春丘牛歩の世界
 
先週から、「行者ニンニク」が採れる様に成り、我が家の食卓にも乗るようになった。
行者ニンニクが採れる様に成ると、今年の春がやって来た事を実感する。
これまでの私の経験では「行者ニンニク」が生えてきてから、雪が降ったことは無いから、である。
 
 
      
 
 
野生の昆虫や動物たちが作る巣の位置で、颱風の影響を早い時期に推測できることがあるが、自然界の生き物たちは彼らなりのセンサーで、天候や自然現象を察知する能力がある。
そんな事から私は、「行者ニンニク」が我が家の林に生え始めることを、季節の到来のメルクマール(指標)にしているのである。
 
 
      
 
       
         
 
     
 
 
    記事等の更新情報 】
*4月19日 :「コラム2024」に、「青い春」と「チャレンジ虫」を追加しました。
*3月25日:「相撲というスポーツ」に「新星たちの登場、2024年春場所」を公開しました。
*2月8日:「サッカー日本代表森保JAPAN」に「再びの『さらば森保!』今度こそ『アディオス⁉』を追加しました。
*01月01日:本日『無位の真人、或いは北大路魯山人』に「無位の真人」僧良寛、或いは・・を公開しました。
これにて本物語は完結しました。
12月13日:  『生きている言葉』に過ぎたるはなお、及ばざるが如し」を追加しました。
*9月29日:「食べるコト、飲むコト」 に「バター炒め二品 」を追加しました。
*9月27日;「物語その後日譚」に「奥静岡の鶏冠(とさか)山」を、追加しました。
 
 

  南十勝   聴囀楼 住人

          
               
                                                                  

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         2024.05.01
              牛歩
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
   
      
【歴史検証物語】
避暑のために友人と訪れた北海道の道東地区で、ひょんなことから砂金採りをすることに成った私は、砂金採りの際行われた大樹町の講習会に参加した。その講習会の講演で、父の故郷の山梨と北海道の金山開発に度重なる縁しがあることを私は知った。

山梨と北海道の金山開発に関わりあることを知った私は、鎌倉時代の初期に甲州金山衆(かなやましゅう)が大挙して上陸したという古文書が残る、北海道道南渡島の知内町を訪ねることに成った。
この物語は、すでに公表している『荒木大学と甲州金山』の前編と言ってよい物語になります。同書を閲覧された方は、併せてご覧いただけると、甲州金山衆と知内町の関係がより深く、判るかもしれません・・。
 
 
                                     【 目 次 】
 
                プロローグ
                十勝帯広
                ③帯広「すしの要」
                ④蝦夷金山の歴史
                ⑤脇とよ著『砂金掘物語』
                ⑥砂金掘り体験
 
 

プロローグ

 
 

六月の梅雨に入ろうとする週末の昼過ぎ、家で昼食のビールを飲んでいるとスマホが鳴った。水谷雄一からだった。水谷は、大学時代の元クラスメートで同じサークルのメンバーだった。彼は卒業後、埼玉で中学校の教員をしていたが3年ほど前に退職していた。私が40年近く勤めた会社を退職したのと、ほぼ同時期だった。

水谷からの電話は、首都圏在住の元クラスメートと行った去年の忘年会の時にした約束の確認であった。7月の暑い時に首都圏の暑気を避けて、北海道に1週間ほど旅行をしようという。

「立花クン、水谷です。ご無沙汰してます。元気してました?ところで、忘年会の時の約束おぼえてる?」ネイティブな大阪弁で、彼は話し始めた。

「うん、覚えとるよ、ちゃーんと」                     

私も関西弁のイントネーションで応えた。普段は使わないが、関西人と会話する時になると、イントネーションも単語も関西風になるから不思議だ。

私は八王子の出身だから、標準語(彼らに言わせると関東弁)を普通に使っているが、大学の4年間は京都で、社会人になってから大阪に3年、神戸に3年都合10年間関西で暮らしていたこともあって、関西弁が普通にしゃべれるのだ。大阪弁と、京都弁・神戸弁が、同じ関西でも微妙に違うことも知ってる。

 

「この夏の北海道は予定通り考えとって、ええんかい?」

「うん、そのつもりだよ。水谷の方は大丈夫かい?」              

「うん、楽しみにしてるよ。その件で提案があるんやけど、ええか?」
「ん?何さ」
「去年の忘年会の時に立花クン、札幌や旭川・函館は何度も行ってるから、十勝とか釧路とか、道東が好いようなこと言うてたやろ、確か・・」

「うん覚えてる。今でもおんなじだよ、何でさ?」

「でさぁ、道東で砂金採りやらへんか?帯広の近くに砂金の採れる川があるんだ、歴舟川っていうんやけど」                              

「いや、初耳。歴舟川って、どこにあるのさ?ってか、何で砂金採りなのさ?」  
「砂金採り、オモロないか?砂金採りやで。めったに体験でけへんで・・。歴舟川はやね、十勝帯広の南西部の大樹町っていうところにあるんや。広尾とか襟裳岬の近くの・・」

「ふーん、聞いたことない名前だな・・。あ、広尾ってひょっとして、国鉄の広尾線の通っていた町かい?廃線になった・・」

「せやせや、あの広尾線。大樹町も通ってたんやで」

「ふーん、あっちか・・。北海道の真ん中らへん、日高山脈の右下って感じ?そしたら、日高山脈の麓ってことになるんか?」

「まぁ、そんな感じやな、せやけど十勝平野でも海の近くだから麓ってのとはちゃうやろな・・」                                   「で、何で砂金採りなさ?」                           「いやぁ、イベントだよイベント。十年近く前に新札幌で砂金採りやったことあるんや、おれ」

「新札幌?」                                  

「うちの奥さん、札幌近くの北広島出身なんや、夏休みに帰省してた時に親子三人で・・」                                    「ふーん、そう。で、楽しかったんだその砂金採りのイベント・・」

「まぁまぁやね、息子が喜んどった」                 

「あはは、子供はね・・。で、大人も楽しめるんかい?砂金採り。そこが肝心やぞ、オレ達が楽しめるかどうか。子供だましじゃなくってね」                

「あたり前田のクラッカーやんか。楽しめへんかったら誘わへんて!意義ある事とは言わんけど、楽しめるんは確かや。で、どうよ。サークルのノリで・・」水谷は大学時代の歴史探訪サークルの話を持ち出した。
 
私と水谷は同じ「京都の歴史と史跡を探訪する会(通称:歴史探)」という、大学横断的なサークルのメンバーで、役員を務めていた。     
「せやな、未体験やからやってみるか、道東だし。広尾線のネ・・」
「よっしゃ、決まりや。さすがは歴史探の元会長や!」

その後私は首都圏在住の元クラスメートで、去年の忘年会に参加した他のメンバーにも、北海道旅行を誘ったが、残念ながら他のメンバーの賛同は得られず、水谷と二人きりで北海道に行くことになった。

 
 
 
 
 
 
 

十勝帯広

 
 7月の中旬、私と水谷は午後2時前にとかち帯広空港に着いた。羽田からは1時間半ほどのフライトであった。                                
仕事がら日本全国を飛び回ることの多かった私は、羽田からほぼ1時間半あれば国内の空港にはどこにでも行けることは知っていた。もちろん沖縄を除いてだが・・。

酒好きの水谷は羽田で合流し、早めのランチを食べた時からビールを呑んでいた。私は帯広空港でレンタカーを借りることになっていたから、ビールは我慢した。が、シャクだから彼をイジッて憂さを晴らした。

 

帯広を初めて訪れる私には、行ってみたいところがあった。廃線になった旧国鉄の広尾線幸福駅だ。学生時代付き合っていた彼女のアパートで(よ)く聞いてたFMラジオで、話題になっていた駅だ。広尾線の愛国駅から幸福駅の間の切符を購入することが、当時の若者たちの間でブームになっていたのだ。

東京生まれの私も福岡生まれの彼女も、北海道は未知の世界で実体験がないだけに、想像力を豊かに膨らませ期待感はいやおうなく高まり、二つの駅に思いを馳せた。    

とりわけ彼女は熱心だった。二つ下の彼女は、僕が卒業するまでに二人で必ず行こうねと、何度も云っていた。が、結局その夢は、実現しなかった。
計画していた、私が4回生の夏休みの直前に彼女の祖父が亡くなって、それどころではなくなってしまったのだ。そんな思い出もあって、幸福駅はぜひとも立ち寄りたい場所であった。

 

