春丘牛歩の世界
 
1週間ほど前から、伊豆半島の神奈川寄りのエリアに来ている。
ソメイヨシノが咲き始め、昨日あたりからほぼ満開と言ってよい状態にある様だ。
 
やはり短足寸胴のソメイヨシノの方が、「桜」感があるなと、いつも長身長脚のエゾヤマザクラを観ている私は、感じたのであった。
 
 
 
 
      
 
       
         
 
     
 
 
    記事等の更新情報 】
*4月19日 :「コラム2024」に、「青い春」と「チャレンジ虫」を追加しました。
*3月25日:「相撲というスポーツ」に「新星たちの登場、2024年春場所」を公開しました。
*2月8日:「サッカー日本代表森保JAPAN」に「再びの『さらば森保!』今度こそ『アディオス⁉』を追加しました。
*01月01日:本日『無位の真人、或いは北大路魯山人』に「無位の真人」僧良寛、或いは・・を公開しました。
これにて本物語は完結しました。
12月13日:  『生きている言葉』に過ぎたるはなお、及ばざるが如し」を追加しました。
*9月29日:「食べるコト、飲むコト」 に「バター炒め二品 」を追加しました。
*9月27日;「物語その後日譚」に「奥静岡の鶏冠(とさか)山」を、追加しました。
*6月10日 :『続、蝦夷地の砂金/金山事情・・』に7.紋別市:その2「鴻之舞金山」を追加しました。
 
 

  南十勝   聴囀楼 住人

          
                 
                                                                   
  
        
 

会員制サイト開設
      のお知らせ
 
2023年4月より「春丘牛歩の世界アーカイブ」を下記に開
設いたします。
このHPの情報量が多くなったための整理と、当該HP閲覧者内の濃密な閲覧者との交流を
目的としています。
有料会員制ですが、ご興味のある方は下記アドレスにコンタクトして頂けると幸いです。
 https://ofuse.me/gyu00ho
(春丘牛歩アーカイブ&フレンズ)
 
 
 
 
   
      
 

 
当該編は『京都祇園祭と遠江守安田義定―安田義定編ー』の続編に成ります。
京都駅での久しぶりの学生時代のサークルメンバーとの会食を終えた翌日、私は祇園神社の文教部のスタッフとのアポイントをもとに、祇園神社を訪れることにした。
安田義定公と祇園神社とのつながりについて幾つかお尋ねする事があったからである。
そこでは、義定公と祇園神社の関わりについて新たな情報や資料の提供を受け、スタッフとの情報交換を通じて新たに発見する事が少なからずあった。
 
                        【 目 次 】
 
                       ①四条通を東大路へ
                       ②祇園神社神紋の由来
              ③元徳の古図は語る
              ④祇園祭「八幡山」
                       ⑤四条烏丸界隈
    
 
 
   

 


 

四条通を東大路へ

 

翌朝私は9時過ぎにホテルを出ると、早速地下鉄に乗って四条烏丸を目指した。四条烏丸から降りて、四条通りに沿って東大路にある祇園神社に向かうためである。

四条通りは学生時代の私がアルバイトをしていた小さな家電販売店の在った場所で、懐かしい思い出多き通りであった。

大手の家電メーカーの京都の販売会社が自社製品を有利に取り扱ってもらうために、学生のバイトを派遣するというシステムがあり、私はその大手家電メーカーの販売会社との契約によって、四条通に面した小さな家電販売店に派遣されていたのだった。

四条通を数分歩いて、私は懐かしい喫茶店を見つけた。学生時代朝食を摂らずにバイト先に向かった私が、出勤の2・30分前に朝食を摂りに寄ることの多かった、喫茶店だ。その店は自社製品のパンが充実していた店で、懐かしさにかられて立ち寄ることにした。

八坂祇園神社の文教部のスタッフとのアポイントは11時で、時間に余裕があったこともあり、私はその店で時間をつぶした。

 

その日はホテルで和食の朝食を済ませたこともあって、お腹は満たされていた。そんな事もあって店のウリであるパンは買わずに、奥のイートインスペースで珈琲だけを飲むことにした。

京都の町屋は太閤秀吉の時代、間口の広さによって税金が算出されたことがあって以来、間口は狭くウナギの寝床のように、奥に長い店が多かった。この店もまた、そのような造りになっていた。

またこの店ではバイト帰りに、当時付き合っていた彼女との待ち合わせの場所として、使っていたこともあった。店の奥で私は40年以上も昔の思い出に浸りながら、しばらく珈琲を飲んでいた。

二つ下の彼女とは大学を卒業した後も尚、一年間ほど付き合っていたのだが、私の勤務地が東京であった事もあり、彼女の卒業を機にいつしか終わってしまっていた。

彼女の就職先が実家のある福岡であった事も影響していたのかも知れなかったが、最大の原因は私自身が社会人に成り、多忙になってしまったことであったと思う。社会人に成って価値観の優先順位が変わったことも、影響していたかもしれない。

四条通りの喫茶店でしばらく青春時代の思い出に浸った後、私は祇園神社を目指して更に四条通を東大路にと向かった。

 

私が学生時代の頃は、京都の繁華街の中心は河原町通の方に商業の重心があったように記憶しているが、今ではその重心はどうやらこの四条通に移ってきているように思える。

以前の四条通はオフィスと商業が混在しているどっちつかずの通りであったが、今では商業の比重が相当高まっている印象を受ける。とりわけ通りに面したビルの低層部で、商業化が進行しているように思われた。

欧米の著名なファッション店が通りに面して数フロアを使って、ブランドショップを展開している事が影響しているのかもしれない。銀座の並木通りの空間イメージに近くなっていた。その原因の一つは、四条烏丸寄りに在る百貨店の地域戦略が影響しているように思う。

 

その百貨店は神戸の元町地区で自店舗周辺を巻き込んだ面的な開発を、積極的に行ってきた成功事例を持っていた。

神戸の元町では明治時代以降の文明開化の香りの残っている、歴史的建造物と言っても良いレンガ造りのレトロなオフィス等を、特定のブランドショップに替えて街区にお洒落な個性を演出して来た。商業エリアとしての面的な開発に成功して来たのだった。

神戸での成功事例を携えて、福岡の天神地区やこの京都四条通りでも、自身の百貨店を核にして周辺のオフィスビルの低層部の開発や、裏通りで今なお伝統的な京都の香りが残る町屋を、リニューアルする開発にも関わり“街づくり”を推進してきたのだ。

十年以上は掛かったと思われるその努力が実って、現在の四条通には街区としてのクオリティとお洒落さの併存する、香り漂う街が形成されていた。

 

やはり“街づくり”には、中長期的なビジョンに基づく、腰を据えた取り組みが必要なのだということを、私は改めて確認した。

そしてそのためには、街づくりに対する覚悟とその街への愛着や愛情と云ったものが不可欠なのだ、と思った。

私はその様な事をつらつらと考え、学生時代に歌っていた「北山杉」という歌を口ずさみながら、四条通を東に向かった。

それから更に寺町通・河原町の交差点を越え、鴨川を渡り、花見小路を越えて東大路通の八坂祇園神社にと着いた。

 

祇園神社には、表玄関と言っても良い四条口は通らずに北側の知恩院側から入った。

浅草の雷門を彷彿させる観光客のたむろする入り口は避けた。元来私は、人が多く参集する場所を好まない傾向があるが、そればかりではなかった。祇園神社の北側の、境内の北参道とでもいうべき場所に祀られている「八幡宮」を参拝するためであった。

八幡宮を参拝するのは、甲斐源氏安田義定公の氏神に当たるからであった。安田義定公が祇園神社や伏見稲荷大社の大規模な造改築・改修に多大な貢献をした、という事を知り参拝することにしたのだった。

またもう一つの義定公ゆかりの「金山彦」を祭神とする「金峰神社」にも挨拶をすることにした。

二つの神社は共に独立して祀られているのではなく、八幡宮は「五社」の中にそして金峰神社は「十社」の中に合祀されている。

それまで境内の中にそれぞれ別々に小さな社(やしろ)や祠(ほこら)で祀られていたものを、明治時代になって「五社」「十社」と纏められ合祀するようになった、と伝えられている。

