春丘牛歩の世界
 
先週から、「行者ニンニク」が採れる様に成り、我が家の食卓にも乗るようになった。
行者ニンニクが採れる様に成ると、今年の春がやって来た事を実感する。
これまでの私の経験では「行者ニンニク」が生えてきてから、雪が降ったことは無いから、である。
 
 
      
 
 
野生の昆虫や動物たちが作る巣の位置で、颱風の影響を早い時期に推測できることがあるが、自然界の生き物たちは彼らなりのセンサーで、天候や自然現象を察知する能力がある。
そんな事から私は、「行者ニンニク」が我が家の林に生え始めることを、季節の到来のメルクマール(指標)にしているのである。
 
 
      
 
       
         
 
     
 
 
    記事等の更新情報 】
*4月19日 :「コラム2024」に、「青い春」と「チャレンジ虫」を追加しました。
*3月25日:「相撲というスポーツ」に「新星たちの登場、2024年春場所」を公開しました。
*2月8日:「サッカー日本代表森保JAPAN」に「再びの『さらば森保!』今度こそ『アディオス⁉』を追加しました。
*01月01日:本日『無位の真人、或いは北大路魯山人』に「無位の真人」僧良寛、或いは・・を公開しました。
これにて本物語は完結しました。
12月13日:  『生きている言葉』に過ぎたるはなお、及ばざるが如し」を追加しました。
*9月29日:「食べるコト、飲むコト」 に「バター炒め二品 」を追加しました。
*9月27日;「物語その後日譚」に「奥静岡の鶏冠(とさか)山」を、追加しました。
 
 

  南十勝   聴囀楼 住人

          
               
                                                                  

新しいご利用方法の
     お知らせ
 
2024年5月15日から、当該サイトは従来の公開方法を改め、新しい会員制サイトとしてスタートいたします。
 
・従来通り閲覧可能なのは「新規コラム」「新規物語」等のみとなります。
「新規」の定義は、公開から6ヶ月以内の作品です。
・6ヶ月以上前の作品は、すべて「アーカイブ作品」として、有料会員のみが閲覧可能となります。
 
皆さまにはこれまで(6年間)全公開してまいりましたが、5月16日以降は「新規作品」のみの「限定公開」となりますので、宜しくお願いします。
 
「会員サイト」の利用システムは、近日中に改めて公表いたします。
         2024.05.01
              牛歩
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
   
      

 

【歴史検証物語】

これまで書いてきた『荒木大学と甲州金山』『蝦夷金山と甲州金山衆』をまとめた物語で、荒木大学シリーズの集大成になります。冒頭部を中心に2・30%くらいは重複しています。

『大野土佐日記』と出会い荒木大学を知り、その検証のプロセスで出会った安田義定という平安末期の甲斐源氏の武将。

その安田義定の領地経営の柱である、金山開発と甲斐駒の畜産・育成事業。蝦夷地に渡った荒木大学と安田義定の関係に、私なりに一定の結論を出したのが今回の物語になります。

これまでの物語に興味を抱いていただいた読者には、ご一読をお勧めしたいと思います。この物語は山梨が主たる舞台の「甲州編」「孫子の兵法編」と北海道が主たる舞台の「蝦夷地編」「真贋解明編」とによって構成されています。

 
 
                  【 目 次 】
 
               プロローグ
               ②大野土佐日記
               ③甲州金山博物館
               ④甲冑師西島さん
               ⑤修験者の役割
               ⑥甲斐之國いはら郡
               ⑦安田義定の領地経営
               ⑧郷土史研究家たち
               ⑨蝦夷金山と甲州金山(かなやま)
               ⑩安田義定四天王
 
 
 




  

 プロローグ

 
 

12月に入り、クリスマスソングが街に流れるようになったある日、千葉の松戸に住んでいる妹から久しぶりに電話があった。

妹は夫の春樹君が定期健康診断で、大腸癌の疑いが指摘されたことを話し、精密検査を行ったところ、初期の大腸癌であることが発覚したと言い、先週摘出手術が行われたことを話した。

手術そのものは成功裏に終わり、当面心配することはないと担当医から言われているので、安心はしているとのことだ。

一通りの説明が終わった後、妹は私に頼みたいことがあると切り出した。

 

「お兄ちゃん、がごめ昆布って知ってる?」と。

「がごめ昆布?どっかで聞いたことある名前のようだが、どんな昆布だった?」と私は妹に尋ねた。

「がごめ昆布はね、北海道の函館あたりでとれる昆布で、フコイダンっていう成分の含有量が多くて、そのフコイダンは腸が持ってる免疫力を高める効果があるの。

だからがん患者の術後の食事療法には、とっても効果があるんだって。

因みに高血圧にも効果があるみたいよ、兄さん血圧高めだったでしょ」と、妹はがごめ昆布についての説明をした。

 

「まぁな、俺も定期健診で上が150~60あるから、気を付けるようにって言われたよ。おふくろ似だから、高血圧予備軍って言われて食事には注意してはいるけどな。

高血圧にも効くのか?その昆布・・」私は妹に聞いた。

「そうよ、兄さん体質がお母さんに似てるから、気を付けた方がいいわよ高血圧。

ネットで調べたらそんな風に書いてあったゎ。後で確認してみたら・・」

妹が指摘するように、私は母親のDNAを強く継承していることを自覚していた。

 

その母親が十年ほど前に脳内出血が原因で倒れ、1週間後に亡くなったことを私は思い出した。母は医者嫌いだったこともあり、治療や服薬などを殆どすることがないまま、冬の寒い日に突然倒れたのであった。そしてその原因は高血圧であった。

母親の母、すなわち私の祖母もまた脳溢血で亡くなっていた。そんなこともあって、私は高血圧には敏感になっていた。

 

「で、そのがごめ昆布がどうしたって?」

「うん、兄さん顔が広いからがごめ昆布手に入らないかしらって、思ったの。

確か函館に、お友達居なかった?大学生の時に遊びに行ってたでしょ、函館」私の問いに妹が応えた。

「うんそうだよ。よく知ってるな」

「私高校生で、トラピストのチョコのお土産を食べた記憶があるもん」妹は、50代後半のくせに、私と話すときは少女の頃のような言い方をする時がある。

「で、そのお友達に頼んでもらえないかしら、って・・」

「そういうことか・・。杉野函館に戻ってたかな・・」私は卒業後、年賀状のやり取りにとどまっている、函館の旧友のことを思い出した。

 

「わかった、久しぶりに連絡とってみるよ。・・急ぐのか?」

「まぁ、今すぐにって訳ではないけど・・」

「これから年賀状を書くから、連絡取れるのは1月になるかもしれないけど、それでも良いんか・・」

「まぁ、その頃なら良いかな・・」妹は言外に、あまり遅くならないことを匂わせていた。

「判った、じゃぁ連絡とってみるよ。話しがついたら改めて連絡するから」私はそう言って、電話を切った。

 

年賀状に、がごめ昆布のことを書いて出した私に、杉野君から連絡が入ったのは正月の成人式を過ぎたころであった。

 
 
 
 
 
 

 大野土佐日記

 
 

杉野君は右京大学時代のクラスメイトで、現在は故郷の函館に帰って旅行代理店を経営している、と数年前の賀状に書いてあった。

彼は学生時代クラスの文化・スポーツ委員をしており、全国から集まって来た50人余りのクラスメイトに、スポーツや文科系のイベントを通じて、クラスメンバー間の融和を図る役割を担っていた。

いわばスポーツ大会や文化的なイベント、コンパの際の幹事役であった。

 

彼はその役割の適任者で、入学してからの2・3ヶ月はほとんど毎週何らかの企画を立て、大学や自治会主催の新入生歓迎のイベントに、クラスとして参加する機会を作っていた。

おかげで私たちのクラスは学部内でも活発なクラスとして、目立った存在になっていた。クラスとしてのまとまりも良く、北海道から九州まで全国の、地方から京都に集まって来ていた、田舎出の学生たちを将に融和させることに成功させていた。

 

数あるイベントの中で、今でも語り草になっているイベントがある。それは1回生の秋に嵐山の渡月橋のたもとで行われた「中秋の名月を鑑賞する歌会」だ。

大学の長い夏休みが明けた9月下旬の、中秋の名月の夜、保津川が桂川に代わる渡月橋の水辺に浮かぶ屋形船を、2時間程貸切ってアルコール付きで和歌を詠む歌会が催された。

 

杉野君は、函館の出身ということもあり、中学生の頃から石川啄木の影響なども受けていたようで、短歌を詠むサークルなどにも入っていたようだ。とりわけ高校時代は文学青年宜しく、熱心であったということだ。

尤も酔った勢いで彼が漏らしたのは、学内でも有数のきれいな先輩が部長をしていたから、そのサークルに入ったという下心もあったということである。

 

いずれにしてもその夜会は、平安時代の貴族のやりそうな、いかにも京都的なイベントであったので、私を始め多くのクラスメイトが参加し、盛り上がった。

その時に自分がどんな和歌を詠んだかはあまり覚えていないが、歌競べで勝ち残った私は、歌競べの勝者が呑むルールに成っていた盃を、何度か重ねたことを覚えている。

因みにその歌会のチャンピオンは私ではなく、岐阜県出身の女学生であったことを今でも覚えている。

 

杉野君は、私が賀状に書いておいた、メールアドレスに返信をくれた。そこには彼の携帯電話の番号も記載してあった。

メールには、がごめ昆布の入手はそんなに困難ではないことが書いてあるとともに、折り入って頼みたいことがある、と書いてあった。

私は早速、彼のケータイに連絡を入れた。一昔前と違って、東京から函館に電話しても、かけ放題で料金が定額で済む契約ができる今日では、料金を気にすることなく話をすることができた。その結果必然的に話が長くなった。

 

その時の彼との会話は以下のようなものであった。

久闊を叙した後、がごめ昆布とフコイダンについての、私からの依頼がひと段落ついた後で、お互いの近況などを語り合った。

杉野君はリーマンショック時にあった、会社のリストラ策の早期退職奨励制度を活用し、7・8年前に夫婦で故郷に戻り、年老いた父親が独り暮らす地元函館で、30余年間サラリーマンとして勤めていた同業の旅行代理店を、自ら起業し立ち上げた、ということだ。

 

最初の5・6年は会社を軌道に乗せるために結構頑張って働いていたが、2年ほど前から経営も軌道に乗り始め、ゆとりも出てきたという。

もともと会社を大きくすることは、あまり考えていなかったこともあってか、そこそこの売り上げが、継続的に確保できるように成った事もあり、定番の旅行商品とは別の、新しい切り口の商品開発をチャレンジするようになったという。

ここまで話した上で、彼は私への依頼内容を話した。

それが、私が「荒木大学」や『大野土佐日記』について関わるきっかけとなったのである。

 

学生時代からアイデアマンであった彼は、退職するまでの大手旅行代理店でも、商品企画畑を長く歩んできたらしく、そのあたりは苦も無くむしろ嬉々として取り組んで来たという事であった。

そんな彼がチャレンジしたのが地域の活性化を兼ねた、旅行商品を企画する事であった。新しい旅行商品を模索していた時に、偶然知ったのが地元の新聞に載っていた「北海道砂金・金山史研究会」の記事であったという。

一読して面白そうだと直感した彼は、さっそくそのサークルに連絡し、自ら会員に成ったという事であった。

 

その時彼は、地元北海道の砂金や金山開発に関する企画は、本州はもちろん海外からの観光客やインバウンドをも呼び込み得る、旅行商品の開発に繋がるかも知れない、と閃いたそうだ。

その「北海道砂金・金山史研究会」のサークル活動で出遭ったのが、函館近郊の、道南渡島の西部地区に在る知内(しりうち)町に伝わる「荒木大学」に関する金山開発の伝説と、その伝説を書き記した古文書である『大野土佐日記』の存在であった。

 

彼は江戸時代の松前藩が、当時の蝦夷地の日高地方辺りで金山の開発を行っていたらしい、という事を日本史の授業などで習った記憶はあったらしいが、道南渡島(おしま)知内の伝説のことは初耳であったという。

当初は「荒木大学」や『大野土佐日記』に書かれている事の真贋は二の次で、観光客集客の旅行商品として、「使える伝説」の一つぐらいにしか思っていなかったようだ。

しかし地元の郷土史研究家や『大野土佐日記』を伝承してきた、知内の雷公神社の関係者と情報交換を重ね、伝承に書かれている史跡を何度か訪ねるうちに、どうもこの伝説は実際にあったこと、即ち史実なのではないかと、思うように成ったということである。

 

因みに、その『大野土佐日記』に書かれていることの概要は、

鎌倉時代の初期元久二年(1205年)に、「荒木大学」という甲斐の国出身の金山開発の頭領が、二代将軍源頼家の命を受けて、一族郎党や堀子併せて金堀衆千余人を引き連れて、甲斐の国から当時の蝦夷地知内に、金山開発のためにやって来た。

そしてそれが今の知内町の創設、即ち開闢(かいびゃく)につながっている、という事であるらしい。

 

荒木大学が甲斐の国の出身者と知り、彼は私のことを思い出したらしい。

彼は私の父が山梨出身であり、私がかつての甲斐の国山梨に縁のある事を知っており、その縁を活かして荒木大学や甲州の金山衆について調べてもらえないか、と考えたという訳である。

もし協力してもらえるなら、これまで自分が調べてきたことやなぜ自分が荒木大学の存在を信じるようになったかの資料を、改めて郵送するという事であった。

彼は歴史好きの私が定年退職で暇を持て余していることを見抜いて、このような依頼をしてきたのではないかと、私はひそかに想った。

 

杉野君の依頼は、確かに私にとって好奇心をくすぐられるテーマではあったが、私自身は甲州金山についての知識や情報は全くと言って無く、武田信玄の金山開発が昔あったらしい、という程度の認識でしかなかった。

そこで私は自分の正直な気持ちを杉野君にメールで伝えた。

私のメールの行間から、このテーマに私が好奇心を抱いていることを推察した彼は、私に動機付けにつながるニンジンをぶら下げてきた。

もし協力してくれるのなら函館の珍味をプレゼントする、と提案してきた。そしてこれはがごめ昆布とは別にだよ、とこと更に強調してきた。

 

しかし実際には、そのがごめ昆布を否定したことがボディブローのように効いていた。彼は酒呑みの私におつまみという餌を撒くと共に、私が依頼したがごめ昆布とをセットにしてきたのであった。

彼も社会人になって、交渉事にも揉まれていたのだろう、と私は思った。

私はそのセットの提案を受け入れることにして、あえて撒き餌に反応して「珍味って何かな?」とCメールを返した。

この時点で、私はすでに彼の術中にはまっていたのかもしれない。

 

