春丘牛歩の世界
 
先週から、「行者ニンニク」が採れる様に成り、我が家の食卓にも乗るようになった。
行者ニンニクが採れる様に成ると、今年の春がやって来た事を実感する。
これまでの私の経験では「行者ニンニク」が生えてきてから、雪が降ったことは無いから、である。
 
 
      
 
 
野生の昆虫や動物たちが作る巣の位置で、颱風の影響を早い時期に推測できることがあるが、自然界の生き物たちは彼らなりのセンサーで、天候や自然現象を察知する能力がある。
そんな事から私は、「行者ニンニク」が我が家の林に生え始めることを、季節の到来のメルクマール(指標)にしているのである。
 
 
      
 
       
         
 
     
 
 
    記事等の更新情報 】
*4月19日 :「コラム2024」に、「青い春」と「チャレンジ虫」を追加しました。
*3月25日:「相撲というスポーツ」に「新星たちの登場、2024年春場所」を公開しました。
*2月8日:「サッカー日本代表森保JAPAN」に「再びの『さらば森保!』今度こそ『アディオス⁉』を追加しました。
*01月01日:本日『無位の真人、或いは北大路魯山人』に「無位の真人」僧良寛、或いは・・を公開しました。
これにて本物語は完結しました。
12月13日:  『生きている言葉』に過ぎたるはなお、及ばざるが如し」を追加しました。
*9月29日:「食べるコト、飲むコト」 に「バター炒め二品 」を追加しました。
*9月27日;「物語その後日譚」に「奥静岡の鶏冠(とさか)山」を、追加しました。
 
 

  南十勝   聴囀楼 住人

          
               
                                                                  

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         2024.05.01
              牛歩
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
   
      

 

2023年がスタートしました。
昨年はコロナから始まりましたが、終わってみればコロナはほぼ弱毒化し、今年春には3類から5類へと政府の扱いも移行するようです。
ついにインフルエンザ並みの扱いになる、という事でしょうか。
ここまで来るのにほぼ3ヶ年を要したわけです。
 
その一方で時代錯誤な思考回路を持つプーチンによって、引き起こされた「ウクライナ侵略戦争」はまだしばらくは続きそうです。
ロシアは内部崩壊を辿ることに成るのでしょうか、そのプロセスと日本への影響の波及を注意深く把握し、分析し継続的に注視し続ける必要があると想っています。
 
その場合は1910年代の「ロシア革命」前後のソ連の影響や、ロシア亡命者&移住希望者の動向が参考になるかもしれない、と妄想しています。
 
現時点では「報道1930」や「BSドキュメンタリー系番組」が私にとっては信頼できる情報源となっています。
その意味ではこれら数少ないジャーナリズム系メディアが、引き続きジャーナリズム本来の使命を忘れずに、専門家集団の情報提供や彼らの知見に基づく分析結果に接せられることを、今後も期待しています。
 
 
 
               <  目 次 構 成  >
 
                       1.マスメディアの衰退とミディ(アム)メディア化01.26
               2.Jアラートとおおかみ少年(04.20
             3.北海道の”桜”問題 (04.28)   
                   4.「2001年宇宙の旅」とAI&チャットGPT(06.04)
         5.「大暑」と「立秋」のあいだに・・。(07.30)
          6.「そごう西武百貨店」売却 (09.04)
                         7.「老い」とは何か⁉  (09.19)
         8.渋谷駅前開発への雑感(12.19)
 
 
  
 

 渋谷駅前開発への雑感

 
今月のはじめに久しぶりに渋谷の街を訪れた。6・7年振りであろうか。
 
京都で4年振りの大学のクラス会があって、その後次回作のための取材を兼ねて琵琶湖周辺に滞在してから、北海道に帰る途中、直帰せず関東に足を延ばし、渋谷を訪れたのであった。
 
というのもかつて一緒に仕事をしたビジネスパートナーが、大手不動産デベロッパーのCEOに就任していたことが判明し、渋谷の街が懐かしくなったからであった。
 
朝のTVニュース番組で、渋谷駅前の再開発についてアナウンサーのインタビューに答えていた彼は、年相応に老けていた。
髪の毛には白髪が混じり、かつてイケメン青年だった彼も眉毛は少なくなり、それなりに老けて見えた。
彼もすでに還暦前後になっているはずであった。
 
私が彼と6・7か月の間取り掛かっていたプロジェクトがあったのは、今から25・6年近く前のことだったから、当時の好青年が歳を重ねていたのは当然の事で、その事に大きな驚きがあったわけではなかった。
 
 
私は彼が活躍している姿を25・6年ぶりに確認したのと同時に、40年近く前に彼の所属する会社が所有していた、渋谷駅前の商業系複合施設の大規模リニューアルの一端を担っていたこともあって、渋谷には少なからぬ思い入れがあった。
 
更にその商業施設の建て替えが「渋谷駅前再開発事業」の一環として、今から3・4年前に行われたこともあって、建て替えられた爾後の駅前複合ビルを見ておきたい、との思いが募って渋谷の街を訪れたのであった。
 
 
2019年の12月に開業した「新しい再開発ビル”フクラス”」内の「渋谷東急プラザ」についての感想は、一言で言えば「残念な再開発ビル」であった。
 
ビル自体は新しくなり、今日的でシャープな形状にと新しく生まれ変わった駅前複合型商業ビル、である点は間違いないのであったが、決してそれ以上ではなかった。
 
渋谷駅前の商業ビルとしての「わくわく感」や「期待感」等を、殆ど感じることが出来なかったのが何よりも残念な事であった。
 
そしてそれ以上に物足りなく感じたのは、新しく生まれ変わったビルと渋谷という街区との融合感が、伝わってこなかった点であった。
私には渋谷駅前という立地に出来た、単なる「新築ビル」という印象しかなかったのだ。
 
 
 
             
                       令和の「渋谷東急プラザ」
 
 
今から40年近く前に私が携わった、昭和末期の「渋谷東急プラザ」のリニューアルコンセプトは、かなりクリアなもので常に当時の渋谷駅周辺街区の事を意識していたのだが、そういった視点が今回の「建て替えビル」には、残念ながら感じられなかった。
 
 
当時の渋谷駅前は、渋谷駅からNHKに向かうエリアを西武セゾングループが、「公園通り」と名付け、「西武百貨店」や「パルコ」を中心とした西武流通Gが開発していて、「新しい渋谷」を創っていた真っ最中であった。
そんなこともあって私達の計画には、それへの対抗意識があった。
 
その際私達が設定した開発コンセプトは、「西武セゾングループへのカウンター」を意識した、商業施設の開発であった。
 
具体的には、彼らが意識する「ヤング~ヤングアダルト」層をメインターゲットとした「パルコ」や、「アーバンライフ指向の40代前後のミッシー・ミセス」層をターゲットとした「西武百貨店」への、カウンター商業施設の構築だった。
 
その時私達の狙った主たるターゲット層は「50代以降のミセス層」であり、必ずしも流行に敏感とは言えない「コンサバティブ志向」の女性たちであった。
更に渋谷のオフィス街で働くサラリーマン層や、流行やファッションに縁遠い男子学生、当該施設の周囲で営業する飲食店とその従事者といった、渋谷に生活拠点があり街を行き来する「男たち」という事に成った。
 
