春丘牛歩の世界
 
1週間ほど前から、伊豆半島の神奈川寄りのエリアに来ている。
ソメイヨシノが咲き始め、昨日あたりからほぼ満開と言ってよい状態にある様だ。
 
やはり短足寸胴のソメイヨシノの方が、「桜」感があるなと、いつも長身長脚のエゾヤマザクラを観ている私は、感じたのであった。
 
 
 
 
      
 
       
         
 
     
 
 
    記事等の更新情報 】
*4月19日 :「コラム2024」に、「青い春」と「チャレンジ虫」を追加しました。
*3月25日:「相撲というスポーツ」に「新星たちの登場、2024年春場所」を公開しました。
*2月8日:「サッカー日本代表森保JAPAN」に「再びの『さらば森保!』今度こそ『アディオス⁉』を追加しました。
*01月01日:本日『無位の真人、或いは北大路魯山人』に「無位の真人」僧良寛、或いは・・を公開しました。
これにて本物語は完結しました。
12月13日:  『生きている言葉』に過ぎたるはなお、及ばざるが如し」を追加しました。
*9月29日:「食べるコト、飲むコト」 に「バター炒め二品 」を追加しました。
*9月27日;「物語その後日譚」に「奥静岡の鶏冠(とさか)山」を、追加しました。
*6月10日 :『続、蝦夷地の砂金/金山事情・・』に7.紋別市:その2「鴻之舞金山」を追加しました。
 
 

  南十勝   聴囀楼 住人

          
                 
                                                                   
  
        
 

会員制サイト開設
      のお知らせ
 
2023年4月より「春丘牛歩の世界アーカイブ」を下記に開
設いたします。
このHPの情報量が多くなったための整理と、当該HP閲覧者内の濃密な閲覧者との交流を
目的としています。
有料会員制ですが、ご興味のある方は下記アドレスにコンタクトして頂けると幸いです。
 https://ofuse.me/gyu00ho
(春丘牛歩アーカイブ&フレンズ)
 
 
 
 
   
      
【歴史検証物語】この物語は『同書 -流鏑馬編- 』の続編になります。
山梨県の安田義定公の研究者である、郷土史研究家達と富士宮・富士市での義定公の足跡や痕跡を訪ね終えた私は、大井川を越えて遠州かつての遠江之國を訪れた。
遠州では、義定公が地頭として治めていた浅羽之庄と、国守として勤めた国衙(こくが)のあった磐田見附及び義定公の遠州での本拠地が在った遠州森町とが、ターゲットであった。
それらの地域では神社仏閣はもちろんの事、「稚児流鏑馬(ちごやぶさめ)」や「かさんぼこ祭り」といった神事や伝統行事の中に、義定公とのつながりを見出すことができた。
 
                               【 目 次 】
    
                                  ①プロローグ
                                  ②浅羽之荘
                                  ③浅岡八幡神社
                    ④浅羽あるいは芝八幡神社
                                  ⑤梅山八幡神社と稚児流鏑馬
                                  ⑥遠江之國国府、磐田見附
                                  ⑦立体地図3Dマップ
                                  ⑧我田引水を巡る争い
                                  ⑨遠江之國、山梨
 
 
  

プロローグ

 

私達は国道1号線を西進し、焼津・藤枝、島田を通って大井川を越え、15時前にはかつての遠江之國、遠州金谷にと入った。駿河之國と遠江之國とは大井川によって、国分けがなされていた。

金谷からそのまま掛川に至り、袋井を目指した。袋井市は平成の大合併で、かつての浅羽町を編入していた。

浅羽町はその昔浅羽之荘のあった街で、安田義定公が国守と成っていた遠江之國の、有力な荘園の一つであった。鎌倉幕府成立後は義定公が地頭と成り、直轄領地として支配君臨していた荘園である。

西島さんの説明に依ると、浅羽之荘は「遠州森」に並ぶ義定公の有力な直轄領地だったから、義定公に関わる史跡や痕跡が幾つか在るに違いない、というのであった。私達は西島さんの説によって、浅羽の街に立ち寄ることにしたのであった。

西島さんは午前中に寄って来た富士市中央図書館で、浅羽に在る神社の内から義定公に関係すると思われる神社を、あらかじめノミネートしておいたようだ。

それによると、義定公にゆかりがありそうだと想える神社は浅羽八幡神社」「梅山八幡神社」「浅岡八幡神社」の三つの八幡神社であった。八幡神社は言うまでもなく源氏の氏神なので、甲斐源氏の義定公に結び付く。「静岡県の神社一覧」に関する、戦前の本で調べたという。

袋井市では、かつて浅羽町役場が在った施設が今は市の浅羽支所と成っており、同所の二階には「歴史文化館」が併設されていた。私達はまず、その歴史文化館を尋ねることとした。

支所では西島さんと私が車を降り、西島さんがピックアップしておいた神社の所在地を確認することと、地域のMAPを手に入れることを目的として訪れた。

 

 

浅羽之荘

 

歴史文化館のスタッフとの会話の途中、西島さんがさりげなく流鏑馬(やぶさめ)の神事について言及した時、思わぬリアクションがあった。

「これらの八幡神社の中で、金山比古を祀っている神社や流鏑馬の神事を行っている神社はあるですか?」と、西島さんが尋ねた。

それに対して、窓側の奥に座っていた50代と思われるベテラン職員が、やおら立ち上がりやって来ると、受付の若いスタッフに代わって対応を始めた。ベテラン学芸員の様だ。

彼が出て来たのは、話が専門的になったためであろうか。

「金山比古を祭神にしている神社はですね、・・ちょっと、お待ちいただけますか・・」彼はそう言いながら、手元の資料を(めく)りながら言った。

「流鏑馬の神事は、この辺りでは盛んだったですよ。浅羽の街では長い間八幡様の例大祭として流鏑馬が盛大に行われていたです。まぁ、戦前までの話ですが・・」そう言いながら彼は、詳しい説明を始めた。

 

「『稚児流鏑馬(ちごやぶさめ)』と言って、子供が主役で地域ぐるみで流鏑馬のまねごとをやったんですが、太平洋戦争末期の生活物資の窮乏や馬の供出などが原因で、中断してしまったですよ。

それがようやく復活したのが、今から44・5年前の事でして・・。今でも続いてますが、往時のような派手さや勢いは無くなってしまってます・・」

 資料の中から、ようやく探し当てたベテランスタッフは、

「あぁ、これですね。『梅山八幡神社』の境内社に在りますね、金山彦命。でも『浅岡八幡神社』や『芝八幡神社』には無いようですね、残念ながら・・」と、教えてくれた。

「浅羽八幡神社」は「芝八幡神社」ともいうらしい。

 

西島さんはちらっとその資料を見て確認すると、話題を稚児流鏑馬に替えた。

「その『稚児流鏑馬』は相当伝統ある行事なんですか?」と、尋ねた。

「あ、はい古いです。伝承ですと鎌倉時代からの行事だと、古老などは言ってたみたいですね」彼は、特に資料を見ずに稚児流鏑馬について語った。この行事については詳しいようであった。

「なるほど、鎌倉時代からですか・・」西島さんはここで私を見てニヤッと微笑んだ。お目当ての義定公につながる痕跡に当たった、と思ったのかもしれない。と私は感じた。

「ご興味、ありますか?」担当者が言った。

「何かその神事を紹介するような文献と言いましょうか、資料があるようでしたら分けていただけませんか・・」私は彼にお願いした。

「あ、はい。ちょっとお待ちいただけますか・・」彼はそう言うと、資料棚に向かい資料を探し出すと若い女性スタッフにコピーを指示した。

 

コピーが上がるのを待ってる間、私達は先ほど頂いた地元の観光MAPを指し示しながら、ベテランスタッフに神社の所在地を確認し、マーカーを施した。

流鏑馬の神事に繋がりそうな資料は全部で3部ほどあり、それなりに分量があった。全部で20ページ近くの枚数はありそうだ。

私達はその資料をパラパラとめくりながら、ベテランスタッフに鎌倉時代の安田義定公について調べるために、かつて彼の領地であった浅羽之荘に来ている事を話した。

しかし彼は、安田義定と聞いても特段の反応は示さなかった。残念ながら、彼は平安末期・鎌倉初期に関しては、あまり関心は無いようであった。

私達は資料をいただいたことに感謝しながら、歴史文化館を後にした。

 

中世の浅羽ノ荘は、遠江を代表する河川である「太田川」と「原野谷川」とが遠州灘に注ぐ河口域で、広大な湿地帯によって成るデルタ地帯であった。

従って、安田義定公が地頭と成った今から8百年ほど前は、水田等の農業用地としての潜在的な可能性はあったが、まだまだ未発達な地域であった。

鎌倉時代以降の8百年の間に、河川改良技術の発展や治山治水・灌漑技術の発達により、湿地帯での新田開発等が成され、農業用地としての開発が進んだ。

その結果、現在のような静岡県でも有数の稲作やメロン栽培などの畑作が活発に行われる、豊かな農業生産地に成ったのであろう。

この様な人間の絶え間ない努力とは別に、数百年に一度周期的に繰り返されている、東南海の大地震による、フイリッピンプレートの跳ね上げに伴う海岸域の隆起、と言った自然現象による環境の変化も、寄与してきたものと思われる。

 

また浅羽ノ荘の東部域には、平安時代初期から朝廷の官営牧と成っていた「笠原ノ牧」が拡がっている。

現在の袋井市南部から浜岡原発のある御前崎半島を含み、大井川に向かう丘陵地である富士山静岡空港の在る牧之原市まで続く広大なエリアで、小高い丘といっても良い低い山並みが連なる地域である。

遠江之國の国守でもある安田義定が、この「笠原ノ牧」の西側の山裾といって良い、浅羽之荘に目を付けたのは、やはり彼の領地経営の強みを発揮するためのものではなかったか、と西島さんは仮説を立てていた。

則ち、甲斐駒や騎馬・軍馬の育成地として考えた時、数百年の間朝廷の「牧」としての伝統を持つ、この「笠原ノ牧」にある物理的なインフラやノウハウ・人材の活用を考えたのではないか、ということである。

 