彼もこの時とばかり直ぐにCメールで「鮭のトバ、イカの珍味類、ツブ貝の加工品、牡蠣の燻製。そんな感じかな・・」と返してきた。

がごめ昆布はもとより、珍味にも惹かれていたが「旅費や交通費と言った実費が掛かるからなぁ」と私も、更なる条件交渉を開始した。

「仕方ないなぁ。じゃぁ調査結果の内容次第では函館に招待するから、その場合の旅費とホテル代と飯代を、こちらで持たせてもらうよ。これでどう?」と彼から提案があった。

心の中では、杉野君の依頼を受けても良いかと私は思い始めていた。

 

「まぁ、それで手を打つか・・」と私はしぶしぶ、といった感じで彼の提案を受け入れることにした。がごめ昆布から始まったが、思わぬ展開になってきた。

交渉が成立した時点で、私は改めて「荒木大学」や『大野土佐日記』に関する情報提供を要求した。

これまで杉野君が集めて来た情報やサークルの研究会で発表された事や、どんな事が問題や課題に成っているかについて、出来るだけ簡潔でなおかつ詳細な資料を送ってほしいと、依頼したのであった。

 

それから一週間ほどして、がごめ昆布や函館の珍味と共に依頼した資料が、宅配便で送られてきた。資料はそれなりの分量があった。

がごめ昆布を妹に分け与えたうえで、私は早速杉野君の依頼に着手することにした。

杉野君から貰った珍味を肴に、酒をちびちび吞みながら冬の寒さで出不精になっていた私は、家の中に閉じこもり彼の送ってきた資料を読み込んだ。

がごめ昆布も妹に勧められて、飲むことにした。

 

杉野君のアドバイスによると、昆布を4・5cm角にハサミで切ったもの3・4片を1リットル程度の飲料水に、5・6時間以上つけておくと「とろみ」が出てくるから、それを飲料水と一緒に飲むと良い、ということだ。

その「とろみ」にフコイダンを始めとした栄養素が含まれている、という事らしい。

水はできるだけミネラルウォーターを勧める、と言って「とろみ」が無くなるまで繰り返したらよい、とアドバイスしていた。3・4片で1週間程度は持つだろうと言うことだ。

私は早速その日から実践することにした。

飲料水は前から私が実践している、水道水に備長炭を5・6時間浸して臭いを除去した水を、用いることにした。

 

杉野君が送ってきた『大野土佐日記』の内容はなかなか面白く、私の知的好奇心は大いに刺激された。

かつて梅原猛の柿本人麻呂や法隆寺に関する本を読んでいた時に感じたような、知的刺激で妄想を膨らませながら、私は読み終えた。

不明な点はその都度杉野君に問い合わせながら、甲州金山に関する補完的な情報を集めるための図書館通いなども始め、春先には概要が把握できるようになっていた。

 

それらをまとめると、おおよそ以下のようなことであった。

「荒木大学」に関する伝承は、『大野土佐日記』という知内町の雷公神社の宮司を務めてきた、大野家に伝わる古文書の冒頭に記載されているという。

因みに『大野土佐日記』は江戸時代の初期に、それまで口伝や覚書として永い間大野家に伝承されていた記録を、取りまとめた古文書だという。

知内の歴史に関わる事や地名の由来等を、4百年後の慶長年間に当時の宮司が整理し取りまとめた書物である、という。

言ってみれば、知内版の古事記のようなモノのようだ。

 

その日記をそのまま受け入れるならば、大野家は鎌倉時代初期からの伝承を7・8百年は、継承してきたことに成る。

その『大野土佐日記』に関しては、明治以降の歴史学者達によって、記載されている事柄に史実との矛盾がみられることから、偽書ではないかとの烙印を押されていた。明治以降はそのような評価が定着してしまい、歴史的な古文書としては一顧だにされない存在とされ、今日に至っている、ということだ。

 

因みに、その「史実との矛盾」とされているものの主たるものは

①  荒木大学に蝦夷地に行くことを命じたとされる源頼家は、1204年に北条氏によって伊豆の修善寺で暗殺されており、1205年に命令を出しているはずがない。

②  荒木大学が領主であった「甲斐の国庵原郡」は甲斐には存在せず、隣りの駿河の国の地名である。

③  荒木大学らの甲州金山衆と一緒にやってきた、知内の「雷公神社」の神主を歴代務めてきた大野家の先祖「大野了徳院」が属していたとされる、「甲斐の国いはら郡八幡神社」は実在しない。

といった点である。

 

杉野君自身も、当初はその様な定説に何ら疑いを持っていなかったのであるが、『大野土佐日記』に書かれている史跡を訪ねたり、地元の郷土史研究家などから得た資料や情報交換を進めるうちに、偽書説に疑念を抱くようになったという。

明治・大正時代の歴史学者の立てた定説を、もう一度検証してみるべきではないかと考えるようになり、サークル内で問題提起をしたということである。

その結果昨年「北海道砂金・金山史研究会」内に、『大野土佐日記を検証するためのプロジェクトチーム』が発足し、彼も言い出しっぺとしてそのメンバーに加わった、ということであった。

 

因みに彼がそう想うようになったきっかけは、以下のような点が確認できたからである、という。

①  知内では江戸時代初期の松前藩の砂金採収が始まるはるか以前より、砂金採収を行ったという言い伝えが古来より伝承されており、今でも時折知内川から砂金・金片類が採取されることがある。

②  道南の最高峰である千軒岳の東部地区には、金山開発のための坑道の遺跡が今でも残っている。

③  知内温泉の薬師堂を解体した時に、お堂の棟札に「応永十一年(1404年)に荒木大学が施主、湯守人徳蔵」によって建立された、と明記された記録が残っている。

これは先祖の荒木大学が知内に入郷して2百年経ったことを記念して、お堂を建て替えた、と『大野土佐日記』に書かれていることの裏付けになる。

④  金山から採収された金を含む鉱石を加工精錬するための鍛冶屋が、知内町の現在の上雷神社の近隣に3百軒ほどあったという伝承が残っている。

⑤  明治時代の北海道移住者が、上雷神社の近くで農場の開発を行った開拓時に、それを裏付ける金屑や古銭がザクザク出土した、と古老によって伝承されている。

⑥  知内に伝わる手まり唄に、金山開発に行った弟を案ずる唄が残っている。

と言った点を指摘していた。

 

これらの事実や調査結果を積み上げて、サークル内部でも、『大野土佐日記』に記載されている事柄には、多少史実と矛盾する点もあるが、明治時代の歴史学者達が行ったように全否定するのはちょっと違うんじゃないか、と言った意見が共通認識となってきたということだ。

私としては「砂金・金山」に熱を上げる人達には、ロマンチストが多いだろうから、そのような考えに傾いているのではないかと、思わないでもなかった。

だからと言って、『大野土佐日記』を頭から全否定するようなスタンスでもないように感じており、杉野君のまとめた事実や調査結果を、信頼しても良いように思い始めていた。

従って私は、杉野君の依頼を快く受諾することとした。

 

それにその時点では、私はすでに杉野君の送ってきたがごめ昆布を飲用しており、函館の珍味をすべて食べ尽くしていたので、今更後に引くことは出来なくなっていた。

杉野君が知内町での検証という、北海道側でのアプローチを引き続きやる事とし、甲斐の国山梨の側からのアプローチを、私がする事に成った。

 

私は桜の花が開花し、暖かくなり始める季節を待って、山梨の「甲州金山博物館」を手始めに訪れ、「荒木大学」や『大野土佐日記』に記載されている事柄を確認するために、甲州金山や甲州金山衆に関する調査の作業に着手することにした。

 

 

 

 

             『 北海道史 (大正7年 148ページ)

 本道砂金採収の濫觴(らんしょう=歴史)に就いては、種々の説あり。

 知内村大野土佐日記に拠れば、元久二年(1205年)筑前の船知内村の海岸に漂 着し、其の炊夫上陸して清水を尋ぬる際金塊を発見し、密に之を拾い取り、筑前へ帰航の後、船を辞して生国甲斐に帰り、荒木大学に呈せり。

 大学之を将軍源頼家に献ぜしに、頼家大に喜び大学をして往きて採取せしめたり是に於て大学、属吏・鉱夫等千余人を率い、同年七月知内に着し、知内川流域の砂金を採取せしが、文応元年(1260年)蝦夷の騒乱起りて、その業廃絶せりと云う。

 然れども此記録は後世修験者の手に成りしものにして、毫も信ずること能はず降って応永中知内の砂金を採収したる形跡ある事は、既に前に述べたれども、未だ確説と為すに足らず。

      著者註:「応永中」については、「応永十一年(1404年)」と同書38ページに記載されている。

 

 

           『 北海道史 (大正7年 38ページ)

 東蝦夷地道中記

 湯の澤(知内村)と云所に溫泉あり、(中略)湯神藥師を安置す、此の堂の棟札に施主人湯守の名迄書き記したり。

 施主荒木大學、湯守は徳藏、應永十一年の草創なり。

     著者註:『東蝦夷地道中記』は、江戸時代後半の天明五~六年(1785年~同86年)に、

      徳川幕府の命を受けて「最上徳内」が蝦夷地の地理探索を行った際の道中記録の書であり、

      この個所を『北海道史』が引用して記載している。

 

大野土佐日記』に関する公文書の評価は上記の通り。

尚、この『北海道史』以降刊行された、北海道庁の公文史書である、昭和12年の『新撰北海道史』昭和44年の『新北海道史』では、『大野土佐日記』に関する記述は存在しておらず、事実上同書の存在は無視されている。

 

 

         『 大野土佐日記 冒頭部の抜粋(吉田霊源編)

 

元久二年(1205年)筑前の舟漂流に及び・・・漂ひ候処、遥か北に当て一つの嶋見えたり。

舟中大いに悦び・・・水主二人炊(かしき=飯炊き)一人陸地へ上がり候処は(蝦夷地)知り内浜辺の由・・・。

炊の者唯一人水の手を尋ね候。・・・彼の滝の下に光し物これあり候ゆえ取り上げ見候処、石に似て石に非ず・・・丸かせ(金塊)というものならんか・・・と水桶の中へ隠し…密にして其身を離さず持ちゐけり。

右の炊程なく暇を相願ひ生国甲斐へ立ち帰り、即ち当主甲斐国いはら郡荒木大学へ差し上げる<此のかしきの者大学殿百姓なるゆへなり>

大学殿にも右の丸かせ一覧なされ殊の外ご喜悦に思召さる・・。

                                            ( )は、筆者の註

吉田霊源氏の『大野土佐日記』は、昭和38年に当時の知内村の後援と雷公神社24代宮司大野七五三氏の協力を得て、郷土史研究家の吉田氏が原文を読み下し文に構成し直し、刊行した書物である。

 

 
                             

                                         『大野土佐日記』吉田霊源編


   

      
 
 

甲州金山博物館

 
 
弥生三月に入り、日差しが少しずつ長くなって来た。
自宅近くでもこぶしの花が咲き始め、日々春の到来が諸所で実感させられるようになった。

TVのニュースで桜の開花が話題になり始めたお彼岸の連休を利用して、私はいよいよ山梨に行くことにした。

山梨では身延町にある「甲州金山博物館」と甲州市の「黒川金山跡地」とを、訪れる計画を立て宿は甲府駅近くのビジネスホテルを予約しておいた。

 

新宿駅を九時発の特急で、甲府にと向かった。甲府駅には1時間半ほどで着いた。

駅の南口でレンタカーを借り、県の南部に位置する、身延町の「甲州金山博物館」を今日の目的地とした。

同博物館は甲府駅から車で一時間半程度の時間距離に在り、下部温泉郷の一画で同温泉郷の集客の目玉施設と成っていた。

下部温泉は数ある信玄の隠し湯の一つと言われ、駿河の今川氏や三河の徳川家康軍との戦いに向かった甲斐源氏の末裔たちが、往還の際に心身を休めるために利用したと思われる、山梨県の南部に位置する山狭の温泉郷である。

 

下部までの道は、甲府を背にして静岡に向かって南下していく形をとる。富士川が、その中心部を流れており、両側は山に囲まれている。

この地域は富士川の氾濫等により侵食されたエリアで、古くから河内(かわうち)地方と呼ばれてきた。

急流に削られた山すそが人間の営みにより田畑と化し、川筋の合流する場所が交通の要所として、商人や職人の営みによって街並みを形成してきた場所である。

 

富士川は甲府盆地の外れから、甲斐の山狭を下って行って、やがて静岡の富士宮を通り、富士市の先で駿河湾に注ぎ、太平洋に出て行くのである。

「百川異流同会海」という言葉があるが、将に甲斐や駿河の(よろず)の川が集積して富士川という大きな川に成り、駿河湾に向かって海に会するのである。

私は、その富士川沿いを下部にと向かった。

 

この時季、富士川沿いの山々は濃い緑色の針葉樹でおおわれているが、その中にぽつぽつと広葉樹も散見出来、柔らかな黄緑色の若葉がアクセントになっている。

春の芽吹きが、この山峡の地にも始まっていることを、実感することができた。

俳句でいう山笑う景色が、山の中では潜行し準備されていたのである。

 

因みに俳句の世界で山に関連する季語は、春の「山笑う」の他に、夏では「山滴る」秋は「山粧う」と言い、冬は「山眠る」と言うらしい。

これらの季語は元をただせば、出典は同じで、南宋の画家であり詩人でもある郭煕の画論『臥遊録』に由来しているという。

その山笑う兆しの中を、私は富士川沿いに一路下部温泉郷を目指したのであった。

途中、戦時中に洋画家の中川一政が滞在したこともあるという、甲斐岩間の地を通り過ぎ、山路をアップダウンしながら山狭の地を更に南下し、下部温泉に入った。

 

その温泉郷には、十二時過ぎには着くことができた。

私はJR駅近くの温泉街の一画に在る食堂で軽く昼ご飯を済ませてから、数百m離れた下部川沿いの「甲州金山博物館」に向かった。

博物館の学芸員との約束の時間まで、三十分近く余裕があったこともあり、博物館の中をゆっくりと見学した。

 

博物館では展示場の案内順路に沿って、ジオラマやVTR・金山開発で使用した器具類の展示物を見、解説のキャプションを丁寧に読み、情報を得た。

館内の見学を終えたうえで、事務室に学芸員の佐野氏を訪ねた。昨日、予めアポイントを取っておいたのだ。

 

受付で来訪を告げると机の奥の方に座って居た40代半ばと思われる男性が立ち上がり、私に向かって挨拶をした。

「佐野です。立花さんですか、お待ちしてました。こちらにどうぞ・・」と自己紹介して、私を奥の応接コーナーに導いた。

私は東京から持参した手土産を渡して、博物館の陳列についての簡単な感想などを述べてから、本題に入った。

「昨日、お電話でもお話しましたが、甲州金山に興味を持っておりまして、幾つか教えて頂きたいことがあり、お時間をとっていただきました。お忙しいところありがとうございます」と私は頭を下げ挨拶を済ませた上で、来館の目的を話した。

