春丘牛歩の世界
 
1週間ほど前から、伊豆半島の神奈川寄りのエリアに来ている。
ソメイヨシノが咲き始め、昨日あたりからほぼ満開と言ってよい状態にある様だ。
 
やはり短足寸胴のソメイヨシノの方が、「桜」感があるなと、いつも長身長脚のエゾヤマザクラを観ている私は、感じたのであった。
 
 
 
 
      
 
       
         
 
     
 
 
    記事等の更新情報 】
*4月19日 :「コラム2024」に、「青い春」と「チャレンジ虫」を追加しました。
*3月25日:「相撲というスポーツ」に「新星たちの登場、2024年春場所」を公開しました。
*2月8日:「サッカー日本代表森保JAPAN」に「再びの『さらば森保!』今度こそ『アディオス⁉』を追加しました。
*01月01日:本日『無位の真人、或いは北大路魯山人』に「無位の真人」僧良寛、或いは・・を公開しました。
これにて本物語は完結しました。
12月13日:  『生きている言葉』に過ぎたるはなお、及ばざるが如し」を追加しました。
*9月29日:「食べるコト、飲むコト」 に「バター炒め二品 」を追加しました。
*9月27日;「物語その後日譚」に「奥静岡の鶏冠(とさか)山」を、追加しました。
*6月10日 :『続、蝦夷地の砂金/金山事情・・』に7.紋別市:その2「鴻之舞金山」を追加しました。
 
 

  南十勝   聴囀楼 住人

          
                 
                                                                   
  
        
 

会員制サイト開設
      のお知らせ
 
2023年4月より「春丘牛歩の世界アーカイブ」を下記に開
設いたします。
このHPの情報量が多くなったための整理と、当該HP閲覧者内の濃密な閲覧者との交流を
目的としています。
有料会員制ですが、ご興味のある方は下記アドレスにコンタクトして頂けると幸いです。
 https://ofuse.me/gyu00ho
(春丘牛歩アーカイブ&フレンズ)
 
 
 
 
   
      
【歴史検証物語】
この物語は『大野土佐日記と甲州金山衆 -孫子の兵法編- 』の続編に成ります。
北海道側のプロジェクトメンバーと山梨側のメンバーとの間の情報交換を兼ねた交流会が、7月上旬に函館で行われた。
山梨での『大野土佐日記の検証』レポートを提出した私に、函館の杉野君たち「北海道砂金・金山史研究会」の検証プロジェクトチームのメンバーから、招待されたのだ。
招待を受けたのは、レポートを書いた私を含め山梨県郷土史研究会のメンバーで、今回のレポート作成に際して情報提供をしていただいた西島さんを始めとした、安田義定公の研究者や甲州金山博物館の秋山館長達に対してである。
その交流会では、荒木大学を始めとした甲州金山(かなやま)衆が鎌倉時代初期に蝦夷地知内に渡った事の真贋について、熱く語り合うこととなった。
 
              【 目 次 】
 
              ①プロローグ
              ②「北海道砂金・金山史研究会」
              ③荒木大学の痕跡
              ④知内の郷土史研究家
              ⑤甲州のメンバーからの質疑
              ⑥渡来古銭
              ⑦黄金の鶏の伝説
              ⑧富士金山とは何か
 
 

 

 
 
 

 プロローグ

 
 
7月上旬首都圏は梅雨の真っ只中で、蒸し暑い日が続いていた。

その金曜日の午過ぎに私を含む山梨県側のメンバーは、梅雨の無い北海道の函館空港に到着した。

空港では杉野君が到着ロビーで我々を出迎えてくれた。メンバーの簡単な自己紹介を済ませて、私達はそのまま杉野君の運転するワンボックスカーに乗って、彼が手配してくれた昼食会場に向かった。

 

函館空港から10分程度のそのレストランは湯の川温泉の外れにあり、津軽海峡に面していた。そのレストランは和風で、どうやら蟹料理が売りの店らしい。

1時を過ぎていたこともあってか、店はそんなに混んではいなかった。平日のせいもあったのかも知れない。

私達は個室といっても良い、区画された小部屋に案内された。その部屋は前面のガラス窓から、津軽海峡を眺望することが出来た。山梨のメンバーは普段海に接する機会が少ないこともあってか、その部屋を大層気に入っていた。
 
杉野君はてきぱきと我々から希望のメニューを募ると、店のスタッフに注文してくれた。注文のビールが到着するまでの間、彼は我々に対しわざわざ函館まで来てくれたことへの、感謝の気持ちを述べた。
 

彼は学生時代からこういう場面での仕切り役をしていたこともあってか、実に手際よくことを済ませた。その上で乾杯の音頭は、西島さんに依頼した。

彼は空港からの移動の間にも、このメンバーの中で誰がリーダー格であるかを見抜いていて、西島さんに乾杯の音頭を依頼したのだと思う。旅行代理店勤めの経験で、彼の天性の才能は更に磨きをかけられたのかも知れない。

 ランチメニューの蟹料理を満喫した山梨側のメンバーは、大いに満足して店を出て、今日の会議会場でもあり宿泊先でもある、函館駅前のホテルにと向かった。

 

ホテルでのチェックインを済ませた後で、杉野君は今後のスケジュールを私達に説明してくれた。このスケジュールは事前に私との間で調整していたものであり、私からもメンバーにはスケジュール表をすでに渡しておいた。

この後は、各人部屋に入って寛いだ上で、3時前にホテル二階の小会議室の前に集合することに成っていた。

3時からは小会議室で、杉野君も属する「北海道砂金・金山史研究会」のメンバー達と、情報交換会が予定されていた。




 
 
 
 

 「北海道砂金・金山史研究会」

 
 
待ち合わせの3時の、15分ほど前にホテルの小会議室に向かうと、既に何人かの人が集まっていた。

私が杉野君を見つけて近寄ると、彼は砂金サークルのメンバーを紹介してくれた。私がサークルメンバーと個人名刺を交換していると山梨側のメンバーも集まりだした。

改めて彼らと砂金サークルのメンバーを引き合わせた上で、会議テーブルに着いた。

会議の司会進行は杉野君が担当した。
杉野君を挟んで、私とサークルのプロジェクトリーダーの菊地氏が座り、コの字型にお互いが座った。私達を挟んで両者が向き合う形になった

北海道のプロジェクトチームのメンバーは杉野君を含め八人だったのに対し、山梨側は私を含め五人であった。

 

プロジェクトリーダーの菊地氏が口火を切って、山梨県側のメンバーに謝意を現した。その上で、今日の情報交換会の意義を話した。彼は歓迎の言葉と共に、以下の様な挨拶をした。

「北海道砂金・金山史研究会」についての簡単な説明を終えると、何故会員メンバーが『大野土佐日記』に興味を持ったかについて丁寧に説明した上で、同書の検証を大いに主張した杉野君の熱心さについて話した。

その上で、現在のプロジェクトチームの中では、この古文書についてポジティブな評価が共通認識になっている、と話してくれた。そのような土壌が出来つつあったその時に、私が杉野君に提出したレポートが出て来た。

山梨側での甲州金山に関する調査・検証結果のレポートを読むことで、いよいよ荒木大学及び、『大野土佐日記』の実在に対する確信を得ることが出来、メンバー間では大いに意気が上がっている。と嬉しそうに話し、今日の情報交換会を自分自身も大いに期待している、と話し挨拶をまとめた。

 

砂金サークル側の挨拶に続き、西島さんが山梨県側を代表してあいさつを始めた。

西島さんは山梨から函館に自分達を招いてくれたことに、先ず感謝の言葉を述べた上で「荒木大学」や『大野土佐日記』について話を始めた。

 「私は今回の話を立花さんから聞きまして、非常に大きな興奮を覚えました」と率直に語ったうえで、話を続けた。

「と、言うのも鎌倉時代の甲斐源氏と鎌倉幕府の事を研究していた自分にとって、安田義定公の業績は甚だ大きいものであります。

安田義定公と言っても誰のことか、皆さんには皆目見当がつかないことと思いますが、その解説は改めてたっぷりさせていただくとして、その義定公の領地経営に欠かすことのできない甲州金山の開発が、義定公の死後数年でぱったり途絶えてしまったことを、常々疑問に思っておりました。

そんな時に今回の荒木大学の話があり、その荒木大学や『大野土佐日記』に関する話を聞き、長年の疑問が氷解する回答を得た、と思ったからであります」と、西島さんは言った。
 
山梨ではあれだけ甲州弁で話していた西島さんが、今日はすっかり標準語で話していることに、私はまず驚いた。
 
 
 
「今日函館に来たメンバーは、いずれも安田義定公についての研究者や甲州金山についての専門家であります。私達は『大野土佐日記』に書かれている荒木大学については、甲州金山衆の有力幹部に間違いないだろうという共通認識を持っています」と西島さんは述べ、北海道のメンバーを見て続けた。
 
「そのような思いでいる私達にとって、今日の情報交換会と明日の知内の荒木大学ゆかりの地の探訪は、大いに興味がありまた期待しているとこでもあります・・。
 
私達も自分たちが知っている情報は出来る限り皆さんにお話しいたしますので、皆さんもぜひ私達の抱く素朴な疑問や質問に、知っている範囲で結構なので教えて頂きたいと願ってます。そういう事で、本日は宜しくお願いします」と述べ、頭を下げた。
山梨側のメンバーは西島さんに続いて頭を下げた。
 
 
一通りの挨拶が終わった後、出席者の自己紹介を行った。
北海道側の出席者はプロジェクトリーダーの菊地氏(札幌市)の他は、大友氏(同)、長野氏(浜頓別町)、佐藤氏(大樹町)、山田氏(浦河町)、内山氏(知内町)福佐氏(同)に杉野君(函館市)であった。
 
 札幌と函館の3人を除くメンバーは、いずれも砂金採収や金山開発が明治時代から行われていたかつての産地の出身者で、地元での砂金や金山の歴史に詳しいメンバーであった。
知内町の2人は比較的新しいメンバーで、杉野君との交流の中で昨年から研究会のメンバーになった、郷土史研究家ということであった。
 
