本来ならば雪が降るべき時節なのに、雨が降っていた。 雨が止むと、上空を小白鳥やカモなどが群れを成して飛行している。 本州では25度を超える夏日なのだという。 窓の外では虫たちの姿も見るようになった。 ”雨水””北帰行””啓蟄”いずれも春の先駆けなのである。 春分の日を過ぎ、彼岸が終わると一気に春が進んで来た感がある。 そしてサッカー日本代表である。 この21日のバーレーン戦、昨日のサウジアラビア戦の3月の連戦は、勝ち点4を得てバーレーン戦の勝利で来年のW杯への出場を決めた。 喜ばしい事である。 バーレーン戦の勝利の立役者は1アシスト1ゴールを決めた久保建英であった。 彼の奮闘が今回のW杯出場を決定づけたのは間違いない。 ![]() さはさりながら、相変わらずの”個人技頼み”で、チーム戦術が乏しく、チームとしての約束事の乏しい森保采配では、限界が見えている。 今回のバーレーン戦やサウジ戦がそれを示していた。 今の闘いのままではグループリーグ突破が関の山であろう。個々人の能力が歴代最強レベルであっても、チーム戦術やチームプレーで勝てるように成らないと、Best8の壁は越えられないだろう。 個人能力重視の森保監督の限界は、今回の二つの試合でも明らかである。 JFAの会長が田嶋から宮本に替わったのは、希望が持てるが森保氏の交替が実現しない限り、日本代表は次のステージには上がれないだろう。 これからの14ケ月W杯本番までに何が起きるのか、期待感を込めて注視していきたい。
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【歴史検証物語】この物語は、『大野土佐日記と甲州金山衆』の続編になります。 昨年の『大野土佐日記』の検証のフィールドワークの際に知り合った、山梨県の郷土史研究家で安田義定公の研究者達と一緒に、私は「富士金山」の痕跡とかつての義定公の領国「遠江(とおとおみ)之國」に残る足跡や痕跡を求める旅に出る事になった。 「富士金山」を始めとした義定公の痕跡を、富士山西麓上井手の鍛冶屋の里や富士浅間大社の神事の中に、私達は見つけることができた。 【 目 次 】 |
私が平安時代末期の甲斐源氏の武将、安田義定の事を知ることに成ったのは、一年ほど前に友人から教えられた蝦夷地北海道の古文書『大野土佐日記』との出遭いがきっかけであった。
江戸時代初期に書かれたというその北海道の古文書によって、私は鎌倉時代の蝦夷地に、父の出身地である甲州=山梨の金山開発の職能集団である甲州金山(かなやま)衆との間に、深い関係がある事を知ることと成った。
私はこの時の出遭いによって、鎌倉幕府の創設に大きな影響力を発揮した、甲斐源氏安田義定という武将に対する興味を、強く抱くようになっていた。
因みに私が彼に対して魅かれたその理由は、荘園経済を中心とした農本主義とでもいう中世にあって、彼は農業経済を基本にしながらも、金山開発や騎馬武者向けの軍馬の育成という畜産事業にも力を注いでいた、当時としては珍しいタイプの領主であった点にある。
具体的には黒川金山の開発や、甲斐駒という軍馬の畜産及び育成を通して、彼が推進してきた領地経営の特異性に、私は魅力を感じたのかもしれない。
当時京都の藤原氏を頂点とした貴族に代わり、新たな支配層として台頭し始めていた新興勢力「武士」の時代にあって、彼が特別に珍しい存在であった事に、魅力を覚えたのかもしれない。
加えて安田義定が甲斐源氏の主力として、兄の武田信義と共に甲斐駒を活用した騎馬武者軍団を率い、殆ど連戦連勝と云ってよい戦績を誇る有能な武将であった点も、単純に強い武将への憧れといった、私のポジティブな評価となっているのかもしれなかった。
しかし最大の魅力は、彼が人生の晩年において、平氏追討の大いなる功労者であるのにも拘らず、鎌倉幕府の権力者源頼朝や北条時政を筆頭とした伊豆の御家人グループによって、一族と共に滅亡させられてしまったという悲劇性にあるのかもしれない。所謂(いわゆる)「判官びいき」というやつだ。
かくいう私自身、安田義定公については、昨年の「大野土佐日記と甲州金山衆」との出会いが無ければ、生涯知ることも無かっただろうと今でも思っている。
歴史好きな私がそうである点を考えると、一部の歴史学者や安田義定の本貫地である、山梨県甲州市や山梨市の地元の人たちを除いたら、義定公の存在は今でも殆ど知られていないのではないか、と思っている。
実は、その世の中の人に殆ど知られていない、希少な存在「レアもの」である点も、私が彼に興味を抱く、少なからぬ理由であるのかもしれないと気づいている。
あまねく広く知られた存在より、希少な存在「レアもの」に魅力を感じてしまうのは、幸か不幸か私の習癖の一面でもあるからだ。
六月の中旬、首都圏が梅雨入りしたと報道されるようになって1週間ほど経った頃、山梨の西島さんから、南アルプス市産のサクランボの詰め合わせが送られてきた。
西島さんとは、去年の『大野土佐日記』と甲州金山衆の関係を探る検証の過程で、山梨に行った時に知り合い、それ以来情報交換を行い連絡を取り合う仲になっている。
また今回のように果物の豊富な山梨の特産物などを、時折送ってくれることがある。私も返礼に私の調達ルートで手に入る産直の商品などの内、山梨では希少な産物等を手配して西島さんに送ったりしており、なんとなく関係が深まっている。
サクランボは、西島さんが南アルプス市の親戚の農家に手配して、送ってもらったようだ。早速お礼の電話を西島さんに入れた。
「ご無沙汰しています。今日、おいしいサクランボ届きました。毎度のことながら、ありがとうございます」私のお礼と久闊を叙する挨拶が一通り済んだ後、西島さんから提案があった。
「立花さん、今度藤木さんや久保田君たちと静岡の安田義定公の足跡を訪ねる、フィールド調査をするだけんが、ほれに一緒に参加してみんかい?」と、相変わらずの甲州弁で語り掛けて来た。
「相変わらず感は好いだね立花さんは。ほの通りだよ」西島さんが応えた。
西島さんを始め藤木さんも久保田さんも、昨年の『大野土佐日記』による甲州金山衆と蝦夷地知内との関係を巡る検証のワーキングの過程で、知り合いになったメンバーであった。