これらのターゲット層に受け入れられる商業施設であって、「公園通り」を中心とした西武セゾングループの流れには乗らない(乗れない?)取り残された「サイレントマジョリティー」の行き場や、時間消費空間を創ることを目指した。
 
 
そのために行った具体的なプランは
➀.商業施設の上層階に「流行に惑わされない男たちの居場所」を創る。
 当時渋谷で一番大きな「書店(300坪程度)」を確保し、周辺に「文具・ステーショナリー」「CD・レコード」「ゴルフ等スポーツ用品」+まとまった面積の「紳士服/メンズショップ」を配置し、施設全体にシャワー効果を生み出す。
②.3~4階にはコンサバティブ志向の「ミッシーやミセス」向けのファッション&雑貨を集め、「公園通り周辺」とは違うテイストの女性層の居場所を創る。
 営業面積の狭い2階は、同じテイストのヤング層を中心のフロアとする。
③.B1~B2階には「”市場”感の強い生鮮三品」や「インポート物のワインや洋酒を充実させた店舗」を導入し、「デパ地下」とは異なる主婦層や駅周辺の飲食店経営者たちが利用しやすい食品フロアを創る。
④.面積の狭い1階は、意識してSCへの「ウェルカムゾーン」を創り、商業施設全体へのアクセスのし易さや、目の前のバスターミナルとの一体感を演出する事を目指した。
というのも当時のビルは建物の両脇を「都市銀行」と「信託銀行」という地権者が占有しており、B1~2Fは商業施設の営業スペースが十分に確保できなかったから、百貨店などの様な華やかなShowウインドー的な空間演出が出来なかったのだ。
 
 
これらの内、②と③はデベロッパーの大手不動産会社が希望し、①と④は私達外部コンサルが導入を強く主張した。
 
このような経緯を経てリニューアルOPENした「1980年代の東急プラザ」は、とりあえず成功した。
この時の「リニューアルOPEN」後に、そのSCに私が行ってみて改めて強く感じたのは
「渋谷にもこういう人達が、やっぱり沢山居たんだ」
「こういう人達がショッピングしたり、時間を過ごす場所が求められてたんだよなー」
「”公園通り”に行かない人たちの商業施設が、やっぱりこの街には必要だったんだよな・・」
といった感想であった。
 
 
更に1階に設けた「ウェルカムゾーン」として、「待合施設となり得る、機能を有した開放的な喫茶店」や「フラワ―ショップ」の導入は、今では多くの商業施設ではよく見られるようになったが、この時期1980年代ではホテル以外には珍しかった。
 
計画段階では、オーナーである不動産DVからは
「地価の一番高い処に、何で喫茶店や花屋なんだ~!」
と言われたりしたのだが、それでも最終的には我々の提案を受け入れてもらい、そのplanが実現したのである。
 
DVの経営者たちも単なる不動産屋的発想ではなく全体像を把握した上で、「エントランス」の役割や機能を理解し、受け入れてくれたのであった。
 
 
 
             
         1980年代にリニューアルOPENした「昭和の渋谷東急プラザ」
 
 
 
この様なプロセスを経て開業した昭和末期の「渋谷東急プラザ」と比べて、数年前に建て替えられた「令和の渋谷東急プラザ」との最大の違いは、
 
目の前のバスターミナルや背後の飲食ゾーンを含めた、周辺の街区を取り込んだ「ウェルカムゾーン」の欠如だったのではないかと、私はそんな風に感じている。
 
そして何よりも渋谷駅周辺という街に来る人達「来街者」を、SCという館の中に積極的に取り込み、「来館者」としていこうとしたか否か、が大きな違いだったのではないかと私は推測している。
 
新しく出来上がった「令和の東急プラザ」は、周辺街区の取り込みを意識した「街と館との融合」があまり感じられない、ピカピカのビルだったのである。
 
駅周辺やバスターミナル周辺の街区を行き来する人達が、「気軽に入ってみよう」とする、或いは「入ってみたい」と思える商業施設創り、という視点が欠落してしまったのが新生「令和の渋谷東急プラザ」ではないか、と思ってしまった。
 
久々に訪れた渋谷の駅前を観て、そんな風に感じてしまった、昭和の真ん中ら辺に生まれた私なのであった。
 
 
 
 

 「老い」とは何か⁉

 
昨日は所謂「敬老の日」であった。
そしてこのタイミングで例年の様に報じられるようになった、日本人の「65歳以上の後期高齢者」の数が約3600万人を超え、全人口内でのシェアが30%前後になっている、という事である。
 
かくいう私自身もすでにその後期高齢者に成って久しく、来年には70歳の「古稀」を迎える年齢である。
「古来より稀な年齢」まで生きて来た、という訳である。
 
とはいえこの格言は、戦前までの昔の日本に於いては当てハマったのかもしれないが、戦後80年近く経った今はどうであろうか・・。
 
若者たちが戦争に動員されることもなく、国民皆保険制度もあり病気が原因で早死にする確率も減り、日本社会全体が豊かになった事もあり、国民が飢えや飢饉で命を落とす事もなくなる等、総じて健康で長生きできうる環境が整っている事等が、この数字に反映しているのは確かであろう。
 
 
因みに私の子供の頃=昭和30年代のお年寄りと言えば、60歳以上の還暦を越した方々であった。
当時の彼らや彼女らに比べ還暦をとうに過ぎた私自身や、身の回りの人々を見廻してみてもクラス会で逢う、かつてのクラスメィトなどを観ても想うのは、あの頃の還暦過ぎの「老人」と我々とでは、明らかに異なっている、という事である。
 
今から50年近く前に私達の周辺にいた「還暦過ぎの人々」と比べ、自分を含め今の還暦を過ぎた人たちは、明らかに異なり「若々しい」、と感じている。
その事は私個人のみならず、周辺の人間達もまた同様に感じている様である。
 
「かつての老人」と還暦を過ぎた「今の自分たち」は、明らかに違う。と自覚しているのである。
その事実を前にして、やはり「老人」や「還暦」という意識や概念を、ここらで一度考え直し、再定義する必要があるのではないか、と私は思っているところである。
 
 
               
 
これは私達自身の「自覚」の問題であると共に「社会の共通認識」の問題でもある。
従来の定義や概念にとらわれることなく、「再定義」や「up-to-date」が必要なのではないか、と言うことである。
 
と同時にそれは「定年退職」をどう考えるか、とか「年金の支給年齢」をどうするか、とか「高齢者の生きがい」をどうするか、といった問題を伴ってくるのである。
 
例えば「定年退職」問題にしても、これまでは「60歳定年」という共通認識が日本社会では定着しており、いわゆる還暦と同じ年齢であった事もあってか、ここ50年近く「60歳定年」はある意味日本では「常識」であった。
 
 
しかし60歳の還暦を過ぎても尚、心身ともに充分健康である現実を目の前にすると、
「もう少し働いても良いかな」とか「もう少し社会や世間と付き合っても良いかな」とか「もうちょっと収入を確保しておきたいな」等と考えたりもするのである。
 
実際のところ「定年退職」の定義は、60年近く前と今では異なっていた。
私が小学生であった頃、公務員などの「定年退職」は確か55歳ではなかったか、と記憶している。
「55歳」から「60歳」に定年退職年が変更に成った、今から5・60年前にそのニュースを聞いて、「あと5年も余分に働かなくてはいけないなんて、大変だなぁ~、可哀そうだなぁ~」等と私は想ったものである。
 
