春丘牛歩の世界
 
先週から、「行者ニンニク」が採れる様に成り、我が家の食卓にも乗るようになった。
行者ニンニクが採れる様に成ると、今年の春がやって来た事を実感する。
これまでの私の経験では「行者ニンニク」が生えてきてから、雪が降ったことは無いから、である。
 
 
      
 
 
野生の昆虫や動物たちが作る巣の位置で、颱風の影響を早い時期に推測できることがあるが、自然界の生き物たちは彼らなりのセンサーで、天候や自然現象を察知する能力がある。
そんな事から私は、「行者ニンニク」が我が家の林に生え始めることを、季節の到来のメルクマール(指標)にしているのである。
 
 
      
 
       
         
 
     
 
 
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これにて本物語は完結しました。
12月13日:  『生きている言葉』に過ぎたるはなお、及ばざるが如し」を追加しました。
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*9月27日;「物語その後日譚」に「奥静岡の鶏冠(とさか)山」を、追加しました。
 
 

  南十勝   聴囀楼 住人

          
               
                                                                  

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         2024.05.01
              牛歩
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
   
      
【歴史検証物語】 - 安田義定編 - 
 2017年12月、JR京都駅の日本料理店で行われた、学生時代のサークル「京都の歴史と史跡を探訪する会」の同窓会において私は、何年かぶりに学生時代の友人達に逢った。その場で私は、かつてのサークルのメンバー達に、現在私がのめりこんでいる「甲斐源氏安田義定公」について、話すことに成った。
 
 

 プロローグ

  

あそびをせんとや うまれけむ  たわぶれせむとや うまれけむ

   あそぶこどもの こえきけば   わがみさえこそ さわがるれ

 

後白河法皇が創らせたという『梁塵秘抄(りょうじんひしょう)』のこの今様は、平安末期に偶然のように天皇に成り、早々と三年で天皇を引退し、30数年間の長きにわたり法皇として院政を敷いた、後白河法皇が好んだ今様だと言われている。

 

後白河法皇は結果的に、400年続いた平安時代という摂関時代の藤原氏を中心にした貴族社会から、武士の時代であり後に中世と言われる世に替わる時代の、大きな転換期において院政によって権力を発揮した法皇である。

彼が天皇または法皇となって活躍した平安時代末期は、実務は藤原氏の摂政家・関白家が取り仕切り、最終決裁を天皇または法皇が担ったという、権力構造の社会であった。

 

そしてその権力構造を打ちこわし、新しい権力構造を構築してきたのが、天皇や貴族の家来として武をもって仕えた、傍らに(さぶろ)う者「侍=サムライ」すなわち武士であった。

保元・平治の乱という朝廷と公家同士の内紛的な派閥争闘を通じて、不可欠の役割を担った平氏と源氏の武士団は、互いに相争う中において腕力によって政治権力の中枢を握り、実質的に摂関家に代わり権力を担うように成ったのである。

 

後白河法皇は鳥羽天皇(第七四代)の四番目の皇子として生まれてきたが、父親の鳥羽天皇や摂関家からは天皇の器ではない、と早い頃から判断されていたようだ。

その結果鳥羽天皇の後継は兄の崇徳天皇(第七五代)が継いだ後、異母弟である近衛天皇(第七六代)が就いた。

そして異母弟の近衛天皇の急死により、その子息の二条天皇(第七八代)が就任するまでの中継ぎ、要するにリリーフとして第七七代の天皇に就いたのが後白河天皇であり、28歳から31歳までの三年間天皇として在位したのであった。

 

後白河法皇自らが書き記したとされる『梁塵秘抄口伝集』には、当時の自分(雅仁親王)のことを以下のように記述している。

 

十歳余りの時から今様を愛好して、稽古を怠けることはなかった。昼は一日中歌い暮らし、夜は一晩中歌い明かした。

声が出なくなったことは三回あり、その内二回は喉が腫れて湯や水を通すのもつらいほどだった。

母の待賢門院が亡くなって五〇日過ぎた頃、長兄の崇徳院が同じ御所に住むように仰せられた。

あまりに近くで遠慮もあったが、今様が好きでたまらなかったので前と同じように毎夜歌った。

鳥羽殿に居た頃は五十日ほど歌い明かし、東三条殿では船に乗って人を集めて四十日余り、日の出まで毎夜音楽の遊びをした・・

 

今様とは、当時の流行歌のことで、雅仁親王(後の後白河法皇)は自らは天皇の後継者には成らないものと自覚しており、日夜今様に明け狂っていたというのである。

 

 


 

 甲斐源氏安田義定

 

師走の京都に来たのは何年ぶりだろう。

 その日私は、久しぶりの旅に出た。この秋の「駿河・遠江之國における、安田義定公の足跡や痕跡を求めるフィールドワーク」以来の事だった。今回の旅の目的地は京都であった。

今から8百年ほど近く前の鎌倉時代の武将、安田義定公の京都における足跡や痕跡を探し確認するために、私は京の都を訪れたのであった。

安田義定公は甲斐源氏の主力の武将で、四歳上の兄であり後の甲斐武田家の家祖である武田信義公と共に、源平の戦いにおいて大いなる功績を残し、鎌倉幕府創設における大功労者の一人であった。

それと同時に彼の領主としての領地経営の能力の高さ、及び武将としての能力の高さ更には甲斐源氏の氏の長者としての影響力の高さの故に、頼朝および北条時政らの伊豆出身の御家人らによる鎌倉幕府の勢力によって、一族と共に滅ぼされてしまった悲運の武将でもある。

 

私はそのことを知り彼に対する大いなる関心・興味を抱き、数年前から彼の足跡・痕跡を求め調査するようになっていた。

彼の生国であり本貫地の在った甲斐之國山梨や、彼の領地の在った駿河之國の一部や彼が14・5年の間、国守を重任し続けた遠州「遠江之國」を尋ね歩き、調べていたのであった。この秋の山梨や静岡の調査を一通り終えて、私はそれなりの情報や認識を得ることが出来た。

 

かつて義定公は、木曽義仲や平家追討の折に何度となくこの京の都に来ていた。

更には遠江之國の国守として定期的に朝廷を訪れ、内裏守護の任にも就き後白河法皇の院の御所を初め、八坂祇園神社や伏見稲荷神社の大規模な修理や改築のために尽力している。私はそんな彼の痕跡を求めて、京都にやって来たのであった。

そしてまたここ京の地は、かつて私が学生時代の4年間を過ごした青春時代の思い出の地でもあった。

 

その日の私は、京都で久しぶりに学生時代の友人達と逢って昼食を一緒にすることになっていた。休日でもあったことから、私が声を掛けておいたのだった。

私は新幹線で12時過ぎに京都駅に到着し、その足で待ち合わせ場所であるJR京都駅構内に在るホテルの、フロント階のロビーに在るカフェにと向かった。

大きな駅の改札口か、と見まごうばかりの混雑であったフロントの一画、腰高の仕切りで区切られていたカフェで、私達は落ち合うことにしていた。

 

ホテルロビーのカフェもまた盛況で、空席は殆ど無かった。早めに来ていた関西の友人の座っていた席に、私は合流した。

その日会食したメンバーは今から40年近く前の学生時代の、大学横断サークルである「京都の歴史と史跡を探訪する会(通称:歴史探)の元会員で、私と同じ右京大学のメンバーであった。

大学横断サークルと云っても、右京大学のメンバー以外は女子大や短大の女学生が中心であった。彼女達は右京大学のメンバーの中・高校時代の同級生や友人が中心で、殆どは他の大学の女子学生だった。

要は女学生の少ない右京大学の歴史好きの男子学生が、他の学校の歴女の女子大生と一緒に京都市内の史跡などを訪ね歩くという、サークルであった。従ってというか必然的にというか、男子学生はすべて右京大学のメンバーだったのである。

 

今日集まったメンバーは定年退職により仕事の第一線は退いており、私同様そのままリタイヤして暇を持て余しているか、再就職や再雇用で相変わらず働いている60代前半の元サークルのメンバー達であった。

和歌山県警の幹部職員であった大木君は、現在警備関係の会社の幹部社員として再就職していた。天下りなのかもしれない。

神戸市の教師出身で市の教育委員会で幹部職員であった永山君は、私立高校の渉外関係の仕事をしており、少子化で入学者が減少している高校への学生の開拓を、従前の人脈を使って執り行っているようであった。

 

大阪出身で大手の総合スーパーに就職した郡山君は数少ない現役で、ショッピングセンターのモール事業を展開している子会社の、地域本部の責任者をしていた。

また大阪出身でありながら、埼玉県で中学校の教員をしていた水谷君は、たまたま大阪にいる母親を見舞いに寄ったついでに、参加することに成った。彼は私同様、再就職はせず家で暇を持て余しているようだ。

 

京都出身でありながら、恋愛結婚の相手の家業に入り婿として奥さんの家に入った吉沼君は、繊維産業の盛んな大阪南部泉州地方で、妻の実家の繊維に関連する化学会社を経営していた。

その上今では、市議会議員も兼ねているようだ。外見がおとなし気な吉沼君は、他のメンバーのように活動的なタイプとは異なり、最も政治家に成りそうもなかっただけに、ちょっとした驚きであった。

私達は、カフェで何十年ぶりかの再会を喜びながら、13時に予約していたホテル内の京料理の店にと向かった。

 

店では個室を予約しており、昼会席のコース料理と2時間の飲み放題を申し込んでおいた。シックでモダンなその個室は、明確に独立した空間だったので多少大きな声で盛り上がっても、周囲の迷惑にはならない造りに成っていた。

還暦を過ぎたとはいえ、学生時代から酒が入り盛り上がると、大きな声を発する傾向のあったメンバー達にとって、この空間は都合が良かった。

乾杯を済ませた後は、大学を卒業してからの歩みや近況を一人一人が順に報告し、その都度遠慮なく聞きたいことを尋ね合った。もちろん茶化しも入った。関西人だから当然だ。

 

私の番になって、退職してからここ数年安田義定公についての調査や研究をしていることを話すと、早速みんなが突っ込んできた。さすが元歴史探サークルのメンバーである、歴史に関する話題には関心が高かった。

「立花クン、その安田義定っていう鎌倉時代の武将について調べるようになったきっかけは、何やったん?」元教育委員会の永山君が聞いてきた。

「多少、話は長くなるけどいいか?」と私が問うと、

「ええよ、おもろければ・・」と永山君は応えた。

「では、お言葉に甘えて・・」そう言って私は、安田義定公について調査・研究をすることに成ったいきさつを話し始めた。

 

「実際のところ初めて安田義定公の名前を聞いた時、その人物が一体誰なのか見当もつかなかったし、そもそも鎌倉時代に対する基本的な知識が欠如してたからサッパリだったよ。

マァ僕も君たち同様に、幕末や戦国時代には興味があったり関心はあったけど、平安時代や鎌倉時代はサッパリだったからね・・」

私の話に彼らは肯いて、同意した。

 

「その義定公の事を知ったのは、鎌倉時代初期に山梨の甲州金山(かなやま)って言う、金山開発の職能集団が大挙して蝦夷地に渡った、っていう古文書が北海道にあってね。

その古文書の検証を北海道の知り合いに頼まれてさ、それがまぁ直接のきっかけだったのさ・・」と私が言うと、

「金山の開発!なんか?」と、永山君が意外そうに言った。

「うん、そうだよ。蝦夷地の金山の開発に千人近くの人間が大挙して、津軽海峡を挟んだ竜飛岬の対面に在る蝦夷地知内の郷に渡った、って云う古文書が残っていてね・・。

マァそれに出遭ったのが運のツキというか・・、すべての始まりなのサ」私がそこまで話すと、皆の関心が集中してきた。

 

「知ってるかどうかわからないけど、山梨はうちの親父の出身地でね。祖父母が居たから夏休みなんかによく遊びに行ってたりして、僕にとっても縁のある場所なんだ甲州は。

それで子供の頃からじいちゃんの寝物語で、甲州金山の話なんかも聞かされていてね、マァ多少知ってはいたんだ」私は話を続けた。

「そう言えば立花君は、武田信玄びいきだったもんな・・」県警OBの大木君が云った。

「ん?そうだった?自分じゃ意識してなかったけどな・・。

話を戻すけど、その甲州金山(かなやま)っていう金山開発の職能集団を育てて、領主として金山経営を奨励してたのが安田義定公だった、ってワケ。

そんなことがあって甲州金山衆について調べていく過程で、彼らの領主でもあった安田義定公の存在を知ることに成ったってワケよ」私の話に、吉沼君が反応した。

 

「甲州金山、って話は確かに聞いたことあるで・・」

「そう?・・。有名なのは信玄公の時代の金山開発なんだけどね。甲州には黒川衆っていう金山開発のスペシャリスト集団が居てね、それはマァ僕も知ってはいたのさ。

その黒川衆の本拠地である黒川金山は、武田勝頼の頃から次第に衰退して、武田氏滅亡後甲州を領地とした家康の時代には先細りに成っていたって話だけどね・・。

それはさておき、その安田義定公は信玄公の時代より3百4・50年前の鎌倉時代初期の武将だからね、全然時代が違うのさ。何せ今から八百年前のことだからね・・」私が言った。

 

「その安田義定の金山経営って、有名なんか?色々遺跡があったり古文書が残ってたりとか・・」教育委員会OBの永谷君が聞いてきた。昔から論理的な思考をする彼は、物的な資料や客観的な証拠について尋ねて来たのだ。

