春丘牛歩の世界
 
先週から、「行者ニンニク」が採れる様に成り、我が家の食卓にも乗るようになった。
行者ニンニクが採れる様に成ると、今年の春がやって来た事を実感する。
これまでの私の経験では「行者ニンニク」が生えてきてから、雪が降ったことは無いから、である。
 
 
      
 
 
野生の昆虫や動物たちが作る巣の位置で、颱風の影響を早い時期に推測できることがあるが、自然界の生き物たちは彼らなりのセンサーで、天候や自然現象を察知する能力がある。
そんな事から私は、「行者ニンニク」が我が家の林に生え始めることを、季節の到来のメルクマール(指標)にしているのである。
 
 
      
 
       
         
 
     
 
 
    記事等の更新情報 】
*4月19日 :「コラム2024」に、「青い春」と「チャレンジ虫」を追加しました。
*3月25日:「相撲というスポーツ」に「新星たちの登場、2024年春場所」を公開しました。
*2月8日:「サッカー日本代表森保JAPAN」に「再びの『さらば森保!』今度こそ『アディオス⁉』を追加しました。
*01月01日:本日『無位の真人、或いは北大路魯山人』に「無位の真人」僧良寛、或いは・・を公開しました。
これにて本物語は完結しました。
12月13日:  『生きている言葉』に過ぎたるはなお、及ばざるが如し」を追加しました。
*9月29日:「食べるコト、飲むコト」 に「バター炒め二品 」を追加しました。
*9月27日;「物語その後日譚」に「奥静岡の鶏冠(とさか)山」を、追加しました。
 
 

  南十勝   聴囀楼 住人

          
               
                                                                  

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         2024.05.01
              牛歩
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
   
      
この物語は『京都祇園祭と遠江守安田義定―後白河法皇編―』の続編に成ります。
この「―神様の指紋編―」にて、この物語はひとまず完結します。
安田義定公と京都祇園神社との関わりについては、前作の『甲斐源氏安田義定と駿河、遠江之國』から始まった課題でしたが、今回の「歴史検証」によって、私なりには確認できたかなと思っています。
 
                            【 目  次 】
                                    1.文学部准教授
                                    2.後白河法皇の発心
                                    3.伏見宮親『看聞日記』
                                    4.祇園祭 綾傘鉾
                                    5.綾傘鉾ご神體、金の鶏
                                     6.祇園神社に残る痕跡
                                    7.伏見稲荷大社
 
 
 
【 追記:2020年6月 】
本稿は2018年夏季に書き上げたのであるが、最近書き始めた『蝦夷地の砂金/金山事情』の参考資料の中で「騎馬に乗った黄金の八幡像」に関する面白い情報に遭遇することができた。祇園祭の曳山「八幡山」のご神体に関わる「黄金の八幡像」である。
ご興味のある方は併せてご一読願いたい。
 
 

文学部准教授

 

待ち合わせの十八時半少し前に、地下鉄四条烏丸駅の地下街のコンコースに着いた私は、ほどなくして阪急電車の改札口を出て来た山口さんを見つけた。

山口さんは一人の中年女性を伴っていた。どうやらその方が右京大学の准教授らしい。私は勝手に男性とばかり想っていたから、意外であった。

准教授は体格が良く、眼力(めぢから)もあり存在感があった。私はその時頭の中で、マチコデラックスを思い浮かべた。

マチコデラックスは女装のタレントであったが、自らの考えや見識をハッキリと持っていて、一過性の芸人やタレントとは明らかに違ったので、一人の人間としてその存在を私はポジティブに認め評価していた。

 

山口さんはさっそく私を准教授に紹介し、また准教授を私に紹介した。その際山口さんは私の事を

「こちらが東京から祇園神社や祇園祭の事でわざわざ京都まで調べに来られている、立花さんです。鎌倉時代の甲斐源氏の武将、安田義定について調べていてユニークな発想や閃きを持っておられる面白い人です」とニコニコしながら紹介した。

山口さんの私の紹介内容を聴いていて、彼が私の事をどう思っているのかを私は知ることが出来た。他者への紹介の仕方によって、その人の私に対する評価や考えを間接的に知ることが出来るからだ。

 

次いで山口さんは私に対して、

「こちらはお電話でも話しましたが、右京大学文学部の准教授で中世の京都について研究されている藤原さんです。専門は平安末期から鎌倉時代の中世草創期の京都と鎌倉幕府の関係、でしたかね・・。

私が後白河法皇について色々判らない事があると教えてくれる、ありがたい知恵袋です。お世話に成ってます・・」そう言って、藤原准教授を紹介してくれた。 私達はお互いに、軽く挨拶を済ませた。

山口さんはここでは何だからと言って、新町通りのちょっとした飲食店に私達を案内してくれることに成った。言うまでもなく新町通は祇園祭「八幡山」保存会のある通りであった。その店は山口さんの奥さんの知り合いが、関係している店という事であった。

 

京都生まれ京都育ちの奥さんは今も京都での複数のサークル活動を通じて、少なからぬ人脈をこの京都でも持っている、と山口さんは歩きながら私達に話してくれた。

その店は、新町通に在るナショナルチェーンのホテルの近くをちょっと入った処に在った。一見町屋風の造りであったが、竹のアーチ状の犬矢来(やらい)が在り黒っぽい格子窓には、メニューが掛かっていた。
そしてその店は想ってたよりも、若い感性で経営されている店のようだ。

 

私達は入り口で靴を脱ぎ、二階にと通された。スタッフも若く、内装や調度品・BGMと全体的に若い感性が感じられた。入口付近で感じた直観はどうやら当たっていたようだ。

私達は二階奥の、のれんで区分けされた個室風の区画に通された。真ん中に脚高で畳一畳分くらいの長めのテーブルが在り、両サイドにベンチ風の畳座席が在って、掘りごたつの様に腰かけることが出来た。その床は暖かく、床暖房が敷設されているのかも知れなかった。
 
注文を済ませ、軽くビールで乾杯してから山口さんが私に話を振った。
「今日の歴史資料館では、何か収穫ありましたか?」と。その問いに、私はニコニコしながら応えた。
「ええ、とってもたくさん!昨日教えていただきました『後白河法皇日録』は残念ながらありませんでしたが、幾つか使えそうな資料や専門書を見つけることが出来、とても良かったですよ。これも山口さんに教えてもらったおかげです、ありがとうございました」私はそう言って、山口さんに頭を下げた。
 
 
「因みにどのような資料を、見つけられました?」山口さんが優し気なまなざしで、私を見て言った。

「あハイ『祇園會(ぎおんえ)山鉾大鑑』『祇園祭細見』といったところが、役に立ちそうですね。他にも細かい資料や本もコピーしてきましたが、中でも『祇園會山鉾大鑑』が良かったです。若原史明という民間の研究者の方が大正から昭和初期にかけて、祇園祭の山や鉾の事をかなり細かく研究をされてまして、この本に運よく『八幡山』について詳細な記述がありました。

綾傘鉾』については残念ながら記載されてませんでしたが・・。『八幡山』の事はかなり詳しく、しかも時間をかけてしっかりと調査・研究されておりまして、大いに役立つと思ってます」私がそう言うとそれまでじっと話を聴いていた藤原准教授が口を挟んできた。

 

「『祇園會山鉾大鑑』ですか、確かにあの資料はなかなか好く調べてあらはりますよね。私も持ってます。第二次大戦が挟んだこともあって、すべての山や鉾についての研究が為されなかったんは残念やったけど・・。
個人的な見解としては、あれ以上の資料は中々見当たらないやろうし、これからも出てくることは期待出来ひんやないかと思てます・・」と、関西弁で言った。
続けて、

「『後白河法皇日録』も私は持ってますが、確かに後白河法皇を研究するのには良くできた資料やと思てます。しかし摂政・関白藤原兼実の『玉葉』の比重が多過ぎる思いますんで、他の公家や『吾妻鏡』を始めとした関東の日記や記録書など、異なった視点からも同時に確認・照射する必要があるんやないかと、私は思てます・・。

あまりに朝廷や公家の視点からの光が強すぎるきらいがある、と私は思てるんです・・」と、准教授は付け加えた。

「確かにおっしゃる通りですね、私も『後白河法皇日録』を読んでいてその点は痛感しています。関白兼実公の視点が強いですよね。
立花さんが甲斐源氏という関東武者の視点で、祇園祭や祇園神社との関わりを解明したいと思われるなら、物足りなさを感じるかもしれません・・。
 
関東の武士や鎌倉政権に対しても、何となく上から目線で見ている感がありますよね。やっぱり平安貴族の立ち位置で書かれていると思います。関白兼実の『玉葉』は・・」山口さんがそう言った。

「そうでしたか、参考になります。それにしても僕はまだ中身を見てもいないので、まずは一通り通読するところから始めてみたいと思っています。もちろん安田義定公に関わる事や祇園祭に関する項目が中心に成るでしょうけどね・・」と私は二人に応えた。

 

そうこうしている内に、オーダーした魚介類を盛った大皿が運ばれて来た。その大皿を見て、私が言った。

「網目の大皿、もうちょっと染付の発色があったほうが良かったですね・・」と。それを聞いた藤原さんが、

「アラ立花さんって、陶磁器にお詳しいんですの?」と言った。

「いや、それほどでもありませんが、30代の頃から関心がありまして・・」と私が応えると、彼女は

「備前焼って知ってはりますか?」と、私に聞いてきた。

「ええ、もちろんです。よく知ってます。二度ほど岡山の備前の街にも行ってます。窯元巡りで・・」と私が応えると、彼女は

「私、その備前の出身なんです」と、嬉しそうに応えた。

 

