春丘牛歩の世界
 
先週から、「行者ニンニク」が採れる様に成り、我が家の食卓にも乗るようになった。
行者ニンニクが採れる様に成ると、今年の春がやって来た事を実感する。
これまでの私の経験では「行者ニンニク」が生えてきてから、雪が降ったことは無いから、である。
 
 
      
 
 
野生の昆虫や動物たちが作る巣の位置で、颱風の影響を早い時期に推測できることがあるが、自然界の生き物たちは彼らなりのセンサーで、天候や自然現象を察知する能力がある。
そんな事から私は、「行者ニンニク」が我が家の林に生え始めることを、季節の到来のメルクマール(指標)にしているのである。
 
 
      
 
       
         
 
     
 
 
    記事等の更新情報 】
*4月19日 :「コラム2024」に、「青い春」と「チャレンジ虫」を追加しました。
*3月25日:「相撲というスポーツ」に「新星たちの登場、2024年春場所」を公開しました。
*2月8日:「サッカー日本代表森保JAPAN」に「再びの『さらば森保!』今度こそ『アディオス⁉』を追加しました。
*01月01日:本日『無位の真人、或いは北大路魯山人』に「無位の真人」僧良寛、或いは・・を公開しました。
これにて本物語は完結しました。
12月13日:  『生きている言葉』に過ぎたるはなお、及ばざるが如し」を追加しました。
*9月29日:「食べるコト、飲むコト」 に「バター炒め二品 」を追加しました。
*9月27日;「物語その後日譚」に「奥静岡の鶏冠(とさか)山」を、追加しました。
 
 

  南十勝   聴囀楼 住人

          
               
                                                                  

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         2024.05.01
              牛歩
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
   
      

 

2022年がいよいよ始まりました。
コロナも今年で三年目ですが、これまでのウィルスとは明らかに異なる新種の様な気がします。
この新種が人類との共生に向け「弱毒化」することを期待しているところです。
 
新型コロナの「オミクロン株」に世界が揺れ動いています。果たして今年がどんな展開になるのか皆目見当もつきません。よい方に転んでくれると好いのだがと想っている年の初めです。
という事で今年のコラムをこのページで、スタートさせることとしますので、宜しくお願いします。
 
 
 
 
               <  目 次 構 成  >
 
                  
            10.冬至と火祭り        (12.16)
                                    9.「百貨店」という存在              (11.23)
            8.プーチンへの誕生プレゼント (10.14)
            7.2022年の「終戦記念日」    (08.15)
            6.政治家と宗教団体        (08.06)
            5.ありがとう⁉イヴツァ・オシム  (05.09)
                                    4.知床遊覧船の事故        (05.03)
                                    3.プーチンの戦争           (03.27)
            2.「二十四節気」の「弁証法」  (01.21)
            1.おてんとう様                     (01.04)
 
 
 

 

 
  
 

 冬至と火祭り

 
年も押し詰まり、街にクリスマスソングが響き渡り、お歳暮などが毎日の様に届いたりすると、「今年ももうすぐ終わるんだな・・」といった気持に成って行く。
 
日を追うごとに日没が早まり、日の出がゆっくりと遅くなって行くと「冬至」の到来が待ち遠しくなる。
「冬至」というゴールが、目の前にチラチラしてくるともうすぐ冬の極みが訪れ、そこを折り返し地点に温かい春にと向かって行くことが予測出来て、何となく心が温かくなって行くからであろう・・。
 
 
その「冬至」があと一週間足らずに迫って、私は先月久しぶりに本州に取材旅行で行った時に得た情報を思い出している。
それは「日奉(ひまつり)」に関する事である。
 
私は今、安田義定公の重臣であった「武藤五郎」について深堀し始めているのだが、その武藤五郎に関連する情報が武蔵之國の武家集団の中に、隠れ潜んでいるのではないかと期待を込めて「武蔵七党」に関する調査をこの秋から始めたところである。
 
というのも「武藤」の姓は「武蔵之國の藤原氏の末裔」や、「藤原氏の内『武者処』などの業務を担当した氏の末裔」といった事が伝えられているからであり、そのなかで私は武蔵之國の武家集団である前者に的を絞って、調べる事にしたわけである。
 
 
「武蔵七党」の内、高名な「秩父党」や「児玉党」「横山党」は、どうやら関係が無い事が判りかけた時に遭遇したのが、「西党」と呼ばれる武家集団である。
 
「西党」とは武蔵之國(現在の東京都+埼玉県のエリア)の「鎌倉街道上道」の西側に位置し、多摩川を挟む両岸のエリアを拠点にして拡大して行った、郷主や御家人の武家集団のことであり、「平山氏」や「由井氏」「立河=立川氏」「小川氏」「狛江=駒江氏」といった氏族が有名である。
 
そのエリアに拡大した「西党」の、各氏族の源というか大本に成ったのが「日奉(ひまつり)党」の「藤原宗頼」であった。
 
 
 
          
               「西党」は「鎌倉街道上道」の西側を拠点とした武家集団
 
 
 
「藤原宗頼」は藤原兼家の嫡流である「藤原道隆」の孫にあたる人物であるが、父である「藤原道頼」が弟の「藤原隆家」の事件に連座し、朝廷から一掃された煽りをうけて京の都を追われ、遠国である武蔵之國に配流された、という経歴を持っている。
 
時代的には「藤原道長が栄華を極めた」11世紀初頭より4・50年後の平安時代中期の頃であったようだ。
 
その「藤原宗頼」が配流された武蔵之國で娶ったのが、武蔵之國の「在庁官人」の有力者「日奉(ひまつり)氏」の太夫=氏の長者の娘であった、という。
 
一族の不祥事で朝廷での出世が望めなくなった「宗頼」は、配流された武蔵之國で地元の有力者と縁を結び、その後ろ盾を得て、武蔵之國で生き残る道を選んだわけである。
 
さて前置きが長くなったが、その「藤原宗頼」と「日奉氏」の娘の間に生まれた子孫の末裔が、後の「日奉党」という武家集団を形成する「日野日奉氏」であった。
 
 
「日奉(ひまつり)」という氏族は、「日を奉(たてまつ)る」という祭祀を司どる職業集団で、太陽神を中心とした天候や気候について従事する天文系祭祀の専門職で、そのルーツは大陸に求められるのだという。
 
『日本書紀』などによると、6世紀の敏達天皇の時代に朝廷に「舎人(とねり)」として取り込まれた役職の様なので、伊勢神宮が天武・持統天皇によって天皇家の先祖神として取り込まれた7世紀末より、150年近く前から朝廷で太陽神を祀った宗教儀式に携わっていた氏族、というポジションに位置づけられる。
 
 
その「日奉氏」は、朝廷の在った奈良を中心とした「大和」「山背」の畿内を始め、「筑後」「豊前」「肥後」といった九州地方や「飛騨」「越前」といった北陸や中部地方と共に、「上総」「下総」「武蔵」といった東国にも派遣されたのだという。
 
私はその事を知って、8世紀に聖武天皇が行った「国分寺」や「国分尼寺」の建立事業を思い出した。
それら国家鎮護の寺院が新たに獲得した辺境の新属国に対して、奈良の朝廷の威力や威光を誇示し行き渡らせるために、建立されたことを連想したのであった。
 
 
そういった国家建立の仏教寺院が担ってきた役割と同じ役割を、この神道系の「日を奉る」祭祀集団が二百年近く前の6世紀の敏達天皇の時代から、担っていたのではなかったか、と連想したのである。
 
即ち仏教が日本に入り定着する以前の6世紀に、朝廷が蛮族の棲む地とされた当時の「蝦夷地の国」に対して行ってきた、宗教政策の一端の担い手がこの太陽神を祀る「日奉氏」ではなかったか、と理解した。
その様に解釈することで、この氏族の存在意義や立ち位置を識ることが出来るのであった。
 
 
その「日奉」氏の一部族が武蔵之國にやって来て、その役割や任務を全うした地域が武蔵之國の国衙(=現在の県庁)が在った、今の東京都府中市近郊だったようである。
 
即ち「日奉氏」は国衙に近接する地域に拠点を確保し、その周辺部に生息し、国衙の行う国家行事の内の祭祀という重い役割を司どってきたのではないか、と考えることが出来るのである。
 
その6世紀から時代を経るにつれて彼らは、地方官僚の有力者である「在庁官人」の一翼を担うように成り、武蔵之國で力をつけて来たのではなかったか、と推測出来るのだ。
 
 
そしてその武蔵之國の地に五百年以上経って、都を追われて配流されて来たのが、かつての藤原氏の権力の中枢に居た、嫡流の子孫である「藤原宗頼」であった。
 
その彼が武蔵之國の「日奉一族の有力者」である「日野日奉氏」と縁戚関係を結んで定着し、発展して行ったのが後の「西党」と呼ばれた「日奉党」だった、という事に成る様である。
 
 
そういった背景を持つ「日奉氏」が国衙の祭祀として行ってきた主要な行事の一つに、「火祭り」があるのだという。
 
全国的には今でも数多くの「火祭り」があるのだが、かつて「日奉氏」が担ってきた「火祭り」の神事の中に、「冬至の火祭り」があったのではないかと推察できるのである。
 
何故「冬至の火祭り」が大事なのかというと、「冬至」は一年で最も太陽の力が衰え、日照時間が少なくなる事から、その祭祀を執り行う必然性があるのだという。
 
そしてこの大切な神事は、「日奉氏」という太陽神を中心とした祭祀を担い執行し、司どる氏族にとって将に本領を発揮すべき、ハレの舞台であったはずだろう
 
 
「太陽を中心とした気候や天候を司る祭祀集団」という「日奉氏」にとって、一年で一番太陽の力が衰える「冬至」の日に際して「復活」と「再生」を祈り祈念する神事は、実に重要で、欠くべからざる重い神事なのである。
 
