですね・・」 
「そうなんですよ、義定公の母親は佐竹氏の出だという事です、でしたよね・・」私が藤木さんに確認すると、藤木さんは頷いて肯定した。
 
 
 
                                           
                                           :牧之荘安田郷、赤:鶏冠山
                  青:右は乙女高原、左は若神子(安田義定生誕地)
 
 
 
「先ほど高萩さんも触れられたように新羅三郎義光が常陸之國北部に固執したのは、奈良時代から有名だった八溝山周辺の金山開発が、この奥久慈を含むエリアに在ったからではないか、と私も想ってます。
茨城でもそういう説がある様ですが、佐竹一族の間では領地であった奥久慈での金山開発についての情報が、ある程度共有されていたのではないか、と私は想ってましてね・・。
 
幼少のころから義定公は母親か、あるいはその付き人達かは知りませんが、常陸之 國で金山開発に関わっていた人達の話を、ある程度聞いて育ったんじゃないかと。
 
でその義定公が、黒川衆の存在を本貫地の牧之荘で知ることになった時に、そういった知識や情報の蓄積が影響して、黒川衆の金山開発への援助や育成という事に繋がったのではなかったか。
とまぁそんな風に想像力が掻き立てられたわけですね、私達は・・」私はそう言って確認するように、山梨のメンバーを見た。
 
さらに言えば義定公はその母親経由の佐竹氏から、人的支援や金山開発の技術やノウハウ、経験者の派遣といった面でのバックアップも受けたのかもしれない、といった妄想も抱いてたんですよ私。
 
そしたら先ほどの上杉謙信の話が出て来てちょっとビックリしたんですが、同じようなことが戦国時代より3百4・50年前の平安末期にもあったかも知れない、とますます・・」私がそう言うと、小和田さんが
 
「妄想が膨らんだ、というわけですか・・」目に笑みを含んで、そう言って私を見た。
「立花さんは、結構妄想を膨らますタイプなんですか?」高萩さんがニヤリとして、そう言った。
「ま、そうですね。否定はしません・・」私もニヤリとして二人の推測を認めた。
 
「でもまぁその豊かな妄想と、行動力によってこれまで私達が思いもよらなかった義定公の足跡や痕跡が、明らかになったのも事実なんですよ。
ですからその妄想もあながち捨てたもんではないと・・。
 
実際のところ京都祇園祭との関わりや秋葉山神社との件、先程の越後之國の話しなんか特にね・・」藤木さんがそう言って、私の妄想の擁護をしてくれた。
その目は穏やかに笑っていた。隣で久保田さんもニヤニヤしながら肯いていた。
 
 
「それもあって立花さんは先ほど来の、上杉謙信の戦国時代以前の常陸之國の金山開発について、あんなに食い下がってきたんですか・・」滝本さんも先ほどより優しい目をして私に確認するように言った。
「まぁ、そういう事です・・」私はそう言って頷いた。
 
「したらその越後の金山衆だっけなぁ、その話を聞かせてくれねぇけ?」鶏冠井(かいで)さんがそう言って私を促した。
 
 
「あ、そうでしたね・・。では、」私はそう言ってから改めて越後の話を始めた。
「越後之國と黒川衆の関わりは、義定公の嫡男安田義資(よしすけ)公が頼朝の領国の一つであった越後の初代守護に成ったことが、そもそもの発端でした。
 
因みに義定公は遠江之國の國守を、富士川の合戦以降14・5年間務めたんですが、嫡子の義資公が越後の守護に成ったのはその5年目ぐらいの事でした。
当時20代後半だった安田義資公が初代守護に抜擢されたのは、何といっても父親のバックアップが得られると、期待されたからだったと想います。
 
義定公の遠江之國の國守としての統治が順調に行った事が、鎌倉幕府内でそれなりに評価されていたことは事実ですが、それと同時に越後の北部=下越地方に当時『城氏一族』という、平清盛との関係が非常に深かった平家の支持派が強力な地盤を持っていた事が、最大の要因だったと私は考えています。
 
丁度、遠江之國が関東からすれば西国への最先端であったように、当時の越後は鎌倉の幕府から北部方面では最も遠いエリアであったんですね。
 
加えて今なお平家の支持派が下越に拠点を構えており、更にその背後には奥州の会津や羽後山形が控えている最前線という、地政学上のポジションだったといった事もあって、義定公の影響下にある嫡子義資公を守護として配置した、というわけです」
私がそう言って、義定公の嫡子が越後の守護に任命された背景を長々と説明すると高萩さんが、
 
 
「越後の城氏と言えば確か源平の合戦の時、会津や山形の豪族たちと一緒に木曽義仲の信濃源氏と戦って敗れた、あの城氏の事ですか?」と聞いてきた。私は肯いて、
 
「おっしゃる通りですよくご存じですね、その城氏の事です。信州の千曲川近くの支流で行われた合戦に敗れた城氏は、会津や山形の連合軍と共に本拠地に逃れ、そのまま下越の山城に引き籠ってしまったんです」私が応えた。
 
「という事は『富士川の戦い』と同様の、源平の雌雄を決する闘いが『信濃の千曲川』でも行われていた、という事に成るんでしょうか・・」滝本さんが、そう言って関心を示してきた。私は肯いて同意した。
 
 
「いずれにせよそういう事があって安田義定の嫡子が越後の初代守護に成って、越後の國府に入部した、ってことですね」高萩さんが、私に確認するようにそう言った。
 
「おっしゃる通りですね、以後8年の間義資(よしすけ)公が越後の守護として当時の国衙の在った上越を拠点にして、下越の城氏一族をニラミながら越後之國を統治していたわけです・・」私はそう応えてから話を続けた。
 
「その8年の間に、義定公の支援を受けた義資公は越後の国造りを進めるわけです。
その際も安田一族の家業とでもいうべき『騎馬武者用軍馬の畜産・育成』や『金山開発』にも着手したわけですね。ある種自然な流れとして・・。
 
あ、それから潟湖(せきこ)の多かった当時の上越では、新田開発にもかなり力を注いだようですね・・」私はそう言って黒川衆の話を始めた。
 
 
「その『金山開発』と『新田開発』とに活躍したのが、甲州や遠州から引き連れて行った、黒川衆であったわけです・・」私がそう言うと、高萩さんは
「黒川衆ってのはそんなに沢山、人材が揃ってたんですか本貫地の甲斐の他に遠江でも同様の事はやっていたわけでしょ・・」と疑問を投げかけてきた。
 
「いや、おっしゃる通りです。人材の枯渇はなかったのだろうか、という事ですよね。
甲州や遠州、更には富士山西麓の駿河之國の一部も義定公の領地だったわけですからね。
その上越後を加えると相当数の黒川衆が居ないと、とても追いつきませんよね・・。ご懸念は理解できます」私はそう言ってから、義定公の人材登用の事を話し始めた。
 
「実際問題として義定公は元々甲斐之國の牧之荘という、いうなれば甲斐之國でも片田舎の領主に過ぎなかったわけです。
そのうえで遠州の国守に成り遠江之國一国の統治もしなければならず、更に富士山西麓も領地としていたようですから、人材の登用というか確保は常に喫緊の課題だったのは間違いなかったでしょう。
ですから本貫地の子飼いだけでは到底追っつかなかったわけです」私はそう言って、ビールをグイッと飲んで喉を潤した。
 
 
「そこで彼は新しく獲得した領地や領国はもちろんの事、朝廷の在った京都や奈良さらにはここ茨城の常陸之國からも人材の登用をしてるんですよ。
当時としては全国区といっても良いエリアから幅広くですね・・」私がそう言うと、高萩さんは
「常陸之國からも、ですか?」と聞いてきた。
「先ほどの奥久慈の金山開発者、の事ですかね・・」小和田さんが呟くように言った。
 
「そうですねその可能性はもちろんあります。
しかし今のところ『吾妻鏡』等で確認できているのは、霞ケ浦の東岸『行方(なめかた)の麻生郷出身』と想われる『麻生平太胤國』だけなんですよ。大掾氏の支族のですね・・」私がそう説明すると、
「行方郡の麻生郷ですか・・」高萩さんが言った。
 
「はい、そうです。実は安田義定公と嫡子義資公は建久四年から五年に掛けて、頼朝によって誅殺されるんですが、その時義定公の五奉行といってよい幹部が鎌倉の義定公の屋敷で捕縛され、和田義盛の執行によって首を刎ねられているんです。
 
その五奉行のメンバーが京都の後白河法皇の朝廷に仕えていた元中堅官僚であったり、遠州浅羽之荘に定着した藤原氏の元有力者だったりするんですね。
そして麻生胤國もその五奉行の一人なんですよ。まぁそのへんの顛末が『吾妻鏡』には書かれているんです・・」私が五奉行についての説明を加えた。
 
 
「そうすると立花さんは、その安田義定の人材登用策は五奉行が象徴するように地元の甲斐之國にとどまらず、全国区だったんじゃないか、と考えてられるんですね・・」高萩さんが私にビールを注ぎながら言った。
 
「ま、そういうことです。先ほど小和田さんも言われたように金山衆に関しても母方の佐竹氏を通じて、登用していった可能性がなくもないかと。
更にはグッと南下して殆ど太平洋といってもよい、行方(なめかた)の麻生平太胤國の大壌氏のルートを通じて、ですね。
実はその辺の期待があって、今回の奥久慈行きを山梨の皆さんに提案したんですよ・・」私はそう言って、今回の茨城に来た目的を改めて説明した。
 
 
「僕もね、頼朝によって常陸之國奥七郡を追われた佐竹氏は、母方のルートを通じて安田義定公との接点を持っていた可能性があるかもしれない、と思っていてね。今回君を通じて奥久慈の金沙合戦のあった場所を案内してもらったりしたのさ。
 
ひょっとしたら、立花さんが考えているような金山衆の人材登用に佐竹氏のかつての配下が合流したかもしれないな、とね。
 
さらに言えば、鎌倉幕府が総力を結集して奥州藤原氏を討伐する際に、佐竹氏が幕府軍の旗下に参集/合流できたのも、安田義定の根回しが働いたのかもしれない、と僕も想ったりしてね・・」上野さんはそう言って高萩さんに向かって、佐竹氏と安田義定公との関係について考えていた事を話した。
「そうだったんだ、初めて聞いたよその話・・」高萩さんが呟いた。
 
 
「いずれにせよそう言った人材登用を義定公は、富士山西麓や奥久慈、更には奥州藤原氏の滅亡後は奥州の金山衆、といった感じで幅広く求めていたのではないかと、想像することができるんですよね、私には。
 
その様な人材登用があったからこそ、甲斐/駿河/遠州と共に越後での金山開発や土木技術を使った治水灌漑を伴った新田開発などが出来たのではないか、と私は想っています」私がそう言うと、滝本さんが想い出したように、
 
「あぁそうか、そっちの線なら行方(なめかた)の麻生氏は繋がるかもしれませんね・・」と言って、私達の顔を見た。
「いやね、はっきり言って金山開発と麻生氏や大壌氏はあまり繋がらないと、私は思ってますが新田開発なら繋がるかもな、とフと閃いたんですよ」滝本さんは続けた。
「と、言いますと・・」私が気になって、その先を促すと滝本さんは、
 
「アはい行方郡という場所はですね、先ほど立花さんも言われたように霞ヶ浦と太平洋や北浦に挟まれた場所でしてね、干拓工事や新田開発は割と古くから行われているんですよ。で、その分野では人材もノウハウもそれなりに蓄積されている、エリアなんです。
 
ですからその干拓に関する技術や人材の情報を、安田義定がどこかから仕入れて登用した可能性なら、あるかも知れないと閃いたものですから・・」
滝本さんはそう言って、五奉行の一人麻生胤國と義定公の接点について、新たな情報を提供してくれた。
 
 
「ほう、そうなんですか・・」私はその麻生胤國に関する、新たな情報に直感的に感じるものがあって、やや強く反応した。
 
というのも五奉行の一人「麻生胤國」は常陸大掾氏の支族という事で、常陸之國の在庁官僚としての名門の一員であったが、それがなぜ本拠地の水戸周辺ではなく、霞ケ浦の東岸の郷村「麻生郷」の出であるのかについては、今一つ腑に落ちてなかったからであった。
 
しかし滝本さんが言うように霞ケ浦や北浦の干拓工事や、新田開発にたけたノウハウや人材を抱えた開発領主だっとすれば、その点すんなりいくのだ。
 
その技術を用いれば、当時遠江之國に存在した巨大な湖「今浦湖」の、干拓工事や新田開発にも繋がってくるし、越後上越の「関川や飯田川河川の下流域の潟湖」の新田開発にも繋がって行くからである。
更に麻生平太胤國が義定公の五奉行の一人として重用されるに至った点も、すんなり理解することが出来るのであった。
 
 
                 
              霞ケ浦周辺図
 
               
               :行方郡麻生郷、 :沼尾「金沙神社」
                  青:常陸の國国府(現、石岡市)
 
 
 「ほれに、ほれだったら鶏冠井(かいで)さんの京都の巨椋池の干拓事業にも何だか繋がってきそうな感じジャンね・・」突然久保田さんがニコニコしながらそう言った。
私はその話の展開に一瞬戸惑いを覚えた。
確かに論理的には繋がるのだが、巨椋池の干拓事業と義定公とが直結する発想はまだなかった、からである。
 