「はぁ、そうなんですか・・」私はそう言ってから、気が付いた。

「ひょっとして藤原さんって、備前焼の人間国宝だった・・」と私が藤原啓三の事を思い出してそう聞いてみると、彼女は、

「えぇまぁ。・・でも、遠~い親戚なんです・・」と小さな声で、応えた。

「あぁ、そうなんですか。私はまた藤原と云うんで、てっきり京都の貴族のそちらの藤原氏の末裔かと・・」私がニヤニヤしながらそんな風に言うと、彼女は首を横に振って、

「いや、そんな高貴の筋とは違いますよ私の祖先は・・」と笑いながら言った。

そうやって彼女の出身地備前岡山に話が及んだ事で、場の空気が少し柔らかくなったのを私は感じた。それから、准教授が私に聞いてきた。

「ところで立花さんは、どのようなきっかけで甲斐源氏の安田義定の事を調べるように成らはったんですか?」と。

「安田義定公の件ですか?・・多少話が長く成ってもかまいませんか?」私はそのように断りを入れた上で、義定公との関わりのいきさつを話すことにした。

 
 
 
 
 

後白河法皇の発心 

 
 
「きっかけは私の大学時代の友人からの依頼だったんですが、鎌倉時代の初期に甲州金山の金山(かなやま)衆が千人ばかり大挙して、蝦夷地の知内という郷に渡った、という伝説がありまして。
まぁその検証を山梨でやってくれないかと頼まれまして、それが始まりだったんです」私がそういうと彼女は大きめの目を見開いて聞いてきた。

「鎌倉時代の初期に、蝦夷地にぃですか?」

「あハイ、そうです。北海道蝦夷地に、鎌倉時代の初期にです。甲州金山衆の頭領荒木大学が、部下や堀子合わせて千人余りを引き連れて、甲斐之國いはら郡から蝦夷地知内に渡ったという伝説が、北海道道南渡島の知内町の雷公神社に伝わる古文書『大野土佐日記』に、書かれてまして・・」

私はそれから、荒木大学の領主が安田義定と想えることや、なぜ甲州金山衆が千キロ以上離れた蝦夷地に渡ることに成ったのか、そこには安田義定と源頼朝を始めとした鎌倉幕府の主流派との確執があった事、などを一通り話した。

 
 
「そう言えば安田義定や武田信義は、富士川の戦いからの平氏との戦いであれだけ活躍しはったのに、しばらくして表舞台からは消えてしまいましたよね・・。
私もどうしてやろかと思ってはいたんやけど、京の朝廷の視点で鎌倉幕府を観て来たもんやから、あまり深くは追及しなかったんですけど・・。そんないきさつがあったんですか・・」と、准教授は言った。

「まぁ、要するに頼朝や北条時政を始めとした、伊豆の御家人グループが主流であった鎌倉幕府にとって、甲斐源氏は目の上のたん瘤だったという事でしてね。

、鎌倉幕府の体制をより強固にするために、甲斐源氏の氏の長者でもあった義定公一族を討滅させた、という事ですね。些細な事に言い掛りをつけて・・」私がそういうと、准教授は

「なるほどですね、よう判りますよ。それって異母弟の源範頼や義経に対して行った頼朝の仕打ちと同じ構図ですもんね・・」そう言って何度も肯いた。

「その通りです。いや話が早くって助かりますよ。藤原先生はさすが専門家だ・・」私はそう言って素直に喜んだ。

「私の理解では、後白河法皇と安田義定とは結構関係が良かったように記憶してるんですが、義定公への頼朝の仕打ちに対して、後白河法皇はどう思っていたんでしょうかね・・」それまで黙って聞いていた山口さんが、会話に加わった。
 
 
「アラ、法皇と義定は関係良かったんやった?」准教授には意外だったようだ。
「そうですね『吾妻鏡』なんかによると、義定公は法皇の院の御所の一つでもあった法住寺の造改築に際しても、法皇から指名されてますからね。
 
その前に行われた六条の法皇院の御所の築垣の造営を始めとして、祇園神社・伏見稲荷大社・内裏の修築などでの義定公の働きを、高く評価していての指名だったらしいですからね・・」と私がフォローした。

「へぇーそんな事、あったんや・・」准教授が驚いたようにそう言った。

「はい、その辺は『吾妻鏡』にしっかり書かれていますよ」私が強調すると、

「『吾妻鏡』もうちょっとちゃんと読み直した方が良さそうやね、勉強になるゎ・・」准教授はやや自虐的にそう言って、ビールをグイッと飲んだ。

 

「まぁ無理ないですよ。僕みたいに安田義定公の視点で『吾妻鏡』を読んでる人間でもなければ、気付かない方が当たり前でしょうから・・」私がそういうと山口さんが肯きながら、 

「『吾妻鏡』も結構膨大ですからね・・。五十巻程度はあるでしょうし。ところで、頼朝が安田義定を攻めたのは後白河法皇崩御の前でしたか後でしたか?」と私に聞いてきた。

「それはもちろん後です。頼朝は後白河法皇には頭が上がらなかったみたいで、法皇存命中は義定公には手を出してませんでしたから・・。

その点も法皇と義定公の関係とを物語っていると、僕は思ってます・・」私は准教授に向かってそう言った。

 

「そう言えば後白河法皇が存命中は、頼朝は結局征夷大将軍には成られへんかったですよね。頼朝自身はだいぶ渇望してはったようやけど・・」准教授が言った。

「法皇は駆け引きも上手だったし、結構したたかな面を持ってましたからね。

頼朝からの要求も、すんなり受け入れなかった事が少なからずありましたよ。長女大姫入内(にゅうだい)の件もそうでしたしね・・。

それにひょっとしたら、鎌倉幕府に対する対抗勢力としてのオプションを甲斐源氏に期待していたのかもしれませんよ、法皇は・・」山口さんは後白河法皇の人間性の一端をそんな風に言って解説すると共に、甲斐源氏と鎌倉幕府との緊張関係を推察した。

 

「話は変わりますけど、その安田義定と祇園神社や祇園祭との間に、深い関係があったんやないかって、立花さんは考えてはるんですか?」准教授が私に聞いてきた。

「あはい、そうです。義定公の領国の遠江之國や、本貫地である甲斐之國牧ノ荘について色々調べている内に気付いたんですよ。

義定公は自分の領地に源氏の氏神八幡宮を必ず作っているのですが、その近くに祇園神社や八坂神社をこれも必ずといっても良いように、造っているんです。もちろん主要な領地には、ですけどね・・」私がそう言うと、准教授は

「具体的やと、どの辺りに成るんです?」と、更に聞いてきた。

「そうですね・・」私はそう言ってからビールを飲み、喉を湿らせてゆっくり話した。

 

「遠江之國で言えば、当時の義定公の本拠地だった森町飯田の祇園神社、明治に成って『山名祇園神社』と改名させられましたがね、その飯田の祇園神社。

それから同じ森町三倉の『馬主神社』の近く、今は『大久保八幡神社』と成っていますが、この三倉地区はその名の通りかつては騎馬武者用の軍馬の畜産拠点だったようです。

更に義定公が地頭でもあった、遠州浅羽之庄の『柴八幡宮』の横もそうですね。

また本貫地の甲斐之國で言えば、笛吹川沿いの塩山藤木の菩提寺でもある放光寺や『窪八幡神社』の少し先とかにも在りますね。

いずれも『祇園神社』または『八坂神社』が祀られています」私はそれらの神社を頭に浮かべながら、そう言って説明した。

 

「へぇ、ようご存じですね・・。因みにそれらの神社に立花さんは、殆ど行かれてはるんですか?実際に・・」准教授は感心しながらも、私を試す様にそう言った。

「あはい、行きました。今云った処はすべて・・。時間は割とある方ですし行動力もある方ですからアハハ・・」私はニヤリとしてそう言った。

私がそういうと山口さんはニコニコしながら、私にビールを注いで、

「その行動力、羨ましいですね・・」と言った。

 

「立花さんは、安田義定と祇園神社がそのような深い繋がりを持つように成ったんは、またどうしてやと考えてはるんです?

私の知る限りでは後白河法皇と祇園神社の関係は、そんなに深くは無かったんやないかと認識してるんやけど・・」准教授はそう言って私の考えを聞いてきた。

「確かに後白河法皇は熊野神社を筆頭に、石清水八幡宮や日吉(ひえ)神社にはかなり頻繁に行ってますが、祇園神社や伏見稲荷にはそんなに多く行っているとは言えませんね・・」山口さんがそう言って、後白河法皇と京洛の著名な寺院の関係について、補完説明をしてくれた。
 
「やっぱりそうなんですか・・。『吾妻鏡』を見る限りでは、あまりそういう記録が書かれてなかったから、ひょっとしたらと思ってはいたんですがね・・」私はそう言ってから、ずっと疑問に思っていたことを口にした。
 

「そうだとすると、後白河法皇はまたどうして、義定公に祇園神社や伏見稲荷大社の建て替えや大規模な造・改築をさせたんでしょう?

