春丘牛歩の世界
 
夏の終わりを象徴する”処暑”が過ぎて、数日経つ。
 
南十勝では先月の猛暑を過ぎ今月に入ってからは、30度を超える日が週に1日あるかどうか、である。
 
本州では連日の猛暑日が報道されており、まだまだ秋の到来は先の様だ。
 
因みに今年の猛暑が長く続く事の要因の一つは、ジェット気流(偏西風)の流れる場所が例年より緯度が高く、北海道の辺りまで上昇している事にあるらしい。
 
その分日本列島の高い位置まで、南からの高温が張り上がり、日本列島全体を暑い空気が覆い尽くす日が続くのだ、という。
 
 
最近日本気象協会が発令したここ3カ月の中期予測では、今後3か月間は現在の状態が続き、例年の平均気温よりは2・3度高い日が続くのだという。
 
従って全国的に秋の到来は遅く、残暑がしばらく続く”夏が長い”のだという。
 
 
これは北海道も例外ではなく、やはり例年よりは2・3度は高い秋の3ヶ月になると、予測されている。
 
「地球温暖化」といった、ベイシックな気候変動と共に「ジェット気流の高配置」といった、今年の要因によって”夏の長い一年”になるのだ、という。困ったものである・・。
 
 
           
 
 
しかしながら、例年の北海道は9月の下旬に成ると最低気温が、一桁台に成る日がボチボチ現れるのであるから、今年2・3度高い日がしばらく続くとすれば、冬の到来はその分遅れて”穏やかな秋”が、数週間は続くことに成るのかもしれない。
 
本州では残暑が続くことに成るのだろうが、北海道に関して言えば”穏やかな秋”が例年より長く、今年は期待できるのである。
 
もちろんそういった「気温の変化」や「海水温の変化」は、農作物の生育状況や鮭やシシャモといった恵みの、収獲時期の遅延といった変化を、もたらす可能性が高まるから、その影響も出てくる事が考えられる。
 
 
今週は「最低気温」が20度以下になる日が増え、鈴虫などの秋の虫が盛んに鳴いているから、秋の到来は間違いなく進んでいるのだが、”穏やかな秋”が長く続き、”本格的な冬の到来”が少しでも遅れる事は、北海道に生活の拠点を置いている者としては、悪い話ではないのである。
 
 
 
 
 
 
 
                 お知らせ
 
*5月2日:『本日コラム2025』に「卯月、さくら月を公開しました。
 
*3月22日:『甲斐源氏の祖、源義光』に新しく
”穴太衆”と”黒川衆”を公開しました。
 
*12月12日「食べるコト、飲むコト」に
               を公開しました。
 
11月28日「コラム2024」に 
              を公開しました。
 
 
 
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  南十勝   聴囀楼 住人

                                 
      
          
       
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
                                                                
  

 
   
      

  
 
2019/7/11

祇園祭という神事

 
7月の中旬は祇園祭が全国で行われる。
祇園祭は「御霊会」と言って、「お盆」と同じくご先祖様を祀る行事であると共に、「感染症」や「伝染病」に対する予防や未病・注意喚起といったような、病気予防の性格を持つお祭りでもあるようだ。
 
去年の今頃もこのコラムでも書いたと思うが、集中豪雨や梅雨の長雨などの活発なこの時季は、河川の氾濫や決壊・土石流などといった言葉が、毎年のように場所を替えながら発生し、聞くことになる。それだけ夏直前のこの時季は、日本では水害が繰り返されるのである。今年は南九州を中心にそれらが起きている。
 
この一年の間に私は『安田義定父子と甲斐之國、越後之國』の物語を書き終え、この間鎌倉時代初期に安田義資(よしすけ)公が守護を務めた越後之國、新潟の上越地方を訪れているのであるが、やはりかの地にもしっかりと祇園祭が根付いていた。
 
 
上越の湊町直江津には「越後府中八幡神社」や「八坂祇園神社」といった義定公父子にゆかりある神社が在り、そこでも「直江津祇園祭(現在の名称は「上越祭り」と言っているが、地元の人は今でも「祇園さん」と言っている)は盛んにおこなわれている。
 
直江津は上越を代表する湊町で、室町時代ではすでに「三津七湊」と呼ばれる日本を代表する湊の一つであったという。
かの『安寿と厨子王』の物語の舞台はこの直江津だということだ。
 