幸福駅が、とかち帯広空港から帯広の市内に向かう途中の農村地帯にあることを知って、空港から直接行ってみたいと思った。帯広に行くことが決まって早速、私は幸福駅の情報をインターネットで探したのだ。                     

ネット情報によると、幸福地区は帯広市の郊外に位置し、隣の中札内村に隣接している、農業が主たる生業の田園地帯であった。中札内は、著名なタレントが牧場主となっている観光牧場のある村だ。

幸福駅は広尾線の出発駅である帯広駅から5つ目の駅で、20㎞程の距離にあった。空港からは車で10分程度の時間距離であった。

その幸福駅は見事なまでの田園地帯の一画に在り、駅舎らしきものがあった。線路も何メートルか残っており、オレンジ色の派手な客車が2輌あった。

帯広市を中心都市とする十勝平野は見渡す限りが平坦な土地で、本州ではめったに見られない規模の、広大な土地にポツンぽつんと農家や牧場が点在していた。

タイヤの直径が大人の身長ほどもある大きなトラクターにすれ違うと、ここはアメリカかオーストラリアではないか、と錯覚してしまうような所で、本州の人間が想像する様な最も北海道らしいエリアである。

水谷の解説によると、十勝平野の広さは千葉県と埼玉県を合わせた面積にほぼ該当し、十勝の総人口は35・6万人で、川越市レベルの人口でしかないということだった。本州に比べ、人口密度が極端に少ないのだ。

 

幸福駅は、1987年(昭和62年)2月2日に廃線になったと観光案内に書いてあった。今から30年ほど前だ。因みに駅の開業は1956年11月とあり、開業後30年余りで廃線になったことになる。広尾線そのものの開業は1929年11月なので、この路線の稼働期間は60年程度で終わったことになる。

小さなかわいい駅舎には、観光客が貼ったと思われる、切符や小さなメモ用紙やらがびっしりと、隙間がほとんど見当たらないくらい過密に貼られてあった。私は旅行客のある種の逞しさに興ざめを覚えた。著名な神社仏閣にびっしり張ってある千社札が、可愛いく思えてしまうくらいの張り具合であった。

それらの貼付物には、色褪せていない新しい紙やメモもあったから、今でも少なからぬ人が、この駅を訪れているに違いなかった。現に私たちが居た時にも若い娘さん達やカップルが幾組か来て、何かを書いて貼っていた。

いっそ、敷地内に小さな神社でも作って、おみくじや絵馬を販売したり、それらを掛けるスペースを確保したら良いのに、と私は想った。

 

 
 
 
                                  
                                 旧国鉄広尾線幸福駅に残る史跡(?)のオレンジの車両

 

 
 

その日私たちは帯広駅近くの航空会社系列のシティホテルに泊まった。

帯広市立図書館の向かい側で、資料を漁(あさ)るのに都合がよいと選んだホテルだ。チェックインを済ませ、荷物を整理してから、水谷と私はその図書館に向かった。事前に、歴舟川の砂金に関する情報などを得るためだった。

私達は学生時代、サークルの「京都の歴史を探訪する会」が行っていた、月1のフィールドワークで、歴史的建造物や史跡を探訪する際にも、大学の図書館や府立図書館などで事前に情報収集を行い、当日使用した案内書やしおりの作成に役立てていたものだ。

実はこの時の情報収集のノウハウや経験が、後の就職活動の役に立った。オイルショック後の就職難と言われた時代に、希望する大手広告代理店の書類審査や面接の際に、この時の4年間のデータを提出し、自己アピールに活用して、役員面接などの時にも利用していたのだ。 

おかげで私は、関西の私大からでは不利と言われた、都内の大手広告代理店に採用されることとなった。もちろん配属先はマーケティング部門だった。

 水谷は北海道の金山や砂金に興味があったらしく、その手の本を探していた。私は十勝帯広を開拓した開拓の祖と言われた「依田勉三」に関する本や、歴舟川のある大樹町に関する本を探した。                

偶然の事であったが、依田勉三は帯広の開拓からスタートし、入植からしばらくして後には大樹町にその活動拠点を移した、ということであった。             

水谷は選んだ本を読みノートにメモを取っていたが、私は興味の湧きそうな個所を目次で探し、中身をチェックし、付箋を挟みそのページを図書館でコピーし持って帰った。

 

その夜私たちは、夕食を食べに駅の反対側にある繁華街に向かった。その一画に「北の屋台村」という屋台が集積する場所があることを知っていたからである。水谷の情報であった。                                         しかし、いきなり屋台に行こうとする彼に私は先ずは寿司屋に行くことを提案した。屋台は余禄で、それがメインではチト寂しいからだ。

        

北海道は言うまでもなく、食材が豊富な処だ。農作物はもちろん魚介類の食材も豊富で、鮮度が良いことも判っていた。                  

十勝は農業や酪農では有名だが、漁業ではほとんどブランド化が進んでいなかった。もったいない話だ。確か北海道の食料自給率は1000%を超えていたはずだ。     

十勝には広大な農業用地もあったが、広大な海岸もあり豊富な海洋食材が採れるのであった。水谷の情報によると、十勝の海岸線は100㎞以上あり九十九里浜より長い、ということだ。

 

元来水谷は雰囲気を楽しむ傾向があり、食材へのこだわりは少なかった。肴より酒が好きな男であった。酒に酔うことも好きだし、場を盛り上げることも好きだった。彼は生粋の大阪人であった。

物心ついた時から吉本新喜劇に接し、それを愛してきた男である。学校の期間テストが終わった日は、毎回の様に「なんば」や「心斎橋」の花月に行き、最前列で級友たちとかぶりつきで観ていた、という男である。何をか言わんや、である。確かに、場を盛り上げるのに、そんな彼のキャラは役にたった。       

サークルの飲み会の時も、卒業してからのクラス会の時も、得意の話術で彼はその場を盛り上げてくれた。ボケやツッコミをしたり、されたりするのだ。しかし、私は今日の一次会は寿司屋にすることに拘った。北海道の食材を堪能したかったからだ。結局私の強い主張で、屋台村は二次会になった。

 

帯広駅をはさんだホテルの反対側は、帯広の繁華街であった。

途中、帯広の豚丼発祥の店と名高い店を、通り過ぎた。好い匂いがしたが豚丼はランチのメニューではあっても、ディナーのメニューではなかったのでスルーした。

ホテルから歩いて5分と掛からないうちに、飲み屋街に着いた。「北の屋台」も、すぐ判かった。                           

7月中旬の北海道の午後7時前はまだ明るく、屋台の客もボチボチ、という程度であった。やはり屋台は(とばり)が下りて、真っ暗になってから行く場所なのだ。赤ちょうちんが映える時間帯にこそ・・。                         
屋台村をやり過ごして、ほどなくして左側に寿司屋があった。

 

「寿司と和食の店」という感じであった。

水谷は「ここにせえへんか」といったが、私は「まだまだ」、と先を歩いた。周辺をぐるっと一回りして、めぼしい店を3・4店ノミネートした。水谷が愚痴り出したので、六花亭本店近くの店を提案した。

「大丈夫なんか、ここで・・」水谷は、私に念を押した。

「大丈夫だろう。・・これでも、築地で鍛えているからな」と、私は自信をもって応えた。私の勤めていた会社は築地にあり、寿司屋のメッカであった。

社屋が汐留に移るまでの20年近く、築地の寿司屋はほぼ全店を食べ歩いていた。百軒近くは行った。鼻が利くのだ。

店は小ぶりであったが、店構えに感じの良さが感じられた。通りからほんの少しセットバックしたところに、その店は在った。5・6坪くらいの店前のスペースには、大きな自然石が敷かれ入り口への導線となっていた。                  

小さな花壇があった。花壇は丸い石でぐるりを囲っていて、額紫陽花と立ち葵が控えめに花を咲かせていた。

白地の暖簾には「すしの要」と、屋号が柔らかな毛筆体で描いてあった。

 

 

 

 

帯広「すしの要」

 
 
入り口の左右には盛塩がしてあった。風除室から引き戸を開けて店に入ると左側に10席ほどのカウンター席があり、向かいにテーブル席が4つほどあった。奥は、小上がりになっているようだ。店の大きさは3・40坪くらい、といったところか・・。   
       
             
客はテーブル席に背広姿のサラリーマン風が二人居ただけだった。カウンターには店の大将と思われる50前後の立ち姿の佳い男性がおり、威勢よく「らっしゃいっ!」と江戸弁で我々を迎えてくれた。私達はカウンターに腰かけた。
 