院の御所であった六条院や法住寺の造改築や、天皇御所の内裏の改築・修復といったことは理解できるんですけどね・・」私は言った。

「それはですね・・」准教授はそう言いながらバッグからタブレット端末を取り出し、操作して私に見せてくれた。
 
タブレットの液晶画面には、

後白河法皇の御悩、逐日、増気あり。玉体尩弱なり。法皇、叡慮あるに諸社修造の事、近年、沙汰途絶せり。かくの如き神罰による身の徴たるか」                     

といったことが書いてあった。

 

「これは九条関白藤原兼実の『玉葉』の抜粋なんですが・・」と准教授はそう言って解説してくれた。

「という事は、あれですか?後白河法皇は自分が病を得たのは、源平の戦いなどで荒廃した京洛の諸社仏閣を、修築しないでほったらかして置いたから、その神罰を受けたって思っていたって事ですか?」私はそのタブレットの『玉葉』の抜粋を見ながら、そう呟いた。意外であった。

「どうやらその様ですね。法皇は数週間ほど前に発症した病、それはどうも瘧(おこり)(やまい)のようですが、それがなかなか治らない原因を色々考えてみて、その辺に原因があるんやないかと、思われたようです」准教授が言った。

「はぁ、なるほどね。後白河法皇の神社の造改築や修築の下命はその辺りがきっかけだったんですか・・。法皇はそこから発心して、必ずしも親密とは言えなかったけど荒廃が激しかった祇園神社や伏見稲荷の修復を思い立った、ってことですか。いやぁ~そういう事だったんだぁ。なぁ~んだ・・」

私は後白河法皇とこれらの神社との間にはもっと深い繋がりがあったのではないか、と期待していたので肩スカシを食らった感じであったが、それはそれで妙に納得がいった。

 

「ところで、それっていつ頃の事でしたか?『玉葉』にそう書かれてた時期は・・」私が尋ねると、准教授はまたタブレットを操作しながら、

「文治三年1187年、四月十日の条ですね。時に後白河法皇61歳の事です。因みに、法皇がその瘧(おこり)病に掛かったのは二週間ほど前の三月二十八日、ということの様です」と私に細かく教えてくれた。

「なるほど法皇は二週間経っても、なかなか回復しない瘧病の原因を考え続けて、ひょっとして京洛の著名な神社仏閣が、源平の合戦などの戦乱で荒廃したままで在るための祟りであると、考え始めたんですね。

それでそれらの建て替えや修造・修復を思い立って、諸国の国守に割り当てを命じた訳ですか・・。で、その内の祇園神社や伏見稲荷大社の修復を命じられたのが、遠江守の重任を願っていた安田義定公だったという訳ですね、しかも成功(じょうごう)として・・よく判りました。

確か『吾妻鏡』に依れば、義定公が祇園神社や伏見稲荷の建て替えや大規模な修理を命じられたのも文治三年の事でしたね。符合します・・」私は手元のメモを見て、そう応えた。

私は自分の記憶とメモによって、後白河法皇の病の時期と両神社造改築や大規模な修理・修繕の時期が、ほぼリンクしていることを確認し、両者の関係に改めて納得した。

 

「そう言えば後白河法皇は、崩御する前に身体の全身が膨れる病にかかった時、かつての政敵で法皇によって讃岐に流された兄の崇徳上皇や、源平の戦いで瀬戸内海に沈んだ安徳天皇の怨霊のせいではないかと想って、鎮魂のための仏閣を讃岐と長門に建立させたって事もやってましたね・・」山口さんが、思い出した様にそう言った。

「平安時代や中世の頃は、まだまだ怨霊思想が社会の共通認識として定着してましたからね。無理なかったですよ、あの時代やと・・」准教授は肯きながら、後白河法皇の行為をそう言って擁護した。

「なるほどね。そうすると義定公が祇園神社や伏見稲荷大社の建て替えや大規模な修繕や修理を、遠江守重任とのバーターで成功として命じられたのは、法皇とそれらの神社との親交の深さというのではなく、ご自身の病を平癒するための祈念の事業として発心したわけですね・・」

私がそう言うと山口さんが、

「成功(じょうごう)って、なんでしたっけ・・」と私に聞いてきた。

 

「えっあ、失礼しました。成功は義定公の遠江守重任を許すけどその代わりに、公が個人負担で私財を使って工事しなさいって事ですね、公費や他者の力を借りずに・・」私は言った。続けて、

「でも、そうするとますます義定公と祇園神社や伏見稲荷との『個対個の関係』の重さが、逆にクローズアップして来そうですね、成功で執行するとなると・・」私がそんな風に言うと、准教授が

「もう少し噛み砕いて、お話いただけません?」と、私に説明を求めた。

 

「いやいや、後白河法皇の病を平癒するために発心された事業で、なおかつ成功で行われる工事だとすると、両神社からすれば降って湧いた吉事で、将に棚からボタ餅のありがたい話だった訳ですよね。
 
保元・平治の乱や源平の戦いで、荒れて破損していた主殿や楼門・宝物殿と言った様々な神社の主要な建物が、まともな修築や改築が施されないまま長く放置されてた訳でしょ。

そこに、朝廷の命令を受けた遠江守安田義定公が、建て替えや改修工事をやってくれた訳ですから・・。

もちろんそれを命じた後白河法皇や朝廷に感謝したに違いありませんが、と同時にそれを奉行した義定公にも感謝したに違いないと思うんです。さらに言えば成功であるとすれば、義定公の胸先三寸で左右される部分が結構おっきくなりますよね」私はそう言って准教授を見て、さらに続けた。

 

「朝廷の命令で、同時に複数の大きな神社の造改築や修築を下命された義定公の、対応いかんによっては、上っ面だけのもので終わる可能性もあったし、逆に従前より立派なものが新しく造られるかもしれない。どっちに転ぶかはわからないわけです。

それこそ義定公と両神社の『個対個』の関係如何で、出来上がって来るものの質やレベルが大きく違ってしまう可能性があったわけですよね。そういうものだと思いませんか?

まして遠江守の重任を認可するバーターとして出された交換条件だったわけですから・・。

そうであればこそ『祇園神社と義定公』『伏見稲荷大社と義定公』と言った様に、『個対個』の関係が重要になって来るのではないかって、そんな風に考えたんです、僕は・・」私の説明に、二人ともある程度理解を示したようで、頷いてくれた。

「なるほどそういう事ですか、そういった関係であったかもしれないから、立花さんのおっしゃる『祇園神社と安田義定の紐帯』が太くなっていった訳ですね・・」と、山口さんが目元に笑みを浮かべながら言った。

「まぁ、そういう事ですね。少なくとも僕の頭の中では祇園神社と義定公の関係がこのエピソードで、相当接近してきましたね・・」と私は応えた。

その時、店のスタッフが、オーダーしていた焼き物を持って来た。私はそのタイミングで席を立ちトイレにと向かった。

 

 

 

 

    『 後白河法皇日録 「建久二年1191年 六五歳の条」(784ページ)

                 閏(うるう)十二月二十八日[雨降る、夜に入りて甚だし]

今日、後白河法皇の、蔵人頭大蔵卿中宮亮藤原宗頼(38)をもって、関白兼実に条々の事を仰せ下さる

 「・・・また、崇徳院讃岐国御影堂領につきては官符を給付すべし。

  また、長門国に一堂(安徳天皇堂)を建立すべきの宣下あるべし」と。

 

上記は、後白河法皇崩御の半年ほど前に関白藤原兼実に下された、法皇の下命である。
これらの御堂の建立は数日前に関白兼実が奏上し提案したものであるが、法皇自身もまた崇徳上皇や安徳天皇の怨みや怨霊が、わが身に起こっている病の元であるかと想っていたようである。

その結果、この歳も押し詰まって来た十二月二十八日に、上記のような院宣を下したのだろうと思われる。

 

                           

                      

 

 

伏見宮親王『看聞日記』

 

トイレから戻って来た私が、ベンチ状の畳席に座ると早速藤原准教授が話しかけて来た。

「立花さんが安田義定と祇園神社との関係に、相当深い結びつきがあったんやないかと思われていることについては、私もある程度理解することが出来ました。
 
ところで立花さんは祇園祭の山や鉾の中に、安田義定と関係のある舞や巡行があると思ってはるんですって?」准教授はチラリと山口さんの顔を見てから、私に聞いて来た。
どうやら私が席を外している間に、二人の間でその事が話題に成ってたようだ・・。
 
「あハイ、そうなんですよ。僕は祇園祭の内『八幡山』と『綾傘鉾』の二つが、義定公とその家来である甲州金山衆とに関係してるんではないかってそう思ってまして、今その検証をしてる最中です・・」私がそう言うと准教授は、眼でその先を促した。
彼女は眼力(めぢから)が強く、その眼で自分の意思を表現することが多いと私は感じていた。
 

「具体的に言いますと『八幡山』は甲斐源氏の氏神でもある八幡宮に関連する舁き山ですし、『綾傘鉾』はそのご神体が甲州金山衆の崇拝する『金の鶏(にわとり)』である、という共通点がありまして、そんな風に思ってるんです」私がざっくりそう言うと、准教授は、

「もっと具体的に、その様に考えてはる理由というか、エビデンスを把握されてはいないですか?立花さん・・」と、私により詳しい説明を求めて来た。

「判りました、藤原先生。では多少話が長く成るかも知れませんがご説明させていただきましょう。先ずは『八幡山』に関してですが、良いですか?」
その様に私が確認すると、藤原准教授はどうぞとばかり大きく肯いた。隣りの山口さんは穏やかな目で、私を見ていた。 
 

「先ほどもお話ししたように、義定公は源氏の氏神である八幡宮を自身の主な領地には必ず創建しておりますし、頼朝が京都で建立した『六条八幡宮』にも深く関わって来たと私は思っています。

その理由は言うまでもなく、頼朝にとって八幡宮はご先祖の神様ですが、同時に甲斐源氏にとっても共通の先祖であり、ともに氏の神ですねからね。

八幡神社は彼らにとっては共有の氏神ですから、義定公も積極的に関わったと思います。
更に、先ほどもちょっと言いましたが、『祇園神社と義定公の紐帯の太さ』があったのではないか、という事もあります。
 
それは祇園神社の造築や大規模な改築というプロセスを通じて、醸成された両者の『個対個の関係』によって出来たのではないかと思っています。先ほど話した通りですね。
 
そしてその両者の関係を裏付けると思われるのが、祇園神社の中に祀られている『八幡宮』の存在です。
ご存知だと思いますが、本殿後ろの境内外の北参道とでもいう辺りに、五社の一つとして八幡宮は祀られています」
私はそう言って持参した祇園神社の境内MAPを指さして、その場所を示した。
 
