春丘牛歩の世界
 
GWが過ぎ最高気温が20度前後になり、街のあちこちでエゾヤマザクラが咲き始め、十勝の春が確信出来たので昨日この時季恒例の”ビニールハウス架設”を始めた。
 
近所の農家さんの助力を得て、毎年この時期に行う行事である。
 
 
       
 
             Before
 
 
 
       
            
             After
 
 
H=3m弱のハウスを架設するのに、人力だけでは負担が大きすぎることもあって、トラクターなどを出してもらって架設すると、2時間足らずで作業が終了する。
 
 
架設作業が終わった後に、”手巻き寿司 ”でお礼をするのが我が家の慣習で、それを食べながらお酒を飲んで雑談する事に成っている。
 
家人に比べ、普段の近所お付き合いが少ない私にとっては、貴重な近所付き合いの行事であり、その際に聞く昔ばなしや開拓に関わる苦労話、ご先祖のルーツに関する話や移住時の話等は、私にとって貴重な情報であり時間なので、この雑談を私自身も愉しみにしている。
 
 
その手巻き寿司を準備するのは、料理が全く苦にならない私の仕事で、鮨し種のSELECTから、海苔の品定め、魚類の若干の加工などは前日から喜んで関わっている。
 
今年はご飯に掛ける三杯酢の量が少なかったことが不満であったが、それなりに美味しかったので、まぁ満足はしている。
 
酢飯の準備は家人が行っているが、5回の内満足なのは3回くらいしかなく、不安定なのだが仕方がないから諦めている。
家人の料理は安定していないのだ。
 
 
”旨い飯を食べる”ことに人生の喜びを感じている私が、家で料理を作ることに成ったのは、それが原因だったのだ。
料理に対する情熱や思い入れが、家人と私は違うのである。
 
家人とは、”腐れ縁 ”だと思ってるので、出来るだけ自分で作るようにしているが、”ご飯炊き ”だけは私は手を出さないで、口だけ出すようにしている。
彼女にも、出来る事はやってもらうようにしているからである。
 
いずれにせよ無事にビニールHの架設が終わったので、今日からBハウスの活用がスタートする。
 
これからほぼ半年の間、多くの野菜類をハウスで育て、収穫する事に成る。自家栽培の野菜たちとの今年の生活が、スタートするのである。
 
 
               
 
 
                 お知らせ
 
*5月2日:『本日コラム2025』に「卯月、さくら月を公開しました。
 
*3月22日:『甲斐源氏の祖、源義光』に新しく
”穴太衆”と”黒川衆”を公開しました。
 
*12月12日「食べるコト、飲むコト」に
               を公開しました。
 
11月28日「コラム2024」に 
              を公開しました。
 
 
 
    ♠     ♠     ♠     ♠
 
       【 お礼とお願い 】               
                        2025/05/01               
  
すでに公表している様に、当HPはこの4月1日から昨年6月より始めた「会員制システム」を撤廃し、full公開制に戻しています。
 
その結果それまでの10ケ月の月平均で1,621人&3,895ページの閲覧状況であったものが、この1ヶ月で3,991人&8,955Pにと、2.46倍&2.30倍にと増加しています。
その事実には感謝しており、この場を借りて
 
      ”お礼申し上げます”
 
それとは別にその閲覧pageの分類で判明したのですが、「お問い合わせ」をクリックしている人がこの1か月間で59人&76Pいらっしゃったのです。
毎日2人近くの人が居て、2.5P近くが「お問い合わせ」ページを閲覧されている事に成ります。
 
この数字は決して少なくない、と私は想ってますが、実際には「お問い合わせmail」は、皆無のままです。
 
これは「このシステムに問題がある」のか、それとも「閲覧はされても、具体的なアクションには至らない」のかHP開設者としては、理解に苦しんでいます。
 
この疑問について、お答えいただける方がいらしたら「お問い合わせmail」を使って、教えて頂けると助かります。
改善点がある場合は、さっそく対応したいと思っておりますので、宜しくお願いします。
 
                               牛歩
                  
 