その二つの神社に参拝を済ませ、人混みの中を私は社務所にと向かった。

 

社務所は本殿の南西部に位置し、蛭子(えびす)神社の手前本殿側に位置していた。

建物に入り受付で若い巫女さんに来意を告げ、文教部の仲原氏への案内を乞うた。仲原氏とは先週事前にアポイントを取っており、「安田義定公と祇園神社との関わり」についてヒヤリングさせて戴きたい旨の、依頼をしておいたのだった。

しばらくして仲原氏がやって来た。長身細面で浅葱(あさぎ)色の袴を着た四十代くらいの男性であった。 

挨拶を済ますと早速、入ってすぐ右手にある大きめの応接室にと案内された。

名刺交換を済ますと、権(ごん)禰宜(ねぎ)とあり文教部の主任とあった。

改めての挨拶を済ませ、私は国分寺の洋菓子店で買ってきた手土産を渡して、今回のお礼と訪問の趣旨を話した。

 

「お電話でもお話ししましたが、私は鎌倉時代創世期の遠江(とおとおみ)の守安田義定公について、調査研究している者です。

『吾妻鏡』などにも書かれているように、義定公が後白河法皇の朝廷の命令によって、こちらの祇園神社や伏見稲荷大社の社殿の、建て替えや大規模な造改築や修築なんかをしております事を存じ上げております・・」私はそう言って、仲原氏の反応をチラリと確認して話を続けた。

「その義定公に関する記述や伝承といった事が、古文書や何らかの資料としてこちらに残っていないかと思いまして、今回お時間を取っていただいた次第です・・」私の話が終わると仲原氏は、

「そうですね『吾妻鏡』などによると、そのように書かれているようですね。私も今回のお話をいただきまして、久しぶりに『吾妻鏡』を紐解きました・・」とニコニコと笑みを浮かべながらそう言った。

そう言いながら手元から資料を取り出し、私に渡してくれた。五十ページほどのコピーで『祇園本縁雑実記』と書いてあった。

 

「これは2年ほど前の平成28年3月に刊行されました書物『新編 八坂神社記録』の中の抜粋に成ります。

当祇園神社の成り立ちから江戸時代初期までの主たる出来事を、年代を追って記録した書、と言い伝えられているモノです。

その当時当神社に伝わっていた資料や、世間に広く識れ渡っている書物、更には公家の日記等を集めて編集されたモノとされています。

その中に安田義定に関する記述が二か所ほどありまして・・」仲原氏はそう言って、この資料についての話を始めた。

 

私は同資料に貼ってあった付箋のある箇所を、サッと目を通した。

「一つ目は73ページの後ろから4行目辺りに成りますが、当社に寄進された狛犬についてのエピソードが書かれております」仲原氏はそう言ってその箇所を読み始めた。

文治三年八月に源頼朝卿当社ご造営の時、先年頼朝卿潜龍の時、宿願有りてある女房の寄進の由にて奉る由、遠江の守(安田)義定の申されたるにて、頼朝卿寄付也と知りけり・・

と、スラスラと読んだ。

「文治三年というと1180・・・」と私が言い淀んでいると、

「西暦だと1187年ですね」と、仲原氏がスパッと応えた。

「あぁ、そうでしたか・・」

 

私はそう言いながら、頭の中で義定公が遠江守に成ったのが1180年だからそれから7年目だな、と計算した。

「で、二か所目が同じ文治三年八月の当神社造り替えについての記載に成りますが、75ページの後ろから3行目ですね」そう言って、もう一つの付箋の貼ってあった箇所を指さして言った。

この時源頼朝卿よりの御造り替えにて、(安田)義定奉行すこれ武家の造り替えの初めか?

頼朝卿若年より当社毎日これ遥拝を怠ることなく、在京の時は秘かに参詣も度々なりけるとぞ・・

と続けて読み終えると、私を見て、

 

「この二か所ですね、当神社の古文書といって良い書物にみられる、安田義定に関する記述があるのは・・」仲原氏はそう言った。

「そうですか・・。祇園神社に残ってる義定公の記録としては、この『祇園本縁雑実記』だけなんですね。

それも文治三年の造り替えの時のみ・・」私がそのように言うと、 

「そうなんですよ、この二か所だけなんですよ、安田義定についての記録は・・。しかも、お気づきの様に『吾妻鏡』とはだいぶ違っている・・」仲原氏はニヤリとして、そう言った。

 

「そうですよね、だいぶ違いますよね『吾妻鏡』とは・・」私はそう言った上で、仲原氏の胸の内を確かめようとして、

「仲原さん自身はどのようにお考えなんですか?この違いについて・・」私はそう尋ねた。

「そうですね・・。『吾妻鏡』の記述では先程立花さんが言われたように後白河法皇の朝廷からの命令で、安田義定が遠江守の重任を認めるための条件として、当神社と伏見稲荷との建て替えや造築・大規模な修理・修繕を命じられたと・・」仲原氏は記憶を思い出すようにしながら、そう言った。

「ですよね・・」私はそう言いながら、バッグからタブレット端末を取り出して『吾妻鏡』の該当箇所を探し出した。

「さはさりながら、当神社としましては当社所蔵の古文書である『祇園本縁雑実記』に、このように書かれている以上、それを全く無視するわけにもいきませんので・・」仲原氏はその様に言ったが、目は穏やかに笑っていた。

 

私は『吾妻鏡』の該当箇所を朗読した。

文治三年八月二十六日、遠江の守(安田)義定をして、稲荷社を修造せしむべきのよし、権黄門経房の承りとして、仰せ下さる。重任の功に募らるるところなり。稲荷・祇園の両社破壊するの間、皆成功(じょうごう)に付して、修治の功を終へらるべしと読み、更に仲原氏に向かって、 

「ご存知の様に権黄門経房とは権中納言藤原経房の事で、朝廷と鎌倉幕府との間の申し次というか取次ぎを担っていた公家ですよね・・。

それから『成功(じょうごう)』というのは私財を持って執り行う、って意味ですよね」と補完説明をした。仲原氏は肯いた。

 

続けて私は、

「まぁこんな風に『吾妻鏡』に書かれてますので、私としましては祇園神社の想いがたくさん詰まった『祇園本縁雑実記』よりも、朝廷からの役務命令として鎌倉幕府に御下命が下った、といったこちらの説に信を置きたいと・・」と私はニヤニヤしながら、そう言った。

「そうですよね、当神社に御縁のないお立場でしたら、そのようなスタンスに成るのも理解はできます。

私がもし立花さんのお立場でしたら・・」仲原氏はそう言ったが、最後の言葉は明確には言わなかった。目は穏やかに笑っていた。

「それにご存知なように、義定公は祇園神社と伏見稲荷の建て替えや造改築・大規模な修繕に、思いのほか時間が掛かってしまって、それに業を煮やした朝廷から懲罰人事として遠江守から下総守に左遷されてますからね・・」私は再びニヤつきながら、話を続けた。

「その様でしたね・・」仲原氏も微笑みながらそう言った。

 

「話は変わりますが」私はそう切り出した。

「祇園神社について、幾つかお尋ねしたいことがあるのですが、宜しいですか?」私はそう言って、改めて仲原氏を見た。仲原氏は小さく肯いた。

 

 


 

祇園神社神紋の由来

 

「実は以前から気に成っていたのですが、祇園神社の神紋についてなんですが『木瓜(もっこう)唐花(からばな)』に、重なるように『三つ巴』がありますよね?源氏の氏神八幡宮の・・。

木瓜の方は元々祇園神社の神紋ですから、それはまぁそうなんだろうなと思うんですが、三つ巴紋はどういう事なんでしょうか?しかもおり重なっている。あんまり見受けられない神紋ですが・・」私は一呼吸置いてから、更に尋ねた。

「私の様に安田義定公について色々調べたり研究している立場の者としては、源氏の氏紋である三つ巴がこんな風にあると、どうしても義定公との関係を考えてしまうんですよね・・。とりわけ、祇園神社との関係が浅からぬ義定公ですので・・」私の問いに仲原氏は、