 
「義定公は祇園祭に際して、『六条八幡神社』から『八幡山』を神社の神人達や自分の家来達に担がせて巡行をスタートし、この祇園神社の『八幡宮』に向かって練り歩いたのではなかったかと、想っています。
、その『八幡山の八幡宮』をどうして義定公が造ったと言えるのかというとですね、その根拠はまず八幡宮が純金で造られていた点にあります。

現在の『八幡山』の八幡宮は金箔で覆われてますが、義定公の時代は純金で造られていたのではないかと、僕は思ってます。義定公は自身の領地で潤沢に採れた金を使って八幡宮を造らせた、とそう思っています。ここまでは宜しいですか?」私はそう言って二人の顔を見た。二人は肯いた。

「そして次に、八幡宮のご神体として祀られていたのが騎馬に乗った応神天皇像であった、という点ですね。これもまた義定公の領地経営と深く繋がって来るんです。
ご存知だと思いますが義定公の領地経営にとって、通常の荘園経営と共に『金山開発』と『騎馬武者用の軍馬の育成』は不可欠の存在なんですね。
 
彼は自分の領地では必ず荘園の経営と共に、金山開発や軍馬の育成を手掛けてるんです」私がそう言うと、准教授は、
「具体的には?」と、眼力の入った眼で私を見ながら短く聴いてきた。
 
 
「そうですね、甲斐之國の本貫地では『黒川金山』と『乙女高原』で、また富士山西麓では長者ヶ岳の『富士金山』と『朝霧高原』。そして遠州では『森町の三倉地区』と『森町大久保』『笠原ノ牧』といった感じですね。

これらの地にはいずれも金山彦を祀った神社や馬を祀った神社が在ったり、神事としての流鏑馬が行われていたという記録があります。

言うまでもなく流鏑馬の神事は、騎馬武者や軍馬にとってはとても大切な神事です」私が一気にそのように説明すると准教授は、何かを少し考えていた。私の説を頭の中で咀嚼していたのかもしれない。

チョットした沈黙があった。

 

「その様な領地経営の背景があったから、義定公は祇園祭の舁き山である『八幡宮』を現在のような形で造ったのではなかったかと、推察しています」私がそこまで説明すると、早速准教授は

「まず初めに、『六条八幡宮』に安田義定が深く関わって来た、と推測されるのはどうしてなんでしょうか?立花さんも言ってはるように、あの神社の建立を発願し主導したのは頼朝でした。

頼朝は鎌倉における鶴岡八幡宮に比肩しうる八幡神社を京都に造りたい、という思いがあって京都で八幡神社の建立を進めて来た。

しかもその場所を頼朝は直系のご先祖である源義家の旧邸宅が在った縁りの、六条左女牛(さめがい)に定めていますよね。その点はどう考えてはります?」と、私の論拠を試すように聞いてきた。
 
「あ、はいそうですねおっしゃる通りです。頼朝のご先祖は八幡太郎義家ですし、甲斐源氏のご先祖は義家の弟の新羅三郎義光です。
だから頼朝は、義家の旧邸にかつて祀られていた家の氏神にちなんで、その場所を選んだんだと思います。おっしゃる通りです。

でも、義家の旧邸を中心に『六条八幡神社』が創られたからといって、それに義定公が積極的に異を唱えたり反感を抱くことは無かった、と思います。何しろ同じ先祖神である応神天皇を祀っているわけですからね・・。

しかも当時の両者のパワーバランスを考えれば、まぁ無理もないでしょう」私はそう言って、ビールを飲んで喉を潤した。

 

「それ以上に僕が注目しているのは、その『六条八幡神社』を建立するにあたって資金面を調達したのは、実質的に安田義定公を中心にした遠江之國の御家人を初めとした、関東の御家人達であったという点ですね。

因みにこの神社創建の奉行は、頼朝が指名した中原親能でしたが、造営役は義定公が担ったと『吾妻鏡』にも書かれてますよね。ですから造営の課役は、義定公を中心とした遠江の御家人達が担ったんだと思います。

そしてその様な前例があったから、ほぼ百年後の鎌倉時代後期にもう一度『六条八幡宮』を造営する事に成った時にも、鎌倉幕府は遠江の御家人達に少なからぬ献金の拠出を課しているんだと思います。

これは創建時に義定公を中心とした遠江の御家人たちが担った事の前例や伝統を踏襲しているからだと、想われます。

要するに前例に従ったわけですね、有識故実というか武家故実ってやつですね・・」私がそのように説明すると、山口さんはニコニコと頷いていた。隣の准教授は

 

「なるほどそういう事ですね、とりあえずその点は了解しました。次に『八幡山』の建造者についてなんやけど、先程立花さんは安田義定の金山開発や騎馬に乗った応神天皇像を、推論の根拠にされてはりましたね。

仮におっしゃる様に『八幡山の八幡宮』が鎌倉初期は純金造りだったとして、それが何故現在は金箔に成ったとお考えです?その点についても、お考えがある様でしたら是非・・」と、更なる説明を私に求めて来た。

「そうですね、ではその点についてお話ししましょう・・」私は自分の推論をこうして中世の歴史を研究している専門家に対して開陳できる事をひそかに喜び、再たビールをグイッと飲み、説明を始めた。

 

「ご存知の様に現在の『八幡山の八幡宮』は、金箔で全体を覆われてかなり派手で豪華絢爛といった印象を、見る人達に与えていますよね。それだけインパクトも強い。

でも今のスタイルに成ったのは、どうやら秀吉が天下を統一した安土桃山時代頃であるらしいと、例の『祇園會山鉾大鑑』にも書いてあります。

更に応仁の乱以降戦国時代までの数百年の間、祇園祭は何度か中断してますよね。その際に、鎌倉時代初期に義定公が造ったと思われる『純金の八幡宮』が、喪失あるいは焼失とかして、永らく焼山に成っていたようです。
 
またひょっとしたら純金製であったがために盗まれたのかもしれません。盗難に遭った可能性も考えられます」私はそう言って、山口さんをチラリと見た。山口さんは昨日聞いていた話でもあったので、肯いて聞いていた。
 

「その焼山に成っていた『八幡山』を復活させたのが、派手好きで豪華絢爛好みの太閤秀吉だった、と僕は考えています。

そして当時『伊藤町』と呼ばれた、この三条新町の豪商伊藤道光を使って、秀吉が復活させたのではなかったかと、そう思ってます」私は手元のメモを読みながら、今日仕入れたばかりの情報を基に話した。 

「そしてその際、伝承による純金造りには及ばないものの、当時秀吉が進めていた聚楽第の屋根瓦を覆わせたという、金箔を以って造ったのではないかとそう思います。もちろん秀吉のバックアップがあったから、それが可能だったと思ってます」私は言った。

「不勉強で申し訳ないんですが、伊藤道光ってどなたでしたか?教えていただけると助かります・・」山口さんが私に聞いてきた。

「あは、そうですねご説明が必要ですよね・・」私はそう言って、伊藤道光についての説明を始めた。

 

「昨日山口さんに教えていただいた『京都歴史資料館』で見つけた資料の『祇園祭細見』という書物の中に書いてあったんですが、伊藤道光は織田信長が存命中から京都で、彼のために税の徴収役を担っていたようです。
 
で、その頃から羽柴秀吉とは昵懇(じっこん)の間柄で、秀吉が京都に来る時はいつも定宿として道光の屋敷に宿泊していた、という関係だったらしいです。そういう太い関係が秀吉と伊藤道光との間にはあった、というわけですね」私の説明を聴いていた山口さんは肯きながら、尋ねてきた。

「そうすると『伊藤町』と言うのは、その伊藤道光に関係ある名前だったんですか?」

「ハイ、その通りです。彼は税の徴収役を信長や秀吉の下で担っていたようでしてね・・。現在で言えば京都税務署みたいなものでしょうから、そんな風に納税者たちからは呼ばれていたんでしょう。

因みに明治の新政府に成ってから『伊藤町』→『三条新町下ル』に替わったという事です」

「そうでしたか、いやいやどうもありがとうございました」山口さんはそう言って、ニコニコしながら私にビールを注いでくれた。

 

「それからもう一つ『八幡山』について尋っても宜しいです?」藤原准教授が聞いていた。

「あ、はい。何でしょう?」私が応えた。

「先ほどの八幡宮に納められてるご神体の事なんやけど、私の記憶に間違いがなければあの応神天皇の騎馬像云うんは、江戸時代の後半に確か島左近の子孫だったかが町衆の保存会に奉納した、とか言うモノではなかったですか?」と准教授は聞いてきた。

「島左近と言うと、あの石田三成の右腕と云われた・・」山口さんが呟いた。准教授は、黙って肯いた。

「あぁ、その件ですか・・。それはその通りです。ただし現存している『応神天皇騎馬像』と言われているモノが、島左近の末裔から寄進された、という事ですね。『祇園會山鉾大鑑』にもそのように書かれています。
 
僕の考えでは、鎌倉時代初期に造られたご神体の応神天皇騎馬像は、先ほど言った様に焼山に成ってしまった時に、純金の八幡宮と共に紛失・消滅・盗難してしまったのではないかと・・。

しかし黄金の八幡宮と共にご神体としての『応神天皇騎馬像』の存在が、伝承として語られ続けていたのではなかったかと、そう推察してます」私はそう言って二人の顔を見て、話を続けた。

 

「で、その話を伝え聴いた島左近の末裔とされる方から、家宝であった現今の『応神天皇騎馬像』が奉納されたのではなかったかと、そんな風に僕は推測しています」私の説明を黙って聞いていた准教授の表情は、今一つ納得していたようには思えなかった。残念だ。

「仮説が多すぎるようですね、もう少し裏付けが必要なんと違いますか?」彼女はまるでゼミの生徒にでも云うようにそう言った。

「マァ確かに、その点は僕も感じてはいます。もう少し調べてみます。ご神体の応神天皇騎馬像についてですね・・。因みに、先ほどの『祇園會山鉾大鑑』にはもう一つのご神体についても書かれてるんですよ。

