春丘牛歩の世界
 
先月から今月初めにかけては、「備蓄米の放出」の話題で日本中が湧いている。
主役は40代前半の小泉進次郎氏で、敵役は江藤前農水大臣と彼の仲間の自民党農水族議員たち+JA全農、という構図でこの劇はスタートした。
 
政府が60㎏(=1俵)12千円前後で農家から購入した「備蓄米」を、23・4千円で公開入札にかけその94・5%をJA全農が競り落とし、その際に1年以内に買い戻すという条件を付けた。
因みに12千円→23・4千円という事で、100%の利益を農水省は得ており、最終的に国庫に入る。
 
この「備蓄米放出」の仕組みを考え、作って来たのは自民党農水族であり、JAからは毎年数億円の政治献金が彼ら農水族議員に献金されている。と言う事実がある。
 
この「備蓄米放出」を指揮した江藤前大臣は「米を買ったことは無い」と自慢げに支持者の前で公言し、「米高騰」に苦しむ多くの国民の非難や顰蹙を買い石破首相に解任され、”農政改革”を標榜する若い自民党のプリンスに取って替わった。
 
農水族の農水大臣が、「米を買った事がない」事には、毎年数百万円や数千万円の政治献金を、JAから受けている現実を知る身には全く驚かない。
JAから金をもらってる議員が同じJAから、米を献納されているに過ぎない、からである。
 
 
 
          
 
 
そして今回総理大臣から指名された、改革派の小泉新農水大臣が行ったのは、自民党農水大臣が固執しJAや農水族議員たちが喜ぶ従来手法をスッ飛ばし、「一年後の買戻し」を行わず「備蓄米」を直接小売業者に「随意契約」で販売する。という改革である。
 
因みに3月から4月まで「政府放出米」の90%以上を落札した、JA全農経由の「備蓄米」の小売業者への販売率は、5月時点で全体の14~17%に留まっていた、という。
これでは「米の品不足」が解消されるはずはなく、ほぼ永遠にコメ不足は続き、「米価高騰」はいつまで経っても収まらないのである。
 
今回の改革に早速、JAから立候補して参議院議員となってる農水族の「野村元農水大臣」から、「従来のルールや仕組み」を守らない新大臣への「苦言」を、地元の支持者たちを前に演説したという報道が昨日入って来た。
 
実に判り易い構図である。
 
 
          
 
 
今回の「小泉Jr劇場」がこれからどう展開するか、は不明であるが自民党の農水族議員や、一部の野党党首や重鎮が「批判」ばかりして、この「目の前の課題」を解決する手法を提示しないのは、誠に残念な事である。
 
国民が「政府放出の安い備蓄米」を行列をなして、買い求めている現実に有効な対策を打ち出さなければ、守旧派の農水族議員を利することに成るだけだろう。
 
結果的に国民や消費者の「米価高騰」への、不満を解消する策を講じようとしないならば、次の参議院選挙で国民からの審判を受けるのは、農水族議員と共に野党という事に成るかもしれない。
 
 
                 お知らせ
 
*5月2日:『本日コラム2025』に「卯月、さくら月を公開しました。
 
*3月22日:『甲斐源氏の祖、源義光』に新しく
”穴太衆”と”黒川衆”を公開しました。
 
*12月12日「食べるコト、飲むコト」に
               を公開しました。
 
11月28日「コラム2024」に 
              を公開しました。
 
 
 
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  南十勝   聴囀楼 住人

                                 
      
          
       
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
                                                                
  

 
   
      

  
 
2019/3/28

漂流する受験生

 
3月ももうすぐ終わり新しい学期がいよいよ始まり、新たな学校に入学する高校生や大学生、専門学校生が多く誕生している事であろう。
私なども今から45年近く前に通過し、経験してきた事であった。
山梨県の郡部に生まれ育ち、 のびやかに育った私は受験勉強に固執することが嫌いで、というか性格的に受け入れられなくて、自分の好きな分野に関しての掘り下げばかりやって来た。
 
