春丘牛歩の世界
 
              「お盆」の日がもう直ぐ・・
 
今週は「お盆」を迎える週である。
そんなこともあってこの前の金曜日辺りから「夏休み」をとる人が増えている様で、お定まりの「帰省ラッシュ」の報道が盛んである。
 
そんな夏休みに、実家とかで「お墓参り」をする人も少なからずいるのではないか、と思う。
今回は彼らのためのコラムである。
 
 
   下記は2018年のコラムを再登場させたものである。
 
 
今日はお盆の最中である。
お盆というのは言うまでもなくお正月とともに、日本人にとってはとても重要な行事である。そのような共通認識があるから人々はお正月とともにお盆に合わせて長期休暇を取り、故郷に行ったり、バカンスをとったりすることが出来るし、それを社会的に許されもする。
 
若いころはそのような年中行事にはあまり関わらず、バカンスを中心にとることが多かった。公然と長期休暇が取れることは大きなアドバンテージであったからだ。
しかし40前後に成って近親者の死という、あまり望まないイベントがやってくると死者を悼むといった事がとても大きな意味を持ってくるようになった。
 
 
とりわけ自分にとって大切な人の存在がなくなる事は、少なからぬ心の痛みを伴うものである。両親であれ、お世話に成った親戚であれ、親友といっても良い友の早すぎる死であったりする。
 
そんな時死者を悼み、死者を訪ね、死者に想いを馳せるといった行為が大きな意味を持ってくる。
 
 
日常生活の忙しさにかまけて、普段は棚上げしていた人々を想い、リスペクトするのだ。
そして同時に現在の自分のことを見つめ直すきっかけにも成る。
 
私はこのまま今の仕事を続けていて好いのだろうか、
自分の時間を人生をこのまま費やしていてよいのだろうか、
こんな時親父はどうしただろうかとか友人はどうしただろうか、といった様な事を考えるのである。
 
 
もちろんそのような沈思黙考の機会があったとしても、現実は待っているから大きな軌道修正などは図れない。家族を養わずにはいられないし、会社での仕事も待っている。
 
しかしそういったことを考える良い機会であることは間違いない。
私たちにとって、お盆という行事は死者との対話を通じて、もう一度自分自身を見つめなおす良い機会なのである。
 
 
故郷を訪ね、旧友と交わり、墓を訪ね死者との対話を通じて、自分の来し方行く末をおもんばかるのである。
貴重な時間を有効に使う事が出来る大切な行事なのである。
 
 
 
 
 
                   
                      石楠花
 
 
以上は8年ほど前に書いたコラムであるが、この8年の間に何人かの友人や知人そして親戚なども亡くなった。
 
しかしながらこの時のコラムの想いはほとんど変わっていない。
 
 
次に、実家のお墓参り等をする人たちも少なくないだろうから、こちらのコラムもまた再登場させることにした。
 
2023年に他のサイトで公表したコラムである。その時の表題は「自家のルーツを探る手段としての家紋」とした。
 
 
 
もうすぐお盆である。
しかしながら今年のお盆はここ数年と異なり、帰省やお墓参りをする人は多少増えるのかもしれない。コロナが終わったからである。
 
その際お墓参りをする人たちも、それなりにいるかもしれない。
自家のご先祖のいわゆるルーツに関心のある人は、ついでにお墓などに付いている家紋をしっかりと見てくることをお勧めする。
 
 
なぜならば自分の出自というか、自分の家のルーツを辿るのに家紋が非常に有効であるから、である。
 
私は昨年自作の物語に関わって、「遠江之守安田義定公と秋葉山本宮の関係」を調べたりしたのであるが、その際家紋が持っている重要性について改めて知ることに成った。
 
その『遠江守安田義定と秋葉山神社』において登場人物たちに語らせているが、日本の社会で家紋が使われるようになったのは、源平の戦い以降である。
 
もちろんそれまでも一部の貴族が、当時の自家用車である「牛車」を他家のそれと区別するために、自分の好みの草花や文様/図案といったモノをその牛車に描き標したことはあった。
 