 

「実は私の函館の友人から、甲州金山に関わる事で幾つか調べてほしいことがある、という依頼がありまして、こうしてこちらの博物館に来た次第です。

彼は『北海道砂金・金山史研究会』という道内の地域サークルに所属してまして、北海道の砂金や金山に関する研究などを、仲間たちと多少しているようでして・・」

私は、杉野君がやっている活動内容の概要を説明し、現在そのサークル内部で函館近郊の知内町の伝説である、「荒木大学」や『大野土佐日記』についての検証をし始めている点などを、出来るだけ丁寧に話した。

 

佐野氏は私の説明を軽く聞いていたが、荒木大学が甲州の金山衆の頭領である点に話が及んだ時、一瞬目つきが替わった。

北海道の他所の話として聞いていた彼が、にわかに自分の身近な仕事に直結する展開に成ったことに、驚くと共に興味を持ったのであろうか・・。

「その友人から荒木大学という人間が、かつて鎌倉時代の初期に甲斐の国に存在し、その足跡が甲州の金山開発の歴史の中に、何らかの形で記録なりが残っていないか、その辺を調べてきてほしい、と頼まれまして・・」と、私はここに来た経緯を話した。

「因みに佐野さんは荒木大学という名前に、お聞き覚えとか、何らかのご記憶などありますか?」と尋ねた。

 

「いや・・、残念ながら・・」佐野氏は申し訳なさそうに応えた。

「その方のお名前は存じておりません・・。それにうちの金山が開発されたのは、室町時代の15世紀から16世紀の頃のことでして・・」

「そうですか・・、鎌倉時代の初期の頃とはちょっと違うと・・」私がそういうと、

「そうなんです。お話の時代より2・3百年は時代が新しいんですよね・・」佐野氏はそのように説明し、続けて

 

「ひょっとしたら、塩山の奥にある甲武信連山の黒川金山であれば、その時代にも開発がされていたかもしれませんが・・。

でも黒川金山の開発が最も活発だったのは、ご存知かもしれませんが武田信玄公の16世紀の頃、なんですよ」と、話した。

「ん~、そうでしたか・・。そしたら『大野土佐日記』という古文書について、何か聞かれたり、話題に成ったことはありませんか?」私の問いに、佐野氏は再度首を振った。

私はカバンから、杉野君から送られてきた『大野土佐日記』の現代語訳版を取り出し、佐野氏に渡した。

彼は、資料を受け取ると、暫く読んでいた。

 

私は、彼が資料をテーブルに置くのを待って、若干の補足説明をした。

「この『大野土佐日記』は北海道知内町の最古の神社である、雷公神社の宮司を8百年近く務めて来た、大野家に伝わる古文書だそうです。

因みに知内町というのは、津軽海峡に面している函館近郊の町で、青森の津軽半島の竜飛岬から一番近い街に成ります。

雷公神社の宮司である大野家の先祖は、この資料に書かれている甲斐之國いはら郡八幡の別当でして、荒木大学に従って、甲斐之國から一緒にやって来た山岳修験者、大野了徳院重一(しげかず)と言う人だそうです」私は手帳のメモを見ながら説明した。

 

「コピーにも書いてあったと思いますが、それは鎌倉時代の初期の元久二年、西暦の1205年のことだそうです。

その年に、甲斐之國いはら郡の領主であった荒木大学が、一族郎党や金山衆合わせて、千余人を引き連れて蝦夷地にやって来た、とその日記に書かれてるようです。二代将軍源頼家の命を受けて、金山探索のために・・」私は続けた。

「ところがこの『大野土佐日記』には、史実と矛盾する点がいくつかあります。

そのために明治以降の歴史学者によって偽書の烙印を押されてしまい、今でも歴史書としては信憑性がない、伝承の域を出ない単なる記録に過ぎないと、扱われたままなんだそうです」

 

そこまで話した時、事務の女性がお茶を運んで来た。お茶は椎茸茶で香りがよく、お茶請けに焼き物の和菓子が添えられていた。

「因みに、どういった点が史実とは違ってるんですか?」佐野氏が聞いて来た。

「そうですね、例えば元久二年西暦1205年ですが、この年に荒木大学が頼家の命令を受けて蝦夷地にやって来た、とこの古文書には書かれているんですが、頼家自身は1204年に北条氏によって修善寺で暗殺されておりまして・・。すでに死んでるんです。その他に甲斐之國には庵原郡が存在しない点も・・」ここまでの私の説明にじっと聞き入っていた佐野氏が、口を開いた。

 

「確かにおっしゃるように甲斐之國に庵原郡はありません。庵原郡は隣りの駿河之國の地名で、富士川流域の富士宮市とか富士市、由比町・旧清水市とかのエリアに成ります」佐野氏が応えた。

「やっぱりそうですか、それも史実とは違ってるんですね・・。

いや実は私もネットで、少し調べたんですが甲斐之國には『山梨郡』『都留郡』『八代郡』『巨摩郡』の4郡しかなく、『いはら郡』は無かったんですよね。やっぱりそうですか・・、史実と違うんですね・・残念です」

私は力を落とした。杉野君の期待にはどうも応えられそうにないかもしれない、無駄足だったか、と思い始めた。

沈黙がしばらく続いた。

と、その時大きな声が事務所の受付辺りから聞こえた。

 

 

 
 
 

 甲冑師、西島さん

 
 

「こんちわぁ。あれ、館長は?なんでぇ今日は館長居んだけぇ」と甲州弁が響いた。

声の主は70代半ばの感じのご老体で、白髪をオールバックにし黒縁の眼鏡をした恰幅の良い、押し出しの強そうな人であった。

「あ、西島さん。館長は午後から甲府に行ってまして、今日は戻らんです」と、佐野氏が立ち上がって応えた。

「ほうか、ほりゃぁ残念だ。お茶でもよばれっかと思って寄っただに・・」彼はそう言って、帰ろうとした。

 

「あっそうだ、西島さん。急いでなかったら、ちょこっとこっちに来てもらえんですか。ちょっとオモシレェ話があるですよ」

佐野氏の呼びかけに西島さんは反応した。

「まぁこっちに来て、一緒にお茶でも飲んでちょっとばっかし付き合ってもらえんですか・・」佐野氏が西島さんを引き留め、こちらに呼んだ。

 

西島さんは佐野氏の誘いを断ることなく、こちらにやって来て彼の隣に腰かけた。

私が軽く挨拶を交わすと、佐野氏が二人を紹介してくれた。

佐野氏の説明によると西島さんは身延町在住の郷土史の研究家で、中世の甲斐源氏に詳しい人で、甲冑を作っている甲冑師ということであった。

二人の紹介を済ませた後で佐野氏は、これまで私がしてきた話の概略を西島さんに説明した上で、私が持ってきた資料を西島さんに見せた。

 

西島さんは、じっくりとその資料を読んだ後で、私たちに興味深い話をし始めた。

「ひょっとしたら、ここに書いてあるこん(事)真実(ほんと)かも知れんよ・・」と言いながら、ニコニコと私と佐野氏の顔を観た。

「ん?どういうこんですか?」佐野氏が西島さんに尋ねた。

 

「これに『甲斐之國いはら郡』って書いてあるら、ほこんとこがポイントさ」

「えっ、甲斐にいはら郡があったんですか?」私は佐野氏と顔を合わせ、西島さんにそう言った。

「まぁ、ほういうこんだよ。おまんとう(あなた方)は庵原郡は甲斐之國じゃなくって、駿河之國の在所だと思ってるズラ?」西島さんは私達を観廻してそう言った。私達は一緒に、肯いた。

 

「確かに庵原郡は昔っから今まで、ずっと駿河之國だっただよ。だけんど短い期間、庵原郡が甲斐之國だった時期があるだ。期間限定だけどな」西島さんは我々に諭すようにそう云った。

「えっ?そうなんですか?・・因みにそれはいつ頃のこん(事)です・・」佐野氏が慌て気味に西島さんに尋ねた。

「おまんとう富士川の戦いって聞いたこんねえかい?・・平氏と源氏が戦った、源平の一番初めの戦いさ・・」西島さんは私達の眼を見て、反応をみた。私達は二人とも肯いた。富士川の戦いについては、私も知っていた。

 

「ありゃ、治承四年で西暦だと確か1180年だったと思うけんが、ほの戦いに甲斐源氏が出張って、大活躍しただ。武田家の始祖の武田信義と、四つ下の弟の安田義定が中心になってな。源氏が平家に夜襲を掛けたら富士川の水鳥がびっくりして、大量の水鳥が一斉に羽ばたいちゃっただ。

ほれを聞いた平家の軍勢が源氏の大群が攻めて来たって浮足立って、戦う前に敗走しちゃったちゅう有名な話、聞いたこんあるら?」西島さんの話は私も知っており、私達は肯いた。

「それで、どうしたんですか?」私は先を促した。

「その夜襲を掛けたのが甲斐源氏の武田信義兄弟だったってこんさ」

「って!ほんとですか?」と佐野氏が驚いた。

「ほん時の戦功によって、武田信義公と義定公が駿河之國や遠江(とおとおみ)を領地として朝廷から貰っとうだから本当だよ。信義公が駿河の守に成って、安田義定公が遠江守の官位を授かってね。

まぁ、実態は実効支配の追認だったけんがな・・。ほれが14・5年ばっか続いただよ。で、その期間限定で駿河の庵原郡が甲斐之國になってた時期があった、っちゅうこんさ。14・5年の短い間だけね」

「そうですか、庵原郡がね・・」私は思わず口走り、佐野氏の顔を見た。

 

「なるほど。だけんどほれだけでこの『大野土佐日記』に書かれているこんが、正しいってことに成るですか?」佐野氏が疑問を呈した。

「あはは佐野君考げえてみろしね、駿河之國の庵原郡が甲斐之國の領地だったなんて、甲州人のおまん(あなた)だって、今初めて知ったズラ?世間じゃ殆ど知られていんこんだよ。まぁ、信玄公の時代に駿河が一時期甲斐の領地に成ったこんは知ってはいてもね・・」

「後世の歴史学者でも、よっぽど鎌倉時代の初期の甲斐源氏について詳しい研究してる人でもねぇ限り、知らんようなこんをどうして北海道の人が知ってるだい?

当時だったら蝦夷地ズラ?北海道は。ほこの田舎の神社の宮司さんがさ・・。おかしいと思わんかい?」確かに西島さんの言う通りであった。

 

「歴史の教科書はもちろん、インターネットや百科事典なんかも無い時代のことですからね、蝦夷地の田舎の宮司さんがそんなニッチな話を知ってる方がおかしいですよね。おっしゃる通りです・・」私も同意した。そして、同時にワクワクしてきた。

「ほうゆうこんさ。普通には殆ど知られていんこんが、この『大野土佐日記』に書かれてるってこと自体が、逆にこの古文書の信憑性を高めてる、ってこんにならんかい?」西島さんが云った。

「明治時代の学者だかが、この古文書を偽書って言ったっちゅう話だけんが、その学者たちに聞いてみてえもんだよ。

どうやったら甲斐や駿河から千キロ(m)の上は離れてる、蝦夷地の片田舎の宮司が、『甲斐之國いはら郡』のことを知ってたのか、証明してみてくれんか、ってね・・」

確かに、西島さんの推論には説得力があった。そしてこの時点で『大野土佐日記』偽書説の根拠の一つが消えたことを、私は確信した。

 

専門家や研究者でしか知り得ないような事実を、どうやって今から4百年前の慶長年間にまとめられたとかいう『大野土佐日記』に書くことが出来たのか、その偽書説の根拠を改めて問いただしてみたい、と私は思った。

仮に、『吾妻鑑』のような歴史書を観たかも知れないと、想うことも出来なくもないが、当時『吾妻鑑』を入手することが出来たのは、徳川家康や黒田官兵衛らの有力大名であって、蝦夷地の田舎に棲む宮司の手に入るような代物ではない。

今でいえば、総理大臣や大臣クラスの有力な政治家にしか入手できないような貴重な書物を、片田舎の神社の宮司が手に入れたようなものだ。そんなことは殆どあり得無い話だ。

仮にこの『大野土佐日記』が偽造された書物だとして、蝦夷地の神社の神官がどこから「いはら郡が甲斐之國であった」という情報を得たのか、どうやってこんなニッチな事実を知り得たのか、その方がよっぽどミステリアスだと、私は思った。

 

「ところで西島さん、実はその偽書説の根拠になってることで、他にも史実との整合性が取れない点があるのですが・・」私は西島さんに尋ねた

「ほう、どんなこんで?」と。西島さんは返した。

「その荒木大学が二代将軍源頼家に命じられて、蝦夷地に金山の探索に旅立ったのが元久二年、1205年と書かれてるんですが、ご存知だと思いますが頼家はその1年前に北条氏に暗殺されてまして・・」私がそこまで言うと西島氏は

「うん、ほのこんか。確かにほの点はオレもおかしいって、思っただよ」西島さんもその点については、気付いていたようである。

 

「ひょっとしたら、荒木大学を権威付けるために頼家を引っ張り出して来たのかも知らんじゃんね。まぁ、この『大野土佐日記』に書かれているこんの全部が全部、正しいとは想えんけんが、ほうだからと言って全部間違ってるとも想えんだよ。

当事者しか知り得ないようなこんが、こうやって書いてあるだから・・」西島さんは私にコピーを示して云った。

「まぁ頼家のこんは確かに矛盾してるから、ほれへの検証は必要だろうけんが、とりあえず今は、現時点で検証出来て納得出来ることだけを受け入れてみたらどうズラか・・」西島さんはそう、私に提案した。

「あと一つ、いいですか?」私はもう一つ西島さんに、偽書説に関して尋ねた。

 

「もう一つ偽書説の根拠に成ってる矛盾点で、お尋ねしたいんですが、宜しいですか?『大野土佐日記』を書き記した大野家に関わる事なんですが、甲斐之國にいはら郡八幡という地名が無い、という点なんです。この点についてはどう思われますか?」

「ん?何が問題でぇ?ほのこんの一体何が問題になるんか、オレには判らんだけんが・・」西島さんが逆に聞いてきた。

「いやその言葉の通りです。甲斐之國にいはら郡八幡という地名や神社が無いんじゃないかってことです」私が再度尋ねた。

 

「ん?庵原郡は安田義定の領地に成ったから甲斐之國って言うだけんが、現在の駿河の庵原郡にだって、八幡神社はいっぺぇあるだよ。

だいたい鎌倉幕府や室町幕府、徳川幕府はみんな源氏だから、源氏の神さまの八幡神社はそこら中にあるさ。庵原郡にだって十や二十は在るんじゃねぇかと想うよ。調べれば判るこんだけんが・・」西島さんは何でもないようにそう言った。