神様である太陽に対し「祈り」「奉り」大掛かりな「火祭り」の神事を行なうことで、「元気づけ」「力を与え」衰えつつある太陽神の力を「発奮させ」「回復させる」役割を担う神事に、太陽神に関わる宗教人としての彼らの存在価値があるからだ。
 
その「冬至」の宗教行事として行われていた中心行事が、将に「冬至の火祭り」だったという訳である。
 
 
国衙を中心としたエリアで「日を奉る」という宗教行事を執り行う、宗教集団「日奉氏」が中心になって、「冬至」頃に執り行われる「お祭り」=「火祭り」という宗教行事の持つ、意義なのである。
 
ところが残念な事に、奈良時代や平安時代には執り行われていただろうと想われる「火」の「お祭り」は、今では残存していないのである。
 
武蔵之國の国衙周辺では小正月の「どんど焼き」を除いて、「火に関わる」大きな行事や神事は継承されておらず、今では執り行われていないのだという。
 
 
 
           
           日野宮神社の「どんど焼き」、日野市では小正月に
             市内の16か所でこの行事が執り行われる伝統があるという。
 
 
因みに武蔵之國「日奉氏」の本拠地といわれているのは、現在の「日野市」であったとされている。
 
現在の日野市栄町二丁目にある「日野宮神社」の存在がその根拠で、当該神社の祀神は通称「日野宮権現」と呼ばれている「藤原宗頼」とその嫡孫「宗忠」であり、それが決め手になっているのだ、という。
 
即ち「日奉氏」の家祖と云ってよい二人が、この神社では「神様」として祀られているのである。
 
 
又「日野」の地名の由来は、この「日野宮神社(かつては日之宮神社と呼ばれていたという)」のある場所、といった事に依るという説が有力視されている。
 
その「日奉氏」ゆかりの地「日野」周辺で、「火祭り」という神事が残っていないというのは、誠に残念な事である。
 
 
私は武蔵之國の日野地区で、かつて行われていたという「日奉氏」の「火祭り」の神事の存在を知って、遠州浜松市の「旧春野町」に伝わる「秋葉山本宮神社」で毎年行われる「火祭り」の神事を思い出した。
毎年12月15・16日に執り行われる「火祭り」の事を、である。
 
やはり「冬至」に近いこの時期に行われる「火祭り」という神事は、衰え行く太陽の力を「回復」「再生」させるために、「日=太陽神」を「奉る」事が目的の神事でなかったのではないか、と推察されるからである。
 
 
また冒頭述べた「武藤五郎」が安田義定公の領国遠州、遠江之國の目代(代官)であった事や、「秋葉山本宮」の「火祭り」が、鎌倉時代に禰宜の「市川氏」によってもたらされ始まった、という伝承も積み重なって、私には益々そのように思えてくるのである。
 
更に「武藤氏」という氏族が「武蔵之國の藤原氏の末裔の名称」という説を採用すると、
「武藤五郎の一族」の名前が、父親の「武藤頼平」であり長男が「太郎頼忠」次男が「小次郎頼資(すけ)」である事が示すように、「頼」の字が一族の名前の証しとして伝承されている点も気になってくるのだ。
 
何故ならその「頼」の文字が私には、「日奉氏の家祖」である「藤原宗頼」を連想させるからである。
 
 
いずれにしてもこれらの想いや問題意識は、あくまでも私の妄想に過ぎず現時点では、根拠の無い想像力の産物でしかない事は承知している。
 
しかしながら「武藤五郎」の出自を調査し探索するためには、「藤原宗頼」や「日奉党」について調べたり追い続ける事には意味があるのではないか、と想っているのである。
 
と同時に、武蔵之國の「火祭り」と「秋葉山本宮」の「火祭り」の神事との関連性に関しても、引き続き調べてみたいと想っている。これらの神事に「武藤五郎」や「日奉党」がどのように関わってくるのかも、併せて調べてみたい、と想っている。
 
 
一日ごとに寒さが募る夜にペレットストーブに当りながら、冬至にゆかりのある「柚子」を使った「ゆずサワー」を飲みながら、つらつらとそんな風に想っている次第である。
 
 
 
              
               12月15・16日に行われる秋葉山本宮の「火祭り」
 
 
 
 
 

 百貨店」という存在

 
先日、IYホールディング(IYHD)というイトーヨーカドー系の商業系デベロッパーが、自社の事業会社である「そごう西武百貨店」をアメリカ系の投資ファンドに売却することで合意した、といったニュースが流れて来た。

そしてその投資ファンドは、駅前型ディスカウント大型店の「ヨドバシカメラ」をも所有しており、どうやらIYHDから取得した「西武やそごうの百貨店の店舗地」をヨドバシカメラに転換するという計画になっているらしい。

M&Aという資本主義経済の基本的な枠組みの結果起こった事ではあるが、誠に残念なニュースであった。

 

その百貨店という商業施設及び業態は、逆風にさらされて既に久しい。

私の様な昭和の「三丁目の夕日」時代に生まれ、育った世代にとって百貨店というのは、誠に輝かしい商業施設であった。

かつては、である。

地下から地上に掛けて7層も8層も広がる商業空間は、それぞれのフロアにおいて別々の顔を持ち、陳列してある商品を通じて様々な生活シーンや情報を提供し、高度経済成長期の真っただ中に居た私達に、大きな夢を見させてくれたのである。

地方の田舎町で育った私にとってその「百貨店」という空間は、一度も行った事の無い東京や大阪といった大都会で流行っている商品群や、先進地であった街から伝わって来る流行商品を身近に体験することのできる、殆ど唯一といってよい商品閲覧会場であり、情報発信基地であった。

 

それから高度成長経済という数十年の時を経て社会が成熟してくると、「ファッションビル」や「駅ビル」というそれまでに無かったタイプの商業施設が登場した。

それら新業態の商業施設は若者たちを中心に支持され、その結果それまでファッションリーダーや情報発信基地であった百貨店の優位性が崩れ始め、それ以降後塵を拝したままの位置が定着してしまった。

想えばこの頃から百貨店やGMS(大規模総合スーパー)の凋落がゆっくりと進行していたのである。それは1980年代の事であったか・・。

 

更に21世紀の平成年代に入ってからまた新しい商業業態が日本でも登場し、定着していった。アメリカなどでよく見られた「ショッピングモール」である。

この「ショッピングモール」という空間的にも機能的にも、非常に良くできた商業施設/業態が登場するに及んで、ついに百貨店やGMSは過去の遺物となってしまった。

 

20代後半から40年以上商業施設の開発に携わるようになった私は、この間の商業業態の推移を当事者の一人として見守って来たのであるが、その間はズッと百貨店やGMSという業態は、常に大きな存在であった。

昭和40年代から60年代にかけて、日本の商業界を牽引してきたのは明らかに、百貨店やGMSであった。

時代が高度経済成長の真っただ中という事もあって、当時の日常生活のちょっと先を行くこれらの商業業態がもてはやされて来たのである。

 

地方から大都市への人口の大移動という大きな流れの中にあっては、百貨店やGMSから供給される、他者と同一の商品=ナショナルブランドを自らが所有し獲得することは、私達の様な地方出身者にとっては周囲との同質化を意味し、同じグループの仲間入りする事を意味していたのであった。

そしてそれらを提供し続けた商業施設がこれらの業態であり、その成功のビジネスモデルは「大量生産/大量供給/大量消費」であった。

その際のキーワードは「同質化」であり、「ナショナルブランド」「総合性=ジェネラリティ」であった。

 

                

 

ところが一定水準の商品供給が安定的に続き、広く浸透すると別のエネルギーが湧き起こるようになった。

今度は他者との「差別化」や「個性化」が求められ始めたのである。即ち「同質化」から「差異化」「専門化」への方向性の質的な転換である。前述の「ファッションビル」「駅ビル」「専門大店」がそれらを担って来た。

 

その時点では少なからぬ生活者が「他者と同じ」ではなく、「他者との違い」「より深い専門性」を求めだした。その流れを支持し牽引したのはやはり若者たちであった。

更にベイシックな生活用品が一定量普及し、幅広く行き渡ったことによって、「新たな価値を付加した商品」に対して、目が向かうようになった。

 

その際のキーワードは「おしゃれ=ファッション性」「自分らしさ=個性」「オリジナル=独自性」「商品の有する専門性や深さ」といった、人の「嗜好性」や「こだわり」につながる価値の追求であり、「新たな価値観」の追求であった。

業界ではそれを現すために「テイスト=感性」という言葉がもてはやされるようになった。

そしてこれを最も明確に打ち出した商業施設が、「ファッションビル」であり「駅ビル」であり「専門大店」だった。パルコ/ラフォーレ・ルミネ/・東急ハンズ/ロフト等がその代表例である。

昭和の終盤から平成にかけての時代の事である。

この時点でGMSや百貨店は時代をリードする商業施設ではなくなった。これらの新業態の普及と定着によって、主役が交替し始めたのである。

 

そんな中で21C の平成になると、新たな商業施設が誕生するようになった。前述の「郊外型ショッピングモール」の登場である。

その動きは駅前や繁華街といった都心部よりも地方都市や郊外地区で始まり、そこから実験的にスタートし広まり、普及して行った。その際のモデルはアメリカの「ショッピングモール」であった。

広大な土地にたっぷりの駐車場を確保し、せいぜい2・3層という低層階で展開される商業施設は、物販商品の提供であると共に、コト=イベントの提供や空間的な広がり/快適さを売り物にした商業空間である。

 