「それについてはですね、実は私どもも不思議に思っているのですが、なぜそう成っているかについては、明確な謂われと云いますか伝承は無いんですよ。昔からそのようになっている事、としか言いようが無いんです。残念なことに・・。それに当神社の神紋は、三つ巴との重ね紋でないとダメなんですよ」

原氏は重ね紋であることを強調したが、何故祇園神社本来の神紋の木瓜唐花に加えて、源氏の三つ巴が神紋に加わってるのかについては、ハッキリ判ってはいないようだった。

「ん~ん、そうですか・・。そしたらですね、境内の北側の参道と言っても良い場所に『八幡宮』が五社の中に合祀されていますよね、水神や天神・風神・竈(かまど)神なんかと一緒に・・。

ひょっとしたら、この八幡神社の影響なんでしょうか?」私の問いかけに仲原氏はニコニコしていたが、明確には応えなかった。

 

「神紋に取り入れられてる割には、八幡神社の取り扱いは必ずしも大きいとは言えそうも無いように見受けられますが・・。

ただ、天神・風神・水神・竈神というどちらかというと、自然現象や人間の営みに深く関わる神様に比べ、戦の神様であり源氏の氏神でもある八幡宮が一緒に合祀されている事に、私はちょっと違和感を感じるんですが、その点はどう思われますか・・」私は仲原氏の顔をじっと見て、聞いてみた。

「確かにおっしゃる通りですね。他の神様に比べ八幡宮は神様としての性格が明らかに違いますよね。おっしゃるように私も、五社として合祀されている事に違和感を覚えてはいました。ただこちらについては、謂われがハッキリしてるんです。

明治時代に成って、具体的には明治10年の事ですが、その時に一緒に合祀されたんです。

れまで境内に鎮座・散在してました、あまたの神々を一纏めにくくって整理統合したんです。この『五社』と一緒に本殿脇の『十社』と共にですね・・」仲原氏、今度は五社誕生のいきさつをはっきりと明言した。

しかし明治時代にこの様に取りまとめられた五社の中に、何故八幡宮が仕分けされたのかについては、知らないようであり本人も疑問に思っているようだった。

 

「『十社』についてもそうなんですか?明治10年に整理統合されたんですね、五社と同様に・・。ところでこの十社の中にも、ご存知なように義定公に繋がる神様が祀られているんですよね『金峰山神社』が・・。

しかも金峰山神社の主祭神は、金山彦に成っている。これにも私は違和感を覚えます」私はそう言って、手元のタブレットを見て確認した。

「春日神社や熊野神社・愛宕神社と言った有力な神社と一緒に合祀されている。まぁ、白山神社や阿蘇神社同様に山の神様の金峰山神社が入っているのは、何となく判らなくも無いんですが、一番違和感を覚えるのは金山開発等の職業神である金山彦が、主祭神に成っている点なんですね。

ほかの神社の主祭神は、いずれも神話の世界に出てくる神々であるのに対して、ここに金山開発や鍛冶屋の神様である金山彦命が入っている・・。

通常金峰山神社だと、主祭神は蔵王権現じゃないかって思うんですが、こちらでは職業神の金山彦が主祭神に成っている。その事にちょっと違和感を覚えるんですが、如何ですか?」私は十社の中の金山彦の扱いについての疑問を、仲原氏に投げかけた。

 

「ひょっとして立花さんは、金山彦を祀るために金峰山神社という本来蔵王権現を祀る神社を、敢えて当神社に入れ込んだとお考えなんですか?」仲原氏はニヤリとしてそう言った。私の心の内を見透かしたのかもしれない。

「アハ、その通りです。判っちゃいましたか、アハハ。義定公にとっては八幡神社と共に金山彦、更には馬に関する神社はいずれもとても重要な意味を持つ神社でしてね。残念ながらこちらには馬絡みの神社は無いようですが・・」私はニヤニヤしながらそう言った。

「そうですね、当神社には御霊会(ごりょうえ)などの神事に際して、朝廷から神馬(しんめ)を派遣される際に留めおく神馬舎があるだけですからね・・」仲原氏の説明に、私も納得した。残念なことに祇園神社には馬を祀った神社は無く、本殿裏手に神馬舎が在るだけであった。

 

「マァお気づきだと思いますが、私は五社の中の八幡宮、十社の中の金山彦命はいずれも義定公が関わっているのではないかと思ってます。義定公が、祇園神社の建て替えや造改築・大規模な修繕をきっかけに出来た太い絆から、当神社に祀って貰ったのではないかと、そんな風に想っているんです。

してその際に、祇園神社本来の木瓜唐花の神紋の後ろに、八幡宮の三つ巴を入れることに成ったのではなかったかと・・。

あたかも祇園神社を、義定公を始めとした甲斐源氏がバックアップしますよ、と言ったことを宣言し、象徴するようにですね。それを象徴したのがこの神紋ではなかったかと・・。

だからこの様に、まるで祇園神社を八幡宮が下支えするような配置・格好に成ってるんではないかと・・」私は一気にそう言って、中原氏から貰った『祇園本縁雑実記』の先ほどの箇所を指さして言った。

 

「この資料の中にこれ武家建替の初めか』という風に書かれてますよね。あくまでもここでの主語は頼朝となっていますけどね、アハハ。

いずれにしてもこの記述が意味することはそれまで藤原氏や朝廷、更には比叡山の庇護や援助を受けていた祇園神社が、歴史上初めて武家の支援や援助を受けて本殿その他の建て替えを行ったと、その事を強調してますよね。

京都への遷都以来の『平安時代までの古代』の4百年を経て、『武士の時代の中世』に時代が大きく転換したことを象徴する出来事として、『祇園本縁雑実記』の著者はこんな風に書き留めて置いたんではないか、って私は想うんです」

私はそう言って、仲原氏の顔を見てここまでの反応を見た。そして更に続けた。

 

「あえて遠江守安田義定ではなく、鎌倉幕府将軍で武家の頭領であり武家の象徴である頼朝の権威と名声を使って、ですね。

それでいて安田義定公を奉行として書き記していて、その功績は明確に記録していると・・。私はそんな風に考えるのですが如何ですか?仲原さん。ちょっと飛躍しすぎですか?アハハ・・」

私は自分でも相当想像力を働かせているなと思いながら、祇園神社と安田義定公の関係を大胆に推察して、考えていた事を話した。

私の仮説を黙って聞いていた仲原氏の眼は穏やかに笑っていたが、同時に私が言った事を頭の中で咀嚼(そしゃく)しているように、私には感じられた。

 

「なぜこのような事を言うかと云いますとですね、その理由は二つあるんです。

一つは、義定公の領地には必ずと云ってもいいように、祇園神社や八坂神社が祀られているんです・・。もちろん主だった場所に関して、なんですが・・」私はそう言って、中原氏の顔を見ながら話を続けた。

「甲斐之國の本貫地である甲州市塩山藤木には『八坂神社』が、遠江之國の本貫地森町飯田には『山名祇園神社』があります。また森町三倉には『八坂神社』、更に地頭であった浅羽之庄には『祇園神社』が、それぞれ勧進されて祀られてるんですよ。

いずれも八幡神社や馬主神社からそう遠くない場所に・・。私はこれらの場所で祇園神社や八坂神社を発見・確認するたびに、義定公が祇園神社をバックアップするために、自分の領地に勧進し加納田を寄進したのではなかったかって、そんな風に考えているんですよ」ここで私は一息ついてから、また続けた。

 

「そしてもう一つは、鎌倉時代以降祇園神社が比叡山の傘下から徐々に離脱するようになりますよね。それも関係しているのではないかと・・。

祇園神社は、平安時代においては自らの主たる庇護者を比叡山としていたのに、鎌倉時代以降から武家に、更に応仁の乱以降は町衆にとパトロンをチェンジしていった事と、関係があるのではないかと思われるからなんです・・」

私は仲原氏が私の説をどう思っているか眼で確認しながら、更に自説を述べた。

「それを象徴する事件が『吾妻鏡』に書いてありますよね。安田義定公の家来と比叡山の衆徒とが衝突し、刃傷沙汰を起こす、という・・」

私はそう言って手元のタブレットを操作して、『吾妻鏡』の該当箇所を出し仲原さんに指し示した。そこには、建久二年五月三日の条の読み下し文が載っていた。

 