彼らはいずれも、安田義定公や甲斐源氏についての調査や研究をしている山梨の郷土史研究家達である。このメンバーに甲州金山博物館の秋山館長を加えた五人で、一年ほど前に函館を訪れている。
去年私達は北海道知内町に伝わる古文書『大野土佐日記』を研究する、北海道の金山関係の地域サークルの人達との情報交換会に、参加して来たのだった。
その時の二泊三日の招待旅行で、私たちの間にはある種のゆるやかな絆と言ってよいものが、生まれてきていた。
元来歴史物語などに関心があった私は、新田次郎の武田信玄などに関する書物や司馬遼太郎、子母澤寛等の歴史小説に親しむ傾向があり、歴史に対する関心は少なくなかった。
しかしそれらの多くは、戦国時代末期や幕末が舞台の小説などであり、当該書物を通じて戦国時代や明治維新前後の知識は、それなりに蓄積をしてはいた。ではあったが、平安末期から鎌倉時代に関しては、さしたる書物に出会っていなかったこともあって、幼少の頃読んだ子供向けの物語や同レベルの小説から得られる程度の、知識しか持っていかなかった。従って義経や弁慶・静御前などの人物像がわずかに記憶に残っている程度に過ぎなかった。
そんなわけで、甲斐源氏の安田義定公や彼の兄であり甲斐武田家の家祖である武田信義の存在は、昨年の『大野土佐日記と甲州金山衆』の事を調べる過程で初めて知ったというのが実態であった。
しかしそんな私も昨年来の調査や検証のプロセスを経て、甲斐源氏や信濃源氏に対する頼朝の具体的な仕打ちを知るにつけ、彼の人間像の本質の一端を知ることが出来た。
そういう意味では「大野土佐日記と甲州金山衆」をめぐる去年の検証のプロセスは、私の鎌倉時代に対する情報や知識を深めるきっかけとなった。そのことには感謝している。
今回彼らとまた一緒に、安田義定についての情報交換をしながら、歴史検証のフィールドワークをすることは、私にとって大いにウエルカムな事だったのである。
私が参加の意思表示をした後西島さんが調整した結果、暑い盛りの7・8月は避け、9月下旬の連休後に一緒に静岡に行って、フィールドワークをすることに成った。
私は山梨の夏の味覚の代表である、桃やスモモを送ってもらった藤木さんや久保田さん・西島さんに対する返礼として、農家産直の千葉の梨を送ったりした上で、静岡行きの準備を始めた。
運転は久保田さんが行い、西島さんが助手席に座っていた。私は藤木さんと一緒に二列目に座った。
埋蔵文化センターには予(あらかじ)め西島さんがアポイントを取っており、安田義定公に関する件で伺う旨を伝えてあった。その際「富士金山」や「鎌倉初期の富士山西麓での牧き場の痕跡」等についてお話を聞きたいと、依頼しておいた。
相模・駿河の平氏連合軍は、伊豆之國で平氏追討の旗揚げをした頼朝軍を、石橋山の合戦で粉砕しその大勝した余勢をかって、ほぼ同時期に平氏追討に立ち上がった甲斐源氏を討伐すべく、箱根からこのルートを甲斐に向かったのであった。
私達は富士五湖の内の「河口湖」「精進湖」「本栖湖」の三つの湖を経由して、朝霧高原から毛無山に向かい「ふもとっぱら」と言われる、毛無山の麓の登山口に着いた。
義定公四天王の末裔の一人と目される、竹川家を訪れたのである。ふもとっぱらの竹川家はどちらかと言うと「地味な名主の家」と言った感じであったが、その門構えだけはかつての名家の名残を感じさせていた。
この狩宿の地に、頼朝を始めとした関東の御家人数百人が1か月近くの期間滞留し、それを井出氏が巻き狩りの宿営地として受け入れたとすれば、井出氏そのものの屋敷も相当しっかりとした屋敷であったのではないか、と言うのだ。
一般的な巻き狩りであれば滞在は数日間で済むし、狩場は獲物を求めて移動するから野営即ち野宿が基本であったと思われるが、1か月の逗留であるとすれば話は違ってくる、と西島さんは言うのだった。
何しろこの狩宿には黄瀬川や安部川手越の遊女まで呼ばれたというくらいで、その時に集まった関東の御家人たちの規模の多さや、期間の長さを想像することができる。
もちろん井出屋敷がその人数をすべて受け入れたということでは無いにしても、地元の受け皿の幹事的な役割は担ったに違いないだろう。従って、それなりの受け入れ態勢が可能な屋敷であったと思われる。少なくとも、通常の名主クラスでは無かったはずだ。
参勤交代時の大名行列を受け入れた、後世の大きな本陣宿クラス又は大きな寺社級の屋敷でなければ、その規模で一ヶ月近くの逗留を受け入れることは無理だったであろう、ということであった。
その時私はオリンピックやサッカーのワールドカップを頭の中に描いた。いずれも1か月近く行われる大イベントだ。富士の巻き狩りは数日間開催される陸上競技大会やサッカーの大会とは異なり、1か月近く行われるオリンピックやワールドカップ級の一大イベントだったのだと理解した。
従ってこの地は当時富士山西麓を治めていた安田義定配下の目代(代官)クラスの代官屋敷、またはそれに準ずる有力な幹部の屋敷だったのではないか、と西島さんは言うのであった。
そしてこの上井手地区の場所が、朝霧高原や長者ヶ岳の麓といって良い場所でもあることから、安田義定の「甲斐の国いはら郡」の領地経営の根幹である、騎馬武者用の軍馬の畜産・育成を担った幹部級又は、金山開発の奉行クラスの屋敷だったのではないか、と西島さんは考えていたようだ。
その上で西島さんは、ここが物理的には朝霧高原よりは長者ヶ岳に近いことから、金山衆の本拠地であったのではないかと、思っているようであった。
いずれにせよ8百年近く前から存在していた下馬の桜はとても立派な樹木で、こんもりと葉の繁った桜は周囲を圧倒する存在感を示していた。
そしてその桜は、その奥にデンと構えていた「高麗門と長屋」の井出家に良く似合って、バランスが取れていた。この「高麗門と長屋」は横に数十㍍ほど拡がっていて存在感があり、井出家の格式の高さを誇示していた。私は西島さんに尋ねた。
「この高麗門の左右に広がる長い長屋は、下男下女などの居宅や戦さの時の門衛たちの控え処かなんか、だったんでしょうか?」と。
「ほうだね、ほの通りだったと思うけんが馬小屋なんかも兼ねていたようだよ。オレは10年ばっか前に中を見ることが出来ただけんが、馬屋もあったね。こっちの北側の長屋に確か二部屋あっただよ、馬屋がね」西島さんは記憶をたどりながら、話してくれた。