山梨側の参加者はいずれも山梨県郷土史研究会のメンバーで、鎌倉時代の甲斐の国研究家の西島氏(身延町)、甲斐源氏及び安田義定研究家藤木氏(甲州市塩山)、中世・近世の甲斐にまつわる雑学の研究者久保田氏(山梨市)、甲州金山博物館館長秋山氏(甲府市)に私(東京都国立市)であった。
 
 
自己紹介が済むと、今日の情報交換会のプログラムについて進行役の杉野君が説明した。彼はメンバーにレジュメを配り、説明を始めた。
「え~本日の情報交換会は大きく三つのテーマで、進めていきたいと思っています。第一は、『大野土佐日記と荒木大学』に関する事項についてで、みなさんご存知のことが多いので多くの時間は割きませんが、共通認識の確認プロセスだと思ってください。
 
尚この時に大正時代に出された『北海道史』での、大野土佐日記に関する見解などについても、確認していく予定です。報告は札幌の大友さんにお願いいたします。

第二は、『知内町に残る荒木大学と甲州金山衆の検証と史跡』ということで、不肖この私が基調報告をさせていただき、私にいろいろ教えて頂きました知内町の郷土史研究家で同研究会のメンバーでもある、内山さんと福佐さんにも補足説明等をお願いします。

第三は『山梨県における荒木大学及び甲州金山衆』に関して、お手元の資料を基に私の依頼でこの件について調査をし、検証レポートを書いてもらった立花君にお願いいたします。

 

それぞれ2・30分ずつ基調報告を行い、その後質疑応答や補完説明をしてもらう予定でして、都合3時間程度のお時間を頂く予定です。尚、途中休憩タイムを挟みますので、おトイレやおタバコの方はその時にお願いします・・」杉野君はそういって皆を見回した上で、笑顔になって

「尚、6時頃には情報交換会を終了しまして、その後は場所を変えて懇親会を予定していますのでそれまでの間はビールを我慢して、できるだけ真剣で中身のある情報交換を行ってもらいたいと思っています」とユーモアを交えて続けた。

杉野君の話が終わった時には皆の顔が緩み笑顔になり拍手が起こった。懇親会が効いたのかもしれない、と私は想った。

杉野君はニコニコ顔で挨拶を終えると、大友さんにマイクを渡した。 

 

大友さんは軽く挨拶を済ませると、手元のレジュメに基づき早速、第一のテーマである『大野土佐日記と荒木大学』に関するレクチャーを始めた。

レジュメには吉田霊源版の『大野土佐日記』の内、荒木大学を始めとした甲州金山衆が知内にやって来た場面から、アイヌにより滅ぼされた場面までの数ページ分が記載されてあり、同書を読み下しながら、ポイントとなる箇所で若干の解説を行った。
 
 
その上で大正7年に刊行された北海道庁の公文書である『北海道史』の中で、『大野土佐日記』について記載されている個所、及び同書内の「最上徳内」が江戸時代後期に蝦夷地探索時に、知内温泉で確認した「薬師堂の棟札」に関する記述について取り上げ、問題提起がなされた。
 
 
「問題の箇所はこの
然れども此記録は後世修験者の手に成りしものにして、も信ずること能はず。』という部分ですね。
何ゆえに、毫も信ずるに能わずなのかを具体的に例示しているわけでも、検証しているわけでもなく、殆ど一刀両断的に、結論だけを述べています。
 
また、続いて
降って応永中知内の砂金を採収したる形跡ある事は、既に前に述べたれども、未だ確説と為すに足らず。』に関しても同様で、
『東蝦夷地道中記』で最上徳内が江戸時代後期に実際に見聞したことを記述している点も、ほとんど無視しています。

ここに私は、当時の歴史学者たちのこの古文書に対峙する、基本的な姿勢が窺えるように思われます。

そして、この様なスタンスで導かれ、科学的・客観的な検証が殆ど示されないまま得られた結論だけが、独り歩きしてしまい『歴史学者の間での定説』に成ったまま今日に至っている、というのが実情ではないかと思われます。誠に残念なことです。

 

 まぁかく言う私達自身も『大野土佐日記』に関しては、これまで彼らと同様のスタンスであったわけですから、あまり大きな顔はできないんですが・・」大友さんは、やや自嘲気味にその様に云った後、
 
「そんな中でこちらの杉野さんの熱心な問題提起があり、私達自身も自らを反省しながら、今回の検証のためのプロジェクトチームを立ち上げて今日に至った、という訳です・・」大友さんの振りに、杉野君はニコニコ顔で軽くうなずいていた。
 
「まぁいずれにしましても、私達は大正7年に書かれたこの『北海道史』の断定的で全否定的な記述を、もう一度出来るだけ客観的・科学的に検証してみよう、という問題意識で今回の一連の作業を進めてきたわけです。
 
ここまでは私が説明させていただきましたが、山梨の皆さん私達の出発点はこういった点にあるわけです。そのことを先ずご理解いただいて、続きを杉野さんにお願いしたいと思います」
 大友さんは山梨の出席者を見ながらそう言って、マイクをプロジェクトリーダーの菊地さんに渡した。
 
「ここからは、暫く杉野さんに北海道側で進めて来た検証作業の説明をしていただきますので、私がその間司会進行をさせていただきます。
では杉野さん宜しくお願いします」菊地さんはそう言って、マイクを杉野君に手渡して着席した。
 
 

「え~それではここからは、私がこちらの知内の郷土史研究家である内山さんや福佐さん達との情報交換を重ねて行なって得た情報をもとに、荒木大学に関する『大野土佐日記』の記述内容を、調べたり現地視察したりしてきたことを中心に、お話しさせていただきたいと思います」

杉野君はそう云いながら、手元のレジュメをめくり解説を始めた。

「え~手元資料の5ページ目からご覧いただきたいのですが、まずはこの『大野土佐日記』に書かれている事柄の内、明治・大正時代の歴史学者たちが問題にしてきたと思われる点を幾つか整理してみました。
この内まずは明らかに史実とは間違って書かれていると思われる個所から確認します。

荒木大学が鎌倉二代将軍頼家の命を受け、元久二年(1205年)に蝦夷地に向かった』という点がまず挙げられます。

ご存知のように、二代将軍頼家は北条時政を中心とした鎌倉幕府の宿老達の協議によって伊豆に幽閉され、元久元年に北条氏によって暗殺されています。従ってこれは明らかに正しくない記述だと判断してよいと思います。

 

次に『荒木大学が甲斐の国いはら郡の領主』であったと書かれている点なんですが『庵原郡』は駿河の国の領内の地名であって、甲斐之國には存在しないという事からこれも過ちである、とされていました。

この点については私達も詳細は判らないが、当時の甲斐之國に『いはら郡』が存在しなかったことは確認できましたので、これも間違であると当初は思っていました。
ところがこの件については立花君のレポートにも書いてあったように、後で事実の可能性が高いという点が検証されてますので、彼の説明を待ちたいと思います。
 
 
次は『大野土佐日記』の著者でもある、大野家に関わる件ですが
金山祭りのために一緒に蝦夷地に連れて来た、修験者の大野了徳院が、甲斐の国いはら郡八幡の別当だった』という点ですが、これについては先ほどのいはら郡が、甲斐に存在しないわけですから、これも事実無根・虚構である、と言った解釈がなされたようです」杉野君はそういってから、ちらりと私を見て、再た続けた。
 
「実はこの点に関しましても、立花君のレポートに書かれている通り説得力ある検証から、大野了徳院の存在が実は蝦夷地への大移動のために、必要不可欠であったという事が判明しました。
こちらに関しても後で立花君に詳しくお話ししていただきたいと思っています。宜しくお願いします」彼はそう言って私に軽く会釈し、眼で思いを伝えた。
 
 
「その他に疑問に思える箇所としましては
荒木大学一党が、堀子八百人に家中の家来併わせて千余人で、蝦夷地に来た』という点や『大野了徳院が百五歳まで生きていた』と言った点なども、あり得ない話として片づけられたのではないかと思われます。

これらについても立花君が検証してますので、ここではそういった点に疑念を抱き、当時の歴史学者たちが『大野土佐日記』は偽書である、との評価を下したのではないかと推測できると、指摘させてもらいたいと思います。

次に、これは私自身が内山さんや福佐さんから得た情報を基にして、この古文書に書かれていることが、ひょっとして正しいのではないかと思うきっかけに成った、知内に残る史跡などについて、スライドを見ながら説明させていただきます」

杉野君はそう言うと手元のノートパソコンを操作し始め、OHPと連動させて正面に準備しておいた白板に、デジカメやスマホで撮っておいたと思われるスライドを映し始めた。その際、白板近くの照明が落とされた。

 

 

 

 荒木大学の痕跡

 
 
 
スライドはまず知内の位置を津軽海峡をはさんで写し出し、次第にクローズアップして行った。

「この通り、知内町と言いますのは北海道の最南端である渡島(おしま)地域でも、最も青森に近いエリアでして、東側の下北半島の先端である大間と函館の関係と同様に、西側の津軽半島の竜飛岬から、最も近いエリアになります。

因みに北海道新幹線の通る青函トンネルの北海道側の出口は、将にこの知内町であります。更に奇遇というべきか、荒木大学が最後に居城を構えたと言われている、その名も『大学地区』に出口があります。

荒木大学も八百年後に自分の居城の下を、新幹線が通る事など夢にも思わなかったと想います」杉野君の解説に出席者から小さな笑いが起こった。

「ですから本州側から蝦夷地を目指した場合、知内の浜に船が漂着すると言った『大野土佐日記』の記述は、非常に合理的で理に叶った事だったわけです。

とりわけ九州筑前の国の船が漂着するとした場合、日本海側からのアプローチになるわけですから、知内である事がとても自然で合理的なんです」杉野君はそういってスライドを動かした。

 

「次の写真は、荒木大学が最初に上陸したとされる『イノコ泊』と『涌元神社』になります。『イノコ泊』は荒木大学が知内に上陸した時にアイヌのイノコという名の美しい娘と遭ったとされる『泊まり』、要するに自然の港ですね。