が、それは一部の高級貴族のいわゆる遊び心にすぎず、広く世の中に流布したわけではなかった。したがって平安時代「家紋」はまだ、社会的な共通認識と成ってはいなかった。
 
 
それが世間一般に広く知れ渡り、家紋という概念が社会の共通意識にまで到達するのは、武家が社会の支配者になるタイミングである平安末期から、鎌倉時代初期を待たなければならなかった、のである。
 
具体的には「合戦」という戦や戦争が、きっかけだったのである。それは味方と敵とを識別するための旗印が必要になったからである。「家紋」は将にその旗印そのものであった、のだ。
 
そんな中で最もシンプルは旗印は「源氏の白旗」と「平家の赤旗」である。
色だけで両者の違いを表し、武士たちが殺し合いの戦いが済んだ後、自分が帰る自家の在る陣地を知らせるのが、その旗印であったわけである。
 
 
「白旗」や「赤旗」はあくまでもスタート時のものであったが、「地頭」や「御家人」と言われる「一所=本貫地」を守ることに命を懸けた武士たちは、やがて自家独自の旗印を用いるようになって行くのである。
 
それが実質的な「家紋」の始まりであり、各地の「地頭」や「御家人」が活躍することで、日本国中に全国規模で「家紋」という概念が、普及し拡散して行くのであった。
 
 
 
       合戦3.jpg
 
  
  
このような歴史があったから、「家紋」を知れば少なくとも鎌倉時代頃までは自家のご先祖に辿り着くことは可能なのだ。今から800年近く前までは辿れることに成るわけである。
 
その「家紋」は平安末期や鎌倉時代初頭はその種類は少なく、当初はせいぜい数十~数百であったものが、武士の台頭につれて次第に普及し、武士が支配者となる鎌倉から室町という時代を経て、家紋の数は次第に膨張していった。
 
そしてついに江戸時代の後半頃には、2万以上の種類を数えるようになった、という。
 
もっともこの間、日本の総人口も600数十万人からその10倍の6千数百万まで膨張しているから、家紋の種類の増加は分家化がかなり進んだことも影響していたである。
 
いずれにしてもそういった経過を辿ったこともあって、今や数万種に増えた「家紋」は自家のルーツを辿るのに有効な、メルクマール=指標になり得るのだ。
                  
                             
一方で「苗字」があるじゃないか、という意見も当然ある。
しかしこれは主として分家が本家を探すのには役に立つとは思うが、それではせいぜい戦国末期までしか遡れないのではないかと、私は想っている。
 
徳川幕府になって、士農工商の身分制度が確立した時期以降のルーツを辿ることはできても、それ以前まで遡るのは難かしいだろうと私は思っている。
即ち400年近く前までしか辿れない、のである。
 
 
それに「苗字」というのは実は「名字」であることが多い。
どういうことかというと「名字」とはその名称が示す通り「字(あざ)の名前」なのである。即ち当該者が居住している「字の名前」から出てきているのだ。
 
