本来ならば雪が降るべき時節なのに、雨が降っていた。 雨が止むと、上空を小白鳥やカモなどが群れを成して飛行している。 本州では25度を超える夏日なのだという。 窓の外では虫たちの姿も見るようになった。 ”雨水””北帰行””啓蟄”いずれも春の先駆けなのである。 春分の日を過ぎ、彼岸が終わると一気に春が進んで来た感がある。 そしてサッカー日本代表である。 この21日のバーレーン戦、昨日のサウジアラビア戦の3月の連戦は、勝ち点4を得てバーレーン戦の勝利で来年のW杯への出場を決めた。 喜ばしい事である。 バーレーン戦の勝利の立役者は1アシスト1ゴールを決めた久保建英であった。 彼の奮闘が今回のW杯出場を決定づけたのは間違いない。 ![]() さはさりながら、相変わらずの”個人技頼み”で、チーム戦術が乏しく、チームとしての約束事の乏しい森保采配では、限界が見えている。 今回のバーレーン戦やサウジ戦がそれを示していた。 今の闘いのままではグループリーグ突破が関の山であろう。個々人の能力が歴代最強レベルであっても、チーム戦術やチームプレーで勝てるように成らないと、Best8の壁は越えられないだろう。 個人能力重視の森保監督の限界は、今回の二つの試合でも明らかである。 JFAの会長が田嶋から宮本に替わったのは、希望が持てるが森保氏の交替が実現しない限り、日本代表は次のステージには上がれないだろう。 これからの14ケ月W杯本番までに何が起きるのか、期待感を込めて注視していきたい。
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本編は『甲斐源氏安田義定と駿河・遠江之國-とおきあわうみ編-』の続編に成ります。併せてお楽しみください。 【 目 次 】 |
森町には、更に太田川に沿う形で北上して行った。
同じ太田川沿いでも山梨地区は水田・稲田の中を走っていたのだが、「上山梨」あたりからは、右手に小高い丘がせり出してきた。地名は「飯田」と、言うらしい。
正面の太田川の背景には、小高い山々が連なっているのが確認できた。太田川の源流はあの信濃に続く連山の中に在るのだろう、と想われた。
田園地帯の続いた平野部から、次第に周囲を小高い丘や山々が屏風のように連なる、扇状地に入って行ってるのが、実感できた。
教育委員会のスタッフへのヒヤリングは午後の1時半からだった。
昼食タイムにはまだ時間があったので、とりあえず森町の役場に行くことにした。地元の観光MAPを手に入れるためだ。観光MAPには地域の主要な神社仏閣などの情報が、記載されていることが多い。
八百年前の武将である安田義定公の痕跡を探るのには、神社の祭神などを調べるのが有効であることを痛感していた私達は、森町での義定公の痕跡を求めるに際しても、観光MAPが有効な情報源に成るだろう、と考えていたのだった。
森町に入って目につくのは、茶畑の多さとその産物である製茶の販売店の多さである。
「ちょっと時間が空いたら、後でお茶屋にでも寄るじゃん」と西島さんが言ったのも、私と同様なことを感じていたから、かもしれない。山梨のお茶は殆どが静岡産のお茶であったから、お土産にでも、と思ったのかも知れなかった。
町役場に寄って、商業観光係で観光MAPを数種類手に入れた。
「ちょっとここを見てみろしね!」久保田さんが「森町中心部」をピックアップした詳細地図を指さした。そこには、「金守神社」と書いてあった。
天竜浜名湖鉄道という私鉄の線路が、大きく南側に曲がる場所の近くに在った。久保田さんは、こういうものを見つけるのに目ざとい。
「金守神社」は、八幡神社同様に私達が探していた神社であった。お茶を運んできた、店のおかみに私は聞いてみた。
「この神社に行くにはどう行ったらいいんですか?」
「うちの前の道路を出て、一つ目の信号を右折すれば、すぐですよ。左っ側に見えますから・・」と、おかみはさらりと言った。
「ねえさん、この辺りに『金山神社』ってあるだかい?」と西島さんが尋ねた。
「え、金山神社ですか・・。ちょっと待ってくれるですか」おかみはそう言って、厨房に入って行った。
おかみは、主人と思しき人を連れて来た。
「金山神社ですかい?」主人の問いに、西島さんが肯いた。
「古いのと、新しいのが在るですがどっちですかい?」主人はさらに聞いてきた。西島さんは一瞬「えっ」といった顔して、言った。
「両方とも教えてくれんですか・・」
店の親父は、二つの金山神社の場所を指さしながら、
「今残ってるんはこっちの上の方だけんがハァ、下の方は神社の跡しかねえだよ」と補足説明をした。
「ここにはどうやって行ったらいいズラかね?」西島さんが尋ねた。
「ちょっと待ってろし・・」親父はそう言って奥に引っ込んで、住宅地図を持って来て、私達に教えてくれた。
久保田さんは該当するページを、タブレットで撮影した。その点抜かりが無かった。久保田さんはよく気が利く。
私達が感謝の念を伝えると、親父は再び厨房に戻った。
昼食を取りながら、私達は今後のことを話し合った。午後一の教育委員会のスタッフとの情報交換の前に「金守神社」と新旧二つの金山神社を訪れることに決めた。
食堂は待ち合わせの、一時間前には出た。
店の親父には皆で、お礼を言った。
食堂を出て「金守神社」に向かった。数分で着いた。
神社は森町の主要道路といってよさそうな生活幹線道路に面していた。周辺は、昔ながらの家が多く散在しており、浅羽之荘の「芝八幡神社」にロケーションが似ていた。
神社脇には小さな疎水が在り、豊かな水が流れていた。
私達は車を境内の脇に停めて、神社にお参りした。境内の入り口には大きな藤棚が張ってあり、存在感を示していた。
この藤棚では、かつて徳川家康がこの地に立ち寄った時に藤棚の下で休憩を取った、といった事が、観光案内板に書いてあった。
どうやら四百年以上前から続く、由緒ある藤棚のようだ。少なくとも家康が立ち寄る、ずっと前から在った由緒正しき神社であることが窺えた。
神社の本殿に正礼で挨拶を済ませた後で、境内の周囲を見廻した。本殿横の宝物殿らしき建物の脇に、それなりの大きさの祠(ほこら)が二つ並んで鎮座していた。
その奥の道路側に近い処には、派手な朱色をした鳥居が何本も居並ぶ稲荷社が在った。出世稲荷というやつだ。
稲荷社の手前の祠の、その祠の主を確認した。「金山比古」と「八幡様」であった。
私達はその二つの神様を見つけて、顔を見合わせニンマリした。「金山比古」と「八幡様」を同時に祀っているこの「金守神社」は、明らかに安田義定公の影響を受けた神社だと思われたからだ。
これまで見て来たとおり、源氏の氏神と義定公の領地経営に欠かせない金山開発の神を一緒に祀っていることから、そのことが強く想定できたのである。富士宮淀師の金之宮神社で見て来たとおりだ。
義定公がこの地を直轄地としていたとすれば、間違いなくこの神社を創建したのは義定公だったに違いない、と思われた。
私達は二つの小さな神社にも柏手を打って、正礼で挨拶を済ませこの森町でも義定公の痕跡に出逢えたことを感謝した。そして、今後さらなる邂逅(かいこう)があることを、二つの神様にお願いした。
天竜浜名湖鉄道に沿って南下する形だ。しばらく行って「草ケ谷」という、住宅が密集するエリアの、細い道を右折した。
「金山神社跡」と教えられた場所は、緩やかな坂道を登った右側に在った。
今では芝生の小さな公園になっていた。
明らかに、かつて社殿が在ったのではないかと思われる場所は、更に上段に在った。
その芝生の公園から新東名高速越えに、南南東の太田川の方を見下すと、そこには豊かな稲田地帯が拡がっていた。先ほどの山梨地区もこの田園風景の中に含まれていた。
私達は「金山神社跡」を出て、坂道を戻って消防団の火の見やぐらの処をヘアピンカーブ状にUターンして「草ケ谷公民館」に出た。
その近くをさらに右折して、小さな疎水に沿う形で新しい金山神社を目指した。
この車庫風の格納庫は、森町に入ってから幾つか目にしていた。それを見て私達はこの地でも祇園祭が行われていることを推測し、従って祇園神社があるのではないかと、移動の車中で話し合った。浅羽ノ荘の「芝八幡神社」との類似性を想定したのだ。
この件についてはこの後の教育委員会のスタッフへのヒヤリングで、確かめることに成った。
新しい金山神社は小さな細い道を坂登る小高い丘の頂上付近、といってもよい場所に在った。周辺には茶畑が少なからず散見できた。
石段の参道を登りきった小振りの鎮守の森に、社殿が在った。祭神は、言うまでもなく金山彦の命だ。この神社には、八幡宮を始め他の神様は合祀されてはいなかった。
富士宮の上井出地区のように、近しい距離に二つの「金守神社」と「金山神社」とが在ったことから、この辺りもまた富士宮同様に金山がらみの鍛冶屋集団の里であった可能性があるのだ。そして、両神社は彼らの氏神だったのではなかったか、と思われる。
森町の二つの神社は「上井出」と「辻坂」の富士宮の金山神社より、社殿も大きく立派であることから、現在でも氏子達にしっかり支えられていることが窺えた。
森町の両神社を見ていると、鎌倉時代初期から八百年が経過した今でもなお、この地域住民の日常生活の中に根ざした存在で、あり続けていることが推察できた。
同じ鍛冶屋の里の二つの金山神社ではあるが、八百年後の「富士宮」と「森町」との祀られ方には、大きな差があった。
片方の地区の神社は跡形も無くなっており、鳥居も無く神社の名前や祭神を知ることすら出来なかった。
そしてこちらの地区では、二つとも今でも尚しっかりと神社としての体裁を整えており、管理もされ、手入れが行き届いてるのだった。
両者の違いは、二つの神社の日常生活への関わり方の違いに原因があるのではないか、と私には思われた。