日本でこのショッピングモールを積極的に推進し展開してきたのは、主としてイオングループであり三井不動産であった。

前者は「イオンモール」として展開し、後者は「ららぽーと」というブランドで展開された。現在もなおそれらの業態は、日本各地やアジアのマーケットで先端的な商業施設として、活発に展開されている。

現時点では最も旬な商業施設であり、完成度の高い業態である。

 

                                  

 

そしてこれらの「ショッピングモール」の隆盛が、都心部/繁華街における百貨店業界の衰退を引き起こし、相次ぐGMSの閉鎖をもたらしている。

百貨店やGMSといった昭和を牽引し続けた商業業態がリーダーとしての役割を終えて、「ショッピングモール」が新たな牽引役となってきているのである。

 

その大きなトレンドに追い打ちをかけたのがここ数年の「コロナ禍」である。人混みが感染を引き起こす可能性が高い「コロナ」は、その動きを加速させた。

「コロナ禍」は相次ぐ百貨店の閉鎖を促し、GMSの消滅を強いて来たのだ。

かつて華やかな存在であった「百貨店」や「GMS」は、今や「先端的な商業施設」や「情報発信基地」ではなくなり、集客力の衰退がもたらされた。

その結果必然的に、売上自体も下降線を辿って来ているのである。百貨店業界の業績不振の原因はこういった点にあった。

 

しかしながら、私自身はかつての百貨店が担ってきた機能の幾つかは今なお価値があり、今後も無くなることは無いだろうと想っており、存続可能ではないかと想っている。

「デパ地下」「高級ブランドショップ」「ギフト商品」「カルチャー系催事」等がそれらである。

やはり百貨店が長年培ってきた「ブランドイメージ」や「信用力/信頼性」「取引先との太いパイプ=ネットワーク」「編集力=構成力」といったものは魅力であり、社会的な信用も高く、今でも中高年層には強く支持もされているのである。

しかしながらそれは従来型の「百貨店」ではなく、むしろ「三十貨店」「五十貨店」というべき商業施設なのかもしれない。オールラウンドでなくなるからである。

取扱品目や提供機能を自社の得意分野に絞り、それらの分野で自社の価値観で新たに編成し直す「大型セレクトショップ」の様なモノではないかと、私は想っている。

 

「TSUTAYA」が現在チャレンジしている、カルチャー系にフォーカスを絞った商業施設がそのイメージに近い。あるいは「フルアイテムの無印良品」等もそうである。

オリジナルの価値観や感性に絞った、「全生活場面対応型の商品提供=売り場構成」といった編成=セレクトを行う事に成るのであろうか・・。

ただしながらその際のターゲットは「若者」や「ファミリー」ではなく、「ミドル/シニア/シルバー」といった成熟世代であり、「中~上流階層」「品質重視」「安定志向」「信用重視」「ゆとり指向」といった価値観や、キーワードを尊重する人達ではないかと、私はイメージしている。

 

提供される面積や空間は必ずしも大きく広い必要はないが、ゆったりと時間が過ごせる空間構成や仕組みは必要であろうと想っている。

高度経済成長期の商業形態をそのまま追及してはならないのである。やはり「成熟社会」の「成熟したカスタマー」に適した商業形態に生まれ変わらなければならないのである。

そのための努力や工夫は、自らやって行かなければならないのである。

その様な「大規模セレクト商業空間」であれば、数は少なく規模は小さくても「百貨店」も存続できるのではないかと、私などは想っている。

その「百貨店」の業態は、少なくとも「駅前の大型ディスカウント店」とは異なる方向であろうと、私が想っているのは間違いない。

 

 

 

 プーチンへの誕生プレゼント(10.14)

 
10月7日は、ウラジミールプーチンの70回目の誕生日だという。
 彼の誕生日に沢山のメロンをプレゼントした隣国の大統領がいたという。
 
その同じ日にウクライナ軍からもプーチンには大きなプレゼントが用意されていた。
それは「クリミア大橋」別名「プーチン橋」の爆発&一部崩落という「誕生日プレゼント」であった。
 
2014年に始まったロシアに依るクリミア半島の併合以降、プーチンの主導で建設された本土とクリミア半島を接続する19㎞にも及ぶ巨大な橋梁の建設は、まさにプーチンのウクライナ侵攻の記念碑でもあり、象徴でもあった。
 
攻撃を受けたこの巨大な社会インフラは、自動車/トラック等の運輸や移動の大動脈でもあり、同時に鉄道網を併設した事によりロシア大陸とクリミア半島を直結する、物資の送迎ルートの重要なネットワークシステムでもあったのである。
 
 
そしてこの物流の大動脈は、今年二月にロシアが行ったウクライナ侵略戦争に際しても、大いに活用されたのであった。
 
具体的には兵員の運搬/移動であり、戦車やミサイル等の重火器類や軍備設備や大量の砲弾などの移送も、このインフラを大いに活用して行われていたのであった。
取り分けロシアのウクライナ南部や黒海の攻撃や制圧のために、それらの人員や軍備の輸送が効力を発揮してきたのである。
 
従ってこの「ウクライナ大橋」の破壊や崩落という誕生プレゼントは、政治的/軍事的影響はもちろんのこと、プーチンやロシアの政治指導部にとっては計り知れない大打撃であっただろう、と私は想像している。
 
 
また別名「プーチン橋」ともいわれていたこの橋の崩落は、今回のウクライナ侵略戦争を後々振り返った時に、「プーチン体制の崩壊」を象徴する出来事として語られることに成るのかもしれない、と私は妄想している。
 
そしてこの行為が、プーチンの70回目の誕生日に照準を合わせて行われた事を考え合わせると、ウクライナ軍の計画性の高さや緻密さと共に彼らの行動力や実行力の確かさを、改めて実感することが出来るのである。
 
 
更にはこの爆破計画が大型トラックの爆発炎上に留まらず、同時刻に橋の上部を走行していた重油等を移送していた貨物列車を直撃した事が、この巨大な橋を崩落させた大きな原因と成った事を考え合わせると、この誕生日プレゼント計画はかなり緻密で練りに練ったPLANであった事が、窺い知れる。
 
と共に、ウクライナ軍の情報収集力の高さや、その情報をもたらしたロシア国内での情報提供者の存在を想定すると、ロシア国内でウクライナが構築した情報ネットワークの確固たる存在をも、想像することが出来るのである。
 
兵站の移送情報という機密性の高い情報まで把握しているとすると、ウクライナはロシア国内のかなり深いところまで、情報ネットワークを張り巡らせている事が推測出来るのである。
 
 
先月上旬に行われたウクライナ東部の広範囲にわたる「ロシア占領地」の奪還や、8月下旬に行われたクリミア半島内の空軍基地の破壊や兵站基地の攻撃といった、これまでのウクライナ軍の戦績を考え合わせると、ウクライナ軍の計画性や準備力/実行力はかなり精度が高く、高度な戦略を立案しかつそれを実行し得る展開能力を有している事が、これらの事実から確認することが出来るのである。
 
 
 
 
               
                       「プーチン橋」と貨物列車の炎上
 
 
 
 
そんな中でこの9月の後半にプーチンが出した大統領令は、ウクライナ戦争に向けての「部分的国民動員令」であった。
 
その大統領令に基づく「動員数」はロシア国防相が当面の動員数と発表した30万人から、非公表ではあるが漏れ伝わってくる情報では、100万人に及ぶというのであった。
その後の国内外の報道を総合すると、動員数はどうやら100万人規模の方が実態に近いようである。
 
その「動員令」が発表された9月21日以降、プーチンの招集に応じた成年男性らは約21万人であると言われている。
と同時に始まった、招集を忌避して国外脱出した成年男性らの数は、現時点で70万人とも80万人とも言われている様である。
 
 
その国外脱出としてロシアから隣国ジョージアに向かって行っていた、40代前半と思しき男性のインタビューで、マスメディアに語っていた言葉が私の印象に残っている。
 
そのニュースで彼はジャーナリストのインタビューに対して、
 
「この21世紀の時代に隣国に戦争を仕掛けるという、プーチンの戦争のために戦い、戦死するかもしれないリスクを私達は負うつもりはない。だからこうやって私達はロシアから脱出するのだ・・」
 
といった様な事を、ジョージアの国境検問所に続く数十㎞にも及ぶ渋滞車列の横で、彼は語っていたのであった。
 
 
プーチンの時代錯誤的な問題意識や国家観のために、自らの命を投げ出す覚悟をしている大統領令に応じた人間の、3・4倍以上の20代~50代のロシア人成年男性達が存在しているのである。
 
 
 
 
 
            
                  ロシアから南西の隣国ジョージアに脱出する長蛇の車列
 
 
 
この一連の脱出報道を見ていて私は1918年のロシア革命の際に、革命軍の「赤軍」に追われた、旧ロシア帝国側の「白軍の残党」や「旧体制支持者」の多くが、当時の満州や日本に逃れてきた歴史を思い出した。
 
その当時の痕跡はロシアに最も近い東側の国の一つであった、日本の北海道や函館/神戸/横浜といった貿易都市などに、今でも多く残っている。
 
そしてその脱出劇の結果もたらされた、人的資源や食文化・宗教といった諸々のヒトやコトの日本への流入といったモノが、現在の日本の食文化や宗教の一端を担っている事を思い出したのである。
即ちロシア料理やチョコレートなどの洋菓子、更にはスタルヒンや大鵬といったスポーツ選手、ロシア正教などがそれである。
 
 
歴史は繰り返されるという事であり、日本にとって二度目のロシアからの大量の難民流入によって、人的資源や食文化などの流入が新たに発生し、今回もまた大きな波と成ってやって来るのかもしれない・・。
 