要するに居住地を表しているに過ぎない、のである。
したがって、「名字」から自家のルーツを辿ることはできない。かえって誤解を招くことに成りかねない。
 
具体的に言うと「安田義定」は甲斐源氏の一族であるが、甲斐源氏では「武田家」が嫡流となっているが、それは家督を継いだ「源信義」の一族、ということに成る。
 
 
源信義は甲斐源氏武田家の家祖になるが、その兄弟は「逸見光長」「加賀美遠光」「安田義定」と名字はみな異なる。
 
彼らの正式な名称は皆「源」なのである。だから彼らの正式な墓には皆「源〇〇」と書いてあり
安田義定も同様で、正式な墓に刻まれている名は「源義定」なのである。
 
そして彼らの「逸見」「加賀美」「安田」といった「名字」は、
「荘園」や「郷」の名前であった。将に「字(あざ)の名」なのである。
 
即ち「逸見荘」「加賀美荘」「安田郷」という、彼らが館を構え生活の拠点とした郷や荘(園)の地名なのだ。
 
これは現在でも同じ一族(すなわち同じ苗字)で呼び合う時、その居住地がある地域の名を呼んでいるのと同じである。
 
という事であるから、「苗字」を頼りにご先祖を辿ったとしても、それはやはり途中までしか辿れないことに成るのである。
 
そしてせいぜい身分制社会が固定するまでの徳川幕府まで、が関の山であろうと私は想定している。分家が本家に辿るまで、が限界であろう。
 
        家紋3.jpg
 
 
 
したがって徳川以前の400年以上前のご先祖に辿り着くためには、先ほどの「家紋」が有効になってくる、と私はそう思っている。
 
より深い年代までご先祖を遡るためには、「家紋」をしっかり確認し、「家紋」を手掛かりに調査を始めれば、より古いご先祖まで辿り着くことが出来るのではないかと、そのように私は想っているのである。
 
 
という事で、次にお墓参りをする際には、しっかり先祖伝来の「家紋」を確認しておくことを私はお勧めする。
それが自家のルーツを辿る第一歩と成るであろうから・・。
 
 
であるから、今年帰省する人は出来るだけ家紋を確認する事を私は勧めるのである。
 
 
     佳き「お墓詣り」を‼ なされませ・・。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
                 お知らせ
 
 
*6月2日:『近江之國編』「六角征伐」と足利幕府衰退」を公開しました。同編はこれにて終了しました。
 『甲斐源氏の祖、源義光』は以上で、完結しました。
 
 *8月3日:『サッカーW杯』の「2026年北中米大会」の「『サッカー資本主義』ⅴs『サッカー民主主義』」を以って、今回W杯に関するコラムを終了することにしました。
 
 
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  南十勝   聴囀楼 住人

                  
      
         
     
 
                            
      
          
       
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
                                                                
  

 
   
      

  
 
2019/7/11

祇園祭という神事

 
7月の中旬は祇園祭が全国で行われる。
祇園祭は「御霊会」と言って、「お盆」と同じくご先祖様を祀る行事であると共に、「感染症」や「伝染病」に対する予防や未病・注意喚起といったような、病気予防の性格を持つお祭りでもあるようだ。
 
去年の今頃もこのコラムでも書いたと思うが、集中豪雨や梅雨の長雨などの活発なこの時季は、河川の氾濫や決壊・土石流などといった言葉が、毎年のように場所を替えながら発生し、聞くことになる。それだけ夏直前のこの時季は、日本では水害が繰り返されるのである。今年は南九州を中心にそれらが起きている。
 
この一年の間に私は『安田義定父子と甲斐之國、越後之國』の物語を書き終え、この間鎌倉時代初期に安田義資(よしすけ)公が守護を務めた越後之國、新潟の上越地方を訪れているのであるが、やはりかの地にもしっかりと祇園祭が根付いていた。
 
 
上越の湊町直江津には「越後府中八幡神社」や「八坂祇園神社」といった義定公父子にゆかりある神社が在り、そこでも「直江津祇園祭(現在の名称は「上越祭り」と言っているが、地元の人は今でも「祇園さん」と言っている)は盛んにおこなわれている。
 
直江津は上越を代表する湊町で、室町時代ではすでに「三津七湊」と呼ばれる日本を代表する湊の一つであったという。
かの『安寿と厨子王』の物語の舞台はこの直江津だということだ。
 
 
この直江津は、現在は「関川」と呼ばれている大河が、日本海に注ぐ場所である。
関川はかつて「荒川」と呼ばれやはり暴れ川として有名だったらしい。長野県との県境の妙高山系に降り注いだ、長雨や集中豪雨・台風などがこの川から大量に流れ込むわけである。その名の通り昔から大きな水害に見舞われる街だったのだ。
 
