春丘牛歩の世界
 
先週から、「行者ニンニク」が採れる様に成り、我が家の食卓にも乗るようになった。
行者ニンニクが採れる様に成ると、今年の春がやって来た事を実感する。
これまでの私の経験では「行者ニンニク」が生えてきてから、雪が降ったことは無いから、である。
 
 
      
 
 
野生の昆虫や動物たちが作る巣の位置で、颱風の影響を早い時期に推測できることがあるが、自然界の生き物たちは彼らなりのセンサーで、天候や自然現象を察知する能力がある。
そんな事から私は、「行者ニンニク」が我が家の林に生え始めることを、季節の到来のメルクマール(指標)にしているのである。
 
 
      
 
       
         
 
     
 
 
    記事等の更新情報 】
*4月19日 :「コラム2024」に、「青い春」と「チャレンジ虫」を追加しました。
*3月25日:「相撲というスポーツ」に「新星たちの登場、2024年春場所」を公開しました。
*2月8日:「サッカー日本代表森保JAPAN」に「再びの『さらば森保!』今度こそ『アディオス⁉』を追加しました。
*01月01日:本日『無位の真人、或いは北大路魯山人』に「無位の真人」僧良寛、或いは・・を公開しました。
これにて本物語は完結しました。
12月13日:  『生きている言葉』に過ぎたるはなお、及ばざるが如し」を追加しました。
*9月29日:「食べるコト、飲むコト」 に「バター炒め二品 」を追加しました。
*9月27日;「物語その後日譚」に「奥静岡の鶏冠(とさか)山」を、追加しました。
 
 

  南十勝   聴囀楼 住人

          
               
                                                                  

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         2024.05.01
              牛歩
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
   
      
 
北海道の友人から依頼されて『大野土佐日記』につながる情報を、山梨まで調べに来た立花は、「甲州金山博物館」で紹介された鎌倉時代の甲斐源氏についての研究家で、甲冑師でもある西島氏との出遭いによって、甲斐源氏の勇将安田義定の存在を知ることとなった。(以上前編)
翌日その西島氏から紹介された、安田義定に詳しい甲州市・山梨市の郷土史研究家達との情報交換を通じて、立花は『大野土佐日記』の主人公荒木大学と安田義定との深い関係を知ることに成り、安田義定についての知識や情報を得てこの鎌倉時代初期の武将への興味・関心が次第に高まっていった。
 
              【 目 次 】
              ①甲斐源氏のルーツ
              ②孫子の兵法
              ③甲州スッパ、ラッパ
              ④甲斐之國いはら郡
              ⑤「北海道砂金・金山史研究会」へのレポート
 
 
 

甲斐源氏のルーツ

 

メインディッシュが運ばれてきた時はさすがに会話も落ち着いたが、一通り食べ終わりワインが体の中を廻り始め気分が良くなってきてから、再び活発な情報交換とも意見交換ともつかない会話が、スタートした。

「ところで、私の方から皆さんにお聞きしたいことがあるんですが、宜しいですか?」私が口火を切った。三人は私の次の言葉を待った。

「いや、そんなにかしこまらないでくださいよ。皆さんが良くご存じの事をお尋ねするだけですから・・」私は場の空気を和らげるためにそう言った。

「他でもない、安田義定の事なんです。実は私は昨日西島さんから安田義定のことを教えて頂くまで、彼のことを全く存じ上げていなくって・・。まことにお恥ずかしい限りです」

「うん立花さん、何も気にするようなこんじゃねさ、ほのほうが普通だよ。今の山梨の人間だって殆どの人が知らんだから・・。で、どんなこんを聞きてぇで?」西島さんが、優しく私に尋ねた。

「いやぁほんとに、昨日教えてもらったこと以外は全然なんですよ、ですから何んでも結構なんです。とりあえず安田義定についての概要でも教えて頂けると、とっても嬉しいんです・・」私はそういって、頭を下げた。

「ほれじゃぁ、藤木さん頼むじゃんけ。一通りざっと話してやってくれんけ・・」西島さんが、藤木さんにその役割を振った。藤木さんはニコニコしながら、

「それじゃぁ、そうしましょうか」と言って、安田義定について話し始めた。

 

「まず義定公が生まれたのは長承三年の三月で、西暦で言うと1134年に成るですね。まぁ平安時代の末期って言っていい頃にあたるです。生誕の地は今の北斗市須玉町の「若神子」っていう場所に在った武田家の館だそうです。

で、亡くなったのが建久五年の八月十九日で享年六一歳、この日が命日になってるです1194年ですね、西暦だと。 言うまでもなく鎌倉幕府成立の初期の頃です。その死因は西島さんからも聞いたと思うですが、源頼朝による鎌倉方の討伐軍に攻め込まれて、自害したってこんですね」

「因みに頼朝とは幾つぐらい、年が離れていたんですか?安田義定は・・」私が尋ねた。

「頼朝ですか頼朝とは・・」藤木さんがちょっと戸惑ってると、

「頼朝は久安三年西暦1147年の五月生まれだから、義定公より十ニ・三歳ほど若いだよ、まぁ一回り強違うだね」西島さんが代わりに応えてくれた。

「さすがに詳しいじゃんね、頼朝のこんは・・」と久保田さんが微笑みながら言った。

 

「ありがとうございます。一回りほど違うんですね、二人は。そうすると、義定公が攻められ自害したのが六十一歳だとすると、その頃頼朝は四十八・九だったってことですか。

当時だともう熟年というかシニアクラスだったんですね、頼朝は。で、義定公はどちらかっていうとシルバー世代ですか、感覚的に言うと現代の七十代前半って感じですかね・・」

私もいつの間にか安田義定の事を、義定公と言うようになっていた。彼らの影響を受けたのかもしれない・・。

 

「因みに義定公と頼朝は、三・四代前のひい爺さんたちが兄弟でしてね。頼朝の四代前の爺さんが源義家で、『八幡太郎義家』って言われた人ですね。その義家は源頼義の長男で、三男坊の義光が義定公の三代前の爺さんで『新羅三郎義光』って言われた人ですね」藤木さんが話しを再開した。

「あぁあの八幡太郎と新羅三郎の兄弟が、それぞれのご先祖になるんですか・・」二人の名前は私も知っていた。源氏の先祖としては共に著名な存在だ。

 

「源頼義親子は前九年の役、後三年の役で活躍した武将ですからね・・。その後新羅三郎義光は甲斐守や常陸介を歴任し、その子孫から常陸源氏の佐竹氏や甲斐源氏の武田氏が生まれたですよ。
武田の名前も、義光の息子の義清が常陸之國武田郷に拠点を構えていたことが由来に成ってるですね。常陸之國武田郷、今でいえば茨城県のひたち那珂市ですね」藤木さんが言った。

「水戸市の太平洋側辺りですよね、ひたち那珂市って、確か・・」私は2・3度行ったことがあったので、頭の中にその時の景色がよみがえった。

「その武田郷に居た時に、新羅三郎の子孫たちは積極的に自分達の領土の開拓をやったですが、あまりにも熱心にやったもんだから在地の有力者とひと悶着あったですよ。

昔っからの地元の宗教勢力だった、水戸の吉田神社や鹿島の鹿島神宮との間でね。彼らの領地だった所に進出して開墾やら開拓を積極的にやって、何度かいさかいを興したらしいですね、ご先祖様は」藤木さんはそこで一息入れて、続けた。

 

「それに怒った在地の有力者が、著名人でもある義光が亡くなった後を見計らって朝廷に訴えて、その訴えが通って義清親子は結局常陸之國を追われることに成ってしまったですね。それから処替えで、かつて先代が甲斐守をやってた縁もあって甲斐之國に移って来て、今の市川三郷町辺りに移り住んだですね、武田氏のご先祖は」藤木さんは言った。

「なんでぇほれじゃぁ甲斐源氏のご先祖様は水戸や鹿島の神社から訴えられて、常陸之國から甲斐に流れて来ただけ・・。ほれじゃぁヴァンフォーレ甲府が、鹿島アントラーズや水戸ホーリィーホックのせいで山梨に移って来たってこんじゃん。面白くねぇじゃんね・・」

久保田さんはヴァンフォーレ甲府のファンなのか、J リーグのチーム名を言って武田家の先祖の軌跡を、自分の言葉で表現した。

 

「まぁ、サッカーの話は置いといて・・。甲斐之國に来てっから、出身地の武田の郷の名前を取って武田氏を名乗るようになったですね義清たちは・・」藤木さんが続けた。

「はぁ武田氏は市川に移り住んだんでしたか・・、私はてっきり韮崎の方じゃなかったかと思ってました。もっとも韮崎出身の親父が言ってた話だから、そう聞かされて思い込まされた、って事だったのかもしれないんですがね・・」私は父や祖父から聞かされた話を、そのままずっと信じていたのだ。

「いやいや、常陸から流れて来た時に最初にやって来たのが市川之荘であったって事です。市川は当時の國衙(こくが)が在った今の山梨市や笛吹市から、そう遠くない場所だったので、かつての在地の家来衆を頼って来たんじゃないか、ってことらしいですよ。
 
