春丘牛歩の世界
 
先週から、「行者ニンニク」が採れる様に成り、我が家の食卓にも乗るようになった。
行者ニンニクが採れる様に成ると、今年の春がやって来た事を実感する。
これまでの私の経験では「行者ニンニク」が生えてきてから、雪が降ったことは無いから、である。
 
 
      
 
 
野生の昆虫や動物たちが作る巣の位置で、颱風の影響を早い時期に推測できることがあるが、自然界の生き物たちは彼らなりのセンサーで、天候や自然現象を察知する能力がある。
そんな事から私は、「行者ニンニク」が我が家の林に生え始めることを、季節の到来のメルクマール(指標)にしているのである。
 
 
      
 
       
         
 
     
 
 
    記事等の更新情報 】
*4月19日 :「コラム2024」に、「青い春」と「チャレンジ虫」を追加しました。
*3月25日:「相撲というスポーツ」に「新星たちの登場、2024年春場所」を公開しました。
*2月8日:「サッカー日本代表森保JAPAN」に「再びの『さらば森保!』今度こそ『アディオス⁉』を追加しました。
*01月01日:本日『無位の真人、或いは北大路魯山人』に「無位の真人」僧良寛、或いは・・を公開しました。
これにて本物語は完結しました。
12月13日:  『生きている言葉』に過ぎたるはなお、及ばざるが如し」を追加しました。
*9月29日:「食べるコト、飲むコト」 に「バター炒め二品 」を追加しました。
*9月27日;「物語その後日譚」に「奥静岡の鶏冠(とさか)山」を、追加しました。
 
 

  南十勝   聴囀楼 住人

          
               
                                                                  

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         2024.05.01
              牛歩
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
   
      
  

 

これまでいくつかの「物語」を書き&公開してきましたが、当然の事ですがそれらの「物語」は書き上げた時点で判明している事を中心に、書き綴っています。             

それはまぁ、当たり前といえば当たり前の事ではありますが、その書き上げた後においても、新しい情報や事実が判明することが、往々にしてあります。       

 

このコーナーではすでに公開済みの「物語」に関して、その後新たに判明した情報や事実について「後日譚」として、報告がてら取り上げていきたいと思っています。        

いずれもそれまで取り上げてきた「仮説」や「推測」を補完するモノやコト/情報といった内容になろうかと思います。

 

また場合によってはそれらを覆す内容も出てくるかもしれません。しかしまぁ新たに判明した情報や事実が出てきた場合は、出来るだけ素直にこのコーナーにおいて明らかにしていきたい、と私は考えています。

事実の前においては出来るだけ謙虚でありたい、とそう思っています。たとえそれが「不都合な真実」であったとしてもです・・。
 
 
 
              【 目次・構成 】

 

        1.「純金製の騎馬に乗った八幡像」              

        2.「お雇い外国人による荒木大学の砂金掘り検証」      

        3.「道南、知内の旧家に伝わる家紋」

        4.「奥静岡の鶏冠(とさか)山」

 

 

 
 

 奥静岡の鶏冠(とさか)

 
 山梨県の大菩薩峠裏手の「鶏冠山」は、私がこれまで調べて来た甲斐源氏の武将安田義定公の、領地経営の柱であった「金鉱山開発」を担って来た「黒川衆」の本拠地の在ったエリアで、別名「黒川山」とも称した。
 
甲武信連山の一画に在り、少なからぬ量の金鉱山が存在し、武田家が滅亡する頃まで盛んに金山開発がなされていた、彼らの拠点である。
その拠点には「奥宮」として「鶏冠神社」が祀られてあり、そのご神体は「金造りの鶏」であったという。
 
「金の鶏」がご神体であったのは、この山の頂上が「鶏冠(とさか)」即ち「鶏のとさか」に似ていたからである。
その「鶏冠山」の山中にはたくさんの金鉱が在り、金山開発を職業としていた彼らにとって、山の中腹の多くの場所で金が採取・採掘出来た事から、この山は多くの恵みをもたらしてくれた。
という事からこの山は彼らにとって将に「聖地」であり、「信仰の対象」にもなったのである。
「ご神体」が山中から産出された金に依る「金造りの鶏像」だったのは、この様な経緯に依る。
 