確かにそう言われてみればその通りだ。庵原郡が甲斐之國に編入されていた時期があったとすれば、この問題は簡単に解決することなのだ。

 

 

 

                 

                                

 
 
 
 

 修験者の役割

 
  

「ほれより立花さん、もっと大事なこんがあるだよ。

立花さん別当ちゅうのはおんなじ神社に居ても神主とは違う、山伏や修験者だってこんは判るかい?ほの八幡の別当に関することだけんが、この本のここんところに蝦夷地に渡った千人の中に、荒木大学の家来や堀子の他に修験者を連れてった、って書いてあるら」西島さんはコピーの2枚目の上段部分を指して言った。 

そこには

金山祭りのため、元いはら郡八幡の別当で修験者であった大野了徳院を一緒に連れて行った」といったことが書いてあった。

「あ、はい・・」私が短く同意すると、

「この『金山祭りのために、修験者を連れて行った』ってとこが気になるじゃんね」西島さんが云った。

「どうしてですか?僕にもわかるように、教えてもらえると助かるんですが・・」私には何が問題なのか、良く理解できなかった。

 

「うん、金山祭りのためだけだったら、修験者より神主さんを連れてけばいいズラ?」西島さんは小学生にでも話すかのように丁寧に私に云った。

「はぁ・・」

「だけんが実際に連れてったのは、修験者だっただよね。ほしたらなんで修験者だったかっちゅうとこが、ミソじゃんね」西島さんはもう一度私を見た。

「金山を掘ってる金山衆は、いつも山ん中で暮らしてるだから、同じ神社でも里でお勤めしてる神主さんより、山で修行してる山岳信仰の修験者のほうが身近な存在だ、っちゅうこんは判るれ?」西島さんは私に同意を求めた。

 

「ほれに黒川金山の在った大菩薩峠の辺りは、修験者たちの修行の場所だっただよ」西島さんは佐野氏と私を見て、言った。

「ほうゆうこんで、黒川金山の金山衆と修験者とは昔っからかなり行き来があって、お互いに知り合いが居たりで太いパイプを持ってたんじゃねぇかと、考えられるだよ。

ほう考えると、荒木大学が蝦夷に行く時いはら郡八幡の神主じゃなくって、別当の修験者に頼んだっちゅうのも、判るじゃんね」

「なるほど・・、その方が自然ですね・・」私も同意した。確かにそういう事なら、理解はできる。

 

「ほれにさ、まだあるだよ。修験者を選んだ理由がね・・。

金山衆千余人を引き連れて蝦夷に行ったと、この本に書いてる通りだとしてもさ、皆がみんな船で行ったとはちょっと考えられんじゃんね、オレには」西島さんはそう言ってコピーを示した。

「あの時代に千人を載せられるでっかい船があったとはあんまり、思えんだ。今の時代だって千人乗りの船なんて、滅多に無えらに。

鎌倉時代なら百人乗りの船があったかどうかだって判らんズラ」西島さんは腕を組みながら話した。

「そうすると・・」私がいうと、西島さんは

 

「ほうすると海路だけじゃなくって、陸の上を行っとう人らもいたと思えるだよ。

ほん時に、日本中の山を修行のために行き来していた修験者がいたら、心強かったと思うよ、金山衆も。行先は蝦夷って決まってるだから、なんしろ北へ北へと向かってけば、後は合流する場所だけ決めとけばいいわけさ、睦奥かどっかに・・。

ほれに修験者は日本全国の山で修行してるだから、東北の方の情報だってたくさん持ってただろうし、向こうの修験者仲間のネットワークだって、活用できただろうしね」と、説明した。

 

「海路は海路でこの水炊き、後の荒木外記を水先案内にして蝦夷地に向かったとして、それとは違うルート、山側のルートでも蝦夷地を目指した。

その際この修験者が先達の役割を担った。そういうことですか、西島さんのお考えは・・」私は自分の頭を整理しながら、西島さんに確認した。

 

「だいたい鎌倉幕府にナイショで蝦夷地を目指しただろうから、どちらかっていうと人目に付かん道を行ったんだと思うさ。ほれこそ山道とかをね。

もともと金山衆や堀子たちは山での生活に慣れてるだから、山道を修験者に案内されて、蝦夷地を目指したとしても、ほんなに苦じゃ無かったと思うさ。

反対に船に乗ったほうがよっぽど船酔いなんかで苦労すると思うよ。なんしろ山里の人間なんだから。おらんとうと同じで・・。あはは」西島さんは愉快そうに言った。

確かにそうかもしれない、私は西島さんの推測に納得した。

 

「ほれに、甲州がなんぼ金山開発の盛んな国だって言っても、当時の甲州の堀子だけで7・8百人もいたとは、なかなか思えんだよね」西島さんは続けた。

「と、言いますと・・」私は西島さんに先を促した。

「頭領や家来衆、中核に成ったのが甲州金山の金山衆だとしても、蝦夷を目指して北上しながら、東北や北陸辺りの金山衆にも声を掛けて、リクルートしながら行ったんじゃねかって、考げえられんかい?

特に堀子は労働者なんだから。わざわざ甲斐から連れてくなんて必要なかったと思うよ。ちょうど雪だるまが、転がりながら、だんだんでかくなるみてぇにさ」西島さんの仮説は判り易く、説得力があった。

 

「ほれにさ。頼朝が奥州藤原氏と戦さをする時に、甲斐源氏も一緒に行ってるだよ。まぁ、関東武者はみんな行っただけんがね。

ほん時に安田義定公は甲斐源氏の長老として一族や家来を引き連れて、結構活躍してるだ。甲斐源氏の頭領として、甲斐源氏を束ねてね」

西島さんは私の顔を注視して言った。

 

「立花さんも知ってると思うけんが、奥州藤原氏は金色の仏像だの金ぴかのお堂を造ったりで、金には深い関わりがあって東北で金山開発なんかもしてとうだから。

ほんだから黒川金山をやってた安田義定なんかは、戦さにもちろん行っただけんが、単に戦いに行くのとは別の動機があったかも知れんじゃんね」

 

「なるほど、金山開発に関わる技術的な情報とか、人集めとかですか・・。ってか、甲斐源氏、奥州の藤原氏攻めにも行ってたんですか?」私が言った。

「ほりゃぁ間違いねぇだよ。『吾妻鏡』を初め当時の歴史書にはみんな書いてあるだから。ほれでほん時に、安田義定公が金山衆を連れて行った可能性だってあるさ。

立花さんが言うように、金山開発の情報を得るためだったり技術や経験持った優秀な金山開発の人材をリクルートしたり、ね。

もちろん戦さでの利用もあったと思うよ。戦国時代に信玄公が城攻めに金山衆を連れて行ったみてえにね」西島さんはそこでお茶を飲み、一息入れた。

 

「まぁほうゆうこんだから荒木大学やその家来達には、奥州までの道に土地勘はある程度あったと考えて、まず間違いねぇらね。

奥州藤原氏の本拠地は平泉だから、岩手県の南部エリアまでは土地勘があったってこんだね」西島さんはそういって、私達が理解してるか目で確認した。

「おっしゃるように、藤原氏に仕えてた優秀な向こうの金山衆を何人か、甲斐之國まで連れて来たってこともあったかもしれませんね。彼らにしても主君の藤原氏が滅ぼされたら失業しちゃった、わけでしょうから・・。

丁度秀吉の朝鮮戦役の時に、薩摩の島津や佐賀の鍋島が朝鮮の陶工たちを沢山連れ帰って来て、今の有田焼や薩摩焼の基礎を築いてきたようにですね・・」私が言った。

 

私の話を聞いて、それなりに理解してることを西島さんも確認できたようだ。

「ほう考えると、神主さんじゃなくって山に詳しい修験者を連れて行ったこんや、千人余の人間が蝦夷地に向かったってのも、無理がないように思えるじゃんね。どうズラか」

「なるほど・・。確かに筋は通ってますね、合理的だし論理的でもあります・・」私は西島さんの説明に納得した。

 

「ほうズラ。だから修験者を一緒に蝦夷まで連れて行った、ってこんに深い意味があったんじゃねかって思ったさ、偶然とかじゃなくってね。ほのこんもこの古文書の信憑性を裏付ける根拠にもなるだよ、オレには」

「確かに、そうですね・・。海路は水炊きの荒木外記を水先案内人にして、陸路の山道は大野了徳院を先達にした、ってことですね」私はそう言いながら、西島さんがいうように『大野土佐日記』偽書説を覆す根拠がまた一つ増えた、と思った。

 

「ところで、先ほど鎌倉幕府にナイショで蝦夷地に向かった、とおっしゃいましたが、ナイショにしたのは何故なんですか?何かそうする訳でもあったんでしょうか?」

「ん?ほれかい?ほのこんかい?ちょっと話が長くなるけんが、いいかい?」私は西島さんの問いに肯いた。

「ほのこんは、さっき話した駿河の庵原郡が14・5年で甲斐之國の領地であるこんが終わっちまったこんと、関係あるだよ」西島さんは私達を見廻して言った。

 

 

       

 
 
 
 

 甲斐の国いはら郡

 
 

「富士川の戦いの勝利で、駿河と遠江(とおとおみ)が甲斐源氏の領地になってから、駿河は武田信義が、遠江は弟の安田義定がそれぞれ領地にしただ。さっきも言った様にね。

ただし駿河の内富士川から東っ側の富士山の西麓は、安田義定公の領地だったさ。富士山の山梨っ側、今の富士宮市とか富士市の一部さね。朝霧高原や毛無山もそん中に入ってるだよ」

「なんか、飛び地みたいですね・・」佐野氏が呟いた。

「うん飛び地さ、駿河からすればな。ほんだけんが、ほうなったのにゃぁほれなりの訳があるだよ。富士川の戦いの2ヵ月ばっか前に、前哨戦が富士山の北側の裾野であっただ。

頼朝の伊豆での挙兵に呼応する形で、甲斐源氏が平家追討のために挙兵した情報を受けて、平家の目代が甲斐源氏を討伐しに来ただよ。

石橋山の戦いで頼朝軍を撃破させた余勢をかって甲斐源氏も、って思ってな・・」西島さんは私たちを見ましてから、話を続けた。

 

「平家方の駿河の目代、要するに代官のこんだけんが、ほの目代の橘遠茂や俣野景久と、甲斐源氏の安田義定公や工藤景光・市川の別当行房んとうが、ほこで戦っただ。で、ほの前哨戦に甲斐源氏が大勝して、義定公が駿河の平氏を追っ払っただよ。

ほれでほのまま駿河の富士山西麓に侵攻して居座り続けただよ。実効支配してただよね」西島さんは続けた。

「で更に、ほの2ヵ月後にあった上井手の戦いと、その2週間後の富士川の合戦に立て続けに勝っちまったから、ほのまんま義定公の領地として定着しちまった、ちゅうこんさ。

まぁ、2か月後の戦いは義定公達だけじゃなくって、武田信義公達と一緒に甲斐源氏の総力で戦っただけんがな。ほうゆうわけで駿河でも庵原郡の内の富士山西麓だけ、結果的に義定公の飛び地に成ったっちゅう訳さ。

因みに最初の戦には、武田信義の武田家宗家は関わっていんだよ。信州で別の戦いをしてとうだから」

 

「ところで西島さん、14・5年で終わった理由はどんなことだったんでしたっけ?」私は話を引き戻した。

「あ、ほうだったね忘れちまったじゃん。困ったもんだ、あはは。

その安田義定公が結局頼朝に粛清されちまっただよ、建久五年西暦だと1194年にね」西島氏は黒い小さな手帳を見ながら応えた。

手帳には「歴史手帳」と金字で刻印してあった。

 

「ほれはまた、どうしてですか?」佐野氏が西島さんに尋ねた。

「ほりゃぁな、簡単に言えば頼朝が甲斐源氏の力が大きくなってきたから、潰しに掛かったってこんさ。

頼朝や北条時政をはじめとした伊豆の御家人グループは、自分達鎌倉幕府の権威を確立するために、関東の他の源氏を軒並み潰しただから・・。甲斐源氏を抑え込みに入ったっちゅう訳だ」西島さんは佐野さんにそう応えた。

「実際のところ、頼朝が後白河法皇の息子の以仁(もちひと)親王の平家追討の令旨(りょうじ)を受けて、平家討伐のために挙兵した頃は、関東の源氏は頼朝の他に『信濃源氏の木曽義仲』『甲斐源氏の武田氏』『常陸源氏の佐竹氏』も有力で、この時はほぼ同列で当時は上下の関係じゃなかっとうだよ」西島さんは続けた。

「ほん時、以仁親王の令旨は木曽義仲や武田信義公にも来てただ。しかも鎌倉の頼朝に届ける前にね。京から中仙道経由で使者がやって来ただからほう成るだよ」西島さんは私達が驚いてる様子を観て、そう言った。

 

「ほんだから朝廷からしても、三者は同列だった、ちゅうこんだね。ほんだけんが、木曽義仲は京に攻め上がって平氏を追っ払ってからの、京での狼藉が原因で朝廷の不興を買っちまったさ。

結局木曽義仲は、朝廷の意向を受けた安田義定公と源義経の連合軍に宇治川の戦いで敗れ、滅ぼされてしまっつら。頼朝にすれば政敵の一人が消えてなくなっただよね、これで。

で、残った甲斐源氏が義経と一緒に平氏追討の一ノ谷の戦いなんかで活躍して、領地も増やしちまって勢力が強大に成ったもんだから、ほれを怖れて潰しに掛かったってこんさ。まぁ判り易く言えばね・・」西島氏は私達を見ていった。

「えっ?一の谷の戦いは義経だったんじゃないんですか?」私は思わず叫んだ。

 

「うんほうだけんが正確にいうと、正面から戦ったのが頼朝名代の異母弟の源範頼が大将で、武田信義の次男有義が副大将だった軍団で、搦め手から攻めた軍の大将が義経で安田義定公が副大将だった軍団だっただ。

「へぇ~、そうなんですか・・。鵯(ひよどり)越えの逆落としで義経の活躍が有名ですけど、安田義定も活躍してたんですね・・」私は安田義定をまた見直した。

「義経は頼朝の名代だから大将だったけんが、直属の部下の数は少なくて、軍勢としては義定公の家来のほうが沢山いただよ。

ほんだから、搦め手軍の中でも中核を担ってたのは義定公の甲斐源氏の軍勢だっただ」西島さんが解説してくれた。

 

「なるほど、そうだとすると朝廷の中での甲斐源氏に対する評価は、相当高かったんですね」私は、富士川の戦いもそうだったが源平の戦いに甲斐源氏がこんなに深く関わっていることを、これまで殆ど知らなかった。

