春丘牛歩の世界
 
弥生三月の春の嵐が過ぎ、首都圏での桜の花の開花が進み”花見”に浮かれる時節が近づいている。
 
北海道の道東十勝は、厳寒期の放射冷却が原因でマイナス20度台はザラで、時に30度台に成る事もあり本州の桜”ソメイヨシノ”などは冬を越せない。
 
そういった厳しい自然環境の中で育つのは”エゾヤマザクラ”である。
 
 
しかしながら足の長いその桜は、短足の”ソメイヨシノ”を見慣れてる身には物足りない。
 
そんな事もあって、数年前に山梨で法事が有った時に、富士河口湖町で”富士桜”の苗木を5本ほど購入して、庭に植えている。
 
 
           
                エゾヤマザクラ
 
 
 
その中でちゃんと根付いたのは3本のみで、このまま順調に育つかどうかは何とも言えない。
 
それら”富士桜”の花が開花するのは、まだ2・3週間は先だと想われる。
 
私が札幌や函館に行って戻って来るその頃には、既に開花しているであろうか?それとも未だし、なのであろうか・・。気になるところである。
 
来週からは、連日最高気温が2桁台になるから、である。
 
 
 
          
            まだまだ幼い富士桜の花弁
 
 
 
 
                 お知らせ
 
*4月1日:本日より『コラム2025』を公開いたしました。「睦月」「衣を着、更に重ね着る、如月」「弥生三月」の3ヶ月分になります。
 
*3月22日:『甲斐源氏の祖、源義光』に新しく
”穴太衆”と”黒川衆”を公開しました。
 
*12月12日「食べるコト、飲むコト」に
               を公開しました。
 
11月28日「コラム2024」に 
              を公開しました。
 
 
 
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【会員制システムの廃止】               
                    2025/04/01
 
*昨年6月より始めた「会員制システム」は、あまり普及してない事や維持管理に手間がかかる事、今年から当該HPへの関与時間が少なく成る点などを考慮し、原則として「会員システムを廃止」とし、そちらに向けて順次修正のうえ、full公開といたします。                         
                                   
                       春丘牛歩           
 

  南十勝   聴囀楼 住人

                                 
               
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
                                                                
  

 
   
      

  
 
2018/11/12

限界集落

 
週は5日間ほど新潟県に、次作のための取材に行ってきました。
今週中に公開予定の『安田義定父子と、甲斐之國・越後之國』の情報収集のためです。
 
晩秋の新潟への取材旅行、と言っても鎌倉時代の安田義資公の痕跡や足跡を求める旅なので、平安時代や鎌倉時代に國府・國衙の在った上越地域に限られています。
新潟市や長岡市の在る中越や村上市などの下越は今回は立ち寄りませんでした。
 
この物語のために新潟を訪れるのは今回で3回目で、これまでの調査や取材では行き切れなかった場所や人物に逢ってきました。
 
対象はいつものように「八幡神社」「金山神社」「駒形神社」「国分寺跡」といった神社仏閣と図書館が中心で、郷土史研究家にもお逢いし情報交換をしてきました。
 
更に「祭り」や「神事」「行事」につながる情報収集も欠かせません。
上越では「祇園祭」と「舞楽=神楽」とに大きな特徴があることが判り、それなりに調べたり取材することが出来ました。
 
 
 
                 
 
 
 
今回の上越探訪で痛感したのは、山間いの村々での人口減少と住民の高齢化の進展です。
若い人達の都市部への人口流失は、働き場所の確保と現代風の生活様式の享受のためには防ぎようのない流れなので、このトレンドを防止することは出来ないだろうと思っています。
 
翻って私自身、故郷を顧みることなく大学を卒業後は、都市部を中心に転々として来たことから、他人に対してどうこう言うつもりもありません。
 
しかしながら若者の流失や地域住民の高齢化という事が主たる原因となって、かつて村々やそれぞれの地域で、数百年は続いて来たであろうお祭りや神事が、担い手不足や担い手の不在・消滅という形で、失われていくことや途絶えて行っている現実は、とても残念な事だと思っています。
 
山間いの村々や、中心市街地から遠ざかるエリアに成れば成るほど廃屋が目立ち、目にする人々は老人や高齢者が中心に成って行きます。
それらの地域では、かつて賑やかに行われた祭りや神事も行われなく成っていたり、神社そのものの荒廃が目立つように成っています。
 
そういった現実を眼にし、耳にするたびに残念な気持ちでいっぱいに成ります。
そして限界集落という最近よく聞くこの言葉が頭をよぎり、このまま行ったら各地で何百年もの間守られ伝承して来た神社やお寺、そしてそれに関連する祭りや神事・行事といったコトは、これから先いったいどう成ってしまうのだろうと、想わざるを得ません。
 
 
私は今、安田義定という八百年前の平安末期の武将の痕跡や足跡を探したり尋ねたりしていますが、私とは違った関心領域をお持ちの方や、違った立ち位置の方がたくさん現れて、遠からず忘れ去られてしまうかもしれない、神社や仏閣に足を運んでいただいて、何らかの形でその神社仏閣の神事・行事の存在意義や、歴史的な価値などを記録したり、掘り起こしたりして欲しいものだと、願って止みません。
 
いつか担い手が消滅しても、記録が残っていれば振り返る事や思い起こすことが出来るであろうと思われるからです。
 
かつて行われていて、今では途絶えてしまった祇園祭の山や鉾について、丁寧に探し当て掘り起こし、記録した若原史明氏が『祇園會山鉾大鑑』を取りまとめ、後世に残して来たようにです。
そういう意味では、私は各地にいらっしゃる郷土史研究家の方々の働きに、大いに期待を寄せています。
 
 
そして私自身は、安田義定という忘れ去られた平安末期から鎌倉初期の武将にこだわり続けることで、彼につながる埋もれた神社や仏閣、更には神事や祭りを調べ掘り起こし続けて行き「歴史検証物語」という形で記録し残して行きたいと思っています。
 
そのような事を痛感した、五日間ほどの晩秋の上越地方の旅でした。
 
 
 
 
 
 

 
 
 
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北海道十勝 , 大樹町


 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
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