 
この直江津は、現在は「関川」と呼ばれている大河が、日本海に注ぐ場所である。
関川はかつて「荒川」と呼ばれやはり暴れ川として有名だったらしい。長野県との県境の妙高山系に降り注いだ、長雨や集中豪雨・台風などがこの川から大量に流れ込むわけである。その名の通り昔から大きな水害に見舞われる街だったのだ。
 
直江津にはこの関川だけでなく「保倉川」や「飯田川」といった、主として「米山」山などの上越の北側に位置し、中越との境になる山々から流れ込む川が在り、やはり暴れ川であったという。それらの河川が会し、集中する場所が直江津近郊であったというわけだ。
 
そのような地理的背景があって、あばれ河川の集中するこの街には「直江津八坂の祇園神社」が在り、この時季「祇園祭」が行われているのである。
 
 
越後之国の上越地方でいうと「越後筒石」という難所で有名なエリアの西隣「糸魚川」でも祇園祭は盛んである。「能生川」沿いの旧能生町や「早川」沿いの梶屋敷といったエリアである。
いずれも北アルプスの麓で、2000m級のそれらの山々からもたらされた、勢いの強い鉄砲水などの水害に見舞われた場所である。
 
と同時にそれらの河川の上流には「金山(かなやま)」や「裏金山」といった、金が産出したことを暗示する山が控えていて、沿川には「金山彦」や「金山姫」を祭った「金山神社」 が在り、甲州金山衆の子孫たちが活躍したエリアでもある。
 
 
              
 
 
 
その沿川の街「能生」や「梶屋敷=鍛冶屋敷」「糸魚川」では、祇園祭とともに「舞楽」もまた有名である。私はそれらの祭りのスポンサーになったのは、金銀の産出で潤沢な資金を持っていた金山衆や、かつての守護安田義資公ではなかったかと、推測している。
 
祭りを始めるのにはやはり、動機と共に有力なスポンサーが必要なのである。衣装や神輿・舞台装置・祭器といったものには、少なからぬ費用が必要に成るからである。
詳細は『安田義定父子と甲斐之國、越後之國』の物語に書いたとおりである。
 
 
更に上越を離れると中越長岡には「金峰神社」と呼ばれる旧蔵王権現の神社が在る。
この神社の名称は明治維新の神仏分離策=廃仏毀釈に依って変更されたのであるが、この神社では越後之國で唯一といって良い「流鏑馬」の神事が、今もなお残存しているのであるが、それが行われるのはこの祇園祭の時季なのである。
 
この長岡の「蔵王権現神社」はとても興味ある神社で、その名が示す通り越後の修験道の根本道場であるにも拘らず、山奥ではなく信濃川流域の新潟平野の一画に存している。
その神社の「流鏑馬」神事であり、かつてはその祭りでは山車や傘鉾の巡行が同時期の祭祀として執り行われていたという伝承を持つ。
 
祇園祭との関連性が窺えるのである。しかも越後之國で唯一残っている武士の競技大会である「流鏑馬の神事」なのである。
修験者の神社に何故か武士の武芸の神事が在り、祇園祭の名残があるのである。
更にこの神社が、かつて修験道場の在ったとされる山奥の栃尾楡原から山を下ったのは、平安後期から鎌倉期であるという。
私にはやはり安田義定公父子の影を感じるのだ。
 
 
さらに興味深いことに、「蔵王権現」がかつて在った楡原は修験道のレジェンドである「秋葉三尺坊」が修行した場所と言われており、その三尺坊は安田義定公の領国遠州春野町の「秋葉神社」にも深く関わって来るのだ。
私が現在取り掛かっているのはこの「秋葉三尺坊と安田義定公」の関係を、明らかにすることを主題とした『安田義定と秋葉神社』の物語である。
 
「祇園祭」「流鏑馬」「舞楽」といった幾つかの神事や「秋葉三尺坊」を、800年前に残してくれた神様の指紋として探し求めて、私はしばらくの間
遠州静岡・甲斐之國山梨・信州戸隠・越後長岡
のフォッサマグナのラインを行ったり来たりすることになるであろう、と想っている。
これもまた神様のお導きなのであろうか・・。などと祇園祭の近づいている梅雨寒むの続く今、思っている次第なのである。
 
 
               
 
 
 
 
 
 
 
   
 
 
 
 
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