この地に数百年の長きにわたって蓄積されてきた、人的資源や技術的資源・経験と言ったソフト面の活用が、可能だと考えたのかもしれない、ということなのだ。

富士川の戦い以降急速に領地を拡大させた義定公にとって、有能な人材の確保は将に喫緊の課題であったに違いない。更にこの小高い丘陵地は、平地よりは多少なりとも気候条件も良いことから、馬の育成や調練がし易い環境だと、義定公は判断したのではないか、という事であった。

私達は、歴史文化館で手にした資料をもって、浅羽之荘の三つの八幡神社を訪ねることにした。

 

 

 

浅岡八幡神社

 

最初に訪れたのは、浅羽之荘と袋井とを区分けする役割を担う「原野谷川」に近い、「浅岡八幡神社」であった。

浅羽支所のある場所からはちょっと離れることに成るが、回遊性を考えてそのようにしたのであった。

「浅岡八幡神社」は水田・稲田に囲まれた田園地帯に在った。祭神は京の男山八幡から勧進したという、誉田和気命(ほんだわけのみこと)(=応神天皇)などが主神で、言うまでもなく源氏の氏神であった。

併せて「貴布禰(きふね)神社」「厳島神社」「磯部神社」などが祀ってあった。これらの神社はいずれも水に関わる神社であることから、かつてのデルタ地帯の名残で、河川の氾濫などを鎮めるために祀られて来たのではなかったか、と西島さんは解説した。

 

境内には小さな池が造られており、くぼんだ池に詣でるための石の階段が在った。その石段を下り、更に石橋を渡って行くと、池のほぼ中央に祠(ほこら)が鎮座していた。

その祠についての説明が無かったため、祭神については知ることは出来なかったが、水に関連した治水に関する神様であることは推測された。

この池は「太田川」と「原野谷川」の両河川によって形成されていた、かつての浅羽之荘が湿地帯にあった事を象徴し、記憶に留めておくためのモニュメントであったのかもしれない。この地域が、いつでも水害が起こる可能性のある土地であることを、忘れさせないための先人の知恵がこの池を作ったのかもしれない、と私は想った。

 

私はこの神社に併神として祀られている「厳島神社」の存在について、西島さんに聞いてみた。

「ここに厳島神社が祀られているのは、どうしてなんでしょうか?」源氏の氏神である八幡神社に、平家の氏神である厳島神社が祀られていることに、私は違和感を覚えたのだ。

その私の疑問に、西島さんは

「ほりゃぁね立花さんよ、おまん(あなた)は八幡神社に平家の氏神が祀られるなんてコンは、滅多にあるコンじゃねぇから不思議に思ったズラ。

たぶん、ここに厳島神社が祀られているのはね、平治の乱で天下を取った平家が富士川の戦いで敗れるまでの間、遠江の国守を独占してきたコンに、原因があると思うよ」と、西島さんは推察を交え教えてくれた。

 

「それはまぁなんとなく予測できたんですが、源氏の仇敵の氏神がどうして‥、と思ったんですよ」私は更に聞いてみた。

「その理由(わけ)は二つほど考げえられるかな」西島さんはそう言ってから、更に詳しく解説してくれた。

「元々水害や河川の氾濫を鎮める目的で作られた神社が、この地に鎮座してた。ほこに、有力者の平氏が入って来て氏神の厳島神社を祀ったと。

厳島神社は平氏の氏神であると同時に水や海に関わる神だから、磯部神社同様に河川の氾濫や水害を、鎮めることが出来る神様と思われたから、だと想うだよ。

 

ほして二つ目は、神様に手を出すコンは祟(たた)りを招く可能性があると、恐れられたからじゃねぇかって思うだ、オレは」西島さんはそう云って、ちょっといたずらっぽい目をして続けた。

「だいたい平安時代とか鎌倉時代の社会通念と言うか、世の中の共通認識として陰陽道なんかが幅を利かせてただから、厳島神社を除外するコンに抵抗があったかも知れんじゃんね、祟りを怖れてな。当時の氏子たちがほんな風に考えてたとしても、無理はねぇだよ・・」

「なるほど陰陽道ですか・・」私は西島さんの云わんとすることを、すこし考えてみた。西島さんはそのような私を見て、

「神社の祭神や境内社は、時の権力者が変転してもほのまま残存し続ける事が多いだよ。ほのかわり主神の座は明け渡して、脇神に成ったりするけんが残るだよ。

氏子も新しい権力者も、神様に手を出すなんてコンは滅多にしなかっただ。いや出来んかっただよ、おっかなくって。なんしろ陰陽道の時代だから・・」西島さんはニヤッとしながら、そう言った。

 

「ほれにほう言いうコンがあるから、おらん等(自分達)も義定公が頼朝によって滅亡させられた後でも、こうやってその痕跡を探ることが出来るわけだよね・・」西島さんは、その習慣の利点を付け加えた。

「何ちゅっても八百万(やおよろず)の神だからね、日本人は・・」久保田さんが突然会話に入って来た。

確かに久保田さんの言うとおりだった。日本人は一神教ではないから、主祭神とは別に他の神々を併せて祀ることに、抵抗は無いのだ。久保田さんが言うように複数の神が併存することに寛容なのだ。

 

誰かが言ってたがこの日本人の八百万の信仰は、現代の多様性を認める社会においては実に有用な価値観であるという事だ。

答えが一つしかない社会の一神教に代表される神とは異なり、違った価値観を持つ神の存在を認める寛容な価値観は、多様な文化や伝統、宗教や民族を世界規模で考えた場合、共存のために必要な価値観となるから、である。

「浅岡八幡神社」で特質すべきは「流鏑馬の神事」であった。この神社には、金山比古は祀られていなかったが、流鏑馬の神事は相当活発に行われていたようだ。

神社の案内看板にも書かれていたが、戦前まではかなり盛大にこの神事は行われていたらしい。歴史文化館のスタッフのいう通りであった。

 

私達は「浅岡八幡神社」を後にして、次の目的地である「芝八幡神社」にと向かった。「芝八幡神社」は浅岡より北東部に位置し、JR東海道線側に戻る形に成った。先程訪れた浅羽支所の北側で、旧浅羽町の中心市街地といって良い場所に当る様だ。

西島さんの推測では、この「芝八幡神社」こそが安田義定公の、浅羽之荘統治の拠点でありそのシンボルであったのではないか、ということであった富士山西麓における「金之宮神社」と同じポジションだったのではないか、というのであった。

「八幡神社」が義定公の領地経営のシンボルとなるのは、これまで観て来た彼の領地に必ずある、神社の例が示す通りであった。

更に何故、浅羽之荘の義定公の拠点が「浅岡八幡」や「梅山八幡」ではなく「芝八幡」なのか、について西島さんは次のようにその根拠を語った。

 

頼朝による義定公討滅が成されたすぐ後に、義定公の鎌倉屋敷に居た鎌倉詰めの幹部五人が、頼朝の命を受けた和田義盛によって打ち首にされたのであるが、その五人のメンバーの中に「柴藤三郎」の名が在るからだ、と言う。

「柴藤三郎」はその名が示すように「柴(=芝)」に住む、藤原系の家系の三男を指し示している、と言うのである。従って「柴藤三郎」は義定公の浅羽之荘における目代、又はそれに準ずる役割を務めていた人物ではなかったか、と言うのであった。

浅羽之荘は、平治の乱以降は平氏の係累が支配者として荘園の管理等を行っていた。それは14・5年の間続いた。遠江之國の国守が代々平氏であったためだ。

しかし浅羽之荘は、その平氏の統治が始まるまでは藤原氏の「氏(うじ)の学寮『勧学院』」に産米を納める荘園であったのだ。そして平氏の天下に成るまでの間、永く藤原氏の係累が荘園の管理者を務めていたのである。

 

平氏の天下以降不遇をかこっていた、在地の有力者である藤原系の三男を義定公が抜擢して、浅羽之荘の目代に据えたのではないかと西島さんは推察していた。

馬の育成の時に「笠原ノ牧」の人材や、ノウハウを継承している人達を抜擢し活用したのと同じことが浅羽之荘の統治でも行われたのではないか、と言うのだった。

やはり義定公が領地を急激に拡大したが故の、人材確保の策の一環だったのではないかと西島さんは推察した。そしてその仮説は無理がなく自然であった。私達は特に異を唱えること無く、西島さんの説を受けいれた。

尚その五人のメンバーの中には「安田義定四天王」の一人で、遠江之國の目代であった武藤五郎も含まれている。従って「柴藤三郎」もまた、武藤五郎クラスの有力な幹部であったのだろうということが、推察できた。

 

私達は、地域の観光MAPと、カーナビを頼りに「芝八幡神社」に着いた。

同神社は袋井市の中心街と旧浅羽町の中心街とを結ぶ主要地方道を、十数メート東側に入った処に在った。

 

 

 

浅羽あるいは芝八幡神社

 

主要地方道から神社に向かう入口辺には、「馬場」と言う名のバス停が在った。私達は、このバス停を見て「芝八幡神社」への期待が大いに高まっていた。

言うまでもなく「馬場」は、騎馬武者用軍馬を調練する場所を意味していたからであり、流鏑馬の神事に欠かせない場所であったからである。

そしてかつてこの地域が、馬場と名付けられる程の規模を誇った「馬場」であったことが、想定できたからである。その「芝八幡神社」は住宅街の中に、ひっそりと佇んでいた。

「浅岡八幡神社」とは環境がだいぶ異なる。「浅岡」が将に田園地帯の「(さと)(やしろ)」と言ったものであったのに対し、「芝」は市街地の中の小ぶりの神社、と言った感じであった。

 

浅羽之荘の本拠地であったとすれば、当然それなりの格式や神域を持ち、義定公による扶持も保証されていたはずだから、浅岡八幡神社よりは立派な神社を想定していたので、ちょっと肩すかしを食らった思いがした。

かつて「馬場」と呼ばれそれなりの規模を誇った場所が、「浅羽之荘」の中心地として主要地方道の沿線に在ったがために、8百年の年月の間に住宅や商業の場所として発達してしまい、市街地化されてしまったのであろうか・・。

その市街地化のプロセスによって、神域が狭く小さく成ってしまったのであろうか・・。私がそう言った思いを口にすると、

「かつて神社の東側を『駿遠鉄道』と言う鉄道が通っていたっちゅう歴史があるだから、ほの鉄道の開設に伴って、神域の開発が行われたのかもしれんな・・」西島さんが呟いた。その鉄道は4・50年前に廃線に成った、ということだ。

