春丘牛歩の世界
 
先週から、「行者ニンニク」が採れる様に成り、我が家の食卓にも乗るようになった。
行者ニンニクが採れる様に成ると、今年の春がやって来た事を実感する。
これまでの私の経験では「行者ニンニク」が生えてきてから、雪が降ったことは無いから、である。
 
 
      
 
 
野生の昆虫や動物たちが作る巣の位置で、颱風の影響を早い時期に推測できることがあるが、自然界の生き物たちは彼らなりのセンサーで、天候や自然現象を察知する能力がある。
そんな事から私は、「行者ニンニク」が我が家の林に生え始めることを、季節の到来のメルクマール(指標)にしているのである。
 
 
      
 
       
         
 
     
 
 
    記事等の更新情報 】
*4月19日 :「コラム2024」に、「青い春」と「チャレンジ虫」を追加しました。
*3月25日:「相撲というスポーツ」に「新星たちの登場、2024年春場所」を公開しました。
*2月8日:「サッカー日本代表森保JAPAN」に「再びの『さらば森保!』今度こそ『アディオス⁉』を追加しました。
*01月01日:本日『無位の真人、或いは北大路魯山人』に「無位の真人」僧良寛、或いは・・を公開しました。
これにて本物語は完結しました。
12月13日:  『生きている言葉』に過ぎたるはなお、及ばざるが如し」を追加しました。
*9月29日:「食べるコト、飲むコト」 に「バター炒め二品 」を追加しました。
*9月27日;「物語その後日譚」に「奥静岡の鶏冠(とさか)山」を、追加しました。
 
 

  南十勝   聴囀楼 住人

          
               
                                                                  

新しいご利用方法の
     お知らせ
 
2024年5月15日から、当該サイトは従来の公開方法を改め、新しい会員制サイトとしてスタートいたします。
 
・従来通り閲覧可能なのは「新規コラム」「新規物語」等のみとなります。
「新規」の定義は、公開から6ヶ月以内の作品です。
・6ヶ月以上前の作品は、すべて「アーカイブ作品」として、有料会員のみが閲覧可能となります。
 
皆さまにはこれまで(6年間)全公開してまいりましたが、5月16日以降は「新規作品」のみの「限定公開」となりますので、宜しくお願いします。
 
「会員サイト」の利用システムは、近日中に改めて公表いたします。
         2024.05.01
              牛歩
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
   
      
 
 
           
               【 目 次 】 
 
               函館市立中央図書館
               ②啐啄(そったく)同時
               ③『大野土佐日記』-吉田霊源版-
               ④北海道道南渡島(おしま)知内(しりうち)
               ⑤牡蠣小屋
               ⑥荒木大学の痕跡
               ⑦神様を守り続けて7百年
 
    
  

函館市立中央図書館

 
 
7月の「北海道砂金・金山史研究会」主催の講習会で、『大野土佐日記』や『松前旧事記』の存在を知り、蝦夷地の金山に興味を持った私は、9月の連休を利用して北海道道南渡島(おしま)の知内町と松前町を訪ね、それらの古文書を確かめることにした。

ベースとなる宿は、函館市内の五稜郭近くのホテルに取った。

 

私が『大野土佐日記』に興味を持ったのは、そこに登場した荒木大学一党が甲斐の国からやって来た、という点にある。

甲斐の国、今の山梨県は私の父親が生まれ育った場所である。

私は小さい頃、夏休みになると妹と二人祖父母の居る山梨にひと月近く預けられ、野遊びや沢遊びに興じていた。山梨はその思い出の地であり、私達兄妹にはある種の故郷と言っても良い場所であった。

 

函館には新幹線でやって来た。去年の3月に北海道新幹線が開通したことは知っていたが、まだ利用したことは無かった。

飛行機は帰りにして、行きは新幹線に乗ってみようと決めたのだった。

東北新幹線を使って新青森まではこれまで何回か利用していたが、函館までは特急に乗り換えて行っていた。当時は函館まで特急で2時間は掛かった。

新青森には三内丸山遺跡を2年前に訪ねて来ていた。

 

三内丸山遺跡は縄文時代の日本の遺跡として最も規模が大きく、かつ中身の充実した遺跡であろう。遺跡からの出土品の数も多く、それらは立派でかつ充実していた。

生前岡本太郎が絶賛していた、縄文土器の土偶や土器の類似品等もあり少なからずあり、しかもそれらは十分鑑賞に値するものであった。

しかし何よりも良かったのは、遺跡が当時の規模で実寸大の建物群と集落として、再現されていたことだ。

縄文時代の家族が生活していたであろう、小さな竪穴式住居はもちろん集落の皆が集まる大きな竪穴式集会所や、外敵を見張る物見の大櫓の存在があった。

 

それらの遺跡集落に居ると、自分がその時代にタイムスリップしたのではないか、と思わせるリアリティがあった。

今話題のVR(ヴァーチャルリアリティ)などという、視覚をちょこっといじって錯覚させる、仮想現実とは違う五感全体を刺激するリアリティを、体感できる場所であった。

三内丸山遺跡は、4・5千年以上前の高度な縄文人の生活水準の高さを、教えてくれると共に、当時の生活のリアリティを私に五感全てで体感させてくれた。

将に百聞は一見に如かず、なのだ。

 

五稜郭のほぼ中心部に在るホテルには、17時過ぎにチェックインした。

部屋に入ると、出立前に送っていた荷物が届いていた。函館には1週間程度留まるつもりでいたので、着替えや靴・書籍などもそれなりに必要だった。移動はカーシェアを使って行うつもりだったので、知内や松前への足は心配してなかった。

 

荷物を整理し、暫くベッドで体を休めてから五稜郭の街に出た。今日は初日ということで、五稜郭の繁華街をざっと見て廻ることにした。街全体の概観を把握しておきたかったのだ。

五稜郭の繁華街はそんなに大きくなかったので、3・40分で一通り見て廻ることが出来た。めぼしい店はある程度チェックしておいた。

今日の夕飯は軽く寛げそうな小料理屋を選んだ。京都で言えばおばんざいを出してくれそうな感じの店だ。

 

昼過ぎに東京駅を出た新幹線の中で、弁当とつまみを食べビールも数本飲んでいたので、体はもう出来上がっていた。

店ではカウンターの端に座り、大皿に盛りつけてあったおふくろの味系の惣菜を中心に食べた。

私は独り暮らしをしており自炊を好むので、自分でも頻く料理を作る。が、所謂おふくろの味系の料理は出来なかった。教えてくれる人が居なかったのだ。

母親が健在な内は敢えて教えてもらうこともなかった。いずれ、教えてもらおうと思っているうちに、母親は突然脳溢血で亡くなってしまった。

 

別れた妻は料理があまり好きではなく、仕事をしていたこともあって自分が作れる料理や、自分が好きな料理を作る事が多く、私が喜ぶ料理を意識して作ってくれることは無かった。従って妻が、私の母親のおふくろの味を継承することもなかった。

そんなこともあって、私はおふくろの味を継承してこなかった。そのためかかえって、外食ではおふくろの味系の惣菜を食べることが多かった。

その店は女将があまりしゃべらない人だったので、私は自分の世界に入りながら明日からのプランを考え、食事を済ますことが出来た。

 

先ずは函館中央図書館に行って、知内町や松前町に関する情報を事前に収集しようと考えた。大樹町の講演会で、講師が勧めていた図書館だ。

函館は人口が25・6万人で大都市とは言えないが、北海道の道南渡島(おしま)地方では中核となる街だ。

現に北海道の公的機関の出張所は、殆ど函館に集中していた。

言わば函館は道南渡島のヘソなのだ。歴史的にも蝦夷地と言われていた北海道の、表玄関でもあり中心地としての歴史的な蓄積があった。

それゆえに函館で一番大きな図書館である中央図書館には、貴重な資料が蓄積されているはずであり、私は期待もしていた。先ずは中央図書館で得られる資料を確認し、確保しようと思った。

ベースを抑えた上で、必要に応じて知内町や松前町の図書館や郷土資料館などを訪ね、そこにしかないオリジナルな資料をゲットして来ようと、考えた。

店の惣菜は、北海道の秋の新じゃがで作られたと思われる肉じゃがや小魚の南蛮漬け、高野豆腐の煮物等が旨かった。もう一度来ても良いと思った。

 

翌朝は朝食を終えてからホテルを出て五稜郭公園の周りを1時間ほどかけて一周し、戻った。腹ごなしと、足腰を鍛えるための散歩であった。健康のために私は万歩計を持参し1日1万歩を目標にして歩いている。

今日は、図書館にこもって資料を漁ることにしていたから、意識的に散策の機会を作らないと日課が果たせない。散策の途中に、函館図書館の場所を確認することが出来た。

また五稜郭タワーの近くに在る函館美術館を見つけることも出来た。美術館では北大路魯山人の、『魯山人の世界展』をやっていた。

 

魯山人は、私の好きな芸術家であった。

本人は自分が芸術家であるとは思ってなかったとは想うが、私は彼は間違いなく芸術家であり、美のプロデューサーであると認識している。

午前中の図書館での資料漁りを済ませたら、昼食がてら訪れてみようと頭の中のスケジュールに、美術館行きをインプットしておいた。

 

 9時半の開館に間に合うようにホテルを出、図書館に向かった。
図書館のインフォメーションで、渡島地方の郷土資料につながる書物が閲覧できるコーナーを教えてもらった。そのコーナーは二階に在った。

そこには渡島地方の郷土資料はもちろん、北海道の殆どすべての市町村の資料が揃えてあった。もちろん、市町村史といった公の資料が中心ではある。

郷土資料のコーナーを一通り観廻し概況を確認したが、先ずは市町村史を見ることとした。お目当ての『知内(しりうち)町史』を先ずは、確保した。

閲覧スペースは、窓側の五稜郭公園を臨むことのできる場所を選んだ。

開館間もないこともあり、来館者が多くなかったために私は五稜郭公園の緑が観えやすい席を、キープすることができた。

 

『知内町史』の目次に眼を通し、読むべき個所をセレクトし持ってきた付箋を貼った。

チェックした項目は「通史の内、中世の箇所」「産業の内、鉱工業の箇所」といった、公文書的なものの他に

「神社・仏閣の由来」「集落の由来」といった郷土史に関するものや「民話・伝承・わらべ歌」といった、民間に伝わって来た言い伝えに関するものなどであった。

 