また涌元神社は荒木大学が知内に定着し、ある程度金山経営が順調に行った後の事ですが、金山開発の堀子の安全・無事を祈願し同時に津軽海峡を運行する船の航海の安全を祈願して、荒木大学が祀ったと言われている薬師堂の跡地にできた神社です。

ここは非常に見晴らしの良い場所で、天気の良い日には津軽海峡を眼下に見渡すことが出来ます。またこの涌元神社の近くには、明治時代にマグロ漁で財を成したという網元の『マグロ御殿』が在ったところで、津軽海峡に出て漁をするのに適した場所でもあります。

この辺りは明日、皆さんにも行っていただく予定でいます」そう言って彼はさらにスライドを動かした。次のスライドには古銭が移っていた。

 

「この古銭は涌元からイノコ泊に向かう途中の、海岸道路の工事の時に見つかった大量の古銭の一部です。1951年のことです、昭和26年ですね。
これらの一部が現在知内町郷土資料館に収められ、展示してあります。この時に見つかった古銭は中国北宋で11世紀に造られた中国の銅貨などが中心です。
 
13世紀に荒木大学達がこの地において、内地や海外との商取引などの際に通貨として使用していたと仮定した場合、彼らの採掘した砂金や金塊がこれらの古銭に換金されて、使用していた貨幣の残存物だと考える事が出来ます。
 
同時に考古学的視点での検証物になり得る、と言えるのではないかと思っています」
この時秋山館長が、何かを呟いたのが聞こえた。

 

杉野君はその後、かつて毛無嶽と言われ現在では知内公園となっているエリアの写真を映し出して、続けた。

「ここが荒木大学が知内に来て、最初に居城を構えたとされる毛無嶽の写真です。ご覧の様に、現在では鬱蒼とした林の小高い丘になっています。

しかしこれらの黒松や杉の木立はここ数百年の間にできた林でして、これらの林を取り除くと、涌元の神社と同じように遠くに津軽海峡を見渡す事は出来たのです」杉野君は皆の顔を見たうえで続けた。

「荒木大学を始めとした甲州金山衆がここに拠点を移した時は先ず、この地の太古から手つかずの立派な木立を伐採し、住居や作業場・城郭の材料にしたのではないかと思われますので、当時の視界は当然良かったと想像出来ます。

もちろん津軽海峡からは数キロ離れていますから、涌元神社程ハッキリ見えたわけではありませんでしょうが・・」杉野君はそういって、話を続けた。

 

「この毛無嶽に関しては江戸時代初期の松前藩の逸話が残っていますが、ここでは荒木大学にフォーカスを絞って話します。ここに非常に興味を引く祠が残っています。その祠は『荒神堂』と言います。荒神(こうじん)様の荒神と書きまして『あらがみどう』と言い伝えられています。

地元の人々は『こうじんどう』とは決して言わず『あらがみさま』と呼んでいます。私はそれはいったい何故なのか、と考えてみました」ここでも彼はまた皆の顔を見た。

 「そして『あらがみさま』というのは、ひょっとして『あらきだいがくさまをとして祀った御どう』という意味ではないかと、考えました。その様に考えてみたら、とてもすんなりこの祠の呼び名を理解することが出来ました。

果たしてこれは私の単なる邪推に過ぎないのか、それとも私の推測が正しいのか、内山さんたち知内の郷土史研究家の皆さんにも、問いかけているところです」と言って、知内の出席者の方を見た。

 

「残念ながらまだ結論を出すには至っておりませんが・・。またこの『毛無嶽』に関しては山梨の湯之奥金山と静岡の富士金山とに関係する二千m級の、結構高い山『毛無山』に関連するかもしれないことが、立花君のレポートでも述べられています。

この小高い丘の名称にしても、荒木大学や甲州金山に関連した名前ではなかったのか、と私は思いを強くしました」このくだりになって山梨側のメンバーから、ちょっとしたざわめきが起きた。

 その後杉野君はかつて荒木大学の居城があったとされるエリアであり、新幹線の出口付近でもある『大学地区』を北海道新幹線が疾駆している写真を映した上で、知内温泉の小さな温泉神社の写真を映した。

「この知内温泉の写真は荒木大学の家来が新しい金山の鉱脈を求めて、山を探索している時に偶然発見した温泉で、例の最上徳内が徳川幕府に提出した『東蝦夷地道中記』に記された薬師堂の跡に作られた神社だそうです。

今でも知内温泉では温泉裏手のこの小さな神社を守り続けており、8百年近くずっと守り続けたお堂としての誇りをもって、大事にしているとの事でした」と、解説を加えてスライドを動かした。

 

「この写真は『上雷神社』という現在の『雷公神社』の元社で、明治35年に現在の場所の元町に遷宮するまで、7百年近くこちらで祀られていた神社です。京都の賀茂神社の別け雷(いかずちの)神を祭神として祭っている神社だそうです。

因みにこの上雷神社の周辺には、金山開発で採集された金を含む鉱石を選別・精錬するための鍛冶屋が、3百軒近く在ったと言われている処で、その証である金屑や古銭が沢山出土していたそうです。
 
明治時代に成って内地から移住してきた農業開拓者が、この神社の周辺を開拓した時に多くの金屑や古銭が出土して難渋した事が、古老の言い伝えとして残っているということです」そう言って知内の出席者の方を見た。きっとこの件は彼らから得た情報なのだろう、と私は想った。
 
「残念な事にこの時の出土品は、今はあまり残ってはいないそうです。
さらにこの神社の一画社殿の近くにはこの写真の通り、直径数十センチの杉の切り株が残っております。
この切り株は知内神社の遷宮の頃に切られたと言われてまして、観てのとおりの立派な年輪で、数百年の樹齢を数えることが出来ます」
そう言いながら社殿の年輪をクローズアップした上で、杉野君は新しい神社の写真を映し出した。
 
 
「この神社は、元町地区に在る現在の『雷公神社』であります。先ほど話しました明治35年に遷宮された、新しい神社ですね。新しいといっても百年以上は経ってますが・・。

尚、この知内の元町地区の雷公神社で、例の『大野土佐日記』の原本を代々保管しております。また荒木大学と一緒に金山祭りを執り行うために蝦夷地にやって来た、あの大野了徳院の子孫が宮司を務めている由緒ある神社です。

ここは知内の中心部に在る小さな鎮守の森、というか林に囲まれた神社です。参道の脇右手に在る平らな場所は以前、相撲の土俵などが在った場所だということです」

そう言って杉野君がスライドを動かし、社殿を映した時また山梨のメンバーの辺りからちょっとしたざわめきが起こった。

社殿に掛かっていた幕に、武田菱の神紋が在ったからだ。

 

「皆さん、この武田菱の神紋に驚かれたのでしょうか・・」杉野君は、こうなることをある程度予測していたかのような、口ぶりであった。
 
「私もこの武田菱を初めて見た時に、武田信玄の武田菱と結びつけて考えました。が、残念ながらこの神紋は有名な武田信玄の武田菱とは直接は関係ないようです。
 
神社の関係者に伺ったところ、江戸時代初期にさびれていた雷公神社の復活を援助した、松前藩にちなんだ神紋だそうです」ここでも杉野君は知内の出席者に目をやった。 
 
「尤も松前藩の家祖である蠣崎(かきざき)氏は、越前武田家の嫡流の流れを汲んでるそうですから、元をただせば甲斐源氏に行き着くので、甲斐の武田氏と全く関係が無かったわけではないということで、こうやって武田菱が用いられているのではないか、ということです。
 
尚、この社殿に向かって右側に小さな祠があります」杉野君はそういって新しいスライドを映した。
 
 
「この祠です。参道の右手に戦没者を慰霊した忠魂碑の近くに在ります。
この小さな祠なんですが、その位置が私は気になりました。と申しますのは社殿は南側に鎮座しているのですが、この祠は西の方を向いておりまして、その方角には先ほどの『上雷神社』が在るんですね。

この雷公神社の元社ですから、この祠にお参りしそちらに向かって柏手(かしわで)を打ち頭を下げることは、元社に向かって参拝することに成ります。それはすんなりと納得いきます。

ところがですね更に上雷神社の先を辿って行くと、かつての荒木大学の居城があったとされる『大学地区』に、当たるんです。私はこれにはちょっと驚きました」ここで彼は改めてみんなの顔を見廻して、話を続けた。

 
 
「要するにこの小さな祠にお参りし参拝するということは、同時に上雷神社及び荒木大学の城郭跡に向かって参拝することに成るんです。
 
そしてですねこの祠の祭神が問題になるんですが、この祠は一体誰を祀っているのか確認しようと思って良くよく観ますと、なんとあの毛無嶽に祭られていた『荒神堂』なんですね。この祠はあの毛無嶽の『荒神堂』で、その分祠だったんです。

私が『荒木大学様を祀ったお堂』と、想っている『荒神堂』なんです」杉野君がそこまで話した時、部屋には再びどよめきが起こった。一部では拍手も起こった。

 

「ここに至って私は8百年近くの間、雷公神社の宮司である大野了徳院の子孫達が、如何に荒木大学を尊崇してきたのかを、垣間見る気がしました。

彼らは8百年の長きに亘って連綿と荒木大学を尊敬し、慕い、敬い続けその事績を著わした『大野土佐日記』を書き残し、大事にして守り続けて来たのではなかったと、そう確信するに至ったわけです。

同時に知内の人々にとっても心の拠り所であり、大切な歴史書だったのではないかと想っています。
ですから『大野土佐日記』は、明治大正の歴史学者達が断定した様な偽書などではなく、8百年近く大野一族が守り続け、知内の人々が受け継いできた、伝統や伝聞を記してきた縁起書であり、宝であったのではないかと想ったわけです。

いわば『大野土佐日記』は、知内の人々にとって『古事記』のような存在なのではなかったかと、私は思っています」杉野君はここまで一気に話した。

「最期にこの『雷公神社』の二十四代目の宮司さんである大野七五三氏が詠んだ和歌、を披露して私の報告を終わらせていただきます」そういって、杉野君は和歌を詠んだ。

  「神様をまもり続けて七百年 世にも人にも 捨てられもせず

 

