春丘牛歩の世界
 
先週から、「行者ニンニク」が採れる様に成り、我が家の食卓にも乗るようになった。
行者ニンニクが採れる様に成ると、今年の春がやって来た事を実感する。
これまでの私の経験では「行者ニンニク」が生えてきてから、雪が降ったことは無いから、である。
 
 
      
 
 
野生の昆虫や動物たちが作る巣の位置で、颱風の影響を早い時期に推測できることがあるが、自然界の生き物たちは彼らなりのセンサーで、天候や自然現象を察知する能力がある。
そんな事から私は、「行者ニンニク」が我が家の林に生え始めることを、季節の到来のメルクマール(指標)にしているのである。
 
 
      
 
       
         
 
     
 
 
    記事等の更新情報 】
*4月19日 :「コラム2024」に、「青い春」と「チャレンジ虫」を追加しました。
*3月25日:「相撲というスポーツ」に「新星たちの登場、2024年春場所」を公開しました。
*2月8日:「サッカー日本代表森保JAPAN」に「再びの『さらば森保!』今度こそ『アディオス⁉』を追加しました。
*01月01日:本日『無位の真人、或いは北大路魯山人』に「無位の真人」僧良寛、或いは・・を公開しました。
これにて本物語は完結しました。
12月13日:  『生きている言葉』に過ぎたるはなお、及ばざるが如し」を追加しました。
*9月29日:「食べるコト、飲むコト」 に「バター炒め二品 」を追加しました。
*9月27日;「物語その後日譚」に「奥静岡の鶏冠(とさか)山」を、追加しました。
 
 

  南十勝   聴囀楼 住人

          
               
                                                                  

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         2024.05.01
              牛歩
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
   
      
本編は『安田義定と駿河・遠江の國-するがぢ編-』の続編に成ります。
富士山西麓において安田義定公の領地経営の痕跡を見つけた主人公と山梨の郷土史研究家たちが、さらなる痕跡を富士山本宮浅間大社の神事の中に発見することに成ります。
その義定公につながる新たなる痕跡は、今なお行われている「流鏑馬」神事の中において、見出すことが出来たのでした。
 
                       【 目 次 】
 
                              ①神事、神無駆けの儀
                              ②潤井川の川筋
                              ③「甲斐の勇者」と甲斐の騎馬武者
                              ④手越の宿
 
 
 

神事、神無駆けの儀

 
7時少し前にロビーに降りていくと、西島さんと藤木さんが既に待っていた。

ほどなくして、久保田さんがタブレットを手にしてやってきた。久保田さんは、そのタブレットを示しながら、

「面白れいこんが判ったよ!流鏑馬のこんで・・」そう言って、ニコニコしていた。
どうやら久保田さんは部屋に入ってからインターネットで、富士浅間大社の流鏑馬の神事について調べていたようだ。

私たちが尋ねると、久保田さんは

「落ち着いたら、ゆっくり話すじゃん。お楽しみは後で、あとで・・」ニコニコしながらそう言って、私たちにホテルを出ることを促した。

 

私達は、すっかり暗くなった富士の街に出て、夕食を取る場所を探した。選択基準は地産地消型の地元の飲食店で、個室スペースが確保できる造りになっている店かどうかだった。食事はもちろん、会話のできる環境であることが求められたからであった。

私が率先して、店をセレクトした。築地で長年鍛えた経験が生きるだろうと、自負していたからだ。私達は大きな提灯をぶら下げた、地元の魚介類をメニューにアピールしていた居酒屋を選んで、入った。
貫禄のある親父が店の中央にデンと構えており、炉端焼き風に食材をカウンター前にたくさん並べていた。大皿には煮物などの総菜が盛ってあった。

 

私は、案内の女将に個室が空いていることを確認したうえで、皆を招き入れた。

個室に通されて、落ち着いてからメニューを見た。

テーブルあつらえに来た女将に、地元の食材を使った料理を中心に注文した。静岡の駿河湾の食材という事で、魚料理が中心となった。

一息ついたところで、私は久保田さんに先ほどの流鏑馬の神事に関わる発見について話すことを促した。久保田さんは、嬉しそうな顔でタブレットを操作しながら、言った。

 

「あの後、集合時間まで時間があったから、インターネットで調べてみたですよ。浅間大社の流鏑馬のコンを。ほしたらね、面白れいコンがいくつか判ったですよ」久保田さんはそう言って、予めタブレットで検索しておいた浅間大社の流鏑馬の神事を紹介するホームページを示した。

久保田さんは、流鏑馬の写真が写ってるページを見せた後で、富士川河川敷の『水神社』で、神主や氏子が神馬や弓矢のお祓いをしている場面を見せて言った。

「こりゃぁ現在の禊(みそぎ)の儀式らしいけんが、昔はこの儀式はここの神社でやってたじゃなくって『鈴川の浜辺』でやってたらしいだよ。ここに書いてあるじゃんね」

私達は、久保田さんが見せる画像を見続けた。

 

「ほれで『鈴川の浜辺』の場所を調べてみたら、ずっと東っ側の田子の浦の近くになるコンが判っただよ、ほこは」久保田さんはタブレットを操作し、場面を替えた。

富士市の地図を映し出して先ずは「水神社」の場所を指し示した上で、右側に移動して「鈴川の海浜」を指さした。南南東に移動したようだ。

「水神社」は富士川沿いのJR東海道線と東名高速の、ほぼ中間に位置していた。海からは3㎞程度上流といった場所であった。その「水神社」から南南東に5・6㎞ほど下がった、駿河湾に面した場所に「鈴川の浜」は在った。田子の浦の地であった。

そこはまたJR東海道線吉原駅の南口近くでもあった。そして鈴川の浜の周辺には、大きな製紙工場や石油の備蓄施設が幾つも見受けられた。

 

「なるほど、この製紙工場やコンビナートの存在が、こっちの水神社に移った原因なんですかね・・」と私は言った。

「高度経済成長の頃は、富士市はヘドロで臭かっただよな・・」西島さんが応じた。

「田子の浦はそのメッカでしたね・・」藤木さんも続いた。

「ほんどうけん、鈴川の浜って富士川からはだいぶ離れてるじゃんね。5・6k(m)近くは離れてるだよ・・」と、久保田さんが言った。

「富士川もこの八百年の間に、だいぶ移ったってこんだよ」西島さんが言った。

 