その結果特定の分野においてはある程度のレベルに達していたが、総合力では十分とはいえず結果的に浪人生に成ってしまった。尤も現役時代からこのままでは希望する学校への入学は厳しいだろうと、自覚はしていた。
 
 
その浪人の間に私は受験のための勉強しかすることがなく、結果的にそのことで自分自身を見つめ直す、良いきっかけを得ることが出来た。
その際の葛藤を経て、私は進路を歴史学から社会学にと変更することに成った。過去の歴史を勉強する事より、現代の世の中・社会を識り深く関わっていきたいという欲求が、その受験勉強中に高まったからであった。
 
それからは大学に入ってからも社会学を中心に学習し、最後はマーケティングを志向するようになって、今日に至っている。
私自身は40数年前から関わって来たマーケティングという仕事に、いささかも後悔しておらず、今も尚細々と続けている。
尤も還暦を過ぎたころから生活のためということ以外の事に関心の領域が広がり、鎌倉時代の武将安田義定に出遭い、今はそれにのめり込んでいる。特にプライベートな時間はそちらに重心を置いており、それはそれでまた愉しんでいる。
 
 
さて自分自身の事は棚に上げて現在の受験生の環境について、最近大きな驚きがあり自分の従来の考え方を修正することを迫られており、若干の戸惑いが生じている。
というのは私の頭の中では、大学への入学と云うものは受験者の内、成績の良い順から入学が許可されるもの、という認識でいたのであるが、どうやら最近ではそうではなくなっているようなのだ。私はその現実を近親者を通して、知らされることに成った。
 
その受験生は、自分がやりたいと思っていた分野の学問が学べる大学の学部を能動的に選択して、受験を始めた。現役の時はセンター試験の55・6%程度の回答率と云う事もあって、最も志望する学校とは20ポイント程度届かなくて、早くから浪人を覚悟していたようだ。
 
そして一浪した昨年は頑張った結果、その20ポイント近くの差はクリアがすることが出来、予備校などの数回の模試でもA評価を得ていたようだ。
センター試験の結果一次試験は通過したが二次試験が届かなかったようで、約6倍という関門は通過できなかったということであった。
 
それでも手ごたえを感じていた彼はもう一年頑張って、目指す学部の在る大学にチャレンジする道を選んだ。その結果一年間で更に8ポイントほど上積みし、模試でも高い評価を得ていたようだ。一時期は11ポイントほど高く上がり、旧帝大と云われるクラスの大学でも受験資格が得られる水準に達していたという。
 
その自信をもって今回も受験したのであるが、結果は残念なものであった。それはやはり二次試験が壁となったようである。そのこと自体は残念ではあったが、大学が求めるレベルではなかったとすれば、それはそれで仕方ないことだと彼も思っていたようである。
 
 
私も世の中には縁のある無し、運の良し悪しといった事があることを60余年の人生で経験していたから、そう言ってアドバイスや慰めもしたし、彼もそれには納得いっていたようだ。 
問題はその先である。いわゆる「すべり止めが」すべり止めに成らないで、機能しなかったのであるこの事に私は驚いており、自分たちのかつての常識が通用しなく成っている事を知らされたのである。
 
第一志望に比較的近い学部を有しているその私立大学のセンター試験の基準点は、HP等によると55~60%程度であるという。彼の現役時代のレベルである。
センター試験の自己採点ではその基準点を20ポイント以上、上回っていたことからここで滑り止めが功を奏すると、彼は考えていたのである。
そしてその事を知っていた私たちは全く心配していなかったのである。ところが結果は不合格であった。すべり止めがすべり止めではなくなったのである。
 
 
              
 
 
数年前から、文科省が定員の1.1倍以内にしか入学者を認めないという政策をとっているという。それをオーバーすると大学への国による補助金を出さない、という事らしい。
そしてどうやらこの政策のあおりを食ったという事、らしいのだ。
 