 
 
                            
                       山梨県の鶏冠山=黒川山
 
 
その「鶏冠山」が滋賀県の大津市と栗東市の境に在ることを偶然知って、私は驚いた。
ひょっとしてここは黒川衆が関係した山、即ち「金鉱山」だったのだろうか、と想ったからである。
 
しかしながらその後情報を得て確認したところ標高491mのこの「鶏冠山」は、名前は同じであるものの山梨県甲州市の「鶏冠山=標高1710m」に比べ、「里山」クラスの山に過ぎず、金鉱山ではないだろうと想われた。
 
更にはその名称「鶏冠(とさか)山」も、明治・大正年代頃までは「鶏冠山」ではなく「砥坂(とさか)山」と言われていて、その名の由来はこの山から多くの「砥石」が産出されたからであった、という事が判明した。
私の「驚き」は単なる期待感の裏返しでしかなかったことが、判ったのである。誠に残念な事であった。
 
 
ではあるがこの出来事をきっかけに私は改めて、日本の「鶏冠山」について調べることにした。
その結果興味深い発見があった。将に「黒川衆」に関連すると思われる、「鶏冠山」を見つけたのである。
今回「物語の後日譚」としてここに取り上げるのは、「黒川衆」に繋がる「鶏冠山」という事で取り上げ、紹介するのである。
 
 
さてその「鶏冠山」とは何処かというと、静岡県川根本町と長野県飯田市に跨る南アルプスの一画に在る、標高2,204mの高山である。
南アルプスの一画で「奥静岡」、という事でまず「金の産出」が予測できたのである。
南アルプスの静岡から長野に接する辺りは、昔から金の産出エリアとして有名であり、「今川義元」「武田信玄」「徳川家康」の時代に、多くの金が採取された場所である。
 
 
            
               長野&静岡に跨る「鶏冠山」
 
 
 
その様な事もあって私は改めてこの「南アルプス:奥静岡の鶏冠山」について掘り下げて調べてみることにした。
その結果この「鶏冠山」の名前の由来は、前述の様な「戦国時代後期」ではないかも知れない、という想いが強くなった。
 
その理由は以下の通りである。
1.この鶏冠山をずっと太平洋に向かって下って行くと、遠州灘に辿り着く。
即ちこの山はかつて安田義定公が遠江守を14・5年間務めた領国遠州と、信濃の国との国境である南アルプスの一画に在り、「信濃への塩の道」は将にこの鶏冠山の中腹を通るルートであった。
2.その「塩の道」は古代から在った。
「塩の道」は海無しの信濃國と、塩の産地である太平洋とを結ぶルートなのであるが、その道は遠江之國の森町→春野町を通って、「気田川」を溯り信州に向かう道として古代から存在していた。
3.「森町三倉地区」→「春野山中腹」→「春野町犬居郷金川地区」→「犬居郷勝坂」→「水窪町」エリアの内「金川地区」から先は、ほぼ「気田川」沿いを遡ることになる。
そしてそのルート上には、幾つかの砂金や金鉱山が採取されたと想定出来る集落がある。
4.更に気田川上流、水窪町の水窪湖の近隣に「コガネ沢」という河川が在り、その先を更に溯ると南アルプスの「鶏冠山」に辿り着くのだ。
 
 
このルートは『遠江守安田義定と秋葉山本宮』等でも確認検証したように、遠州における砂金採取や金鉱山開発が行われたエリアであり、これらの地区には「金山彦」を祀る神社である「金山神社」や「南宮神社」が点在している。
 
これらの事からこの古代からの「塩の道」のルートは、鎌倉時代初期に砂金や金鉱山を求めて、「塩の道」や「気田川」を溯って行った黒川衆にとって、「砂金/金山の道」でもあったのではないか、と私は考える様に成った。
 
というのも金山衆は先ず川で「砂金を採取」してから、その砂金が流れて来た源の金鉱を探すために、当該河川を溯上するのが常だからである。
金鉱山を探し求めて、砂金を採取した河川を溯って行くのである。
 
 
と同時に、それなりの量の砂金類を採取した場所には、ほぼ「神社」を創建し祭神として「金山彦」を祀るのである。
そしてさらに多くの砂金や金片が採取できた河川には、「小金沢」や「黄金沢」「金川」といった様な名称を付ける傾向がある。
 