「鎌倉時代から八百年の間に、治山治水の技術や灌漑・新田開発それにダムの建設なんかがだいぶ進んで富士川もおとなしく成った、ってことですかね・・」私はその時、利根川の氾濫を治めるために江戸川が徳川幕府によって開削されたことや、印旛沼・手賀沼の開拓が行われたことを、頭の中に描いていた。

「まぁ、ほういうこんズラ。富士川は日本でも有数の急流だからね。この辺りは大雨や台風なんかの度に川筋の氾濫が頻発して、でっかい扇状地でもあったらしいだよ。実際、鎌倉時代の紀行文『十六夜日記』には、富士川の川筋が数えたら十五瀬在ったって書いてるくれぇだからね・・」西島さんが言った。

「ほう、十五瀬も在ったんですか・・、それはそれは・・」私は感心した。富士川の川筋が思った以上に大規模であったからだ。

 

「当時は富士川と共に、今日見てきた潤井川も合流してたみたいですよ、田子の浦の手前辺りで・・」藤木さんが冷静に、補足説明をした。

「ん?ってことは富士山西麓とは川筋で繋がっていた、ってことですか・・」私は言った。

「そうですね、そういうことに成りますね。それから富士川の合戦の際に、平氏が陣を構えた場所は確か岳南鉄道の吉原本町駅の近くだったと思うから、鈴川の浜よりも何K(m)か 北に上がった場所になるんじゃなかったかな・・」藤木さんが続けた。

『平家越え』のコンけ?」西島さんがそう言って続いた。

「オレも三十年バッカ前に行ったきりだけんが、明日にでもまた行ってみるかって思ってるだよ。ほこへ・・」

「西島さんも行ったことあるですか、僕は二十年位前に行ったですよ。富士川の合戦の時、平氏の東征軍が陣構えをしたって言われる場所ですよね・・」藤木さんはそう言いながら、タブレットの地図を北上させ「平家越え」と目される場所を見つけ、指でさした。

 

「確か二つのちっこい川が合流する場所だったじゃんね。周りは工場ばっかだったように記憶してるけんが、二十年前ぇはどうだったで?」西島さんの問いに、

「おんなじですよ、でっかい工場ばっかで準工地帯か工業地帯の真っただ中、って感じだったですよ確か・・」藤木さんが、当時を思い出しながら応えた。

「そうですか、かつて源平の戦いが行われていた由緒ある場所が今では工業地帯に成ってるんですか。まぁ雇用が生まれ、企業が活発に事業活動を行ってる場所とはいえ、なんだか一抹の寂しさを感じちゃいますね・・」私は率直な気持ちを言った。

 

「ほこじゃぁさすがに、神馬や弓矢のお祓いやお清めの場所にふさわしくねぇってコンで、場所替えをしたっちゅうコンですか?ほれで、まだ水がきれいな富士川の上流の方に移ったってコンずらか。こっちの『水神社』に・・」久保田さんが続けた。

「いずれにしてもこの『平家越え』と『鈴川の浜』の関係は、上下1㎞程度の南北の位置にありそうですから、富士川の合戦を記念した神事として川下のこの浜でお祓いやお清めをスタートさせたのは、間違いなさそうですね」私は皆の顔を見ながらそう言って、更に続けた。

「西島さんが言われるように、浅間大社の流鏑馬は源平の富士川の戦いの戦勝を記念した行事として、甲斐源氏の手によってこの『鈴川の浜』で神馬や弓矢の禊ぎをやった可能性は、大いにありそうですね・・。因みに、『平家越え』の横を流れてるこの川が鈴川なんですかね?」私は現地を知ってるという、藤木さんと西島さんに尋ねた。2人は判らない、と言った身振りをした。

「まぁ、明日現地に行って確認してみれば判るコンずら・・」西島さんが言った。

「確かに・・。明日この二ケ所を結ぶ川沿いを下ってみましょうか?『鈴川の浜』まで・・」私が提案した。

 

「ところで、まだあるだよ他にも。ちょっとこれを見て見ろしね・・」久保田さんはそう言って、タブレットで先ほどの『水神社』での禊ぎの神事が行われている画面の下をクリックし、拡大表示して見せた。

そこには「末社巡拝」というタイトルがあり、

古くは、三日 若宮八幡宮、四日 金之宮・富知神社と流鏑馬が奉納されてましたが、現在は参拝のみとなっています。」とのコメントが記載されていた。

「やっぱりここにも、金之宮神社で流鏑馬をやってたコンが、書いてあるじゃんね。ほれも、浅間大社の前日にやってたみたいだよ・・」と久保田さんが教えてくれた。

 

私は、久保田さんの話を聴きつつも、彼が指し示す場所の下に載っているタイトルと写真の方が目についた。そのタイトルは

かむなかけの儀と書いてあった。

五月四日 流鏑馬本番を前に馬を走らせる行事で、3騎が馬場を疾走します。元々は、『かむなかけの的』といい、上方5騎の内、杉田・中里・森之越の3騎にて的を射る行事でした」というコメントが書かれていた。

かむなかけの儀ですか・・。これってちょっと、怪しくないですか?」私が呟いた。三人は、ん?といった顔で私を見た。

 

「いや『かむなかけの儀』ですよね。これってひょっとして、神無月の馬駆けの儀式が訛った、っていうか転訛してこう言われたってことではないかな、とフト閃いたもんですから・・」私の話に、西島さんがニヤッと反応した。

「で?」短くそう言って、私に先を促した。目は笑っていた。

「いやお気づきだと思いますが、富士川の合戦は10月20日の出来事でしたよね。要するに神無月の20日に行われた合戦の戦勝記念行事だとすると、かむなかけの儀』というのは、かつて金之宮神社で、神無月に行われていた富士川の合戦の戦勝を記念して行われていた流鏑馬の神事を指しているのではないかと・・。

その名残ではないかと、そう閃いたんです。

『神無月に行われた馬駆けの儀式』すなわち金之宮神社で『神無月に行われていた流鏑馬の儀式』を指しているのではないかと。
それこそ、かつて金之宮神社で行われていた戦勝記念の神事を、浅間大社が継承する際に引き継がれ、上書きされた神事の名残り痕跡なのではないかと・・」私は一気に閃きの中身を説明した。

私がそこまで言うと、西島さんは手を叩いて無邪気に喜んだ。

藤木さんは、じっくりと考えを巡らせているようだった。

久保田さんもニコニコと笑顔であった。

 