遠い過去の話として、日常生活とは縁が切れてしまった神社と、今なお日常生活に関わりを持っている神社との違いが、この八百年の間にこんなにも大きな違いを生んでしまったのではないかと、私には思われたのた。
森町で、金山神社がどのような形で日常生活に溶け込んでいるのか、興味が湧いてきた。
教育委員会は「町立文化会館」と「町立図書館」の在る建物に連携していた。
この辺りは森町の中でも文化の拠点、という役割を担っているようだ。
文化財係を訪ねた私達は、廊下の奥にある会議室にと通された。
暫くすると作業服を着た二人が現れた。作業服を着ていたので、建築や土木の部署のスタッフかと、一瞬思った。
後で聞いたら文化財や歴史的建造物の維持管理で、現場を飛び回ることが多いのでこのような格好をしている、という事であった。
二人は黒島係長と、鹿藤主査と言った。
簡単な挨拶を済ませた後で、西島さんが口火を切った。
「お電話でもお話しました通り、私達は鎌倉時代初期にこちらの遠州、遠江之國の初代国守を務めました、安田義定公についての足跡と言いましょうか痕跡を求めて、遠州までやってきました。
義定公の遠江之國の本拠地であったこの森町なら、何らかの痕跡が残っているのではないかと、そう思って今回お邪魔させていただいたわけです。貴重なお時間をとって頂いたことに、まずお礼を申し上げます」
西島さんの挨拶に我々は一緒に頭を下げた。
「いや、こちらこそありがとうございます。安田義定については、なかなか文献や史跡と言えるようなもんが無ぇもんだから、ワシらも何とかヒントになるようなものがあればと、思ってはいるですが・・」黒島係長は遠州弁で気さくに、そう言った。
「皆さんもご存知の『吾妻鏡』あたりに書いてあるコンぐらいしか判っちゃいんですよ・・」黒島係長が遠州弁で話始めたこともあってか、西島さんも甲州弁を交えて話始めた。
「ほうですか、『吾妻鏡』ですか・・。実はオレたちは義定公は当時の一般的な領主とはだいぶ違う領主だと、思ってるですよ。
ほの違いというか、特殊性というか特徴は『金山開発』と『騎馬武者用の馬の育成』にあるって思ってるです。
荘園経営で成り立っていた平安時代末期にあって、稲作中心の農業を真ん中に据えながらも、金山の開発や騎馬武者のための軍馬の育成・生産を積極的にやって来たのが、義定公の領地経営の特徴だと思ってるです。
ほういうわけで、この森町でも金山開発や馬の畜産に関わる痕跡が、何らかの形で残っていんかって、期待しているです・・」西島さんは一気にそう言った。
ほんなコンもあって森町でも、と思って来てみたら『金守神社』や『金山神社』があったもんだから、大いに期待してるとこですよ・・」と西島さんが言った。
「『金守神社』と『金山神社』ですか・・。ん~ん、あれはですね、金山開発っていうよりは寺の鐘楼や金灯篭などの金物を造った鋳物師(いもじ)達の、氏神様じゃねぇかって思っていますで、ワシら・・。
南北朝の頃っからの家柄で、江戸時代からは家康の御朱印のおかげで総鋳物師が居たもんだから、えらい鋳物産業が盛んだったですよ。ほれにちなんで金山神社が在るわけです・・」黒島係長はそう言って、両神社は金山開発とは関係ないだろうという考えを述べた。
「う~んほうですか、鋳物師ですか・・」西島さんの期待感がみるみる弱くなって行ったのが、はた目にも判った。
「その鋳物師の伝統は、南北朝からなんですか?鎌倉時代からではないんですね・・。
因みに、南北朝時代だったのは室町幕府創設期の動乱とかで、京に住めなくなった都の鋳物師たちが流れてきたとか、そういった事情とか何かあったんでしょうか・・」私は南北朝であることに拘って、聞いてみた。
「いやもっと昔からあったみてぇですよ。伝承では、小国一之宮神社の神官たちが出雲からやって来た時に、出雲の刀鍛冶たちを連れてきたっちゅうこんで、ほの流れじゃねぇかって言われてるですよ・・」係長が説明した。
「って事は、いつ頃になるんでしたか・・」私が更に聞いた。
「そうなんですか、六世紀の頃に出雲から刀鍛冶がね・・」私が呟いた。
「刀鍛冶と言いますと、上質な砂鉄なんかが採れたんでしょうか・・」藤木さんが聞いてきた。
「ええ、ほうですよ。太田川の上流に『吉川』って川があるですよ。ほの川の辺りで上質な砂鉄が採れたですね。で、そのあたりには『鍛冶島』っていう鍛冶屋集団の里があるですよ。今でも・・」係長が応えてくれた。
「えっ、今でも鍛冶屋の里があるんですか?」私が思わず聞いてみた。
「いや、さすがに鍛冶屋はしていんだよ。鍛冶屋の里と言われてた地区が在るってこんだね」黒島係長が短く訂正し、
「ほの鍛冶屋の里が、いつの頃っからかこっちの里にも降りて来て、『金山神社』の在った『草が谷』って地区が、森町の鍛冶屋の里に成るですよ」と付け加えた。
「しつこいようですが、森町では金山開発は行われて来なかったんですか?安田義定公は自分の領地では、必ずと言っていいように金山開発と騎馬武者用の馬の畜産・育成の可能性を探っているんですよね。本貫地の、甲斐之國牧之荘はもちろん富士山西麓でもそうでしたし・・。
それに、浅羽之荘の『梅山八幡神社』や見付の『府八幡神社』にも金山比古が祀られてます。金山神社の祠が境内に残ってたりしましてね。
「草ケ谷の『金山神社』は金山比古しか祀ってませんでしたが、天浜線近くの『金守神社』には金山比古と共に八幡宮も、祀られてましたよね。
これに『流鏑馬の神事』や駒を祭神とした祠でもあれば、ほとんど間違いなく義定公に縁のある神社、ってことに成るんですがね・・」
私が「駒を祀った神社」について触れた時、黒島係長が反応した。
「駒の神社だってかい?ちょっと待っておくれですか・・」そう言うと、鹿藤主査に何かを言った。主査は肯くと、部屋を出て行った。
「さっきも言ったように、安田義定に関する記録や伝承が殆ど残っていんもんだから、ワシらも何とか手掛かりが欲しいとは思ってるですが、『吾妻鏡』に書いてあるこんぐれぇしか、なかなか判らんですよ・・」係長は言った。
「義定公が地頭だった浅羽之荘では、後背地に在る『笠原ノ牧』で軍馬の畜産を手掛けていた可能性がありまして・・。
それが浅羽之荘に残る伝統行事の、三つの八幡神社を巡行する『稚児流鏑馬』という形をとって、残存して来たんじゃないかって、そんな風に考えていましてね」藤木さんが話に加わって来た。
先程部屋を出て行った鹿藤主査が、分厚い本を持って戻ってきた。
係長はその本を受け取るとページをめくり、確認してから言った。どうやら、この辺りの神社仏閣について書かれている本のようだ。
「『駒形宮』が祀られてましたよ、ご指摘の様に『金守神社』に。いやぁ、面目ねぇ・・」黒島係長は陳謝しながらそう言った。それを聞いて、西島さんの顔がパッと明るくなった。
「森町が、鋳物産業の盛んな土地柄だという事を前提にしたとしても、その南北朝以前の鎌倉時代初期に、義定公の金山開発の足跡があったという可能性は、無くはないと思うんですよね。その間に2・3百年は間が空いてるわけですから・・」私は言った。
「それにご存知のように、金山開発の場合は金鉱石が無尽蔵でもない限り、数十年単位で枯渇するってことはよくあることでして、甲州の黒川金山や富士金山でも同様の事はありましてね」藤木さんが続いた。
西島さんは先ほどから手元のメモを調べていたが、それを見ながら口を開いた。
「森町の三倉に『大久保八幡神社』ってのが在るですよね。
ほこの祭神は八幡宮はもちろん『馬主(うまぬし)神社』『金山比古』が祀られているようですが、森町のどのあたりにあるですか?」どうやら西島さんは、富士市の図書館で調べてきた資料を見ているようだった。
「三倉の『大久保八幡神社』だかい?信州街道に向かう、山狭の集落に在るですよ・・。ほう言えば、あそこには確か流鏑馬の神事があったっけな・・」
係長が、思い出したように言った。それを聞いた西島さんの顔がみるみる元気になって行くのが判った。私達の顔を見て、ニンマリとした。
「ほの大久保八幡じゃぁ、『八幡神社』に『金山比古』『馬主神社』が祀られていて、流鏑馬の神事までやってるですね。思った通りだね!」西島さんは嬉しそうに、ほとんど叫ぶように言った。
「信州街道の山狭の地ってことは、当然標高の高い場所ですよね、なるほど。因みにその集落には、馬を放牧できるような平らな場所とかってありますか?」私は尋ねた。
「八幡神社の敷地内には、明治に成って出来た小学校があるですが、ほこの校庭が直線でまっすぐ長くって、ずっと流鏑馬の神事が行われてた馬場だった、と言われてたですよ確か・・。
だけんど、馬を放牧させたりする様な平らな所はどうだらね・・」黒島係長は鹿藤主査を見ながら言った。
「久保田君、ちょっと例の3D地図で確認してみてくれんか・・」西島さんが突然、久保田さんに話を振った。久保田さんは、タブレットを開いて操作を始めた。
私は、町役場から貰ってきた観光MAPを広げて、尋ねた。
「この地図ですと、その『大久保八幡神社』はどのあたりに成ります?」
鹿藤さんは、南北に細長い森町の地図の左上に在る「八幡神社」と書かれた場所を指して
「ここが『大久保八幡神社』に成ります」と言った。標高は相当高そうだ。
久保田さんはその場所を確認しながら、タブレットを操作して大久保八幡神社を見つけると、さっそく3D地図に変換した。
すると大久保八幡神社の左上に、南北に拡がるかなり広い面積で白っぽく表示されたエリアが確認できた。周囲の濃い緑と比べ、このエリアはどうやら平たい場所であるようだ。
他のエリアは殆ど濃い緑のグラデーションに成っていて、山狭であることを示していたが大久保八幡神社の西方2・3百mのその場所は、白く表示されていた。
南北に約千2・3百m、幅3・4百m程度あり、面白いことに右側を向いた馬のような形をしていた。