それには県警OBの大木君も大きく頷いて同意した。さすが元警察関係者だと私は想った。

「それがね、明確な遺跡や古文書は殆ど無くってね、苦労したんだ・・」私が言うと大木君は

「それじゃ弱いだろ。物的証拠やエビデンスが無かったら・・」とやや上から目線で言った。私はその時、彼の県警における仕事ぶりの一幕を垣間見たような気がした。

 

「そう、だから苦労したのよ。いろいろとネ。ただね、まったく何にも無かったわけじゃなかったからね、かすかな手掛かりを見つけてそこから客観性を求めて、何とか物的証拠やメルクマールを探し当てることが出来たんだ・・」私がそう言うと、水谷君が、

「エビデンスとかメルクマールって何やった?」と、永山君に聞いた。

「エビデンスは証拠、メルクマールは指標や。学生時代に習ったやろ、忘れたんか?」と永山君が水谷君に説明した。

 

「具体的には?」と、大木君は二人の会話は無視して私に短く尋ねた。

 「うん具体的にはね、黒川金山の遺跡の中に残っていた中国からの渡来古銭があってね、それを辿って行ったり比較検討する事で、何とか関連性を見出すことが出来たのさ」私が応えた。

「もっと詳しく話してぇや・・」吉沼君が言った。

「うん、判った。黒川金山の遺跡の中に残っていた渡来古銭百枚程度の古銭の種類や構成比が、例の北海道の知内の郷で発見された、千枚近くの渡来古銭と非常によく似てることが判ってね」私がそう言うと、

「渡来古銭は、永楽通宝が出来るまでは広く全国で流通してた銅銭やから、古銭の銭種やその構成比が似てるって言っても、それだけで両者に関連性があるとは、なかなか言い切れないんとちがうか」永山君は私の話に疑問を感じたのか、さっそく聞いてきた。

「確かにそうなんだ、おっしゃる通りさ。けどね、まず両者の立地が全く異なるんだワ。

黒川金山の遺跡は、山梨県の標高千5・6百mの山ん中であるのに対し、もう一方の蝦夷地北海道知内は津軽海峡に面した海抜十数mの、殆ど浜辺と言っても良い様な場所なのさ。そして両者の物理的な距離は直線でも千km以上は離れているんだな・・」私が応えた。

 

「うん、なるほどね・・。確かに立地上の違いは判ったけど、同様の立地内で何か他の渡来古銭とかは見つかってなかったんか?」と、大木君が更に聞いてきた。

「うん、それは僕も考えたよ。で、いろいろ調べて判ったんだけどネ。黒川金山の遺跡は山梨県の甲州市塩山って処に在るんだけど、同じ甲州市塩山の千野地区って場所で1万枚近くの古銭が出土してたんだワ。同じ市内でネ。で、それと比較してみたのさ」私がそう言うと、大木君は目で私に先を促した。

「でね、その塩山千野遺跡の渡来古銭の場合は、銭種や構成比にある程度類似性があるものの、黒川金山遺跡と比べると15・6ポイントほど開きがあったのさ。知内の古銭と黒川の古銭との関係と比べると、明らかに乖離が大きいのさ。

要するに黒川と知内の銭種や構成比は、殆ど同じといっても良かったのに対し、千野古銭の場合は15・6ポイントほど開きがあった、ってことさ」

 

「出土した場所というか現場は?」大木君が私の説明に更に突っ込んできた。

「千野地区の渡来古銭が出土してきた場所は標高4・5百mくらいの街中で、甲府盆地の北東部に当たる里なんだよ。

千野地区は山間の黒川金山の遺跡から千mくらい下った里で、街中に成るのさ。塩山千野の古銭が見つかった場所はね」私の説明に大木君は小さく肯いて、とりあえず納得したようだ。

「標高4・5百mって、山里か?」水谷君が聞いてきた。

「いや、甲府盆地の東端っこ辺りの街なかだよ。山梨は長野と同じで基本山国だから標高がそもそも高いのさ・・」私が応えた。

「北海道の方はどうなんや?」永山君が聞いてきた。私はニヤリとして応えた。

「運よく知内と同じ津軽海峡に面した、函館の志海苔地区って場所で出土した古銭が十万枚以上あってね、それとも比べてみたのさ」私が言うと、

「古銭十万枚ってか!」水谷君が反応した。私はそれには何も応えず話を続けた。

 

「因みにその立地は知内同様、海抜十数mくらいのところなのさ。

同じ津軽海峡に面していても、函館の西方7・80kmの場所に在るのが知内でね。両者は同じ北海道の渡島(おしま)地方でも、津軽海峡に面した東方と西方の位置関係になるわけよ。

で、やっぱり黒川と知内の関係に比べて乖離(かいり)が大きいのさ、函館志海苔の場合もね。標高差がほとんどない同じ津軽海峡に面した場所でもだよ」私は断定的に言った。

「ってことは?」水谷君が呟いた。

「ってことは、知内と黒川金山ほどの類似性が塩山千野や函館志海苔からは確認できなかった、って事さ」と私が言った。

 

「ところで、その黒川衆と例の安田義定と、どうつながるんだい?」吉沼君が聞いてきた。

「うん、その黒川衆は安田義定公の領地に居た職能集団で、義定公の配下だったって事がまず1つネ。それから義定公の領地経営の特徴が『金山開発』と、騎馬武者のための『軍馬の畜産・育成』にあってね。当時の荘園経済中心の時代にあっては、稀な領地経営をしていたのさ彼は・・」私は応えた。

「農業主体の農本主義の頃の平安・鎌倉時代にあって、鉱工業生産や畜産農業を手掛けていたってことに成るんやな、その安田義定は・・」永山君が呟いた。

「まぁ、そう言うことだね・・」私が応えた。

「ということは、安田義定の家来達が黒川金山から大挙して蝦夷地に渡ったって事かいな?鎌倉時代に、だよな・・。ふ~ん。で、それには何かきっかけのようなものでもあったんか?彼らが大挙して蝦夷地に向かった・・」吉沼君が聞いてきた。

 

「うんあったね、大っきなきかけというか動機がね。また話が長くなってもいいかい?」私はそう言って皆の顔を見た。

特に不平もなさそうだったので、私はコップのビールを一気に呑んでから話を続けた。

 

 

 

 


 

富士川の合戦

 

「まず結論から言うね。安田義定公ってのは甲斐源氏の主力で4歳上の兄貴の武田信義公と共に、源平の戦いで大いに活躍した武将でね、鎌倉幕府創設に非常に大きな功績があった人物なのさ。

そしてその彼は後に、頼朝や北条時政によって一族もろとも滅ぼされてしまうんだよ。それが大きな、要因というかきっかけなのさ」私がそのように言うと、皆の顔が一瞬緊張したのが判った。一族が滅ぼされた、といった点に関心が集まったのかも知れない。

 

「因みに兄の武田信義公は甲斐武田家の家祖で、武田信玄の15代ほど前の人物ね、念のため」私がそこまで言うと、水谷君が聞いてきた。

「安田義定って誰やねん。聞いたこと無いで、オレ」と。

「まぁ無理もないよ僕も同じだったからね・・。

具体的にはさ『富士川の戦い』って聞いたことあるだろ、あの時の源氏方の主力だよ義定公と信義公は・・」私が具体例を挙げると、水谷君は

「それって平家の源氏討伐軍が、源氏とは一戦も交えずに敗走したっていうあの富士川の戦いの事かいな。確か大量の水鳥の飛び立つ音を聞いて、源氏の襲来と勘違いしたとかいう・・。知っとるで・・」と言った。

「そうその戦い。その時平氏の追討軍と戦ったのが甲斐源氏の軍勢だった、ってわけさ」私は応えた。

 

「あれは頼朝率いる関東の源氏軍だったんやろ、確か」永山君が言った。

「せやせや、頼朝の関東武者の軍団やったやろ」水谷君が続いた。

「大きく言えばその通りさ。だけどその富士川の合戦の時、頼朝率いる関東の源氏軍の主力は2・30kmほど離れた三島近くの黄瀬河に陣を構えていたのさ。一種の後詰めかな・・」私の話に、大木君が肯いて言った。 

「後詰めやな、判るで」やはり警察の地方官僚だったからか理解が早かった。

 

「その黄瀬河ってのは、当時の伊豆之國と駿河之國の国境いに成ってた大きな河なのさ。その黄瀬河の伊豆の側に陣地を構えていたのさ、頼朝を総大将にした関東の軍勢はね。

知ってると思うけど、頼朝を支えたのは北条時政を筆頭にした伊豆の御家人が中核だったからね。いってみれば黄瀬河の伊豆側に陣を張るっていう事はマァ、自分達の本拠地側に陣を構えて、平家の追討軍を迎えたってことに成るのさ」私が説明した。

「今で云うたらどの辺りに成るんや、その黄瀬河たら云うんは・・」水谷君が聞いてきた。

「箱根山の西側で、御殿場・裾野・三島って感じかな・・。黄瀬川の水源は富士山や箱根山とかに成るのさ」私は彼の質問に応えてから、話を続けた。

「その黄瀬河の陣で、奥州藤原氏の傘下に身を潜めていた義経が、異母兄の頼朝の本陣に参軍して、頼朝と初めて対面してるのさ。有名な話だから聞いたことあるだろ?」私の問いに皆が肯いた。

「マァそう言うことでさ、頼朝や北条氏を始め関東の主だった源氏軍は黄瀬河っていう伊豆之國と駿河之國を分かつ大河に陣を構えてて、富士川には居なかったのさ」私が言った。

 

「しかしあれやね、ナンボ水鳥の大群が羽ばたく音が軍勢の攻め込む音に似てるからっていっても、一戦も交えずに敗走するなんてことがあったんかいな・・」吉沼君が言った。

「当時の富士川はね、川幅が4・5キロは在ったらしいんだ。源平の戦いからほぼ百年後に書かれた『十六夜日記』に依ると、富士川の瀬が15瀬在ったって書いてあるのさ」

 「川の中瀬が十五瀬?川幅が数キロ在ったってか?ほんまかいな・・」私の説明に水谷君が疑問を挟んだ。

 「あのねぇ、現在の常識で考えたらあかんのよ、何せ8百年前のことなんだから。治山治水や灌漑の技術も発達してないし、土木技術も未発達でダム建設もない自然状態そのまんまの時代の話なんだから・・」私が関西弁を交えてそう言うと、

 

「確かに8百年も前の平安時代の自然環境を、現代のわれわれの常識から判断するのは適切ではないと思うで、ボクも。せやけど15瀬も川の中瀬が在ったなんてすごいな、当時の富士川は・・」と永山君が客観的で冷静な判断をした。

「因みにね、富士市の吉原本町って処に源平の合戦の遺跡として『平家越え』って場所が在るんだけどね、そこは平氏の源氏討伐軍が陣を構えた場所って言われているのさ。その場所と現在の富士川との距離は、4・5kmは離れているんだよ。

富士川の中瀬が15瀬も在るってことは、そう言うことなんだよ判るかい?

台風や集中豪雨が上流の甲斐之國あたりで発生すると、冨士川は甲斐一国分の大量の雨水が集中し土石流が流れ、氾濫するから駿河湾に近い富士市辺りは、大きな扇状の河川敷に成るわけだよ・・」私は水谷君にそう言って、更に続けた。

 

「だから富士川に居た水鳥の数も半端じゃなかったと思うよ。何せ15瀬の川幅に居る水鳥なんだから・・。多分数万羽クラスだったんじゃないかって思うよ、一斉に羽ばたいたのは・・」私の解説に皆は驚いたような顔をしたが、特に口は挟まなかった。

「それにね、富士川の合戦の二週間ほど前に行われた前哨戦があったのさ。富士山の西麓でね。それがマァ伏線に成ってるのさ、実は。

その前哨戦で、甲斐源氏討伐軍を率いた平家方の駿河の目代橘遠茂が、完膚なきまでの敗戦を喫していたのさ」

「目代って何やった?」大木君が聞いた。

 

「まぁ、代官と同じだよ。京都にいる藤原氏なんかの貴族の国守に代わって、代官として地元を管理統率していた地方官僚のトップやな・・」永山君が解説してくれた。

「その前哨戦で大将の橘遠茂は捕虜になり、副将の長田入道親子は戦いに敗れ斬首され、(さらし)首にされたってことだからね。で、その敗戦の情報を平氏の追討軍は事前に聞かされていたわけさ、二週間近く前にね。

たぶんその話には尾ひれがいっぱい付いて、噂話が飛び交っていたんだと想うよ。流言飛語がね・・」私はそう言って皆の顔を見た。

 

「そしてその甲斐源氏の精鋭が今自分達の目の前の対岸に居て、いよいよ攻めてくるって考えたら、心中穏やかでなかったのさ平氏の軍勢にすればね・・。

富士川の対岸に陣を構えてた甲斐源氏は、数的には明らかに不利だったにも関わらず駿河の目代軍を撃破した精鋭で、そいつらが俺たちに襲い掛かって来るゾって、感じでね。地に足がついてなかったって思うよ、平氏の追討軍は・・」私が続けた。

「そうか、それが伏線になっていたってことか・・。そしたら、数万羽の水鳥の羽音に怯えて敗走したってのも、まぁ判らなくもないか・・」吉沼君が呟くように言った。

 

「ところで、見て来た様に立花クンは言ってるけど、どうやって調べたんや?」それまでほとんど口を開かなかったショッピングモールの地域本部長の郡山君が、私に聞いてきた。