遠江の守(安田)義定、内裏の守護を承るによって、郎党を差し置くしかるに(比叡山の)衆徒乱入するの時、官兵として召し付けらるるか。

勅定によって神威を仰ぎ、手を衆徒に掛けざるのところ、濫行の餘り、勝に乗りてかの郎党四人、同じく所従三人を刃傷するの由、義定が申し状によって承るところなりと書いてあった。 

「要するに、比叡山の衆徒が叡山と関係が深かった日枝神社の神輿(みこし)を担いで、朝廷の御所に乱入して狼藉を働いた時に、その際内裏の守護を務めていた義定公の家来と、叡山の衆徒との間に刃傷沙汰が発生したと・・。

こういったことがあって祇園神社は、平安時代の権威の象徴であった比叡山の庇護から抜け出して、新興勢力の武家の庇護下に移って行ったのではないかと、そんな風に私は考えるのですが、どのように思われますか?」この私の推論に仲原氏は明確な答えは出さなかった。

 

「それを象徴しているのが先ほど来申し上げている、『祇園本縁雑実記』に書かれているあの文言、すなわちこれ武家建替の初めか』に込められているのではないかと・・」私はこの言葉が象徴していると思われる意味を推測しながら、そのように結論づけた。

「そうでしたか・・。確かに鎌倉時代に入ってから、それまで比叡山の衆徒と一緒に内裏に神輿を担いで、強訴に参加していた当神社の関与が少なく成って行きましたね・・」仲原氏は、そう応えながら何かを考えているようであった。が明確な答えは出さなかった。

一呼吸あいて、仲原氏が言った、

「実は明治10年に五社十社が合祀される以前の、祇園神社を描いた古絵図があるんですが、ご覧になりますか?」仲原氏はそう言って私の眼をじっと見た。

「えぇ、是非とも・・」私は、肯きながら即答した。五社や十社に合祀される以前、八幡宮や金山彦を祀る祠(ほこら)や社(やしろ)がどのような扱いをされていたのか気に成っていたので、渡りに船だった。

仲原氏は立ち上がって応接室を出た。私はその間、先ほど仲原氏から貰った資料をパラパラと見ていた。『祇園本縁雑実記』だ。

 

 

 

             

                 京都祇園神社神紋

 

 


 

元徳の古図は語る

 

数分して仲原氏が、古絵図を携えて戻って来た。

ソファに腰かけながら「これです」そう言って私に見せてくれた。

その古びた絵図は、カラーコピーのようだ。

中央に本殿を描き、南門からの参道が長く描かれている縦長の古い絵図のコピーであった。その本殿を取り囲むように、多くの神社や小さな社や祠がぐるっと鎮座・散在していた。

本殿のすぐ西側や南側、更に東側にはやや大きめの神社が鎮座していた。これらは現在でも残っている神社と同様に思えた。

それに対して、北西部及び北側を中心に小さな社や祠が群れを成して鎮座して在った。現在の西門、即ち四条通りから真っ直ぐ入る門から、入ってすぐ左手(北西)辺りから本殿裏手の北側に当たる場所に、小ぶりの祠や社が沢山祀られていたのだ。

おそらくこれらの小さな社や祠が、明治10年に五社・十社として合祀されたのだろうと、私は想った。

 

「この絵図はいつ頃のモノですか?」私が尋ねると、

「『元徳の古図』と言われてまして、当神社の宝物に成ります」と仲原さんが教えてくれた。

「西暦で言うと・・」

「鎌倉時代末期で1330年代に当りますね、元徳ですと・・」私の問に、仲原さんは即答してくれた。

「1330年代いう事は、義定公の時代から百四・五十年後という事で鎌倉幕府が崩壊する頃なんですね、これが描かれたのは・・」

私はこの古絵図が描かれた頃にはまだ、義定公の記憶や足跡が祇園神社にも、何らかの形でしっかりと残っていたのではないか、と想った。

そして何よりも応仁の乱以前であることから、建築物なども義定公の時代の祇園神社の実像からそう大きくは離れてはいないだろうと、推測することができた。

 

従って、この本殿の北西部から北側にかけて鎮座している小さな祠や社の中の一つが、八幡宮や金山彦を祀った金峰山神社だったのだろうなと、そんな風に思いながら古絵図をしばらく見ていた。

そしてひょっとしたら当時は、「金峰山神社」ではなく「金山神社」として金山彦命が祀られていたのかもしれないと、想像力を膨らませた。

明治10年の合祀に際して白山神社や阿蘇神社と同様に山岳信仰の一つであり、金山彦が祭神として祀られることが少なくなかった金峰山神社にと、名称を改めたのかもしれないな、と私は想像力を更に働かせた・・。

丁度祇園神社の多くが明治政府によって、「八坂神社」にと名称を変更させられたように・・。

 

「この古絵図をコピーして戴くことは可能ですか?」私は仲原氏に頼んでみた。仲原氏はちょっと考えて言った。

「上長に確認してみませんと・・」そう言うと古絵図を持って、席を立って応接室を出て行った。

暫くして、仲原氏が戻って来た。

「残念ながら、これは難しいということです・・。申し訳ございません」仲原氏は本当に申し訳なさそうに、そう言った。

「そうですか・・。ん~ん、残念です」私はそう言った。しかし上長からの許可が出なかったとしたら、他のルートを当たるしかないと私は頭を切り替えて、別のルートを探すことにした。

 

「ところで、祇園神社絡みの書物とかを探すとしたら、やはり市立図書館とかが一番充実しているんでしょうか?それとも府立図書館ですかね・・」

私はひょっとしたら市立図書館や府立図書館であれば、この古絵図を扱った古い資料や書物があるかもしれないと思い、聞いてみた。

「そうですね・・。府立図書館もですが、元の府立総合資料館を衣替えした『京都学・歴彩館』が良いかもしれません。

私も時折利用しますが、あちらでしたらこの『祇園本縁雑実記』が収録されている『新編 八坂神社記録』も蔵書に在りますし、当神社や祇園祭に関連した書物が結構充実してますので、参考に成る資料が見つかるかもしれません・・」仲原氏はそう言って『京都学・歴彩館』を推薦してくれた。

 

「因みに元の府立総合資料館ということは、北山の府立植物園の近くになるんですか?」私が記憶をたどって訊ねると、仲原氏は肯いて言った。

「そうです、新しく立て替えられまして名前も変わりましたよ。地下鉄烏丸線北山駅の、府立植物園の横になります」と教えてくれた。

「そうでしたか、ありがとうございます。そしたら早速午後にでも、その新しい資料館に行ってみますよ。ひょっとしたらその中にこの古絵図も、どこかの書物に紛れ込んでるかもしれませんからね・・」

私はニヤリとそう言ってアドバイスに感謝すると共に、早速「京都学・歴彩館」に行ってみることを伝えた。

「立花さんは、行動力があるんですね・・」仲原氏がニコニコしながら言った。

「そうですね、ワリとそうかもしれません。昔から体力と行動力はある方だと、よく言われてます。あはは」私はそう言って笑った。

「それから最後の質問に成るのですが、宜しいですか?」私はその様に断りを入れて更に質問を続けた。

 

「祇園祭りに関する事なんですが、この祭りの中で綾傘鉾の巡行というのがありますよね。赤熊(しゃぐま)の棒振り子を先頭に、笛や太鼓・鉦を叩くお囃子がそれに続いて練り歩く、というやつです。妙にシンプルで、それでいて賑やかな・・」私が切り出すと仲原氏はニヤリとして

「ハイ、もちろん判ります・・」と言いながら、私の話の続きを待った。

「あの綾傘鉾って、他の山車や鉾の巡行と比べるとちょっと違和感がありませんか?長刀鉾とか、船鉾とか橋弁慶なんかのように、派手な造りや物語を表現しているモノとは違って・・。

ちょっと似たような傘鉾に『四条傘鉾』とかがあるようですが・・」私はそう言って、義定公と祇園祭りを結びつける神事について触れた。

「まぁ、確かにそうかも知れませんね。異質さはあるかもしれません・・」仲原氏は私に同意して、肯いた。

 