 

しかし神社の境内を削ったり狭くするのにはそれなりの理由がないと難しかっただろう、と私は想った。

境内に掛かっていた社記には「童子流鏑馬」即ち「稚児流鏑馬」の事が記してあった。やはりこの八幡神社でも、流鏑馬の神事が神社の一大イベントとして執り行われていたことが、確認された。

しかも流鏑馬神事が行われた三つの八幡神社を巡行する行列が、最後に行きつくのが、この「芝八幡神社」であった。則ちこの場所が「稚児流鏑馬巡幸」の最終目的地だったのだ。

私達は「芝八幡神社」が「浅羽之荘」の安田義定公の本拠地の神社として、源氏の氏神を祀り、騎馬武者を象徴する行事として流鏑馬を執り行ってきた来た事を確認した。

そして「笠原ノ牧」という騎馬武者用の軍馬育成の後背地を抱え、戦前まで流鏑馬神事がこの地域によって盛大に行われて来た。しかもそれらは「鎌倉時代から始まった神事である」と言った共通認識を得て、私達は神社を後にした。

また義定公の目代である「柴藤三郎」の館も、その名称から類推するに八幡神社近くのこの芝の地に在ったに違いないだろうと、私達は語り合った。

 

「芝八幡神社」を出て、最後の目的地である「梅山八幡神社」にと向かった。JR東海道線側を背にして、遠州灘に向かって南下する形をとる。

その途中、と言っても「芝八幡神社」から、数十メートルしか離れていない場所に「祇園神社」が在った。そのまま車で通り過ぎようとした時、この「祇園神社」に藤木さんが反応した。

「立花さん、ちょっと止まってくれんですか」突然、藤木さんがそう言った。

車は細い生活道路を進んでいたこともあり、さしてスピードを出していなかったために、容易に神社入り口の空き地に停めることが出来た。

 

八幡神社とこの祇園神社とは距離的にはかなり近く、現在の様に市街地化されることのない時代、即ち神社創建の頃には両神社はほぼ隣接して神域を形成していたのではないかと、推察することができた。

八百年前に「芝八幡神社」とこの「祇園神社」がセットで隣接する敷地に祀られていて、その前に広い馬場が在ったとすれば、かつての義定公の浅羽之荘の本拠地であったと思われる「芝八幡神社」は、それなりに大きな境内を有していたことが推察できる。

私達は、藤木さんの提案によって芝の「祇園神社」に詣でた。神社に特段の神事があるとは社記には書いてなかったのであるが、藤木さんが何故この神社に詣でたかを、説明した。

 

「『祇園神社』と『伏見稲荷』とは、義定公に深い繋がりがあるですよ、実は・・」藤木さんはそう言って、我々に両神社と義定公の関係を説明し始めた。

安田義定公が遠江之守と成って4年経過し国守の新たな任者を選ぶ際に、義定公は引き続き遠江之守としての再任を朝廷に希望した、と言うのであった。いわゆる重任(ちょうにん)を朝廷に願い出たのであった。

その際後白河法皇の朝廷から課せられたのが、当時損傷の激しかった「祇園の八坂神社」と「伏見稲荷神社」の大規模な修築・修復工事であった、と言う。

二つの神社の修築・修復を行うのであれば遠江の守の重任を許す、ということに成ったのだという。その時の縁で義定公と「祇園八坂神社」「伏見稲荷」とに繋がりが出来た、と藤木さんは教えてくれた。

 

藤木さんが車を停めてあえて我々に参詣を促したのは、この義定公と京の都の有力な神社との関係を象徴する両神社が、この浅羽ノ荘の本拠地に併存することを、自らも確認したかったのと、私達にもその事を知ってもらうためであったようだ。

芝地区に両神社がこのような位置関係で併存することに藤木さんは、

「義定公によってこの二つの神社は、ほぼ同時期に創建された可能性があると自分は想う」と言っていた。

藤木さんのその話を聴き、私達はまた一つ義定公の新たな一面を知ることが出来た。京都の庶民の尊崇を受けていた、有力な神社との関係である。また義定公と芝八幡神社の関係を、一層深く認識することが出来た気がした。

 

私達は芝の「八幡神社」と「祇園神社」を後にして、残された「梅山八幡神社」にと向かうことにした。

同神社は位置的には先ほどの芝地区をそのまま南下して遠州灘に向かうと、続く田園の中にある集落「梅田・梅山地区」に在った。

経路としては一番初めに訪れた浅羽支所を通過し、2・3㎞程水田・稲田の中を南下して、まっすぐ遠州灘に向かうことに成った。

 

 

 

梅山八幡神社と稚児流鏑馬

 

長く拡がる稲田地帯を過ぎると、梅山の集落が見え始めた。「梅山」といってもほぼ平坦で、高低差をそんなに感じさせる場所ではなかった。

その集落の入り口付近を、右折するとすぐに「梅山八幡神社」は在った。

同神社は遠目にも判る鎮守の森と言った樹々に囲まれた神社で、「浅岡八幡神社」にロケーションは似ていた。しかし神社を取り囲む樹々は明らかにこちらの方が豊富であり、より鎮守の森らしさが漂っていた。

私達は車を参道脇のまっすぐな道に停め、樹々に囲まれた参道の中の石畳を本殿に向かって歩いた。

 

参道入ってすぐ右手に、小さな池が在り祠が祀られていた。「浅岡八幡神社」と同じ構図であった。

参道から池の中ほどにある祠に詣でる桟橋は、朱色に塗られており鎮守の森の緑色の景色に映えた。その朱色の橋を参って祠に手を合わせたが、祭神は「浅岡八幡神社」同様不明であった。

更に進むと左手に「祇園神社」が祀られていた。小さな祠であった。

お参りを済ませてから石畳を更に進むと、右手に鎮守の森の木漏れ日が当たって、キラキラと光の降り注ぐ祠があった。「金山神社」であった。

 

大きさは、二つとも同程度で小さな祠であった。こうやって八幡神社の中に「金山神社」と「祇園神社」とが併設されているという事は、この「梅山八幡神社」も、やはり義定公と縁の深い神社であると考えて間違いないようであった。

更にこの神社では、浅羽の三つの八幡神社を巡行する「スタート地点」として流鏑馬の神事が行われていたという事であった。由来を書いた社記に書き記してあった。

これだけの条件が重なると、この神社を義定公と関係ない神社と考えることの方が私には難しくなってきた。

 

この神社の大きな特徴は、正面に鎮座する「八幡神社」の社殿の横に、ほぼ同規模・同格といって良い大きさの「春日大社」が鎮座していたことであった。その点が他の「浅岡八幡神社」「芝八幡神社」とは大きく異なっていた。

と同時に二つの大きな神殿が併存している神社に、私はこれまでお目に掛ったことがなかった。とても印象的である。

私達は鎮守の森の境内を歩きながら、浅羽地区の三つの八幡神社のポジションについてそれぞれ検討してみた。

その結果、「梅山八幡神社」は義定公の重臣であった「柴藤三郎」の存在が大きく影響してる神社なのではないか、と言う事に成った。

 

「浅羽ノ荘」は平安時代の初期に、藤原氏の「氏の学寮」である「勧学院」に従属する荘園であった、という歴史を持っていた。

そして義定公の浅羽之荘での目代であった「柴藤三郎」は、この荘園を管理する役を担ってこの地に定着した、藤原氏の一族の末裔だと思われる。

そのような背景があったから、この神社は藤原氏の氏神である「春日大社」と「八幡神社」とを併せ祀っているのではないか、ということに成った。

順序としては「勧学院」の荘園であるこの浅羽の地で、藤原氏の一族が氏の守護神として「春日大社」を祀っていた。

そこに平氏に代わって、新たな地頭として赴任した安田義定公によって「八幡神社」及び「金山神社」「祇園神社」が編入され、流鏑馬の神事が執り行われるようになったのではないか、という事である。

 

この地の藤原氏系の荘園管理者は、平治の乱の後にと14・5年続いた「平氏の時代」に、「浅羽之荘」の支配者としての地位を追われたのではないか、と思われる。

その後、富士川の合戦を経て平家の勢力が駿河や遠江から駆逐されてから、遠江之守であり新たに地頭として入部してきた安田義定によって、「柴藤三郎」が抜擢され浅羽之荘の目代と成り、復権したのではないかということを考えた。

「笠原ノ牧」の時に行われてきた事と同様に、短期間に領地を拡大した義定公にとって新領地である「浅羽之荘」の管理支配を任せられる、有能で、地元に詳しい人材の確保は、喫緊の課題ではなかったかと思われるからだ。

 

それが「柴藤三郎」の抜擢に繋がったのではなかったか、という事である。西島さんも藤木さんも、そして久保田さんも私も同様に考えていたのであった。

それを象徴する事として、藤原氏の氏神である「春日大社」に義定公ゆかりの神社を編入し、祀って来たのではないかと考えると、梅山八幡神社の特異性をごく自然に理解することができた。

従って、藤原氏の氏神の「春日大社」と源氏の氏神「八幡神社」とをつなぐ接着剤に成ったのが、この「柴藤三郎」なのではなかったかということに考えが至った。

 

その様に考えていくと「梅山八幡神社」と「芝八幡神社」の関係がハッキリと見ることが出来た。またそう考えると、「梅山八幡神社」の社殿の特殊性も自然に理解することが出来る。更に「浅岡八幡神社」に関しては、次のように考えた。

「原野谷川」や「太田川」の氾濫を鎮めるために、この地に古くから勧進されていた水を司る神を祀る神社である「貴布禰神社」や「磯部神社」がまず鎮座していた。

そしてそのベースの上に、平氏の系統の支配者が新たな荘園の管理者と成った時に、平氏の氏神でもあり尚かつ海や水に関わる神である「厳島神社」を勧進して、一緒に祀って来たのではなかったか、ということである。

従って「浅岡八幡神社」は古来より治水に関わる土地の神を祀って来た神社に、追加的に平氏の氏神が勧進・併設されたのではないか、と。

 