「ん?僕の情報源かい?色々あるよ~、まずは鎌倉幕府の公文史書『吾妻鏡』だろ。

 それから摂関家の九条兼実の『玉葉』、右大臣藤原宗忠の『右中記』といった当時の公家の書いた日記とかね~。あ、慈円の『愚管抄』も読んだよ、関連しそうな所だけだけどね・・」私がスラスラ応えると、郡山君は

「相変わらず、その辺は抜かり無いんやな君は・・」と呟いた。

「マァね、これでもマーケティングでメシ食ってきたからね40年近く・・、あはは。裏を取っておかないと、ちゃんとしたことは言えないのサ」私は当然のことのように言った。

 

店のスタッフが、新しい料理を配りだしたのを機会に、座席がざわついた。

私は飲み物のリクエストを皆に促した。それぞれが好みの酒を注文した。

それを機に、私はトイレにと立った。

 

 

 

              

 


 

頼朝と甲斐源氏・信濃源氏との確執

 

トイレから戻り、席に着くと永山君が私に聞いてきた。

「ところで、その安田義定はなんで頼朝や鎌倉幕府によって滅ぼされたんや・・」と。

「ん?聞きたい?また話が長く成るけど良いかい?」私は、ニヤニヤしながらそう言って確認した。永山君は肯いた。皆も私の顔を見た。

「マァ簡単に言うと、頼朝と北条時政らの伊豆の御家人グループによる権力保持のためさ。皆も知ってると思うけど、頼朝は異母弟の義経を奥州藤原氏に殺させただろ、あれと同じことなんだゎ、根っこはね」私がそう言うと、皆が話をやめて私に集中してきた。

 

「頼朝とその外戚である北条時政はね、自分と政子の嫡流の権力基盤を確かなものにするために義経を殺し、もう一人の異母弟である源範頼(のりより)をも暗殺したんだよね」私の話に大木君が聞いてきた。

「範頼って誰やった?」

「うん、頼朝の腹違いの弟で義経の異母兄だよ。頼朝自身は熱田神宮の大宮司の娘がお母さんだっただろ。で、義経の母親は九条院の下働きしていた常盤御前なんだ。そして範頼の母親は、浜名湖周辺の宿場街の遊女だったと云うよ確か・・」私がそう言うと、

「遊女ってかいな・・」大木君が言った。大木君の言葉に期待が外れた、と言った思いが感じられた。

「遊女、って言ってもたぶん白拍子とか云って、舞を踊ったり音曲を奏でたりして酒宴に侍るような人たちだと想うよ」私がそう言うと吉沼君が、

「今やったら、芸者や芸妓って事か・・」と呟いた。

「 まぁ、そんなもんやろ・・」水谷君が言った。

 

「しかし頼朝や義経の親父の源義朝ってのは、遊び人だったんやろかな。そんなに下働きの女性や宿場街の遊女にまで手を出すなんて・・」吉沼君がニコニコしながら言った。

「マァ、当時の武将はねいろいろあるんじゃないの。何せ生死を覚悟しながらの毎日だからね・・。常在戦場で、いつ戦いで殺されるかもしれないんだから・・。自分の子孫を残すことに対しての意識が、僕ら以上に強かったのかもよ。

ところで話を戻して良いかい?安田義定公に・・」私は話の流れが違う方向に向かっていると思い、話題を戻すことにした。

 

「その異母弟達を亡き者にしたのと同じ論理で、甲斐源氏や信濃源氏の主力を滅ぼしにかかったのさ、頼朝達は。

一番最初は木曽義仲の嫡男で自分の長女大姫の婿だった、信濃源氏の木曽義高を武蔵之國入間で誅殺したんだ。追っ手を仕向けてね。タイミングとしては、丁度木曽義仲が京都で範頼・義経と甲斐源氏の連合軍に宇治川の戦いで敗れ、敗死した数か月後の事でね」私がそこまで言うと、水谷君が、

「入間って、埼玉の入間かいな。うちの近くやで、川越の・・」と、合いの手を入れて来た。相変わらずの口調で、漫才のツッコミのノリだった。

「そう武蔵之國入間だから、埼玉ってことに成るよな。因みに木曽義仲の追討戦に、安田義定公は副将で甲斐源氏の頭領としてこの戦いに参加してるんだ」と私は補足説明をした。

「更に、その数か月後に義定公にとっては甥っ子に当たり、兄貴の武田信義公の嫡男で甲斐源氏の嫡流だった一条忠頼公を、頼朝は宴の酒席で背後から斬殺させてるんだよね、自分の目の前で・・」

 

「ホウ、それはえげつないなぁ・・」水谷君は身を引きながら、そう言って驚いた。

「なるほど、それも自分の嫡流を守るためだって事なんやな」永山君が言った。

「しかし、それにはそれなりの理由があったんとちゃうか?木曽にしても一条忠頼にしても・・」大木君はその動機を尋ねてきた。

「それはねぇ『吾妻鏡』なんかによると、鎌倉軍が木曽の義高両親や信濃源氏を滅ぼしたから、遠からず意趣返しが起きるかもしれない、って頼朝が考えたからだって事に成ってるよ、うん」私は言った。

「それって自分の体験から出てきた経験則って事かいな、頼朝は・・」水谷君が言った。

 

「まぁ、それはあり得るかもしれんで。頼朝は平治の乱の時に親父の義朝を始め兄弟なんかも、仲間に裏切られ惨殺されたり平氏によって捕らえられて、誅殺されてるさかいな・・。木曽義高を生かして置いたらいつの日か自分と同じ様に、頼朝一族に反旗を翻すかもしれへんって想ったんやろな」永山君が言った。

「マァ、そんなとこだったんだと思うよ。頼朝の立場からすればそのように推測できたから、早めに手を打ったって事だろうね。第二の自分を造らないためにね。

因みにね、そのとばっちりを受けたのは木曽義高の斬殺を頼朝から命令された、伊豆の御家人の家来でね、その家来は北条政子の命令で斬殺されて、梟首にされてるんだわ・・。堀親家って頼朝側近の御家人の家来でね・・」私が言った。

「なんやそれ!そんなんありか⁉」水谷君が叫ぶように言った。

「それ、あかんやろ!」永山君もテンション上げてそう言った。彼は学生時代から、アルコールが入ると感情が高ぶる傾向があった。

 

「政子がそうしたのはね、それなりに訳があるのさ。実は木曽義高は長女の大姫の娘婿だったのさ。さっきも言ったけど・・。

その大姫は夫が誅殺されて精神的なパニックに陥り、神経衰弱かなんかに成っている姿を見て、娘の正気を取り戻させるために、って想いもあったのかも知れないんだな・・。

しかしマァこの辺りに北条政子の性格の片鱗が垣間見えるよね、気が強いっていうか・・。頼朝なんか眼中に無い、って行動を時々とるからね彼女は・・」私がそういうと、永山君が

「それって、息子の二代将軍でもある頼家を修善寺に幽閉させたり、暗殺させた事を言ってるんか?」と言った。

「せやな、政子は公暁に実朝を殺させる事も黙認してたようやしな・・」水谷君が言った。

「話し戻してもいいか?」私は盛り上がる二人にそう断りを入れて、一条忠頼について話始めた。

 

「甲斐源氏の嫡男一条忠頼公の場合は、もっと言い掛かりみたいな感じなんだ。木曽義高の場合は何となく判らないでもないだろ?とりあえず合理的な理由はあるからな・・。

ところが忠頼公の場合は違うんだな、これが。義高の誅殺から二ヶ月後くらいに成るんだ、忠頼公が酒宴のさ中に背中から斬殺されるのは」

「その動機、いや理由は?」大木君が短く聞いてきた。

「うん、その理由・動機かい?それはね、最近一条忠頼が甲斐源氏の威勢を鼻にかけ傲慢になって来てる、とかいう話が側近の伊豆の御家人グループらの仲間内で出始めたから、って事なんだ」私は努めて冷静に言った。

「傲慢ってか?それだけかい⁉それが動機、ってか・・。そんなんで簡単に殺されるんかい?しかも背後から惨殺されたんやったよな・・。その伊豆の側近達ってのは、さっきの堀なんとか達って事かい?」大木君が驚きと憤りを込めて聞いてきた。

 

「そう、伊豆で頼朝が挙兵した時からの側近で、石橋山の戦いで平家軍に大敗して一緒に敗走して箱根の洞窟に逃れ潜んだ時の、御家人達らしいよ。マァ、北条氏を筆頭に伊豆の御家人グループとでもいう集団だよ、彼らは・・」私がそう言うと、

「確かに一緒に死線をかい潜った者同士ってのは、仲間意識が高まって絆というか連帯感が高まるからな・・」大木君がしみじみと言った。

県警OBの大木君の言い方には、大学卒業後四十年近く彼が携わっていた職業が、染みついてる感が随所に見受けられた。

 

「でも、傲慢とか権勢を鼻に掛けたからって殺されてたら、たまらんな・・」吉沼君があきれるように、言った。

「だからさ、そこに頼朝や北条氏達の明確な意思を感じるのさ、オレ。

実際、頼朝は何人も御家人を潰したり滅ぼしているんだけど、それらの大半は明確で皆が納得出来る理由があるんだけど、甲斐源氏の場合は殆ど言い掛りみたいなもんで、殺されたり滅ぼされてるのさ。

でもこの一条忠頼公の件は第一弾に過ぎないんだよ。まだまだ後があるのさ」私がそう言うと、再び皆が注目しだした。

 

「それがさ、忠頼公の件から十年ぐらいたって、今度は安田義定の嫡男で越後の守護を8年間ほど続けていた安田義資(よしすけ)公の身にも降りかかってくるのさ。こっちの場合はもっとひどいんだ、聞いて驚くなよ」と私はちょっともったいぶって、話を続けた。

「何やらかしたんや?」水谷君が興味津々と言った感じで、身を乗り出してきた。

「ラブレター事件だよ、ラブレター。マァ、当時は艶書って言ってたけどね。

義資公が弟に頼まれて、永福寺っていう寺の落成式の時に来ていた見目麗しい女官に艶書を渡した、ってのが理由で殆ど本人に詮議することも無く、翌日首を切られたって事だよ。

言ってみれば、新潟県知事が弟に頼まれてラブレターを渡したからって、本人の事情聴取もせずに処刑されたみたいなもんだよ・・」私は説明した。

「無茶苦茶やな、それは。法も何もないなぁ~、超法規対応やな・・。鎌倉時代はそれで通ったんやな、恐ろしいわ・・」と県警OBの大木君が言った。

「オォ怖わ・・何やらどっかの独裁者の国家並みだね・・。叔父さんや異母兄を殺したり暗殺しとる・・」吉沼君が言った。

 

「とにかく、甲斐源氏の勢力を削ぐことに相当拘ってね頼朝達は。で、翌月の12月には安田義定公の領地遠州浅羽之庄を取り上げたのさ。嫡男義資公のラブレター事件に連座してね。監督不行き届きとか言って・・。

息子がラブレター渡したからって遠江之國の本貫地を取り上げられてるんだよね、義定公は。凄いだろ、ひどいと云うべきか・・。ところがそれではまだ、終わらないんだな」私が言うと、

「まだ何かあるんかいな・・」水谷君が呟いた。

「その通り。それからいよいよ本丸を攻めてきたのさ頼朝は」私がそう言うと、

「はよ、教えてぇな・・」と水谷君が続きを促した。

 

 

 

 

 

         『 吾妻鏡 第三巻 』 頼朝、木曽義高の誅殺を図る 

                                                            『全訳吾妻鏡2』159ページ(新人物往来社)

 

去夜より殿中いささか物忩。これ志水冠者(木曽義高)、武衛(頼朝)の御聟(むこ)たりといえども、亡父(木曽義仲)すでに勅勘を蒙りて(殺)戮せらるるの間、その子としてその意趣をもつとも度(はか)りがたきによって、誅せらるべきの由、内々思しめし立ち、この趣を昵懇の壮士等(伊豆の御家人グループ)に仰せ含めらる。

                             ( )は筆者の註

 

 

 

 

用意周到な頼朝

 

「先ず、義資公誅殺から4ヶ月後の翌年3月には、一旦全国の守護職を停止させて義定公の守護職を遠江之國から取り上げるのさ。これは安田義定公だけじゃなくって全国の守護一斉に、だったけどね。守護職の収奪っていう人事権を行使して、全国の御家人に自分の権力を誇示してるわけね。

その時のターゲットは甲斐源氏がメインだけど、同時に鎌倉幕府というか征夷大将軍である、自分の権力を全国の武士達に再確認させているのさ、頼朝はね」私が言った。

「用意周到やなぁ。頼朝ってそんな細かいことまでする人間やったんか・・」永山君が唸るように言った。

 

「頼朝はね、伊豆に流されている時に相当人間性を鍛えられたんだと思うよ。マァ、持って生まれた性格もあるかも、だけどね。それに北条時政っていう老練な知恵袋が付いていたからね、政子の父親の・・」私が続けてそういうと、水谷君が、

「家康の時もそうやったけど若い頃に人質に成ったり、流刑を経験してる人間ってのはその間にいろんなことがあって、人間性を鍛えるのにええ環境なんやろな・・。逆境は人を鍛えるって云うしな・・」と感心したように言った。

「それはあるかもな『風雪の当たる処ほど樹は育つ』って云うからな・・」それまでほとんど話さなかった郡山君が、しみじみ言った。

その彼の言い方に、私はなんだか自分の過去を振り返って言ってるような空気を感じた。今は大手総合スーパー子会社の、ショッピングモール事業の地域の責任者をしている彼の身の上にも、人間性を鍛えるような不遇な時があったのかもしれないな、と私は想った。