「ほかの巡行に比べて、公家の文化である平安朝的な雅さもないですし、応仁の乱以降に流行(はや)った町衆の派手な山車とも違いますでしょ。

シンプルで賑やかしが特徴と言った感じで、あか抜けてもいない」私が言った。

「それでいて、妙にインパクトはあるって感じですよね。その綾傘鉾がどうかしましたか?」仲原氏は私の前振りに興味を抱いたようで、その先を私に促した。

「えぇ、実はですね『綾傘鉾』と『八幡山』の山車や巡行は、義定公に縁があるんではないかって、そんな風に思ってるんですよ私・・」私はそこでニヤリとしながら話を続けた。仲原氏は、じっと私の次の言葉を待った。

 

「遠江之國の森町飯田之荘に『山名祇園神社』という神社がありましてね。この神社はその名の通り、こちらの祇園神社の末社だと思うんですが、長い間飯田の『祇園神社』や『(牛頭)天王さん』って、言われてましてね。

明治に成って全国の神社の管理を明治政府がするようになった時に、現在の『山名神社』に名前が替わったんですね。こちらの神社が『祇園神社』から『八坂神社』と云われるようになったのと同じ論理ですよね・・

で、その神社に伝わる神事が、そこには今でも伝統芸能として残ってましてね。それがこちらの祇園祭の古い形態である風流(ふりゅう)舞によく似てるらしいんですよ・・」私がそこまで言うと、仲原氏が、

 

「あ、それ聞いたことあります。確か2・3年前に京都に来てその伝統芸能を、市の文化会館だかどこかでやってましたよ。新聞で読んだような記憶が・・」と、反応した。

「そうでしたかそんな事あったんですか、京都で森町の祇園神社の伝統芸能をね、へぇ~なるほど・・。で、実はその山名祇園神社の祇園祭の風流舞は、応仁の乱以前の祇園祭の伝統を汲む舞なんだそうですよ。

それにその中の舞に、こちらの山車の『蟷螂(とうろう)山』に似たカマキリの被りモンを身にまとった、舞もありましてね・・」私は遠州森町の祇園神社の話をした。

 

「ホウ、蟷螂舞ですか・・」私の説明に仲原氏は興味を持ったようだ。

「ハイ、そうなんです。但し、遠州森町の蟷螂舞はあくまでも神様に奉納する神事としての舞でして、こちらで行われているような山車による巡行とは違うんです。

尤も地元に残る江戸時代からの書物には、室町時代に大阪の四天王寺から流れて来た舞と書かれているようですが、私はそれには疑問を抱いてましてね」私がそう言うと、仲原氏は

「と、言いますと・・」とその理由を聞いてきた。

 

「そうですね一つは、森町の舞は先ほども言いましたが京都に伝わる風流舞の伝統を引き継いでいると思われることですね。しかもこの風流舞は平安時代に京で盛んにおこなわれた舞の様式であって、大阪の四天王寺とは接点がない、ということなんです。

ひょっとしたら祇園神社の別称『牛頭天王』から出て来た呼称『天王さん』から、四天王寺を連想したのかもしれない、とさえ思ってます。

それに何よりもこの舞は室町時代の様式ではなく、もっと古い平安時代の舞踊の様式であるということなんですね。室町より150年以上、実際には2・300年は遡らなくてはならないんです。その舞の様式から推測するならば・・。

しかも、この神事を行う際に舞台に張られる幔幕がですね、問題なんです・・」私がそこまで一気に言うと、仲原氏はニコニコしながら私の話の続きを待った。

 

「その舞台に張られる幔幕の神紋が、三つ巴なんですよ」私が言った。

「なるほど八幡宮の神紋、なんですね・・。因みにその森町の祇園神社には、八幡宮が合祀されているんですか?」仲原氏は目に笑みをたたえながら、そう言った。

「そうなんです。遠州森町の祇園神社にも偶然ですが、八幡宮が合祀されているんです。磯部神社も併せて祀られてるのですが、この神社は遠州の代表的な河川である太田川沿いに在りましてね。

磯部神社があるということで河川の氾濫を鎮めるためであると共に、氾濫によって派生する疫病封じの狙いもあって、祇園神社が祀られたのではなかったかと・・。

そしてそこに祇園神社を勧進したのが義定公ではなかったか、と私は想ってまして・・。そしてそれを暗示するのが合祀されている八幡宮であり、舞台の三つ巴の幔幕なのではないかと・・」私は少しニヤつきながらそう言った。聴いていた仲原氏の眼も、穏やかに笑っていた。

 

「平安末期から鎌倉時代初頭の14・5年間、遠州森町を拠点に遠江之國の国守を四期にわたって務めたのは、義定公ですからね。時代的には風流舞の影響が残る舞が、遠州森に入って来たと思われる時期に符合するんです。

それに何よりも八幡宮ですからね。源氏の神様なんですよ」私がそのように言うと、仲原氏がさりげなく聞いてきた。

「安田義定の後任の遠江の国守と言いますか、守護は誰でしたっけ・・」と。

「義定公の後任の国守ですか?北条時政ですね」私は短く応え、話を続けた。

 

「ご存知のように、遠江之國や駿河之國は関東の鎌倉幕府の勢力にとって、京の朝廷を含めた西国に対しての最前線ですからね、実力のある武将でないと務まらないわけですよ。

普通の御家人クラスの、関東武者ではですね・・」私は遠江之國の地政学的な位置付けを語ってから、更に話を続けた。

「因みに北条氏は平氏の末裔ですよね、面白いことに。源氏中心の鎌倉幕府の中枢でありながら、ご先祖は平氏という・・。

いずれにしましても、北条氏では八幡宮には繋がらないわけです。三つ巴の神紋とは・・」私の説明に仲原氏も、納得したようであった。

 

「それはそうと、この遠州森町を中心とした地区にはもう一つ面白い風習が残っていましてね。それがやっぱり祇園祭に繋がるんです」私が新たな話題を振ると、

「ホウ、それはそれは・・。因みに・・」仲原氏が身を乗り出して聞いてきた。私は手元のタブレットを操作して、その風習の映っている写真を見せた。

「地元では『カサンボコ祭』って云うんですがね」私はそう言って、昨日学生時代の友人達に話したのと同じ説明をした。

タブレットの画像を見ていた仲原氏は、

「確かに遠州のこの祭りで使われてるこの和傘に赤い布切れを垂らしたような、カサンボコでしたっけ?それをずっと雅なものにしたら・・」

仲原氏が最後まで言う前に私は、待ちきれずに口を挟んだ。

「『綾傘鉾』に成るでしょう?赤い布切れを西陣織や錦の緞子(どんす)にでも取り替えたら。その上赤熊の棒振り子やお囃子を付け加えたら、ほぼ完璧じゃないですか・・」仲原氏も私が言いたいことを理解してくれたようで、肯きながら付け加えた。

「『綾傘鉾』と、それに『四条傘鉾』にも似てますね・・」と

 

私は続けて「カサンボコ祭」について語った。

「この風習は先ほども言いましたが、小学校高学年の子供達が新盆の家を訪ね廻って、和賛や称名を唱えるんですがね・・」私がそのように言うと、仲原氏が引き継いで、

「その辺りも、祇園祭の本質や形態に近いものがありますね。稚児が傘鉾巡行の前面に出てくる点や、御霊会という死者に対する法要と言った点でも・・」と言った。

「そうなんですよ。そしてこの遠州森地区オリジナルの風習を導入したのも、私は義定公だったんではないかって、そう想ってるんですよ。

っていうか実は祇園の綾傘鉾巡行は、義定公が祇園祭りに持ち込んだものではなかったかと、そんな風にさえ想っているんですよ」私が言った。

「はぁ、そうなんですか、それはまた・・」仲原氏はそのように言ったが、肝心な言葉は飲み込んだようだ。多分「大胆な」とか「思い切った」とか言いたかったのだろう、と私はひそかに感じた。

 

「仲原さんからすれば、そう何でもかんでも義定公に繋げなくても良いのでは。と思われるかもしれませんが、一応私なりにそのように思う根拠はあるんですよ」私はそう言ってから、具体的な理由を話し始めた。