 

カウンターには見習いとおぼしき20代の青年がいて、大将にいあいさつをした。女将さんと思われる和服姿の小柄な女性が、おしぼりを持ってきた。         

「いらっしゃいませ。お晩です」と北海道弁で、にこにこと挨拶をした。
「とりあえず、ビール!でええよな」と私は水谷に向かって言い眼で同意を得た上で
 
「ビール!あ、瓶ビール有りますか?」と聞くと女将が頷いたので、
「瓶、でいいよな?」と、も一度水谷に確認し「瓶ビール!」とオーダーした。 

「サッポロ、アサヒ、モルツ、キリンとありますが、どれにしますか・・」と女将が聞いてきた。                                  

「キリンのクラシックラガー、ってあります」私が尋ねると、             「大瓶で好ければ」と、大将が間髪入れず話に入ってきた。
「大瓶!好いですねぇ~」私は嬉しくなった。
 
この時点で私は、この店が気に入ってしまった。何故なら、キリンのクラシックラガーを置いている店は少なく、それだけで希少価値であった。一番搾りを置いてる店は多かったが、クラシックラガーを扱ってる店は少ない。店が拘らないと扱わないのだ。大瓶を置いてる店は更に少ない。
それにタイミングよく大将が「大瓶」と応えたのは、大将自身がこのビールを評価してるからに違いないと想われ、私は波長が合ったと感じたのだ。

おしぼりで手を拭きながら、私は大将の後ろの板壁のお品書きに眼を通した。水谷はメニュー表を見て、オーダーする料理を探してた。                  

「何にしましょう?」大将が短く聞いてきた。
「お造りだと、何が美味しいですかねぇ、この時季」私が尋ねると、
「へい。今だとホタテ、ツブ、ホッキといった貝類が旬でお勧めです」淀みのない標準語で大将が応えた。

 

女将が瓶ビールを持ってきて、私たちのコップに注いでくれた。私達は軽く乾杯をした。水谷は一気に飲み干した。                  

「白身だと、ヒラメ、ソイ、変わったところでハッカク、といったのが好いのが入ってます」と大将が頃合いを見て言った。                    

「水谷、いまので嫌いなものあるかい?」私が尋ねると

「嫌いとちゃうが、ソイとかハッカクって何やった?」水谷が応えた。

「ん?奥さん北海道だろ、知らんか?食べたことない?」と私。水谷は首を振った。 

「両方とも、北海道の地魚だよ、白身の。ソイはあっさりしてて、ハッカクはちょっと脂乗ってるかな・・。ですよね大将」私は大将に同意を求めた。
「まぁ、そんなとこです。お詳しいですね・・。ハッカクは冬の魚なんですがたまに、網に引っ掛かってくることがあるんですよ、季節に関係なく。今日はたまたま小樽から・・」

「じゃぁ、ラッキーなんですね」私は大将に向かって、にんまりと返した。 

       

私が大将に瓶ビールを傾けると、大将は                     

「店では、いただかないようにしておりまして・・」と断った。なるほどそれが大将の矜持(きょうじ)かと思い、私はそれ以上勧めなかった。

「せっかくやから鮭、あります?この時期やと時ジャケ言うたかな・・」水谷がオーダーした。                                  

「へい、『時』ありますよ」大将が短く応えた。
「そしたら、時ジャケを入れた旬の魚と貝の盛り合わせ、2人前お願いできますか?」私は水谷に眼で確認したうえで、注文した。                    
大将はやせ形で髪は短く水玉のねじり鉢巻きをしていた。職人の姿そのままだった。包丁を動かしていない時の立ち姿の姿勢の良さも、彼の職人としての矜持なのではないかと、私は想った。

 

「大将は、関東の人ですか?」何を思ったか、水谷が突然聞いてきた。

「へい、千葉の浦安の出でして・・」大将が魚を(さば)きながら、応えた。

「大将、浦安ですか・・、浦安のどちらです?東西線?それとも京葉線の方?」私が尋ねると、                                     

「あっしは東西線の浦安です。昔の元町でして・・。お詳しいですね・・」彼は包丁の手を休めて、私を見て云った。                        
「ええ、新浦安で仕事してたんですよ。もう30年くらい経つかな・・」私が応えると
「30年前ですか・・。あっしが高校出て浅草で修行してた頃ですね・・」大将が、当時を懐かしむように応えた。                          
「大将だったらきりっとした好い若い衆だったでしょきっと」私の問いかけに大将は
「いやいや、世間知らずのガキで神輿ばっかり担いでましたよ」と云って、また包丁を動かした。

 

水谷がメニューを見て日本酒を頼んだ。TVのコマーシャルに登場する銘柄の酒だった。救いは冷酒であった点だ。彼は酒へのこだわりが少ない人間なのだ。昔からそうだった。

大将の流れるような包丁捌きを見ていると、ガラガラと引き戸が開く音がし7・8人の客がゾロゾロ入ってきた。女将は名前を確認して、奥の小上がりに案内した。

「上がったよっ」という大将の威勢の良い声で、女将が白地に網目模様が鮮やかな長皿にお造りを載せて、運んできた。                        

「旨そやな」水谷が、云った。                          
「貝がデカい、プリップリだ」私はにんまりとして、言った。
 
水谷は小皿に醤油を流し、皿のワサビを落としかき混ぜた。私は彼の行為に小さくため息をついた。私は小皿に醤油を落とし、ワサビは混ぜずに小皿の縁に置いた。大将がちらりと、二人の小皿を観比べた。
小上がりから女将を呼ぶ声が聞こえ、店は急に忙しくなった。
 
 
「ところで明日の件だけど、砂金掘りの展示会と講演は、どこで何時頃やるんだった?」私は水谷に尋ねた。                               
「明日の十時半から講演があるんや。場所は大樹町の道の駅の2階で商工会の会議室。展示会は1週間ぐらいやってるから、いつでも見れるやろ」水谷がすらすら応えた。
「じゃぁ、こっちをゆっくり出ても、間に合うんか?」
「ゆうても、9時前には出な、あかんやろ」水谷が言った。
「1時間くらいは掛かるんか?」私の問いに水谷は、
「そのくらいは見とったほうがええやろ」と応えた。
「1時間は見てたほうがいいですよ、大樹なら」大将が教えてくれた。

私達が暫く砂金採りの話をしていると、ビールのお代わりを持ってきた女将が、話に入ってきた。

 

「大樹町に行かれるんですって?私、大樹の出身なんですよ・・」女将はそう言いながら私のコップにビールを注いでくれた。水谷が突然、

「ほんまに砂金採れるんですか?歴舟川・・」と、女将に尋ねた。

「ええ、昔はだいぶ取れたって聞いてます。でも最盛期は明治や大正・昭和の初期で、戦後はさっぱりだそうです。もう採り尽したんでないかいって、お祖父ちゃん言ってました」女将が応えた。

「最盛期の頃って、どのくらいの人が居はったんやろ」水谷が聞いた。

「私も聞き覚えですけど、数百人が歴舟川沿いに棲み付いてたらしいですよ」女将が応えた。                                                                                                     

「えっ!そんなに・・」思わず私も口走ってしまった。                              
「まぁ、明治・大正の頃らしいんですけどね。昭和に入ってからは数十人くらいに減ってたらしいですよ。でも終戦直後はやっぱり百人くらいは、居たとか言ってました・・」

「それでも、たいしたもんや・・。それだけの人が生活できるだけの砂金が採れたってことやもん、な」水谷は感心したように言った。

「でも婆ちゃんなんかは、砂金採りの人らを『砂金コタン』とか『お気楽コタン』とか言って、ちょっと軽く観てるようでしたよ」と女将も、砂金採りをちょっと軽く見ているように、言った。                                                                             

「まぁ、まじめに農業とかやってる人からしたら、そんな感じなんですかね。ところで『お気楽コタン』って、どんな意味なんです?なんとなく想像はつきますけど・・」私はニヤニヤしながら尋ねた。

「気楽な稼業の人たちが集まってる場所、って意味らしいですよ。夏場に砂金採って、冬寒くって採れなくなるとバクチやら酒なんかばっか飲んでた、って言って」女将も笑いながら話してくれた。 