セレクトした個所を具体的に読んでいくと『大野土佐日記』や『荒木大学』に関する記述が、実に豊富に記載されていた。

そして文章の行間からは大野土佐日記に書かれている事柄や、荒木大学に関しての編者や町民の尊崇の念や信頼、そして知内こそが蝦夷地開拓の先駆けの地である。というプライドといっても良いものが、伝わってくる内容になっていた。

町史には『大野土佐日記』を偽書として扱った、明治時代以降の歴史家の評価についても触れてはいるが、それらの評価は殆ど一蹴しており、知内の実質的な歴史はこの日記に書かれているように元久二年(1205年)に始まった、と記述してあった。

行ってみれば知内町民にとって『大野土佐日記』は、『古事記』のような存在なのであろうか、と私は感じた。

元久二年は荒木大学が甲州金山の金山(かなやま)衆であった一族郎党千人余りを連れて、甲斐の国から入郷した時である。町史の「中世の知内」の章には、大野土佐日記』の原文を現代風に読み下した文が3ページに亘って記述してあり、知内村の開村の歴史が記載されている。

そのあらすじは、以下のように書いてあった。

元久二年(西暦1205年)筑前の廻船が海の嵐に遭い漂流、遭難した際に運よく蝦夷地の現在の知内之浜にたどり着いた。

その際甲斐の国出身の廻船の飯炊きの男が飲み水を求め、他の水夫と上陸し滝の水を酌もうとした時に、滝壺に光り輝く金塊を発見し、それを隠し持ち帰った。

 

その飯炊きは国元に帰った時に、自身の領主であり金山衆の頭領でもあった「荒木大学」に、持参の金塊(まるかせ)を見せ自分の体験を話したところ、荒木大学は大いに喜んだ。

大学はその飯炊きにたくさんの褒美を取らせると同時に、その金塊を鎌倉幕府二代将軍源頼家に献上し、そのいきさつを話した。

頼家はその金塊と飯炊きの話に喜び、改めて荒木大学に領国の知行を増加し与えると共に、蝦夷地への金山見立てを命じた。

荒木大学は頼家のこの命により、家来や堀子併せて千人余を引き連れてかの飯炊き(荒木大学の褒章として、荒木外記と改名)を先導にして、蝦夷地に向かった。

元久二年六月二十日に出航して、一カ月ばかり掛けて七月二三日に、蝦夷地の矢越(現在の知内町矢越岬)に、無事到着した。

 
 

大野土佐日記』には、ざっとこのようなことが書いてあり、知内上陸時の逸話と共に、現在の地名の由来なども書いてある。更に、

大学は今回の金山見立ての使命を、(海岸で出会った人品卑しからぬ美女)アイヌの娘イノコに話したところ、彼女はその(金塊のある)場所はこの場所(イノコ泊)の上に在る、沼の底の金で、今なお金がたくさんある、と言い大学らを案内した

大学はじめ家中、堀子は残らず上陸し、毛なし嶽を居城としたが、今の荒神堂の岱がその場所である。この毛なし嶽で、およそ13年間、健保五年(1217年)まで金掘を行い・・

 
と書いてあり、現在の知内町元町の知内公園の丘に在る祠「荒神(あらがみ)堂」周辺(毛なし嶽)が、約13年の間金山掘削の拠点であったと、述べている。
 

その後枯渇した毛なし嶽周辺の金山に代わる新たな金山を探し求めて、知内川の中・上流域にまで、採掘の場を移している。

その新たな金山採掘場を探していた堀子の一人が、偶然に発見した温泉が現在の「知内温泉」であると、記述してある。

 

ある時堀子の内壱人(知内川上流の)沢辺をかけ廻り候処、温泉の余煙諸方に立登候ゆえ、いかさまかかる山中に温泉の出ること名湯疑いあるべからずと、早速立帰り、大学殿に右の段申上候処、大学殿甚以て御悦び、是来世のたからなりとて宝治元年(1247年)七月二五日に(この地に)薬師御建立被成候(なされそうろう)
 

と、『大野土佐日記』を引用している。

これによると「知内温泉の薬師堂」を建立したのは、毛なし嶽の金山以外の新たな金山を探し始めて30年程後の事、ということに成る。
 
因みに、荒木大学は毛なし嶽近郊から金が採掘出来なくなり、金採掘の拠点が知内川上流域に移るに際し、自らの拠点(館)を知内温泉からそう遠くない「出石丸山」(通称『大学の山』)に1240年頃、移している。
 
知内上陸後35年後にして移った大学の新しい拠点は、現在の国道228号通称「福山街道」を、隣りの福島町に向かう沿線に位置し、現在北海道新幹線が津軽海峡トンネルを抜け出る辺りに在ったようである。
 
そこはまた、道南の最高峰である「千軒岳(標高1071m)」のすそ野に当たる処に成るようだ。荒木大学も、自分の居城跡の地区に八百年後新幹線が通ることなど思いもしなかったであろうが、歴史の偶然とは面白いものだ、と私は想った。
 
 

町史では「中世の章」の後半で『大野土佐日記』の成立年代に、疑問をはさんでいることが書いている。

しかし知内の名所旧跡のいわれや名称の成り立ちを、この『大野土佐日記』の記述を基本にして解説しており、端々にそれらを裏付ける遺跡や遺物の存在を述べているため、却って取って付けたような印象を与えるこの記述に、私は不自然さを感じた。

無理に後世の歴史学者たちの評価や通説とバランスを取り、気を配ることは無いのではないか、と想ったのである。

私は「知内町史」の必要箇所をコピーしたうえで、いよいよ本丸の『大野土佐日記』を探すことにした。

 

が、お腹がすいた。時刻は12時半を過ぎていた。図書館にこもって三時間は経つことに成る。ホテルの朝食がバイキングで、パン食を中心にしたことも昼食を急いだ原因かもしれない。結局、『大野土佐日記』の探索は、昼食をとった後にすることとした。

中央図書館の駐車場の向かいに、しっかりとした造りの純和風のお寿司を食べさせる店が在った。そそられる存在である。

私は迷った。胃袋の事だけを考えれば寿司屋に直行するところだが、寿司を食べればお酒を飲みたくなる習癖のある私は、午後の図書館の探索を考えると躊躇してしまうのだ。

午前中の知内町史の読み込みもそれなりに視神経を使い、頭を使った。午後もきっと、同様のことが起きるだろうと、予測された。アルコールの力で集中力や脳の活動を麻痺させては、もったいないと思ったのだ。

北海道の海鮮料理の魅力は、夜に取っておくことにした。結局、昼は軽い食事で済ませることとした。

 

 

 
 
 
 

(そったく)同時

 

図書館を五稜郭公園沿いに繁華街に向かって戻り、北海道警の函館方面本部の先の中華店で、昼食を済ませた。

子供の頃から麺類が好きだった私は、出来たら毎日1食最悪でも2日に1食は麺類を食べた。ラーメンや焼きそばはもちろん、パスタ・お好み焼き・うどんなども好物だ。

そして自分の生活圏では必ず贔屓(ひいき)となる、それらを供給してくれる店を確保していた。自宅のある街はもちろん職場の徒歩圏内、仕事で立ち寄った街でも、出来るだけ新しい食との出逢いがある事を期待して、店を食べ歩いた。

納得のいく店に当たるまでは、どのエリアでも店を替え食べ歩いた。私のこの食に対する拘りは、或いは離婚の一因であったかもしれない。家庭でも妻の料理にコメントをしてしまった、からだ。

結婚して数年経って久しぶりに実家で妹の手料理を食べた時、その料理の味付けにコメントをした時に、妹の言ったことが今でも記憶に残っている。

「兄さんは、家でもこうなの・・。あまりうるさいと姉さん、作るのや(嫌)に成っちゃうよきっと。・・お仕事だって続けてるんでしょ、姉さん」思い当たるフシがあるだけに、この言葉は、私の心に残った。

土日に、女房に代わって食事を作るようになったのは、この時からだった。

 

この昼の五稜郭公園近くの中華店で食べた塩ラーメンや焼き餃子に感動はあまり無かった。

従って、今度また図書館に来た時は新たな昼食をとる店を探さなければならない、と思いながら私は函館美術館に向かった。

北大路魯山人に会うためにだ。

私が魯山人に興味を持つように成ったのは、20代の終わり頃岡倉天心に出逢った事による。それまでの私は日本の美術や伝統工芸に、さしたる関心を持っていたわけでは無かった。

TVの美術番組で岡倉天心の功績や実績を知るようになり、番組でも紹介していた「岡倉天心展」を見に行ったのがきっかけとなった。

岡倉天心は明治維新以降の新政府の西洋化政策一辺倒に異を唱え、日本の伝統的美術品、とりわけ国宝級の美術品の海外流出に警鐘を鳴らした。

その後現在の東京芸大の校長を務めた後、日本美術院を自ら興し茨城の五浦(いずら)を拠点とした。

後の日本美術界の大家となる、才能ある若い芸術家たちの修練の場を創り、率先して日本の伝統的な美意識を守り、育ててきたのだ。横山大観・菱田春草・下村観山らは天心によって、その才能を開花させられることに成った。

私はその岡倉天心の活き方に感動を覚え、それ以降日本美術や日本の伝統工芸に関心が向かって行った。その延長線上に北大路魯山人が居たのである。

 

私が北大路魯山人に対し興味を抱くようになったのは、彼が食に拘った人間であったことも、少なからぬ影響をしているようだ。

魯山人は、生活の糧としては先ず書家として世に出たが、人生の節目節目において食を通した人との出逢いがあり、彼らとの出逢いが彼自身を大きく成長させてくれ、また羽ばたかせてくれたのである。

魯山人が食事を作ることを始めたのは、初めは養家の里親の歓心を引くためであったが、20代の頃の京都での内貴清兵衛との出逢い、30代の頃の金沢での細野燕台(えんたい)との出逢いを通じて、彼の料理の世界は拡がり料理の奥の深さを知る事で、その技量を磨きやがて料理の神髄に到達するに至った。

その成長の過程において味覚のみならず、生来美意識の高かった魯山人が料理を盛り付ける器にも、興味関心を抱くようになる。

もちろんそのきっかけを作ってくれたのは、内貴清兵衛や細野燕台であったのだろうが、それらを吸収し自らの血や肉として取り込んでいったのが、魯山人自身であったことは言うまでもない。

