春丘牛歩の世界
 
先月の終わりから1週間ほどかけて、京都/滋賀界隈を訪れている。学生時代のクラス会が4年ぶりにあったのがメインで、ついでに次回作の為の情報収集のために、である。
50年ぶりに会った人を含めて、コロナ後の影響もあってか、皆歳を重ねており顔の骨格がやけに目に付いた。
滋賀県では琵琶湖の南側や西岸・東岸を拠点に、資料集めや現地視察に勤しんだ。
暖冬もあって散策や神社仏閣巡りは、スムーズに出来た。
 
             
            琵琶湖周辺の古図
       
     
 
 
    記事等の更新情報 】
 
* 11月27日 :『無位の真人或いは北大路魯山人』に「越後出雲崎、良寛和尚」を追加しました。
9月29日:「食べるコト、飲むコト」 に「バター炒め二品 」を追加しました。
*9月27日;「物語その後日譚」に「奥静岡の鶏冠(とさか)山」を、追加しました。
*9月19日 :  「コラム2023」に「老い」とは何か⁉  を追加しました。
*6月10日 :『続、蝦夷地の砂金/金山事情・・』に7.紋別市:その2「鴻之舞金山」を追加しました。
*3月22日:「新型コロナウィルスコラム」に「アディオス⁉コロナウィルス」を追加しました。今回にてこのコラムは終了します。
*02 月28日 : 本日『生きている言葉』に「毒と薬は表裏一体」を公開しました 
 *12月10日;「カタールサッカーW杯」に
クロアチア戦 」を追加しました
*11月29日:「コラム相撲というスポーツ」に「 不祥事降格後の「敗者復活」を 掲載しました。  
 

  南十勝   聴囀楼 住人

          
         
            
                                                        
         
  
        
 

会員制サイト開設
      のお知らせ
 
2023年4月より「春丘牛歩の世界アーカイブ」を下記に開
設いたします。
このHPの情報量が多くなったための整理と、当該HP閲覧者内の濃密な閲覧者との交流を
目的としています。
有料会員制ですが、ご興味のある方は下記アドレスにコンタクトして頂けると幸いです。
 https://ofuse.me/gyu00ho
(春丘牛歩アーカイブ&フレンズ)
 
 
 
 
   
      
 
 
これまで60有余年生きてきた私の、「こころに響いてきた言葉」や「記憶にとどめておきたい言葉」について、ここでは取り上げていきたいとそう思っています。

   
   
   *Vol.28「毒と薬は表裏一体」        (2023.02.28)
   *Vol.27「文字情報では限定的」       (2022.07.25)
   *Vol.26「世の中は、理性的な人間ばかりではない」(2021.07.31)
   *Vol.25「晩節を汚す」或いは「老害」   (2021.02.10)
   *Vol.22「鹿を指して、馬となす」     (2020.05.16)
   *Vol.21「狂泉の水」           (2020.04.29)
   *Vol.20「人間(じんかん)、到るところ青山あり」(2020.03.10)
   *Vol.19「融通無碍(ゆうずうむげ)」    (2020.03.04)
   *Vol.18「風雪の当たるとこほど樹は育つ」 (2020.01.12)
        
   *Vol.17「四十にして惑わず、五十にして・・」(2019.12.30)
   *Vol.16「冬来たりなば、春遠からじ」   (2019.12.22)
   *Vol.15「季節に春夏秋冬があるように・・」(2019.12.06)
   *Vol.14「目を養えば、手は育つ」     (2019.11.11)
   *Vol.13「失敗を許容する組織風土で・・」 (2019.10.30)
   *Vol.12「人間(じんかん)万事『塞翁が馬』」(2019.10.04)
 
 
         *Vol.11「 自由在不自由 」       (2019.09.15)
   *Vol.10「 百練自得 」         (2019.08.31)
                         (2019.08.15)
   *Vol.  8「敵を知り、己を知らば百戦危うからず」(2019.07.31)
   *Vol.  7「迷った時は、原点に立ち返るとよい」(2019.07.20)
   *Vol.  6「不易 と 流行」         (2019.07.03)
 
 
   *Vol.  5「人生の最期の5%が幸せならば・・」(2019.06.20)
   *Vol.  4「駿馬常に居れども、伯楽・・」   (2019.06.12)
   *Vol.  3「いひしらぬ涙を催しぬ」      (2019.06.05)
         *Vol.  2「百川異流同会海」         (2019.05.28)
   *Vol.  1「・・飛び立ちかねつ鳥にし・・」  (2019.05.23)
 
 
 
 

 毒と薬は表裏一体

 
 
私が定期的にチェックしているBS放送に、織田裕二がメインキャスターとしてMC(進行役)をしている『ヒューマニエンス』という番組がある。
 
人間の肉体や生命に関わる事を「最先端の生命科学」を使って解き明かす、科学番組で実に多くの有益な情報を、私はこの番組から得ることが出来ているのだ。
 
最近はEテレというかつてのNHK教育放送でも、同じ番組を時間短縮して放送し始めたようだが、BSの60分番組に比べ30分間放送では掘り下げが少なく、ダイジェスト版放送の様相で深みが無いために、地デジのEテレは殆ど見ていない。
 
 
 
             
 
 
 
さてその番組で標題の『毒と薬』をテーマに、生命科学的な分析や解説を行っていたのであるが、それを視聴して少なからず感じることがあった。
 
当該番組では、「薬」も「毒」も、素材や用いるものが実は全く同じであるのだが、問題となるのはその「用い方」や「適量であるかどうか」で、その評価が分かれるのである、といった事が結論となっていた。
 
まぁ、こういった話は「毒にもなり、薬にもなる」とか「良薬は口に苦し」といったことわざや格言が古くから伝わっているように、私自身も「ぼんやり」と又は「何となく」その意味合いは知っていたのではあるが、改めて科学的にその道の専門家たちの生物化学的な知見を聴くことで、両者の関係がかなりハッキリクッキリし、腑に落ちることが出来たのであった。
 
 
番組ではチンパンジーが、自身の体の中に発生する寄生虫や有害なウィルスなどを除去するために、「かなり苦い植物」を定期的に摂取している点を例に解説していたのだが、件のチンパンジーたちは「良薬口に苦し」を意識的に摂取することで、彼らなりに医療行為を実践しているのだ、という。
 
そのほかに「モルヒネ」等も取り上げていて、同様に「麻酔効果=薬」「快楽による依存性=中毒」が同時に起こり得る、「二面性=表裏同一」があることを説明していた。
そして「ドラッグ」や「アヘン」等も同様であるという。
 
 
従ってここで問題になるのは「過剰摂取」や「利用頻度」といった点が、しっかりコントロール出来ているのかどうかである、という事であった。
 
同じ素材も接種の仕方次第では「薬」にもなるし、「毒」にもなるんだ。という事であり、素材そのものに問題があるのでは無く、その用い方にこそ問題があるのだという事である。
病院などで医師に処方箋を書いてもらった薬剤を、摂取する方法を遵守する事の大切さもまさにこの点にあるのだな、と私は番組を観ながら想ったのであった。
 
 
更に私は今回の話を聞いていて、少年期のことを思い出した。
近所のおじさんが山からマムシを良く捕まえてきては、「焼酎漬け」をしていた事を思い出したのであった。
 
咬まれれば死に至る可能性のある毒蛇のマムシを捕まえて、焼酎に漬けておくことの意味合いが子供の私にはよく理解できなかったのであるが、
そのおじさんは「蝮の毒は、滋養強壮に効くんだヮ。おまえも大人になれば判る!」といってニヤリとしたのであった。
 
 
                   
 
 
幸か不幸か私はこれまでその「蝮の焼酎漬け」を摂取したことは無いのであるが、ドラッグストアの「滋養強壮コーナー」に行くと、同様のうたい文句が溢れている事から類推するに、「マカ」や「高麗人参」等と同様の効果がこの毒蛇の焼酎漬けがもたらす事が推察出来得るのであり、「毒」と「薬」の関係が表裏一体である事に気づかされるのである。
 
やはり「毒も使いようによっては薬になる」という事なのである。
 
 
家族や友人などから時折「アクが強い人間!」と揶揄される私ではあるが、やはり「過剰摂取」や「利用頻度」をコントロールしないと、人間関係に於ても「毒=濃厚なアク」な存在に成ってしまうのであるナ、などと考えてしまった次第であった。
 
 
「今回も勉強になりました!」と番組が終わってから私は、心の中で頭を垂れていたのであった。
 
 
 
 

 文字情報では限定的

 
先日BS3チャンネルの歴史教養番組を見ていて「なるほどな⁉」と想う事があった。
その番組のその日のテーマは「後白河法皇」についてであった。
 
因みにこの番組で「後白河法皇」が選ばれたのは、系列放送局が行っている大河ドラマ「鎌倉殿の十三人」に登場する人物であったからであるようだ。
 
その「後白河法皇」は私がライフワークとしている「安田義定公」に関わる、重要な登場人物という事もあって、私はこの番組を観ていたのであった。
 
その中でレギュラーコメンテーターとして登場する脳科学者の発言が、記憶に残った。
 
 
「脳科学」というジャンルは私にとって全くの門外漢であることから、これまでも当該番組に何度か登場していた彼女の専門家としての発言には、新鮮な驚きを以って知らされることが何回もあった。
 
「心理学系」の情報や基礎知識に関してであれば、多少は噛って知っているつもりでもいるが、「生物系」の脳科学に関しては殆ど知識が無いことから、いつも少なからぬ驚きを以って得られる知識や情報は、私にとっては貴重であった・・。
 
 
その番組では「後白河法皇の思考方法」が、通常の正統的な天皇たちと異なりかなり特異なものである、という考えがこの番組の出席者たちにとって共通のものに成っていた。
 
 
そしてその要因として指摘されたのが、後白河法皇は幼い頃から「今様」を好みそれを演じる白拍子の謡や踊りを愛で親しんだことが、彼の思考方法の形成に大いに影響したのではなかったか、と脳科学者たちは推測していた。
 
その事は後に彼が多くの「絵巻物語」の制作を命じた事にも影響しているし、数少ない彼の直筆の文字の筆遣いからも窺い知ることが出来ると、番組出席者たちは発言していた。
 
 
その様な共通認識のもとに進行していた番組内において、かの脳科学者が発した言葉が私の中に強い印象をもたらした。
 
即ち、人間には大きく分けると「文字情報」で自分の意思を伝え、「文字を通じて情報を得る」タイプの人と、「視覚や五感で感じて情報を得る」タイプの人とに大きく分類できるというのである。
 
そして明らかに後白河法皇は後者のタイプの人間で、「文字や文章」を通じて自分の意思を発信したり、「文字や文章」から情報を取得する種類の人間では無かったのではないか、というのである。
 
 
 
                    
 
 
 
後白河法皇が早くから「天皇の器では無い」と父親の鳥羽上皇や、朝廷官僚の藤原摂関家などから烙印を押されたのも、この様な「思考方法」という人間的な特性があったからではないか、と彼らは分析していた。
 
即ち文字情報から学ぶ天皇としての「帝王学」や「教養や常識」が苦手で、受け付けられず知識として蓄積されなかったがゆえに、「その器ではない」と評価されていたいたのかもしれない、と出席者たちは推測していた。
 
天皇という君主に求められていた「素質」や「教養」が備わっていない、明らかに資質が足りない人物と評されていたようである、というのだ。
 
 
若くして「天皇のコース」から弾かれ除外されていた後白河法皇であったが、歴史の偶然が幾つも重なって天皇に成り、その後の兄崇徳法皇との権力闘争(=保元の乱)に勝利したことで、結果的に30年以上法皇として院政を敷き君臨し、「治天の君」と群臣からも評価されるように成って行ったのである。
 
朝廷の主として30年以上権力を握っていたとはいえ、彼の生まれながらの「文字情報コンプレックス」自体は変わらず、苦手のままであったのではないか、という。
 
そしてその思考方法が法皇としての「院政」や数々の統治の仕方に、少なからぬ影響を与え従来の天皇や法皇たちとは異なる、オリジナル性を発揮することに成ったのではないか、と多くの番組出席者は語っていた。
 
 
 
因みに人類が文字を使うようになったのはせいぜいここ5000年程度の事だという。
それ以前は「ボディランゲージ」や「言葉を発し、記憶する」といった手法を用いて、自分たちの意思を現し伝え、意思疎通を図っていたのだ。
 
ホモサピエンスの誕生以降を人類の歴史とするなら、文字を使うようになったのはほぼ20万年のなかでのわずか5千年程度でしかない、という事に成るようだ。
 
従って文字を使ってのコミュニケーション伝達が浸透し、社会で使われるようになったのは、人類の歴史の中ではつい最近の事でしかない、という事に成るらしい。
 
そんなこともあって、この文字を使っての意思疎通や情報伝達/コミュニケーションをとる事は、多くの人類にとっては本来的には不得手であって、その行為に苦手意識を持ち、苦悩やストレスを伴うのは仕方がないコトなのだ、とこの時脳科学者は解説していたのであった。
 
