春丘牛歩の世界
 
去年の秋ごろから、私にとっての大問題は”珈琲豆 ”の確保であった。
 
新しい「珈琲豆」の購入先を、如何にして確保するかの問題で、端からすれば大した問題ではないかも知れない。
 
もちろん生き死にに関わるような大問題ではないし、たかが珈琲豆の問題でしかない。
 
とはいえ、毎日の様に珈琲を淹れて飲む習慣の私にとっては、旨い珈琲を飲めるかどうかは、大きな問題なのである。
 
 
発端はここ20年近く贔屓にしていた「キリマンジェロの豆」が、手に入らなくなったことである。
 
珈琲豆が高騰している事はここ数年続いていて、諸物価の高騰や珈琲豆の生産が不作続きで、多少の価格が上がることはある程度覚悟はしていた。
 
しかしだからと言って、供給先である食品スーパーがプライベートブランド(PB)のオリジナル珈琲豆の生産を、止める事態に迄陥るとは考えていなかった。
 
 
それまでは200g当り、5・600円で購入する事が出来たのであるが、高騰しても7・800円くらいで収まるかと、推測をしていたのである。
 
ところがそのPB商品の生産そのものを、止めてしまったのである。
いつもの陳列棚にそのPB商品は無く、何処のスーパーでも売ってる、ナショナルブランド(NB)の珈琲豆しかお目にかかれなくなっているのである。
残念である。
 
 
その珈琲豆の魅力は、何といっても焙煎の仕方が私の好みに合っていた点にあった。
 
珈琲豆が黒光りするほどの深煎りではなく、ライトブラウンとでもいう煎り方で、程よい苦みに酸味が持ち味のキリマンの魅力を引き出しており、私にとって代えがたい味を味わえた。
 
しかもリージョナルチェーン(地域展開)の食品スーパーという事で、価格は抑え気味で、年金生活者の私にとっては旨くて財布に優しい、優等生だったのである。
 
 
 
 
           
 
 
 
しかしまぁ、商品供給が期待出来ない事が確実になってしまった以上、違うルートでの珈琲豆の確保が、当然のことながら次の課題に成るのであった。
 
それが去年の秋ごろの話で、以来新しい供給先の確保のために私は、少なからぬ時間を使う事に成ったのである。
 
二か月近く、他の食品スーパーを探し回ったが、棚に在るのは何処にでもあるナショナルブランドの珈琲豆で、その多くは『キリマンブレンド』ばかりで、私の好みには合わなかった。
 
 
 
次に探したのはネット通販での「珈琲豆焙煎業者」の「キリマンジェロ」探し、だった。
 
昨年の暮れ辺りから始め、現在も探索中なのであるが、なかなか”これだ!”という商品に出遭えないでいる。
 
幾つかの焙煎業者のHPの中から選んでいるのであるが、取扱商品の画面上の「書類審査」だけでは判断できないので、その都度商品を取り寄せている最中である。
 
私の好みに合う商品に遭遇できれば良いのであるが、なかなか都合の良いモノには出遭うことが出来ない。
 
従って、「お試し商品」からの修正が可能かどうかが、重要になって来る。
具体的には、当該豆を2・3回飲んだ後のフィードバック(F/B )に、当該焙煎業者が対応してくれるかどうかで、次のステップに進めるかどうかが決まるのである。
 
しかもこちらは「大量消費者」ではなく「少量消費者」であるので、分が悪い。
 
この「少量消費者」の好みに合う焙煎商品を、供給先の焙煎業者が提供してくれるかどうか、が問題なのである。
 
現在はまだその焙煎業者の特定には、至ってない。
しばらくはこの問題に、私の時間とエネルギーを使い続けることに成るであろう。
 
旨くて納得のいく業者に巡り合えるまでは、この探索が続くことをある程度は覚悟している私、である。
 
 
 
          
 
 
 
 
 
        
 
 
 
 
 
 
 
                 お知らせ
 
*2月6日:『甲斐源氏の祖、源義光』に新しく「近江之國編」を追加し、公開しました。
 
*2月3日:本日『コラム2026』を公開しました。
 
 
 
    ♠     ♠     ♠     ♠
 
 
 

  南十勝   聴囀楼 住人

  
          
 
                            
      
          
       
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
                                                                
  

 
   
      

  
 
2019/12/12

ジョン・レノン、という人生

 
JRさいたま新都心駅近くの「さいたまスーパーアリーナ」の脇に、かつて「ジョン・レノンミュージアム」という博物館が在った。
その名の通り、ミュージシャンのジョンレノンの人生を辿った博物館は、とても質の高い博物館で、大いに感動した思い出があった。
 
その博物館も今から10年近く前に閉館してしまった。
来館者が少なくミュージアムの経営が成り立たなくなった、からだという。このミュージアムはバブル崩壊後に「さいたまスーパーアリーナ」の建設を請け負ったゼネコンが建設し、経営及び管理運営をしていたようで、行政との間に何らかのやり取りがあったのかもしれない。
 