そしてそれら難民の流入は、日本にとって必ずしもマイナスばかりでは無い面も有している。1918年前後の第1波がそれを証明しているのである。
 
そう言ったプラス面やマイナス面の視点を持ちながら、これらロシア脱出者たちの移民対策を考えても良いのではないかと、そんな風に私は考えているところである。
 
 
 
 
 

 2022年の「終戦記念日」

 
今年の終戦記念日は例年とは違う様相を呈しているように私には映る。
その原因は言うまでもなく、ロシアによるウクライナ侵略戦争の勃発である。あるいはプーチンの戦争といっても良いかもしれない。
 
昨年までの8月15日は私にとって、正直なところ「第二次世界大戦終結記念日」でしかなかった。昭和20年に行われたポツダム宣言受諾の記念日である。
今から70年以上前に行われた「過去の戦争の終結記念日」であった。
 
ところが今年の2月下旬に行われたロシアの「ウクライナ侵略戦争」は、時代錯誤な発想を持った民族主義者のプーチンが引き起こした、大義名分無き「プライベートWar」なのである。
 
そのために何万人もの死者が発生し十万人近くの戦傷者が生まれ、4,400万人以上のウクライナ人や数十万人のロシア人が人生を狂わされており、ほぼ半年経過しても未だに戦争は収束の兆しすら見えていないのである。
 
第二次世界大戦から80年近く経ち、戦後の冷戦期を経験し、ソ連邦や東欧の全体主義国体制が崩壊して30年近く経った2022年。
もはやイデオロギーや民族主義に基ずく戦争は起こらないだろう、と多くの人々がイメージしていたこの時期に、今回の戦争が引き起こされたのであった。
 
 
その「ウクライナ侵略戦争」が勃発した結果数十万人の死傷者が生まれ、数百万人の難民が発生し「エネルギー価格の高騰」「小麦等食料品の高騰」「レアアース等の産業資源の高騰」といった事態が発生し、既にグローバル化しネットワーク化されている世界経済が、大きな被害を被っているのである。
 
この様な現実が引き起こされている最中に、私達は77回目の「終戦記念日」を迎えているのである。
「終戦記念日」は今やもはや単なる過去の出来事ではなく、今まさに我々が巻き込まれ直面している「主権国家間の戦争」の課題として、改めて認識し考え直さざるを得ない問題となっている。
 
 
更にはプーチンの軍隊は、ウクライナに在る「チェルノブイリ原発」や「サポリージャ原発」を攻撃の対象にしたり、自国部隊の隠れ蓑にするという危険な戦術をとっている。
そのためにこのロシア軍の戦術が原因と成る「原発災害発生」の危険にも、世界は直面しているのである。
 
このような状況下で迎えた「広島原爆投下記念日」や「長崎原発投下記念日」であった。
たとえ戦争の直接的手段として核爆弾が使われないとしても、これらの原発施設を戦闘の舞台として巻き込むことで、「原発災害」が発生する危険性は相当高いのである。
 
「NOmore広島」「NOmore長崎」は原爆被害のもたらす悲惨な結果や非人道性/危険性を語っているのであって、原子爆弾の使用のみを言っているのではない。
 
従って今年の「原爆投下記念日」も「第二次世界大戦終結記念日」と同様に、今年はこれまで行われて来た過去の76回のイベントとは、違った意味合いを持ち始めていたのである。
現実にウクライナで起こり得る「原発災害」の危険性に対する、国際社会からの警鐘であり、その危険性への懸念の表明といった側面をも持っているのである。
 
 
                     
 
 
 
今回の軍事大国ロシアの暴走は西欧諸国に対し、「冷戦後の世界秩序構造」の見直しを迫っているが、同時に極東でロシアに隣接する日本にとっても、改めて「国防上の安全保障」についての見直しや再検討を迫っているのである。
 
プーチンの様なロシア民族主義者の内在する国が、個人的な意思や野心で「領土拡張」という妄想を抱いて、強大な軍事力によって近隣諸国を踏みにじる危険性が起こる確率は、ゼロではないのである。
 
現在それが日本に対して実行されないのは、「日米安全保障条約」という「日米軍事同盟」が存在するからである。
 
かつてプーチンは、親しかった日本の政治家達から「北方領土の返還」を求められた時、それに同意出来ないのは「日米安全保障条約」があるからであり、返還した後に北方領土に米軍基地の最前線が築かれる恐れがあるからだ、と語っていた事があるがその発言がそれを裏付けている。
 
 
戦後生まれの私などは、不平等条約的な部分の残る「日米安全保障条約」に関してはネガティブな印象を持ち、同様に自衛隊に関しても災害時の救援以外の海外派遣等に対してもネガティブな立場をとって来たのだが、今回のプーチンの戦争をきっかけに考え方が替わってきているのは事実である。
 
やはり隣に「領土拡張主義」が国是の様な国が存在し、今回の様に経済グローバリズムより政治的野心を優先する国があると、日本人の生命と財産を守るための「軍事的安全保障体制」の存在が不可欠であると、思わざるを得ないのだ。
 
ノーガードでは軍事大国に一方的に侵略を許すことに成り、沢山の日本人の生命や国土とりわけ北方領土に隣接する北海道への侵略を起こすことに成り得るからである。
 
 
学生時代に世界史を学びロシアという国が「ロシア帝国」であった現在の数百年前から、黒海や中央アジアに向かう南下策や、極東を含む東方に対する「領土拡張主義」を指向して来た国家である、と学んだ事が思い起こされる。
 
その「領土拡張主義」は今後も引き続き世界にとって、大きな懸念材料であり続けるのだ。従ってその様な隣国ロシアに接している日本及び日本国民はその点への備えが、改めて必要に成るのである。
 
どこかの政党の様に「話し合い外交で決着させる」等とノンキな事言っていたら、数ヶ月で北海道はロシアに侵略され実効支配されてしまう事が予測される。8年前のロシアの「クリミア半島併合」や今回の「ウクライナ侵略戦争」を目の当たりにしていると、そう考えるのがはるかにリアルであり、現実的である。
 
 
ソ連邦の崩壊から30年経って一見世界秩序は安定したかに錯覚したのであるが、実際にはそうでなかった。
エリツィンの後ロシアの権力を握ったプーチンは、この20年の間「チェチェン紛争」「ジョージア侵攻」「クリミア半島併合」「シリア戦争への介入」「ベラルーシ大統領選への介入」等、絶えず自国の領土拡張や影響力拡大を図り続けており、実行して来た。
 
その強い「覇権主義」や「大国主義」は今回の「ウクライナ戦争」では運よく頓挫しているが、この姿勢は今後もしばらく続くと考えたほうが良いのである。
 
今回のウクライナ戦争で「ロシアの本質」を改めて再確認した以上、日本の国防上の安全保障システムに対する抜本的な見直し、体制の再構築が求められているように私には想われるのである。
 
 
その際の参考に成るのが「フィンランド」「スゥエ―デン」の採った対応であろう。
今回のロシアに依る「ウクライナ侵略戦争」が始まってから両国は、第二次世界大戦後今日まで採っていた「中立国」という立場から、NATOという西欧や中欧諸国が加盟している軍事同盟に参加することを決めている。
 
陸地でロシアに接しており第二次世界大戦時に、当時のソ連に侵略され国土の一部を失ったフィンランドは、北方領土を失った日本によく似た立ち位置であったが、今回の侵略戦争を見てやはり自国民の生命と領土を守るために、「国防のあり方」のシステムを大きく替えたのである。
 
私達も従来の「国防のあり方」に対する考え方を改める必要があるのではないか、と私はそう思い始めているところである。
 
 
 
          
 
 
この問題は第二次世界大戦後造られた「国家の枠組みを再構築する」という意味では非常に大きなテーマであり、時間を掛けて国民のコンセンサスを得ながら進めなければならない重要課題である事を、私も十分理解している。日本は民主主義国家だからである。
 
そんな中で私はこの問題を考える際に、幾つかのキーワードがあるだろうと想っている。
 
「経済・社会・情報が緊密に繋がっているグローバル化した世界の中の日本の立ち位置」
「軍事安全保障と共に、経済安全保障/情報安全保障等の体制確立の必要性」
「他国からの侵略に対する堅牢な防御体制の構築」
「第二次大戦後以降、国是と成っている『他国への侵略の放棄』」
「重厚長大的な軍事大国を目指さない、効率的でデジタルな防衛防御体制の構築」
 
等のキーワードを私は挙げることが出来る。
 
 
これらのキーワードは言うまでもなく、私の個人的な価値観が大きく反映されている。
即ち「現在の国際秩序を出来るだけ崩さず、主権国家間で戦争が起きない事を優先する」といった考え方を採る人間の問題意識から出発している、という事である。
 
従って戦う事が大好きな人々や、攻撃的な人達さらには戦前の日本の様に外国を積極的に攻撃することに抵抗のない人々とは、基本的な考えや目指す方向が異なっている。
私は「彼らとは相いれない」立ち位置を取っているのである。
 
 
因みにこの考えの根っこに在る考え方は、かつて防衛大臣を務めた兵庫県立大学の五百旗頭理事長が唱えている
 
「(外国に)侵略させないし、(外国を)侵略もしない」
 
といった安全保障の考え方に影響を受けており、この考えを私は多いに参考にしている。
 
 
国際社会に対して日本は、「侵略させない」し「侵略もしない」といった基本的な外交戦略を明確に表明し、その上で日本が採るべき具体的な安全保障上の方法論(軍事/経済/情報等に関する)を構築することが大切である、と私は考えている。
 
その場合「領土」「領海」の定義が重要に成ってくるのは言うまでもないが、先ずはその定義をじっくりと考え、確認し国民にとっての共通概念としていく事から始めなければならないだろう、と私は考えている。
 