「ところでこの『高麗門』ってのは、一体いつごろ出来たんですかねぇ?読み方によっては、高麗はコマとも読めますけど・・」
「ん?コマ、要するに馬に関係した名前じゃねえかって思ってるだけ?立花さん・・」久保田さんが私に言った。
「へぇ相変わらず面白ぇ発想するもんだね、立花さんは」西島さんはそう言って続けた。
「だけんが残念なこんに、この高麗門は江戸時代の中期に建てられたモンだっちゅうから、今から二百五・六十年ぐらい前のモノらしいよ。江戸時代に何度か、火事で焼失したらしいだよ。まぁほれだって、ほれまでの建物を踏襲して造られた可能性は高いだけんがね・・」西島さんはそう言ってから、また話を続けた。
「それに『高麗門』ですからね、この字を駒門って読めなくもないかなと思いまして・・。そしたら、朝霧高原であった義定公の騎馬武者のための軍馬の畜産経営に繋がるかもしれないな、と思いまして・・」
「ほうだな、あまり固定観念やこれまでの定説に拘りすぎない方がいいかも知れんな。いや勉強になるわ、はっはっは」西島さんは嬉しそうに、そう言った。
私達は下馬桜の狩宿を後にして富士宮の市街地を目指して、南下した。
途中、駐車場の充実した和食屋で昼食を済ませてから「富士宮市埋蔵文化センター」に向かった。私はその店に置いてあった富士山西麓の観光MAPをもらってきた。
同センターは国道139号線よりずっと西側に在り、富士川を上流の山梨側に向かってさかのぼる形をとった。
市街地からは離れていて、山梨県の南端の街である富沢町・南部町に向かう幹線道路沿いに在った。山梨の河内地方を北上する幹線道路である、国道52号線を目指して行く事になった。
車中で、私は誰に言うとでもなく、
「ところで富士宮の井出氏って言うのは、あれだけの門構えの名家だとして一体どんな一族だったんでしょうかね・・」と、聞いてみた。
「まぁ少なくとも富士の巻き狩りのあった1193年頃には、それなりの家勢を誇る家柄ではあった、っちゅうコンだろうね」西島さんが応えてくれた。
「やっぱり西島さんが言われるように、義定公配下の金山衆か甲斐駒衆の頭領格の家柄で、そう言った職能集団の頭だったってことですかね・・」私は言った。
「井出って名前は、山梨でも南部町のあたりには多い名前でしたよね、確か。ほかに信州の佐久地方にも多い名前で、井出ってゆう名字の代議士が確か居たですよ。佐久あたりでもキット、名家筋になるんじゃないですかね・・」藤木さんが教えてくれた。
「詳しいじゃん久保田君、ほうだよ。身延駅と富士宮駅の間くらいに成るかな。確か4つ目の駅だったはずだよ、身延から」西島さんが助手席から、前を向いたまま応えた。
「そうすると井出氏と言うのは信州佐久地方、甲州南部地方、駿河の富士山西麓に多い一族だってことですね。なんだか金山衆あたりと関係していそうな臭いが、しないでもないですね」私がそう言うと、西島さんが
「やっぱり臭うかい立花さん。ワリいじゃんね、さっきスカシッ屁をしちまっただよオレ。あはは・・」と車内に響く大きな声でそう言って混ぜっ返した。
私達は大笑いをしながら窓を大げさに開けて、喜んだ。
「富士宮市埋蔵文化センター」は、富士川沿いの両側を山に囲まれた山狭といってよい場所にあった。
私達は富士宮と南部町を結ぶ主要地方道から左折して、同センターに入った。同センターは展示室が充実しているモダンな感じの建物であった。
会議用のテーブルに腰かけていると、先ほどの学芸員が40代と思われる中堅の学芸員と、センター長と思しき雰囲気の50代後半のスタッフを伴って入って来た。
互いに名刺交換をした後で、西島さんが標準語で今日の来意を伝え、時間を取ってもらったことに謝意を述べた。その上で、
「私達は甲斐源氏の武将安田義定公が『波志太山の戦い』の勝利の後、富士川の戦いで平家の征東軍を退散させた後も、そのまま富士山西麓にとどまって自らの領地としていたのではないか、と言う仮説を取っておりまして、その足跡が何らかの形でこの富士宮に残っていないかと思っています。
で、その足跡と言うか痕跡を求めて富士宮に来てまして、こちらに寄せてもらった次第です」西島さんは意外にも甲州弁を殆ど使わず、そう言った。
西島さんの発言を受けて、40代の中堅のスタッフが口を開いた。
「具体的には、どのような形でその安田義定の足跡や痕跡が残ってられると、お考えですか?」と西島さんに尋ねた。
ほしてもう一つは金山開発、即ち富士金山の開発の痕跡が富士山西麓のどこかに何らかの形で残っていないだろうかと、そんな風に思ってまして・・」西島さんはセンターのスタッフの顔を見据えて、話を続けた。
「具体的にはそのように思われた、きっかけとか根拠と云ったようなものは、何かあるんでしょうか?」と私達の仮説に疑問を呈するように、聞いてきた。
「遠藤秀男先生を、ご存知ですか?」と西島さんに聞いてきた。
「ええ、今から20年ばっか昔のコンですが、遠藤さんが山梨に来てシンポジウムに出てられた時に知己を得まして・・。ほれから時々連絡を取り合って、判らんことや教えてほしいコンががあったりした時に、いろいろ遠藤さんには教えてもらったですよ」西島さんが昔を懐かしむように語った。
「そうですか、遠藤先生とご交流があったのですか・・」センター長も、遠藤秀男氏と交流があったのだろうか、恩師について語るような口調でそう言った。
遠藤秀男氏の話が出た事で、全体の雰囲気が和んできたようにその時の私には感じられた。それだけ遠藤氏の存在は、この富士宮の教育界では大きいのかもしれない、と私は想った。それからは、話がスムーズに流れていった。
「松山君、あれを・・」とセンター長が若手の学芸員に言うと、彼は手元の資料を私達に配り始めた。
「ご依頼のありました、富士宮市の神社の一覧表です」センター長が言った。
その資料は富士宮市の神社や寺院などの所在地を取りまとめた一覧表で、神社の欄は6枚に渡ってあり、2百社弱の神社についての情報が記載されていた。調査日は2010年の1月から3月と書いてあった。
「これは、こちらのスタッフが?」と西島さんが尋ねると、