実際甲斐之國に来て落ち付いてからは、市川から韮崎というか今の北斗市の方に移ってるですよ。だからお父さんの言ったことは、あながち間違ってるわけではないですよ。まぁ、時間差があったってこんですね・・」藤木さんが補ってくれた。

 

「市川から北斗市っていうと甲斐之國の中央の下がったところから、左上の北北西の信濃寄りに、移動したってことですよね」私は言った。

「そうですね八ヶ岳山麓の逸見(へみ)之荘になりますからね、移転先は」藤木さんが続けた。

「甲斐之國の当時の中心山梨郡に近い八代郡から、端っこの八ヶ岳の方に移ったのは一体何故なんでしょうかね?何か理由でもでもあったんでしょうか?」

私は地方都市甲斐之國の中でも、更に田舎といって良い八ヶ岳の麓エリアに彼らが移ったのは何故なのか、疑問に思って聞いてみた。
その私の疑問に、藤木さんが応えてくれた。
 
「さっきも言いましたが、新羅三郎の子孫たちは独立心が強く領地の拡大に、非常に熱心な一族だったらしいですね、そのために開拓や開墾の余地がある八ヶ岳山麓の田舎を、敢えて選んだんじゃないかって思いますよ。ニューフロンティアとしてですね・・」
 
「あぁなる程、そういう事ですか。それで敢えて未開拓地に拠点を移したってことですか・・。それって常陸之國で既存の在地勢力を刺激して、朝廷に訴えられた苦い経験を学習して、既存勢力の荘園や神社の領地、寺領の多い國衙周辺を避けたって事なんでしょうか・・」と言う私の仮説に、
 
「いいセン行ってるじゃんけ、立花さん」と西島さんが反応した。
藤木さんは肯きながら、話を続けた。
 
 
「朝廷の出先機関である甲斐之國の國衙は今の笛吹市の辺りに在ったですが、そこには三枝(さえぐさ)氏っていう古豪でもある、在地の有力官僚がいたですよ。その地方官僚との衝突を避けたんでしょうね、武田氏は・・」

「新参者として在地の既存の勢力との争いは避けて、未開拓地の多い八ヶ岳の逸見之荘でせっせと領地の開拓や基盤固めに精を出した、って事ですか・・。やっぱり常陸国での経験が骨身にしみたんでしょうか、当時の甲斐源氏達は・・」私はやや茶化し気味にそういった。

「失敗からしっかりと反省して、学習して同じ過ちを繰り返さんこんは大事なこんさ」西島さんがそう言った。
 

「そうはいっても、武田氏なりの計算もちゃんとあったですよ」藤木さんが言った。

「と、言いますと?」私は藤木さんに尋ねた。

「八ヶ岳の麓から韮崎にかけては『甲斐ノ三牧』って言って、昔っから甲斐駒の産地として有名な牧き場があったですよ、あの辺りに」

「そういえば確かあの辺は『巨摩(こま)郡』の一画の、北巨摩って言われる辺りですよね、確か」私がそう言うと藤木さんは

「まさにその通りで、飛鳥・奈良時代頃に大陸、たぶん朝鮮半島の高麗人なんかの渡来人が移り住んで、馬の飼育や畜産に勤(いそ)しんだ辺りだと言われている場所でしてね。
 
巨摩は高麗から来た言葉でしょうし、後の駒にも転じるんですね巨摩は・・。
要するに馬の有力な産地だった、ってことですね八ヶ岳山麓は・・。まぁ、これがいわゆる甲斐駒に成るですね・・」藤木さんが言った。
 
 
「なるほどね、武田氏は武人として生き抜いていくためには騎馬武者として馬の畜産や育成が大事だってことに、気づいていたって事でしょうかね。そういった認識の上で、目的意識をもって八ヶ岳山麓に拠点を構えた、ってことなんですか武田氏は・・」私は自分の頭を整理する意味で、そう言った。
 
「そういった点が他の領主とは違って、後々義定公が農産物以外の事業に目を向けるって事に繋がって行ったんでしょうか・・。
ところで、当時の甲斐之國って一体どのくらいの人口が居たんでしょうかね?」私はフト湧いた疑問を、声に出した。
 
「ほれはねぇ・・。やっとオレの出番が来ただね・・」と久保田さんが待ってましたと、言わんばかりの顔で反応した。

「大体のところ7万人前後だっただよ、平安末期だと・・」そう言いながら、バッグからタブレット端末を取り出し、操作を始め画面を見ながら話しを続けた。

「正確には、72,800人だそうだよ。1150年頃の推計人口だけんがね」と。

「えっ、どうしてそんな細かい数まで判るんですか?」私は驚いて久保田さんに尋ねた。

「オレにも詳しいこんは判らんけんが、当時のコメの生産高なんかを基に養える人口を割り出したらしいだよ。その分野の学者先生が出した推計値だと、ほうなるみたいだね。

因みに当時の日本の人口は683万6,900人だそうだよ・・」久保田さんは続けた。

 

「1150年というと平安時代の末期ですよね。将に義定公が生きてた時代ですね。

なるほどその頃の人口は690万人、約7百万人ですか・・。ってことは今の埼玉県の人口にほぼ匹敵するわけですか・・。現在の日本の総人口の二十分の一くらいだったんですか、当時の日本の人口は・・」

私は安田義定が生きていた時代の、甲斐之國や日本の規模感がなんとなく頭に入った。
 
「今の山梨県が83万人くれぇだから、当時の甲斐之國は十二分の一強だった、っちゅうコンかい。なんとまぁ、少ねぇもんじゃんね」西島さんも改めて認識したようだ。

「さすが、雑学の久保田さんですねそうやってまめにデータとか集めて、いつもタブレットに記録してるんですか?」私は久保田さんの情報管理力に感心した。

「久保田さんは機械に強いからな・・」藤木さんも感心した様につぶやいた。

「何ょう言ってるで、こんなもん機械の内に入らんだよ。うちの息子や娘でも使ってるだから」久保田さんは何でもないことだと、さらりと言った。

「まぁ今の若い衆はほう言うけんが、おらんとう年寄りにぁケータイがせいぜいダネ。スマホだってよくは使い切っちゃぁいんだから・・」西島さんがため息交じりに云った。傍らで藤木さんも一緒に肯いていた。

 

「藤木さん、続きを伺ってもいいですか?」私は、藤木さんに安田義定公について続きを話してもらうように促した。

「おお、ほうだったね・・」藤木さんは慌てて話をつづけた。

「因みに義定公は二十代の時に、同じ新羅三郎義光の子孫でもある信州佐久の郷を治めていた平賀有資(ありすけ)の娘を娶り、牧之荘安田郷に移り住んだんだですよ。嫡子の義資(よしすけ)の資は、母方の祖父の名前をもらったんでしょうね、きっと。

それから安田三郎義定って名乗るようになったんですね。武田清光の三男だったから三郎って言ったですよ。

因みに清光の長男と次男は双子で、長男が八ヶ岳山麓の逸見之荘をそのまま継いで逸見光長を名乗ったですね。

ほれから双子の弟の信義が、武田の姓を継いで武田信義って名乗るように成って、甲斐源氏の嫡流に成ったですね。これが甲斐武田家の始まりで、信義公が武田家の家祖になるわけですね」藤木さんはここでワインを飲み、一息入れた。

 

「結構あれですね、武田清光の子孫も活発だったんですね。それって八ヶ岳山麓に移って、一族の基盤を固めてから拡張路線を辿った、って事ですね。
韮崎や牧之荘安田郷の方面に子供たちが進出したってことは・・」私が言うと、藤木さんは

「そうですよ。他には四男の加賀美遠光が昔の若草町今の南アルプス市辺りに、六男の河内長義は今の身延町辺りに進出したですよ、それぞれ」と、詳しく話してくれた。

「ってことは安田義定を除いて昔の『巨摩郡』を北から南まで全部抑えた、って事ですか武田義光の子供たちは。すごい繁殖力というか、生命力ですね」私は思わず感心してしまった。

「おっしゃる通りです。で、いずれも甲斐駒の繁殖にも力を入れたですよ。南アルプス市の櫛形山の麓とかにも牧き場を造ったみたいでしてね、加賀美遠光は・・」藤木さんが続けた。

 

「それにしても、安田義定公だけ何で牧之荘だったんでしょうね?巨摩郡じゃなくって・・。山梨郡になるんですよね?牧之荘安田郷は・・。今の山梨市や塩山の辺りでしょうから、当時の國衙のあった笛吹市の一宮に相当近い、といって良いエリアですよね・・。
常陸之國で懲りた筈でしたよね、地元の旧勢力の基盤近くには進出しないと・・」私は疑問に思って聞いてみた。

「好(い)いとこに眼をつけたじゃんけ、立花さん」西島さんが、ニヤリとして私を観た。

「実はね、安田義定公が地元の古豪の三枝氏の地盤近くに進出したのには、ちょっとした事件があっただよ」西島さんは嬉しそうにそういって、話を続けた。

 
 
 
 
             【 甲斐源氏の家系図 
 
                     源義光
                    (新羅三郎)
 
                      ↓
 
          盛義    --   義清    —―    義業
         (平賀氏)       (武田氏)        (佐竹氏)
 