 

禅の世界に「啐啄同時」という修行の概念があるという。

卵から雛が孵(かえ)るのに、卵の外から親鳥がつつく(啐く)タイミングと、卵の中から成長した雛がつつく(啄く)タイミングが、合致することを言っている。

修行中の弟子(雛)が鍛錬を重ねた結果、自ら(内から)悟りを開こうとするその瞬間に、導師(親鳥)が外から導く、というわけである。

その瞬間に悟りに達し殻を破ることが出来る、というわけだ。

この内と外の二つのタイミングが同時に合った時、雛は殻を破り孵化しヒヨコとなって、外界に飛び出すのである。

両者のタイミングは遅すぎても、早すぎてもダメなのである。

魯山人という雛鳥は自らの成長に伴い、内貴清兵衛や細野燕台という親鳥に出逢い、孵化し、成長し、それまでとは異次元の人間に自ら生態を替えて行ったのである。

その魯山人が

「器は料理という美人の魅力を引き出すための着物である」というような事を言っていた。この言葉が私を、陶磁器を始めとした日本の伝統工芸の美の世界に、引きずり込んだのであった。

以来私は有楽町や南青山・上野毛辺りの美術館を巡り始め、GWや夏休みには地方の窯元などを巡回するようになった。

私は魯山人のように、料理という美人のための着物を自ら創る事はしないが、それらを鑑賞し、撰び、求める様に成った。

 

美術館の魯山人展では、懐かしい魯山人の作品たちに逢うことが出来た。

魯山人はプロデュサーだから、自らは作陶することは殆ど無かったようだが、作陶に当たっては多くの注文を職人達に指示したようだ。

古田織部や美濃焼・志野焼の古窯に学び、伊賀・信楽の窯を尋ね、琳派の傑作に接し、須田菁華や金重陶陽らの名工たちとの交流を通じ、自らの美意識を磨き、目を鍛えていた。

その要求水準が高かったから、職人たちも苦労させられたようだ。白崎秀雄の『北大路魯山人』に書いてある。その美食の求道者とでもいう北大路魯山人の作品は、観ていて楽しくなる。

 

以前東銀座で贔屓(ひいき)にしていた和食の大将は、魯山人の器を見ているとこの器にはどんな料理を盛ったら佳いだろうか、そう考えていると時の経つのを忘れる。と言っていた。

食べ物という美人を作り出す料理人の彼が、美しく、クオリティの高い仕上がりの魯山人がプロデュースした着物(器)を前にして、ワクワクしながらその魯山人の着物を着せる美人(料理)のことを考え、愉しんでいるといったところか・・。

 

 

              

                北大路魯山人「織部長皿」
 
 
 
 
 
 
 
『大野土佐日記』-吉田霊源版-
 

美術館で、1時間ばかり愉しい時間を過ごした後五稜郭公園のお濠端を歩き、図書館に戻った。ちょっと長めではあったが、佳いインターバルであった。

図書館では、備えつけのPCの蔵書検索を使って『大野土佐日記』を調べた。

『大野土佐日記―吉田霊源編―』と、『知内村大野土佐日記』の二冊が在った。

前者は書架にもあり比較的容易に閲覧できそうであるが、後者は指定の閲覧室でのみ閲覧が許されるようだ。それだけ資料価値の高い稀本なのか。

吉田霊源本は昭和38年刊行とあり、比較的新しい本の様だ。この二冊を借り閲覧することとした。

 

二階のカウンターで図書館の司書に本の所在を尋ねた。吉田霊源本はその所在場所を教えてもらった。知内村本は蔵書から取り出すので数分後にまた来て欲しいといわれた。

ひとまず吉田霊源本を探しに、教えられた書架を尋ねた。

教えられた場所は知内町史の在った書架の近くで、北海道の歴史や郷土史などに関わる書籍が、数百冊は陳列してあった。

主に市販されている書物が中心であった。司書の居るカウンターに戻るにはまだ時間に余裕があったので、そのあたりの棚の悉皆(しっかい)調査を始めた。

背表紙をじっくり読み面白そうなタイトルの本を手に取って、パラパラと内容を確認してみた。が、タイトル倒れの本が多く、閲覧する気にはなかなか至らなかった。

 

吉田霊源氏の『大野土佐日記』は、薄い本であった。

他の立派な背表紙の本に挟まれていては、その存在自体を認めてもらうことは難しそうである。外観上はインパクトの弱い書であった。

緑色の表紙のこの本は、60ページに満たない本で、1ページに二段の構成で読み下し分で書かれていた。旧仮名づかいではあったが綺麗に印刷されてあり、読み易そうであった。今の私の読解力でも太刀打ちできそうであった。

私は吉田霊源本を持参し、司書の居るカウンターに向かった。カウンターには既に『知内村大野土佐日記』が用意されていた。同書の閲覧はやはり場所指定がされていた。

カウンターの近くでガラス張りの小部屋が、その指定された閲覧場所であった。監視しやすい場所での閲覧、ということらしい。それだけ貴重な本なのであろう、と思われた。期待感が湧きおこった。そのガラス張りの閲覧室で、両者を読み比べた。

 

吉田霊源本は、知内在住の郷土史研究家である吉田霊源氏が昭和38年8月に、当時の知内村の支援を受けて刊行した本で、『大野土佐日記』の所蔵者である雷公神社の宮司大野七五三(なごみ)氏の許可を得て、書き写した書とある。

吉田霊源氏の編集方針は、17世紀初頭に書かれた原本を出来るだけ「全文に忠実な書写をと思いたった」となっている。私はこの編集方針を知り、喜んだ。

それだけ原書に近い記述に接する事が出来そうだからである。とてもありがたい。

「知内に伝わる古文書を、出来るだけ原本に近い形で書き写すことで、今日の知内町民を始めとした渡島の人々や、郷土史研究に関わる人達の目に触れる機会を持たせたい」といった動機で、刊行を思い立ったようだ。

因みに吉田霊源氏の父親も郷土史研究家で、親子二代にわたり『大野土佐日記』の研究を続けて来た事が、「あとがき」に記してあった。

 

他方『知内村大野土佐日記』は、将に吉田霊源氏が「原本」とした本の写本を函館図書館が所蔵しており、その複写であると巻頭に書いてある。

和紙に原稿用紙が印刷され流麗な漢字仮名交じり文が、毛筆で書かれている。

原稿用紙が印刷されているところを見ると、明治時代に書写されたものかもしれない。

いずれにしても現在の私の読解力では、『知内村大野土佐日記』は手に負えないことが判って、私は『吉田霊験本』を読み解くことにした。

前者は抜粋した個所のみをコピーする事とし、後者は全文の中から前半部分を中心にコピーする事とした。図書館のコピーは著作権法の問題から、過半をコピーする事が認められないからである。

『知内村本』からは「荒木大学渡海之事」「雷公堂由来」「知内温泉起原」「ホマカイ堀、千軒嶽、切明之沢、夷塚之由来」の箇所をコピーし、『霊源本』では前半部、即ち荒木大学の知内上陸以降、金山衆が滅亡するまでの記述を中心とした部分をコピーした。

 

コピーを終えたら、既に18時を過ぎていた。

午後に図書館に戻ってから四時間近く経っていた。さすがに疲れた。

私は二冊の『大野土佐日記』を返却し、図書館を出ることにした。

 

九月下旬の18時過ぎともなるとすっかり日も落ちていて、空気はひんやりとしていた。寒くはなかったがやはり北海道だと、私は改めて感じた。

頭を使い、目も使い、疲労感が有った。50過ぎてから老眼気味になっていた私に、長時間の目の酷使は、辛いものがある。

ここは一時間でも早く、疲れた目や疲れた頭、そして乾いた喉を潤す必要がある。

疲労回復のためにこの時のために取っておいた、図書館向かいの寿司屋にまっすぐ、飛び込むことにした。今日一日の自分へのご褒美でもあるのだ。今日の図書館滞在は実りの多いものであったと、私は満足していたから、足取りは軽かった。

 

その寿司屋は建坪で百坪程度はあったのではないかと思われる、しっかりとした造りの平屋の和風建築で出来ていた。

入ってすぐに待合のスペースがあり、そこには木製の長椅子に紅い毛氈が敷かれていた。長椅子の目線の先には、蹲(つくばい)や玉砂利の石に季節の草木をあしらった和の小宇宙が在り、和食店としての演出がなされていた。

 

和風の装いの女性に、人数を尋ねられ、左奥のカウンター席に通された。待合の右側は、グループ客用の個室ゾーンだと、紹介された。

カウンターと言っても3・40坪は在り、中央に十人程の寿司職人が居て、そのぐるりを楕円を描くようにカウンターが張り巡らされていた。ざっと4・50人は入れるのではないか、と思われた。

樹のカウンターはぶ厚い一枚板を使っていて、存在感と高級感とを醸し出しており、店の品格を上げていた。

築地でもこれだけの店は中々、お目にかかれない。不覚にも私は懐具合を考えてしまった。

私は若い観光客と思われるカップルと、70代前半とおぼしき地元の夫婦と思われる人の間に、案内された。両者の違いは、服装や髪形、会話の言葉でも明らかだった。

 

ビールを頼みお品書きを見ていると、隣のシニアの夫婦の会話が耳に入って来た。イントネーションも言葉も明らかに北海道弁であったが、二人の会話は私でも十分理解することはできた。

私の耳に残ったのは「雷公神社のお祭り」というフレーズだ。雷公神社、ということは、ひょっとして知内の雷公神社の事か?