「あれ!まるで馬みたいじゃん・・」久保田さんが、目を細めながらそう言った。私達も思わず笑ってしまった。
更に八幡神社を挟んだ反対側東方5・6百m程度の場所にも、同様に白く表示されたエリアが在った。そちらは左側を向いたタツノオトシゴに見えた。
周辺を見渡してもこの様に白っぽく表示されたエリアは、この大久保八幡神社を挟んだ左右の2か所にしか見られなかった。
その様な場所は、この信州街道と言われている山中のエリアには、この二か所しかないのだった。他のエリアは、どこも濃い緑色のグラデーションであった。
「これを見ていただけますか・・」私は森町の二人に言った。
「これは3D地図と言って、地図を立体的に表示することが出来る地図なんですが、このように、色の濃淡でその場所の高低差を現すことが出来るんです。
因みに緑色が濃い場所は、標高が高い場所であることを示しています」私はそう言って二人の顔を見て、話を続けた。
「先ほど教えていただいた『大久保八幡神社』はこの辺りに成って、この通り周囲は濃い緑色ですよね。ところがご覧の様にこの左側に、縦長の白いエリアがありますよね。馬みたいに見えますが・・。
で、こちらの右側にも同じような場所がありますよね。こっちはタツノオトシゴみたいに見えますが・・」私は、ちょっとニヤつきながら言った。
「で、この様に白くなってる場所は、あまり高低差が無い場所であることを示しているんですよ。お判りですか?」私はそう言ってから、久保田さんに
「久保田さん、ちょっと平面の地図に戻して貰えますか?」と頼んだ。
久保田さんは早速、タブレットを操作してくれた。
通常の平面地図に戻った。そこには等高線が引かれていた。等高線は緩やかで、このエリアに高低差がほとんど見られないことが、平面地図でも確認できた。
「久保田さん、2・3回3D地図と平面地図とを、行って来いして繰り返してもらえますか・・」私はそう久保田さんに頼んだ。
「ん~ん」タブレットの地図を見ていた黒島係長は、そう唸ってから、
「なるほどね・・。ってコンは、この『大久保八幡神社』は、周りを二つの牧き場の間に挟まれた、馬を祀った神社だったってコンに成るですか・・」と言った。
「それとこの標高の高さを考えますと、この地で馬を繁殖させていたんじゃないかって、その様に考える事も出来るんです。
ご存知のように牛馬は暑いところでは、出産や繁殖はしないんですよ。暑さに弱い家畜ですから・・」私は言った。
「係長さん、こんだけ材料がそろってくると、おらん等はこの神社が安田義定公と相当縁が深い神社だと、思わずにはいられんですよ・・」と、西島さんが言った。
「先ほども言いましたが義定公の領地経営の特殊性は『金山開発』と、騎馬武者用の『軍馬の畜産経営』にあるんです。それに『流鏑馬の神事』まで行われていたと成れば、ほとんど間違いないですよ。
その上こうやって、神社の左右には牧き場と言っても良さそうな、緩やかな平坦地があるわけですから、これはもう・・」私はダメ押しの様にそう云って、大久保八幡神社と義定公との関係の深さを、言い切った。
「なるほどな・・」黒島係長はようやく納得し、私達の説を受け入れたようだ。
大久保八幡神社
「ちょっと!見てみろしね!ここに『八坂神社』が在るじゃんケ!」久保田さんが、タブレットの一画を示して言った。
久保田さんが指で示した場所は、「大久保八幡神社」の右上数百mの場所であった。確かにそこには「八坂神社」と書いてあった。
「へぇ~」西島さんがそう言って、ニンマリとして、
「やっぱりここは、義定公の軍馬経営の本拠地だっただな・・」と言った。森町の二人はきょとんとしていた。
「いや、安田義定公と『祇園八坂神社』とは深い関係がありましてね。『吾妻鏡』にも書いてあるように、義定公は後白河法皇の命令で、『伏見稲荷』と共に『祇園八坂神社』の建て替えや大規模な修築や修理をやってまして、両神社とは浅からぬ関係があるんですよ・・」私がフォローした。
「浅羽之荘の『芝八幡神社』や『梅山八幡神社』にも、祇園神社は祀られてましたよね。でしたよね、藤木さん」私は藤木さんに確認した。藤木さんは肯いた上で、
「そういえば、森町の市街地には『山車(だし)』が何ヶ所か見られましたが、あれは祇園祭に関係あるですか?この辺りでは、山車を引いて祇園祭を盛大にやってるですか?」と聞いた。先ほど車の中で話題に成った事だ。
「ほうですね、割と派手にやってる方ですかね・・」黒島係長が言った。
「遠州地方では、ここに限らず広く祇園祭に『山車』を出して、練り歩きます。こちらでは『山車』とは言わず『屋台』って言いますが・・」鹿藤主査が言った。
「ところでさっきの件ですが、朝廷の命令で『祇園八坂神社』と『伏見稲荷』の建て替えや大規模な修復や修築をやったですか?安田義定は・・」黒島係長が私に尋ねてきた。
「あ、はいそうです。ご存知無かったでしたか・・。義定公が、遠江守の重任を朝廷に願い出た時に、バーターで出された条件が、両神社の建て替えや大規模な造築や修築だったんですよ」私が応えた。
「ほうだったですか・・、ほんなコンがあったですか・・。いやぁ勉強に成ります」係長が言った。
「『吾妻鏡』に書いてありますが、その進捗状況が思わしくなくて義定公は一時期、遠江守から下総守に、左遷されちゃうんですよね、懲罰的に・・。まぁ半年ぐらいの期間でしたが・・」私は続けた。
「あぁ、あん時のコンですか・・。何でほんな短い間に、下総守を安田義定がやっただか、ちょっと判らんかったですが、ほう言う事情があったですか・・」係長は、長年疑問に思っていた問題が今やっと解決した、といった様にそう言った。
「ですから、この『大久保八幡神社』から、そう遠くない場所に『八坂神社』があるってことは、もうほとんど間違いないですよ。この神社は義定公が創建した、軍馬の畜産経営のための神社ですよ。
多分遠州ではその分野の要に成る神社じゃなかったかって、想います・・」私はほぼ断定するように、そう言った。
「そういえば、大久保の八幡神社ではお盆に『屋台』を曳く行事がありましよね、係長。社殿前には格納庫も在りますし・・」主査が言った。
「ですか、やっぱりこの位置関係に八幡様と八坂神社があるのは、偶然ではなかったってことですよ。間違いないでしょう」私はニヤニヤしながら言った。
私達がそのような話をしていると、女性職員が、お茶を持って来てくれた。
「遠州森の、お茶だで飲んでみてください・・」係長はそう言って我々に勧めた。
「ところで話は変わりますが、先ほどの太田川上流の鍛冶屋の里なんですが、その辺りには『八幡神社』や『金山神社』とかは無いんですか?」私が尋ねた。
「『鍛冶島』のコンですか?」黒島係長が応えた。
「あ、はい。その辺りです・・」私は短く応えた。
「ほうだね、この辺だと『日月(じつげつ)神社』って氏神が在るだよ」係長が言った。
「ジツゲツ神社、ですか・・」
「お日様の日に、お月さまの月って書いて、ジツゲツって読むだよ・・」係長が私の呟きに、丁寧に応えてくれた。
「因みに祭神は、どちらで?」との私の問いに、
「天照大神と八幡宮に成るだよ。ただこの神社は本来『産土神』と八幡宮を祀ってただけんが、幕末のお伊勢参りのええじゃないかが一世風靡してやってきた時に、どさくさに紛れ込んで天照大神が入って来た、って言い伝えがあるですよ。
ほんだで、ええじゃないかより前は産土神と八幡様だった、っていうこんに成るだで・・」係長が言った。
「なるほど、祭神は八幡様と産土神だったちゅうこんですか・・」西島さんが呟いた。
「係長、確か日月神社の裏手の山は『金堀山』って言いませんでしたっけ?」鹿藤主査が言った。
「えっ!金堀山ですって?」私達は思わず顔を見合わせた。
「あぁ、ほうだったっけな・・」黒島係長は同意した。
「なんだか臭ってきますね。その産土神というのはひょっとして金山比古だったんでしょうかね?後背地に金堀山が在った、とすると・・」私はそう言って西島さん達の顔を見た。
「ただ産土神としか、判っていんだよ・・」係長は言った。
「まぁいずれにしても、鍛冶屋の里と言われた鍛冶島に氏神様として鎮座している日月神社の祭神が八幡神社や産土神で、その後背地に金堀山って呼ばれている山が在るわけですね・・。そこまでは間違いない、と」私は黒島さん達の顔を見ながら、念を押すようにそう言った。二人は肯いた。
「あとで、現地を確かめに行きましょうよ」私は山梨のメンバーにそう言って、観光MAP上で日月神社の場所と金堀山とを確認しておいた。
「話は変わるけんが、山梨の皆さんは武藤五郎頼高について、何か情報は持っちゃいんですか?」係長が、私達に尋ねてきた。
「武藤五郎ですかい?」西島さんはそう言って、係長に向かってその先を促すような眼をした。
「ほうです。武藤家の足跡は森町には結構残ってるだでね。ご存知の様に安田義定が平家の追討軍を迎撃する際に、浜名湖の橋本で地侍の浅羽宗信と相良三郎長頼に、馬上から見下されたってコンがあったら。
で、ほん時の顛末を鎌倉の頼朝にご注進に行った使者が、武藤五郎だっただよね・・。ほの武藤五郎頼高のコンですだよ」黒島係長が応えた。
「藤木さん、武藤五郎について、ちょっと話してやってくれんですか・・」西島さんはそう言って、藤木さんに振った。
「そうですね、武藤五郎は甲州では義定公の四天王の一人って言われてまして、義定公の数ある領地の一つであるこの遠江之國では、目代を務めていたお人だと言われています。
ただ武藤五郎については頼高って名前だったかどうかまでは判って無いです・・」藤木さんはここで黒島係長の顔を見てから、話を続けた。
「武藤の姓は、かつての甲州の市川之荘や八代之荘に多い名前であることから、義定公のご先祖がかつて常陸の武田之荘から流れてきた頃からの、古参の家来だったんじゃないかって、そう言われています」藤木さんが、詳しく応えた。