 
しかしながらこの5・60年間の、日本社会の推移や個人の健康状態や心身の状態を観て、それらの危惧が結局は杞憂に過ぎなかった、と今では思っている。
 
社会が安定し、「健康問題」に対する情報が溢れ、スポーツ施設なども充実し、自分自身も「アンチエイジング」に対して関心を持つように成って、それらの考えや対応が浸透して来ると、状況は変わって来ると今では思っている。
 
定年退職が「60歳」ではなく「65歳」に成っても、60年近く前に想像した様な「哀れみや」や「損した・・」といった風に、今の私は考えなくなっているのである。
 
 
フランスやイギリスなどの個人主義者が多い国では、「年金支給年の延長や見直し」が、大きな社会問題になっており、そのための「デモ」や「ストライキ」が頻発しているのであるが、私などは必ずしもその考えには同調しないのも、確かなのである。
 
正直なところ多少「年金支給年」が延長したり、後ろにずれるのも「アリかな」等と思っているところである。
 
もちろんある日突然「ギロチン」式に替わるというのは問題外だが、5年くらい前からの「周知期間」を設け、社会的に宣伝/周知した上でコンセンサスを得た上で、社会の「共通認識」や「共通の概念」が醸成されるのであれば、それはそれで「よいかな」等と思っているのである。
 
「猶予期間」や「周知期間」がそれなりにあれば、当然それに向けた「準備」や「用意」が出来得るから、である。
 
 
         
 
 
 
私自身を振り返ると60歳の還暦を機に、自分の仕事量をガクンと減らし、生活拠点も首都圏から北海道にすっかり移し、「生活」や「収入確保」のための時間よりも、「自分のやりたい事」や「自分の興味ある事」に費やす時間を大幅に確保し、いわゆるマズローの「自己実現の時間」を過ごす事に、大きく軸足を移したのであった。
 
その結果が、こうやって当該HPに記載されている「物語類」や「歴史検証モノ」「コラム類の執筆」という形で、結実しているのである。
 
それが良かったかどうかは別にして、60歳という人生の区切りをきっかけにして、それまで当たり前であった「自分の人生を見直す作業」をやって来たのであった。
 
 
晩婚だった私はその後しばらくは、子供の「成長」や「親離れ、子離れ」を進めてきたのであるが、それもある程度決着し最近は、新しい生活スタイルが確立しつつある。
 
この間「コロナ問題」という激震が走って、それまでの生活環境や社会環境も大きく替わり、当初描いていた生活様式やそれまで当たり前だった生活パターンの、再構築や見直しが迫られて、今日に至っている。
 
 
そしてこのコロナの3年間に気付かされた事は、「北海道での田舎暮らし」に軸足を置くことを前提にしながらも、本州などにも積極的に出向き、「自分の好きな事」や「やり残してきた事」等を追い求めつつ、アクティブに生きて行く事が大切なんだ、と改めて感じた事であった。
 
「還暦」だとか「60歳定年」だとか言った、従来の「社会の常識」に捉われたり制約を気にせずに、自身の「やりたい事」や「興味ある事」を中心にビシバシやって行こうか、などと考えているところである。
この間子供たちの巣立ちがすすんだ事も、その追い風に成っている事は否定しない。
 
 
「飛蚊症」が現れたり「目ヤニ」が増えたり、「映像は出てきても、言葉の出るのに時間が掛かる」とか「耳が若干遠く成った」り、といった身体的な衰えを感じつつも、概ね良好な身体と好奇心がある間は、居住地のもっている「地域的制約」や「自分が嵌めた枠組み」に限定されないで、出来る範囲でアクティブに生き続けよう!
などと最近は想うようになっている。
 
その様な事をツラツラと考えている、今月年を一つ重ねた私である。
 
 
 
 
 

  「そごう西武百貨店」の売却

 

9月1日に「そごう西武百貨店」の全株を、持ち株会社の「セブン&アイHD」がアメリカの投資会社に、2,200億円程度で正式に譲渡した事が報道されている。


HD会社が事業会社を譲渡する事はよくある話だが、その譲渡先の投資会社は「事業再生型ファンド」ではなく「不動産投資型ファンド」である事から、当該投資ファンドは関連する事業会社である「ヨドバシカメラ」に、3,000億円で売却する事がすでに決まっているという事である。

日本を代表する都市型百貨店である「西武百貨店」や「そごう百貨店」が、駅前型ディスカウントストアに替わってしまうという事が、今回は大きな問題になり社会的な注目を浴びている。
所謂ステークホルダー(利害関係者)たちの意向を無視して、「資本の論理」だけで事態が進行している事が、少なからぬ波紋を引き起こしているのである。

 

 

               

 

上記は今回の買収劇の概況であるが、ここで少し考えてみたいのは「池袋駅前」「渋谷駅近く」「横浜駅前」「大宮駅前」「千葉駅前」「広島市中心街」といった、「西武百貨店」「そごう百貨店」の既存店が立地する、「都心」と言ってよいエリアが持つ「場所」の有する「市場価値」や「社会的価値」について、である。


百貨店という商業業態が「構造不況業種」である事は、現在の日本社会に於ては残念ながら如何ともしがたいコトなので、「都心の一等地に百貨店が従来型のままの形態で存在し続ける」ことの意味が、少なくなっているのは事実であろう。

だがしかしあくまでもそれは「従来型の品揃えや規模感においては」という意味で、「取扱品目や規模感」をセレクトし、再構築すればそれなりの存在価値はあるだろうと私は想っている。

社会環境の変化や、時代のニーズやウォンツの変化に見合う形で、企業や事業主体が従来型の経営内容を見直し、「up-to-date」させ自己変革すること自体は、事業主体が存続するために不可欠の行為である事は間違いない。

 

数十年前に社会的に存在価値のあった「業種」や「企業」が、その後数十年間の時代の変化を経て、事業を終了したり当該立地場所から撤退や退場する事はよくある話だし、その事には何ら驚きを感じない。

問題になるとしたら「都心型百貨店」がこれまで営業していた「立地」の有する、ポテンシャルが活かされるような検討が、今回の「資本の譲渡」に際し充分なされて来たかどうか、ではないだろうか。

「池袋駅前」「渋谷駅近く」といった都心部の一等地が有するポテンシャルを、「駅前ディスカウントストア」は果たして十分に生かすことに成るのかどうか、への検討が「セブン&アイHD」には欠けていたように私は感じられる。

また「事業再生ファンド」ではなく、「不動産投資型ファンド」を売却先に選定したことが、ホントに適切だったのかどうかにも大きな疑問が湧いてくる。


今回の売却劇では、「マストラフィック=大量交通機関」が集積する「都心部」を再開発する事や再活性化する、といった「都市開発的視点」がほとんど感じられず、累積負債を解消するため、といった「資本の論理」だけで売却話が終始した事に、マーケティングに長らく関わってきた私としては残念でならないのである。