 

「マァいずれにしてもそうやって、地均(じならし)して少しづつ義定公の力を削ぐわけよ、頼朝は。それからついに、義資公のラブレター事件から9ヶ月後の翌年8月に成って、安田義定公の本来の本貫地である、甲斐之國牧之庄の拠点を梶原景時・加藤景廉(かげかど)を大将・副将とした伊豆の御家人グループに襲わせて、安田義定一族を滅亡させたってわけさ。

頼朝や北条氏の鎌倉幕府の伊豆グループの御家人たちにとって、石橋山の敗戦以来頭の上がらなかった、甲斐源氏の長老一族を抹殺出来たってことになるのさ。

因みに梶原景時は伊豆グループじゃ無かったけど、頼朝の寵臣だからね。時に建久五年、1194年のことだよ」私が言った。

 

「石橋山の戦以来ってことは頼朝の挙兵が治承四年1180年だったから、14年掛かったって事やな」元社会科の教師で教育委員会の幹部職員だった永山君がスラスラと言った。

「甲斐源氏は目の上のたん瘤だったって事かいな、頼朝や北条氏にとっては・・」水谷君がやっと理解したように言った。

「そういう事さ。僕はね、頼朝が安田義定一族討伐に伊豆の御家人グループを向かわせたのが、8月17日頃だった事に、彼らの意志を感じるんだよね」と私は言った。

 

「どういうことや?」水谷君が言った。

「うんそれはね、頼朝が治承四年に平家追討のために伊豆の目代を襲ったのが、丁度8月17日だったのさ。14年前のね」私が応えた。

「そんなん、偶然の一致やろ」水谷君がアッサリ言った。

「そうかい?たまたま8月の17日だったって思ってるんだな君は。マァ無理もないけどな・・。ところがね、頼朝って結構過去の故実を踏襲する事が多い人間なんだな、これが。

『吾妻鏡』にも書いてるけど、自分の奥州藤原氏との合戦の時に、かつて親父の源義朝やご先祖の八幡太郎義家が陸奥守だった時に、奥州攻めを行った際の故実に合わせたイベントを、けっこう再現したりしてるのさ・・」私は水谷君に向かって、そう言った。

 

「ゲンを担ぐって事かいな?」水谷君が言った。

「それもあるかもしれんけどね、自分のご先祖さん達の偉業をなぞることで、源氏の嫡流としての正当性を暗にアピールしてるんだと思うよ、オレは」私は応えた。

「あ、それ聞いたことある、知ってるで」永山君が言った。

「特にね、頼朝の力の源泉になっているのは自分の武力や腕力じゃないんだよ。知ってるかい?頼朝は直属の軍団や領地を持ってなかったんだよ。朝廷からは南関東の武蔵・相模・伊豆・上総をはじめ、越後・伊予守なんかには任じられてるけどね・・。

甲斐源氏や木曽義仲みたいに自分の軍団や明確な領地ってのを持ってなかったのさ。いずれも御家人たちを地頭として配下に置いてはいるけどね・・」私がそう言うと皆な、一様に驚きを隠さなかった。

 

「親衛隊とか子飼いとか、旗本もってへんかったんか・・。そしたら頼朝の力の源泉は何だったんや?」大木君が聞いてきた。

「それはね、自分の領国内にいる御家人達や、伊豆之國出身の御家人グループが支持母体に成るのさ・・。だから余計に、源氏の嫡流としての自分の正当性が重要な意味を持ってくるわけよ。

かつて関東の御家人を組織化して、関東の武士団をまとめて来た親父の、義朝の嫡流であるってことを強調することが大切なわけよ。

もっと言えばかつて関東の武士団を引き連れて、後三年の役で奥州清原氏なんかを討伐に行った、八幡太郎義家の直系であるっていう事をことさらにアピールし続ける事が自分の権力の源だ、って自覚していたんだと思うよ、頼朝は」私は言った。

「それに有識故実の時代やさかいな・・」永山君が言った。

 

「はぁ~なるほどな。それで14年前の平氏追討の挙兵と同じ日をあえて選んで、甲斐源氏の長老一族を襲ったって事かいな。伊豆の御家人グループに、14年前の平氏追討の旗揚げと重ね合わせる事で奮起を促したって事なんやな・・」水谷君もやっと腑に落ちたようだ。

「そういうこと。因みに、平氏追討の令旨(りょうじ)を出した後白河法皇の皇子以仁(もちひと)親王が、その令旨を届けさせた東国の源氏は、伊豆に流刑されていた頼朝はもちろんだけど、それより早く『信濃源氏の木曽義仲』『甲斐源氏の武田一族』だったんだよ。

これはマァ京都からの使者が東山道を下って関東に向かったから、地理的に近い信濃・甲斐・伊豆の順に成ったんだけどね」私はそう言って、ビールをグイっと飲んだ。

 

「いずれにしても、当時の京都の朝廷では関東の有力な源氏としては、信濃源氏も甲斐源氏も、伊豆の頼朝と同レベルに見てたって事さ。それに頼朝達伊豆の御家人グループが挙兵後、平氏の軍勢に大敗を喫した石橋山の戦いの後、北条時政親子が真っ先に援軍を求めた先が甲斐源氏の武田氏一族だったんだからね。

当時甲斐源氏は関東の有力な源氏の軍団としても、広く認知されてたってことだよ。

頼朝始め伊豆の御家人グループにとって、だから甲斐源氏は頭の上がらない有力な軍団だったのさ。それもあって一条忠頼の振る舞いが余計に癪に障ったんだと思うよ」私は一気にそう説明した。

「ふ~ん、ってことは権力闘争だったってことなんやな一条忠頼の誅殺は」吉沼君が言った。

「『狩りが終われば、弓矢は納戸にしまわれる』っていうからな・・」大木君がしみじみ言った。大木君は学生時代から、中国の故事に詳しく故事ことわざにも通じていたので、こういうタイミングにそう言った事を口にすることが多かった。

 

「話は長く成ったけど、そういう事で安田義定公一族は頼朝や北条氏、更に伊豆の御家人グループによって源平の戦いから14年たって、滅ぼされたって訳さ。大木の言い方をすれば『戦が終わって武具はしまわれた』ってことに成るんだろうね。

でもその悲劇性と、武将としての輝かしい戦歴や領地経営のオリジナルさに惹かれて、僕は彼にのめり込んでるって訳さ、ここ2・3年はね」私は長い話をまとめるように、そう言って話を締めた。

 

「しっかし、良う調べたなぁ~立花クン。何か参考に成った本とか論文とか、あったんか?」永山君が聞いてきた。

「オレが昔から、のめり込むタイプである事は知ってるだろ。そのノリでやってきた事さ。残念ながら、僕がこれまで言ったような事をまとめたり体系的に論じてる書物は無いよ。自分でいろんな資料や書物を読んで、自分なりに再構築して出した結論だよ」私が言った。

「立花クン得意のマイオピニオンやな」水谷君がニヤニヤしながら言った。

「マ、そういう事かな・・」私は短く同意した。

「その辺は昔のマンマやな。知っとるか?立花クンのマイオピニオン」水谷君は皆に語り掛けた。

「何言ってんのさ、僕の講義録のおかげで幾つも単位取れたんだろうが・・」私はニヤニヤしながらそう言って、彼のツッコミに反撃した。

 

「立花クンの講義ノートにはな、講義録の下の方にな、MOって書いてあんねんで。でな、気になってこのMOってなんやのん?って聞いたらな、『My Opinion』の略や、っていうんや」水谷君が、いかにもオモロイ話をするように言った。

「『My Opinion』やで~」水谷君は続けた。

「で、そのMOどないしたん?」永山君が彼に聞いた。

「どないもこないもあるかいな、すぐ消したワ。そんなもん!」水谷君が笑いながら吐き捨てるように言った。皆の顔が破れ、どっと笑い声が起きた。

「人の恩を台無しにしてナ」私は笑いながら水谷君をちょっとイジった。

 

「しかし、立花クンはその My Opinionのスタンスを貫き通したから、さっきのような安田義定に関する自分なりの説が構築出来たんやろ。それはそれで大したもんやないか・・」郡山君が言った。

「継続は力なり、だよな」大木君が言った。今度はことわざの引用というよりは、自分に言い聞かせているような言い方であった。実体験なんであろうか・・。

 

私達はそうやって現在自分がやっている事をそれぞれ話しながら、学生時代の思い出話を交えたりして、話に花を咲かせた。

予定の2時間を2・30分ほどオーバーして一次会を終えた。

その後、現役バリバリの郡山君と吉沼君は多忙なためそのまま帰り、残りのメンバーで二次会にと向かった。

二次会は、メンバーの一人が学生時代バイトしていた喫茶店の在った京都タワー裏手の、ちょっとした飲食街でやった。

 

 

 

 

 

 

       『 吾妻鏡 第三巻 』 ― 頼朝、一条忠頼を営中に誅す  

                                                                             『同書』165ページ

 

一条次郎忠頼、威勢を振るうの餘に、世を濫る志を挿(さしはさ)むの由、聞こえあり。武衛(頼朝)また察せしたまふ。よって今日営中において誅せらるるところなり。

晩景に及びて、武衛西侍に出でたまふ。忠頼召によって参入し、対座に候ず。

宿老御家人数輩列座し、献杯の儀あり。・・・・・・

小山田別当有重・・・忠頼の)括を結ぶ(手を抑える)の時、天野藤内遠景別して仰せを承りて、太刀を取り、忠頼が左の肩に進み、早く誅戮しをはんぬこの時武衛は御後の障子を開きて入らしめたまふと云々。

                              ( )は筆者の註

 

いずれも、頼朝の心象によって木曽義高・一条忠頼二人の誅殺が決せられたと記録されており、何らかの客観的な原因があったわけではない。頼朝の一存によって二人は誅殺されたのであった。

尚、天野藤内遠景は伊豆の御家人であり、治承四年(1180年)の頼朝の平氏討伐の挙兵に加わったメンバーの一人である。

 

 

 

       『 吾妻鏡 第十三巻』― 安田義資女のことにより梟首せらる  

                              『同書』293ページ

今夕(建久三年十一月二十八日)越後の守(安田)義資、女の事によって梟首せらる。加藤次景廉に仰せ付けらる。その父遠江の守義定、件の縁坐に付きて御気色を蒙ると云々。

これ昨日(永福寺)御堂供養の間、義資艶書を女房聴聞の処に投じをはんぬ

・・・・・(梶原)景時将軍家に言上す。よって審議を糾明せらるるの時、女房らが申す詞符合するの間、かくのごとしと云々。

                             ( )は筆者の註 

越後守で安田義定の嫡男安田義資は上記のごとく、弟から預かったラブレターを女官に渡した罪で、翌日首を切られておりそれを執行したのは、頼朝寵臣の梶原景時と行動を共にすることの多かった加藤景廉(かげかど)であった。

加藤景廉はこの功により安田義定が地頭をしていた遠州浅羽之庄の、新たな地頭職についている。翌12月5日の事である。

また、翌年8月には甲斐之國の本貫地において、安田義定公一族を討伐した際の大将と副将はこの二人梶原景時と加藤景廉とであり、多くの伊豆グループの御家人が従った。

 

 

 

           『 吾妻鏡 第十四巻 』 ― 安田義定梟首  

                             『同書』307ページ

建久四年八月十九日)安田遠州(義定)梟首。去年子息義資を誅せられ、所領を収公するの後、しきりに五噫を歌ふ。また日来好あるの輩類に相談、反逆を企てんと欲す。縡(こと)すでに発覚すと云々。     

                         ( )は筆者の註  

 

「五噫を歌う」とは世間に認められないことを嘆く事、だという。

安田義定公は、艶書事件などと言う言い掛のようなことで、自らの後継者として育てて来た息子の義資公が斬首されたことがよっぽど悔しく、納得もいってなかったのではなかったか。

ましてその時61歳という彼は、当時では老齢の域に達していただろう。

自ら子供を成人させた経験を持ち、当時の義定公の年齢に近くなってきている我が身を振り返り、彼の「五噫を歌う」気持ちは、よく理解することが出来る。

 

 

 

 


 

学生時代の思い出

 

京都タワー裏手に向かった私達は、道路沿いに面したアイリッシュBARに入った。

その店では入り口近くの、背の高い丸いテーブルに腰かけて座った。床から5・60㎝の高さに足掛け用のパイプがあり、それに足を掛け腰高の椅子に座った。

 

テーブルはアイルランド人やイングランド人の仕様で出来ていたので、ネイティブな日本人の我々には使い勝手が良いとは言えなかった。

とりわけ背が高いとは言えない私は、必然的に脚も長くはなかったので一旦腰を据えると動きは鈍くなり、もっぱら口を動かすのみであった。

会計も欧米式で、商品引き渡し時にお金を払うシステムだったため、予めお金を皆で出し合ってその枠内でビールやおつまみを購入することにした。

身体的な制約があるため、比較的背が高く脚の長い大木君と永山君がカウンターに近い席を取り、アルコール類の調達を担った。

 

