2019/1/3
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北島三郎 |
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先日の紅白歌合戦で北島三郎が「祭り」という歌を唄っていた。 平成最後の紅白という事で、NHKに口説かれたという事らしい。彼自身は確か5・6年前に紅白卒業宣言をしていたから、やはり主催者が願った事なのであろう。 私が彼の存在を知ったのは、確か小学校の高学年の頃だったかと思う。 当時彼が唄っていた「帰ろかな」という歌が妙に心に残ったからだ。 地方から都会に働きに来た青年が、盆か正月に故郷に帰ろうかどうかを悩む、その揺れる心を唄った歌だったようで、どうやらその歌の主人公は都会で成功しているとは言えない状況に在って、胸を張って年老いた母親の待つ故郷に帰る事がまだ出来ないでいる、といった感じの歌であったかと思う。 そのほかに幾つもヒット曲があるのだろうが、私の心に残っているのは「与作」「風雪流れ旅」「祭り」といった曲である。 いずれも歌の情景が目に浮かぶような種類の歌であるようだ。中でも「祭り」はお祭り好きではないかと思われる彼には、ピッタリな歌だよなぁなどと想いながら、観客を巻き込んでその場を派手に盛り上げる歌だと感じていた。 紅白歌合戦という歌の祭典、しかも年末大晦日という時期にかなりマッチしている歌だと常々感じていた。 そんなこともあって、平成最後の紅白には相応しい歌だという事を思って、私は彼の出演時間に紅白を観た。 『大野土佐日記と甲州金山衆』においても触れているが、北島三郎は北海道知内町の出身で『大野土佐日記』を800年近く守り伝えて来た、雷公神社の宮司の縁戚であり、かつ荒木大学たちと一緒に蝦夷地に渡って来た修験者、大野了徳院重一の末裔に当たるらしい。 従って幼いころから荒木大学についての伝承も聴かされて育って来たのではないかと、私は想っている。 因みに知内町には彼の作詞作曲した歌が幾つか残っているが、その中に荒木大学の事を詩っている歌が、今でも盆踊りの中に在るようだ。 そのような事を知っていた私は去年の7月に、彼が興した会社に『大野土佐日記と甲州金山衆』を送付した。それは「『大野土佐日記』偽書説」を、私なりに調べ検証した物語だと思ったからである。 たぶん一族の中では大事にされてきたであろう『大野土佐日記』について、明治大正時代の歴史学者によって、偽書の烙印を押されてきたことの影響を北島三郎もまた、これまでずっと感じ続けて来ただろうと、そう私は想像していた。 私の検証物語が全く正しい、などと云うつもりはないが、少なくとも明治・大正時代の歴史学者たちへの、明確な反論には成っているだろう、と私は想っている。 私や私の物語に共感を持っていただいた方々に対する明確で、得心の行く根拠を明示した偽書説の説明が出てくるまでは、私を含めた人々は納得しないであろう。 そう言った背景も含めて私は今回の紅白の「祭り」を観た。 相変わらずの派手な演出で、NHKホールに集まった観客や出演者を巻き込んで大いに盛り上がっていた。 その歌を北島三郎は大きな山車に乗って登場し、唄った。 80過ぎとはとても思えない声量でしっかり歌い、大いに場を盛り上げた。 その時カメラが遠景から次第に歌い手の北島三郎に近づいた時、山車の前面の武者兜が目に入った。これまでに見た事の無い山車であった。 私の記憶では登り龍の派手な山車や、大漁を象徴する大魚にまたがって唄っていたように記憶している。武者兜は初めてであった。 その武者兜の左右の前え面てに、その武者のものと想える家紋が左右に入っていた。 花菱紋であった。 初めはちゃんと理解できずにいたが、再度その武者兜がクローズアップされた時にしっかりと気づいた。 安田義定の家紋であると。 私は次第に嬉しさがこみあげて来た。 北島三郎かその縁者が私の送った『大野土佐日記と甲州金山衆』を、しっかりと読んでいてくれたのではなかったか、と想ったからである。 同書を通じて、知内の英雄荒木大学とその主君安田義定公とが結びついて、理解してもらっていたことを、知ったからである。 更にまた同書をきっかけにして、安田義定公の事に興味をもってそれなりに調べられたのではないかと、私は妄想したからである。 因みに私の物語の中で、安田義定公の家紋が登場するのは『京都祇園祭りと遠江の守安田義定』においてであるから、ひょっとしたらその物語も読んでもらってるのかも知れない、などとさらに妄想を豊かにした。 私の妄想が事実であったとすれば、私は作者冥利に尽きるなどと思ってしまった。 かくして平成最後となる今年の紅白は、同世代の歌い手サザンオールスターズの大騒動と共に、私の心の中にはっきりクッキリと刻まれたのであった。 ![]() ![]() |
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