春丘牛歩の世界
 
四月といえばもう春である。
取りわけ本州では、先月の下旬から桜の開花が、毎日の様に報じられ、すでに満開に達しているのだという。
 
そんな本州から春の便りが報じられている中、ここ北海道南十勝でもゆっくりと季節は進んでいる。
 
根雪はほとんど溶けているし、最高気温は二桁となって久しい。
庭の片隅に咲き始めた福寿草は、春の先駆けであるし、道路わきに生えるフキノトウも同様である。
 
 
 
        
 
 
 
 
そんな雪解けが象徴する、春の到来を感じる中で、この2月末に始まった「イラン戦争」であるが、こちらは1ヶ月を過ぎても雪融けまでは、しばらく時間が掛かりそうである。
 
戦争を始めた当事者で、我が国初の女性首相が訪米時に、ハグした後の首脳会談で、
 
「この戦争を停められるのも、平和をもたらしてくれるのもそれが出来るのは、ドナルドあなただけだ・・」といった様な言葉で持ち上げられたのだが、まだ終戦には至ってない。
 
 
今月1日に、その米国大統領はホワイトハウスから米国民、そして全世界に向けられた、1時間程度のメッセージは、内容の乏しい残念なものであった。
 
相変わらずの自己陶酔型で、戦果を誇大報告する悪癖はそのままであった。
私はこれは形を変えたエイプリルフールなのか?とも思ったが、1時間近く行われた演説は終始一貫したままだった。
 
 
”ホルムズ海峡の封鎖が解除”に向かうかもしれない、とか”イラン戦争からの撤退 ”といった言葉が聞けるかもしれない、と期待していた多くのアメリカ人や、世界の経済人・政治家にとっては、期待外れであった。
 
その結果起こった事は「トランプ政権支持率の更なる低下」「原油取引き価格の高騰・高止まり」「株価の低落」であった。
 
これはアメリカ国民の反応=世論調査結果であり、世界の経済界からの「トランプ演説」への評価である。
 
今回の演説で喜んでいるのは「プーチンのロシア」だけであろう。ウクライナ戦争での戦費調達で、疲弊しているロシアにとって、原油価格の高騰は、同時に収入の増加を意味するからである。
 
 
 
           
 
 
 
そんな先行き不透明な中で先日入って来たのは、ホルムズ海峡を回避する形での原油確保や、LNG調達先の多角化を告げるニュースであった。
 
日本の外務省や経産省の官僚たちが築き上げてきた、日ごろのネットワークや人脈作り、情報収集の成果が活用され、活かされた結果であろう。
 
”Good Job⁉ ”なのである。
 
 
前回のコラムでも指摘した様に、原油やLNGの調達先が1か所で8・9割というのは、やはり異常でありイビツなのである。
 
今回の目の前の”ホルムズ海峡閉鎖 ”への「短期的対処」、に留まらず「中期的対処」「長期的対処」という観点からも、このニュースは望ましい対応であり、エネルギー戦略であると評価出来得る。
 
 
「紅海ルート」の確保や「アラスカ油田の開発」と共に、「中央アジアルート」確保や「北米原油・天然ガス開発」等への投資と共に、技術力の援助や社会インフラ支援といった事が、これからの20年30年先を見据えた、戦略的対応に成るであろうと私は確信している。
 
 
        
             
 
 
と同時に忘れてはならないのは
「化石燃料依存からの脱却」
「日本国内に眠る原油開発の採算性検討と、社会インフラ整備・補助制度の検討」
等である。
 
 
前者は「再生可能エネルギーの開発」「ゼロカーボン・脱炭素社会に向けた政策」として、既にスタートしているのでその推進と促進状況を、冷静かつ厳しくチェックする事が大切だと思っている。
 
そして後者に関しては、明治時代以降進めていた「新潟県の油田開発」事業や、「北海道での油田開発」事業をもう一度再検討し、updateすることである。
 
その上でビジネスモデルを構築することで、開発に伴う損益分岐をクリアにする。
そうして国産原油の開発や調達の可能性を、「ポスト中東原油依存政策」の一環として、研究しStudyする価値があるのではないか、と私は想っている。
 
「中・長期視点」に立った「経済安全保障」とは、こういう事を検討する政策ではないか、と私は思っているのである。
 
 
 
          
          原油高騰は、国内原油開発のビジネスモデル再検討
            の機会に成り得るのではないか・・。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
                 お知らせ
 
*2月6日:『甲斐源氏の祖、源義光』に新しく「近江之國編」を追加し、公開しました。
*4月10日:同「近江之國編」に『万川集海』と甲賀・伊賀忍者を公開しました。
 
*4月10日:本日『コラム2026』を更新しました。
 
 
 
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  南十勝   聴囀楼 住人

 
    
          
 
                            
      
          
       
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
                                                                
  

 
   
      

  
 
2019/7/11

祇園祭という神事

 
7月の中旬は祇園祭が全国で行われる。
祇園祭は「御霊会」と言って、「お盆」と同じくご先祖様を祀る行事であると共に、「感染症」や「伝染病」に対する予防や未病・注意喚起といったような、病気予防の性格を持つお祭りでもあるようだ。
 