そのような経緯はさておいて、この博物館は「ジョン・レノン」という一人の人間を識るのには実に好く出来たミュージアムで、これまで60有余年生きてきて私はこの博物館程感銘を覚えたことはなかった。
 
博物館を観終わった後に、普段はめったにないことだが、幾つかのミュージアムグッズを買い求め、事務所に戻ってからそこで買ってきたワインを呑み1本空けてしまった記憶がある。
 
そしてその時の感動を、一編の長歌と反歌というか短歌とにして書き綴った記憶がある。
このような行為は、私にとっては殆ど無いことである。たとえお酒が入っていたからだ、としてもである。
 
残念なことにその時の和歌は手元に残ってないのであるが、いずれにしてもその時の感動は私にはワインを1本丸ごと呑ませ、幾つかの和歌を詠まずにはいられなかったのであった。
 
その時私が一体何にそんなに感動したかというと、一言で言うならジョン・レノンと云う一人の人間の生きざまというか、辿って来た人生遍歴についてであった。
 
人生遍歴といったところで、彼は40歳でアメリカの銃社会の犠牲になったから、長いか短いかと云えば短いのであろう。
しかしその40年の人生は実に濃密であったのではないかと、私は感じた。
 
 
 
              
 
 
即ち10代の後半にロックミュージシャンに成り、20前後には彼の造ったロックバンド「ビートルズ」はイギリスやヨーロッパ、更にはアメリカを始めとしたいわゆる先進国ではメジャーな存在に成っていた。世界的なアイドルに成ったのである。
 
更にその音楽の質の高さはやがて彼らを単なるアイドルであることから、社会的な影響力の高いロックグループにと押し上げて行った。
ビートルズの存在は10代や20代のヤング層に留まらず、その客層を次第に上げて行き、ヤングアダルト層更には中年層まで巻き込んでいった。
 
それは彼らの創った音楽が次第に精神性を帯びて行った事や、社会性を含んでいった事によるのだと思う。要するにロックミュージックという媒体を通して、社会や人生を語り始めたのであった。
しかしそれは「ビートルズ時代」の事であり、やがてビートルズが解散するに及び、もう一段彼は脱皮する事に成った。彼が30歳前後の事であった。
 
 
そのきっかけを作ったのは「ヨーコ・オノ」という日本女性だったようだが、彼自身は10代後半の「アートスクール」に通っていた時代から、学友の影響で東洋的な価値観や哲学、禅といったものに関心を持ち始めたようであった。
その素地があってビートルズ時代のインド的な宗教観と云う遍歴を経て,ヨーコ・ オノという日本出身のアーチストによって着火された、と云う事のようだ。
 
いずれにしてもそのようなプロセスを経た彼は「イマジン」に代表されるような社会性の高い音楽を創造し、発信するように成った。独りの社会性を帯びたミュージシャンに成って行ったのである。
 
30代の半ばごろには過激な社会活動を支援したり、麻薬などに手を染めたりといった紆余曲折もあったようだ。必ずしも真っ直ぐな道を歩き続けたわけではないのであった。
そしてそこでの挫折や回り道は同時に彼自身の人間的な成長や、深みに繋がって行ったように私には思えた。新たな人間的な成長のための「サナギ」期間だったのであろうか・・。
 
このサナギの期間を経て彼は社会活動家から、哲学を追求するように成ったようである。即ち生きることの意味を考え、追及するように成ったようである。40前後の事である。
このころの彼の発言や音楽がそのことを感じさせてくれた。
 
 
そして「これから」と云う時に自称「ジョン・レノンのファン」と称する男によって射殺されたのであった。1980年12月8日の事であった。
 
とても残念な事であった。私は彼があの時点で死ぬことが無かったらあれからどのように成長を続け、世界にメッセージを発信し続けただろうかと、そう思わずにはいられなかった。
彼の存在自体がブランドであったから、世界の人々に対しての発信力や影響力は計り知れなかったであろうと思う。
 
そして彼にはそれを可能にする知性と洞察力、表現力があったからである。
ある意味人類にとっての喪失であったのではないか、とさえ私は感じたのである。
 
 
私は「ジョン・レノン ミュージアム」の最上階に到達して、そこに天井からぶら下がっていたタペストリー様の「ジョンレノン語録」を読みながらつくづくそう想ったのであった。
 
あと10年彼が生きていたら、いったいどんなメッセージを私達人類に送り続けたであろうか。20年後であれば‥。30年後であれば・・。といった様に想い続けたのであった。
 
ジョン・レノンという人生は、そう言った問い掛けを私自身に投げかけて来たし、多分あのミュージアムを訪れた多くの人達にも、同様の感情を抱かせ続けたのではなかったか、とそう想っている。
 
近年自分の頭で考える習慣がつき始めた息子に、「ジョン・レノンミュージアム」を体験させてやれなかった事が、大きな心残りである。
 
 
 
             
 
 
 
 
     ジョン・レノンの命日から4日後   ―2019.12.12―
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
最新記事
月別アーカイブ



〒089-2100
北海道十勝 , 大樹町


 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
]