「う~ん、確かに言われる通りではありますがね・・」私はそう言うのが精一杯だった。
「いや立花さんオレが言ってるのは金山衆のコンであって、義定公のコンを言ってるわけじゃねぇだよ。少なくとも今んとこはね・・」久保田さんは私の懸念を察知したのか、ニヤニヤしながらそう言って自分の閃きの範囲を限定的にした。
 
 
「確かに久保田さんの言う通りかもしれませんね。
桂川の河川改修工事と巨椋池の干拓工事を、黒川衆が担ったという点についてはほぼ間違いないだろうと私も想います。
でもしかし、それが義定公の時代の事だったかどうかについては、改めてしっかり確認してみる必要があると私は想ってます。
 
その点については向日市や長岡京市に行って、改めて確認してみたいと、そう想います。ちょっと時間が掛かるだろうとは思いますが・・」
私はそう言いながら鶏冠井(かいで)氏につながる黒川衆の活躍の時期について、改めて調べてみようと自分自身に言い聞かせた。
 
「立花さん、オレからも宜しくお願げぇします・・」鶏冠井さんがニコリとしながら、私にそう言った。
 
「アはい、その事で何か判りましたらその時は私の方から鶏冠井さんに、改めてご報告させていただきます」私はそう言って応えた。
 
「ついでにさっきの続きだけんど、越後の金山衆の話を聞かせちゃもらえねぇかい・・」そう言う鶏冠井さんの依頼に、私は話がまたそれてしまった事を思いだし、改めて越後の金山衆について話すことにした。
 
 
 
 
 
 
 

   越後金山衆と白山神社

 
 
 「そうでしたね、失礼しました・・」私は改めて話がそれてしまった事を鶏冠井(かいで)さんに謝った上で、越後の金山衆について話すことにした。
 
「先ほども話しましたが、甲州金山衆と越後之國との間に繋がりが出来たのはやはり、頼朝の領国の一つであった越後之國の初代守護に、安田義定公の嫡子義資(よしすけ)公が任命されたことが事の始まりだった、と私達は考えています。
 
20代後半の若さで越後の守護に任命された義資公に、父の義定公は何人かの重臣を付けて義資公の越後之國の支配や統治が順調に行われるようにしたんだと想います。
 
さっきも言いましたが国衙の在った上越に本拠を構えながら、出羽之國山形や会津に近い下越の山城に籠城していた平家方の残存勢力”城氏一族”を抱えながら、遠江之國や富士山西麓でやって来たように、『騎馬武者用の軍馬の畜産や育成』や『砂金/金山の開発』の可能性を越後でも追求してきたようなんです」私はそう言ってから、茨城のメンバーの顔をゆっくりと見廻した。
 
「河川の治水や新田開発も、だったよね立花さん・・」と久保田さんが私をフォローするように言った。 
「そうです、その通りです」私は肯きながら、話を続けた。
 
「実際のところ当時の上越の国衙の在った上越平野というか頚城平野は、かつては荒川と呼ばれていた関川や飯田川/保倉川といった河川が氾濫するたびに出来た、大きな沼や潟がたくさん存在してましてね。
 
それらの暴れ河川の水流を替えることや灌漑工事をすることで、治水と共に多くの新田開発が行われたようですね。将に開発領主たちがやってきた事を上越全体で、しかも大規模に取り掛かったんだと思います。
 
私が訪れた飯田川の杉野袋金山地区では川の流れを敢えてグッと蛇行させ、水流を替えた事によって新田を新たに創設し、米岡/米町といわれる村を造ったようなんですね。
で、その近くには『金山神明神社』という神社が祀られてるんですよ。
 
金山神社という名称や祭神金山彦の名に惹かれてその神社を訪ねた私は、金山橋の架かる飯田川で行われていた護岸工事を、偶然この目で見ることが出来ましてね・・。
その飯田川の河川の水流を敢えて蛇行させた場所には、夥しい数の整然とした石垣が組まれていたんですよ。
 
私はその整然とした数百mにも及ぶ石垣を観てですね、その夥しい数の水流を替えるための石垣を造ったのは、間違いなく甲州から連れてきた金山衆ではなかったか、とそう想いました・・」私が長々とそう説明すると滝本さんが、
 
「どのようにしてそう想われたんですか?その、金山衆の仕事だと・・。
例えば越後の名君上杉謙信の事業とかは考えたりしなかったんですか・・」滝本さんは私を観ながらそのように言った。
 
 
「そうですね、私が何故そのように考えたか、というと事ですね・・。
一番の理由はやはり『金山神明神社』の存在ですね。通常金山神社が祀られているのは、砂金が採れた場所や金山を抱えた山の麓であることや鍛冶屋の集落が在るといった事が多いんですよね。こちらの茨城でいえば『金沙神社』がそうであるように、ですね。
 
ところがその飯田川が自然状態ならそのまま日本海に向かうはずの水の流れを、夥しい数の石垣を敷設して水流を敢えて蛇行させたその場所は、砂金が採れたとも思えないし金鉱山が存在したと思えるような山里でもないし、周辺に鍛冶屋の集落も無いんですよ。何しろ海抜数mの海に近い頚城平野の真っただ中ですからね、その金山地区は・・。
 
しかも感覚的には、遠州森町飯田の八坂神社付近で太田川の水流を西進させた、その構図にとてもよく似てるんですよ。
 
ですから私は、あの場所に金山彦を祭神とした金山神社』が祀られているのは、その水流を変えた事業を担った金山衆自身が祀った神社だったか、その事業によって恩恵を受けた農民たちが、その事業を成し遂げた金山衆の事績を讃えるために建立した神社ではないか、とそう考えてましてね・・」私がそんな風に説明すると、小和田さんが、
 
「それって久慈川の河川を堰堤によって流れを変えて、新田開発を行った永田茂衛門父子の事績を讃えたのと同じ、ことなんですかね・・」と言って、地元久慈川の事例を引き合いに出して、話した。
 
「あ、はい。おっしゃる通りです。ただし越後の場合は個人というより金山衆という集団の作業だった事もあって、彼らが信奉する金山彦を祀った神社を建立し、その功績を讃えたのではないかと・・」私はそう言って小和田さんの推測を肯定した。
 
 
「そうすると、甲州金山衆の場合は砂金採取や金山開発だけではなく、治山治水に関わる河川の改修や、堰堤開発の様な土木工事を通じて新田開発もやってた、という事なんですかね・・」高萩さんが確認するようにそう言った。
 
「堰堤開発といった土木工事についてはあまり聞き及びませんが、河川の水勢や流れを変える土木工事でしたら、甲斐之國や遠州でも幾つか確認することは出来ますね・・」私がそう応えると、小和田さんが
 
「有名な信玄堤もそうでしたか?」と言った。
「そうですね、武田信玄や永田茂衛門父子の時代より400年は遡る事になりますけどね・・」私はそう言って小和田さんの呟きを肯定した。
 
「そしてそこには霞ケ浦や北浦の新田開発で活躍した、行方(なめかた)の麻生氏のノウハウや人材も使われていたかもしれない、と皆さんはお考えなんですかね・・」先ほど来の「麻生平太胤國」の事を引き合いに出して、滝本さんが私達に聞いてきた。
 
 
「その可能性はあるかと想います。麻生胤國は義定公の重臣で五奉行の一人だった人物ですからね・・。
それに同じ越後の上越には五奉行の一人で『馬奉行』を担っていたと、私たちが推察してる宮道遠式が関わったと思われる巨大な厩の遺跡も在るんですよ。
 
その飯田川からそう遠くない場所に在るんですがね、やはり義定公五奉行の越後の国造りへの関与は、そういった点を考え合わせると大いにあり得るんです。麻生胤國だけではなくって、ですね・・」私はそう言って滝本さんの問に応えた。
 
 
「ところで立花さんョ、越後の金山衆ってのはそのぉ河川の改修や新田開発だけだったんだっぺかぁ?金山開発にはあまり関係ねえみたいだケンがョ・・」鶏冠井(かいで)さんが聞いてきた。
 
「いや、もちろん金山開発もありますよ。同じ上越でも西隣り富山側の糸魚川になるんですけどね、金山開発の舞台は・・。上越というか越後でも最西端で北アルプスが日本海に突き出る辺りで、『糸魚川・静岡構造線』のフォッサマグナの最北端になるんですけどね・・」私が応えた。
 
「そうすると、やっぱり日本列島がくっついた辺りになるんですね、糸魚川という事は。確か山梨もフォッサマグナに掛かるんじゃなかったですか?」滝本さんが言った。
 
「さすが地学の先生ですね、おっしゃる通りです。
糸魚川の北アルプスから中央アルプスの松本や諏訪湖を下って、南アルプス沿いに山梨の富士川から駿河湾に出るコースですよね」私がそう言うと、久保田さんが
 
「ちょうどウマい具合に、金鉱山がほのフォッサマグナに沿うように広がってるじゃんね・・」と言って、日本の縦の中心部が金鉱山に関係していることを指摘した。
 
 
 
                
 
 
 
「それはたぶん偶然ではなくって、必然だと想いますよ」滝本さんが短く言った。
「やっぱり、地殻変動っていうか、地殻変動を引き起こすプレート同士の衝突によって形成される山脈なんかに依って、金鉱山が誕生するって事に成るんですか?」
 
私はまだ十分には理解出来てない、金鉱石や金の誕生プロセスについての情報や知識が乏しかったこともあって、確認の意味もあって滝本さんに聞いてみた。
 
 
「私もそんなに詳しいわけではありませんが、元素としての金の生成についての明確な答えは未だ見つかってないことは確かです。
しかしまぁ状況証拠としては立花さんが言われるようなことはある様ですね。
 
フィリッピンプレートや北米プレート・ユーラシアプレート、といった幾つかのプレートがぶつかり合ってできる、日本の山脈の近郊に金鉱石や金山が発見されることは多いようですね。フォッサマグナもそうですし、日高山脈もそうですからね・・」滝本さんが慎重な言い回しでそう応えた。
 
「了解です。まだまだ謎が多いという事だけは理解することが出来ました、アハハ。
いずれにしても、その日本列島の形成に大きな影響があった『糸魚川静岡構造線』のフォッサマグナの、将にその起点でもある糸魚川に、幾つかの金の採れる山が在って、それを甲州金山衆は運よく見つけ出すことが出来た、と言う事のようですね・・」私は鶏冠井(かいで)さんに向かってそう言った。
 
「佐渡金山当たりとは違うんだっけかぁ⤴」鶏冠井さんが聞いてきた。
「えぇ、当時は未だ佐渡島の金山開発は行われていなかったようですね、本州の日本海側に向かって延びる北アルプスの山脈の中に、幾つかの『金山(かなやま)』といわれる山が在って、その山から流れ出る幾つかの河川の中から砂金などが採れたようで、その辺りがとっかかりに成ったようです・・」私が応えた。
 
 
「ところで立花さんはどのような方法で、そういった金の採取が行われた場所とかを特定したり予測してるんですか?」滝本さんが聞いてきた。
「そうですね、そのとっかかりはやっぱり神社ですかね・・」私が応えた。
「神社ですか⁉市町村の公文書というか、そういったものなんかはどうなんですか?」滝本さんが更に聞いてきた。
 
「アはい、おっしゃるように『市町村史』も確認するために調べますよ。でもとっかかりはやっぱり神社ですね。そこからスタートします私は・・。
 
先程の上越市の場合もそうでしたけど、『金山彦』や『金山神社』といった名称や祭神の一覧が確認できる、書物なんかを辿って行く事から始めるわけですね・・」私がそう応えると、高萩さんが
「白山神社って線は無いんですか?」と聞いてきた。
 
 
「甲州金山衆の場合は『金山神社』が多いようですね、遠州では『南宮神社』というのも一部ありましたけどね・・。
あそうだ、糸魚川には能生町の白山神社ってのがありましたね。忘れてました。
 
その能生町には北アルプスの妙高連山から流れてくる、能生川って大きな河川が在るんですけど、その能生川の中流に『槙金山神社』ってのが在りましてね。
 
で、そこでは神社の近くの川が蛇行する辺りで良質の砂金が採れたんで、その神社を祀っているというんですね。通称『金堀場』と言われる場所に成るんですけどね・・」私がそう説明すると、小和田さんが、
 
「白山神社とは、どういった関係に成るんですか?」と遠慮がちに聞いてきた。
「あ、失礼しました。それ未だ言ってませんでしたね、やっぱり皆さん白山神社気に成りますか・・」私はそう言って茨城のメンバーを観てから、
 
 
「白山神社はその能生川が日本海にそそぐ近くの集落に在るんですが、その白山神社は安田義資(よしすけ)公や金山衆が越後之國に入部する、ずっと前から在る神社でして、いうなれば金山衆たちの方が後から来た新参者に成るんですよ。
 