1リットル程度はあると思われる大きなジョッキに入ったビールで乾杯すると、話題は学生時代のサークルの話になった。口火を切ったのは教育委員会OBの永山君だった。

「あんなぁ、上京(かみぎょう)女子大の娘(こ)で野上ちゃんっておったやろ。あの娘亡くなったらしいで・・」

「コンマ(小さ)くてか愛(い)らしい、おかっぱ頭の目のクリっとした娘やったよな・・」大木君が懐かしそうな顔で言った。

「せやせや」水谷君が続いた。

「ホントか?亡くなったんか・・」私は短く尋ねた。

「大垣の桐谷からの情報やから、確かやと思うで・・」永山君が言った。

 

「せやったか、確か二人は同じ高校の同級生やったよな」大木君が確認するように言った。

「せやせや、桐谷が連れて来たんやサークルに」水谷君が言った。

「うちのライバル校の系列の女子大生は、珍しかったよな」私が言った。

「野上ちゃんは、か愛らしかったからうちの男達にファン、多かったよな」大木君は第三者的な口ぶりで、そう言った。

「ん?たしか大木は彼女にアタックしたんやなかったか?」永山君が言った。

「あはっ、覚えとったか」大木君は少しバツが悪そうに言った。顔が赫らんで見えたのは、あながちビールだけのせいではなかったようだ。

 

「で、どうだったん?その後付き合ってたって話聞いてないから、マァ結論は見えてるけどな、アハハ」と私は言った。

「ん?知らんかったんか?まぁええか、もう40年以上前の事やさかい時効やろ」そう言ってから大木君は、私に向かって言った。

「オレ、振られたんやで。結構自信あったんやけどな・・」大木君が言った。

「せやろなぁ、なんといっても『田舎の郷ヒロミ』ってあだ名やったからな。女学生には人気あったしな、ウチのクラスの女子やったけど・・」水谷君がニヤニヤしながら言った。

 

「ワシは大木が野上ちゃんに告白する時に、付き合(お)うたんやで。大木独りでよう行かんたら、言うさかい」永山君がからかうように言った。

「せやったなぁ、あん時はおおきに。お世話さんでした」そう言いながら大木君は、永山君におどけながら頭を下げた。

「で、なんで君みたいなグッドルッキングの好男子が振られたのさ?」私がツッコむと、大木君が私を見据えて言った。

「あんな、野上ちゃん好きな人が居(お)ったんやて。『ウチ、好きな人居るからごめんな、お友達でおって・・』て、態よく断られたんや・・」大木君は私を見たままそう言った。その目に、幾分眼力(めぢから)を感じたのは私の気のせいだったか?

「ふ~ん、そうなんだ。でもそりゃ、しゃぁないわな。相手にその気が無いんなら・・」私がサラッと言った。

「あんな、今だから言うけど野上ちゃんが好きだったんは立花クン、自分やで!」大木君は酔いが廻って来たのか、口調に若干絡む雰囲気が漂い始めていた。

「ん?せやったか?」私は思わぬ展開に驚いて、関西弁が混じった反応をした。

 

「野上ちゃん、告白せぇへんかったか?」今度は永山君が言った。

「野上ちゃんから、告白?無かったよ。自慢じゃないけど学生時代に女性から付き合ってくれとか言われたこと、一度も無いよ」私はそのことははっきり断言できた。実際その通りだったからだ。

「まぁな~。確かに立花クンて、どっか女の子が声を掛けづらいオーラが漂ってたもんな。自分では気づいてへんかも知れんけど・・。出水ちゃんも言うとったで」永山君は当時付き合っていた、京都東山女子大の女生徒の名前を出して言った。

「ふ~ん、そうだったかぁ?僕は結構だれに対してもOPENだったと思うけどなぁ。フツーに女のこ達からも声掛けられてたと、思うよ・・」私は腑に落ちなかった。

 

「あのな、それはフツーの話とか会話の場合だろ。男女の関係で付き合うとかいう話とは、ちゃうやろ」大木君が言った。その言葉には若干の怒気が感じられた。

「う~ん、確かにそうだけどな。僕は君たちみたいに、早く彼女見つけて楽しい学生時代を過ごしたい、な~んて考えてなかったからな。あの頃は真面目な学生やったし」私はニヤニヤしながら、そう言った。

「そこらへんやがな、そういうところあるさかい女性達はバリアを感じるんやで、自分に」大木君は私に向かって、説教がましく言った。

「マァ、それはしゃぁないよ。当時の僕は視野が狭かったし、正しい答えは一つしかないって思ってるようなタイプの人間だったんだから・・」私は若い頃の自分を客観視できるようになって数十年経った今、ようやくその様に言うことが出来た。

 

「で、亡くなった原因は何だったんや?野上ちゃん」水谷君が思い出したようにそう言った。彼の一言で話の流れが変わった。

「いや、ハッキリした事は判らないんだワシも・・」永山君が申し訳なさそうに言った。

「人間60年もやってると、いろんな病が出るからなぁ」私が言った。

「せやせや。女性特有の病気と違うか?乳がんとか?最近は、結構多いらしいで・・。

ところで、いつ頃やったん野上ちゃん亡くなったんは・・」水谷君が聞いた。

「いやもう十年以上前やったとかいう話やで、桐谷の話やと・・」永山君が記憶をたどりながら、そう言った。

「そっかぁ、そんな前の話か・・」私はその時、目のクリっとしたおかっぱ頭の初々しい顔つきの彼女を想い出していた。

 

「『少年老い易く、学成り難し』やし『光陰矢の如し』やな・・」大木君が、呟くように言った。

「しかし、『人間万事塞翁(さいおう)が馬』でもあるだろ、大木・・」私は言った。

「ん?どういう意味やそれ・・」水谷君が言った。

「いやね、野上ちゃんに振られたから今の奥さんと一緒に成ったんやろ、って言ってるのさ。確か彼女、野上ちゃんと同じ上京女子大の娘だったんじゃなかったか?」私は大木君を見ながらそう言った。彼は肯いた。

 

「な、やっぱりそうだろ。青春のほろ苦い思い出もあったけど、結果的に今の家族が居るんだからそれはそれとして良しとしないと・・。まぁ、幸せかどうかは本人しか判らんけどな、アハハ・・」私は言った。

「そう言えば、この中で離婚経験あるんはは立花クンだけやろ」大木君が思い出したように言った。反撃でもあったのかもしれない。

「うん、マァそういう事に成るかな・・」私は短く応えた。

「まぁ、うちも似たようなもんやけどな・・」水谷君が言った。私達がその先を促すような眼をすると、彼は続きを話し始めた。

 

「ウチとこな、ここ数年殆ど家庭内別居状態が続いてんねん。せやなぁ、かれこれ十年近くに成るかな・・」水谷君は思い出しながらそう言った。

「なんかキッカケというか、原因とかあったんか?」大木君が聞いてきた。

「まぁな。息子の進学というか進路でな、ちょっと揉めたんや・・」水谷君がボソッと言った。

「へぇ~、なんだかウチと似てるな・・」私が呟いた。

「なんや立花クンもかいな・・」水谷君が言った。私は肯いた。

「息子が中学に上がる時にな、中高一貫の私立に通わせるかどうかでちょっと揉めてな・・。それからやワ」水谷君が話を続けた。

「ホウそれもおんなじだ。違うのはウチは20年近く前の事だった点かな・・」私は水谷君との類似性に、ちょっと驚いてそう言った。すると水谷君が私に向かって言った。

「因みに、どっちが何て言ったんや?ウチの場合は女房が中高一貫を勧め、僕が普通の公立でええやろって言ったんやけどな・・」

 

水谷君の話に私は肯きながら言った。

「ウチもおんなじだよ。僕が公立を勧め女房が娘を、エスカレーターの中高大学一貫の私立を主張したんだワ・・」

「なんでそんなんで、離婚やら家庭内別居に成るんや?判らへんなぁ・・」永山君が言った。

「ボクかて判らへんかったワ!とにかくそれから夫婦の会話が少のうなってやな・・、気がついたら必要最小限の会話しかしなくなって、今日にいたってるんや・・」水谷君が家庭の内情を説明した。

「奥さん働いてたよな、確か。学校の先生だったか?」私がそう言うと、彼は肯きながら、

「元同じ職場の同僚や・・」と短く応えた。

 

「立花クンとこは?」大木君が聞いてきた。

「ウチか?ウチも似たような感じかな。まぁそれがきっかけで女房が寝室を別にする、って言い出したのが運命の岐路だったな。今思えば、だけどな」私が応えた。

「ん?何で寝室が別だと離婚に発展するんや?ウチかて女房が部屋出てって別々になって、今日に至ってんで・・。せやけど離婚までには至ってへんで。まぁ今ンところやけどな・・。

大学生の息子が社会人になって出てったらどう成るか、今考えても恐ろしいわ・・」水谷君が大げさに言った。

「うん、マァな。実はその後オレ大阪支社に単身赴任になってさ。マァそこでいろいろあったんだわ。いろいろとな・・」私はそう言って曖昧に応えた。

 

「なんや、彼女でもできたんか・・」永山君が小指を立てながら言った。

「マァそんなとこかな・・」私は、明言はしなかった。

「そらあかんワ⁉あかんで、それ。そりゃ離婚にもなるやろ。立花クンがアカンで・・」水谷君はかつての私の行動を強く否定した。

「人間は理性や道徳心だけでは生きられへんから、しゃぁないやろ!」私もちょっとムキに成って応えた。関西弁が混じっていた。

「その辺の価値観の違いや行動力の違いが、立花クンと水谷との現在の状況の違いを生んでるんやろな」永山君が全体を俯瞰(ふかん)しているような表現で、私達の立ち位置を指摘した。私は彼のその対応に、彼の行政官としてのバランス感覚を感じた。

 

「ところで、ビールもう無(の)うなったで、どないする?追加せぇへんか?」と、大木君が空っぽのジョッキを振りながらそう言った。

「せやな」水谷君が即答で、同意した。

我々も肯いて、財布から千円札を取り出して大木君に渡した。大木君は永山君を誘って、ビールとおつまみを求めてカウンターに向かった。

私はそれを機に、トイレに向かった。水谷君も同行したかったようだが、荷物番として残ることを頼んで彼には残って貰った。

 

 

 


 

神様の指紋

 

トイレから戻ると大木君達がビールのお代わりとおつまみをテーブルに運び終わっていた。

私と入れ替わるように水谷君がトイレに向かった。

私がよっこらしょッと脚高のテーブルに着くと、さっそく永山君が言ってきた 

「さっきの、安田義定の事なんやけどな、8百年も前の事調べんのにどないな事やって調べるんや?簡単な事ちゃうやろ。やっぱり『吾妻鏡』なんかの古典や古文書を漁ったりするんか?」

「うん、それもある。大学の研究者や専門家の著書を読むこともあるし、当時の公家辺りの日記モノや随筆なんかを読むこともあるよ」私は応えた。

 

「『平家物語』や『義経記』などのいわゆる読み物とか物語は読んだりするんか?」大木君が聞いてきた。

「うん・・、マァ物語はな・・。大衆本のような物語だとさすがに脚色が多くって、史実よりも読者受けするものに中身のベクトルが向かってるからね・・。そっちにはあまり信を置かないかな・・」と私はやんわり否定した。

「それより僕が参考にするのはね、地元の郷土史研究家が取りまとめた書物や地元の人しか知らない伝承やいわれを取り集めている、そこの自治体が創る『史書』なんかが結構役に立ってるよ」私がそう言うと、

「ん?自治体の『史書』かいな・・」大山君がやや上から目線で呟いた。

「『神戸市史』やら『京都市史』っていうやつやな。それって地元の教育委員会にとっては、結構大っきな仕事やで」と元教育委員会の永山君が言った。

 

「そうそれ、その通り。地元の教育委員会が事務局に成って作ってるやつよ。

教育委員会も地元の郷土史研究家なんかに、編集や寄稿を頼んでいたりしててね、それが結構参考に成ったり役に立ったりするんだわ」

私がそう言ってる間に水谷君がトイレから戻って来て、テーブルに着いた。

彼はさっそくビールを飲みながら私達の会話に耳を傾けた。そして話題が変わってる事に気がついたようだ。

 

「学者やプロの専門家より、地元のボランティアみたいな郷土史研究家の伝承や、言い伝えを取りまとめた情報の方が役に立つって事かいな、ホンマかいな?」大山君はやっぱり権威や社会的地位に拘っているようだった。

「マァな。僕も最初は君の言う権威ある人達の研究の方が参考になるかも、って思ってたんだけどな。

確かに全体を俯瞰して情報を得たり、文献類を比較検証するのにはそういった著作や論文なんかも役に立つけどな・・。やっぱり資料の山を研究したり分析してるだけの、文献比較書のような学術研究だけだと限界あるんだ。

それよか地元に長く伝わっている伝承や言い伝えを、現地を踏破しながら丁寧に拾い集めて落穂拾いをしているような、郷土史研究家なんかの取り纏(まとめ)めたモノや資料の方が、役に立つことが多いんだ。結構ね・・」私がそう言うと、永山君がしきりに肯いていた。

 

「落穂拾いなんかそれって・・」水谷君が口を挟んだ。

「丹念に丁寧に拾い集めているそれらの情報を、自分なりの視点で分析し直したり、再構築する事で見えてくる事が結構あるんだな・・」私がそう言うと、大木君が

「なんや、オレらの仕事と同じなんか⁉捜査と一緒やな」と、ハタと気づいたように言った。

「そうだと思うよ。見方によっては僕のやってる事は8百年前の出来事を捜査しているようなもんだからね・・」私がそう言うと水谷君が、

「なんや、『相棒の杉下右京』みたいな事やってんのか立花クン」と混ぜっ返したが、私はそのツッコミはスルーした。

 