「遠江之國の目代ですか・・」鹿藤主査が言った。
「まぁ、その辺は『吾妻鏡』にも書いてある通りだと思います」藤木さんが言った。
「先ほどの浜名湖の件にも登場しますが、義定公一族が頼朝によって討滅させられた時、鎌倉に居て、彼は『柴藤三郎』達と一緒に和田義盛によって首を切られた、重臣の五人衆にも名を連ねてますよね・・」私が、フォローした。
「ご存知かもしれませんが『柴藤三郎』は、浅羽ノ荘の目代で『芝八幡神社』の創設にかかわった人物だと、私達は想ってるんです」私が続けた。
「ってコンは、武藤五郎は武藤五郎頼高とは断定できねぇって、考えてるだらか?」係長はそう言った。藤木さんが肯くと、
「いや、実際のところワシもよく判っていんですが、武藤五郎頼高は鎮西守護に成った武藤資頼の弟で、ほの兄貴の資頼の子孫がこの森町に定着してるですよ。
だもんで、ほの弟の五郎頼高が安田義定の家来の武藤五郎に違いねぇって、言われてるだけんがハァ、ちょっと納得できんこんもあるだで・・」係長が言った。
「ん?具体的にはどういったコンずらか?」西島さんが尋ねた。
「いやほかでもねぇ、武藤資頼は武蔵之国の国侍で平知盛の家来だった家柄だら。ほれで一之谷の戦いまで平氏の家来として、知盛に従軍してただよ。
ところがほのずっと後に成って頼家の家来に成ってた時に、頼朝に拾われて御家人として登用されてっから、出世しただよね」係長は、私達の顔を見廻して話を続けた。
「だけんがほれだと、浜名湖の橋本の時に弟の五郎頼高が安田義定の家来だったとすると、いろいろ辻褄が合わんなって、ワシはずっと思ってたもんだで・・」係長は、なぜ納得してないのかを語り始めた。
「と、言いますと?」私はその先を促した。
「いや浜名湖の橋本の時のコンは、一之谷の戦いより三年も前の話だら。
だから同じ関東武者の一族の中で、源平の戦いが行われてる真っ最中の微妙な時期に、兄弟がほんな風に敵味方に大きく別れるなんて、なかなか思えんだよ・・。ほれでワシはずっと腑に落ちんかっただ・・」係長が言った。
「確かに係長がおっしゃる通りだとすると、納得いかないのも無理ないですね・・」藤木さんが言った。
「まぁ藤木さんが言われるように、武藤五郎と武藤頼高が同じ人物じゃ無ぇとすればハァ、納得いかん事もねぇだけんがね・・」係長が藤木さんに、そう言った。
「とりあえずはっきり言えるのは、甲州では八代や市川のかつての八代郡に武藤の姓が多いってことですね。
で、その八代郡は甲斐源氏にとっては氏祖に当たる、新羅三郎義光公に縁があった地域ですから、常陸之國を追われた義光公の子孫が、かつての家来衆だった武藤氏を頼ったとしても、まぁ不思議はないですよね・・」藤木さんがそう言って説明した。
「とりあえず了解したです。参考にさせてもらいます。ありがとございした・・」係長は藤木さんにお礼を言った。
「ところが富士川の戦いの敗戦で平氏が駿河と遠江之國を追われた後に、義定公が地頭として浅羽に赴任して来ましたよね。で、その時に義定公は、永らく庄司として浅羽之荘を管理支配して来て地元に詳しいけれど、当時は不遇をかこっていた藤原氏の末裔に目を付けたんだと思います。
「で、皆さんが柴藤三郎を浅羽之荘の目代だと思われたのには、何かそのきっかけと云いますか、具体的な理由があったんでしょうか‥」主査は更に突っ込んできた。
「そうですね、それは浅羽之荘に在る八幡神社の『梅山八幡』と『芝八幡』を見れば判るんですが、藤原氏の氏神である『春日大社』と源氏の氏神の『八幡宮』が一緒に、祀られていますよね。そこにポイントがあるんです。
「なるほど、そういう事ですか・・」鹿藤主査が言った。どうやら彼も今度は納得した様だった。
「いろいろお教ていただきまして、ありがとうございました」鹿藤主査はそう言って私達に頭を下げた。
「ところで浅羽之荘の『稚児(ちご)流鏑馬(やぶさめ)』のこんで今一つ判らんだけんが、何でふつうの大人の流鏑馬じゃなくって、子供の流鏑馬になったズラかね・・」久保田さんが誰に言うともなく、呟いた。
「それはですね、ひょっとしたらですが柴藤三郎に関係があるかもしれませんね・・」鹿藤主査が言った。
「ん?どういうコンで・・」久保田さんが主査に尋ねた。
「いや、藤原氏の氏神である春日大社の神事に『稚児流鏑馬』があるんですよ。『奈良の春日大社』の神事に、ですが・・。で浅羽の『稚児流鏑馬』、その春日大社の神事を踏襲したんではないかって、推測することが出来るわけです・・」鹿藤主査が応えた。
「へぇ、ほうだけ。奈良の春日大社の神事に『稚児流鏑馬』があるだけ・・」久保田さんは鹿藤さんの説明に、ひとまず納得したようだった。
「なるほどそういう事ですか・・」私はそう言って、更に続けた。
「しかしひょっとしたらですが、浅羽之荘の『稚児流鏑馬』も、初めは子供たちの行事じゃなくって、大人の流鏑馬だったかもしれませんよ・・」私は言った。
「ん?と、言いますと?」鹿藤主査が私に聞いてきた。
「それはですね、一つには浅羽之荘の後背地に『笠原ノ牧』という官営の牧き場が在ることが関係してると思うんですよ。そしてそれは同時に、義定公が浅羽之荘の地頭に固執した事の原因にも成ってるんじゃないかって、そう思ってますが・・。
「それから浅羽之荘の流鏑馬の神事に、かつて『馬競べ』要するに軍馬の速さを競った競技があった、と云われてますよね。馬の速さを競ったのは、明らかに子供じゃなくって、大人達ですよね。要は競馬ですから・・。それが理由の一つです」私はさらに続けた。
「そして次は『弓取りの神事』ですね。それも関係してるんじゃないかって、思ってます。『弓取りの神事』ご存知ですよね?」私が再度、鹿藤主査に確認すると彼はもちろん、と云う様に大きく肯いた。
「そう言った点を色々考え併せると、流鏑馬の神事は当初大人の神事だったと推測することができるんです。で、新しい領主との間に起こったその揉め事を、敢えてスカスために『大人流鏑馬』を、春日大社の神事で行われていた『稚児流鏑馬』に振り替えたんじゃないかと。そうすることで、両者の融和を図ったんじゃないかと私は想ったんです」私は一息ついて、話の結論を述べた。
「なるほど、そういう事ですか・・」鹿藤さんもようやく納得したようで、肯いてくれた。
話が一区切りついた感が漂ってきたので、私達はそろそろここらで情報交換を終わりにするべきか、と思い始めていた。
とその時、会議室に新しいお客さんが入って来た。
60前後の女性で、黒島係長を訪ねてきたようだ。
黒島さんは、私達にその女性を紹介したまま彼女を私達との情報交換の場に入れさせた。彼女が今日来ることは、予(あらかじ)め知っていたようだ。
黒島さんの紹介によると、その女性は横須賀さんと言って掛川市で二年ほど前まで、高校で日本史の教師をしていた人だという。
退職後は遠州地方に伝わる民俗学的なことを調べていて、今日は森町に伝わるお祭の件で黒島さんを訪ねて来た、という事らしい。係長とは十年以上前からの知り合い、という事だ。
黒島さんは横須賀さんに、私達の事を安田義定について研究している郷土史家で、山梨県からわざわざやって来た、と紹介してくれた。
その時の反応では、横須賀さんは義定公について基本的な知識はあるようで、好奇の目で私達を見ていた。
その様子を観て、黒島係長が私達との情報交換会の場に彼女を招き入れたのには、それなりの考えがあるのかもしれない、と私は想った。
私達はたがいに目を合わせ、もう少しこちらに居ることを目で確認した。
『 吾妻鏡 第二巻 』治承五年(1181年)三月十三日
安田三郎(義定)が使者武藤五、遠江國より参着す。
申して云わく、御代官として当國を守護せしめ、平氏の襲来を相待つ。
なかんずくに命を請けて(浜名湖の)橋本に向ひ、要害を構えんと欲するの間、人夫を召するのところ、
浅羽庄司宗信、相良三郎(長頼)等、事において蔑如を成し、合力をいたさず、・・・・・・。
・・彼らが一族、当時多く平家に属す。速やかに刑罰を加へらるべきかと云々。
註:( )は筆者記入
武藤五郎はこの時
「平家の征東軍防禦に非協力的な、浅羽之荘の庄司である浅羽宗信らを懲罰したいので裁可が欲しい」
と、安田義定の命を請けて、その代理として鎌倉幕府の頼朝に訴えてきたのであった。
また、横須賀さんの専門分野である祭事絡みでは、流鏑馬の神事の有無が義定公に関係のある神社かどうかを、判断するのに有効だと思っているようだ、と言った。
ここまで軽くうなずきながら話を聴いていた横須賀さんは、義定公と「祇園八坂神社」「伏見稲荷神社」との間に深い関係がある、と私達が捉えていることを知るとちょっと表情が変わった。
更に、森町の町内にある祇園祭の「山車=屋台」に関心をもっているようだと話した時、エッと言った様な顔をしてそれまでとは異なる反応をした。どうやらその辺りが、彼女の関心事であるようだ。
「あ、はいそうです。その通りです」と言ってから、彼女は話を始めた。
「初めは森町飯田の『山名神社』で行われている七月の祇園祭が、京都の祇園祭を彷彿させる点に興味が湧いて、両者の関係性をずっと調べてたんですよ、私」横須賀さんはそう言って、自分の研究テーマについて、話し始めた。
「飯田の山名神社は、地元では『飯田の祇園さま』とか『お天王さま』って言われてますよね、今でも。でも確か、『山名神社』と名乗るようになったのは、明治維新以降に成ってからでしたよね、例の明治政府の神仏分離策の影響で・・」横須賀さんはそう言って、森町の二人に確認した。二人は肯いた。
「ですから私の中では、山名神社は『森町の祇園神社』だってずっと思ってるんですよ。その『森町の祇園神社』の特殊神事である『舞楽』について、『京都の祇園祭』と比べてみたんです、私。そしたらですね・・」横須賀さんは私達の顔を見廻してから、話し始めた。