ですから金山衆たちが砂金や川金を求めて能生川や幾つかの糸魚川の河川を調べる以前から、地域の産土神社として鎮座していたわけでして・・」私がそう説明すると、
 
「という事は白山神社とは特に接点があるわけでは無い、って事ですか金山衆とは・・」高萩さんが確認するようにそう言って、私をじっと見た。
 
 
「イヤところがですね、必ずしもそういうワケでも無いんですよ・・」私はちょっと思わせぶりにそう言ってから、高萩さん達を見て話を続けた。
「実はですね、その白山神社というのは通常の白山神社とはちょっと毛色が変わってましてね、神社の祭神が菊理姫命ではなくってですね奴奈川姫命と大国主命なんですよ・・。
 
白山神社の祭神といえば通常は菊理姫ですよね、フツー。でもここは違うんです。
尤も、糸魚川ですから奴奈川姫が前面に出てくること自体は、ある種当たり前ではあるんですけどね・・」
 
「ってコンは、どういう事に成るんだっけかぁ⤴」鶏冠井さんが聞いてきた。
「えぇそうですね、通常考えられるのは古代より続いていた地元の奴奈川姫やその夫である大国主を祀っていた産土神社に、何らかの事情で北陸の大社である白山神社が入り込み、名称を変えることに成ったんじゃないかと。
 
ところが祭神は旧来どおりの奴奈川姫や大国主命のままで、看板だけ取り換えた、という事なんだろうと推察できるわけです・・。
 
でそのちょっと変わった白山神社に、能生川の中流に拠点を構えた金山衆や守護の安田義資公がスポンサーとなって、その白山神社の神事や建築物の造営などをバックアップしていたのではないか、と思われる残存物が幾つかありましてね・・。
 
実際白山神社のご神体の奴奈川姫像や神宮寺の十一面観音像は、平安時代末期から鎌倉時代初期の作だといわれているんですよ。それって義資公の時代ですよね・・。
更には拝殿や神殿、宝物殿といった建造物や、大きくて立派な石造りの狛犬や石灯籠には甲斐源氏縁りの三つ巴紋が施されてましてね・・。
 
これらの建造物は義資公や金山衆が、能生川で潤沢に採れた川金や山金を使って、資金援助して寄贈したり造営してきたのではなかったかと、そう想ってるんですよ・・」と私は長々と説明した。
 
 
 
 
          
                  存在感のある狛犬が出迎える能生白山神社
 
 
 
「当時であれば『大旦那』と成って、それらの援助をしていたんでしょうかね・・」上野さんがそう言って、話に加わって来た。
「そうかもしれませんね・・」私はそう上野さんに応えた。
 
江戸時代までの日本では有力者が神社仏閣などの仏像やご神体を、京都や奈良の専門的な技術者に造らせて寄進するという、当時の社会的文化システムを念頭において私はそう応えたのだった。
 
「それに十一面観音は、本地垂迹でいえば金山彦が仏教の世界で化身した観音様、という事に成ってますから、ここでも金山衆との関係が出てくるわけですね。
 
何せ奴奈川姫と十一面観音は平安末期から鎌倉初期の作という事らしいですから、守護の義資公や金山衆が寄進した可能性が大いに考えられるんですよ・・」私は付け加えた。
 
 
「という事は、鎌倉時代の初頭に金山彦を祀る甲州金山衆が糸魚川能生町あたりに入部してから、白山神社と金山開発に関係が出来た、ということになるんですかね・・」高萩さんがこれまでの話を整理するように、そう言った。
 
「そんな風に考えると私的には納得がいくんですけどね・・。
ただあくまでもそれは従来の産土(うぶすな)神社として定着していた場所に於いて、だったのではないかと、思います。
 
一方で、自分たちの本拠地では従来通り金山彦を祭神とした金山神社を祀った、と想います。糸魚川の幾つかの川筋に在る金山神社の存在を考えると、そのように考えた方が自然なんですよね・・」私がそう言うと、久保田さんが、
 
「ほうすると奥久慈じゃぁ、上杉謙信の協力で越後からやって来た越後金山衆が白山神社を連れてきたけんが、ほん時はすでに金山神社じゃなかったってコンになるずらか・・」と私に確認するように言った。
 
「まぁ鎌倉時代初期から戦国時代まで300年以上は経ってますからね、その間甲州金山衆の技術やノウハウが越後で定着し芽生え、新たな越後金山衆が誕生したとは考えられませんかね・・。
 
そのいわば土着化した越後出身者による金山衆にとっては、十一面観音に繋がる白山神社信仰と金山開発が結びついたのかもしれませんね・・。
その場合十一面観音がキーに成ったんだと、私はそう想っています」私は推測を交えてそのように久保田さんや茨城のメンバーに説明した。
 
 
「確かにそうかもしれませんが、確か西金沙神社山麓の小さな川に、金山彦を祀った祠が在りましたよね・・」藤木さんがそう言って、私達が西金沙神社近くの浅川で偶然見つけた金山彦を祀る「小さな祠」が在った事を思い起こさせた。
私たちが肯くと、藤木さんは
 
「ということは断定はできませんが、やはり甲州金山衆の末裔も越後金山衆と一緒に、その上杉謙信の時に一緒に西金沙にやって来たのかもしれませんね。そう考えることは出来ませんか、どうでしょう?」といつものように、慎重に言った。
 
「確かに・・」私はそう呟きながら少し考えた。
確かに藤木さんが推察したように甲州金山衆の末裔と越後金山衆の混成部隊でこの奥久慈に越後からやって来たのかもしれない・・。
 
「ほうは言っても、『金沙神社』や『白山神社』は沢山あるみてぇだケンが『金山神社』は、あのちっこい”祠”が一つ在っただけじゃんね・・」久保田さんがそう言って私達を見廻した。
 
「確かに・・。・・白山神社は確か14でしたか15でしたか・・」私は確認するように、小和田さんにそう尋ねた。
「そんなもんですね・・」小和田さんは即答した。
 
 
「確か、殆どが境内社として祀られている小さな祠や神社だったとか・・。それもまた後からやって来た越後金山衆が、地元の産土神を祀る神社に白山神社を編入したから、そういった祠として祀られることに成ったんでしょうね、たぶん・・」私は奥久慈エリアにおける白山神社の位置づけについて、そのように仮説を話した。
 
「その通り、でしょうね・・」小和田さんは肯きながらそう応えた。
「なるほどね・・」私はそう言って更に確認するために、
 
「金山彦を祀った『金山神社』は私が、事前に調べた範囲では見つけることが出来なかったんですが、やはり常陸之國というかこの奥久慈では『金山神社』は無いんですか?
それとも・・」私が茨城のメンバーの顔をゆっくりと見廻しながらそう尋ねたのだが、彼らからの反応は無かった。思い当たらない様だった。
 
 
「ねぇな・・。やっぱ金沙神社だっぺな・・」鶏冠井さんが力なくそう応えた。
 
「やっぱりそうですか・・。そうすると今のところ私たちが今日、西金沙神社に向かう途中偶然見つけた、あの浅川の橋のたもとの祠の金山神社だけ、という事に成りそうですね・・。
 
という事は越後から上杉謙信に派遣された金山衆の混成部隊の多くは、白山神社を信奉する越後金山衆が主力で、金山神社を信奉する甲州系の金山衆の末裔は少なかった、という事に成りそうですね。まぁあくまでも構成比でいえば、ですけどね・・。
 
鎌倉時代からの300年近くの間に、越後之國では土着の白山神社を信奉する金山衆が増えて行った、という事なんでしょうね・・。
そしてそれが後の、越後金山衆を形成していったと・・」私は言った。
 
 
その様に話しながら私は、金山衆とは違う神様を信奉する越後の金山衆に思いを馳せた。
甲州金山衆の場合は、殆どが「金山彦」を祭神にする「金山神社」が中心であった。
一部遠州春野町では南宮神社が在ったが、それは徳川家康の宗教政策によって変更させられたレアケースであった。
 
それに対し、常陸之國では主として「金沙神社」であり、その祭神は大国主命と少名彦命であった
更に越後之國にあっては、鎌倉時代初頭に入部した甲州金山衆が中心とした地域では、金山彦の金山神社が中心であったが、越後の金山衆が育ってくると共にそれらの地域では彼らが古えより信奉する、菊理姫を祭神とする「白山神社」であった。
 
地域や国々によって同じ金山開発をする場合であっても、担い手たちの産土神との関係によって祭神や神社が異なることを、私は改めて認識しその事を理解した。
 
 
と同時に、以前越後之國において糸魚川エリアを除き金山神社が殆ど確認出来なかったのは、このような事情があったからかもしれない、という事に気が付いた。
 
同じ糸魚川市においても明治時代に活発な金山開発が行われた「橋立金山」の在った、糸魚川市「青海町親不知地区」 や「上越市域」であっても、「白山神社」について改めて確認してみる必要があるのかもしれない、と私は考えるようになった。
その時は十一面観音との関わりも確認する必要があるだろう、とぼんやりと想った。
 
まだまだ知らないことが沢山あり、自分自身の課題が多く残っている事に改めて私は気が付いたのであった。
 
 
そのような白山神社と越後金山衆について話が盛り上がっているうちに、会席の場であった宿の宴会場の営業時間が終了することに成った。
すでに時刻は10時を過ぎていた。
 
その後私達は明日の八溝山探訪の、待ち合わせ場所を確認した上で、3時間余り続いた宿での情報交換会を終えることにした。
 
 
 
 
 
 
 

 金山彦命と十一面観音

 
 
 
翌朝私達は朝食を済ませた後で、8時半にホテルのロビーで待ち合わせをした。
10分近く前に清算のためにロビーに向かうと、藤木さん達がすでに会計を済ませ、ロビーの庭園が見える側に在るソファに座って、庭を観ていた。
 
私と久保田さんが清算を済ませて合流すると、すぐに駐車場にと向かった。
歩きながら藤木さんが私の近くにやって来て、
「明日の霞ヶ浦の件ですが、ちょっと予定を変更しようかと思ってるんですけどね・・。詳細は車の中でお話ししますけど・・」と言った。
私は突然の申し出にちょっと驚いて、
 
「えっ⁉そうなんですか・・でもまたどうして・・」と藤木さんに言いながら
「ではお車の中で・・」と言って、久保田さんの横の助手席に座った。
 
 
車が動き始めてから藤木さんが話し始めた。
「実はあの後上野クンとも話したんですがね、私は麻生平太胤國についての認識を改めたほうが良いんじゃないかってね、そう想い始めたんですよ・・」
 
「ひょっとして昨日の滝本さんが言ってたことに関連してるんですか?」
私は滝本さんが麻生平太について語っていた、霞ケ浦湖岸の開拓工事と麻生氏の事を思い出してそう言ったのだ。
実際のところ私自身も、滝本さんの話を聞いて麻生平太についての認識を改めたほうが良いかもしれない、と同じような事を考え始めていたのであった。
 
「そういう事なんですよ、滝本さんが言われたように麻生平太の拠点行方(なめかた)エリアは、古くから霞ケ浦や北浦を干拓し新田開発を行ってきた場所だったと・・。
で、その方面の人材やノウハウが蓄積されてきたエリアであった、という指摘ですよね。
 
それに私は刺激を受けましてね・・。もう一度麻生平太の義定公の五奉行としての役割について、改めて調べてみたいと思いまして・・」藤木さんが言った。
 
 
「なるほど、そういう事ですか・・。
イヤ実は私も昨日の滝本さんの問題意識というか解釈を聞いて、確かに・・。と思う点はあったんですよ・・」私がそう言うと、藤木さんは
 
「そうですか立花さんも、でしたか・・。
いずれにしてもそういう事で明日は霞ケ浦の東岸でしたっけ、その麻生郷に行くのは止めて土浦の図書館で、干拓事業に関する歴史や資料を漁って情報を収集したほうが良いのでは、と考えたんですよ。
 
それにどうやら今日のホテルは確かJR土浦駅の近くでしたよね、因みに土浦の市立図書館はJR土浦駅に隣接しているようですし・・。私と上野クンは図書館に行って・・
藤木さんはそう言って、今日泊まる予定の土浦のホテル近くに、図書館が在ることを既に調べ確認しているようだった。
 
「なるほど、なるほどそうですか、JR土浦の駅近くに市立図書館が在るんですね・・。了解です、了解しました」私はそう言って藤木さん達の申し入れを理解し、すんなりと受け入れることにした。
 
 
「ほしたらおらんとぅ(自分達)はどういうコンになるで・・」久保田さんが運転しながら聞いてきた。
「そうですね・・。私は予定通り行方市の麻生郷や鹿島市沼尾の金沙神社を訪ねようかと、思ってますが久保田さんはどうされます?」私がそう言うと、
「ほうだね・・」と言って久保田さんは少し考えた。
 
「ほしたらオレは立花さんに付き合うとするか・・。一緒に霞ケ浦や北浦に行ってみるじゃん。ほれに確かアントラーズの『サッカースタジアム』も近くに在るんだったよね、ちょっと寄って観てみたいと思ってるだよオレは・・」久保田さんは運転しながら、大きめの声を出してそう言って、私と一緒に行動することを選ぶと言った。
 
「了解です。そういう事でしたら今日は土浦のホテルに一緒に泊まって、明日はそれぞれ別行動という事にしましょうか。図書館チームと行方(なめかた)麻生・鹿島チームと・・」私が確認の意味でそういうと、久保田さんが藤木さん達に向かって、
 