最後のくだりでは、杉野君も少なからぬ感情が入っているように私は感じた。そしてその想いは他の参加者にも通じたのであろうか、大きな拍手が起こった。

こうしてスライド上映は終了し、再び部屋の明かりが灯された。

「以上が、私が知内の荒木大学につながる史跡を尋ね、調べた結果『大野土佐日記』の古文書としての信憑性を高めるに至った、私なりの検証結果であります。

これまで皆さん、ご清聴いただきありがとうございました」杉野君はそういって、皆に向かって深々と頭を下げた。

同席者の間、とりわけ山梨の出席者の間から大きな拍手が沸き起こった。

 

 

                               

 
 
 
 

 知内の郷土史研究家

 
 

杉野君からマイクを受け取った菊地さんは

「では杉野君に続きまして、関連する情報として知内町の内山さんと福佐さんに知内の郷土史研究家の立場から、補足説明及びご報告を受けたいと思います」と言って二人を紹介し、マイクを渡した。

二人は自己紹介と挨拶を短く済ませ、話を始めた。マイクは内山さんが握った。

「荒木大学様と『大野土佐日記』に関連する情報は、今ほど函館の杉野さんがお話しされた通りなので、私達はなるべく重複しない話をしたいと思います。       
つきましては、話を進めるうえで役に立つと思われる二つの資料を、お手元にお配りしたいと思います」

内山さんの合図で、福佐さんがA4サイズのカラー刷りの『しりうち文化財散策マップ』と、A5サイズの黄色っぽい表紙の小冊子『知内歴史散歩』とを、皆に配った。

 

内山さんは先ず『しりうち文化財散策マップ』を見開くように言い、解説を始めた。

同マップはA4判6ページの、大き目なリーフレットのような構成になっていた。見開きの内側は知内町の地図で、町の文化遺産にそれぞれ番号と簡単な解説が記載されており、一目で町の文化遺産とその所在地が判るようになっていた。

 内山さんはその見開きの地図を基に、先ほど杉野君が説明したポイントを先ず地図をなぞりながら説明した上で、話しを続けた。

「明日皆さまをご案内する予定になってますのはこれらの内『イノコ泊』『涌元神社』『毛無嶽』『上雷神社』『大学様居城地区』『真藤寺跡』『知内温泉』『雷公神社』『知内郷土資料館』等でして、いずれも大学様や『大野土佐日記』に関連する史跡が中心です。

もちろんその他皆様からのご要望があれば、追加させていただきます」内山さんはここまで言って、山梨側のメンバーに向かって目を向けてから、続けた。

「因みに知内温泉では、先ほど話に出ました江戸時代後期に最上徳内が実検した、応永十一年西暦1404年に大学様建立、の棟札のあった薬師堂跡の知内温泉神社も、観ていただく予定でいます。

尚知内温泉からほど近い湯の里地区には、大学様が菩提寺として創られた『真藤寺』の跡地と言われている場所がありまして、そちらにも寄ってみたいと思ってます」

 

「また真藤寺には、今でいう百花園とでもいうべき大きな花の公園があり、四季折々の草花が咲き乱れて一年中人々の目を楽しませた、と云い伝えられています。

またこの寺には後にアイヌによって金山衆が襲撃を受けた際に、大学様家宝の金製の『黄金の鶏の像』が投げ込まれた井戸が在った、という伝承があります」内山さんがここまで話した時、山梨側の出席者からざわめきが聞こえて来た。

内山さんも気になったのか、そちらを見ながら話を続けた。

「この黄金の鶏の伝説は昭和の時代でも有名であったらしく、その鶏の像を求めて真藤寺があったとされる、湯の里地区の『チリチリ川』界隈を探索したという、ロマンチストが居たと年寄りが話(しゃべっ)ておりました」

内山さんから『黄金の鶏の像』の話が出た時のざわめきは、何か山梨の人達を刺激する様な内容でもあったのだろうか、とその時私は感じた。

 
 
「また『大学様居城地区』は先ほど来の説明の通り、北海道新幹線の出口付近の小高い丘、出石丸山と言われた処に城郭が在ったと伝えられておりまして、山城であったと言われています。
ただ残念なことに城郭の後を示す物的な証拠といいますか、土塁などの考古学的な遺跡は見つかっておりません。そういった点が大学様の存在を実証できない弱点になっています」この時、秋山館長が何か呟いたようだ。
 
「因みに大学様の城郭が、毛無嶽からこちらに移ったのは蝦夷地への入部/入郷から13年ほど経って、毛無嶽近郊の砂金や金塊を採り尽したために、新たな金山や金鉱を探し続けて新しく見つけた金山でもある、千軒岳の裾野にあたるこの地に移ったと言われています」

この時西島さんが「やっぱりな」と、言うような声を発した。

 

「そして知内温泉もこのような、新しい金鉱の探索の際に見つけたものと言われています。この『千軒岳』は標高1071mで、道南渡島では最も高い山でして大千軒岳・中千軒岳・前千軒岳の三山で構成されています。
 
尚この千軒岳は江戸時代、松前藩の時代には金が埋もれている山という意味で『鬱(うっ)(きん)岳』と呼ばれたり、浅間山と同じ字を書いて『浅間(せんげん)岳』、鷹狩用の幼い鷹を捕った山ということで、『鷹待山』と言われていたそうです」

ここでも話が『千軒岳』に及んだ時、小さなざわめきが山梨側で起こった。

「最後に『知内郷土資料館』では知内の民俗資料が沢山展示というか、放置に近いんですがしてありまして、その中に先ほど杉野さんの言われた、涌元神社近くの道路工事で見つかった『中国の古銭』も展示されています。

昭和26年1951年のことです。現在残っているのが千枚程度で、その古銭を函館高専の学生が分析・整理しています。因みに当時はこの三倍は出土したという事でしたが、現存しているのはこの千枚のみという事です」内山さんの話に再た山梨側で大きなざわめきが起きた。やはり秋山館長の周辺であった。
 

「その他マグロ御殿に在った、桁外れに大きな床の間も展示されています。明治時代のマグロ漁で財を成したマグロ大尽の屋敷に在ったものです。

こちらはまぁ大学様には関係ないのですが、ついでに話のタネにでもご覧いただけたら、と思います。以上で私どもの話は終わらせていただきます。

因みにお手元の『知内歴史散歩』に、私の話(しゃべっ)た詳細が載っかってますので、後でお読みいただけたらと思います。尚この小冊子は私達『知内歴史研究会』が、今から20数年前に刊行した記念誌です」

内山さんはここまで話すと、横に居た福佐さんにマイクを向けたが、福佐さんは手を振ってマイクを受け取らなかった。

「以上です、ご清聴ありがとうございました」内山さんがそう言って、二人は頭を下げた。部屋の聴衆からは拍手が起こった。

 
 内山さんからマイクを受け取った菊地さんが、話し始めた。「ここらでコーヒーブレイクとさせていただきたいと思います。

皆さんおトイレやおタバコなどこの間に済ませてください。戻られましたら珈琲を飲みながら、これまでの報告に関する質疑応答を改めて行いたいと思います。

それが済みましたら第ニ部ということで、立花さんの検証結果レポートに基づくご報告、それから山梨側の皆さんからのお話を賜りたいと思いますので、宜しくお願いします」菊池さんはそう言って、マイクを置いた。

菊地さんの休憩宣言を受けて、出席者は各々席を離れたり歓談を始めた。

 

 

 
 
 

 甲州のメンバーからの質疑

 
 
 私がトイレを済ませて席に戻ると、早速西島さんが近寄って来て話し始めた。

「立花さんよ面白れぇじゃんね。オレは話を聞きながらワクワクしちまったよ。

この後の質疑応答で色々こっちの衆から質問が出ると思うけんが、荒木大学って人と甲州の金山衆には、結構ダブルこんがあるだよ」西島さんは、嬉しそうに話した。

 傍らの杉野君が、にこにこしながら、                    

「それは良かったですね、質疑応答楽しみにしてますよ」と、西島さんに言った。

 

 会議室ではホテルのスタッフが珈琲を運び込み、各メンバーのテーブルに配り始めた。一通り珈琲が行き渡ったのを見計らって、菊地さんが再びマイクを握った。
 
「え~それでは皆さんそろそろ始めましょうか・・」菊地さんの声にざわついていた室内は落ち着きだし皆それぞれ元の席に戻った。その様子を観て菊地さんが続けた。

「それでは、皆さんお待ちかねの質疑応答に入らせていただきます」そういって、彼は山梨側のメンバーに向かって、発言を促した。

西島さんが先ず手を挙げて、マイクを握った。

 
「先ほど来、貴重かつ好奇心をくすぐるお話を伺い大変満足してるです。また貴重な資料などもいただき、誠にありがとうございました。
 
私自身ワクワクしながらお話を聞かせて貰ったし、こちらのメンバーも同様であると皆口を揃えて言っております。ほんとに函館まで来た甲斐があったと、感謝してます」西島さんを始め、山梨のメンバーは頭を下げた。
 
「他のメンバーからも、改めてお尋ねすることもありますが、こちらでちょっとまとめた事を、私の方から代表してお聞きした上で、追加でうちのメンバーが質問などをさせて頂けたら、と思います。宜しくお願いします」
西島さんは菊地さんを始めとした北海道側の出席者に感謝の気持ちを述べた上で、更に話しを続けた。
 
 
「先ずは『雷公神社』についてなんですが、こちらの祭神が荒木大学や金山開発に関わる神さまではなく、別け雷の神であったのには何かいわれがあるんでしょうか?その辺を教えて頂けたら、と嬉しいです。
 
二番目は荒木大学を始めとした金山衆が、『アイヌに襲われた』って話がありましたが、アイヌの人達に襲われるような何か原因みたいな事でもあったのでしょうか?その辺も判ってたら教えてもらいたいです。
 
三番目は金山衆が甲斐之國からやって来た、としてなんですが、その金山衆が『何らかの理由で故郷の甲斐之國に帰った』といった、記事とか記録が『大野土佐日記』やそのほかの伝承には、一つも無かったのでしょうか?その辺も知りたいです。
 