 
そしてその定義を検討するに際しては、EEZ(排他的経済水域)についての理解を深めることから始めたら良いのではないか、と現時点では想い始めているところである。
 
更にはデリケートな立ち位置に在る「尖閣諸島」や「北方領土」の問題に対しては、一触即発の危険性があるだけに、かなり慎重に考えていく必要があるだろうと想っている。
 
 
いずれにせよ「プーチンによる戦争」や「ロシア民族主義の本質」を踏まえた上で、今後の日本の「対外的な基本的コンセプト」を構築する必要があるのだ。
 
その上で国民のコンセンサスを得て、「幾つかの安全保障」の在るべき姿や具体的な方向性について、「新しい枠組み」を如何に構築すべきなのかを考えざるを得ない状況に置かれているのである。
 
 
 
 
                  
                         日本のEEZ海域
 
 
 
 
 

 政治家と宗教団体

 
 
先月の8日、後2日で参議院選挙の投票日という選挙戦の終晩にその事件は起きた。
安倍晋三という総理大臣を2度務め、7年だか8年の戦後総理大臣の最長在任記録を更新した保守政治家が、晴れ渡った白昼の真っただ中奈良市の観衆や聴衆の眼前で、手製の銃弾で射殺された事件である。
 
この事件が注目されたのは
先ずは被害者が今なお日本の保守系政治家たちに対して大きな影響力を有しており、政界では老齢とは言えない67歳という年齢の元首相であった、という事にあったであろう。
 
次いでは、夏の盛りの白昼の選挙応援中の事件という事である。
三年前の7月同じ参議院選の際に、同じこの政治家が札幌で選挙演説をしていた時に、ヤジを飛ばした見物人数人が、北海道警の警察官たちによってヤジを行っている最中に、身柄を隔離確保されたという事があったが、その時の警護体制と比べずいぶん開きがあった事に、ちょっとした驚きがあった。
 
 
今から2代前の元総理大臣であり、当時は現役の総理大臣であった事もひょっとして影響していたのかもしれない、と想った。
当時は官僚たちの時の権力者への忖度がかなり大っぴらに行われ、それが出世に繋がると官僚たちが想っていた時期であった。
 
因みに3年前札幌で現場指揮を執っていた中間管理職の警察官はその後、無事にというか彼の期待通りに出世している、という事である。
 
いずれにしてもかつてそのような忖度を受けていた元首相が3年後に奈良市で、いともアッサリと銃撃者の被害に遭ったことが驚きであったのだ。
 
やはり権力の中枢に現役でいる人間と、権力の中枢からリタイアしてしまった政治家では、官僚たちの忖度度合いも変わってしまうモノなのか、と警備/警護の官僚たちの変わり身の早さを改めて確認した次第である。
 
 
 
                 
              
 
 
三番目に注目されたのは銃撃者の殺害動機が、安倍元首相の政治信条やイデオロギー/政策といった、政治家としての基本スタンスに対する抗議や反感から行われたのではなかった、という事が判明したことである。
 
これは警察の事情聴取の結果判明したわけであるが、銃撃者は自身の家庭を破滅に追いやった母親と、それの原因を作ったカルト系宗教団体である「旧統一教会」への私怨を晴らすために安倍氏を狙った、という事であった。
 
家庭を崩壊させた恨みある「旧統一教会」と、総理大臣経験者であった保守政治家の安倍氏が広く深く関わっている事が判明したから、その攻撃の矛先を彼に替えたという供述があった、というのだ。
 
「旧統一協会」はその政治組織である「国際勝共連合」を通じて、日本の右翼やウルトラ保守政治家たちと、日本での活動拠点創設以来深くかかわって来た、という歴史を有していた。
安倍氏は尊敬して止まない祖父岸信介が、創設以来60年以上関わってきた「旧統一教会」や「国際勝共連合」との太いパイプを、継承し関わり続けた来たわけである。
 
 
更に事件後判明したのも、「自民党国会議員と旧統一協会の関係」をより太く結び付けて来たのが、総理大臣を7・8年勤め人事権を発揮し続けた安倍氏であったという事である。
 
安倍派の国会議員の多くが旧統一教会や勝共連合から選挙応援や資金面で、多く支援を受け関わって来たという事実が、それを裏付けている。
 
そんな関係もあって自民党安倍派の議員たちが、自民党内で最も多く旧統一協会と深い関係を現在でも持っている、というわけである。
 
その意味では銃撃者の狙い先はある意味「的」を得ていた、という事は言えるのだ。
 
 
この事実が判明して以降、世評の銃撃犯に対する見方や考え方が変わって来た様に私は感じている。
 
銃撃者の母親が、家庭に入って来た多額の臨時収入や生活費などを旧統一協会に貢ぎ続けた事が、銃撃犯の山上家の家庭生活を破綻させたと彼は認識していたのであった。
 
実際のところ彼の母親は総額1億円以上を、かのカルト教団に貢ぎ続け山上家の家計を破綻させ家庭を崩壊させた。それはこの事件が起こった後の今なお続いているのだという。
 
その旧統一協会が下村博文という安倍派の幹部が、2015年に文科大臣であった時に断行したのが「旧統一協会」から「世界平和統一家庭連合」への名称変更の受理、であったわけである。
 
宗教法人の名称変更は文科省配下の文化庁の所管する業務である。
霊感商法や詐欺まがいの高額の印鑑や壷などの販売で、多くの家庭を破壊させ日本社会で悪評の高かった、「統一協会」というブランドの負のイメージを払拭させるための、名称の変更をもくらんだのである。
 
この名称変更により、信者の家庭崩壊や家計破綻を引き起こしている統一教会が、新しいイメージを打ち出そうとしたその名称が「世界平和統一家庭連合」となっているのは、笑い話というよりこの宗教団体の虚言癖を象徴しているように私は感じている。
 
 
「国際勝共連合」という名称にしたところで本来は、共産主義勢力に対する防波堤を国際的に構築する、といった様なイメージを抱かせるがその実態は、実際にはそこにあるのではない。
それを端的に現しているのが、創始者文鮮明と北朝鮮の独裁者一族「故金日成主席」との太い関係である。
 
「朝鮮労働党」というのは、北朝鮮の共産主義者の政党であると自らを位置付け、イデオロギーは共産主義を標榜している独裁国家なのだが、統一教会の文鮮明はその朝鮮労働党の創始者でもある、国家主席「金日成」と太いパイプを有し、多額の資金提供を行う事で友好関係を築いていたという。
 
 
従って看板では「勝共連合」を名乗るこの組織は、その名称や発するスローガンで、日本やアメリカなどの右翼やウルトラ保守層に接近しながらも、裏では北朝鮮と結びつき太いパイプを作っている宗教団体が率いる、政治部隊なのである。
 
言葉や看板に簡単に騙されるシンプルな思考回路を持っている人達が、世間には一定数いるのは仕方ないことだが、「統一教会」や「勝共連合」という組織の実態はこの程度である点は認識しておく必要がある。
 
 
更に言えばこの旧統一教会という組織の創始者は、明治時代に日本によって行われた「朝鮮併合=植民国家時代」に深い恨みを持っていて、その恨みを晴らすために日本に進出してきた宗教団体である、という点を見逃してはならない。
 
それを象徴するのが1冊3千万円とかいう値段で信徒に売却されているという「文鮮明文言集=『聖本』即ち聖書」と呼ばれている書物に書かれている、日本と韓国との関係である。その聖書に書かれているその教祖の有り難い言葉の中には
 
「日本はエバ(イブ)の国だから、アダムの国である韓国に貢ぎ奉仕しなければならない」
「朝鮮半島は男根で、日本列島は女陰の国だから、女性である日本は男性である朝鮮半島の国に仕え奉仕しなければならない」
「日本人は戦前に従軍慰安婦として朝鮮人の女性を日本兵の性的奴隷にしてきたから、今度は日本女性が朝鮮半島の男たちの性的奴隷として仕えなければならない」
因みにこれは悪名高い「合同結婚式」の正当性を語っているらしい。日本の若い女性信徒が韓国の未婚の男性と結婚することで、それが実行される構図である。
 
といった様な事が書き記されているのだという。
そして当の日本の信者たちは「日本をエバの国に選んでくれて感謝している・・」というのである。
 
 
 
             
             文鮮明にはこの地図は「男根」と「女陰」と見えるらしい。 
          彼は豊か過ぎる想像力や妄想の持ち主だと推察され得る。
 
 
 
宗教団体の信者たちがその創始者や教祖を崇め奉るのは、よくあることだからこれをどうこう言うつもりはないが、日本の右翼やウルトラ保守層というのは「日本民族主義者」であることが、政治信条の根っこにあるはずだからこの現象は滑稽ですらある。
 
日本民族を朝鮮半島の国に隷属させることや貢物をさせる国家、として言い続けている人物が率いる宗教団体や政治団体と、友好関係を維持し続けているというのだから情けなくて、これはもう嗤うしかないのである。
 
「反共」とか「勝共」とか「保守」という言葉やスローガンを挙げさえすれば「お仲間」「友好団体」として受け入れるというのは、単純すぎて情けない。
しっかり相手の教義や信条を調査し理解した上で、お付き合いを行うかどうかを判断しなさい、と言いたくなる。
 
それとも右翼やウルトラ保守層は自民党や保守系政治家達がそうであるように、統一教会グループから多額の献金や寄付金を貰っていて、そんな事を調べる必要もない関係になっているのであろうか。何とも底の浅い民族主義者たちである。
 
そしてその献金や寄付金の殆どが、善良な信徒たちが家庭崩壊を起こしてまで統一教会に寄付して集めた1000億円以上の献金が原資に成っているというのである。
お互いに「持ちつ持たれつ」「ズブズブの関係」だという事か・・。
 