「それはですね、ご神体に関係あるんですがね。ご存知の通り、二つある綾傘鉾の前の方の綾傘では、ご神体として金の鶏(にわとり)が祀られていますよね。金の卵を脚で持つようにして・・。

実はこの金の鶏が、義定公に深く関わって来るんです。そして同時にこの金の鶏のご神体の有無が、『四条傘鉾』との大きな違いに成ってますよね・・」

私はそう言って、義定公の領地経営の柱である金山開発を担う甲州金山(かなやま)衆と、彼らが行う「金山祭り」の関連性を仲原氏に説明した。なかでも「金山祭り」においては、金の鶏をご神体として御輿に担いでいる点を強調した。

 

「実は遠州森町にも金山開発につながる金山神社が、山にも里にも幾つかありましてね。金山衆の痕跡が想定できるんですよ。

これらを考え合わせると、綾傘鉾はお祭り好きの義定公が金山衆の神様を祀るために、祇園神社での金山彦命の鎮座と共に、祇園祭に取り入れてもらった巡行だったんではないかって、そんな風に想ってるんですがどう思いますか?仲原さん・・」

私は自分でも飛躍しすぎかなと思っていた仮説に、仲原氏がどのように反応するのか期待しながら、彼の顔を覗き込むように観た。

仲原氏は相変わらず穏やかに笑って、言った。

「実際のところ私達には、祇園祭の個々の山車や巡行の神事が、どのようないきさつや謂われで始まったのかを知る術はないんですよ。10年以上続いた応仁の乱で、多くの宝物や古文書は失われてしまってますからね。

室町中期以前の伝承や書物はなかなか・・。せいぜい五・六百年後の江戸時代に書かれたこの様な書物があるくらいでして・・」仲原氏はそう言って、私が手にしていた『祇園本縁雑実記』のコピーを指し示した。

 

「でもひょっとしたら、山車や巡行を現在執行している各町内会や保存会には、何かそう言った事を書き記した古文書などが、残ってるかもしれません・・」仲原氏はそう言って、私にヒントをくれた。

仲原氏はたぶん正直な気持ちを言っているのだろうと思った。八百年も前の事や、応仁の乱以降といっても五百年も前の事が、今の祇園神社に残っている事を期待する方が、間違っているのかも知れなかった。

「因みに、綾傘鉾を執り行っている保存会というか町内会はどちらに成るんでしたっけ?」私が、手元の簡易な京都の中心街MAPを基に尋ねると、仲原氏は

「町衆の鉾や山車の保存会は、四条烏丸西側のエリアにほぼ集中してます。綾傘鉾の保存会は、室町通りと綾小路が交差する辺りに・・」と言いながら、MAP上の場所を指して、

「この辺りですね」と言った。

 

「『善長寺町』という町内会で、大原神社に保存会があります」と教えてくれた。

「大原神社ですか?けっこう目立ちますかね、神社だと・・」私がそう言うと、

「いや、どちらかというと小さい神社です。大原神社は丹波の福知山に元社がありまして、こちらは末社と云うか出張所の様なものでして・・」仲原氏が補完説明をしてくれた。

「ありがとうございます。そうなんですか、大原神社にあるんですね・・。そしたらその大原神社の、綾傘鉾保存会を一度尋ねてみます。

何か新しい情報や発見が見つかるかもしれませんね・・。楽しみです」私はそう言って感謝を述べると共に、改めて大原神社を尋ねてみようと思った。

私がそのように考えていると、仲原氏が私に問いかけて来た。

 

 


                               

                                祇園神社、元徳(1329-1330年間)の古図

 

 

    

        京都祇園祭蟷螂山          遠州森町飯田祇園祭蟷螂舞

 

 

 


 

祇園祭「八幡山」

 

「ところで立花さんは、『八幡山』には興味は無いんですか?」

「石清水の、ですか?」私が応えると、

「いやいや祇園祭の、ですよ」仲原氏は穏やかな眼でそう言って、私を見た。

「すみません、勉強不足で・・」私がそう言うと、仲原氏はニヤリとして言った。

 

「いや、ご存じなかったですか『八幡山』。これも綾傘鉾同様謂われがハッキリしないんですが、当神社の境内に八幡宮が鎮座ましますので、私達は不思議には想ってませんでしたがてっきり・・」

「なるほど、三つ巴の神紋同様に源氏の神様ですし、義定公に繋がるわけですね」はそう言いながら、タブレットを使って祇園祭の『八幡山』を検索した。

「ネットでもご覧に成れるかと思いますが、『八幡山』のお社(やしろ)やご神体は金箔で造られてまして・・。

尤も現在残っているのは、江戸時代後期に造られたものらしいですけどね・・」この仲原氏の解説に、タブレットを操作していた私の手は止まった。

 

私は顔を見上げて、言った。

「金箔造り、ですか・・」

「ハイ、更にご神体は運慶作の『応神天皇騎馬像』と言われてまして・・」仲原氏はニコニコしながら、私を観てそう言った。

「えっ!」思わず私は絶句した。

運慶は鎌倉時代を代表する仏師であり、それも鎌倉時代の初期に活躍していたからだ。奈良を拠点に活躍しており、義定公の活躍した時代と重なるのだ。

しかも騎馬像で、金箔造りだという。私は驚いてしまった。仲原氏は私の反応を見て、期待通りと思ったのかもしれない。

 

「八幡宮に金箔の社、更にご神体が騎馬像ですか。う~ん、それはそれは・・」私は思わず腕を組んで呻(うな)ってしまった。そして、『八幡山』への関心がフツフツと湧き上がって来た。ぜひとも、『八幡山』の巡行を執り行っている町内会や保存会を尋ねたい、と強く思った。

 

「この『八幡山』のご神体や社を、義定公が奉納したものだとすると、奉納当時は金箔ではなく純金造りの社だった可能性がありますね。

何しろ義定公は金山の開発が領地経営の柱ですから、その点ぞうさも無かったでしょう・・。いや、貴重な情報ありがとうございました。金箔で、応神天皇の騎馬像なんですね・・」私はもう一度そう言って、嬉しくなって思わず仲原氏に握手を求めた。

仲原氏は戸惑いながらも、ニコニコと握手に応じてくれた。その上で、私は改めて尋ねた。

 

「ところでその『八幡山』の巡行を取り仕切っている町内会や保存会がある場所を教えて貰えませんか?」

「あ、はい。え~とですね、三条新町を下ルになります」仲原氏はそう言って、先ほどの京都の中心街のMAPを指し示して、

「綾傘鉾の大原神社から、四条通を挟んだ反対側に成りますね」と言って、仲原氏は腰の扇子を取り出して、MAPの南から北にスッと引いた。

「四条通上ル、ですね」私はそう言いながら、大原神社のある善長寺町の西側に掛かる「新町通」を三条通に向けて北上し、「三条新町」の町内を眼で辿った。

 

「この辺りは『船鉾町』や『月鉾町』と言った祇園祭に山車や鉾を出す町内会が、随分と沢山あるんですね・・」私はMAPに描かれた町名を観ながらそう言った。

「そうですね、室町通り界隈はメッカですからね」仲原氏は烏丸通から堀川通の東西と、御池通から五条通に掛かる南北に縦長の一画をMAP上に大きく楕円を描きながら指し示し、解説してくれた。

「それから、これはあくまでも私の直感と言うか感想なんですが」と、仲原さんは私に断りを入れた上で、

「私的には『綾傘鉾』と『八幡山』とを比較した場合ですが、何となく安田義定に関係してくるのは、『八幡山』のような気がしますね。

ちろん二つの山と鉾の両方に、安田義定が関係することもあったかも知れませんが・・」と言った。

 

私は、仲原さんの指摘について少し考えてみた。

確かに純金製の八幡宮や、騎馬に乗った応神天皇像といった点を考えると、義定公に直結する。しかもその名も『八幡山』なのだ。ただ、『綾傘鉾』も捨てがたい。ご神体の金の鶏、そして遠州森の『カサンボコ祭』なのだ・・。