「最初は『舞楽』や『山車=屋台』に、何か関連性があるんじゃないかって調べてたんですが、正直いって共通点はあまりなかったんですよね。
まぁ強(し)いて言えば、森町の『蟷螂(かまきり)の舞』と京都の『蟷螂(とうろう)鉾』が同じテーマである点と、森の『鶴の舞』と、京の花鉾巡行の『丹頂鶴の巡行』に共通性がみられるといったぐらいで、がっかりだったんですよね」横須賀さんは大きな身振りで、残念であることを表現した。
この元日本史の高校教師は、現役時代もこのようなゼスチャーを交えながら授業をやっていたのかな、と私は想いながら彼女の話に耳を傾けた。
「そのほか『舞楽』に共通するものは殆どなかったですね。比較的派手な舞楽の『鶴の舞』や『獅子の舞』『龍の舞』なんかは、けっこう期待してたんですが全くの不発で、残念至極だったんですよ、ホ~ント」今度は肩をすぼめて両手を挙げ、残念そうなゼスチャーをした。欧米人の様だ。
「ただですね、どうやら京都の祇園祭は、応仁の乱の以前と以後ではだいぶ様相というかパフォーマンスが替わって来た、ってことが判ったんですよ。
要するに、応仁の乱以降は町衆のパワーがだいぶ入って来て、現在のような山車を主役にした山鉾巡行の様な派手目のお祭りに代わって来たんですね」彼女はまた私達を見てから、話を続けた。
「それまではそんなに派手とは言えない、平安貴族中心の伝統的な平安期の京の祭を踏襲していて、どちらかというと地味目な祭りだった、という事なんです。
で、森町の舞楽はどちらかって言うと、その地味目の方の平安期のお祭り『風流(ふりゆう)舞』を踏襲しているらしい、ということが判ったんです」この時は人差し指を小さく振って、強調した。
「という事はですね、『森町の祇園祭』は応仁の乱以前には既に入っていて、応仁の乱が始まる前には現在のような形がある程度確立していて、定着していたって事に成るわけですよ。ここまではいいですか?」と、まるで生徒に授業をしてるかのように云った。
「ってことはですね、定着するのにはそれなりの時間が必要ですから、森町に京の祇園祭の『舞楽』が入って来たのは、鎌倉時代か平安時代だって考えるのが妥当だ、ってことに成るわけです」ここまで横須賀さんが話した時、黒島係長が口を挟んだ。
「そう。だから私は、その社伝に疑問を持ち始めているのよ」横須賀さんはやや強い口調で、そう言った。横須賀さんの反応に、黒島さんが、
「具体的には何んか証拠でも、見つけただかい?」とその根拠を問うた。
「今のところは、森の祇園祭の『舞楽』がその応仁の乱以前の平安期の風流舞を踏襲している、っていうことくらいかな・・」ややトーンダウンして彼女は言った。
「ただね、最近ちょっと気になってることがあるのよ」彼女はそう言って、黒島さんに説明を始めた。
「何ょう迷ってるだぁで、あんたらしくねぇだぞ」黒島さんは、先を促した。
横須賀さんは意を決したように、
「実はね、その『綾傘鉾』の巡行と『カサンボコ祭』が似てるなぁ、って想ったのよ、私」と言った。
「森の『カサンボコ』と京の祇園祭の『綾傘鉾』が似てるってだか?」北島さんが驚いて言った。
「こっちが『京の綾傘鉾』ね」そう言いながら、京都で撮って来た祇園祭の綾傘鉾の画面を私達に見せた。
それは小さな山車に載った朱色の派手な綾の傘に、天女が描かれた西陣織か何かの緞子(どんす)が五・六枚垂れていた。暑さの日除けを兼ねた優雅な緞子で、朱色の綾傘に華やかさと雅さが感じられた。
そして、天辺にはなんと金の鶏が鎮座していた。これには、山梨のメンバーが反応した。驚きの声が上がったのである。
そのリアクションに横須賀さんは「何故かしら」と不思議に思ったみたいだ。
「で、こっちが森の『カサンボコ』でしょ。どう?、似てるって思わない?」彼女はまたタブレットをいじり、今度はカサンボコ祭の画面を見せた。
森町で行われているというカサンボコ祭は、ほんとに地味な行事に見えた。
整列して隊列を組んで和讃を唱えている少年達のその横に、ベージュ系の色をした大きな和傘に、朱色の布切れがぐるっと巻かれ垂れている、鉾状のモノが立っていた。
どうやらこの和傘と赤い布に覆われた、鉾のようなものが『カサンボコ』と呼ばれているものに違いない、と私は合点した。何しろ傘と、鉾なのだから・・。
その時、鹿藤主査が「おんなじだ・・」と、呟いた。確かに、両者は似ていた。私も同じことを感じた。
両者を結び付けて論じるのにはそれなりの閃きと大きな勇気がないと、なかなかその様な考えには至らないであろう。黒島係長が即座に否定的な反応を示したのは、無理も無かった。
しかし、臭うのだ。「都の優雅さ」と「田舎のお盆の地味さ」とを差し引いてみた時両者の本質は、実は根底で共通しているのではないかと、そう想わせる雰囲気が漂っていた。
雅な「綾傘鉾」から、華美な装飾をはぎ取って行ったら、ひょっとしたらこの「カサンボコ」に成るのではないか、といった思いが私の脳裏をよぎった。
「ちょっといいですか」突然藤木さんがそう言って、横須賀さんに頼んだ。
横須賀さんはタブレットを操作して、藤木さんの要望に応えた。
その写真には、綾傘鉾の天辺に光り輝く黄金のニワトリが鎮座していた。
「この鶏は、ご神体か何かなんでしょうか?」藤木さんが尋ねた。横須賀さんは肯いた。
更に横須賀さんは、幾つかある綾傘鉾の写真をゆっくりと操作し、しばらく私達に綾傘鉾の写真を何枚か、見せ続けてくれた。
「綾傘鉾」は二基あった。先ほど来私達が観ていた「黄金の鶏が天辺に鎮座している」綾傘鉾と、「小さな松の若木」をご神体にしている綾傘鉾の、二つだ。
その綾傘鉾をじっと見ていた藤木さんに向かって、西島さんが言った。
「黒川衆の『金山まつり』のご神体を思い出したんかい、藤木さん」と。藤木さんは小刻みに、何度か肯いた。
「やっぱりほうか、オレもおんなじだ」西島さんが言った。私も二人が言わんとすることが判った。久保田さんも同様の様だ。
「何か、ありましたか?」横須賀さんが言った。
森町の二人も同じ様に思ったのか、私達をじっと観ていた。
「いや、先ほど横須賀さんが言われたように、『綾傘鉾』と『かさんぼこ』とはルーツは同じかもしれませんよ。たぶん」
藤木さんが静かに言った。横須賀さんの表情が、えっ⁉と変化した。
「京都の祇園祭と森町の祇園祭とを結びつける接着剤をしたと思われる人物が、たぶん居たんだと思います。
その人がきっと京都の祇園祭で行われていた『綾傘鉾』を、森町に持ち込んだと思うんです」藤木さんが言った。
「えっ⁉・・で、その接着剤って一体・・」そう言って、横須賀さんは藤木さんを見た。
「ちょっと、話が長く成りますがいいですか?」藤木さんは横須賀さんを初め、森町のスタッフにも断りを入れてから、話を始めた。
遠州カサンボコ祭り
「私達がそう想うようになった決め手は、今まさに横須賀さんが指摘された『綾傘鉾』と『カサンボコ』なんですよ」藤木さんはそう言って、横須賀さんのタブレットを指さした。
「この二つには、『華やかさ、雅さ』と『シンプルさ、素朴さ』に違いはありますが、根っこは一緒だと思います。そして両者をつなぐことに成った接着剤が、安田義定公であると我々は確信しています。
先ほど言った、京の祇園祭を森町に導入した人物というのは、義定公だと思います」藤木さんはそう言って三人の顔をよく見て、話を続けた。
「私達がそう確信するように成ったのは、この先頭の『綾傘鉾』のご神体である『金の鶏』の存在です。
この金の鶏は、実は義定公の領地経営の根幹である、金山開発に大きく関わって来る存在なんですよ。まぁシンボルと言いますか・・」藤木さんは喉が渇いたのか、そう言ってからお茶をすすった。
「甲州には、義定公の配下として金山開発を担って来た『黒川衆』という職能集団が古くから居るんです。その黒川衆が執り行うお祭りを『金山まつり』って云います。
自分たちの金山開発の仕事が大きな事故もなく、今年も金の採集がうまくいった事に感謝し、これからも続いて行くことを祈念して執り行うお祭りなんです。
で、そのお祭のご神体が将にこの『金の鶏』なんです」藤木さんは森町の三人を見廻して、また続けた。
「ここまでは、宜しいでしょうか?」と聞いた。三人は肯いた。
「義定公はこの二つの神社の修復を終えるのに、三年の月日を費やしています。途中しびれを切らせた朝廷から、懲罰的な意味も込められた左遷を経験してます。
八年近く続けていた遠江守から、下総守に左遷されたわけですね、ご存知なように・・。結果的にはそれから一年も経たないで建て替えの工事を終え、元の遠江守に三度目の重任をされてます」と、藤木さんは言った。
「確かに、そんなことがありましたよね安田義定には。それで?」横須賀さんが更にその理由を、問いただすように藤木さんに聞いてきた。
「要するに、義定公の尽力に感動した祇園八坂神社が、感謝の気持ちを込めて当時の比較的地味だった祇園祭に、『綾傘鉾』という神事を取り入れたんじゃねえか、って思ってるだよ。義定公の尽力に感謝してね」西島さんが、藤木さんをフォローしてそう言った。
「それに義定公は、自分が創った八幡神社の近くに必ずと言って良いように、祇園神社や八坂神社を作っているんですよね」私が言った。
「まぁほう云ったコンがいろいろあって、祇園神社と義定公の間には当時結構強い関係が出来たじゃねえかって、思えるだよ。
ほう云ったコンを前提にした上で、ほの八坂神社の建て替えの工事に、金山衆の力が大きく貢献してたんじゃねぇかって、ほう想ってるだよおらん等(私達)は。
ほの証しがこの綾傘鉾の頭に金の鶏がご神体として祀られてるコンだ、って思ってるだよ。さっきから言ってるように、金の鶏は義定公の金山経営を象徴してて黒川金山衆のシンボルで、ご神体だからな・・」西島さんは続けてそう言った。その話に藤木さんは大きく頷いて、肯定した。久保田さんと私も続いた。