  南十勝   聴囀楼 住人

                                 
     
          
       
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
                                                                
  

 
   
      

  
 
2019/2/20

ノーベル賞

 
先日のニュースに「阿部川餅首相がアメリカの花札大統領をノーベル平和賞に推薦した」といった記事を読んで、とっさにわが目を疑った。
エイプリルフールかと一瞬思ったが、すぐにまだ40日以上早いことに気づいた。
 
発端はどうやらアメリカ政府すなわち花札大統領自身からの依頼により、日本政府のお友達首相に推薦を依頼した事から始まった珍事、という裏話が明らかに成った。一連の珍騒動の構図である。
 
自己顕示欲や自己愛の強い花札大統領の自作自演なのだ。その自作自演劇にお友達首相が駆り出されたというわけである。
さしずめ彼の役割は、裸の王様の腰巾着のお友達ピエロといったところか。喜劇ではあるが、やはりエイプリルフールではなかったのである。
それを知らされた世界中の人々から嘲笑されてるところを見ると、笑いを取るというピエロの役割は果たされている、と云ってよかろう。ご苦労さんなことである。
 
 
さて、笑い話はこのくらいにしてまじめなノーベル賞受賞者の話をしよう、田中耕一氏の事である。
40過ぎて間もない頃に、当時精密機械メーカーの一介のサラリーマンであった田中氏が、ノーベル化学賞を受賞したということに世界中の多くの人が驚かされたようである。もちろんその中には、彼より5つほど年上の私も含まれていた。
 
ノーベル賞なるものは、日本の文化勲章などと同様に7・80代のその道一筋の研究者が、人生の晩年において、その永年成し遂げてきた努力や成果に対してご褒美として贈られるモノ、と思っていた私などは彼の若さに驚き、同時にその才能や運の良さに若干の嫉妬を感じた記憶がある。
その田中耕一氏は今では私と同様にすっかり白髪に覆われ、すでに齢いは還暦間近であるという。
私が久しぶりに彼を観たのは、その彼のノーベル賞受賞後の苦悩の16年間を振り返ったTV番組であった。
 
 
彼の述懐によると、ノーベル賞を受賞したことを世界で最も驚いていたのは、実は自分自身であった、と云う事であった。
大学を卒業して2・3年後に、職場の日常業務の作業中に偶然遭遇した「タンパク質の分析・分解方法」を発見したことが、ノーベル化学賞の対象に成ったという事らしい。
 
それはまさに偶然の出来事で、絶え間ない努力の積み重ねの結果、神様がその惜しまぬ努力に対してご褒美としてプレゼントしたものではなかった、ということだ。
本来電子工学が専門の彼が門外漢の生物化学の仕事をしていた事から、偶然遭遇した結果であったという。
 
要はその分野のシロートであったがために、その分野では当たり前になっている事や常識を踏襲することなく、実験手法の一つとしてたまたまチャレンジし、しかも本来なら失敗した分析方法を用いた結果、その方法(メソッド)を発見した、と云う事らしい。
 
彼自身はその事実を一番よく判っていたし、生来謙虚な性格であったから、自分がノーベル賞を受賞するに相応しい人間ではないと、そう想っていたのだという。
 
それは確かにその通りであったのだろう。
しかし彼がその「タンパク質の分析・分解メソッド」を発見しなかったら、その後の生物学者たちによる成果が得られなかったのもまた、事実であろう。
 
 
とはいえ偶然によってもたらされたノーベル賞受賞者、というレッテルがその後の彼の人生に付きまとい、苦しめたのだという。
とりわけ研究者たちの学会や、報道機関などからのプレッシャーは相当キツかったようだ。彼の白髪の何%かは、それに起因しているのかもしれない。
 
 
 
             
 
 
何年間かその苦悩やプレッシャーにさいなまれていた彼はその後、国内外の研究者達との交流を進め自身の身を守るため、また同時に彼は自らの殻を脱皮するために新しい行動を起こしたらしい。
その他者との交流の中で、彼は幾つか気づいた事があった、という。
 