「ん~ん、悩みますね・・。もう少し考えさせてください・・」私はそう言って、仲原さんの指摘を改めて考えてみることにした。

そして同時に私は、これまで自分なりに調べたつもりでいた、祇園祭の山車や鉾の情報や知識がまだまだ不十分であることを改めて痛感した。

またこうやって祇園神社を訪ねて、仲原さんに出逢えたことを感謝した。取り分け仲原氏の誠実な人柄と、的確な情報提供をありがたく思った。私は改めてそのことを口にして、仲原さんに感謝の言葉を伝えた。

 

その後私達は『吾妻鏡』や『祇園本縁雑実記』に書かれている安田義定公に関する話などについて語り、時間を過ごした。

そして、切りの良いところで話を終えた。貴重な資料を戴いたことや、幾つかの重要な情報提供や指摘を戴いた事への感謝を、仲原さんにもう一度丁重に述べたうえで、私は社務所を出ることとした。

 

日曜の昼前後ということもあってか、祇園神社の境内は観光客でごった返していた。大盛況であった。

以前に比べて東洋系の観光客が目に付いた気がした。やはりインバウンドの来日客が2千万人を超えているんだということを、私は祇園神社でも実感した。

 

 

        吾妻鏡 文治三年(1187年)八月二六日

                 『全訳吾妻鏡1』356ページ(新人物往来社)

 

遠江守(安田)義定をして、稲荷社を修繕せしむべきの由、権黄門経房の奉(うけたまわり)として仰(おお)せ下さる。重任の公に募らるるところなり。稲荷・祇園の両社破壊するの間、皆成功(じょうごう)に付して、修治の功を終へらるべし。

上記は、文治三年西暦1187年に安田義定公が祇園神社及び伏見稲荷神社の大規模な造改築や修繕を行ったことに関する記述である。

『吾妻鏡』では、安田義定公が遠江守を重任する(この時点で三度目の重任)ことを許す条件として、朝廷の命令によって義定公に課せられた役務として、朝廷の権中納言(黄門)藤原経房経由で伝達させた、と書かれている。

それに対して祇園神社に伝わる『祇園本縁雑実記』では、源頼朝の命令により安田義定が執行したことに成っており、しかもその理由は頼朝の祇園神社への尊崇の念が強かったからだ、と記されている。

歴史上の出来事も記録者の立ち位置によって、ずいぶんと違った継承のされ方をするのだという事に、いまさらながら気付かされる。

 

 

 

            『祇園本縁雑実記

               『新編 八坂神社記録』75ページ(平成28年3月刊行)

 

 八十二代後鳥羽院文治三年(1187年)八月祇園社造替

 此の時源頼朝卿ヨリノ御造替ニ而、遠江守(安田)義定奉行ス、是武家建替ノ初歟、頼朝卿若年ヨリ当社毎日之遥拝怠ナク、在京之時ハヒソカニ参詣モ度々ナリケルトソ

 

上記のように江戸時代初期に書かれた『祇園本縁雑実記』には、頼朝の命令によって、祇園神社が建て替えられたと記されているが、先の『吾妻鏡』に書かれているように、実際は後白河法皇の朝廷の命令によって安田義定公が執り行ったものである。

鎌倉時代末に書かれた『吾妻鏡』と江戸時代に書かれたという『祇園本縁雑実記』との間には4百年近くのタイムラグがある。

言うまでもなく、『吾妻鏡』の方に信を置くべきであろう。

 

 

 

 

 


                   京都祇園祭、八幡山

 

 

四条烏丸界隈

 

祇園神社を後にして私は四条通を、朝来た道を逆に辿って烏丸に向かった。四条烏丸で地下鉄の烏丸線に乗るためであった。これから訪れる京都学・歴彩館は、地下鉄烏丸線の北山駅を出た処に在った。

師走という事もあってか、休日の四条通は人混みであふれていた。元来人が群集する状況をあまり好まない私は、四条通の南を並行して烏丸に向かうことのできる通りに出た。綾小路通だ。こちらの通りを歩く人は少なかった。四条通とは雲泥の差だ。

この通りをそのまま西進して烏丸通を越えた室町通辺りに、先ほど教えてもらった大原神社が在るはずだった。

お昼の1時前ということもあったので、私は昼食をとることにした。歩きながら食堂を物色しつつ、烏丸通にと向かった。

 

数分ほど歩いた辺りで、私は中華食堂を見つけた。どこにでもよくあるチェーン店ではなく、小振りの建物で数十年は経っていると思われる民家に併設された店だった。何十年も地元で営業している家族経営の店だろう、と思われた。私の好みのタイプだ。

年季の入った入り口に架かった暖簾(のれん)は、白地に赤い文字で屋号が大きく書かれていた。外見同様、店の内も年季が入っていた。機能的でシンプルなテーブルと椅子が5・6セットあり、古いTVが掛かっていた。

店内に掛かる暖簾は奥の厨房との境界に成っているようで、かっぽう着姿の女将と思われる女性が、その暖簾の前で私をにこやかに迎え入れた。

店内にはおなじみさんと思われる観光客とは別の匂いのする人達が居り、昼食を食べていた。

 

壁に書かれたお品書きを良く観ると、おなじみの中華メニューの他にごく普通の和食堂でお目にかかる定食類も、少なからずあった。

別途「関東(かんと)(だき)」と書かれた品書きがあった。おでんの事である。それらのメニューを確認して、私は内心喜んだ。

この店は純然たる中華の店ではなく、中華メニューの充実した普通の食堂だったのだ。純粋な中華料理を期待する向きには物足りなさは残るだろうが、地元の常連さん達には重宝がられているに違いない。

東京あたりの住宅街にも良く見られる「五十番」とか「○○軒」とかいう名の中華食堂に類するタイプの店だ。

スタート時は中華のメニューだけだったのかもしれないが、地元の利用頻度の高いおなじみさん達の要望や意見を、無視することなく受け入れていった結果なのかもしれない。何十年もかかって、現在の様なこなれたメニュー構成に成ったのだろうと、私は想像した。それだけ、地元になじんだ存在なのだろうと。

 

私は「中華そば」とおでんを幾品か頼んだ。関西で言う「関東(かんと)(だき)」は、昆布や鰹だしをベースにしているので、関西に来た時私は好んで食べることが多かった。

取り分け「大根」「こんにゃく」「牛スジ」が好みだ。いずれも時間を掛けてじっくり煮込み、味が沁(し)み透っている。出汁をたっぷり含んでいるからだ。

 

おでんが先に運ばれてきた。味の沁みた厚切りの大根やこんにゃくは、期待通り旨かった。長時間じっくり煮込んだ牛スジも、柔らかくて美味かった。そうこうしている中に「中華そば」が運ばれてきた。

 

この店の「中華そば」は、まさにその名の通り中華のそば、であった。決して「ラーメン」と呼ばれるものではなかった。

スープは、鯖や飛魚(あご)の乾物や椎茸・昆布などをベースにしているのではないかと思われた。わずかに海老の味がした。焼き海老も使っているのかもしれない。

黄金色の透き通ったスープは、器の中の具材を鮮やかに見せていた。麺は自家製麺かも知れない、やや不揃いであった。ハンドメイドである。

具材はチャーシューにナルト、ほうれん草・煮卵・シナチクに刻みネギであった。どこか懐かしい味だ。昭和の味がした。

懐かしい「中華そば」や久しぶりの「関東煮」を堪能した私は、そのまま綾小路通を烏丸通にと西進した。

 

十分もしないうちに烏丸通に着くことが出来た。北山の「京都学・歴彩館」に真っ直ぐ向かうならば、ここで地下鉄烏丸線に乗るところだが、私はそのまま綾小路を西進して大原神社を目指した。

祇園祭で「綾傘鉾」の巡行を執り行っている「綾傘鉾保存会」の会所が在ると、仲原氏から聞いていたからだ。

飲食店や民家が混在する通りの北側に大原神社は在った。間口は狭く、殆ど民家1軒分くらいしかない入り口は、小さな石の鳥居が無ければ見過ごしてしまったかもしれない。

間口が狭く奥行きが深いのは、通常の京都の民家と変わらない。入り口の鳥居に覆いかぶさるように松が1本植えられていた。石畳に沿って奥に入り、小さなお宮にお参りした。

 