私はこの一連の脳科学者の説明に妙に納得し、彼女の解説が私の心の奥底即ち「腑」の内にストンと落ちて行ったのであった。
 
 
子供の頃から文字を覚えることを期待され、それを駆使することが「善」であるとされ教育を受け指導されてきた私達は、この様な社会の圧力によって仕方なく「文字」を覚え書き、駆使することを強いられてきたのであるが、そのプロセスが少なからぬ苦痛やストレスを伴ってきた理由が、この脳学者の解説でとても良く理解できたのであった。
 
私自身もそうであったが、周囲の学友やクラスメートにも明らかに「文字」を使う事が苦手な人達は少なからず居た。
そしてそれは多分に全体の中では常に多数を占めていたように想う。
 
 
今でもなお多くの人が新聞や雑誌を読むコトより、TVや写真や映像の多い雑誌を好むのはこの辺りに原因があるのだ、という事を脳科学者の解説で改めて確認した次第である。
 
因みに我が家人などもこちらの分類に入る人物で、文字が多い私の書く物語は「字数が多すぎて頭が痛くなる」とよくノタマワッテいるのである。
私はこの番組を観てから、家人に対する考え方を改める様になった。
 
彼女が私の書く字数が多い物語をあまり読まないのは、「彼女が歴史物語に興味がない」からではなく、字数の多い文章に接することが「彼女の脳に苦痛やストレスを強いているからに違いない」とそう考えるようにした。
 
そんな風に考える事で、これからの残りの人生を一緒に過ごす際に、お互いの人間関係がうまくいくことが期待できるに違いない、と私はいま安心しているのである。
 
 
そして多分この事は多くの人達を対象にした場合でも起きる現象であるから、何故マンガが今でも多くの人達に見られていて、YOUTUBEが人種や国境を越えて爆発的に視聴されるのかが、判ったような気がするのである。
 
そして大人になっても「少年ジャンプ」を愛読している人たちを時折り電車で見かけても、この人たちは「字数の多い文章」が苦手でストレスを感じているから、それらから解放されるためのオアシスに今まさに浸っているに違いない、と思うようにしようと心に誓ったのである。
 
そして私は今後もなお、文字情報中心で物語を綴ることをやめないとするなら、ある程度ビジュアル的要素を取り込んだ方が、多くの人に受け入れらるのかもしれないなぁ、などと想ったりもするのである。
 
 
そんな風に思う一方で、西暦2022年を生きてる私が今から千年近く前に書かれた書物から得られる記録や情報を基に、その時代を理解し読み解くことが出来るのはやっぱり文字情報が残っているからなんだよなぁ、と想ったりもしているのである。
 
と同時に文字情報であるからこそ私の書く「物語」や「コラム」の類いが、ネット環境を通じてたとえ数は少なくとも、世界中に散らばっている日本語が好きな人達に閲覧してもらってるんだよなぁ、などと想ってもいるのである。
 
という事で今後も私は文字情報を書き続けることを、止める事は無いだろう・・、と自覚しているところである。
 
 
 
 
            
                後白河法皇直筆と手形を押した「起請文」
 
 
 
 
 

 世の中は、理性的な人間ばかりではない(2021.07.31)

 
 
コロナウィルスが感染症としてのパワーをいかんなく発揮し、世界中がパンデミックの真っ只中にある現在、オリンピックという国際イベントが行われているという現実がある。
 
数千人の感染者が毎日毎日発生しているさなかでオリンピックの開会式が、去る23日に行われた。
その開会式のオープニングイベントが千駄ヶ谷辺りで繰り広げられた時に多くの、数万人規模の善男善女が開会式の行われる国立競技場や、自衛隊が繰り広げるブルーインパレスのパフォーマンスが見えるという、会場周辺や新宿御苑に参集したようであった。
 
TVニュースの報道でその様子を見た私は「世の中は理性的な人たちばかりではない」といった言葉を思い出したのである。
 
その場所に参集した人たちはどう見ても密集状態であった。
言うまでもなくコロナ感染を誘発する「三密」のうちの一つである。
 
 
その様子を見た「オリンピック開催反対派」の人達は、オリンピックが開催されれば多くの国民が手の平を返したように、オリンピックを容認するであろうという事を危惧していたようである。
 
しかしそれは思い過ごしであろうと私は思っている。
何故ならば国立競技場周辺や新宿御苑あたりに参集した善男善女たちは、国民の三割程度といわれているオリンピック開催賛成派が参集しただけの事だからである。
 
オリンピック開催前に幾つかの世論調査が行われた時も延期派や反対派が6割近くいたが、判らないという態度不明者の1割近くを除くと、おおむね3割前後の開催賛成派は常に存在していたのである。
従ってこの日の暑い最中から国立競技場や新宿御苑に集まった人達の多くは、たぶんこの3割の人達+αなのである。
 
これらの場所に2時間以内に参集することが出来る一都3県の人口の総数は約3500~3600万人はいるのである。その中からすれば0.1%以下の人達に過ぎないのである。
 
そしてこれに限らず言えるのであるが世の中の3割近くの人は、必ずしも合理的あるいは理性的な判断をする人達ではなく、そういった人達が世の中には常に存在することを忘れてはならないのである。
 
 
 
 
            
                オリンピックのブルーインパルスに集まった群衆
 
 
 
アメリカの大統領選挙の時もトランプ支持派と言われる、理性や合理性よりも情念や煽動的言動に反応する人達は、常に3割以上存在していた。
さらにコロナ禍の渦中に在っても、未だにワクチンを接種することを拒んでいる人たちが、中南部の共和党支持者の多い州にはたくさんいるようである。
 
それらの州民たちの多くはいまだにダーウィンの進化論を否定し、人類はイエスキリストが創り出した選ばれし存在なのだ、と固く信じている人たちなのである。
彼らは科学よりも宗教を優先しているのである。
イスラミックステート=ISと彼らは五十歩百歩なのである。
 
日本においても同様である。有能な政治家か無能な政治家であるかどうかを判断する客観的な基準や理性を持たず、目先の利得や過去の習慣の延長線や信奉する宗教団体であるかどうかでしか判断しない人達が、常に一定数は存在するのである。
 
「それがまぁ人間というものである」と言われればそれまでなのであるが、これが哀しい現実なのだ。
 
 
しかしやはりまだ過半数の人はイベント会場の周辺に参集などせずに、TVの向こうで冷静に観ているのではないか、と私は想っている。
 
一向に減らない新型ウィルス感染者の存在があり、毎日前週より1.5倍以上に感染者が増加している現実がある。
 
日本代表のアスリートが活躍する試合を喜びながらも、その一方オリンピック村での感染者数が増加し続けており、累計感染者数が230人前後にまで膨らんでいる、という現実を冷静に認識している人達もたくさんいるのだ。
 
そしてまた今回も首都圏などを中心に何度目かの「緊急事態宣言」が発令されている、のである。
 
 
目の前に起きている事態の本質を観ようとしない愚かな政治家やIOCの首脳陣たちは、オリンピックという「祭り」が始まれば「多くの人が浮かれ」、「オリンピックやってよかった」と喜んでくれるに違いない、とイベント効果の一面しか見ずそれがもたらす負の側面は考えないようにしている、又は見ないようにしている残念な人たちなのである。
 
しかし、なのである。
たとえそのような幸福を一時的に味わい、酔いしれる事があったとしても、この一大イベントには「感染者数の爆発」という現実が必ずついて回るのである。
 
その結果自分自身や自分の周りにいる人たちの少なくない人数が「新型コロナウィルス」という感染症に罹り、不自由な生活や後遺症に悩む人生を送る事に成るのである。今回のパンデミックは、そう言った現象を引き起こす感染症なのである。
 
 
私の様な個人主義者は、開会式のイベントに参集して罹病した人達や、沿道に出て選手を一目見たいと思っている人達、選手を応援したいと思っている人達。更にはボランティア達が結果的にそれらの行為の結果、この感染症の犠牲になったとしても、気の毒には思っても、それは結局は「自業自得」でしょ、と冷ややか思うだけである。
 
「理性的に判断しない残念な」人達は常に一定数いるのである。アメリカでも、そして日本においても・・。その事を理性や合理性を重んじる人たちは冷静に認識しておくことも必要なのである。
 
 
 
 
                   
               開会式の夜、国立競技場周辺に集まった人々
 
 
 
 
 

 「晩節を汚す」或いは「老害」(2021.02.10)

 
 
「晩節を汚す」とは、人生の晩年においてそれまで積み上げてきた「評価」や「実績」を堕とす、といったような意味であると私は理解している。
 
最近そのような事例を何回も目にしている。「森喜朗氏」と「二階俊博氏」の事である。
二人とも政治家である。
 
もっとも彼らの「実績」が政治家としての高い評価に値するか、と言えば私の独断と偏見では、必ずしもそのようなものではない。むしろ「老害」の方が的確ではないかと、そう想っている。
 
 
「森喜朗」という人物は、かつて総理大臣を一年ほどやっていた政治家であったが、その誕生も自民党の派閥の領袖たちの談合によって、「密室」で選ばれたという経緯を持ち公正でOPENな選挙を経たわけではなかった。
 
そのうさん臭い経緯で誕生した彼の、総理大臣としての評価が定まったのは、愛媛県の水産高校の実習船がハワイ沖でアメリカ海軍の潜水艦によって、「沈没させられてしまった」という一報が入っていた時に、そのままゴルフプレーをし続けたという事であった。
 
彼にとっては10人近くの高校生の命が、同盟国アメリカ海軍潜水艦の起こした事故によって失われた事への対応よりも、ゴルフプレーを続ける事の方の優先順位が高かったのであろう。
 
その事が判明して、彼の政治家としてのリーダーシップに対して国民の怒りが集中し、彼の内閣支持率は一桁台という史上最低のものとなり、命運が尽きたのであった。
その任期は結局一年持たなかったようである。
 
その様なキャリアを持つ元総理大臣であるために、私にとってはあるいは多くの国民にとって彼はすでに「終わった政治家」だったのである。
 
 
その森氏が「東京オリンピック委員会」の組織委員長だか、会長を務めていられるのは彼が属している「自民党村」の中の力関係や評価に依っているのであろう。
 
それは細田派=安倍派の重鎮だとか、元総理大臣という経歴、更には「有能な調整家」とか「親分肌」とかいった、彼の人間力が反映しているのかもしれない。
 
その彼が「女性蔑視発言」やその批判に応えるべき「謝罪会見」で見せた態度や発信は、「老醜」や「老害」以外の何物でもなく、相変わらずの「リーダー失格」なのである。
 
森喜朗という人間は「自民党村」村内の評価はいざ知らず、白日の下に晒されるべき存在ではないのである。
 
 
 
             
 
 
 
 
しかしながらこの有能とは言えない「自民党村の重鎮政治家」が、東京オリンピックという国際イベントの顔としてその大会を担い、仕切っているのである。
 
そしてその「老害」ともいうべき「自民党村」の老政治家を国際イベントの顔と据え、擁護しているのも「二階俊博」や「菅義偉」といった、老政治家や古希を過ぎた総理大臣なのである。
 
「厚顔無恥」で「老醜」といった言葉がジャストフィットする自民党村の顔役と、その顔役を後見人としている現役の総理大臣が国の方向性を判断し、決めている。
そんな彼らを見ていて、政治という世界はつくずく不思議な世界だと、私なぞはしらけながら傍観している。
 
 
去年の秋に行われたアメリカの大統領選挙の主役たちもまた70代の老政治家二人がその座を争った。かつてのアメリカの政治家ケネディやクリントン、オバマといった大統領が就任していた時期は40代前半であったように記憶している。
 
老人たちは政治に関わるな、というつもりはないが、少なくとも表舞台は若くて行動力があって聡明な人たちに任せておいて、経験を積んだ老人たちは表舞台からは引っ込んで、求められた時にアドバイスをしたり、困った時に経験から得た知恵を授けてやればよいのではないだろうか・・。
 
70を過ぎた老人たちは、何時までも表舞台に立って老醜を晒すべきではないと、あと数年で古希を迎えるご隠居を自任している私などは想うのである。
 
反面教師たちの傲岸さや老醜を見るたびに、出来るだけ自分の晩節はケガしたくないものであると、そう願っている今日この頃である。
 
 
                  「えひめ丸」遭難から20年の日に・・。
 
 
 
 

おかしいから笑うのではなく、笑っているうちに・・

 
 
先日私はかつて録画していたBS放送を見た。
かねてより気に成っていた、沖縄のコミックバンドのリーダー「照屋林助」の生涯を扱った番組であった。
 
「照屋林助」に関しては具体的なことは全く知らなくて、何処かで見たことのある沖縄のコメディアン、という印象が多少残っていただけである。
その彼はどうやら「沖縄の植木等」のような存在であったのかもしれない。
 
その番組に映っていた、沖縄県人が彼を語る時のその様子は将に、私達がクレイジーキャッツの「植木等」について語るその様子に似ていたからである。
即ち「愛されていたコミックバンドのリーダー」だったのである。
 