 
今回の銃撃犯の山上被告がこの様な思想を持つ「統一教会」と祖父の代から関係が深く、政治権力を使って野放しにしてきた元総理大臣を銃撃したのは、その行為自体が許されざる行動だとしても、その犠牲に成って家庭を崩壊させられた「哀れな信徒二世」だとしたら、ある程度その行為を理解するとが出来るのもまた事実である。
 
私にはこの事件の背景や実態を知るにつけ「因果応報」という言葉が、頭をよぎってくるのである。
 
そして山上被告の背景には、このカルト宗教の犠牲に成って来た沢山の家族や人々の怨嗟の姿や、その溜まり溜まった負のエネルギーの存在が見えてくるのである。
 
 
 
 
 

 ありがとう⁉ イヴッァ・オシム

 
 
去る5月1日に 名将「イヴッァ・オシム」氏が80歳の人生を終えた、という訃報が先日入って来た。
 
サッカーファン以外には馴染みのない名前かも知れないが、彼はかつてサッカー日本代表を率いたサッカーの名監督で、日本のサッカーのレベルを一段階引き上げ日本サッカー界を一皮むけさせた、クオリティの高い指導者であった。
 
 
オシム氏が日本に来たのは2003年にジェフ千葉の監督として招聘されたからであった。62歳の時である。
 
オシム氏はかつてユーゴスラビアの代表監督を務め、1990年のW杯イタリア大会で同国チームをBest8に導くなどして以来サッカー界では広く、名将として知られていた。
 
同国のカリスマ大統領チトー死去後に起きたユーゴスラビアの民族主義戦争に巻き込まれ、同国の代表監督を辞退した。多民族国家ユーゴスラビアの崩壊と内戦を身をもって体験していた人物でもあった。
 
 
学生時代から「数学」「物理学」「哲学」を学びかつ好み、優秀な学生でプロのサッカー選手契約をする際に、指導教授から研究室に残ることを勧められたのだという。
彼自身も「プロサッカー選手に成らなかったら、数学教授に成っていたかもしれない」と後年語っており、その分野でも十分通用した人間だったのではないかと、推測することが出来る。
 
そんな「論理的」かつ「客観的」な思考方法をする人であったためか、ジェフ千葉の監督や日本代表監督を務めていた時に彼の語った「サッカー哲学」には、以下のようなものが残っている。
 
即ち
「賢く走れ」
「常に考えてプレーせよ」
「(対戦相手にとって)危険なサッカーを心掛けよ」
「あらゆる場面でトライを試み、積極的にリスクを取れ」
「ポリバレントな(複数の役割をこなす)プレーをせよ」
 
といった感じで、フィールド内で常に「トライ&シンク」を選手たちに求め続けていたのである。
 
そしてその結果が弱小チームを強豪チームに育て上げ、何人もの優秀な選手を育て上げて来たのである。
ストイコビッチやサビチェビッチ、阿部勇樹/羽生直剛/巻誠一郎/水野晃樹がそうであり、オーストリアの弱小チーム「SKシュトゥルム・グラーツ」や日本の「ジェフ千葉」がその代表例であった。
 
従って彼は有能な「名伯楽」だったのである。
 
 
 
          
 
 
 
実際彼が指揮官となった日本代表のチーム力はクオリティも戦い方もレベルアップし、見ていて実に愉しいチームであった。
 
彼の好きな言葉で言えば「エレガントなチーム」「危険なチーム」に成長し、俊敏で連携豊かな日本代表に生まれ変わっていたのである。
 
2007年頃の日本代表のヨーロッパ遠征の際に、左サイドを駆け上がった選手たちの速いテンポでのパス交換と、中盤からの駆け上がりで相手DF陣を翻弄しゴールをゲットする場面があった。
 
その時に彼が嬉しそうに、手でパス交換のジェスチャーを何度か繰り返していたシーンが今でも私の記憶に残っている。
 
キット彼自身が目指した「日本的なサッカースタイル」が目の前の試合で展開され、ゴールに繋がった事が嬉しかったのだな、とTVの前で私は感じたのであった。
 
そしてオシム氏が監督として指揮する、来たるべきサッカーW杯南アフリカ大会への期待が多いに高まったのであった。
 
 
長らく期待されていた「日本的なサッカースタイル」が名将オシム監督の指揮のもと、W杯という「バレの舞台」で完成し、目の当たりにすることが出来るであろうことに。
そのプレースタイルとそれに伴う戦績という結果とで、日本はもちろん世界をも驚かせてくれることを夢に見ていたからであった。
 
しかしながらその夢は突然絶たれた。彼が脳梗塞を患い倒れてしまったからである。
2007年11月、彼が66歳の時の事であった。
 
期待が大きかっただけに少なからぬショックを受けたことを私は記憶している。あれから15年が経とうとしている。
 
 
オシム氏が脳梗塞に倒れた原因の一つが、毎日遅くまで世界のサッカー番組を観続け体や神経を酷使したことが挙げられていた。
 
まじめで誠実な彼は、欧米を初めとした世界各地で活用する機会が増えた日本人選手達の「いま」を確認しチェックするために、それらの試合を毎日見続け新鮮な情報を得ようとしていたのだという。残念な事である。
 
「鮮度の良い情報」を得続けることは大切な事であるが、それ以上に大切なことは彼が描いていたであろう、「日本人の特性に合った」「日本的サッカースタイルの構築」を完成させる事であった。
 
66歳の時に彼が脳梗塞に成っていなければ2010年には「日本的なサッカースタイル」はほぼ完成されていたに違いなかった、であろう。
 
 
                   
 
 
名将オシム監督により選手個々人の「俊敏さ=アジリティ」あふれるプレーに基づき、「チームとしての連携プレー」が随所に見られ、「流れるようなプレーが繰り広げられ」「エレガント」で、対戦相手にとって「危険にあふれる」強いチームが出来上がっていたのではないか、とその様に夢を見たのである。
 
残念ながらこれらの期待は、「オシム以降の日本代表監督たち」には引き継がれているとは言えないのが現実である。
それだけに彼の病に依る監督引退が、悔やまれるのである。
 
 
個人的には、日本代表女子サッカーにおける「佐々木則夫監督」の指向したサッカースタイルに、「オシムサッカーの継承」を感じてはいるのであるが・・。
 
いずれにせよ15年前に「日本的なサッカースタイルの完成形」が誕生し定着していたら、私達はそれ以降は明確な判断基準を持って、日本代表のサッカープレイを批評し見ることが出来たであろう、と夢想している。
 
そのためにもオシム監督の脳梗塞に依る監督降板は大きな損失であり、残念至極な事態であったのだった。
 
しかしそれを夢想しても始まらないのである。残念な事に・・。
 
 
いずれにせよ日本サッカー界に、大きな痕跡を残してくれた「イヴッァ・オシム」氏には大いなる感謝の気持ちを持って、
 
「ありがとう⁉
そして安らかにおやすみなさい⁉
ご冥福をお祈りします・・」
 
と言いたいのである。
 
 
 
 
 

 知床遊覧船の事故

 
北海道の知床で悲惨な遭難事故が起こった。
遊覧船の遭難である。先週の土曜日の事であった。
この週末北海道は北西からの風が強く吹き荒れ、道南日高山脈近くの我が家でもそれは強く感じられた。春の嵐だったのかもしれない。
 
そんな折に起きた人災である。
この強風の中を今シーズン初めての観光遊覧船を出航させた、という時点で私はこの会社の経営者の資質を疑った。
 
その後の報道等によりこの経営者が海の危険性への配慮の無い、単なるそろばん勘定優先の経営者であることが判明した。
 
更にここ数年この経営者に替わってから、それまでのベテラン船長や従業員が一斉に退職したという報に接し、私はこの事故は人災であると確信した。
 
更に当該船舶には破損個所が幾つかあり通信網も同様であるという。これはシーズン前に整備検査を済ませたという、監督官庁職員の確認ミスであり、これも人災である。
 
 
上記は一週間ほど前に「ヘッダー」と呼ばれる、このHPの扉部分に記載した小さな「ブログ」である。
 
通常であれば一週間から10日くらいのサイクルでこの場所のブログは、新しいブログに置き換わるのであるが、この問題に関してはあえて書きとどめておく必要性を感じたのでこの「コラム2022年版」に残して置くことにした。
 
 
 
 
            
 
 
 
それはこの海難事故が、近年まれな「人災事故」であったことに依る。
まずは犠牲者の数が26人と多く、春の嵐の吹き荒れる早春の北海道の冷たい海の中で起きた悲惨で痛ましい事故であった事から、一過性に済ませず記憶にとどめておく必要性があると意識したからである。
 
北海道のこの時期の自然環境をあまり知らない本州の方々が多かったことは、ある意味仕方ないことではあるが、犠牲者の中に何人かの北海道の道民がいたことは、ちょっとショックであった。
その中には地元といっても良いオホーツク沿岸の住民や、隣町の十勝「幕別町」のご家族も含まれていたようで、「どうしてこんな時期に・・?」といった想いが強く残っている。
 
 
それから今回の海難事故が「知床遊覧船」の経営者や、海なし県の埼玉出身の経験の浅い船長に依る人災であることはすでに述べたとおりである。
 
名前の知れた陶芸家出身という経営者は、事業経営のシロートで親から引き継いだ少なからぬ旅館やホテルを経営する、拡大志向の強い人物であるという。
その拡大志向の一環として後継者のいない遊覧船会社の経営権を取得して、自ら望んで経営者と成ったという事である。
 