何よりも都心型百貨店が立地する「場所」が持つ潜在的価値を、活用しようとしていないからである。

私はこれまで40年間近く、「商業施設開発」や「都市開発系の業務」に携わって来た事もあって、GMS(大型スーパー)や百貨店の企業情報や企業体質などに、それなりに接して来た事もあって、今回の「セブン&アイHD」即ちイトーヨーカ堂(IY)グループの企業文化やその体質についても、多少は知っている。

IYグループというのは、GMSの中では成功した会社であって、その筋肉体質的経営はGMS業界の中では長らくお手本に成って来た、所謂「勝ち組」の企業の一つであった。

 

           

 

とはいえGMS 業界も「百貨店業界」と同様に「構造不況業種」となってしまい、今日の日本では既に社会的な役割を終えているのは、如何ともしがたい現実である。

この時代の大きな潮流には抗う事は出来ないし、社会の大きな変化を前にしたら従来型のビジネスモデルをチェンジし、新しいビジネスモデルを再構築し直さなければならないのは、事業執行者にとっては将にその通りなのである。

そんな中でIYグループが存続し得たのは、日本初のコンビニエンスストア(CVS)「セブンイレブン」を導入し、新たなビジネスモデルやオペレーションシステムを構築し、その分野で「筋肉体質経営」や「デジタルシステム」の導入を積極的に行ってきた結果、今では数万店舗の営業ネット網を世界中で築き上げることが出来たからであろう。

GMSのIYグループがコンビニという業態に大きく転換する事で、企業として生き延びることが出来た事は、当該企業にとっては喜ばしい事であったのは間違いない。今まさにそごうや西武百貨店の社員たちが遭遇しているようなメに、彼らが遭わないで済んだのだから・・。

その意味においてはセブンイレブンをアメリカから導入し、今日の「セブンイレブン事業」を築き上げた鈴木前会長に、IYグループの社員たちは感謝しなければならないだろう。

 

それはそうとして、今回の件で私が考えてみたいのは1企業グループの行く末ではない。当該店舗が現在営業しているその「立地」が有している、「都市計画上の価値」についてなのである。

首都圏や中国地方の「都心」に、それなりの規模で立地している「都市型百貨店が有する、土地の持つ価値」に対する検討を、「セブン&アイHD」の経営陣がこれまで十分になされて来た、とは私にはとても思えないのである。

この問題自体は当事者であるIYグループや「不動産投資ファンド」の選択肢や、価値観に大いなる問題があるのはその通りなのであるが、同時にそれら企業を取り囲む「地元行政」や多額の有利子融資をしている「金融資本」や、「株主」にも少なからぬ問題がある様に私には思えるのだ。

「池袋」の街をどうしたいのか、「渋谷」の街や「横浜駅前」「大宮駅前」「千葉駅前」をどうして行きたいのか、行政の考えるべき「都市計画」や「都市開発」の姿が見えてこないし、当該企業に莫大な資金を貸し付けている「金融資本群」が、これらの都市型百貨店の跡地をどうしたいのか、のスタンスも見えてこない。

今回の売却劇は単なる「都心部の商業施設の業態変更」や「貸付金の回収」以上の課題や問題がある様に、私などには思えるのだがどうなんだろうか・・。本来の意味においての「ステークホルダー」として、真剣に検討してみる必要はなかったのだろうか。

 

                  

 

実は私は今から30年近く前に今回と同様の「案件」に遭遇している。その際私は某信託銀行からの依頼で、神奈川県の人口30数万人のベッドタウンのターミナル駅前に在った「GMS系都市百貨店」の売却案件に関わった事がある。

当時私は商業施設の開発に関わる仕事をしていたこともあって、当該案件の持つ「立地ポテンシャル」を調査/分析しその結果を基に、比較的太いパイプのあった「大手不動産事業開発企業」に情報提供を行ない、当該百貨店の売却話に関わった経験がある。

その際には当該地が有する「マーケットポテンシャル」のほかに、「従後の施設利用計画」「主たるテナント候補への事前ヒヤリング結果」、更にはそれらの情報を基にした「事業収支計画」まで添えて、プレゼンテーションしたのであった。

結果的にTOPの最終決済がなされる直前に「山一ショック」が起こって、当該案件の売却話は頓挫したのであったが、それ自体は当時の日本の社会経済状況が原因であったのだから、如何ともしがたい事であった。その事は悔やんではいない。

 

しかしながらここで問題にしたいのは30年近く前の話ではあるが、当時の銀行の担当者は少なくとも、「貸付金の回収」は大前提であっただろうが、同時に頭の片隅で当該百貨店が地方都市の駅前立地で、数十年間担って来た役割や、都市機能面での貢献をある程度理解し評価していて、その役割や機能を出来るだけ継続させたいと考えていたのではなかったか、と私は想像している。

その様な考えがあったから、当該案件の売却先を同じ不動産開発企業であっても「駅前マンション開発企業」や「アミューズメント系商業ビル」開発業者に委ねないで、「都市開発型の不動産デベロッパー」への売却に、前向きに取り組んだのではなかったかと、私は想っている。

私の所に当該案件が持ち込まれたのも、その様な考えが当該銀行の担当者にもあったからではなかったか、と推測しているのである。

今回の「そごう西武百貨店」の売却話には当然「ステークホルダー」である「金融機関」や「鉄道会社」はもちろんの事、当該立地の「自治体」や「従業員組合」「テナント」「納入業者」といった、所謂「ステークホルダー」も事前に多くの情報を知り得ていた、と思われる。

 

最終的な「処分先決定」の意思決定を、「セブン&アイHD」の経営陣が有しているのはもちろんであるが、その際に「従後の跡地利用」に対する明確なビジョンを検討せずに、「有利子負債の解消」といった「資本の論理」だけで終始してしまった事は、返す返す残念に思えて仕方がないのである。

今回の「西武百貨店池袋本店」の案件については、時計の針を戻すことは出来ないであろうが、「渋谷駅近く」や「横浜駅前」「大宮駅前」「千葉駅前」「広島市繁華街」等の案件については、こういった「都市計画的な視点」や「都市活性化=再生視点」をある程度考慮した上での、「譲渡先」の検討や「跡地利用」の検討がなされることを期待したいものだ、と思っている。

もちろん今回の「不動産投資型ファンド」との契約内容が、どの様な内容であるかが判らないために、「今さら・・」な事でしかないかもしれないのではあるが・・。 

出来るだけ「ステークホルダー」達には「他人事」と傍観せず、当該店舗等の有する「立地ポジション」や「都市計画上の価値」を考慮して、「自分事」として積極的に関わって行く事を私は期待したいのである。

 
 
 

「大暑」と「立秋」のあいだに・・。

 
 
 
北海道南十勝の寓居も、今年の夏はとても暑く、35度前後の日が先週は2回あった。
こんなことを言ってると本州の人達には叱られるかもしれないが、例年と比べて30度を超える日が増えているのは確かなのだ。
 
確認の意味で過去3年ほどのDATAを見たところ、7月下旬から8月下旬の最も暑いこの時季でも、殆どが20度台で30度を超える日は片手以下であった。
 
ここ1週間で言えば過去三年の平均は24・5度であった。10度近くは今年は高いことに成る。寝苦しいはずだ。
 
そして何よりも問題になるのは、我が家の生活インフラが「30度超への備え」が出来ていないことにある。
本州ではエアコン装備は将に「生活インフラの必需品」であったが、真夏でも24・5度の現在地の気温であれば必ずしも必需品ではなかった。
 