「へ~ぇ、そうなんですか。そんな風に思ったんですか・・」横須賀さんは、そう言いつつもまだ納得には至ってないと言った感じだった。
「先ほど横須賀さん、『森の祇園祭のお舞』は応仁の乱以前に行われていた、地味目の祇園祭を森町に取り入たんじゃないか、って言ってましたよね。
それにこの二つの神事というかイベントを見ていると、横須賀さんのおっしゃる通り両者には共通性があると思います。そしてそれを可能にできる人物は、安田義定公だと思ってるんです。
横須賀さんは「はぁ、そうですか・・」と小さく呟いた。
「まだ何か、腑に落ちませんか?」私は横須賀さんに、敢えて尋ねた。
「黒島さんは、どう?」横須賀さんは、黒島係長に聞いてみた。黒島さんは、じっくり考えているようだった。隣りの鹿藤主査はニコニコとしていた。彼はどうやら私達の考えに賛意を示しているようだった。
「ほうだな、確かに一理はありそうだが『カサンボコ』は新盆の家に弔いに行って、和讃を唱える行事だでな・・」黒島係長はなかなか受け入れ難いようであった。
それを見て西島さんが、話し始めた。
「八百年も経てば、ほの間にいろんなコンが入って来るだよ。
百五十年続いた鎌倉幕府、ほれからまぁ三百年近くは続いた室町幕府。応仁の乱以降は実質的には、群雄割拠の戦国時代だったけんがな。
義定公以降の鎌倉時代の間、ずっと続いた北条氏の遠州の支配。ほの後は、今川家の支配と甲斐の武田信玄の侵攻と支配。更には信玄公と徳川家康との攻防。
この八百年の間に遠州を取り巻く環境も大きく変わって行っただから、無理もねぇだ。ほれからすりゃぁ、十二世紀末の安田義定公の十四・五年の国守なんて、ちっぽけなもんだったと思うだよ。
だけんがね、ありがたいコンに神社仏閣を調べて行けば、必ず何らかの足跡や痕跡は残ってるもんだよ」西島さんはそこで一息ついて、また話し始めた。
「おらん等は今回の富士山西麓から富士川の合戦、遠江浅羽之荘の三つの八幡神社、ほしてこの森町の金山神社や大久保八幡神社。ほういった神社の祭神や神事の中に、義定公の足跡や痕跡を幾つか発見するコンが出来ただよ。運よくね・・。ありがたいコンだ・・。
ただね、ほの間に八百年の時間が流れているのも事実さ。ほの間にいろんな出来事があって、くっついたり上書きされたりだってしてるだ・・」西島さんはそう言って、黒島さんに面と向かって続けた。
「だけんどオレたち後世の人間が、歴史を調べるに当たって大切なコンがあるだよ。
何がオリジナルで何がほのあとに付加されたもんだかを、峻別するという姿勢は大切なコンだよ。ほこんとこを見誤ると、見えてるもんも見えなくなっちもうだ・・。
ほんだからしっかり腰を据えて『オリジナル』と『付加した部分』とを明確に峻別するって姿勢を、とるコンが大事だ。
ほれをちゃんとやっとかんと、本来の姿が見えなくなっちもうだよ・・」西島さんがこの話に決着をつけるかのように、ハッキリとそう言った。私達はもちろん、静岡の三人も静かに西島さんの話を聴いていた。
しばらく沈黙が続いた。
その沈黙を破るように、鹿藤主査が
「話は変わりますが、確か『洛中洛外図』に祇園祭の様子が描かれていませんでしたっけ?」そう言って、
「ちょっと確認して来ます」と言うと、鹿藤さんは会議室を出て行った。
私は、黒島係長たちに向かって、
「これまで地道に積み上げてこられた、民俗学や文献学による積み重ね、中には考古学的な検証等も含まれているとは思いますが、私達みたいに皆さんとはちょっと違った視点で見てみると、先ほど言ったような事が見えてきたりするんですよね・・」私は諭すようにそう言った。
「安田義定公を中心にした視点で、いうなれば鳥の目をもって、『カサンボコ祭』や『綾傘鉾巡行』を見てみると、ですね。まぁ我々の様な安田義定公の研究者の、一つの参考意見とでもして頂けたらそれで結構です・・」と言った。
会議室のドアが開き、鹿藤さんが戻って来た。手にはやや大判の色鮮やかで、ちょっと厚めの図書を手にしていた。
博物館や美術館などで展覧会があった時に、図録などとして販売されているような感じの本だった。表紙には『洛中洛外図』と書いてあった。
鹿藤さんは早速私達の前にその本を開いて、見せてくれた。それはまさに「祇園祭」の一場面であった。
たなびく金色の雲の下に、背の高い山鉾の山車(だし)が何台か描かれていた。そしてその山車の前に、綾傘鉾を手にもって歩いている若い町人らしき人が居た。巡行をしているようだ・・。
その綾傘鉾の前には、赤熊(しゃぐま)の被(かぶ)り物を付けた五人の棒振り子とお囃子たちとが、踊りながら回っていた。そして綾傘鉾の天辺には、金の鶏のご神体が鎮座していた。
横須賀さんが見せてくれた現在の綾傘鉾とほとんど同じだった。異なるのはこの洛中洛外図では若者が手で持っている綾傘鉾が、現在は小さな山車に載っている点であろうか。
「これはいつ頃の絵ですか?」西島さんが尋ねた。鹿藤さんは、そのページの解説を見てから応えた。
「そうですね『佛教大学宗教文化ミュージアム』所蔵の『洛中洛外図屏風』で、江戸時代初期の寛文年代の作と、書いてます」
「『寛文』って言うと・・」西島さんがそういうと、久保田さんがさっそくタブレットを操作して
「17世紀だね。1661年から1673年だっちゅうよ江戸時代の初期だね」と教えてくれた。
「って、コンは今から三百五・六〇年前の作品か・・」西島さんが呟いた。
「という事は応仁の乱から、二百年は経ってますね。それで山鉾がこんなに沢山描かれているんですね」横須賀さんが言った。確かにその屏風図には、四基ほどの山鉾が巡行している様子が、描かれていた。
「へぇ~、こんなとこにも武田菱が描かれているだねぇ」久保田さんが屏風図の中央下部の商家と思しき家の前に、大きな武田菱の暖簾や幕が垂れているのを見つけて言った。
「ところで、八坂祇園神社の神紋に八幡神社の『三つ巴紋』が並んでるじゃんね。こりゃぁ一体どういうコンずらか?」と、久保田さんがタブレットに映った、祇園祭りの白地の幟を見ながら言った。
その白地の幟には「木瓜唐花」の神紋に重ねて、八幡宮の神紋「三つ巴紋」が描かれていた。この久保田さんの疑問には、誰も答えることはできなかった。沈黙が続いた。
「ひょっとしたら、これも義定公の痕跡の一つなんですかね。こちらの『木瓜唐花』の方は確か織田信長の家紋と同じだと思いますが、これは明らかに須佐之男命を祀って来た祇園神社本来の神紋ですよね。それと、八幡神社の『三つ巴紋』ですか。
それに幟の地が白ですね・・。白旗の幟は源氏のシンボルでしたよね・・」私はそのように言ってはみたものの、自信はなかった。
「カサンボコ」と「綾傘鉾」とを結びつけたのが安田義定公に違いないという思いは、義定公が祇園八坂神社の建て替えに尽力したことを考え合わせれば、比較的容易に結びつくことはできる。
しかしさすがに神社の神紋に採用されるほどの深い関係が、義定公と八坂神社との間にあったかどうか、については軽々しくは言えなかった。
とは言え、祇園八坂神社の神紋に八幡神社の三つ巴紋が使われているのは事実だった。しかも源氏のシンボルである白旗の幟に、である。
「久保田さんちょっとタブレットで調べてほしいんですが、祇園八坂神社に合祀されている神様の中に八幡神社に関わる祭神、誉田(ほんだ)和気命(わけのみこと)とか応神天皇とかが、祀られているかどうか・・」私は久保田さんに、そう頼んだ。
暫くタブレットをいじって、操作をしていた久保田さんが応えた。
「いや、見当たらんよ。H・Pを見る限りじゃ見当たらんね。八幡神社に繋がりそうな神様や、合祀されてる神社は無えよ・・」
「そうですか、八幡神社につながるものは無いんですね・・。どうやら、改めて調べなおす必要がありそうですね。
ちょっと時間は掛かるかも知れませんが、京都の祇園神社と八幡宮について調べてみますか?」私は山梨のメンバーに向かってそう言った。三人とも肯いていた。彼らもその必要性を感じているのだろう。
私はまた大きな課題が見つかったような気がしてきた。
安田義定公と京都の八坂祇園神社との関係を、改めて深堀りする必要性を痛感していたのだ。京都祇園神社と安田義定公との関係が、こんな風に展開するとは思っていなかった。
しかしこの遠州の地を訪ね歩くことで、そのことの必要性を、改めて認識したのである。
京都祇園祭、「綾傘鉾」
「そういえば、山名神社の神紋にも三つ巴紋がありましたよね・・」鹿藤主査が呟くように言った。
「ん?ほりゃぁほうだら。あそこには八幡宮が合祀されてるだから・・」黒島係長がサラリと言った。
「そうでしたか山名の祇園神社にも、三つ巴紋がね・・。なるほど、そういう事でしたか。いや、私達が浅羽之荘や大久保八幡神社でも見てきたように、義定公は領地・領国の重要な場所に、領地のシンボルとして源氏の氏神八幡神社を必ず創るんですが、その近くに八坂の祇園神社を、必ずと言っていいように祀っているんですよね・・。さっきも言いましたが・・」私が言った。
「あはは、そうでした。失礼しました。本貫地の甲州とこの遠州の地においては、でしたね」私もそう言って訂正した。
「話を戻しますがそういった事があったんで、この山名の祇園神社も近くに八幡神社が在るんじゃないかって、期待はしていたんですよ・・。そしたら、八幡宮を境内社として取り込んでいたんですね」私はそう言って、自分で納得した。
「ところで、ちょっと宜しいですか?」横須賀女史が、私達に聞いてきた。
私が「何か?」と言った顔をすると、彼女は話を始めた。
「浅羽の『祇園神社』や森町飯田の『山名祇園神社』は、安田義定の八幡神社に関係してるんですか?