「いや、面白れいな、立花さんよ。いい閃き持ってるじゃんけ。相変わらず、あはは」西島さんは満面の笑みをたたえながら、話を続けた。

「ほうすると、次にここに書いてある杉田・中里・森之越が気になってくるじゃんね。センター長の話じゃぁ、杉田地区は竹川氏の一族が多い地域だったって言ってたじゃんね、確か・・。繋がるじゃんけ、竹川氏に・・。

ちょっと久保田君、富士宮市に中里や森之越って地区はあるだかい?ほの器械でちょこっと調べてみてくれんか・・」西島さんはそう言って、久保田さんに探索を依頼した。

さっそく久保田さんはタブレットを使い、インターネットで検索を始めた。

その間私はトイレに行ってすっきりしたいと思い、席を外した。

 
 
トイレから戻ってくると、私を待ってたように久保田さんがタブレットを指し示しながら話し始めた。

「まず『杉田』だけんが、ほこは富士市と富士宮市の市境と言っていい場所で、新東名の新富士ICの近くに在るですね」そう言って、タブレットの地図を指し示した。

「ほれから、『中里』って地名は見つからなかったけんが、似た名前で『大中里』って地区があるですよ。この場所は、淀師の西側で潤井川の西岸地区に当たるですね」

久保田さんはそう言いながらタブレットを動かして、淀師の金之宮神社から潤井川を越して、西岸に在る大中里の地域を指し示した。

「ここまでは順調に行っただけんが、『森之越』が見つからんだよ。困ったもんじゃんね・・」久保田さんはそう言って、お手上げであると身振りで示した。

 

その時、タブレットの地図を見ていた藤木さんが言った。

「ここん処に、森山って山があるじゃんね・・」藤木さんは、タブレットの地図上に載っている大中里の西方にある、小高い山を指した。 藤木さんの指摘を受けて私達はタブレットを覗き込んだ。
藤木さんが指した場所は、大中里をさらに南南西に行った場所にあり、大中里地区に隣接するゴルフ場の後ろ側に在った。

久保田さんがタブレットを操作して、森山をクローズアップさせた。等高線が三本ほど掛かっていたから、標高2・300mクラスの小高い山の様だ。里山と言ってもよいのかもしれない。

「なるほど、そうするとこの森山を越えた芝川側の場所が、森之越地区かも知れないと推測できるわけですね。フム・・。

金之宮神社から西側に行った潤井川の西岸が大中里地区で、さらにその南西側の里山と言ってよい森山を越えた芝川エリアに、森之越地区と思われる場所が在るかも知れない、というわけですね・・。ちょっと面白くなって来ましたね、これは」私はそう言って、にやにやしながら三人の顔を見た。

「金之宮神社の氏子たちの集落が、この神社の西っ側に拡がってたってこんかな。しかも、潤井川や芝川沿いに在ったってわけだな・・」西島さんが言った。

潤井川はもちろん、芝川もまたその水源は北の田貫湖にと行き着くのだ。富士金山にもつながってくる。西島さんはそのことを含んで、そう言ったのかも知れない。

 

「そうすると、この『かんなかけの儀式』を担っていた杉田・中里・森之越から出ていた流鏑馬の3騎と言うのは、金之宮神社の有力な氏子達だった、っていう訳ですか・・。
竹川氏の一族の多い杉田地区を始め、神社西方の・・」
 
私が話している途中、それまでタブレットを操作していた久保田さんが、素っ頓狂な声を上げた。

「ちょっとここを見て見ろし、面しれぇ場所があるじゃん」私たちが覗き込むとそこは馬見塚とあった。狩宿の下馬の桜と淀師の金之宮神社の中間、やや上のエリアであった。

 

 

             富士浅間大社、流鏑馬
 
 
 
 

潤井川の川筋

 

その馬見塚の中央を、潤井川が流れていた。馬見塚の東側に接するのが、鍛冶屋の里と思われる北山地区の南端に当たる地域であった。

「富士山西麓の位置関係からいうと、狩宿の下馬の桜から潤井川をはさんで東側に金山神社を祀る鍛冶屋の里が、まずあると。
してそこを下った場所に馬見塚があり、さらに潤井川沿いに南下した場所に大中里地区が在るんですね。
 
その大中里を中心にして、南西側の小高い里山を越えた処に森之越地区が在って、潤井川の反対の東側には、金山比古を祀る金之宮神社が在るという訳ですね。
いずれも潤井川を中心に形成されているわけですね・・私はこれまでのことを確認する意味で、そのように言って話を続けた。

「そして、浅間大社の流鏑馬神事の本祭の前日に行われる流鏑馬が『かんなかけの儀(式)であると。更にその前日には、流鏑馬神事のスタートと位置づけられる『神馬と弓矢の禊(みそぎ)の儀式』が富士川の合戦の跡地周辺で行われていた。と、そういう事になるんですね」私がそのようにまとめると、三人は肯いていた。

「ほの『かんなかけの儀式』に使う神馬を出したのが、中里・森之越地区と竹川一族が多く住んでいる杉田の三地区だっちゅうコンに成るわけだね」西島さんはニコニコとそう言うと、まるでその事実を祝うかのように、嬉しそうにお酒を呑んだ。
 
 
「話は変わるですがあれだね、この森山の北っ側にあるゴルフ場のその上に青木平って場所が在るですね。ここは名前からすると、ちょっとした小高い丘のような場所ずらかね、この青木平って名前からすると・・」藤木さんはそう言って私たちを見て、さらに続けた。

「こっちのゴルフ場にしたって、ゴルフ場ってことは多少の起伏はあってもそんなに大きな坂や谷は無かったでしょうから、割と平坦な丘だったんでしょうね、この辺り一帯は・・」藤木さんは地図を指し示しながら、そう付け加えた。

「ほりゃぁ、どういうコンで?」久保田さんが聞いた。

「うんほりゃぁな、この辺りが馬の育成や調練の馬場だった可能性があるってこんだ。
藤木さんは牧き場や大きな馬場だったかもしれんって言ってるだよ。ほういうコンじゃねぇけ?藤木さん・・」西島さんはそう言って藤木さんに確認した。

 