 
最後になりますが、荒木大学の家宝といわれた『金の鶏の像』の事ですが、もっと細かい言い伝えとかがあったら教えてもらいたいです。
と言いますのはこの金の鶏の話は、実は甲州金山の始まりと言われている『黒川金山』に、非常に関わりのある事でして、先ほどの知内の方のお話の時に私達がざわついたのには訳があったからです。
 
その理由については、お話を伺った後おいおいこちらから、話させていただくつもりでおります。とりあえず私の方ではこれら四つほどの点を教えて頂けたらと思いますので、宜しくお願いします」
 
西島さんの質問を受けて、菊池さんは函館・知内チームと短く話し合って内山さんにマイクを渡した。内山さんが話し始めた。
 
 
「先ず雷公神社の祭神についてですが、これに関しては『大野土佐日記』にも書いてあるんですが、荒木大学様が寛元二年1244年に京都の上下の賀茂神社にお願いして、分祠して勧進したと記録が残っております。
何故そのような事を行ったかの理由についても、書かれております」内山さんはそう言って、手元の資料をめくった。

「先ほどの資料の3ページをちょっと見ていただきたいのですが、『三十余年』という小さな見出しが書いてあるとこですが、ここに

三十余年然る処、当知り内に限り山々震動いたし候事、既に三年におよび・・』と書いてある通り、知内で3年間に亘って地震や山鳴り、山崩れといったことが続きました」内山さんはそこで皆の顔を見た上で、話を続けた、 

「その事が原因で大学様が、堀子を始めとした金山開発の従事者達の人心を落ち着かせるために、天変地異を鎮める神様である京都の上下の賀茂神社の祭神別け雷の神を分祠した、という訳です。

その使者として大野了徳院を京に派遣したと、『大野土佐日記』に書かれてます。とりあえずこんな感じで宜しいでしょうか?」内山さんの問いかけに西島氏が頷いた。

 

 「続きまして、大学様を始め金山衆がアイヌの人達に襲われた件についてですが、これには知内川が関係しています。この知内川は金山開発が行われた川でもありまして、それが原因に成ってるんです。

知内のほぼ真ん中を流れている知内川は、太古より鮭の遡上する清流でもありました。秋口になると多くの鮭が産卵のために、津軽海峡から知内川に遡上して来るんです。これは今でもそうなんです。
 
鮭は知内川を遡上しに来ます」内山さんは『しりうち文化財散策マップ』を使って、知内川を指し示して言った。
 
「ご存知のようにアイヌの人々は、鮭を主食として生活をしてましたので、鮭の遡上は生活の基本であったわけです。和人にとっての米と同じですね。
 
ところが、毛無嶽周辺から金が採れなくなってから知内川の中流で金山開発が行われたものだから、川が汚れて鮭の溯上が途絶えてしまいました。鮭は清流でしか、産卵しませんので・・。
それが原因で、アイヌの人々が怒り集団で大学様を始めとした金山衆を襲ったんです」内山さんは再び西島さんを見て、同意を得た。
 
 
「この時の襲撃によって知内の金山衆はほぼ全滅した、と伝えられております。『大野土佐日記』によりますと、文応元年三月中旬西暦1260年の事です。大学様ご一統が知内に来てから、55年経った年にあたります」
内山さんの説明を清聴していた山梨のメンバーは、ここで多少のざわつきを起こした。荒木大学をはじめとした金山衆の全滅と聞かされたことが、少なからぬショックだったのかもしれない。
 
「因みにこの様な問題は大学様の時に限ったことではなく、後に江戸時代に入ってから、松前藩が金山開発を全道で進めた時にも、同じような事件が起こっております。
その時の争乱によって江戸幕府から、松前藩の金山開発が禁止される事態にまで発展しました。有名な『シャクシャインの乱』がその事件です。
 
まぁ先住者であるのアイヌの人々にとって、清流が金山開発で汚されて主食の鮭が溯上しなくなるのは死活問題ですから、この様な争いに発展したんですね」内山さんはそう言って、西島さんを始めとした山梨側の面々の反応を確認した上で話を続けた。
 
 
「三番目のご質問の『金山衆が故郷の甲斐之國に帰った』といったことに関する記述が、『大野土佐日記』等の記録に残ってないか、といったご質問ですが、残念ながらそういった記録や伝承は、明確な形では見つかっておりません。
 
しかしながら、先ほどの地震・地鳴り・山崩れなどが起こった時が3ヶ年続いて、堀子や金山衆の人心が乱れたといった記載がある事や、文応元年のアイヌの襲撃が行われる4・5年前から、そういったうわさが流れた時に・・」ここで内山さんはもう一度、手元の資料を見ながら読み上げた。
 
 
「『建長六年の比より夷乱の取沙汰、もっぱら諸人片唾をんで音信を窺ふ、折節なれば皆々故郷を観(かえり)みる時節也
といったことが土佐日記にも書かれておりますので、アイヌの襲撃を怖れて堀子達が、甲斐之國を始めとした各人の故郷に帰った可能性を、推察することは出来ると思います・・」と、内山さんは言った。この説明に西島さんは大きく肯いた。
 
 
「最後に『金の鶏の像』の件ですがこの件については、私よりもこちらの福佐さんの方が詳しいので、福佐さんにお願いしたいと思います」内山さんはそう言って、マイクを福佐さんに渡した。
福佐さんはマイクを取ると簡単な挨拶を済ませ、すぐ本題に入った。
 
 
「お尋ねの『金の鶏の像』についてですが、詳細に書かれた記録があるわけではありません。『大野土佐日記』にも具体的な事はなんも書かれてないですが、かつて真藤寺があったとされる、知内の湯の里地区には今でも言い伝えとして残ってるです。
 
ただ、松前藩士が松前藩の記録や伝承についてまとめたと言われている『松前落穂集』という古文書に、先ほどの内山さんがしゃべったようなことが書かれていたと、言われてるです」福佐さんは手元の資料を見ながら、説明を続けた。
 
 
「文応元年のアイヌの襲撃に遭遇した大学様が、家宝の黄金の鶏を真藤寺の井戸に埋めて松前に逃れたと、言ったふうに書かれてるです。
ただ残念なことにその『松前落穂集』という古文書は今なお見つかっておらず、伝聞の域を出ないのが現状です。
 
尚不思議なことにその井戸に埋めたはずの金の鶏の声が、真藤寺の井戸の辺りからたびたび聞こえたのを村人が聞いた、といった伝承も残っているです」
福佐さんは若干緊張気味に、北海道弁を交えて説明してくれた。それを聞いていた杉野君が、西島さんに尋ねた。
 
 
「先ほどの質疑の際に、甲州の黒川金山と関わりがある話と言われたのは、どんなことだったんですか?宜しかったらお聞かせいただけませんか?」杉野君の質問を受けた西島さんは、マイクを取って話し始めた。
 
「え~と実はですね、その『黄金の鶏の像』というのは黒川金山の金山衆である、黒川衆にとってとっても大切な、金山開発のシンボルだった様です。
因みに黒川金山というのは、山梨の北側の甲武信連山の一画に在る黒川山という標高1700m級の山の中腹にある金山です。
 
因みに、この山の近くには中里介山の小説でも有名な『大菩薩峠』がありまして、東京都や埼玉県との県境になっている山の一つです。
この黒川山の別名が『鶏冠(とさか)山』と呼ばれてるです」と、西島さんがここまで話した時、山梨側の出席者から、

「逆、逆、鶏冠山が正式な名前だよっ」といった訂正の声が上がった。

 「あれっ間違えちまっただけ・・、って!困っちもうじゃん・・」と、西島さんが甲州弁で慌てて漏らした。それを聞いた北海道側の出席者からどっと笑いが起きた。

 

「いや、失礼しました訂正するです。鶏冠山が正式な名で通称が黒川山でした・・」西島さんは悪びれる風もなく、むしろ今の笑いで緊張感がほぐれたのか、にこにこ顔になって話しを続けた。

「話を戻しますけんが、その鶏冠山は名前の通り鶏の冠(かんむり)の山って書くですが、山頂が鶏(にわとり)のトサカみたいに成ってましてそんな風に呼ばれてるです。
ほれで黒川衆にとって立派なトサカのついた鶏は、黒川金山のシンボルでもある訳です」西島さんはすっかり甲州弁に成って、話し始めた。

「因みに黒川衆というのは、甲州で最も歴史があり権威がある甲州金山(かなやま)衆のこんで、その後山梨で続く全ての金山衆のルーツでもある、鉱山開発の専門家・技術者集団です。

だもんだから荒木大学が『黄金の鶏の像』を家宝にして、身近な場所に置いておいたってこんは、荒木大学が甲州金山衆の出身、中でも最も権威ある黒川衆の流れを汲む、金山衆の幹部だった可能性を示唆するこんになるわけです」西島さんは甲州弁で『黄金の鶏の像』と黒川衆の関係について、語りだした。

 「ほれでさっきの内山さんの『黄金の鶏の像』の話の時に、みんなビックリしちまった訳です・・」西島さんは杉野君や内山さんに向かってそう話し、北海道側のメンバーの顔を見て続けた。

 
 
「あと一つついでに言っちまいますが、先ほど『大千軒岳』の話が出ましたですよね、この辺りで一番でっかい山で、金山でもあったと云う・・」西島さんは内山さん達に語り掛けるように、話しを続けた。
 
「その山を別名、浅間山の浅間って書いて『浅間岳』とも言われたと・・。
実は、鶏冠山にも金山の開発が活発だったころ、堀子や黒川衆の家が千軒あったと言われて、通称『黒川千軒』って場所があるですよ。山の中腹で、金山開発の遺跡が発掘されて史跡が残ってる場所にです・・。
これも多少は、関連してるかもしれんですよね。
 
まぁ○○千軒って名前は、ここに限らずいろんなとこで呼ばれてる名称だからちょっと弱いですけんどね・・」西島さんはここで少し話のトーンを落とした。
 

「ほれからご存知かもしれませんが、富士山を祭っている富士宮市の富士宮神社の正式名称は『富士山本宮浅間(せんげん)大社』って言うですよね。浅間岳と浅間大社と同じ字ですね。