 

一杯目のビールを飲み干し、貝類の握りを注文しながら二人の会話を聞いていると、やはり知内の人らしい。私は思い切って尋ねてみた。

「失礼ですが、知内の方ですか?」私の問いかけに、ご主人が振り向いた。短い白髪頭の彼は、既に出来上がっていたのか血行が良い体質なのか、顔が充分赫くなっていた。

「オレかい?」と、彼は短く応えた。奥さんも私の方をじっと見た。

「はい、雷公神社とか耳に入って来たので・・、知内の方ではないかと・・」雷公神社、と聞いて彼の目が和んだ。

「雷公神社、知ってんのかい?」

「ええ、ちょっと『大野土佐日記』に興味があって・・」

「ほう『大野土佐日記』、知ってんのかい・・」彼は私に興味を持ったようだ。

私が頷くと、彼は聞いてきた。

「どちらからいらしたですか?こっちの人間とは違うようだけど・・」

「私ですか、はぁ東京からです」

「東京の人が何でまた、『大野土佐日記』に?」

「いやぁ実は砂金採収に、ちょっと興味があって・・」

 

私は7月に十勝大樹町であった「北海道砂金・金山史研究会」の講演会を聞いて、知内の砂金と荒木大学のことが書いてあるという、古書『大野土佐日記』に、関心を抱くようになったいきさつを、手短に彼に話した。

「そうかい・・、なるほど。荒木大学様のことも知ってられるんですか・・」彼は、私に対する警戒感を解いたようだ。

「したけど、あなたは『大野土佐日記』の事や、荒木大学様のこと、どう思ってるんです?あれは、偽物でないかって、しゃべってる人もいるけども。特に札幌辺りの学者先生が・・」彼は、私の立ち位置を確かめるかのように、ズバッと聞いてきた。

 

「申し遅れました、私は立花と言いまして、今年で定年退職3年生です。親父が山梨の出身だったこともあって、荒木大学が甲斐の国から来た、ということに非常に強い関心を持っています。

まだ『大野土佐日記』の真贋は判りませんが、本物であって欲しい、とは思ってます」私の応えに、彼は相好を崩した。

「オレは知内の元町に住む福佐と言います。雷公神社の氏子をしてまして、郷土史などを多少かじってます。そうですか、甲斐の国の出身ですか・・」

「山梨でしょ、お父さん」福佐夫人が、にこにこと笑顔で言った。

 

「で、知内にはもう来られたんですか?」福佐氏が聞いてきた。

「いえまだ。・・こちらに来て今日で二日目でして、今日はそこの図書館に籠もりっきりで、『知内町史』や『大野土佐日記』を漁(あさ)ってました。ここにコピーを撮って帰ってきたところです」私はカバンを叩いて、言った。

「そうかい、『知内町史』や『大野土佐日記』のコピーをね・・」

「ええ、吉田霊源さんの、ですけど・・」

「おお、霊源さんの土佐日記か・・」福佐氏は笑顔になり、一瞬考え事をするように間を置き、続けた。

「ところで、知内に来る予定はあるかい?立花さん」福佐氏の問いに、

「ええ、明後日(あさって)の図書館の休館日にでも、と思ってます」と私は応えた。

「明後日か・・、秋祭りの宵宮だな」福佐氏が、ちょっと声を落とした。

「資料は十分、集まったのかい?」

「まだ、何とも言えませんが最低限必要なものは・・、と思ってはいます」

 

「そうかい。実はさ、知内の歴史研究会ってオレが入ってる同好会が出した本があるのさ、家に」彼は、続けて云った。

「正式なものや学者先生の書いたものとは違うけど、口伝や伝承・言い伝えなんかを拾い集めた、小冊子があるのさ仲間たちとね。十年くらいは掛かったかな・・」福佐氏はちょっと、記憶をたどるような顔をして、続けた。

「立花さん、興味あるかい?」と、私の顔を覗き込んだ。

「ほう、地元に伝わる伝承とかをまとめたものですか・・。なんだか面白そうですね」私はそう言いながら、ビールを福佐氏に注いだ。

その時の私の目は、好奇に溢れるまなこをしていたかもしれない。

「明日なら多少時間取れるけど、明後日は宵宮の支度で忙しくて無理なんだゎ。

翌明後日(しあさって)は、本宮だし・・」福佐氏は残念そうに、そう云った。

「そうですか・・」私は少し考えて、決めた。

 

「判りました、明日知内に行きましょう!」

「おう、そうかい。それは良(い)かった」福佐氏の顔が、笑顔で崩れた。

「何時ごろ、どちらにお伺いしましょうか?」私の問いに、

「時間は、昼の前か、後かな・・。場所は、どうすべぇ」彼は迷った。

「郷土資料館が、良(い)くないかいお父さん。国道沿いだし」奥さんが助け舟を出した。

「あ、それ好いですね郷土資料館。私、立ち寄るつもりでいたんですよ、知内で」私は即座に同意した。

 

「時間は、お昼の後のほうが、ご都合よいのでは・・」私が言うと、

「したけども立花さん、お昼はどうすんだい?」

「いやぁ、近くの食堂でも行きますよ」

「知内の街中に食堂、まだ在ったかい?かあさん」福佐氏が奥さんに尋ねた。

「いま、無くなったんでないか・・」夫人は一瞬の沈黙の後、思い出したように言った。

「そだ、牡蠣小屋が、あるっしょ、お父さん」

「ん?何処だった?」

「セブンイレブンの交差点を浜に向かって行く途中に・・」

「あぁ、なんか聞いたことあったな・・」

「牡蠣小屋ですか?」

「はい、知内は牡蠣の産地なんですよ道南では一番の・・」奥さんが、誇らしげに言った。

「ニラもな」福佐氏がにんまりとしながら付け加え、言った。

 

「したら郷土資料館で十一時頃に会って、一緒に牡蠣小屋で飯食うかい?」

福佐氏の提案を私は了解し、明日知内を訪ねることに決めた。

福佐夫妻はしばらく私と、知内の砂金や金山にまつわる話をしてから、知内に帰った。ここから一時間は掛かるらしい。

車の運転は奥さんがするというので、私も安心した。

福佐氏はすでに十分酔っていたからだ。

 

私は福佐夫婦を送って、まだしばらくお寿司をつまんでいた。

知内の牡蠣や北斗市の北寄・木古内町の帆立などは、福佐氏が勧めていた活貝を食べることにした。いずれもプリプリとして甘く、旨かった。鮮度が良かったのだろう。

また、かつては知内でもたくさん捕れたと福佐氏が自慢していた、津軽海峡の本マグロも食べた。しっとりとした舌触りで、肌理(きめ)の細かい赤身が旨かった。幸せであった。日本人に生まれてよかった、と私は思った。

嬉しかったのは、本マグロがリーズナブルに食べれたことだ。築地辺りの半値くらいではなかったか、と思われる値段であった。津軽海峡は本マグロの産地なのだ。

 

北海道の新鮮で旨い魚介類でお腹を満たし、ビールで喉をしっかり潤した私は、気持ちよく酔い、ホテルにと向かった。

喉や胃袋はもちろんの事、図書館での収穫にも満足していた。

加えて明日知内を訪ねるように成った事、郷土史研究家で雷公神社の氏子でもある福佐氏と知り合えた事、いずれも満足していた。ホテルに向かう私の足取りは軽かった。

 

夜空の月は十五夜を過ぎ、立待ち月か居待ち月であったかと思うが、放射冷却の影響なのか、空が澄み渡り、その欠けたる月が美しく見えた。

 

 

 



 

北海道道南渡島(おしま)知内(しりうち)

 
翌朝は早めにホテルを出て、JR函館駅近くでカーシェアリングのレンタカーを借りた。今朝早く、ネットで申し込んでおいたのだった。
20年近く前に離婚してから、私は自家用車を持つことをやめた。

それでも二・三年は所有していたが、土日にしか使わなくなっていたし、実際の稼働率は月に数回という程度であったので、経済的な不合理さを感じてやめた。

駐車場代も無駄に思えたし、自動車保険料や車検代などもばかばかしくなっていた。

それ以降レンタカーを、もっぱら借りるようになっていた。

 

近年カーシェアリングが喧伝(けんでん)されるようになって注目していたが、二年ほど前から全国展開の、大手のカーシェアリング会社の会員になってからは、より合理的で経済的な利用ができるようになっていた。

月に千円程度の会費を払えば、あとは利用開始から15分単位で精算されるシステムは魅力だったし、合理的だ。難点はあまり長い時間は借りられないことであった。

従って2日以上借りる場合はレンタカーとし、それ未満はカーシェアリングをと区分して使っている。

 

知内町までは、片道一時間程度は掛かるということで、燃費を考えハイブリッドのコンパクトカーを選んだ。北海道の距離感は首都圏辺りとはずいぶん違って、移動距離が長い。燃費は重要なのだ。

車は走行距離が1万㎞に満たない新車で、禁煙車のためか綺麗であった。待ち合わせの時間は11時だったが、初めての道ということもあって9時には駐車場を出発した。

国道五号線を北上し、函館江差自動車道を西に向かった。

この高速道路はまだ未貫通ということもあって、フリーウェイであった。

十勝の広尾道も同様であったが、北海道の高速道路には料金不要の道路が幾つかある。この高速も、まさにその無料の高速道路だった。

高速は茂辺地ICという北斗市西部のインターで終わっていた。現時点では、未貫通でここまでしか完成してないのだ。

 

カーナビによると、目的地までの距離は過半を越えていたが、所要時間はあと30分近くは掛かるらしい。普通国道だから時間が掛かるのだろう。

茂辺地ICから先は、海岸沿いの国道228号を走った。

函館の街の喧騒とは程遠い、ゆっくりとした時間が流れていた。

テンションの低い、のんびりとした空間の中自然が豊かなエリアを走った。

木古内までの海は岩礁などが見え隠れする、遠浅と思われる海岸が続いた。途中密漁を禁ずる看板が、随所に立っていた。

アワビや貝類がたくさん捕れる場所なのかも知れない。

函館から1時間ほどして、10時ごろには「知内郷土資料館」に、着いた。

 

建物は古い木造の二階建てで、駐車場には4・50台は停められそうだった。が、利用者は無く施設の職員のモノと思われる乗用車が1台在ったきりだ。

入場料は無料であった。入ってすぐ左側の事務室に居た、30代くらいのスタッフの青年に挨拶をし、靴を脱いで上がった。

旧い木造の建物には、所狭しと陳列物が在った。

あまり整理されているとは言い難かったが、地方の真面目な職員たちが目いっぱい地元にまつわる文物を集積している、といった印象でなんだか微笑ましかった。

骨董品を思わせる展示物の中に、私の気を引いたものが幾つか在った。一階の、入ってすぐ右手のコーナーにあった、古銭である。

「涌元で出土した渡来銭」とあり、7世紀から15世紀初頭の中国の古銭であった。

中でも11世紀の北宋の古銭が一番多く出土していたようだ。

「涌元」というのは今日視察予定のエリアで、知内町の南部に位置し津軽海峡に面した海岸線沿いの地区で、荒木大学一党が蝦夷地で一番初めに上陸したとされるエリアである。

 