「他には何か無いんか?そっち方面の文献や資料の収集や分析のほかに・・」大木君が聞いてきた。捜査に似ていると感じて興味を持ったのかもしれない。

「うん、あるよ。フィールドワークって言ってね、要は現場を確認することだね。その辺も警察がやってる現場主義って言うのと、似てるかもね」

「現場百回言うんやで、オレら」大木君が私の言葉を受けて言った。

「具体的にはどんな事するんや?立花クン」永山君が聞いてきた。

「とりあえず当時の舞台に成ってた場所に行くだろ、当たり前のことだけどな。

それからね、実はこれが一番役に立ってるんだけど、神社仏閣なんかの捜査というか実地検分が大切なのさ。いろんな発見があるのよ、現場に行くとね・・」私が言った。

 

「8百年前の事なんやろ、そんなん神社仏閣に残ってるんか?」水谷君が続けた。

「それが結構残ってたりするんだわ。特に神社にはね・・。マァもちろんその気に成って探さないと、気付かないけどな・・」私が応えた。

「それ、捜査員の能力にもよるで」大木君が言った。

「マァね」私は短く応えた。

 

「お寺だと、過去帳とかに成るんか?」永山君が言った。

「マァそういうのもあるけどね、社伝とか縁起とか宝物(ほうもつ)って云ったそれこそ、その神社やお寺に伝わっている伝承や言い伝えお宝の中に、結構指紋が残ってたりするんだゎ」

「指紋?」私がそう言うと、大木君が驚いたような顔をして言った。私はニヤリとして話を続けた。

「そう指紋、僕はそれを『神様の指紋』って呼んでるけどね、あはは」

「なんやて⁈神様に指紋あんのかい⁈」水谷君がスットンキョウな声を出した。

「あるんだな、これがぁ」私は更に、ニヤニヤしながら言った。

 

「具体的にはどんなんや、その神様の指紋って」大木君がちょっと真面目な顔で聞いてきた。

「具体的にはね・・。神様の指紋は幾つかあるけど、先ずは祀られている神様、これが一番おっきいんだけどね。要するに祭神ね。それから本殿や祠・お堂と言った建造物ね。

これはね、建造物の瓦や幕・幟といったものに使われている、社紋というか神紋・寺紋ね。そう言ったマァ小道具や大道具の中にも発見することがあるんだ、指紋をね。

あと、外せないのが神事やお祭りっていった伝統芸能や風習ね。その中にも沢山の指紋が残ってるよ、べたべたとね」私は一気に神様の指紋について語った。さっきから黙って聞いていた永山君が聞いてきた。

「なるほどな、そういったんで調べて行くんか、ナンヤおもろそうやな・・。ところで、何か取っ掛かりのようなモノとかはあるんやろ?何かが。せやなかったら、どっから手ぇつけたらええか判らんへんやろ」

「うん、それ云うのを忘れてたよ」私はそう言ってから続けた。

 

「取っ掛かりはね、先ずは神社名かなやっぱり。具体的に今僕がのめり込んでる安田義定公で言えば、まず彼は甲斐源氏なんだよな。

で、知ってると思うけど源氏だと氏神が八幡宮に成るんだよ。だからまず、神社の中でも八幡神社を探すのさ、判るだろ?」私の問いに、皆が肯いた。

 

「今年の秋に、8百年前義定公がかつて地頭として直轄領地としてた、遠州浅羽之庄をフィールドワークした時は、古い神社の一覧表って云うのを図書館で見つけてね。

その中からかつての浅羽之庄に該当するエリアの神社一覧を探し出して、八幡神社をリストアップしたのさ」私が言うと、水谷君が聞いてきた。

 

「浅羽之庄って今のどこやねん?」

「ん?そうかそうやったな。判らんわな、浅羽之庄。現在の袋井市で、平成の大合併の前は浅羽町って云った場所だよ。

周囲にはジュビロ磐田の本拠地である磐田市や、浜岡原発が在る遠州灘に面した温暖な気候の、海岸沿いの街だよ。

因みに昔『ヤマハのポプコン』が行われた、合歓(ねむ)の郷のある街でもある場所だよ袋井は」私がそう言うと、永山君が強く反応した。

「あぁ、袋井って合歓の郷のある街かいな。知ってるでポプコン行ったさかい・・」と彼は、四十年近く前の青春時代の想い出と重ね合わせたのか、そうやって袋井市から浅羽之荘の場所を具体的に、理解したようだ。

 

 

 

 


 

流鏑馬の神事

 

「そのかつての浅羽之庄には三つの八幡神社が在ってね、地元では浅羽三社(さんじゃ)って呼ばれてるのさ」私が言うと水谷君が、

「八幡神社が三つ在るからそう言われてるんか?」と呟いた。

「ん?その浅羽三社はね、単に八幡神社が三つ在るからってそう言われてる訳じゃないよ。共通点があるのさ。三社に共通する神事が残っているんだ。これがマァ指紋さ。神様のね・・」私の話に大木君は、

「で?」と言って、先を促した。

 

「具体的には『稚児(ちご)流鏑馬って言って、子供が主役でやる流鏑馬の神事があるのさ。三社のうち遠州灘寄りの南の『梅山八幡神社』から流鏑馬の行列がスタートして、街の西側に在る原野谷川近くの『浅岡八幡神社』まで練り歩いて行くんだ。

そしてその神社で稚児流鏑馬の中の山場である『弓取りの儀』っていう儀式をするのさ。

その神事を終えた後、最後に街の東側に位置している浅羽之庄中心部の『芝八幡神社』別名『浅羽八幡神社』まで、練り歩いて祭を終えるっていう神事なんだ」私はそこまで一気に話して、ビールを一口飲んだ。

 

「稚児流鏑馬って流鏑馬の一種なんやな。でも流鏑馬って結構いろんなとこでやってへんか?それと安田義定とどう関係してくるんや?」水谷君がツッコんできた。

「いいツッコミだよ、水谷。流鏑馬ってのは騎馬武者の武芸を象徴する神事だから、平安時代末期くらいから始まって鎌倉・室町・戦国・江戸時代っていう、武家が支配者に成った時代に発達し継承されて来てるんだ。

だから昔からの伝統ある神社では、神事として残ってることが多いんだよね。ここまではいいかい?」私はそう言って皆に確認してから、ビールをまた飲んで口の滑りを良くした。

 

「とりわけ関東を中心とした東国で活発だよな。マァ関東武者の国で盛んなわけだよ。

でね、その流鏑馬の神事は安田義定公を始めとした甲斐源氏と、とっても深い関わりがあるんだなこれが・・」私がそう言うと、皆の視線が私に集まった。

「武田信玄公の騎馬軍団って知ってるだろ」私がそう言った時、水谷君が何か言おうとしたが、私はそれを手で制して話を続けた。

 

「でな、甲斐之國は昔から軍馬の畜産・育成が有名な場所でね、4世紀頃の古墳の中から馬の飼育に関する遺跡や遺物がたくさん見つかっているんだ。

それに、聖徳太子の逸話の中に『甲斐の黒駒』の話があったり、『日本書紀』の壬申の乱の条に、天武天皇側についた騎馬武者に『甲斐の勇者』ってのが、登場してるのさ。

だから武田信玄の騎馬軍団があるから、甲州に騎馬武者の伝統があったんじゃなくって、その逆で4世紀頃からの伝統や甲斐の勇者・甲斐源氏の騎馬武者軍団の伝統の延長線上に、信玄公の騎馬軍団が生まれてきているのさ。

千年以上も前からの伝統があるんだわ、甲斐之國にはね」私はそう言って皆を見回した。

 

「なるほどな、でも頼朝あたりも結構盛んに流鏑馬をやって来たんやなかったか?」永山君が聞いてきた。

「うん、良く知ってるねさすが元社会科の教師だ。永山が云う様に、頼朝も流鏑馬を何回も開催してる、その通りだよ。ただね、それは鎌倉幕府が御家人たちの武術を奨励するためのイベントであって、神事とはちょっと違うんだよね。

それに同じ趣旨のイベントとして『流鏑馬』のほかに『小笠懸け』とか『犬追うもの』ってのもやってるんだわ、頼朝は。だから頼朝や鎌倉幕府の行事としてはOne of Themなんだよ流鏑馬は」私は永山君に向かってそう説明した。

 

「『犬追うもの』『小笠懸け』って、何なんや?おもろそうな響きやけど・・」水谷君が聞いてきた。

「さっきも言ったように、いずれも騎馬武者の武術を競う競技だよ。要するに御家人たちの武術競技大会ね。

具体的には『犬追うもの』は、千六百坪程度の四角い馬場の中に犬を150匹から2百匹ほど解き放っておいて、それを騎馬武者が弓で射るって競技さ。今なら動物虐待って言われて、とても再現不可能だろうけどね・・ハッハッ。

で『小笠懸け』ってのはね、狩りの際に頭に被る小さな笠を木枠に吊るして、それを目がけて騎馬武者が弓を射て矢を当てる、って競技さ。

北条時政の北条氏が好んだと言われてるらしいよ。『吾妻鏡』なんかに書いてあるよその辺のことは・・」私は、水谷君にそう言って説明した。

 

「なるほどな、要は武士の御家人達が自分の騎馬武者としての武芸・技量を高めるために、そういった武術の競技大会をやってたわけやな。警察の武術と一緒やな。

で、その一環として流鏑馬が位置付けられたって事は、とりあえず理解したで。

ただそれがどうやって甲斐源氏や安田義定に結びついていくんだ?その点と点を結びつけるエビデンスが無いと、そこまでは言い切れへんやろ・・」大木君はまだ納得いってないようでそう言った。

「確かに、そうだな。じゃぁ切り札を出すとするか」私はもったいぶってそう言ってから、説明を始めた。

 

「流鏑馬にはね、聞いたことあるかもしれないけど伝統的な流派があってね、それは鎌倉時代から始まってずっと江戸時代まで続いてたのさ。その流派は武士の間では権威がある、いわば家元みたいな存在だったんだけどね。

有名な流派だと『小笠原流』と『武田流』ってのがあるのさ。聞いた事あるだろ?」私の問いに三人は肯いた。

「小笠原流は、有名やな。俺でも知ってるくらいやから・・」水谷君が言った。

「だろうな、両方とも平成の今でも流鏑馬の家元として存続しているんだけどね。

 

『小笠原流』は武士の嗜(たしな)みとされる弓術に馬術を始め、兵法・陣法・礼法が基本で、それに茶道なんかも含まれる『武家故実』と言われる、武士が知っておくべき伝統の武術や作法を教えている家元なのさ。まぁ公家における有識故実の、武家版だよな。

で、『武田流』もほとんど同じなんだわ。まぁ茶道が抜けてるくらいかな。

茶道は室町時代から入って来た新しい嗜みだから、その辺の違いだと思うよ両者の違いはね。ここまでは良いかい?」私は三人に確認した。皆は肯いた。

「もう気付いてるかもしれないけど、これらの武士の嗜みとされている作法の大元にあるのは流鏑馬なんだよ。

鎌倉時代の流鏑馬の作法を伝承し、教えているのが『武家故実』って訳さ」私はしゃべりすぎて喉に渇きを覚え、またビールで喉を湿し話を続けた。

 

「で、その名の通り『武田流』は甲斐源氏武田家から始まってるのさ。安田義定の甥っ子の武田五郎信光の子孫が領地とした、分家である安芸広島の『安芸武田氏』から始まったとされてるんだな。

武田信光は頼朝に謀殺された例の一条忠頼の弟で、義定公の兄武田信義の五男坊なのさ。

それから、小笠原氏の家祖は武田信義・安田義定の兄弟である、加賀美遠光の次男で小笠原長清っていうんだ。こっちもマァ義定公にすれば甥っ子に当たるんだな、偶然にも。

現在の南アルプス市の小笠原が本貫地だったから、小笠原氏を名乗り始めたのさ。これで判るだろ」私はそう言って大木君を見て言った。

 

「流鏑馬の権威ある作法を鎌倉時代以来正統派として伝承してきている流派の先祖は、いずれも甲斐源氏がそのルーツなのさ。

そしてその理由は千年以上騎馬武術を継承してきた甲斐之國で、その伝統やノウハウの蓄積があったからだ、って僕は想ってるよ。だから流鏑馬ってのは甲斐源氏にとっては、まさにお家芸なんだわ」私は大木君にそう言った。

「了解です」大木君は短くそう言い挙手の礼で私に頭を下げた。やっと腑に落ちたようだ。

彼は警察官の武術と流鏑馬の神事とに、いくつかの共通点があることに想いが至ったのかも知れなかった。

 

 

            

 

 


 

遠州カサンボコ祭り

 

「後、なんか聞いておきたいことあるかい?知ってる範囲で応えるよ・・」私は言った。

「さっきの神社の指紋についてやけどさ、八幡神社の他には具体的にはどんなメルクマール(指標)があるんや?知ってたら教えてぇな・・」永山君が言った。

「うん、ええよ。さっきも言ったように祭神は結構ポイントだね。

八幡宮は言うまでもないけど、安田義定公の場合は領地経営に関係のある『金山彦』や『馬にちなんだ神様』が基本だよな。祭神に、それらが含まれてるかどうかね・・。

それから『八坂の祇園神社』も関係してくるんだ」私がそこまで言うと、 

「祇園神社⁈ってか」水谷君が驚いたように言った。

「そう、八坂の祇園神社」私が短く応えた。

 解説が必要かい?」私が尋ねると三人とも肯いた。

「また、多少長く成るけどええか?」私は関西弁を交えて言った。

 