また多くの宿泊施設や当該遊覧船事業の経営はこれまでのところ、殆ど事業としては成功しておらず、経営が軌道に成らないまま拡大路線を突っ走ってきたようだ。
 
遊覧船の破損や通信設備の破損などに対しての追加投資や、定期点検を行わないままで居たのは、この様な会社の懐事情と経営者としての能力不足が反映されたのだろうと私は判断している。
 
 
更にこの前知った事であるが、当該船舶は3・40年前に瀬戸内海で本土と瀬戸内の小島を運ぶ、定期航路のために造られた「乗船フェリー」であるという。
 
穏やかな瀬戸内海の島と本土の間を、日に何度となく人荷を運ぶ定期航路仕様に造られた中古のフェリーを買い求め、荒波の吹きすさぶオホーツクという外洋に接する潮の流れが速く強い海域で、あえて就航させたのである。
 
しかもこの経営者は春の嵐の吹きすさぶ荒波に遭難した自社の、瀬戸内海の定期航路向けに造られた中古の船舶が遭難した原因は、「クジラに遭遇したからかもしれない」などと言っているという。
 
まったくもって自分の経営者としての責任を自覚していないのであり、「海が荒れたら引き返す」と言う口約束を船長としていたと主張し、「死人に口なし」とばかり責任転嫁している。
この人物は人間性にかなり問題がある人間なのである。
 
 
それと同時に大きな問題なのは、監督官庁である「国交省の出先機関」であろう。
これも当初から指摘しておいたが「船舶の破損」や「通信網の破損」状態を黙認し、今シーズン初めのしかも他の遊覧船が営業を開始する、一週間前からの出航を当該機関は容認したというのである。
 
これらの事実からうかがえることは、通常の「監督官庁」の業務と比べてかなり杜撰な指導や管理/監督をしていた、というのは事実であろう。
 
地元の観光組合だかの有力者であった当該遊覧船の経営者との関係が「ズブズブ」で、ひょっとしたら袖の下でも貰っていたのかと、そのような妄想を抱かせるに十分な「アマアマ」な管理/監督者なのである。
 
監督官庁は今回の人災事故に関わる関係者を、厳正に処分すべきであろう。
厳しい処罰が見逃されると、これからも日本の何処かで同様の事故が起こる可能性があり得るからである。
 
このような「船舶の破損」や「通信網の破損」「船長や経営者の質の低さ」といった事は一般の観光客には到底予測が付かない事なのである。
であるが故にそれらを知り得る監督官庁の責任は重いのである。
 
「観光船の遊覧」という、人命に直結する事業を所管する監督官庁職員の人災によって、また同じことを繰り返してはならないのである。
 
それがまだ冷たい早春の北海道の海で亡くなった、26名の方々への心からの謝罪であり犠牲者の方々に誓わなくてはならない、真に反省すべき事柄だからである。
 
                                  合掌
 
 
          
 
 
 
 
 

 プーチンの戦争

 
プーチンがロシア人の多くが「故国」と想っているという、隣国ウクライナを侵略してから1ヶ月が過ぎ、いよいよ決着が付き始めたようだ。
ロシア人にとってのウクライナはその歴史的意味合いや宗教的な位置づけにおいて、日本人にとっては「奈良」に相当するような関係を持つ国、なのだという。
 
その「故国ウクライナ」をプーチンが侵略したのはこの2月下旬であったから、既に1ヶ月を経過したことに成る。
 
ウラジミール・プーチンという人間は私より2歳ほど年上で、ソ連邦の時代に生まれ育ち30代半ばにソ連邦が崩壊し、冷戦時代の世界の大国というポジションから陥落し「二流国ロシア」に成ってしまった、そのプロセスを生きてきた人物である。
 
プーチンはエリツィン大統領の時代にKGB出身者として治安と国防を担当して、有能な官僚として頭角を現し這い上がって来た。
以来治安や国防といった勢力を背景に、急激な自由主義化や民主化のプロセスにおいて社会的な秩序が混乱していたロシアを、立て直す役割を担って大統領に成ったのは今から20年近く前の事である。
 
 
なぜプーチンが、当時のロシアにとって必要な存在であったのかについては、元外務省のロシア担当分析官であった「佐藤優」氏が多くの著書で語っている通りである。
 
プーチンは混迷し秩序の統制が希薄になった当時のロシア社会に、新たな社会秩序を立て直す役割を期待されたのであり、彼は自身の出身母体であるKGBとロシア軍部の力を駆使して、「黒いネズミ=マフィア」や「白いネズミ=民主化勢力」を駆逐することで、大国ロシアの復権と社会の安定を一時期もたらすことが出来たのである。
 
と同時にかつての「ソ連邦に対する郷愁」や、「大国ロシアの復権」という民族主義的な野望によって、かつてのソ連邦の一員であった「ジョージア」「チェチェン」への政治的軍事的な介入を行ったのも事実である。
 
それらの郷愁や野望の一部を実現した後で、彼は黒海というロシアの南の玄関口の要所であったウクライナ国の、「クリミア半島」を軍事侵攻し傀儡政権を樹立して、ウクライナから奪い取ることが出来たのが2014年、今から8年前の出来事であった。
 
 
この時の成功体験があったプーチンは、相変わらずのソ連邦への郷愁と過剰なロシア民族主義的な野望によって、今回のウクライナ侵略を企てたわけである。
 
ところが人口4,400万人を擁する主権国家ウクライナは、人口400万人のジョージアや140万人程度のチェチェンに比べ民主主義の成熟度や国家規模も異なり、国軍も20万人以上を有し近代国家としてのシステムが確立している主権国家であった。
 
更には8年前のクリミア併合以来、ロシアの侵略を前提とした国家防衛システムをNATOの支援を基に準備し進めてきたウクライナは、今回のロシアの侵略行為を簡単には許してはいない。
 
 
イギリスの情報機関やアメリカのCIA等の情報によると、20人近くいるというロシア軍のウクライナ侵略軍の司令官クラスの将軍の、実に1/3に当たる7人が既に命を落としているという。
 
またロシア軍の戦死者は15千人規模で投降者や捕虜の数は4万人近くだとウクライナ政府は言っている。
これらの数字は互いに実際よりも多く水増ししたり、逆に少なく発表したりといったプロパガンダが含まれるため、鵜吞みにすることは出来ないがロシア軍侵攻の膠着状況を見ていると、あながち大きな的外れではないようである。
 
 
 
           
           ウクライナ軍の抵抗にあって炎上するロシアの戦車
 
 
つい先日ロシア軍が発表した声明は、現在の「膠着状態」が現時点での侵略行為の一区切りであり、当初の軍事目標は達成された、といった内容であった。
たぶん現状維持であればこのままロシア軍は停滞し続けることに成り、更なるウクライナ軍の反抗や反撃を受け、より多くの投降者や捕虜や死者が出てくることが予測される。
 
そしてこの事実はプーチンの時代錯誤的な世界観や、主権国家を踏みにじる事を厭わない民族主義的な野望が、とん挫したことを意味する事になるのである。
 
KGB出身で法学部出身のプーチンは、唯物論的な歴史観や経済社会学的な世界観は乏しいようで、グローバル社会の意味する社会経済的な緊密性や、がんじがら目に繋がり合っている社会的紐帯の上に成立している「現実社会」への認識が、十分とは言えないようだ。
 
 
国際的な金融機関同士の金融マーケット「SWIFT」や、「ロシア通貨ルーブル」の国際取引市場での大幅な凋落という現実によって、やっと世界の中でのロシアの立ち位置を知らされているのである。
 
今回の「ウクライナ侵略」によってロシアという国家と共に、その国のリーダーであるプーチンに対する評価やブランド力は大きく低下することに成った。
今まで「一・五流国」としてイメージされていたロシアは、これから数十年の間は「二流国」として世界から扱われることに成るであろう。
 
それはまた同時に、プーチンの意図した「一流国への復権」とは全く逆の方向に進んだことを意味している。
 
今回の「ウクライナ侵略」によってプーチンの指導力や影響力が地に落ちたことは疑いようが無いが、だからと言ってエリツィン時代の様な社会秩序の崩壊や、急激な秩序無き自由競争社会には向かわないであろうことは、佐藤優氏が言うようにある程度推測することが出来る。
この点は弁証法的に考えた方が、現実的でありかつ冷静で論理的だからである。
 
 
                                   
 
 
私は今回の軍事大国ロシアに依る主権国家への軍事侵略という現実が、第二次世界大戦後に創られた「世界秩序の新たな再構築」に向かうのではないかと、そのように期待している。
ロシアや中国というかつての第二次大戦戦勝国に依る、「国連安保理事国の常任国体制」をもう一度根本的に見直す時期に来ている、と想っているからである。
 
 
先日ウクライナのゼレンスキー大統領が日本の国会に向けて行った演説は、まさにその現実を直視した「新しい世界秩序構築」の必要性を訴えた発言であり、同時に侵略を受けた当事者としての悲痛な叫びでもあった。
 
私自身もまた、新しいグローバル社会に見合った「up-to-dateされた世界秩序の構築」が必要なのだと、そう痛感しているのである。
 
そしてそのことは同時に「台湾侵略」を企図している、「軍事・経済大国中国」に対する警告をも意味する事にも成るのである。
 
 
今回のロシアの主権国家ウクライナへの侵略行為が国際社会からどのように評価され、見られているのかを、中国の民族主義=中華思想の信奉者である習近平とその支持者たちは、息をひそめて注視して来ているからである。
 
「社会経済関係」「通信情報網の発達」「人とモノの交流」によって緊密に構築されている「現実社会」を無視した、大国主義への「郷愁」や「野望」に基づく他の主権国家への侵略行為が、如何に時代錯誤的であり同時に、今日のグローバル化された国際社会にとって許されない行為であるのかを、中国の指導者たちは学ばなければならないし、心の深いところで自覚する必要があるのである。
 
