春丘牛歩の世界
 
 
やはり今年の夏はここ数年よりはだいぶ過ごし易い様に思う。
最高気温が30度を超える日は月に数日で、昨年や2023年の頃に比べて明らかに冷涼である。
 
もちろん西日本や本州ではこんなことはないのであろうが、ここ南十勝においてはそうである。
 
内陸部の盆地である帯広や旭川・北見・岩見沢といったエリアでは、30度を超えた日が沿岸沿いの大樹町に比べると、多いだろうとは思うが、それにしてもここ数年では珍しい、過ごし易い日々が続いていると言えるのではないか・・。
 
 
そしてその冷涼な気候の影響は、と言えば我が家では「ラズベリー」の開花が遅れており、ここ数年であれば7月半ばには既にそれなりの果実の収獲が始まっているのであるが、やっと開花が始まり熊蜂などの受粉活動も、あまり見られない。
 
従って2週間や3週間は夏の収穫時期は遅れるのではないか、と覚悟している。
収穫が忙しくなるのは、葉月八月に入ってからであろうか・・。
 
これは残念なことであるが、収穫作業を炎天下でやらなくて済むのは、期間限定の農業従事者にとってはありがたくもある。
 
 
 
        
          例年だと夏収獲が始まっている
 
 
とはいえラズベリーの樹木の繁茂状況を見ていると、それなりに生育している様なので、10月からの秋収穫に少なからぬ期待が持てそうではある。
という事で、そんなに心配はしていない。
 
ここ南十勝ではお盆を過ぎると夏の暑さは峠を越え、例年過ごし易い日々が続くからである。
 
多少残暑は続くがそれは日中のコトであり、朝夕はグッと気温が下がることから、たとえ果実の収獲に汗を流しても、7月中旬のそれに比べれば随分と楽なのである。
 
 
 
            
            今年の豊作は10月頃の秋収穫か・・
 
 
昨年から「ラズベリーの実」の活用法に、従来の「ジャム」造りに加えて、「ラズベリー酒」を作る事を覚えた私は、今年は出来るだけ多くの「果実酒」を造る予定でいる。
 
そんな事もあって、この秋のラズベリー果実の豊作は大いに期待をしているのである。
 
ここ数年、視力に衰えが感じられ飛蚊症なども発症している事もあって、出来るだけポリフェノールを摂取するよう努めており、赤ワインを晩酌代わりにしているのだが、その列に「ラズベリー酒」を加えたいと目論んでいるのだ。
 
 
 
そんな冷涼な夏の入り口を過ごしているが、1か月間続いたサッカーW杯もいよいよ大詰めを迎えてきている。今週末には決勝戦が行われる。
 
昨日の試合でスペインが2-0でフランスを破り、決勝進出を決めた。その対戦相手がイングランドに成るかアルゼンチンに成るかは、明朝には判ってるだろう。
 
ところで今回のW杯はFIFAの運営のまずさが目に付き、試合内容に関係ないところで、ストレスを感じる事が多い。
 
「審判団の質の低さ」や「レッドカード選手の執行を一年間猶予した事」や「ハーフタイムでのパフォーマンス」等などがその最たるものである。
 
 
 
        
 
 
 
その原因がイタリア人のFIFA会長:インファンティーノにあるのは、今や世界中のまともなサッカーファンは皆そう思っている。
 
こんなルール=サッカー界の法律を平気で破る、いい加減な男が弁護士である事に、私などは驚きあきれているのであるが、同時にそんな男が10年近くFIFA会長を続けている事にも、驚きを隠せない。
 
今回のアメリカ代表FWのレッドカード執行猶予問題は、さすがにEU諸国から反発を食らっており、「調査」を開始しているというから、今後の成り行きを注視して行きたい。
 
 
それと日本代表監督の交替が来年3月に実行されることは良かった、と私は思ってる。森保監督では日本代表が次のステージに登れないと、ここ8年間ずっと考えていたからである。
これまでの私のサッカー系コラムでズット主張して来たので、お判りかとは思うけど・・。
 
新監督候補の「U23日本代表大岩監督」は、森保監督同様に海外での選手や監督の経験のない点が気になるが、しばらくは様子を見て行く事に成るだろう。
 
いずれにせよ「W杯でBEST8」に進める、チーム作りと何よりもカップ戦で結果を出せる、戦い方が出来る監督である事を期待するばかりである。
 
 
           
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
                 お知らせ
 
 
*6月2日:『近江之國編』「六角征伐」と足利幕府衰退」を公開しました。同編はこれにて終了しました。
 
 『甲斐源氏の祖、源義光』は以上で、完結しました。
 
 *6月16日:『サッカーW杯』の「2026年北中米大会」を開設し、北中米大会における「日本代表戦」についてのコラムを記載することにしました。
28日第三弾として「06月26日:スウェーデン戦」を公開しました。
 
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  南十勝   聴囀楼 住人

       
      
     
 
                            
      
          
       
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
                                                                
  

 
   
      

  
 
2019/12/12

ジョン・レノン、という人生

 
JRさいたま新都心駅近くの「さいたまスーパーアリーナ」の脇に、かつて「ジョン・レノンミュージアム」という博物館が在った。
その名の通り、ミュージシャンのジョンレノンの人生を辿った博物館は、とても質の高い博物館で、大いに感動した思い出があった。
 