西島さんの話を聞いて、鎌倉幕府創成期の甲斐源氏の関与の認識を新たにした。

「ほうだよ、実際朝廷の平家追討への恩賞として義経は伊予守に任じられ、範頼は三河守に成ったけんが、甲斐源氏の褒章ももちろんあっただ。安田義定公と武田信義公はそれぞれ遠江守・駿河守を追認されて、義定公の息子の安田義資(よしすけ)公は越後守に任じられただ。

平家追討に対する後白河法皇の朝廷の、甲斐源氏に対する評価の度合いが判るってもんズラ・・」そういう西島さんは心なしか、胸を張っている様に見えた。

 

「因みにこん時に、頼朝や北条氏なんかの伊豆の御家人達は殆ど恩賞に預かっていんだよ。朝廷の処遇としては、頼朝は伊豆に流された罪人・流人のまんまだっただから・・。

まぁ、こん時の屈辱感が後の甲斐源氏の悲劇を生んだんだよね、オレはほう想ってるだよ。尤も後ん成ってから頼朝は、相模・武蔵・伊豆といった関東を中心に六国ばっかを貰ってはいるけんがね・・」

 

西島さんはこの時頼朝や伊豆の御家人グループの心の中に、義経達の異母弟や安田義定を始めとした甲斐源氏への後白河法皇の評価と処遇の高さと、自分達への評価と処遇の低さへの不満が残った。と思ってるようだ。

そしてこの時の不満や屈辱感が後に、異母弟である義経や範頼の暗殺や甲斐源氏潰しのエネルギーに成ったのだと、思っているようだった。

 

「こん時の屈辱感や朝廷の自分達への評価や恩賞の低さが、頼朝や伊豆の御家人グループは警戒感や疑心暗鬼を一層高めたみてぇだね。

ほんだから平氏追討にケリがついたと思ったら、早速甲斐源氏潰しを始めただ。よっぽど腹に据えかねたんだろうな、頼朝達は。

ほの矛先が武田信義公の嫡男の一条忠頼公に向かっただよ。1184年に忠頼公は、鎌倉で暗殺されただよ。

忠頼公は酒席に呼び出されてだまし討ちみとうにして、頼朝の目の前で殺されちまっただから。ほれも背中から切られただよ忠頼公は。まぁあんまり褒められたやり方じゃぁねえじゃんね、このやり方は・・。

ほうやって先ず、甲斐源氏の嫡流の武田氏に手を掛けただよ。知ってると思うけんが、一条忠頼公は甲府の舞鶴城の原型を作ったお人だよ」

 

「えっ、そうですか、あの甲府駅の前の舞鶴城をですか・・。ところで、そんなに簡単に惨殺できるものなんですか?妙にドラマチックではありますが」私が疑問を呈した。

「鎌倉だからできたこんかもしれんね。若しこん時に一条忠頼公が甲斐に居たら、こうはならなかったと思うよ。

当時の勢いのある甲斐源氏と全面戦争になるようなこんは、ほん時の頼朝にはさすがに出来なかったズラ」西島さんはそう言った。その言い方には、頼朝に対するある種の見下し感が感じられた。

 

「その時安田義定なんかはどこで何をしていたんでしょうか?頼朝に手を出せないような状況だったんでしょうか・・」私は疑問に思って尋ねた。

「義定公を始めとした甲斐源氏の多くは、後白河法皇の信頼を受けて京都に居ただよ。朝廷を始めとした京の治安を守る役に就いてたり、平家との戦いの拠点としてね・・。

ほれに一ノ谷の戦いや平家との戦いの真っ最中で、甲斐源氏の主力は西国に居ただよほん時は・・。頼朝は、甲斐源氏の主力が留守の時を見計らってやっただから」西島さんは言った。

 

「汚ねぇな、頼朝は・・」佐野氏が呟いた。その言葉には怒りが感じられた。

「そうだったんですか・・」私は肯いた。

「ほれから、ひょっとしたら木曽義仲の嫡子をほの二ヶ月ばっかり前に誅殺したこんとも、関係してるかもしれんだよ。まぁひょっとしたら、だけんがな・・」西島さんが言った。

「木曽義仲の嫡子ですか?」私が尋ねた。

「うん義仲の嫡子で、自分の長女大姫の婿でもある木曽義高を、武蔵之國入間で殺しただよ。追っ手をやってね・・」西島さんが続けた。

「武蔵之國入間、っていうと今の埼玉県の入間市あたりですかね・・」私は誰に言うともなく呟いた。

 

「いずれにしてもほれがきっかけで、一条忠頼公の親父の信義公は大人しくなっちゃって、2年後におっ死んじゃっただよ。まぁ、信義公の気持ちも判らんじゃねけんがね。

自分が後継者として定めた嫡子が、頼朝に殺されちまっただから。それもだまし討ちみてえなやり方でね。で、ほんな風にして甲斐源氏の宗家、武田家の力を弱めてっから弟の安田義定公に狙いを定めとうってこんさ」西島さんの声は、心なしか力がなかった。

「ほれも、平家の追討とおんなじくらい大きな戦だった、奥州藤原氏の征伐が文治五年の1189年に終わって、東国で鎌倉幕府を脅かす存在が無くなるのを待ってから、狙いすましたみてえに、やっただよね」

その時の西島さんの言葉には、怒りとも諦めともつかない複雑な感情が混じっていたように、私には感じられた。

 

「関東・東北の東日本で鎌倉幕府の権威が確立して安定してっから、義定公に手を付けただ。狡猾じゃんね、頼朝は。

まぁ、この辺が頼朝のずる賢いとこっていうか、用意周到なとこさ・・」西島さんは頼朝に対する怒りの気持ちを鎮めるためか、ここでゆっくりお茶を飲んだ。

「頼朝は甲斐源氏を、利用するだけ利用したってこんですかね・・」佐野氏が怒りを抑えて言った。

「まぁ、ほういうこんだ。先ずは義定公の嫡男義資公が1193年に、冤罪みたいなこんで頼朝によって殺されただよ。

奥州藤原氏の征伐が終わって、ほのあと後白河法皇が亡くなってから暫くしてね」西島さんが後白河法皇の崩御を引き合いに出した。

 

「後白河法皇崩御も関係あるんですか?」私は西島さんに聞いてみた。

「あるだよ。安田義定公は法皇に気に入られていただから。六条や法成寺にあった院の御所の修復なんかに、義定公を指名したり内裏の守護なんかにも重用していただから・・。

ほれにどうやら、いざという時に法皇は甲斐源氏の当時の氏の長者の義定公を、使おうとしていた節があるだよ。まぁこれはだいぶ推測も入ってるけんがね・・。

ほれに法皇は存命中は、頼朝が望んで止まなかった征夷大将軍の称号・官位を頼朝には、決して授けなかっただから・・」西島さんは、気持ちよさそうにそういった。

「へぇ、そうだったんですかぁ後白河法皇と頼朝って、そういう関係だったんですか・・」私は誰に言うともなくそう呟いた。

 

「まぁ、いずれにしても義定公の嫡男義資公も一条忠頼公ん時と同じで、陰謀みたいにして殺されただ。まぁ嵌められただよ、頼朝にね。

しかもほの暗殺が行われた半年前に、頼朝は関東の御家人たちを集めて富士の裾野で巻き狩りをやっただよ。1か月の長い間をかけてね。

ふつう巻き狩りなんてもんは、1か月なんて長くはやらんもんだよ。せいぜい数日、長くても一週間や十日ぐれいのもんさ。

しかもほの場所は富士山の西麓、例の甲斐之國いはら郡でやっとうだから、ほこに頼朝の思惑や計算が見え隠れするじゃんね」西島さんの目に哀しみとも諦めともつかない感情が漂ったのを、私は感じた。

 

「確かに、用意周到で計画的ですね・・」私は言った。

「頼朝はこうゆう陰謀みたいなやり方で、政敵を抹殺するのが好きな人間だったみてえだな。オレにゃぁネクラで狐みとうな狡猾な男のイメージがあるだよ、頼朝には。

ほんだから甲斐源氏だけじゃなくって、異母弟の義経を殺させたり範頼を暗殺させたこんにも、ちっとも驚かんさオレは。みんな同じこんだからな、根っこは・・」西島さんが続けた。

 

確かに西島さんの話を聞くと、頼朝はちょっと陰湿な策謀家という印象を受ける。

「なんだか頼朝は武家の大将っていうより、策謀家の公家かなんかのように思えてきますね、お話を聞くと・・。

でもあの有名な富士の巻き狩りが、先ほど来の安田義定の領地と重なるとは思いませんでした、意外ですね・・」私は率直に感じたことを口に出した。西島さんは、肯定する様にうなずいた。

 

「ほれから義定公自身への攻撃が始まっただよね。

まずは義資公の件でいちゃもんをつけ、監督不行き届きとか言って、遠江の守護と地頭の職を取り上げて、北条時政や伊豆の御家人達に与えただよ。

ほれから富士山西麓のいはら郡もこん時に取り上げただ。ほれで『甲斐之國いはら郡』が消滅しちまっただ、こん時にな。

富士の巻き狩りの時に、義定公がやってた朝霧高原での軍馬の育成や、富士金山のこんも調べ上げた上でのこんだよ・・。ほういう布石を打ったうえで、いよいよ本丸攻撃を始めただ」西島さんの目が座って来た。

 

「嫡子義資公謀殺の1年後の1194年の8月に、頼朝が放った梶原景時を大将にした伊豆の御家人グループを中心にした討伐軍が、本貫地である甲斐の牧之荘を攻め、追い詰められた義定公は、ついに自害させられちまっただ。

武田信義公ん時とおんなじで、先ず後継者の跡取り息子を殺しておいてっから、親父を追い詰めていくやり方だね、頼朝のやり方は・・。

まぁ、ほんなこんなで『甲斐之國いはら郡』が甲斐源氏から召し上げられ、討手だった梶原景時や北条氏一門の御家人らに褒賞として、安田義定一族が支配していた全国の領地は分け与えられただ。

ほん時に『いはら郡』も甲斐之国から駿河之國に戻った、ってこんさ。もちろん本貫地の牧之荘や、遠江之國・越後の領地もこん時に収公されちまっただよ」そこまで話して西島さんはお茶を飲んだ。

 

私には西島さんが怒りの気を鎮めているように思えた。聴いていた私や佐野氏もアドレナリンが高まったが、話していた西島さんは私達以上であったに違いない・・。

「ちゅうことはあれですか平氏追討の功労者は皆、頼朝によって殺されたってこんですか・・」佐野氏がため息交じりに云った。

「まぁほういうこんになるな・・。甲斐源氏も義経も範頼も皆な殺されちまっただから・・」そう云う西島さんの眼に、頼朝への静かな怒りが感じられた。

 

「先ほどの屈辱感を、頼朝はゆっくり時間をかけて晴らした、ってことですか・・。なるほどね・・。因みにその時安田義定は何歳くらいだったんですか?」私はその時フト、義定の年齢が気になった。

「ほうさね、義定公が鎌倉勢に攻められて自害したのは61歳の時だね」ちょうど今の私の年齢に近い歳だ、と思った。当時の寿命や年齢水準から言ったら、現在の70代前半に相当するのではないかと思われる年齢だ。老齢と言ってよい歳だ。

その年齢なら有能な武将であった安田義定も、頼朝に反撃して一合戦しようとする元気は、もう無かったのかもしれないなと私は想った。まして大事に育てた嫡子が誅殺されてしまった後なら、尚更だろう・・。   

 

富士の巻き狩りで、関東の御家人を束ねる頼朝や北条氏の力を見せつけられた後なら無理もないことだ。

年齢とともに体力はもちろん、気力も衰えてくるものなのだ。50代半ばを過ぎてからその事をいやというほど実感していた私は、義定が強い抵抗や反撃をしなかった事を、すんなりと納得してしまった。

 

 

 

 

        源頼朝が強殺した主たる甲斐源氏・信濃源氏

     1. 元歴元年(1184年)四月二十四日

        木曽義仲嫡子、木曽義高(頼朝の長女大姫の夫)

        武蔵の国入間にて謀殺。

 

     2. 同 年      六月十六日

        武田信義嫡子、一条忠頼

        酒席にて、頼朝の眼前で背後より斬殺。

 

     3. 建久四年(1193年)十一月二十七日

        安田義定嫡子、安田義資(よしすけ)

        艶書(ラブレター)事件で、詮議無きまま鎌倉名腰にて斬首。

        梶原景時の讒訴(ざんそ)によると、吾妻鑑では言われている。

 

     4. 建久五年(1194年)八月十九日

        安田義定の居城である「小田野城」を梶原景時らに攻めさせ、

        義定を自刃させる。

 

頼朝はかつて同列であった、甲斐源氏・信濃源氏の嫡流を、些細な事をあげつらい意志をもって誅殺し、東国の武士団における自らの権力基盤を確立した。

同様の事は自身の異母弟である源義経や源範頼に対しても行い、彼らを直接または間接的に抹殺することで、頼朝直系の係累の優位性を確立させ後顧の憂いを除いた。

 

しかし彼の嫡子嫡孫は、北条氏の陰謀によってあるいは暗殺され、あるいは抹殺され三代で途絶えた。

最後に鎌倉幕府の実権を握ったのは、平氏の北条時政の一族であった。

 

 

               

 

 
 
 
 
 

 安田義定の領地経営

 
 
「頼朝のこんはそこまでにしとくけ、腹が立ってくるから・・。

ほれより大事なこんはね、安田義定公のこんだよ。義定公の甲斐之國の本拠地はさっき言った牧之荘で、今の山梨市や甲州市の東山梨とか牧丘・塩山・三富の辺りだっただ。

義定公はほこで甲斐駒って言って、騎馬武者用の軍馬を沢山育成してとうだよ。牧丘の奥の乙女高原なんかでね。

畜産はもちろんのこと、大規模な馬場なんかも造って軍馬としての調教や訓練なんかも、積極的にやってただ。ほれと同時に、金山の開発にも力を入れてただよね。

有名な黒川金山がその金山開発の代表さね」西島さんはここで一息入れて、お茶を飲んでから、続けた。

 

「黒川山は知っての通り塩山の奥の方の山で、大菩薩峠の近くにあるだ。佐野君は知ってると思うけんが立花さん、ほこも義定公の領地だっとうさ。

義定公は軍馬の育成と金山の開発で豊かになり、騎馬武者を中心とした武士軍団として力をつけて、軍資金もたっぷり蓄えていたってこんだね。

ほの義定公が源平の戦いで新しく領地にした、富士山西麓のいはら郡でも遠江之國でも、牧之荘でやって成功したことと同じことを始めたっちゅう訳さ」西島さんの説明は滑らかだった。

 