「その可能性はありそうですね。馬見塚が在って、その南南西に小高い青木平やゴルフ場が在り、そのさらに南南西の森山を越えた場所に森之越地区があったとするとですね・・」藤木さんが、ゆっくりと確認するようにそう言った。

「なるほどねぇ。朝霧高原あたりで出産させた馬を2・3歳くらいまで向こうで飼って、青年期くらいに育った甲斐駒を、馬見塚辺りでいったん検査・検分して、区分けしたと。

そこで軍馬として使えそうだと判断した馬を、森之越辺りの小高い場所の馬飼というか調教師に任せて、牧き場のあった青木平や今のゴルフ場辺りで、それらを育成させたり調練を施したんじゃないかって、そういうことですかね・・」私はこれまでの話を整理しながら、そう言った。

「騎馬武者用の軍馬として、一人前にするためにだな。まぁ、これまでの情報を整理して総合すると、ほう云うこんも考えられそうだね・・。だいぶ想像力が駆使されてるけんがな、はっはっは」西島さんは満面の笑顔でそう言って、喜んだ。

 

「ということは富士山西麓の潤井川沿いに富士金山や甲斐駒につながる、義定公の領地経営の事業に関係する集落や事業地が点在した、ってことに成りますかね・・。

そしてそれを集約し象徴するシンボルとして、金山比古夫婦を主神として祀り八幡様を祀った金之宮神社が鎮座していたという訳ですね」私はビールを飲んで一息ついてから、話を続けた。

「そしてその金之宮神社では毎年、富士川の合戦の戦勝を記念して10月20日頃に『神無駆け』の流鏑馬の神事が行われていた、って事ですね。

なんだか『甲斐の国いはら郡』の実態が少しずつ見えてきましたね」私はそう言って、皆に目で同意を求めた。皆も肯いて賛意を示した。

 

「朝霧高原から南に行って長者ヶ岳・長者ヶ池に下り、潤井川や芝川沿いに鍛冶屋の里が在って、更にその北山地区に隣接する潤井川沿いに馬見塚地区が在ると。

そこをスッと南南西に下ると森之越が在って、その近辺には青木平なんかの馬場や牧が在ったんじゃないか、ということですね。

一方で馬見塚をそのまま潤井川で南下すると大中里が在り、その東側に金之宮神社が鎮座している、ってことですね」私は確認の意味でタブレットの地図を指しながら、これまでの場所の位置関係を整理した。

 

「そんな風に考えると『大中里』って地名も、ちょっと意味ありですね」私がそう言うと、

「ん?」といった眼で西島さんが私を観て、先を促した。

「いや、安田義定公の支配地域と富士浅間大社の丁度接点というか、中間域の里と言ったような意味で『中里』とか『大中里』って言われたのかもしれないな、と妄想を膨らませたんです。ハッハ」私は言った。

「富士本宮浅間大社は、このエリアでは言うまでもなく大神社だから、その浅間大社を直接刺激するようなことは、さすがに義定公もやらなかったでしょう。義定公は神社や仏閣はリスペクトしてましたからね・・。                       
 
むしろそれまで稲作に適さない不毛の地と言われた、標高の高いエリアに農業以外の金山開発や畜産経営を導入して、地力を盛んにさせた義定公は、土地の神でもあり富士山を祀る浅間大社には、色々な産物や金品を奉納したり献物して、良い関係を築いていたんでしょうね、きっと・・」私がそこまで言うと、西島さんが続いた。

 

「ほのための緩衝地帯というか中間地が『中里=中の里』だった、ってこんけ。
しかも、潤井川沿いに遡ると『馬見塚』『狩宿の井出屋敷』『鍛冶屋の里』『長者ヶ池』『長者ヶ岳』ひいては『朝霧高原』に続いて行く、ってこんだね。こりゃぁ面白ぇゎ、アハハ愉快だね」西島さんは手を叩いて喜んだ。
私達も皆、ニコニコ顔になった。

 

「あのねぇ~、話は変わるけんがここにまかいの牧場ってのがあるだよ・・」久保田さんが、またタブレットの地図を指してそう言ってきた。

その場所は、かつて長者ヶ池と言われた田貫湖のほぼ東側で、富士山西麓の山裾側に当たる位置に在った。

「で、この『まかいの牧場』のホームページを見てみたらね、オーナーの名前が馬を飼う野原って書いて馬飼野って言うだってよ。すごいじゃんね・・。

ほれにここには、ご先祖は鎌倉時代から馬を飼っていたって、書いてあるだよ。これって何か、関係あるずらかね・・」久保田さんが、おそるおそるといった感じで聞いてきた。

私達は皆でそのタブレットを覗き込んだ。

 

「ここって、朝霧高原の南端って言って良い場所ですよね・・」私が言った。

馬飼野で、鎌倉時代からってか?」西島さんは短くそう言って、腕を組んで考えた。

「久保田さんが想像してるように、安田義定公の畜産経営というか騎馬武者用の軍馬育成の名残りかも知れませんね。この牧場は・・」私はそう言って、話を続けた。

「ここまで条件がそろってくると、どうやら富士山西麓の朝霧高原から長者ヶ岳・長者ヶ池、そしてこの潤井川沿いに義定公の『甲斐之国いはら郡』の拠点が形成されていたと、断定しても良さそうですね・・」

 

私は義定公の富士山西麓での領地経営の輪郭が、ある程度見え始めたと思った。多分皆も同じような想いに成っていたのではなかったか。皆の嬉しそうな顔が、それを物語っているように私には感じられた。

「面白いですね、浅間大社に残る流鏑馬の神事をこうやって紐解いていくと、頼朝に滅ぼされる前の金之宮神社の流鏑馬の神事、本来の姿が見えてくるし、それをさらに紐解いていくと義定公の領地経営の姿がハッキリと見えてくるんですからね・・」

私はそう言った。大いに愉快だった。今回の静岡でのフィールドワークが有意義であったことを、強く想っていた。

「ほんじゃぁ、ここらで乾杯と行きますか!」久保田さんはそう言いながら、皆にビールを注ぎ始めた。

私達はニコニコ顔で、久保田さんの音頭で乾杯を始めた。

 

 

 

 

   『浅間大宮司富士家文書 (天正元年十二月十七日)

                           *西暦1573年

               定

    富士大宮流鏑馬銭の事

    旧規の如く 淀師の郷より請け取るべし

    若し難渋有るべきは

    御過怠の旨 御下知候者也

    よりて件の如し

                       武田勝頼 花押

 