因みに黒川衆にも関わりがあると推察できる富士金山の場所は、この富士山の浅間大社からそう遠くない場所に在る金山なんです。これはまぁ、ただの偶然の一致かも知れんですが・・」西島さんはそう言って、一呼吸置いた。

「私の方からの話は以上ですが、甲州金山博物館の秋山館長から幾つかお尋ねしたいこんがあるようなので、代わります」西島さんはそう言って、マイクを秋山館長に渡した。

 

 

 

       『 大野土佐日記 』による真藤寺の記述(吉田霊源版16ページ)

 

大学どのには、出石丸山に城郭をお構い成され候らいてより、即ち此処に菩提寺をご建立成され、右菩提寺において、庭はいおしつらい諸木万草を植え置き、四季の眺め暇あらずと也。

とりわけ方数十間にて藤棚を架かせられ、真藤一面にしてその華咲けるころおいは、誠にもって紫の雲の如くにして、寺中この華のために目を驚かせしとや。

  
 
          「鶏冠山」についての記述
 
              (『甲斐黒川金山』塩山市教育委員会1997年、208ページ)

 現在、鶏冠権現は鶏冠山山頂の奥宮と高橋集落の里宮とに分かれて存在するが、里宮は江戸時代に奥宮から勧請されたものと伝えられている。

ところが、享保十八年(1733)に一之瀬高橋の氏子が鶏冠権現の神主を兼ねていた上於曽菅田天神社の神主、河内守に宛てた書状によると、当時黒川山中には、下から順に

「魔王」「天神」「鶏冠権現」「東照権現様」「鶏冠山」という五つの神社ないし祠が存在し、そのうち「鶏冠権現」と「東照権現様」の二社を高橋に勧請したと書かれている。

 

 

                  
      
 
 
 
 

 渡来古銭

 
 
西島さんからマイクを受け取った甲州金山博物館の秋山館長が、質疑を始めた。
「甲州金山博物館の秋山です。私の方からも2・3お尋ねしたいことがありますので、宜しくお願いします」秋山館長は軽く頭を下げ挨拶をして、質問内容を話し始めた。
 
「具体的には先ず、知内町ではこれまで金山開発が行われたと伝承されている辺りや、荒木大学さんの城郭跡とされた地域の、発掘調査とかの考古学的な検証をされたことは、無かったんでしょうか?」秋山館長はここで知内のメンバーを見た上で、話を続けた。

「と申しますのは私共山梨県では、1986年昭和61年に黒川金山の総合学術調査を実施して以来、平成元年から3年間に亘って私が現在勤めております湯之奥の金山跡についても、総合学術調査が行われたんです。

これはまぁ例の『ふるさと創生事業』の一環として、あの時の自治体への特別交付金を使ってやったわけです・・」秋山館長はやや自嘲気味に、そう言った。

 

「いずれにしましても、山梨では史書や伝承などの文献学的な検証や民俗学的な検証と共に、遺跡発掘などの考古学的な検証を行ってきたわけです。その時の一連の調査によって、甲州金山全般についての学術的観点からの検証が行われました。   

その時の調査結果がベースになって、それから様々なプロセスを重ねて今の博物館を造ることが出来、現在に至っているのです。

ですから知内においても、私達の時と同じような総合学術的な調査といいますか、とりわけ考古学的な検証とか、そう言ったプロセスがなされて来たのか気になってお尋ねしたわけです」秋山館長は、再び知内のメンバーを見ながら話した。

「それから二番目にお伺いしたいのは、どこだったか名前は忘れましたが道路工事の時に出土されたと言われてた中国の古銭の事なのですが、その時発掘された古銭の種類といいますか、古銭についての細かい情報とかは判るんでしょうか?
もし細かいことが判るようでしたら、ぜひとも教えて頂きたい・・。
 
と申しますのも黒川金山での発掘調査の出土物の中に、13世紀頃の(かめ)などと共に中国の北宋を中心とした渡来の古銭が発見されているからなんです。その数は百枚には満たなかったと記憶しています」秋山館長は記憶をたどりながら、話を続けた。
 
 
「いずれにしてもその渡来古銭、銅銭なんですが、それとこちらの知内で発見された古銭とに共通点が無いだろうか、と思ったわけです。
もし共通点があれば、荒木大学と甲州金山衆の関係性がよりはっきりと観えて来るのではないかと、そう想ったわけなんです。その辺は実際のところどうなんでしょう?

古銭について何か細かい事とか、判るんでしょうか?古銭の種類とか、その種類の構成とか・・。大いに、気になるところです」館長はここで知内のメンバーを見て、また続けた。

 「実は黒川金山の開発は武田信玄公の戦国時代後半が一番活発に行われてまして、その頃の遺跡は相当数発掘されてるんですが、鎌倉時代の遺跡は殆ど出土してないんです。

そのためこちらの荒木大学でしたか、その方との関係を結びつけるような遺跡や出土品といった様な、物的証拠といいますか考古学的な証拠や根拠が、殆ど無いというのが実情なんです。残念なことに・・」秋山館長はここで一息入れ、話しを続けた。

 

「荒木大学さんに関連することが推測できる、甲斐源氏の武将安田義定公の金山開発に関わる伝承につきましても、伝承は幾つかあるのですが具体的にそれを検証する歴史的遺物が、殆ど見つかって無いというのが実情なんです。

ですからこちらで発掘されたという中国の古銭の中に、黒川金山の発掘調査時に出土した古銭と重なる点があれば、グッと黒川金山と荒木大学との関係が近づいて来るんです。

山梨にとっても、これまで伝承にしか過ぎなかった安田義定公の鎌倉時代の黒川金山の開発を検証する、有力なエビデンス(証拠)になってくるんではないか、と期待してるんです」秋山館長はそこで話を一旦、切った。
 
 
古銭の話には北海道のメンバーも興味を惹かれたようで、ちょっとしたざわめきが起こった。
「そういう訳ですので、知内で発見された古銭についてもぜひとも詳しく教えて頂きたいのです。黒川の出土品と比較検討してみたいのです。
 
因みに黒川金山の総合学術調査発掘時に発見された古銭については、遺跡で発見された古銭は通貨として使用されることが多いため、後代に至っても流通している事が多くみられるといった事から、あまり重要視されてこなかったという経緯があります。

残念なことに当時一緒に発掘された12世紀の渥美焼の甕や、13・4世紀の常滑の甕に比べ重要視はされてこなかったんですね」秋山館長はしきりに古銭の評価が低い事を残念がっていた。

 

「しかしもし知内で発見された古銭との共通点や類似性があるとすると、がぜん注目度が上がり、今まで判らなかった黒川での鎌倉期の金山開発を裏付けることが出来る。その可能性が高まって来るんです。

私としましては、知内の古銭の種類を教えてもらって山梨に戻って、黒川金山で発掘された銅銭の記録とぜひ突き合わせてみたい、比較検証してみたいと思っています。

ですから、ぜひとも宜しくお願いしたいんです」秋山館長は明らかに興奮気味で、彼が古銭に対して相当期待している様子が私達にも伝わって来た。

秋山館長の質問を受けて、知内のメンバーと杉野君が協議をした上で、内山さんがマイクを取って話し出した。

 

「知内では『大野土佐日記』についての文献学的分析は、偽書扱いされている事もあって、残念ながら充分なされているとは言えません。また伝承などの言い伝えについても、民俗学的分析が充分成されているとは言えないのが現状です。
     
まぁ我々郷土研究会のメンバーが拾い集めた記録が多少残っている程度でして、誠にお恥ずかしい限りです・・」内山さんはホントに恥ずかしそうに、そう言った。
 
「考古学的には縄文時代などの遺跡の発掘調査や、江戸時代初期の松前藩の時代のものは行ってますが、大学様に関わる遺跡の発掘などは行ってません。・・誠に残念なことです。

ただ二番目のご質問へのお答えになるかも知れませんが、涌元で発見された古銭については、函館高専の学生が細かく分析しており、公表されています。

因みにその高専の学生たちは、涌元から出土した古銭千枚近くを調べて報告しています。現在でも古銭の整理分析は続いてまして、その都度の報告がなされてます。

詳細資料がありますので、後でコピーしてお渡ししたいと思います。参考にしてください」内山さんの説明に、秋山館長の表情がパッと明るく成った。

 
 
「概要としましては殆どが中国の銅銭でして、唐の時代の612年から明の時代の1433年までの820年間の通貨が、全部で39種類ほどあります。
        
それを大学様が知内に来られた1205年を境にして分類・区分しますと、それ以前の通貨が754枚で全体の約76%程度になり、それ以降は237枚で約24%といった区分けが出来ます。
 
また大学様入部/入郷後の237枚の内、205枚とその殆ど86%が、1408年の明の永楽通宝が中心です。室町時代ですね・・。大学様以前と以後では、圧倒的に大学様が来られた前の通貨が多くなってます。
 
ですから、渡来通貨の性格上大学様御一統が持ち込んだ可能性は高いのではないかと、私などはひそかに思ってます。
 
また銅銭の種類すなわち銅銭が鋳造された年代についても、同様の傾向を示してまして、全39種類の内大学様以前が31種類と約8割、大学様以降が8種類約2割ということになってます。やはり・・」と内山さんがここまで話した時、秋山館長が我慢できなくなったのか口をはさんできた。
 
 
「通貨の流通には、中国大陸から鎌倉時代初期の日本に伝わって来るのにも、数十年は掛かったでしょうから、荒木大学が知内に来るまでに作られ流通していた古い通貨が、圧倒的に多いという事はやはり荒木大学や金山衆の蝦夷地上陸が、知内での古銭流通のきっかけに成っていると期待出来そうですね、なるほど・・。
 
ところで荒木大学始め金山衆がアイヌの人達の襲撃を受けて、滅びたとされているのは、いつ頃でしたか?」
 
秋山館長の問いに内山さんは資料を取り出し、確認した上で応えた。
「『大野土佐日記』に依りますと歴仁元年より6・7年後、という事ですんでえ~と寛元二・三年に当たりますね。西暦で言いますと1245・6年頃ということに成ります」
 