「富士山西麓の朝霧高原で軍馬を育成し、毛無山の反対側の富士山西麓辺りで、富士金山の開発を始めてね。ほういったこんを見て、頼朝や北条時政らは甲斐源氏の力が今後ますます強大に成っていくんじゃねえかって、怖れたんだと思うよ。

富士の巻き狩りで、噂に聞いてた安田義定公の領地経営の実態を実際に眼のあたりにして、義定公の脅威を痛感して、いよいよ潰さなきゃって強く意識したじゃあねえかって、想うだ。頼朝も北条時政親子もな。

ほれで安田義定公の一族を潰しに掛かった、ってこんさ」 

 

「武田信義公一族が粛清されずにいて、信義公の五男信光を残して存続したのに対して、安田義定公の一族がことごとく粛清されちまった原因は、この軍馬育成の大規模な牧場(まきば)経営と軍資金の金山開発の力を、頼朝が恐れたのが一番の原因だったんじゃねぇかって、オレは思ってるだよ」

西島さんがここまで話すと、それまでおとなしくしていた佐野氏が反応した。

 

「えっ!てこんは、富士金山は義定公が始めたですか?今川義元じゃなくって・・」

「ほうだっただよ。黒川金山や牧丘でやったように、いはら郡でやっただからね。今川義元の御朱印が出て来てるから、今川義元っちゅうこんになってるけんが、富士西麓の金山開発を初めに手を付けたのは安田義定公だっただ。

ただ義定公ん時は毛無山じゃなくって、ほの南っ側の長者ヶ岳あたりじゃなかったかって想ってるだ、オレは。長者ヶ岳やほの麓の田貫湖辺りにも、金山に関する伝説なんかが今でも残ってるだから・・。で、こっからが肝心なこんだよ、よく聞けし」西島さんは佐野氏と私を見ていった。

 

「え!まだ何かあるですか⁉」佐野氏は自分の専門領域だけにインパクトが強かったのだろうか、私以上に強く反応した。

「荒木大学は安田義定公の金山開発担当の幹部で、黒川金山や富士金山で中心メンバーとして働いてた人物じゃねえか、とオレはにらんだのさ。この資料を読んでみてな。ほう考げえると、いろいろと辻褄が合ってくるだ・・」西島さんが云った。

「具体的にはどういう事ですか、その辻褄と云うのは・・」私は身を乗り出して聞いた。

 

「ほうさな、先ずはさっきも言った『甲斐の国いはら郡』のこんズラ、いはら郡が甲斐之國だったって、この『大野土佐日記』に明確に書かれている点ね。世間じゃ殆ど知られてねぇようなこんがさ・・。

ほれにこの水炊きが九州筑前の船に乗ってたってこんだって、ほうさ。この水炊きが山国の甲斐之國の人間だったらちょっと考えづらいけんが、駿河之國の人間だったら、あり得るじゃんね。海の人間なんだからさ」

「あっ」と私は想わず叫んでしまった。実はこの点については『大野土佐日記』を目にしてた時から、私も引っかかっていたことだったのだ。

船や海に縁がない甲斐之國の人が、どうして北九州の筑前の船に乗って大海原を航海する船に乗り、飯炊きとして働いていたんだろうって疑問に感じていたのだった。

 

「さっきも言ったように荒木大学が黒川金山の腕を買われて、義定公から『いはら郡』の富士金山の開発を任された頭領だとしたら、蝦夷で金塊を偶然発見した水炊きが荒木大学に持参して報告したってこんも、合点がいくじゃんな・・。

ほれから、鎌倉初期に活発だった黒川金山や富士金山の開発が一時期途絶えた、ってこんも、ほうだよ」西島さんは少し間を置いてから続けた。

「安田義定公一族が鎌倉幕府に討伐されてしまったのが原因となって、荒木大学が富士金山や黒川金山を引き払って、金山衆の主力を引き連れて蝦夷地に渡ってしまったからだ、とすれば説明がつくだよ・・。まぁ、ほういったこんとかだよね」西島さんは私を見てそう言った。

「なるほど、それで鎌倉幕府にナイショってことに成るんですか・・」私は先ほどの疑問が溶けるのを感じた。

 

「いはら郡が西島さんの言われるように安田義定の支配下だったとすると、この『大野土佐日記』に書いてあることの信憑性が一段と高くなってきますね・・。まぁ、多少矛盾を含んでいるようではありますが・・」私は応えた。

「まぁ、ほういうこんだね。ところで佐野君おまん(あなた)は金山衆の中の有力者の中に、荒木大学って名前聞いたこんあるだか?」西島さんが聞いた。

「無いです。さっきも立花さんにも云いましたが・・」佐野氏が応えた。

「ほうかい、じゃあこれからよく調べてみなくちゃならんな・・。調べがいがありそうだぞ、うふふ・・。館長にも今日のこんを良~く言っといてくれ。仕事が増えるぞってな、あはは」西島さんは嬉しそうにそう云った。

 

「盛り上がってるところを悪いんですが、佐野さん、そろそろイベントの支度を・・」博物館のスタッフが、事務所の時計を指さしながら突然私たちの会話に入ってきた。

「えっ、もうそんな時間け・・これからって時に・・。ん~ん仕方ねえなぁ。立花さん西島さん、まことに申し訳ないですが3時からイベントがありまして・・」佐野氏が後ろ髪を引かれる様な顔で、私達にそう云った。

「ほうか、連休だから忙しいだなおめえらも。じゃぁ、行ってこうし・・。佐野君、今日はありがとな」西島さんはそう言って、佐野氏を見送った。私も感謝の言葉を掛け、お礼を言って佐野氏を見送った。

 

西島さんはそれからちょっと考えて、私に言った。

「ところで立花さんは、これからどうするだい?」

「私ですか?私はとりあえず今日の目的が達せられたので、これから甲府のホテルに帰ろうかと思ってます。時間があったら県立図書館にも寄って来ようかと・・」

「今日、東京に帰るわけじゃぁねえだけ?」

「あ、はい。一泊して明日黒川金山の跡地でも見てこようかと思ってます」私は応えた。

「ほうけ、じゃぁ塩山の方に行くだね」西島さんは私が肯くのを確認して、言った。

「さっきの話だけんが、安田義定公について立花さんはどう思ったで?」

 

「いやぁ、面白かったですよ。恥ずかしながら鎌倉時代の甲斐源氏の事は全く知りませんでしたし・・。平家追討の活躍は、眼にウロコですよ。

それに、荒木大学との関連性も見えてきましたし・・。明日の黒川金山が楽しみです」私の話を聞いて、西島さんは決心したように言った。

「実は明日甲府で、郷土史研究会の会合があるだよ。まぁ、年に一回の定期総会だけんがね。ほこにオレが親しくしている仲間で、義定公の事を研究してる東郡(ひがしごおり)の衆が来るだよ。

良かったらほの衆に会ってみんけ?立花さんをほの衆に引き合わせて、荒木大学の話や『大野土佐日記』の話をしてもらえんかと想っただよ」西島さんはそう言って私を説得し始めた。

 

「きっとあの衆も面白がると思うし、ひょっとしたら何か新しい展開が始まるんじゃないかって、ほういう予感がするだよ、オレは。

ほれに余計っことかも知れんけんが、今の時期黒川金山は下手すりゃ雪ン中かも知れんよ。あそこは1500mの上はある山ん中だからね・・」

「あ、まだ雪残ってますか、そりゃぁ弱りましたね。スノータイヤじゃないし・・。そうですか、安田義定の研究者達ですか・・。面白そうですね。私と会うと何か化学反応でも起きそうですか、あはは・・」私も会ってみたいと思った。

 

「ほの衆は、義定公や黒川金山についてはオレなんかよりよっぽど詳しいだよ」

「そうですか西島さんより詳しいんですか、それはそれは・・。判りました。ええ、そしたら是非ともお会いさせてください、その人達に。僕も会ってみたいです、その方達に。・・因みに明日の郷土史研究会の会合は、何時頃まであるんですか?」

「10時っから、県民文化会館の大会議室であるだよ。ほの後立食パーティがあって昼食を食べるどうけんが、ほれを早く切り上げることは出来るだ」西島さんの話に私が頷くと、

「どうで、ほしたら一緒にみんなで昼飯を食わんけ?県民文化会館のレストランかなんかで・・」

「そうですね、一緒にご飯食べますか・・」私は迷わず、同意した。

「よしっ、ちょっと待ってろし」西島さんはそういうと、ガラケーを取り出して早速電話を始めた。相手はどうやら先ほどの東郡の仲間らしい。明日のアポイントを取っていたのだ。

 

西島さんは二人ほどと、話を済ませるとニコニコしながら私に言った。

「アポが取れたよ。詳しい話はあとでオレから話しとくけんが、とりあえず明日の12時半頃に甲府の舞鶴城址の県民文化会館のロビーに来てくれんけ。・・県民文化会館、判るかい?」

「大丈夫ですよ、舞鶴城址に在るんですねネットで調べておきますから。12時半にロビーですね、了解です。あ、それから西島さんのケータイの番号教えてもらえませんか?何かあった時に連絡出来るように・・」私はそういって、お互いの番号を交換した。

私達は明日の約束をして、甲州金山博物館を後にした。

 

甲府には夕方前に着いたので、私はホテルのチェックインを済ませてから、甲府駅の北口に在る「山梨県立図書館」を尋ねた。

図書館では2階の郷土史コーナーに赴き『山梨県史の通史』や『山梨市史』『塩山市史』『牧丘町史』『三富村史』といった黒川金山や安田義定に関係のありそうな市町村の史書を選んで、眼を通した。

中世の欄にあった甲斐源氏や安田義定に関係する箇所を抜き出し、コピーを撮った。

これらのコピーは東京の自宅に戻ってから、じっくりと読ませてもらうつもりだ。

 

その夜は図書館を出てから、駅南口の駅前通りの小料理屋で、山梨の郷土料理を中心にした食事を摂った。

 
 
 
 
 

 郷土史研究家たち

 
 

翌朝私はホテルの朝食を済ませた後、チェックアウトをするまでの間昨日図書館でコピーしてきた箇所に眼を通し、それぞれを整理してみてコピーし忘れたと思われる個所をいくつか発見した。

西島さんとの約束にまだ時間があったので、私はもう一度県立図書館に赴き、各資料を再確認の上コピーを撮った。

その際昨日は気づかなかったが『中牧村郷土誌』という、昭和4年に刊行された古書を見つけた。中を見ると安田義定に関する記述があったので、併せてコピーしておいた。

中牧村は後の牧丘町(現在は山梨市に合併)で、安田義定の本拠である小田野城があった地域である。私はこの古書に何か地元ならではの事が書かれているのではないか、と期待したのだ。

 

12時を過ぎた頃私は図書館を出て、かつての甲府城で鎌倉時代初期には武田信義の嫡子である、一条忠頼の居城が在ったとされる舞鶴城の城跡の一画に在る県民文化会館に向かった。

県民文化会館の1階ロビーにあるホワイエでしばらく珈琲を飲んでいると、西島さんが70歳前後と思われる男性二人と共に現れた。郷土史研究会のメンバーと思われる。

 

「やぁ立花さん、待ったけぇ?」と西島さんはロビーに響き渡る声をあげ、近寄ってきた。私は立ち上がり、三人に会釈をした。西島さんは二人に対して、

「この人が話題の立花さん。甲州の金山開発のことを調べてるお人で、北海道の金山開発の面白れえ情報を持ってる人だよ」とニコニコ顔で、私を紹介した。

「こちらの二人が昨日話した、黒川金山や安田義定公に詳しい人達で、甲州市塩山の藤木さんと山梨市の久保田さん」と二人を紹介してくれた。二人はすでに私の事を西島さんから聞いていたようで、笑顔と共に好奇の目で私を観ていた。

 

藤木さんはメガネをかけた細おもての真面目そうな人で、ある種の知的な雰囲気があった。70代前半に観えた。

久保田さんは四角い顔の人の好さそうな人だ。近くで観たら想ったより若そうで、私とあまり年齢が変わらないかも知れないと思われた。

私達は互いに自己紹介を軽く済ませ、上のレストランにと向かった。

 

レストランは最上階ということもあって、ガラス窓から見える景色は見晴らしがよく、比較的空いていたこともあり私達は富士山の見える窓側の席を確保し、座った。

見晴らしが良いのは中高層ビルが周囲にあまり無かったことにも依っている。30万人前後の甲府クラスの街の規模では、高層の建物はそんなに存在しないのだ。

席に落ち着いた後、私達はまずビールで軽く乾杯した。

料理はオードブルを中心に頼み、ワインを楽しむことにした。

さすがに山梨ということもあって、料理メニューの他にワインリストの分厚いメニューがあった。ワインの銘柄は言うまでもなく山梨の地ワインで、勝沼産の物が多かった。

ワインの銘柄を選定するに当たっては、久保田さんがイニシアチブをとった。

 

久保田さんは自らも雑学の人と言っていたが、体系的な知識や情報を持っているというより、自分が関心のある事柄にのめり込んでいくタイプの人の様だ。

仕事は歯科技工士をしているということだが、二人の子供を育て上げた今は還暦を過ぎたこともあり、一層趣味の世界を楽しんでいる、とのことだ。

そうはいっても郷土史研究会のメンバーらしく、主たるフィールドは郷土に伝わる歴史的な事や、伝承に対する関心であるようだ。

 

一方藤木さんは久保田さんとは対照的に、甲斐源氏や武田氏に関することや地元の英雄である安田義定に関する事柄に興味が強く、30年以上それらの領域の研究や調査をやってきたということだ。

高校で数学の教師をしていたのであるが、何故か武田信玄が好きで、それがきっかけで武田氏の歴史や甲斐源氏にまで、フィールドが広がって行ったということであった。

教職を定年退職した後は、もっぱら甲斐源氏や安田義定に関する調査や研究に費やす時間が増え、今ではそれが生きがいに成っている様であった。

藤木さんは毎年県の郷土史研究会の機関誌に、その年の研究成果を寄稿しており、研究会の中でも甲斐源氏に関しては一目置かれている存在だと、西島さんがほめていた。

 

二人の紹介をした後、西島さんは私に「荒木大学」と『大野土佐日記』について話すことを促した。

私はまず吉田霊源版の『大野土佐日記』の冒頭部のコピーを皆に渡した。昨日博物館で渡した現代語版と異なり、漢文で書かれている原書を読み下し文に翻訳・編集したものだ。

 

三人はその読み下し文をじっくりと読み始めた。誰も一言も発さず、静寂が続いた。

私は皆がコピーを読み終わるのを待った。

その間、富士山を眺めながら地ワインを楽しんだ。ワインは白でやや辛口であった。私の好みの味だ。

 