私はそっちじゃなくって、川の氾濫に伴う疫病除けのために両方とも京都から勧進されたんじゃないかって、想ってるんですけど・・」横須賀さんは頬づえをつきながらそう言うと、更に話を続けた。
「もともと京の祇園八坂神社も鴨川や高瀬川の氾濫によって疫病が流行ったんで、その疫病除けというか、疫封じに牛頭天王や須佐之男命を祀って来たんですよね、歴史的には・・。それが頭に在りましてね、私」彼女はそう言って私達を見て、また続けた。
「それで浅羽の祇園神社の場合は、『原野谷川』や『太田川』の度重なる氾濫が影響して、伝染病や疫病が流行してたからじゃないか、とそう考えていたんですよ。
だから厄病除けに勧進されたんだって、想ってましてね・・。
山名祇園神社でも『太田川』の氾濫で同じようなことがあったんじゃないか、ってですねそんな風に考えているんです、私。その点、どう思われます?」横須賀さんはそう言って、私達に意見求めて来た。
「なるほどね、ほう言う考げえもあるか・・」西島さんは、そう言ったうえで続けた。
「ただ、浅羽の場合は芝八幡の横じゃぁ、ちょっと遠くねぇかい。ほれよか、『原野谷川』近くの浅岡八幡神社の方が、良かねぇかい?あっちの方が、氾濫が起き易いらに・・。
ほれに確か、あそこの八幡神社には須佐之男命が祀られてるんじゃなかったっけな?」西島さんは、そういったが、
「いや浅岡八幡には厳島神社や、磯部神社それに貴布禰(きふね)神社は合祀されてましたが、確か須佐之男命は・・」と私が修正した。久保田さんもタブレットに残しておいた写真を見て、首を振った。
「おうほうだったか、オレもボケて来ただか・・、アハハ。いずれにしても、もっと川筋近くなら判らんくもねぇだけんがな・・」と西島さんは横須賀さんの考えに、疑問を呈した。
「久保田さん、ちょっとタブレットで調べてほしいんですが、山名祇園神社に合祀されている祭神や神社を教えてもらえますか?」と、私は頼んだ。
タブレットをしばらく操作していた久保田さんは、
「白山神社の祭神ですよ」黒島係長が教えてくれた。西島さんが肯いた。
「そうでしたか、八幡宮があるんだから応神天皇はマァその通りなんでしょうが、磯部神社も合祀されているんですか。なるほどね・・」私は久保田さんの情報をもとに、改めて自分の考えを述べた。
実はですね、私達はこの飯田之荘の下に在る『上山梨』『沖山梨』『下山梨』の山梨地区は、安田義定公が当時の今浦湖の河口付近を新田開発して出来た、新しい荘園だったんじゃないかって、そう考えているんですよ」私はそういって、静岡の三人の顔を見廻した。
三人とも頭に?を浮かべていたような顔をしていた。
「唐突に想えるかも知れませんが、太田川が飯田之荘までは右岸の小高い丘と言いますか、小山に沿って南北に流れて来ているのに、この飯田之荘が切れる辺りで方向を変えて、グッと左側に蛇行してますよね。
私達、それは今浦湖の河口域だった場所を、黒川衆の土木技術を活用して義定公がやった土木工事の結果じゃなかったか、って想ってるんですよ・・」私は三人の顔をもう一度確認して、続けた。
「八百年前の鎌倉時代の初期、この辺りは太田川が今浦湖に注ぐ河口付近じゃなかったかと、私達は思っています。ですから、その当時の山梨地区は太田川の扇状地として、河口付近には湿地帯が拡がっていたんじゃないかって、想ってるんですよ。
で、その河口付近の湿地帯を義定公は、治山治水の土木技術を持っている黒川衆を使って灌漑や排水の施設や水路を敷設したり、水流を蛇行させる等コントロールして西の敷地川と合流させてきたんじゃないかって、ですね。
マァそんな風に考えたんですよ。ここまでは、宜しいですか?」私はそう言ってから、目で三人に確認した。
「ですからこの飯田地区がかつて今浦湖の河口域だったとすれば、この『山名祇園神社』に磯部神社が合祀されていることは、すんなり受け入れることが出来る訳なんです。
丁度浅羽の『原野谷川』近くの浅岡八幡神社に、磯部神社が合祀されているようにですね。ここまでは、いいですか?」私は、今度は直接三人に聞いてみた。三人はとりあえず肯いたが、腑に落ちたという感じではなかった。
「義定公が遠江の地で積極的に荘園開発や新田開発を行ってきた時期は、丁度彼が遠江守の重任を願い出た時と重なるんです。後白河法皇からバーターで出された京都祇園神社と伏見稲荷神社の建て替え工事をやっていた頃とですね・・。
確か文治三年(1187年)から文治六年(1190年)の三年間でしたが、その時に例の向笠(むかさ)の熊野神社の住民たちとの間で、諍(いさか)いが起きてるんですがそれも同じタイミングに起きているんです。
大規模な神社の建て替えや修築工事を朝廷から、せかされている時の出来事なんですよね・・」私は一息入れて、また続けた。
「多分義定公が太田川の流れを西側に蛇行させたのも、この頃ではなかったかと私は思います。これはまだ推測の域を出ませんが・・。
義定公の遠州での相次ぐ荘園や新田開発は、京都の大規模な神社の建て替え工事のための原資を確保するための開発事業ではなかったかと、そう思います。
そしてその結果出来た新たな荘園を、義定公は故郷の國府の在った甲斐之國『山梨郡』の名をとって、山梨と名付けたのではなかったかと・・。これもまぁ推測の域を出てませんがね」私がここまで言った時に、
「それで、私の仮説については?」横須賀さんが、もう一度尋ねて来た。
「あ、そうでしたね、いや失礼しました」私は彼女に謝ってから、話を始めた。
「浅羽の祇園神社については、先ほどの西島さんと同意見です。ですが山名の祇園神社の場合は、磯部神社が祀られているところを見ると、横須賀さんが言われるとおりなのかも知れません。
今浦湖の河口域のこの辺りは、太田川の氾濫によって疫病なんかが流行ったりすることがあったかも知れませんですね。十分考えられます。それで牛頭天王を祭神として祀る祇園神社を、疫病除けのために勧進して来たのかもしれません」私はそう言って、更に付け加えた。
「ですから山名祇園神社は、義定公が遠江守として赴任する前から、この地に鎮座していたのかもしれません。そしてその祇園神社に、後から八幡宮を合祀した可能性はあると思います、義定公がですね。
いずれにせよそういった経緯があった上で、無事に祇園八坂神社の建て替え工事を終えた義定公は、その縁で八坂祇園神社とは太い繋がりが出来ていたんじゃないかと思います。
でその繋がりというか縁で、当時の京の都で行われていた祇園祭を山名祇園神社に紹介する橋渡しを、義定公がしたのではないかと思っているんです。義定公は結構お祭り好きなんですよね、実は。
当時は鎌倉時代初期ですから、地味目の方の祇園祭ですよね。言うまでもなく・・」と私は横須賀さんに、長々と説明した。
横須賀さんは、私の話に直ちに反応することもなく、しばらく目を閉じて考えているようだった。その様子は、私の云ったことを咀嚼(そしゃく)しているように思えた。
「と、言う事はこういう事ですか」横須賀さんはそう言ってから反芻(はんすう)するように、もう一度目を閉じて話し始めた。
「まず山名祇園神社は安田義定が遠州に着任する前から、厄病除けの牛頭天王を祀っていた神社であった、と。そこに義定が、新しい遠江之國の國守としてやって来た。
で、その後八坂祇園神社の建て替え工事などを朝廷から命じられた時に、義定は太田川の河口域である今浦湖の干拓工事を行い、新しい荘園である山梨ノ荘の開発などを遂行した、と。
それらの新田開発などによって収入を増やすことが出来て、安田義定は建て替え事の費用を捻出ことが出来た、と。それで、八祇園坂神社や伏見稲荷大社の建て替え工事を無事に終えることが出来たんだと」横須賀さんはここで目を見開いて、私を見て続けた。
「その改築工事で縁が出来た祇園八幡神社から、遠州の同じ祇園神社である山名の牛頭祇園神社に、安田義定が京の都の祇園祭を紹介したと。そしてその理由は、義定がお祭り好きだったからじゃないか、と云うんですね。
で、その当時は応仁の乱より以前だから、紹介されたのは必然的に派手目の祇園祭じゃなくって、平安時代の名残りある地味目の祇園祭だった、と。
だから山名の祇園祭は地味目の『舞楽』なんだ、と。そういう論理なんですかね・・立花さん」そこまで言って、横須賀女史は私に確かめた上で、続けた。
「更に、その安田義定の建て替え工事の尽力に感謝した八坂の祇園神社が、義定や家来の黒川衆のために、『綾傘鉾』の神事を始めたんではないかと。
その何よりの証拠が、綾傘鉾のご神体である『金の鶏』なんだと、そう云ういう事なんですね、要するに・・。
で、その京の都の『綾傘鉾』を義定領地の遠州森町で取り入れて始めたのが、例の『カサンボコ祭』なんじゃないかって、そういうことなんですね。それで宜しいですか?」
横須賀さんはそう言った後、しばらく頬づえをついて考えていた。私達は彼女のまとめ話に肯いて、同意を示した。
「なるほどな、ほう言う論理なんだな山梨の皆さんが思ってるコンは・・」黒島係長は、腕を組みながらそう言った。
横須賀女史も、しばらく自分の頭の中で、自分の云った事を咀嚼しているようだった。
「安田義定公は、そんなにお祭り好きなんですか?」鹿藤主査がニコニコしながら私達に聞いてきた。
「ほうだね、お祭り好きだよ義定公は。八幡神社や祇園神社を創建すると必ず大きなお祭りを主宰するだよ。富士宮の流鏑馬の神事もほうだし、浅羽の流鏑馬も大久保八幡の流鏑馬だってほうだよ、たぶん。
まぁ、富士川の合戦の戦勝記念だったり、軍馬育成のお祭りだったり、きっかけは色々あるだけんがね。とにかくお祭りが好きで、家来たちや領民と一緒になって盛り上がるのが好きなお人だっただよ」西島さんが、嬉しそうに目を細めて言った。