「ホイ奥の、上がったよ」大将がそういって、女将に刺身を盛り合わせた皿を渡した。女将は軽く会釈をして、若い衆と刺し盛の皿を持って小上がりに向かって行った。

一息ついたのか大将も話に乗ってきた。                                                         
「うちのが言うのには、大樹の信金には砂金を買い取る窓口が在ったらしいですよ」
「へぇ~、信金で買い取ってたんですか」水谷も私も、驚いてしまった。      
「まぁ、昔の名残りでしょうがね・・」大将も、にやにやしながら応えた。

 

砂金の話から、明日の宿の話に移った。                                                         

「明日は展示会に寄って講演聴いてから、砂金採り体験に行くんやろ確か。歴舟川やろな?もちろん」私は関西弁で水谷に確認した。                                            

「砂金採りはどうする?イベントに参加するんか?それとも・・」私の問い掛けを遮って水谷は応えた。                                                                                       

「せやなぁ、俺が知ってるから、二人だけでもええんちゃうか」                     
「そっかぁ、オレはどっちでもええよ」私も同意した。     
            

「場所は、道の駅から10分ぐらいのとこや。歴舟川上流の『カムイコタン』云うたかな・・、確か」水谷がメモ帳を取り出し確認した。

「カムイって、熊のことだろ、アイヌ語で。で、コタンは集落とか村とかいうんだよな、確か。ってことは熊が集まる場所ってことか・・。

大丈夫かい?ヒグマやろ北海道の熊」私は水谷に云った。

「この時季なら熊は出ませんよまだ・・。ご安心を」大将が眼に笑みを湛え私の不安に応えてくれた。私は多少安堵した。

「川沿いのオートキャンプ場、でもあるらしいで・・」水谷が云った。

「『カムイコタン』は歴舟の上流で、川筋が3本ほど合流する場所なんですよ。したっけ、砂金採れるんでしょうかね・・」女将が、教えてくれた。 

「やっぱり砂金の採れるとこって川の流れがぎょうさんあって、クッと曲がってる場所なんやろか?蛇行してるいうか・・」水谷が女将に尋ねると、

「詳しいことは判りませんけど、カムイコタンはそんな感じの処だったと思います・・」と、女将が応えた。

 

「で、その晩はどうするんだ?大樹に泊まる?それとも・・」私が問うと、      

「広尾はどうやろ、街も大きそうやからホテルもあるだろうし、漁港も近いから新鮮な魚とか、食べれるんちゃうか?」と水谷は応えた。
                   
明後日(あさって)は、襟裳岬に行くんだったよな、確か。広尾のほうが襟裳岬に近いんだろ。じゃぁ、広尾にするか・・」私も、水谷の提案に同意した。

すると女将が「大樹も捨てたもんじゃないですよ。他にはめったにない宿、あるんですよ。それに天然温泉もありますし・・」と大樹のアピールを始めた。

「どんな宿です?天然温泉も?ですか」水谷が身を乗り出して来た。 

「白樺林に囲まれたバンガロー風の宿でね『インクルシぺ』って言う宿があるんです。なんでも宇宙飛行士の若戸光一さんや北海道の中橋知事も、リピーターらしいですよ」女将がやや自慢げに応えた。

 

「え、何で若戸さんが?・・ホンマですか?」水谷がちょっと疑った。

「あ、ご存じなかったですか、大樹にはJAXAの実験施設があるんですよ。時々若戸さんも来られるらしいです、それに」女将の解説を水谷が遮って、

「JAXAが?他にも、まだ何んかあるんですか?」とツッコミを入れた。

「宿の五右衛門風呂から見る星空が綺麗で、宇宙で観るより綺麗に観えるって、云ったとか云わなかったとからしいですよ。ほほほ」女将が嘘とも(まこと)ともつかない補足説明をした。

「そのくらい星が綺麗に観える、ってことらしいです。何せ白樺林の中の宿なんで星もおっきく見えるとか・・」大将が続いた。

 

「で、天然温泉は・・」水谷が、待ちきれないように聞いた

「温泉はちょっと離れてます。その宿から12・3㎞は離れてると思いますが『晩成温泉』って言って、太平洋に向かって朝日が見える場所にあるんですよ。

温泉に浸かりながら海が見えます」女将が教えてくれた。

「海沿いの天然温泉?ええなぁ、行こうや、立花クン」水谷の目が輝いた。

「ん?晩成っていうと、依田勉三の晩成社と何か関係あるんですか?十勝入植からしばらくして、確か大樹に移ったとか・・」私は水谷の問いかけはスルーして女将に尋ねた。

「確か、晩成って所は依田勉三さんが帯広から移って、酪農なんかを始めた処だと小学校の遠足で習いました、私」女将が自慢げに教えてくれた。

「ん~ん、迷うなぁ。白樺林の五右衛門風呂に、天然温泉と依田勉三かぁ~。襟裳岬も行きたいしなぁ。どうする?」私は水谷に尋ねた。                                           

「なんや、そんなん両方行ったら、ええやんか。何も急ぐ旅、ちゃうやろ」水谷はあっさり解決策を出した。                                                                                 
「ただ、大樹の宿の食事も温泉の食事も、料理は広尾には負けますよ・・」女将が、ちょっと弱気な情報を提供した。 
 
 
水谷は少し考えて、口を開いた。

「ほな、明日は広尾に泊まって美味しい料理食べようや。で、明後日は襟裳岬行ってからも一度大樹に戻って、五右衛門風呂の宿に泊まろうや。で、次の日に海の見える天然温泉入って、依田勉三の史跡に行くやろ。それから釧路に向かうってのはどないだ?」

「なんだか盛りだくさんになったなぁ」と言いながらも私は、水谷の提案に同意することにした。

「ところで、広尾の宿屋で美味しい料理出してくれるとこ、どっかご存知ですか?」私は女将に尋ねた。                                

「名前は忘れましたけど2食付きのビジネスホテルがあるんですよ。夕飯がすごいらしいです。そんなに高くはないみたいで・・。確か部屋からは、海が見えるとか・・。
236で広尾の繁華街に入る途中に、向かって左側に大きな看板があったと思います。看板にホテルの連絡先書いてましたよ、確か。それを頼りに・・」女将は、肝心なホテルの名は、すぐには思い出せないようだった。
 
「236って、国道の236号ですか?」私の問いに、女将はうなずいた。
「頼りないなぁ・・」大将が女将をからかうように言った。
「最近名前がなかなか出なくって・・」女将が弁解がましく応えると、
「ボケの始まりか」大将が更にツッコんだ。
「いやいや判りますよ。僕らも50過ぎてからおんなじですよ。映像は頭に浮かんでも名前が出てこない・・。なぁ水谷?」私が水谷に同意を求めると、水谷は、ガラスの盃で冷酒を呑みながら、「せやせや」と、大きく肯いた。

奥で女将を呼ぶ声がし、女将は返事を返し小上がりの方に向かって行った。それから私はトイレに向かった。

 

トイレから戻った時私は、テーブル席の壁にかかっている横長のガラスの額に気づいた。水色の地に数匹の鮎が泳いでる和手ぬぐいを、(は)めたものだった。

爽やかな、夏の清流を描いたものだ。

「大将、粋な手ぬぐいですね・・」カウンターに腰かけ、私がそう云うと、

「浅草の手ぬぐい屋のでして・・」大将が応えた。

「えっ、ひょっとして『フジ屋』の?そうかぁ・・、どっかで見たと思ったら・・」私は30年近く前のことを思い出し、誰に言うともなくつぶやいた。

「えっ!『フジ屋』をご存じで?」大将がびっくりしたように言った。      

「そっかぁ、大将浅草に居たって言ってましたもんね・・。それでか。いやぁ、実は私の結婚式の引き出物に『フジ屋の手ぬぐい』使ったんですよ。30年近く前のことですがね・・」
私は大将にフジ屋の思い出を話した。30数年前の、幸せだった当時のことを私は思い出した。フジ屋を教えてくれたのは、別れた妻であった。
手作りの結婚式を計画した私達は、引き出物にも拘り二人で相談しながら、品々を揃えたのであった。そのために九谷焼の金沢や妻の実家の在る宮崎にも足を延ばした。

 

「あの時の引き出物に、そんなん有ったかいな・・。印象に残る結婚式ではあったけどな」水谷が云った。                             

「覚えてないだけやろ。でも手作り感満載の式だったろ?」              「せやな、築地の料亭だったか?」
「うん『樹作』、江戸時代から続く料亭や」私が応えた。
「『樹作』で式挙げたんですか!」大将は、少し驚いたようだ。業界人だから、さすがに樹作のことを、知っていたようだ。                         
「まぁ今は昔の、佳き想い出ですよ」
「奥さん、結構美人やったよな和服の似合う・・」
「まぁな。若い頃はみな美人で可愛いい。若い頃は、やで」私が云うと、
「そうとは言えないのもおるけどな・・」水谷が自嘲気味に言った。 
                                       