                      ↓
 
                    甲斐源氏 清光
                      ↓
          ―-------ーーーーーーーーーーーーーーーーーーー  
          ↓        ↓        ↓        ↓
         義定       遠光      信義      光長
        (安田氏)     (加賀美氏)   (武田氏)     (逸見氏)
 
 
 
             参考資料:『安田義定(小山周次著:昭和12年7月発刊)
 
       小山周次氏は安田義定の末裔に当たる方で、同書は一族に伝わる古文書や資料・伝承を基に
       書き現した著書だそうです。
 
 
 
 
 

         「1150年の推定人口」:『明治以前日本の地域人口』

                            鬼頭宏著1996年)  

     甲斐之國   ・・・・・・・ 七二、八〇〇人(124,500人

     山城之國(京都) ・・・・ 一八五、〇〇〇人(558,000人

     遠江之國    ・・・・・・ 九四、〇〇〇人(133,500人

     駿河之國    ・・・・・・ 七一、〇〇〇人(125,500人

     相模之國(神奈川) ・・・・ 八三、三〇〇人(124,300人

     武蔵之國(東京+埼玉)・・ 三七三、七〇〇人(708,500人

     全国の人口 ・・・・ 六、八三六、九〇〇人(12,273,000人

                 註:( )は1600年江戸時代初期の人口、同著

 

平安時代末期の、安田義定たちが活躍した時代の人口は上記の通り。

「甲斐之國」を始め多くの地域が十万人以下であり、現在の地方中小都市レベルの人口に過ぎない。鎌倉幕府開幕以前の「相模之國」も同様である。

因みにこの時代最大の人口を抱えていたのは、右の「武蔵之國」であり、全国の人口の5%程度のシェアであった。当時の坂東(関東)の国力が京都を含む西国よりも勢いがあったことは、これらのDATAからも理解する事が出来る。

京の都を含む「山城之國」の規模感も現在の地方の中都市レベルにとどまっているが、当時の関西圏で最大の人口を擁していたことは、間違いない。

また、450年後の江戸時代初期(1600年)には全国の人口が2倍近くに増えているが、その主たる要因はこの450年の間に、コメの耕作面積が拡大したり農工業の生産性の向上によって、食べさせることのできる人口が増えて来たことによる、と言われている。
 
 
 
 

 

孫子の兵法

 
 
「応保二年西暦の1162年に『八代荘停廃事件』っていう、荘園に関わる全国でも珍しい事件が勃発して、三枝氏の権威が失墜するきっかけがあっただよ」

「その『八代荘停廃事件』ってのは因みにどんな事件だったんですか?全国的にも珍しい事件と言いますと・・」私はその事件が気になった。

「『八代荘停廃事件』、別名『長寛勘文事件』ともいう事件でね、当時の八代之荘にあった紀州熊野神社の社領地の『長江』『安多』の荘をめぐる事件だよ。

新しく甲斐守に任命された藤原忠重と在地官僚の三枝氏が結託して、熊野神社に相談もなくほこを勝手に自分たちの加納田にしちまったさ。ほれに怒った熊野神社が朝廷に訴え出たってわけさ。

で、朝廷が調査してみた結果藤原忠重と三枝氏の悪事が判明して、処罰されたっちゅう事件だね」西島さんが手帳を見ながら解説してくれた。

 

「なるほど判り易い話ですね。その事件をきっかけに名門三枝氏の甲斐之國での名声や権威が、地に堕ちたってことですか・・。ふ~ん、なるほどね~。

で、そのタイミングに甲斐源氏達が巨摩郡から山梨郡に進出したって、わけですか。あははこれもまた判り易い構図ですね」私はなんだかおかしくてニヤニヤしながら続けた。

「そういう、いわば千載一遇のチャンスが来るまでじっと巨摩郡で力を蓄えていて、天の時の到来を待っていた、ってことでしょうか甲斐源氏は。なるほどね・・。で、そのチャンスが到来した時に、その好機をしっかり捉えてタイミングを逃さなかった、ってことですね甲斐源氏は・・。
やっぱり領地拡張志向が強いんですね、甲斐源氏は。アハハ」私はその時の彼らの動きがハッキリと理解できた。

「ハッハほの通りだね。甲斐源氏も立花さんにあったら形無しだね、アハハ」西島さんも愉しそうにそう言った。

 

「因みにその事件が1162年にあったとすると、安田義定公は1134年生まれだから27・8歳ってことですか、血気盛んな年ごろですね・・」そう言った時の私の眼は、きっと笑っていたに違いない。

「ただね、義定公がそのタイミングで牧之荘に移ったことには、当然のことながら一族の中では十分すぎるくらい協議されたと、思うですね」藤木さんがそう説明した。

「まぁ、そうなんでしょうね・・、きっと。ところで血気盛んな若大将ってこと以外に、何かあったんでしょうか?義定公の人間性とか性格に・・」と私は疑問を口にした。

その問には西島さんが応えてくれた。
 

「ほりゃぁね、ずっと後になって例の富士川の戦いのこんにヒントがあるだよ。あの富士川の戦いの後、義定公は平氏を追っかけて遠江(とおとうみ)之國を実効支配しつら。

ほの後結局は朝廷から国守に任命されたり、鎌倉幕府から守護と地頭に任命されてお墨付きをもらったじゃんね。

ほん時に義定公が遠江を領地にして、武田信義が駿河を領地にしたじゃんね。オレはね、ほれもこの時の牧之荘の時とおんなじ理由でほう成ったんじゃねえかって、想ってるだよ」

西島さんの説明に、私は閃くものがあった。
 

「それって、敵対する勢力がいる最前線に義定公が領地を構えるって構図ですか・・。言い替えれば義定公は、敵対勢力の最前線に赴くのに相応しい人間だって、ことですか?」私は西島さんに尋ねた。

「やっぱり立花さんは、カンが好いじゃんね」嬉しそうに西島さんが言った。

「あはは、ありがとうございます」私は軽くお礼を言った。

 

「富士川の戦いの後武田信義が甲斐に近い駿河を支配して、安田義定公がまだ平氏の勢力の力が残る、京に近い遠江を支配するようになったってこんも、甲斐源氏の中で義定公っちゅう人間がどう思われていたかを、推し測るこんが出来るってもんだよね」西島さんは続けた。
 
「ふ~ん、なるほどですね・・。義定公は単なる血気盛んな武将って事だけじゃなくって、前線基地を任せられる能力や胆力・知恵のある武将だった、ってことですか。
敵方の平氏を支持する勢力がまだ残っている最前線で、その敵方がいつ反撃して来るかもしれない危険な環境であっても、十分力を発揮することが出来る有能な武将だった。っていう・・」
そう言いながら私は少し安田義定の人間像の一端を理解できたような気がした。
 
「まぁ、ほうゆうこんだね。甲斐源氏の一族の中で義定公はほんな風に認められてたから、遠江や牧之荘を任されたじゃぁねかって、ほう考げえることが出来るじゃんね。なぁ藤木さんよ・・」西島さんはそう言って、藤木さんに同意を求めた。
藤木さんは頷きながら、
 
「そういうこんですね。実際義定公が遠江を実効支配してからも、ついこの間まで平家方についていた、地元の武将たちとひと悶着あったですよ。具体的には浅羽之荘を治めていた、古豪の浅羽宗信や相良之荘の相良三郎なんかは、義定公に敵意をもって接してましたからね。『吾妻鑑』にそういうエピソードが書かれてるですよ。
 
それに加えて、京に居た平家方も関東の源氏を討伐するための軍団を結成して、後白河法皇とは別ルートで、天皇方の朝廷から源氏討伐の令旨を貰った上で、平宗盛を総大将にして攻めてきたですよ」と、補完説明をしてくれた。
 
「でしょうね、その方が自然ですよね・・。戦いに一回勝ったくらいで平家の支持基盤が簡単にひっくり返る、そんな単純なものではなかったでしょうからね平氏の支配も・・。オセロゲームじゃないんだから・・」私は、二人の説明に納得した。
 
 
「ちょっといいけ?俺にも一言いわせてくれんけ・・。実はね、俺は義定公って人は『孫子の兵法』を勉強してたじゃねかって、ほう想ってるだよ」久保田さんが突然そう言って話題に入って来た。私達は久保田さんを観た。

「まぁ、実は前っから俺はほう想ってて、『孫子』を改めて初めっから読んでみとうさ。ほしたら義定公の戦さの仕方が孫子の兵法を参考にしてるんじゃねぇかって、ほう想えるこんがいっぺぇ出て来ただよね・・」久保田さんは私達を観廻して、そう話した。

「具体的にはどんなことがあったんですか?」私は、久保田さんに続きを促した。

 

「まずはね、頼朝が挙兵して惨敗したあの石橋山の戦いのすぐ後、富士山の北麓であった『波志太山』の戦いのこんさ。駿河の平氏と甲斐源氏が初めて戦ったあの戦さね。

戦いの場がだだっ広い富士の裾野じゃなくって、山狭の細い道しかねぇような場所で行われた、ってこんがあったら?あれなんか兵力の数で劣る義定公達が、自分たちに有利な戦い易い場所をあらかじめ調べておいて、ほこで待ち伏せして動きの取れない相手を壊滅させた、って戦法ずら。

