春丘牛歩の世界
 
今月に入ってから、”錦秋 ”という言葉が将にJustfitしていると感じている。
 
我が家の錦秋は主にモミジによって感じられるのだが、「錦秋」は晩秋の真っただ中である事を知らせ、木枯らしと共にいよいよ本格的な冬がやって来る、と我々の目に告げているのである。
 
すでに早朝の最低気温はマイナスに成って久しく、霜は牧草地や我が家の草木や雑草にも容赦なく降りかかり、霜枯れも進んでいる。
 
 
           
           青い芝生にモミジの枯葉が絨毯の様に
       
 
そして日高山脈には既に頂上付近に降雪が起きており、「初冠雪」が確認される。
 
日高山脈の頂上付近は概ね2000mを越えているから、日本海側やオホーツク海側に雪の便りが聞こえてくる頃には、やはり冠雪が観られるのである。
 
 
 
       
 
 
 
またこの時期に私は、今年も沢山の果実をもたらしてくれたラズベリーの茨の枝を伐採し始める。
 
感謝の念を込め、かつ来年もヨロシク!と願いながら、茨だらけの細い枝を剪定バサミで切るのである。
 
こうやって少しずつ冬に向かっての支度を進めている。
既に床暖を入れて1週間以上経つし、今週からはペレットストーブも入れ始めた。
 
夕ご飯には「鍋物」や「汁物」のメニューが増えて来た。身体の中に積極的に”暖 ”を取り入れるのである。
 
そうして”冬には冬の生活を愉しむ ”日々が始まる・・。
 
 
 
 
 
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                 お知らせ
 
*5月2日:『本日コラム2025』に「卯月、さくら月を公開しました。
 
*3月22日:『甲斐源氏の祖、源義光』に新しく
”穴太衆”と”黒川衆”を公開しました。
 
 
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  南十勝   聴囀楼 住人

   
   
                            
      
          
       
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
                                                                
  

 
   
      

  
 
2019/12/12

ジョン・レノン、という人生

 
JRさいたま新都心駅近くの「さいたまスーパーアリーナ」の脇に、かつて「ジョン・レノンミュージアム」という博物館が在った。
その名の通り、ミュージシャンのジョンレノンの人生を辿った博物館は、とても質の高い博物館で、大いに感動した思い出があった。
 
その博物館も今から10年近く前に閉館してしまった。
来館者が少なくミュージアムの経営が成り立たなくなった、からだという。このミュージアムはバブル崩壊後に「さいたまスーパーアリーナ」の建設を請け負ったゼネコンが建設し、経営及び管理運営をしていたようで、行政との間に何らかのやり取りがあったのかもしれない。
 
そのような経緯はさておいて、この博物館は「ジョン・レノン」という一人の人間を識るのには実に好く出来たミュージアムで、これまで60有余年生きてきて私はこの博物館程感銘を覚えたことはなかった。
 
博物館を観終わった後に、普段はめったにないことだが、幾つかのミュージアムグッズを買い求め、事務所に戻ってからそこで買ってきたワインを呑み1本空けてしまった記憶がある。
 
そしてその時の感動を、一編の長歌と反歌というか短歌とにして書き綴った記憶がある。
このような行為は、私にとっては殆ど無いことである。たとえお酒が入っていたからだ、としてもである。
 
残念なことにその時の和歌は手元に残ってないのであるが、いずれにしてもその時の感動は私にはワインを1本丸ごと呑ませ、幾つかの和歌を詠まずにはいられなかったのであった。
 
その時私が一体何にそんなに感動したかというと、一言で言うならジョン・レノンと云う一人の人間の生きざまというか、辿って来た人生遍歴についてであった。
 
人生遍歴といったところで、彼は40歳でアメリカの銃社会の犠牲になったから、長いか短いかと云えば短いのであろう。
しかしその40年の人生は実に濃密であったのではないかと、私は感じた。
 
 
 
              
 
 
即ち10代の後半にロックミュージシャンに成り、20前後には彼の造ったロックバンド「ビートルズ」はイギリスやヨーロッパ、更にはアメリカを始めとしたいわゆる先進国ではメジャーな存在に成っていた。世界的なアイドルに成ったのである。
 
更にその音楽の質の高さはやがて彼らを単なるアイドルであることから、社会的な影響力の高いロックグループにと押し上げて行った。
ビートルズの存在は10代や20代のヤング層に留まらず、その客層を次第に上げて行き、ヤングアダルト層更には中年層まで巻き込んでいった。
 
それは彼らの創った音楽が次第に精神性を帯びて行った事や、社会性を含んでいった事によるのだと思う。要するにロックミュージックという媒体を通して、社会や人生を語り始めたのであった。
しかしそれは「ビートルズ時代」の事であり、やがてビートルズが解散するに及び、もう一段彼は脱皮する事に成った。彼が30歳前後の事であった。
 
 
そのきっかけを作ったのは「ヨーコ・オノ」という日本女性だったようだが、彼自身は10代後半の「アートスクール」に通っていた時代から、学友の影響で東洋的な価値観や哲学、禅といったものに関心を持ち始めたようであった。
その素地があってビートルズ時代のインド的な宗教観と云う遍歴を経て,ヨーコ・ オノという日本出身のアーチストによって着火された、と云う事のようだ。
 
いずれにしてもそのようなプロセスを経た彼は「イマジン」に代表されるような社会性の高い音楽を創造し、発信するように成った。独りの社会性を帯びたミュージシャンに成って行ったのである。
 
30代の半ばごろには過激な社会活動を支援したり、麻薬などに手を染めたりといった紆余曲折もあったようだ。必ずしも真っ直ぐな道を歩き続けたわけではないのであった。
そしてそこでの挫折や回り道は同時に彼自身の人間的な成長や、深みに繋がって行ったように私には思えた。新たな人間的な成長のための「サナギ」期間だったのであろうか・・。
 
このサナギの期間を経て彼は社会活動家から、哲学を追求するように成ったようである。即ち生きることの意味を考え、追及するように成ったようである。40前後の事である。
このころの彼の発言や音楽がそのことを感じさせてくれた。
 
 
そして「これから」と云う時に自称「ジョン・レノンのファン」と称する男によって射殺されたのであった。1980年12月8日の事であった。
 
とても残念な事であった。私は彼があの時点で死ぬことが無かったらあれからどのように成長を続け、世界にメッセージを発信し続けただろうかと、そう思わずにはいられなかった。
彼の存在自体がブランドであったから、世界の人々に対しての発信力や影響力は計り知れなかったであろうと思う。
 
そして彼にはそれを可能にする知性と洞察力、表現力があったからである。
ある意味人類にとっての喪失であったのではないか、とさえ私は感じたのである。
 
 
私は「ジョン・レノン ミュージアム」の最上階に到達して、そこに天井からぶら下がっていたタペストリー様の「ジョンレノン語録」を読みながらつくづくそう想ったのであった。
 
あと10年彼が生きていたら、いったいどんなメッセージを私達人類に送り続けたであろうか。20年後であれば‥。30年後であれば・・。といった様に想い続けたのであった。
 
ジョン・レノンという人生は、そう言った問い掛けを私自身に投げかけて来たし、多分あのミュージアムを訪れた多くの人達にも、同様の感情を抱かせ続けたのではなかったか、とそう想っている。
 
近年自分の頭で考える習慣がつき始めた息子に、「ジョン・レノンミュージアム」を体験させてやれなかった事が、大きな心残りである。
 
 
 
             
 
 
 
 
     ジョン・レノンの命日から4日後   ―2019.12.12―
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
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