「いつやった?離婚したんは」水谷が続けた。
「上の子が中学1年だったから、15・6年くらい前かな・・」
「お客さん真面目そうですが、これか何かで?」大将が小指を立てて聞いてきた。目は笑ってた。                                
「まぁ、そんなとこです・・」
「女の人にモテそうですもんね・・」女将が口をはさんだ。
「いやぁ、そんなことないですよ・・」私は軽く流した。

 

私達が離婚した直接の原因は確かに私の浮気だったが、根っこには娘の中学校の進学に対する意見の違いがあった。妻は大学までエスカレータのブランドの女子校を望み、私は男女共学の公立校で好いと思ってた。が、妻は最後まで譲らなかった。そのあたりから二人の間に溝ができついには寝室を別にするようになって、埋めがたい溝が生じたのだった。

 

また新しい客が入ってきた。30前後の若いカップルだった。時計を見ると8時半を回っていた。引き時かもしれないと思った。私達は最後に握りをオーダーした。

私はお造りの貝が旨かったのでホタテやツブ貝を頼み、水谷はやはりお造りが気に入ったのか、時ジャケとソイの握りを頼んだ。美味しかった。北海道は魚もだが貝が甘く大きくて旨い、プリプリして活きも良い、と改めて確信した。  

築地にも甘くて旨い貝を食べさせてくれる店もあるが、やはり鮮度や活きの良さが違う。値段もリーズナブルだ。                              

私達は会計を済ませ、大将と女将に云った、
「美味しかったですよ。また帯広に来たら、寄らせてもらいます」私は水谷と店を後にした。再た来たい店であった。

 

すし屋を出た後、私たちは屋台村に向かった。私はそのまま宿に帰っても良かったが、水谷が強く希望したのだ。二十店舗ほどある屋台の中から、混んでなくてお酒が充実していそうな店を、水谷が選んだ。お腹は空いてなかったから、食べ物の優先順位は低かった。私もそれでよかった。

おでんのある店で、焼酎割りを頼んだ。水谷を早く酔わすためでもあった。夏におでんとは、珍しいなと思ったが北海道の夏の夜は本州のように熱帯夜ではなく、午後の8時を過ぎたころには、過ごしやすい気温になっていた。20度くらいであったろうか・・。

これから時間がたてば、更に下がるだろうと思われた。久しぶりにエアコンなしで眠れそうだった。

 

屋台では、水谷の独壇場であった。酒の量が彼の安定量を超えていたのか、屋台の主や他の客にも積極的に話しかけていた。客の中に大阪出身のサラリーマンがおり、2人して阪神タイガースの今年の成績についてだいぶ盛り上がっていた。

私は傍らでにやにやしながら彼らの会話を聞き、時折チャチャを入れながらしきりに濃い焼酎を水谷に注いだ。言うまでもなく彼を早く酔わすためにそのようにしたのだ。その甲斐あってか、3・40分で彼も帰ると言い出した。

元教員の彼は、自分が前後不覚に陥らないようにコントロールしていたのだ。公務員は酔って不祥事を犯してはいけないのだ。そのことを自覚していた。退職しても元教員という肩書は付いて回るからだ。

その夜は、いつもより早めに寝た。

 

 


 
 
 
 

蝦夷金山の歴史

  
 翌朝は、5時ごろには目が覚めた。50代半ばごろから睡眠時間が5・6時間になった。若い頃のように何時間でも寝ていることが出来なくなった。

誰かが言ってたが、寝るという行為にも、それなりの体力が必要なのだ。そのことを身をもって感じていた。

朝ぶろに入ってから、6時半には一階のホテルの朝食ビュッフェに向かった。シニア層が多かったのは彼らも早く起きてしまうからだろうか。年寄りが朝早い、というのはこういうことなんだろうと、自分がそういう歳になって納得するようになった。

その代り昼寝をするようになった。全体の睡眠時間はちゃんと確保されているのだ。

 

朝食を食べながら、今日の予定を水谷と話した。メインイベントの講演会は10時半の予定だった。展示会見学は講演会の前に済ますことにした。砂金採りは、昼食を済ませた午後からとした。

ホテルは9時に出た。国道236号を南下し、高速道路の川西インターを利用した。

因みに高速道路の広尾道は無料であった。アメリカ並みのフリーウェイなのだ。大樹町には1時間もしないで、着いた。

 

講演会場のある道の駅は、ほぼ街の中央に在った。この町の道の駅は、一般的な道の駅とちょっと違っていた。

通常の道の駅は、観光客の利用を想定して作られているが、ここの道の駅は主として町の住民の日常利用を想定しているのではないか、と思わせる構成になっていた。もちろん地元の特産物を扱うスペースもあるにはあったが、あまり充実しているとは言えず、申し訳程度に在るという感じだ。

大多数のスペースは食品スーパーやドラッグストア実用衣料店といった、一般的なネバーフッド型のショッピングセンターの構成になっていた。町にショッピングセンター的な機能がなく、街の中心いわゆる「ヘソ」を道の駅という形式を採って、造りたかったのかもしれない。

それでいて、道路の向かい側には十勝エリアを地盤とする食品スーパーがあったりするのだった。

 

道の駅の2階にあるイベントスペースで行われていた展示室を訪れ、砂金採りに関する展示をゆっくり見て、パンフレットをもらった。

会場には幾つかの砂金採りの道具とおぼしき手製の道具類があり、砂金採りの経験者である水谷が、先輩ぶって解説してくれた。

 

講演会場は、展示室の隣であった。講演会の会場の入り口には『北海道砂金・金山史研究会三十周年記念誌』と名うった本が、何冊も積んであった。売価は2千円、とある。

『見本』と書かれた本を取って、パラパラと見ると「大野土佐日記」とか「荒木大学」「松前旧事(くじ)記」「隠れキリシタン」「シャクシャインの乱」「雨宮砂金採収団」とかのタイトルが目についた。

それを見て水谷が「荒木大学って、大学の名前ちゃうやろな?」と、ボケて来た。私のツッコミを彼は期待したのだろう。

しかしその時私は、彼が宝塚で体験したとかいう昔話を思い出し、切り返した。

「それって、小林一茶のノリかい?」と。

「小林一茶って、何や」彼が素っ頓狂な顔をして応えた。

「忘れたのか?大学生の時言ってたやろ。宝塚に遊びに行った時、宝塚創設者の小林一三の銅像だか、何んだかを見た時・・」

私がそこまで説明すると、水谷は

「あ、あん時のな、せやせや。僕が小林一茶って読んで感心してたら、周りの人達もみんな一茶の銅像やって言って肯いてた、って話しな・・。思い出したゎ」その時の話をしたら、荒木大学の話は吹き飛んでしまった。

 

講演会場は教室のスタイルで、50席ほどパイプ椅子が並んでいた。中央に演壇があった。講演会が始まる頃には聴講者は30人近くになっていた。結構盛況だった。

親子連れが4・5組ほどいたが、成人男性が多く60過ぎと思われる世代が多かった。砂金話は、シニア世代が好むテーマなのかもしれない。

講師は「北海道砂金・金山史研究会」の幹部だ。パンフレットに書いてあった。司会者の簡単な挨拶と紹介で登場した講師は70手前に観えた。彼は自己紹介を始め、自分が砂金採りを始めたきっかけを、語り出した。

 

彼によると祖父が秋田から流れてきて、歴舟川の砂金コタンに棲み付いたのが全ての始まりだったという。

自分自身は、大学を出て高校の教師をしてたこともあって、爺さんの後を継いだ父親の趣味の砂金採りを、当初はバカにしていたという。

ところが40過ぎて日高の高校に赴任してから、夏休みなどに父親の趣味を手伝うようになって、砂金採りにハマった。ということらしい。

「しかし今思うと、私は砂金によくよく縁のある星の下に生まれて来たのではないか、と思うようになったんです。それは爺さんや親父のことを言ってるんでないんです。それもまぁ多少はあるんでしょうが・・。

とにかく私がある種の運命を感じるようになったのはですね、私の赴任地なんです。それがことごとく砂金や金山に縁のある地域でして・・。

 

高校の社会科を担当してたんですが、最初の赴任地が日本最北の街稚内の隣の『浜頓別町』なんですよ、その次が『南富良野町』『浦河町』と南下してくるんですが、いずれも砂金の採れた処で、道内でも砂金採りのメッカなんですよ、皆。今日もあそこに浜頓別から、集団で来てられますが・・」

 

講師が聴衆の一画を指すと、3・4人のシニアが手を振って応えた。

「私は親父が教育委員会に圧力でも掛けたんでないかと、思ったくらいです。まぁ、農協の下っ端の親父にそんな力はなかったんですけどね、あはは」聴衆からも、笑いが起きた.