『大野土佐日記』によると、そのタイミングは元久二年即ち西暦1205年という年だから、11世紀の北宋の古銭がその辺りから出土したのは、時期が符号すると云えそうである。

また知内で出土した遺跡が多く見つかった地区は、この「涌元地区」の他に当初荒木大学が拠点を構え、初期の砂金・金鉱の採掘場所に近い「毛無し嶽」の在った「元町地区」(現、知内公園のあるエリア)等であった。

その他の遺跡としては、荒木大学がその後新たな金採掘場所を求めて「毛無し嶽」から移り住んで居城を構えた、千軒岳の麓と言っても良い知内西部の「大学地区」であった。

 

言うまでもないが、この「大学地区」は「学園地区」を指すのではなく、荒木大学の居城が在ったことから言われた名前であろう。

私はその時、大樹町に同行した水谷のことをフト思い出した。彼ならここでボケたのではないかと想い、独りにんまりした。

因みにこの「大学地区」は、今の北海道新幹線の北海道側最初の出口の在るエリアである。

知内に点在する考古学的価値のある遺跡は、いずれも偽書と言われた『大野土佐日記』に書かれている、荒木大学一党が砂金・金山開発に関わったとされる拠点、といって良い重要な地区に在った。午後からの現地確認の対象エリアとして、これら三地区の遺跡群をインプットしておいた。

 

二階には民俗学的な遺物が幾つかあった。古道具屋の中を思わせる生活道具などであった。その中にも、印象に残ったものが幾つかあった。

「知内の人口の推移を折れ線グラフで表したパネル」と「マグロ御殿の網元の大きな床の間とマグロ漁絵図」「漁師と浜ことばのパネル」であった。

現在の知内町は人口が五千人に満たない小さな町だが、江戸時代は更に少なく戸数50戸200人程度の人口であったと、パネルは教えてくれた。当時の知内はさびれた寒村、といったところだろう。松前藩の領地の時代だ。

この人口規模感はしっかり覚えておく必要がある。現在の目で江戸時代やそれ以前の知内を見てはいけないのだ、錯覚してしまう。

 

因みに人口が急激に増加したのは、明治に入ってからだ。言うまでもなく北海道開拓が始まり知内のみならず北海道全域に内地(本州)から、入植者が相次いだ時代のことだ。

また「マグロ漁」が盛んにおこなわれ、マグロ大尽が現れマグロ御殿が作られたのも明治に入ってからであり、明治の中頃が最盛期であったようだ。

マグロ景気も知内の人口を押し上げた一因であったのだろうか・・。

 

「漁師と浜ことば」に着目したのは、生活のもっともベースにある言語の中にひょっとしたら、荒木大学一党が8百年近く前に残していった言葉の残滓(ざんし)が、少しでも混じっていたら面白いだろうな、と想ったからである。

彼らの生国甲斐の国は、今の山梨で海からは程遠い山峡(やまあい)の国である。しかも荒木大学一党は砂金や金山の採掘に当たった、山で働く職業集団である。

本来は接点の無い漁師と山師である彼らの日常会話の言葉が、「浜ことば」の中に紛れ込んでいたら面白いと思った。8百年は経っているが、民俗学的な観点から荒木大学一党の存在を検証することも出来るかもしれない、とフト想ったのであった。

そのような妄想を抱きながら私は郷土資料館の中を、歩漁した。

 

11時近くになったと思ったころ、階下で大きな声がした。福佐氏が来たのかもしれない、と思い私は一階に降りた。福佐氏と郷土資料館の職員は旧知の仲であったようで、二人は談笑していた。

「こんにちは、昨日はどうも」私は階段を下りながら、福佐氏に挨拶をした。

「やぁ、良く来られた」と福佐氏はニコニコ顔で応え、続けた。

「1時間も前から来たってかい?」

「えぇ、まぁ・・」私は応えた。

「大したもん無いっしょ」彼はやや自嘲気味に言った。

「いやいやそんなことないですよ。面白いものありましたよ、いくつか・・」

「なんか、役に立ったかい?」福佐氏は興味津々と云った感じで私を見た。

「古銭とかマグロ御殿とか浜ことばとか、いろいろ・・」私がそう言うと、福佐氏は言った、

 

「古銭はねやっぱ荒木大学様に関係あるっしょ、オレそう思ってるんだ」

「私も同感です」私は福佐氏と同じように考えていた。

「だからオレ教育委員会や大林君にもちゃんと予算つけて調べるべえって、しゃべってるのさ」彼は郷土資料館のスタッフの方を向いて、言った。どうやらスタッフの名は大林さんと云うらしい。

「そうですよね・・、まぁ予算付けはなかなか厳しいかも、ですが・・」

小さな自治体の限られた予算では現実には厳しいことは私も判っていたので、強くは言えなかったが想いは同じだ。

 

「ところで二階に在った浜ことばのパネルなんですが、あの浜ことばを取りまとめた資料とかって、あったりします?」私は初めに大林さんを見、続けて福佐氏を見て言った。

「いやぁ、残念ながら・・」大林さんは即座に否定した。

「浜ことば、どしたのさ?」福佐氏が私に尋ねてきた。

「えぇひょっとして知内に伝わる浜ことばの中に、荒木大学や堀子達が使ってた甲州弁や金掘りの山師たちが使った言葉が混じって、残ってたら面白いのにな・・、って想いまして」

私がそう応えると、福佐氏はちょっと何かを考えたような、顔をした。

「なるほど、そういう考えもあるのか・・。なかなかオレ達にはない発想だな・・。したけども、そういう浜ことば集めた資料無いべさ。有ったかい?」

福佐氏は私に云ってから、大林さんに向かってそう聞いた。大林さんは首を横に振って、再度否定した。

「だべな、いやぁ残念だぁ」福佐氏はそう云いながら、手にしていた黄色い表紙の小冊子を私に指し出して云った。

「昨日しゃべってた、歴史研究会の本だゎ」

「あどうも、ありがとうございます。わざわざ・・」私はお礼を言い小冊子を手にした。黄色い表紙には『知内歴史散歩』と書いてあった。私がパラパラとめくって、目次を見ていると福佐氏が云った。

 

「立花さん、飯食いに行くべ、牡蠣小屋さ」

「あ、そうですね・・。あ、そしたら、行きますか・・」私は小冊子を手にして云った。

「これ、僕が持ってても良いんですか?」

「それ、立花さんにやるよ。まだ家にもあるんだゎ・・」福佐氏はニコニコしながら云った。それには大林さんが、ちょっと驚いたようだ。

「私、コピーでも充分ですよ」私の応えを遮って、福佐氏は言った。

「これも何かの縁だべさ。甲斐の国の立花さんと知り合えて、真剣に荒木大学様の事考えてもらってるようだし・・。オレ嬉しいんだゎ。よそから来た人にそんなふうに想ってもらってさ。それに、立花さんはオレ達とはちょっと違った発想する人みたいだから・・。

俺たちが十年かけて拾い集めて来た情報というか資料を、違う視点で見てくれるんでないかって、ちょっと期待もしてるのさ。

したっけお礼なんかより、読んで気づいた事あったらオレに教えてくれ。さっきの浜ことばみたいに、どんな些細なことでも良いからさ。それで佳いんだゎ・・」福佐氏の言葉には、私の心に響いてくるものがあった。

 

「ありがとうございます。ぜひそうさせてください。トンチンカンなことや的外れなこと、言うかもしれませんが・・」私は深く頭を下げて、お礼を言った。福佐氏はにこにこと目を細めて、うなずいた。

私達が出ようとすると、大林さんがA4サイズの三つ折りパンフを指し出し、

「これ好かったらどうぞ・・」と私に渡してくれた。

『しりうち文化財散策マップ』と書いてあった。

それを見開いてみると、知内の町域が殆ど載った地図に各ポイントになる箇所に番号が振ってあり、マップを囲むように番号と共に写真付きの解説が書かれていた。

文化財としての資料価値の高いと思われる史跡には、丁寧な解説が書いてあり相対的に低いと思われる史跡は、簡単な案内となっていた。

 

これからの車での移動には役に立ちそうだと思って、ありがたく2部頂いた。

一つは書き込み用に、もう一つは真っさらな状態で資料として残しておくために・・。

それから、私たちは牡蠣小屋に向かった。

 

 

 

 

 

牡蠣小屋

 
 
牡蠣小屋は、郷土資料館から2・3分のところに在った。

砂利敷きの駐車場に、あまり投資がなされているとは思えない簡素な建物であった。

まぁ当たるとも外れるとも判らない、新期事業の初期投資を抑える事を理解することはできる。経営のイロハだからだ。が、私はチト寂しさを覚えた。

もしそれなりの成果が上がったら、観光施設としてのインフラ整備をもっと整えたら良いのに、と余計な心配をしてしまった。

永年商業施設の開発や活性化に、間接的に関わって来た私の習性なのかもしれない。

 

開店して間もないこともあってか客は少なく、私達は奥の網焼きの支度のしてあるテーブル席に案内された。

メニューを見た。牡蠣料理を中心にツブ貝や帆立・北寄貝と云った貝類の名前があった。

いずれも、知内を始めとした木古内町や北斗市と云った津軽海峡沿いの街の産で、地元で採れた食材であった。地産地消そのものだ。

 

食事をするにはまだ早く、お腹もさほど減ってなかったこともあり貝類の焼き物を頼むことにした。福佐さんもそれでよい、と同意してくれた。

「ビール飲むかい?」と福佐さんが聞いてきた。

「いやぁ、飲みたいのはやまやまですが、これがあるんで・・」と、私はハンドルを握る格好をして、断った。

「いやいや、ノンアルコールビールだら、問題ないべさ?」福佐氏はそう云い直した。

確かに・・。と思い私は、

「じゃぁ、ノンアルで行きますか」と同調した。貝類の浜焼きなら、ビールもキット旨いだろうなとさっきから私はずっとそう思っていたのだった。

 