そしてその14・5年後に、平氏に代わって新たな支配者として、源氏の安田義定公が地頭と成って赴任してきた。

そして義定公以降は源氏系の地頭が「浅羽ノ荘」を代々支配して来たために、八幡神社が主神として祀られ源氏の氏神と成ったのではないか、ということである。

私達は浅羽之荘の三つの八幡神社の関係をこのように位置付けることで、それぞれの成り立ちを理解することが出来た。

 

このように考えてくると「浅羽之荘」の三つの八幡神社は、八幡神社としての共通項を持ちつつ、それぞれ藤原氏や平氏の歴代の荘園の管理者の変遷という、歴史を反映された由来を有していることが、判って来た。

そして「浅羽之荘」の、これら三つの八幡神社をつなげるのが地頭としての義定公であり、神事としての流鏑馬なのだと。

またそれ等をこの地で接着する役割を担ってきたのが、藤原氏系の荘園管理者の末裔である柴藤三郎であった。

芝藤三郎は同時に義定公の遠江之國における重要な荘園である「浅羽之荘」の現地の管理者である、目代として流鏑馬の神事にも深く関わって来たに違いない、と。

そのように理解することが出来た。三つの八幡神社を巡行する流鏑馬の神事のスタート地点がこの神社であることも、それを推察させた。

 

神社の本殿脇から境内を出て、私達は車を停めている場所に戻った。

途中に木札が立っていた。流鏑馬の馬場」と書いてあった。

風にさらされた文字は、半分消えかかっていた。私達が車を停めたこの場所は、神社の境内に沿う形で百数十mの距離をまっすぐ砂利が敷かれている道であっ

この場所は「梅山八幡神社の馬場」だったのだ。

馬場を挟んだ神社の反対側は、稲田であった。刈り取りを終えた、切り株の残る稲田であった。その稲田に鷺が、ゆっくりと舞い降りて来た。

羽の一部が青みがかっていたところを見ると、青鷺であろうか・・。

かつて太田川等の氾濫で湿地帯が多く沼地や湖潟が残っていたこの地も、今では多くの田畑に代わって来ている。

私達は「浅羽之荘」を離れ、今夜の宿泊地であるJR磐田駅にと向かった。

 

 

 

 

          吾妻鏡 第十四巻』建久五年(1194年)八月二十日

                      『全訳吾妻鏡2』307ページ(新人物往来社)

 (安田)遠江守が伴類五人、名越の邊にて首を刎ねらる。

  いはゆる

  前瀧口  榎本重兼

  前右馬允 宮道遠式

       麻生平太胤國

       柴藤三郎

       武藤五郎

  等なり。和田左衛門尉義盛このことを奉行すと云々。

上記の内「武藤五郎」は遠江之国の目代、および義定公直轄地の「遠州森」の管理を担い、「柴藤三郎」は「浅羽ノ荘」の目代であったと思われる。

「浅羽八幡神社」の別名が「浅羽ノ荘」の中心市街地「芝地区」に在る「芝八幡神社」であることに依る。

 

 

 

          吾妻鏡 第巻』文治三年(1187年)八月二六日

                     『全訳吾妻鏡1』356ページ(新人物往来社)

遠江守(安田)義定をして、稲荷社を修繕せしむべきの由、権黄門経房の奉(うけたまわり)として仰(おお)せ下さる。

重任の公に募らるるところなり。

稲荷・祇園の両社破壊するの間、皆成功(じょうごう)に付して、修治の功を終へらるべし。

 

 安田義定公は「遠江之守」を重任させてもらうに際して、朝廷から「伏見稲荷」「祇園(八坂)神社」の修繕を命じられたが、同時期に「後白河法皇の門・築垣の修理」「大内の修造」などが重なって、進捗状況が芳しくなかったことがあった。

それゆえに、3年後の一時期(文治六年二月)義定公は「遠江之守」から「下総(現在の千葉県と東京の一部)之守」に、左遷された。が、1年以内にすべての修繕を終えることによって、翌建久二年には再び遠江之守に重任(3度目)されている。

義定公の「遠江之守重任」に対して、朝廷からは同時期に複数の大きな神社の改修・修繕事業、と言う相当大きな賦役が課せられている。

 

通常の重任を望む国守への賦課は、一つの神社や仏閣に対する改築・改修等にとどまっていることが多いのに比べ、著しく重いものと成っている。そのことは裏返せば、当時の安田義定の財力に対する朝廷以下の世間の評価の高さを物語っている、と言えよう。

その裏付けは、荘園からの収入以外の、領地経営による収入の少なからぬことが朝廷以下、世に広く知れ渡っていた、といったことが推察される。

具体的には金山経営の成功や軍馬育成による畜産経営の成功、と言った義定公の独自の領地経営が順調に言っていたことを示唆している。

 

更には本来の領地経営の柱である農業経営においても、「原野谷川」「太田川」氾濫による「浅田ノ荘」での、湿地帯の開墾等に伴う新田開発などによって、産米石高の著しい増加と言ったことが順調に行っており、それらが京の都まで知れ渡っていたのではないかと推察することもできる。

「遠江之守」から「下総之守」に左遷された後、三度び遠江之守に復任されている点を考えると、遠江之國の領地経営において、通常の領地経営以上の富貴を生み出す義定公の手腕に対する評価の高さが、朝廷にはあったからではないか、と推測することもできるのである。

また三度び遠江之守に任ぜられた時、朝廷は安田義定の位を従五位下から従五位上に、ワンランクUPしていることから、「祇園八坂神社」「伏見稲荷」の大改修・改築工事の労力の多大さを、朝廷は充分認識していたものと思われる。

 

                 

 

 

 

 

遠江之國國府、磐田見附

 

JR磐田駅周辺はかつて遠江之国の國府・國衙が在り、国分寺や国分尼寺が在った「見付」地区に近い場所に在る。見付」はかつての「遠江之国」の國府の在った場所であり、中心地である。

私達はJR磐田駅近くのビジネスホテルに宿をとっていた。

ホテルにチェックインする前に私は、浅羽の「歴史文化館」で分けてもらった「流鏑馬の神事」に関する資料を人数分コピーしておいた。チェックインの際に同資料を渡し7時に再びロビーに集合する事を約して、それぞれの部屋にと分かれた。

 

7時にロビーで落ち合ってから、私達は磐田の街に出た。今日も地産地消の店を中心に探し、なおかつ個室対応の店を選んだ。その選択基準は変わらない。

その基準に適合した店を選んだが、今日はその上で茶そばをアピールしている店を選ぶことにした。プラスワンメニューの選択肢だ。

やはり静岡と言えばお茶処だから、同じそばでも茶そばという響きにみんなが反応したのだった。茶そばはもちろん、〆のメニューであった。

ここでも入店前に個室の有無の確認を取った上で、皆を招き入れた。

 
店ではさっそく乾杯を済ませた後、話題が「稚児流鏑馬」に成った。各自部屋の中で、先ほど渡した「稚児流鏑馬」の資料を読んできていたのであろう。

その中で一番の話題は、「弓取りの儀式」であった。この儀式は、流鏑馬を務めた御者の持つ弓を、馬を引いてきた二つの勢力が奪い合うと言う儀式で「弓を奪い合う」と言う「喧嘩儀式」が始まる。

もちろんこの「喧嘩」は祭のプログラムに組み込まれているもので、素の喧嘩ではないが見物人たちは、その喧嘩をハラハラドキドキしながら見守ることに成り、祭りは盛り上がる、という事であった。

私はこの儀式について西島さんに尋ねてみた。

 

「この『弓取りの儀式』は、いったい何を象徴しているんですかね?」と。西島さんは、ニヤリとして言った。

「立花さんこそ、どう思ってるで?このにぎやかな喧嘩神事を・・」と、私を試すように聞いてきた。

「そうですね・・。長い間流鏑馬の神事を担ってきた伝統の人達に取って替わって、新しくその神事を遂行しようとする人達が現れ、その両者の間に悶着が発生したって事でも象徴しているんですかね・・。

もしそうだすると・・、浅羽之荘の権力者の交替に伴う『祭の主導権争い』って感じですかね・・」と私が応えた。

「具体的には?」西島さんは先を促すように、短く聞いてきた。目は笑っていた。

 

「そうですね・・」私もニヤリとして、

「八幡神社を創設し流鏑馬の神事を執り行ってきた、安田義定公と柴藤三郎の創業者勢力と、義定公や藤三郎誅殺後に新たに赴任してきた、新しい地頭勢力との間に起きた悶着と言うか、祭りの主導権争いの故事を再現してるんでしょうかね・・」と応えた。

「まぁ、ほんなとこズラね・・」西島さんは無精ひげをいじりながら、言った。

「確か義定公一族が滅ぼされてっから、新しく浅羽ノ荘に着任したのは加藤(かげかど)だったと思ったけんが、どうだっけね?」西島さんは傍らの藤木さんに確認した。藤木さんは肯いて同意した。

「梶原景時と一緒に甲斐之國牧之荘の義定公一族を誅殺しに来た、鎌倉の御家人だっけねほの景廉は・・」久保田さんが言った。

「そうですよ。梶原景時と二人三脚でいつも行動を共にして来た伊豆の御家人ですね、彼は・・」藤木さんが補足した。

「やっぱりほうけ・・。ちゅうコンは、後で梶原景時が失脚した時にも運命を共にしたずらか?景廉は・・」久保田さんが続けた。

 

「そう云えば梶原景時って確か失脚するんですよね・・、あれは確か頼朝の死後すぐの事でしたっけ?」私が言った。

「ほうだよ、頼朝が馬から落馬しておっ死んだ後1年もしんうちに、鎌倉の有力御家人が連名で、景時追放の弾劾書を二代将軍頼家に出したっちゅうだから、よっぽど嫌われてただよね、景時は」西島さんが言った。

「66人の宿老たちの連著だったですね、あれは」藤木さんがフォローした。

 

「虎の威を借る狐が虎が死んで失脚した、ってことですか・・」私は言った。

「ほん時に確か、『鶏小屋には狐を一緒には飼わない』っちゅう様なコンが言われたんだっけね・・」西島さんが藤木さんに確認した。

「そうですね。『鶏を養うものは狸を飼わず、獣を飼うものは(さい)を養わず』って読み上げながら、連判状への著名を促したって事でしたよ。確か・・」

藤木さんがやんわり修正しながら、西島さんをフォローした。

「豺って何でぇ?」久保田さんが聞いた。

「『(さい)(ろう)』って言って、山犬やオオカミのコンさ」西島さんが教えてくれた。

「へぇ~、うまいこと言いますね。しかし梶原景時は、よっぽど嫌われてたんですね・・」私が言った。

 