「帰りはどうするでぇ?山梨には・・」と確認するように聞いてきた。
「そうですねぇ、終わる時間も別々でしょうからそれぞれ別々に帰るのが良いかと、そう思ってますが・・」藤木さんがそう言った。
 
「ほうけぇ・・、じゃぁほうするけ・・」久保田さんはそう言って、そのまま運転を続けながら自分に言い聞かせた。
 
 
私達は9時前には待ち合わせの場所であるJR水郡線の下野宮駅に到着した。
こじんまりとした小さな駅舎前のロータリーには高萩さんと鶏冠井(かいで)さんが待っていた。そしてもう一人新しいメンバーが加わっていた。
因みに小和田さんと滝本さんは、今日は所用があって参加されないことは昨日のうちに聞いていた。
 
私達は早速車を降りて、高萩さん達に挨拶を始めた。
 
「昨日は、遅くまでお付き合いいただいてありがとうございました」私が山梨のメンバーを代表してそう言うと、彼らもニコニコと笑顔を返した。
そして高萩さんが新しいメンバーを私達に紹介してくれた。
 
「こちらは荻野さんと言いまして、私達の仲間でもあるんですが、大子町周辺の神社仏閣に詳しいお人で、金山開発に関する情報の他に皆さんの関心領域である、神社仏閣の知識も豊富なので、改めて今日ご登場願ったわけです・・」そう言って高萩さんが70代前半と想われる、眼鏡をかけた白髪に帽子をかぶった小柄な人を紹介した。
 
「初めまして荻野です。皆さんのお話は高萩さん達からザッと教えてもらいました。黒川衆にもお詳しくて、越後の金山衆に関してもお詳しいようで・・。
その上昨日はこちらの鶏冠井さんのルーツに関しても、オリジナルな見解をなさったようで、鶏冠井さんも喜んでいましたよ。
 
私も皆さんから何か、刺激がもらえるかもしれないと、今日は愉しみにしていますので宜しくお願いします・・」荻野さんはそう言って帽子を取って頭を下げ、私達に挨拶をした。私達もつられて挨拶を返した。
 
 
その後、私たち山梨のメンバーが軽く自己紹介を済ませて、今日のザッとしたスケジュールの確認をした。高萩さんが口を開いた。
 
「今日の調査ポイントは、八溝山山頂の神社にお参りして、そのついでに周辺の金鉱跡地を何か所か巡って、槇野地の金沙神社と旧馬頭町の健神社を訪れる感じで良いですかね?」と高萩さんがそう言うと、鶏冠井さんが
 
「実はね、もう一か所行った方がいいかもしれン神社があるだょ。
昨日皆さんから聞かれた『金山彦』のコンだけどょ。念のために荻野さんに確認したら、金山彦を祀った神社が大子町にも在るっていうもんだからょ・・」そう言って鶏冠井さんは荻野さんを見てから、手の平を動かして彼にその先を促した。
 
 
「アはい、了解です。では私の方から・・」荻野さんはそう言ってから、私達の顔を見廻して、ゆっくりと話し始めた。
 
 
「このJRの前の道路をずっと北に向かって福島に行く県道196号線沿いに、中郷という集落が在るんですが、その中郷のほぼ中央といってよい場所に『中山神社』という神社が在りまして、その中山神社の祭神が金山彦命なんですよ・・」荻野さんがそう言うと、鶏冠井さんが
 
「だけんど、中郷には金山や砂金が採れたッて話は聞いたこん無かっぺょ・・」と問わず語りに呟くように言った。
 
「因みにその神社の在る場所と八溝山との関係は、どういった感じに成るんですか?」私が尋ねると、鶏冠井さんが
「まンだ、だいぶ離れッてるよぉ、5・6㎞は離れてるっぺょ。中郷は大神宮山の麓ってコンに成るッからょ・・」と教えてくれた。
 
「大神宮山は八溝山を頂点とする、福島県との国境である山々の一つではあるんですが、5・6㎞は離れてると思いますから・・」荻野さんもそう言って、中山神社と八溝山とはかなり離れていることを教えてくれた。
 
「そうですか、八溝山との距離はそれなりにあるんですね・・。更に金鉱山や砂金が採れたというような場所でもないんでしたかね・・」私が確認するようにそう言うと、久保田さんが
「立花さん、川は聞かんでもいいだけ?」と私に、近くに川が在るかどうかを確認しなくてよいかを聞いてきた。
 
 
「あ、そうでしたね了解です・・。
因みに神社の近くに川は在りますか?もっと言えばその川は、多少なりとも蛇行しているとか・・」私がそう尋ねると、荻野さんが
「ええ、川ありますよ。その名も中郷川って言うんですがね。さらに御指摘なようにちょうど中山神社のあたりで、大きく蛇行しています・・」そう言って、それが何か?といったような目で私を観た。
 
「なるほどですね、中山神社の麓では中郷川が大きく蛇行しているんですね?
そして金山彦が祀られていると・・」私は自分の顔がほころんでいくのが判って、嬉しさが隠せないでいた。
「そしたら行くっきゃないですね・・」私はニヤニヤしながら山梨のメンバーを観てそう言って、同意を得るようにそれぞれの顔を観た。彼らもニコニコしていた。
 
 
「イヤ実はですね、その神社が川のそばに在って祭神が金山彦であると、更にその川が蛇行しているとなるとどうしても私達には、金山衆の事が浮かんでくるんですよ・・。
 
常陸太田の金沙神社本宮や金沙山神社、更に西金沙神社でもそうでしたけど河川と川金や砂金とは結構結びつくんですよね。西金沙や本宮では浅川がそうでしたけど・・」
私はそう言って昨日一緒に金沙神社群を見に行った高萩さんを観て、確認するようにそう言った。
 
「それに糸魚川の能生川もほうだったズラ・・」久保田さんが言った。
「そうでした・・。昨日も話しましたが越後金山衆の先駆けともいうべき、甲州金山衆が棲みついたと思われる、糸魚川市の能生川中流の槙地区の『金山神社』は、その中山神社と全く同じような環境でしてね・・。
 
能生川の中流に在る蛇行した場所に通称『金堀場』と言われている処が在って、そこではやはり良質の川金が採れたという事で、『金山彦』を祀った神社をその近くに建てて祀ってきた、という謂れがあるんですよ・・。
 
因みにその能生川の上流には北アルプスの妙高連山が連なってるんですが、そこには『金山(かなやま)』と『裏金山』の二つの山が在りましてね。
そこから山金が流れて来て沈殿し、川金に成ったと推測できるんですよね・・。
その中郷川の上流にはそういった山は存在するんですか、そのぉ『かなやま』とでもいうような名前の・・」私はそう言ってやや詳しく説明した上で、改めて鶏冠井さんと荻野さんを見た。
 
 
「いんや、無ぇなぁ・・」鶏冠井(かいで)さんは荻野さんと顔を見合わせながら、否定した。荻野さんも同意するように首を振った。
 
「そうですか、ひとまず了解しました。いずれにしても八溝山に行く前にその中山神社に行きましょうよ!」
私は山梨のメンバーに目で確認したうえで、改めて茨城のメンバーにそう言って、これから中山神社に立ち寄る事を依頼した。
 
それから私たちはそれぞれ二台の車に分乗して、「金山彦命」を祀る中郷地区の中山神社にと向かって行った。
 
 
                    
                           JR水郡線下野宮駅
 
 
 
 
JR下野宮駅を出て、県道196号線に入りそのまま道なりに、私達は福島県白河市に向かう方面を目指して、緩やかな坂道を北上することに成った。
 
ニ十分もしないうちに山間の針葉樹が道路に迫り始めた、もうすぐ左側にカーブすると思われた県道の左側に、石段の参道入口に建つ石造りの鳥居を発見した。
 
先行する高萩さん達の車がハザードランプを点滅して、県道左側のブロック塀脇に駐車するのを確認して、その横に続いて車を停めた。
 
 
道路の反対側にはガードレールが連なっており、その先がどうやら中郷川に繋がる河川敷らしく、かなりの高低差があるように見受けられた。
 
車を降りて荻野さんに近づいて、私は
「ガードレールの向かいが中郷川なんですかね、ここからは見えませんが・・」と確認するように聞いてみた。荻野さんは小刻みに何度か頷きながら、
 
「はい、おっしゃる通りです。あのガードレールは低い中郷川の河川敷に転落しないために、ああやって注意を促しつつブロックしているわけですね・・」と説明してくれた。
 
 
その後、私達は連れだってガードレールにと向かった。
ガードレールの下は確かにそれなりに高低差があって、ガードレールの必要性を感じた。更に川筋までは数十mは在って、その間の河川敷には茶畑等の畠や雑木がおい茂り、川筋を覆い隠していた。
 
その中郷川の場所をガードレール越しに確認してから、私達は振り返って反対側の山の中腹に在る、中山神社に向かった。
 
杉林に囲まれた真っ直ぐ上る参道を数分登って、ほぼ正面に在る神社に到着した。
神社に正礼で挨拶を済ませた後で、私達は中郷川の方を振り向いて蛇行する河川を確認して、しばらく話し合った。
 
 
「やはり、大きく蛇行してますね。そしてここでは金山彦が祀られていますよね・・」私がそう言うと、荻野さんが
「この神社は大巳貴命と金山彦が祀られてるんですが、言い伝えでは江戸時代の一時期讃岐の金毘羅さんを勧進して、金毘羅大権現と称していた時期もあったらしいですね・・」と解説してくれた。
 
「金毘羅権現信仰という事は江戸時代に入って、一大ブームが全国で起きた頃ですかね」私がそう言うと、荻野さんは肯きながら
「江戸時代末期の文久年代には、現在の中山神社にと戻り、改称したようですね」と、更に詳しく教えてくれた。
 
 
「幕末ですか・・。そうすると江戸時代初期から尊王攘夷が盛んだった水戸藩の影響もあって神仏混交を嫌って戻したんですかね・・」私がポツリとそう言うと、荻野さんは
「さぁ、その辺は何とも・・」と言っただけだった。どうやら神社名が戻った経緯は知らないようだった。
 
「大巳貴命ってことは大国主の事だから、金沙神社の祭神と同んなじですよね、国津神系の・・。それと金山彦とが共に祭られているのが、この神社ってことですね・・」私がそう確認するように言うと、上野さんが
 
「やはりここ常陸之國においては、金沙神社が象徴する大国主を祭神とした神社が歴史的には古くて、その上に上杉謙信の時代に越後の金山衆が白山神社を連れてきたという事ですね。
と同時にその中には、数は少ないけどこの神社がそうであるように、金山彦を祀る甲州金山衆の末裔もそれに混じって入って来ていた、という事になるんですかね・・」と纏めるようにそう言った。
 
「そこの中郷川で砂金が採れて、その記念に金山衆が金山彦を祀る神社を造って祀り、こうやって中山神社として残っている、という事かもしれませんね・・」私も上野さんの解釈に同意してそう言った。
 
 
 
                    
                           中山神社拝殿
 
 
 
「もちろんまだまだ確認しなくてはならないことが沢山あるのは承知してますけど、そういった仮説を私達は立ててみたいですね・・この神社に関しては」私はそう言ってひとまずこの神社の事を自分たちなりに整理し、まとめた。
 
「そしたら今度、中郷川の底を川ッ浚(さら)いでもやってみっぺかなぁ・・」鶏冠井さんが呟くように言った。
「ぜひ、お願いしますよ・・。そしてその結果をまた教えてください。待ってますから・・」私はニコニコしながら鶏冠井さんにそうお願いした。
 
 
「皆さんは、神社に祀られている神様の系統でその近辺の金山開発や砂金掘りを担ってきた人たちが判明できる、と考えてられるんですかね・・」荻野さんがそう言って私たちに確認してきた。
 
「そうですね、金山衆って尊崇するご神体や神様に関してはかなり敏感ですからね・・。金堀という仕事は結構命懸けの作業ですし、何よりも稲作のように収獲が安定してなくて、金鉱山や金脈が枯渇することは当たり前ですからね。
それだけ神様に対する信仰心が篤くなる傾向があるようで・・」私はそう言って荻野さんの疑問に応えた。
 
 
「そうなんですか・・。そういえば八溝山の麓というか近郊では、古代から修験道が活発だったこともあって、仏教の観音信仰が盛んだったようでしてね、古くから神仏への信仰が盛んだったようです・・」荻野さんが言った。
「それって、ひょっとして十一面観音とかですか?」私がそう口を挟むと、荻野さんは、
 
「アはい、その通りです。十一面観音信仰が盛んなんです。
因みにこれから行く八溝山の神様はここと同様大巳貴命なんですが、山の中腹に在る日輪寺は修験道の拠点でもあったんですけど、そこのご本尊も将に十一面観音でしてね・・」と八溝山と十一面観音の関係を説明し始めた。
 
「神仏混交というわけですか・・」私がそう呟くと、
「ま、そういう事ですね、古代の日本の仏教は多くがそうだったと思いますが、八溝山も同様だったようで、ここでは天台宗の影響が濃かったようです。
それに八溝山そのものが観音信仰の一大霊場として、多くの修験者や行者たちの拠点=行場となっていたようなんです」荻野さんが応えた。
 