直江津にはこの関川だけでなく「保倉川」や「飯田川」といった、主として「米山」山などの上越の北側に位置し、中越との境になる山々から流れ込む川が在り、やはり暴れ川であったという。それらの河川が会し、集中する場所が直江津近郊であったというわけだ。
 
そのような地理的背景があって、あばれ河川の集中するこの街には「直江津八坂の祇園神社」が在り、この時季「祇園祭」が行われているのである。
 
 
越後之国の上越地方でいうと「越後筒石」という難所で有名なエリアの西隣「糸魚川」でも祇園祭は盛んである。「能生川」沿いの旧能生町や「早川」沿いの梶屋敷といったエリアである。
いずれも北アルプスの麓で、2000m級のそれらの山々からもたらされた、勢いの強い鉄砲水などの水害に見舞われた場所である。
 
と同時にそれらの河川の上流には「金山(かなやま)」や「裏金山」といった、金が産出したことを暗示する山が控えていて、沿川には「金山彦」や「金山姫」を祭った「金山神社」 が在り、甲州金山衆の子孫たちが活躍したエリアでもある。
 
 
              
 
 
 
その沿川の街「能生」や「梶屋敷=鍛冶屋敷」「糸魚川」では、祇園祭とともに「舞楽」もまた有名である。私はそれらの祭りのスポンサーになったのは、金銀の産出で潤沢な資金を持っていた金山衆や、かつての守護安田義資公ではなかったかと、推測している。
 
祭りを始めるのにはやはり、動機と共に有力なスポンサーが必要なのである。衣装や神輿・舞台装置・祭器といったものには、少なからぬ費用が必要に成るからである。
詳細は『安田義定父子と甲斐之國、越後之國』の物語に書いたとおりである。
 
 
更に上越を離れると中越長岡には「金峰神社」と呼ばれる旧蔵王権現の神社が在る。
この神社の名称は明治維新の神仏分離策=廃仏毀釈に依って変更されたのであるが、この神社では越後之國で唯一といって良い「流鏑馬」の神事が、今もなお残存しているのであるが、それが行われるのはこの祇園祭の時季なのである。
 
この長岡の「蔵王権現神社」はとても興味ある神社で、その名が示す通り越後の修験道の根本道場であるにも拘らず、山奥ではなく信濃川流域の新潟平野の一画に存している。
その神社の「流鏑馬」神事であり、かつてはその祭りでは山車や傘鉾の巡行が同時期の祭祀として執り行われていたという伝承を持つ。
 
祇園祭との関連性が窺えるのである。しかも越後之國で唯一残っている武士の競技大会である「流鏑馬の神事」なのである。
修験者の神社に何故か武士の武芸の神事が在り、祇園祭の名残があるのである。
更にこの神社が、かつて修験道場の在ったとされる山奥の栃尾楡原から山を下ったのは、平安後期から鎌倉期であるという。
私にはやはり安田義定公父子の影を感じるのだ。
 
 
さらに興味深いことに、「蔵王権現」がかつて在った楡原は修験道のレジェンドである「秋葉三尺坊」が修行した場所と言われており、その三尺坊は安田義定公の領国遠州春野町の「秋葉神社」にも深く関わって来るのだ。
私が現在取り掛かっているのはこの「秋葉三尺坊と安田義定公」の関係を、明らかにすることを主題とした『安田義定と秋葉神社』の物語である。
 
「祇園祭」「流鏑馬」「舞楽」といった幾つかの神事や「秋葉三尺坊」を、800年前に残してくれた神様の指紋として探し求めて、私はしばらくの間
遠州静岡・甲斐之國山梨・信州戸隠・越後長岡
のフォッサマグナのラインを行ったり来たりすることになるであろう、と想っている。
これもまた神様のお導きなのであろうか・・。などと祇園祭の近づいている梅雨寒むの続く今、思っている次第なのである。
 
 
               
 
 
 
 
 
 
 
   
 
 
 
 
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