これなんか孫子の兵法の『地形篇』の活用と思えるじゃんね」久保田さんは嬉しそうに持論を展開した。

「ほれから例の水鳥の大群の水音を使って大勝した、富士川の戦いでの夜襲は孫子の『行軍篇』の応用だと考えられるしね・・。
ほれに京を逃れた平氏を追っかけて、平氏の主力をほぼ壊滅させることに成った一ノ谷の戦い方とかもそうじゃんね。
 
義定公と源義経は(から)め手から攻めて背後を突くっていう、ほういう戦法を取っつら?ほうゆう戦い方は当時の武士の戦い方としては、えらい珍しい戦法だっただよね。
奇襲や奇策を使ったり、大手からの真正面の戦いより裏手からの搦め手の戦いが多かったりしてるだよね、義定公の戦法は」久保田さんは一息入れて、更に話を続けた。
 
 
「さっきの話だって、平宗盛を総大将にした源氏討伐軍が三河辺りまでは進軍できたけんが、遠江の浜名湖の手前に義定公を中心とした源氏の軍勢が構えて居たから、ほれ以上攻めてこれなんだだよね。
ほれだって、『孫子の兵法』なんかに書かれてる布陣の仕方に則った、地の利を活かした戦法じゃんね。
 
とにかく義定公の戦法は、自分に有利な場所を意図的に選んだ上で戦って、ほの結果勝利を収めたり、相手の意表を突く戦いで勝ったりってこんが、多いさ」そう言ってから久保田さんはここでニヤリとして、言った、

「『吾妻鑑』なんかには、何だか偶然出っくわした戦さみてぇに書かれてるけんが、ちゃんと孫氏の兵法の戦法に則ってるだよ。ほりょう『吾妻鑑の編者たちが何にも理解してねぇから、ほんな風に書かれてるだけだよね」久保田さんはやや上から目線でそういった。

 

「久保田くんよ、おまん何時(いつ)っからほんな面白れぇこん考げえてただね」西島さんが笑顔で久保田さんをからかいながら、尋ねた。

「何時っからっていうとですね、信玄公の風林火山がきっかけって言えば、きっかけだったですね。信玄公は孫氏の兵法を勉強してて、風林火山なんて旗印をおったてたり間者を活用したり、けっこう孫子を使ってるじゃんね。

ほれに興味を持って調べてるうちに信玄公と義定公の関係にまで行き着いて、最後は義定公と孫子の関係に辿り着いた、ってわけですよ」久保田さんは嬉しそうに応えた。

「前っから、なんとなく義定公の戦さの仕方が、当時の平安時代の武士の一般的な戦法とはちょっと違うなって感じてたですよ、俺は」そう話す久保田さんの鼻息は興奮しているのか、やや荒かった。
 
 
「ほれっから色々と調べていくうちに、信玄公が義定公をかなり尊敬・尊崇していたこんが判ったですよね。で、ひょっとしたら信玄公は義定公の戦法を研究したり調べているうちに、義定公が『孫子を活用してたこんを理解して、ほれっから勉強したり見習ったのかも知れんなって、ほう考えるように成ったですよ、俺は・・」

「えっ武田信玄が安田義定を尊敬・尊崇してたんですか⁉」私の中では二人の間に接点がなかったので、ちょっと驚いた。

 

それまで黙って聞いていた藤木さんが、口を開いた。

「それは間違いないですよ。武田家一族が義定公の武将としての能力を高く評価してたのは、さっきの話の通りです。だからこそ、一族として牧之荘を任せたり遠江之國を任せてたりしたですよ。

もともと評価が高かった義定公が、頼朝によって非業の死を遂げさせられたってこともあって、義定公の甥っ子に当たり武田宗家の五男である武田五郎信光公が、義定公のお孫さんの面倒を見たりしてましたからね」藤木さんはワインを一口飲んで続けた。

「それだけじゃなくって、武田家はもちろん信玄公自身も義定公が勧進した『放光寺』に寺領を与えたり、義定公の命日には法要をしたりして援助してたですよ。
因みに信玄公はこの武田信光公の直系になるんですね、十四代ほど後のこんですが・・」藤木さんはさらに話を続けた。
 
「その伝統は後世武田家が織田信長・家康の連合軍によって滅亡される迄続いたようです。因みに信玄公は、川中島の戦いなどの大きな戦に出張る時は必ず、戦勝を祈願して韮崎の武田八幡宮を始めとした、七つほどの神社・仏閣を参拝してたですよ。
その中に放光寺を始め、窪八幡神社や雲光寺などの義定公縁りの神社仏閣が、必ず含まれていたと伝えられてるですよ」藤木さんが言った。
 
 
「なるほど、それだけ武将としての安田義定公を尊敬してた、って事ですか武田信玄は」私の呟きに藤木さん始め、久保田さん西島さんも肯いた。

「ほうだから、信玄公は尊崇する義定公の武将としての戦術や戦法を研究していて『孫子』に行き着いたじゃねぇかって、想ったですよ俺は」久保田さんが言った。確かにそう考えると、あり得なくもないかなと私も思った。

「久保田さんあんたその考えを、今度まとめて研究会の会報に出してみろしね。結構いい反応があるかも知れんよ・・」藤木さんはそう言って久保田さんに勧めた。

「ほうだよほれがいい。オレも読んでみてえよ久保田君のほの説をまとめた論文をよ」西島さんは楽しそうにそう言った。

「ついでに、もっと調子に乗ってもいいけ?」久保田さんは二人の意見には反応しないで、一段と嬉しそうな顔に成って言った。
「義定公が孫子を勉強してたとすると、甲州スッパや甲州ラッパの始まりもひょっとしたら義定公につながるかも知れん、って思い始めてるだよ俺は。ウフフ」

「甲州スッパや甲州ラッパ?ですか?」私はいったい何の話をしてるのかサッパリ意味が判からなかった。

 

 

 

        『 吾妻鏡 』における「波志太山の戦い」の記述

           治承四年八月二十五日の条   『全訳吾妻鏡(新人物往来社)

 

俣野五郎景久、駿河国目代橘遠茂の軍勢を相具し、武田・一条等の(甲斐)源氏を襲はんがために甲斐國に赴く。  

富士の北麓に宿するのところ、景久ならびに郎従帯するところの百余張の弓弦鼠のために食ひ切られおはんぬ。よって思慮を失うの刻、

安田三郎義定・工藤庄司景光・同子息小次郎行光・市川別当行房、(頼朝の)石橋において合戦を遂げらるる事を聞き、甲州より発向するの間、波志太山において景久等に相逢う。

おのおの沓を廻らし、矢を飛ばして、景久を攻め責む。挑み戦ひ刻を移す。

景久等弓弦を絶つによって、太刀を取るといへども、矢石を禦くに能はず、多くもってこれに中る。しかれども景久雌伏せしめ逐電す云々                                 

                                 ( )は、著者の註

 

         『 孫子 』地形篇の抜粋

                                『孫子』(岩波文庫)

「狭い地形の土地では、こちらが先にその場を占めて、必ず兵士を集めて敵のやって来るのを待つべきである。

もし敵が先にその場を占めていれば、敵兵が集まっている時はそこへかかって行ってはならず、敵兵の集まっていない時には、掛かって行っても良い」

 

安田義定の甲斐源氏が、駿河の平氏の大群を狭隘の地で待ち伏せて、壊滅させることが出来た原因を偶然の出来事とはとらえず、このように『孫子』を学習し理解して、この戦いに活用したからであると考えると、すんなり理解することが出来る。

 

 

 


 

甲州スッパ・ラッパ

 

「ん?立花さんは知らんけ?まぁ、無理ねぇかな・・」西島さんはそう言ってから、私に説明してくれた。

「判り易く言えば忍者のこんだよ。甲州じゃぁ忍者のこんを『スッパ』とか『ラッパ』て言っただよ。これも信玄公の時代が有名で、一般的には信玄公が確立したって言われてるだよね」と。

「はぁ、忍者ですか・・。因みにどんな字を書くんですか、スッパとかラッパって・・」

(もと)を破ると書いて『素破』、乱と破ると書いて『乱破』っていうだよ。因みにスッパ抜くって新聞や週刊誌で使う言葉があるれ、あれの語源でもあるだよ」私の問いに久保田さんが応えてくれた。

 

「なるほど素(もと)を破るっていうのは素を破るだから、情報源を探りだすとかの意味なんでしょうかね・・。きっとスパイするとか間諜するって意味ですかね?               