「頼朝へのご注進が多くて、景時の陰口で多くの御家人や地頭が失脚・誅殺させられたですよ・・。義定公の嫡男の安田義資公の艶書事件の時も、景時のご注進がきっかけだったですから・・」藤木さんが珍しく、感情を含んで言った。

「そう言えばそうでしたか。しかしあれはまぁ、頼朝にとって渡りに舟だったんでしたよね、確か・・」私の呟きに西島さんが、

「ほの通りだよ。頼朝は何とかして、甲斐源氏の氏の長者義定公一族を壊滅させるきっかっけが欲しかっただから・・。

まぁ、ほの頼朝の想いを景時が忖度してご注進に及んだ、ってコンだからね」と言った。

 

「話は変わりますが、どうやら『芝八幡神社』にも、藤原氏の『春日大社』が併せ祀られていたようですね、この資料によると・・」藤木さんがコピーを示して言った。

の資料は歴史文化館で入手した『浅羽八幡三社について』と言うタイトルの資料であった。

「確かにこれで『梅山八幡神社』と柴藤三郎の間にあった関係が、『芝八幡神社』にもあったと、確認することが出来ますね・・」私も同意した。

「まぁ、ほう云うコンさ」西島さんが言った。

私達は歴史文化館から入手した資料により、安田義定公の「浅羽之荘」における目代が柴藤三郎であることに、もはや確信を抱いていた。

 

「ところで今回は『金の鶏』の話がなかなか出て来んけんが、富士宮の金之宮神社のご神体は、やっぱり金の鶏ずらかね・・」久保田さんが言った。

「そういえば昨日確認するのを忘れましたね・・」私が呟いた。

久保田さんは、去年北海道知内での『大野土佐日記』の検証のプロセスで話題になった、黒川衆の「金山祭り」のご神体が「金の鶏」であったことを思い出して、そのように言ったのだろう。

「金之宮神社は、ほの確率が高そうじゃんね・・」西島さんが言った。

「ほうすりゃぁ、一発じゃんね」久保田さんが続いた。

「確かに・・」私も同意した。

当時の「甲斐之国いはら郡」の領地で、義定公の富士金山や朝霧高原での畜産経営の里でのシンボルと目される「金之宮神社」のご神体が、黒川金山の金山衆のご神体と同じ「金の鶏」であれば、義定公と「金之宮神社」との関係が相当濃厚になるのだった。久保田さんが指摘するとおりであった。

 

「話しは変わりますけど西島さん、遠江之國の國府はここ磐田に在ったって考えていいんですよね?国分寺や国分尼寺や國衙が在ったんですから・・」私は、西島さんに尋ねた。 

「ほうだよ、今の磐田市役所のある辺りに国分寺や国分尼寺があっただから。『見付』っていうらしいだよ、ほの辺りは・・」西島さんが教えてくれた。

「『見付』ですか、珍しいですね・・。普通、國府だから『府中』って言うことが多いですよね、『甲斐之府中』で甲府とか『駿河之府中』で駿府とか・・」私のつぶやきを久保田さんが引き継いだ。

「『見付』って、東京の『赤坂見附』みたいに高い場所って意味ずらか・・」

「まぁ、ほの通りだと思うよ。磐田の市役所の辺りは、地理的には海抜の高い場所らしいから。っちゅうか、見付より南っ側は古代・中世の頃は湖だったっちゅうだから・・。ねぇ藤木さん」西島さんは藤木さんにそう言って確認した。

藤木さんは肯きながら、解説してくれた。

 

「その通りですよ、確か『今浦』とかいう名前の湖だったと思うですよ。当時はこのJRの辺りなんかは、湖の真っただ中だったでしょう・・」

「あっ、そうか。浅羽之荘と同じことですか・・。この辺だと『天竜川』や『太田川』の氾濫が原因だったんですかね、その湖が出来たのは・・」私が言った。

「だと思います。天竜川もよく氾濫を起こした暴れ川だったですからね。浅羽之荘以上だったと思いますよ・・」藤木さんが、沈着に応えた。

 

「だいたい『天竜川』なんて名前からして、ちょっとでかい雨が降ったりすると、竜が暴れるみたいに氾濫ばっか起こして、よっぽど手に負えん河だったずらね・・」久保田さんが言った。

「あはは、ほの通りさ、なんっちゅっても『天竜川』だからな。名は体を現わしてる、わけだよ」西島さんが笑いながら言った。

「あぁ、ここに『竜洋』とか、『龍の子』とかいう名の学校や幼稚園が在りますよ」私はコンビニで買ってきた磐田市周辺の地図を、皆に指しながらそう言った。

の場所は天竜川に近い磐田市の西部地区で、遠州灘とは2~4㎞ほどしか離れていないエリアだ。

 
「ほう云えば、(山梨の)中巨摩に『竜王町』ってのが昔あったけんが、あれは釜無川が氾濫した場所だったから、ほう云われたですか?」
久保田さんが、タブレット端末をいじりながら、西島さんに尋ねた。

「ほうだよ、ほの通りさ。釜無川も暴れ川で有名だっただから・・。信玄堤が出来るまでは、大雨や台風に成るとしょっちゅう氾濫した、っちゅうからね・・」

竜王町は平成の大合併で「甲斐市」に成るまで、山梨県西部を南北に流れる一級河川釜無川の、東岸に在った街だ。

「ちょっとこれ、見てみろしね・・」久保田さんがタブレットを皆に示して言った。

 

 

 

立体地図 3Dマップ

 

タブレットには磐田市の地図があった。

それは私が購入した平面的な地図とは異なり、色のグラデーションが施されていて、対象エリアの高低差が視覚的に判別出来る、いわば立体型の地図だった。

その地図では標高が高いと思われるエリアは濃い緑で表されており、平野や低地と言ってよいエリアは、ベージュや黄緑色で表されていた。そして河川や海はブルーだ。その立体地図を見ると一目瞭然だった。

天竜川を中心として、扇状型にベージュや黄緑色が拡散していた。

その西の端に在るのが現在の、浜名湖だ。そして東の端に在ったのが昼に見て来た浅羽之荘を含む、現在の袋井市の中心部であった。

その東の端と天竜川のほぼ中間域に、細長い半島のように南北にせり出している濃い緑色が在った。その小高い山と思われるエリアの、先端に在るのが「見付」であった。

 

この立体地図を見ると、何故「見付」という名前で呼ばれていたのかが実によく判った。そして見付より南側の場所が、かつて「今浦」と言われていた湖であったことも、良く理解できた。

 

「久保田さん、この立体地図、どうやって手に入れたんですか?」私が尋ねた。

「これけぇ?こりゃあ、昨日マピロンっちゅう地図をイジッてる時に偶然見つけただよ。

ね、面白れぇじゃん。『3D地図』って言うだよ。ウマいもんじゃんね」久保田さんがニコニコと、目を細めて応えた。

私は、この3D地図を見ていて、フト気づいたことがあった。

 

「奈良時代や平安時代に、この天竜川を中心としたエリアが『今浦』って呼ばれた湖だとすると、『とおとうみ』の名前の謂われはその辺にあるって、ことですか?」

私の質問ともつかない呟きに3人は一瞬、「ん?」といった表情をした。

「いや、奈良や京の都に近い琵琶湖が近い湖の『おうみ』で、都から遠い富士山近くの大きな湖だから、遠い湖の『とうとうみ』って言われたのかな、ってちょっと閃いたもんですから・・」私の話に早速、西島さんが反応した。

「いい線いってるよ、立花さん。琵琶湖の在る滋賀県が『近江之國』で、今浦があった静岡のこの辺が『遠江之國』って、呼ばれたのはほの通りだよ。うん、間違ぇねぇだよ」西島さんがニコニコしながらそう言った。

 

「でも、『おうみ』ってのはどういう意味なんですかね・・」私はその意味が今一つ判っていなかった。

「ほりゃね、『淡い海』って漢字で書いて『あわうみ→おうみ』に転訛しただよ。要するに湖のコンだね、淡い海だから・・」西島さんが判り易く教えてくれた。

「明日行く予定でいる、『淡海国玉神社』っていうこの辺(あたり)の古い神社があるだけんが、ほの神社の漢字が将に『淡海』って書いて『あはうみのくにたまの神社』って、言うだから・・」西島さんは、メモ帳を見て話してくれた。どうやら、午前中の富士市中央図書館で調べてきていたようだ。

 

「しかしあれですね、こうやって8百年前のことを調べていて、つくづく思うんですけど、今の我々の常識の眼で当時のことをイメージするのに、こういった事前の情報を持ってるのとそうでないのでは、全然違った想像をしてしまいますよね・・」私がそのように言うと、西島さんが、

「ん?もうちょっとかみ砕いて、話してみてくれんかい」と言った。

「失礼しました。いや要するにこの今浦の湖の事にしても、先ほどの浅羽之荘の事や富士川の事にしても、平安時代末期の地理的な環境は、今とは全く違ってましたよね。

その辺の実態を知ってないと、8百年前の事を考えてもホントの姿は把握できないなぁって、痛感してまして・・」私は補足の説明をした。

 

「ほりゃぁ、ほの通りだな。オレもほのコンは、今回改めて気づかされただよ。

単に『吾妻鏡』のような歴史書を読んで、頭だけで空想して判ったような気になってても、当時の地理や環境の実像が判ってなかったら、ホントのコンは判らんってこんだよね。・・・勉強になるよホントに・・」西島さんはしみじみ、そう言った。

「どっかの出版社で鎌倉時代の日本の正確な地図を作って、『十六夜日記』や『吾妻鏡』の本に添付してくれりゃぁ、良く判るらね・・」久保田さんが言った。

私達はその後も、久保田さんが見つけた3D地図や私が購入した平面地図を見ながら、かつて「とおきあわうみ」と呼ばれたこの「遠江之國」について話題にしながら、夕食の時間を過ごした。