去年の今頃もこのコラムでも書いたと思うが、集中豪雨や梅雨の長雨などの活発なこの時季は、河川の氾濫や決壊・土石流などといった言葉が、毎年のように場所を替えながら発生し、聞くことになる。それだけ夏直前のこの時季は、日本では水害が繰り返されるのである。今年は南九州を中心にそれらが起きている。
 
この一年の間に私は『安田義定父子と甲斐之國、越後之國』の物語を書き終え、この間鎌倉時代初期に安田義資(よしすけ)公が守護を務めた越後之國、新潟の上越地方を訪れているのであるが、やはりかの地にもしっかりと祇園祭が根付いていた。
 
 
上越の湊町直江津には「越後府中八幡神社」や「八坂祇園神社」といった義定公父子にゆかりある神社が在り、そこでも「直江津祇園祭(現在の名称は「上越祭り」と言っているが、地元の人は今でも「祇園さん」と言っている)は盛んにおこなわれている。
 
直江津は上越を代表する湊町で、室町時代ではすでに「三津七湊」と呼ばれる日本を代表する湊の一つであったという。
かの『安寿と厨子王』の物語の舞台はこの直江津だということだ。
 
 
この直江津は、現在は「関川」と呼ばれている大河が、日本海に注ぐ場所である。
関川はかつて「荒川」と呼ばれやはり暴れ川として有名だったらしい。長野県との県境の妙高山系に降り注いだ、長雨や集中豪雨・台風などがこの川から大量に流れ込むわけである。その名の通り昔から大きな水害に見舞われる街だったのだ。
 
直江津にはこの関川だけでなく「保倉川」や「飯田川」といった、主として「米山」山などの上越の北側に位置し、中越との境になる山々から流れ込む川が在り、やはり暴れ川であったという。それらの河川が会し、集中する場所が直江津近郊であったというわけだ。
 
そのような地理的背景があって、あばれ河川の集中するこの街には「直江津八坂の祇園神社」が在り、この時季「祇園祭」が行われているのである。
 
 
越後之国の上越地方でいうと「越後筒石」という難所で有名なエリアの西隣「糸魚川」でも祇園祭は盛んである。「能生川」沿いの旧能生町や「早川」沿いの梶屋敷といったエリアである。
いずれも北アルプスの麓で、2000m級のそれらの山々からもたらされた、勢いの強い鉄砲水などの水害に見舞われた場所である。
 
と同時にそれらの河川の上流には「金山(かなやま)」や「裏金山」といった、金が産出したことを暗示する山が控えていて、沿川には「金山彦」や「金山姫」を祭った「金山神社」 が在り、甲州金山衆の子孫たちが活躍したエリアでもある。
 
 
              
 
 
 
その沿川の街「能生」や「梶屋敷=鍛冶屋敷」「糸魚川」では、祇園祭とともに「舞楽」もまた有名である。私はそれらの祭りのスポンサーになったのは、金銀の産出で潤沢な資金を持っていた金山衆や、かつての守護安田義資公ではなかったかと、推測している。
 
祭りを始めるのにはやはり、動機と共に有力なスポンサーが必要なのである。衣装や神輿・舞台装置・祭器といったものには、少なからぬ費用が必要に成るからである。
詳細は『安田義定父子と甲斐之國、越後之國』の物語に書いたとおりである。
 
 
更に上越を離れると中越長岡には「金峰神社」と呼ばれる旧蔵王権現の神社が在る。
この神社の名称は明治維新の神仏分離策=廃仏毀釈に依って変更されたのであるが、この神社では越後之國で唯一といって良い「流鏑馬」の神事が、今もなお残存しているのであるが、それが行われるのはこの祇園祭の時季なのである。
 
この長岡の「蔵王権現神社」はとても興味ある神社で、その名が示す通り越後の修験道の根本道場であるにも拘らず、山奥ではなく信濃川流域の新潟平野の一画に存している。
その神社の「流鏑馬」神事であり、かつてはその祭りでは山車や傘鉾の巡行が同時期の祭祀として執り行われていたという伝承を持つ。
 
祇園祭との関連性が窺えるのである。しかも越後之國で唯一残っている武士の競技大会である「流鏑馬の神事」なのである。
修験者の神社に何故か武士の武芸の神事が在り、祇園祭の名残があるのである。
更にこの神社が、かつて修験道場の在ったとされる山奥の栃尾楡原から山を下ったのは、平安後期から鎌倉期であるという。
私にはやはり安田義定公父子の影を感じるのだ。
 
 
さらに興味深いことに、「蔵王権現」がかつて在った楡原は修験道のレジェンドである「秋葉三尺坊」が修行した場所と言われており、その三尺坊は安田義定公の領国遠州春野町の「秋葉神社」にも深く関わって来るのだ。
私が現在取り掛かっているのはこの「秋葉三尺坊と安田義定公」の関係を、明らかにすることを主題とした『安田義定と秋葉神社』の物語である。
 
「祇園祭」「流鏑馬」「舞楽」といった幾つかの神事や「秋葉三尺坊」を、800年前に残してくれた神様の指紋として探し求めて、私はしばらくの間
遠州静岡・甲斐之國山梨・信州戸隠・越後長岡
のフォッサマグナのラインを行ったり来たりすることになるであろう、と想っている。
これもまた神様のお導きなのであろうか・・。などと祇園祭の近づいている梅雨寒むの続く今、思っている次第なのである。
 
 
               
 
 
 
 
 
 
 
   
 
 
 
 
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