ロシアが行っている主権国家ウクライナへの侵略行為の愚かさから、学ぶことは沢山あるのである。
 
 
 
 
 

「二十四節気」の「弁証法」

 
今年の「大寒」は昨日の1月20日だったようだ。
そしてこの「大寒」は「二十四節気」の中においても、重要な節目の一つである。
 
この時季は暦の上では最も寒いとされる時節で、1月の下旬から2月にかけての時季が該当するのだという。
実際のところ昨日の北海道は、今シーズン最も寒い日であったようでシーズン最低の気温を記録したという、
 
私がこの「大寒」という時期に対して敏感になり始めたのはここ数年の事で、そんなに前のことではない。
北海道の南十勝に腰を据えて生活するようになってからであり、それは「新型コロナウィルスの蔓延」と無縁ではない。
  
それまでは月に一度程度のペースで首都圏に行ったり来たりを繰り返していたから、あまり北海道の気候に面と向き合っていなかったからかもしれない。
 
いうまでもなく北国での生活で最も気になる問題は何かといえば、冬の寒さである。
日本で最北端に当たる北海道では雪や氷と共に「寒さ」が最大の問題になるのだ。
 
従ってその寒さに対して敏感になるのは、ごく自然の成り行きである。
であるが故にそのピークである「大寒」に関心が向かうのは、これまた自然な事である。
 
そしてそのピークに到達するという事は、これから先は峠を越して下っていくという事を意味し、その予測に期待感が高ぶり気持ちが晴れやかな方に向かって行くのである。
 
 
 
              
 
 
もちろん「大寒」を過ぎたら一直線に暖かい「春」に向かって行くというわけではなく、行きつ戻りつを繰り返し「五寒二温」から「四寒三温」を経て、やがて「三寒四温」に成って寒温の比率が逆転し、ついには寒さを温かさが凌ぎ、春が実感されるようになるのである。
 
 
私は若い頃はあまり「二十四節気」なるものを意識してこなかったのであるが、50歳を過ぎてから季節の変わり目を自覚させてくれる、この古代から伝わる「暦」が持っている合理性に気が付くようになり、それなりに意識するようになった。
 
ほぼ二週間ごとに迎える「節気」という暦の概念は、二千年以上前の中国で確立された「暦=漢暦」なのだと言うが、その後朝鮮半島を経由して日本に至り時々の権力者が修正を加え、ジャパンナイズ=日本風にカスタマイズすることで、より日本の実情に適した「和暦」として確立され、定着してきたのだという。
 
その日本的にカスタマイズされた「二十四節気」は、「漢字」や「唐朝風の社会/政治制度」がそうであったように、400年間続いた「平安時代」に確立され定着してきたようだ。
 
それが明治維新に入ってきた西洋風の「太陽暦」を初めとした「近代的」で「科学的」な自然科学に関する知識の流入によって、「和暦」は主流ではなくなり共通概念としては隅に追いやられてきたのである。
 
 
しかしながら明治維新の近代化から150年近く経った今、「西洋の暦=洋暦」をもう一度ジャパンナイズする必要性が出てきて、見直されてきているのかもしれない。
 
「中国の暦=漢暦」がアジアの大国中国の「長安」や「洛陽」等の、当時の都を基準に創られてきた様に、「洋暦」は西洋のイングランドやフランスあるいはローマ/イタリアを基準にして創られたものであったから、やはりもう一度ジャパンナイズする必要があるのだと思う。
 
 
即ち今から千年以上前の古代において「漢暦」⇒「和暦」
に成ったように、
明治維新以降の近代化を経て「洋暦」⇒「修正和暦or現代和暦」
 
にと、再構築が求められているのかもしれない。
 
いずれにしても、西洋文明という新しい知識や知見の導入によって一旦は隅に追いやられて来た「和暦」が有している、日本の実生活や気候に合った「暦」に適合した、Up-to-dateされた「現代和暦」の構築が求められているのではないか、と最近私は強く意識し始めているのである。
 
その代表例がこの「二十四節気」問題なのではないか、と思っているところである。
 
50年近く前の学生時代に習った「弁証法」の適用が、この世界でも必要なのかもしれないなどと想っている、私にとっての「二十四節気問題」なのである。
 
 
 
 
                  
                            「弁証法」的論理
 
 
 
 
 
 
 

 おてんとう様

 
 
私は朝起きてトイレを済まし着替えた後、必ずやる事がある。
東に向かうガラス窓の先に見える太平洋に上る朝日に向かって、体操を行うのである。
 
二階にある私の部屋から3㎞ほど離れた先に在る太平洋に向かい、昇ったばかりの朝日に対面し、大きく深呼吸を3回ほど繰り返し、体内に酸素を取り入れるのである。
 
酸素が地球上の生物にとって不可欠の存在であることは、子供の頃に学校で教わって知っていたのであるが、このコロナ禍で重篤な患者さんたちが血中酸素を93%以上確保しなければ、生命の危機に瀕するという事を知って、改めて体の中に酸素を取り入れることの重要さを知る事になった。
で、さっそく酸素の重要さをUp-to-dateして、積極的に酸素を体内に取り入れることにしたのである。
 
 
そんなこともあって起き抜けに私は太陽を自分の体の中に取り込むようにして、酸素吸入を行うのである。
その後肩を動かし、首を回し、腕を振り、腰を廻すなどして10分間程度体操を済ませ、身体をほぐし、身体を温める事を繰り返している。
 
そうやって身体の準備が整い頭がすっきりしてから、1階に降りて朝ごはんを食べて私の一日がスタートするのだ
 
この体操を私が取り入れ定着しだしたのはここ数ヶ月の事であるが、この起き抜けの行事によって私は「おてんとう様」の存在をかなり意識するようになった。
 
 
「おてんとう様」が海から上がって発する朝の光を、深呼吸という行為によって自分の体内に入れる事で、自分がとても元気になれるような気がし始めたのである。
 
取りわけ冬に入って、外観に雪景色などが目に付くようになってから、より強くそのように感じるようになった。
 
年末年始の降雪による一面が雪景色の中にあっても、「おてんとう様」を目にすれば心は晴れやかになる。
更にその朝の光が発するエネルギーを体内に取り込むという行為によって、視覚だけではなく不思議と気持ちも晴れ晴れとしてくるのである。
 
 
昔の職人さんたちが、昇る朝日に向かって何回か柏手を打ち「おてんとう様」と呼び朝日に向かって頭(こうべ)を垂れていたその行為が、私にも最近何となく理解できるようになってきた。
 
やはり人間は太陽を崇め、太陽に感謝しながら生きている存在なのだと、改めてそんな風に感じ始めているのである。
 
 
 
            
 
 
 
真夏の灼熱の太陽は勘弁願いたいが、そのほかの季節であればやはり太陽はありがたい存在である、と私は想っている。とりわけ冬場にはそういう感謝の想いが強くなるようだ。
 
世界中で太陽を神と崇め尊崇する風習は太古以来、洋の東西を問わず浸透し広く行われてきたであろう。
この風習はキリスト教やイスラム教更には仏教などが誕生するはるか昔の、太古から続いている慣わしなのである。そしてそれはたぶん農耕社会の誕生と無縁ではないだろう。
 
日本においてその太陽神は「アマテラス大御神」という形で、やはり太古以来崇められて来たようだ。
 
 
その太古からの太陽神「アマテラス大御神」を祀る伊勢神宮を、自らの氏神として制定したのは七世紀の天武/持統天皇夫妻であった。人々の太古からの太陽神への尊崇という風習を「皇室の祖先神」として、取り込んだのであった。
 
そしてそれを体系化するための構図を『日本書紀』という公文書に書き表すことで、奈良時代以降権威づけてきたのである。
 
以来1400年近くに亘って太陽神を祀る伊勢神宮は、日本では「皇室の祖先神」として位置付けられて来た。
そして明治維新という中央集権国家の誕生に際し伊勢神宮は、ここ150年ほどの間国家神道の頂点に据えられて来たのであった。
 
 
しかしながらこの太陽神は、「皇室」とか「貴族」とか「平民」や「蝦夷(えみし)」といった、身分や所属に関係の無いところで、常に大きな存在であった。
 
それは太陽という存在が自分たちの生活に直結し、晴雨寒暖といった天候を左右し、同時に農作物といった豊かな恵みの成否を握り、時には心を晴れやかにも暗くもしてくれる精神的なモノであるという、唯一無二の有り難い存在だからであろう。
 
  
人々が太陽を尊崇し、日々新たに昇り来るお日様に向かって手を合わせるという行為は、その存在そのものに対する感謝の気持ちの現れではないか、と私はそう想い始めている。
 
そしてそういった想いがある限り、七世紀に制定された「皇室の祖先神」という政治的位置づけとは関係無く、太陽は今後もまた多くの人々に崇められ尊崇され続けるのではないか、とそう想っている。
 
したがって皇室の氏神としての伊勢神宮の存在はさて置いて、私などは毎日東の太平洋から昇ってくる太陽を、「おてんとう様」として迎え入れ、身体の中に深呼吸と共に吸入することで元気をもらって、すがすがしい気持ちに成って、新しい一日のスタートを始めることに成るのである。
 
太古から人類の間で連綿と受け継がれ、キット今後も引き続き受け継がれるであろう「おてんとう様」に対する素直な気持ちを大切にしながら、私はこの朝の儀式を続けることに成るのではないかと、年の初めにそう想っているのである
 
 
                       
 
 
 

 

 
 
 
 
 
 
 
 



〒089-2100
北海道十勝 , 大樹町


 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
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