その奥には「綾傘鉾保存会」と木の板に書かれており、社務所兼会所と思われる小振りの建物に掛かっていた。

改めて保存会のスタッフにアポイントを取った上で、「綾傘鉾のいわれ」や「伝承」を尋ねることにして、私は大原神社を後にした。

綾小路を数10m西進し次の南北の通りである「新町通」を右折し北上した。八幡山」の巡行を担っている「三条新町」周辺を確認するためであった。

華道の家元の名前が冠された短大を右手に観て、そのまま四条通を突っ切って北上した。京都では「四条通上ル」という。

 

この界隈を歩いているうちに私は、学生時代のことを思い出した。

四条烏丸の東にある百貨店の、通りを挟んだ小さな家電販売店でのアルバイトを終えて、妙心寺近くの民家に間借りしていた私が、帰りのバスを待つ間に祇園ばやしを練習する音が聞こえたことを。

40年以上前の事なのに昨日のことのように蘇った。いうまでもなく祇園祭の暑い時節のことである。

7月上旬に大学の前期の授業が終わり、2か月間の長い夏休みが始まると私はお盆前の1月ほどを、アルバイトをして過ごした。

 

当時私は「家庭教師」と「映画のポスター張り」「家電販売店の販売補助」の三つのアルバイトを掛け持っていた。

「家庭教師」や「映画のポスター張り」は、稼働時間のわりに報酬が多く効率の良いアルバイトだったが、仕事量が限られていたため総額としては限界があった。

夏休みの後半にちょっとした旅行を計画していた私は、夏休みの前半は連続してアルバイトが可能な、家電販売店でバイトを集中してやったのだ。

 

そのアルバイトを終えての帰宅途中に、四条烏丸のバス停で下宿に向かうバスを待つ間に、祇園ばやしの鉦や笛・太鼓を耳にしていたのだった。

7月中旬から下旬に掛けて行われる祇園祭は、京都でも一番暑い時節だった。長い梅雨が明け、連日30度を超え真夏日の35度を超える日も、何日か続いた。

 

当時の私にとって、祇園祭は灼熱の真夏日を連想される行事であり、観光客のごった返しも重なってあまりポジティブなものではなかった。

元来私は人が密集する空間や状況を好まない傾向があり、お祭りなども真っただ中に分け入って楽しむ、というよりちょっと離れた場所で傍観する、といった種類の人間なのだ。

しかしそのような私にも、四条通を挟んだ小路に垣間見える「山車」や「鉾」が暗闇に映え、コンチキチンと耳に入って来た祇園ばやしの音は、今でも記憶に残っていた。

 

その様なことを思い出しながら私は四条通を上リ、新町通に沿って三条通にと向かった。車が一台通る広さの一方通行の新町通は、糸へんの伝統的な商家と共に観光客や近隣の住民相手と思われる、京都的な装いをアピールした飲食店とが混在していた。

また伝統的な木造家屋と共に、近代的なビルやマンション・ホテルなどが混在する通りでもあった。

左手に逓信病院をやり過ごした先には、「三井両替店旧跡」との木標が在った。江戸時代はここに後の三井財閥の基となる三井両替店、当時の銀行が在ったようだ。

ということは江戸時代の創業者三井高利なども、案外祇園祭に深く関わって来たのかもしれない、と私は思った。

 

伝統や歴史を重んじる京都に、伊勢松坂からやって来た三井高利は新参者であるが故に、地元に受け入れられるべく祇園祭に積極的に関わって来た事は大いに推測できる。

祭りと言う非日常的なイベントには、日常生活が持つ堅固な枠組みを壊し、当事者同士を融和させる効果が期待できるからだ。私はそんな風に思いながら、新町通を北進した。

六角通りを越えた辺り数10m先の右手に、目指す「八幡山会所」が在った。頑丈な鉄の門扉の奥に、その建物は在った。手前は駐車場に成っていた。

3・4台程度の駐車スペースの奥に、黒っぽい土蔵が在った。ここに「八幡山」が秘蔵されているのだと思われた。

京都は平安遷都以降何度も、地震や大火に見舞われている。そんなこともあって、こうして大切に土蔵に収められているのだろうと思った。

 

「綾傘鉾」の大原神社とはだいぶ趣が異なる。「綾傘鉾」の場合は小なりとはいえ、神社の境内に会所があった事もありOPEN だった。

「八幡山」は祇園祭の時までこの場所に「山」が安置されていることは、多分知らされることも無いであろう。そんなことを想いながら私は、八幡山を後にして新町通を三条通まで上がった。

三条通から室町通りをUターンして、目的地である北山の「京都学・歴彩館」に向かうべく、四条烏丸から地下鉄烏丸線に乗ることとした。

 

室町通りはかつて「花の御所」と呼ばれた、室町幕府の御所に向かう南北の筋である。

その「花の御所」は三条通を京都御所に向かって北上した、2・3㎞先に在ったと言われている。御所の北北西に当たるようだ。従って私は「花の御所」を背にして南下して、四条通に向かう形を取った。

この「八幡山」に隣接する室町通の町内では、「鯉山」という山車を祇園祭に出しているようだ。鯉の滝登りを現した舁き山で、「鯉が滝を登って龍に成る」という伝説を受けた「登竜門」を象徴しているという。

出世を夢見た町衆や武家衆に支持されてきたのであろう。

 

この様に四条烏丸周辺を歩いていると、各筋ごとに形成される「山車」や「鉾」が、数十軒単位の町内で守られ執行されていることに気が付く。

云うなれば町内会や商店街ごとに「山車」や「鉾」が出されているということだ。

平安時代から千年近くにわたって、連綿と続いてきたことに成る。畏れ入る。京都人のプライドも判る。

尤も、町衆が祇園祭を主導するように成ったのは、応仁の乱以降ということだからここ5・6百年の事、ということである。いずれにしても永い年月である。

再び四条通の喧騒に出た私は、その喧騒を避けるべくまっすぐ地下に潜って、国際会館行きの地下鉄に乗って北山を目指した。

 

 

 

 

        祇園祭「綾傘鉾」-綾傘鉾について- (綾傘鉾保存会HPより)

 傘鉾は剣鉾や鎌鉾などとともに、今日の山鉾の形態が完成する以前の古い形であり、京都市北区今宮神社のやすらい花の花傘に代表されるような、いわゆる風流(ふりゆう)と呼ばれる作り物や芸能のもっとも基本的な形態を今に伝えるものだといわれています。

応仁の乱以前の十五世紀前半の記録にも綾傘鉾が登場することから、五五〇年以上前から存在した古い鉾であることがわかります。

 

上記は「綾傘鉾保存会」のHPからの抜粋である。綾傘鉾の起源は、応仁の乱(146・70年)以前から行われていた事を記している。ということは、町衆が主導して「山車」や「鉾」で巡行するように成る室町時代中期以前から、既に定着していたことを指している。

具体的には、鎌倉時代には綾傘鉾の巡行が行われていたことが推察でき、その主体は町衆では無く武家であった可能性もある。その点は記憶にとどめておきたい。

 

 

 

         八幡山-八幡山の言い伝え- (八幡山保存会HPより)

 当八幡山は、下京区に在った『若宮八幡宮』が、東山五条に移された後に、当町内に分祠されて祀られたようです。八幡山の、金箔鮮やかなお社の中にお祀りする『応神天皇騎馬像』が若宮八幡宮との関わりを物語っています。

 こうして、町内にお祀りした『八幡さん』を、御輿のように担いで八坂神社へお参りしたのが祇園祭山鉾巡行の始まりと言われています。

 

若宮八幡宮は元暦元年(1185年)に源頼朝の発願と命令によって、六条(醒ヶ井)西洞院に創建された。地名を取って「六条八幡宮」とも「醒ヶ井=左女(さめ)(がい)八幡宮」とも称された。この八幡宮を創建するにあたって遠江之國の御家人達は少なからぬ合力をしている。

また六条(醒ヶ井)西洞院の地から東山五条に移されたのは、天正十二年(1584年)に太閤秀吉が京洛の地の区画整理事業の一環として行った事で、それまで4百年の間六条西洞院の地に鎮座していたのである。

 

 

 

 


 

                                    

                                綾傘鉾と赤(しゃ)(ぐま)の巡行

 

                              遠州かさんぼこ祭り

 

 

 




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