彼の波乱万丈の人生と、その音楽を通じての自己表現は少し「ジョンレノンの人生」に似ていたのかもしれない。
 
彼は音楽というツールを使って「自己を表現し」、何よりも「周りを楽しませ」そして「哲学を語り」「人生を模索して生きていた」のであった。
 
 
彼は昭和4年に大阪で生まれて、父親の故郷沖縄で米軍の攻撃にさらされ、県民の1/4が戦死した悲惨な沖縄の戦後を、生き抜いたコメディアンであった、のである。
 
彼がその道に入るきっかっけに成ったのは、米軍の「難民収容所」の中でのある人物との出遭いがあったからだ、という。
 
米軍との地上戦で家を焼かれ街を破壊され、身内の戦闘員ばかりではなく非戦闘員の女・子供や老人をも失って、行き場のない人々が収容されたその施設でその人物に出遭ったのだという。
 
林助はその収容所において、やはり行き場を失って避難していた元歯医者が演じる、「明るい話芸」や「音楽」に笑い転げ、ひと時悲惨な現実を忘れることが出来たのだ、という。
 
 
その元歯医者は「小那覇舞天」という人物であった。
その舞天が繰り広げる「話術」や「芸」に彼自身も救われ、収容所の多くのメンバーも救われたというのである。
彼の演じる芸によって、笑い転げ大笑いを繰り返すことで彼らは、明るい日常を取り戻すことが出来、生きる事に前向きに成れたのだという。
 
その舞天を見ていて照屋林助は、「この人について行こう」「自分もこの人の様に周りを楽しませ」たい、人々を「生きる事に前向きに成るようにさせたい」といったようなことを、想ったらしい。
 
幼少期を大阪で過ごした当時16歳だった林助の中にはすでに、「大阪の笑い」がDNAに刷り込まれていたのかもしれない。
 
 
                 
               
 
 
 
収容所を出てから林助は舞天と共に、沖縄の島々を訪ずれ悲惨な戦争被害に打ちひしがれた人々を、元気にするための旅をつづけたのだ、という。
その時の彼らのキャッチフレーズは「生き残ったことをお祝いしよう!」といった言葉で、家々を訪ね「お祝いの唄」を歌い、踊ったのだという。
 
その舞天との巡礼の様な「癒しの旅」を通じて照屋林助が気付いたのが、冒頭の
「ヒトはおかしいから笑うのではなく、笑っているうちに可笑しくなっていくのだ・・」という事だったのだという。
 
照屋林助自身がまさにそうだったのかもしれない。
 
 
収容所での小那覇舞天の発する話芸や漫談、更には音楽/舞踊を見聞きする事で、収容所の多くの生活者と共に、彼自身も腹を抱えて笑い転げ、大笑いすることで悲惨な現実から逃れることが出来、新しい前向きな気持ちが湧き上がって来たのであったのだという。
 
「笑っているうちに、荒んだ心や悲しみに満ちていた気持ちが発散し霧散して、その後から新しいエネルギーや前向きな感情が、コンコンと湧き上がってくる」という心の変化に気づき、悟って行ったのだろう。
 
10代後半にそのことに「気付き」「悟った」林助は、自ら「笑いの伝道者」として生きることを心に決めたのだという。
以来楽器を使いこなす修行をしたうえで、コミックバンドを結成し、ゴザ(現沖縄市)を拠点にして、沖縄中を笑いの渦で元気にする歌を唄い、漫談を始めたのだという。
 
私はこのエピソードを観ていて、かつて林家三平が言っていた言葉を思い出した。
 
 
 
林家三平が終戦後、戦地から東京に戻った時、米軍の爆撃で焼け野原になった東京を見て、
「こんな住む家もなく、働く場所もないようなご時世じゃぁ落語や漫談を聞く人なんかはいないだろうな・・。もう噺家には成れないな・・」と想ったのだという。
 
そんな風に将来に夢も希望も持てなくなった彼が、上野の演芸場だかを覗いた時に、思いもよらない光景を目にしたのだという。
 
焼けあとに急遽造られた粗末なその演芸場は、立見席も出る満員で人が溢れかえっていた、というのだ。
そして落語家の話す噺に人々は大きな声で、腹の底から笑い手を打って喜んでいたのだ、という。
 
その様子を観た林家三平は
「人間は落ち込んでいる時や、絶望的な現実の真っただ中にある時こそ、笑いを求めているのだ・・」と想ったそうだ。
そして、
「今の様な焼け野原の東京だからこそ、笑いが必要なんだ!」と気づいたのだという。
 
その事に気付いて以来彼は、「笑いを多くの人に届ける」ことが自分の使命であり役割なんだ、と思い以来自分が落語家であり続ける事に迷わなくなった、というのであった。
 
私は照屋林助の番組を見て、どこかで読んだこの林家三平の述懐を、想い出したのであった。
 
 
そして今「コロナ禍」という厳しい環境の中で、医療の最前線をはじめ介護や保育といった分野で働き詰めの、いわゆるエッセンシャルワーカーと言われている人たちに対しては、財政的な支援や特別手当の支給といった金銭的な支援と共に、心の負担や精神的に疲れ切っている彼らや彼女らに、心の負のエネルギーを発散/霧散させるような、心の底から笑えることのできる「笑い」の機会が必要なのかもしれない、とそんな風に思っている。
 
米軍の地上戦に巻き込まれ悲惨な戦いを体験した沖縄や、大空襲を体験し焼け野原になった東京で、かつて照屋林助や林家三平が担った役割や機能を、彼らエッセンシャルワーカーにこそ届けることが必要なのかもしれないと、私は最近想い始めている。
 
「笑い」が、彼ら彼女らの心の重荷を解放してくれる有効な手段なのではないかと、そう思い始めているのである。
 
 
 
           
 
 
 
 
 

 往々にして真実は、話してないことの中にある・・。

 
今世界の耳目を集めているのは、アメリカの花札大統領の新型コロナウィルス感染の報道である。どのニュースでもほとんどトップの扱いである。アメリカという世界のリーダー国の国家元首の命にかかわる出来事であるから、なのであろう。
 
さてそのニュースを見ていて私は冒頭の言葉を思い出していた。花札大統領の病状に関する「医師団」の報道記者会見の様子を見ていたからである。
 
報道陣の前で、ソシアルディスタンスをとりながら記者会見に臨んだ「花札大統領主治医」の発言は、実に歯切れの悪いものであった。
「大統領がいつ陽性であることが確認されたか?」といった質問や「酸素吸入はこれまで一度も行われなかったのか?」といった記者たちの質問に対して、かの主治医が語ったのは、
 
「今日は(酸素吸入は)していない」とか「昨日と今日はしていない」といった返答であった。
私はこの主治医の返答を聞いて「きっと一昨日や一昨昨日は酸素吸入器を使っていたのだな」と邪推をした。
 
その理由は彼は昨日と今日の事は否定したが、その前の日や前々日の事は否定していなかったから、であった。
要するに私は彼の言葉に反応したのではなく、彼が発しなかった言葉から感じる事があった、のである。いわゆる行間を私は読んだわけである。
 
案の定一日たった6日になってから、ホワイトハウスの他のルートから事実が漏れたこともあってか、かの主治医はやっと酸素吸入器の件を認めたのであった。
 
 
私はこのネクタイをして白衣を着て記者会見に臨んだ「主治医」と、その後ろに控えた手術用の制服を着て白衣に包まれた軍病院の医師団を見て、両者の違いについて感じたことがあった。
 
「主治医」は医者ではなく、花布札大統領に気に入られた医師の免許を持った政治家であると。
それに対し軍病院の医師たちは医師免許を持った「医者」であったのだと、そう思ったのである。
想えばネクタイ姿の人物と、医者としての制服を身にまとったホンモノの医者との違いは、その容姿からもうかがい知ることはできたのである。
 
 
 
              
 
 
 
その事に気が付てから私は、花札大統領の容体に関するニュースから伝わる医師たちの報告の主体が、軍の医師団なのかそれとも花札大統領の主治医なのかで、当該ニュースの信憑性に明確な判断を下すことが出来るようになった。
 
即ちホワイトハウスに常駐する大統領お抱え主治医の発する情報は、その言葉を鵜呑みに信ずるのではなく、彼が言わなかったことを推測する必要があるのだ、と思うようになったのである。行間を読むことにしたのである。
 
 
とここまで書いていたらついにかの花札大統領は、さっさと軍の病院を退院しホワイトハウスに戻って、自らのカムバックぶりをアメリカのニュース番組の放映時間に合わせて全米に報道させたのである。
 
そしてその一日前には黒塗りの大統領専用車両に乗って、当該病院の前に参集していた熱烈な支持者に向けて、手を振ってアピールしたのであった。
 
これらはいずれも花札大統領が大好きな政治ショーである。
私はこの一連の政治ショーを見ていて感じたことがある。
 
 
この大統領専用車に同乗した「大統領のシークレットサービス」は、密閉された空間で数十分間コロナウィルス陽性の大統領に付き合わされたのだ、という事にである。
そしてこの事実の中に、花札大統領の国家統治の実態を見た気がしたのであった。
 
この大統領は自身の政治ショーのために、周辺の従事者や関係者にコロナウィルスをまき散らすことを何とも思っていない、そういう人種なのだという事を再確認したのである。
 
そしてその彼の大好きな政治ショーのためには、周辺の人々の健康問題はお構いなしである、という事にである。実際彼のこのスタンスによって、今やホワイトハウスはコロナのクラスターと化している。
 
 
そして彼の主催した「最高裁判事指名イベント」出席者の間でも陽性者が続出しているという事である。
更には共和党の大統領支持者の決起集会参加者の間でも、ウィルスに感染した人間は増え続けているという。
 
花札大統領が大好きで、あと4年間引き続き彼に大統領職を続けてほしい人達や、彼の政治信条や政治スタイルが大好きな取り巻きの人達が、コロナウィルスに罹かってしまうのは自業自得だと思っているから、そのことは何ら懸念していない。
 
 
問題は3億人のアメリカ国民である。彼らの中には彼に大統領を続けてほしいとは思わない人達もいるであろう。その人達にとっては非常に不幸な事であり残念なことであろう。
 
私はこの「大統領専用車に同乗したシークレット達」と同じ運命を3億人のアメリカ人が辿ることになるとすれば、それは大変不幸なことだとそう懸念しているのである。
 
しかしアメリカの大統領を選ぶのはアメリカ人自身である。
私は太平洋のこちら側にいて、その様子を静観していよう。
 
その際は、もちろん花札大統領やその側近たちが「アピールする事」と同時に、「彼らが言わなかった事」について考えを巡らせ、冷静に行間を読みながら見続ける事になるのである。
 
 
 
                          ― 2020.10.07 ―
 
 
 
 

 鹿を指して、馬となす

 
これもまた中国のことわざであるが、その出典は司馬遷の『史記』であるという。
原文では「指鹿為馬」と成ってるらしい。
 
秦の始皇帝が亡くなった後、その跡を継いだ二代目の皇帝「胡亥」が鹿を指して、あれは「何の動物か」と近臣に尋ねたところ、当時宮廷で最も権力を持っていた「趙高」という宰相が「あれは馬です」と言ったというのだ。
 
それを聞いた二代目の皇帝「胡亥」は、その宰相の言うことをそのまま受け入れて、自身で考えることをせずそれ以降「鹿」のことを「馬」と思い続けた、というのである。
 
そしてこの故事から「馬鹿」という言葉が生まれたという。
自分の頭で考えることなく、周りの意見を鵜呑みにする愚かな人物のことを「馬鹿」というように成った、というわけである。
 
 
また、同じこの「指鹿為馬」のエピソードにはもう一つ別の話も伝わっているらしい。
舞台や登場人物たちは全く同じなのであるが、その話の展開が異なるのであり、そこから異なる教訓が導き出されているのだ。
 
その逸話はこうである。
秦の二代目の皇帝胡亥に仕えた野心家の宰相趙高は、ある時皇帝胡亥に鹿を献上して「これは馬です」と言ったという。
鹿と思っていた胡亥は趙高以外の近臣にその真偽を尋ねたところ、あるものは「馬」と言い、またある者は「鹿」と言ったという。
 
宰相趙高はそれから「鹿」と言った家臣を処刑し、「馬」と言った家臣のみを宮廷に残したという。
 
すなわち権力者「趙高」は、自分の考えを持たない愚かな皇帝「胡亥」を自由に操るために、宮廷の家臣達の中で自分に「おもねる家臣」か「逆らう家臣」かどうかの選別を行なうために、「鹿を馬と言」って試したというのである。
 
 
                   
 
 
 
このエピソードの教訓はやはり
「自分の考えを持たない人物は愚かである」という事と同時に、権力を握っている家臣が自身の主を自由に操るために、配下の家臣のうち「自分におもねる家臣か否か」を試した、という点にあるようだ。
 