 

 

  『十六夜日記 -駿河路- 』 (阿仏尼著、1279年頃、十月)

  廿七日、あけはなれてのち ふじ河わたる。

  朝川、いとさむし。

  かぞふれば十五瀬を わたりぬ。

         冴えわびぬ 雪より下すふじ河の

                           川風凍ほる 冬の衣手

       註:旧暦の「十月二七日」は、新暦の11月下旬から12月中旬に該当する。

 

           

               

                街中を練り歩く騎馬武者行列

 

 

 

 

「甲斐の勇者」と甲斐の騎馬武者

 
 

翌朝私達は、7時にホテルの朝食会場で落ち合った。

朝食をとりながら、今日のスケジュールを決めるためであった。

大まかなスケジュールとしては、8時半にホテルを出発して流鏑馬神事のスタート場所である、富士川沿いの「水神社」を確認のために訪れることとした。

いにしえにおいて「鈴川の浜」で行われていた神馬(しんめ)や弓矢の禊(みそぎ)の神事を、現在執り行っている神社だ。その後は、西島さんと我々とは別行動をとることとした。

西島さんは、昨日の仮説を裏付けるために富士市中央図書館に行くことになった。

「富士市史」「富士宮市史」や「静岡県史」などの史書に、昨日の私達の仮説を裏付ける伝承や行事、考古学的なデータの記述が見つからないかを、確認してみたいということであった。
また富士宮市埋蔵文化センターで入手した「富士宮市神社一覧」記載の情報をベースに、神社の名称や、祭神・神事などの情報が得られないかを、調べて来たいというのである。

 

その間私達三人は、かつて富士市博物館と言われた「富士山かぐや姫ミュージアム」を訪れた上で、「平家越之橋」と「鈴川の浜」との実地検分と、位置関係の確認を行うための現地視察をすることにしていた。

かぐや姫ミュージアムは、以前「富士市博物館」と言ってた頃訪ねた経験のある、西島さんのアドバイスに依った。

西島さんに依れば、同博物館ではかつて「源平の富士川の合戦」に関する企画展をやったことがあったらしいので、それに関する資料や出版物などが何らかの形で残っているかもしれない、ということであった。

私達は富士川沿いの「水神社」に参拝した後で、富士市役所近くの中央図書館で西島さんを降ろして、「富士山かぐや姫ミュージアム」にと向かった。西島さんとは同図書館で、12時頃に落ち合い共に昼食をとる事としていた。

 

「かぐや姫ミュージアム」は中央図書館の北側即ち富士山に向かって2㎞程、北に上がった場所に在った。そこは東名高速と新東名に挟まれた、ほぼ中間地点にある広見公園と言う、広域公園の一角に在った。

実際に行って見た「かぐや姫ミュージアム」は、大人向けというより子供向けの施設のようであった。その名称が既に中身を語っていたのかも知れなかった。

ここでホントに「富士川の合戦」の企画展が行われたのか、心細くなった。

受付で、源平合戦の資料について尋ねると『源平富士川の合戦伝説MAP』という資料をいただいた。市内に残る「源平の戦い」にまつわる伝説が載っている、A3版の観光MAPであった。「平家越え」についての記載もあった。

その他にも関係しそうな資料を幾つか見せてもらったが、江戸時代の浮世絵などに書かれている「源平の合戦」等の紹介本程度のもので、およそ学術的なにおいを感じさせるものではなかった。

 

どうやらこの市では、平安末期に行われた「富士川での源平の合戦」について、学術的な検証があまり行われて来なかったのではないか、と私達は懸念を抱いた。

「かぐや姫ミュージアム」から「平家越え」の橋までは10分もしないで行ける、との事だった。私達は早々に車に乗り、移動をし始めた。

「平家越え」橋は、吉原本町という商店が連なる繁華街を通り抜けた先の、工場に囲まれた、下町風の場所に在った。東京で言うと、蒲田あたりの下町の工場地帯に感じが似ていた。

「平家越之橋」は将に周囲を工場群に囲まれており、この地がかつて十五瀬も在ったと言う富士川の河川敷の一画であったとは、とても思えない場所であった。

『十六夜日記』の記述が無かったら、この場所が富士川の一部で、かつて平氏が数千騎の陣を張った場所とは到底信じられない光景であった。

 

「平家越之橋」を越えた所に2・30坪の区画された場所に、石碑が建っていた。「源平合戦の行われた地」としてのモニュメントであろうか。しかしその石碑を見た私達は、唖然としてしまった。

「なんでぇ、こりゃまるで錦絵じゃん!」久保田さんが軽侮するように言った。

実際その石碑は、江戸時代に描かれた錦絵を手本にして描かれたと思われるレベルのもので、観光用には良いかもしれないが学術的には全く価値がみられない、としか言いようのない代物であった。

「こりゃぁ、観光客用に作られたもんズラかね?ほれも外人向けの・・」久保田さんは続けた。私も同じように感じて、

「商工関係の人たちが観光用に作ったんですかね・・」といった。

「ここ観てみろしね!」久保田さんが石碑の裏側に廻り、石碑の台座に書かれた碑文を指して言った。そこには以下のように書かれていた。

 

【 平家越 】

「 治承四年(1180年)10月20日、源頼朝は軍勢を率いて平維盛を総大将とする平家軍と富士川を挟んで対陣していました。・・・・・

この記念碑は史跡を後世に語り伝えるため、大正13年、今泉村青年団によって建立されたものです。

                    昭和六三年三月  富士市教育委員会 」

 

「久保田さん、これは村の青年団が建てたものだそうですよ。どうりで、錦絵風の絵物語に成ってるわけですね・・」私は言った。

「ほんどうけんが、市の教育委員会がこんな風に書いてたら、みんなこれがホントのことだって思っちまわんかい・・」久保田さんは、怒りが収まらないようだった。

「確かに稚拙ですよね・・。村の青年団が大正時代に作ったものなら笑ってすまされますが、教育委員会が昭和の終わり頃にいわば公認してるとしたら、教育上問題があるかもしれませんね・・」藤木さんが言った。

藤木さんもこの石碑を見て問題があると感じたようだ。藤木さんは元高校の数学の教師だった。

 

「小学生の社会科の時間か何かに、校外学習にでも使われていたら、富士市の子供たちは頼朝がここで維盛と闘ったみたいに思いこんでしまうでしょうね・・」私も二人が感じたのと同じ危惧を抱いた。