 
「なるほどそのシンボルとして十一面観音が中心に添えられてきたわけですか・・。因みにその信仰の時代というと何時頃からに成るんですか?」私が更に尋ねると、
「平安時代にはすでに、関東では知られた『行場』だったという事です」荻野さんが応えた。
 
「とすると、八溝山で砂金がたくさん採れて遣唐使派遣の財源にもなったという、平安時代初期の9世紀頃には既に修験者の『行場』だったりしたんですかね・・」私が更に聞くと、荻野さんは、
 
「寺の『縁起書』などによる伝承では、役小角の奈良時代からの行場だったと成っていますが、その『縁起書』は江戸時代に書かれたもので奈良時代まで遡る様な、確たる証拠はまだないようですね・・。
 
しかしまぁ、平安時代や鎌倉時代に造られたという仏像なんかが、幾つか残っていて確認できますので、おそらく平安時代には八溝山とその周辺の山並みは、すでに修験者達にとって神聖な『行場』として、著名な存在ではあったようですね・・」と慎重な言い回しで、時代を特定しないままその様に説明した。
 
「いずれにしても十一面観音が大きな役割を果たしてはいるわけですね、ここ八溝山周辺の仏教界では・・」私がそう言うと、
「それは間違いないようですね・・」荻野さんが応えた。
 
 
「黒川衆も十一面観音を、甲斐之國黒川山の金鶏寺のご本尊にもしてましたが、確か越後金山衆の白山神社も十一面観音を祀っていたんじゃなかったですか、立花さん・・」藤木さんがそう言って、会話に加わった。
 
「そうですね、その通りです。糸魚川能生町の白山神社ではご神体の奴奈川姫と大国主命と共に、十一面観音が祀られていましたね・・」私は肯いてそう言った。
「西金沙神社奥宮の白山神社でも、ほうじゃなかったっけ?」久保田さんが高萩さんに確かめる様に、そう言った。高萩さんは久保田さんのそのフリに頷いて、
 
「14・5か所ある白山神社ではご神体の菊理姫と共に十一面観音像が祀られていたかと記憶しています・・」と肯定した。
「やはり本地垂迹の影響で、金山彦の化身とされる十一面観音信仰が付いて回るんですね。奥久慈は金山開発が盛んな場所でしたから、仏様も金山彦の化身の十一面観音という事に成ってくるわけですね・・、神仏混交でしたし・・」
 
私はそう言って、八溝山周辺で盛んだった十一面観音の信仰と、八溝山周辺で金山開発を担っていた金堀師たち即ち「八溝金山衆」との接点が、金山彦の化身でもある十一面観音であることを、自分なりに解釈し、納得した。
 
 
私達は中山神社の境内でその様な話を済ませて、奥久慈では十一面観音が大きな信仰の対象に成っていたことを確認してから、参道を下って行った。
 
県道に停めてあった車にそれぞれが乗って、私達はいよいよ北茨城のシンボルである八溝山を目指して、向かって行くことにした。
 
 
 
             
                 十一面観音像
 
 
 
 
 
 
 
 

 八溝山周辺の金鉱跡

 
 
古代や中世・近世においても一般民衆と同様に、金山衆たちにとってもやはり仏教や神道といった宗教心が、彼らの心の拠り所となっていたことを確認して、私たちは八溝山にと向かう事にした。
途中「腐れ沢」という八溝山頂に向かうルートの入り口近くに、「金鉱の跡」が在るというので、そこに立ち寄ることにした。
 
その後これからの予定をザッとした確認した上で私達は、県道196号線を元来た道に向かって下り、中郷の中山神社を後にした。
 
196号が県道28号のT字路に突き当たった「町付」という集落で、右折して西に向かい、そのまま県道28号に沿う形で緩やかな坂道を上るようにして、八溝山に至る「腐れ沢」を目指した。
 
 
山狭の集落を縫うように続く県道28号を、10㎞程八溝山に向かい北上した私達は、水しぶきを上げて勢いよく弄ばしる様に流れる川が右手に見える、やや大きめの三叉路に差し掛かった。
 
その三叉路を右折する舗装された道の道路標識には、「八溝山」山頂に続く県道248号と書かれていた。ところがその登山道は二年ほど前の颱風による土砂崩れのために、交通止めになっており、通行が禁止されていた。
 
前を行く高萩さん達の車がその通行止めブロックの、近くに停まったのを確認して私達も続いた。
茨城のメンバーが車から降りたので、彼らに倣って車を降りた。
 
 
「ここが『腐れ沢』に成ります」高萩さんは、登山道を県道に沿って勢いよく流れる狭い沢を指してそう言った。
「で、向こうに見えるちょっとした洞穴が、金鉱の跡地に成ります」高萩さんは沢の対岸に小さく見える洞穴を指してそう言った。
 
彼は私達の顔を見廻したうえで、
「では、行きましょうか・・」と言って私達を促しながら、県道28号の橋下をかい潜るように流れる沢の向かい側にと、向かって行った。
 
山裾の杉木立に囲まれた洞穴の近くは日陰という事もあってか、雑草に覆われた道無き道は所々が泥濘るんでいた。
多少足元に気を使いながら、私たちは先方を行く茨城のメンバーに続いた。
 
先ほど道向こうで確認した雑草や雑木に囲まれた一画に、ちょっとした岩山の足元を削ったような洞穴が見えてきた。
その入り口近くには、「金山坑道跡」と書かれた手製の小さな標識があった。どうやら地元のボランティア団体が作成したものらしい。
 
 
 
 
 
              
               「腐れ沢」の金鉱跡
 
 
洞穴の前で私たちを待っていた茨城のメンバーに追いつくと、高萩さんが洞穴を指して話し始めた。
「ここは佐竹氏の時代に盛んに掘られた八溝山周辺の金鉱山の跡地の一つで、ご覧のように人一人が入れるくらいの大きさです。
私は中に入ったことはありませんが、中は水浸しでコウモリ等の棲家に成っているようです。・・奥行きはどのくらい在るんでしたっけ?」高萩さんが鶏冠井(かいで)さんに向かって、そう尋ねた。
 
「ま、百2・30mってとこだっぺな・・」鶏冠井さんが顎の髭をイジリながら応えた。現役の砂金掘師の鶏冠井さんは、どうやらこの中にも入ったことがあるようだ。
 
「見ても判ると思うけんどょ、入口にちょっとした水溜まりがあっから、長靴でも履いてなけりゃちょっと無理だわな。腰を屈めて中を進むコンに成るけんど、5・60mほど入ったトコで二股に成ってるだよ・・。えらくコウモリが居たっけなぁ」彼は続けた。
 
「で、首尾は如何でしたか?」私がニヤニヤしながら金鉱探検の成果を尋ねると、鶏冠井さんは
「まぁチョコットばっかしな・・」彼はニヤリとしてそう言いながら、親指と人差し指とで数センチの大きさをあらわした。どうやら成果はあったようだ。
 
 
「佐竹氏の時代という事は、やはり秀吉の朝鮮出兵に駆り出されて軍資金の調達が求められた頃、という事に成るんですかね?」私が高萩さん達にそう尋ねると、
 
「戦国時代末期というか、安土桃山時代の事だと思います。
因みに先ほど通過してきた集落は『磯神地区』というんですが、その辺りからここ『腐れ沢』、更にこの28号の先の『蛇穴地区』辺りで盛んに掘られた、という事です・・」高萩さんはそう言って、先ほど通ってきた県道28号の下手から上手に向かって指差し、「磯神地区」と「蛇穴地区」をそれぞれ指し示した。
 
 
「『へびあな』ですか?なんだかすごい名前ですね・・」私がそう呟くように言うと、
「この辺りはかつて八溝山に大蛇が棲んでいた、という伝説がありましてね、『蛇穴』だとか『蛇カミ』といった大蛇に因んだ地名が幾つかあるですよ・・」荻野さんはそう言って、地元に残る伝説について話してくれた。
 
「それってひょっとして古代から続く八溝山麓の金鉱山の、採掘跡地だったりするんですかね・・」私がそんな風にあてずっぽうに言うと、高萩さんは
「ま、そんなとこでしょう・・」と言って、否定しなかった。
 
 
話に一区切りがついたこともあって、私たちは入れ代わり立ち代わり、洞穴の近くに行って、中を覗いてみた。
外見からでも判ったのだが、入り口付近の水溜りは思った以上に深いようだった。鶏冠井さんが言うように長靴でも履かないと、中を進むことは出来ないようであった。
 
 
私達は一通り洞穴の周囲なども確認のために見た上で、車のある場所に戻ることにした。
歩きながら、私が
「ここらの金鉱跡というのは大体こんな感じですか?」と誰に言うでもなく大きめの声でそう言うと、鶏冠井さんが
 
「ま、こんなもんだけンど、これは大っきい方だな・・」と言って教えてくれた。
「それにここは運よく街道からすぐ見える場所に在りますが、殆どは山の中腹や崖下、草まみれの中とか、そんな場所に在る事が多いです・・」荻野さんがそう言って付け加えた。
その話を聞いて、私達も「まぁ、そうだろうな・・」などと言いながら彼らの後をついて行った。
 
 
それから県道28号線を栃木の那須方面にと西北に更に上っていくと、ほどなくして「蛇穴」地区に着いた。バス停が「蛇穴」となっていた。
 
高萩さん達がそのまま進むので、私達も後をついてくと大きな鳥居が右手に見え、その鳥居をくぐるように参道でもある道路を入って行った。
どうやら八溝山頂に向かう登山道路のようであった。
 
先ほどの「腐れ沢」の県道248号に比べると古い登山道ではあったが、車道は舗装されており片側一車線であったが、対向車が来てもゆとりをもってすれ違う事の出来そうな、わりとしっかりした参道であり登山道であった。
 
そのツヅラ折りの登山道を前の車に遅れない程度の距離を保ちながらついて行くと、周囲の樹々が次第に針葉樹から広葉樹に代わっていくのが判った。ブナの林であった。
 
車窓から、ブナの円形の葉を透して柔らかな初夏の日差しがこぼれているのを、確認することができた。樹木の変化で私はそれだけ標高が高くなっていることに気づいた。
 
 
 
                   
 
 
 
ほどなくして山を登り切った、と思られる場所に到着した。
左手には神社に向かうこじんまりとした鳥居があり、そのほぼ向かい側のちょっとした駐車スペースに高萩さん達は車を付けた。
私達は高萩さん達の横に車を付けて、彼らに倣って車を降りた。
 
道路を挟んだその小さな鳥居を指して、
「この参道のすぐ上に八溝嶺神社が在ります」と、高萩さんが言った。
 
「例の平安時代初期に朝廷から位階を授けられたという、あの神社ですね・・」私は『續日本後紀』に書かれていた、遣唐使の資金を調達することが出来たことから「八溝山の黄金神」と称賛された、八溝山にまつわるエピソードを思い出してそう言った。
 
「おっしゃる通りです。その参道の上に鎮座しているのが、古代に『八溝黄金神』と称された『八溝嶺神社』です・・」高萩さんは肯きながらそう言った。
 
 
私たちはその説明に促されるようにして地味な木製の鳥居をくぐり、先を行く鶏冠井(かいで)さん達の後をついて参道を登った。
 
その土と木枠で出来ていた参道は短く、ほんの数分で「八溝嶺神社」本殿に着いた。
平安時代初期に朝廷の支援で祀られたというその本殿は想ったより小振りで、正直なところもっと仰々しい神社を想像していた私は、肩透かしを食らったのであった。
千年以上の歴史を有する神社の割には、荘厳さをあまり感じることはなかった。
 
 
その小振りで地味な神社に正礼で挨拶を済ませた後私たちは、神社のすぐ近くにそびえ建っているコンクリート製のお城の櫓の様な「展望台」にと向かい、そのまま階段を上って展望室のベランダにと落ち着いた。
 
高萩さんが眼下の関東平野を見回しながら、
「この八溝山は、こちら側は茨城県に成ってますが西側は栃木県で、裏手の北側は福島県に成るんですよ・・」とぐるりを指さしながら、そう言った。
 
「ホウ、そうでしたか。そうするとこの山が国境いというか県境で、昔なら『三国峠』とか『三国岳』とでも言われていたんですかね、ここは・・」私がニヤリとしながらそう言うと荻野さんが、
「佐竹氏の時代に成るまでここは現在の福島県で、かつては陸奥之國白川郡八溝山と言われていたんですよ・・」と、教えてくれた。
 
「そういえば『續日本後紀』にもそんな風に書かれていましたっけね・・」と、私は記憶をたどりながらそう言った。
 
 
「そういう事ですね。佐竹昌義が奥久慈七郡を統一するまで八溝山周辺は、陸奥之国や下野(しもつけ)之国の干渉をたびたび受け、それぞれの時代に有力な武将たちが登場する度に、その帰属先の国名や郡名が入れ替わり、一定してなかったですからね・・」高萩さんがそう言って、古代の八溝山の地政学的なポジションを話た。
 
