春丘牛歩の世界
 
今年の冬至は22日であった。
やはり、冬至を迎えると嬉しい。
冬至の昼は一番短く、この日を境に昼が少しずつ長くなり、ほぼ半年後の6月22日前後の夏至に向かう、転換点に成るからだ。
 
今から5千年も6千年も前から、人類はこの日の事を熟知しており”冬至祭り ”をして、祝って来た。
 
 
南米のインディオ達の遺跡にはそれが確認出来るし、北欧などでも”冬至を祀る儀式 ”は盛大に行われて来た。
日本の縄文人達も自然環境を観察しながら生きてきた事もあって、冬至を祝う習慣は何らかの形でキットあったに違いない。
 
自然環境を観察する賢い人たちの存在を考えれば、この儀式や祝祭は形を変えていたとはいえ、数千年前というより、数万年・数十万年前から行われていたに違いないのだ・・。
 
 
 
                  
 
 
 
さて、その冬至を祝う儀式や祝祭といった事に関心を持つようになった私は、かつて日本には「日奉(ひまつり)衆」という人々が居り、古代飛鳥の朝廷には「日奉部(ひまつりべ)」という天文系の儀式を担う、官人が居たことを知った。
 
そして「日奉衆」というのは、「日を奉る人々」であり、「太陽」を神として敬い、あがめ奉って来た、”天文系の祭祀に関わる職業”に関係している、専門職系氏族である事が判った。
 
 
その「日奉部」の官人たちは、「国分寺や」や「国分尼寺」がそうであった様に、 当時の国衙(こくが)=現在の県庁の敷地の中の一画に配置・配属された。
 
そして各国(現在の都道府県に相当)において、太陽にまつわる幾つかの神事を中心とした、天文系祭祀の年中行事を担当して来たのだという。
 
「春分」「夏至」「秋分」「冬至」に行われる節目の行事は、その中でもとりわけ大切な行事であったようだ。
 
中んずく「冬至」は最大の行事であった。
何故なら、昼が一年で最も短く、日の出も遅く日没が最も早いこの日は、万物に恵みをもたらす源である”太陽 ”のパワーが最も弱まる日、でもあったからである。
 
 
そこで「日奉部」が活躍するのである。
一年で一番力の弱まった「太陽」を鼓舞し、その力の復活を祈念・祈願する神事を執り行うのが、「日を奉(たてまつ)る」官人の力が発揮される、将に大事な仕事だったからである。
 
「日奉部」にとっては冬至及びその周辺の期間は、最も忙しく働き、幾つかの神事というイベントが行われたのであろう。
 
 
 
東京には多摩川沿いに「日野市」という街があるが、この街の名の由来は「日之宮神社」から来ているのだという。
そして「日之宮神社」はかつて日奉部にとって、武蔵之國の氏神の様な存在であったという。
 
「日之宮神社」は、武蔵之國の国衙=国府が在った現在の府中市から、北北西数㎞先に位置し、そのエリアが武蔵之國の日奉衆の活動拠点であったという。
 
 
 
                        
 
 
 
その日奉衆の力が朝廷及びその出先の各国国衙で衰退するきっかけに成ったのは、7世紀末に行われた天武天皇とその后であった持統天皇が、伊勢神宮を皇室の神社と定めた事に依っている。
 
言うまでもなく伊勢神宮は天照大神を祭神としている。
太陽を神として祀る神社や神人は一つの系統が在れば、それで足りるのだ。
 
かつて6世紀に敏達天皇によって、官人として太陽神を祀る祭祀を任されて来た日奉衆も、150年経って登場した新しい国家観を持つ天皇の出現により、その地位を追われ、失業してしまったのである。
 
 
その様な事に想いを馳せながら、カボチャを使った料理を食べ、柚子を使った自家製果実酒を呑みつつ、来たるべき春やその前の新年の事を考えていた、冬至の日であった。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
            
           
 
 
        
 
 
 
 
 
 