注文を終えた後、私は福佐氏に尋ねた。

「7月に十勝の大樹町に行った時、歴舟川で砂金採り体験をしてきたんですが、知内ではそういう事はしてないんですか?」

「それ、無いな。知内じゃぁ」彼は即座に応えた。

「もう、知内川では砂金採れないんですかね・・」私の問いに、

「いやぁ、判んねけど聞いたことないなぁ。・・まず、無理でないかぃ・・」福佐氏は、無精ひげをさすりながらサラッと応えた。

「そうなんですか・・やっぱり採り尽しちゃったんですかね、荒木大学たちやその後の松前藩の金山開発で・・」

「だべな」福佐氏は、短く応えた。

 

「でもあれですよね、荒木大学が知内に来たのは1205年頃でしたよね、西暦の。

で、それから松前藩が金山開発に本腰を入れたのが、江戸時代初期の頃だから1600年代の早い頃、ですよね。そうするとここに4百年の開きがありますよね。荒木大学から松前藩の開発が始まるまで。

荒木大学たちが一時期ある程度採り尽してしまった金が、その間の4百年の間にですね山の千軒岳あたりから、長い歳月をかけて流れて来た砂金が再び堆積したと考えることは出来ませんかね。その4百年の間に。

で今は2017年ですから、やっぱり4百年近く経ってることに成りますよね。松前藩の金山開発から・・。そしたら前の4百年と同じように、こっちの4百年の間にも同じように千軒岳辺りの山の砂金が、知内川や河口の浜に堆積してるって事無いですかね。

そういうこと、あり得ませんか?どう思われます?」私は、昨日から考えていた仮説を福佐氏にぶつけてみた。

 

「ん?」というような顔をして、福佐氏は身を乗り出した。

「いや、私もそんなに沢山の川砂金や浜砂金があるとは思ってませんが、砂金掘りの体験出来るくらいの金が、知内川や知内の浜にあったら面白いのにって、ちょっと想ったんです。それこそ今、政府が盛んに笛吹いてる地方創生っていうか、まぁ観光による知内の活性化っていうか、そう云ったことの材料になるかもしれないなぁって、まぁ思いましてね・・。思い付きの話ですけど・・」

私のその思い付き話に福佐氏はちょっと考えた後で、すぐにニコニコして言った。

 

「いやぁ立花さん面知れぇな、あんた。立花さんと話してると、なんだかワクワクすることが多いな、あはは」続けて福佐氏は、私に聞いてきた。

「立花さん、会社辞めるまでどんな仕事してたのさ・・」

「え?あ、私ですか、博通っていう広告代理店でマーケティングっていうか市場調査の仕事を、ずっとしてました。40年近く・・」

「博通かぁ。広告代理店ってコマーシャル創ったりイベントとかやるんだべ、いろいろと・・」福佐氏が言った。

「まぁ、そんなもんです」それは全体像とは違ったが私はサラッと流した。

「そっかぁ、広告代理店の人達ってそったら発想するんだな。いや、勉強になるわ・・。今の件、今度研究会の寄り合いでちょっと話してみるがなぁ。みんなびっくりするだろうなぁ。あはは、楽しみだわ・・」福佐氏は面白がってくれた。

 

店のスタッフがノンアルコールビールと浜焼きの材料を持ってきて、焼き方について説明をしてくれた。

私達は熱した火山岩の上の網に、牡蠣を始めとした地元産の貝類を載せ網焼きを始めた。ノンアルビールを飲みながら・・。

気が付いたら、店はほぼ満席になっていた。どうやらこの店は、結構人気があるようだ。12時近くに成っていた。

新鮮で焼き立て熱々の魚貝類を堪能し、ノンアルビールで咽喉を潤わせて1時間ほど過ごして、私たちは牡蠣小屋を出た。

 

福佐氏は帰り際に、握手を求めて来た。

大きな温かい手で何度も握手を繰り返しながら、何かあったら携帯電話に連絡するようにと念を押された。

そして自分も何かあったら気軽に電話させてもらうから、その時は知らん顔しないで出てください。と四角い顔に目を細めながら言った。

私は「もちろんです」と言ってからお礼を言って、車を駐車場から出した。

福佐氏は、私の車が見えなくなるまで、手を振っていてくれた。

 

 

 

                                      

 

 


 
 
 

荒木大学の痕跡

 

駐車場を出て、私は涌元地区の在る津軽海峡の浜側にと向かった。

『しりうち文化財散策マップ』によると、浜側を津軽海峡沿いに南下すれば良いようだ。

「涌元」の先をさらに南下すると、「小谷石」という集落がある。

小谷石は車で行ける限界で、知内の最南端の集落になるようだ。

私はそのまま小谷石を目指すことにした。最南端まで一気に行ってから戻って、涌元の「涌元神社」に立ち寄ることにしたのだ。

 

小谷石に向かう途中に外記川という川が在り、外記橋という橋が掛っていた。

この外記川というのは『大野土佐日記』に書いてあった、荒木外記にちなんだ川なのではないかと、私は想った。

荒木外記、すなわち海の遭難で偶然この知内の浜に来た元水炊きだ。

荒木大学に滝壺で拾った金塊を持参して蝦夷地の砂金や金山を紹介した男で、その功績により荒木外記の名前を、荒木大学から賜った男である。

確か外記山という山を荒木外記が統治していたと、吉田霊源版の『大野土佐日記』に書いてあったことを、私は思い出した。

外記山の場所は荒木大学の居城があった「毛なし嶽の、裾野の南に当たる」と、確か書かれていた。

外記川の在る場所は、現在の知内公園である毛なし嶽から将に南方に当たっていた。ここでも私は『大野土佐日記』を、検証するエビデンスが確認できた気がした。涌元地区に、まだ入る前であった。

 

牡蠣小屋から14・5分で、小谷石に着くことが出来た。小谷石は小さな漁村である。

小谷石に向かう道中は、風光明媚な曲がりくねった海岸道路を多少のアップダウンを繰り返しながら行くことになった。

涌元の漁港を過ぎたあたりから、岩礁が左手に観え小谷石まで続いた。

海岸道路からは、津軽半島が見えた。

それもはるか彼方にといった距離ではなく、明石や神戸の舞子浜辺りから淡路島を見るような近さに、である。小谷石あたりと津軽半島とは、目と鼻の先だ。

 

小谷石は漁村であると同時に観光地でもあるようだ。小谷石の集落に入ると、民宿やペンションの看板が目に入って来た。

ここは百戸あるかないかと、思われる小さな集落であった。また小さな漁港には観光客相手と思われる船乗り場の案内が、控え目にあった。

 

小谷石の最南端に至るとちょっとした高台に神社を見つけた。小谷石神社だ。

私は近くの小さな「ちびっ子公園」に車を停めて、急坂の階段を上り神社に上がった。海抜30mには満たないと思われる神社からの景色は、悪くはなかった。

 

私は神社の祭神への挨拶を済ませた後で、見晴らしの良い神社の板の間に腰かけ福佐氏から貰った『知内歴史散歩』を読んだ。

30分ほどで、ざっと関心のある個所を読むことが出来た。その小冊子によると、涌元から小谷石に向かう途中に在った岩礁が目についた小さな岬の辺りが、どうやら荒木大学が知内に(すなわち蝦夷地に)初めて上陸した場所である「イノコ泊」であったようだ。

イノコ泊はその切り立った岬の辺りらしい。その岬はかつては人の往来を妨げる自然な障壁であったに違いない。その自然の障壁を切り開くことが出来たのは、近年の土木技術によって初めて可能になったのであろう。

この自然の障壁を切り開いた道路ができるまでは、小谷石から涌元や知内への移動は陸路より海路によってなされていたに違いない。

『知内歴史散歩』には、涌元神社に関する情報や涌元のマグロ塚についての記述もあって、涌元地区探索の予備知識とすることが出来た。

それから私は、涌元にと向かった。

 

涌元に向かって来た道を帰った私は尿意を覚え、海岸沿いの観光客用の駐車場に寄った。牡蠣小屋で飲んだノンアルコールビールが影響していたのかもしれない。私はビールを飲むとトイレが近くなる体質を持っていた。

公園には「北海道立自然公園」と標識に書いてあった。その自然公園は風光明媚で、自然の力が造りだす美しい景色を見渡せるビューポイントであった。地元の子供たちと思われる児等が数人、公園で遊んでいた。

公園を出て涌元に入る手前の小さな岬で私は車を停めて、福佐氏から貰った小冊子を開いた。「イノコ泊」がこの辺りではないかと、想ったからだ。一応『しりうち文化財散策マップ』でも、確認した。間違いはなさそうであった。

 

大野土佐日記』によると、

荒木大学は「脇元なる沖にて碇をおろさせ・・」「(えぞ)(らしき)女人・・。イノコと申す女に」この辺りで遭い、

(もし)此辺よろしき金山有之(これあり)候わばおしえ玉わるべき・・」と、イノコに尋ねると「仰の通り、右金の有りか私能々存じ居り候」と、イノコは応え、

荒木大学をその金の有る場所に案内した、と書いてある。

 

荒木大学が、そのイノコに遭ったとされるのがこの「イノコ泊」なのだ。

暫くイノコ泊の沖合と岬とを観て、荒木大学とアイヌの美しい娘イノコとの出遭いに想いを馳せた。

 

秋の午後の津軽海峡は、浪も穏やかで静かであった。

イノコ泊を後にして、涌元の「涌元神社」にと向かった。

イノコ泊からは車で5分と掛からない場所に、その神社はあった。涌元漁港のすぐ上である。海との位置関係は小谷石神社と似ていた。

涌元漁港を好く見下すことのできる場所に、その神社は在った。

位置関係は小谷石神社に似ていたが、神社の境内や環境の様子は明らかに両者の格の違いを現していた。

小谷石の神社が集落の真上に延長線上に在るといった感じであるのに対し、涌元神社は集落を更に上ったこんもりとした杉林の中に在った。

集落とは世界を別けて鎮座しているのである。鎮守の森の中の神社、といった感じである。

福佐氏に貰った『知内歴史散歩』によると、

涌元神社の前身は荒木大学が暦仁二年(1239年)に、武運長久と砂金掘り子の安全を祈願して建てた「涌元観音堂」であった、という。

知内に上陸して34・5年後の事である。その間金の採掘が安定しそれなりの蓄財も進んで、公のために散財したという事であろうか。

 