こちらは『白幣』なんですがね・・。この白幣はひょっとしたら、源義家が父頼義と前九年の役などに出征した際に使われた、源氏の白旗の伝承物かも知れません。これはまったくの想像ですがね・・」と私は応えた。

 
「ところで藤原先生、先生は『八幡山』を安田義定の郎党や六条八幡宮の神人が、担いで八坂の祇園神社まで練り歩いたのではないかという、立花さんの説に特段異論を唱えてませんが、それには反応はされないんですか?何かお考えがあるんでしょうか・・。
 
やはり応仁の乱以前は町衆では無く、武家衆などが山・鉾巡行の中心だったと、先生もお考えなんですか?」山口さんが、藤原准教授にそう尋ねた。

「その件ですか?そうですね、実は武家衆が山・鉾を担いだり風流(ふりゅう)舞を舞ったいうんは、どうやら実際にあった事らしいんです。看聞日記』という室町時代の親王の日記に書かれてはります。

後花園天皇の父親である伏見宮貞成親王が書かはった日記ですが、それに北畠家の武士達が親王の宮家まで来て『カササギ舞』を披露した、という記録が残ってはるんです。確認できるんですよ『看聞日記』で・・。

せやから、武家衆が風流舞を踊ったり、山・鉾を巡行させた事はありなんですよ。立花さんが推測しはったように・・」准教授が応えた。

 

「そのカンモン日記っていうのはいつ頃に書かれたモノなんですか?ついでに、どのような字を書くんでしょう・・」私は准教授に尋ねた。彼女は早速手元のタブレットを操作して、確認した上で、

「その記録は永享七年六月十四日の条に書かれてはりますね、1436年ですね西暦やと。室町時代中期、応仁の乱の三十年近く前の事ですね・・。

それから、カンモンの字は看護のに新聞のですね」と教えてくれた。

「ありがとうございます。看護の看に新聞の聞ですね。という事は、その伏見宮親王が看たり聞いたりした事を書き留めた日記、という事ですかね、なるほど・・」私はそう言って、准教授に頭を下げて礼を言った。すると准教授は興味深い事を口にした。

 

「ついでなんですが、その『看聞日記』には当時山・鉾を巡行したりや風流舞を舞ったりした人達の中に大舎人(とねり)達が居たことが書かれてはります。

実際には『大舎人鉾参る』と書かれてはるんですが、その大舎人云うんは朝廷の『織部』に属していた、機織(はたお)りに従事する織手の集団なんですよ。

要するに武家衆と同様に、機織りの職能集団もまた、鉾を曳いたり風流舞を舞って祇園祭に参加し、巡行したことが書かれてはるんです」と。

「えっ、そうなんですか?朝廷に仕える職能集団も巡行に参加していたんですか、へぇ~それはそれは・・。なんだか、阿波踊りの『連』を連想させますね・・、あはは・・」私はそんな風に言ってから、ハタと気づいた。

 

「あ、そっかぁ、当時の職能集団も自分達のチームを作って祇園祭に参加していたんですね。・・それって、金山衆の『綾傘鉾』と同じ構図ですね・・」と私は言った。私のその発言に二人は少し戸惑っている様だった。

「いえネ、その織部の大舎人の鉾と同じように、義定公の家来で職能集団であった金山衆も『綾傘鉾』を曳いて祇園祭の巡行に参加してたんじゃないか、って事に気付いたんですよ。

尤も金山衆の方が鎌倉時代初期だから二百年以上は早い訳で、金山衆の綾傘鉾の方が先行していたんでしょうけどね・・。でも、まぁ同じ事ですね・・」その私の言葉に触発され思い出したのか、准教授が改めて聞いてきた。

「そうそうその『綾傘鉾』について、もう少し詳しう、とりわけ金山衆との関係を中心にお話していただけませんか?」と。

「了解です。今度も少し長くなりますが、お付き合いください」私はニヤリとしながら、そう断りを入れて話を始めた。

 
 
 
 
 
 
 
             
 
                    祇園祭白鷺舞い
 
 
 
 
 
 

祇園祭 綾傘鉾

 
 「僕は『八幡山』同様に『綾傘鉾』も、安田義定公に関連した山・傘だと思っています。但し、こちらは同じ義定公の家来達ではありますが、武人の家来ではなく職能集団のいわばテクノクラートたちの山・鉾だと思っています。

金山衆というのは、義定公の領地経営の柱である金山経営に従事する専門家集団でして、金山開発に関わる高い技術やノウハウを持っている、当時のスペシャリストです。

具体的には金鉱を採掘するための土木技術はもちろん、採掘した金鉱石なんかから金を抽出したり精錬するための、高度な鍛冶技術も持ってるわけです。

戦国時代の武田信玄の時、治山治水の技術の粋を集めたとされる有名な信玄堤や、軍用道路でもあった棒道を造ったり維持していたのは、この金山衆の土木技術を継承した人達だと、僕は思っています」私がこの様に金山衆について話すと、藤原准教授が聞いてきた。

 

「でもどうして金山衆は、武家衆とは違う鉾をあえて造るようにならはったんです?なにも武家たちと一緒に、安田義定の一党として『八幡山』を担げば良かったん違います?」と、私に疑問を投げかけてきた。

「そうですね、確かにそうですよね、ふつうに考えれば・・。ん~ん多分それは、プライドだと思います。金山衆のプライド、ですね。

彼らは領主である義定公の家来ですが、武術をもって仕えているわけではない。高度な土木技術や金属の精錬・加工といった冶金技術を持った技術者集団であり、専門家なわけです。

自分たちの仕事に高い誇りを持っている。彼らは専門性の高い職業に従事している者として、相当高いプライドを持っていたと思われるんです。

信玄公の時代でもそうだったんですが、武家とは違う独立した身分として信玄公に仕えていたんです、金山衆は・・。

ですから甲斐源氏の武家衆が『八幡宮』を担ぐのを横目で見ていても、それは自分達の神ではないわけで、自分達の神様を担ぐならまだしも、と思ったんではないでしょうか・・。その辺が最大の理由ではなかったか、と僕は思います」私はそう言って准教授を見た。彼女は私の話を咀嚼し理解しようとしている様に見えた。

 

「それに彼らは、自分たちの職業神を祇園神社の中に祀っているんです。丁度甲斐源氏の武人たちが八幡宮を祀っていたようにですね。
これは京都祇園神社に限らず、金山衆は富士山西麓や、遠州でも自分たちの神様を祀った神社を独立して作ってます。『金山神社』とか『金(かん)之宮神社』とか言ってですね・・」私の話に、さっそく准教授が反応した。

「因みにその祀神は?」と准教授が短く聞いた。

「もちろん祀神は金山彦です。彼らの神様ですから・・。で、神社としては金峰山神社です。本殿西隣の十社の中に合祀されています。京都祇園神社ではですね・・。

ですから祇園神社には義定公に関係した神様としては『八幡宮』と『金山彦』とが併せて鎮座しているわけです。

武家衆と金山衆とにそれぞれ別の神様が鎮座している訳です、祇園神社の中には、ですね・・。で、それと同じ構図が山・鉾の巡行についてもあったんじゃないかって、僕はそう考えてみたんです」私はそう言って准教授の大きな目をじっと見て話しを続けた。

 

「武人達は六条八幡神社から『八幡山八幡宮』を担いで祇園神社に向かい、金山衆は『綾傘鉾』を曳きながら風流(ふりゅう)舞を踊って祇園神社に向かったのではないかと、ですね。そう考えています。
ただ残念なことにその巡行の出発点が何処だったのかは、まだ判ってないのですが・・」と私は自説を述べ、二人の顔を交互に見た。
山口さんはニコニコと肯いていた。彼は昨日この話は聞いていたから、理解が早かったのかもしれない。
 
 
「なるほど、そこまではとりあえず理解する事はできます。・・ところで『綾傘鉾』の出発地点について、なんにも思い当たること無いんです立花さん?せっかくそこまで判ってはるのに・・。『八幡宮』は『六条八幡神社』やとして・・」藤原准教授が私を試すように聞いてきた。

「ん~ん、そうですね今のところ・・」と私が正直にそう言うと、山口さんがアドバイスをくれた。

「因みに現在の『綾傘鉾保存会』はどちらにあるんでしたか?」と。

「それは綾小路新町東の・・」と言いかけて、私は閃めいた。

「あっそうだ、大原神社だ!」と私は叫んだ。

「大原神社、ですか?大原野の?」准教授が反応した。

 

「いやいや違います。大原三千院の大原ではありません。確か、元社は綾部だか福知山に在ったと思います。丹波とか京丹後の方です日本海寄りの・・。
その神社の末社で要するに京洛の出先機関、出張所ですね・・」私はそう言いながらメモを見て確認して、

「あぁやっぱり、大原神社の元社は福知山ですね・・」と言ってから、話を続けた。

「ひょっとしたら、この綾小路新町東の大原神社だったのかもしれませんね『綾傘鉾』巡行の出発地点・・」私が思い付きでそう言うと、早速准教授が突っ込んできた。

「その根拠は現在そこに保存会があるから、ですか?それだけでは弱くありません?」と。

「確かに保存会があるだけでは、そうですよね。何故そこに保存会があるのかの説明がないと難しいですかね・・」私は自分でも根拠としては弱いと思っていたので、准教授の指摘通りだと思った。

「因みにその大原神社のご祭神に、金山彦はあるんですか?」山口さんが聞いてきた。

「いや残念ながら・・。大原神社は安産の神様が祀られているという事です」私はメモを見て確認してから、応えた。

 