「藤木さん、ホレ東郡(ひがしこおり)の盆踊りのアレ、なんて言ったっけな・・」西島さんの突然の振りに、藤木さんは戸惑いながらも、
「『どっこいしょ節』ですか?」と応えた。
「おう、ホレホレ。ほれだって義定公が好んだ盆踊りだった、ちゅうじゃんな・・」西島さんが言った。
「そうです。『どっこいしょ節』には義定公を偲んだ歌詞も入ってますが、それは義定公がその盆踊り歌を好んだからだ、と言われてるんです」藤木さんがフォローした。
「そうだったんですか、お祭り好きなんだ。義定公は・・」いつの間にか鹿藤さんは、安田義定の名前に「公」をつけて、尊称するようになっていた。
「多分その中には家来や領民と共に盛り上がることで、人心を掌握するという効果も期待していたんだとは思いますがね。特に新しく赴任した領国・領地では、そういった点の計算も働いていたとは思います。
が、苛斂誅求(かれんちゅうきゅう)で領民や家来衆を追い込んだり、搾取することだってできたは筈ですけど、義定公はお祭りなんかで一緒に盛り上がる事を選んでるんですよね。
そうすることで、新しい領主への親近感や一体感の様なものを醸成したい、と言った価値観を持ってたんじゃないかって、そう想いますね・・」私が言った。
「秀吉みてぇじゃんね・・」久保田さんが一言云った。その通りだった。久保田さんのその一言で、静岡のメンバーにも義定公のイメージが伝わったようだ。何となく和やかな空気が漂った。
「そろそろ、お暇(いとま)するかい?」西島さんが口を開いた。時計は16時を過ぎていた。
「長居をしただな・・」と、西島さんは続けた。
「これから、どこかへまた行くですか?」黒島係長が聞いてきた。
「さっき教えてもらった、大久保八幡や日月神社・山名祇園神社なんかを廻って来るかって、想ってるだけんが・・」西島さんがそういうと、
「この時間帯だと、日月神社や大久保の八幡神社は暗くなって、あんまりよくは見れんかもしれんだよ」黒島さんが言った。
「ほうだか・・」西島さんはそう言って、私達の顔を見た。どうするか迷ってるようだ。
「そしたら、そっちは明日にでもしますか・・。でも、山名の祇園神社なら飯田だからまだ大丈夫でしょう、近いですし・・。どうですか?」私が黒島係長に確認すると、
「大丈夫だら。祇園さんだら・・」と彼は肯いた。
「じゃぁ、そうしますか・・」私は山梨のメンバーの顔を見てそういった。皆も同意した。
私達が、帰る話を始めた時、横須賀女史が聞いてきた。
「今日はお帰りに成らないようですが、どちらに泊まられるんですの?」と。
その時私は、今日泊まる宿をまだ決めてないことに、改めて気が付いた。
今朝、磐田のホテルを出る時は午後の森町のスタッフとの打ち合わせ次第で決めよう、という事に成っていたのだ。
彼らとの情報交換会が思いのほか長引いたのと、話の中身が濃かったこともあって、熱中しすぎて宿の事はすっかり忘れていた。
どうやらその事を忘れていたのは私だけでなく、他のメンバーも同様だったようだ。彼らもそれに気づいて、ちょっと慌てた。
「そういえば、今日の宿決めてませんでしたね・・」私がそう言うと三人とも肯いた。
「えっ、まだ決めてないんですか?」横須賀女史が言った。
「アハ、そうなんですよ。最終日は予備の日としてたんで、今日のこちらの情報交換会が終わってから決めよう、ということに成ってまして・・」私が応えた。
「まだ決まってないんでしたら、掛川の駅前に知ってるビジネスホテルがあるんですけど、ご紹介しましょうか?」女史が言った。
「掛川ですか?」私が言った。
「アラ遠州では、浜松の次に大きな街ですよ。新幹線も止まりますし。それにそのホテル、シンプルな割にホテルとしてのインフラはわりと充実してますし、コスパが好いって、評判いいですよ」横須賀さんは、続けた。
「コスパ?」西島さんが言った。
「コストパフォーマンスのコンで費用対効果ってこんだよ西島さん」久保田さんが説明した。
「ってコンは、要するにお得ってコンだな、よし判かった!横須賀さん、ほこの朝食は旨いだけ?」西島さんの気持ちは、どうやらそのホテルに向かっているようだ。
「手は抜いてないと思いますよ。豪華じゃないとは思いますが・・」女史が応えた。
「ほうかい手は抜いてないか、ほりゃ好かった。今朝のホテルは朝食がイマイチだったよな・・。手を抜いてる感じで、残念な朝食だっただよホント・・。じゃぁほこにするか?」
西島さん今朝の朝食の評価が相当低かったようで、朝食に拘った。
「因みに、掛川の駅前から森町までって車でどのくらい掛かるんですか?明日また、森町の大久保八幡神社とかに行く予定なんですよ、僕たち」私が横須賀さんに尋ねた。
「そうですね、まぁ30分ってとこかな。でしょ黒島さん」彼女は黒島係長に確認した。黒島さんは同意して、肯いた。
「そうですか、じゃぁ掛川にしますか?」私は山梨のメンバーに確認した。
皆も肯いたが、久保田さんが笑いながら、
「ホテルの近くに、うまい飯を食わせてくれる飲み屋はあるだけ?」と聞いてきた。
「あはは大丈夫ですよ、すぐ裏手に何軒もありますし私の知ってる店で良ければ、ご案内できます」女史が応えた。
「僕たち口が肥えてるから、ちょっと煩(うるさ)いですよ」私が笑いながらそう言うと、一瞬横須賀さんがひるんだ。
「アハハご心配なく、そんなにハードル高く無いですから。メニューが地産地消で個室が確保できれば、だいたいOKですから・・」
「ほれにリーズナブルでコスパ、って言ったか?そのコスパが良い、お得感のある店なら、言うことなしだよ・・」私に続いて、西島さんが笑いながら言った。
「あ~ぁそれでしたらパーフェクトです。地元の食材を中心にしてるし、コスパもばっちりですから。それに私のボトル入ってるから、それ飲めば安くて済むし・・」横須賀さんは指でOKマークを作ってそういった。
「じゃぁほうするじゃん!」西島さんは私達の顔を見て確認して横須賀さんにそう言った。
「ただし、おきれいなお店じゃない点は予め言っておきますね。年輪を感じさせる、味わいのある店ではあります。
それから私も合流させてくれませんか、ボトル付きで。もっと安田義定の事、聞かせてほしいんですよ。私」彼女はそう付け加えることを、忘れなかった。
私達が肯くとさっそく彼女は、部屋の隅に行ってスマホを掛けはじめた。ホテルの予約をしてくれてるようだ。
「黒島さん達もよろしかったら、ご一緒しませんか?マァ突然なんで、予定とかが入ってなければですが・・」私は森町のメンバーを誘った。
「いや悪いじゃんね!行きたいのはやまやまだけんが、今夜は地元で寄り合いがあるだよ。ワシも皆さんともっと話をしたいだけんが、残念じゃんね。
鹿藤君、君は今夜何か予定入ってるだかい?」黒島係長はそう言って、鹿藤さんに話を振った。
「いや、今夜は特に・・」鹿藤さんが即答した。
「じゃぁ、行って話を聴いてきてくれや、ワシの代わりに・・。いや、鹿藤君の家はさっきも言ったように浅羽の街だで、掛川までならJRを使えば、近いし、酒酔い運転にもならんら。まぁJRが動いてる時間だらだけんどな、あはは」黒島さんはそう言って、笑った。
「そうですね。じゃぁ僕も合流させてもらって良いですか?」鹿藤さんが改めて聞いてきたので、私達は笑顔で肯いた。
ホテルに連絡がついたのか横須賀さんが、
「四人分ちゃんと確保できました。それに平日だから空室があるみたいで、四人様の団体割引で一人当たり五百円負けてくれるそうです。一段とコスパが上がりますね・・」とニコニコしながら言った。
「いやぁ、悪いじゃんね・・」西島さんが笑顔でそういって、横須賀さんにお礼した。
それから私達はホテルの場所を教えてもらい、集合時間を決めて、ホテルのロビーで落ち合うことにした。
黒島係長には今回のお礼を言って、森町の教育委員会を後にした。
森町の教育委員会を出た後、私達は森町の道路沿いに在った地元のお茶屋さんを訪ねて、『森のお茶』を購入した。
それから、太田川沿いに下って行って飯田の山名祇園神社を訪ね、参拝して祭神等を確認してから、ホテルのある掛川駅前にと向かった。
秋のお彼岸が過ぎて、日没がだんだん早くなってきていた。
山名の祇園神社を出るころには、辺りはすでに黄昏れていた。
一、どっこいどっこい節ゃ どこからはやる
西保・中牧・諏訪・三富 ドッコイショ
*ソウダマッタクダヨ ウソジャナイ
ドッコイショ
二、盆が来たそで お寺さんの庭に
切り子灯籠へ 灯がついた ドッコイショ
*繰り返し
三、盆にゃおいでよ 他国にいても
死んだ仏も 盆にゃ来る ドッコイショ
*繰り返し
四,今夜よく来た お祖覚さんの庭に
まるく輪になる 人の輪が ドッコイショ
*繰り返し
この歌は、源頼朝に滅ぼされた安田義定一族を偲んで、牧之荘の領民が、盆踊りなどで歌い継いできた、と言われている民謡である。
「お祖覚さん=安田義定公」としたのは、名を憚(はばか)ったためである、という。
右、上中下社の正殿、宗たるの諸神の神殿、合期に造畢し、無事に
・・・・・・・・・・・・・・・・ ・・・・・・・・・・・・
六条殿の門築垣の事と言いひ、大内の修造といひ、かれこれ相累なり
候の間、自然に遅々とす。 ・・・・・・・・ ・・・・・・・・
すでに不足の材木分においてはことごとく直米を交量し、沙汰せしめ、
都鄙の間に充て候ひをはんぬ。
件の注文、同じくもって進覧し候。このほか、材木・檜皮ならびに作料
以前の條々、言上件のごとし。しかるべきのやうに計ひ御沙汰あるべく
二月十日 (安田)義定
進上 中納言(藤原経房)殿
註:( )は著者記入
![]() 〒089-2100 北海道十勝 , 大樹町 ![]() ] ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() |