即ち、
「自分の成果に対する評価は、一体何であったのか」
「自分が成し遂げて来た事は、何であったのか」
「自分の原点は、何か」
といった事の様だ。
 
で、そこで得た結論は、どうやら
「これまでの定説や、常識にとらわれなかった事」
「偶然によって得られるコトやモノがある」
といった事だった、ようだ。
 
 
そしてそこから彼は、新たな行動に出たのである。
彼の新しい研究のテーマは前から決まっていたようで
「少量の血液の中から、早い段階で病気の発生原因を見つけ出す」といった事がそれであったという。
 
その研究テーマに対して政府文部科学省は、「最先端の研究課題」として5年間で40億円の研究予算を付けた、という。
 
この自分に与えられた研究予算を使って彼は、「新しい研究者のチーム」を創り、Labを立ち上げたのであった。
60数人の研究者を国の内外から集め、彼らをリードしてきたのだという。
 
そのチームリーダーとして彼が心掛けて来た事は、ノーベル賞受賞後からの十数年間の苦悩の末に自得した結論である。
 
即ち、
「これまでの定説や常識に、とらわれない事」
「偶然によって得られるモノがある」
「チャレンジ精神を尊重する」
という信念のもとに、彼自身の研究チームを牽引して来たのだという。ブレることなく。
 
そしてこれらは、自身がノーベル賞を受賞した理由を突き詰めて得た結論であり、辿り着いた確信であり、信念であったのであろう。
 
 
それ以来彼は、自分自身が研究者として研究テーマに立ち向かうのではなく、彼が着目した優秀/有能な研究者たちの研究成果発表の場に足繁く通い、
 
「定説や常識にとらわれず」
「新しいテーマやメソッドに、果敢に挑戦する」
そう言う立ち位置を執る研究者たち、即ち「その分野の原石」を「撰び」「発掘」し続けて来たのだという。
 
 
そしてその努力というかチャレンジが、どうやら成果を生み出しつつあるのだ、という。
昨年(2018年)の科学専門研究者向け雑誌『サイエンス』だかに発表した
「血液中の成分分析に依る、アルツハイマー病の早期発見」といったような研究成果を得た、という事である。
 
「アルツハイマーが発症する30年前に、その発祥の原因と成る成分を発見するメソッドを見つけた」という事らしいのである。
 
これがこの論文の通りであるとすれば、いうまでもなく大発見であり、間違いなく人類の生存に多大な影響を与え得る、研究成果であろう。
 
病いが発症する30年近く前にその原因を特定できれば、「早期治療が可能になるから」である。
近い将来、世界中でアルツハイマー病に罹る患者が激減する可能性があるからだ。
 
 
結局田中耕一氏は、自らが研究者である事に拘わる道を捨てて、
常識にとらわれない、チャレンジ精神の豊富な才能のある研究者たちが、働きやすいLab環境を創ることで、新たな「人類の幸福」に貢献しようとしているのである。
 
 
私はこのTVを見ていて、中国の古いことわざを思い出した。
駿馬常に居れども、伯楽常には居らず」である。
 
かつてノーベル化学賞を受賞した田中耕一氏は、この間の16年間のプレッシャーを乗り越えるために、自らは「駿馬である研究者」である事を辞めて、
「駿馬を見つけ、発掘し、育て、才能を開花させる環境」を創り、「伯楽」となる道を撰び、自身の立ち位置を替えた、のである。
 
私はこの番組を観終わった後、田中氏の人間的成長を大いに感じ、一回りも二回りも彼の人間的スケールが大きくなったのを痛感したのであった。
 
 
そしてひょっとしたら、これから数十年後に彼とそのLabの研究者たちは「ノーベル賞」を受賞することに成るかもしれない、などと妄想してしまった。
 
その時に氏が称賛されるとしたら、それは「名伯楽」としてであろうか、と・・。
 
 
 
                
 
 
           「常識を疑い、常識にとらわれない」
         とノーベル賞医学生理学賞を受賞した本庶佑さんは語った。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
最新記事
月別アーカイブ



〒089-2100
北海道十勝 , 大樹町


 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
]