でも、ラッパって何なんですかね・・ちょっと予測付かないですね・・。乱と破るですか?何だろう」私が考えていると久保田さんが教えてくれた。

「乱して破るってこんだから、相手をかく乱させるとか引っ掻き回す、ってこんじゃねかって、想うよ」

「なるほどそうすると情報を探り出すスッパと、相手をかく乱したり引っ掻き回すラッパの二種類いたってことですか、甲州の忍者には・・。

伊賀者とか甲賀者の様に忍術を使う忍者っていうより、近代の007やCIAのイメージに近い種類のスパイだったんですかね、甲州忍者は・・」私はその様に理解した。

 

「まぁ二種類が居たってゆうより、二種類の仕事があったってこんズラね。同じ人間がスッパになったりラッパになったってこんさ」西島さんがフォローしてくれた。

「ところで久保田君、おまん(あなた)はなんで義定公が甲州スッパや甲州ラッパの甲州忍者につながってくるって、考げえただい?面白れぇ、話だけんがさ・・」西島さんが興味津々と言った顔で、久保田さんに尋ねた。

「えっ、何でかってけ?気になるですか?ウフフ・・。

ほれじゃぁ、話すじゃんね・・」久保田さんは待ってましたと言わんばかりに嬉しそうな顔をして、話し始めた。

 

「まずはね、義定公が『孫子』を知ってたってこんから始まっただよね。さっきも言ったけんが・・。で、知っての通り孫子には『用間篇』って言ってスパイを活用する兵法が書いてあるれ」

「そうですね」私はかつて『孫子』を読んだこともあって、その事は知っていたのですぐに相槌を打った。

「義定公が『孫子』を読んでいれば間諜要するにスパイだね、そのスパイを活用するこんの重要性を認識してたって、考げえることは当然出来るれ」久保田さんはそう言って私達に同意を求めて、話を続けた。

「ほれを前提にしてっから、もう一遍義定公の戦さの仕方を見直してみただよね」

「うん、ほれで」西島さんが先を促した。

「ほしたらね、スパイを活用したじゃぁねかって想えるこんをいくつか発見しただよ・・」久保田さんは言った。

「もったいぶらずに早く話せし」西島さんがじれったそうに言った。

 

「例えば富士川の戦いの二ケ月前にあった例の『波志太山の戦い』ね。頼朝が大負けした石橋山の戦いのすぐ後にあった、甲斐源氏と平氏の戦いだよね。さっきも話したけんが・・。富士山麓の北っ側で、石橋山の戦いの余勢をかって甲斐源氏を討伐に来た駿河の平氏と、義定公を核にした甲斐源氏が闘った戦さで、その決戦の前の晩に平氏方の弓が(ことごと)く野ネズミの群れに食われちゃった、って話があるれ。

ほれで平氏は弓矢を使うこんが出来んで壊滅的な敗北を決した、っていうエピソードがあるじゃんね」久保田さんは解説した。

「野ネズミの群れが弓の弦を食いちぎったって『吾妻鑑』にほう書かれてるだけんが、ほの弓の弦をちぎって使えなくしたんが、野ネズミじゃなくって義定公が放った甲州ラッパがやったと考げえてみたさ。鼠の仕業って考えるより、人間のほれもスパイがやったって考げえた方が、よっぽどすんなり理解できるじゃんね・・」

久保田さんの話に、私もそう感じた。富士山麓の鼠の群れが弓の弦だけを食いちぎる確率より、意志を持った人間の仕業と考えた方が確率も高いし、リアリティがあるからだ。

 

「なるほどなひょっとしたらなんだな、ほの『野ネズミ』っちゅうのは甲州スッパの仲間内でも『ネズミ』って言われてる人間だったかもしれんじゃんな。

小柄ですばしっこくて、ちょろちょろ動き回る人間で、仲間内でほんな風に呼ばれていたのかもしれんな。有りそうだよな、ほうゆうあだ名・・」と西島さんが続いた。

はぁなるほどな、そう言われてみればそう云うのもありかな・・。と私は西島さんの発想をスッと受け入れた。とてもよく理解ができた。

久保田さんは嬉しそうに、大きく首を縦に振って同意を示し、話しを続けた。

 

「ほれからね、例の富士川の戦いの後甲斐源氏に追われて逃げた平氏の軍勢が、逃げたあと態勢を整えようとした陣地で原因不明の不審火が続いて起こって、『陣』を整えるこんが出来んだったと『吾妻鑑』に書いてあるれ。ほれが原因で、結局平氏は態勢を立て直すこんが出来んまま、京まで退却しちゃったってね。

ほれだって『吾妻鑑』には偶然の出来事みとうに書かれてるけんが、偶然の出来事って考げえるより、甲州ラッパの攪乱戦術の一つだって考げえた方がよっぽどすっきり納得出来るじゃんね、不審火が立て続けて起こったなんてね・・」

私はそれらのエピソードは初耳で殆ど知らなかったのだが、久保田さんの話には説得力を感じた。

 

「なるほどな、確かにほう言われればおまんのゆうように思えなくもねえな・・。でも何で、義定公は甲州スッパや甲州ラッパを使うこんが出来ただね。
ほうゆう人材を使ったとしても、どっかからスカウトでもしたズラか?伊賀や甲賀っから。ほれとも何年も掛けて、忍者として育てとうズラか?」西島さんが疑問を口にした。

「ほれが肝心なこんだよ西島さん」久保田さんはまた、嬉しそうな顔で話を続けた。

「ほこに金山衆や修験者が絡んでくるって、にらんだだよ。俺は」久保田さんは、ニコニコ顔で私達をもう一度見て、話しを続けた。

「金山衆や金山衆に近しい存在だった修験者はね、忍者や間諜になる素質をもってるじゃんけ、いっぺぇね」

「と、言いますと?」私は久保田さんに続きを促した。

 

「金山衆は職業柄土木技術を持ってたから、ほの技術を活用すれば物理的に敵を攪乱させたり、混乱させるなんてこんはわりと簡単に出来るじゃんね・・。ほれがまず一つ」久保田さんはここで話を区切って続けた。

「ほれに、金山衆の一部の人間は山で採れた金を使って街に出て、銭に替えたり生活用品を買い揃えたりでしょっちゅう街に行ってるだから、街中に入り込んだり溶け込むこんは訳なかったじゃんね。これが二つ目ね。

で、ほこでいろんな噂話を流したり、あえて偽りの情報を流して世論をミスリードさせるこんなんかも出来るじゃんね、やろうと思えばさ・・」久保田さんは続けた。

「ほれに修験者にしたってほうさ。修験者の格好してりゃぁ日本全国津々浦々を歩き回っても、殆ど怪しまれずに行き来するこんは出来ただよ。これが三つ目の理由だよ。
義定公は牧之荘の領地に居た、黒川金山の金山衆や大菩薩峠の修験者なんかの能力や技術を知ってただから、彼らをうまく活用すれば、間諜やスパイとして充分活用出来得るって考えたんじゃぁねえかって、ほう想っただよね、俺は。
 
もちろん、全ての金山衆や修験者を間諜にしたってこんじゃねえだよ。ほん中のめぼしい人間をピックアップして、訓練させた上で、特別の報酬や任務を与えて使ったりしたんじゃねえかって、ほう考げえてみただよ・・」久保田さんは一気に話した。
 

「ってことはあれですか、義定公は子飼いの甲州スッパや甲州ラッパをうまく使って、さっきの話のような事をやらせたってことですか・・」私は尋ねた。

「まぁほうだよ。義定公が『孫子』を知ってて、スパイや間諜を使うメリットを感じていた時、改めて自分の身の回りを観廻したら、それらに打ってつけの職業集団が居るのに気づいたんじゃねえかってね。

ほん中のこれはっていう人間を選んで、育てながら使うこんを考えたんじゃぁねえかってね。義定公は知恵のある人間だっただから、ほのくれいのこんは考えたと思うよ・・」久保田さんは自ら肯きながら、そう言った。

「それが黒川衆や修験者たちであったと、そう久保田さんはお考えなんですね・・」と私は言った。

 

「なぁ久保田君よ、せっかく面白れぇとこに眼をつけただから、藤木さんが言うようにちゃんとまとめて、裏付けもしっかり取って郷土史研究会の機関誌に論文を書けしね、ほれが好いじゃんけ・・」西島さんはそう言って久保田さんに、その説を取りまとめて公表することを促した。それには藤木さんも同調した。

「久保田さんよ、西島さんが言うように会の機関誌に発表したら好いよ、孫子の兵法から初めて甲州スッパのこんまで含めてね・・。

多少信玄公の信者達から波風が立つかもしれんけんが、甲斐源氏の研究者達に一石を投じる事に、成ると思うよ。きっと・・」二人に促された久保田さんは、嬉しそうにニコニコしていたが明確な回答は出さなかった。

「あんまりまごまごしてると、オレが書いて発表しちもうぞ!」西島さんがそう言って久保田さんをけしかけた。
 

「えぇ~、ほりゃぁ困っちもうじゃんけ・・。ん~ん、ほんじゃぁまぁ書いてみるけ皆がほこまで言うじゃぁ」久保田さんは不承不承、と言った感じでやっと皆のいう事を承諾した。が、その眼は笑っていた。

「僕も楽しみにしてますよ。発表したらその時の機関誌を僕にも一部分けてください。孫子の件も甲州スッパや甲州ラッパの件、なかなか面白かったですよ」私は久保田さんの背中をたたきながらそういって、励ました。久保田さんは嬉しそうにしながらも、照れていた。

「ほんじゃぁ、前祝いにスパークリングワインでも頼んで、乾杯するかい」西島さんは、上機嫌でそういうと、ウエイトレスを呼んだ。

私達の会話が弾んでいる最中も、窓の向こうの富士山は泰然自若としたままの雄姿で、そこにまみえていた。
 
 
 
 
 
 
 
 
 

 