私たちの時代であれば定員の1.4・5倍近くは合格者を出していたはずである。
もちろん実際にはそれだけ合格者を出していても進む学校は一つだから、調整が進み結果的には定員の1.1・2倍にもならなかったし、逆に0.8・9倍とかに成ったりした年度や学部・大学もあった、ようである。
 
要は緩やかな合否があって、緩やかな調整が進んでいたのである。
その緩やかな調整が行政の杓子定規な政策によって、機能しなくなり受験生が翻弄されているのである。
 
 
このような行政の施策と、少子化・大学の乱立とが相まって大学側も受験者側もリスクを恐れて安全策を取り始めたである。
企業の採用と同じ様に、大学の「青田刈り」が進んでいるのである。
 
具体的には大学が進める「学校推薦枠」で入学する受験生が相当多くなっていて、いわゆる一般入試からの採用が、極端に減ってきているということである。
そのために大学側がセンター試験の成績を選考の際に考慮するにしても、当該受験生の成績と当該大学の求めるレベルにギャップがあり過ぎると、合格を出しても入学しない可能性を感じ、リスクを恐れることになるらしい。
 
入学者と定員の関係のバランス「1.1倍程度」への恐れである。
大学を経営する側からすれば、このリスクをできるだけ避けたいと思うのは、無理ないといえば無理もないだろう。それは理解できる。
 
 
そのリスクを避けようとして大学側は、出来るだけ「学校推薦枠」や「AO試験」という現役生の面接で入学を決めようとするのである。その結果安全志向の受験生を積極的に受け入れようとする、供給側の経営判断である。
 
一方学生側もできるだけリスクを避けようとし、浪人を避けて「青田売り」に積極的に参加するようになる。ここにおいて「青田買い」に対する需要と供給のバランスが成立するのである。そしてその結果必然的に、一般試験やセンター試験の成績で採用をしようとする枠がかなり限定的になってしまう、のである。
 
そしてその限定的な枠に、ミドルクラスの学生が集中することになる。
ところが受け入れる学校側は、基準枠に近い入学可能性の高い応募者をセレクトする。
定員割れを恐れるためである。文科省の「1.1倍ルール」が作用するのだ。
 
そうなるとどういう現象が起きるかというと、チャレンジ精神の旺盛な受験生の「中~中の上クラス」のミドル層が漂流してしまう、という事態が生じるのである。
 
 
            
 
 
冒頭の青年の不幸は、チャレンジ精神が旺盛であった結果、漂流してしまったということである。これはとても不幸なことであると私は思っている。
この不幸は当該受験生が一番の被害者であるのだが、同時にこのようなチャレンジャブルな受験生が少なくなることでもたらされる、社会的な不幸でもある。
 
このような潮流の結果、世の中に安定志向の受験生や大学生ばかりが増えてしまう、ということになるのだ。
大学選考という人生の一大イベントにおいて、チャレンジを避け安定志向の人間ばかりが増殖し、チャレンジしようとする人間が絶滅危惧種に成る可能性がある、という事なのである。これは大きな社会的な損失ではないだろうか・・。安定志向の人間ばかりが溢れて。
 
 
それと同時に、この潮流は新たなビジネスチャンスを生むことにもなるだろう。
この「青田買いシステム」から外れたマーケットにおける、需給のアンバランスが逆に新たなマーケットを誕生させることになるからである。
すなわちチャレンジ精神の旺盛なミドルクラスの受験生で、行き場が定まらないで漂流している学生の層の存在である。
 
全体ではマスとは言えないであろうが、「ある程度良質で、チャレンジ精神の旺盛」な学生層のマーケットが存在しているのである。
 
私が大学関係の経営者であればこのニッチなマーケットに向けた供給の在り方を考えるかもしれない。
このマーケットに対する供給体制を構築し、上手にアピールすれば「ある程度良質で、チャレンジ精神の旺盛な、覇気ある」学生層を取り込むことが出来るからである。
そしてそれは当該学生にとっても、少なからぬメリットがあるはずである。
 
「文科省の愚策」に翻弄されない、骨があって中・長期的なビジョンを有する大学の出現が待たれるのである。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
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