 

 

 

                       『 吾妻鏡 十六巻 』
                                                                          正治元年(1199年)十月二八日     
                                                                          『全訳吾妻鏡2』371ページ(新人物往来社)

(梶原)景時に向背する事一味の條、改変すべからざるの旨、啓白するが故なり。

しばらくあって、(中原)仲業(梶原景時弾劾の)訴状を持ち来たり、衆中においてこれを読み上ぐ、

鶏を養う者は狸を畜(かわ)ず、獣を飼う者は豺(狼)を育(やしな)わざるの由これを載す。

(三浦)義村この句に感ずと云々。

(宿老)おのおの著判を加ふ。その衆六十六人なり。

                            ( )内は著者の註

 

頼朝の寵臣であった梶原景時は、その威を借りてたびたび有力御家人や地頭を讒訴(ざんそ)することが多かった。因みに、義定公の嫡子、安田義資を讒訴したのも梶原景時であった。

この年の1月20日に頼朝は既に死去しており、この10月の時点では頼家が2代将軍であった。その頼家に対し提出された景時弾劾の訴状に、鎌倉幕府の宿老66名がこぞって著名捺印したのである。

二か月後の正治元年12月18日、ついに梶原景時は鎌倉を追放された。虎の威を借りる狐が、虎の死後1年も経たないで失脚したという事である。

 

 

 

          十六夜日記(阿仏尼著、1279年頃、10月23日)

  こよひは とほつあふみ みつけのこふ(国府)といふ所にとどまる。

 里あれて、物おそろし。かたはらに水の井あり。

        誰かきて みつけの里と きくからに

              いとど旅ね(寝)の 空おそろしき

                                ( )は 著者の註

 

         『 神社覈録(かくろく) (明治三年、1870年:鈴鹿連胤著)

「見付の南に今浦といふ湖あり、今は皆田園となりたれども、古は大湖なりしといふ、見付は当国の府なりしかば、後世惣社と號せしなるべし、

一説には、豊田郡鹿島村椎が脇社これか、古は此の辺まで入海也、と云えり」

 

豊田郡鹿島村は、現在の浜松市の遠州鉄道「西鹿島駅」周辺を指す。

天竜川の上流15・6㎞に位置し、伝承通りならこの辺りまで今浦の湖であったということに成る。その通りだとすると、今浦湖は現在の浜名湖の6倍近くはあったことに成る。

 

 

 

 

我田引水を巡る争い

 

翌朝は朝食を摂り、8時半にはロビーに集合し、見付に在ったかつての「遠江之國、国分寺跡」を訪ねることにした。

「遠江之國」は平氏にとって保元平治の乱以降、源氏の影響力の強い東国に対する備えの、最前線として位置づけられ、駿河と共に戦略上最も重要視した国であった。

平氏の初代の国守は清盛の嫡子、重盛であった。初代の国守が武勇の誉れ高い重盛であったことから、この地の持つ東国鎮護の最前線としての位置づけを、理解することが出来る。

 

その結果、平氏の時代になってから遠江及び駿河之國では、平氏の支配が深く強力に浸透していくことに成る。

両国は対源氏・対東国の前線基地として、通常の平氏の領国以上に隅々まで治国の網を張り巡らし、国の備えを構築してきたであろうと思われる。

昨日見て来た「浅羽之荘」もその例外ではなかっただろう。本来藤原氏の氏の学寮「勧学院」の荘園であったものを、平氏が取り上げたのもそのような領国経営の影響を受けたためであろうか、と推察された。

 

「遠江之國」の平氏の治国は、富士川の合戦で甲斐源氏に敗れるまでの間14・5年に及んでいた。その14・5年の間、この「遠江之國」の国侍達の荘園管理者すなわち武士はいずれも平氏の麾下(きか)に参集し、忠誠を誓っていたのであった。
何しろ「平家にあらざれば人に非ず」と言われた時代なのである。

そのような平氏の支配の影響があったがために、義定公と国侍の浅羽宗信と相良三郎との間に悶着が起きたので、あろう『吾妻鏡』に詳しい。

磐田市役所裏手に在る「国分寺遺跡」は、広い公園のような雰囲気の場所だった。雑草の生い茂るその遺跡は、サッカー場が4・5面くらい取れそうな広さであった。

当時の建物の遺構に沿う形で「南大門」「中門」「金堂」「講堂」等が該当する場所に、それぞれ案内看板が設置されていた。更に磐田南高校を間に挟んだ北側には「国分尼寺」跡があるようだ。

 

また、「国分寺跡」から右手には主要地方道を挟んで「府八幡神社」が在った。すなわち、遠江之國の国分寺の東側に幹線道路を挟んで、(国)府八幡神社が併存していたのだった。

この「府八幡神社」は8世紀ごろ遠江之守に赴任して来た、天武天皇のひ孫に当たる桜井王が創建したという、応神天皇などを祭神とした神社である。

またこの神社には徳川二代将軍秀忠や三代家光が寄進した、本殿や楼門などが残存しており、県の文化財等になっていた。江戸時代は徳川家の支援・庇護が厚く続いた神社である。

その関係の深さを象徴するように、境内にはやや大きめの家康を祀る東照宮が独立した区画を確保して、鎮座していた。徳川家のバックアップは、八幡神社が源氏の氏神だったからであろう。

 

そして、甲斐源氏の安田義定公である。

14・5年の間遠江之守を三度び重任し続けた、甲斐源氏の武将の痕跡が何か残っていることに私達は期待して、神社に参詣した。

その痕跡は本殿後ろに在った。本殿裏手に五つ並んだ、末社の中の小さめの神社が「金山神社」であった。

 

「えらい小っちゃいじゃん!」久保田さんがお道化るように言った。がその目は細く、嬉しそうだった。私達は互いに顔を見合わせて、義定公の痕跡を確認できたことを喜んだ。

当時、同じ国を14・5年間赴任し続けた國守はそうは居なかった。平安時代は、4年の任期で国守は交替するのが常だったのだ。

従って14・5年間遠江之國の国守を続けた義定公の足跡は、本来はもっと大きなものが残っていた、と思われる。

國府の中心部に在る、源氏の氏神である。富士宮の「金之宮神社」や浅羽之荘の「芝八幡神社」の位置づけを考えれば判る。

 

義定公は自身の領国を統治するにあたって、神社の活用を積極的にやって来た領主である。自らの配下や領民の人心を把握するのに、神社が果たす役割を熟知していた。

そしてその神社で行われる神事や祭りの効果についてもである。

しかし「府八幡神社」において現在確認できる8百年前の義定公の足跡は、末社の中に含まれている小さな祠に過ぎなかった。

義定公滅亡後に、北条時政を筆頭に北条氏一門が後任として鎌倉時代およそ150年の間、守護職として君臨してきたために、そのような扱いに成ったのかもしれない。北条氏は平氏であった。

 

それにしても「金山神社」がこうやって8百年の間残存し続けたのは、日本人の八百万の神を受け入れる宗教観のおかげである、ありがたいことだ。等と私達は話し合いながら、ほんとに小さな痕跡に過ぎない「金山神社」が鎮座していることを認め、喜んだ。

国分寺跡と府八幡神社を訪れ義定公の痕跡を確認した後で、私達は見付地区の次の目的地である「淡海(あわみ)国玉(くにたま)神社」に向かった。

 

府八幡神社と国分寺跡の間の主要地方道をそのまま北上し、右折すると十分も掛からないで到着することが出来た。

片側二車線にしっかりした歩道の在る商店街の街路灯には、ジュビロ磐田のライトブルーのクラブ旗がずらっと、掛かっていた。

「ほっかぁ、ジュビロ磐田の本拠地だっただよねここは・・」久保田さんが運転しながら言った。

「ですね・・」私は同意して、続けた。

「久保田さんはヴァンフォーレのソシオ会員でしたっけ、確か・・」

「ほうだよ、ヴァンフォーレ甲府の年会員を10年ッくらい続けてる、ソシオ会員だよオレは・・」久保田さんは自慢げに応えた。

 

「そしたら、ジュビロとのアウェイ戦でここに来たことあるんですか?」私は尋ねた。 

「ホームじゃぁ皆勤賞だけど、アウェイにはあんまり行かんだよ。国立(競技場)でやる時以外はねぇ・・」

「そうでしたか・・」私は久保田さんに、相槌を打った。

「ほんどうけん、あれじゃんね、今度アウェイでジュビロと闘う時は、『遠江の国守、甲斐源氏安田義定見参‼』ちゅう幟でもおっ立てるじゃんって、ソシオの会合で提案してみっかね~。マジで」と笑いながら言った。
 
 
そうこうしているうちに、目印の「旧見付学校」の案内看板が目に入った。久保田さんは「ここを曲がるじゃん」といいながら商店街の在る主要地方道を左折した。
神社の鳥居が真正面に在った。

その鳥居の横に、洋風の瀟洒(しょうしゃ)な建物が在った。「旧見付学校」である。

明治8年に創建されたという小学校「旧見付学校」は洋風木造の4階建ての白い建物で、神戸や函館辺りに在りそうな、瀟洒な建物であった。

 
明治初期、遠近之國の人々はこの建物を観て、明治維新による新政府の斬新でおしゃれなその姿に畏れや憧れ・敬意を抱き、文明開化を視覚的に納得していったのではなかったか、と私は想った。

この「旧見付学校」は、今流行りの表現でいえば「文明開化の見える化」を象徴する建物だったのではないか、と思えるのだ。

神社は町中の「小振りな神社」といった感じであった。境内は緑が少なく、鎮守の森といった感じではなかった。社殿や後背地の規模は異なるが、浅羽之荘の「芝八幡神社」のロケーションに似ていた。

 

短い石段を上るとすぐに、社殿が在った。

主祭神は大国主命であった。その故か、狛犬の代わりに白兎が社殿前の阿吽(あうん)の像に成っていた。大国主命の「因幡の白兎」の説話に引っ掛けたのであろう。ほほえましかった。 

当然のことだが、この神社には八幡様や金山彦などは祀られていなかった。義定公が國守と成る、はるか以前からの神社であれば当然と言えば、当然であった。

また、この神社と義定公との間には、接点が無かったのであろう。「遠江之國の惣社」という位置づけであった。

 