しかし「このままで良いのか」、について家族会議の話題になった。
 
 
 
 
         
 
 
 
 
その際の判断材料として、地球規模の温暖化が進む現在「この暑さが毎年続き、30度以上の日が常態化するのかどうか」であり、「今後ますます年齢を重ね70代以降に成った時、果たして体力が持つのか」という点であった。
 
その際「過去数年間の気温DATA」及び今後「お盆までの最高気温の推移&予測」のDATA確認はもちろん行った。
 
購入価格が一桁台で納まるかどうかも検討材料になるが、エアコン自体はさほど高額商品ではないので、金額は大きな問題にはならないだろう、という事に成っている
いずれにせよ今年は、お盆過ぎまでその推移を見守ることに決まった。
 
 
日本では「大暑」から「立秋」までの約2週間が最も暑いのであるから、この期間をどの様に過ごすかは、この南十勝に於いても大きな問題となりつつあるのである。
 
因みに今年は「大暑:7月23日」~「立秋:8月8日」がその期間である。
 
 
 
 
          ♠    ♠    ♠    ♠
 
 
               追記(8月9日)
 
 
上記のコラムは7月30日に書いたものであるが、今年の「大暑→立秋」期間(17日)の、最高気温の実際はどうであったかを、改めて確認すると下記の通りであった。
 
・30度以上の気温の日数:10日間 
(そのうち35度以上は :2日間)
・25~29度の間は  :4日間
・20~24度の間は  :3日間
 
このうち「暑さ」や「寝苦しさ」を感じる「30度以上の気温」の日は10日間であった。
要するに「真夏日」はやはり10日間しかなかった、のであった。
 
この地に移り住んで14・5年の経験上、南十勝の「真夏」は1週間から10日間である、という経験値の範囲内に今年もまた収まっているのである。
 
しかもその「真夏日」の分布は
・7月は :8日間
・8月は :2日間
という事で、「7月下旬」の暑さをしのげばまた涼しい日が戻って来る、という結果であった。
 
 
 
 
 
 
 

「2001年宇宙の旅」とAI&チャットGPT

 
 2020年代に入って、しきりに「AI」や「CHAT-GPT」の事が大きく取り上げられる様になってきた。
一部の報道では「人類の存亡の危機」にまで影響を及ぼすのではないか、といった警告を発する様にさえなっている。
 
60代後半の私にとっては、これら新しいテクノロジーや科学知識は実に耳新しく、目新しいモノで新たにしっかりと学習した上で、自らの頭の図書館の中に取り入れなくてはならない代物である。即ち私自身のup-to-dateのための対象に成るのである。
 
しかしながらあくまでもそれは「自分にとって価値ある知識」や「蔵書するに値する情報」と思われるから、なのである。
さもないと日々入って来る情報量の多さに、振り回されてしまいかねない。
自らの価値観と美意識というリトマス紙を用いて、判断し自分なりに精査した上での「私の図書館への取り込み」なのである。
 
 
因みに「AI」とは「Artificial Intelligense」の略であり「Chat-GPT」とは「Chat=対話型の、Generative,Pretrained,Transformer」の略という事に成っている、主としてコンピューターやIT分野に属する情報であり、考え方である。
で、その意味するところは、それぞれ「人工的に造られた知性」や「対話型のAIに依る自動変換器」という事らしい。
 
要するに、目の前にある「スマホ」や「PC」を使ってこちら(ユーザー)が質問や操作を行えば、AIが事前に「スーパーコンピューター」や「Cloud=クラウド」にインプットしておいた情報を基に、「AI」や「CHAT-GPT」といったツールが自動的に「最適な回答」を教えてくれる仕組みなのだ。
 
「蓄積済みの情報」や「事前情報」の中から「最適」なモノを「取捨選択」し、「組み立て」や「編集」をして、私達ユーザーの目の前の画面にOutputしてくれるシステム、という仕組みであるらしい。
 
私はこれらの新しい技術システムやITテクノロジーが世の中に普及する 様を知るにつけ、かつて若い頃に観た「2001年宇宙の旅」という、スタンリーキューブリックの映画を思い出した。
 
 
 
                 
 
 
 
「火星」だか「木星」だかの惑星探索を行う、人類の宇宙飛行士vs暴走した宇宙船内の「AIコンピューター」との「闘い」や「葛藤」を描いた作品なのだが、その映画の主たるテーマが将に
 
ー制御が効かなくなって暴走し始めた「Chat、GPT型のAI」が、その人工知能の勝手な判断で、本来サポートする対象のはずの宇宙飛行士達を抹殺しようと作動している事に、気づいた主人公との間で繰り広げられる闘いー
を描いているのである。
 
 
この映画は1968年に制作された古い「SF映画」なのであるが、Sキューブリック監督はコンピュータの進化や発達が、このまま続いてゆけばたぶん近未来に起こり得るであろう事態を、今から50年以上前に予見し推測した科学者の「SF小説」を基にして、この映画を創ったのである。
 
この作品は「人類の進化」についてかなり深いところまで考察された作品で、今から50年近く前にこの映画を観た私は、かなり哲学的で深遠なテーマである事に衝撃やショックを受けたものである。
 
この映画で私は「人類と知的機械との付き合い方」について「考えさせられた」のであったが、50年経った今「AI」や「Chat、GPT」が普及し始めた事によって、その「SF映画的世界」が将にこれから、私達の日常生活の中で常態化するかもしれない、といった事を予測させたのである。
 
そしてそれと同様の事を、コンピューターテクノロジーの第一線で活躍している科学者や技術者たちも感じて、その事態に「懸念」や「怖れ」を抱き始めたようだという報道があった。
 
多分「AI」や「Chat、GPT」がこのまま何らの社会的な規制を受けることなく、進化や発展を遂げたとしたならば、それらの「BIgData活用能力」や「組成構築能力」を悪用する人間や、或いは機械自身の暴走によって、人類の存続に関わるような事件や事故が起きるかもしれない、とその分野の科学者達が考え懸念しているのではないだろうか、と私は推察している。
 
丁度「原子力」や「核兵器」の事故や暴走が、人類の存続や環境に及ぼし得る「危うさ」を、これらのAIテクノロジーは内包しているから今のままでは非常に危険な存在である、と彼ら科学者は考えているのではないだろうか。
 
 
その意味で「イタリア」が真っ先にこの「Chat、GPT」の普及を、一時的に禁止したのはとても興味深い。
南欧ラテンヨーロッパの主要国であるイタリアは、比較的テクノロジー優先の思考に至りがちな、北部のアングロサクソンやゲルマン民族・スラブ民族に比べ、かなりの点に於て「人間臭く」かつ「理性より感性を重視する」民族であり、また社会である。
 
たぶん「人間臭さ」や「感性を重視する」南欧の人々にとって「AI」や「Chat、GPT」といった、現時点では「うさん臭さ」を伴う「テクノロジーの暴走」に対して、直感的に受け入れがたい「匂い」を嗅ぎ取ったのではないか、と私は妄想した。
 
「テクノロジーの暴走」を防ぐための「社会的合意形成」、或いは「ルールや法律」といった「社会的な規制の枠組み」が作られるまでの間は、「現行の法律の枠組みの中で、とりあえず規制する」事の必要性を強く感じているからこそ、イタリア政府は現時点では「Chat、GPT」の導入を禁止したに違いない、と私はそう想うのである。
 