従って、この遠州の「砂金/金山の道」を砂金が採れた「気田川」を溯上する事で、「コガネ沢」を経由して辿り着いた先が、南アルプスの鶏冠(とさか)山だったのではないか、と推察しているのである。
そしてこの山を「鶏冠山」と名付けたのは、ふるさと甲州市の黒川山=鶏冠山に特別の想いを抱く「黒川衆」だったのではないかと、私はそう言った仮説を抱くようになったのである。
 
 
                                 
                   静岡の鶏冠山水窪町「コガネ沢」
                   上から「犬居郷勝坂」「秋葉山本宮」「森町三倉」
 
 
その仮説を検証するためにこれから「水窪町」について、改めて調べてみる必要がある、と私は考えている。
現在は浜松市に編入された水窪町の『水窪町史』や、周辺の神社/仏閣に関して改めて調べ、現地訪問などを行いながら確認してみよう、と想っているところである。
 
その仮説を確認するためには「鶏冠山」の手前に在る、ツキノワグマが生息していると思われる「熊伏山」を避けながら行くことから、来年の初夏以降に成るだろうと、私は想定している。
 
かつて砂金が採れた川沿いは、同時に「ヤマオヤジ」と言われる熊たちの棲家が在り、彼らの縄張りでもあるのだ。
その縄張りにやって来る我々人間は彼らにとって侵入者であるから、こちらにもそれなりの用心が必要に成ってくるのである。
 
 
最後に「和歌山市」にもう一つの「鶏冠山」が在るのだが、こちらは「標高167m」とハイキングコースレベルの山で金鉱山が在りそうに思えない事や、黒川衆の痕跡もうかがえない事から、優先順位がグッと低くなるため、改めて「熊野本宮」について調べる時にでも・・、と想っている次第である。
 
 
 
 

「道南、知内の旧家に伝わる家紋」

   
 
ここでいう「知内」とは、北海道道南の西部に位置する街「知内町」の事である。
この町は『大野土佐日記と甲州金山衆』の舞台となっている街であり、『大野土佐日記』を継承してきた「雷公神社」の宮司「大野家」の存する街である。
 
私が鎌倉時代の武将「安田義定」を知るきっかけになったのは、この『大野土佐日記』に出遭ったからであった。
この『大野土佐日記』についての詳細は拙著『蝦夷金山と甲州金山衆』や『大野土佐日記と甲州金山衆』等でもたびたび書いているので、このHPを継続的にご利用いただいている方々はご存知だと思うが、ザッと確認させていただくと下記のような内容である。
 
『大野土佐日記』は鎌倉時代の初期に「甲斐之國いはら郡」の領主「荒木大学」が、千人ばかりの「甲州金山衆」を引き連れて「蝦夷地知内」に入部した事が、この知内の街の「開闢」の始まりであった、という事を書き記している書物である。
 
同書は数百年の間知内では言い伝えられ伝承されてきた事を、江戸時代の初頭に取りまとめて来た書物で、知内の人々にとってはいわば『古事記』のような存在であった。
 
ところがこの『大野土佐日記』にはいくつかの歴史的事実とは異なる箇所があり、明治や大正時代の「権威ある歴史学者」達によって「偽書」としての烙印を押されてしまった、という経緯を辿っている。
 
私はその明治大正時代の「権威ある歴史学者」達の説に疑問を抱き、それを「検証」したのが「歴史検証物語」でもある『大野土佐日記と甲州金山衆』であった。
 
ここではその詳細には触れないが、その検証のプロセスで私が出会ったのが平安時代末期に活躍した甲斐源氏の武将「安田義定」であった。
 
 
「甲斐之國いはら郡」の領主=郡主である荒木大学は、安田義定の有力な幹部=家来であったのではないか、というのが私の推測に基づく結論である。
 
「安田義定」は平安末期の源平の戦いで活躍し、甲斐之國牧之荘の領主から出発し「遠江之國の国守」にまで成った武将である。
その彼の本貫地である「牧之荘黒川郷」に在った甲州金山「鶏冠(とさか)山」で、金山開発をしていたのが「甲州金山衆=黒川衆」である。
 