「黄瀬川の陣に居た頼朝以下の坂東武者が、こっから数十kmは離れてる三島辺りに陣を張ってたっちゅうに、まるで富士川岸に陣を張ってたみたいに書かれたら、間違ったコンをインプットしちもうじゃんね。困ったもんだよ、まったく・・」久保田さんが言った。

感情を多分に含んだ久保田さんの憤りは、甲斐源氏に対する富士川の合戦における評価の低さに対する無念さが、含まれているのかもしれないと私は感じた。

 
結局私達は、この平家越えの石碑の件があって、富士市の教育委員会が作成に関与したと思われる『源平富士川の合戦伝説MAP』に記載されている情報も、学術的な検証がなされないまま作成されたものに違いないだろうから、敢えて行く必要は無いだろうということに成った。
この石碑によって、富士市の教育委員会に対する私達の評価は著しく低いものとなっていた。残念なことだ。
 
私達はその後、平家越えの橋が架かっていた川に沿う形で、工場地帯を田子の浦付近にある「鈴川の浜」を目指して、南下して行った。その川はどうやら「和田川」というらしい。鈴川ではなかった。
 
 
JR東海道線の吉原駅近くの「鈴川の浜」も先ほどの「平家越之橋」と同様、かつての面影は殆どなかった。周囲は大きな倉庫群や、石油を備蓄するコンビナートが散在する工場地帯であった。川崎辺りの京浜コンビナートの規模を小さくした感じの街だ。

かつて名勝地「田子の浦」として、古代より多くの旅人を魅了してきた景勝地の面影は、そこには無かった。変ることなくまみえたのは、まだ雪を冠っていない富士山だけであった。

八百年と言う月日の経過がもたらされたことの大きさが、改めて実感された。

 

私達はそのまま駿河湾まで下り、より「鈴川の浜」のイメージに近い田子の浦の浜辺近くの、防波堤のような造りの公園にと向かった。

田子の浦には『十六夜日記』の作者阿仏尼もかつて訪れていて、そこで海女の姿を見つけたらしく、その時の印象を和歌に詠んでいる。

因みに、阿仏尼は藤原俊成の家系で冷泉家に連なる人であることから、日常的に和歌を詠む習性があったものと思われる。

阿仏尼が、富士川から田子の浦=鈴川の浜に敢えて向かったのは、田子の浦を詠んだ和歌が古来より、少なからず伝わっていたたことも起因していたのであろう。

その田子の浦の浜辺公園の近くには、二つの神社が在った。一つは、かつて田子の浦の浜を見下ろすことが出来たかと思われる、現在は公園になっている、小さな丘裾の神社で「阿字神社里宮」といった。
 
竜神様とその人身御供に成った少女「阿字」とを祀った神社で、富士川の河川の氾濫を鎮めるために作られた神社であるようだ。やはり往時この辺りは富士川の氾濫に悩まされて来たのだ、と私は想った。
 
 
もう一つは、浜からは離れ防波堤を兼ねた浜辺公園からJR吉原駅に向かう住宅街の一角にある神社で、「鈴川の富士塚」を祀った「鈴川浅間神社」であった。

この神社は富士登山を目指す人々がその出立に当たり、先ずこの「田子の浦」で心身の禊を行い、浜から拾って来た玉石をこの地に積み置いて登山の安全を祈願し、その後本来の目的地である富士の山に向かった、ということである。世にいう富士塚である。

その富士塚の頂きには「浅間宮」という小さな祠が在り、此之花咲耶姫が鎮座してた。

その祠の頭上遥か先には、霊峰富士が雲を棚引かせて鎮座していた。小さな祠を参拝することは、同時に霊峰富士に参拝・祈念することでもあった。

私達は「鈴川の浜」の視察を終え、中央図書館に西島さんを迎えに行くことにした。

車中で私達は、かつて富士宮の浅間大社の流鏑馬神事のスタートとなった「鈴川の浜」は、どちらの神社だろうと話し合った。

竜神様や阿字の乙女を祀った「阿字神社」よりも、富士塚の在る「鈴川浅間宮」の方が、「田子の浦での禊という行為」が共にある点、「浅間神社」に絡んでいる事や「此之花咲耶姫という祭神」といった共通点が多いことから、分があるということに成った。

いずれにしても平家越え同様、現在の鈴川の浜からは想像もできない時代のことだから、断定するのは難しいだろう、ということに結局は落ち着いた。

 

西島さんを中央図書館で拾った後、私達は国道一号線から静岡市に向かって移動し、途中ロードサイドの中華の店で昼食をとった。

食事をとっている間、私は流鏑馬について西島さんに聞いてみた。

「流鏑馬が中世の武士にとって大切な武芸だったことは判るし、それが甲斐源氏のお家芸であることも昨日の藤木さんのお話で判ったんですが、そもそも『甲斐の騎馬武者』ってのは一体いつ頃に誕生したんでしょうかね・・。やっぱり、甲斐源氏の誕生と関係があるんですか?」

「いや、もっと昔からいるだよ甲斐の騎馬武者は。立花さん、いったいいつ頃だと想うで?」西島さんが謎をかけてきた。

「そうですね・・。ん~ん、平安時代になって、武士の社会的な地位が上がった頃とかですか?」私が当てずっぽうに応えた。

「いやいや、もっと前えだよ」西島さんはニヤニヤしながら、そう言った。

「ん~ん、平安時代より前ですか・・。ん~んダメです。思いつきません、降参です。教えてくださいよ・・」私はちょっと大げさな身振りをしながら、言った。

「はっはっ、ほんじゃぁ教えてやるじゃん」西島さんはちょっと勿体つけて、話始めた。

 

「壬申の乱って知ってるラ?天智天皇が崩御した後に、天智天皇の息子で皇太子の大友皇子と天皇の弟の大海人皇子が、皇位継承をめぐって闘った古代の戦さのコンだよ」

「あ、はい、日本史の教科書程度の知識ですが・・」私は応えた。

「ほん時にね、大海人皇子まぁ後の天武天皇のコンだね、ほの天武天皇の軍勢に『甲斐の勇者』ってのが登場して、活躍しただよ。

大友皇子の部下の何とかの鯨っていう武将を、ほの『甲斐の勇者』が騎馬に乗って弓矢で追捕した、ってコンが『日本書紀』にちゃんと書いてあるだよ」西島さんはやや誇らしげに言った。