その様な問題意識が強い社会であり国であったから、イタリアは現行の法律の中で出来得る施策を選び、選択したのではないだろうか・・。
 
 
新しい技術や産業の誕生や育成に対して比較的寛容な「イギリス」や「アメリカ」、更には事件や事故が起きてから「後追い」で対応を考え、体制を整えようとする我が国日本などとは、やはりイタリアやEUの国々は対応が異なるのである。
 
私は今回のテーマを考えるにあたって、キューブリック監督のもう一つの代表的な「SF映画」である、「博士の異常な愛情」という「核兵器の暴走」をテーマにした映画の事を、今現在頭の片隅で思い出してもいる、のである。
 
 
 
           
 
 
 
 
 
 
 
 

 北海道の”桜”問題

 
4月下旬の今、北海道では「桜の開花」が連日の様にNEWS等で話題になっている。
本州では3月の中旬辺りに賑わしていたことが、6週間近く遅れたこの時季になってやっと北海道では追いついた、という事になる。
 
本州の首都圏辺りとは6週間程度のタイムラグがあって、北海道の季節が本州にキャッチアップする、という事なのであろう。
 
それでも今年は例年よりは2週間近く、季節が早く進んでいるように想う。
というのも私の記憶では北海道に桜の花が咲き始め、「お花見」等が盛んに行われるようになるのはGWの後半や、5月入ってからが多いからである。
 
GW前後に「お花見」が盛んに行われるのは、盛岡や秋田/青森辺りの北東北が一般的で津軽海峡を越えてくるのは、その1週間前後あとの事が多いようである。
 
 
さてその「桜」なのであるが、北海道の桜の多くは「ソメイヨシノ」ではなく「エゾヤマザクラ」である事が多い。
 
「ソメイヨシノ」が咲くのは北海道でも南部に位置する道南(函館等)エリアと、道央とよばれる札幌や小樽辺りの日本海側が多く、日高山脈や大雪山系を越えた道東やオホーツク海側で「桜」と言えば、「エゾヤマザクラ」である事が多いようだ。
 
これは激寒期に―20度台や30度台に気温が下がる、「道東」や「オホーツク海側」の厳しい冬を、本州育ちの「ソメイヨシノ」では耐えられない事が原因ではないか、と私は考えている。
 
それに比べ日高山脈以西の道央や道南エリアは、冬の激寒期は雪雲に覆われることが多く、雪が降る頻度がかなり多く―20度台や30度に成ることは滅多に無いからである。
 
日本海側や道南エリアの冬はどんよりとした雪雲に覆われる日々が続き、放射冷却が発生しないために、道東やオホーツクほど冷気がグッと下がることは無いのである。
 
 
いわば道南や道央は「雪雲」という掛布団にエリア全体が覆われるために、保温状態が続き道東などに比べ気温が下がりきらず、「ソメイヨシノ」も生きながらえることが出来るために存続し得る、という事なのであろう。
 
要は私が生息する道東やオホーツク側のエリアは、冬の激寒期であっても雪が少ない分、「十勝晴れ」等の晴天には恵まれるが、その分放射冷却の影響を受け―2・30度台の厳しい寒さにみまわれる事に成り、それが「桜の樹種の存続」にも影響を与えることに成るのである。
 
 
 
              
                            エゾヤマザクラ
 
 
 
さてその様な自然環境にありながらも、存続する事が可能な「エゾヤマザクラ」という樹種の桜は、脚長でひょろりとした「スタイルの好い」、いわば「イケメンタイプの桜」なのである。
 
ところがそのイケメン桜ではあるが、本州で50年以上生活していた私や家人などは、その「エゾヤマザクラ」の開花には、あまり「春の到来」を感ずることが無い。
と同時にそのイケメン桜を「愛で」たり「お花見」をする気には、なかなか成らないのである。
 
スタイリッシュで脚長の「シュッとした」エゾヤマザクラよりも、ズンドウで横に広がって枝を広げる「ソメイヨシノ」的な桜の方が、私達にとっては望ましいのである。
即ち北海道のイケメン桜には満足できていないのである。
 
 
そんな思いを移住してから10年以上抱き続けていた私は、その「春のもやもや感」を脱するために何とかしたい、と春を迎えるたびに考えていた。
そんな私にその問題を解決する機会が訪れた。昨年の秋の事である。
 
昨年の3月に北海道で亡くなった母親の納骨のために、11月に故郷の山梨に行く機会があったので、その際私は長年の懸念を解決するためのアクションを興したのであった。
 
即ち、父親の眠る墓の在る山梨で母親の納骨を済ませたついでに、「富士五湖」まで足を延ばし、かの地の園芸ショップで販売していた「富士桜」の苗木を5本ほど買い求め、南十勝の我が家に送ったのである。
 
標高が9百m以上はある富士五湖辺りに育つ「富士桜」であれば、道東十勝の―20度台や30度台の厳しい寒期にも、十分耐える可能性があるのではないか、との期待を込めた仮説を立てたのである。
 
そしてその仮説を検証するために昨年の11月下旬に、山梨から送った富士桜の苗木を我が家の庭に植えてみたのだ。
 
 
以来、12月~3月までの-20度・30度台の南十勝の激寒期や、一度降った雪が厳しい放射冷却のために数ヶ月は溶ける事の無い体験を、富士桜の苗木にさせてみたのであった。
 
4月になって、根雪が完全に溶け最高気温もプラスの二桁台が常態化し、最低気温が0度以上になった事から、くだんの富士桜の苗木の様子を確認したのである。
 
その結果はOKであった。
春先であるが故に苗木の成長は殆んど無かったが、若芽の塊りが枝先に確認できたのであった。
 
5本の内1本は、除雪の際にトラクターに踏まれたために押しつぶされてしまったが、残り4本の内3本には小さな若芽が生えていたのであった。
善き哉!善き哉!
なのである。
 
とりあえず富士河口湖で求めた「富士桜」は、南十勝の厳しい放射冷却に伴う激寒期を、無事にやり過ごすことが出来たのであった。
 
これからは温かい初夏を迎え、やがてピーク時には30度前後になる盛夏を経て、どこまで成長して行ってくれるのかを、当面は見守り続けたいと思っている。
 
今から3年ほど前に植えた「豊後大分の紅梅」と「南紀和歌山の白梅」が、とりあえず生き延びていることに気を良くしている私は、今回の富士桜も梅樹がそうだった様にこのまま育ってくれるのではないか、という楽観的な期待感を抱いている。
 
 
 
 
 
               
                 中央やや下のピンク色の塊が富士桜の若芽
 
 
 
当該コラム公開から1週間後の5月6日に庭を散策していて、小さな苗木から多くの若葉に挟まれて、富士桜の「花ビラが二輪」咲いてたのを確認出来た。
 
まさか河口湖から移植して半年足らずで、「桜の花びら」が見られるとは・・。
よほど南十勝の気候と「相性が良かったんだなぁ~」と驚くやら、嬉しいやら・・。
ささやかな「幸福(しあわせ)」を味わえた、のである。
 
 
 
                                    
                                 
          
 
 
 
 
 