その博物館も今から10年近く前に閉館してしまった。
来館者が少なくミュージアムの経営が成り立たなくなった、からだという。このミュージアムはバブル崩壊後に「さいたまスーパーアリーナ」の建設を請け負ったゼネコンが建設し、経営及び管理運営をしていたようで、行政との間に何らかのやり取りがあったのかもしれない。
 
そのような経緯はさておいて、この博物館は「ジョン・レノン」という一人の人間を識るのには実に好く出来たミュージアムで、これまで60有余年生きてきて私はこの博物館程感銘を覚えたことはなかった。
 
博物館を観終わった後に、普段はめったにないことだが、幾つかのミュージアムグッズを買い求め、事務所に戻ってからそこで買ってきたワインを呑み1本空けてしまった記憶がある。
 
そしてその時の感動を、一編の長歌と反歌というか短歌とにして書き綴った記憶がある。
このような行為は、私にとっては殆ど無いことである。たとえお酒が入っていたからだ、としてもである。
 
残念なことにその時の和歌は手元に残ってないのであるが、いずれにしてもその時の感動は私にはワインを1本丸ごと呑ませ、幾つかの和歌を詠まずにはいられなかったのであった。
 
その時私が一体何にそんなに感動したかというと、一言で言うならジョン・レノンと云う一人の人間の生きざまというか、辿って来た人生遍歴についてであった。
 
人生遍歴といったところで、彼は40歳でアメリカの銃社会の犠牲になったから、長いか短いかと云えば短いのであろう。
しかしその40年の人生は実に濃密であったのではないかと、私は感じた。
 
 
 
              
 
 
即ち10代の後半にロックミュージシャンに成り、20前後には彼の造ったロックバンド「ビートルズ」はイギリスやヨーロッパ、更にはアメリカを始めとしたいわゆる先進国ではメジャーな存在に成っていた。世界的なアイドルに成ったのである。
 
更にその音楽の質の高さはやがて彼らを単なるアイドルであることから、社会的な影響力の高いロックグループにと押し上げて行った。
ビートルズの存在は10代や20代のヤング層に留まらず、その客層を次第に上げて行き、ヤングアダルト層更には中年層まで巻き込んでいった。
 
それは彼らの創った音楽が次第に精神性を帯びて行った事や、社会性を含んでいった事によるのだと思う。要するにロックミュージックという媒体を通して、社会や人生を語り始めたのであった。
しかしそれは「ビートルズ時代」の事であり、やがてビートルズが解散するに及び、もう一段彼は脱皮する事に成った。彼が30歳前後の事であった。
 
 
そのきっかけを作ったのは「ヨーコ・オノ」という日本女性だったようだが、彼自身は10代後半の「アートスクール」に通っていた時代から、学友の影響で東洋的な価値観や哲学、禅といったものに関心を持ち始めたようであった。
その素地があってビートルズ時代のインド的な宗教観と云う遍歴を経て,ヨーコ・ オノという日本出身のアーチストによって着火された、と云う事のようだ。
 
いずれにしてもそのようなプロセスを経た彼は「イマジン」に代表されるような社会性の高い音楽を創造し、発信するように成った。独りの社会性を帯びたミュージシャンに成って行ったのである。
 
30代の半ばごろには過激な社会活動を支援したり、麻薬などに手を染めたりといった紆余曲折もあったようだ。必ずしも真っ直ぐな道を歩き続けたわけではないのであった。
そしてそこでの挫折や回り道は同時に彼自身の人間的な成長や、深みに繋がって行ったように私には思えた。新たな人間的な成長のための「サナギ」期間だったのであろうか・・。
 
このサナギの期間を経て彼は社会活動家から、哲学を追求するように成ったようである。即ち生きることの意味を考え、追及するように成ったようである。40前後の事である。
このころの彼の発言や音楽がそのことを感じさせてくれた。
 
 
そして「これから」と云う時に自称「ジョン・レノンのファン」と称する男によって射殺されたのであった。1980年12月8日の事であった。
 
とても残念な事であった。私は彼があの時点で死ぬことが無かったらあれからどのように成長を続け、世界にメッセージを発信し続けただろうかと、そう思わずにはいられなかった。
彼の存在自体がブランドであったから、世界の人々に対しての発信力や影響力は計り知れなかったであろうと思う。
 
そして彼にはそれを可能にする知性と洞察力、表現力があったからである。
ある意味人類にとっての喪失であったのではないか、とさえ私は感じたのである。
 
 
私は「ジョン・レノン ミュージアム」の最上階に到達して、そこに天井からぶら下がっていたタペストリー様の「ジョンレノン語録」を読みながらつくづくそう想ったのであった。
 
あと10年彼が生きていたら、いったいどんなメッセージを私達人類に送り続けたであろうか。20年後であれば‥。30年後であれば・・。といった様に想い続けたのであった。
 
ジョン・レノンという人生は、そう言った問い掛けを私自身に投げかけて来たし、多分あのミュージアムを訪れた多くの人達にも、同様の感情を抱かせ続けたのではなかったか、とそう想っている。
 
近年自分の頭で考える習慣がつき始めた息子に、「ジョン・レノンミュージアム」を体験させてやれなかった事が、大きな心残りである。
 
 
 
             
 
 
 
 
     ジョン・レノンの命日から4日後   ―2019.12.12―
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
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