「荒木大学」はその金山衆の頭領の一人ではなかったか、というのが私の推論に元づく結論であった。
そして今回さらにその「想い」を確信するに至る、私なりの確証を得る事が出来たのである。
 
 
                        
                        吉田霊源版『大野土佐日記』
 
 
 
それは「家紋」である。
私が日本人にとっての「家紋」について、その位置づけをしっかり理解することが出来たのは『安田義定と秋葉山神社』において、「家紋」についてある程度調査・研究することが出来たのが、きっかけであった。
 
もちろん「家紋研究者」の理解度や研究内容からしたら、ほんの初級者のレベルの理解でしかないかも知れないのであるが、それでも多少の知識や情報は得ることが出来た。
その「家紋」が日本人の共通認識になったのは鎌倉時代以降の事である、様だ。
 
即ち「武士」の時代の到来と軌を一にして「家紋」は日本全国の共通認識となり、広く深く浸透することになったのである。
それまで平安時代において一部の朝廷貴族の間で使われていた「家紋」もあったのだが、広く社会的に認知された存在ではなかったのである。
 
「家紋」は武士即ち軍人たちが、戦闘の際に「敵と味方」を区別し、戦闘の終了後「帰陣する際」の目印ともなり、戦闘終了後の「褒章検討の際の判断材料」として使われるようになって、武士の間で広く深く浸透していったのであった。
詳細は『安田義定と秋葉山神社』の『-神社仏閣と「社紋寺紋」編ー』に記載してあるのでご興味のある方はご参照いただきたい)
 
 
といったようなことに気が付いてから私は「家紋」を調べかつ識ることは、その先祖や先祖の所属グループを識ることが出来る、という点に気がついた。
もちろんそうは言っても八百年前の鎌倉時代以降の事であり、それ以前にまでは遡ることは出来ないのであるが・・。
 
いずれにせよそのことに気づいてから「家紋」もまた歴史の謎を紐解く際の、有力な検証材料の一つに成り得ると思うようになった。2019年の末ごろの事であった。
 
以来安田義定と『大野土佐日記』の中心人物である「荒木大学」の関係を確認するためには、「家紋」をしっかり押さえておく必要があるのではないか、と考えるようになった。
 
そして具体的なアプローチとして知内町の「雷公神社」の神官である大野宮司家の「家紋」をぜひ確認したいと思い始めたのであった。それが2020年の初めのことであった。
 
 
それで北海道の雪が溶け始める4月以降に知内の雷公神社を訪れる計画を、私は立てていたのであった。
ところが降って沸いたように持ち上がったのが「新型コロナウィルス」問題である。
 
北海道でこの問題は2月ごろには勃発し、2月後半頃には北海道知事が独自の緊急事態を宣言する事態にまで達した。
そんなこともあって、私の「知内での家紋確認」はしばらく中断してしまったのである。
 
 
ところが今年に入って後期高齢者である私は、比較的早く「コロナワクチン」を接種することが出来、更に二度目の接種が終わったこともあって、改めて「知内での家紋確認」を開始することにした。
 
今月の上旬に首都圏での雑用を済ませた後私は、十勝の大樹町に帰る前に函館で泊まり久々の函館を訪れ、その翌日知内の雷公神社を訪ねることにしたのであった。
 
 
前置きが長くなったがその知内の雷公神社の大野宮司にお逢いし、改めて「大野家の家紋」について尋ねたのであった。
 
その結果は予想通り「花菱紋」であった。安田義定公の家紋である。
さらに鎌倉時代初期に甲斐の國から甲州金山衆を引き連れて、蝦夷地知内までやって来た荒木大学の家来は皆「花菱紋」を家紋として使っているというのであった。
 
これは大野宮司家はもちろんの事、『大野土佐日記』に記載されている荒木大学と共にやって来た家来衆の一族は皆「花菱紋」であると、宮司さんは明言されていた。
 
私はその話を聞き、更に知内町湯の里に在る「知内温泉」の源泉を祀っていた祠が「花菱紋」であったことを併せて思い起こしながら、荒木大学が安田義定公の家来であったに違いない、と確信したのであった。
 