「ただですね、これもまた推論に成るのですが、僕は『綾傘鉾』と言うのは実は『四条傘鉾』を参考にして創られた鉾だったのではないかと、そう想ってるんですよ」

私がそう言うと、准教授は眼で先を促した。彼女はその大き目な眼で、自分の意思を伝えることが多い。

「と言うのはですね、『四条傘鉾』と『綾傘鉾』とは結構似てるんですよね、名前もそうですが、その形態も・・。もちろん『四条傘鉾』の方は地味系で、『綾傘鉾』の方は派手系という違いはあります。
そしてその地味系と派手系の違いがあるから、先行していた『四条傘鉾』を『綾傘鉾』が後追いしたのではないか、と考えることが出来るんです。
フツー後追いの方が、敢て違いを出したいって思いますからね、派手になったりするんだと・・。

『四条傘鉾』は平安朝の祭である風流舞の影響が強く残っていて、おとなし気で雅さがありますよね。ある種女性的。それに対して、『綾傘鉾』は派手で賑やかしい。

鉦や太鼓で囃したり、赤熊(しゃぐま)の棒振り子に巡行を先導させたりといった、派手目のパフォーマンスを付け加えて、ことさら賑やかさを演出している。

ある意味武士の時代の荒々しさや、大雑把さをも感じさせていて男性的な訳です。

で僕は敢てそうする事で、既に定着していた『四条傘鉾』との差別化を図っているのではないかと想像しました。

地味目の四条傘鉾を参考にして、派手目な自分達のオリジナルな鉾の巡行を考え出した。それが『綾傘鉾』だったんじゃないかって、ですね・・。」私はそう言って一息入れてから、

 
 
「で、ここからが肝心なことですが、その『四条傘鉾』は四条西洞院辺りで行われていた。原神社の在る綾小路新町からも、そう離れていないんですよねご存知だと思いますが・・。
ですからこの物理的な距離感も二つの鉾の関連性を物語るのではないかと・・。そんな風に僕は考えています」

「あら、祇園祭の山・鉾って、四条烏丸から四条堀川にかけて殆ど集中してはるでしょ?」准教授が疑問を挟んだ。

「ええ現在は、その通りですね。って言うか正しくは応仁の乱以降は、その通りですね。でも、鎌倉時代初期はどうだったんでしょう?もっと拡散していたんじゃないですか?京洛中に・・。

確か『久世』や『山崎』からも来てたでしょ山車も傘も、風流舞も・・。洛外からですよね、それって・・。

現在の様に烏丸から堀川界隈に集中するように成るのは、町衆が主体に成ってからではありませんでしたか?応仁の乱以降・・」私がそう反論すると、准教授は押し黙りそれ以上言わなかった。

 

 

 

              
 
 
 
 

 綾傘鉾ご神體、金の鶏

 

「ところで先ほど立花さんは『綾傘鉾』の担い手が甲州金山(かなやま)衆であることの根拠として、『綾傘鉾』の天辺のご神体が、金の鶏であるからだと言われましたよね。その辺をもう少しご説明いただけませんか・・」と、山口さんが言った。

彼はチョット気まずい雰囲気になり掛けていた場を和ますために、敢てそう言ったのかも知れなかった。何故ならこの話題は、昨日山口さんには既にしていたからだ・・。

「了解です。因みに金山衆の本拠地は、甲斐之國牧之荘の山奥にある鶏冠(とさか)山、別名黒川山とも云うんですが、そちらに成るんですね。
彼らは甲斐之國では古くから黒川衆と呼ばれてまして、甲州の金山衆の中でも伝統があり技術も高くて、一目置かれた存在でした。

因みにその場所は中里介山の小説で有名な『大菩薩峠』の近くに当たるんです。現在の地名で言えば甲武信連山の山梨側で、山梨県と東京都・埼玉県・長野県との境に成る二千m級の山々が集積している場所です」私がそこまで言うと、山口さんが

「中里介山の『大菩薩峠』ですか、あの辺りですかその金鶏山とかは・・。いやはや大層な山の中だ・・」と言った。山口さんは大菩薩峠に行ったことがあるような口ぶりで、そう言った。

 

「それでその鶏冠山と言うのは、山頂がいくつものギザギザ状に成っていて、遠くから観るとちょうど鶏の鶏冠(とさか)の様に観えるんですね。それで鶏冠山と言う名がついたらしいです。
その彼らの本拠地はもちろんですが、彼らが金山の開発を行う場所では毎年『金山祭り』と言う祭祀を行うんですね。その神事を彼らはとても大切にしているようです。
 
一年間事故が起きる事なく、今年も金を採集することが出来たことに感謝し、また次の一年も同じようにケガする事も、落盤などの事故が起こる事も無く金山開発が無事に行われ、金が沢山採れますように、と祈念するという訳です。
 
の金山祭りで担ぐ神輿のご神体が、将に『金の鶏(にわとり)』という訳です。で、言うまでもなく純金製ですね・・」私はニヤリとしてそう言った。
 

それまでじっと話を聴いていた藤原准教授が、

「その金の鶏と同じご神体が、『綾傘鉾』のご神体、ということですか・・」と言った。

「その通りです。ご存知だと思いますが『綾傘鉾』は二基の曳山に成ってますよね。1つは『若松』もう1つは『金の鶏』が、それぞれのご神体として綾傘の天辺に在る訳です。

因みにその中の『若松』の方は、先ほどの『四条傘鉾』の傘鉾に載ってるご神体と全く同じです。それもまた僕が、『綾傘鉾』は『四条傘鉾』を後追いしたと思われる、という論拠に成っています」と私は両者の関連性について付け加えた。

 

「最後に宜しいですか?」准教授が改まった感じで聞いてきた。私は眼でどうぞと肯いた。

「金山衆と祇園神社の関係についてなんやけど・・。安田義定と祇園神社の関係については、先ほど来のご説明でひとまずは判りました。せやけど金山衆と祇園神社の関係はどうなんでしょう?

神社の中に『金山彦』を祀った『金峰山神社』でしたか、それを勧進した勧進元が仮に義定配下の金山衆やとしても、ですよ。それを祇園神社が受け入れたのは何故なんやろ?

金山衆の申し入れがあったからといって、簡単に神社側は受諾しはったんやろか・・。

そうなった合理的な理由って、何かあったんと違います?でないと説明付きませんでしょ?その点について立花さんはどのように考えてはりますの?お考え、お聞かせ戴けませんか?」と、一気に迫る様にそう言った。

私は准教授の迫力ある切込みに戸惑った。実はその点については、あまり考えていなかったからだ。自分なりの答えはまだ見出してはいなかった。

一瞬の沈黙の後、私は言った。

 

「正直なところ、その点についてはあまり考えていなかったです。義定公の配下という事で、一緒に殆どセットだと考えてましたから・・。

先ほどの『看聞日記』に書かれていた織部の大舎人でしたか、彼らが職業グループとして風流舞に参加していた、というのと同じ程度に考えていたんです。

、綾傘鉾の天辺には金の鶏がご神体として鎮座している。それが結びついて、その様に考えたわけです・・」と、私は応えた。

「なるほど、確かに風流舞に金山衆が参加した理由としては、立花さんが言われるような事はあったかも知れません。大舎人と同様に、ですね・・。

せやけど、祇園神社の中に金山衆の神様を勧進し鎮座させると言うことに成ると、もう少し強い動機と言いますか、理由がないと弱くありませんか?

何故祇園神社の境内に、金山彦を祀神とした神社を鎮座させはったのか・・」准教授は課題をクリアにさせた上で、手を緩めず更に切り込んできた。

 

「う~ん正直なところそのご質問への明確な回答、今現在は持っていません残念ですが・・。もう少し調べてみます。宿題ですね、藤原先生から頂いた・・」私は自分に言い聞かせる様にそう言った。准教授はじっと私を見つめて、

「立花さんからの客観的で、合理的なお考えをお待ちしてます・・」と言うとニコリとした。私は准教授に向かって肩をすぼめながら

「お時間は掛かるかもしれませんが、僕なりの回答が見つかったらご連絡させていただきます・・。その時はお手柔らかに・・」と言ってニヤリとした。その上で私は准教授を見据えて言った。

 

「藤原先生には感謝してます。先生に先ほど教えていただいた『看聞日記』に書いてあった記録で、『八幡山』だけではなく『綾傘鉾』もまた義定公に関わる武家衆や職能集団の金山衆が、祇園祭の巡行の主役に成りえたという事が証明されました。ありがとうございます。
 
正直なところ金箔で覆われた八幡宮や騎馬に乗った応神天皇像、更に金の鶏のご神体と言う、いうなれば物的証拠には自信はあったんですが、実際のところその担ぎ手達が義定公の武家衆や金山衆であったかどうかについて、確信する根拠が無かったんです。

ですから武家衆や機織(はたおり)衆が、山・鉾巡行や風流舞に関わっていたと『看聞日記』に書かれていたと知って、やっと確信を持つことが出来ました。先生に貴重な情報を教えていただいた結果だと、感謝しています」私はそう言って、准教授に重ねて感謝の言葉を述べ、頭を下げた。

 

それを聞いた准教授の眼は、優しく垂れていた。先ほどまでの厳しい眼力(めぢから)のある目とは異なっていた。
 
それからの私達は、打ち解けた雰囲気の中で食事をとることが出来た。
またかつて私が右京大学の学生であった事も打ち明け、学生時代の話などで盛り上がった。
 
後白河法皇の濃いキャラクターの話や、安田義定一族の悲しい運命、京都の祇園祭と地方の祇園祭の共通点や違いといった事についても話し合い、時の経つのも忘れた。
それでも十時前には、その店を出た。
 
 
私達は四条烏丸駅の地下のコンコースに入り、別れることにした。

山口さんと藤原准教授は、阪急電車でそれぞれの家にと向かった。

私はJR京都駅近くのビジネスホテルにと向かって、地下鉄烏丸線に乗った。

収穫の多かった今日の夕食会に、私は心から満足していた。

そのせいか、私の足取りは軽かった。

 