「実際のところ八溝山周辺では砂金や山金は採掘されましたが、ご覧のような山岳地帯なので樹木は豊富ですが田畑には適さない土地でした。
長らく蝦夷(えみし)と呼ばれる狩猟生活中心の先住民や金堀の山の民、加えて山岳修験者といった人たちが暮らし出入りする『異界の地』と、当時の荘園社会で田畑を耕す人達には思われていたようでして・・」荻野さんはそう言って関東平野の北端に位置する、八溝山地について解説してくれた。
 
「確かにこのあたりの山岳地帯は、陸奥之国の入口である白河の関に接する場所ですし、広い関東平野の一番端っこでもありますもんね・・」私はそう言って、八溝山系の地理的な位置づけを自分なりに納得した。
 
 
「北茨城ちゅうとこは、こうやって山が沢山在るから『勿来(なこそ)の関』や『白河の関』が出来て、陸奥之国との国境いに成ってたちゅうコンだね。
ほれってやっぱり北米プレートとユーラシアプレートが合流し衝突し隆起した結果、こんな風に山岳地帯が誕生したってコンずらか・・」久保田さんが高萩さん達に確認するように、言った。
 
「地学の世界ではそのように理解されているようですね・・」高萩さんはそう言って久保田さんの解釈を肯定した。
 
 
「そしてそのことを直感的に理解していたのが、佐竹源氏や甲斐源氏の共通の祖先でもあった新羅三郎義光だった、というわけですね・・」私はそう言って、奥七郡の北茨城に固執した源義光について、想いを寄せた。上野さんが頷いて、
 
「そうでしょうね、新羅三郎義光は古代より黄金神と伝わる八溝山周辺を含む奥久慈に、金の存在を嗅ぎつけたからこそ、嫡男の義業を奥久慈の結節点でもあった佐竹郷に張り付けたんでしょうね・・」と言った。
 
私達は上野さんのその発言を聞いて、改めてこの「黄金神」と言われた八溝山頂の神社を見直して、大きく肯いた。
 
「すべてはここから始まった、という事ですかね・・」藤木さんが呟くように言った。
「確かに・・」私はそう言って、藤木さんの言葉に同意した。
 
実際のところ「黄金神」の八溝山が在ったからこそ、甲斐源氏や佐竹源氏の先祖たちがこの常陸之國北部に進出し、定着したのだった。そして甲斐源氏の武田氏の始まりもその延長線上にあったのだ。
藤木さんの呟きにはそういった思いがすべて含まれているように、私には想われた。
 
 
私達がそんな会話をしていると、荻野さんがリュックからコピーした地図を取り出して、私たちに配り始めた。
「これは大子町の主だった金鉱の跡地をプロットした地図なんですけど、良かったらご覧ください・・」彼はそう言って私達に一枚ずつ配った。そして、
 
「ご覧のように大子町では、八溝山を中心とした山岳地帯に何か所も金山跡が在ります。更にここから南に下って行って町の中央部左手の山側に当たるんですが、槇野地の『金沙神社』の下方にも多くの金鉱跡が散在しています。
八溝山系の山裾に当たるエリアですが『上金沢』『下金沢』といった辺りがそうですね。
 
そこから更に南下した『愛宕山』周辺の『上小川』や『下小川』といったエリアにも、多くの金鉱が在ったようです・・」と、そのコピーした地図の解説を始めた。
 
 
 
 
           
                   
                   :八溝山   :金鉱跡  
            ●:上から「八溝峰神社」「中山神社」「槇野地金沙神社」、
                  左下栃木県那珂町「健武(たけふ)神社」
 
 
「結構広範囲にわたって金鉱が分布してるんですね。思ってた以上に大子町は町全体で、金山開発が盛んだったんですね・・」私がそう言うと、藤木さんが
 
「因みにこれら金山開発には、時代的な流行り廃りというか、そういった時代背景のようなものはあったんですか?」と聞いてきた。
 
「そうですね、八溝山周辺から山裾の『金沢地区』については、古代から佐竹時代/水戸徳川家に掛けて活発に行われてきたようですね。一方南部の愛宕山周辺の『小川』地区辺りでは明治以降に比較的活発に開発が行われてきたようです・・」荻野さんが藤木さんの問いに応えるように説明した。
 
「ほう、明治以降もですか・・」私がそう呟くと、
「もちろん佐竹時代や水戸徳川家の時代にも、それなりに金山開発が行われていたようですが、近代的な開発手法や資本が入って、かなり大掛かりに行われる様に成ったのは、やはり明治半ばから第二次世界大戦直前の『金山開発統制令』が出る頃まで、だったようですね」荻野さんは説明を付け加えた。
 
「なるほどね・・。
ところでひょっとして、この緑の丸印の箇所は金山に関わる神社の場所ですか?」と私が尋ねた。荻野さんは肯きながら、
「あ、はいおっしゃる通りです。上からここの『八溝峰神社』、下って右上が先ほど寄ってきた『中山神社』、その左下が『槇野地の金沙神社』、更にぐっと左下に下がった栃木県に在るのが『健武(たけふ)神社』に成ります」と神社について話してくれた。
 
「やはり、神社が絡んでくるんですね・・」と私が感想を漏らした。
「いや皆さん神社仏閣にご興味がある様ですし、そのほうが宜しいかと載せました・・」荻野さんが言った。
「いやありがとうございます。助かります・・」私はそう言って、荻野さんにちょっと大げさに頭を下げて、目でニヤリとした。
 
その後しばらく私達は大子町の金鉱山のプロットされた地図を観ながら、かつて金鉱山が在ったと思われる方向をもう一度、展望台から眺めていた。
 
 
一区切りついてから私達はコンクリート製の展望台を降りて、駐車場にと向かった。
 
そして標高1.022mの、茨城県の最高峰である八溝山を下って、元来た道を戻って「蛇穴集落」の県道28号に向かって行ったのであった。
 
次に私達が目指したのは、大子町唯一の「金沙神社」である「槇野地金沙神社」であった。
 
 
 
 
 

  『 續日本後紀 巻第五 』 承和三年(836年)正月二十五日の条

               『新訂増補 續日本後紀』48ページ(吉川弘文館)

 

   詔奉陸奥の國白河郡従五位下勲十等八溝黄金神封戸二烟。

    以應國司之禱。令探得砂金。其數倍常能助遣唐之資也。

                註:「」の字は「ウ冠」ではなく「ナベ蓋」が正しい。

 

上記のように、「八溝山」での献上砂金として従来の数倍の量が朝廷に献上された事に依り遣唐使の資金が調達できた功労として、八溝山は「八溝黄金神」として位階を授けられ、神社に仕える家を二軒分授けられている。

 
 
 
 
 
 
 

 旧馬頭町、健武神社

 
 
 
八溝山から下る参道が大きな鳥居がぶつかる県道28号線まで戻って、私達は来た道を県道を左折して、緩やかに坂道を下るように南下した。
 
先程の「腐れ沢」の三叉路を過ぎ、そのまま道なりに下って行った。
登ってくるときはそんなに気付かなかったのだが、この県道はそれなりに高低差があるらしく、下り道では飛ぶように降りて行った。
 
10分もしないうちに、前を行く高萩さん達の車がウインカーを出して右折する合図を出した。私達もそれに倣って右折することにした。
 
カーナビによると「稲村」という集落で、28号線から枝分かれする県道159号線の坂を登って行くようであった。
 
 
両側を林に囲まれた山路を進んで行くと、坂を登り切ったと思われる辺りで急に視界が広くなった。山が切れたちょっとした丘の様なその場所は、目の前に畑が広がっていたのであった。
 
更に道なりに進んで行くとまた三叉路が在り、私達は主道をそのまま行き坂道を下るようになった。どうやら三叉路で枝分かれし県道159号線から、160号に入ったようだ。道路標識が見えた。
 
先ほど通過した山路がこの辺りのピークであったようで、そのままずっと左右に広がる畑の中を車はゆったりと東南東に下って行った。茶畑が処々に散見出来た。
 
 
八溝山に向かって行った時は、前方や左右に背の高い針葉樹がかなり迫って来ていたこともあって、ある種の圧迫感が感じられたのだが、こうやって山を背後に畠の中をずっと下り坂を進んで行くと、今度はその反動もあってか開放感を感じることが出来た。
 
視界がぐっと広がり左右に背の高い樹木は殆ど無く田畑が広がるだけで、極端に言えば山から太平洋に向かって進んでいるような錯覚を覚えた。この場所から海が見えるわけでは無いのにもかかわらず、そんな風に感じた。不思議なものである。
 
 
途中高萩さん達の車が道路から右折するウインカーを出した、緩やかに右折する坂道を下って行った。小さな道路標識には「初原/茶の里公園方面」と書いてあった。
 
坂を下りきって左右を田畑に囲まれた低地に広がる集落を通る道を、そのまま前の車について行くと道路沿い左手に水路が見えた。
更に進むと右側の道路わきにロータリーの様な駐車スペースが在り、前の車がそちらに向かったので、私たちも続いた。どうやら「槇野地の金沙神社」に着いたようだ。
 
その広めのロータリー状の駐車場に車を停めて、高萩さん達が降りたので私達も倣った。
 
「ここが槇野地の金沙神社に成ります」高萩さんが右手の里山の中腹を指して言った。
「ここはかつて、『佐原村』と言われた集落の一画で向こうの山の方に向かって行くと、古代から江戸時代に掛けて砂金や山金が採れた『初原金山』の在った『初原』地区に成ります」高萩さんはそう言って、正面の里山が連なる目線の先を指した。
 
「という事はあれですか。向こうの金鉱山の在った山から、その用水路の様な小さな沢を通って、このあたりで砂金とか金片が採れた、という事なんでしょうかね・・」私は道路の左側を流れる畑横の用水路の様な小さな沢を指して言った。
「そういう事でしょうね・・」高萩さんが応えた。
 
 
「こちらの神社の祭神とかって、どなたに成るんですか?金沙神社だから、やはり大巳貴命という事に成るんですか?」私が尋ねると、
「主祭神はおっしゃる通りですね・・」荻野さんが応えた。
「やはりここも古いんですか?古代から・・。八溝峰神社程とは言いませんが・・」私が尋ねると、
 
「いやそれがですね、そんなに遡らないですよね。やはり戦国時代後期で佐竹氏の末期近くだったですね、確か永禄年間だったかと思います。16世紀の後半ですかね・・」荻野さんが続けた。
 
「それと神社の創建は西金沙神社から分祀した、という事なんですが、この神社の境内社には先ほどの中山神社と同様に『金刀比羅神社』の金山彦の命が祀られているらしいんですよ。皆さんご興味の・・」荻野さんは私達山梨のメンバーを見回して、そう言った。
 
「ほう、それはそれは・・」私がそう言うと、久保田さんが
「ほんじゃぁ、これで奥久慈には三ケ所の金山彦を祀る神社が在った、ちゅうこんだね・・」と嬉しそうに呟いた。
「確かにそういう事に成りそうですね・・」私はそう言いながら、頭の中で「西金沙神社下の浅川の畔り」と「中郷中山神社」の事を思い浮かべた。
 
「ほしたらこの奥久慈には白山神社の越後金山衆もだけんが、甲州金山衆の末裔たちもある程度の勢力をもってやって来た、ちゅうコンだね・・」久保田さんはそう言ってニッコリした。私もそう想い、何故か気持ちがふくらんだ。
 
 
私達はそのような会話を済ませた後、山の中腹にある神社にと向かった。
数軒の民家に左右を挟まれた参道を登り、境内に入った。
境内には手水の近くに、ユニークで愛嬌のある狛犬が鎮座していた。かなりの年数を経ているようで風雪に耐えた趣があった。
 
手摺りのない急な石段を数十段登りきると、正面に拝殿が在った。
屋根に掛かる社紋は三つ巴であった。
 
 
 
 
            
 
 
 
「やっぱり、甲州金山衆の末裔ですかね・・」私が社紋を指さしながらそう言うと、
「三つ巴が何か関係あるんですか?」荻野さんが私に聞いてきた。
「アはいそうなんですよ、甲州金山衆を大きく育てた鎌倉時代の武将が居ましてね、遠江守安田義定公と嫡男で越後初代守護だった義資(よしすけ)公なんですがね。
彼らは甲斐源氏なので、神社仏閣に三つ巴や花菱紋を使う事が多いんですよ・・」私が応えた。
 
「神社って三つ巴が多くなかったっけ⤴」鶏冠井(かいで)さんが呟いた。
「確かに多いんですけどね・・。フツー茨城だと佐竹氏であれば扇に月の紋だし、水戸徳川だったら三ッ葉葵でしょ。
西金沙神社なんかは扇に月の佐竹紋ですよね、でもここはその西金沙神社から分祀して勧進したにも拘らず、こうやって源氏の三つ巴紋を使ってる点がやはり、そんな風に推測され得るわけです・・」私がそう言うと、
 
 
「確かにそうだっけがょ、三つ巴だけでそんな風に言い切れるんかぃ?」更に鶏冠井さんが食い下がってきた。
 
「安田義定父子が造る神社や仏閣には三つ巴や花菱紋が多く使われてましてね。それに越後金山衆の基に成ったと思われる能生川沿いの、槙金山神社の社紋も三つ巴でしてね・・」私は糸魚川の槙金山神社を思い出しながら、そう言った。
 