三人が読み終わったのを待って、私はおもむろに言った。

「皆さんのなかで、荒木大学という名前にお聞き及びのある方はいらっしゃいますか?」三人は首を振った。

「やっぱりそうですか、残念です。それではこのコピーをご覧に成って、どう思われました?」私はそう言って三人の顔を観廻した。

とりわけ藤木さんと久保田さんの反応を注視した。藤木さんが口火を切った。

「ここに書いてあることが事実だったら面白いですね、なぁ西島さんよ」藤木さんの振りに、西島さんは嬉しそうに、肯いた。

「甲州の金山衆が、鎌倉時代なんちゅう8百年も昔に蝦夷地まで行ったっちゅうこんが、ほんとにあっただけ・・」久保田さんは疑問を口にしたが、その眼は笑っていた。

 

「そうですよね、普通に考えたらそう思いますよね。今から8百年以上も前に、この甲斐の国から千㎞以上は離れてる北海道に、千人規模の金山衆が大移動したなんて、なかなか信じられませんよね・・」と私は相槌を打ってから、続けた。

「実際、明治大正時代の歴史学者達も同じように思って、この『大野土佐日記』は歴史書としては一顧だにする価値が無い、単なる私家の伝承物語に過ぎないと断定し、歴史的事実ではないと切って捨てたんですよね」私は続けた。

「この書物に関しては北海道庁が大正7年に作成した公文書でもある『北海道史』で、そのように扱われてから殆ど無視されて、地元の『知内町史』でさえ同様の扱いをしているんですよね」私はそう云いながら、ちょっと富士山に眼をやった。

 

「寂しいことです。定説を疑ったり、それに挑む勇気が欲しいですよね・・。私はこの吉田霊源さんっていう、知内の郷土史研究家の人が編集した書物を見て、もっとちゃんと検証してみる必要があるんじゃないかと想ったんです。

初めは函館の友人の問題提起から始まったことなんですが、私自身彼が送ってきた資料やレポートを読んで調べていく内に、ひょっとしたらと想うようになったんです」

 

「立花さんは、定説を疑いそれに挑む勇気があるっちゅうこんだね」西島さんが嬉しそうにそういった。

「ありがとうございます。暴虎馮河(ぼうこひょうが)の勇ではないと思いたいですがね、あはは。但し、そうはいってもここに書いてある事が全て正しい、と思ってる訳ではないんです。

昨日西島さんにも話しましたが、二代将軍源頼家に関する記述とか、大野了徳院が百五歳まで生きたとか、どうかな?と想える箇所も幾つかあるんです」私は一呼吸入れて続けた。

 

「他にも、甲斐之國いはら郡の件とか判らない点が幾つかあったんですが、西島さんの説明を聞いておかげさまでその問題は氷解したんです。安田義定の、源平の戦いでの活躍を聞いたりしまして、ですね。

それに例の大野了徳院という修験者を、先達(せんだつ)として蝦夷地にやって来たことも、西島さんのアドバイスで理解することが出来ました」私の説明がひと段落したのを待って、西島さんが補足した。

 

「荒木大学が『甲斐之國いはら郡』の領主である点についてはおまんとう(あなた達)も知っての通り、義定公の領地だったこんを考げえれば、造作もねぇこんズラ。

ほれにこの荒木大学が黒川金山の有力者で、富士金山の頭領でもあったとすればほれも同じこんじゃんな」と言った。

 

「ところで、暴虎馮河の勇って、何で?」久保田さんが尋ねた。

「ほりゃぁな、暴れてる虎に素手で立ち向かったり、中国の大河である揚子江を泳いで渡ろうっちゅう、無鉄砲なこんを指す中国のことわざさ。

ほれより何より、おまんとうも前っから不思議に思ってた、黒川金山の開発が義定公が頼朝に滅ぼされちゃってから、しばらくの間歴史の舞台に登場しなくなったこんが、この古文書に書いてあるとおりだったとしたら、ほの説明がつくじゃんな、どうだい?」西島さんは二人に向かってそういった。

「ここで書いてるように、金山衆がこぞって蝦夷地に大移動しちゃったとすれば、残された黒川金山も衰退しちもうズラ。

オレはほこんとこを、おまんとうに一番聞いてほしかっただ」そう言って、西島さんは二人の顔を見廻した。

西島さんの説明を聞いている藤木さんは、じっと何かを考えている様だった

 

 

 

 
 
 
 
 

蝦夷金山と甲州金山衆

 
 
「話は変わるけんが、義定公の家来が蝦夷地に行ったこんがほんとだとすると、山梨県と北海道の金山はよっぽど縁があるだね」と久保田さんが言った。

「えっ?どういう事ですか?・・よっぽどって言いますと・・」私は久保田さんの発言に、まだ何かあることを感じた。

「ほうさ、まだあるだよ。明治に入ってからのこんだけんが、塩山出身の明治の大実業家雨宮敬次朗がスポンサーに成って『雨宮砂金採収団』ってのを作って、北海道に送り込んだこんがあるだよ」久保田さんが説明してくれた。

「その雨宮敬次朗の砂金採収団より7百年近く昔に、おんなじ塩山の黒川金山の金山衆が、蝦夷地に行って金山の開発をやってたなんて、凄え偶然の一致ってこんじゃんね」久保田さんは続けた。

 

「へぇ、そんなことがあったんですか・・。でもその雨宮敬次朗さんはどうして、蝦夷地の金山や砂金のことを知ってたんでしょうか?黒川衆にそんな言い伝えでもあったんですか?」私はフト疑問に思って聞いてみた。

「そっちの筋じゃぁねえだよ。雨宮敬次朗はね、榎本武揚から聞いたさ。蝦夷地には手つかずの砂金や金山がいっぺぇ在るってこんをね」久保田さんが言った。

「えっ榎本武揚って、函館戦争のあの榎本ですか?」私は想わず耳を疑った。

「ほうだよ、あの榎本武揚さ。榎本は函館戦争が終わってから、明治政府に仕えただよ。ヨーロッパ留学をしていた彼の学識を明治政府が評価して、刑死させるのは惜しいってなったさ。ほれで北海道の鉱物資源の探索方の役人として登用しただよ。

榎本はお雇い外国人なんかと一緒に、北海道中を隈なく調査して廻っただよ」久保田さんは言った。

 

「ほん時に砂金や金山なんかを何ヶ所か発見して、蝦夷にまだ手つかずの金山があるこんを明治政府に報告してるだよ。ほん時の話を後んなって、親しくしていた雨宮敬次朗にもしたってこんだね。ほれで雨敬が動いただ。

雨敬にとって金山にまつわる話は子供の頃っから、ずっと聞かされてたこんで、身近な話だったに違えねえだよ。何んしろ塩山の人間なんだから・・」久保田さんが詳しく話してくれた。

「雨敬は塩山の出身だから子供の頃っから、おらんとう(おれ達)みたいに黒川金山の話を年寄りから聞かされて育っただろうね、やっぱり・・」と、藤木さんも続いた。

久保田さんの話を聞いていた西島さんが、

「さすが雑学の久保田さんじゃんね、あっぱれあっぱれ」と茶化し気味に褒めて、続けた。

 

「話を戻すけんが、藤木さんおまんはどう思うで・・、この古文書に書かれてるこんを」そういう西島さんの目は笑ってなかった。

「ふ~んほうだね・・、じっくり考えてみる必要がありそうだね・・」そう言って、藤木さんは一呼吸おいてから、続けた。

「西島さんよ、おまんの方こそこの荒木大学を一体どういう人間だと考えてるだい?」と、尋ねた。西島さんは、にやりとして言った、

「ほうだね、昨日立花さんから荒木大学のこんを聞かされてっから、オレが考げえたのはね、黒川金山の若い有能な幹部で義定公が眼を掛けてた、金山衆の有力者じゃぁなかったか、っちゅうこんさ」藤木さんは黙って西島さんを見つめ、目で先を促した。

 

「義定公が治承四年(1180年)の波志太山の戦いの後、駿河のいはら郡を実効支配しちまった時に連れて来たお人じゃぁねぇかって、想ってるだ。オレは」西島さんは藤木さんを見つめながら応え、話を続けた。

「義定公は牧ノ荘で自分がやって来て成功してた領地経営を、新しい領地のいはら郡でもやったんじゃねぇかって、ほう想ってるだ」

「具体的には?」短く藤木さんは、西島さんに尋ねた。

「具体的にはおまんも知っての通り、騎馬武者用の軍馬の育成と軍資金のための金山開発の可能性を探ったってこんだよ、いはら郡でね」西島さんは応えた。

「富士山麓のいはら郡は標高が高くて寒冷地だから、稲作や畑作の農作物には適していんけんが、義定公にすりゃけっこう宝の山かも知れんと、想ったんじゃねえかな・・。農作物はだめでも、軍馬の育成にゃぁ適してる場所じゃぁねえか、ってね。

朝霧高原を見てあれだけ平坦でだだっ広くて、寒冷地であるこんを考えれば、八ヶ岳の山麓や乙女高原で甲斐源氏がやって来たのと同じように、軍馬の畜産も育成も調練もきっと上手く行くだろうって考げえたと想うだよ」西島さんは更に続けた。

 

「ほれから義定公は荒木大学や黒川衆に、地元に伝わる伝説や伝承を聞いたり調べさせて、長者ヶ岳っちゅう山があるこんを聞いて、ひょっとして砂金や金が出るんじゃねぇかって考げえたりしたんじゃねかって、ほう想うだよ、オレは」西島さんの解説が終わるのを待っていたかのように藤木さんが、話しを継いだ。

「なるほどな、確かに富士金山のこんを考えるとそう云う考えもあり得るかな・・」藤木さんは西島さんの推論に賛同しているようだ。

「ん?富士金山の開発は、今川義元の時代のこんじゃぁなかっただけ」久保田さんが口をはさんだ。

「確かにおまんが言うように、世間じゃぁ今川義元の時代っちゅこんに成ってるけんが、今川義元の御朱印が残ってるからたまたまほういうこんに成ってるだけだよ。ほんだけんがオレも藤木さんもほんな風にゃぁ、考えちゃぁいんだ」西島さんが言った。

 

「と、言いますと?」私は西島さんに尋ねた。

「義定公は領地経営が上手で平安時代の末期には珍しい領主でね、当時の普通の領主とはだいぶ違っただ。田畑(でんばた)から上がる米なんかの農作物以外の収入を得るための経営を、積極的に自分の領地でもやってた、有能な領主だっただよ。

義定公は、田畑の農産物から上がってくる収入をベースにしながらも、軍馬の畜産や金山開発っちゅう、普通の領主なんかがやらんこんにも力を入れて、ほれを見事に開花させとうだから大したもんだよ」西島さんは誇らしげに言った。

「軍馬と軍資金による富国強兵、ですか?」私は呟いた。西島さんは肯いて続けた。

 

「プラスアルファがあっただよね、義定公の領地経営には。ほういうこんをやる領主は、当時はほとんど居んかっただから、珍しいだよ。

ほのくれぇ有能な領地の経営者なんだから、新しく確保した朝霧高原で軍馬の育成や、いはら郡で金山開発をやろうとするほうが当たりめえで、やらん方がかえって不思議なくれえさ、なぁ藤木さん」西島さんは自信をもって、そう云い切った。

「なるほど、そういう事ですか。そうすると現時点ではまだそれを実証するエビデンスが無くても、安田義定の領地経営の実績を考えればそう考えるほうが自然だと、そういうお考えなんですね?」私は西島さんの考えを確認する意味でそう言った。

 

「ほの通りだよ。・・ところでエビデンスって何で?」西島さんが聞いてきた。

「証拠っちゅこんさ」雑学の久保田さんがフォローしてくれた。

「西島さんの説は大胆な仮説だと思えるかも知らんけんが、俺も同じように思ってるだよ」藤木さんが続いた。

「そうですか・・。実は正直なところ私も同じ様に考えてまして、今現在物的・客観的証拠が無くっても、状況証拠がある程度揃っててそれが無理なく説明出来て納得できそうなら、それらを前提に考えを進めても良いんじゃないかって、そう思ってます」私が言った。

実際自然科学や人文科学の世界でも、目の前で起こっている現実を説明する理論や原理が確立して無くても、仮説を立てて現実に対応しておいて、後世になってから学者や研究者が論理的・客観的に、説明可能な理論や証拠を発見する事はよくある事なのだ。

 

「結局、後追いの証明でも構わないんですよね・・。だから現時点では仮説を立てて、その仮説の上に論理や考えを展開しても、問題ないのではないかって、私はそう思っています」私はそう言って、西島さんたちの考えと同じスタンスであることを話した。

とその時、レストランの中で大きな声がした。

 

 

 

 

           

 

 

 


 

安田義定四天王

「馬鹿いっちょし!」

私達は声のするほうを見た。女性の声だった。そこでは40前後の男と彼より三つ四つ若いと思われる女性が、口論をしていた。

男性は周りをキョロキョロ見廻し、しきりに辺りを気にして女性をなだめていた。

 

その様子を観ていた西島さんが、

「若いじゃんね、羨ましいじゃんね」とニヤニヤしながら言った。

西島さんは二人の間で何が問題になっているかは殆ど気にしてないようで、そんなふうに言い争っている彼らの関係や、彼らのそのエネルギーを羨ましく思ったのかもしれない、と私は感じた。

60を過ぎると感じ始めるのだが、彼女の様に周りを気にすることなく自分の感情を、口走ってしまうなんてことは滅多にやらなくなるのだ。そんな事が出来るのは、ある種の若さの特権だからだ。 

歳を重ねると無意識のうちに周囲に気を使い自制してしまって、彼女のように感情に任せたまま自分の気持ちを口走る様なことは少なくなる。

それは大人に成るということでもあり、同時に寂しいことでもあるのだ。人生の晩年に差し掛かった今の私達には、彼女のような若さやエネルギーは既に持ち合わせていないのだ・・。

 

私達は皆表情がなんとなく緩やかになっていた。

「話を戻すけんが」西島さんはそういってから続けた。

「藤木さんにゃぁめえ(前)っから言ってたけんが、富士金山を室町時代から明治時代っ頃まで担ってきた人ん中に、安田義定公の(家来の)四天王って言われた人の子孫と思われる人が、居るだよ」

「ほう、そうなんですか・・・」私はそう言いつつ、目で西島さんに先を促した。

 

「室町時代っから富士金山を代々守ってきた金山開発の頭領に、竹川家っちゅうのが朝霧高原の『ふもとッパラ』に居るだよ。毛無山の麓にね・・。

ほれと同じ苗字の人間が義定公の四天王と言われる人ん中にも居るさ。オレはほりょう金山衆の同族の人間じゃぁねぇかって、密(ひそか)に想ってるだよ」

 