 

 

 

     『 看聞日記 』 ー永享八年(西暦1436年)六月十四日の条ー

                                                                                                  『宮内庁書陵部刊』

 祇園會結構云々、公方ご見物無し、早旦北畠笠鷺杵(鉾?)参る

 屏中門の内にて舞われしむ、練貫(練絹)一・太刀一を給う。

 其の後大舎人杵(鉾?)参る、練貫一・太刀一を下さる。

 見物衆鼓を操る也。                        

                                    ( )は著者の註

 

「看聞日記」は後花園天皇の父、伏見宮三代「貞成親王」の日記である。この記録は室町時代中期、応仁の乱勃発の三十年近く前に書かれている。

従って、平安時代から鎌倉時代を経て踏襲されて来た祇園祭が、まだ色濃く残っていた頃の日記である。何しろ有識故実が社会通念として重きをなした時代の記録なのである。

11年間続いた応仁の乱によって京洛の地が灰塵に帰し、当時の有力武家達が疲弊しきる前の、古き良き時代の祇園祭の事がここには書かれているのである。

 

 

 

                 

                  綾傘鉾ご神體、金の鶏

 

 

 

 祇園神社に残る痕跡  

 
 

翌朝私は京都駅前のホテルの清算を済ませた後、JR京都駅地下街にあったコインロッカーに荷物を預け、最後の京都での時間を過ごすことにした。

新幹線の切符は十三時過ぎの「のぞみ」を取ってあった。

今日は最後の仕上げにと思い、『祇園神社』と『伏見稲荷大社』とを訪れるつもりでいた。

両神社をもう一度ゆっくりと観てきたいと思っていたのだ。

今回は事前の情報もある程度得ていたので、確認しチェックしたい内容があった。もちろん両神社に残る安田義定公に関する、足跡や痕跡を見つけるためにである。

 

帰りのことを考えて、まずは祇園神社に行くことにした。伏見稲荷からはJRで直接帰ることが出来るから、時間が読めるのだ。

京都駅前のバスターミナルから東大路を北上するバスにと、乗った。

平日という事もあって、そんなに混んではいなかったが中国人か台湾人と思われるインバウンドの観光客が目についた。

彼らの多くは私と目的地が同じようで、少なからぬインバウンド観光客が東大路四条の祇園神社の前で降りた。

 

私は四条通に面した西楼門を前にして、朱色の柱に白壁の楼門上部の屋根瓦を注視した。

「木瓜唐花の紋」と「三つ巴紋」であった。

言うまでもなく前者は祇園神社の神紋であり、後者は源氏の氏紋で八幡宮の神紋である。

その後私はすべての建物の屋根瓦を確認した。

 

「木瓜唐花の紋」と「三つ巴紋」が同時に使われていた建物は、

「西楼門」

「南楼門」

「本殿」

「蘇民将来を祀った疫神社」

の四つの建物であった。いずれも祇園神社を代表する建物で象徴となっている建物である。そのほかの建物では確認できなかった。

更に本殿裏手の「神馬舎」を確認すると「木瓜唐花の紋」は無く「三つ巴紋」のみであった。

 

そのことは「神馬舎」は祭りに際して臨時に朝廷から送られる馬を留め置く厩舎、と言う本来の役割ではなく、祇園神社の神馬のための常設厩舎であったことを窺わせ、騎馬武者用の軍馬を畜産育成した安田義定公の造作関与を、私には推測させた。菊の御紋が用いられていなかったからである。

私は祇園神社の各建物の神紋や家紋を見て、安田義定公が後白河法皇の発心によって、遠江守重任の賦課役として増築や改築を行ったのは、これら「三つ巴紋」付きの建物だったのではなかったかと確信するに至った。

その根拠はやはり二つの神紋・家紋が併存する屋根瓦の存在である。実際、境内のその他の神社の建物には、これらの神紋・家紋は付いていなかった。

中には神紋すら無い、ツルツルの屋根瓦だけのものもあった。

「大神宮」「大国社」「美御前社」「太田社」といったものがそうである。

明治以降に合祀された「五社」「十社」も同様であった。

 

私はその事実を確認しながら考えた。

そもそも屋根瓦に神社の神紋なり、三つ巴紋を入れて瓦を焼くという事はどういう事を意味するのだろうか、という事についてである。通常の屋根瓦であれば、何もそんな手間の掛かる事をする必要がないわけだ、と。

にも関わらずそのような瓦を造るとすれば、それはどの様な時なのであろうか、という事を考えてみたのだ。

当然のことながら、型を考えるところから始まり、型を作ったり、型に嵌めたりで手間が掛かる分だけ、製作に要する費用・負担は上がってくるだろう。
そして更にはオーダーメイドである分、製造期間も余計にかかってしまう。という事は納期に時間が掛かってしまう。遅れが生じるわけである。

要するに神紋や家紋を入れた屋根瓦を造るためには、お金も時間も通常以上に掛かってしまう、という事だ。

従って、金銭的な余裕や時間的な余裕そして何よりも、それらを造る事に対する拘りがない限り、そのような屋根瓦は造られることはないだろう、という事である。それがリアルなところだろうと、私は想った。

 

そしてその様な厳しい現実があるから同じ祇園神社の建物の中においても、神紋や家紋が入っていないツルツルの屋根瓦があるのだ。用や時間を掛けられない場合は、ツルツルで出来合いの屋根瓦に成らざるを得ないのである。

たとえ後白河法皇の朝廷による命令であったとしても、義定公が上っ面の対応で済ませようと思っていたならば、このようにコストも時間も余分に掛かってしまう様な事は、しなかったのではなかったか、と私は想った。

成功(じょうこう)という交換条件の賦課義務として後ろ向きに対応するならば、ツルツルの屋根瓦で済ませていたに違いないだろう、と私は考えた。

 

にも拘わらずそう成っていなかったのは、やはり祇園神社と義定公の「個対個」の関係が良好だったからではなかったか、と。

南楼門や本殿を観ながらそんな風に考えが定まった時、私は気が付いた。

私の観ている、目の前の本殿の屋根の最上部にキラキラと輝く黄金色の「木瓜唐花」の祇園神社の神紋と「三つ巴」の源氏の家紋とが在ることに。

安田義定公はやはり自分の足跡や痕跡をしっかり、祇園神社の中に残していたのだ。私が気付かなかっただけなのである。

「観れども見えず、聞けども聴こえず」ということわざを、その時私は思いだした。

 

祇園神社ではたぶん八百年前から、金色に輝く「木瓜唐花」の神紋と「三つ巴」の源氏の氏紋とが、本殿や西・南の楼門の天辺に在り続けたのだと。

そしてそれは多分、安田義定公が後白河法皇の下命により造築や改築を行った事の証として、残してきたものではなかったか、と私の想いは至った。 

もちろんその後何度も大地震や戦火に見舞われ、消失したり倒壊を経ていることから義定公が建立した建物が、創建時のまま八百年間存続し続け現在に至っているとは言えないだろう。

しかし鎌倉時代初期に義定公によって作られた建物の仕様は、その後永らく再建造する際の基準に成ったのではなかったか。

丁度平安貴族の衣装が今なお宮中行事における正装束に成っているのと同様に、有識故実によって原初に帰ろうとするのと同様に、その際のお手本は様式美が確立した際のピークに向かうのではないか。

様式美の頂点に立ち返ることが、有識故実として立ち戻る際の基準に成って来るのではないか、と想うからだ。

 

現在の屋根の最上部に在る、光り輝く「木瓜唐花」や「三つ巴」の神紋が純金製であるかどうかは、不明である。しかし、義定公が創設した八百年前には純金製の神紋や氏紋が造られていたに違いない、と私は思っている。

義定公の領地経営の柱である金山経営を考えた場合、その様に思えるのである。もちろん素材の金の供給には何の問題もなかったであろう。 

いずれにしても、義定公が費用と時間をかけて建て替えや造・改築した本殿や拝殿・楼門の事を当時の祇園神社の中枢達は、しっかり受け止めて来たのではなかったか。

そしてその様な事があったから現在の八坂神社の正式な神紋、すなわち「三つ巴」に重なる「木瓜唐花」が成立したのではなかった、と。私は祇園神社の幾つかの建物を観て、その様に考えが至った。

これは私の妄想かも知れないが、この私の考えたことを山口さんや藤原准教授にいつの日か話してみたいと、想った。

彼らがどのような反応を示すか楽しみである。

そんなことを考えながら、私は次の目的地である「伏見稲荷大社」にと向かった。

 

 

 

             

          祇園神社南楼門        伏見稲荷大社楼門

 

 

伏見稲荷大社

 

四条通を鴨川に向かって数分間、西進した。

ほどなくして鴨川の手前で、京阪電車に乗るために地下に降りた。

京阪電車はこの辺りでは地下鉄に成っていて、乗り場は地下に在ったのだった。

私は京阪電車に乗り、伏見稲荷にと向かった。

 

京阪電車の「伏見稲荷駅」で降りた私は、そのまま真っ直ぐ伏見稲荷大社にと向かった。

10分近く歩くとJR「伏見駅」改札の正面に伏見稲荷の紅い大鳥居が在った。

その足元には金色の稲わらを咥(くわ)えた狐の像が在る。狐と伏見稲荷神社との関係を象徴し、とても印象的であった。

 

更に稲荷大社に向かうと、大きな楼門が構えていた。

観光客の多くはその楼門に吸い込まれるようにして入って行き、そのまま拝殿にと向かった。

私はその楼門が祇園神社の南楼門や西楼門に、非常によく似ていることに気が付いた。

祇園神社にあっては、現在は四条通からアプローチする四条楼門(西楼門)がメイン導線に成っているので、南楼門はそんなに目立たない。

しかし鎌倉時代に書かれた「元徳の古図」に依れば、当時の祇園神社の境内は南北に長く、そのメイン導線は南楼門なのである。

 伏見稲荷大社と同じ構図である。

 