甲斐之國 いはら郡

 
 翌日東京の自宅に戻った私は、早速函館の杉野君宛てのレポートの準備を始めた。

山梨での西島氏達との情報交換によって得た内容を、記憶がまだしっかり残っているうちに、メモとして記録しておきたかったのだ。思い付くままに、ランダムに書き残すことから始めた。

帰りの特急電車の中でもやったが、家に戻って風呂に入り、一眠りしてから本格的に始めることにした。

西島さんや藤木さん、久保田さんなどの顔を浮かべながら土産に買った煮貝をつついて、お酒を飲みながら昨日のことを反芻して書いた。

一通り出し尽くしたと想えたので、その日はそのまま寝た。

 

翌日から、いよいよまとめの作業に入った。

昨日書いたメモをノートから外しバラバラにした上で、関連する項目を整理しグループ化した。そのグループを幾つかに分けながら、それぞれのグループの相関関係等を明らかにした。サラリーマンをしていた頃から用いている手法で「関連樹木法」という手法だ。
その上で改めて情報を整理した結果、以下の様にまとめることが出来た。
 
一、「安田義定と甲斐之國いはら郡に関すること」

二、「安田義定の領地経営に関すること」

三、「黒川金山と富士金山について」

四、「荒木大学の役割」

五、「安田義定一族の滅亡と金山衆の大移動」

六、「修験者大野了徳院の役割」

                             と言った感じだ。

これらの情報を整理した上で、山梨県立図書館でコピーしてきた諸資料の読み込みを行った。コピーの量が多かったこともあり、資料の読み込みが終わるのに一週間を要した。

『山梨県史』や各市町村の『市町村史』は、その編集方針や自治体のスタンスによってバラつきがあったが、全体像を把握するのには役立った。
 
多くの史書が当時のことを語る論拠の文献として『吾妻鑑』を踏襲していることが判った。とりわけ小さな市町村の場合、その傾向が強かった。
ぁ、スタッフの問題や予算の事を考えるとそれも無理のないことではあるが、と納得はしたが、そのことはしっかり認識しておいた。
 
県史の場合は『吾妻鑑』の他に『玉葉』『右中記』『愚管抄』などの同時代の一級の人間たちの日記や記録書との比較や検証が行われており、ある程度複眼的に検証していることが確認できた。従って同一のテーマに関しては市町村史よりも県史に信を置いた。

 

それら山梨県の資料を読み込んでいくうちに私は、静岡県側の資料も読む必要があるのではないかと、フと思い始めた。

安田義定及び富士金山に関する資料については、安田義定が領主として治めていた『甲斐之國いはら郡』の在った駿河の一部や、遠江之國にも何らかの形で記録や逸話が残ってるのではないか、という期待感が芽生えて来たのであった。 

気がかりなのは、義定の統治した期間が14・5年と限定的であった点と、平安末期から鎌倉時代初期という八百年程遡った中世に関する記録や足跡がどの程度残っているのか見当がつかない点であった。

ともあれ静岡側の資料や史書を確認する必要性を感じた私は、山梨県で得た情報を一通り読み終えて落ち着いた4月上旬に、安田義定が治めていた頃の『甲斐之國いはら郡』である、富士市と富士宮市を訪れることにした。

 

私は新幹線で新富士にと向かい、昼過ぎには着くことができた。

駅の近くでレンタカーを借り、そのまま真っ直ぐ富士市の中央図書館に向かった。

富士市の中央図書館は市役所の先に在り、やや北側即ち富士山側に位置していた。海寄りに在る新幹線の駅側から向かうと、富士山を真正面に見据えそのまま真っすぐ北上することに成り、富士のすそ野を駆けのぼるような構図になる。

 

富士市には4・50年前に一度来たことがある。大学生の夏休みに京都から鈍行を乗り継いで八王子の実家まで帰った時に、昼ご飯を食べるために途中下車したのだった。

当時は公害に対する社会的な規制が問題になり始めた頃で、まだ企業や行政の対応も十分とは言えず、富士駅で降りた時、というか鈍行の電車が富士市に近づいたあたりから、腐った廃棄物の異様な匂いがしたことを覚えている。 

当時駿河湾には富士市の製紙工場などのヘドロが堆積しており、異臭の元はそのヘドロの臭いだった、と新聞記事で読んだ記憶があった。

従って富士市は公害の街という印象が私には強く残り、その時以降富士市に対するイメージは決してポジティブなものではなかった。

さすがに半世紀近くたった現在では、公害に対する社会的な意識の高まりを反映して当時のような悪臭は無く、ヘドロなどもとうの昔に除去されていたのだろう。かつてのような鼻を衝く不快な匂いは、既になかった。

 
図書館では郷土史のコーナーを訪れ『静岡県史』『富士市史』の他に、かつての遠江之國に当たる『磐田市史』『森町史』などを見つけ、安田義定や源頼朝に関する記事が掲載されている中世の項目を中心に、コピーをした。
その日はそれで済ませ、ホテルにと向かった。

 

翌日は九時前にホテルを出て富士宮市の中央図書館に向かった。富士市からは車で西北に向かって2・30分近く走り、富士浅間神社本宮近くに在る市の中央図書館に到着した。

富士宮の中央図書館では『富士宮市史』はもちろんの事、富士金山に関係のありそうな書籍の他に、地元に伝わる伝説や伝承を扱った図書類もチェックし、中世が舞台のご当地本などもチェックした。

その中に『初期鎌倉政権の政治史』という歴史学者が著した書物を発見し、斜め読みした。同書には、頼朝の鎌倉初期の政治的軍事的行動を分析した論文が記載されていた。
その内の、安田義定や甲斐源氏などに関連しそうな箇所を抽出しコピーしておいた。
 
 
その日は富士宮市のホテルに泊まり、夕食を済ませた後、早速『初期鎌倉政権の政治史』を読んでみると、注目すべき項目が幾つか有り一気に読み通した。
それは有名な「富士の巻狩り」に関する記述であった。

「富士の巻狩り」は建久四年(1193年)五月から富士山の裾野で、頼朝が一ヶ月近くに亘って行った、大規模な狩りという名の軍事演習であった。

この時に『曽我物語』で有名な曽我兄弟の仇討ち事件があり、私もなんとなく記憶していたが、それが一ヵ月の長期に亘って実施されたイベントであることは、山梨の西島さんに教えてもらうまで、私は知らなかった。

 

その歴史書の中で印象的であったのは、頼朝は「富士の巻狩り」の前に「信濃国三原野の巻き狩り」「下野(しもつけの)国那須野の巻狩り」の二か所で巻き狩りを、同年三月下旬から四月に掛けて移動期間を含めてほぼ一ヶ月の間、行っている点であった。

「信濃国三原野」は現在の群馬県と長野県の県境、浅間山の麓に当たる草津・嬬恋・長野原辺りであり、その山麓で巻狩りという名の軍事演習が行われたのである。      
また「下野国那須野」は、現在の栃木県那須塩原の那須連山の山麓で行われた巻狩りである。
 
頼朝はこの建久四年の三月から六月に掛けての間、関東平野の地政学的結節点であるといって良い、信濃・越後口である「三原野」及び、奥州口である「那須野」そして、甲斐源氏の領地である駿河・遠江・甲斐の国を結ぶ「富士野」の三カ所で、巻狩りという名の軍事演習を行ったのである。
 

この事実は、私には衝撃的であった。

何故なら、頼朝が安田義定の嫡男安田義資(よしすけ)を誅殺したのが、この巻狩りの4・5ヶ月後に当たる、建久四年十一月二十七日の事であり、安田義定本人を討伐したのが翌建久五年八月十九日の事だからだ。

頼朝は、後白河法皇崩御の年でもある建久三年に、長きにわたって望んでいた征夷大将軍の官名を戴き、東国の武士団の頭領のお墨付きを得ていたが、その彼が征夷大将軍着任後の早い時期に、関東の地政学上の要衝の地の三ケ所で行ったのが、関東の主な御家人を参加させたこの大規模な軍事演習であったのだ。
 
 
文治五年(1189年)に奥州藤原氏を討伐し、後顧の憂いが無くなり鎌倉幕府が安定しつつあった時期にこれら三ケ所の巻き狩りが行われたのである。

そしてその巻き狩りから半年もたたないうちに義定の嫡男安田義資を誅殺し、更にその一年以内に安田義定本人を攻め滅ぼしたのである。

私にはこれらの三ヶ所の巻狩りは、頼朝の目の上のたん瘤であった甲斐源氏への行動を興すための布石としての、大きな政治的なデモンストレーションだったのではないかと、感じたのである。

 

頼朝は長らく待ち望んでいた征夷大将軍の官位を、後白河法皇の崩御によってはじめて得ることが出来、朝廷公認の武家の棟梁に成ったのであった。

頼朝は、その権威を内外に見せつけるために「三原野」「那須野」「富士野」で巻狩りを行ったのではないかという、政治的意図を私は感じたのである。

そしてこの三カ所の巻狩りイベントの、最大のターゲットは甲斐源氏安田義定の一族であったに違いない、と直感したのだった。

何故ならば、西島さんが指摘した通り「富士の巻狩り」の行われた富士山西麓は、将に安田義定の領地『甲斐之國いはら郡』そのものであり、富士山西麓の朝霧高原では騎馬武者用の軍馬の畜産と育成、調練が行われていた。
 