今浦の湖を見下ろす小高い丘の神社ということで浅羽の「浅岡八幡神社」と同様に、治水に関する神様が祀られているかもしれない、と私は想っていたが、その種の神様は祀られていなかった。意外であった。

しかし、この「とおきあわうみ」の「くにたま」の神社である。かつてこの見付の地から「今浦の湖」が眼下に見えたことであろう。私達はその「いにしえの」遠江に思いを馳せながら、「淡江国玉神社」を後にした。

 

神社を出立して、本日の目的地である遠州森町に向かって北上した。

途中、義定公が遠江之國守在任中に起きた、著名なエピソードの一つである「水争い」の舞台となった「向笠(むかさ)」の地に立ち寄った。
 
義定公の家来達と、熊野神社の荘園である神田(しんでん)の領民との間で起きた水流の建設時に発生した、いさかいが勃発した舞台である。『吾妻鏡』に載っている。

この辺りは遠州を代表する河川である「太田川」とそれに準ずる「敷地川」とが合流する場所であり、それなりの水量を誇る河川域であった。

 

向笠の地は、その両河川が合流する河川敷の西岸にあたる。向笠の熊野神社はその地の小高い丘の上に鎮座しており、(熊野)権現坂と言われた坂道を登りきった台地に在った。

その台地から見下ろすと、河川を取り囲む流域には宏大な田園地帯が拡がっていた。

位置的には「見付」の在った、南北に細長く小高い半島の様な丘陵地の北東部にあたり、「見付」とは地続きであった。

見付から4・5㎞、東名高速からは1㎞ほど北に行った場所に成る。私達は眼下に太田川や田園地帯を見下ろすビューポイントに車を停め、降りた。

 

「この近くの熊野神社の、荘園管理者や農民たちと水路の建設時に『水争い』があったとすると、やっぱりあの川筋から新しく開墾した新田なんかに、水を供給する水路の建設の中身が原因だったんですかね?」私は西島さんに聞いてみた。

西島さんは水田地帯の方を見ながら、肯いて言った。                「ほうズラね。たぶん國守が管理していた公田を義定公が増やそうとして、あの河原から水を引き込もうとした時に、ほの水路の設置場所をめぐって争いが起きたズラかね・・」

「それが原因で、昔からの水路の利用者だった熊野の荘園管理者や農民達と揉めたってことですね。水田を維持するのに、水が無かったらどうにも成らなかったでしょうから、新たな水路の建設や水流の変更は、熊野神社の農民たちにとっても死活問題だったでしょうしね・・。

たとえ相手が國守であったとしてもそれは譲れなかった、と。で、それに刃向かって刃傷沙汰が起きたと・・」私は確認するように、そう言った。

 

「っちゅうコンは『我田引水』を巡る戦いだった、ちゅうコンけ?」イタズラっぽい目で、久保田さんが言った。

「あはは、確かにほういうコンに成るな・・。うまいじゃん、久保田君・・」西島さんが応じた。

「しかし義定公も、もっと上手くやれば良かったでしょうにね・・。結構揉めてたから、刃傷沙汰にまで成ったんでしょ」

私はかつて義定公の先祖が常陸の武田之荘に居た時、地元の「鹿島神社」や「吉田神社」の既存勢力との間で起きた、新田開発等を巡るトラブルのあったことを思い出しながら、そう言った。

 

「まぁ、義定公っていうよりほの配下が起こした事件だけんがね・・。確かに、もっと上手くやった方が良かったズラね。

だけんがこの悶着は、平安時代の著名な寺社勢力や都の有力な貴族達といった既得権を持つ旧来の勢力に対して、新興勢力である武士達との新田開発を巡るトラブルちゅう点では、えらい(ずいぶん)象徴的な事件だっただよ」

西島さんは、考えを巡らせるような顔をしながら話を続けた。

「4百年続いた平安時代の貴族社会から、鎌倉時代の武士社会に世の中が変化していくプロセスとしちゃぁ、ほんとに象徴的な出来事だっただ。

平安から鎌倉に成って、武士の社会・武士の時代が確立していくに従って、全国的に起こったことの、まさに先駆けって言えば言えなくもねぇだよ。

この後こういった争いは全国で湧きおこっただから・・」西島さんが「水争い」の示す歴史的意義を解説した。

 

「その結果武士が勝利し自らの領地にしていって、その後はその領地を巡る争いが、武士同士の間で展開されるわけですね・・。で、最後は戦国時代にまで続いていくってことですか・・」

私は西島さんの言いたかったことを自分なりに解釈した。西島さんは大きく頷いていた。

「なるほどそういう事ですか。そしたらこの問題が孕んでいる歴史的な意義としては、『安田義定対熊野神社の争い』という固有名詞の戦いではなくて、新興の武士勢力対旧来の神社勢力との、荘園という領地経営を巡る争いの、先駆け的事例として理解する必要があるってことですね。
、その先には戦国時代が待っていて、家康が天下統一して新しい秩序を構築するまで、ずっと続いていくんですね4百年近く・・」私は確認するようにそう言って、

「中世の貴族や寺社勢力の時代から近世の武士の時代へと、社会の権力者が移って行く、それを象徴する争いだった、ってことなんですねこの『水争い』は・・」と締めくくった。

私達は向笠の丘を後にして、安田義定公のかつての遠江之國における本貫地である、遠州森町に向かって、更に北上を続けた。

 

 

                              吾妻鏡 第八巻』文治四年(1188年)三月十九日

                      『全訳吾妻鏡2』41ページ(新人物往来社)

  遠江の守(安田)義定の使者参着す。

 当国の所領において、下人らをして用水を引かしむるのところ、近隣熊野

 山稜の住民等相支ふるの間、闘乱を起こし、相互に刃傷に及ぶ。よってか

 れこれこれを搦め進ずと云々。

 しかるに熊野山定めて子細を申さんか。

 その程召し置かるべしと称して、これを返し遣わさると云々。

 
この年の半年前の文治三年八月に、安田義定公は遠江之守の重任を朝廷に願い出た。その際、「伏見稲荷神社」と「祇園八坂神社」の建て替えや大規模な修復を、認可の条件として認められている。
 
義定公はその課役に応じるために、上記のごとく積極的な新田開発などを行っていることがうかがえる。則ち、領地内に新たな新田を起こし荘園を増やし、領国内の石高収入を挙げようとしているのであった。 

義定公にとっては単なる水利権の争い、という事にとどまるのではなく、朝廷による賦役・課役を達成するための、収入源の拡大という側面を持っていたのではなかったか・・。

これと同様の事は、遠江の他の領地内においても、即ち当時太田川・原野谷川の河川の氾濫により湿地帯や湖沼が残存していた「浅羽ノ荘」や、「今浦湖の畔」「太田川河川敷」等においても、活発に進行していたのではないかと推察することが出来る。

すなわち、黒川衆の土木技術を投入・活用した治山治水、灌漑による新田および荘園の新規開発である。

また、上記の「用水を引かしむる」事業は、義定公家来と熊野神社関係者が敵対関係にあったのではなく「相支ふるの間」に、乱闘が起きていることから共同事業の遂行時に起きた、出来事と理解した方が良さそうである。

 

 

 
 

 

遠江之國 山梨

 

森町には、太田川に沿う形で北上して行った。途中は殆ど水田・稲田地帯であった。

その稲の刈り取りが終わった田んぼでは、少なからぬ鷺(さぎ)や鴫(しぎ)の姿を見つけることが出来た。今の時代、水田や稲田に鷺や鴫の姿を見る機会は殆ど無い。

 

私は学生時代に琵琶湖周辺の水田地帯で、生まれて初めて数羽の鷺や鴫の姿を確認して、感動したことがあった。

60数年生きてきて、指折り数えるほどしか鷺や鴫の姿を見た記憶がなかった。それがこの遠州の田園地帯の中では、頻繁に眼にすることが出来た。

そのことは、私にとってインパクトのあることだったが、山梨のメンバーにとっても思いは同じであったようだ。久保田さんの無邪気な反応が、それを示していた 

私は遠州の水田地帯で当たり前の様に見ることが出来る鷺や鴫の姿を見て、平安時代や鎌倉時代の和歌に、鷺や鴫がごく自然に登場している事をすんなりと理解することが出来た。

きっと中世や近世の日本では、この遠州の稲田地帯で今私が眼にしているような光景を、ごく普通に、日常茶飯の事として眼にすることが出来たのだろうと、そんな風に思った。

そういった想いで車窓を眺めていた私に、突然久保田さんが叫んだ。

 

「ちょっとちょっと、ほこの道路標識を見てみろしね」久保田さんの指摘で私達は、その道路標識を見た。そこには「山梨」という文字が観えた。

「何で、山梨なんて名前があるずらか?」久保田さんは運転しながら言った。私たちもそれには驚いた。

誰もその問いに答えることは出来なかった。

ハッキリしているのは、かつて國府があった磐田の見付から遠州灘の反対側すなわち、山側に在る森町に向かって北上して行く途中に、山梨という地名の場所が在るということだ。

 

「ほう云えば、昔静岡にも山梨って場所が在るよって話を聞いたコンがあったな・・」西島さんが言った。

「ちょっと、驚きですね。義定公が國守をしていた、この遠江に山梨なんて言う地名の場所が在るなんて・・」私がそんなことを呟いていると、藤木さんが言った。

「立花さん、ちょっとこの辺の地図を見してくれんですか・・」と。私は、昨日コンビニで買ったこの辺りの地図を広げて、藤木さんに渡した。

しばらくその地図を見てから、藤木さんが言った。

 

「なるほどね・・。遠州灘近くの國府の在った見付と、山側の森町の位置、その途中に在るこの山梨の位置を見てると、面白いことが判るですよ・・」

藤木さんの発言に西島さんが後ろを振り向いた。久保田さんも気に成ったのか、バックミラー越しに後部座席の藤木さんを見た。

私は道路の先にコンビニがあるのを見つけて言った。

「久保田さん、次の信号の手前にコンビニが在りますから、そこで車を停めませんか」

久保田さんは、やはり先ほどの藤木さんの話が気になっていたらしく、「ガッテン!承知の助」と明るく言うと、そのまま車をコンビニの駐車場に停めた。

 