「なるほど1245・6年ですか、ありがとうございます。因みに1205年の知内上陸からその1245・6年の間、大体40年近く経っていますが、その40年間に造られた中国の通貨というのは何枚くらい発見されてるんでしたか?」秋山館長は更に突っ込んで尋ねた。それに対し内山さんは、

「その40年間の通貨は2枚です。たったの2枚ですね」と応えた。

 

「なるほど、千枚中のたったの2枚なんですね、ふむ。ってことはやっぱり荒木大学や金山衆の上陸の前と後ろでは全然違ってるんですね、判りました。
更に彼らがアイヌの人達に襲われてしまってからも、永楽通宝を除くと殆ど新しい通貨が入ってこなかった、という事に成るんですね。
 
2百年近くたって永楽通宝が登場する迄は、殆ど新しい通貨が入って来なかったわけですね。うむ、良く判りました」秋山館長はせっかちなのかポンポンとそう言った。
 
 秋山館長は、少し考えてから、また続けた。
 
 
「やっぱり彼らの金山開発の前と後で、だいぶ古銭の集積度合いが違う訳ですね、いや参考になりましたありがとうございます。それからその古銭分類の資料、もし分けてもらえるのでしたら是非ともお願いします。
やってみたいことがあるんです。山梨に戻ったら、早速黒川の古銭と比べてみたいと思ってるんです」

秋山館長はやはりせっかちな性分のようだ。頭の回転も速いのだろうが、自分が頭の中で描いたことをすぐ口にした。

「具体的には1205年を境にして、発見された銅銭の種類のシェアや枚数の分布状況に注視して比較してみたいと思うんです。

というのもご存知だと思いますが、日本国内の遺跡などで出土している渡来銅銭は、北宋時代のもののシェアが最も多くなっていますから、単純な1205年前後区分の銅銭の比較だけでは、不十分だと思われるんです。
 
枚数にも多い少ないがあるでしょうから、銅銭の種類の分布状況、即ちシェアでの比較分析が必要なんだと、私はそう思っています。
まぁ、そのあたりにも注意しながら比較分析をやってみたいと思ってます」秋山館長は専門的な観点からの分析視点を交えた話を、終えた。
 
 
秋山館長の話を聞いていた久保田さんが西島さんに尋ねた。

「結局どういうこんで?」

「ん?結局か?結局は銭の種類の混ざり具合がどんだけ似てるかを比較分析してみてぇ、って館長は言ってるだよ。黒川と知内の古銭を比べてな・・」西島さんの解説を聴いてた秋山館長は、隣りで笑いながら肯いていた。

 先ほどのやり取りで秋山館長が総合学術調査について、あえて突っ込まなかったのは、内山さん達に対するある種の思いやりなのかもしれないな、と私は感じた。

 

「いやぁ、こちらこそありがとうございます。さすが金山開発の専門家でいらっしゃる、そのような明確な仕分けや分析の仕方はオレ達これまで思ってもいなかったです。勉強になります。それから、山梨の黒川遺跡の古銭との比較分析の結果が出ましたら、ぜひとも私共にも教えてください。

 
大学様につながる数少ない、考古学的証拠にもなるかも知れないんで・・。こちらこそ宜しくお願いします」内山さんと共に、菊地さんを始め砂金研究会のメンバーも一緒に肯いていた。

 

秋山館長の質疑に区切りを感じたのか、菊地さんが山梨のメンバーに向かって、

「その他、どなたか質問される方や、お話しなさりたい方はいらっしゃいませんか?」と、尋ねた。

それを受けて藤木さんが手を上げ、発言を求めた。

 

 
                                                  
 
 
 
 
 

 黄金の鶏の伝説

 
 
「宜しいですか、甲州市塩山の藤木です。黒川金山や安田義定公について多少、研究している者です。宜しくお願いします。

質問ではなく、先ほどの『黄金の鶏の像』に関して若干の補足説明をさせていただきます」藤木さんは軽く会釈をした上で、本題に入った。

「黒川金山の黒川衆にとって、金の鶏が金山開発のシンボルであったと西島さんが言われたのはその通りです。が、実際にはシンボル以上の存在として扱われていたと言っても良いと、私は想ってます。

と言いますのは、黒川衆は『黄金の鶏の像』を『鶏冠権現』神社の、ご神体として鶏冠山の山頂で祀っていたと考えられるからです」藤木さんの金の鶏の説明に、知内のメンバーからどよめきが起こった。

藤木さんは話を続けた。

 

「古文書などの記録や伝承によりますと、黒川衆にとって金の鶏は金山開発の神さまの御神体であったと考えることが出来るんです。
 
ですから、荒木大学さんや金山衆が『大野土佐日記』に書かれているように金山祭りをやっていたとすると、その『黄金の鶏の像』をご神体として祀っていたに違いない、と思うんです。
そのくらい金山衆にとって金の鶏は大きな存在なんです」ここで藤木さんは知内のメンバーを観て言った。
 
「たぶん、これはまぁ推測になるのですが、大学さん達は黒川山の鶏冠権現に類する神社を知内にも作り、金山祭りを執り行い、そのご神体を祀っていたと考えることが出来ます。そのように大事にしていたご神体を、荒木大学さん達黒川衆は40年近くお守りしてきたんだと思います。

そうであったから先ほどのお話の、アイヌの人達の襲撃に遭った時、大切なご神体を真藤寺の井戸に隠したんではないかと思います。そう理解すると、この伝説はとても辻褄が合います」ここで藤木さんはもう一度北海道のメンバー、とりわけ知内のメンバーの反応を確認しながら、話しを続けた。

 

「ですから先ほどの真藤寺の伝説ですか?その伝説をお聞きして、荒木大学さん達が、黒川衆の流れを汲む金山衆に間違いないと、私は思いました。そして彼自身は、その頭領であったと申し上げて差し支えないんじゃないかと、私自身は推察しています。

この後立花さんから荒木大学と甲州金山衆について、より具体的なご報告があると思いますが、この黄金の鶏の話はそれに加えて、更なる検証の証になるのではないかと私は想っています」

藤木さんが、静かな口調ではあるがきっぱりとそう言い切ったのを聞いて北海道のメンバーから、嬉しそうな声が湧き起こった。

中でも内山さんと福佐さんは明らかに興奮している様子が、離れていた私にも観て取ることができた。藤木さんの話を受けて菊地さんがマイクを取って、話を進めた。
 
 
「いやぁ~面白いですね。金の鶏の伝説を山梨の方達の視点で分析するとそう云う展開になるんですね。いや、ありがとうございます・・。             
私達もますます、勇気が湧いてきました。ほんとに貴重で、心強いお話ありがとうございました」菊池さんは藤木さんにそう言って感謝の言葉を述べた。
 
「お話を伺うまでは率直に云って、私達金の鶏のお話にそんなに深い意味があるとはつゆ知らず、でした。正直なところ、我々研究会のメンバーの間では面白そうなエピソードの一つくらいにしか考えていませんでしたから・・。
           
内山さんや福佐さんも、今のお話で多分この逸話に対する考えが大きく変わったのではないかと思いますし、眼の前がパッと明るく開けたのではないでしょうか・・。

そして何よりも、興奮しておられるのではないかと想います。かくいう私も興奮してます・・」菊地さんはそう言って、二人を見た。二人は大きく肯いて、菊地さんに同意を示した。

 

 「藤木さん、改めて的確な解説と貴重な情報、ありがとうございました。我々皆な興奮しています・・」菊地さんはもう一度、藤木さんに感謝した。 

 「盛り上がってきましたのでこの好い流れのまま、続いて立花さんから当研究会に出された『検証レポート』に基づいた報告を、お願いしたいと思います。

尚このレポートに関しては、プロジェクトチームの中でも少なからぬ波紋を呼んでおりまして、レポートを機に議論が活発に巻き起こりました事を、感謝すると共にご報告申し上げておきます。
 
そういったことですので言うまでもありませんが、全員がレポートの内容を熟読していることを前提に、お話しお願いしたいと思います。では立花さん、宜しくお願いします」菊地さんはそう言って、私にマイクを渡した。
 
 
私は菊池さんの話を聴いて、レポート内容を単になぞるような説明はして欲しくないのだな、と感じた。

「皆さん、東京の国立市からやってきました立花です。冒頭の自己紹介でも申した通り、縁あって今回のレポートを書かせていただきました。

私自身は杉野君から話があるまでは、甲州金山のことも知内の『大野土佐日記』の事も全く存じ上げない、一介の市井(しせい)(やから)にすぎませんでした。

しかし杉野君から戴いた、知内の資料を読み『北海道砂金・金山史研究会』の皆さんの創られた諸資料やレポートを読むうちに、荒木大学や『大野土佐日記』の事を知り、大変興味深く読ませていただき、このプロジェクトに関わらせていただくことになりました」ここで私は、北海道のメンバーに頭を下げた。
 
 
「そのご縁があった結果、お手元の様な山梨の側からの視点に立った検証レポートを、作成させていただくことが出来ました。
その内の殆どは、こちらにいらっしゃる山梨側のメンバーの方々から教えて頂いた、貴重な情報や、的確なアドバイスのおかげでまとめることが出来ました。

中には、若干ですが私自身が静岡に行って調べて来た情報等もございますが、大部分はこちらのメンバーの方々から教えて頂いた情報や資料が殆どです。

ですから、先ず山梨のメンバーの方々のご尽力により、私の拙いレポートが作成されていることを皆様にご報告すると共に、感謝を申し上げたいと思います」私は今度は山梨のメンバーに向かって、頭を下げて言った。

「なお中身によっては、お話しいただいたことと異なる点があるかも知れませんが、その点は改めてご指摘いただけたらと思います」私はそう言って、報告を始めた。

 

 
                                 
                                                京都祇園祭:金の鶏「綾傘鉾ご神体」
 
 
 
 
 
 
 

 富士金山とは何か

 
 
「それではお手元のレジュメの7ページ目からの、私の提出いたしました『検証レポート』に沿って、ご報告させていただきたいと思います。が、先ほどの菊地リーダーからのお話にあったように、皆様方にはすでに熟読していただいていることを前提といたします。
 