先程も述べたように「花菱紋」は、平安末期から鎌倉時代以降武士たちの間で用いられ、普及して行った家紋の中でも由緒やいわれのハッキリした安田義定公の家紋であり、更にそのルーツは甲斐源氏にとって最も神聖とされている「御旗楯無」の「楯無の鎧」に用いられている紋章であるからである。
 
兄の武田信義(甲斐武田家の家祖)亡き後、甲斐源氏の頭領と成り甲斐源氏の中心人物であった、安田義定公の用いた家紋が「武田菱」ではなく「花菱紋」だったからである。
 
因みに雷公神社の神社紋が「武田菱」と成っているのは、江戸時代以降の藩主松前藩の家祖が武田信義の五男武田信光の末裔の越前武田氏の嫡流であったから、江戸時代以降の松前藩に関わる古い神社の社紋は、すべて「武田菱」なのだ、と宮司は言われていた。
そして社紋と家紋は異なる、とはっきり明言されていたのである。
 
 
 
 
                        
                      花菱紋          武田菱
 
 
また余談ではあるが、大野宮司家と縁戚である北島三郎(本名大野穣氏)の家紋が「花菱紋」であるのは、荒木大学と共に知内にやって来た修験者「大野了徳院重一」の同じ末裔であるから、だという事である。
因みに北島三郎家は明治維新以降の分家だという事を、大野宮司は言われていた。
 
いずれにしても私は鎌倉時代初期に知内に入部したという伝承の残る、荒木大学の家来衆はいずれも「花菱紋」を家紋としていることから、荒木大学一党はますます以て安田義定公の家来であったに違いない、といった確信を抱くようになったのである。
 
 
 
 
 

「お雇い外国人による荒木大学の砂金掘り検証

 
 
下記は昨年コロナで取材等に行けなくなったためにスピンアウト(番外編)として始めたH・Sモンローの『北海道金田地方報文』の抜粋である。
 
 
    ♠         ♠         ♠         ♠        ♠       ♠
 
 
 
北海道開拓使に雇われたH・Sモンローが明治8年7月10日の退職直前の同年5月10日に、北海道開拓使宛に執筆して提出したのがこの『北海道金田地方報文』であった。
その報告書の中に下記のような記述がある。いずれも抜粋である。
(同書。史料編907~920ページ)
 
「 『松前金田 渡島國』 という章の中に
 
昨年、出張の節松前に赴き、其の近傍砂金の有無を検査し、且、有益なる金石の現出せる旨、日本官員の示すことあらば、これをも巡視すべきを命じられたり。・・・
函館よりの道路は沿海知内に通じ、夫より武佐川の渓野を上がり・・松前に達す。
 
余輩、武佐川を過ぎるの際、河中及び両岸の高台に在る、砂礫の模様を一見し、大いに感ずる所ありき。故に、前年松前の洗金者等がここに来て、洗滌せしを聞くも、敢て驚かざりしなり。」
 
 
これは「松前金田」の章の冒頭部であるが、モンローは知内に入って「武佐川=知内川本流」沿いを検視した際に、河川の中や両岸に積み重なる砂礫の痕跡を見て、かつてこの地で大いなる砂金採取が行われたことを、感じ取っていたのであった。
 
鉱山開発の専門技師の彼の目から見れば、これらの砂礫の夥しい堆積は「武佐川」でかつて砂金採取が行われていた事の痕跡として、この時に目で確認し深く脳裏に刻んでおいた事であろう。
同じ文章の中に
 
「六七百年前、南方より来る者共の、許多の砂金をここに得たりといふ」
 
と書いてあり『大野土佐日記』に書かれていた情報を、彼が事前に知っていた事もこの現地視察の時の感想に繋がっているのであろう。
 
そしてその後鉱山技師モンローは、『大野土佐日記』に書かれていた事を検証するような調査をしていた様子が、窺える記述になっている。
 
まずモンローは同報告書において『大野土佐日記』の冒頭部を数ページ分書き綴っており、その上で
 
 
「余輩、一の渡に到着の後、予め河流を測量し、砂礫を洗滌する等に両三日を費したり。蓋し、便宜の地は、荒木氏ことごとく之を洗滌せるを以て、砂礫を試験すべき、好所を発見するに艱みたり。・・」 
 