 

それから講師は、北海道と砂金との関わりについて語り始めた。

「北海道と砂金の関係は大きく分けますと、三つの大きな浪があります。第一の浪は鎌倉時代初期の頃で、今から8百年以上前の事です。内地から千人規模の金堀りの集団がやって来たんです、突然。

今の山梨県、当時の甲斐の国の『金山(かなやま)衆』と言われる人達で、甲州金山に携わっていた人達らしいです。荒木大学という人がリーダーで、鎌倉幕府の二代将軍源頼家の命令で蝦夷地にやって来た、ということです。

因みに荒木大学、というのは大学の名前じゃないんだよ、坊やたち。昔の役職の名前を通り名にしたんです。荒木大学の(かみ)でも云うのが正式な呼び名なんでしょうね、きっと」講師は、ファミリー席に向かって言った。

 

私は甲斐の国と聞いて、ぐっと興味が湧いた。私の父は山梨の韮崎の出身だったので子供の頃は、妹と二人で夏休みや冬休みの長期休暇にはいつも、韮崎の祖父母のもとに預けられ、そこで過ごしていた。父親の出身地ではあったが、私達兄妹にとっては、故郷でもあったのだ。

 

「この事は道南渡島(おしま)の、知内町の神主さんの家に伝わる古文書『大野土佐日記』に具体的に書かれています。この古文書については歴史家の間では真贋を問う人もいますが、私は信じてます。まぁ根拠は、特にありませんが・・。

いずれにしても蝦夷地に、鎌倉時代の初期に砂金や金山の採掘に関わる大量の職業集団がやって来た。これが第一の浪です」

 

「第二の浪は、それから4百年ほど後の事です。徳川時代の初期ですね。戦国時代が終わり徳川の世の中になって、日本全体が安定して平和になり、落ち着いてきた。戦乱の時代から戦後の安定期に入った頃ですね。その頃蝦夷一国を治めていた松前藩の古文書である『松前旧事(くじ)紀』に書かれているんですね、砂金のことが・・

その頃は東蝦夷、今でいう静内・浦河・様似まぁ日高地方ですね。この辺りで盛んに砂金採りや金山開発が松前藩の力で行われたと、そう書いてあります。当時松前藩はその砂金、金山開発から得られた金を50年間毎年、徳川幕府に5百両上納していた、と書いてあります。

50年間に5百両というと、2万5千両になります。大変な量です」講師の説明に、会場では小さなどよめきが興った。

「しかもその労働を担っていたのが、豊臣秀吉が決め徳川家康も踏襲した『キリシタン禁止令』によって、内地を追われた隠れキリシタン達であった、らしいんですね。

因みにこのことは、松前藩の古文書の他にイエズス会の神父がローマ法王に提出した『第一次蝦夷国報告書』という、外国の古文書にも書かれています。17世紀の初めですから、やはり徳川時代の初期の頃ですね。

 

この第二の浪が終わってしまったのは、有名な『シャクシャインの乱』があったからなんですね。アイヌ民族の人達の反乱が起きて、徳川幕府から禁止令が出たんです。

蝦夷地での砂金採りや金山開発を禁止するというお達しが出たんですね、幕府から。

このアイヌ民族の反乱の原因というのは、和人(シャモ)が砂金採りや金山開発によって、川を汚してしまって、アイヌの人達の主食である鮭が採れなくなった。鮭が好む清流が汚れてしまい、鮭が遡上しなくなった。

そのために、彼らの生活が出来なくなった。それが原因だったんですね。因みに先ほどの第一の浪の知内の荒木大学の金堀が衰退したのも、同様に渡島地方のアイヌ民族の襲撃が直接の原因だったようです。

やはり砂金採りや金山開発によって知内川が汚れてしまい、アイヌの人達が生活できなくなって興した反乱によって、金堀衆が襲われ、壊滅してしまったというんですね。

『大野土佐日記』に書いてあるんです。

 

それからアイヌの人達は砂金や金塊に殆ど関心を示さなかったようで、和人がやって来て初めて採収が始まった、ということです。

ですから太古の昔から、手を付けられることがないまま堆積していた砂金や金塊が大きな川の川底にゴロゴロと積もっていた、というわけです。

まぁ、採り放題だったんでしょうな、その頃は・・。そしていよいよ第三の浪です」講師はそう言って、再度聴衆をじっくり見まわしてから、ゆっくりと話を続けた。

 

「これは、徳川幕府が明治維新によって崩壊した事によります。

蝦夷地の砂金採取や金山開発を禁止していた徳川幕府が、無くなったわけですから時間の問題だったのでしょうね。禁止令という重しが取れたわけです。

しかし、禁止令が出てから2百年以上たってるわけですから、砂金採取や金山開発をする人達が、北海道には居ないんですね実際には・・。ノウハウも技術も伝承されていないわけですよ、地元では。

じゃぁ、誰が始めたのか、ってことに成りますよね。

ここで出てくるのがやっぱり甲州人今の山梨県人なんですね、不思議なことに・・。

山梨県人と蝦夷地の金ってのはよっぽど縁があったっていうか、太い運命の赤い糸で結ばれてんでしょうかね。男女の(えにし)のように、あはは・・」講師の話に、数少ないお母さんたちが喜んだ。私も、引き込まれていった。山梨が関係していたからだ。

 

「それはさておき、函館戦争で敗れた旧幕軍の大将榎本武揚が、ここに絡んでくるんですね。榎本武揚、ご存知ですか?

彼は、明治維新最後の戦い『函館戦争』に敗れ投降した徳川幕府の重臣なんですが、後に明治政府の高級官僚として採用されまして、北海道の鉱物資源探索を命じられます。それで道内を隈なく調査するんですね。お雇い外国人たちを引き連れて、ですね。

その榎本武揚が、この大樹町の日方川やアイボシマに川砂金や浜砂金がある事を確認し、明治政府に報告してるんですね。当時の彼が提出した、公の報告書に書いてあるんです。

因みに日方川というのは今の歴舟川で、アイボシマは歴舟川の河口、前浜の海岸現在の浜大樹という漁港のある場所になります。いずれも大樹町ですね。

この時点では、まだ山梨県人は登場しないんですが、その後ですね山梨県の人が絡んでくるのは。

榎本武揚が東京に戻ってしばらくしてから、親しくしていた実業家の雨宮敬次郎に話すんですね。蝦夷地の砂金や金山について。

この雨宮敬次朗が、山梨県の出身なんです。ここから、運命の赤い糸が絡まってくるんですよ、お母さん」講師はそう言って、先ほどの女性たちの方に笑顔を向けた。

 

「雨宮敬次朗は、山梨の有名な甲州金山の一つである黒川金山の麓のエリアの出身なんですね。だから彼は小さい頃から金山開発や砂金採収の話を、周りから聞かされていたんではないかと、思うんです。私がそうであったようにですね・・」

このくだりは私の実体験とも重なった。夏休みや冬休みに韮崎の祖父母の下に預けられていた時、私は祖父から武田信玄の話や甲州金山の話をよく聞かされていたから、講師の逸話(エピソード)がよくわかった。

 

「雨宮は当時鉄道王と呼ばれ、日本全国で鉄道会社を興した経営者なんです。そのビジネスが順調に行き、当時実業界ではゆるぎない存在でもあったんですが、同時にロマンチストでもあったんでしょうな、彼は。

その雨宮がパトロンになって、『北海道砂金採収団』、通称『雨宮砂金団』を組織し大金を使って主に日高地方で砂金採収を始めたんですね。

因みにその時の堀子達は山梨の出身者ではなく、山形県の金採収の経験者達が主なメンバーだったようですね。明治20年代の頃のことです。

その雨宮砂金団が呼び水になって、第三の浪が起きたんですね。

『雨宮砂金団』のことが新聞などで大々的に報じられると、全国からそれに触発された人達が続々と北海道に集まって来たんですね。(きん)の力は凄いんですね、その吸引力。

農業の開拓者・入植者とは全く違う動機の人達が、沢山北海道に渡って来た。まぁ、ゴールドラッシュですね、いわゆる・・。

 