また富士金山では金山衆による産金と金の精錬が行われていたからである。
その真っただ中に関東の多くの御家人を引き連れて乗り込み、1ヶ月の長きにわたり滞留し続けた。

この示唆行動により、安田義定を始めとした甲斐源氏に対し征夷大将軍としての自らの力を見せつけると共に、地元で接待を受け持った義定一族に多大な金品を費消させることで、精神面及び経済面で大いなる力を削いだのではなかったか、と思ったからである。

同時に西島さんが推測したように、この安田義定の領地である朝霧高原や富士金山を自らが実地検分することで、噂に聞いていた安田義定のオリジナルな領地経営の実態を確かめた事であろう。そしてその実態を把握した事により、ますます安田義定一族の存在に脅威を感じたのではなかったか。
 

頼朝はこの時に、巻き狩りに参加した鎌倉幕府の中枢である、北条時政・泰時父子などの近習たちと共に、将来の禍根を断つべく安田義定一族を抹殺しなければいけない、との共通意識を持ったのではなかったか・・。

「信濃国三原野の巻狩り」及び「下野国那須野の巻狩り」は、その最終目的のためのステップではなかったのか、と思われたのである。
そのような布石を打った後で環境が整ったのを見計らった上で、降って湧いたように起こった艶書事件を利用して、安田義資に言いがかりをつけ、詮議無きまま誅殺し、最後に本丸の義定を攻め滅ぼしたのではないかと、そのように想いが至った、のである。

甲斐源氏の視点でこの一連の巻狩りを見つめなおすと、そのように推測することが出来るのであった。

 

或いはまた、那須野の巻狩りは奥州藤原氏の残党や常陸源氏の佐竹氏に対する、政治的軍事的プレッシャーを掛けた、と言った側面も持っていたのかもしれない。

と同時に、当時越後の守護であった安田義資の領地に近く、義定公の妻の実家である信州佐久にほど近い「信濃国三原野」で行われた巻狩りは、安田義資への近い将来の攻撃を意識したものであったかもしれない。
 
「信濃国三原野」は関東の最北西端であり、8年間安田義資が守護を務めた越後乃國の最前線に当たる場所であり、義資の母親の本貫地信州佐久にも隣接するエリアである。
そういった場所で行われた軍事演習の持つ意味は、決して少なくない。
 
いざという時の土地勘を、配下の御家人達に植え付けさせるという面もあっただろうし、越後の守護義資公の配下や母親の実家である、信州佐久を本拠地とした平野氏へのプレッシャーという意味もあっただろうと、思われるからである。
 
 
いずれにせよ頼朝にとっては、鎌倉幕府を脅かし得る最大の存在であった甲斐源氏の長老であり氏(うじ)の長者でもある安田義定の一族を、抹殺するための一連のプログラムの中において、この富士の巻狩りが位置づけられていたに違いないと、私はこの『初期鎌倉政権の政治史』記載の論文を読むことで、理解することが出来た。
 
戦さ上手で、騎馬武者用の軍馬を多く養い、金山開発から上がる潤沢な軍資金を確保していた安田義定一族がなぜ、大きな抵抗をすることなく頼朝の送った追討軍に敗れてしまったのか、その原因の一端が垣間見えた気がしたのであった。
 

その夜は遅くまでそのようなことを考えていたため夜更かしをしてしまい、翌朝目が覚めたのは8時を過ぎてしまった。おかげで朝食のバイキングを食べそびれてしまった。

私は空腹を抱えたまま、富士金山奉行の末裔である竹川家の在る、毛無山にと向かった。

途中、頼朝が巻狩りの際宿営所にしていたと言われている井出の「狩宿の下馬桜」を見て来た。

私はその地を、頼朝が北条時政などと共に如何にして甲斐源氏の頭領を追い詰めるかの策謀を練り、そのための検討協議が巡らされた場所ではなかったか、と想いながら見て来たのであった。

その下馬桜の地を離れ毛無山に向かう途上、西島さんが富士金山の初期の開発地ではないかと推測している「長者ヶ岳」及び、その足元に在るかつて長者ヶ池と呼ばれていた「田貫湖」にも立ち寄った。

図書館で見つけた地元の金山に関わる伝説の舞台でもある富士金山の地として、私の記憶と視覚の中に留めておいた。

 

朝霧高原を過ぎ、毛無山の「ふもとッパラ」に現存する竹川家を訪れようとしたが、今のその家は完全な民家で、史跡や博物館などを構えていそうもない純粋な民家であったため、遠巻きに見るに留めた。
かつての大きな家屋敷の唯一の残存物と思われた木製の趣のある門を触り、戻って来た。その存在感のある門はひょっとしたら「長屋門」の一部であったかも知れない、と私は想像した。
 
朝霧高原のある富士山西麓は富士の裾野として平坦な土地が広く続くが、標高が七百m級と高く稲作には適さない高原である。従って稲作を中心とした「荘園」による経済システムに依って成立していた、平安時代や鎌倉時代においてこの地域は不毛の地とされ、領地としての評価は低いものであったと思う。

同じ富士の裾野でも、稲作から上がる石高が一定量期待出来る東麓の御殿場や三島・沼津、南麓の富士市・由比・清水などに比べ、西麓の評価は低いままであったであろう。

米の代わりに採れたのは寒冷地適応の農作物や、せいぜい鹿やイノシシ・熊などの野生動物の獣肉や毛皮などで、当時の経済観念や領地経営の常識では決して高い評価は得られなかったと違いないと、思われた。

従って、当時の駿河之國の領主や京の有力貴族や、著名な神社仏閣の荘園主たちからは、殆ど見向きもされない存在だったのではないか、と推察することができた。

 

しかし甲斐駒を育成し調練する術を知っており、金山開発を自領の産業として育成・奨励してきた安田義定公にとっては、全く違う風景としてこの富士の西麓朝霧高原は映ったのではなかったか、と私は想った。
 
義定公にとっては、自らが甲斐の牧之荘でやって来た独自の領地経営である、軍馬の畜産・育成や金山開発を追求することができ得る、宝の山と映ったのではなかったか、と。

そのような思いを抱きながら新富士駅に向かう私の車の上を、毛無山か大見岳の山頂付近から来たと思われる、パラグライダーがゆっくりと、トンビが優雅に舞う様に、ゆっくりと舞い降りて来た。

富士のすそ野は広く雄大であった。

 

 

 

           「 富士巻狩りの政治史 抜粋

                     (『初期鎌倉政権の政治史』木村茂光著133頁)

「建久四年(1193年)五月八日から六月七日まで一か月間にわたって行われた富士の巻狩りは・・・

信濃の国三原野=東山道の関東への入り口付近、下野の国那須野=奥羽へ続く関東からの出口、という二箇所で行われた狩りに連続して実施されており、かつ富士の巻狩りもまた富士の裾野=東海道における関東の境であったことから考えても、単なる武術・戦闘訓練を目的とした巻狩りと評価することはできない。

関東の主要な出入り口三か所で狩りを実施したのは、関東の支配者としてその支配領域を示したものとも考えられるとか、支配者であることを内外に宣言したようなものである・・」

 

 

 

              

                  朝霧高原から観る富士山

 

 


 

「北海道砂金・金山史研究会」へのレポート

 

静岡県への出張によって、かつての『甲斐之國いはら郡』と言ってもよい富士宮市と富士市・静岡県の諸資料を得た私は、自宅に戻って数日かけてそれらの資料を読み尽くした。その上で、山梨で仕入れてきた資料との突き合せを行った。

今回の取材で得た最大の収穫は、何といっても『初期鎌倉政権の政治史』との出遭いであった。この木村茂光という歴史学者によって書かれた論文は、源頼朝という人物を理解する上で非常に役に立った。

なかんずく同書に書かれた三つの巻狩り、即ち「富士の巻狩り」「信濃国三原野の巻狩り」「下野国那須野の巻狩り」に関連する一文が役立った。この一文によって、安田義定一族討滅に向けての頼朝の周到な計画に基づく布石の数々が判明した。

私は頼朝の一連の布石に基づく計画を知り、彼は幼いころから囲碁などを習っていた人物なのではないかと、想った。

 

あるいは十代の早い時期に、源氏の嫡子として官位を得て舎人と成り、朝廷に上がり端役を務めていた時に、身に付いたものなのかもしれない。

いずれにせよ彼は、最終目標に向けて緻密に布石を打つといったプロセスをしっかり踏まえて計画を遂行していた。頼朝や彼を支えた北条時政らは、それ等を計画し実行する知力や構成力を備えていたのであろう。

富士の巻狩りに代表される三つの巻狩りは、甲斐源氏の長老安田義定一族を抹殺するための策謀として、頼朝の練りに練られたプランによってもたらされたものであることを、明確に知ることが出来たのであった。

頼朝が権力を確立するために老練な政治家でもあった北条時政等と、周到に検討してきたプランであったのだろう。

 