いずれにせよ「指鹿為馬」というある種の「お試し」に依って、「主君の能力」や「宮廷の自分の部下の忠誠心」を推し量った、すなわちリトマス紙にしたということであろう。
 
因みに宰相「趙高」が実質的に支配した二代目皇帝「胡亥」の秦の国は、彼の皇帝継承から3年後に潰れてしまい、国家は消滅した、ということである。
 
 
さて翻ってわが国ではどうであろうか、466億円の「アベノマスク」を国民一世帯当たり2枚ずつ配ることを公言し、90億円の経費でマスクを調達し8億円の経費を掛けてその品の劣悪を今もなお検品しているという。
宣言から数か月たっても「アベノマスク」はいまだ、一部にしか行き渡っていない。
 
また「アベノマスク」に466億円の予算を付けたこの政府は、コロナウィルスの陽性か否かを検査する「PCR関連」予算を50億円以下しか計上していない。
「PCR検査」について、毎日2万件は検査が可能であると公言し続けているが、いまだに1万件にも満たない実施件数である、という現実がある。
 
 
果たして今の日本の総理大臣は「胡亥」の同類なのだろうか、それとも近臣に「趙高」と同類の家臣がはびこっているのであろうか。
 
不幸なのはこの間政府の無策が原因で、コロナウィルスに依って命を落とした人々であり、過重労働を強いられている医療従事者であり、一家の大黒柱を失った家族であり、営業自粛によって生活の糧を奪われている人々、すなわち日本国民なのである。
 
 
「37.5度以上の高熱が4日以上続かなければ、PCR検査が受けられない、というのは国民の誤解である」と言ってはばからない担当大臣や、彼を支えるかつて偏差値が高かった厚労省の高級官僚たちは、コロナ対策が「出来ない言い訳」を言い続けるばかりで、彼ら自身は決して不幸には成っていない。
 
 
私は今回の「指鹿為馬」という故事から得られる教訓と、コロナ禍に喘ぐ多くの国民が居る現実を目の前にして、「愚主は愚臣を選び、国民は疲弊する」と思い始めている。
 
私の得た教訓は別にして、今回の一連の「コロナ禍への愚かな為政者の対応」は、後々日本の歴史に深く刻まれ、新たな教訓や故事ことわざを生むことになるのかもしれない。
 
しかし私としては、家族や知人がこの大きな渦の中に引き込まれないために、
「自分の頭で考えようとしない」愚かな政治家や、「前例主義の塊で、自らの過ちを認めたがらない」偏差値の高さを心の拠り所にしている高級官僚達に振り回されないように、
状況を冷静に判断し、出来るだけ的確に対応していきたいと、そう思っている。
  
結局自分の命や生活、さらには大切な人達の命や生活は他人に委ねるのではなく、自分達で守っていくしかないのである。
他力本願ではなく最後は「自主自立」なのである、と自らに言い聞かせ家人などにも話している今日この頃なのである。
 
 
                            -2020.05.16-
 
 

  狂泉の水

 
古い中国のことわざに「狂泉の水」というのがある。
 
中国のある国に泉が在った。
その泉の水を飲んだ人は必ず狂人になった。
その泉の水を飲む人の数が少ない間は、彼らは「狂人」と言われた。
ところがその水を飲む人の数が増え、彼らが多数に成った時に
今度はその泉の水を飲まない「正常な人」が、「狂人」と称されるようになった。
 
といったような話である。
 
 
この寓話は「社会と個人の関係」といった事を考える際に、多くの事を考えさせてくれる。
例えば「何が正しくて、何が狂っているのか」は、客観性ではなくその所属する社会の多数者が決める、という事である。
 
このことを実験的に毎日発信し続けているのが、アメリカの花札大統領である。
「小学校高学年程度の知性しかもっていない」とかつての部下たちに評価された彼は、先日も
「紫外線がコロナに効くらしい」「消毒液を注射するのもコロナには有効らしい」
といった類の発言を定例の記者会見で、米国民に対して発したのである。
 
 
そして花札大統領をリスペクトする岩盤支持層の何人かは、保健所にその真偽を訪ねる問い合わせを行ったという。やはり類は友を呼ぶのか・・。
もちろん保健所はその愚行を否定したし、マスコミなどもそれを否定するメッセージや警告を発し続ける、といったキャンペーンを行ったようである。
 
更に同様の事が違った形で起きている。
即ちどうやらコロナはピークを越えているらしいから「一刻も早く自粛を解除して、経済活動を再開しろ!」といった発言を花札大統領が発し続け、それに呼応する彼の岩盤支持者たちが、その主張に沿ったデモを続けているのである。
 
現時点ではこの手の賛同者は必ずしも多くないようであるが、米国の南部の幾つかの州の知事は、これに呼応するように「経済活動の自粛」を見直し始めている。
花札大統領という狂泉から溢れ出る水を飲む人たちが、現れ始めているのである。
 
 
 
                   
 
 
現在のところこの「狂泉の水」を飲む人の数は少ないから、彼らは「狂人」として扱われているが、この狂泉を飲む人数が増え続けた場合、多数と少数の関係が逆転する。
その時「狂人」は「正常な人」に替わり、「正常な人」が「狂人」にと替わることになるのである。
民主主義においては、多数者の意見が当該国や当該自治体の意見に成るのである。
 
今から7・80年前にドイツでは実際にそのようなことが起きている。
ヒトラーという狂泉がドイツに蔓延し、多くの国民がその水を飲み続けたから、ナチス国家が誕生したのである。
 
さてアメリカという国では今年の秋に大統領選挙が行われる事になっている。
私達は、アメリカ人が「狂泉の水」を今後四年間、また飲み続けることになるのかを興味深く、かつ注意深く観ていかなくてはならない。
 
 
事と次第によってはその「狂泉の水」が、日本にも出回ってくる事に成るかもしれないからである。
いや既に日本にも出回っているのかもしれない。
 
「感染状況がピークを越えたら、自粛を解除して経済活動を再開すべきだ」と声高に叫ぶ人たちが出て来るのかもしれない。第二波や第三波への思慮が足らない人たちの間からである。あるいはパチンコを早くやりたい人たちかもしれない。
 
その様に主張する人たちは、ひょっとしたら花札大統領が源泉となっている「狂泉の水」を飲んでいる人達なのかもしれないのだ。
 
私はその様な主張を聞く時は、自戒を込めてこの寓話を思いだす様にしたいと思っている。
 
 
                             -2020.04.29-
 
 

 人間(じんかん)、到るところ青山あり 

 
弥生三月は、別れと出合いの季節であり人事異動の季節でもある。
私の友人の中でもそれに該当する人がおり、昨夜そのことを知らせるメールをいただいた。
その際に私の頭に浮かんだのがこの文言である。
 
この文言はご存じの方も多いと思うが、幕末の長州藩の勤王僧「釈月性」の有名な七言絶句である。原文は以下の通り
 
男児、志を立てて郷関を出づ             男児立志 出郷関
学もしならずんば、死すとも還らず          学若無成 死不還
骨の埋むるに あにただ墳墓の地にあらんや      埋骨豈惟 墳墓地
人間(じんかん)至る処 青山あり           人間到処 有青山
 
 
その意味するところは言うまでもなく、
「男たるもの志を立てて故郷を出るのであれば、得るものがあるまで故郷に還って来るものではない。
死に場所は何も故郷の先祖の墓だけではないだろう。世の中どこにだって死に場所はあるのだから・・。」
といった内容であろう。
「人間」は「じんかん」と読み、「世の中・人の世」であり「青山」は東京の青山墓地ではないが、「墓所」を指す。
 
要は死に場所は何も故郷の先祖伝来の、あるいは父母の骨の眠るお墓ばかりではないから、新天地で死ぬ気で頑張ってくるぞ⁉といった心意気を謳った、漢詩なのである。
 
 
しかしながら、月性さんには申し訳ないが、私などはこの「青山」を墓地などとは解釈せず将に「新天地」とポジティブに解釈し、「青々とした山」これから立ち向かう新たな分野、などと勝手に使っている。
かつて息子にもそう言い聞かせもしたが、転勤や遊学などで従来の本拠地を後にする人達には、ポジティブな「贈る言葉」としているのである。
 
「人間到る処、青山あり」なのである。
 
 
そしてまた「分け入っても、分け入っても青い山」(山頭火)でもある。
その場合は、「人間、万事塞翁が馬」と考えて腐らずに頑張ってほしいものである。
人生、何一つ無駄と成ることはないのであるから・・。
要は「心持ち一つ」なのである。
 
 
                         - 2020.03.10 ―
 
 
 
                                                
 
 
 

  融 通 無 碍 (ゆうずうむげ)

 
私がこの言葉に最初に出会ったのは、たぶん中学生の頃であったのだろうが、本当の意味を知ったのはつい二年ほど前の事である。
当時『安田義定父子と甲斐之國、越後之國』を書いていた時に出逢ったのだった。
現在は上越市に編入されてしまった小さな町の、昭和30年代に発行された『町史』に書かれていた、町史編纂メンバーの郷土史研究家の一文であった。
 
細かいことは覚えていないが、その郷土史家が言っていたのは
「庶民というのはその神社の祭神が誰であるかには、実はそんなに頓着していないのである。実におおらかというか、融通無碍なのである・・」といったようなことを、その町史の中で書いていた。
 
 
私はこの一文を読んで大いに得るところがあった。腑に落ちたのである。
というのは、私が現在住んでるここ大樹町の太平洋に近い集落にも小さな産土神が祀られていて、毎年節目節目にはお祭りが行われているのであるが、その祭りの直会の際に知り合いの老人に
「この神社の祭神は何でしたか?」などと聞いてみたのだが、彼は首を振って「知らない」と答えた。ほかにその場にいた老人数人にも聞いたのだが、やはり祭神を誰も知らなかった。
 
更に先ほどまで祝詞を詠まれていた町の大きな神社の神主さんにも聞いてみたのだが、彼もまた「知らない」と応えた。
 
 
このエリアに本州から入植者が入って130年近く経っていたのであるから、まだ歴史は浅いのである。しかしながら現在の住民のおじいさんかひい爺さんかの時代に創られたであろう、この新しい神社の祭神を誰も知らなかった、のである。
 
私はこの時、実はちょっと白けたのであった。「神社の祭神も知らずに祀っているのか・・」というように。今から10年近く前の事であった。
 
 
それから縁あって安田義定公の事を知り、彼に関連する神社や仏閣などを調べるうちに日本人にとっての神様の位置づけがボンヤリとながら、判るようになったのである。
明治維新政府が始めた、中央集権的な「国家神道」とは異なり、日本人にとっての神道とはこういったところに本質があるのではないかと、そう想い始めたのである。
 
本来の八百万(やおよろず)の神を祀る「民俗神道」といったものは、そこに棲む人たちが「祈り」「敬い」「心に願う」その「想いが結実」したものではないだろうか、と想い始めたのである。
 
もちろん金山衆のように「金鉱山開発」をする人達や、疫病を退散することを願う人達のように、「金山彦」を祀ったり「蘇民将来」を祀る、といった明確な意図を持った神社もあるのであるが、この私の暮らしている街の人達のような神社もまた日本各地には在るのである。
 
そして日本人にとっての本来の神様や神社というのはこの様な「民俗や風習」に依っているのではないか、と気づかされたのである。
 
そのことを郷土史研究家の言う「融通無碍」というこの言葉は、私に理解させてくれたのであった。それによって私の心の深いところにストン、と落ちて行ったのであった。
日本人にとって神という存在が「唯一無二の存在」ではなく、いろんな処に存在する「八百万の神」の意味であるは、この言葉によって言い現すことが出来るのである。
 
 
 
                
 
 
 
そんな風に考えが至るようになってから私は、50代くらいから思い始めた「答えは一つではない」という価値基準が、この「融通無碍」という言葉に象徴されている事に気が付いた。
 
若い頃は「答えは一つしかない」と思い、それ以外の「他」を排除してその一つの答えを私は墨守していたのであった。
それが30代40代と世間にもまれ人生のいろんな場面に遭遇して来て、50代に成ってやっと辿り着いた「答えは一つではない」という考えを、この言葉はひとことで言い現わし、更に多くの意味を含んでいる事に、やっと気が付いたのである。
 
「融通無碍」は自分の思考回路を豊かにし、おかげで私の「人間」も何となく柔らかく成って来たような気がしている。
もちろんまだ角はいくつか取れず残っているのであるが、以前に比べ全体がそれなりに丸くなってきたようなのである。
人間幾つに成っても勉強、なのである。
 
 
                         - 2020.03.04 ―
 
 
 

風雪の当たるとこほど樹は育つ

 
この言葉は、奈良の法隆寺の建造物などを修復していた西岡常一という宮大工の棟梁が言っていた言葉だった、と記憶している。
言葉の意味は読んで字の如しで、厳しい環境の中であればあるほどしっかりした樹木が育つ、といったことである。
 
 
私がこの言葉を身に染みて感じたのは40代前半の所謂「厄年」の頃であった。
バブルがピークを越えそろそろ弾けるかといった頃に、5年ほど勤めた会社を退社し独立した私は、そのバブル崩壊後も規模を縮小しながら、なんとか会社を存続させていたのであった。
 