私の爺さんもこの波の余波に巻き込まれてというか自ら飛び込んで、秋田から大樹までやって来た、というわけです。

そして今、私がこうして皆さんにお話しすることができるのも、この第三の浪があったから、なんですね・・。不思議な縁ですね・・。雨宮砂金団あったればこそ、なんですね。私が今、ここにこうして居られるのも。

因みにこの波は、第二次大戦頃まで60年近く続いたようです。昭和40年代になって下火になったようですね。高度経済成長の波が、砂金採りたちを駆逐しちまったんでしょうね、きっと。

 

砂金採らなくっても真面目にコツコツ働いてれば、車も買えるし家電製品も家も手に入るようになったわけですからね・・。もちろん砂金そのものを採り尽してしまった、ってことも一方であるんでしょうけどね・・。今や、生活掛けて砂金採りしてる人は皆無と言ってよいでしょう」講師は、少し寂しそうに、そう云った。

 

「そんな中で、時代の波に抗(あらが)うように我が『北海道砂金・金山史研究会』が誕生し、今日に至ってます。今やメンバーは全国で150人近く居ります。会が発足したのは今から30年前、今年が30周年ですからまぁそうなりますね、はっは。

生活掛けた砂金採りが居なくなって20年近く経った昭和の終わりの頃ですね、私達の会が発足したのは。今では貴重な150人です。

ほとんど絶滅危惧種と言ってよい人達なんですよ、我々は。まぁ、失われ行くものへの、哀愁もあるかもしれませんが・・。

我々研究会のメンバーは砂金採収が好きだし、この伝統を絶やしたくないと思っています。今でも、そしてこれからも、ですね・・」講師はここで話を切り、改まった口調で

「皆様、本日はご静聴ありがとうございました!」と深々と頭を下げ、講演を終えた。

 

 

 
 

脇とよ著『砂金掘物語』

 
 大きな拍手が起こった。

私もまた、大きく手をたたいた。義理の拍手ではなかった。話が面白いこともあったが、私に縁のある山梨と北海道の砂金や金山にこんな接点があるとは、思ってもいなかった。驚きの発見であった。その驚きの発見を与えてくれたことへの、感謝の気持ちもあった。

すでに知っていることを聞かされても殆ど感動は起きないが、未知の有益な情報を得た時や、新たな事実を知った時、真実に触れた時には感動が起こる。

まして、自分に縁のある事実だとすればなおさらなのだ。水谷が、

「この話、現役時代に知りたかったゎ・・」と、私に言った。

「現役時代?」私が問うと、

「ん?社会の教師の頃や」水谷が応えた。

 

「この話だけで授業が一週間は確実に盛り上がる、思うで・・」と解説してくれた。

司会者が質疑応答の時間を、取った。

子供連れの親子が砂金採収の具体的なやり方を尋ねた。講師は展示室にもあったのと同じ道具を取り出し、丁寧に説明した。

そして午後からの砂金採り体験への参加を、促すことを忘れなかった。

 

水谷が手をあげ、質問した。

「お話しとってもオモロかったです。実は私もこの間まで中学で社会科の教師をしてたんですが、仕事と趣味を両立させるのにご苦労されたことはなかったですか?」と、砂金掘りや金山には殆ど関係ないと思われることを尋ねた。

講師は赴任先の学校の立地するエリアに、砂金採収や金山開発の歴史があったこともあって、歴史好きの生徒を集めて郷土史や歴史研究のクラブを立ち上げた事など、自身が学校で実践してきた実例を話した。

生徒や学校の部活動を巻き込むことや、地域の郷土史研究家との共同イベントを、学園祭などで実施してきた例などを挙げ両立させてきたことを、ユーモアを交え回答した。水谷はその説明に、大いに納得していたようだ。

 

私も講師に質問してみた。

「先生の講演楽しく聞かせていただきました。ありがとうございます。

ところで、お話に出て来た『大野土佐日記』や『松前旧事記』『雨宮砂金採収団』などに対して興味を持ったのですが、これらに関する資料とか図書とか、何か参考になる本があったら、教えていただきたいのですが・・」と私は尋ねた。

その私の問いに講師は、

 

「一番良いのは、『大野土佐日記』や『松前旧事記』などの原書に直接あたることですね。それが一番だと思います。できるだけ原書に当たって、自分の目で触れ、確かめるのが良いと思います。

これらは、渡島(おしま)知内町の雷公神社や松前町の歴史資料館などを当ってみるのが一番ですが、函館の中央図書館などにも関連する書物があるらしいので、そちらを尋ねるのもいいかもしれませんね・・。

因みに雷公神社というのは、大野土佐の子孫の方が、代々神主をされていて『大野土佐日記』を保管されている、知内町の伝統ある神社です。

この神社は土佐日記に書いてある通りなら、北海道で一番旧い神社ということにもなります。鎌倉時代の創設ですからね。

 また『雨宮砂金採収団』に関しては、脇とよさんという北海道の砂金の歴史を発掘、研究した方が、昭和31年に出された『砂金掘り物語』が好いのではないかと思います。脇とよさん、女性の方で何故か北海道の砂金に興味を持った方です。

 

当時まだ存命されていた雨宮砂金団の一員で、ご親戚でもあった渡辺良作さんに、砂金採りの実生活や、雨宮砂金団の実態などを聞き取りした話をまとめた著書で、非常にリアリティがあり、貴重な書物です。

こちらは確か十年ほど前に復刻版が出て、市販されてますので、運が良ければ大きな本屋辺りで巡り合えるかもしれません・・」講師はここで手元の本を取り出し、私に向かって言った。

 
「受付に山積みしてあります『北海道砂金・金山史研究会三十周年記念誌』に、『大野土佐日記』や『松前旧事記』、それに江戸時代初期にイエズス会の神父がバチカンに送った『第一次蝦夷国報告書』等で、北海道の砂金や金山に関連する箇所を抜粋したものを記載しています。
手前味噌ではありますが、北海道の砂金や金山の歴史に興味を持っていただいた方には、それなりの資料価値があると思っています。

 

入門書として読まれるのも宜しいかと思います。この中にある程度網羅されています。また『雨宮砂金採収団』の概要も、この中に記載されています。もし宜しかったら、こちらの本のご購入をお勧めします。一度検討してみてください」講師は私の目を見ながら、親しみを込めてそう云った。

 

「ありがとう、ございます。さっそく帰りに購入させていただきたいと思います」私はその資料的な価値が高いと思われる研究会の記念誌を購入することにして、そのように応え、講師に頭を下げた。

その後の質疑を終えて、講演会は終わった。

 

私は受付に居た講師や研究会のメンバーに挨拶をし、紹介を受けた研究会の記念誌を購入した。講師には、私の連絡先を記入してあるプライベートな名刺を渡し、書籍にサインを貰い、連絡先を教えてもらった。

講師からは研究会のメンバーにならないかと誘われたが、私は曖昧な返事をしておいた。まだ、そこまでには至っていなかった。

 

水谷が砂金掘りについて尋ねると、講師は私達にも砂金掘りに参加することを勧めた。自分は体験者なのでこれから自分達で歴舟川に砂金採りに行くと、水谷が話すと1階の道の駅の「物産販売コーナー」を紹介してくれた。有料で砂金採りの道具を貸してくれるという。

丁重にお礼と挨拶をし、私達はその足で1階の「物産販売コーナー」を訪ねた。道具については水谷にすべてを任せた。未経験者の私には判断ができない事柄だ。

水谷は「カッチャ」と呼ばれる小型の鍬のようなものと「ゆり板」と呼ばれる、薄いまな板状のものとを借り、砂金採り体験会場であるカムイコタン公園に関する簡単な地図付きの案内書とを貰って来た。

その後、私たちは道の駅近くの食堂に入り、昼食を食べた。

 

 

                                      

 

 
 

砂金掘り体験

 
 

食事を終え、私たちは物産コーナーで貰った案内書を頼りに、砂金掘りの体験会場でもある「カムイコタン公園」に向かった。

国道236号から、雪印のチーズ工場の角を山側に向かって入り、緩やかな坂道を10分程進むと、カムイコタン公園に着いた。

歴舟川の上流にあるこの公園は、自然環境の豊かな中のオートキャンプ場でもあり、ツーリスト達がキャンプや宿泊をするのに必要なインフラは、大抵整っている様だ。

駐車場もしっかり整備されてあり、街中の駐車場と比べても見劣りのしない水準であった。

私達は、公園の入り口に近い駐車場に車を停め、砂金採りの道具をもって歴舟川の川岸に向かって降りた。

 