私はざっと一覧表に目を通して「八幡宮」には黄色のマーカーを「金山神社」にはピンクのマーカーを施した上で、西島さんに渡した。「八幡神社系」は40社前後「金山神社系」は4社ほどあった。西島さんは、そのうち「金山神社」について聞き始めた。
「安田義定公の場合甲斐源氏ですから当然八幡神社を祀るわけですが、源頼朝や徳川家康なども源氏の家系ですから、八幡神社だけではなかなか義定公ゆかりとは言えんですね。
しかし金山神社だと明らかに、義定公の金山開発に関係する可能性が期待できるですよ。もちろんこの2番目の『麓(ふもと)東照宮』の様に、明らかに徳川家康を祭った神社は除外するですが、ほかの『上井手村新田の金山神社』『北山村桟敷の金山神社』『富丘村淀師の金之宮神社』の三社については興味あるですね」そう言ったうえで、西島さんはセンターのスタッフに向かって、
「もしこれらの神社の祭神とかが判るようだら、教えてほしいのですが・・」と言った。
西島さんの問いに、センター長が手元のタブレットを操作し始めた。センター長はタブレットで確認してから、
「『上井手新田の金山神社』と『北山桟敷の金山神社』は、共に『金山彦命と金山姫命』の二神を祀っていますね。『淀師の金之宮(かんのみや)』の場合はこの二神に加えて、木花佐久夜昆賣(このはなさくやひめ)を加えた三神が祀られています」と応えた。
「なるほどほうですか『金山彦命と金山姫命』の二神は判るけんが、木花佐久夜昆賣も祀られてるですね・・。富士山の祭神ですよね『木花佐久夜昆賣』は。『淀師の金之宮』は浅間大社に、何らかの関係がある神社ですか?」 西島さんはセンター長に尋ねた。
「金之宮神社の氏子総代である金森さんの話では、戦前までは浅間大社の流鏑馬(やぶさめ)の行事の時は、この金之宮神社から流鏑馬の神馬を引いた行列が出発してたようです・・」センター長が付け加えた。センター長の話に、山梨側のメンバーがさっそく反応した。
「流鏑馬⁉ですか・・。う~ん、そうですか・・。因みに三神のほかに副神とかは祀られていんですか?例えば八幡様が合祀(ごうし)されているとか・・」この西島さんの指摘には、センター長が驚いた。
「いや、流鏑馬と言うのはまさに甲斐源氏のお家芸だし、騎馬武者軍団に繋がって来るモンですから、ひょっとしたらと思ったです。ほうですか、八幡宮が合祀されてるですか・・。八幡神社そのものは珍しくねぇけんが、金山比古と重複して祀られている場合は、安田義定公に非常に近づいてくるですよね。
この時点で西島さんは、金之宮神社が安田義定ゆかりの神社に違いないと、思ったのだと私は推察した。
「流鏑馬は甲斐源氏のお家芸なんですか?中世からある由緒ある神社の神事としては、どこでもやってるようですが・・」中堅の学芸員がまた疑問を呈した。
この発言には確かにそうだな、と私も同意したがさっそく藤木さんが反論した。
「流鏑馬は甲斐源氏に古くから伝わっている武芸でしてね、鎌倉時代以降武士のたしなみとされているのはご存知だと思います」藤木さんは穏やかに、その学芸員に向かって語りだした。
『小笠原流』は武士のたしなみとされる礼法・兵法・陣法・弓術に馬術が基本で、それに茶道なんかも含まれてる『武家故実』を最もよく継承していると言われてる流派ですね。言うまでもなく『武家故実』は、公家における『有識故実』の武家版に当たります。また『武田流』も小笠原流とほとんど同じですね。違いは茶道が抜けてることぐらいです」
藤木さんはここまで淡々と話して、次に四十代の学芸員を凝視して言った。
「お気づきだと思いますが『武田流』はその名の通り甲斐源氏武田家から始まっています。安田義定公の甥にあたる武田五郎信光公の子孫が領主と成った、分家である広島安芸の『安芸武田氏』から始まったとされています。武田信光公は安田義定公の兄である、武田家宗家の信義公の五男です。
次に『小笠原流』ですが、小笠原流の家元である小笠原氏の家祖は信義公・義定公の兄弟である、加賀美遠光公の次男で小笠原長清と言います。
このように流鏑馬の権威ある作法を鎌倉時代以来、正統派として伝承してきている流派の先祖は、いずれも甲斐源氏にそのルーツがあるんです。従って流鏑馬は甲斐源氏にとっては、まさにお家芸であると申しているわけです」
藤木さんの言葉は穏やかで冷静であったが、その論理には有無を言わせぬ力があった。甲斐源氏に関する情報では、その学芸員との力量の差は明らかだった。学芸員は押し黙った。
「話は変わりますが『金之宮神社』から浅間大社まではどのくらいあるんですか?距離的には・・」私が尋ねた。
「そうですね、まぁ2・3k(m)と言ったところですか」センター長が応えた。
「そうですか、2・3k(m)の距離を流鏑馬用の馬を引いて、浅間大社まで行列組んで練り歩くことで、神事をスタートさせたんですね・・」私が確認すると、
「いやまあそうですが、流鏑馬の神事そのものは富士川で神馬(じんめ)の身を清めるところからスタートさせます。その行列を出立させる前日に・・」とセンター長が言った。
「いや、失礼しちまったです。富士川で身を清めるですか、神馬を‥。要するに富士川で禊(みそぎ)をするっちゅうコンですね・・。いや驚きました」 西島さんの反応に、センターのメンバーが「ん?」といった顔をした。それを見て西島さんが説明を始めた。
「因みに『淀師の金之宮神社』の氏子総代さんの名前は、金森さんっておっしゃるんですか?」私は誰に尋ねるでもなく、そう発言した。
「そうです氏子総代は代々金森家が続けてきました・・」中堅の学芸員が応えた。
「そうですか、金山比古を代々護っている氏子総代の家が金森氏一族なんですね。神社のご近所とかですか?総代のご自宅は・・」私が尋ねた。
「ハイ、参道の入り口です。その界隈は皆、金森さんです。どの様な姻戚関係なのかはわかりませんが・・」中堅の学芸員が応えた。心なしか当初より素直に応えられているように感じられた。
「残念ながら、長年氏子総代をされていた氏(うじ)の長老格の金森さんは、確か2・3年前に亡くなられたと伺ってます。今ではどなたが総代をされているのかちょっと・・」と応えた。
「ほうでしたかぁ・・。いやぁ、残念です」西島さんが明らかに落胆した、といった風に言った。
長老格の氏子総代は亡くなったとしても、現地に行けば何か得るものがあるかもしれない、と私は思ったのだ。