藤木さんは地図を広げて「見付」と「森町の役場」との所在地を指さしながら、話始めた。

「この北北東の方に『森町の役場』が在って、そこを南南西に20㎞近く下った場所に『見付』があるわけですね。

そしてそのほぼ中間地点に『山梨地区』が在るですね」藤木さんはそこまで言って、私達の顔を見ながら言った。

「この位置関係って、どっかに似てるって思わんですか?」

 

しばらくたってから、西島さんが言った。

「ん?『塩山』『山梨』『笛吹』『一宮』ってコンけ?なぁるほど・・」

どうやら山梨県の藤木さんや久保田さんの、生活圏のことを言ってるらしいことが、私にも判った。

「ホントじゃん!なんでぇ、これって山梨にそっくりジャンけ!。ほれに高速の位置やインターまで・・」久保田さんは、そのように言いながら鞄からタブレットを取り出して、さっそく操作を始めた。

「久保田君さすがに高速やインターチェンジは、鎌倉時代には無かったズラよ、ハッハッハ」西島さんは茶化すようにそう言ったが、藤木さんの言わんとすることは理解していたようだ。

要するに、安田義定公が遠江之國の國守として着任したこの地と、故郷の牧之荘及び甲斐之國一宮や甲斐国分寺の在った「甲斐之國山梨郡」とその位置関係がよく似ていると、言うことであった。

 

「見てみろしねぇ⁉」久保田さんが、タブレットを指し示していった。そこには昨日も見た3D地図があった。

それは森町から見付・遠州灘にかけてのエリアを、配色と色の濃淡で高低差を見える化した、立体風地図であった。

確かに3D地図で確認すると、このエリアの森町と山梨地区と見付の関係は、かつて甲斐之國牧ノ荘と言われた塩山や山梨・一之宮の地理的な関係によく似ていた。

 

私は藤木さんや久保田さん達のように、山梨の地元の人間ではないので細かいことは判らない。しかし北側や東側を高い山に囲まれていて、そこから流れ出る笛吹川沿いに扇状地が拡がる、甲府盆地の東部「峡東地区」に、よく似ていると思われた。

この遠州では「北遠」と呼ばれる信州との国境に当たる山岳地帯から流れ出る太田川に沿って、その扇状地が形成されていた。

「ただ、あれですよね、地名というのは歴史的な出来事を反映していたり、何かの出来事やきっかけに成るようなことがあって、命名されたりすることが多いから、義定公の領地になったからって、すぐに地名が変わるなんてことは、なかなか無かったんじゃないですか・・」私はちょっと疑問を感じて、そう言った。

 

しばらくの沈黙があってから、藤木さんが口を開いた。

「久保田君この山梨地区のもうちょと詳しい、地名というか字(あざ)名が判らんかな?」藤木さんの依頼で、久保田さんはタブレットを操作してから藤木さんに見せた。

この辺が紙の地図と、インターネットに接続しているMAPとの違いであった。端末機の操作で、簡単に違った情報や詳細な情報が得られる。

その太田川沿いの扇状地の上部には「上山梨」「沖山梨」「下山梨」と字(あざ)名が書いてあった。「上山梨」は森町に接している北東部に在った。

「沖山梨」はその下方で太田川が大きく蛇行するエリアで、北北西から流れて来る「敷地(しきぢ)川」と合流し始める地域であり、このエリアの面積が一番広いようであった。

 

遠州地域の著名な河川である両河川が合流するエリアということは、大雨や洪水が発生した時は氾濫が起きやすいエリアである事を、意味していた。

そして同時に、この地はかつて「今浦」と呼ばれた湖の北端でもあったのだ。

「下山梨」は沖山梨の下方に位置し、先ほど寄って来た熊野権現の太田川をはさんだ反対側、すなわち太田川流域の東側に位置していた。東名高速に、より近いエリアであった。

「久保田君、この辺りをもいっぺん3D地図で、見してくれんか?」藤木さんがそう言った。久保田さんはタブレットを操作した。

「やっぱり、な・・」藤木さんが呟いた。その時の藤木さんの考えていることは、3D地図を見て私にも判った。

 

左右を濃い緑色が示す小高い山や丘に挟まれる感じで、太田川流域及び敷地川流域は薄いベージュ色で示され、そのまま遠州灘まで続いた。

要するにこの「沖山梨」「下山梨」という小字(こあざ)の地域は、今でも低地であることを示していた。

かつてこの地域一帯は「とおきあわうみの国」と呼ばれていた。古代や中世においてこの地は、二つの河川が合流する河川敷であり、同時に「今浦」と呼ばれていた湖の流入口であった可能性があるのだ。

 

「そう言うことですか・・。それでこの地区を『沖山梨』って言うんですね。何故『沖』なのかって判らなかったのですが、これで納得ですね・・」私が言った。

「ってコンは、どういうコンで・・」久保田さんが言った。

「ん?ほうだな・・。要するに沖っていうのは、ふつうは海とか湖の奥のことを言うら。まぁ、陸地から離れてる場所だよな。

ほの名前が『沖』って言うからには、ほういう場所でなければ普通は言わんだよ。ほれを敢えて『沖山梨』って言うからには、ほの辺りも当時は今浦湖の中でも陸地からある程度離れた場所、だったんじゃねぇかってコンさ。

ちゅうコンは当時もこの沖山梨の辺りは『今浦の湖』の中で、それも陸地から結構離れていた場所だったから、『沖山梨』って言われてたじゃねぇかってコンさ」西島さんが私に代わって説明してくれた。
 
 
「ってコンは、義定公が遠江に来た頃はこの沖山梨辺りは湖の奥の方だった、ってコンけ」久保田さんは言った。

「まぁ、そう言えそうかなと・・」私は言った。

「実際当時のこの山梨の地は湖の沖だったか、或いは河川が氾濫して出来た今浦湖との接点でも、奥まった地域を指していたのではなかったかって想像したんですよ。この3D地図を見てですね」私は続けた。

「でもほの奥まった場所が、今こうやって田んぼや住宅地に成ってるってコンは、どういうコンですかね?」久保田さんが再度聞いてきた。

「その答えのヒントは蛇行している太田川に在るんじゃないかって、私は直感したんですがどうです?」私は西島さんと藤木さんに聴いてみた。3D地図を見つめていた藤木さんが、

「そうですね『上山梨』がこの位置で、そのすぐ左下に『沖山梨』が在るってことは、治水・灌漑等の土木技術によって、川の流れが人工的にコントロールされた可能性が、あるってことですね・・」と言った。

 

「そうなんですよ。通常河川は高低差に沿って北から南に流れ続けますよね。

何らかの物理的な障害が無ければ・・。ところがこの『上山梨』では、本来この濃い緑色に沿ってそのまま今浦湖や遠州灘に向かって南下して行くはずの流れが、ここで大きく西南西に蛇行してますよね。

流れを変える様な台地や小高い丘といったものが、特に見当たらないのにも関わらず・・」私はタブレットの3D地図と紙の地図とを、交互に指さしながら、説明した。

「確かに森町からこの『上山梨』までは、緑色に沿って川が流れてるじゃんね。宇狩』っちゅうだけこの小高い丘の辺りは・・。

ほれがこの『上山梨』からはその丘とは離れる感じで、西っ側に逸(そ)れて行ってるじゃん・・」久保田さんが言った。

 

「ってことは、多分ですけど鎌倉時代頃の『上山梨』は太田川から今浦湖に入って来る、その入り口、河口だったんじゃないかと。だから『上』って字が付いたんじゃないかって、想ったんです」私は皆の顔を見て、続けた。 

「で『沖山梨』は、その河口付近より湖の奥のエリアに在ったから『沖』の字が付いたんじゃないか、と。

その河川の流れの変更を可能にしたのは、義定公の配下の持ってた土木技術だったのではなかったかと、想ったんです。

義定公配下が持っていた土木技術を使って、太田川の流れを大きく西南側に蛇行させたんじゃなかったか、と。たぶん新しい荘園の開発や新田開発のために・・。

その結果『上山梨』のすぐ左下から南側に拡がるずっと広い範囲が、『沖山梨』って呼ばれる田園地帯に成ったんじゃないかって。まぁそんな風に想像してみたんですよ、僕は・・」

 

「なるほど」西島さんがニヤッとして、

「立花さんはその土木工事をやったのが、義定公の黒川衆だとニランでるんだね、ハッハ・・」と言った。

「ハイ、その通りです」私は応えた。

「確かに黒川衆の土木技術だったら、河川の流れを大きく西側に蛇行させることも可能かもしれんですね・・」藤木さんが呟いた。

「へぇ~、ほんなコンがあったですか・・」久保田さんが言った。

「まぁ推測ですが太田川もこの辺りまで来ると、今浦湖にそそぐ河口域と成ってたでしょうから、川の流れもだいぶ緩やに成ってたんじゃないかって想います。この3D地図を見ると、そんな風に推測出来るんですよね・・」私が言った。

 

「なるほどな、要は河川の流れを西っ側にコントロールするコンで、かつて『沖』って呼ばれてた辺りを、水抜きや水路の整備・堤防を造って、新田を開発したってコンだな」西島さんが言った。

「そうです。義定公はそうやって国守として新田開発や新しい荘園の開発をやって、遠江之國の石高(こくだか)を上げていったのではないかと・・」私は言った。

「何でぇ、ほんじゃぁこの山梨って辺りは新田開発で出来た街だった、ってコンけ・・」久保田さんが周囲を観廻しながらそう言った。

「まぁ、そうだと思いますよ。今から8百年前の新田開発ですがね・・。太田川の流れを西南西に蛇行させることさえできれば、時間は掛かったでしょうがそれは可能だったと思いますよ・・。

で、その新田の開発地域だったから、義定公は『山梨』って甲斐の故郷の名前を付けることが出来たのかも、知れないですよね・・。まぁ、あくまでも推測ですがね・・。どう思いますか?」私はそう言って、みんなの反応を確認した。特に異論はなさそうだった。

私達は遠州山梨について、とりあえずそのような共通意識を抱きながら、安田義定公の遠州における本拠地と思われる森町にと向かった。

 

 

 

 
           
             「太田川」や「原野谷川」を中心とした遠州の古図
 
 
 
 
 



〒089-2100
北海道十勝 , 大樹町