「ほう言えばここの名前が『槇野地金沙神社』で、糸魚川が『槙金山神社』っていうのは何か関係あるずらか?おんなじ『槙』じゃんね・・」久保田さんが、思いついたようにそう言って私達を観た。
 
「さぁ、どうなんでしょうかね・・」私はそう口にしたが、さすがにそこまでは・・。と考えていたので、それ以上何も言わなかった。
久保田さんもほんの思いつきだったからなのか、それ以上突っ込んでは来なかった。
 
 
その後、拝殿に正礼で挨拶を済ませた上で、境内の本殿周辺にある境内社の祠にも同様の挨拶を済ませた。特定はできなかったがいずれかが金山彦を祀っている祠だろうと、そう思ったのであった。
 
参道の石段を下っていく途中でサイレンが鳴った。どうやらお昼を告げる12時のサイレンのようだった。
私達が耳をそばだてていると高萩さんが、
 
 
「今日のお昼なんですがね、この後隣りの栃木県那珂川町にちょっとした川魚料理を食べさせてくれる場所がありましてね、ご案内しようかと想ってますが如何ですか?」と私達に意向を聞いてきた。
 
「そうですね・・私が山梨のメンバーの顔を見合わせていると、
「那珂川沿いのヤナ漁の飯屋といった感じで、あまり綺麗とは言えませんが野趣あふれる店なんですがね・・。
昨日は久慈川でアユ料理を食べられたので、今日はウナギ料理辺りは如何ですか?
運が良ければ天然モノにも出遭える可能性、無きにしも・・」とニヤリとしながら高萩さんが言って、確認してきた。
 
「ほうだね、土用にはまだ少しあるけんがウナギもいいじゃんね・・」久保田さんがニコニコしながらそう言った。特に異論が無いようで、皆が頷いたので、それで決した。
 
「では、それでお願いします・・」私が皆を代表してそう言ったので、高萩さんが肯きながら、
「じゃぁそういう事で・・。途中で健武(たけふ)神社に寄って行きますので、1時頃になるかもしれませんが構いませんか?」と言って私達に確認した上で、車に乗り込んだ。
 
 
荻野さんが車に乗り込む前に、私達に近寄って来て、
「ここから初原を通って馬頭町に向かうんですが、その途中の坂道を登って行く辺り、初原に登りきる手前に、かつて『初原金山』と呼ばれた金鉱山の跡地が在るんですよ。
佐竹氏の時代らしいんですがね。途中私が車の窓から腕を出しますので、その辺りだと思ってください」と教えてくれた。
 
「今はもう・・」と私が呟くと、彼は、
「えぇ今はもう、跡形もないようですね。何せ400年近く前の事で・・」そう言ってニヤリとすると、高萩さんの車に向かって行った。
 
 
槇野地金沙神社を後にして、私達は来た道とは反対側の西に向かって行った。
初原に向かう道は左右を針葉樹にびっしりと囲まれた山道であった。
 
杉木立と想われる山峡の舗装された車道を登っていくと、10分もしないうちに高台に到着した「初原」であった。
 
樹間を抜けきった県道205号線に面する初原地区は、緩やかな坂道沿いに田畑が広がる広々とした台地で、視界が一気に広まった。
 
槇野地から山道を登るで途中、荻野さんが車窓から腕を出して鉱山跡地周辺と想われる場所を教えてくれたが、杉林に囲まれたその場所は残念ながら判然としなかった。
 
 
県道205号線を左折し、山を背にして大子の市街地にと向かって坂道を下って行った。
しばらくして久保田さんが車を運転しながら、
 
「さっきの槇野地の金沙神社はやっぱりあれけぇ、荻野さんが教えてくれた初原金山の在った場所辺りから砂金が流れて来た、ってコンになるズラかね・・」と大きな声で言った。私は肯きながら、
 
「そういう事だと思いますよ。初原金山が在ったと想われる場所と槇野地の金沙神社神社の関係が、西高東低で西側が高くずっと坂に沿って東に下って、槇野地辺りで平坦な土地に成ってましたからね。
それが神社の足下に在った用水路の様な沢に続く、初原から流れて来た沢を伝わって、そのルートで山金が運ばれて来たんじゃないですかね・・」と推測を交えて解説した。
 
「やっぱりほう考げぇた方が自然じゃんね・・」久保田さんは前を向いて運転しながら、呟くように言った。
 
 
そのまま県道205号線を道なりにゆったりと大子町の市街地に向かって行くと、周囲にリンゴ園が目に付くようになった。
それまでは畑の所々に茶畑が散見できたのであるが、それに替わってリンゴ園が登場して来たのであった。
標高が高い場所だからリンゴの果樹園が盛んなんだろうと、私は想った。
 
「上岡」というT字路の交差点で国道461号線にぶつかる三叉路を右折して、栃木県の旧馬頭町=那珂川町方面に向かった。
 
 
しばらく道なりに行くと「下金沢」という地名の場所に出遭った。
荻野さんから先ほど戴いた地図に載っていた地名で、金鉱跡が何ケ所か在ったとされるエリアである。
 
それに気づいた私が、
「ここら辺は道路の上も下もかつて金鉱が在った、とされるエリアのようですね。下金沢とか上金沢というようですがね、荻野さんの地図に書かれてます・・」というと、
 
「やっぱり金沢なんて名前があるトコは、金山がとれた場所だってコンだね・・」と、久保田さんがやや大きな声で、ハンドルを握ったまま言った。
「ま、そういう事でしょうね・・」私は久保田さんに向かって、そう言って彼の推測に同意した。
 
 
そのまま国道461号を山に向かって、旧馬頭町に向かって進んで行って坂道を登り切り、峠を越えたと思われる場所を過ぎると、やがて長い下り坂か続いた。
カーナビを観てみると「境明神峠」となっており、県境を越えたようだった。
 
「どうやら栃木に入ったようですよ‼」と私が大きな声で、後ろの藤木さん達にも聞こえる様に言った。
 
やがて右手にゴルフ場を知らせる看板が幾つか目に入った。「馬頭ゴルフ倶楽部」と書いてあった。旧馬頭町に入ったのだろう。
 
 
ゴルフ場の看板が見えなくなってそのまま下って行くと、右手に国道と並行するように勢い良く飛沫を上げながら流れる川が、見え隠れした。「大内」という地区らしい。
 
更に国道を下って行くと 、右上から大きめの道路が合流する三叉路に出遭った。
「国道461号、那須方面」と道路標識に書いてあった。
 
どうやらこの三叉路を右折するのが主要道路の様で、私達がそのまま下って行ったのは栃木県の県道52号線に成るようであった。
 
高萩さん達がそのまま県道52号線を下って行くので、私達も迷う事無くついて行った。
 
 
その県道にも、やはり並行するように河川が流れて来ていた。先ほどの三叉路で上流から流れてきた大きな河川と合流したようで、一層水勢が増していた。
 
その水勢の故か川は何か所かで蛇行を繰り返していた。
どうやら標高の高い那須方面から、国道461号線に沿うようにして上流から流れて来た、河川であったようだ。 
 
三叉路からほどなくして高萩さんの車がハザードランプを点滅させ、道路右側の空き地となっていた場所に車を停めた。神社の石垣と細い生活道路に面したスペースであった。
神社参拝者のための駐車場であるようだ。
 
どうやら目指す健武(たけふ)神社に到着した様だ。
私達も高萩さん達の車横に駐車して、車を降りた。
 
 
 
          
 
 
 
鳥居を入ってすぐ参道脇に「神社由来記」が在った。
高萩さん達に続いて私達も、その「由来記」を読んだ。
 
「由来記」によるとこの神社の祭神は、「日本武尊命」と「金山彦命」とであった。
また眼前を流れる武茂川で砂金が採れ、それを朝廷に納めたことの褒賞として位階を授けられたといった事も記されていた。
 
「日本武尊(やまとたける)が祀られているのは、彼の東征のエンドが常陸之國から下野之國に至るこの辺りであったから、なんですかね・・」私が高萩さん達に向かってそう尋ねると、彼は肯いて、
 
「日本武尊命は現在の水戸市辺りから那珂川を溯上して、那須に向かったようですね。この辺りの地名やあの川の名前が『武茂』や『武茂川』というのはそれに因んだ名前のようです・・」荻野さんが県道の向こう側にある、先ほどの川を指して説明してくれた。
 
 
「この川の本流は、先ほどの国道241号線に沿って向かう那須高原から流れてくるんですが、その沿道にいくつか金山が在りましてね。
沿道には馬頭町の高倉山麓にあたる『大山田下郷』の『高倉金鉱山』、同じく『大山田上郷仲妻』にあった金鉱山の『仲妻金鉱』や『那須金鉱』が点在してたんですよ。
 
それらの武茂川沿いに金鉱山が点在していたこともあって、太古からの山金がこの辺りで堆積し沈金して、川金・砂金として採取されてきた、という事のようです・・」と更に詳しく、荻野さんは解説してくれた。
 
 
私はその話を聞きながら、糸魚川の能生川の事を思い描いた。
勢いよく流れる武茂川が蛇行し曲がりくねった場所を下った、その向かい側に鎮座されているこの神社を観ながら、
「糸魚川の『槙金山神社』とおんなじ構図だ・・」と呟いた。
 
「ほうするとあれかい。今朝の中郷川の『中山神社』もここと同ンなじだ、って言ってたっけから、やっぱあそこでもここと同ンなじように砂金が採れた、っていうわけだンな。やっぱ中郷川の神社前を、いっぺん浚(さら)ってみっぺかなぁ・・」鶏冠井さんがニヤニヤしながら、嬉しそうに言った。皆の顔が柔らかくほころんだ。
 
 
私達はその後、神殿に参拝し挨拶をした。
金山彦を祀ったこの「健武神社」には「三ッ葉葵」の幔幕が張られていた。水戸徳川家の家紋であった。
 
「さっきの『神社由来記』に徳川斉昭が尊崇した、って書いてありましたけどやっぱり水戸光圀の頃からこの神社は、水戸徳川家の庇護を受けてたんでしょうかね・・」私がそう言うと高萩さんが、
 
「えぇそうなんですよ。古代から続いた豪族の武茂氏が佐竹氏に滅ぼされてから、本来ここは下野(しもつけ)之國でしたが、それ以降佐竹領に組み込まれてますからね。
それを踏襲した水戸徳川家も、当然ここを所領にしたわけです・・」とより詳しく説明してくれた。
 
 
「佐竹氏の下野武茂郷の侵略は、やはり金鉱山の開発にあったんでしょうね・・。
佐竹氏の太祖だった新羅三郎義光以来の問題意識もあって・・」私がそう言うと、高萩さんや荻野さんは大きく頷いて同意した。
 
「そういう事でしょうね・・」荻野さんが呟いた。
「やっぱ、金の魔力はすごいだね・・」久保田さんがニヤリとして言った。
 
その後私達は神社の向かい側の県道を越えた先に在る、武茂川を渡って上流が湾曲する川筋を確認した上で、昼ご飯の場所であるヤナ漁の川魚料理の店に向かう事にした。
 
               
 
 
 
 

       『 續日本後紀 巻第四 』 承和二年(835年)二月二十九日の条

               『新訂増補 續日本後紀』37ページ吉川弘文館)

 

         下野國武茂神奉授従五位下、此神座採沙金之山

    

上記のように、この近くでとれた砂金を平安時代初期に朝廷に奉納したことに依るご褒美として、「従五位下」という位階を授けられたことが『續日本後紀』に記されている。

因みにこの年の一年後に、既述のように八溝峰山神社にも同じ位階が授けられている事から、この武茂川で採れた砂金類も「遣唐使」派遣の資金として、活用されたのかもしれないのである。

更にこの武茂川の上流域は大子町西端の八溝山系の背後に当り、同じ山系の東と西でそれぞれ金鉱が在ったことに成り、マクロに観れば同一の山系で産出された金鉱石だと、言う事もできる。

この関係は『大野土佐日記と甲州金山衆』でも触れたように、山梨県と静岡県の県境となっている「毛無山」でも同じことがあった。

即ち山梨側の「湯之奥金山」と静岡側の「富士金山」との関係である。

 

 

 

           

           旧馬頭町、健武神社では水戸徳川の家紋が使われている。

 
 
 
 
 

 エピローグ

 
 
武茂川の川筋を確認した後、私達は旧馬頭町(現:那珂川町)の市街地を経由して川魚料理を食べさせてくれる店を目指した。
と言っても私達は高萩さん達の車について行っただけであったが、その店は那須・大田原に向かう国道294号線を右折して、那珂川の河川敷というか畔りというべきか、そのような場所に入って行った。
 
眼前に那珂川が幅広に、ゆったりと流れているのが見えた。
何だか観ている自分たちも心なしか、気持ちゆったりとしてきた。不思議なことに・・。
 
左手には小さな神社が見えた。那珂川に何か関係のある神社ではないかと、車中で話し合った。神社の名前は「御霊神社」と書いてあった。
 
 
やがて正面に横に長く広がった建物が見えてきた。想った以上に広かった。
目指す「観光やな」の食堂なのであろうか、あまりきれいな建物とは言えなかったが高萩さんが言ったように、「野趣あふれる」空間ではあった。
 