この涌元神社の周辺では、郷土資料館で観た古銭や銅鏡が道路工事中に発見されており、いくつかの遺跡も発掘されている。

マグロ大尽が明治期に造ったマグロ御殿やマグロ塚も、この辺りに在った。と『しりうち文化財散策マップ』に書いてあった。

実際涌元神社の参道の入り口辺りからは、涌元漁港を始め津軽海峡を好く見渡すことが出来た。ここからならば、漁をする漁船も良く見えただろうし、蝦夷地に近づこうとする船舶を容易に見つけることも出来たに違いない。

イノコ泊からそう遠くないこの見晴らしの好い場所に、荒木大学が海の監視場所としてまた記念碑的な意味合いも込めて、この地に薬師堂を造ったのも何となく判る気がした。

涌元神社を後にして、次の視察ポイントである「毛なし嶽」の跡地に向かった。

車で、10分程度で、着くことが出来た。

現在は「知内公園」に成ってるその地は、小高い丘に沢山の木々が茂っていた。知内公園は墓地公園を併設しており、駐車場の先に墓地が坂上がりに見えた。奥行きは結構ありそうであった。

私が目指したのは、公園の頂上付近にある「荒神(あらがみ)」であった。

 

駐車場から荒神堂に向かう参道は勾配のある坂道で、その勾配は14・5度はあるのではないか、と思われた。結構きつかった。

途中踊り場に成るような休憩場所は殆ど無く、そのまま勾配を一気に上って行った。10分近くは登ったであろうか・・。私は息を切らしながら、荒神堂に辿り着いた。

参道は大きな針葉樹に囲まれており、鬱蒼(うっそう)としていた。空気は澄んで鳥の囀(さえず)りも聞こえた。

荒神堂の在る丘の頂付近は、大きな黒松に周囲を囲まれていた。

『しりうち文化財散策マップ』にも『知内歴史散歩』にもこの荒神堂は、松前藩によって江戸時代初期に造られたものと、書いてあった。

 

家康が豊臣秀頼を大阪の陣で攻め立てた頃、家康の側に付いた藩主で父親の松前慶広と、秀頼側に付くことを主張した慶広の四男由広との間で確執があり、最後は由広が自害してしまった。

その四男由広の怨霊を鎮めるために、由広の領地でもあった知内のこの地に荒神堂を祭った、というものだ。

このいきさつについては松前藩の公文書に書かれていることなので、実際そういうことがあったのではないかと思う。

しかしその鎮魂のための祠が何故この毛なし嶽の跡地に祀られて在るのか、についての明確な説明は無い。

荒神堂の在る場所は小高い丘の頂に近いエリアだ。今は鬱蒼とした針葉樹に囲まれた、小さな森のようになっている。

しかし、毛なし嶽の跡地なのである。

 

大野土佐日記』に書かれているように、ここが荒木大学の居城(と云っても後世のお城というより館であったと思われる)の跡地であったとすれば、ここ毛なし嶽は千余人の金山の堀子や家来たちが、蝦夷地上陸後最初に金鉱開発を行ったエリアの中心と成った、メモリアルな拠点なのである。 

後年この辺りの金や砂金を採り尽した後、荒木大学達が金山開発の拠点をこの毛なし嶽から、知内川中流の「大学地区」に移し移動することと成ったが、この場所が彼らにとってメモリアルな場所であったことには違いない。
金山開発者の従事者達にとって、聖地として位置づけられ尊崇されてきた場所ではなかったか・・。

更に時を経て荒木大学一党は先住民のアイヌの人達によって、壊滅させられることに成るのであるが、その荒木大学一党の霊を祭り怨霊を鎮めるための祠が、この聖地「毛なし嶽」に設置され、祀られたということは無かっただろうか。

「荒神堂」の名も「木大学様を様として祀ったお」と、読めなくもない。

「荒神」堂を「こうじん」と呼ばず「あらがみ」と呼んでいるのにも、何かいわれがあるように私は感じた。

そしてまたこの荒神堂を守り祀って来たのは、荒木大学に連れられて蝦夷地にやって来た神官の大野了徳院の子孫なのである。

 

言うまでもなく、大野了徳院の子孫は現在の「雷公神社」の神官・宮司である。

その大野家の代々の神官・宮司は、自らの祖先をこの蝦夷地に連れて来て、頭領として金山開発を宰領してきた荒木大学を、尊崇してきたであろうと思われる。祖先や、自分達の運命を決めて来た人なのだから。

そして不幸にしてアイヌの人達に襲われ非業の死を遂げた、荒木大学や金山採掘の堀子達の怨霊の鎮魂のために「荒神堂」を造り、祀って来たとは考えられないだろうか・・。

さらには、荒木大学一党を襲ったアイヌと同じ仲間の、ホマカイの導きによって自分たち一族だけが生き残ったことに対して大野了徳院達は、或いは後ろめたい気持ちを抱いたのかもしれない。

そのようないきさつがあって大野了徳院とその子孫は、荒木大学を神として荒神堂を造り守って来たと、考える事は出来ないだろうか。

 

それから四百年ばかり後の16世紀に成って、松前藩が蝦夷地を統治することに成った。

新しい領主である松前藩から社を与えられ、そのための領地などを与えられた大野了徳院の子孫が、不幸にも自害した松前由広の霊を鎮魂するために毛なし嶽の荒神堂に併せて祀った、という事は考えられないだろうか。

表向きは松前藩の非業の死を遂げた、若殿を祭った祠として。

年に何回か行われたであろう祭事は松前由広の霊を祀ると共に、荒木大学らを同時に祀る事にもなったであろう。領主の松前藩に憚(はばか)ることなく・・。

私はそのような妄想を抱きながら毛なし嶽跡の荒神堂を後にし、参道を下り、駐車場にと戻った。

 

それから、知内公園近くの縄文時代の遺跡群の場所に、車で移動した。

その遺跡は、頃内川の近くに在り「頃内遺跡」と呼ばれていた。その場所はまた、毛なし嶽の西方の裾野といって良い場所でもあった。

丘の上に荒木大学が館を構え、その裾野にあたりこの水の便の良い場所に家来や堀子達が居を構えたと考えても、不自然ではなかった。

縄文遺跡と共に鎌倉時代初期の遺跡は、出土しなかったのであろうか。明らかに時代の違う遺跡がこの頃内川の川畔に在ったとしてもおかしくはない。

 

頃内遺跡を後にして、私は車を一気に国道228号を西方に走らせた。

新幹線の出口付近にあるとされ、荒木大学が二度目の拠点を構えた「大学地区」にと向かうために。

 

 

 

 

 

神様を守り続けて7百年

 

国道228号は津軽海峡側から日本海側の松前町に向かう道で、間には福島町がある。「福山街道」とも呼ばれている江戸時代以前からの道路だ。

福島町は横綱「千代の富士」と「千代の山」を輩出した町で知られ、横綱の町として喧伝されている。

また千軒岳の中腹の街で山峡といって良く、海抜の高いエリアである。

従って、知内の元町から228号を福島・松前に向かうことは、緩やかな坂道を上るということに成る。

途中に「道の駅しりうち」という観光スポットがあり、トイレ利用を兼ねて立ち寄ったが、華やかさや賑わい感の乏しい寂しい道の駅であった。

 

新幹線の北海道側の出口を目印に向かった大学地区は、ちょうど新幹線の橋梁を補強している工事が行われていた。工事車両が行き来し、工事の業者が忙しそうに働いていた。 

遺跡付近と思われる辺りを車で彷徨したが、案内看板や遺跡の後を示す標などを見つけることは出来なった。

小高い丘があったので、この辺りに荒木大学の二度目の居城があったのだろうかと、勝手に類推し戻ることにした。

 

次の訪問先は「上雷神社」である。

上雷神社は228号沿いにあり、より知内の元町地区に近い場所に位置している。その所在地は「大学地区」に向かう途中に確認しておいた。

この「上雷神社」は「雷公神社」が明治35年(1902年)に現在の元町に遷宮するまで、660年近く鎮座した社である。元社と云って良い。

即ち寛元二年(1244年)に荒木大学の命により、京都の賀茂神社(上下二社)の御霊を分社・勧進して雷公(賀茂別雷命)を祭神とし創建して以来、雷公神社が鎮座していた場所なのである。

因みに荒木大学が、この地に京の賀茂神社を勧進することに成ったきっかけが『大野土佐日記』に書かれている。

荒木大学が「大学地区」に移り住んでから、30数年後のことである。

 

当知り内に限り山々震動いたし候事既に三年に及び、その気止むことを得ず。・・・、諸人驚かざるものなかりしと也。

依て大学殿思召被・・・賀茂の両社お祭り被成候。

・・・夫より右の震動もとどまり堀子の者共も快く商売たたせしと也

 

その頃知内では、地震や山鳴り等の天変地異が三年間続き人心が騒乱した。

そこで荒木大学が、京の両賀茂神社の御霊であり天変地異の鎮めを司(つかさど)る、別け雷の守(かみ)を分祀し勧進したところ、霊験あらかたにも鎮ったということだ。

そしてその役割を担って京に赴いたのが、大野了徳院であったと書かれている。

 

因みにこの上雷神社の周辺には、当時金山で採掘された金を含んだ金鉱石などを粉砕精錬し、金を抽出・成形する等した鍛冶屋が三百軒近く在り、「鍛冶屋町」の一画であったらしい。

雷堂より下(しも)、馬ばし迄三百軒の鍛冶町に御座候ゆへに、今以て其跡にかなくづ沢山に相見得候

 

この鍛冶屋町辺りで江戸時代の今(著書の当時)でも、この辺りで金くずが沢山出る理由を、このように説明している。

明治時代に成って、内地からこの地に入植し開墾を行った「山田農場」の関係者や古老が「沢山の金屑が出土し、近くの井戸の地下からは古銭がザクザク出た」と証言したと『知内歴史散歩』に書かれている。

従って、『大野土佐日記』や『知内歴史散歩』に書かれていた通りであったとすれば、荒木大学の時代、この地は金山から採掘した金の含有石の鍛冶・精錬を行う、当時の一大工業地帯であった、ということが出来るであろう。

 

明治初期の山田農場の開墾時に、それら金屑や古銭はあらかた処分されてしまったようであるが、ひょっとしたらまだ地下に眠っている遺物や遺跡が在るかもしれない。

それはまた『大野土佐日記』の真贋を判断する際の考古学的エビデンスに、なり得るのではないか。私はここでも妄想を豊かにした。

その上雷神社本殿の脇には、半径50㎝以上の大きな切り株が残っている。

切り株の年輪を正確に数えてはいないが、数百年は経っているものと推測することは出来る。いつ頃伐採されたのかも判らないが、上雷神社の創立年の長い歴史を想像することは出来る。