 
                 お知らせ
 
*5月2日:『本日コラム2025』に「卯月、さくら月を公開しました。
 
*3月22日:『甲斐源氏の祖、源義光』に新しく
”穴太衆”と”黒川衆”を公開しました。
 
 
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  南十勝   聴囀楼 住人

   
      
                            
      
          
       
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
                                                                
  

 
   
      

  
 
2019/6/4

初夏の遠州

 
久しぶりに遠州を訪ねた。
5月末の遠州浜松は過ごし易い、すがすがしい時節であった。尤も今の時節は日本全国どこに行っても暑からず寒からずの、一年で最も過ごし易い良い季節であるのに違いない。
ほんの一週間前は35度前後の、5月にはまれな暑さの日が続いたこともあって、そのように感じたのかもしれない。
 
今回の遠州行きの目的は、この三月に書き上げた『安田義定父子と、甲斐之國・越後之國』の次回作のための資料集めや現地視察といった、情報収集や取材のためであった。
訪問先は相変わらずの図書館通いが主体で、更には浜松市春野町の「秋葉神社本宮」関係者へのヒヤリングや、諸神社への訪問や気になる地域の視察を行ってきたのであった。
 
ついでにというか数年前『・・・駿河・遠江之國』の取材でお世話に成り、それ以来交流のある森町の教育委員会の方々にもお会いして、久しぶりの情報交換と旧交を温めた食事会も行ってきた。
 
 
               
                     秋葉三尺坊
                     
 
次作のテーマに成りそうなのは『・・・甲斐之國、越後之國』製作中から気になっていた、新たな謎というか課題である安田義定公と、「火伏」や「厄除け」の神として名高い「秋葉神社」との関係が、どのようなものであったかを検証するための物語を、イメージしている。
 
義定公の領国経営の柱である「騎馬武者用の軍馬の畜産・育成」に大きく絡む、神事「流鏑馬」を越後之國では唯一確認できた、長岡市の「金峰神社」かつての「蔵王権現」の創設に大きく関わって来たとされる「秋葉三尺坊」と、遠州の「秋葉山神社本宮」とに深い因縁があることが判明したからである。
 
もちろんただ単に「蔵王権現」と「秋葉神社」との宗教上の問題であれば、私には大きな関心の対象には成らないのであるが、安田義定公の領国遠江と嫡男義資公の領国越後を代表する神社の問題であり、修験者の世界では著名人(?)である「秋葉三尺坊」の事であるから、ずっと気になっていたのであった。
 
『・・・甲斐之國、越後之國』を一応書き終えて、インターバルをとってリフレッシュもしっかり取ったこともあって、やっと始動したのであった。ちょうど梅雨入り前のすがすがしい時期であったことも、今回の訪問の動機にはなっているのだが・・。
 
 
 
 
             
              秋葉神社上社から観る遠州平野
 
 
 
遠州の山奥といってよい「北遠地方」の、旧春野町の入り口近くにある「秋葉山神社本宮」は、両サイドを「気田川」と「天竜川」とに囲まれた山峡の町で、緑と水に囲まれた時間がゆったりと流れる集落であった。
 
その景色は越後上越の糸魚川の北アルプス山麓の集落や、甲斐之國甲州市の笛吹川上流の集落にも共通する、自然環境であった。
宿は太平洋側の浜松駅周辺や掛川駅周辺に取ったのであったが、山間部は新潟であろうが山梨であろうが静岡であろうが、やはり同じ匂いがする。 懐かしい日本の原風景に出会えたのである。
 
山紫水明という言葉があるが将にその通りであった。
これが二か月ほど前だと、山肌に雪が残っていたりして、きっと冬場は厳しい自然環境なのであろうな、と想像力を働かせながら廻っていた。
 
いずれにせよ資料収集や実地看聞を行い、懐かしい人達に会えたことや新しい出逢いがあって、実りの多かった遠州への旅であった。
基本的な蓄積は終えたので、今月中には新しい物語を書き始めたいと思っている今日この頃なのである。
 
 
 
 
 
 
 
                         
 
 
 
 
 
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