川岸には、何組かのファミリーや若者たちが、水遊びやバーベキューなどをしており、和やかなアウトドアレジャーを楽しむ雰囲気が漂っていた。

私達は、川岸を上流に向かって暫く歩いた。

歴舟川に架かる車道の橋の下を越えた辺りに来ると、グループで砂金採りをしている集団に出逢った。観光のツァー客なのではないかと思われた。

 

駐車場に大型の観光バスが停車していたことを、私は思い出した。

その集団はインストラクターとおぼしき案内人を中心に、ワイワイと賑やかに川の中でゆり板と称するものを使って、砂金採りを楽しんでいた。私は経験者である水谷のリードに任せ、後をついて行った。

団体客の居るエリアから2・3百mほど上流の、流れが大きく蛇行する辺りに着いた。

水谷の解説によると、金は他の物質より重いので、山から流れて来た金の欠片や塊は、蛇行する辺りに滞留するはずだ、ということであった。私達はそこを拠点に砂金採りを始めることにした。

スニーカーを脱ぎズボンの裾を上げ、川に入った。歴舟川の水は、冷たかった。外気は30度を超えていたと思われるが、水は冷たかった。心地よいと感じる冷たさのレベルを越えていた。あまり長時間、この水に浸かっていることはできないだろう、と私は感じた。

 

 日高山脈の山すそに該当すると思われるこの辺りを流れる歴舟川の水源は、長い冬に降り積もった雪の、雪解け水なのではないかと想う。それが初夏ごろから時間をかけてゆっくり溶けて川を下るのだろう。夏でもなお冷たいこの川水の冷たさの理由はそう言ったことなのではないか、と私は想った。

 
水谷は、川底から砂礫をカッチャと呼ばれる小型の鍬で掬い上げ、ゆり板に落とすと、かがんで砂礫の入ったゆり板を水にさらし、少しずつ揺らし始めた。無口であった。いつもにぎやかな水谷が・・。集中している様であった。普段は軽口をたたくことの多い水谷が殆どしゃべらず、ゆり板に目を凝らし、丁寧に揺らしていた。
私はその様子をしばらく眺めていた。
 

「アカン!」水谷がゆり板を動かす手を止めて、言った。一区切りついたようなので、私は「おい、俺にも教えてくれ」といった。水谷は私を招き、カッチャで砂礫を掬い、私のゆり板と自分のゆり板の上にその砂礫を落とし、解説を始めた。

「ええかぁ~、このゆり板を水につけて、ゆっくりと向こう側に揺らすんや、ゆっくりやで~。ゆっくり揺らしながら、石ころとかごみを流すんや、こんなふうになぁ~」水谷は自分のゆり板を使って、実践して見せた。

私は見よう見まねで、ゆり板を水に付け彼に倣いゆっくりと揺らした。

「まぁ、そんなもんやろ」水谷は私を見て、自らのゆり板を使い更に指導を続けた。

「こうやって、ゆっくり揺らしているうちに、下に沈殿するものがあるやろ、砂鉄や。

その砂鉄が出てきたら、ええんや。運がよけりゃ砂鉄と一緒に砂金が見えてくるんやで。まぁ、運が好けりゃ、やけどな・・」水谷はそのように解説しながら、私がゆり板をゆっくり動かす様子を観ていた。

 

まだ慣れない手つきで、私がゆり板を揺らしていると、

「まぁ、ええやろ。暫くこうやって続けるんやで、何回もな・・。砂鉄が出てくるようにせなあかんよ、砂鉄が」水谷はそう言うと、自分のゆり板に新たな砂礫を落とし、また自分の世界に入っていった。私も自らカッチャを使い、砂礫を掬って自分のゆり板に落として、砂礫を揺らし選別する作業を繰り返した。

ゆり板をゆっくり動かして、板に残った残滓を目を凝らして見つめ砂鉄や砂金の出てくるのを観ていると、集中し時間の経つのを忘れた。もちろん砂金はなかなか出てこない。砂鉄が少々あるぐらいが関の山だ。

しかし、楽しい。子供の頃にセミや蝶を捕るのに集中したのと同じ感じだ。

 

が、川の水の冷たさが、その楽しい時間に水を差した。

「冷たいなぁ~、長靴でもはかないとあかんなぁ~これは」私は耐えられずそういうと、川岸に上がった。

「せやな、やっぱ長靴いるなぁ~」水谷もそういって、上がって来た。

「前にやった時はどうだったん?十何年か前の時は・・」

私は大きな丸い石に腰かけ、冷えた足を日光浴させながら水谷に尋ねた。

「ん?新札幌でやった時かぁ。あん時は、長靴も履いて準備万端やった」

「なるほどな、で成果はどうだった?砂金採れたんか?」

私は興味半分で、水谷に聞いた。

「おれと女房は、全然アカンかったけど息子がな、こんまい砂金の粒を3つゲットしたで」水谷は過去を懐かしむような眼をして云った。

 

突然、虻が私の周りを音を立てながら、飛んで来た。虻にかまれた経験を子供の頃にしている私は、ゆり板を振り回し、虻をたたきつけた。鈍い音がして、虻は川の流れに落ちて行った。

「そっかぁ、息子さんだけ、採れたんか。息子さんに砂金が採れたのは、無欲だったからかなぁお前と違って」私がツッコミを入れると水谷は、

「まぁ、ビギナーズラックだったんちゃうか」と、そっけなく答えた。

「水谷、お前にはビギナーズラックは無かったんやろ?」私は更にツッコミを入れた。水谷は笑ってタバコに火をつけた。

 

その後私たちは適度に休憩を入れながら、砂金採りを楽しんだ。

久しぶりに童心に帰った感じだ。楽しかった。

2時間ほど砂金採りをして、私たちは帰ることにした。

成果は、もちろんなかった。その日の私にはビギナーズラックにも縁が無かったのだった。水谷がさっきのお返しか

「立花クンも、欲あったんとちゃうか」と、ツッコミを入れて来た。私は、

「お互いに、やろ。それやったら欲深爺さんやな、オレら。あはは・・」と、笑って返した。

 

帰りの車の中で、水谷が

「俺は砂金に縁がないかもしれん」と、タバコをふかしながら、ポツリと言った。

私はにやにやしながら、運転を続けた。

 

 

 

 

  イエズス会の神父ジェロラモ・デ・アンジェリスが、バチカンに送った

           『第一次蝦夷国報告書』の抜粋(1618年10月1日)

 

「蝦夷にはたくさんの金鉱山があるが、彼ら(アイヌ)はそれを採掘しない。漸く2年前から松前殿が鉱山を開いたばかりである。      

私はその金を見たが、極めて純良であった。日本(本州)の金のように微粒の砂金ではなく、最も小さなもので一分(金)くらいである。

彼らは重量160匁(約600g)の大金塊を発見したことさえある。それらの金山はまるで金そのものでできているかのように、多くの金を算出する」             

                   註:1匁=3.75g  1分=1.19匁=4.46g

                       『新浦河町史 695ページ

 

ジェロラモ・デ・アンジェリスは、1623年10月に江戸品川札ノ辻において日本で初めてキリシタン禁止令に違反した者として、37人の日本人信徒と共に火あ ぶりの刑に処せられている。殉教である。その時、55歳であったという。

欧州において「黄金の国ジパング」という風評が、かつて残っていたのは或いはこの様な報告書が、バチカン辺りに残っていたことが、原因なのかもしれない。

 

 

 

 

    北海道の鉱物資源探索を命じられた中判官榎本武揚が明治政府に提出した書

               『開拓使公文録』(明治6年)の抜粋

 

 「諸鉱数量

  十勝国  十勝金田

    当縁川(現在の大樹町当縁)

        1立坪(約6.01㎥)砂金量:一絲(約0.5mg)価:六毛

    阿与募殊麻(あいぼしま)::(現在の大樹町浜大樹)

        1立坪(約6.01㎥)砂金量:三絲二毛(約9mg価:1厘二毛

    広尾川

        一立坪(約6.01㎥) 砂金量:なし  」

 

                            註:( )は、現在の単位

                           『広尾町史 589ページ

 

 以上は、榎本武揚に随行したお雇い地質学士モンロー(米国人)による分析結果である。

 
 
 
 
 
 
 
 
 

 

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 



〒089-2100
北海道十勝 , 大樹町


 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
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