『北山の金山神社』と『淀師の金之宮神社』については、彼らは簡単に指し示してくれたが、『上井出新田の金山神社』についてはすぐには判らないようで、センター長は一番若い学芸員に言って、富士市の住宅地図を取りに行かせた。
その間、私は下馬の桜の時に抱いた狩宿の「井出氏の高麗門」についての疑問を、尋ねてみた。
「現時点では、そのようなものは何も残っていないようですね、残念ながら・・」
「お宮に仕える、と書きます。神社の実務を司どる、まぁ執行役のようですね。宮崎氏はその宮仕の筆頭で『一宮仕』のようです。
「いや、ありがとうございます。よく判りました。富士の巻き狩りの後に、宮仕の筆頭として定着して神社の実務を任されていたわけですね、井出氏出身の宮崎氏は・・」私はセンター長にお礼を言った。
この時これまで殆ど口を開かなかった久保田さんが、
その時私には、閃くものがあった。
「ご存知かもしれませんが、富士の巻狩りの後1年後に富士山西麓を支配していたと思われる安田義定一族が、頼朝によって滅ぼされています。そして偶然にもその頃に、狩宿の井出氏の一族が富士本宮浅間大社に筆頭宮仕として採用されたわけですよね。
その時、若い学芸員が住宅地図を持参して着席し、テーブルに地図を開いて置いた。
彼らは押し黙っていた。
それから面白い仮説というか問題提起ではありますが、立花さんの言われる仮説を証明するためには、出自のハッキリとした古文書や考古学的に検証しうる、客観的で科学的なエビデンスでも現れない限り、あくまでも仮説や推測の域を越えないのかもしれませんね・・。
それに浅間大社の社伝によりますと、頼朝が富士の巻き狩りに際して馬や弓矢を奉納したのがこの流鏑馬の神事の始まり、ということに成っているんですよ、残念なことに・・」センター長はさらりと、そう言った。
その時、若い学芸員が富士宮市の住宅地図を指し示して、
「先ほどお尋ねの上井手新田の金山神社の住所は、この辺りになりそうですが・・」と言った。私達は立ち上がって、その開かれた住宅地図を覗き込んだ。
「あっ、竹川家だ!」突然、久保田さんが叫んだ。久保田さんは畑の北側に在る区画の家を指さして言った。そこは、やや大きな区画で「竹川診療所」と記載されていた。
私達の反応に、センターのスタッフたちが驚いたようだ。それを見て西島さんが説明した。
「安田義定の四天王ですか?」センター長が尋ねた。
「ほうです。義定公には4人の有力な配下が居て、義定公の全国各地の領地経営を彼らに目代として、任せていたようなんですよ・・」西島さんが説明を続けた。
「目代ですか?」若い学芸員が呟いた。
「中世の代官みたいなもんですよ、領地経営の実務を担った、地方の責任者です。今の会社経営で言えば、全国に在る事業所の本部長級の責任者みたいなもんですかね。まぁ東海事業本部長とか九州事業本部長とか言ったようなですね・・」私が西島さんの説明をフォローした。
「ちょうど『金之宮神社』の参道付近で、金森家が代々氏子総代として神社を守ってきたようにですね、上井手新田の『金山神社』を竹川家が氏子総代として代々見守って来たのかもしれない、と考えたわけです。いや、そのように考えられるわけです。この場所にこうやって竹川家の一族の家が在る、ということはですね・・」私が続いた。
「いや四天王の話、ありがとうございました。初耳ですが勉強になりました」センター長はここで軽く頭を下げて続けた。
「『金之宮神社』に続いて『上井手新田の金山神社』にも、こうやって義定公につながる足跡が確認できたのはとても良かったですよ。こうやって富士宮までやって来た甲斐がありました。私達は甲斐の国から来たんですが、アハハ・・」西島さんはここでもおやじギャグを言った。再び場の空気が柔らかくなった気がした。
「二つの金山神社がこの距離感に在ったとすると、この地域の氏神であった可能性もあるだな・・。ひょっとしたら、この辺りは鍛冶屋の里だったのかもしれんじゃんね・・。この距離で金山比古を祀ってたとすると・・」甲州弁を交えて呟いた。
「そして左岸に井出氏が大きなお屋敷を構えていた、という訳ですね。頼朝を始めとした関東の御家人数百人が、富士の巻き狩りの宿営地とした場所がその近くに在った、というわけで・・」私はそう話しながら、閃くものがあって言ってみた。
「この潤井川を溯(さかのぼ)ると田貫湖が在るですね」突然、藤木さんが会話に入って来た。
「田貫湖はかつて長者ヶ池と言われ、長者ヶ岳の麓に当たる場所ですよね。そこからは直線距離で、・・これだと5・6㎞と言ったとこですか・・。
この川筋を使えば金を含む鉱山石などを、舟で運ぶことも可能だったわけですね・・」と続けた。
「これは愉しくなってきましたね・・」私は山梨のメンバーと共に顔を見合わせながらそう言って、想いを共有した。
「そういえば井出氏一族は確か土木技術に秀でた一族だった、と言われてましたよねセンター長」中堅の学芸員がセンター長にそう言った。センター長は肯いた。
「具体的には、どのような・・」私は中堅の学芸員に尋ねた。
「具体的にはですね、江戸時代の富士講のための富士山登山口の維持管理を担った家柄であった、とも言われております。
それに確か、信州佐久地方に移った井出氏の先祖は、武田信玄の造った棒道の維持管理をしていたということです。もちろん富士山西麓から、信玄に派遣されてですね・・。
聞いたことはなかったですか?信州井出氏が武田軍の棒道の維持管理者であったこと・・」中堅の学芸員はそう言った。山梨のメンバーは、私を含め誰も知らなかったようで、驚きをもって首を振った。
「それと、ちょっと面白い話も残ってましてね」センター長が話を引き継いだ。
「江戸時代に入っての事ですが、鎖国の中で唯一交易を許されていたオランダの地に、井出氏の一族が移ったと言われているんですよ。アムステルダムの干拓地の土木工事の技術者として、スカウトされたようですね」センター長の思いもよらぬ発言に私達はびっくりした。
「いやぁ~、勉強になります。ありがとごいした。信玄堤に金山衆の鉱山開発の技術が反映されているこんは私達も存じてましたが、ほれと井出氏とがつながっているとはまったくの驚きです。いや勉強になります」西島さんは素直にそう言って、井出氏に関する新情報に感謝を述べた。