その私が半年ほどかけて起死回生を願って取り組んだプロジェクトが、やっと実を結ぶかというところまで辿り着いて、いざ契約を締結するという1週間ほど前に所謂「山一ショック」が勃発し、そのプロジェクトが吹き飛んでしまったのであった。
 
半年間準備をし積み重ねてきたプロジェクトが、ゴール直前に目の前から消えてなくなったことはとてもショックであった。零細企業にとっては将に社運を賭けたチャレンジが跡形もなく消え失せてしまったからである。
 
 
その後都内にあった事務所をタタミ、千葉の自宅で細々と仕事を続けていたのであった。
運よく一年後にはまた都内に事務所を復活させることが出来たのであるが、この間の1年ほどは将に希望もなく、砂をかむような虚しい日々を過ごしていたのであった。
 
その時に私が出逢ったのが、この奈良の宮大工の棟梁が言っていた「風雪の当たるとこほど樹は育つ」という言葉であった。
私は自分の不運を嘆きつつも、この言葉を自分自身に言い聞かせながら、その厳しい時期をやり過ごしてきたのである。
確かその年の年賀状にもこの文言を書いていたように思う。今から20年以上前の事である。
 
 
                   
                           
 
その後も何度か浮沈を繰り返し、「リーマンショック」などをまともに食らったりして多くのものを失って来たのであったが、その時もこの言葉を自分に何度か言い聞かせてシノイで来たのであった。
 
それでも私の心が折れずに何とかやってこれたのは、当時小さかった二人の子供の寝顔に救われたことや、不平を言いつつも明るい笑顔を絶やさなかった家人のおかげであったのであるが、この言葉にも救われた点もあったように思う。
 
 
20年前や10年前の「山一ショック」や「リーマンショック」がもし半年や1年ズレていたら、私は手持ち資産をそれなりに増やし、たぶん蓄えもそれなりにしていたのだろうと思うが、その分株価の変動に神経をすり減らしていたり、あぶく銭で放漫経営をしていたのかもしれなかった。
 
そういう意味では現在の「足るを知る生活」を愉しむことは無かったのかもしれないし、北海道に移住することも無かったのかもしれない。
今のつつましい生活を愉しんでいる私は、人生何が幸いするのかは判らないものだと、改めてそう想っている。
 
これから先また何度か、シビアな体験が巡ってくるかもしれないが、私はその時もまた「風雪の当たるとこほど・・」などと自分に言い聞かせながら、何とかシノイで生きて行くような気がしている・・。
 
 
                                                               -  2020.01.12 -
  
 

 四十にして惑わず、五十にして天命を知る

 
 
この言葉は東洋人であれば知っている人が沢山居るのではないかと思われるが、孔子の有名な言葉で「論語」にも書かれている。儒教の創始者と云われる、かの孔子が自らの人生を振り返って語った言葉であるという。
 
この言葉は
吾十有五にして学を志す。
三十にして立つ。
四十にして惑わず。
五十にして天命を知る。
六十にして耳順う。
七十にして心の欲する所に従えども矩(のり)(こ)えず
という言葉の一部分である。
 
 
                   
 
 
私は高校生の頃にこの文言に出遭い、孔子という人物はあまりリスペクトしてはいないのであるが、この言葉がずっと心の片隅に残って居続けたようである。
 
時折何かの拍子にこの言葉が口を突いて出ることがあったし、今でも時折意識せずに出てくるのである。自分の人生を改めて振り返る時に、この孔子の言葉を思い出し自分自身の来し方と照らし合わせたりするのである。
 
 
この言葉を自分のこれまでの人生の軌跡に当てはめてみると
 
俺が学問という事を意識し始めたのは16・7の時であったかな・・
独立してサラリーマンを辞めたのは確か、34歳の時であったよな・・
自分の進む路に迷わなくなったのは、あれは40代半ばの頃であったかなぁ・・
自分の天命を知るように成った、と思い始めたのは60歳の頃だったか・・
 
等と云う事に成るのであった。
 
 
しかしながら50歳前後に成って、改めて私が考えたのは、儒教の世界では聖人とされる孔子であっても、
「四十にして惑わず」と云う事はそれまでの間はずっと迷いっぱなしだった、と云う事か・・。
「五十にして天命を知る」と云う事は、五十代に成るまでは自分の天命が何であったのか判らないまま、彼は生きていたんだったんだな・・、と云う事であった。
さらに言えば
「六十にして耳順う」と云う事は、それまでは他人の意見に耳を傾ける事より、自分の主張を繰り返してばかりいたんだろうな・・。と想えてくるのである。
 
孔子は今から二千年くらい前に生きていた人物と云う事だから、当時の平均寿命を現代人の自分に当てはめてみると、五年や十年の時間差はあるだろう・・。と云う事は自分が孔子より多少遅くても、「まっ良いか」などなど・・。
 
そのようなことを考えながら、60有余年の人生を過ごしてきた。最近は何となく「耳順う」ように成ってきているかもしれない・・。などと考えながらこの年末というタイミングで、今年の自分を振り返ったりしているのである。
 
酒を呑みつつ今年を振り返り、来年が好い年と成る事を願いながら、そうは言っても多少の山あり谷ありでないとツマラナイかも・・。等と考えながらこのコラムを書いている私である。2019年よさようなら・・。
 
 
 
                       
 
 
                         - 2019.12.30 -
 
 
 

冬来たりなば、春遠からじ  

 
 
今年の冬至は12月22日である。
この日を境に、日一日と日差しが長くなっていくのである。
 
北海道のように緯度の高い地域に住んでいると、この「冬至」の日は待ち遠しい。
寒さのピークはまだ来ていないが、これから春に向かっていくのだと思うと心も晴れにと向かうのである。
 
世界の北海道同様に緯度が高い地域で「冬至を祝う風習」があるのはよく理解できる。
何しろこれからは毎日春に向かっていくのであるから、厳しい寒波に何度か襲われることがあったとしても、その先には温かい春が待っているのである。
 
人間という生き物はたとえそれが遥か先のことであったとしても、「希望」があれば現状が厳しくても耐えることは出来るし、シノグことも出来る生き物だ。
「冬来たりなば、春遠からじ」という名言は、この時の心情を語っているのだとおもう。
 
因みにこの言葉の作者は、イギリスの詩人だという。
しかし私の記憶の中では、フランス革命の時にフランス人が好んで用いた言葉でもあった、という印象が残っている。
それが事実であるかどうかは判らないが、状況的にはいかにもそれに相応しいエピソードであるから、そのように私の記憶に残っているのかもしれない。
 
 
そして現在、この「冬来たりなば、春遠からじ」という一片の言葉が最も相応しいと思えるのは、今の香港の人々では無いだろうか・・。とりわけ香港の若者たちにとっては、そうなのではないかと思ったりするのである。
 
現在の香港の人々の民意がどこにあるかは、この前の「区議会議員選挙」で、はっきりと示されている。住民の7・8割が全体主義よりも民主主義を望んでいるのである。
そしてこの民意を尊重するのか無視するのかによって、中国という国はこれから大きな岐路に立つことに成るだろうと私は想っている。
 
かの国では「新疆ウイグル地区」というイスラム教徒が多く住み、イスラム教を信奉する自治区においては、すでに一つの答えを出している。
そしてその行為は国際社会では、周知の事実と成っているのである。
 
 
かつての「人民解放軍」が今では「人民抑圧軍」に、その実態を替えてきているようである。そして今度は「中華人民共和国」が「中華思想専制国」に名称を替える日が、遠からずやって来るのかもしれない。
 
この問題は以前からチベットでも起きているようであるが、「新疆ウイグル自治区」では今まさに起きているのであり、香港でも起き始めていた。
そんな中で行われた選挙の結果であり、民意なのである。13億人の中の800万人弱という数字は多くは無いかもしれないが、中国という多民族社会というか国家にあってはこの問題は、避けては通れない問題である。
 
中華思想という国家観については「香港と中華思想」というブログで書いておいたので、ここではあえて触れないが、国内の外郭地域の問題はこれからも続いていくであろうことは間違いがない。
 
その課題を軍事力や警察力といった「武力」で押さえつけたり、蹴散らそうとすると必ずや「武力」による衝突が起き、「内紛」や「革命」が発生するのではないかと思う。
これは人類の歴史を紐解けば判る事であり、北アフリカ辺りでは現在起きている事である。
 
 
 
             
 
 
 
現在の中国が岐路に立っているというのはこの課題への対応の選択を迫られている、と云う事である。
そしてそのことを我々を含む世界の人々は見ているし、香港の住民を始めとした中国国内の多民族の人々も、じっと見ているのではないかと、そう想う。
 
これからやって来る2020年代の北東アジアがどのように成るのか、私達は目を凝らして観て行くことになるであろう。
 
歴史を振り返った時に2019年11月の「香港区議会議員選挙結果」が、そのターニングポイントに成った、と云う事に成るかもしれないのである。
 
「アラブの春」が決して一直線に進展してこなかったように、「中国の春」も一直線で進展するとは思えないが、春に向かって進んで行くことには成るのかもしれない。
香港の住民の民意が正しく反映され、中国国内外郭を構成する多民族の宗教や風習がいつの日か、尊重されるように成るかもしれないのである。
 
そのために要する時間が数年単位で済むのかは判らないし、数十年単位に成るのかはもちろん判らないのである・・。
 
しかし、「冬来たりなば、春遠からじ・・」なのである。
 
 
                                                                        - 2019.12.22 -
 
 
 
 

 季節に春夏秋冬があるように・・。

 
日本という国に生まれ生きていて好かった、と思えることには幾つかのことがある。
例えば食べ物についてであれば「寿司」や「刺身」「鍋物」「漬物」といったものが食べられる事であろうか・・。そしてまたおいしい水を安定的に飲むことも出来る。
更には他者に打ち勝つこと以上に、自分自身と戦うことに人生の価値を見出す「○○道」といった考え方や、「その道を究める」といった価値観が大切にされる風土があることも同様である。
 
そして春夏秋冬の季節のメリハリをしっかりと感じる事ができることもまた、同様に嬉しいことだ。このメリハリの利いた季節感を味わえるのは、四方を海に囲まれていて数千㎞にわたり、縦に長い国土を持っていることから受ける恩恵だと思っている。
 
夏の暑さに辟易としたり、冬の凍てつくような寒さが毎年周期的にやって来るのであるが、その間にはしっかり春も秋も愉しむことが出来る。
 
 
 
                                                                                               
 
 
子供のころは、一年中「春」や「秋」の温暖で過ごし易い季節ばかりであれば良いのになぁ~、と思ったりしたのであるが今は違う。
夏の暑い日々があり冬の耐え難い寒さがあって、その中で暑さを逃れる方法を模索したり、雪や氷の中で暖を確保する生活を愉しんでいるのである。
 
春夏秋冬という四つの個性ある季節をそれぞれ愉しむことに比べ、変化の乏しい季節の中で暮らすことは、とうてい及ばないのである。たとえそれが良い事ばかりでなく、自然災害を伴ったとしても、である。
 
そんな風に思う様になってから、私は人間についても同様のことを考えるようになった。人間にとっての春夏秋冬について、すなわち喜怒哀楽の事である。
 
 
人間は他者との繋がりや社会的な関係において様々な出来事に遭遇しながら、日々を生きている。そこには「喜ばしいこと」はもちろんあるし、「苦しいこと」や「哀しいこと」ももちろんある。そして「怒りを感じること」だってあるし「血が騒ぐこと」だってある。
 
様々な人たちと遭うことや、変化に富んだ場面に遭遇することで、その都度心が動きさまざまな感情が沸き上がってくる。
その心の動きは、時に熱くなったりあるいは冷静になったり、悦びにあふれたり涙を流したり、また平穏に戻ったりするのである。
 
そしてこの喜怒哀楽という心の動きは、人間にとっての春夏秋冬なのではないかと50を過ぎたあたりから想うようになった。
 
「哀しいこと」や「怒らなければならないこと」には出来るだけ遭遇したくないものだ、「感情の起伏はあまり激しくないようにしよう」と長く思っていたのであるが、喜怒哀楽は人間の心にとっての春夏秋冬ではないか、と考えるようになってから少し考え方が変わってきた。
 
 
「喜ばしいこと」や「平穏な日々」が多いに越したことはないが、だからと言ってそればかりでは、やはりつまらないのである。
人間が人間的であり、人生そのものを愉しむためには、程よい「哀しいこと」や「怒りを感じること」もある程度あったほうが好いのではないかと、そう思うようになった。
「春」や「秋」ばかりの季節の中で生きることよりも、「夏」や「冬」があったほうが生きていて愉しいのと同じ様に、である。
 
好々爺であり続けることよりも、時折は怒りを小爆発させたり、小さな哀しみに打ちのめされる機会にあったほうが好いのではないかと、そう思っている。メリハリのある日常生活の中で、それを受け入れながら生き続ける人間でありたい、と想っている今日この頃である。
 