 Jアラートとオオカミ少年

 
先週の木曜日、朝食を食べ終わってぼんやりとニュースを見ていると、もうすぐ8時になるという頃、突然「地域の有線放送」がけたたましく鳴り、「緊急放送」なるモノが放送された。
ほぼ同時刻にTV画面でも同じ情報が放映され、NHKのすべての番組が「緊急放送」一色に塗りつぶされた。
 
何事か!と思いきや「北朝鮮のミサイルが北海道に墜落しそうである⁉」という内容のJアラートが発令された、といった報道が繰り返しなされた。
 
その数分前に「北朝鮮が飛翔体を日本側に向かって発射した」という、報道がテロップでながれていたので、その「飛翔体」の向かった先が「北海道エリア」である、という事に成ったようである。
 
 
その報道が事実であるならば、広い北海道やその周辺の海域に北朝鮮の飛翔体なるモノが墜落する可能性があるのか!
という考えが頭をよぎり数分間その「緊急放送」を注視した。
 
しかし2分、3分と経過しても、Jアラート発令により映されていた日本海側の諸都市/地域に、設置されていたカメラ映像には何の変化もなく、そのまま時が流れて行った。
 
 
私はその間TV画面を注視しながら、「北朝鮮が北海道を狙ってロケットを発射するメリット」について、考えていた。
「果たして北朝鮮が北海道、更には日本を攻撃するとどんなメリットがあるのか」について考えてみたのである。
 
もしこれが事実だとすると「北朝鮮は日本と戦争状態になり、日米安保条約によって日本及び米軍の攻撃を受ける」事態に発展するだろう、と推測することが出来た。
 
そしてその北朝鮮のロケット攻撃の目的が、ロシアの「ウクライナ攻撃」の様に北海道を自国の領土にする意思があるからなのか?と自問してみた。
しかしその可能性は現時点ではゼロであろう。との答えが出た。
 
それとも、まだ核開発の途上である北朝鮮が、現時点で日米韓を敵に回して 一戦を交えたいと思っているからであろうか・・。
しかしそれらの可能性は、やはり極めて少ない・・。
というのがその短時間に私が考えた「結論」であった。
 
その自ら出した結論にのっとって私は、速やかにTVを消して、自室に戻った。
 
そして結果的にはその後何の事態も生ずることが無く、時が流れた。
結局は「北朝鮮のロケットが北海道に到着した」、という事実を確認する事は無かった。
 
その後のヤフーニュースでも昼のNewsでも、結果的には「誤報」であった、と報道されたのであった。
 
 
昼食時に見たお昼のNewsを見ていて私が思い出したのは、「確か去年の秋ごろにも同じような事があったな」という事であった。
 
その時起こったのは、今回と同じく北朝鮮の飛翔体が日本に向かって発射され、私の棲む「北海道」と共に、「東京都の小笠原諸島」がミサイル墜落の可能性があるから警戒する様に、というJアラートの「警報」であったはずだ、と思い起こした。
 
その時の私は「北海道」と「小笠原諸島」の1,500㎞以上離れたエリアが、何故同じ飛翔体の攻撃や落下地点の対象になるのか、全く理解できなかった。
そして「Jアラート」に対する不信感が募った事を、私は思い出したのであった。
 
結果は「小笠原諸島」への警戒発令が、「誤報」であるという事で終わった。
 
 
 
           
 
 
 
そして今回の事態である。
こういうことが半年の間に何回も続くと、「Jアラート」が発する情報や警戒予告に対して、私などは信頼性や信憑性を失う思いが定着し、逆に疑念を抱いてしまうのである。
 
精度の高い情報に対する信頼度は、それが有益な情報であれば高まるが、逆の場合信頼度は弱まり、信憑性は失われてしまうのである。
 
これは私一人が感じることではなく、多くの国民や大げさに言えば人類が感じる事だと私は確信している。
そして私は「イソップ物語」だかの、有名な「オオカミ少年」の逸話を思い出してしまうのである。
 
 
「オオカミが来たぞ~⁉」と連呼した少年の発する虚偽の言葉が信を失って、村人たちが彼の発する発言や言葉を軽視し、無関心になり、ついに無視するように成ってしまった。
 
その後実際に彼が本物のオオカミに襲われた時に、誰にも相手にされず少年は結果的にオオカミに食べられて命を失ってしまう、といった話を思い起こすのである。
 
 
その後行われた、「日本政府のスポークスマン」である松野官房長官の記者会見での発言は、今回のJアラートの誤報を擁護していた。
 
しかしこの様なただの「情報の垂れ流し」を政府の見解として、マスメディアを使って繰り返し発令し放映し続けるのは、日本の「危機管理」能力の低さや「情報分析」の未熟さ/拙さ、対応のまずさを宣伝するようなものである、と私は認識してしまう。
 
 
私はNewsには「情報」「報道」「ジャーナリズム=インテリジェンス」の三種類があると思っているが、これまでの経験や実績から判断するにJアラートの発信は、一番精度の低い「不確かな情報」でしかないのだ、という想いを抱き始めている。
 
「日本国民」や今回の様に「北海道民」に対して、すべてのマスメディアを通じて発せられる「警報」を、このままずっと「不確かな事実レベルで、垂れ流し続ける」のであれば、Jアラート自体が「オオカミ少年」と同じ扱いを受ける事に成るのではないか、と想っている。
 
「不確かな情報や事実を、そのまま垂れ流す」だけなら、「質の悪い情報番組」や「信用のおけない報道番組」と大して変わらない、のである。
 
 
「国家の危機に類する情報」や「国民の生命と財産に多大な影響を与えうる情報」を、政府なり国家の名に於て公共放送を通じて発する場合は、単なる「不確かな事実や情報の、可能性を垂れ流す」だけであってはならないのである。
 
政府の「危機管理体制」がまともに機能するのであれば、「情報を精査」し「情報の中身を的確に分析」し、専門家や識者の知見等を加味した上で出される「インテリジェンス」でなくてはならない、と私は強く思っている。
 
さもなくば日本政府の発するJアラートは、「オオカミ少年」と同程度の扱いを受ける運命に陥るのは、目に見えているのである。
 
 
政治家の「口先だけの言葉や約束」と同様に、Jアラートの発する「危機管理に関わる大きな情報」に関しても、信頼を失ってしまうのは残念至極でしかない。
 
更にはそれらを運営するシステムの構築と維持に使われる、少なくない国家予算や、官僚たちの仕事内容に、実の伴う「費用対効果」を強く求めるのである。
 
少なくない国家予算を使って「Jアラート」を構築する「優秀」な官僚たちに、しっかりまともに働いてくれ
と切に願うばかりである。
今回の「Jアラート事案」は、将にその様な思いを抱く結果を招いてしまったのである。
 
 
 
因みに今回の「Jアラート」を聞きながら私は
「ウクライナの国民たちはロシアが行うロケット攻撃にさらされ、毎日の様にこういった警報を受けながら生活しているのだな・・」と、思った次第である。
 
今回の「Jアラート騒動」はプーチンの行っている「ウクライナ戦争」の現実を、「自分事」として、考えるきっかけに成ったのは確かであり、ウクライナ国民の抱えている日常や恐怖に、短い時間であるが想いが至ったのは数少ない教訓の一つであった。
 
 
 
 
                 
 
 
 
 