と当該地の河川の中で砂金採集が可能ではないか、と当たりを付けた場所が既に6・700年前の荒木大学によって、「ことごとく砂礫をさらわれてしまったがために、試掘の成果が得られなかった」といったようなことを記述しているのである。
 
 
更に同報告書の「松前金田の章」の末尾において、『大野土佐日記』に記述された事柄を自分なりに検証した結果を、記述している
 
「往昔洗浄の地は、渓野の上部にして、砂礫最も金に富めるを證せり。
筑前より来れる洗金者は、往昔比金田より、幾何かの黄金を得たるや。・・・
 
荒木氏の得たる全額は貮萬壹千㌦の値なるべし。而してその量は凡九貫五百匁なり。・・」
 
と当該金田地の「砂層の厚さ」を測量にて計測した上で、測定済みの「金の含有量率」を掛け合わせて、6・700年前に成された荒木大学一党の金の産出量を、9貫5百匁=35.625kgと推定し、当時のドルと円との相場を勘案して、その価値は2万1千㌦相当であるとまで、推測しているのである。
 
 
以上のように、この明治初期の時点においてアメリカの鉱山技師モンローは、『大野土佐日記』に書かれている荒木大学の砂金採取の痕跡を、「武佐川=知内川本流」で自分の目で確かめた。
その上で、荒木大学一党の砂金採取が実際に行われいた事を、武佐川=知内川本流の河川敷や両岸の高台に堆積された、砂礫の厚さ等の痕跡から確信した上で、明治初年より6・700年前の事を推測しているのである。
 
 
この『北海道金田地方報文』という報告書は『大野土佐日記』の記述の信憑性を、肯定的にとらえている
そしてその鉱山技師モンローの知識見識は、一介の札幌辺りの歴史学者や現地視察を行なった事も無い机上の学者達の、根拠を示さない推論よりも、客観性や実証性を持っているように、私には思われる。
 
それは鉱山技師という鉱山開発に従事していた専門家が、現地を実際に訪れ観察し、なおかつ測量し金の含有量を検査した結果、導き出した結論だからである。
 
 
鉱山技師モンローの現地調査に基づく知見は、安田義定公につながる荒木大学を初めとした甲州金山衆が、鎌倉時代初期に蝦夷地知内を訪れたに相違ない、と頑なに信じている私の独断と偏見に合致したのである。
 
私はこのモンローの報告書に『福島町史』を通じて出遭えた事を、砂金/金山の神様に感謝している。
何故なら私が『大野土佐日記と甲州金山衆』において建ててきた推論を、鉱山開発の専門家の立場で、鉱山技師のモンロー氏が証明してくれた、と思ったからである。
 
この記述に出逢えた私が祝杯を挙げたのは、言うまでもないことである。  
「乾杯!H・Sモンロー」なのである。
 
 

    ♠         ♠         ♠         ♠        ♠       ♠
 
 
 
以上が、明治8年に当時の北海道開拓使に対して、お雇い外国人「H・Sモンロー」が正式な報告書として提出したレポ-トであり、これを彼は雇用主である北海道開拓使への正式な報告書としている。
 
そして私自身がコメントしているように、彼は荒木大学の伝承である『大野土佐日記』を読んだ上で、鉱山技師の目で知内川の河畔を実施調査し、この伝承の信憑性を検証しているのである。
 
私はこの報告書に出遭い、ますます『大野土佐日記』に対する評価や確信が高まり、信用するように成ったのである。
 
 
 
 

 純金製の騎馬に乗った八幡像

 
 
 
下記は昨年コロナで取材等に行けなくなったために、スピンアウト(番外編)として始めた『蝦夷地の砂金/金山事情:枝幸町編』の抜粋に成ります。
 
ここでは「京都祇園祭り」と遠江守安田義定の事を書いた『京都祇園祭と遠江守安田義定』で取り上げた三条新町の舁き山である「八幡山」のご神体について、私が推察した「騎馬に乗った黄金の八幡像」の存在の可能性を感じさせる、山形県寒河江出身の金堀人にまつわるエピソードを紹介します。
 
 
 
 ♠     ♠     ♠      ♠      ♠     ♠
 
 
 