 
                                  
                                                 
 
 
                                                                     - 2019.12.06 -  
 
 
 

目を養えば、手は育つ

 
この言葉は、洋画家の中川一政がどこかのエッセイ本に書いていたと記憶している。
中川一政は美術学校などには通わず、独学で自らの画業を開拓してきた人物である。
戦前の旧制中学を卒業してから、短期間の勤め人を経て自らの意思で絵を描く道を選び、研鑽を積んで日本を代表する画家となった。
 
私自身は彼の描く薔薇の絵などにはあまり感銘を受けているわけではないのであるが、彼の描く「書」や「エッセイ」は比較的好きで美術展などで、時折眺めたりしている。
それらの作品には、生きている人間の匂いが感じられるからである。
 
 
総じて良い芸術作品に出遭った時は、それが絵画であれ書物であれ和歌や詩歌であっても、常に行間などを通じてその作者の生きている匂いを感じることが出来るものだ。
逆に言えばどんなに精緻な絵画や、均整の取れた美しい文字や文章に出遭うことがあったとしても、生きている人間の匂いが感じられないと、その目の前の作品に私は感動を覚えることもなければ、立ち止まって自分の時間を共有しようとも思えないのである。
 
良い作品はたとえそれが数百年前に作られたり描かれたものであったとしても、やはりその作品の中に作者の人間が生きているのであり、作者の美意識や感性がしっかりと感じられるのである。
その作者の感性を感じそれに反応する受け手の感性があって初めて、両者の間に響きあう関係が生じてくるのだと思う。
 
 
中川一政に関して言えば私は彼の書やエッセイには少なからずそのような感情を抱くことが多いのである。
その彼のいう、標題の言葉が判るようになったのはここ10年くらいではないかと思う。出会ってから25・6年は経っているから、心底共感できるまでの間に15・6年の時間を有したことになる。なんともゆっくとした歩みである。
 
「目を養えば、手は育つ」というのは、自分の審美眼や美意識を鍛えて行き感性を育てておれば、それを表現するためのテクニカルな技術や技はおいおい力をつけて来る、というのである。そしてそれは決してその逆ではないという事であろう。
 
すなわち技やテクニック・ノウハウといったものを学習し習得すれば、技は磨かれたとしても審美眼や美意識が育って行くというわけではない、という事であろう。
そして審美眼や美意識が未発達な作品にはまた、作者の命は宿っていないのである。
 
作者の手を離れ何十年何百年も経過し、作者の命が地上から消え去った後においても、その作品が確かなものであれば、当該作品は何時までも生きているのである。
そしてそれは何よりも、作品に命が吹き込まれているからであろうか・・。
 
 
 
 
              
 
 
                         - 2019.11.11 -
 
 
 

 失敗を許容する組織風土であるかどうか・・。

 
これは家庭でも会社でも学校でも役所でも、はたまた研究所でも何でも良いのであるが、あらゆる組織や集団と言ったものが有する風土について語っている事であり、組織や集団の在り方について言っている言葉である。
 
全ての組織や集団には目に見えない不文律と言ったものがあり、慣習や慣例として当該集団の共通の価値観や認識事項と成っている。
一般的にはそれを「組織風土」や「ノルム=規範」と言う事が多い。
 
その「風土」なり「規範」として、失敗を許すことが共通認識や価値観に成っている組織や集団ことを、この言葉ように「失敗を許容する組織風土」があると言う。
そしてこの事を別の言葉で言い換えると「減点法で評価する組織」か「加点法で評価する組織」であるかどうか、と云う事にも成る。
 
言うまでもなく「減点法で評価する組織」は、失敗を許さないし、失敗をした場合マイナスに評価する組織の事である。
他方「加点法で評価する組織」は失敗を許容し、プロセスよりも結果を重視し、結果的に成果を上げた場合それを評価する組織の事である。この場合は往々にしてそこに至るまでのプロセスにおける失敗を、組織として許容することが多いのである。
 
 
そしてまた、自分の所属する組織の共通認識や価値観が「減点法」か「加点法」であるかどうか、「失敗を許す組織」なのか「許さない組織」なのか、と云う事は実は大きな問題である。
何故ならば失敗を許さない組織と、失敗を許す組織とでは組織に所属するメンバーや構成員の、そしてまた自分自身の行動が明らかに変わってしまうからである。
 
前者の場合は組織の価値観や評価基準が、「失敗をしないこと」であるが故に当然無難な道を選択し、事無かれ的な道を選ぶことに成る傾向があり、その結果多くの場合「前例主義」に陥るのである。
公務員や官僚の組織や、経理部門といった組織がその典型であろう。
 
それに対して後者の組織の場合は、プロセスよりも結果に評価の基準があるから、失敗することを恐れる必要はなく、むしろチャレンジすることが評価されたりするのである。
営業部門や研究・開発の部署や新規事業を模索する組織、更には新たな起業を志す組織や研究機関がその典型である。要するにクリエイティブな部門であり、組織なのである。
 
 
一見すると前者の組織は息苦しく停滞気味で、組織や集団としての魅力が乏しいのであるが、実際には活き活きとはしていなくてもシブトく生き続け、存続し続けるのは後者ではなくて、前者の集団や組織なのである。
 
しかしながらそのような組織や集団は、魅力が乏しくつまらないのもまた事実である。
とりわけ私のようなチャレンジが大好きな人間にとってはそのように感じられ、その閉塞感からの脱出を積極的に試みたりもするのである。
 
とはいえ企業や組織・集団を存続させるためには、組織や集団の継続性や持続性が求められるのが常の事である。
そしてそのためには前者と後者の程よいバランスが、当該組織や集団で保たれているかどうかが、問題になることが多い。
 
 
両者の力関係が事業収支上のバランスを崩さない範囲である場合は、組織や企業の活性化が維持され、生き生きとした組織や会社であり続けることが出来るであろう。
いわゆる健全な組織や企業であり続けることが、出来るというわけである。
 
 
そのバランスが悪い場合、即ち「減点法」や「失敗を恐れる」価値観が支配的であり過ぎる組織や集団は、停滞し硬直化し、魅力の乏しい組織や企業に成る事が多い。
同様に「加点法」や「チャレンジ精神」が過剰である組織や集団は、不安定で先の見通しが立ちにくい組織や集団と成り、その結果数年後にはその組織や集団が存続していない可能性も、否定出来ないのである。要するに消滅するのである。
 
従って、軸足をどちらに置くかどうかは別にして、両者のバランスが取れている組織や集団であるかどうかが、重要であることに気が付く。
自分が所属する組織や集団を選択する時、すなわち就職活動をする際に対象の組織や企業は、その辺りのバランスは一体どのように成っているのか、又はバランスが良好に保たれているのかを見極めることが、大切になってくる。
 
 
当該組織の事業目的やワーク内容更には待遇等も大事なのであるが、それ以上にこの両者のバランスがどのように成っているかは、重要なのである。それは自身のストレスに関わって来るからである。
したがってこの点における情報収集を、事前にしっかりやっておく必要なのである。
 
 
 
 
               
 
 
 
それと同じくらい大事な事は、自分自身がどちらの価値観や風土の中であれば、よりストレスを感じないタイプの人間なのかを、知っておくことである。
組織や企業の風土や基本的価値観はもちろんのこと、自分自身が大切にしている価値観や規範が、一体何なのかを知っておかなくては、話は始まらないのである。
 
自分自身の価値観や判断基準や働き易さと、就職先の組織や企業の価値観や規範にギャップがあると、ストレスを抱える事に成ってしまうのである。
そしてその場合はストレスを感じる主体は自分自身であって、組織や企業の側ではないことは言うまでもない。
 
組織や企業が組織に入って来る個人に違和感や異質感を感じた場合は、組織や企業の風土や価値観・規範に合わせるように迫って来るのは言うまでもない。それは組織や集団が今現在旨く機能しているから、である。
その結果、個人がプレッシャーを受けるわけである。時にはパワハラと成る場合もある。
従ってこの両者の間のマッチングはとても大切なのである。お互いの幸福のために大切なのである。
 
仮に自分が当該組織のメンバーの一員に成った後に、ギャップがあることに気が付いたら、一日も早くそこを辞めたほうが好いと私は想う。そのほうが早くやり直しがきくからだ。
変に我慢したり耐え続けて、ストレスを溜めて二進(にっち)も三進(さっち)も行かなくなってから方針転換をしても、傷が深くなるだけなのだ。
悔い改めて、行動をチェンジするるのは一刻も早いほうが好いのである。
 
私は周囲の人から組織や集団への帰属を選ぶことを相談されたりする時に、このようなアドバイスをするようにしている。もちろん自分自身の体験を交えながら、である。
 
                                  
                                      - 2019.10.30 -
 
 

人間(じんかん)万事「塞翁が馬」

 
これもよく知られているコトワザであるが、「目の前の幸せは、不幸の原因にも成り得る」し、同時に「降りかかってきた不幸は、幸せの原因にも成り得る」といったような意味であろうか・・。
このコトワザ自体は広く知られているように、中国の故事からの引用である。
中国の北方の「塞」という国に住む知恵者の「翁」が発した、人生の真実を語っている含蓄のある言葉、という事であろう。
 
 
塞の国に住む翁の家の畑か何処かに野生の馬が現れて、それをゲットした 事を知った知人が、「あなたは馬を手に入れて運が良い」といったようなことを言われた時、その翁は
 
「確かに馬を手に入れたことは運の良いことだが、しかし良いことだけではないかもしれない・・」といったようなことをその知人に語ったという。
それからしばらくして、翁の家の青年がその馬に乗っていて落馬し、脚に障害を負ったという。それを知った知人が今度はお悔やみを言うと、かの翁は
 
「家の子が落馬して障害を負ったことは不幸なことだが、しかし悪いことばかりではないかもしれない・・」といったような事を、その知人に言ったという。
それからしばらくして「塞の国」が近隣の国と戦争をすることになった時、村の元気な若者達が徴兵されて戦争に行き、戦死してしまい多くの若者が帰ってこなかったという。
 
翁の息子は脚に障害を負っていたがゆえに徴兵の対象から外れ、戦争には行かず命を長らえることが出来た、という事である。
 
 
              
 
 
 
以上がこのコトワザの概略であるが、このコトワザが少なからぬ人々に受け入れられ、今でも語り継がれているのは、このコトワザが人生の真実を言い現わしていると、想われているからであろう。
少なからぬ人にとって、思い当たる節があるからであろうか・・。
 
実際目の前の「不幸せ」や「幸せ」は長い目で見たら、後の「幸せの原因」に成ることや「不幸せの原因」に成ることが、しばしばあるのであろう。
目の前に起こった「不幸せ」や「幸せ」に一喜一憂する事無く、心して生きていくことが時には必要なのである。
 
とはいえ、実際に目の前に「不幸せなこと」や「幸せなこと」が起きると、それに引っ張られてしまうことがある。
とりわけ「不幸せなこと」が起きた場合、時として目の前が暗くなったり自分を見失いかねないこともある。
私などはそんな時はこのコトワザを意識して思い出すようにして、自分の心の動揺を平らかにするように、コントロールしたりするのである。
 
そして滅多にない事だが小さな「幸せなこと」に遭遇した時は、有頂天にならずその小さな「幸せ」が、時と場合によっては「不幸せなことを招く、遠因になるかもしれない・・」などと、やはり自分に言い聞かせて、出来るだけ平らかな心を保つように、心掛けているのである。
 
やはり人は一生修行中、なのであろうか・・。
因みに「人間(じんかん)」とは、「人の世=世の中」といったような意味らしい・・。
 
                                                                                                                                        - 2019.10.04 -
 
 
 

自由在不自由 

 
世の中には自由に成る事と不自由を強いられることとが混在している。
私のような個人主義者は、できるだけ他者や自分の身の回りの人間関係、更には社会から拘束されることを基本的には好まないのであるが、そうは言っても実際にはそれを避けて生きていくことは、出来ないのである。
 
仮に人間関係に疲れそのわずらわしさから逃れようとして、無人島に棲むように成ったとしても、たとえ人間関係からは逃れられたとしても、自然環境がその人の生活を制約する事に成るからである。
 
それは大雨かもしれないし、また乾天が続き水不足に陥るかもしれないし、飲み水にも窮するかもしれないのだ。更には地球温暖化という自然現象に包まれて、大きな台風や嵐に見舞われるかもしれないのである。
そういう意味では完全に自由な、制約を受けない環境で生き続けることは誰にも出来ないのである。
 
そうであるならば自分が生きて生活するためには、ある程度の人間関係や自然環境に拘束や制約を受けながらしか生きられない、という現実を受け入れていくしかないわけである。
もちろんだからといって納得のいかない拘束や統制を黙って受容し、反発や抵抗をすることが無駄だと云う事ではないのである。
 
とりわけ人間関係や社会との関係であれば、こちらの働きかけ如何によっては、出来るだけ拘束や縛りを受けない関係を創る事は可能であるし、そのための努力はすべきであると私は想っている。
 