私達は時間を確認して、ここでのヒヤリングはそろそろ終えて先ほど教えてもらった三つの神社をさっそく訪れることを確認した。
「また先ほどの、所在のハッキリしない『上井出新田の金山神社』については、改めてこちらでも確認してみたいと思っています。金山神社の捉え方も、皆さん方のような視点で分析すると違った見え方をすることも判りました。いや、勉強になります。
「すみません、最後にお願いがあるのですが・・」私はそう言って、若い学芸員に向かって言った。
「先ほどの3カ所の金山神社の住宅地図のコピーをいただけませんか・・」若い学芸員はセンター長に目で確認を取って、会議室を出て行った。
「あ、『甲斐之國いはら郡』の件ですか、それはまぁ話すと長くなるんですが・・。要するに『波志太山の戦い』の後、安田義定公が駿河の目代を追っかけてそのまま居座って、二度目の駿河の目代との戦いで完勝した『井出の戦い』や『富士川の合戦』の勝利で富士山西麓を領地として確定させたわけですね。
私達は最後に握手を交わし今後も連絡を取り合うことを確認しあって、最後の挨拶を済ませ、富士宮市埋蔵文化センターを後にした。
私達は帰りの車の中で、今後のスケジュールを確認した。
ひと先ずは「下馬の桜」付近に向かい、それから「上井出新田の金山神社」に行き、「北山桟敷の金山神社」最後に『淀師の金之宮神社』に行くこととした。
それはまた、標高の高いところに行ってから、南下する形をとったのである。今日の宿がJR富士駅近くであったことを考えると、このコースは合理的な流れであった。
『吾妻鏡 第二巻』 建久四年(1193年)五月十五日
『全訳吾妻鏡2』276ページ(新人物往来社)
(頼朝)富士野の御旅館に入御す。南面に當りて五間の仮屋を立つ。御家人同じくのき(軒)を連ぬ。・・・・・・・・・・・・終日御酒宴なり。手越・黄瀬河己下近辺の遊女群参せしめ、御前に列す。
( )は著者の註
上記は1193年に行われた「富士の巻狩り」についての『吾妻鏡』の記述の一部である。頼朝以下関東の御家人らは、富士山東麓の御殿場の「藍澤」で一週間ほどの狩りを終えて、富士山西麓に移動して、五月一五日に入営した。
翌六月四日までの二十日ほど、この地で巻狩りを続けた。その宿営地が富士宮市上井出の「狩宿」と言われており「頼朝下馬桜」の地である。
武士の嗜(たしなみ)としての騎馬武術
平安後期から室町時代にかけて、当時勃興して来た武士の社会において騎馬武者の武術を鍛錬し、その技量を磨くための競技が幾つかあった。
その中の代表的なものは以下の三種である。
一、犬追物
四十間(約72m)四方、1,600坪程度の四角い馬場の中に犬を150匹程度解き放っておき、それを騎馬武者が走りながら弓で射る競技。祭事としての規模も大きく費用等が多額に掛かることから、次第に廃れていったとされている。
二、(小)笠懸け
狩りの際に頭に被る小さな笠を木枠に吊るしてそれをめがけて騎馬武者が走りながら弓を射て、その吊るされた笠に矢を当てる競技。
流鏑馬に比べ騎馬武者と的との距離が長く、的も小さく揺れて動くことから、より実戦的であると言われている。北条時政の北条氏が好んだとも言われてる。
三、流鏑馬
二町(200m強)の馬場を、狩装束の武者が疾走しながら5mほど先の3つの的を射る競技である。その競技の様子からかつては「矢馳せ馬」と呼ばれていたものが次第に「やぶさめ」に転訛したものと言われている。
「鏑」は、矢じりの先が小さく空洞を施していることから、的(標的)を傷つける勢いを削ぐ効果があり、イベント用にあえて用いられたものと言われている。
『小笠原流』は武士の嗜(たしなみ)とされる兵法・陣法・弓術に馬術及び礼法が基本で、それに茶道も含めて『武家故実』と言われる武士の知っておくべき伝統の技術や作法の流儀を教えている家元である。
『武田流』も小笠原流と殆ど同じだが、茶道は入っていない。茶道は室町時代から入って来た新しい嗜みであるために、故実を重視した武田流においては取り入れられなかったのかもしれない。
ここを再度訪れたのは、潤井川左岸に位置するこの場所から右岸を行った処に在る「上井出新田の金山神社」と、そこを南下した処にある「北山桟敷の金山神社」へのアクセスビリティを確認するためであった。
更に潤井川から1㎞に満たない距離を、金鉱石などを陸路で右岸の鍛冶屋集団の拠点に運び、金に加工するための精錬加工作業を行っていたのではないかと言う、これもまた藤木さんの仮説を検証するために、私達は狩宿の地に寄ったのであった。
「長者ヶ岳で採掘された金鉱石等が潤井川を下って運ばれ、右岸の鍛冶屋の里まで円滑に到達することを管理・監督し、マネジメントしていたのではないか」という仮説を建てていたのだった。したがって井出屋敷は、それらの役割を担った富士金山の幹部の拠点だったのではないか、と言うのが現時点での私たちの共通する仮説であったのだ。
狩宿を通る県道75号線の途中を右に折れ、橋を渡り潤井川を越えて殆どまっすぐ東に向かって行くと、75号線にほぼ並行して南北を走る県道414号線に突き当たった。
その県道を左折し北上すると「上井手新田の金山神社」に行き着き、逆に右折し南下すると「北山桟敷の金山神社」に辿り着くようになっていた。そのほぼ中間地点といって良い場所に出た。地名は「中井出」と言った。狩宿からのアクセスビリティは容易であった。
しかしその仮説が証明されるためには、「上井出新田の金山神社」と「北山桟敷の金山神社」に挟まれたエリアに、金の精錬・加工のプロセスで排泄される金屑類の残滓や加工技術関連用品の遺物、といった出土品が現れることが必要であろう。要するに考古学的な意味でのツメ跡と言うか遺跡や痕跡の発見が必要になるのである。
住宅地図で示された場所には神社の形跡はなく、2・3百坪程度の畑があるのみであった。その畑の周りを、水路が囲み量の豊かな水が勢いよく流れていた。この水の流は自然に出来た小川ではなく、人の手により造られた石垣などによってコントロールされている水路であった。
「なんでぇ、こりゃぁセギじゃねぇだけぇ」久保田さんが言った。私が「ん?」といった顔をしていると、藤木さんが、