 
最後に山形県最上川/寒河江川で砂金採集をしていた小泉衆の末裔で、雨宮砂金採集団のメンバーであった安達長四郎の息子の由太郎氏の談話を紹介する。
 
北海道に渡る前の話であるが、寒河江川や最上川辺りをまだ盛んに掘っていたころ、父が砂金掘りの帰みちうす汚れた八幡さんの像みたいなものを拾ってうちに持ち帰った。
よく見たら、それが馬に跨った八幡さんの像だったので、これは縁起がいいということになって、お祝いに馬肉を買って来て喰べたところ、母親の口がひきつるように曲がってしまった。
 
これは大変だ、八幡さまの罰が当たったんだろうと思い、『これからは決して馬肉を喰べません』と願を建てて、そこの(近くの)八幡様に寄附してまつったところ、それまで曲がっていた母親の口が元通りに直ったので、霊験あらたかなものだと驚いたり、感心したりしたものだ。
それ以来、儂らの家では一切馬の肉は口にしないしきたりになっている。
 
後日談になるが、寄附した八幡様の像を神主が丁寧に汚れを取って拭いたところ、ぴかぴか光りだしたので『おや、これは』と言うので磨き上げてみたら、それが金無垢の八幡さんだったそうだ。」
 
 
お気づきな様にこのエピソードを取り上げたのは、枝幸の砂金/金山事情とは全く関係がない。が私がこれまで取り上げてきた「安田義定公や黒川衆」には、関連してくるエピソードなのである。
 
というのも、黒川衆は江戸時代になって地元甲州の鶏冠(とさか)山周辺で、金山開発が行われなくなってから、全国に新たな金の産地を求めて散逸しているのであるが、その先の一つに出羽之國が入っているのである。
 
更に『遠江之守安田義定と京都祇園祭』の「八幡山」について調べた時に、その「八幡山」の舁き山のご神体が「騎馬に乗った応神天皇像」であった事を思い出したからである。
 
 
あの物語でも書いておいたが現存する「伝運慶作の『木像の騎馬に乗った応神天皇』」は、石田三成の重臣島左近の末裔が江戸時代後期に寄贈したものと伝承されているのであるが、それ以前の「ご神体」はきっと黒川衆が義定公の領国で産出した金を基に、義定公によって創らされた「純金製の騎馬に乗った応神天皇像」だったに違いない、と推測していたからである。
 
その推測を裏付けるかもしれない「純金製の騎馬に乗った応神天皇像」が、黒川衆に縁のある出羽之國の最上川/寒河江川から出土した、とこの逸話で確認できたからである。
 
もちろんこの像そのものが「八幡山」のご神体であったかどうかは不明であるが、それに類するモノ又はレプリカとして、黒川衆が造り持ち続けていた可能性があるかもしれないのである。
 
時代背景なども含めて、改めて今後検証調査をしてみたいと思っているが、その可能性が出てきたことに私は注目しているし、期待もしているのである。
「瓢箪から駒」であったが、私はこの貴重な情報に巡り合えたことを、大いに喜んでいる。
 
「コロナ禍」という望まざる事態から始めたこの『蝦夷地の砂金/金山事情・・』であったが、思わぬ形で「砂金/金山の神様」からご褒美をいただいたようなものである。
現物の金銀には全く縁のない私を憐れんで、神様がもたらしてくれた情報なのであろうか・・。
などと想いながら、眼下の黄緑色が鮮やかな「かえる手=楓」やオレンジ色の躑躅を眺めて悦んでいる私である。
 
 
 ♠     ♠      ♠      ♠     ♠     ♠
 
 
 
上記の様に、これは全くの偶然私が出会った『枝幸町史』の砂金採集や金山開発に関するエピソードの一つであるが、私がかつて『京都祇園祭と遠江守安田義定』において推察した「八幡山」の黄金のご神体の存在の可能性を、このエピソ-ドは裏付けるかもしれないのである。
 
もちろんまだまだ検証や確認をしなければならない事は沢山あるのだが、私の立てた推論が全くの荒唐無稽な仮説では無かったのではないか、と私は感じているのである。
 
そんな風に考えながら、いつ出遭うかもしれない新たな情報やエピソードに対して、常にOPENマインドで門戸を広げておきたい、と思っている次第なのである。
 
 
 
 
 



〒089-2100
北海道十勝 , 大樹町


 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
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