 
現在香港で起きている中国の締め付けへの抵抗運動や、ロシアのプーチン政権に対する民主化運動、更にトルコで起きているラッパーたちの音楽と動画に依る抵抗運動などは、とても大切な社会活動であり、自由と人間的な権利の獲得や民主的な社会体制の確保・維持のためには必要なことだと、私は認識している。
 
しかし人間関係やその延長である社会との関係に関しては、ある程度対応する事が出来たとしても自然がもたらす制約や軋轢や不条理、更には災害や被害ばかりはどうすることも出来ない。
とはいえ地球の温暖化やアマゾンの人為的な火災といった、人間の行為が自然を巻き込んだトラブルの事を言っているわけではない。
何故なら人間が行ってる経済行為や政治的行為によって、引き起こされている自然災害であれば、対応は可能だからである。
 
 
そんな中で発生した今回の颱風15号がもたらした災害である。
この災害は強烈な颱風15号が起こした自然現象が直接的な原因であるが、同時に東電の対応のまずさや「発電」「送電」システム維持・管理の不手際や、まずさによって引き起こされた災害、すなわち人災といった面も持っているのである。
 
その内の後者については人間の引き起こした事柄だから、私たち人間の行動や対応によって改善される可能性が少なからずある、と私は想っている。
その具体的な課題やアクションについては「ブログという名のコラム」で何回か述べているのでここでの重複は避ける。
 
 
そして前者即ち自然現象がもたらす制約や被害、そして不自由に対してはあまりジタバタしないほうが良いだろうし、それは殆ど無駄なことだと私は感じている。
したがってそれらについてはあまりクヨクヨせずに居て、変にストレスを感じない様に気持ちを切り替えたほうが、良いように想う。
 
自然災害によって快適な生活や普段通りの生活が送れなくなるのは、仕方ないことだと思うからである。私たち人間やその他の生物もまた自然には逆らえないのだ。
むしろそのような状況下に在ったとしたら、その制約や非日常更には不自由を受け入れて、その中で見い出すことが出来るかもしれない、いつもとは異なる「自由」を味わい、愉しむという事に切り替えたほうが好いと私は想う。
 
 
 
                 
 
 
昨夜は十六夜(いざよい)で、その前の夜は十五夜の中秋の名月であった。
電気が通じない夜はTVを観ることもPCを使う事も出来ない、照明もつかない。不自由である。
 
しかしその分十五夜や十六夜の月を愉しむことは、出来たのではないだろうか。
家の周りに生息する秋の虫たちの、にぎやかな合奏が聞くことが出来たかもしれないのだ。
 
そしてそのような非日常的な環境であれば、普段考えないようなことを考えることがあるかもしれない。家族の会話も弾むかもしれない。
これまであって当たり前だった生活インフラに対する、備えや第二・第三の選択肢について家族で話し合ってみるのも良いのではなかろうか・・。
 
不自由な生活の中で、普段とは違った自由を愉しむことが出来るかもしれないのである。
私は昨年の北海道胆振(いぶり)東部地震による2日ほどの停電と、3年ほど前の颱風直撃に依る3日ほどの断水の時に、そのような体験をしたのであった。
 
 
とはいえ、電気・ガス・水道・通信といったライフラインは1日も早く復旧したほうが好いことは確かである・・。行政や当該事業者にはそのために出来るだけの事を、スピード感を持ってシッカリとやってほしいのである。
 
                                                                                                                                             - 2019.09.15 -
 
 

  百 練 自 得

 
私がこの言葉の意味をホントに理解するようになったのは、息子が冬休みの課題にこの熟語を練習していた時であった。確か冬休みの課題「書初め」においてであったと思う。
 
この言葉自体はそれまでに何度もどこかで聞いていた言葉であったが、正直なところそれはあくまでも数ある標語の、一つぐらいにしか思っていなかった。
しかし息子が選んだこの熟語の「書初め」のお手本を何度か書くうちに、この言葉の持っている意味を、やっと心から理解するようになった。60に成る数年前のことであった。
 
確かに「百練自得」なのである。
二回や三回練習したり練り上げたとしても、まだまだ足りないのである。
本当に自らのものにするためには数回や数十回ではなく、数百回の練習や、練り上げが必要なのである。
 
頭でもなく、心でもなく「手が自然に動く」までになるには、百錬が必要なのである。
あの時以来、自戒の念として自らになるべく問いかけるように心がけては、いる。
しかしまだまだ、道半ばである・・。
 
 
                            
                                                
 
 
                           -2019.08.31-
 
 

学生時代は知識を蓄えろ、社会人に成ったら知恵を磨け

 
 この言葉は私が若いころ亡父から言われた言葉で、大学を卒業して社会人に成ったころに言われたような気がする。お盆と云う事もあってこのタイミングに書いたのだが、この言葉は若い頃はよく思い出し、できるだけ心がけていた。
 
最初は「知恵を磨く」と云う事があまりよく判っていなかったのであるが、要は知識という情報を収集し蓄えたとしても、それは結局すでに答えが出ている事を、情報として知っていると云う事に過ぎない、と云う事を言っているのだと気づくようになった。
 
 
社会人に成って現実の課題に直面した時、すでに誰かが経験している事であればその事例を参考にすればよいのだが、前人未踏の誰も直面していない新たなテーマや課題にぶつかった時、それでは対処できないと云う事を意味しているんだと、いう事に気づくようになった。
 
更に世間や社会で評価される価値と云うのは、すでに答えが判っている事例や情報の知識である以上に、これまで誰も直面したことのなかったテーマや課題に対処できる能力である、という事に気が付いた。30代のころであったろうか・・。
 
そして答えの出てない課題やテーマに対処するためには知恵が必要なのだと、そう理解するようになった。
もちろんそのことに気づいたからと言って問題や課題が解決するわけではないのだが、自分の立ち位置として「知恵を鍛える」ことや「知恵を磨く」といった事に注意を払うように成った。
そして知識や情報はあくまでも材料や部品であって、それらの材料や部品を使ってどうやって目の前の課題に対処していくかを、考えるようにした。
その積み重ねから自分独自のノウハウやメソッドが幾つか蓄積されていった。
 
 
                                                                                                
                             
                                               
  
 
先日、夏休みで帰省している息子から
「とてつもない、の漢字が『途轍も無い』であることに違和感を感じているが、合っているのか?」
と云う事を聞かれたのだが、この「途轍も無い」は「轍(わだち)が無い途」という意味であるから「これまで誰も歩いたり通った事の無い、前例の無い途=道という意味だろう。だから『とんでもない』といった様な意味に成るのではないか」と解説したら、彼は納得していた。
 
そしてこの「途轍も無い」課題やテーマに直面した時に求められるのはやはり「知識」ではなく「知恵」なのであると、私は今ではそう想っている。
 
  
                                                                                                                                          -2019.08.15-
                                    
 
 

敵を知り、己を知らば百戦危うからず

 
 
この言葉は世の中にあまねく知れ渡っている『孫子の兵法』の一文である。
相手をよく知る事、そして自分自身をよく認識していることの大切さを述べているのであるが、これが実は結構難しい。
 
スポーツの世界などでもよく引用されるが、私はこの言葉はマーケティングの極意ではないかと、そんな風に思っている。
マーケティングはよく市場調査と訳され、市場=マーケットの実情を的確に把握することの大切さがよく言われる。
 
そしてそれはまさにその通りなのだが、それだとまだ半分しか見てない様に私には思える。これから自分が戦う相手、またはこれから商売しようとするマーケットをよく知ることは初めの一歩に過ぎないのである。
 
ターゲットとするマーケットの状況、更には競争相手の置かれている状況や強み、そして弱みといった事をできるだけ的確に把握するのと共に、自分自身を冷静かつ的確に認識しているかどうかが、大事なのである。
 
 
今現在自分が出来得ることは何であるか、そしてまた無理だと思われるのは何なのか、自分の限界もまた的確に知っておく必要があるのだ。
 
「~すべきである」とか「~しなければならない」とか「気合や根性で何とかする」といった様な問題意識の指摘や、課題の抽出、更には精神論や根性論を言ってるだけでは「百戦危うからず」には成らないのである。
 
体育会系の人間にこの手の種類の人間がかつては多くみられたが、最近はスポーツの世界にも科学的な手法を用いる人や合理的な思考をする人が増えてきて、ひところ程ではなくなってきているように思えるのは、よい傾向だと思う。
 
 
しかしいずれにしても自分自身の置かれている状況や、能力/実力を客観的に自覚することのできる人間でなければ、市場や競合相手に対して効果的で有効な対応は打てないのである。
 
 
「百戦危うからず」と云う事は百回戦って百勝する、と言っているのではなく、「負けない闘い方をすること」や「損害や損失を出来るだけ少なくする」と云う事なのであると私は想っている。
 
「負けないこと」とは必ずしも相手に勝つことを言ってるのではなく、「引き分け」や「痛み分け」である事の大切さをも言っているのであり、無茶や無鉄砲をして存亡の根幹にかかわるような事態に陥らないためには、何をすべきかを考える事だと私は想っている。
暴虎馮河(ひょうが)の勇では玉砕するだけだからである。
 
そのためには相手(対戦相手&マーケットの状況)を的確に把握し、同時に自分自身をも冷静に認識しておく事が大切に成るのである。
無鉄砲や玉砕は見た目にはカッコ良いが、存在自体が無くなっては元も子もないのである。
それを理解したうえで、損失を最小限にとどめておくための努力が必要に成るのである。
 
「敵を知り、己を知らば百戦危うからず」とはそういう事なんだと私は想っている。
 
 
 
 
                         
 
                                                                                                                                                  - 2019.07.31-
 
 
 

迷った時は、原点に立ち返るとよい

 
この言葉は誰が言った、という類いの言葉ではなく、古くから多くの人たちから聞かされてきた言葉のようである。
 
実際「プロジェクトを進めている時」や「この会社で働き続けて良いのか迷う時」「僕は何のために今ここで勉強しているのだ」といったようなことを考える事は、これまでもしばしばあった。
 
今現在の目の前の仕事や課題に追われそれらに没頭している時に、フと立ち止まって考えてしまうのである。
「これで良かったのだろうか・・」「僕はこのままずっとこの事を続けて行くのか・・」「俺がやりたかったことはこんな事だったのだろうか・・」といったようにである。
 
 
そんな時はやはり「原点に戻って考えてみる」ことや「出発点に立ち返る」といったことが重要である。経験上それはほぼ断定できるし、自分でも今もなおそうしている。
 
目の前の課題を追いかけているとやはり「木を見て森を見ず」なこともあるし「全体像を見失ってしまう」「迷路に迷い込む」といったことに陥りやすいからである。
 
そんな時は目の前の課題や今自分が置かれている状況を、客観的かつ第三者的に見つめなおすことが必要になるのだ。
「森全体を見るために」「全体像を確認し直すために」「迷路や袋小路から脱出するために」である。
 
 
そのプロセス自体がリフレッシュにもなるし、修正の必要性を感じたら出来るだけ早く修正すれば佳いのだ。
そして場合によっては、「進路」や「取り掛かる対象」「進むべき森」そのものを取り換えれば好いのである。その際は勇気が必要になるのだが・・。
 
と同時にこのことは「目先の利益」に飛び掛かってしまい、「中・長期的な利益」を結果的に失ってしまうかもしれないことを、是正するのにも必要な視座でもあろう。
 
そして「目先の利益」を捨てるのには、「大きな勇気と決断」更には「大きなエネルギー」「少なからぬ摩擦への対処」が必要になるのは言うまでもない。
 
 
                          -2019.07.20-
 
 
 

 「不易」と「流行」

 
この言葉は、松尾芭蕉が自分の門弟に対して言った言葉だとされている。
その意味は物事には「不易:変わらないもの=不変」と「流行:新しいもの=新規」とがあると、そしてその「不易」と「流行」とを俳句を詠むときにも意識することが大切である、というようなことを言ったという。
 
この事は、私たちの日常生活や生き方にも関係して来るのではないかと、私は時々感じることがある。
人間を60年以上やっていると、それなりに体験や経験が堆積してくる。その体験や経験を通して、物事の良し悪しといったこともある程度判って来る。
知識や情報として得たものはもちろん、それ以上に経験から学んだ事や身に付いたコトが堆積して来るのだ。
 
そこで運良く残ったモノやコトが「不易」と成って評価され、堆積されるのである。
「不易」は評価がある程度定まったものであるから、「不易」の積み重ねが多いほどいろんなことが安定して来る。失敗から学んだ事や、間違いが無いことの積み重ねだからそう云う事に成るのである。当たり前と言えば当たり前のことだ・・。
 
 
ところが「不易」や「不変」が増えて安定する事は良いのだが、それが増えすぎたりシェアの多くを占めすぎると、「停滞」し「澱み」を生んでくるのである。「陳腐」「マンネリ」「オゴリ」と言ってもよいだろう。
安定志向が強すぎると冒険はしなくなり、新しいことへのチャレンジは少なくなる。その結果「慣れ」が生じてしまい「当たり前」になる。
 