「義定公はね、遠江守を後白河法皇の朝廷から任じられていてね。これはマァ例の富士川の合戦での甲斐源氏の勝利の後、安田義定公がそのまま遠州に居付いて実効支配したことの、朝廷による追認から始まったことだけどね。

で、通常国守の任期って4年が一般的なんだよね、平安時代だと。ところが義定公は頼朝に滅ぼされるまで都合14年間、遠江守を続けたのさ。

って事は3回重任(ちょうにん)し続けたことに成るわけだ」私は言った。

「異例の事やろ、それ」元地方公務員で県警の幹部だった大木君が言った。

 

「うん、当時は相当異例の事だった。まぁ1回くらい重任されることはあっても、3回というのは滅多に無かったと思うよ。

ただし、一度一年近く下総(しもうさ)の守に降格させられたことがあるんだわ、懲罰人事でね」私がそこまで言うと、大木君が聞いてきた。

「何、やらかしたんや?」

「実はこれに祇園神社に絡んでくるんだな・・」私の話に皆の目が好奇に光った。

 

「義定公は二度目の重任を朝廷に願い出た時に、大きな神社や法皇の院の御所や天皇の御所である内裏の、大規模な修築や修復工事を命じられたのさ。

通常、重任に対してバーター(交換条件)が出されることはよくある事なんだけど、義定公に出されたバーターは、結構ひどかったというべきか負荷が重かったのさ。

伏見稲荷神社と八坂祇園神社の社殿の建て替えや大規模修繕・造改築と共に、後白河法皇の院の御所と云われた六条の屋敷の門塀の修築に加え、内裏の修築と幾つもの大規模な工事を命じられたのさ・・」私が言った。

「それって凄いことなんか?」水谷君が素朴に聞いてきた。

 ん?凄くないか?通常の三倍以上の負荷だよ。凄いことさ、三倍だよ通常の・・」私は彼に言った。

「まぁ、そうやな・・」水谷君はボソボソと認めた。

 

「なんか理由は無かったんか?それだけの条件を負荷させられた、合理的な理由が・・」永山君が聞いてきた。

「ん~んそうだな。一つ思い当たることがあるよ。実は安田義定公の実質的な領地は遠江之國に加えて、越後之國があったのさ。

マァ、名目は息子の安田義資公の領地だったけどな、越後は。

義定公一族は一族としての結束がわりと固くて、そのために実質的には義定公には領国が二つあったことに成るわけよ。
そこが武田信義の武田家と違うところでね。武田家はあまり一族の結束力が強固だったとは言えなかったんだよな、実は・・。
 

で、それが災いして安田一族は猜疑心の強い頼朝に壊滅させられて、武田家の方はそのまま存続することが出来たんじゃないかって、想ってるのさオレは」私は推測を交えて、そう言った。

「ふ~ん、一族としての纏まりの無さが幸いしたって事かいな・・」永山君が言った。

「いずれにしてもそう言った事があったから、安田義定が二ヶ国分の負荷を命じられたのかもしれないと、僕は考えているのさ・・」私は永山君に向かってそう言った。

 

 実際朝廷からすれば、そう映ったと考えても不思議はないんだよ。

あと、これは全くの個人的な推測だけど義定公の領地経営の特殊性が影響してるのかも知れないんだ。義定公の場合は、通常の領地経営の稲作中心の荘園収入以外に、副収入があったからね。      

領地経営の柱である、金山の経営や騎馬武者用の軍馬の畜産経営が順調に行ってて、それを朝廷や後白河法皇は知ってたんじゃないかって、そう僕は推測してるんだ・・」私が推測であることを強調してそう言うと、

「なるほど、そういう事ね・・」とりあえず永山君は納得した。

 

「話は戻るけど、神社で行われる祭というか神事にも、結構神様の指紋が残ってることが多いんだよ・・」私はそう言って三人の顔を見廻して、話を続けた。

「一番判り易いのはさっきの流鏑馬ね。流鏑馬をやってる神社は、騎馬武者や軍馬の育成に関係しているから、義定公に関係する神社かどうかを確認する際の重要なメルクマール(指標)に成るのさ。

あとね、祇園祭が行われているかどうかも、ね。さっきも言ったけど、義定公は朝廷の命令で祇園神社の修復に力を注いだんだけど、その時に祇園神社とかなり深いパイプが出来たんじゃないかって思われるんだよね。

だから義定公の主な領地には必ずと言っていいほど、八幡神社の近くに祇園神社や八坂神社が併存して在るんだゎ。で、それらの地方では必然的に祇園祭が神事や風習として残ってるわけよ」私がそこまで言うと、

 

「祇園祭ってゆうたら、やっぱり山車(だし)とか長刀(なぎなた)鉾の巡行とかに成るんか?」と、水谷君が聞いてきた。

「うん、それはポピュラーな祭りとしてだいたいの地域で行われているよ。因みに遠州では山車と言わないで屋台って言ってるけどね、実質は山車だよ。

それよりねもっと面白いのは山車や長刀鉾みたいな、どちらかっていうと室町時代の応仁の乱以降の派手目の祭よりも、それ以前の地味目の古い祭が残ってたりするのさ」私がそう言うと永山君が反応した。

 

「ん?応仁の乱以前って事か?」

「そう、鎌倉時代の祇園祭にはまだ平安朝の匂いがするような、平安貴族が喜びそうなある種の雅(みやび)さの漂っている神事なんかが残ってたりするのさ・・。

やっぱり応仁の乱以降だと京の町衆の力が前面に出てきて、庶民が喜びそうな派手で華やかな祭りに代わってきちゃうだろ。応仁の乱以前と以降では、祭の様相がだいぶ変わって来るのさ。貴族の雅さから町衆の派手さにね・・。

で、その平安時代の影響が残っている『風流(ふりゅう)』っていう舞が残ってたりするのさ。伝統行事としてね・・」 

ふりゅう舞、ってナンヤ?」水谷君が聞いてきた。

 

「うん風流の舞って書いて、ふりゅう舞って言うのさ。いわゆる『風流』のことだな。でな、地方にはその風流舞の方のチョット面白い、変わった祇園祭が残ってたりするんだワ、これが」私がちょっと勿体ぶってそう言うと、早速く水谷君が食いついて来た。

「おもろいってナンヤ⁈」

「うん、義定公の遠江之國の本拠地と云っても良い遠州森町近郊に、今でもお盆の行事として残ってる風習なんだけどね・・」そう言ってから、私は水谷君に向き直って話した。

 

「『カサンボコ祭』っていう風習があってね。お盆の時期に、新盆の家に向かって小学校高学年の男の子達が尋ねて行くのさ。

お揃いのこザッパリとした、一種の制服のようないで立ちでね。で、そこで『和讃』って云う、仏教にちなんだ念仏の様な唱和をして回るのさ。

その時に、大きな丸るい和傘に赤い幔幕の様な短い布切れをぶら下げた、通称『カサンボコ』って呼ばれるものを先頭にして、尋ねて回るのさ。新盆の家だけね。

で、その新盆の家の庭先で、カサンボコを縁側の端っこに立てたまま整列して、皆して和讃を唱和して亡くなった方の親族を慰めるのさ」ここまで言って、私は三人の顔を見廻した上で、ビールを呑んで一息つけてから話を続けた。

 

「それが済むと新盆の家の人から子供達は、お駄賃をもらうのさ。子供らにすればそれが目当てで暑い八月のお盆に、そんなことするんだけどな・・」私がニヤニヤしながらそう言うと、大木君が聞いてきた。

「カサンボコ祭か、確かにおもろそうな風習やと思うけど、それ祇園祭になんか関係あるんかいな?」と疑問を呈した。

「うん、それがあるんだわ、面白いことに・・」私はそう言ってニヤッとして、続けた。

 

 「実はな、そのお祭りというか風習の『カサンボコ』がな、祇園祭の『綾傘鉾の巡行』にそっくりなんだワ。もちろん派手さや雅さは全然違うよ。

言うまでもなく京の祇園祭は派手で雅なんだけどな、遠州のカサンボコ祭はそれをオモイッキリ簡素にして、鄙(ひな)びた感じにしてるんだけどね。でもその本質はほとんど同じなんだ、これが」私が言った。

「ふ~んそうなん。でもそれって遠州森町の人が京の都に行った時に祇園祭を見て、面白がって地元に取り入れただけと違うんか?」大木君はなかなか納得しなかった。

 

「うん、確かにそんな風に思うのが普通かもしれない。ところがね、僕はこの風習は安田義定公が関係してると思ってるのさ。

実はさっきの『風流舞』もそうなんだけどね、義定公が遠州森町に取り入れたと思ってるんだわ」私は思いを込めてそう言った。

「なんでそう思うのさ?」大木君が短く聞いた。

 アハ、多分そういうと思ったよ。じゃぁこれから、その理由というか若干のエビデンスについて説明させてもらうよ、ちょっと長く成るけど良いかい?」私は彼にそう言ってビールを一口飲んで、口の滑りを良くしてから話し始めた。

 

 

 

 


 

 祇園神社並びに後白河法皇

 

「京都の祇園祭の綾傘が何故、遠州のカサンボコのモデルに成ってるかって言うとね、その根拠はさ、その綾傘の天辺に乗っかってるご神体にあると、想ってるのさオレ」私はそう言って彼らを見た。

「で、なんやの?そのご神体は」水谷君がそう言って、先を促した。

「義定公の領地経営の特徴の一つが金山開発であることは、これまでも言ってきただろ。で、その金山開発を担ってきたのが黒川衆、通称金山(かなやま)衆って呼ばれる職能集団なのさ、さっきも言ったかもしれないけど。

その彼らの活動拠点が鶏冠山っていう標高千五・六百m級の山でさ、彼らが行う金山祭りの時に担ぐ神輿のご神体が『金の鶏』なんだよな。それと同じご神体である金の鶏が、京都の祇園祭の綾傘鉾のご神体でもあるのさ。どう、判った?」私はここで彼らの顔を見たが、イマイチ良く判っていないようだった。

 

「いいかい神社の造改築や大規模な修繕を通じて親しくなった義定公と八坂祇園神社の、祇園祭の神事の中のご神体の一つに、金山開発に従事する金山衆のお祭りで使われるご神体と、同じものが使われているんだよ。

それって関係あるって思わないか?オレはそこに義定公と祇園神社との繋がりというか、接点を感じるわけよ」と私は言った。

「要するに立花クンは、綾傘鉾巡行のご神体と金山衆の金山祭りのご神体が同じやから、領主の安田義定が媒介して、遠州森町にカサンボコ祭を伝播したんじゃないかって、そう思ってるんやな」永山君がそう言って私に確認した。私は大きく肯いた。

「それにな、これはまだ検証が必要なんだけど、祇園神社の幟や幕の神紋がな、神社本来の神紋である『木瓜唐花』と八幡神社の神紋である『三つ巴紋』が一緒に描かれているんだよ。重なるようにネ。

木瓜唐花の神紋は、元々祇園神社の神紋だから当然なんだけど、何で八幡神社の神紋の三つ巴紋が重ねて描かれているのかが判らないんだ・・」私が言った。

 

「立花クンはその八幡神社の三つ巴紋は、甲斐源氏の安田義定に関係あるんやないかって、考えてるんやな?」永山君がそう言った。

「マァ、そういうこと。ただそれにはまだまだ検証が必要だと思ってるよ・・。現時点ではそう言い切るだけの裏付けは取れてないんだ、実際のところ・・」

「せやけど、そう推測してるんやろ?」永山君は私の心中を見透かすように、そう言った。

「マァ、そんなとこかな・・」私はあいまいに応えた。

 

「八坂の祇園神社には、八幡宮は祀られてないんか?」水谷君が私に聞いてきた。

「うん、在るよ。在るにはあるけど神紋に一緒に描かれるほど、重要な位置づけじゃないんだよね・・。実は、祇園神社の中には沢山の神様が合祀されてるんだ。

で、その中の重要な神様は小さくても独立した祠(ほこら)や社(やしろ)に祀られてるんだけど、八幡宮は『五社』って言って五つの神様を取りまとめて祀ってある場所に鎮座してるのさ」

 要するにOne of Themって事かいな」水谷が言った。

 

「マァそういう事。風の神や水の神なんかと一緒に祀られていて、扱いがちょっと低いんだよな。しかもその場所が、本殿を囲む境内の外向きの北参道沿いに在ってね。

だから、在るにはあるけどイマイチ重要視されてないって感じで、とても祇園神社の神紋と肩を並べて描かれるような、そういう立ち位置じゃないんだよな・・」私がそんな風に言うと、

「えらい弱気やな、らしくないで・・」と水谷君がツッコんできた。

「マァな、裏がちゃんと取れてないからな・・」私は言った。

「ところで、立花クンが言うてる神様の指紋は祇園神社では未だ見つかってないんか?八幡宮以外には・・」と、大木君が聞いてきた。

 

「ん?神様の指紋かい?祭神で言えば、八幡宮の他だったら『金山彦』を祀ってる金峰社があるよ。これもマァ独立したお社じゃなくって、熊野社や春日社なんかと一緒に合祀されてるんだ、十社の中の一つとしてね・・」私がそういうと水谷君がさっそく反応した、

「これもOne of Themなんやな、八幡宮と一緒で」と言った。

「おっしゃる通りさ・・。けどその場所は本殿のすぐ脇で境内の中である点が、八幡宮とは違ってるかな」私は言った。

 