  マスメディアの衰退とミディ(アム)メディア化

 
今年初めにあった報道によると、2022年の日本全国の新聞業界の年間販売額が、前年の3,000億円から1年間で200億円程度減少した、という事である。
率にすると6.7%程度の下落、ということになる。
しかもこの傾向はここ10年ほど継続しており、それぞれ数百億円ほど減少し続けているのだという。
 
この事はマスメディアの経営基盤が弱体化している事を意味し、同時に社会的な影響力が衰退しているという事実を、購買額の減少という数字で示している、という事も出来るのであろう・・。
 
この傾向はネット社会の先進国アメリカではもっとドラスチックに進んでおり、米国各州ではローカルな地方新聞の多くが、ここ10年の間に淘汰され消滅しているのだという。
 
実際のところ私自身の身の回りを見渡しても、新聞の購買を止めたというこの事象を確認することができる。新聞の定期購読をやめている家が増加しているのである。
 
このトレンドはとりわけ若い世代や都市部での生活者、更にはネットを利用する率の高いクラスター(階層)ほど、著しいようである。
 
 
現在でも変わらず新聞紙を定期購読(サブスク)しているのは、高齢者世帯や地方在住者更にはネット利用の低い層が中心である、という。
 
であるとすれば時の経過に連れて世代交代が一層進み、郡部から都市部への人口流入が更に進み、ネット利用者比率が年々進むという現実から将来を推測すると、どうやら新聞を始めとした「マスメディア業界」は、間違いなく衰退業界であるという事が出来そうである。
 
 
 
              
 
 
 
この現象は「新聞業界」と同じマスメディアの双璧である「TV業界」でも同様のことが言えるようである。
かつて高視聴率といえば30%台や40%台の数字を叩いていた視聴率も、ここ数年では20%を超える高視聴率の番組は殆ど存在せず、10%台後半であれば優にBEST10 にランクインできる、といった様な事態になっている。
 
もはや国民みんなが同じチャンネルや同じ番組を観る/共有する、という時代ではなくなっているのである。
それだけ国民や市民が情報を得る媒体は増え複雑化しており、多岐にわたりかつ多様化しているのである。
そしてその傾向を速めたのは、1990年代からのPC普及によるインターネット社会の到来であり浸透であろう。
 
 
因みに昨年行われたサッカーW杯カタール大会を中継した番組で、マスメディアの象徴である地上波のNHKや民放よりも、ネット配信のABEMAの視聴率の方が多かったという現象が起きたのは、実に象徴的である。
 
ネット配信の視聴率が高かった原因は前日本代表で、歯に衣着せぬ発言の多い本田圭佑等が解説者として、試合展開に対してかなり的確なヨミや指摘を行っていた事が、地上波同様に無料で閲覧できた事と共に、視聴率upに繋がった要因だったのではないか、と指摘されている。
 
 
この現象の場合同じ試合を放映していても、放映媒体(メディア)の持つ知名度やアプローチのし易さ=見易さよりも、本田圭佑氏の解説のクオリティーが選ばれている事が推察されるのである。
 
にわかサッカーファンの一般視聴者よりも、サッカーに詳しいある程度のレベルの視聴者や、ある種の解説の的確さや深さに価値を置く階層の視聴者が地上波を離れ、ABEMAの放映を選んだことが推察されるのである。
 
これはサッカーに詳しい視聴者の増加という受け手側の質的変化と共に、放映媒体の多様化という供給側の変化が引きおこした結果ではないか、と私は想っている。
 
即ち視聴者という受け手のクオリティに対して、万民を意識した「広く浅く」という「マス視聴者」を狙った、従来路線の「マスメディア」のクオリティとのギャップや乖離が、引き起こした結果だったのではないかと理解することも出来るのである。
 
 
マスメディアの情報の質やクオリティが、多様化し専門化する視聴者のレベルupやそれに伴う期待値の高さに追いついていないから、こういった現象が起きるのではないか、とそんな風に考えることも出来るのであろう・・。
既存メディアの抱いている「視聴者像」と実際の「視聴者像」の間に、少なからぬギャップが生じているからだと想われる。
 
多分これは現場の第一線で働く人たち以上に、社内で番組制作やその放映に関して決定権を持っている、頭の固い管理職でもある中高年の存在がネックになっているのではないか、と私は推察している。
 
 
と、この様な事を考えているところに、つい先日「週刊朝日」が今年5月で休刊する、というニュースが入って来た。
 
この事実もまたマスメディアの衰退を象徴しており、サラリーマン層向けの「週刊雑誌」というマス媒体の衰退を意味しているように、私には映る。
 
そしてこれら一連の動きは「流通小売り業界」で起きている現象と、全く同じ現象がマスメディアの世界でも起きているに過ぎないのではないか、という事に気が付いた。
 
この「流通小売り業界」で起きている現象については、昨年11月に「コラム2022年」の欄で取り上げた=「百貨店」という存在 =というコラムで、具体的にコメントしているので、ご興味ある方はこちらも併せてご覧いただきたい。
 
 
そのコラムと併せて要約すると、戦後の高度経済成長に始まった
「大量生産」→「大量流通」→「大量消費」といったビジネスモデルに乗っかって、成長し発展して来た「マスメディア」業界が、
成長期から成熟期に移行して来ている現在の日本社会にあっては、「高度成長期」の従来型のビジネスモデルでは、今や通用しなくなってきているという現実を意味しているのである。
 
マーケットから求められているのは、「多様性」や「専門化」「複雑化」「ネット社会」の進んでいる、今日の日本社会の実情に適合したメディアという供給者の、「脱皮=質的転換」が求められているという事であろう。
 
 
今日の日本社会が求めている価値観は、高度経済成長期の「大量生産」時代のビジネスモデルであった「均質化」や「同一化」ではなく、むしろ「差異化」「オリジナリティ」「専門性」「質の高さ」といった、成熟社会向けの価値観なのである。
 
従って「より多くの人(=マスマーケット)に受け入れられる」「広くて浅い」情報や話題ではなく、「セグメンテーションされたターゲット」に対して、「専門性が高く」「質の高い」「狭くても深い」情報や話題の供給が、求められているのではないかと想われるのだ・・。
 
 
その結果「マスマーケット」という実態が無くなってきている市場を狙った、「マスメディア」は存在し得なくなってしまい、それに取って替わって
 
「セレクトされたマーケット」に向けての情報や話題を提供する「ミディアムマーケット」を狙った「ミディアムメディア」が主流に成るのではないかと、そんな風に私は考えている。
 
その様な供給側の質的な変化が進むならば「ミディアムメディア」を評価する判断基準は
「発行部数」や「視聴率」といった「量」にあるのではなく、
「専門性」や「コダワリ」等に裏打ちされた「コアな読者や視聴者」を対象にした「質」の中身が問われてくるようになる、
のではないだろうかと、私は考えているのである。
 
そしてこのような大きなトレンドの認識が間違ってないのであるとすれば、これからどのような種類の「ミディアムメディア」が誕生してくるのかを、私は心待ちにしていきたいと、そう期待している・・。
 
取り分け私の関心のある分野において、より質の高い中身の濃い情報や知見に接する機会が増える事を、期待して止まないのである。
 
 
 
                
               
 
 

 

 




〒089-2100
北海道十勝 , 大樹町


 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
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