 従ってここではポイントとなる点を中心にお話しさせていただきたいと思いますので、その点お含み置きいただきたいと思います。では、宜しくお願いいたします・・」私はこのような挨拶を述べた上で、レポートに沿って報告を始めた。
 
 「まず第一に『甲斐之國にいはら郡は存在したか』についてですが、その疑問につきましては、YES です。
「では一体その『甲斐之國いはら郡』とはどこかと言いますと、富士山麓の西麓で、朝霧高原や毛無山等の在るエリアが該当します。
 
現在の地名で言いますと富士宮市の北部及び富士市の一部で、潤井川沿いで富士川の東岸に当たるエリアだと思っています」私は北海道のメンバーに向かって説明を始めた。
 
 
 「このエリアは鎌倉時代の初期に、鎌倉幕府創成に尽力した甲斐源氏の武将である安田義定公が、駿河之國の平家方の目代要するに代官ですね、この勢力との戦いに大勝して獲得したエリアになります。
 
『吾妻鑑』にも書かれている通り富士山北麓の源平の戦いである『波志太山の戦い』で、安田義定公が勝利した事で獲得し、実効支配したエリアです。
波志太山から富士川に至る甲斐之國の都留郡の一部と、富士山西麓の駿河之國庵原郡の一部を含むエリアで、そのほぼ中央を潤井川が流れています」私は説明を続けた。
 
 
 「そしてその安田義定公が支配し領地とした期間のみ、『甲斐之國いはら郡』が存在したといって良いのです。言わば期間限定で甲斐之國のいはら郡が存在したことに成ります。そのためにこの存在を知っているのは、ほんの一部の人間になってしまっているのです。何しろ、八百年も前のことですから・・。
 
ポイントは、鎌倉時代初期のこの期間限定にしか存在しなかった『甲斐之國いはら郡』について『大野土佐日記』に書かれていた、という点にあります」私はここで、北海道のメンバーに向かってこの点を強調した。 
 
 
「因みにこの期間は14・5年間続いたのですが、実はこの期間限定であるという事が、結果的に『大野土佐日記』の信憑性を強く裏付けることに成っています。
何故ならば、この世間一般では殆ど知られていないレアな情報が、この『大野土佐日記』に明記されているのは、当事者しか知り得なかった情報であるから、なんです。
 
また、ここでは何故『甲斐之國いはら郡』と呼ばれたのかについて、明確にしておく必要があると思います。というのもこの時点で駿河之國には二つの『庵原郡』が併存していたからであります。
 
すなわち、駿河之國の国守武田信義が治めていた『駿河之國庵原郡』と共に、弟で遠江之國の国守安田義定公が治めていた『いはら郡』が同時に存在したのです。
 
実際には『駿河之國庵原郡』を割譲したことから、この様な事態が生じた訳です。
富士山西麓のいはら郡を、あえて『甲斐之國いはら郡』と呼称することで、二つの庵原郡を区分することが出来たわけです」
 
私は、この件が参加者に理解してもらえたかを確認するべく、尋ねた。
「ここまでは、宜しいですか?」私の問いに、特に異論を唱える人はいなかった。
 
 
 「尚、『甲斐之國いはら郡』が期間限定になってしまったその原因は、平氏追討に多大な尽力をした安田義定公が、源頼朝の周到な策略によって建久五年西暦の1194年に一族もろとも滅亡させられたことに、起因します。 

この頼朝と義定公の確執は実に興味深い話なんですが、今回の主題とは外れてしまいますので、敢えてここでは触れないでおきます。機会があったら、お話ししたいのですが・・。今回は見送らせて頂きます」私はそう言って話を続けた。

 
 「話を戻しますが、ポイントは現代でも鎌倉時代初期を専門的に研究している歴史研究者でしか知り得ないような、ニッチで専門的な知識が江戸時代初期に作成されたという『大野土佐日記』に書かれていたという点にあるんです。

言うまでもなく、当時の北海道は蝦夷と言われた辺境の地でありましたし、その辺境の地の更に片田舎といって良い渡島(おしま)知内の雷公神社の宮司さんが、どうやってこの事実を知っていたのか、という事が重要なんです。

例えば宮司さんが『吾妻鑑』でも読んでいたのではないか、と思われる方もいらっしゃるかもしれませんが、当時『吾妻鑑』を読むことが出来たのはほんの一部の権力者だけなんです。

江戸時代初期と云えば、現在の様に出版物や歴史書が沢山出回っていたわけではありません。歴史の授業もなければ百科事典もありません。インターネットでサクサク調べることも出来ませんでした。

 

更に言うまでもなく『吾妻鑑』は、『曽我物語』のような大衆向けの読み本でもありませんから、普通の人の目につくことはありません。

巻数も50巻程度あった大著です。実際のところ鎌倉幕府の正史である『吾妻鑑』を当時読むことが出来たのは、黒田官兵衛や徳川家康といった一握りの権力者に過ぎなかったんです。
 
もっと言えば、当時『吾妻鑑』の存在自体を知っている人は殆ど居なかったと思います」私はこの点を北海道のメンバーに特に強調した。
 
「従ってこの様な期間限定の事実、一般の人では到底知り得ることのできなかった情報が、この『大野土佐日記』に明確に記載されている。その事こそがこの古文書の信憑性を高めている、と言っても良いと思います。

では、歴史の専門家でもなく当時の権力者でもない彼らは、どうしてそのことを知ったのか?が問題になります。

その答えは、彼らが当事者であったからです。当事者だから『甲斐之國いはら郡』と書くことが出来たのです。
彼ら自身が甲斐之國いはら郡からやって来たその本人達だったから、そのように言い伝えもし、記述することが出来たのだと思います」
私はこの時知内のメンバーを観た。彼らは嬉しそうに何度も肯いていた。
 
 
 
「ところが『北海道史』を書いた明治・大正時代の歴史学者は、庵原郡は甲斐之國ではなく、駿河之國の郡だと信じて疑わなかった。
 
だからこそ、本来駿河之國の庵原郡だったのが期間限定で甲斐之國の支配下だった事を知らないままに、同書偽書説の有力な根拠にしているのだと、私は推測しています」
私はここで西島さんに目配せをした。西島さんは満足そうに肯いていた。
 
「因みに当時の庵原郡というのは富士山の西麓から、南麓に当たるエリアになります。富士の南麓は現在の富士市や静岡市の由比・清水及び富士宮市の一部に当たり、温暖な気候で農作物が良く育つ、地味豊かな地域であります。

それに比べ富士山西麓は標高が700m級の高原地帯で、土地は広いのですがその気候では稲作や畑作には適してはいません。

ですから、当時の農業技術や生産力から言ったら耕作の対象にならない瘦せた土地、といった評価しか得られなかったような地域なんです。

稲作の荘園を経済や社会の単位としていた平安時代にあっては、対象外の地域なんです。ところがその痩せた土地が安田義定公にとっては、とても魅力ある領地であったのです」私は改めて、北海道のメンバーの顔を観て言った。
 
 
「何故ならば標高の高い高原地帯は馬の畜産、育成に適した土地であるからです。
高原地帯は彼らが甲斐之國で進めていた畜産業である、甲斐駒と言われた騎馬武者用の軍馬を育成し、調練するのに適した場所でもあるのです。
 
 義定公が甲斐之國の牧之荘の乙女高原等でやっていた事業を、より大規模に展開することが、この富士山西麓では可能だったわけです。
そしてもう一つ大事なことがあります。それは金山の開発です」そう言って、また私は参加者の顔を見た。
 
 
「安田義定公は甲斐之國に於いても、金山開発を奨励してきた領主です。先ほど来話題になっています黒川金山は、牧之荘の奥にある山なんです。
 
義定公の領地経営の特徴は、従来の稲作の農業主体の事業を中心に、甲斐駒を中心とした騎馬武者用の軍馬の畜産業および金山開発による鉱山開発業を、付け加えている点にあります。当時の一般的な領主が殆どやっていないことなんです。
 
義定公は本貫地である甲斐の国牧之荘で実践してきた、畜産業と金山開発の可能性を富士山西麓で探って来た、といって良いと思います。そして富士金山が、将にその場所なのです」私はここで珈琲を飲んで一息入れた。
 
 
「富士金山と言いますと、西麓でも北側の山梨県の本栖湖に近い『毛無山』が有名ですが、毛無山自体は室町時代の15・6世紀の開発で、今川義元の時代が中心の様です。彼の出した御朱印も残ってますしね。
しかし義定公の鎌倉初期の頃は、もっと南側に下がった場所に在る『長者ヶ岳』ではなかったかと、私は想ってます」私はここで西島さんを見て微笑みながら言った。
 
「種を明かせばこれはこちらの西島さんの受け売りなんですが、私もこの春現地に行って実地検分したり、図書館などで調べてきました。富士宮市にはそれを裏付ける様な民話や伝承が、今でも残っています。
 
 かつて長者ヶ岳や、その山の麓の長者ヶ池と呼ばれた現在の田貫湖で、砂金や金片が沢山採れたといった伝説が残ってます。
更にこの長者ヶ岳と毛無山の間に金山と書いて『金山(かなやま)』、と言う名称の山があります。或いは、この山もそうであったかもしれません。
 

いずれにしましても、義定公の新領地である『甲斐之國いはら郡』には、富士金山が在ったと言っても良いのではないかと思います。従って、地味は痩せていて稲作や畑作には適してはいませんが、義定公にとって「いはら郡」は非常に魅力的な領地であったわけです。

そして、この義定公の領地である『甲斐之國いはら郡』の金山開発を担ったのが、黒川金山を開発していた、鉱山開発の技能者集団である黒川衆であります。
 
その黒川衆の中の、若くて有能な頭領が荒木大学だったのではないかと、私には推測することが出来るのです」私の説明に北海道のメンバーの一部から、拍手が起こった。
 
 「以上で、第一のテーマである『甲斐乃國に庵原郡は存在したか』に対する私の見解は終わりになります、ありがとうございました」私はここで一旦話を区切って、参加者のメンバーを観て言った。

「ここまでで、何かご質問はありますでしょうか?」私の問いかけに、大友さんがさっそく反応した。

 

 

 
          
 
 
 
 
 
 
 



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