「もう他には無いんか?」大木君が再度確認して来た。

「うん馬関係の施設が在るよ。騎馬武者絡みで言うと・・。祇園神社には馬を祀った神社とは違うけど『神馬(じんめ)舎』ってのが在るんだ。

でも、馬主神社なんかの様に神社というより、その名の通りきれいな厩舎と言った方が正しいような場所があるんだ。本殿の左手裏にね・・」

「あぁ知っとうで、それ。確か馬のオブジェみたいなんが二匹だったか入ってる、あれやろ白と茶の・・」水谷君が得意げに言った。

 

「うんソレ、その通り。今は作り物の馬だけど歴史的には祇園御霊会っていう、祇園祭の正式名称だけどその祭りに合わせて、朝廷から馬をあてがわれるんだけど、その馬を一時的に神馬として留め置く厩舎として、使われた場所じゃないかって思うんだよね、『神馬舎』は。

だから『馬主神社』や『駒神社』『駒形神社』なんかとは違うんだよな、残念なことに・・」私が説明した。

「なるほどな、確かに独立した社や神社には成ってへんけど、複数の神々たちと合祀されてるっていう点に、ある種の限界を感じてるってことなんやな立花クンは・・。

せやけど安田義定と八坂祇園神社との関係は、実は結構深いんやないかと思ってるんやないか?君は・・。因みにその根拠はいったい何やのん?」大木君が聞いてきた。

 

「うんそうだね、その通りだよ。因みに僕がそう思う根拠はね、義定公の領地に在る大きな八幡神社の近くには、必ずって言ってもいいように祇園神社や八坂神社が祀られているんだよ。

それは遠州の森町や浅羽之庄もそうだし、甲州のかつて牧之荘と言われてる塩山藤木あたりを見ても判るんだよね。

源氏の氏神の八幡神社や菩提寺の近くに、必ずといって祇園神社が在るんだから・・。僕はそう言った点に、両者の紐帯(ちゅうたい)の太さというか、関わりの深さを感じるのさ」私がそういうと、水谷君が聞いてきた。

 

「八幡神社に併存して祇園神社や八坂神社が在ったら、何で関係が深くなったりするんや?」と、素朴な質問をしてきた。

「ん?何でかってか?それはさ、義定公が創った八幡神社の近くに祇園神社が在るってことは、同時に義定公の肝いりで祇園神社が造られたことを意味するだろ」私は噛んで含むように水谷君に話した。

「で、神社を新たに創る場合は同時に神社の神田(しんでん)や加納田って形で、田畑を寄進するわけさ義定公は。

ってことはやね、祇園神社の末社が甲斐之國や遠江之國に幾つか出来れば、当然京都八坂の祇園神社に寄進される田畑が増えるって事に成るだろ。

で、その末社から毎年上納米というか加納米なんかが、元社である八坂の祇園神社に収入として入って来る事に成るわけさ。

だから、義定公が自分の領地に祇園神社を創れば創るだけ、八坂の祇園神社は豊かになってくるって事に成るわけよ。そうすれば、おのずと両者の関係が深く成ったり太くなるだろ。そういうことさ。とりあえず、了解したかい?」私は水谷君に、出来るだけ丁寧に話した。今度はやっと彼も腑に落ちたようで、大きく肯いた。

 

「それからね八坂神社とは違うけど、かつての後白河法皇の院の御所が三十三間堂の目の前に在るんだけどね、法住寺って云うんだ。そこにも義定公の痕跡が残ってるんだよね」私が言った。

「ん?神社とちゃうやろそれ」水谷が反応した。

「うんそうだよ。これは神様の指紋とは関係ないんだ、ついでに話すだけだよ。なんなら話し、止めようか?」私が水谷君に向かってそう言うと、永山君が、

「まぁ話しいな。怒らんと・・」とニヤニヤしながら言った。

 

「そっかまぁいいや、じゃ話すよ。義定公はね、祇園神社や伏見稲荷と一緒に、後白河法皇の院の御所でもあった屋敷の大きな築地塀の修繕や修築を、朝廷から命じられているのさ、さっきも言ったと思うけどね。

で、そこでも義定公の痕跡を見つけたって訳」私が言った。

「8百年前のかいな?残ってるんか?そんなん」水谷君が疑問に思ってそう言ってきた。

「うん、それが見つかるんだよな、そのつもりで探すと・・」私は言った。

「具体的には何だったのさ?」大木君が短く聞いた。

 

「築垣に掛かる屋根瓦にね、菊の御紋と一緒に八幡神社の三つ巴紋が残ってるのさ、面白いことにね・・。うまでもなく菊の御紋は天皇家の紋だから後白河法皇を意味してるのさ。そして三つ巴は、我が義定公に関係する八幡宮の紋だよな。

8百年経ってもやっぱり残ってるんだよ、こうやって・・」私は胸を張ってそう言った。

「偶然、違うんか?」水谷君が言った。

「しかし8百年前の屋根瓦とはちゃうやろ、さすがに・・」永山君も疑問を口にした。

 

「うんその確率は高いと思うよ、僕も。何度も大地震や大火それに戦乱に巻き込まれているからね、京都は・・。

だけどね、鎌倉時代にその菊の御紋と三つ巴の紋を義定公が創ったと考えてだよ、それから数十年か数百年後かに、大地震や大火に見舞われて法住寺の築垣が壊れたとするよな。

その時に修繕したり修築する際に、従前の様式をそのまま再現しようとするって事はあるんじゃないか。それこそ倒壊したり消失する前の、後白河法皇生存時のスタイルをね。それが有識故実、って事でもあるんじゃないかい。どうよ・・」私は言った。

 

「法住寺は今でも後白河法皇に関係あるんか?」大木君が聞いてきた。

「うん、今でも関係あるよ。何年か前に三十三間堂に行ったついでに寄って来たことがあるんだオレ。今でも法住寺には後白河法皇の陵墓があって、祀られているのさ。

もちろん飛鳥時代とか古代の大阪方面の陵墓とは、全然規模が違うけどね。今なお後白河法皇の陵墓を守り続けてるのさ、法住寺は」私が言った。

「それやったら、後白河法皇の時代を踏襲するのは、アリかもな・・」大木君は納得したようだ。

「因みに後白河法皇が崩御されたのはいつやった?」永山君が聞いてきた。

「義定公が滅ぼされる二年前の1192年、だったかな確か・・」私が応えた。

「で、後白河法皇の院の御所法住寺の築垣が、安田義定によって改築されたんはいつやった?」永山君が続けて聞いた。

「それはね、確か文治六年の1190年頃だったと思うよ・・」私が言った。

 

「なるほどね。ってことは後白河法皇が崩御する2・3年前にその六条の院の築垣は完成しとって、その2年後くらい経って院は崩御した、いう訳やな。で、法住寺はそれ以来後白河法皇の霊を祀ったり、毎日読経とかしてはるわけやな・・。

なるほどそれやったらその時のスタイルがずっとベースに成って、有識故実の対象に成る可能性は高いかな。確かに立花クンが言うとおりかもしれんな・・」永山君は自分なりの方法で、検証したようだ。

「やっぱあるもんやね、その神様の指紋たら云うの。観れども見えず、聴けども聞こえずやな。我々素人には・・」大木君も納得したように、そう言った。

 

「さすがは元県警の幹部だね。ところで僕のやってる神様の指紋探しと、警察の捜査の仕方とには何か共通するような事とかあるかい?参考までにだけど、意見聞かせて・・」私がニヤニヤしながら言った。

「あるで、幾つかはな。さすがに全部とは言われへんけどな。立花クン、警官に成ってもいい仕事しはると思うで、君やったら・・」大木君がそう言った。

「ありがとね」私はニコニコ笑いながら、ビールの入ったジョッキを大木君にぶつけ、乾杯をした。

 

実際私の意識の中においては、八百年前の安田義定公の足跡や痕跡を探し求め掘り起こす作業は、ミステリー小説や刑事モノのドラマを読んだり見たりするのと同じだった。

新たな発見があると、それに伴う刺激や興奮を感じることが少なくなかった。

私が「神様の指紋」と言ってるのも、そう言った意識と関係が無いわけではないと、自覚しているのも事実だ。

「立花クン、楽しいやろ。の安田義定の事やら、いろいろ調べたりして・・」永山君が羨ましそうに言った。

「マァマァかな・・」私は満更でもない、と云う様にそう言った。

 

「この件で安田義定公に遭遇してそれ以来いろんな資料読んだり、神社・仏閣とか訪ねてあっちこっち行ったりして、マァそれなりに楽しくやってるよ。

結構頭の体操にも成ってるしな・・。退職以来ノホホンと過ごしていた時期に比べれば、生活にリズムや張りが出てきたのは確かだな・・」私は率直な気持ちを、言った。

「あ~ぁワイも何かしたくなってきた・・」水谷君がそう言ってちょっとため息をついた。

「水谷、君も何か好きなことやったらええやんか。僕と同じで時間はたっぷりあるだろ。それに君の子供もう大学生なら、子育ては卒業してるだろうし。もっと自分のための時間を、楽しく有効に使ったらええんちゃうか・・」私は関西弁を交えながら、そう言った。

 

「阪神タイガーズの研究でもしたらどうや?」大木君がにやにやしながら言った。

「タイガーズか?マァ野球は見て楽しむもんで、研究やら調査やらするもんとちゃうで・・」水谷君はあっさりと、却下した。

「確かにそうだろうけど、いろんな楽しみ方もあるだろうとは思うよ。マァ結局は本人次第だろうけどな。

ただ言えるのは自分が好きなことを追求したり、それに没頭するのは結構楽しいよ。それは間違いない、かな・・」私は皆に向かってそう言った。

 

「せやな、考えとくワ・・」水谷君はその様に応えたが、その言い方はあまり真剣に考えている風ではなかった。実際彼がそうする可能性は低いだろう、と私は想った。

「せやな・・」永山君がボソッと呟いた。

彼もまた改めて、何かを考え始めているようであった。私に刺激を受けたのかもしれない。

私は、水谷君よりもむしろ永山君の方が、具体的なアクションを起こすのではないかと二人の反応の違いを見て感じた。

 

私達は京都タワー裏手のアイリッシュバーでしばらく時間を潰した。

話に区切りがついたのをきっかけに店を出て、〆の食事をとるべく近くの讃岐うどんの店に入った。その店は何十年も前からやってると思われる、伝統を感じさせるうどん店であった。

その店の昆布と鰹だしの効いた歯応えがある讃岐うどんを食べて、私達はお腹を満たしてから京都駅の地下街に降りて、解散した。

私は皆と別れた後、京都駅近くのビジネスホテルにと向かって行った。

 

 

 

 

 

         八坂祇園神社境内の末社及び祭神

 

一、    十社(下の十社を明治十年:1877年7月25日に合祀して、十社という)

       多賀社 伊邪那岐命

       熊野社 伊邪那美命

       白山社 白山比メ神

       愛宕社 伊邪那美命 火産霊命

       金峰社 金山彦命  磐長比売命

       春日社 天児屋根命 他二神

       香取社 経津主神

       諏訪社 健御名方神

       松尾社 大山咋命

       阿蘇社 阿蘇都比メ命 他一神

 

二、    五社

       天神社 少彦名命

       風神社 天御柱命 他一神

       水神社 罔象(みずは)女神 他一神

       竈神社 奥津日子神 他一神

       八幡神社 応神天皇

 

 

 


                                     

                             祇園神社神紋

 

 

 

 

        『 吾妻鏡 第八巻 』六条殿の修繕に関わる― 

                『全訳吾妻鏡2』47・52・55ページ(新人物往来社)

 

四月廿日去ぬる十三日(文治四年:1188年4月13日)、六条殿(後白河法皇御所)じょう亡(焼失)す。宝蔵並びに御倉は災を遁(のが)るといへども長講堂においては災いす。

六月九日六条殿の作事、営作の功を抽んづべきの由、二品(源頼朝)申さしめたまふによって、造営の事なまじひに思しめし立つのところ・・・。

七月十一日六条殿の御作事、二品御知行の国役は、中原親能奉行として、大工国時をもって増進せられんと欲す。

遠江國所課の事、御教書を下され、今日到来す。すなわちかの国司(安田)義定に付せらるると。

六条殿作事の間、六条面の築垣一町(約100m)、門等せらるべしてへれば、院の御気色によって、執達件のごとし。

                              ( )は筆者の註

 

当時六条西洞院に在ったとされる「六条殿」は、後白河法皇の院の御所があった処で「長講堂」がそのシンボルであったという。

その六条殿の長講堂が火災に遭ってその修繕を任すにあたって、後白河法皇は遠江守安田義定を、頼朝に対して指名して来たとの事である。この修築工事は頼朝の負担として下命されたものであるが、義定公にプロデューサー役を指名している。

それは法皇が、以前六条殿の築垣や門を義定公が修築・修繕した際の、仕事ぶりが気に入っていたというのが、その理由のようである。

このエピソードから義定公は後白河法皇の覚えがめでたかったことが、窺える。

源頼朝による義定公一族の討伐が始まったのが、奥州藤原氏を討伐して後顧の憂いが除かれ、後白河法皇という朝廷の核心が崩御した後の2・3年後であることは、偶然の一致ではないように私には思えて成らない。

 

 

 

 


      この続編は

      『京都祇園神社と遠江守安田義定―祇園神社編

                              に成ります。

 




〒089-2100
北海道十勝 , 大樹町


 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
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