「壬申の乱ってことは七世紀の頃?でしたかね、確か・・。義定公より五百年近く前に成るんですか・・。そんな昔から、甲州には騎馬武者が居たんですか・・。驚きですね」私はそこまで遡るとは思ってなかったので、正直驚いた。

「四世紀頃の山梨の古墳から馬の歯なんかが出土してるってことですから、義定公より八百年近く前には既に甲斐之國では馬が飼われていた、っていうことですよ。

まぁそれから考えれば、七世紀に騎馬武者が居たとしても不思議ではないですよ・・」藤木さんが、沈着にフォローした。

 

私達はその様な会話をしながら昼食を楽しく済ませた。

食事を終えた私達は、再び車に乗って次の目的地安倍川の「手越の宿」を目指した。ここからは、私が車の運転を担当した。

国道一号線バイパスに入ってからはそのまま車の流れに乗って、静岡市の安倍川西岸に在る「手越の宿」にと向かった。

 

 

 

          『十六夜(いざよい)日記 -駿河路-』

                       (阿仏尼著、1279年頃、十月)

   今日は日いとうららかにして、田子浦にうちいづ

   あまどものいさり(漁)するを見ても、
 

      心から おりたつたごの あま衣

                             ほさぬうらみを 人に語るな

                                            とぞいはまほし
 
                          註: ( ) は著者記入
  

 

 

    『 日本書紀 ―天武天皇編― 巻第二八 

                     『日本書紀3』 339ページ(小学館)

(廬井造)鯨、白馬に乗りて逃げ、馬、深田に堕ち、進行くこと能わず。則ち将軍吹負、甲斐の勇者に謂りて曰く、

その白馬に乗れる者、廬井鯨なり。急く追ひて射よ」といふ。

是に甲斐の勇者、(馬を)馳せて追ひ、鯨に及る比に、鯨急に馬を鞭打ち、馬能く抜けて泥を出で、即ち馳せて脱るること得たり。

                             註:(  )は筆者記入

 

 

            

 

 
 
 

手越の宿

 
 

移動の車中、久保田さんが誰に言うともなく、

「静岡県は気候は温暖だし、駿河湾を始め遠州灘・相模湾にも接していて、海がいっぱいあっていいじゃんねぇ。ほれに人口も三百六・七十万人も居るずら、ずるいじゃんね」と言った。

「ずるいって言っても仕方ねえズラ。静岡は、伊豆之國・駿河之國・遠江之國の三つの国が一緒に成っとうだから、甲斐之國一国の山梨とは、比べようがねえだよ・・」西島さんが言った。

「何で静岡が三つで、山梨が一つずらか?二つずつでも良かったじゃんねえ・・」久保田さんはまだ、食い下がった。よっぽど悔しいのだろうか・・。と私は想った

「じゃぁ久保田さん、静岡から一つ山梨に編入しても良いとしたらどこの國を希望しますか?昔の國の分類で言ったらですけど・・」私は、ニヤニヤ運転しながら聞いてみた。

「ほうだね・・、伊豆之國辺りかな・・」久保田さんが応えた。
「当時の伊豆之國って、現在の市町村で言えばどの辺が境に成るんでしたっけ?」私はバックミラー越しに、後部座席の西島さん達に尋ねた。

 

「うん、ほうだね三島辺りが境に成るかな。
今でいえば伊豆之國は、三島市以南の伊豆半島ってコンに成るズラ・・」西島さんが応えてくれた。

「ですか・・。ってことは、飛び地に成っちまいますよ久保田さん。地繋がりじゃないみたいだから・・」私が混ぜっ返すようにそう言うと、久保田さんはしばらく考えてから言った。

「ほんじゃぁ富士川以東かな。伊豆半島も含めて」

「なるほど、富士山を中心にぐるっと回って伊豆之國まで、駿河之國の東半分を組み入れる、ってことですか。富士川を境に・・。結構大きく成りそうですね山梨が・・」私が言った。

「ちょっと、まってろし・・」久保田さんはそう言って、手元のタブレットを操作し始めた。

 

「富士川以東の静岡県がだいたい120万人近くいるから、山梨の83万人を足すと203万人ってコンになりそうだね。丁度いいくらいじゃん!」久保田さん、これには納得したようだ。

「200万人強だとすると栃木・群馬クラスになりますよ、山梨も」私が言った。

「残りの静岡県も250万人くらいなら丁度いいじゃんね、バランス取れて・・」久保田さんは、すっかりその気に成っていた。

「ところで久保田さん、この前甲府でお話を伺った時に教えて貰った、平安時代末期の人口なんですが、

確かあの頃の甲斐の国が7・8万人で、駿河や遠江もあまり変わらかったように記憶しているんですけど、八百年後の今の遠江之國に該当する地域の人口って、どのくらい居るんですか?」と、助手席の久保田さんに私は聞いてみた。
 
 
久保田さんは早速タブレットを操作して検索をした上で、教えてくれた。 
「ほうだね遠州には、ざっと140万近くは居るようだね・・」
「ほう、山梨の2倍まではいかないけど、1.5・6倍は居そうですね」私がそう言うと、
「浜松がでかいだよね。80万人近いだから遠州の六割近くは浜松が占めてるじゃんね。
ほれから、当時の甲斐が7.3万人くらいで遠江は9.4万人、駿河は7.1万人が正確な数字だよ、念のため・・」久保田さんが教えてくれた。

その時後ろの席で、大きないびきが聞こえた。西島さんの様だ。バックミラーで見ると藤木さんと二人は既に、お昼寝の真っ最中だった。

私達はしばらく小さな声で会話しながら、静岡市の「手越の宿」にと向かった。

 

「手越の宿」は関東の源氏を追討しに来た、平維盛を大将にした平氏の追討軍が富士川の合戦に臨む前に最後に集結した場所であった。ここで一旦追討軍の体制を整えた上で、安倍川を越えて駿河の国府に入り、万全の準備を終えてから富士川に向かって行ったのであった。

当時の駿河は、平家方の目代橘遠茂が実質的に統治していた国であった。そして安倍川西岸の手越エリアは、長田入道の支配地であった。

ところが、この二人を大将・副将とした駿河の甲斐源氏討伐軍は、富士川の合戦の六日ほど前に富士宮の上井出地区辺りで、武田信義・安田義定を中心とした甲斐源氏の軍と戦をしていたのであった。平維盛の討伐軍が到達する前に、である。