 

最期の目的地、現在の雷公神社に向かおうと車に乗った時、スマホが鳴った。

由紀子からだった。

 

「もしもし、ご無沙汰してます。ウチ、由紀子です。今、電話ええ?」と京都弁で聞いてきた。

「うん、ええよ。久しぶりやね・・。どないしたん?」私も京都弁で応えた。

「うん、ウチな、今、仙台に居んねんやんかぁ」

「仙台?仕事か?」

「そ、仕事。あんな、明日終わんねん、その仕事」

「うん、・・それで?」

「久しぶりに、逢いたいな、想ってんの」ちょっと甘え声に成っていた。

「でな、明日東京に行ってもええかな、思て・・」

「う~ん、そう。まぁ、明日はええけど、東京はあかんゎ」

 

「ん?どういうこと?」

「今オレな、北海道に居んねん。函館」

「えっ、函館ぇ? 旅行?アルバイト?」

「ん~ん、当たらずとも遠からず、やな。趣味を兼ねた旅行」

「ええなぁ・・」ちょっとの間があって、

「そしたら、函館行ってもええやろか?ウチ」

「ん~ん、せやな・・」

私は、一瞬考えた。彼女が来たら、荒木大学の探訪は飛んでしまうだろうな、と想ったのである。

 

「あかんかぁ?ウチ迷惑なん?」

「それは無いよ」

「趣味の旅行に、差しさわりあるん?

ん?誰かと一緒ちゃうやろね?若い女の娘とか・・」声が、詰問調に変わった。

「あのなぁ、御年(おんとし)六十三やで知っての通り。そんな元気あらへんワ。なんや、嫉妬したんか?由紀ちゃん。あはは」

「笑いごと、ちゃいます。ほんまにもぅ・・」ちょっと安心したようだ。

「判ったよ、まぁええか。久しぶりやしな・・」

「せやろ、六月に京都に来たきりやろ」

「ん、三カ月は経つか・・。判った、判った。じゃあ、明日函館に来るか?」

「うん、嬉しい」声が弾んできた。

「そしたら何時ころに、成るんや?明日」

「そんなん、調べてみな判らへんゎ」

「判かった、じゃぁ今日仕事が終わったら、また電話貰えるか?」

「うん、そうするゎ。ウチもこの後、打ち合わせや食事会があるから10時過ぎると思うけど、ええ?」
「了解。じゃぁ、10時過ぎね。連絡待ってるよ」

 

 

由紀子は私が離婚する原因となった女で、今でも大阪博通のプロモーション部門に在籍しプロデューサーをしている、現役のキャリアウーマンだ。

この前逢った時、舞鶴で地方創生関連の仕事をやっていてそれなりの成果が出てると言ってた事を、思い出した。その関係で仙台に来ているのかもしれない、と私は想った。

 

そうだ、彼女にこの荒木大学にまつわる大野土佐日記のことを話してみるか、と閃いた。何か、化学反応が起きるかもしれない。

折角地域おこしにつながりそうな素材を豊富に持ってるのに、殆ど活かされてるとは思えない知内の現状を、私はもったいないなと感じていた。

荒木大学の話を聴いた時彼女がどんな反応をし、どんなアイデアを出すかを考えるとちょっと楽しみだ。

私の心は、明るく、軽くなっていた。車を元町の雷公神社にと、走らせた。

 

国道228号沿いの上雷神社から元町の雷公神社まで、10分と掛からなかった。車は頃内川に沿う道の、神社横の林の側に停車しておいた。

近くの畑で農作業をしていた老婦人が、チラッとこちらを見た。私は一瞬道路標識を探したが、駐車禁止の標識はなかった。安心した。

 

そのまま神社の正門の方に向かい、参道をくぐった。

神社には、鳥居が二か所在った。

車で途中まで入れるようだが、上雷神社の様に公共用の駐車スペースは無かった。どうやら、神社関係者の自家用道路の様だ。

 

神社は街中に在ったが、参道の右手車を駐車させた側にはちょっとした木立があり、薄暗い鎮守の森に成っていた。

涌元神社には比べられないが、神社としての厳粛さを演出する効果には成っていた。

上雷神社からこの場所に移ったのが明治35年、ということだから110年近くは経っていることになる。

遷宮の頃に植栽したとしても、百年以上経てば木々も十分育ったであろう。

参道正面の社殿に向かい、別け雷(いかづち)の命(みこと)に正礼で挨拶をした。

上雷神社と同様この雷公神社の神紋は、武田菱であった。

 

武田菱は武田信玄で有名だから、信玄ゆかりの神社かと一瞬思ったが。同じ武田でも甲斐の武田ではなく、越前の武田であることを思い出した。

雷公神社や神官の大野家を庇護した「松前藩」の家祖は、越前武田の嫡流の出身であったという。越前武田家は甲斐武田家の支流であるから、武田菱を使うのであろう。

従って、雷公神社は松前家に敬意を払って武田菱を用いているのだろうと、思い直した。

 

別け雷の命への挨拶を済ませ戻った時、堅牢に造られていた一対の石灯籠の背後に書かれた寄進者に眼が行った。

「北島三郎音楽事務所」と、あった。

一瞬「ん?」と思ったが、十勝大樹町の砂金採収の講演会で講師が言ってたエピソードを思い出した。知内町の雷公神社の神官・宮司の大野家と演歌歌手の北島三郎とは、縁戚関係にあるらしい、と言ってたことを。それで寄進者が北島三郎音楽事務所に成っていることに、納得がいった。

 

社殿から戻る左手に「忠魂碑」と銘打った石碑が在った。神社ではよく見かけるものだ。その隣に小さな祠があり、神を祀っているようだ。

誰を祀っているのか、と興味を抱き近寄ってみると「荒神堂」と成っていた。

 

あの毛なし嶽に在った荒神堂の分社である。この荒神堂は、雷公神社を上雷神社から遷宮した時に、一緒に遷宮してきたのだろうと思われた。

そしてこの荒神堂の建っている位置は社殿に向かって右側、方位で言えば西側に在った。ということは宮司や氏子が荒神堂にお参りし柏手を打つとすれば、それは西方に向かってお参りし、柏手を打つことに成る。

 

この神社の西方には一体何があるか?私は確かめることにした。『しりうち文化財散策マップ』で、確認してみた。

西方には上雷神社が在った。雷公神社の元社である。更にその延長線上には、荒木大学の二度目の居城があったとされる「大学地区」が在った。

これは偶然なのか、それとも意図的なのか。

大野家の神官・宮司が毎日或いは氏子たちが神社に参詣した時、荒神堂に参拝するという事は、同時に荒木大学に向かって参拝するという事に成っているのではないか、という想いがフト湧いた。

この位置に荒神堂がある理由が、判ったような気がした。

 

私は荒神堂に向かって深々と頭を下げ、今回の知内探訪のお礼を言い、荒木大学様に感謝の言葉を心の中で掛けた。

「私をこの地に導いてくれて、ありがとうございました」と。

私は最後にもう一度、荒神堂に挨拶を済ませ、参道を戻り駐車場に向かった。

時刻は四時を過ぎていた。

参道の前の道路を国道228号に向かい、郵便局の角を左折して、今朝来た道を木古内・函館方面にと向かった。

 

今回の知内探訪で、私は『大野土佐日記』を偽書とは思えなくなっていた。

幾つかの町内の史跡を訪ね、大野土佐日記に書かれていた事との整合性が確認できるエビデンスが、少なからずあったからだ。

『しりうち文化財散策マップ』や『知内歴史散歩』の記載情報と付き合せても、納得のいく事が多かったのだ。

車を運転しながら、これからどうしようかを考えた。

 

その時、FMラジオから懐かしい歌が流れて来た。

山田パンダ(山田つぐと)の「黄色い船」だ。

学生時代によく聞いてた歌だ。彼は「かぐや姫」のメンバーの一人だが、南こうせつや伊勢正三に比べ、地味で目立たない存在だった。

 

しかし私は彼の歌が気に入っていた。

かぐや姫のアルバムには、必ず2・3曲彼の創った歌が入っていた。

彼の歌を聴くと、私はなぜか心が落ち着いた。

目立ったヒット曲は無かったが、佳い歌が多かった。

気が付くと彼の歌を口ずさんでいることも多かった。不思議な曲だ。

 

まだ日没前で、右手には海岸線が見え始めた。東に向かってのドライブだから、夕陽を観ることは出来なかった。

津軽海峡には、いくつかの船舶が航行していた。

 

その時私は突然、父親の出身地である山梨に行って「荒木大学」に関わる検証をしてみるのはどうか、との思いが閃いた。

大野土佐日記」の中心人物である彼の存在に関わる足跡が、甲斐の国山梨に何らかの形で残っていないかを検証してみたい、と想った。

 

そしてその手掛かりは、甲州金山に在るのではないかと想っている。荒木大学とその一党は、甲斐の国の金山開発に従事した職業集団、だからだ。

先ずはそのあたりを糸口にしてみるか・・。東京に戻ったら、改めて甲州金山について調べてみよう、そう想った。

私はそう思うと、元気が湧いてきた。

アクセルを踏む足にちょっと力が入った。

 

函館に向かう足取りが軽くなったような気がする。

 

 

 

 

 

 

           知内に伝わる「手まり唄」

 

       わしの弟の千代松は 千代松は

       七つ八つから 金山へ 金山へ

       一年たっても まだ見えない まだ見えない

       二年たっても まだ見えない まだ見えない

       三年夜中に 状がおりた 状がおりた

       なんの状だと 読んでみよう 読んでみよう

       まめで達者でおりました おりました

       まず まず 一貫かしました

 

                   『 知内町史 』1018ページ

 

 

 

 

      大野七五三(雷公神社二十四代宮司)の詠み歌

  

       神さまを  まもりつづけて

       七百年

       世にも人にも  捨てられもせず

 

 

 
            『大野土佐日記  ―吉田霊源編― 序

                        (昭和三十八年八月刊行)

 

 

 

 

                        


 

 



〒089-2100
北海道十勝 , 大樹町


 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
]