「『ふもとっパラ』ですか?」私は尋ねた。

「ほうだよ毛無山の麓のね。毛無山って言っても山梨県側じゃあねえよ、反対っ側の静岡のほうだよ。昨日の下部温泉の反対っ側だねちょうど。

で、ほの竹川家の人間がオレが推測するように、義定公にゆかりのある人間だとすりゃぁ黒川金山の金山衆につながる、ってこんさ」と西島さんは言った。

「西島さんが前っから言ってる、穴山梅雪の出した古文書に名前が残ってる人のこんだね。その竹川家の衆は」藤木さんが言った。

「ほうだよ、天正十八年西暦の1590年に穴山梅雪が書き残した古文書に載ってる人で4百年以上経った今でもその子孫は毛無山の麓に居て山を管理しているだよ」西島さんが応えた。

 

「その人は堀子なんかとは違うんですか?」私は西島さんに尋ねた。

「竹川家は富士金山に代々関わってきた竹川肥後守の子孫と言われてて、武士と同じ名字帯刀を許された家柄さ。ほれも中級以上の家格のね。毛無山だって竹川家が個人で所有してる山なんだから・・」西島さんは手帳で確認してから、そう応えた。

「ほんだけんがその穴山梅雪の古文書だって、戦国時代の末期のこんズラ?鎌倉時代の初めっからじゃぁ3百年近く経ってるじゃんけ。ほこんとこはどう思ってるですか・・」久保田さんが西島さんに聞いた。

「うん、ほの古文書には『いにしえより伝え来し・・金山衆、麓衆、大宮司一統に申し寄するの旨ある、古文書等所持せり、といへり』っちゅうようなこんが書いてあるだよ」西島さんはさらに話を続けた。

「ほの戦国時代末期の時点でも『いにしえ』っちゅうくらい、昔っから伝わってた古文書を持ってる、っちゅうこんに成ってるだよ」西島さんはもう一度手帳を見ながら応えた。

「具体的な年号とかが、書いて無いのが残念だわネ」藤木さんが言った。

「金山衆、麓衆、大宮司ですか・・。いずれも昔の『甲斐之國いはら郡』に当たる地域ですか?因みに大宮司ってのは『富士宮浅間神社』の事なんですかね・・」私は誰に言うとでもなく、つぶやいた。

「まぁほういうこんだね」西島さんが応えた。

 

「ところで今更なんだけんど、今の富士宮や富士市辺りは『富士郡』であって『いはら郡』とは違うじゃねぇだけ?」久保田さんが、疑問を呈した。

「ほりゃね久保田さんよ、こういうこんさ」藤木さんはそう言って説明を始めた。

「平安時代の頃っから今の、駿河地方は庵原氏っていう豪族が治めていた土地だっただよ。

それで庵原郡っていうだけんが、鎌倉・室町や徳川の時代に成って駿河之國の守護や地頭・豪族が現れては、消えていくっていう過程を経る中で、庵原郡もだんだん小さく成ってしまっただよ、分割に分割を重ねて行ってね。

だけんど、歴史を遡ればさかのぼる程、庵原郡であったエリアはもっと広かった、ちゅう訳さ」藤木さんの解説に私は、閃いて言った。

 

「それは武士の時代に成って開墾や開拓が進んだり農業の技術が進歩して、農業の生産性が上がったことも影響してるんでしょうかね?古代から中世、近世と時代が下るにつれて・・。

それと先ほど西島さんが言われた様に、富士のすそ野は高地だから農業の生産性が低くやせた土地と評価されていた事にも、依るかもしれませんね・・」と私は頭に浮かんだことを口にした。

「まぁそう云うこんもあっただろうし、守護や地頭・豪族って言った人達も領地を子孫に分割移譲を繰り返すことで、だんだん細分化されたってこんも背景にはあるでしょうね」藤木さんは私の説を否定することなく、説明してくれた。

「ところで俺はめぇっから、義定公の四天王の竹川氏が富士金山の竹川家と何らかの関係があるんじゃねかって、直感的に想ってたけんがこの『大野土佐日記』を見て、改めて思っただよ」西島さんが言った。

「と、言いますと?」私は西島さんに、尋ねた。

「竹川家の先祖は荒木大学なんかと一緒に、富士金山や黒川金山に関わってきた黒川衆を統括する有力者だったんじゃないかって、ね。

ほうだったけんが、荒木大学達とは一緒に蝦夷地には渡らず、敢えて富士の裾野に残留した人間じゃねぇかって、考えただよ」西島さんが続いた。

 

「なるほど・・、でももしそうだとしたらその毛無山の麓の竹川家の一族は、どうして荒木大学達と同じく蝦夷地を目指さなかったんでしょうか?」私は西島さんに疑問をぶつけた。

「ほうだね、まぁ考えられるこんとしてはよっぽど富士のすそ野が気に入ってたってこんかな、あはは」西島さんは、軽く冗談を言って続けた。

「義定公の後の、新しく来た領主北条氏との関係が良かったのかもしれんじゃんね。

ほれから、鎌倉幕府に怪しまれんように本家筋の人間を残したとか、万が一のために黒川衆の血筋やノウハウを絶やさんために残留する、って考えたんかも知れんじゃんね。まぁ、いろいろと考げえられるだよ・・」

「朝霧高原辺りから見る富士山はほんとに雄大で立派だよ。ほれを眺めて暮らしてるだけでも幸せな気分になるのは、判らんでもねぇじゃんね、えへへ・・」久保田さんが幸せそうな顔でそう言った。

 

「まぁ久保田さんの気持ちは判るけんが、実際似た様なことが江戸時代の黒川金山でもあったさ。黒川金山の金が採れなくなった頃に、同じようなこんがあったですよ」藤木さんが話しを戻した。

「黒川の金が枯渇したとか、ですか?」と、私が尋ねた。

「厳密に言えば、武田勝頼の頃っから産出量そのものは減ってたですよ。それが家康・秀忠の頃に成って、だんだん採れなくなって、先細りになったですよね。

それからですよ、金山衆が黒川を離れ分散・分岐し始めたのは・・」藤木さんは、一呼吸おいて話を続けた。

「ある者は幕府金山奉行の大久保長安に仕官して、金山開発専門の技術者として幕府の武士に成る道を選んだ。

またある者は配下の金山衆を率いて、石見銀山や佐渡金山なんかの全国に在る金山や鉱山に散って行って、金山開発の技能者としての道をまっとうした人もいた。

更には、金山開発の道そのものを捨てて、直接金山開発とは関わらない道を選んだ人もね・・」

 

「具体的にはどの様な・・」と私は尋ねた。

「具体的にはですね、金山開発で培った技術やノウハウを活用して、土木や治水治山事業の専門家として、諸藩に登用されたってことですね。

水戸藩に作事関係の武士として登用された、永田茂衛門の例がそれにあたるですよ」藤木さんが説明してくれた。

「ほういう多様な選択肢がある中で、黒川を捨てて新たな道を求めた衆とは違って、ほのまま黒川に居残った衆もいただ。ちょうど富士金山の竹川家みたいにな・・」藤木さんをフォローして、西島さんが続いた。

「昇仙峡辺りで水晶なんかの貴石を採掘した人らも、金山で食っていけなくなった衆が鉱山の技術を活用して始めたんじゃぁねぇか、っていう説もあるだよね」久保田さんも話に加わった。

「なるほどね、そういう事ですか・・。金山衆は鉱山の技能集団だから、農民とは違って土地への執着が少なかったんでしょうかね。

でもまぁお話の様に、黒川や富士に固執しないでそれまでの生産地に留まらずに、分散したってことの方が、僕的にはなんだか理解出来るし共感も出来ますね。そのまま黒川に留まった、っていうよりね・・」私は、故郷の山梨を飛び出して東京に定着した父親のことを、少し思い出した。

 

「おんなじ様なこんが、安田義定一族滅亡後の金山衆にも起こったじゃねかって、オレは考げえただよ。原因は全然違うけんがね」西島さんはさらに続けた、

「徳川時代の黒川衆は、金山が枯渇したから仕方なく故郷を捨てたんだろうけんど、鎌倉時代の黒川衆の場合は、敬愛する領主を自害に追いやった鎌倉幕府の御家人や幕府の頼朝への反発が原因で、故郷を見限ったんじゃねえかって、思うだよね。

金山衆は義定公一族の滅亡後にやって来た、討伐軍の張本人の梶原景時や北条氏に連なる新領主のために仕えるこんを、潔く思わなかった、ほう思ってた金山衆がいっぺぇ居たと想うだ。義定公に恩義を感じてた金山衆がね」西島さんは顎のひげをさすりながら話を続けた。

 

「ほういう時富士金山の頭領である荒木大学んとこに、自分とこの領民の例の水炊きが蝦夷地からでっかい丸かせ、まぁ金塊だよねほれを持って来て、大学に見せたんじゃねえかってね。

更に詳しい話を聞いてみたら、ほのほかにもまだ丸かせや砂金がいっぺえあった、なんちゅう話をほの水炊きから聞かされて、気持ちが動いたじゃぁねかってね。

未開拓の蝦夷地にある豊富な金山の存在を知って、荒木大学をはじめとした金山衆が自分達の新しい働き場を、遠く離れた蝦夷の地に見出したんじゃねぇかって想っただよ。生まれ育った甲斐や慣れ親しんだ富士の麓を捨ててね・・」

「ほう言うけんがね、俺はほういう気持ちはもちろん心の底にあったとは思うけんが、ほれだけでも無いんじゃないかって思うよ、西島さん。

やっぱりね、金山衆は鉱山開発の技能者だから、金の産出が続いてる間はそこに留まったんじゃねぇかって、思うさ」藤木さんが異論を唱えた。

「とすると・・」私が呟いた。

「やっぱりね、黒川金山や富士金山でも、それまでの金鉱から金が採れなくなったんじゃねぇかって、ほう想うさ」藤木さんが続けた。

 

「あっ、そう言えば同じような事が、蝦夷地に渡った荒木大学にもありましたよ、確か・・」私の発言に皆が注目した。

「いや、この『大野土佐日記』に書いてあったと思うんですが、荒木大学が初めに館を構えた『毛無嶽』の金が十数年で枯渇してしまって、新たな金鉱を探し回って運よく千間岳の麓に金鉱を見つけ、そちらに拠点を移したと・・」私の説明に、藤木さんは大きく頷いた。

「ところでほん時は斥候っていうか、事前調査をする人間なんかも派遣してほの水焚きの話を、検証したりしたズラかね?」久保田さんが西島さんに尋ねた。

「ほりゃほうさ、話を鵜吞み丸呑みにして大挙して蝦夷地に行ってみたはいいけんが、直ぐ採り尽くしちもうと思われる程度の埋蔵量しか無ぇ様だったら、目も当てられんら。

大挙して出かける価値が無かったら、千人以上の規模では行かんさ」西島さんは更に、続けて言った。

 

「ほれだったら、何人かをちょっとの間、蝦夷に派遣すればほれで済むじゃんか。この古文書に書いてあるみてえに千人規模の人間が行くって言ったら、大変なこんだよ。

金山衆の主力が一族郎党を率き連れて行くってこんだから。相当な覚悟がいるだよ。ほれだけ慎重にやったに決まってるさ。

なんぼ新しい領主に恨みがあったとしても、住み慣れた場所や故郷を捨ててまでして行くだから、慎重に事前準備を重ねて覚悟の上で、蝦夷地まで行ったに違えねぇだよ・・」西島さんは言った。

「そうでしょうね、まして金山衆は鉱山開発の技能者だから、職業柄そう言った点に抜かりはないでしょうね。事前準備はしっかりやったでしょうね。それだけの価値がある金山である事を、事前にしっかり確かめた上で蝦夷地に渡ったと、その方が自然ですよね・・」私は言った。

 

「ほんだけんがこの古文書を読んだ感じじゃぁ、あまり計画性がないまま蝦夷地に行って、アイヌの美女に教えてもらったように書いてあるじゃんね・・」久保田さんがつぶやいた。

「まぁそれは、大野了徳院には詳しい話をしなかったのかもしれませんよ、荒木大学は・・」私は久保田さんにそう応えた。

「金山まつりを執り行うためだけに連れて来られたと、思ってたみたいですから・・」私の応えに、西島さんは肯き突然話題を替えた。

 

「ところで、そろそろ腹が減ってこんけ?こんなおつまみばっかじゃ・・」西島さんはオードブルを顎で指しながら、もっとお腹にたまるものを取らないかと提案した。

「ワインも1本開けちゃったしね・・」久保田さんも続いた。

そこで私達はメインディッシュをオーダーすることにした。

 

久保田さんが推奨した『馬刺し』や『甲州牛』の肉類を頼むことにした。

ワインはもちろん赤で、勝沼産にした。銘柄はさっきと同様勝沼ワインに詳しい久保田さんの推奨銘柄になった。

パンについても久保田さんは、葡萄酵母を使ったパンが美味しいから、としきりに勧めるので葡萄酵母パンにした。

 

葡萄酵母のパンについて私は10年ほど前にガールフレンドと、勝沼の『ぶどうの丘』のレストランで食べたことがあり、なじみがあった。

ほんのりとしたぶどうの香りが染みた酵母パンは美味しくて、お土産に買って帰ったことを思い出した。

 

 

 

 

    「安田義定の四天王」 (『甲斐源氏 安田義定』 清雲俊元著1984年刊行

     橘田氏

     竹川氏

     岡氏

     武藤氏

 

上の四家は安田義定の四天王と言われており、旧牧丘町小田野から旧塩山市にかけての安田之荘といわれた周辺に良く観られる苗字である。とりわけ「岡氏」が多いという。

「武藤」の姓は八代郡の市川周辺に多いことから、武田氏の先祖が常陸から甲斐に流れてきた時以来の、伝統ある家臣なのかも知れない。

また義定公が遠江を支配した当初、地侍の浅羽氏や相良氏が義定公に無礼な振舞いをした時、鎌倉幕府にその時の状況を報告に行ったのが、武藤五郎であったと『吾妻鑑』に記載されていることから、武藤氏は義定公の「遠江之國」の目代(代官)だったのかもしれない。

 

 

   水戸藩藩士加藤寛斎が黒川衆の「永田茂衛門」に関して書き記した所伝 

              『甲斐黒川金山240ページ(塩山市教育委員会編1997年)

                                   

  永田家の家祖茂衛門は)甲州黒川に住す、肥前島原一揆起こりし時、黒川

     から出て御味方ニ属せんことを願ふ、御許容無之内、一揆落城、

  天下の砂金穿方免許ありと国々山川の金銀銅鉄を穿ツ、

  寛永末年(1645年)源威公様(水戸藩藩祖徳川頼房公)御威風を慕ひ、当国に来り

  金山を見立穿方を勤む、且水術に達せしを以て召て嫡子勘衛門共に用水

      の工夫をなす、

  万治二(年、西暦1659年亥五月没、

                                          

   

 

 

 

 




〒089-2100
北海道十勝 , 大樹町


 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
]