 

あるいは事前に甲斐源氏に先勝して、それを手土産に京の都から来た平氏の源氏追討軍に合流するつもりだったのかもしれない。ところがその戦いで彼らは甲斐源氏達に、壊滅的な敗戦を喫している。

手越地区の支配者長田の入道親子は討ち死にし、梟首(さらしくび)にされた。そして駿河の目代である橘遠茂は、生け捕りにされてしまったのだった。
 
橘遠茂は二か月前の「波志田の戦い」に次いで、二度とも甲斐源氏に敗れたのであった。この戦いの伏線があって、十月二十日の富士川の戦いがあったのである。
 
 
当然この戦闘の結果を、平維盛の征東軍は把握していた。
そのまま上井出から潤井川を南下した甲斐源氏の軍勢は、富士川の東岸に陣を構えていたのである。
 
当時黄瀬川に陣を構えていた頼朝に率いられた、関東の御家人軍の後詰めを待っていたのであろう。そして運命の十月二十日がやって来たのであった。
払暁の甲斐源氏軍の攻撃に、水鳥の大群が驚き、飛び立ったのである。
 
その数万羽ともいわれた水鳥の羽音に怖気づいた平氏の軍が、さしたる戦いをすることが無いまま富士川の陣から逃げ去ったのには、この敗戦の情報が事前に入っていたからでもあった。
 
先ほど立ち寄った吉原本町の「平家越」辺りの陣から、大慌てで逃げ帰ったのである。
橘遠茂たちを撃破した甲斐源氏の精鋭が襲ってきた‼ というわけである。

 

多分その甲斐源氏と駿河の目代達の戦いの情報には、沢山の尾ひれがついていただろう。あるいは流言飛語も飛び交っていたのかもしれない。何せ十五瀬も在る、当時の富士川である。

史跡「平家越え」の場所と、現在の富士川の流れまでは直線で5・6kmはある。十五瀬も在ったという富士川の水鳥の数も、半端ではなかっただろう。数万羽と言われたその数も、あながち大げさな数では無かったのではないか。

その富士川の川筋に居た水鳥の大群が、一斉に飛び立つ音を聞いた平維盛の軍勢は浮足立ち、潰走したのである。そして富士川の河川敷を潰走した平維盛の源氏追討軍が、もう一度体勢を立て直そうとした場所が、将に駿河の安倍川の西岸で「手越の宿」であったのだ。出陣の時に平氏の軍勢が一旦集合した場所である。

ところがその平氏の軍勢が体制を整えようとした「手越の宿」において、不審火が相次いで起きた。

その時の相次ぐ不審火の発生に、落ち着いて体勢を立て直すことのできなかった平維盛の軍は、最後まで追討軍を再構築することが出来ないまま、潰走を続け、京まで逃げ帰ったという訳である。

 

私は、平維盛の軍が軍勢を立て直すことが出来なかった最大の原因は、駿河之國の目代橘遠茂や安倍川西岸の有力者である長田入道の甲斐源氏討伐軍が、1週間前の甲斐源氏との戦いで壊滅的な敗戦を喫していたことにある、と想っていた。
なぜなら、遠江・駿河之國は関東の源氏を抑える京都の平氏方の最前線の基地であったからである。
 
その前線基地の支配者を始めとした軍勢が壊滅的損害を受けたということは、その時点で駿河之國の支配構造が崩れてしまったことを意味する。               
目代の敗戦の時点で平氏の支配する国から、支配者不在の国に成っていたわけである。

したがって、本来なら平維盛たち源氏追討軍を最前線でサポートし、合力するべき体制がその時点では崩壊してしまっていた、のであった。

この時の一連の戦いは、『孫氏の兵法』を熟知した義定公の戦術的勝利であり、甲州スッパや甲州ラッパを用いて陣内に不審火を相次いで起こし、平氏の追討軍を混乱に陥れたのではないか、と言う説を持っているのが我が久保田さんであった

私達は久保田さんのその説を、前に甲府で会った時にすでに聞いており知っていた。

そのような経緯があって久保田さんは、今回の静岡の義定公に関わるフィールドワークの際に、是非とも「手越の宿」に立ち寄りたい、と言っていたのであった。

 

安倍川も、富士川同様に川幅の広い川であったから八百年前においては、幾筋もの川の瀬が在ったのではないかと思うのだが、

西島さんに依ると『十六夜日記』には、富士川や大井川についての記述はあっても安部川に関する記述は特段見られ無いらしい。

そのことから類推すると安倍川は、富士川や大井川ほどの大河では無かったのかもしれない、ということであった。

因みに作者の阿仏尼は「手越」には、富士川の宿に泊まる前日の十月二十五日に泊まったことが『十六夜日記』に書いてある、と言う。

『十六夜日記』が書かれたのは、富士川の合戦からほぼ百年後の1279年頃ということであるから、当時から手越の宿は安倍川の存在が原因となって、著名な川留めの宿場町であったのだろうと思われる。

 

その「手越の宿」の現在の姿は、水量の多い川幅のしっかりした大きな安倍川の、西岸に在る住宅街であった。関東で言えば「多摩川」や「利根川」クラスの川であろうか。

住宅の密集具合で言うと「多摩川」の方がより近い、かも知れない。

私達は、手越地区の安倍川河川敷沿いの堤防で車を降り、暫く堤防を散策して「手越の宿」と安倍川を体感し、記憶にしっかり留めてから、その地を後にした。

 

 

 

     『 吾妻鏡 第一巻 』治承四年(1180年)十月十四日
 
                    『全訳吾妻鏡1』76ページ(新人物往来社)

 

午の剋、武田・安田の人々、神野ならびに春田の路を経て、鉢田の邊に到る。駿河の目代(橘遠茂)、多勢を率して甲州に赴くのところ、意ならずこの所に相逢ふ。

・・・・遠茂、暫時防禦の構へを廻らすといへども、つひに長田入道子息二人を梟首し、遠茂を囚人となす。
・・・・酉の刻、かの頸を富士野の傍ら、伊堤(井出)の邊に梟首すと云々。

                                    ( )は著者の註

 

 

 

 

 

 
  



〒089-2100
北海道十勝 , 大樹町


 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
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