山梨の郷土史研究家たちと交わした情報交換で得た、安田義定と源頼朝の確執の顛末が同書によって、私にはハッキリと見ることができた。そのことが最大の収穫であった。

静岡から持ち帰った多くの自治体の市町村史の中世に関する記述が、山梨の時と同様に殆ど『吾妻鑑』の引用にとどまっているのは、残念であった。

そんな中で『静岡県史』は他の市町村史とはレベルが違っていた。山梨の県史を読んだ時と同様の印象を抱いた。

もちろん予算やスタッフなどの質や量も桁が違っていたのだと思うが、明らかに編集方針が異なっていた。中世史を創るに当たって『吾妻鑑』を中心に添えながらも、決してそれだけにとどまることは無かった。

具体的には『吾妻鑑』の記述と併行して、九条関白兼実の『玉葉』、藤原右大臣宗忠の『右中記』、中山内大臣忠親の『山槐記』、天台宗座主慈円の『愚管抄』などの同時代の高位の公家や僧侶が書き残した日記等と突き合わせた上で、同一のテーマについて記述していた。

言ってみれば『吾妻鑑』の裏を取りながら、頼朝や源氏の動きを比較検証したのである。そのような編集方針で作成された『静岡県史』の記述には、ある程度信を置いても良いのではないかと、私は思った。

 

そもそも『吾妻鑑』の成立は、鎌倉幕府成立から百二十年近く経った、西暦1300年頃に当時の鎌倉幕府の中心メンバーによって編纂された史書である。

それに対し『玉葉』『右中記』『山槐記』『愚管抄』などは、当時リアルタイムに入って来た情報や、伝聞・うわさ話を日記などとして記述し記録した書物である。

120年近く後になって編集された『吾妻鑑』よりは、明らかに信憑性が高いと言うことは出来る。情報の鮮度が明確に違うのである。

言うなれば明治時代の中期に起きたことを、今日の高級官僚や歴史家達が権力者の意向を忖度しながら取りまとめた史書と、当時の権力の中枢に居た高級官僚や一級の宗教人が、直接見聞きしたことを記録した日記類とを、比較検証している様なものである。どちらがより事実に近い資料であるかは、明白であろう。
 
 
また『吾妻鑑』の編者は、鎌倉幕府の有力御家人がその中心メンバーであったことから、当時の権力者である北条氏の立場に立って史実を書き編纂しているため、幕府の正史としての側面は持っていても、歴史書としての客観性や事実の記述に重きを置いて編纂されたわけでは無い点を、常に考慮する必要がある。

同時にそのような性格を持つ史書であるため『吾妻鑑』は、自分達の所属する共同体である「家」や時の権力者にとって、都合の良いように記述・編集されている可能性が高いという側面を持っていると、と言うことが出来る。

逆に鎌倉から距離を置いており、当事者とは言えないむしろ傍観者といって良い立場の、京の朝廷の高級官僚である公家や高位の僧侶の日記類は、直接的な利害関係がない分より客観的であると同時に、傍観者的に記述されている可能性が高いという事は出来るだろう。
 
私は出来るだけこのような視点や視座を保持しつつ、中世鎌倉幕府創成時の諸資料に向き合っていきたいと思っている。
 
 
私は静岡から仕入れた情報・資料に、既に入手していた山梨で得た情報や資料とを突き合わせて、検討を行った。

その上で改めて「甲州金山と富士金山」「甲斐源氏と源頼朝の確執」「荒木大学につながる事象」「修験者大野了徳院に関する史跡や史実」と言った事柄について検討を加え、私なりに情報を整理し、分析することが出来た。

それらを基に、私はようやく杉野君に提出する検証レポートを作成することが出来た。レポートは杉野君が抱いている疑問や課題に沿う形で以下の項目にまとめた。

 

調査依頼事項の1:「甲斐之國にいはら郡は存在したか?
調査依頼事項の2:「荒木大学に関する資料や史実・史跡等が存在するか」
調査依頼事項の3:「甲斐乃國いはら郡八幡の別当大野了徳院は実在したかどうか」
調査依頼事項の4:「二代将軍源頼家との関係」
調査依頼事項の5:「その他甲州金山衆と『大野土佐日記』を関連つける点」
調査依頼事項の6:「『大野土佐日記』に対する山梨側視点での総合評価」
 
また付加情報として、山梨の鎌倉時代を研究している郷土史研究家や金山開発の専門家が一度知内を訪れ、『大野土佐日記』に関する情報交換や現地視察などを行いたい意向がある旨を、付け加えておいた。

 

私が検証レポートを送って1週間後、杉野君から感謝の礼状と更なる函館の珍味セットと、がごめ昆布とが送られてきた。同君は大いに喜んでいたようで、スマホでも感謝の言葉を繰り返していた。

 

更にひと月ほど経ったGW明けに、改めて杉野君から長文のメールが来た。

そのメールには、私が提出したレポートを「北海道砂金・金山史研究会」のプロジェクトチームのメンバーに見せたところ大いに議論が盛り上がった、とその時の様子を幾つかのエピソードを紹介しながら、書いてきた。

プロジェクトチーム内での議論の結果、当該レポートを作成した私の話を直接聞いてみたいという声が湧き上がり、私を北海道に招待したいと言ってきた。

 

杉野君からのメールを受けた私は、山梨県の郷土史研究家の側でも『大野土佐日記』の舞台となった知内を訪問したいといった意向や、貴プロジェクトチームのメンバーと会って情報交換を行いたいという思いがある事を、繰り返し伝えた。

その際、彼らは私以上に甲州金山や荒木大学に連なる、甲斐の武将に関する専門的な知識や情報を持っていることも付け加えた。

 
私の返信メールに対し杉野君からは、プロジェクトチーム側としても是非とも私を含めた山梨県の郷土史研究家のメンバーと情報交換を含めた交流会を行いたい、といった反応が返って来た。ついては、その際の交通費と宿泊費は自分たち研究会が負担する、とまで提案されていた。
 
北海道訪問については西島さんを始めとした山梨側メンバーの希望でもあったから、私は杉野君にたぶん大丈夫だろうと、メールを返しておいた。

その上で私は西島さんに改めて連絡を取り、山梨側メンバーの意向を取りまとめてもらうことにした。

 

一週間ほどして西島さんから、下記のような返事兼依頼が来た。

1.情報交換の場は札幌よりも函館を希望し、交流会の後、知内の荒木大学に関わる史跡等を訪ねたい。その際の案内には地元の郷土史研究家で、『大野土佐日記』や『荒木大学』の研究をしているメンバーが含まれていることを希望する。

2.最低二泊三日は確保して、交流会と現地訪問の時間をたっぷり取ってほしい。

交通費については甘えさせていただくが宿泊費は自己負担とすることで、日数の確保を優先させて戴きたい。

3.交流会の参加メンバーに提出する資料を準備したいので、こちらのメンバーに求める情報事項等があったら、事前に連絡してほしい。できれば一ヶ月前に。併せて参加人数についても事前に教えてほしい。

4.従って北海道訪問は、六月か七月頃であると嬉しい。

                           と言った内容であった。

 

山梨側の意向を伝え、杉野君と調整を重ねた結果、7月の第一週に函館で情報交換会が行われることに成った。

交流会には「北海道砂金・金山史研究会」から、「『大野土佐日記』検証のプロジェクトチーム」のメンバーが参加することに成った。

また山梨県側からは西島・藤木・久保田の各メンバーに加え、甲州金山博物館の秋山館長、それに私の五人が参加することに成った。

甲州金山博物館の秋山館長は私が訪問した際には不在であったが、西島さんの知人で甲州金山に詳しい人物ということで、西島さんが推薦し、本人からの強い参加希望もあってメンバーに加えたのであった。

 

 

 

               長者ヶ岳

 山梨県の東南部は南北40km以上にわたり、静岡県との県境になっている。そこは富士山の西麓で、標高千~2千m級の山々が屏風のように連なる。

その中の富士五湖の一つであり、山梨県の本栖湖に近い北側にあるのが「毛無山」であり、標高は1946mである。毛無山は室町時代から今川氏の庇護のもと「富士金山」が開発されて来たエリアである。毛無山の東麓が駿河領で富士金山になっており、同じ山の西麓が甲州領である。

西麓は「湯之奥金山」として15世紀から16世紀にかけ、武田信玄の家臣である穴山梅雪の穴山氏によって開発されて来た。

その毛無山の南2.5㎞程のところに「金山(かなやま:1596m)」さらに9㎞ほど南下した場所に「長者ヶ岳(1335m)」が在り、その麓にはかつて「長者ヶ池」と呼ばれた田貫湖が在る。

 

 

             「炭焼き藤五郎」の伝説

                     『 富士宮岸散歩 』遠藤秀男著

 

「貧しい男の元に京の姫君がやって来て、嫁にしてくれという。炭焼きの煙を見た占者が、その元を尋ねれば幸せになれるといったのだとのこと。

姫は初対面に小判を与えるが、その価値を知らぬ藤五郎は、土地の案内をしながら長者ヶ池(田貫湖)に遊んでいた小鳥にぶつけてしまった。

驚く姫が金の有りがたさを語ると「そんなものなら裏山(長者が岳)にいくらでもある」という。行ってみると成程、金が転がっていたので、いちやく長者になった、という。

 

 

         

 

 


  
 

  
 
 



〒089-2100
北海道十勝 , 大樹町


 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
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