そして今度は「既知」の事として、「飽きられ」見向きもされなくなってしまう。「吸引力」や「磁力」が弱く、魅力が無くなるのである。
従って安定志向の「不易」だけではつまらないのである。
 
 
そこで「流行」が待たれるのである。
「新しく」「新鮮で」「今まで知らなかった事」が登場すると「注目され」「期待感が高まる」「耳目が集まり」運が良ければ「光り輝く」のである。
新しいことにチャレンジし、冒険を行ない失敗を恐れないことが、新たな魅力を生むのである。
しかし当然の事ながら成功や果実が保証されているわけではない、少なからぬ失敗を伴うことが多いのである。
 
従ってこれらの担い手の多くは「若く」て「エネルギーがあり余って」いて、「時間がたくさん残っている」人たちであることが多い。即ち「若者」である。
この「若者」というのは年齢という身体的な若者はもちろん、精神的な若者をも指す。気持ちの若い人の事である。
そして運よく成功し結果を伴った場合、それらは広く社会に受け入れられ深く浸透していく。
しかしチャレンジや冒険からそのような果実を得る機会は少ない。たぶん成功する確率は10%とか20%とかいったレベルであろう。根拠はないが経験上その程度だと思っている。
 
 
更には仮に成功したり果実を得ることが出来たとしても、それが長く続くわけではないのもまた現実である。
「流行」と云うものは一時脚光を浴び世の中の耳目を集めるが、基本的には賞味期限が切れると、その後は「当たり前」に成ってしまうのである。
その結果「飽き」られ「輝きを失い」「魅力無く」なるのである。
よく「大ヒット」「一発屋」とか「一発芸人」と云われるモノやコト・ヒトが現れて、消えていくのはそういう事なのである。
 
従って「流行を生み出す」ことは難しいが、同時に「流行を出し続ける」ことは更に難しいのである。
そして一番大事なことは「流行」だけ追い求め続けることは、常に「不安定」であり、常に「不確実」な状態が続くと云う事であろう。
「いつまでも若くはない」とか「そろそろ落ち着かないと・・」とか言ってチャレンジや冒険から撤退する事に成るのである。
何よりも生活しなくてはならないし、家庭を持ったりすると現実的に成ってくるのである。それが生きていくと云う事でもある。
 
 
                     
 
 
こうやってみてみると「不易」と「流行」の関係は、それぞれ単独では成り立たないことが判って来る。したがって「不易」or「流行」ではないことに気づくのである。
大切なことは「不易」&「流行」と云う事なのである。
「不易」を持ちつつ「流行」を取り入れ続ける、と云う事なのである。
たぶん芭蕉はそう云う事を言いたかったのではないかと、私は感じている。
 
「不易」の中に「流行」を取り入れ続ける。即ち「定番や安定」を維持しつつ「新しいことにチャレンジ」し続けることが大切であると、云う事であろう。
 
 
これは俳諧という世界で芭蕉が言った言葉であるが、京都という街が持つ「伝統」と「進取の気質」の関係でもあるように思われる。「伝統」&「進取の気質」なのである。
「奈良」と「京都」の街の違いは、まさにこの「or」と「&」の違いなのではないかと、私は想像している。
 
そして「不易or流行」と「不易&流行」の問題は、老舗と云われる店舗や企業の問題でもあると同時に、社会や政治の問題でもある。そしてもちろん文化や文学の世界の問題でもある、と私は想っている。
従って「不易と流行」は俳諧の世界の問題だけではなく、自分自身の問題でもあると自覚しているのである。
 
                                                                                                                                               ―2019.07.03―
 
 
 

人生の最期の5%が幸せならば、その人は幸せである

 
 これはマザーテレサの言った言葉だとされている。
私が時々購入する新聞の土曜日の別刷りに連載されていた、「看取り師」の女性がそのように述べていた。
 
世の中に「看取り師」なる職業があることをこの連載によって私は初めて知ったのであるが、「おくりびと」以来の発見であった。
「看取り師」というのはどうやら一種のホスピスで働く人達のことらしいが、病気などで残りの人生を知らされている人たちを、収容・看護するNPOのような存在、らしい。
 
死期を宣告された人々に寄り添って、その人の立場に立って、人生の最期をその人と共に過ごしてあげる人達だという。
その時の連載記事では、彼女が「看取り師」に成ったきっかけについても述べられていたのだが、その際に彼女が大切にしている言葉がこの「人生の最期の5%が幸せならば、その人は幸せである」という、マザーテレサの言葉であったという。
 
 
 
                          
 
 
 
私はこの言葉を聞いた時「鈍翁益田孝」の事を思い出した。
「益田孝」は三井物産の創業者で、明治大正・昭和に活躍した実業家で立身出世した成功者といってよい部類の人物である。何せ現在の三井グループの骨格を作った人物なのだから、世評の通りだっただろうと想像する。
 
その人生を順風満帆に生き抜いた「益田孝」の人生の最晩年は、必ずしも幸せとは言えなかったようだ。白崎英雄氏の著書『鈍翁益田孝』に書いてあった。
 
もちろん経済的には何不自由なく、大きな邸宅に住み絹の夜具に包まれ 面倒を見てくれる雇人はいたのであるが、その絹の夜具もあまり頻繁に取り換えられることもなかったようだ、という。
 
金銭で雇われた人はいても、親身に成って彼の立場に立って寄り添ってくれる人が、身の回りには居なかったらしいのである。
どうやら益田孝は、人生の98%くらいは成功者として満たされていたのだろうと思うのだが、残りの数%は幸せとは言えない状況にあった、というのである。
 
 
人生は波乱に富んでいる、いろんな出来事があり、いろんな人とも出遭う。一本調子に行かないのは当たり前だし、またそれだから生きていることは愉しいのだとも思う。
自分の不遇や、思うようにいかないことも沢山ある。そのことを嘆きもするし哀しむこともあるだろう。
それとは逆に幸運に恵まれて、我が世の春を思う時もある。
 
しかし人生の最後の場面で自分の人生を振りかえった時、これまでの人生を恨んだり不憫に思って、死んで行くような状況であってほしくは無いものだと想っている。
 
出来る事なら「最後は幸せな気持ちで」あの世に旅立ちたいものだと、想うのである。
たとえ95%が後悔や失敗の連続であったとしても、である。
 
そんなことを考えさせられた連載記事であった。
 
                                                                                                                                           ―2019.06.20―
 
 
 

駿馬常に居れども、伯楽常には居らず

  
 
世の中に才能を持った人々「駿馬」はそこそこ居るのだがそれを見出して、その人の才能を認め伸ばしてくれる人「伯楽」はなかなか居ない。
よくいわれる事だが、それが現実である。
私自身が自分の才能に可能性や幻想を見出していた頃は、世の中に伯楽の少ないことを嘆いたものである。
 
そして自分の才能の限界を知るようになってから久しい今では、出来るだけ後進を育てるというか、後進の才能を伸ばしてあげたいと思ってはいるが、なかなか難しいものだ。
 
自分では出来るだけ、才能を伸ばす側にいたいものだとそう思ってはいるのだが、実際のところそれがどれだけ出来ているかは判らない。
それにその人の持っている才能が一体何なのかを見出す能力がないことには、何も始まらない。自分にそのような能力が十分備わっているとは言えないが、出来るだけそうありたいと思ってはいる。
 
                          
                                       
                
 
答というか正解というのは唯一無二である、と思っている間は相手の才能を見出す事が出来ないだろう、という事には少しは気づくようになったようである。
更には適材適所という言葉は、その場所に合った人材を見つけて来るという事よりも、相手の才能に適した場所を見つけてあげる事なのかもしれない、と想い始めている。
 
 
 
                          -  2019.06.12  -
 
 

いひしらぬ涙を催しぬ

 
 
 石川啄木が5か月に満たない函館での滞在を終え、札幌に新天地を求めた夜行列車に乗って函館を去り、眼下に函館の街を見下ろす場所に到達した時に、彼の心の中に起きた感情を自身が日記にこう書き記している。
 
『啄木日記』-明治40年9月13- には
 
   「車中は満員にて窮屈この上なし、
        函館の燈火漸やく見えずなる時、
                 いひしらぬ涙を催しぬ
 
と書いてあり、彼の函館に関する記述は終わっている。
 
私はこの日記の個所に、函館に対する啄木の思いがギュッと詰まっているように感じている。彼は函館での4か月強の時間がとても充実しており、幸福であったのだと思う。
その幸福の日々が前月の8月25日に発生した「函館大火」によって、突然奪われてしまったのであった。
愛してやまない函館の街を出て、家族を養う就職のために札幌に向かう夜汽車に、彼は乗っていたのであった。
 
 
その函館への愛情は、彼が結核での死を意識し始めた時に、妻節子の妹の夫(義弟)に送った手紙に書かれている。

   「・・俺は死ぬときは函館へ行って死ぬ。

  何処で死ぬかは元より解った事ではないが、僕はやはり

  死ぬ時は、函館で死にたいやうに思・・。

  君、僕はどうしても僕の思想が時代より一歩進んでゐると

  いふ自惚れを此頃捨てる事が出来ない」

                          (明治43年12月21日 
 
 
啄木は、この手紙を義弟の宮崎郁雨に送って約1年半後の明治45年4月13日に26歳で亡くなっている。                  

 

                        - 2019.06.05 -

 
 
 

百川異流 同会海

 
 
 
この言葉を私が知ったのは、北大路魯山人の図録を購入した時であったと記憶している。
どこかの美術館で行われた「魯山人展」の際に購入したようだ。何十年も前のことではっきり覚えていない。
 
この言葉の意味は読んで字の如しで、
大小・清濁いろんなところから発生した、いろんな種類の河川も最終的には、大きな海に到達して一緒になっていく。
といったことを意味している。
出典は中国の書聖と称される「王羲之」の書だといわれている。
魯山人はこの句を好んで書きしたためた様で、多く揮毫することがあったらしい。
 
 
 
             
 
 
 
魯山人という人物は自分の出自にコンプレックスを抱いていて、社会の底辺から何とかして這い上がることに若いころは精を出したようで、それを実現する道として「書家」を目指したという。
明治政府主催の「帝展」への応募で見事高い評価を得て、書家としての道を歩み続け当初の目標を達成することができた。
 
その後は篆刻を習い、扁額などを書き・彫るようになり更には料理や作陶などに打ち込み、それぞれの道を追求して行き、料理人・美食家・作陶家などといった分野で日本を代表する芸術家=アーティストに成った。
晩年はその能力を評価され、人間国宝に二度推挙されたが二度とも打診の時点で辞退しているという。
 
 
かつては私生児としての自分の出自を恥じ、自身を捨てた母親を恨み社会の底辺から這い上がるために、心血を注いできた上昇志向の強い男が、人間国宝となることを固辞し続けた、というのだ。
 
生前の魯山人を知る人の多くは、彼の人間性に多くの欠陥があり周りでは傷つけられた人が沢山いたと語り、あまり評判は良くなかったようだ。
 
あるいは若いころや、人間形成の初期のころは他者を踏みにじったり、踏みつけてのし上がったこともあったのかもしれない。
しかしそんな彼が晩年においては、生きている人間への評価としては最も高い部類に入る「人間国宝」に成ることを拒み続けたという。
 
 
私はこのエピソードに彼の人間的な意味での成長を感じるのである。
そしてそれを象徴する言葉が、この「百川異流同会海」なのではないかと想っている。
 
生まれた家や育った家庭環境、人はそれぞれ異なった場所や環境から誕生し、成長して行くのであるが、あるレベルに達すると同じように等しく「人間」に成っていく。
 
魯山人はこの言葉に、そのような人間という存在についての、ある種の到達点のようなものを見出すように成ったのではないかと、私には想える。
彼はこの七文字の中にそのような価値観を見出したのではないかと、そんな風に思えるのである。あるいはそれは悟りと云う事が出来るのかもしれない。
もちろんその言葉を噛み締めるに至る、さまざまな人生経験を経たうえでのことである。
 
 
晩年の魯山人は「百川異流同会海」という句をよく書き、同時に「無位の真人」という言葉をもよく口にしたという。
この言葉もまた「人間国宝」とは対極にある言葉であろう。
褒章に沸き立ち叙勲に喜ぶ人たちの姿を見るたびに私は、魯山人のことを思い浮かべるのである。
 
 
                               
 
                                                                                                                                                - 2019.05.28 -
 
 
 

 世の中を憂しと恥(やさ)しと思うとも 

           飛び立ちかねつ鳥にしあらねば

 
この和歌は山上憶良の長歌「貧窮問答歌」の反歌として、『万葉集』に載っています。
今から40数年前に知りましたが、いまでも様々な世の中の不条理に接する時に、この和歌が口をついて出てきます。
 
尤も自分の口から出る時は
 
「 世の中を憂しと哀しと思うとも
              飛び立ちかねつ鳥にしあらねば 」
 
となってしまうのは、どうしてなんだろうといつも思っています。
                              
 
                          - 2019.05.23 -
 
 
 
 
 



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