「この用水路は、山梨のうちの方ではセギって言ってるですよ。笛吹川や重川から水田なんかに水を引き入れるための、まぁ農業用水路というか生活用水路と同じなんですよ」と、教えてくれた。
「セギもまた、金山衆の土木技術を使って造られたじゃねぇかって、ほう言われてるだよ」
「ってことは、この用水路も金山衆が造った可能性があるってことですか?」私の問いに、藤木さんは肯いた。
確かにこの豊かな水の流れは、もしここで金鉱石等から金を抽出する作業が行われていたとしたら、ずいぶんと役立ったであろうと思われた。細かな金片や砂金類を砂鉄や岩石・砂礫と分離・区分し、粉砕・抽出する作業に水は不可欠な存在だからである。
私達は畑の周囲を歩きながらその様な点を話し合い、この鍛冶屋の里が黒川衆につながる里であるに違いない、との思いをいっそう強くした。
インターホーン越しに「この辺りに金山神社が無かったか」を聞いてみたが、
「知らないし、聞いたことも無い」という、そっけない返事が返って来た。声の印象では3・40代の若いご婦人の様であったから、知らなかったのも無理からぬことかもしれない。もっと年齢のいった人でないと、やはり無理だったのだろうか・・。
「あれっ、この水路は潤井川から水を引てるようだよ!」久保田さんがカーナビを操作していて、そう叫んだ。私たちは運転席のカーナビを覗き込んだ。
確かに人工的に作られた水量の多い水路の先を辿っていくと、北側を流れる潤井川につながっていた。潤井川はここから下流に向かって大きく西側に蛇行していたのだった。その蛇行の先に狩宿が在るのだ。
私たちが小さな社の周りにいると70代と思われる老婦人が生活道路を通った。西島さんが、声をかけた。
「こちらは金山比古を祀っておられる『金山神社』ですよ」そういって軽く会釈をすると、スタスタとバス停に向かった。
「ありがとごいした」西島さんが甲州弁で丁寧に感謝の言葉を述べると、老婦人は笑みを浮かべながら会釈を返した。私は西島さんの対応を、うまいな、と感じた。
あえて名前を出さず老婦人に神社名を語らせたこともそうだったし、甲州弁を交えて語ったこともそうだ。怪訝そうに私たちを見ていた老婦人から必要な情報を聞き出し、彼女の警戒心を解いたような気がしたからだ。
私達はその小さな社の写真を撮った後、車に乗り込み三番目の金山神社である『淀師の金之宮(かんのみや)神社』を目指した。
「さっきから気に成ってたですがね、どうもあの上井手の潤井川沿いのセギを引っ張った鍛冶屋の里の位置関係が、塩山の上小田原に似てるですよね。
因みに上小田原は安田義定公の本拠地があった場所ともいわれてるですよ・・」藤木さんの発言に、助手席に座っていた西島さんが反応した。
「塩山の上小田原ってどこだったっけね?」と、藤木さんに聞いた。
そこは柳沢峠の方から流れてくる重川っていう川が在って、その一角に在るですよね鍛冶屋の遺跡が・・」藤木さんがそう言うと、更に西島さんが聞いてきた。
「重い軽いの重い川、って書くさ、重川はね。で、神金地区ってのは神様の神に金山の金、って書くですよ」藤木さんが丁寧に教えてくれた。
「なんでぇほのまんまじゃんケ、神様と金なんて・・」久保田さんが運転しながら茶化すように言った。
「マァ、ほりゃ偶然だよ久保田さん。神金地区の名前の由来は『神部神社』と『金井加里神社』っていう、地元に古くから在る神社名の頭を取ってつけた名前なんだから・・。
ほれよりねその上小田原の鍛冶屋の里と重川、その上流にある黒川金山との位置関係が、今さっき見て来た上井手の鍛冶屋の里とそっくりなんだよね・・。どっかで見た感じがズットしてたですよ」藤木さんが言った。
「それに、金鉱石を運ぶには水運も大事ですよ・・」藤木さんがフォローした。
「鍛冶屋には風も大事だっちゅうよ、上流から流れて来る川風がね!なんしろ火を熾すだから、酸素は不可欠じゃんね・・」久保田さんが運転しながら言った。
藤木さんのインスピレーションのおかげで、上井手の鍛冶屋の里を含む長者ヶ岳流域と、義定公の本貫地である塩山の黒川地区流域の立地的な類似性を、私達は確認することが出来た。
金之宮神社に向かう車中、私は神社周辺の住宅地図を見ていた。確かに神社の周辺には、金森という氏姓の家が数軒固まっていた。それから、金森姓ほどではないが井出姓の家が数軒在った。
「あぁ、確かに・・」と同意した。
「どうどう、オレにも見せてくれちゃぁ」西島さんが助手席から振り向いてそう言ったので、私はあわてて金森姓と井出姓に黄色いカラーマーカーを施して、西島さんに渡した。
信号待ちで車が止まったのを見計らって、久保田さんも住宅地図に目をやった。それから彼は、誰に言うともなく
「『淀師の金之宮神社』の目印は、何かあるだけ?」と聞いてきた。
私は、富士西麓の観光MAPに目をやりながら
「富士宮西高校の南側にあるようですから、富士宮西高を目指したらどうです?」そう言いながら、身を乗り出して運転席のカーナビを見ていった。久保田さんは、カーナビを操作して、
「あったあった」と言って位置を確認した。やがて信号が変わると、車を動かした。
私たちはそれから数分後に、バス道路沿いにある『淀師の金之宮神社』に着いた。
金之宮神社は、住宅街の中の小高い場所に鎮座している神社であった。
参道の入り口辺りはブランコなどの遊具がいくつか並んでおり、小さな児童公園といった感じであった。私たちはその一角に車を止めて、赤い大きめな立派な鳥居をくぐり階段を上って、小高い丘の上にある社殿を目指した。
その階段を登りきったところに、金之宮神社の本殿が在った。鍵がかかっていたので、そのまま正礼をして金山比古たちの祭神に挨拶を済ませた。
本殿には殆ど前庭のようなものはなかったが、後ろの方には広めの平坦な雑木林や畑が在った。もしこの地で流鏑馬などの神事が行われていたとしたら、それはたぶん神社後ろの敷地で行われていたのではないか、と私たちは話しながら周囲を見廻した。
その本殿後ろの敷地は、馬場を設けたとしても十分な広さであった。神殿のある小高い丘で住宅地図を広げながら、金森氏の家々や井出氏の家々の所在を見下ろしながら確認した。返す返すも、代々氏子総代を務めていたという金森氏の氏(うじ)の長者である、古老に会えないことが残念に思われた。