そして両神社の楼門の建て替えや大規模な造築や修築を共に行った人物は、他ならぬ安田義定公である。

二つの建物の構造や配色・デザインがとても似通ったものと感じられるのは、同じ設計思想や仕様・美意識によって、造られたからであろう。そう思うとスッと納得することが出来た。

八百年以上経った今でも、こういう形で義定公の業績や痕跡はしっかりと残っていたのであった。『吾妻鏡』に書かれていたとおりであった。

 

後白河法皇の発心によってなされた、二つの神社の造改築や修築の義定公に対する下命は、この様な形で今でも残っていたのである。

後に頼朝や北条氏を中心とした伊豆の御家人グループによって討滅・抹殺させられた安田義定公の一族であったが、彼が遠江守として執り行って来た事績は、この様な形で遺産・遺跡として生き続けて来たのである。

そしてまた祇園神社や伏見稲荷大社がこうやって存続する限り、八百年前の文治年間に義定公によって造られたこれらの建造物の仕様は、今後も引き継がれていくであろうと思う。

今後また、大地震や大火に見舞われることがあって一時的に消滅し破損することはあるかもしれない。

それでも再構築の際に常に立ち返る基準は、義定公が鎌倉時代に造ったこの目の前に在る、設計思想であり建築様式・美意識であろう、私はそう確信している。これまでの八百年間に繰り返されて来たとおりに、である。

その時私は、二年ほど前に起きた熊本地震で大きな破損や損傷を被った熊本城の事を思い出していた。

 

それから私は拝殿に参拝し、本殿を参拝した。

拝殿や本殿の屋根の最上部にも私は、光り輝く「菊の御紋」と「三つ巴紋」を確認した。

祇園神社においては「木瓜唐花」と「三つ巴紋」とであったが、そのほぼ同じ位置にこれらの神紋や氏紋を見つけることが出来たのであった。

「神様の指紋」として義定公の痕跡を、ここでも見つけることが出来たのである。

建物の天辺と言う、殆ど人が見ることもない場所に義定公は、こうやって自分の足跡や痕跡を明確に残してきたのであった。私がこれまでその事に気が付かなかった、だけである。

 

義定公は朝廷から何度も督促されながら、自分の名において創るこれらの建造物に、少なからぬ拘りや美意識、更にはある種の覚悟をもって向き合って来たのではなかったか。

進捗の遅延に不満を持った朝廷によって、義定公は「遠江守」から一年足らず「下総守」に左遷され、懲罰人事を受けても自分の造る両神社の楼門や本殿に自分の美意識を貫き、手を抜かずしっかりと取り組んできたのである。

そして両神社の造改築や修造が無事終わった後、義定公は三度目の「遠江守」に復任している。官位としては従五位下から最終的には従五位上にと、昇任しているのだ。

朝廷もまた彼の美意識によって竣工完成した「伏見稲荷大社」や「祇園神社」の本殿や拝殿・楼門を見て、その出来栄えに納得したのではなかったか。だからこその度重なる重任であり、昇位であったのだろうと思うのである。

 

更にまた後白河法皇の六条の院の修築工事にも義定公は指名されている。この建築工事は義定公の成功ではなく頼朝の負担に成っているが、いうならばプロデュースを義定公にと、指名しているのである。

後白河法皇は安田義定公の仕事ぶりをしっかりと見ていたのである。

そして義定公に対するそのような法皇の意思や評価を知っていたから、頼朝や鎌倉幕府の中枢は、後白河法皇存命中は義定公に手を出すことが出来なかったのであろう。

私はそんな風に思いながら、伏見稲荷大社を彷徨した。

 

ふと気が付くつと、私の目の前に「神馬舎」が在った。本殿裏手の東北に位置し、千本鳥居に向かう途中であった。

その神馬舎の木造の神馬像は白馬であった。神馬には色鮮やかに織られた金襴の緞子が架けられていた。華やかな衣装で着飾られていたのである。晴れ着によって美しく飾られていた、神馬の像であった。

そしてその金襴緞子を良く観ると、そこには花菱の家紋がしっかりと織り込まれていた。何あろう花菱紋は安田義定公の家紋である。

ここにも義定公の痕跡はしっかりと残されていた。

「楼門」と言い「拝殿や本殿頂上の三つ巴紋」そして「神馬舎の花菱の家紋」いずれにおいても安田義定公は、自分の痕跡・足跡を残していたのであった。

鎌倉時代初期から八百年経った今もなおその痕跡は残り続け、今後もまた継承され続けるであろう。伏見稲荷大社の有識故実として・・。

 

翻って源頼朝はどうだったか、私は考えてみた。頼朝の菩提寺や妻の北条政子の菩提寺は鎌倉には残っていないという。もちろん彼らが亡くなった当初は盛大な葬儀は行われたし、菩提寺にも手厚く葬られただろうと思う。

しかしいつの間にかその存在は忘れられてしまい、今はその存在すら無くなってしまっている。北条氏が執権として鎌倉幕府の実権を握ったという事もあるが、そこには源頼朝と言う人物に対する当時の御家人達の評価や想いが、私には透けて見えるのだ。

西国を基盤とした平家の追討に際しては、関東の御家人達によって担がれ、その御輿に乗って鎌倉幕府を創設し征夷大将軍に成り、時の権力を握った。

彼が権力を握っていた間は、それに追従する多くの御家人たちが続いた。北条氏一族や梶原景時・伊豆の御家人グループがその中核であったが・・。
 

しかしその頼朝が居なくなって嫡流と呼ばれる末裔達はどうなっただろうか・・。嫡子の頼家は幽閉され暗殺された。頼家の弟の実朝や孫の公暁も北条氏に唆(そそのか)され互いに殺し合った。

そして頼朝や政子の菩提寺もいつの間にか、顧みられなくなった。

関東の御家人達が従ったのは、頼朝の人間性に対してでは無く彼の先祖の名声であり、権力に対してではなかったか。

彼自身が権力者で無くなった時に、武人の頭領としての尊敬や尊崇の対象では無くなってしまっている。人徳が無かったのであろう・・。

哀れな人間である。自らの人間性がもたらした結果であろうと、私は思う。

 

一方安田義定公である。

頼朝や伊豆の御家人グループの権力意識によって「艶書事件」などという些細なことで堕とし込まれ、滅亡させられてしまった。悲運の一族である。

しかし彼は今なお、その本貫地であったかつての甲斐之國牧之荘の人々には「お祖覚さま」として慕われ続け、盆踊りなどにその想いは受け継がれている

そして菩提寺の塩山放光寺では八百年後の今も尚、しっかりと祀られている。京都の「祇園神社」や「伏見稲荷大社」にはこうやって足跡や痕跡も残っている。

彼の権力は限定的であったが、領民たちの義定公の人間性や事績に対する評価や、彼個人に対する恋慕の想いは強かったのであろう、と推察することはできる。

私はそのようなことを考えながら、伏見稲荷大社の広い境内を散策していた。

 

そして伏見稲荷大社の建て替えや大規模な造改築や修築が、無事に終わった時に催されたに違いない祝賀の神事について想像してみた。
 
伏見稲荷大社を正装でしずしずと歩く神官たちの後を、花菱の刺繍を施された金襴緞子に着飾られた白馬に乗った安田義定公が、馬上からゆっくりと進む姿をである。
その顔は満面に笑みを湛えていたのではなかっただろうか。

三年間の月日を掛けて自らが手掛けた楼門の下をくぐり抜け、拝殿や本殿の頂上に光り輝く金色の「菊の御紋」や「三つ巴の紋」に、少なからぬ誇りや満足感を抱きながら、心の底からフツフツと湧き上がる充足感を噛みしめ、ゆっくりと愛馬と共に練り歩いたのではなかっただろうか、そんなことを私は想像してみた。

私は八百年前の義定公の晴れ姿を想像し満足感を抱いて、今なお彼の痕跡の残る伏見稲荷大社を後にした。

 

 

  

         『 吾妻鏡 第十巻 』文治六年(1190年)二月十日の条

                   『全訳吾妻鏡2』139ページ(新人物往来社)

一. 造稲荷社造畢覆勘の事。

 右、上中下社の正殿、宗たるの諸神の神殿、合期に造畢し、無事にご

 遷宮を遂げしめ候ひをはんぬ。

 ・・・・・・・・・・・・・・・・  ・・・・・・・・・・・・

 六条殿の門築垣の事と言いひ、大内の修造といひ、かれこれ相累なり

 候の間、自然に遅々とす。 ・・・・・・・・  ・・・・・・・・

 すでに不足の材木分においてはことごとく直米を交量し、沙汰せしめ、

 都鄙の間に充て候ひをはんぬ。

 件の注文、同じくもって進覧し候。このほか、材木・檜皮ならびに作料

 己下、種々の用途米等は、損色の支度に任せて先に運上すでに畢んぬ。

 以前の條々、言上件のごとし。しかるべきのやうに計ひ御沙汰あるべく

 候。

 恐惶謹言。

                    二月十日  (安田)義定

  進上   中納言(藤原経房)殿

                            註:( )は著者記入

 

上記は、安田義定からの遠江守重任願いに対して、後白河法皇から下された伏見稲荷や祇園八坂神社の造築や修造が終了したことを、中納言経房に言上してる書状である。

この書状の通り、義定公が負った普請の規模の大きさや、数の多さに驚かされる。

材料費などへの支払いにも、少なからぬ費用が掛かったことが、窺い知れる。

義定公がこれらの普請を終えるのに、三年の歳月が費やされていた。

 

 

 

           

        伏見稲荷大社神馬舎        稲束を咥える狐像

 

 

 

 

 




〒089-2100
北海道十勝 , 大樹町


 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
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