左手を滔々(とうとう)と流れる那珂川には、竹か何かで造られている大きな「やな」が架かっていた。あの「やな」で鮎などの川魚を獲るのだろうと思われた。
 
那珂川自体もそうであったが、その食堂のたたずまいも含めてなんともゆったり、のんびりとした気持ちになった。
これで鮎を始めとした川魚が旨ければ言う事はないな、などと私達は話しながら食堂の受付に向かった。
 
 
 
                                    
 
 
 
受付周辺に並んでいる川魚のメニューや加工された川魚のラインナップを観ながら、私達はそれぞれ好みのおかずやご飯を頼んだ。
 
注文と会計を済ますと私達は那珂川に沿って広がるテーブルに腰かけて、料理が出来上がるのを待った。
 
その間、今回の奥久慈の神社や金鉱跡地巡りについて話し合った。
 
 
「今回の奥久慈のフィールド調査は、如何でしたか?満足いくものでしたか?」高萩さんがニコニコしながら、私達の顔をゆっくりと見廻して言った。
 
私も山梨のメンバーを見廻して確認すると、皆ニコニコと穏やかな顔で肯いていたので、代表して応えた。
「私もでしたが、皆さんもご覧の様に満足されているようです・・」と、ニヤリとして言った。
 
「確か上野クンの話だと今回の来県の目的は、甲斐源氏の出発点というか源流を確認する事と、黒川衆というか甲州金山衆と常陸之國との関係/接点を確かめに来られたんでしたかね・・」高萩さんが、チラリと上野さんを観てからそう言った。
 
「はい、その通りです。甲斐源氏のルーツを確かめにひたちなか市に来たのと、安田義定公の領地経営の柱の一つである金山開発に、繋がる黒川衆のルーツもここ常陸に関係しているのではないか、という仮説をたててその確認というか検証に、こうやって奥久慈までやって来たわけです」私が肯きながら応えた。
 
 
「それは安田義定の生母が佐竹義業(よしなり)の娘だったから、でしたっけ?」高萩さんが確認するように言った。私は肯きながら、
 
「おしゃる通りです。義定公の末裔たちに伝わる『家伝書』とでもいう書物に、その事がはっきり書かれてることから、母親のルートから義定公は常陸之國に伝わる金山開発や砂金採取の情報を、幼いころから聞かされていたんではないかとですね、まぁそう考えたわけです。それで・・」とそのわけを話し始めた。
 
「そういう事でしたか・・。で、その成果は一定得られたと・・」高萩さんがニコニコしながら言った。
 
 
「思った以上にですね、成果が得られました。
やっぱりこうやって現地を訪ね、皆さんの様に現地の情報に詳しい方々からナマの話を聞かせていただくとですね、話にリアリティが出てくるんですよ。
 
書物や資料で得られた情報に深みが出て、こう立体的に見えてくるんですよね、情報に厚みが出るというか・・」私はニコニコと荻野さんや鶏冠井(かいで)さんの顔を見ながら、感謝の気持ちを込めて言った。
 
「そんな風に言っていただけると私達も嬉しいですよ・・。
こちらこそ私達が気付かない視点からいろいろ教えていただいたんで、これからの研究のヒントに繋がるきっかけを幾つかもらえて、刺激的だったし愉しかったですよ・・」荻野さんもニコニコと、そう言った。
 
「オレもょ、何ンしろおら家(が)のご先祖様がひょっとしたら黒川衆にまで繋がるかも知んねぇって聞いてょ、オレの砂金取りの血が騒ぐのはご先祖様のせいかも知んねぇ、ってよアハハ・・。
 
ほれに中郷の中山神社や槇野地の金沙神社の件もょ、やっぱ砂金に因んだ神社の前に川や沢が流れていたら、砂金が採れた場所だって考げえた方が良かっぺって、まぁ勉強になっただょ・・」鶏冠井さんがニヤニヤしながら、嬉しそうに言った。
 
 
「高萩さんからも佐竹時代の情報教えてもらって、だいぶ世界が広がりましたょ。
とりわけ越後金山衆が佐竹氏の金山開発に繋がってくるって情報は、ほんとに参考になりました。ありがとうございました」私がそう言うと、
 
「”常磐タガネ”、が縁に成ってですね・・」高萩さんが嬉しそうに肯いて言った。
「そうですよねそういう技術が媒介となって、上杉謙信の金山開発と佐竹氏の金山開発に縁が出来てたなんてね、想いもよらなかったですよ・・」私が重ねて言うと、
 
「ほれに、糸魚川の金山衆の末裔たちもだったじゃんね・・」久保田さんが言った。
「ま、越後金山衆たちに比べると少なかったようですが、甲州金山衆の末裔たちも奥久慈には来てたみたいですしね・・」私も久保田さんに同意して続いた。
 
 
「やっぱり神社が決めてですか?」荻野さんが言った。
「ま正確には、祭神ですね。金山彦を祀っている神社の存在は、やはり菊理姫を祀る白山神社の越後金山衆とは違うグループだって、どうしても私には想えるんですよね・・」私はその点を強調した。
 
「やっぱ神社と砂金や金山は、深い繋がりがあるモンなんだなぁ」鶏冠井さんが自分に言い聞かせるように言った。
 
「明治維新以降は判りませんが、江戸時代まではずっとそうだった、と思いますよ・・」私がそう言うと、荻野さんが
「十一面観音信仰も、ですかね・・」と、付け加えた。
 
 
「確かに・・」私も肯いて、同意した。
そしてそれがあって私は、「越後」や「糸魚川」の金山開発に関しこれまで「白山神社」や「十一面観音信仰」についての視点が、欠落していたことに改めて気付かされたのであった。
 
今後の調査や研究の対象にこれらの神社や信仰も加えなければならないと、痛感した。
とりわけ新潟近辺の、越後金山衆が関わったと思われるエリアについて調べる時は、その視点を忘れないようにしよう、と強く深く心に刻んだのだった。
 
 
「ところで、今回は『金沙神社』を中心に調べられた、という事ですが、そうすると鹿島の沼尾に在る『金沙神社』にも、これから行かれるんですか?」と、荻野さんが私達に尋ねてきた。
 
「一応、そのつもりではあります。霞ケ浦の北浦という事で砂金と縁があるかどうかは判りませんけどね・・」私がそう言うと、荻野さんが
 
「そうでしょうね、その可能性は少ないかもしれませんね。
何でも沼尾の金沙神社は16世紀の戦国時代に佐竹氏の勢力が鹿島周辺に及んだ際に、佐竹氏の一族によって勧進された神社だったようですからね。
ひょっとしたら奥久慈の金沙神社とは毛色が違うかもしれないんですよ・・」と、詳しく教えてくれた。
 
「という事は、東金沙神社と同様に金山開発や砂金採取とは違う、当時の常陸之國の支配者の政治的思惑で造られた神社かもしれない、という事ですか・・」
 
私はかつて佐竹氏の軍事拠点と成ることの多かった「金沙城」でもあった西金沙神社を、あえて遷宮させて「東金沙神社」を造った頼朝の鎌倉幕府の事が頭に浮かんで、「沼尾の金沙神社」で起きた事がそれと同じような事か、と理解し自分なりに納得した。
 
 
「だけんどょ、あの北浦には確か『金上げ』って在所があるらしいから、まんざら砂金に縁がねぇとは、云えねんじゃねぇかい・・」鶏冠井さんが興味ある情報を提供した。
 
「ほう!『金上げ』ですか・・。ひたちなか市の金沙神社と同じ構図ですね、それがほんとなら実に興味深い話ですね・・」私は嬉しくなって目を輝かせながら言った。
 
「うん、まちげぇねぇ。昔金堀り仲間に聞いたこンがあるだょ。
何でも北浦の北の方で、なんぼか沼尾とは離れた処らしいけンどな・・」鶏冠井さんが自信をもってそう言い切った。
 
「ありがとうございます、貴重な情報・・。実は明日行方郡や鹿嶋方面に行く予定をしてるのでそれ、さっそく確認してみますョ」私はそう言って鶏冠井さんに握手を求めた。
 
この情報は明日の目的地である、かつての麻生郷や沼尾の金沙神社に行くことの励みにも成った。
私は目的がはっきりすると具体的な行動がとりやすくなるので、この情報はウェルカムであった。
 
 
 
           
                 :金沙神社(7ヶ所) 
             青:佐竹郷(上)、武田郷(下)
 
 
 
「明日は土浦方面に行くらしいんですってね?」高萩さんが私達に聞いてきた。
「そうですね、一応その通りなんですが、明日は二手に分かれて行方/鹿嶋方面に行く私達と、土浦で霞ケ浦の干拓に関する資料や情報を探すグループとに分かれることに成りまして・・」
私はそう言って私と久保田さんのグループと藤木さん/上野さんのグループに分かれることを説明した。
 
「はい、私と上野君は土浦の図書館で霞ヶ浦や北浦の干拓に、麻生氏や大掾氏の末裔たちがどのような役割を果たしたのかを、改めて調べることにしたんです。
 
昨日滝本さんに教えてもらったように、義定公の五奉行の一人麻生平太胤國の役割はその線の方が濃厚かもしれないと、まぁそんな風に考えたもんで・・」藤木さんはそう言って私達とは別行動をとることを説明した。
 
「あぁ、そういえば滝本さん、そんなこと言ってましたっけね・・」高萩さんは昨夜の温泉ホテルでのことを思い出して、納得していた。
 
 
その様な会話をしているうちにウナギのかば焼きやうな重が出来た、というアナウンスが入ったので私達はそれぞれ注文の品を受け取りに行って、天然か養殖かの判別がつきがたいウナギ料理を食べ、洗練されているとは言い難い野趣あふれる川魚料理を楽しんだ。
 
やはりここでの料理は川魚そのもの以上に、目の前のヤナ漁を眺めつつゆったりと流れる那珂川を愉しむことに、価値があるようだった。
 
 
川魚料理と那珂川のヤナ漁を愉しんだ後、私達はそれぞれの車に乗って、それぞれの目的地にと向かった。
 
高萩さん達は来た道を戻ってJRの大子駅に向かい、私達はそのまま霞ヶ浦近郊のJR土浦駅近くの、今日泊まる予定のホテルにと、向かう事にしたのだ。
 
 
車に乗る前に今回のお礼を丁寧に済ませた後で、私達は国道294号線の分岐点でそれぞれの方向にと別れて行った。
 
 
土浦に向かう車中で私達は今回の取材旅行の成果を確認し合い、同時に今後の課題についても話し合った。
 
 
残念ながら、黒川衆と奥久慈の金山衆との間に、直接的な接点を見出すことは出来なかったが、平安時代初期から続いた八溝山周辺や健武神社周辺の金山開発が、佐竹氏の奥久慈支配と金山開発に少なからぬ関係があったことはしっかり確認できた。
 
その事は同時に、佐竹氏内部で奥久慈の金山開発について共通認識があったことは間違いなさそうだ、との推測を得ることは出来た。
そしてその事が佐竹氏出身の義定公の生母を経て、義定公の領地牧野荘の領地経営に影響を与えた可能性は高い、と考える事も出来た。
 
 
またこれは予期しなかった事であったが、佐竹氏の金山開発において上杉謙信の派遣した越後金山衆と一緒に、糸魚川の黒川衆の末裔が共にこの奥久慈方面にやって来て、佐竹氏の金山開発の一翼を担った可能性が高いことも判った。
 
更には水戸徳川家の時代に永田茂衛門という甲州金山衆の末裔が、「久慈川」や「那珂川」の氾濫を抑えるための、巨大な堰や堤の建設や灌漑/土木工事に尽力し、水戸家の財政基盤に大きな役割を果たしたことも知った。
 
 
永田茂衛門父子の事績に関しては、今もなお沿川の住民たちに慕われ感謝されている事を知り、「瓢箪から駒」ではあったが甲州金山衆と常陸之國との関係が、縁深いものであることを知ることも出来た。
 
藤木さんや上野さんはその点に大いに満足していたようであった。久保田さんももちろんそのことを誇りに思っていたようだ。
 
 
そして私は「信玄堤」等で有名だった、黒川衆の治水技術や金山開発に関わるノウハウや技術/人材が、日本中の少なからぬ灌漑土木工事に影響を与えていることに、改めて気づかされたのであった。
 
今回はたまたま「永田茂衛門の事績」という形で知り得た事であったが、全国津々浦々にはまだまだ私達の知らない場所に、同様の事例が眠っているかもしれない、とその様に感じたのであった。
 
そういった事を経験値として、これからも尚アンテナを広げて黒川衆の事績についても、改めて情報収集し続けたいと、そう想ったのであった。
 
 
自分にはまだまだ知らないことが沢山あるのだなぁと、痛感した今回の北茨城の取材旅行であった。
それが今回の最大の収穫であったのかもしれない、と車に揺られながら私はうつらうつら考えていた。
 
 
その時頭の中では「知るを識り、知らずを識る。これ識る也」という言葉がよぎった。
 
 
 
 
 
 
 
         
         
          常陸源氏佐竹氏の家紋    甲斐源氏武田氏の家紋
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

    

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 



〒089-2100
北海道十勝 , 大樹町


 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
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