しかし金山比古と金山姫が祀られ更に八幡宮も祀られているこの地で、流鏑馬の神事が行われていたとしたら、やはりここは義定公に縁の深い神社であったに違いないのだ。
「これは俺の推測だけんが、義定公の部下たちは富士川の戦いで平家を退散させた10月20日の戦勝記念日に、毎年の行事として富士川で流鏑馬用の神馬や弓矢を洗い、禊を済ませてっから、この神社の裏手の一角の馬場で流鏑馬を行っていたじゃねぇかって、ほう思うだ・・」
「多分ほうズラ・・」西島さんが短く応えた。
「じゃ、ねぇかと思うよ・・」西島さんは同意した。
「ほれで浅間大社の流鏑馬の神事の時にこっから、氏子たちが行列を組んで浅間大社まで練り歩いた、ってこんだったズラかね・・」久保田さんが言った。
浅間大社の主神がこの神社に編入・合祀されていることを、私はそのように解釈した。西島さんは大きく肯いた。
私達はそんなことを話し合いながら、眼下に拡がる家並みやその間を縫うように通るバス通りを、見下ろしていた。
そして戦前まで続いたと言われる、流鏑馬の馬を引いた氏子たちがこの神社から出発し、富士本宮浅間大社に向かって練り歩いたという、華やかに着飾った祭の行列を想像しながらしばらく眺めていた。
30分近く金之宮神社にいた私達は、この神社が安田義定公ゆかりの神社に違いないとの確信を得て、今日の宿泊地であるJR富士駅にと向かった。5時を過ぎていた。
「やはり、金山比古と八幡宮とが祭神として祀られていて、更に流鏑馬の神事まであるとなると、義定公にとって『甲斐の国いはら郡』の氏神のような神社だったんでしょうか、あの『金之宮神社』は・・」と。
「だと思うだ・・。ほれに流鏑馬の神事の前に、富士川の水で弓矢や神馬の身を清めてるっていうだから、まず間違えねぇらね・・」西島さんは前を向いたまま、助手席で応えた。
「ほうだったな、浅間大社の社伝として伝わってるようだから、ちゃんと検証してみる必要はあるけんが、おれはほう想ってるよ」西島さんはあくまでも義定公につながる神社の神事だと、確信しているようだ。
「僕はね、流鏑馬って点に甲斐源氏の関わりを感じるですよ」藤木さんはそう言って、話を続けた。
「当時の騎馬武者にはさっきも言ったですが、『流鏑馬』のほかに『犬追物』『笠懸け』の腕を競う競技があったですよね。
その中で富士の巻き狩りに一番近いのは、流鏑馬より犬追物ですからね。犬追物は笠懸同様に北条氏が好んだ武術イベントだって言われてるですよ。北条氏が幕府の執権に成ってから好んで開催されてますしね。
ですから、流鏑馬は甲斐源氏のお家芸ってコンも含めて、義定公に関係してるって僕は思ってるですよ・・」藤木さんは、その様に解説した。
「まぁ、いずれにしてもこれっから検証してみるさ、これっからね・・」西島さんは自分に言い聞かせるように、そう言った。
「やっぱり、『吾妻鏡』を中心にですか?」私は西島さんに尋ねた。
「ほんだから八百年経って往時の勢いが無くなって廃れちまったとしても、神様の痕跡が何らかの形で残ってる、ってこんが結構あるだよ・・」西島さんは私に教え諭すように、言った。
「勉強に成ります」私はそう言って、感謝の気持ちを現してから続けた。
「いや、そうでしたね。そういえば、金之宮神社に八幡宮が合祀されていることに良く気づきましたね、あの時・・」私は埋蔵文化センターで、西島さんが八幡宮の存在を言い当てたことを思い出して言った。
「という事はあれですか、これから義定公に関わる神社であるかどうかを検証するのには『金山比古の祭神』『源氏の氏神の八幡宮』『流鏑馬の神事』の有る無しがキーになってくるってことでしょうか・・」私が言った。
「まぁ、ほういうこんかな・・。もちろんほれが全てじゃねぇけんがね。まぁリトマス紙というかチェックポイントであるこんは、間違えねぇらね・・」西島さんが応えた。
「ほうだな・・」西島さんが短く言った。
「やっぱり富士川の戦いの戦勝記念の行事でもあるんでしょうかね、流鏑馬は・・」私の問いかけに西島さんが応えた。
ほんだから、地元でもすっかり定着してたじゃねぇかって思うだオレは。ほれで、浅間大社が継承したんじゃないかって思うだよ。地元に定着してほれなりに盛大に行われた祭りだったからね・・」西島さんは当然の様にそう言った。
「先ほど言われた、頼朝の流鏑馬奉納説を覆すことに成るかも知れないですね、この富士川での弓矢や神馬の禊の神事は・・」私が言った。
「はっはっ、相変わらず感が好いだね、立花さんは。ほのとおりだよ。だから流鏑馬の神事を詳しく調べていけば、ほういった義定公につながる痕跡のようなモンが何か、きっと見つかるじゃねぇかって期待してるだ・・」西島さんは、その痕跡探しを楽しんでいるようだった。
「・・・そうですね、本能寺の変から15・6年ですからそんなもんですね」私がスマホで確認して、西島さんをフォローした。
そうこうしているうちに、車はJR富士駅の近くに着いた。
私はホテル近くに停まった車から降り、フロントに行って駐車場の所在を確認した。そのうえで、車を駐車場に誘導した。
それから私達はホテルにチェックインした。
『 吾妻鏡 第一巻 』 治承四年(1180年)十月十四日
『全訳吾妻鏡1』76ページ(新人物往来社)
午の剋、武田・安田の人々、神野ならびに春田の路を経て、鉢田の邊に到る。駿河の目代(橘遠茂)、多勢を率して甲州に赴くのところ、意ならずこの所に相逢ふ。・・・・
遠茂、暫時防禦の構へを廻らすといへども、つひに長田入道子息二人を梟首し、遠茂を囚人となす。・・・・
酉の刻、かの頸を富士野の傍ら、伊堤(井出)の邊に梟首すと云々。
源平の富士川の合戦の六日ほど前に、富士山西麓において駿河の目代橘遠茂は、安部川の手越を拠点にする長田入道親子と共に多くの平氏の軍を率いて、甲斐源氏討伐に向かった。
橘遠茂にとっては「波志田山の戦い」の雪辱戦でもあったから、今度は負けるわけにはいかなかった。都から平氏の大軍がやって来る前に、甲斐源氏を叩いておきたい、といった思惑もあったのかもしれない。
富士本宮浅間大社の流鏑馬の神事は富士川での禊から始まる
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